2016年11月14日

◆自滅したヒラリー = 最悪・最低の選挙戦術!

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)



10月、「中国・西域(さいいき)」のひとり旅を楽しみました。
西安・敦煌・蘭州へ孫悟空を探しに行ってまいりました。

北ゴビの砂漠を超えて楡(ゆ)林窟(りんくつ)にたどり着き、孫悟空に会ってきました。少しばかり骨を折ったので、孫悟空との面会はかえって感動が深(ふこ)うございました。

西安で三蔵法師玄奘、敦煌で孫悟空、蘭州でチンギス・ハーンと会うことができました。こどもの頃の夢が完璧に実現できた悠久の旅路は、78才に青春を甦(よみがえ)らせ、人生の晩節に改めて生きる喜びを教えていただきました。

写真も800枚余り撮ってまいりました。孫悟空と会った証拠写真もございますので、いずれ詳細なノンフィクション力作(?)をお届けいたします。「孫悟空って誰だ?」を楽しみにお待ちください。

帰ってまいりましたら、意外なことに大詰めのアメリカ大統領選挙が混迷していました。FBI長官がメール問題について「新しい疑惑が見つかった」と蒸し返して、明々白々の選挙妨害をしたのにはびっくり仰天。投票日2日前に「なにも見つからなかった」で幕引きをした。すでに4千万人余が事前投票をしていましたから、影響の大きさは計り知れません。どうしてクリントン陣営は「事前投票をやり直したい有権者には再投票を許可すべきだ」くらいのアピールをして注意を喚起しなかったのか。対応が甘い!

それにしても、選挙戦のもっとも重要な時点でこんな妨害工作としか思われない行為をしたFBI長官が御咎(おとが)めなしで済むんですか?
摩訶不思議な国ですねぇ。

 選挙戦が終わって、トランプはお金儲けにたけたごく普通の常識人に戻りました。

エキセントリックな右翼の変わり者、アメリカン・ドリームを再現する魔術師は、どんな役者もかなわない見事な演技力でした。グローバル・ゼーションに取り残されて中産階級から脱落した膨大なプアーホアイトがトランプに儚(はかな)い夢を託しました。サイレント・マジョリテイは旧工業地帯を中心に全国に静かに広がりました。

 ヒラリーは彼の演技にはまって踊らされてしまった。
ののしり合いは、TV討論程度で止(とど)めるべきでした。

トランプの挑発に乗って、同じレベルの悪口(あっこう)雑言(ぞうげん)の言い合いをしたのでは、国内外で活躍してきたエスタブリッシュメントの知識人にとってはブが悪い。トランプを言い負かしてやっつければやっつけるほどに「可愛げのない嫌なオンナ」と映るのをヒラリーは最後まで分からなかった。

トランプには言いたいだけ言わせ、「くそオンナ」とののしるだけののしらせて、シカ(無視)とする手でした。そして、もっぱら重要政策のどこを改め、何を強化するか、内外の課題について訴え、政策論争を通じて経験者とズブのシロウトとの違いを醸(かも)し出すべきでした。それなのに一緒になってののしり合って「厭なオンナ」を懸命に演じる愚を最後まで犯した。

特にひどかったのは、最終場面で、人気歌手やら有名タレント、プロバスケの選手まで動員してどんちゃん騒ぎをした。フアンで埋まった会場は盛り上がったが、眉をひそめてTV画面を苦々しく見ていた全国の中高年有権者の胸中がわからなかった。ガガまで登場して騒げば騒ぐほど票が逃げていくのがわからなかった。知性の欠片(かけら)もない、お粗末な限りの旧態依然の選挙運動の果てでした。

ヒラリーの選挙参謀は時代遅れの元活躍組ばかりではなかったかと疑わしい。それに比べて、トランプの選挙参謀たちは、中年以上のプアーホアイトに狙いを定めて、これまで投票に行ったこともない、現状の政治に絶望して不満のはけ口のない、新しい票の掘り起こしに成功しました。

トランプは、お金儲けに苦労しているから、生きたお金の使い方に長(た)けていた。この違いが選挙戦を決定づけたように思えてなりません。

選挙期間中に言ったことは何一つ実現出来ない代り映えのしない新政権だと思います。然(さ)は然(さ)りながら、なにか破天荒な経済・財政政策を打ち上げて、既存の政治の殻を破って、低所得者層に目を向けざるを得なくなる役割をひとつくらいは演じてほしいものだとトランプ大統領を待っています。(元内閣官房副長官)
 

2016年11月13日

◆古代帝国に勝った日清戦争

伊勢 雅臣


国民国家が古代帝国に勝った日清戦争

JOG(976) 「国史百景(22) 海の武士道 〜 伊東祐亨と丁汝昌」を書い
ていて痛感したのは、日清戦争とは国民国家・日本と古代帝国・清の戦い
だった、ということだ。
http://blog.jog-net.jp/201611/article_1.html


■国民の志気

まず国民の志気が違う。日本軍は一般兵士に至るまで、国を護ろうという
志気が高かった。紙数の制約で書けなかったが、こんな逸話もある。
 連合艦隊旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾を受けて、多数の死傷
者を出した。副長の向山真吉少佐は、甲板で重傷を受けた水兵に「副長」
と呼び止められた。その水兵は苦しい声で問うた。「『定遠』はいまだ沈
みませぬか」と。

向山少佐が「心配するな、『定遠』はもはや発砲し能(あた)わざるまで
にヤッツケたれば、これから『鎮遠』をヤルノダ」と答えると、水兵は微
笑して「ドウカ、仇を討って下さい」と言って、そのまま絶命した。向山
少佐の胸中は張り裂けるばかりだったという。

この逸話に、若い歌人、佐佐木信綱はいたく感激して、一夜にして歌に詠
んだ。この「勇敢なる水兵」は小学唱歌に採用されて、戦前はあまねく国
民が愛唱した。

「まだ沈まずや定遠は」 この言の葉は短くも 皇国(みくに)を思ふ 
国民(くにたみ)の 胸にぞ深く刻まれぬ

一方の清国艦隊は、戦線からの逃亡が目立った。黄海海戦で「済遠」が日
本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った件は本編に書い
たが、威海衛への攻撃に際しても、10隻余りの水雷艇が湾口から躍り出
て、連合艦隊は「すわ、水雷艇の出現!」と警戒ラッパを鳴らして応戦体
制をとった。

しかし、水雷艇は快速を利用して、一目散に逃げ出したので、みなあっけ
にとられた。文字通りの敵前逃亡である。結局、これらの水雷艇は追撃さ
れて、4隻は撃沈され、6隻は浅瀬に座礁した。

日本の将兵は、命を懸けて自らの国家を護らんとする最良に意味での「国
民」であったが、清国の兵隊は単に金で雇われた「傭兵」であった。命が
危なくなったら、平気で逃げ出す。そういう兵を集めて、国を支えようと
した丁汝昌提督の困難が思いやられる。


■明治天皇と西太后

明治24(1891)年に、清国北洋艦隊の「定遠」「鎮遠」以下計6隻が長崎、
神戸、横浜、呉と各地に寄港し、自由に艦内を見せたのは、日本の朝野に
威圧を与える一大示威行動だった。

当時の日本の主力艦「浪速」「高千穂」は、「定遠」「鎮遠」の半分以下
の排水量であった。「定遠」「鎮遠」に対抗できる新鋭艦が欲しいという
国民の声が、日本中に漲った。しかし、政府の予算は底をついていた。

明治天皇は大変心配されて、宮廷費の1割、30万円を節約して寄付され
た。この聖旨が伝わると、国民各層から建艦寄付金が寄せられた。巡査や
教師の月給が3円〜5円という時代に、わずか数ヶ月で203万8千円の寄
付が寄せられたのである。

こうして明治天皇と国民の熱意の結果として、完成したのが「秋津島」と
「吉野」であった。両艦とも高速性と速射砲で優り、黄海海戦での勝利の
一因となった。

一方、清国の方は「定遠」「鎮遠」で示威行動を行った後は、建艦努力を
怠ってしまった。特に日清戦争の勃発した明治27(1894)年は西太后の還暦
の年にあたり、それを記念して頤和園(いわえん)の造営を行った。その
ために軍艦購入費約4500万円を流用したという。

また日清の講和で、清国内には3億円の賠償を払うくらいなら、それを戦
費にして、戦争を続けようという主張もあったが、西太后は金で済むこと
なら、早く戦争を止めようと言った。

清国の富強は日本とは桁違いだったが、西太后の、国の事よりも自身の享
楽と保身のことしか考えないという暗君ぶりでも桁違いだった。国家を皇
帝の私物と考えるのは古代帝国の特徴である。


■国民国家と古代帝国

 明治日本は、天皇から水兵まで国家のことを第一に考える、という国民
国家であった。対する清国は、西太后から水兵まで、国のことより保身を
考える古代帝国であった。

 しかし、わが国が明治維新で一気に国民国家となった、と考えるのは無
理がある。建国の昔から、我が皇室は民の安寧を祈り、その大御心に感じ
て、国のために尽くす民も少なくなかった。そういう意味で、わが国は太
古の昔から国民国家であったと考えた方が良さそうだ。

 対するシナは、共産革命後も、党幹部が自らの享楽と保身しか考えない
古代帝国そのままである。

 日本の国民国家ぶりと、シナの古代帝国ぶりとの違いは、國體の違いと
言うほかはないだろう。

2016年11月12日

◆東アジアの平和に不可欠な日米同盟の深化

加瀬 英明



アメリカの大統領選挙で、トランプ候補が勝った。これから日米関係
が、どのように変わることになるのだろうか。

私はトランプ氏か、ヒラリー夫人のいづれが勝とうが、アメリカの対日
戦略にさほど大きな違いはないと、話してきた。アメリカは世界秩序を支
えるのに疲れて、内へ籠りつつある。

対日戦略をきめるのは、国務省ではない。国防省だ。

9月後半に、国防省(ペンタゴン)の一行が北京へ赴く途中、東京に寄った。

私は「オバマ大統領は、どうかしている。北朝鮮が5回目の核実験を
行ったのに、『北朝鮮を核保有国として認めない』というのは、町で火事
がはじまっているのに、『火災として認めない』というのに均しい。国連
で茶飲み話に耽って明け暮れているが、何の役にも立たない」と、苦言を
呈した。

中国が裏で北朝鮮を援けているというのに、「制裁だ!」と、声だけを
荒わげている。

アメリカはイランから核合意を取りつけたが、必要なら、イランの核施
設に「外科的攻撃(サージカル・ストライク)」を加えるといって、威嚇し
ていた。

大多数の日本国民も、マスコミも、北朝鮮の核実験に対して、具体的な
対策をまったく示すことなく、野次馬のように騒ぐだけで、他人事のよう
に扱っている。

それに、中国が核ミサイルを日本へ向けて、展開しているのに、関心を
示そうとしない。

日本は中国、北朝鮮のミサイル基地を攻撃する能力を、まったく欠いて
いる。ミサイルが日本へ飛んでくる時に、迎撃ミサイルは役立たないと、
考えたほうがよい。

千羽鶴を心をこめて折り、祈るだけでは、核攻撃を防ぐことは、とうて
いできない。

私は習近平氏や、金正恩氏が、トルーマン大統領よりも善良で、人間味
があってほしいと願っているが、願望でしかない。

アメリカの“核の傘”を、盲信してはなるまい。

日本が独自に核兵器を開発する、時間的な余裕はない。冷戦下で、西ド
イツがソ連の核ミサイルに対抗するために、アメリカと交渉して、アメリ
カのソ連へ向けた戦術核ミサイルの発射ボタンを、米独共同で押せるよう
にしたのを、見習うべきだ。

日本は自国と太平洋の防衛に、いっそう重要な役割を果たすことを、求
められる。

日本として、政府も、政界も、国民も、今後の日米同盟がどうあるべき
か、真剣に考えなければならない。

もはや日米関係は、惰性で動くことが、許されない。日米同盟こそ、日
本の土台だ。

1977年に、私は福田内閣の三原朝雄防衛庁長官から、日本にとって 戦後
最初の安全保障問題の民間研究所をつくるように、要請された。

カーター大統領が選出されたばかりで、カーター候補は在韓米軍の完全
撤退を、公約として掲げていた。日米同盟のありかたを見直すことが、急
務となっていた。

翌年、私が理事長となって、勝田吉太郎教授、加藤寛教授、来栖弘臣前
統幕議長、三輪良雄元防衛事務次官などが理事、春日一幸、中曽根康弘、
金丸信衆議院議員などを顧問として、日本安全保障研究センターが発足した。

私は現行の日米安保条約が、1980年に20周年を迎えることから、 両国で
今後20年の同盟関係について研究する会議を、東京で開きたい と、考え
た。三原前長官が委員長、岸信介元首相が名誉委員長に就任し た。「日
米安保条約締結2雄周年記念セミナー『日米同盟今後の20年』」が、1980
年8月に2日にわたって催された。

 アメリカから、フォード元大統領を団長として、30人以上の上下院議
員、州知事、元統合参謀本部議長、著名シンクタンクの所長が参加した。

日米の防衛交流を、密接にしたい。



◆献体した義母、あっぱれ!

馬場 伯明



10月の終わりに岡山の義母が亡くなった(妻〈次女〉の母、以下、母とい
う)。92歳だった。介護付き有料老人ホームにお世話になっていた。地元
に住む三女とともに妻ら二人の姉妹は関東から代わるがわる施設を訪問し
母のお世話をしていた。

母は神職の家に生まれた。通夜や葬儀は不要と言い残していたが、神式の
簡素な葬儀らしきものを限られた身内で行った。孫娘が死化粧をした。

母は献体登録をしていた。岡山大学(医学部)の篤志団体「ともしび会」
に加入し献体を遺言していた。遺族はそのとおりに実行した。

献体は美しくあっぱれな行為であったと思う。母が元気だった頃に知り驚
いたが、得意げにではなく淡々とした物言いだった。かつて、従兄が岡山
市内の著名な病院長だったことも影響していたのかもしれない。

遺体を引き取りに来た2人の担当者はきちんとした礼服姿で「一生懸命
(医学の)勉強をさせていただきます」とゆっくりと言葉をかみしめなが
ら遺族に挨拶を述べ、深々と長く頭を垂れた。

私たちも同じように彼らと母に向かいお仕儀をした。母を乗せた黒い車が
玄関を出発し40mほど先の角を左折し消えるまでじっと見送った。遺骨が
戻ってくるのは1〜2年先だという。

「ともしび会」の会誌を読めば、献体の趣旨や諸手続きとともに、若い医
学生や研究者の感謝の文章が何篇も綴られていた。高い医の志を持った立
派な医師や研究者に成長してもらいたい。
  
献体について簡潔に紹介する。「ともしび会」の説明文から抄録する。

《 献体とは 人体解剖学実習の教材として、自分の遺体を無条件、無報酬
で提供すること。生前に登録する。献体をしても特典はない。臓器移植と
は選択の調整が必要になる。通夜・葬儀は普通にできる。

遺体は防腐処理が施され専用の保管庫で一体ずつ安置・保管される。感謝
の気持ちで解剖実習が行われる。実習終了後は火葬され遺骨が遺族のもと
に戻ってくる。毎年盛大な慰霊祭が行われている》

いつになるかはわからないが、私自身はすでに献体の手続きを済ませてい
る。それまではせいぜいきれいな体でいたい。交通事故死で体が壊れ、ま
たは、何日間も発見されないような孤独死はいやだな。

だが、死人(遺体)になった後残された者がどう判断しどう処理するかは
わからない。「まな板の(死んだ!)鯉(笑)」。お任せするしかない。

「人は死んで何を残せるのか・・・」などと大げさなことは考えていな
い。何かの役に立てばいいという程度だ。ましてや、献体を他人に強要す
ることはできないし、そのような主張もしない。自分だけの考えであり、
いわば自己満足の世界である。

ところで、母は大正13年生まれ、女学校を出て教師などをし、企業のサラ
リーマンと結婚し三女を授かった。娘らは各々結婚したので自家の姓は途
絶えた。しかし、母は娘たちの幸せが一番ですと言っていた。その後、孫
5人、ひ孫6人。血は繋がっていく。

母は質素な人だった。衣食住ともに倹約を旨とした。しかし、文化、芸
術、道徳、志操においては高邁なものを身に着けていた。娘にはピアノや
歌を学ばせ、大学教育を受けさせた。料理や習いごともさせた。

外出や外食は好まず、専業主婦としていつも自宅で静かな一日を過ごして
いた。娘らの洋服を仕立て、刺子などの刺繍も上手で自宅の襖(ふすま)
を市松模様などの刺繍の布で飾った。上品で美しい襖だった。

母は普通の専業主婦だったが秘めた矜持があった。ダイエーの安売り場で
モノを漁るようなことはしなかった。「はしたない」と・・・。

このようにして、平凡ながら偉かった大正から昭和時代の人たちが順番に
消えていく。世間では団塊の世代が後期高齢者となる2025年が超高齢時代
の象徴の年だといわれている。その後はどうなるのか。

厚労省の統計では、平均寿命(0歳平均余命)と健康寿命の差は男性が9年
(81−72歳)、女性が13年(87−74歳)とある。その年数差ができるだけ
少なくなるように生きたい。たとえ、不幸にして健康寿命が毀損されて
も、楽しく心おだやかに幸福寿命を全うしたと言われるような最後を迎え
たい。

大正8年生まれの義父は21年前に76歳で死去した。父の家も神職だった。
だから、黄泉(よみ)の國の入り口で「遅かったな・・・献体か、待ちく
たびれたよ」と、父は静かに笑って母を迎えることだろう。

お母さん、安らかにお眠りください。合掌(2016/11/10 千葉市在住)

2016年11月10日

◆悪口を言う:自民党終末・民進断末・希望日本

MoMotarou



「国会を軽視し審議拒否を続けてきた野党は論外、一方与党は選挙で
「TPP断固反対」など訴えて当選しながらこの有様。もはや日本の政治家
の誰にも期待できなくなった今、最後の砦として日本第一党に貴方の夢や
希望を託してみませんか?」 ( 桜井誠:元東京都知事選立候補者 日
本第一党党首)

        ☆彡

■自民党の悪口

安倍さんであろうと二階さんであろうと自民党は「退潮」する。自民党は
「東京政党」であり「日本政党」ではない。小池百合子東京都知事が「小
池政経塾」を開くと2900人の参加があり、開塾式は四回に分かれて行
われた。キーワードは「希望」であろう。


■“国会”議員の悪口

ちょっと前までは“政治家”になろうとすると大変だった。お金も後援会も
支持団体も必要だった。しかし最近は党が丸抱えで“税金”を使って選挙が
できる。

また小泉郵政選挙以来、政治家像も変わってきており、「私でも成れる」
と思わせるような人物が出馬当選し出した。“議員”の「テレビタレント
化」だろう。まさに百恵ちゃんや聖子ちゃんが登場した「アイドル発掘番
組」と選挙が似て来ました。政治が身近になってきたと思えば嬉しいです
が、人気に頼った「一発化」でしょう。

アイドルなら多額な資金を注ぎ込んでも人気がでなければお払い箱。場合
によっては「裸」にされ猥褻ビデオに売り飛ばされて投資を回収させられ
る。議員に払われる給与は国民の税金から集めたものだ。性質が違う。

■マスメディアの悪口

今マスメディアを使えば、議員の“粉飾”も可能だ。政党の粉飾も同じ。テ
レビ選挙が公的資金で行われ出してから、更に激しくなった。テレビ局も
選挙の度に数千億円の「特需」が生まれる。

政党はトヨタやソフトバンクと同様大切なお客様なのだ。「悪口は言えな
い」。導入のお手本だった米国とは違うようだ。今回の米国大統領選挙を
見て気がつきました。

■野党の悪口

鳩山由紀夫:「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから、もっ
と多くの方々に参加をしてもらえるような、よろこんでもらえるような、
そんな土壌にしなきやダメですよ」。明日の日本を代表している素晴らしい。

 小沢一郎:素晴らしい。また新しい政党を創造した。これぐらいの厚か
ましさと理想主義を持つと日本の将来はバラ色だ。韓国も期待している。

 福島瑞穂:弁護士の腕はヒラリー大統領候補より上だ。自分の所属政党
党首を落選させる力もある。慰安婦関連でまた日本政府から十億円取っ
た。弁護士報酬は大きい。韓国は足を向けて寝られない。

 辻元清美:革新的な審議法を確立した。プラカードを持ち込み強行採決
を演出。NHKは大歓迎。国会審議を市民運動レベルに劣化させた。

 岡田克也;どこにいるの?

 志位和夫:野党“分解”工作は素晴らしい。

 蓮舫:素晴らしい。国会議員の鏡だ。嘘のつき方。田中角栄さんが気の
毒だ。

■「士農工商」は終わった。「政界構造改革」
 どうも「空気」がおかしい。馬淵睦夫元ウクライナ大使のいわれるよう
に「パラダイムシフトparadigm shif」が起こりつつあるのだろう。馬淵
さんは「移民・難民」に注目だ。竹中平蔵氏は人材派遣業の社長だ。郵政
金融改革の時は大臣だ。韓国大統領が「竹島」に侵入した時は、その大統
領顧問だった。

<パラダイムシフト(英: paradigm shift)とは、その時代や分野におい
て当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命
的にもしくは劇的に変化することをいう。パラダイムチェンジともい
う>WIKIより。

        庶民が頑張る大日本! (笑)!!!


2016年11月08日

◆国家指導者の晩節、韓国を笑えず

阿比留 瑠比



日本には現職首相相手に訴訟を起こし争っている元首相も… 国家指導者
の晩節、韓国を笑えず 

10月30日付本紙では、大野敏明編集委員が、旧満州(現中国東北部)で抗
日独立運動を指導したとされる金日成(キム・イルソン)と名乗る人物が
日本の旧陸軍士官学校出身だったことを新資料を基に報じていた。本名は
金顕忠(ヒョンチュン)というのだそうだ。

金日成といえば、北朝鮮元主席で民族の英雄であり、現在の最高指導
者、金正恩朝鮮労働党委員長の祖父にあたる。もっとも当時、金日成を自
称する者は複数いて、金日成元主席自身も本名は金成柱(ソンジュ)で伝
説の英雄の名前を権威付けに使っただけだとされる。

筆者は以前、これら金日成の一人が率いる匪賊(ひぞく)部隊と銃撃戦を
交えたという当事者の話を聴いたことがある。元大本営陸軍部参謀で、戦
後は伊藤忠商事会長を務めた故瀬島龍三氏である。

昭和10年夏頃、満州東部の治安確立のため機関銃中隊を率いていた瀬島氏
は、白頭山系の森林地帯で、匪賊討伐のため道なき道を駆け巡っていた。

「金日成の部隊から銃撃を受け、九死に一生を得たこともあった。もっと
も本物かどうかは分からないが…」

瀬島氏はこう語っていた。翌11年5月ごろまでの約1年間の任務だった
が、軍人生活を通じて、唯一の前線指揮官としての日々だったという。
前置きが長くなったが、瀬島氏は中曽根康弘元首相のブレーンだったこと
で知られる。ただそれだけでなく鈴木善幸、竹下登、海部俊樹の各首相の
要請を受けても、陸士人脈を生かして非公式の特使として韓国政府との経
済協力など各種調整や関係改善に尽力していた。

 55年には、後に大統領となる全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚
(ノ・テウ)両氏(ともに韓国陸士11期)に会い、「軍の先輩」として
日本をはじめ北朝鮮や米国との関係についてアドバイスもしている。

筆者も編纂(へんさん)に関わった瀬島氏の著書『幾山河』には、63 年
1月、退任間際の全大統領をソウルの青瓦台(大統領府)に訪ねた際、
「退任後のあり方」について助言を求められ、こう答えた場面が出てくる。

「退任後のあり方だが、これを一歩誤ると、(中略)有終の美ではなく
なってしまう。退任後は次の最高責任者を陰に陽に助けていくことが大切
でしょう。それが最高責任者だった者の国家に対する責務だと思います」

全氏は同年11月、親族による横領や収賄の責めを負う形で、ソウル東
北150キロの極寒の地にある禅寺に自ら籠もることになる。

 全氏だけではない。跡を襲った盧氏、金泳三(キム・ヨンサム)、金大
中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李明博(イ・ミョンバ
ク)の歴代大統領はみな親族や側近、自身の不正蓄財や収賄事件、さらに
自殺などで退任後、不名誉な話題を呼んだ。次の最高責任者を支えるどこ
ろではなく、石もて追われるように去った。
そして現在の朴槿恵(パク・クネ)大統領もまた、友人に機密資料を提供
して国政に介入させていた疑惑で国民に謝罪するなど、窮地に立たされて
いる。とても退任後に次の大統領を助ける余裕など持てまい。

 大統領経験者がみな刑事事件に巻き込まれて権威を失墜させるような韓
国のあり方は異様に見えるが、翻ってわが国の場合はどうか。

 中曽根氏や海部氏をはじめ、村山富市氏、小泉純一郎氏、鳩山由紀夫
氏…と国会議員を引退しても特に疑獄などに引っかかることなく、それぞ
れ自由に活動を続けている。

 だが、そのうち何人が国家国民のため自分を殺して後の首相らを助けて
きただろうか。むしろ、党利党略による政治的思惑や自己顕示欲、嫉妬心
などから足を引っ張りがちな傾向すらうかがえる。

 中には現職の首相相手に訴訟を起こして地裁、高裁と連敗した揚げ句、
最高裁に上告してまで争っている元首相までいる。これでは、韓国のこと
を笑えない。(論説委員兼政治部編集委員・阿比留瑠比 あびるるい)

産経ニュース【阿比留瑠比の視線】11.7 11:00更新


◆小悪は巨悪に勝てるか

Andy Chang



前の記事(No.616)でウィキペディアと書いたのはウィキリークの
筆の誤りでした。訂正してお詫び申し上げます。

さて、投票日まであと2日となり、毎日いろいろな情報が飛び交っ
ているが情勢は混沌として誰が勝つか予測できない。アメリカのメ
ディアはヒラリー贔屓だからヒラリーに不利なニュースは書かない。
FBIのコミー長官がメール問題の調査を再開すると国会に通知した
後ヒラリーの人気は下がりトランプの人気が上昇した。

●トランプ小悪とヒラリー巨悪

投票2日前の情勢ではヒラリーが有利で当選に必要な270票を上回
っているが、フロリダ、ノースカロライナ、ネバダ、オハイオ、ペ
ンシルバニア、アリゾナなどの州では僅差で、誰が勝つか予測がつ
かない。FBI長官のメール調査再開の発表のあとヒラリーの人気は
各地で下がりつつある。しかしトランプはあまりにも暴言が多かっ
たので人気は上らない。有権者の多数はトランプに投票するのでは
なくヒラリーに当選させたくないからトランプに投票するのだ。

トランプは幼稚な自大狂で敵を作りすぎた。女性蔑視発言の録音が
暴露されて女性票を失い、違法移民問題で南米移民の反感を買い、
黒人層の殆どはオバマ支持だからヒラリーに投票する。つまり有権
者の過半数がトランプに反対である。この中からトランプに投票す
る者が出るのはヒラリーの罪悪があまりにも酷いからだ。

ヒラリーのメール問題が再燃したとたんに国民はヒラリーが有罪判
決を受けてクリントン一家の巨悪を裁くことに熱中しだした。正に
悪事千里を走るでヒラリーのメール調査ニュースは、トランプの小
悪よりもヒラリーの巨悪を裁くことに興味が移ったのだ。

あと2日で投票だが、現在の情勢はヒラリーに有利だが上に挙げた
重要な州の情勢が変わればトランプ当選もありうる。宮崎正弘氏が
言ったように投票2日目の現状は9回裏の二死満塁、サヨナラホー
ムランもありうる。小悪は巨悪に勝てるかである。

今回の選挙は期日前投票が有権者の4割ぐらいあったとされる。期
日前投票はメール調査再開のニュースが出る前からあったのでヒラ
リーに有利と言われている。

別の面では共和党のトランプに批判的だった党員や議員などがトラ
ンプに投票したと発表した。つまりヒラリーの巨悪を暴くためには
トランプの小悪はまだ我慢できると言うのだ。

●ウィキリークの公開情報

ウィキリークは毎日のようにヒラリー陣営のメールを暴露し、ヒラ
リーの違法だけでなくクリントン慈善基金の数々の違法が明るみに
出ている。クリントン家の罪悪追及は選挙後も続くはずだ。

FBIはヒラリーのメール調査の外にも公表していない、クリントン
基金の違法行為やビルクリントン大統領の収賄で赦免など、5件以
上のクリントン家犯罪を調査しているとウィキリークが発表した。
ウィキリークは一日に数千件から数万件のメールを公開しているの
で、ヒラリーやクリントン一家の命取りとなりそうだ。

これまでに公開されたニュースだけでも、
(1).慈善基金からビルクリントンの個人口座に多額の金が入るよ
うに操作した、
(2).ヒラリー国務長官はUBS銀行の脱税を見逃す代償として

クリン
トン基金に献金するよう操作した。
(3).ヒラリーはアメリカ産のウラニュームの20%をロシアに売る
約束をしていた、
(4).ヒラリー陣営の副委員長が弁論会の質問を事前にCNNから取
得していた、
(5).ヒラリーはフィリッピン人の掃除婦に、機密メールを含むヒ
ラリー国務長官あてのメールを印刷することを命じていた、
(6).クリントン慈善基金はチェルシー・クリントンの結婚費用を
支払い、彼女の生活費まで基金が提供していた、

違法行為は枚挙にいとまがない。クリントン夫妻は世界各地でマフ
ィアまがいの恫喝やゆすりで基金を増やしてきたのである。

●FBI長官は違法ではない

コミー長官がヒラリーのメール調査委を再開する手紙を国会に送っ
たことでヒラリーを始めオバマ、司法長官や民主党員がコミー長官
は違法だと譴責した。しかしコミー長官は法を犯していない。長官
は「メール調査を再開すると国会司法委員会に通知した」だけで、
民間に発表したのでなく、ヒラリーが罪を犯したと言っていない。

悪事千里を走るで、このニュースが国内で瞬間的に流され、ヒラリ
ーが有罪のような印象を与えたのは確かである。国民はこのニュー
スの前までヒラリー当選を疑わなかったが、ヒラリーとクリントン
一家の罪状が調査、起訴される可能性が出てきたことに異常な興奮
を覚えたのである。選挙よりも犯罪調査だと喜んだ、ヒラリーに対
する反感が強烈に表に出たのである。

●選挙後の展望

あと2日で投票である。ヒラリー優勢だが結果はわからない。トラ
ンプの逆転勝もありうる。だがヒラリーが当選しても犯罪調査は終
わらない。FBIの調査、国会の調査は続く。トランプは選挙に負け
ても告訴するだろうし、国民のヒラリーの犯罪調査に対する関心は
異常に高い。

今回の選挙は小悪と巨悪の戦いである。トランプが当選してもこん
なダメな奴が大統領ならアメリカは独裁国家となる。ヒラリーが当
選したら「クリントン・マフィアが世界でのさばる」ことになり、
これは何としても避けねばならない。

国会における共和党優勢は続くだろう。上院では共和党が4人落選
すれば50対50の同数となり、当選した副大統領が最終決定権を持
つことになる。共和党が上院で多数となったらヒラリーが当選して
も犯罪調査で大統領罷免に持ち込む可能性がある。


           

2016年11月07日

◆伊東祐亨と丁汝昌

伊勢 雅臣



海の武士道 〜 伊東祐亨と丁汝昌

連合艦隊司令長官・伊東祐亨の清国北洋艦隊提督・丁汝昌への思いやりは
世界を驚かせた。



■1.「日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように」

明治27(1894)年9月17日の日清戦争における黄海海戦は、1866年にオース
トリアとイタリアが戦ったリッサ海戦以来、およそ30年ぶりの艦隊同士
の決戦であった。その間にそれまでの木造艦に替わって、鉄や鋼で防備を
固めた装甲艦が中心となっていた。

装甲艦どうしの艦隊決戦がどのようなものか、世界の注目を浴びて、イギ
リス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア各国の軍艦が、
観戦のために黄海に集まっていた。

勝利は清国7割、日本3割というのが世界の大方の予想だった。なにしろ
清国艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7335トン、世界最大級、最新
鋭の巨艦であった。一方の日本の主力艦「松島」「厳島」「橋立」は4278
トンと半分近くの大きさでしかない。

しかし日本艦隊は高速性を生かして二手に分かれて清国艦隊を挟撃し、小
口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。「鎮遠」に乗ってい
た米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。

日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、・・・有利な形で攻撃を
反復したのには、驚嘆するほかなかった。清国艦隊は守勢にたち、混乱し
た陣型で応戦するだけだった。[1, p448]

4時間余りの海戦で、清国艦隊は4隻が撃沈され、1隻が擱座(座礁)自
沈したのに対し、日本艦隊は2隻大破、2隻中破と損害は大きかったもの
の1隻も失わなかった。日本艦隊の完勝だった。


■2.「長官、ご無事でありましたか」

兵員の志気においても格段の違いがあった。旗艦「松島」は「鎮遠」の30
センチ砲弾が左舷に命中し、鋼鉄の舷板が10メートル余り吹き飛ばされ
て、艦骨が露わになった。28人が戦死、68人が重軽傷を負った。死屍累々
として、鮮血が甲板に溢れた。

連合艦隊司令長官・伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき)は破損状況を見聞す
るため、艦橋から甲板に降りた。負傷者収容所の横を通りすぎようとした
時、顔面が火傷で紫色に腫れ上がった水兵が伊東を認めると、力を振り
絞って足元に這い寄り、「長官、ご無事でありましたか」とかすれた声を
出した。

伊東は、その気持を察し、その水兵の手をしっかりと握り、「伊東はこの
とおり大丈夫じゃ、安心せよ」と、2、3度足踏みをしてみせた。それを
見た水兵は、さも安心したように「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万
歳!」と、かすかに言い終えると、頭を垂れて息絶えた。伊東は頬に涙を
伝わらせながら、しばらくはじっと水兵の手を離さずにいた。

一方、清国艦隊の最左翼にいた「済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると
艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、逃げ
る「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。

海戦が終わって敗残の北洋艦隊が翌朝、旅順口に入港すると、「済遠」は
無傷で安閑とこれを迎えた。怒った丁汝昌提督は、「済遠」艦長を軍法会
議にかけて、即日銃殺刑に処した。


■3.「日本武士道精神の精華」

黄海の制海権を得た日本軍は、朝鮮半島の付け根から西側に伸びた遼東半
島の先端部、旅順口をわずか一日で落とした。北洋艦隊はその対岸に伸び
た山東半島の威海衛に逃げ込んだ。

この北洋艦隊の根拠地、威海衛を、伊東はそれまでに2度、訪ねたことが
あり、丁とは肝胆照らす仲だった。8年前の明治20(1887)年に、伊東が小
艦隊を率いて威海衛を訪問した際に、丁は非常な歓迎をしてくれた。

 その後、丁が2度、北洋艦隊とともに日本を訪問した際には、伊東が歓
迎した。2年前の明治26(1893)年にも、伊東は「松島」以下3艦ととも
に、威海衛を訪問している。この時も、丁は心を尽くして日本艦隊を歓迎
した。伊東と丁の間もうちとけて、まるで兄弟のようになって、写真の交
換までしたほどであった。

 伊東も丁も東洋的武士道の体現者であり、しかも日清それぞれの海軍の
育ての親でもあった。言わば、二人の心中は「海の武士道」によって深く
結ばれていたのである。伊東はなんとか丁の生命を救いたいと思い、降伏
を勧める文書を送った。


謹んで一書を丁提督閣下に呈す。時局の変遷は、不幸にも僕と閣下をして
相敵たらしむるに至れり。しかれども今世の戦争は、国と国との戦いな
り、一人と一人との反目に非ず。すなわち僕と閣下との友情は、依然とし
て昔日の温を保てり。[2, p289]

と、互いの友情を確認した上で、日本が明治維新を通じて近代化に成功し
たように、清国も近代化が必要であることを説き、丁にしばらく日本でそ
の時節を待ってはどうか、と勧めたのである。その際は、天皇陛下が閣下
を厚くもてなすことは僕が誓う、とまで言った。

 各国はこの書を「日本武士道精神の精華として、最も鑽仰(さんぎょ
う)すべきことであり、世界の海軍礼節として、大いに範とすべき快事で
ある」と評した。

丁汝昌は書信を呼んで、深い感動を覚えたらしく、文書を幾度も読み直し
てから、眼をとじたまま、しばらくは一語も発しなかった。

各艦長を呼んで、この書信の内容を説明し、「伊東中将の友誼は感ずるに
余りある。しかし、われわれ軍人の胸にあるのは尽忠報国の大義のみであ
る。一死をもって臣たる者の道を全うしようではないか」と語った。その
言葉を聞いた諸将はみな感服し、提督と生死をともにすることを誓い合った。


■4.「君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい」

やむなく伊東は、水雷艇による港内への夜襲を決心した。2月3日、水雷
艇の司令たちを旗艦「松島」に招いて訓示を与えた。


敵の港内に侵入して攻撃することは、水雷艇が出来て以来、世界の戦史に
例を見ないことであるから、まさに至難の難事である。死を覚悟すべきは
無論である。

貴官らにそれを命ずることは、伊東としては辛いことであるが、君国のた
めに、どうぞ一命をなげうって成功して下さい。[1,p465]


伊東の人柄をにじませた丁重な訓示であった。司令たちは、顔色ひとつ変
えずに答えた。「承知いたしました。われわれは黄海の海戦では、ただ指
をくわえて眺めていました。いま死場所を与えて下さったことをありがた
く思います」


■5.「三勇士の遺体を手厚く葬るように」

北洋艦隊は、水雷艇の夜襲に気がつくと、サーチライトで狂ったように海
面を照らし、機関砲を打ちまくった。水雷艇の一隻は「定遠」に300メー
トルまで接近し、魚雷を発射して旋回しようとした瞬間に、銃弾を機関に
浴びて、白い水蒸気が闇の中に上がった。

「定遠」の兵員は快哉を叫んだが、それと同時に艦底に轟音が轟き、凄ま
じい震動が伝わった。魚雷が命中した箇所から海水が激流となって入り込
み、艦体は傾き始めた。丁は、艦を付近の浅瀬に乗り上げさせて、乗員を
退艦させ、「定遠」は打ち捨てられた。

翌朝、銃撃された水雷艇が発見された。なかには日本兵の死体が三体見つ
かった。いずれも洗濯した下着に、折り目のついた軍服を着て、微笑んで
いるような満足な死に顔をしていた。丁は遺体に対してうやうやしく敬礼
し、3勇士の遺体を手厚く葬るように命じた。

水雷艇の夜襲攻撃で「定遠」を含め4隻が失われ、北洋艦隊は大きな打撃
を受けた。さらに伊東は全艦隊を威海衛湾口に集結させて艦砲射撃を行
い、ここに北洋艦隊は戦闘力をほとんど失った。


■6.「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」

2月12日朝、メインマストに白旗を掲げた砲艦「鎮北号」が威海衛から出
て、「松島」に近づいてきた。やってきた軍使は、丁からの「乞降書(降
伏を乞う書)」をうやうやしく伊東に捧げた。

それには「すべての艦船と港内の砲台を献ずるので、兵員の命を助けて欲
しい。承諾いただけるなら、英国司令長官を証人としたい」とあった。

伊東はこれを了承し、しかも丁と諸将を捕虜とはせずに、清国の適当な地
まで送り届けること、丁の名誉に信を措くので保証人は不要であることを
返書に述べた。

翌日、再び丁からの使者が来て、「深く生霊(生き残った兵員)のために
感激す」との返答書を持ってきた。使者はこう伝えた。

提督は昨日私が返書をお届けしますと、伊東閣下の仁慈のお心を知って感
泣なさいました。そしてこの返答書をしたためられるや、「いまは思い残
すところなし」とおっしゃり、はるか北京の空を拝してから毒杯を呷(あ
お)って自殺なされたのです。[2, p303]

伊東は息を呑んだ。いま読み終えたばかりの返答書が丁の遺書だったとは。


■7.「国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは」

その日の夕刻から、清国代表との降伏手続きについての協議が深夜12時
まで続いた。あとは明日午後2時に再開と決まって、葡萄酒で労(ねぎ
ら)ううちに、島村速雄参謀が「ところで失礼ですが、丁提督の亡骸(な
きがら)はどうなされるおつもりか」と訊ねた。

清国代表はこう答えた。「威海衛構内の艦船はすべて貴国のものですか
ら、提督の柩(ひつぎ)を運ぶ船はありません。いずれ、ほかの死体と一
緒にジャンクかなにかに乗せて、芝罘(チーフー、山東半島北部の港湾都
市)へ送ることになるでしょう」 ジャンクとは平底の木造帆船である。

翌日2時から再開された協議が大方終わって、一息入れた時、それまで細
部の詰めを島村に任せていた伊東が、やおら上体をテーブルの上に乗り出
すようにして、「参謀、通訳せよ」と言った。

昨夜代表は、丁提督の柩はジャンクででも運ぶといわれた。しかし丁提督
はまことに忠義の士であって、もしも北洋水師が健在ならば、その柩をゆ
だねられるべきは「定遠」か「鎮遠」でありましょう。

それがいかに敗軍の将となったためとはいえ、国難に殉じたその亡骸が粗
悪なジャンクに載せられるとは、智・仁・勇を重んずる大和武士のはしく
れとして看過いたすには偲びざるものがあります。[2,p308]

話すうちに眼を潤ませ、口ひげを振るわせていた伊東は一気に続けた。

ここにおいて・・・本官は提案したい。わが方は、貴方所有の運送船のう
ち「康済号」のみは収容せず、貴方に交付します。ですからこれに丁提督
の御遺体と遺品とを乗せ、なお余裕あらば将士も運ぶことにする、と。

宣戦講和・条約締結は天皇の大権に属し、いかに司令官とはいえ、戦利品
の一部を勝手に敵国に返還することは許されない。伊東は自分に確かめる
ように言った。

本官は、おそれながら大御心もかくあらせられると信じております。お咎
めがありましたら、本官も丁提督のように一死をもってお詫びいたすだけ
のこと。

清国代表は肩を震わせて、深く頭を下げた。


■8.「伊東よ、もうよい」

2月17日朝、連合艦隊が威海衛に入港した。かつて軍艦22隻、総排水量5
万トン強を誇った北洋艦隊は、すでに10隻1万5千トンしか残っておら
ず、それらがすべて連合艦隊に引き渡される。

その日の夕刻、これら残存艦の間から、大型輸送船が抜け出した。丁提督
の柩を乗せた「康済号」であった。連合艦隊の全将士が舷側に並んで敬礼
をする登舷礼式で「康済号」を見送った。「松島」後方の主砲が弔砲を
撃った。ゆっくり前を進む「康済号」にむかって、伊東も荘重な敬礼を
送った。

一夜明けて、清国は休戦会議の開催を申し入れてきた。ここに日清戦争は
ようやく幕を下ろそうとしていた。

2月27日、伊東は帰朝を命ぜられ、3月3日に広島宇品港に着くと、すぐ
に「広島大本営」に向かった。「大本営」とは言っても、粗末な木造2階
建てで、明治天皇は前線将兵の労苦を偲ばれて、その一室に起居されていた。

伊東は天皇に対し、戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読み上げ、それが終
わると、自分個人の判断で「康済号」を交付した事に触れた。天皇は、よ
く分かっているというように、「伊東よ、もうよい」と言われた。伊東の
処置に十分満足されているようだった。

すでに2月22日付け『東京日日新聞』には、伊東と丁の間に交わされた
計4通の文書が全文掲載されていた。天皇と海軍首脳は、伊東の処置を日
本武士道に適ったものとして高く評価し、公表に踏み切っていたのであ
る。伊東の丁汝昌への礼節はタイムズ紙にも報道され、世界を驚かせた[3]。


■リンク■

a. JOG(954) 東アジアのトラブルメーカー
 内部抗争を繰り返し、周辺諸国を戦争に巻き込んできた韓民族の特異な
歴史。
http://blog.jog-net.jp/201606/article_1.html

b. JOG(243) 日本最強の外務大臣に学ぶ外交術
 卓越した外交力で清国を押しまくり、欧米列強の干渉を捌いた陸奥宗光
の外交の基本を学ぶ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog243.html

c. JOG(201) 韓国の歴史教科書拝見
「朝鮮は中国の属国ではなかった」とする韓国の歴史教科書にもの申す。
http://blog.jog-net.jp/201312/article_10.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 神川武利『士魂の提督 伊東祐亨―明治海軍の屋台骨を支えた男』★★★、
PHP文庫、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569577253/japanontheg01-22/

2.中村彰彦『侍たちの海―小説 伊東祐亨』★★★、角川文庫、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4041906164/japanontheg01-22/

3. Wikipedia contributors. "伊東祐亨." Wikipedia. Wikipedia, 4
Nov. 2016. Web. 4 Nov. 2016.



2016年11月06日

◆自国の憲法の前に「アメリカ独立宣言文」

加瀬 英明



自国の憲法の前に「アメリカ独立宣言文」を載せる『六法全書』

年とともに法律の数が増えてゆくので、私は15、6年に1度か、『六法全
書』の新刊を買い足してきた。

いま手元に、平成18年版の有斐閣『六法全書』がある。

 「まさか」と思ったが、やはり日本国憲法の前の扉のページに、「アメ
リカ独立宣言文」が全文、英語と日本語訳で載っていた。

有斐閣といえば、日本の代表的な出版社である。

昭和23(1948)年の『六法全書』初版本に、日本国憲法の前の扉に「アメ
リカ独立宣言文」が載っていたが、占領下だったから、仕方がないと思っ
ていた。

ところが、日本が講和条約によって独立を回復した後も、長いあいだ、
「アメリカ独立宣言文」が、削除されることがなかった。

平成18年版には、もう、無いだろうと思ったから、確めるのを怠っていた
が、日本国憲法の前に「アメリカ独立宣言文」があった。

私は暗然とした。いったい、どこの国が自国の憲法の前に、外国の独立宣
言文を載せるものだろうか?

「アメリカ独立宣言文」は、アメリカの3代大統領となった、トマス・
ジェファーソンによって起草された。ジェファーソンは荘園主で、黒人奴
隷を200人以上の所有していた。

ジェファーソンは、農場で黒人奴隷が鞭打たれて、悲鳴をあげる声を聞き
ながら、独立宣言文を書いたのだった。

アメリカの初代大統領となった、ジョージ・ワシントンも荘園主で、多数
の奴隷を所有して、売買していた。そんな人たちが発した独立宣言文は罪
業が深いもので、私たちがとうてい手本とすべきでない。

アメリカは日本国憲法を占領下で強要したが、日本から未来永劫にわたっ
て独立を奪って、日本を属国にすることをはかった。奴隷の手枷(てかせ)
足枷(あしかせ)のようなものだ。

平成18年版に、10人が編集委員として、名を連ねている。9人が東京大学
教授で、1人が明治大学教授だ。日本人として恥しい。

アメリカは日本国憲法を強要することによって、日本人から精神を奪うこ
とを狙った。

それとも、10人の教授はこの日本がアメリカの占領下で建国されたと、錯
覚しているのだろうか。

日本国憲法は、前文で「ここに主権が国民に属することを宣言し」と謳
(うた)って、第1章第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民
統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
と、定めている。

この「国民主権」という言葉は、正体が怪しく、いかがわしいものだ。

いったい、私たちの日本は、いま生きている日本国民だけのものなのか。
いま生きている者だけで自由にして、よいものだろうか。

日本は2600年以上にわたる、古い歴史を持っている。この日本は、この国
を築いてくれた先祖たちのものでも、あるはずだ。

日本国憲法が、日本を日本をたらしめているのではない。先人たちの努力
が積み重ねられて、今日の日本がある。

アメリカによる軍事占領と、占領下で国際法に違反して押し付けた日本国
憲法は、日本が大戦に敗れた昭和20年8月以前の日本を消し去って、根
のない国に変えようとしたものだった。

日本が痴呆症の国となっては、なるまい。

2016年11月05日

◆習近平氏は本当の「核心」となったのか

石 平



先月27日に閉幕した中国共産党第18期中央委員会第6回総会(6中 )
の総括コミュニケは「習近平同志を核心とする党中央」と明記し た。こ
れを受け、日本国内でも「習氏への権力集中が進む」との見方が広が、

6中総会開催前の10月16日、新華社通信は中央指導部メンバーの動 向
に関するニュースを配信した。政治局委員の張春賢氏が「党の建設工作
に関する中央指導小組副組長」の肩書で地方視察を行ったという。

 張氏は今年8月、新疆ウイグル自治区党委員会書記を退任して中央に
戻ってから、その去就が注目されていたが、上述の地方視察ニュースで、
「副組長」という彼の新しいポストが判明した。この目立たないポストが
実は張氏の今後の前途洋々を暗示している。今、党内のイデオロギー統制
を担当する「党の建設工作に関する中央指導小組」の組長になっているの
は政治局常務委員の劉雲山氏である。

 政治局常務委員といえば、それこそ共産党の最高指導部を構成する
「チャイナセブン」のメンバーだが、劉氏は69歳の高齢であり、来年開
かれる予定の共産党第19回大会で引退する運びである。その時、上述の
小組の副組長となった張春賢氏が、劉氏の後を継いで組長に昇任する見通
しで、それに伴い、政治局委員である張氏は当然、政治局常務委員へと昇
進する道が開かれるのである。

第19回党大会開催の1年前の張氏の副組長就任はまさにこの党大会にお
ける彼の政治局常務委員昇進の布石だと理解されている。問題は張氏が次
の党大会で最高指導部に入る見込みとなっていることが何を意味している
かである。

 張氏は新疆ウイグル自治区党委員会書記時代、習近平総書記(国家主
席)に関する2つの微妙な動きで注目されたことがある。1つは、今年3
月4日、新疆ウイグル自治区主管のニュースサイト無界新聞に、「習近平
引退勧告」の公開書簡が掲載されたことである。

 地方政府主管のメディアで共産党トップの「引退」を勧告する文章が掲
載されるとは、驚天動地の大事件であるが、問題はその「黒幕」は誰だっ
たのかである。当時から、一部の香港メディアやアメリカに拠点を置く中
国系メディアは新疆ウイグル自治区の最高責任者である張氏の関与の可能
性を報じているが、真相は今でも不明のままである。

 その直後の3月20日、張氏の取ったもう1つの言動がさらに注目を集
めた。実はその時、習近平総書記の息がかかっている一部の地方トップが
習氏を「党の核心」として擁立する運動を起こしている最中であったの
が、北京で開かれた全人代の新疆代表団会見で、張春賢氏は記者らから
「習氏を核心として支持するか」と質問を受けたとき、「その話は改め
て」と答えを避けた。


中国の政治文化の中では答えを避けたことはすなわち「支持しない」と
の意思表明である。これで張氏は「反習近平」の姿勢を明確にしたと理解
されたのである。

 しかし今、どう考えても「反習近平」のこの彼が無傷であるどころか、
中央に戻って例の副組長に就任し、来年の党大会で政治局常務委員となっ
て最高指導部入りを果たすことができそうなのだ。それでは習氏は党中央
をすでに制覇したとはとても言えない。来年の党大会で、次期最高指導部
の人事は決して習氏の意のままにならないことも分かった。

冒頭に取り上げた共産6中総会の総括コミュニケは、習氏を「核心」だ
と位置づける一方、党の集団的指導体制や「党内民主」をことさらに強調
しているから、今の共産党内では「習氏の権力集中が進んでいる」とは一
概にいえない。第19回党大会の開催に向けて、党内闘争はさらに激しく
なる見通しである。

                   
                ◇

【プロフィル】石平

 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日
し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評
論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国
籍を取得。
産経ニュース【石平のChina Watch】11.3
習近平氏は本当の「核心」となったのか 権力集中が進んでいるとはいえ
ないそのワケは


2016年11月04日

◆外交関係に悪影響を与えるか

前田 正晶



崔順実問題は我が国との外交関係に悪影響を与えるか:

この韓国の不通(プルトン)朴大統領とその友人?崔順実が巻き起こした
国家機密漏洩の疑いがある事件は連日我が国のマスコミが採り上げている
通り、国家的な大事件になりつつある。

私は韓国の朴政権、与野党、マスコミ、国民がこの問題を何処に落とし込
むかが最大の注目点であると思って眺めている。現時点では少なくとも落
としどころではない混沌たる事態であるとも考えている。

私は韓国の国を挙げての対応次第では慰安婦問題についての不可逆的合意
とその重要な部分である少女像の撤去などが、朴大統領の退陣等の事態に
及んだ際に新政権がご破算にする危険性が高いかと思って密かに憂いている。

だが、テレビに登場される事情通や有識者の方々は、朴大統領の速やかな
退任はないだろうと言うのを信じたいと思っている。

あの崔順実が検察庁に出頭した際のあの無秩序な報道陣の殺到振りは如何
にも韓国らしいと思って眺めていたが、何故密かに裏口などに誘導せずに
正面玄関前で車から降ろすようなことをさせたのを理解出来ずにいた。

しかし、あのやり方を昨夜のPrime Newsにソウルから駆けつけた産経の黒
田勝弘と、一昨日だったかもう一人何処かの局で解説していたところでは
「あれは情緒的感情的な韓国民の極端な不満と怒りを収める為の言わばガ
ス抜き的な手法である」としたのが説得力があった。

黒田勝弘は韓国は確かに法治国ではあるが、最高の法律は「国民情緒(ま
たは感情?)法であり、それによって裁かれる傾向がある」と指摘してい
た。彼は更に「あの崔順実の出頭時のデモは主催者側の発表では2万人と
なっていたが、実際にはその半分程度だったと見えた。

あの種のデモに参加する人数にゼロがもう一つ増えるような事態になり20
万人とでもなれば、大統領にとって事態は本当に深刻となるだろう」とも
言っていた。

そこにゲストで参加していた自民党の元官房長官・河村建夫は本日からソ
ウルに赴いて日韓議員の会合に出席するので、その際に来たるべき日中韓
三国の首脳会談には是非とも朴大統領が(譬えレームダック化していて
も?)来日されるよう進言すると約束していた。

即ち、崔順実問題が外交に影響を及ぼす事態を回避すべきであるとの出席
者の一致した主張だった。私は習近平がどのように事態を判断するかにも
関心がある。

全く余計なお世話かも知れないが、崔順実が報道陣に揉みくちゃにされて
靴が片方脱げて路上に落ちていたところがニュースで流された。ご丁寧に
それが高級ブランドの”PRADA”であり8万円もするとまで教えてくれた。私
は寡聞にしてあのイタリアのブランドのあの形の靴がそれほど高値だった
とは知らなかった。恐らく韓国か我が国での国内販売価格で言っているの
だろう。

イタリアに行けば為替レートにもよるし、免税も適用されれば、
概ねその半額程度ではないのか。もしかして「ナンチャッテ」か?




◆木津と応仁の乱 続編 A

白井 繁夫



応仁元年(1467)5月、東軍(細川勝元)が西軍(山名宗全)の各守護の陣地に対して攻撃を開始したことから、応仁の乱は始まりました。初期の戦闘における東軍は八代将軍足利義政の「牙旗」を掲げて戦う官軍であり、西軍は賊軍になったことで、東軍の士気は上がり、優勢に戦っていきました。

ところが、西国の雄:大内政弘(周防.長門等々の守護)が宗全の招聘に応じて西国の大軍勢を連れて、6月に出発したのです。政弘は三代将軍義満によって応永6年(1399)殺された大内義弘の曾孫です。その後着々と勢力を回復し、中四国や北九州の地域にも勢力を持つ有力な守護大名となったのです。

大内軍は東進の道中で伊予守護河野通春や瀬戸内の海賊衆とも合流し、2万余の兵士と船2千隻の大軍となって兵庫に着き、進軍途上で邪魔立てする東軍(細川側)を撃破して、8月23日に京の東寺に到着しました。

西軍(山名勢)は、6月に入京していた大和の古市胤栄や紀伊の畠山政国と8月に到着した大内政弘の大軍と合流し勢いを取り戻し、宗全は大内らと協議して、内裏と室町第を制圧する方策として東から三宝院を攻める戦法を企画するのです。
(この計画は下京方面の細川勢と室町第との連絡遮断の作戦と言われています。)

他方、勝元は後土御門天皇と後花園上皇、両陛下のきさき方と三種の神器を戦乱から守るため、急遽内裏から花の御所へ避難してもらい、室町第に臨時の行在所を造り将軍と同居しますが、この方策を取ったことで、東軍は正式の「官軍」となり、西軍は「賊軍」になりました。

山名宗全は「戦は勝つことが大事と」賊軍など意に介さず、9月の初日、畠山義就と朝倉孝景らに若狭守護武田信賢(のぶかた)が守る「足利尊氏が厚く保護した醍醐寺の三宝院」を攻撃させ、放火して落とし、更に進軍して13日には内裏を占拠しました。

9月14日に赤松政則の家臣:美作守浦上則宗が3千の兵を伴い上洛しましたが、下京は既に西軍に占拠されており、東軍に合流できず、岩倉山(東山の一角)南禅寺の裏山に布陣しました。

当時の人々は戦火が郊外にある南禅寺まで延びるとは思ってもいませんので、京の公家達は家伝の名宝(書画.名器等)を寺院に預けていました。ところが、岩倉山の浦上軍が夜間の休息時に灯した松明が洛中から見ると、京の三条口を押える要衝の真上(東山)に突然大軍のかがり火の列が出現したと思われました。

9月18日の早朝、西軍の大内軍が南禅寺の裏手から山頂めざし攻め上がりましたが、上か
ら大石の落石で攻撃は失敗し、次の山名軍は粟田口の岡から攻め上がるがこれも上から
の落石攻撃で、敗退しました。

三番手として畠山勢の遊佐軍.誉田軍が山科から攻めるが木々の間から矢を射かけられて
退き、斯波義廉勢の甲斐軍や朝倉孝景軍が東岩倉山の上方の如意ヶ岳から下って攻めたが、
谷が深く戦闘にならないうちに石飛礫(石を投擲する戦闘技術)の攻撃に会い退却した。
(西軍が四方から一斉に攻撃すれば3万の軍と3千の東軍では勝負にならなかったと思われます。)

岩倉山の一戦で戦闘中の失火が南禅寺の豪華な寺坊や近隣の寺々更に青蓮院までも焼失してしまいました。15日間の戦闘では赤松勢の浦上軍は殆ど無傷で下山して、10月2日に吉田山経由で御霊口に至り東軍の本陣に合流しました。
(大内軍上洛後、東軍は西軍に押されどうしでしたが、この戦いでは西軍を撃退しました。)

この応仁元年(1467)の西軍による攻撃で南禅寺が焼失した時、真如堂も足軽集団に焼かれ掠奪された被害状況を描いた『真如堂縁起』は有名です。

足軽たちは敵などにかまわず寺社や公家の屋敷に火をつけて、財宝など盗み出す、まともな合戦をせず、あっちこっち火をつけて回る戦形態になってきました。

大和や南山城から京都の合戦に参加する真の目的は、幕府政治の安定ではなく、東西両軍に分かれて、知らない他国の武士と戦いますが、畠山家の義就と政長のいずれが家督を継ぐかで、自分たちの勢力の安定が決まるからです。(各地の守護.国人らも同様理由で参加したと思います。)

だから、畠山義就が吉野を出て京へ向かい戦乱に繋がった文正元年末、木津の馬借(ばしゃく:馬を利用して荷物を運搬する運送業者)がタイミングよく蜂起し、奈良周辺の土民も同調した山城の馬借蜂起が、京都―奈良間の交通を度々止めました。

しかし、馬借の中心地木津への発向(軍勢をさしむけること)決議はそれぞれの側の思惑が絡み官符衆徒筒井氏による鎮圧実行が翌年(応仁元年)5月まで延期されたのです。

話題を元に戻して、応仁の乱における東西両軍最大の激戦、相国寺(しょうこくじ)の戦闘の概要にも少し触れます。

三代将軍足利義満が建立した禅宗寺院の相国寺は京都五山の第2位に列せられ、広大な境内には多数の塔頭があり、中でも日本一の高さを誇る七重塔(360尺:約110m高)の仏塔は日本の建築物として史上最高の記録が近年までの500余年間破られませんでした。
(山外塔頭として三代将軍義満創建の鹿苑寺「金閣寺」.八代将軍義政の慈照寺「銀閣寺」が現在京都の観光名所として有名です。)

相国寺は御所の北側にあり、西側は花の御所(室町第)です。細川方はこの広大な境内を有する相国寺に陣地を構えて守りを固めていました。だから、山名宗全は9月の戦いで焼け残っている東方の相国寺を焼き東側を焼け野原にして攻め込む作戦を立てました。

山名宗全は相国寺の寺僧で内通する者を得て、その寺僧の放火を合図に、応仁元年10月3日早朝、畠山義就軍.大内政弘軍や朝倉孝景軍等の軍勢(約三万の大軍)を今回は一斉に境内に攻め込ませました。

東軍にとって相国寺は大事な陣地でもあり、破られると本陣に大影響を与えるため、精鋭の讃岐守安富元網軍や武田信賢軍など3千の兵で守っていました。

東門を守る長野弥二郎軍は破られたが、惣門は東と南に堀を造り、安富兄弟が必死に防戦して、進入する敵を7度まで撃退していたが、破られた東門から数万の西軍が押し寄せ、味方の援軍浦上則宗を含む赤松軍が到着した時は、精鋭の安富軍など全員玉砕していました。
(南側の烏丸殿.内裏等守る京極持清軍は相国寺が炎上するのを見て敗れたと思い兵を撤退させたのです。)

10月3日の激戦で西軍が討ち取った首は車8両、死体は数千人に達する激戦だったと言われています。激戦後の西軍(仏殿跡の六角軍、山門跡の一色軍ら)の夜陣には、2万の軍勢が相国寺の境内に留まり、翌日の西側にある花の御所への進撃に備えました。

東軍は、畠山政長軍を主力に反撃に出ますが、数千の東軍に対し西軍は数万の軍勢であり、自軍の兵を分散すれば敗れると思い、敵が群集している山門の一色軍へ東軍は一点突破を目指し決死の覚悟で突撃していったのです。

槍先を揃え一丸となり突進する東軍に、一色軍立ち向かうが崩れ、逃げる者が救援軍の邪魔になり、六角軍と西軍同士で大混乱、突入した政長軍に突き、切られ、西軍の有力武将を含めた数百の首が切られ、相国寺の石橋下の蓮池には山のように死体が出来たのでした。「蓮池頽(くず)れ」と言われています。

その後、相国寺の戦いは東軍.西軍ともに多数の死傷者を出し、一進一退の闘いとなり、
両軍ともに被害が増大し疲弊して来ました。その間、相国寺は三日三晩燃え続けたと云われ、戦闘も一時休戦状態となって、単発的状況で他の地域に移りました。

戦闘が2年目の応仁2年(1468)以降になると、戦況は膠着状態となり、洛中では両軍が戦う大きな合戦はなくなり、小規模な衝突程度となりました。しかし、洛外に広がって東山の吉田神社や泉涌寺等、天竜寺などの嵯峨.嵐山の寺院も戦乱で焼かれました。さらに、戦乱は地方にも拡大していくのです。

管領家については、将軍義政は斯波義廉の管領職を応仁2年7月(1468)解任して、勝元を任命し、義廉の家督も3ヶ国の守護職も取り上げました。(義廉は幕府に敵対する関東の足利成氏と独断で講和を結ぼうとしたことが原因です。)

将軍家においては、将軍後継者のことで、将軍義政は実子の義尚(5歳)を文明元年正月(
1469)将軍継嗣と正式に決定しました。義視は山名宗全側へ行き、開戦当初とは逆のラインにつくことになったのです。(勝元は富子も取り込むことになったのです。)

応仁の乱は地方へ広がり畠山義就.大内政弘の軍勢は山城、摂津、河内へとシフトして、
勸修寺、醍醐を焼き、瞬く間に南山城へ進出してきました。

また勝元の地方戦への功策としてか?文明3年(1471)斯波義廉の有力家臣.西軍の猛将の朝倉孝景が将軍義政により越前守護職の補任を受け、東軍に寝返ったのです。

このことは大変東軍が有利となる戦略ですが、勝元は地方の守護や国人衆にも諸策を取っていきます。 
(つづく)

参考資料:木津町史  本文篇  木津町、 山城町史  本文編  山城町
     京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
     乱世京都  上  明田 鉄男 著

2016年11月03日

◆皇室構造改革を阻止せよ

MoMotarou



【皇室構造改革を阻止せよ:反日サヨク人権派跋扈】

        ☆彡

三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう)殿下が薨去されまし
た。産経新聞以外の各新聞は「逝去」を使って「平民」扱いを強調してお
ります。NHKの「天皇生前退位」リーク以来、マスメディアが統一的に動
いている様子が良く判ります。小泉元総理の「女性女系天皇」擁立構造改
革以来、連綿と潜在勢力の活動が続いております。

<三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年(大正4
年)12月2日 - 2016年(平成28年)10月27日)は、日本の皇族、歴史学者
(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)。大正天
皇と貞明皇后の第四皇男子。

昭和天皇の弟、今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。
身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。称号は東京芸
術大学名誉客員教授。お印は若杉(わかすぎ)>Wikiより

■雲の上の事ですが。。。

東宮皇太子家も敬宮(としのみや)殿下の“ひきこもり”と登校拒否が一か
月も続いております。一般的な見方をすれば“家族崩壊”の状態にも見えま
す。何かがあったのでしょう。

皇室は世相を映す様なところがあります。その様な観点から見れば成程と
思える事もあります。皇太子殿下の表情には、他の皇族方には見られない
“緊張感”が感じられます。「孤立」。

■個人主義の侵入

今回、今上陛下のビデオメッセージンの中に「個人的」という御言葉があ
りました。その時以前どこかで聞いた記憶が蘇りました。皇太子殿下の
「雅子妃殿下人格否定発言」について発言されたビデオです。その映像を
見た浜尾実元東宮侍従が、「殿下は個人主義になっている」旨感想を述べ
られ心配されておられました。

どうも皇室に伝統に反する「個人主義」が東宮ラインから持ち込まれた
ようだ。外務省東京裁判推進勢力に注意!

■皇后陛下82才御誕生日会見(2016年10月20日)

皇太子や秋篠宮ともよくご相談の上でなされた、この度の陛下のご表明
も謹んでこれを承りました」「ただ、新聞の1面に『生前退位』という大
きな活字を見たときの衝撃は大きなものでした」「それまで私は、歴史の
書物の中でも、こうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚
きとともに痛みを覚えたのかもしれません」

十分に練られた御感想であります。「歴史の書物の中」。天皇陛下は皇
后陛下を通して「外」を学習された。

■安倍総理最後の仕事

安倍自民党総裁の任期が9年間になりそうです。この皇室の問題に取り
組むにも良いでしょう。

今後、各国首脳が続々と我国「日本」を訪れます。ニューヨークの「国
連」より「東京」に向かう。日本中心の「第二国際連合」の誕生でしょ
う。日下公人さんが野党時代の安倍さんに進言した事が現実となりつつあ
ります。

国内では選挙対策の為に「サヨク取り込み」が目立っており、元来の安
倍支持層に不満が溜まっています。

ガス抜きに靖国神社参拝をお勧めします。平沼さんが元気だったら
なぁ。。。