伊勢 雅臣
海の武士道 〜 伊東祐亨と丁汝昌
連合艦隊司令長官・伊東祐亨の清国北洋艦隊提督・丁汝昌への思いやりは
世界を驚かせた。
■1.「日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように」
明治27(1894)年9月17日の日清戦争における黄海海戦は、1866年にオース
トリアとイタリアが戦ったリッサ海戦以来、およそ30年ぶりの艦隊同士
の決戦であった。その間にそれまでの木造艦に替わって、鉄や鋼で防備を
固めた装甲艦が中心となっていた。
装甲艦どうしの艦隊決戦がどのようなものか、世界の注目を浴びて、イギ
リス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア各国の軍艦が、
観戦のために黄海に集まっていた。
勝利は清国7割、日本3割というのが世界の大方の予想だった。なにしろ
清国艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7335トン、世界最大級、最新
鋭の巨艦であった。一方の日本の主力艦「松島」「厳島」「橋立」は4278
トンと半分近くの大きさでしかない。
しかし日本艦隊は高速性を生かして二手に分かれて清国艦隊を挟撃し、小
口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。「鎮遠」に乗ってい
た米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。
日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、・・・有利な形で攻撃を
反復したのには、驚嘆するほかなかった。清国艦隊は守勢にたち、混乱し
た陣型で応戦するだけだった。[1, p448]
4時間余りの海戦で、清国艦隊は4隻が撃沈され、1隻が擱座(座礁)自
沈したのに対し、日本艦隊は2隻大破、2隻中破と損害は大きかったもの
の1隻も失わなかった。日本艦隊の完勝だった。
■2.「長官、ご無事でありましたか」
兵員の志気においても格段の違いがあった。旗艦「松島」は「鎮遠」の30
センチ砲弾が左舷に命中し、鋼鉄の舷板が10メートル余り吹き飛ばされ
て、艦骨が露わになった。28人が戦死、68人が重軽傷を負った。死屍累々
として、鮮血が甲板に溢れた。
連合艦隊司令長官・伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき)は破損状況を見聞す
るため、艦橋から甲板に降りた。負傷者収容所の横を通りすぎようとした
時、顔面が火傷で紫色に腫れ上がった水兵が伊東を認めると、力を振り
絞って足元に這い寄り、「長官、ご無事でありましたか」とかすれた声を
出した。
伊東は、その気持を察し、その水兵の手をしっかりと握り、「伊東はこの
とおり大丈夫じゃ、安心せよ」と、2、3度足踏みをしてみせた。それを
見た水兵は、さも安心したように「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万
歳!」と、かすかに言い終えると、頭を垂れて息絶えた。伊東は頬に涙を
伝わらせながら、しばらくはじっと水兵の手を離さずにいた。
一方、清国艦隊の最左翼にいた「済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると
艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、逃げ
る「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。
海戦が終わって敗残の北洋艦隊が翌朝、旅順口に入港すると、「済遠」は
無傷で安閑とこれを迎えた。怒った丁汝昌提督は、「済遠」艦長を軍法会
議にかけて、即日銃殺刑に処した。
■3.「日本武士道精神の精華」
黄海の制海権を得た日本軍は、朝鮮半島の付け根から西側に伸びた遼東半
島の先端部、旅順口をわずか一日で落とした。北洋艦隊はその対岸に伸び
た山東半島の威海衛に逃げ込んだ。
この北洋艦隊の根拠地、威海衛を、伊東はそれまでに2度、訪ねたことが
あり、丁とは肝胆照らす仲だった。8年前の明治20(1887)年に、伊東が小
艦隊を率いて威海衛を訪問した際に、丁は非常な歓迎をしてくれた。
その後、丁が2度、北洋艦隊とともに日本を訪問した際には、伊東が歓
迎した。2年前の明治26(1893)年にも、伊東は「松島」以下3艦ととも
に、威海衛を訪問している。この時も、丁は心を尽くして日本艦隊を歓迎
した。伊東と丁の間もうちとけて、まるで兄弟のようになって、写真の交
換までしたほどであった。
伊東も丁も東洋的武士道の体現者であり、しかも日清それぞれの海軍の
育ての親でもあった。言わば、二人の心中は「海の武士道」によって深く
結ばれていたのである。伊東はなんとか丁の生命を救いたいと思い、降伏
を勧める文書を送った。
謹んで一書を丁提督閣下に呈す。時局の変遷は、不幸にも僕と閣下をして
相敵たらしむるに至れり。しかれども今世の戦争は、国と国との戦いな
り、一人と一人との反目に非ず。すなわち僕と閣下との友情は、依然とし
て昔日の温を保てり。[2, p289]
と、互いの友情を確認した上で、日本が明治維新を通じて近代化に成功し
たように、清国も近代化が必要であることを説き、丁にしばらく日本でそ
の時節を待ってはどうか、と勧めたのである。その際は、天皇陛下が閣下
を厚くもてなすことは僕が誓う、とまで言った。
各国はこの書を「日本武士道精神の精華として、最も鑽仰(さんぎょ
う)すべきことであり、世界の海軍礼節として、大いに範とすべき快事で
ある」と評した。
丁汝昌は書信を呼んで、深い感動を覚えたらしく、文書を幾度も読み直し
てから、眼をとじたまま、しばらくは一語も発しなかった。
各艦長を呼んで、この書信の内容を説明し、「伊東中将の友誼は感ずるに
余りある。しかし、われわれ軍人の胸にあるのは尽忠報国の大義のみであ
る。一死をもって臣たる者の道を全うしようではないか」と語った。その
言葉を聞いた諸将はみな感服し、提督と生死をともにすることを誓い合った。
■4.「君国のために、どうぞ一命をなげうって成功して下さい」
やむなく伊東は、水雷艇による港内への夜襲を決心した。2月3日、水雷
艇の司令たちを旗艦「松島」に招いて訓示を与えた。
敵の港内に侵入して攻撃することは、水雷艇が出来て以来、世界の戦史に
例を見ないことであるから、まさに至難の難事である。死を覚悟すべきは
無論である。
貴官らにそれを命ずることは、伊東としては辛いことであるが、君国のた
めに、どうぞ一命をなげうって成功して下さい。[1,p465]
伊東の人柄をにじませた丁重な訓示であった。司令たちは、顔色ひとつ変
えずに答えた。「承知いたしました。われわれは黄海の海戦では、ただ指
をくわえて眺めていました。いま死場所を与えて下さったことをありがた
く思います」
■5.「三勇士の遺体を手厚く葬るように」
北洋艦隊は、水雷艇の夜襲に気がつくと、サーチライトで狂ったように海
面を照らし、機関砲を打ちまくった。水雷艇の一隻は「定遠」に300メー
トルまで接近し、魚雷を発射して旋回しようとした瞬間に、銃弾を機関に
浴びて、白い水蒸気が闇の中に上がった。
「定遠」の兵員は快哉を叫んだが、それと同時に艦底に轟音が轟き、凄ま
じい震動が伝わった。魚雷が命中した箇所から海水が激流となって入り込
み、艦体は傾き始めた。丁は、艦を付近の浅瀬に乗り上げさせて、乗員を
退艦させ、「定遠」は打ち捨てられた。
翌朝、銃撃された水雷艇が発見された。なかには日本兵の死体が三体見つ
かった。いずれも洗濯した下着に、折り目のついた軍服を着て、微笑んで
いるような満足な死に顔をしていた。丁は遺体に対してうやうやしく敬礼
し、3勇士の遺体を手厚く葬るように命じた。
水雷艇の夜襲攻撃で「定遠」を含め4隻が失われ、北洋艦隊は大きな打撃
を受けた。さらに伊東は全艦隊を威海衛湾口に集結させて艦砲射撃を行
い、ここに北洋艦隊は戦闘力をほとんど失った。
■6.「深く生霊(生き残った兵員)のために感激す」
2月12日朝、メインマストに白旗を掲げた砲艦「鎮北号」が威海衛から出
て、「松島」に近づいてきた。やってきた軍使は、丁からの「乞降書(降
伏を乞う書)」をうやうやしく伊東に捧げた。
それには「すべての艦船と港内の砲台を献ずるので、兵員の命を助けて欲
しい。承諾いただけるなら、英国司令長官を証人としたい」とあった。
伊東はこれを了承し、しかも丁と諸将を捕虜とはせずに、清国の適当な地
まで送り届けること、丁の名誉に信を措くので保証人は不要であることを
返書に述べた。
翌日、再び丁からの使者が来て、「深く生霊(生き残った兵員)のために
感激す」との返答書を持ってきた。使者はこう伝えた。
提督は昨日私が返書をお届けしますと、伊東閣下の仁慈のお心を知って感
泣なさいました。そしてこの返答書をしたためられるや、「いまは思い残
すところなし」とおっしゃり、はるか北京の空を拝してから毒杯を呷(あ
お)って自殺なされたのです。[2, p303]
伊東は息を呑んだ。いま読み終えたばかりの返答書が丁の遺書だったとは。
■7.「国難に殉じたその亡骸が粗悪なジャンクに載せられるとは」
その日の夕刻から、清国代表との降伏手続きについての協議が深夜12時
まで続いた。あとは明日午後2時に再開と決まって、葡萄酒で労(ねぎ
ら)ううちに、島村速雄参謀が「ところで失礼ですが、丁提督の亡骸(な
きがら)はどうなされるおつもりか」と訊ねた。
清国代表はこう答えた。「威海衛構内の艦船はすべて貴国のものですか
ら、提督の柩(ひつぎ)を運ぶ船はありません。いずれ、ほかの死体と一
緒にジャンクかなにかに乗せて、芝罘(チーフー、山東半島北部の港湾都
市)へ送ることになるでしょう」 ジャンクとは平底の木造帆船である。
翌日2時から再開された協議が大方終わって、一息入れた時、それまで細
部の詰めを島村に任せていた伊東が、やおら上体をテーブルの上に乗り出
すようにして、「参謀、通訳せよ」と言った。
昨夜代表は、丁提督の柩はジャンクででも運ぶといわれた。しかし丁提督
はまことに忠義の士であって、もしも北洋水師が健在ならば、その柩をゆ
だねられるべきは「定遠」か「鎮遠」でありましょう。
それがいかに敗軍の将となったためとはいえ、国難に殉じたその亡骸が粗
悪なジャンクに載せられるとは、智・仁・勇を重んずる大和武士のはしく
れとして看過いたすには偲びざるものがあります。[2,p308]
話すうちに眼を潤ませ、口ひげを振るわせていた伊東は一気に続けた。
ここにおいて・・・本官は提案したい。わが方は、貴方所有の運送船のう
ち「康済号」のみは収容せず、貴方に交付します。ですからこれに丁提督
の御遺体と遺品とを乗せ、なお余裕あらば将士も運ぶことにする、と。
宣戦講和・条約締結は天皇の大権に属し、いかに司令官とはいえ、戦利品
の一部を勝手に敵国に返還することは許されない。伊東は自分に確かめる
ように言った。
本官は、おそれながら大御心もかくあらせられると信じております。お咎
めがありましたら、本官も丁提督のように一死をもってお詫びいたすだけ
のこと。
清国代表は肩を震わせて、深く頭を下げた。
■8.「伊東よ、もうよい」
2月17日朝、連合艦隊が威海衛に入港した。かつて軍艦22隻、総排水量5
万トン強を誇った北洋艦隊は、すでに10隻1万5千トンしか残っておら
ず、それらがすべて連合艦隊に引き渡される。
その日の夕刻、これら残存艦の間から、大型輸送船が抜け出した。丁提督
の柩を乗せた「康済号」であった。連合艦隊の全将士が舷側に並んで敬礼
をする登舷礼式で「康済号」を見送った。「松島」後方の主砲が弔砲を
撃った。ゆっくり前を進む「康済号」にむかって、伊東も荘重な敬礼を
送った。
一夜明けて、清国は休戦会議の開催を申し入れてきた。ここに日清戦争は
ようやく幕を下ろそうとしていた。
2月27日、伊東は帰朝を命ぜられ、3月3日に広島宇品港に着くと、すぐ
に「広島大本営」に向かった。「大本営」とは言っても、粗末な木造2階
建てで、明治天皇は前線将兵の労苦を偲ばれて、その一室に起居されていた。
伊東は天皇に対し、戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読み上げ、それが終
わると、自分個人の判断で「康済号」を交付した事に触れた。天皇は、よ
く分かっているというように、「伊東よ、もうよい」と言われた。伊東の
処置に十分満足されているようだった。
すでに2月22日付け『東京日日新聞』には、伊東と丁の間に交わされた
計4通の文書が全文掲載されていた。天皇と海軍首脳は、伊東の処置を日
本武士道に適ったものとして高く評価し、公表に踏み切っていたのであ
る。伊東の丁汝昌への礼節はタイムズ紙にも報道され、世界を驚かせた[3]。
■リンク■
a. JOG(954) 東アジアのトラブルメーカー
内部抗争を繰り返し、周辺諸国を戦争に巻き込んできた韓民族の特異な
歴史。
http://blog.jog-net.jp/201606/article_1.htmlb. JOG(243) 日本最強の外務大臣に学ぶ外交術
卓越した外交力で清国を押しまくり、欧米列強の干渉を捌いた陸奥宗光
の外交の基本を学ぶ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog243.htmlc. JOG(201) 韓国の歴史教科書拝見
「朝鮮は中国の属国ではなかった」とする韓国の歴史教科書にもの申す。
http://blog.jog-net.jp/201312/article_10.html■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 神川武利『士魂の提督 伊東祐亨―明治海軍の屋台骨を支えた男』★★★、
PHP文庫、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569577253/japanontheg01-22/2.中村彰彦『侍たちの海―小説 伊東祐亨』★★★、角川文庫、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4041906164/japanontheg01-22/3. Wikipedia contributors. "伊東祐亨." Wikipedia. Wikipedia, 4
Nov. 2016. Web. 4 Nov. 2016.