2014年11月17日

◆フィンランドの日系企業で再発見

太田 泰彦


武士道の知恵 

新渡戸稲造は名著「武士道」を英語で書いた。日本社会に脈々と息づく伝統的な倫理観のあり方を、日本人のためにではなく、広く世界の人々に伝えるためだった。

流麗にして高尚な英語の原書は、グローバル社会に生き、英語が達者なはずの現代の日本人でも、読みこなすのに骨が折れる。高校生のころ、教養の必読書として半ば義務的に岩波文庫で読まされた記憶はあるが、分かりやすい口語の日本語訳を改めてひもといてみると、110年以上前の「過去の世紀」に新渡戸が説いた価値観が、少しも色あせることなく、力強く心
の内側に染み込んでくる。

■語り継がれる「新渡戸」裁定

新渡戸は冒頭にこんなエピソードを記している。

高名なベルギーの法学者の自宅に招かれ、2人で家のまわりを散歩した際の会話である。話題が宗教の問題に及んだとき、法学者の教授は「それでは、あなたの国の学校では宗教教育は行われていないのですか?」と念を押すように聞き、新渡戸は「そうなのです」と答えた。

すると教授は突然、歩くのをやめ、こう繰り返した。「宗教がないだって! それでどうして道徳を教えることができるというのですか?」。おそらく詰問調の厳しい口調だったのだろう。その教授の言葉を、新渡戸は忘れることができないと記している。教授の素朴な疑問と、その後の驚きように、新渡戸は逆にがくぜんとし、どう答えてよいのか分からなかったからだ。新渡戸には学校の教室で道徳を教わった覚えはなかった。

「武士道」は、その新渡戸が日本人の倫理や道徳について自問自答した末に書かれた書物である。自分の心の中でさまざまな善悪の観念を形づくっている要素を探るうちに、そこに言葉では明文化されていない武士の精神が生きていることに新渡戸は気づく。

正義、勇気、仁義、礼節、誠意、名誉、忠義など、日本人自身も普段は意識しないで暮らしている概念を次々と取り上げ、論理的な筆致で、しかし、懇切丁寧に、説明を試みている。

新渡戸が言葉で表現しようとした武士道の精神が、はるか北欧のフィンランドで生きているのが面白い。国際連盟の事務次長として1921年に新渡戸が下したスウェーデンとの領土紛争の裁定は、同国が誇る歴史の一部となって語り継がれているという。

グローバル人材の育成が声高に叫ばれる昨今だが、既に明治・大正期に新渡戸のような真の国際人が日本にいたことは忘れられがちだ。

そして、武士道が現代に生きる場所がもう一つある。欧州の玄関口としてフィンランドの地理的な優位性に注目した日本企業である。進出先の工場の現場で、日本式の生産システムを根づかせようと努める技術者たちの姿に、私はサムライの影を見た。

フィンランドでは日本アニメも人気だ

フィンランド人が仕事の面で怠惰だというわけではない。むしろ逆で、何事に対しても生真面目な態度で臨み、感情を露骨に表さないフィンランド人の気質は、日本人に似通ったところがある。

だが、高福祉社会の労働慣習や時間感覚、そして労働に関する法制度は、日本とは根本的に違うのだ。製造現場でギリギリまで労働生産性を高め、これを国際競争力の源泉とする日本企業が、異文化の土壌に飛び込むと、必ずといってよいほど会社と従業員の双方が「カルチャーショック」に悩むことになる。

■駐在員は現代の「サムライ」

武士道」の第6章にある「礼」の説明に、茶道の作法や道具について記した部分がある。茶碗(ちゃわん)、茶杓(ちゃしゃく)、茶巾などを使い、決まり切った手順が定められている茶道は、欧米人には退屈で、型にはまりすぎているように見えるかもしれない。

「けれども」と、新渡戸は言う。「その方式が結局は最も時間や労力を節約するものであり、言い換えれば最も効率的な力の配分をしていることになる」からだ(致知出版社、いつか読んでみたかった日本の名著シ
リーズ2「武士道」より引用)。

これは生産現場の「カイゼン」の精神そのものではないか。日本企業の現場マネジメントの手法は、挨拶や掃除にはじまり、報告や提案の仕方まで、儀礼や決まった手順が多い。

欧米の人々の目には初めは「硬直的」とも「封建的」とも映るが、その作法の裏側には効率を追求する精神が息づいている。日本人自身は慣れてしまっているから意識しないが、こうした暗黙の知見を外国で外国人に伝えるためには、対話や説明の能力を備えた優れた伝道師が必要になる。日系企業の駐在員として技術移転や生産性向上を担う技術者たちこそが、その伝道師といえるだろう。日本企業の国際化の最前線に立つ、現代の武士で
ある。

新渡戸の時代と現代を比べてみても、グローバル社会が内包する問題は本質的には変わらないようにみえる。それは多様な価値観がぶつかり合うときに生じる問題であり、力が強い者と弱い者が共生するために必要な知恵である。

「私が見た『未来世紀ジパング』」はテレビ東京系列で毎週月曜夜10時から放送する「日経スペシャル 未来世紀ジパング〜沸騰現場の経済学〜」(http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/)と連動し、日本のこれからを左右する世界の動きを番組コメンテーターの目で伝えます。随時掲載します。筆者が登場する「知られざる親日国・フィンランド」は6月16日放送の予定です。
(論説委員)日本経済新聞 電子版 2014/6/15 

              (情報採録:松本市 久保田 康文)

       

◆國語は金甌無缺であった(1)

上西 俊雄



[はじめに]

貴公の書くものはまはりくどくていかんといはれることがあるが、今囘は一段とさうなりさうだ。

表題のことは、郷里鹿兒島より一週間ぶりに歸った翌日の朝とつぜん閃いた。これまでいろいろ書いて來たことは煎じ詰めればかういふことだったといふ思ひがあるものの、そのことに氣づくのに手間取ったのは、自分の頭がうけつけなかったからだ。

實際、この表現は自分で作ったものでなく、明治38年の伊澤修二の文に出てくる。これをみたのは先月の初めだけれど、そのときは、明治の人の認識はその程度であったのかといふやうなところがあったのだと思ふ。

言語は變化するものだとする考へが腦中に居座ってゐて、文字通りに受け取ることができなかった。專門に言語學をやったわけでないのに辭書出版社にゐて、さういふ言説に觸れることがあったためだ。


3277號(26.4.16)「はゝには二たひあひたれとちゝには一ともあはす」で國語に變化があったとする根據を殘らず否定するやうなものを書いてゐたにもかかはらず百尺竿頭一歩を進めることができなかった。


ましてきちんと大學を出たやうな人であれば、西歐言語學の洗禮を受けないまでも飛沫ぐらゐはあびてゐるはずだから、それを眞っ向から否定するやうなことを受けつけるわけがない。

だから、國語が金甌無缺であるなどといっても、まともに相手にする人はないと思ふ。

どうしてかう考へるやうになったか。いろいろの契機があった。思ひつくところを擧げてみたい。


その前に金甌無缺といふ語のことであるが、この語を知る世代も尠くなってゐると思ふので、まづは愛國行進曲の歌詞を示す。讀みは擴張ヘボン式(逆アポストロフィは語中のハ行子音)である。

[愛國行進曲]

(壹)

見よ東海の空あけて miyo toukaino sora akete

旭日高く輝けば kyokuzhitsu takaku kagayakeba

天地の正氣溌剌と tenchino seiki hatsuratsuto

希望は躍る大八洲 kibau`a odoru o`oyashima

おゝ晴朗の朝雲に oo seirauno asagumoni

聳ゆる富士の姿こそ sobiyuru fuzhino sugatakoso

金甌無缺搖るぎなき kin'ou muketsu yurugi naki

わが日本の誇りなれ waga nipponno hokori nare

(貳)

起て壹系の大君を tate ikkeino o`gimiwo

光と永久に戴きて hikarito to`ani itadakite

臣民われら皆共に shimmin warera mina tomoni

御稜威に副はん大使命 mi-itsuni so`an daishimei

往け八紘を宇となし yuke hakkwauwo i`eto nashi

四海の人を導きて shikaino hitowo michibikite

正しき平和うち建てん tadashiki heiwa uchitaten

理想は花と咲き薫る risau`a hanato sakikaworu

(參)

いま幾度かわが上にima ikutabika waga u`eni

試練の嵐哮るとも

shirenno arashi takerutomo

斷固と守れ その正義

dankoto mamore sono seigi

進まん道は一つのみ

susuman michi`a hitotsu nomi

嗚呼悠遠の神代より

aa iuenno kamiyoyori

轟く歩調うけつぎて

todoroku hoteu uketsugite

大行進の行く彼方

dai-kaushinno yuku kanata

皇國つねに榮えあれ

kwaukoku tsuneni sakae are


歌詞はネットで調べた。ほとんどが假名字母制限表記で、オオとなってゐるところが何箇所があったが、オホ、オオ(オゝ)であったり、アアでなく嗚呼であったりした中から、恐らくかうであったはずだと選んだり推測したりした結果である。

耳に覺えがあったのは一番だけ。二番に「正しき平和うち建てん」といふところがあったので驚いた。調布市の平和記念祭(11月10日)などで演奏してほしいものだ。

さて、歌詞であるが、讀みは藤山一郎のうたひ方に從って、「行く彼方」はイクでなくユクとした。御稜威は接頭辭のところにハイフンを入れて、母音連續を避けた。歴史的假名遣の轉寫であればこそ、この程度のハイフンで濟む。假名字母制限表記であれば、弖爾乎波(テニヲハ)のところは轉寫不可能となるはずだ。このことを以ってしても、國語は金甌無缺であったといはざるべからずなのである。



        

2014年11月16日

◆イスラム国が独自の通貨を発行?!

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)11月14日(金曜日)弐 通巻第4394号>   
 
〜ISIL(イスラム国)が独自の通貨を発行へ
  世界のどの国からも承認されていないテロリスト「国家」が?〜


通貨発行は主権国家の経済主権に属する。人口わずか40万人のブルネイも、70万人しかいないブータンも、主権国家であるがゆえに独自通貨を発行する。しかしブルネイはシンガポールドルと連動し、ブータン通貨はインド・ルピーに連動する、脆弱な通貨である。

ISIL(イスラム国)はイラク北部の拠点と拠点を線のようにつなぐ点線地帯を支配しているが、いったいだれが統治者なのか、内閣もなければ行政府も存在しない。カリフを自称する謎の指導者アルバクル・アル・バグダディが軍組織を指導し、シリア空軍から奪取した戦闘機も保有している。

11月13日付け英紙『ファイナンシャル・タイムズ』は、このISILが独自通貨を発行する準備に入ったと伝えている。

情報筋に拠れば、ISIL通貨は、金、銀、銅のコモディティ価格に連動し、最高額は5ディナール(ディナールはイラクなどの通貨単位)で21・25グラムの21カラットの金でつくられる。

米ドル換算で694ドルに相当し、補助コインは銀製コイン。米ドル換算で12セントから4ドル50セントの範囲で幾種類かが鋳造されるという(金価格は現在1オンス=1150ドル前後だから、21・25グラムの金貨なら826ドルに値するはずだが、21カラットのため、純金とは見なされないからだ)。

ステーブ・ハンケ教授(ジョン・ホプキンス大学)は「通貨構想によれば金銀銅価格に連動する理論貨とはいえ、彼らはいったい、その原材料である金や銅をどこから調達するつもりなのか」と根本的な疑問を投げかけた。

◆歴史的同志?オランダ礼賛の不思議

黒田 勝弘


オランダのウィレム・アレクサンダー国王夫妻が日本訪問の後、韓国を訪れた。韓国に王室はないし歴史的にオランダと特別な関係があったわけでもない。あえて関係を探れば、2002年の日韓共同開催W杯サッカーで韓国をベスト4に導いたヒディンク監督がオランダ出身だった。このため当時、にわかにオランダへの関心が高まった。

その後、これに便乗するように17世紀中ごろ船の事故で韓国に漂着し13年間、抑留されたオランダ船の乗組員ハメルらの話が浮上し各地に観光用の“ハメル記念施設”ができた。ハメルは迫害を逃れて脱出に成功し日本に保護された。後にその体験を『朝鮮幽囚記』として書き残したことで知られる。

韓国とオランダのかかわりはそんな程度だが今回、国王の日韓訪問には異様(?)な関心を示した。

まず国王が日本での宮中晩餐(ばんさん)会の際、戦時中の日本とオランダの過去に触れたことに飛びつき「オランダ国王、日王の前で“心痛む過去を忘れずにいる”と発言」などと大々的に報道した(10月31日付、朝鮮日報)。

さらにその後、韓国を訪れたオランダ国王に対し朴槿恵(パク・クネ)大統領が日韓関係に触れ「歴史認識の問題が懸案になっており、とくに慰安婦問題の解決に努力している」などと述べたことも大きく伝えた。

つまり韓国にとってオランダは急に“歴史的同志”になったのだ。

オランダは戦時中、日本軍によって植民地支配のインドネシアから追い出されたが、その後、民間人収容所にいたオランダ女性が慰安婦として日本軍の現地の将校らに連行された事件があった。上層部は軍の方針に違反したとして慰安所を閉鎖し、関係した日本軍人は戦後、戦犯として有罪判決を受けたが、韓国はこの慰安婦問題に目を付け“同じ被害国”としてオランダを持ち上げているのだ。

オランダはヨーロッパではナチス・ドイツに支配され「アンネの日記」のようなユダヤ人迫害が起きている。韓国マスコミはそのことを紹介しながら今回のオランダ国王の対日発言をこう論評している(11月1日付、東亜日報)。

「オランダはナチに融和的だったことを大いに恥じている。恥を知るオランダが恥を知らない日本に訓戒を与えた」

韓国は「戦後のドイツは反省しているのに日本は反省していない」と日本に対し「ドイツに学べ」とよくいうが、今度は「オランダに学べ」と言いだしたのだ。「ええっ?」である。

オランダは300年以上もインドネシアを植民地支配したが、そのことで明確な謝罪も補償もしていない。植民地支配を恥じたことなどない。またインドネシアがその過去の歴史について、オランダに何かグズグズ要求し続けているという話も聞いたことがない。

韓国は過去、日本に植民地支配されたとして「その被害者の気持ちを知るべきだ」とし「謝罪と反省」を言い続けてきた。それがオランダと“歴史認識”が一致するかのようにほめているのだ。インドネシアが知れば驚きあきれるだろう。

韓国は同じく植民地だったインドやインドネシア、ベトナムなどとの比較を避けたがる。日本からすれば逆に韓国に対し「インドネシアを見習ったらどうか」と言いたいくらいだ。日本非難さえできれば何でも飛びつくが、今回のオランダ礼賛もその歴史認識のいいかげんさを物語るものだ。(在ソウル)

   (産経ニュース2014.11.15) (情報採録:松本市 久保田 康文)

◆台湾の選挙と独立意識

Andy Chang



アメリカの選挙が終わり、台湾では2週間後の29日に九合一選挙と呼ぶ大規模選挙がおこわなわれる。九合一とは6大都市の市長選挙のほかに市町村の市長、議員と議長、里町村長の選挙である。

選挙の最大の関心は台北市長の選挙である、国民党の連勝文(連戦の息子)と無党派の柯文哲ほか5人で、柯文哲が連勝文を22%リードしているので当確と言われている。

無党派の柯文哲の勝利は国民党の敗北となり、台湾人民の独立意識の高揚となる。同時にこの結果はこれまで台湾独立を排除してきた民進党の凋落でもある。

●独立を棄てて中華民国体制を支持した民進党

民進党は1999年に党綱領から台湾独立を撤去し、最大党派の謝長廷は「独立は得票にならない」と言い、民進党の柯建銘幹事長は民進党の党大会で「台湾独立を凍結する」ことを提案したが、党員の反対にあって提案を引っ込めた。

2008年の総統選挙に立候補した謝長廷は中間路線を主張して、民進党の旗色である緑色を廃止して国民党の藍色と民進党の緑色の中間の「青緑色」を使って選挙で大敗した。

しかし謝長廷は中間路線を主張するほかにも中国接近を主張し、民進党が中華民国を支持して中国に接近し、中国が民進党を支持すれば国民党に勝つことが出来ると主張してきた。

台湾人民は口に出さなくても独立志向が強いので民進党の中国接近に大反対で、柯建銘が提案した独立条項を凍結する案ですっかり民進党が嫌いになった。

台湾独立を主張すれば必ず負けると主張した民進党の入党要請を拒否し、無党派で立候補した柯文哲が当選すれば民進党はメンツ丸潰れである。

但し、柯文哲は台湾独立を主張していない。柯文哲を支持しているのは打倒中華民国を主張する独立派、つまり体制外運動を主張してきた20個以上の独立団体が連合して「台湾建国選挙連線」を組織して柯文哲を支持してきたが、このほかにも民進党に対抗して組織した若者たちの「基進側翼」と名乗る団体である。

●台湾建国選挙連線とは何か

台湾の体制外運動とは完全な台湾独立を主張する団体ではない。体制外を名乗るのは中華民国の政治体制を排除する主張のほかに体制を改善する主張の団体もある。

民進党や台聯党のように中華民国の選挙で政権を取る主張ではなく、中華民国の独裁体制を改善または廃止する団体は、革命運動から国連加盟、公民投票による国体改名、司法改善など50ほどの違った主張をする団体がある。

今回の「台湾建国選挙連線(連合)」は、公民投票を主張する団体の発起人・蔡丁貴が主体となって25団体の連合を作って独立建国に賛成する意思表示をした候補者を支持すると発表したので、全台湾で102人の候補者が加入した。7月に連合が成立し、候補者は台湾住民
独立、自決建国と制憲、公民投票法の改革、国連加盟などで人民の投票と熱意を促すと主張した。

この連合に参加した候補者の中には民進党の候補者も多数居るし、台聯党の候補者も居る。だからと言うより、彼らは連合に参加して人民の独立意識を頼って当選したい、だが明確に独立意識を主張するものが居ない、つまり主張が曖昧なのが「玉に瑕」と言える。台湾独立は台湾人民の公共意識だが独立主張は明確にしないのが現状である。

●基進側翼とはなにか

基進側翼は2007年ごろから徐徐に発展してきた若者たちの政治主張で、彼らは今年3月の?ヒマワリ革命?より早くから「超党派運動」を主張してきた。

彼らは台湾の政治色分け、藍と緑の対決を超越して台湾人民の自由と自決を主張している団体で、主に台湾の南部都市、高雄と台南に集中している。この団体はまた民進党に反対された後、台聯党に呼びかけ、やんわりと断られた経緯を持つ。

基進側翼は(1)政治民主化、(2)主権自由化、(3)社会自由化の三つの主張をする団体である。しかしこの三つの主張はあまりにも理想的で、現実の政治を相容れない曖昧さが残る。

「政治民主化」で政党闘争を廃止して、選挙に勝った政党の独裁に反対すると言っても、政党選挙とは政権を取る戦いであり、政権を奪取した政党を監督する人民の民主化運動が果たして可能なのか、大きな疑問である。

次に、「主権自決」とは大国の圧力を拒否し、大中華思想を排除し、台湾と中国の二つの独立した国家を目指すという理想は、すなわち台湾独立の主張と変わらない。どうやって中国覇権の恫喝を排除するかが台湾独立運動のネックだったが、問題を残したままだ。

「社会自由化」の主張とは経済発展の自由民主化、つまり経済の自由化が貧富の格差を拡大する、だから格差をなくして経済発展の利益を社会全体が享受するという主張は富の分配という大問題である。

今回の選挙で、基進側翼グループは5人の候補者を出した。高雄市は国民党優勢の区域と台湾人意識(民進党意識ではないという)の強い区域があると言われる。選挙の結果で台湾人民の独立意識が国民党のシナ人独裁に勝てるかを占うことになると言われる。

●予測される国民党の衰退

総体的に見て台北、台中、高雄、台南の4都市は台湾人の勝ち、新北と桃園は国民党の勝ちと予想されている。市町村の選挙でも民進党と無党派の進出が目立つだろう。

国民党の敗北は中国人の敗北で台湾人の勝利、独立意識の高揚という予測である。台湾意識の勝ちは中国人の敗北と言われている。民進党はこの選挙の結果で独立意識の見直しをしなければやがて人民に見放される結果となるだろう。

◆習近平は礼儀知らずで無礼

前田 正晶


中華思想だの何のというが、結局は中国人は「自分がルールブックであり、審判でもある」と思い込むことが、他の世界では受け入れられていないと知らない裸の王様の如き哀れな存在と思います。所詮は大きな面積の田畑を持つ田舎者で、先天的と言いたいほど西欧人のような社交性が欠如し、社交辞令で局面を誤魔化す技術すら持ち合わせがないと思いました。

私は15日朝の何処の局だったかで青山繁晴が指摘していた「習近平の数々の無礼な振る舞いは単に言語道断であるのみならず、厳重に外務省から抗議すべきでは?」と思っていました。

だが、どうやら外務省は事前にあの扱いを承知していたかのように青山の解説が聞こえました。あの時の画面には非礼な握手の前では、習近平はカーテンの陰で一旦立ち止まり、それを誘導する手下の動きも出ていました。全てが筋書き通りだったのです。そのカーテンには日章旗が出ていないのも見破っていました。

もしも、外務省は未だにチャイナスクールのような者どもが先頭に立っており、事前にあの形での形だけの握手の場面を知られ、それを事前に総理に報告して習近平の企みの裏をかくシナリオを作っていたのだったならば、外務省を拍手喝采します。

ではなかったのならば、彼等は我が国を貶めるような中国の振る舞いを看過する気だったことになります。安倍総理がそのような突発の事態をよく我慢をされたとなってしまいませんか。

しかし、あの振る舞いが世界に向けて報じられたので中国と習近平は墓穴を掘ったという見方もあるでしょう。だが、外務省が看過して何も言わなかったのならば「今後もこれまで通りに日本を侮辱してままで良いのだ」という先例になりはしないかと危惧します。習近平の国内向けジェスチャーだったといういうなお為ごかしの報道を私は認めたくありません。

一部のマスコミ報道のように、中国の「日本も勉強になっただろう」などという戯言の言い分を嬉々として伝えているようでは、今後も甘く見られ続けるでしょう。中国から押し付けられた報道協定を墨守しているのだったならば、そう言って報道すれば良いのかなとすら思ってしまいます。

私は外務省は中国に対して「論争と対立を怖れ」ている間は、対中国の交渉だけではなく、北朝鮮を相手にした拉致問題の交渉は進む訳がないと危惧します。言うべき事を何者をも怖れずに言わないと、相手を動かすことは無理でしょう。一部の報道では伊原局長が語気を強めて「本当の調査をせよと迫った」とあります。これは当たり前のことが言えただけではありませんか。

即ち、外務省は対北朝鮮に向かっては国交回復が優先であり、以前から報道されていたように「拉致被害者の取り戻しは二義的である」という推定を証明しただけではないかと思えてなりません。私はビジネスの場では何度も何度も「貴方の気力と体力が持つかが心配だ」と得意先に気を遣って頂いたほどの「論争と対立」を経験していますが、外務省の方はどうなのでしょうか。

「こんな不愉快な交渉を長時間我々に強いた連中と晩飯など食えるか」と、会談終了後の当方の申し出を受け入れず文字通りに席を蹴って退出されたような経験がおありでしょうか。

我々は翌日の再会の確約をとってから別れ、翌日に手打ちに持って行けましたが。相手が本当に我が国(ビジネスならば自社)と切れても構わないのかくらいは読んでかかるべきだし、相手側だって腹は決まっているはず。そこが駆け引きでしょう。

それにしても、何で通訳がそれのみしか出来ないとしか思えない女性なのでしょうか。その女性がそこまでの全部の経緯と総理の秘密事項であるべき腹の内を事前に知らされているとは思えないのです。だからこそ私は責任がある担当者であっても「通訳もする当事者」と自称して、その場に臨んでいたのです。


◆國語は金甌無缺であった(4)

上西 俊雄


[拾遺]

辭書はよく地圖にたとへられる。間違があると困るが間違のない辭書はない。辭書に載ってない語もあれば地圖に載ってない道もある。地圖と實際が異なる場合はどうするか。If the map and the terrain disagree,trust the terrain. これは山岳に展開するスイス陸軍の知惠ださうだ。だから、地圖に載ってない道を利用することにも、載ってゐる道でも山崩れがあれば迂囘することにも何の遠慮もあるものか。

常用漢字表になくても必要があれば使ふべきだと思ふ。腹腔鏡下手術の一字を假名に開くと分かりやすくなるなどといふことはないのだ。腹を音で讀むか訓でよむかは漢字が連續するかどうかによって決まる。腹クウならハラクウになりかねない。Jの佛蘭西語音と英語音を書き分けるためにはジとヂを用ゐる以外にどんな方法があるといふのか。

多摩川でまた浚渫工事が始まってゐた。その案内版の説明に「街を洪水から守るため多摩川の土砂を取り除く」とあった。川の土砂を取り除くことなどできるものなのか。まさかマントルまでほるつもりもないだらうから、ここは文字通りに受け取るべきでない。さういふことを空氣を讀むというのか。要するに互にもたれあって何を言ひたいか理解するしかない。

かういふことが國際關係で通用しないことは最近よく言はれるやうになった。しかし、浚とか渫とかが使用してはならない字であるといふことを河川事務所の役人はどうして確かめたのだらう。

使用可能かどうかは、『大字典』にはでてゐない。文字コードをしらべるための三省堂の『大活字漢字辭典』には出てゐるけれど、10年前の刊行。その後常用漢字表が改訂になったことは知ってゐるし、文化廳の會議を傍聽して案の段階の資料は探せばあるはずだけれど、さういふものを引っ張りだすのは億劫だ。しかし、役人はさういふことをしなければならないのだとすれば、なんと無駄な作業を強いてゐることだらう。

露伴はつぎのやうなことを言ってゐる(雜誌科學ペン昭和14年1月號)


<「字」といふ字の意味が元來、孳乳繁殖を意味してゐて、社會の事物思想が段々と新生してくると、言語だの文字だのは隨應して増加して行くべき譯ですから、それを制限しようといふのは容易ではない。

幸に活字の世だから活字を潰して終へぼ其事も可能のやうだがね。子供が殖えると生活が辛くなるから、ドシドシ間引いて、そしてホルモン劑を澤山呑んで明朗に暮して行かうといふ世渡り法も賢いか知らぬが、それとこれとは同じにはならぬ。文字は減じ得ても言語は増さぬ譯には行かぬ。言葉は元來が耳に訴ヘるものだ、それを目に訴ヘるものにして長々しく示されるやうになる。>

『大字典』には「會意形聲。本義は家の中にて子を生むこと」とある。少子化對策といふが、「字」をつぶしてゐてはそれもあぶないではないかと思ふ。上田萬年明治38年7月の文には

<第五の誤解は、世の中の論者は、何ぞといふと漢字の問題に付して、日本は普通教育に於ても、漢字を充分に教へなければならぬ、又其漢字の假名遣の如きものも、成るべく昔通りのものを教へなければならぬ、といふやうな事を論ずる。

其理由を聽くと、清韓教育の爲に、白本人は今後大に仕事をしなければならぬのであッて、清韓教育の爲めには、漢字の智識或は舊來の字音假名遣の如きは、非常に必要なものである、と斯う云ふ事を言ッて居る。

其議論は一應は尤もの樣だが、併ながら其智識は中等教育以上を受けられる人に向ッて望み得べきことであッて、普通教育を以て終る人々に、斯う云ふやうな事は決して望まれないのである。

言換へて見れば、專門教育の上に於て、此知識は充分に養成する價値はあるが、普通教育の上に於ては、斯樣な知識は決して要らないのである。

我々日本人の大多數は、四ヶ年間の教育を以て滿足しなければならぬことであッて、此四年間の教育を以て、日常の生活をして行く所のものである。其者に清韓教育の爲に必要であるといふ主義から、決して御相伴的に、漢字や字音假名遣の知識を注入される必要は無いと思ふ。

是は普通教育に從事する人は、能く知ッて居ることであらうと思ふ。又一たび教育に從事したことがあれば、此位な考は必ず持たなければならぬ事であらうと思ふ。然るに論者の中には此見易き理窟が分らぬで、清韓教育の基礎を普通教育で養はうとにやうな事を言ふ人があるのは、如何にも怪むべき次第であると思ふ。>

といふところがある。漢字制限が4年で終了する兒童のためであったのなら、小中一貫教育が議論される現在では、この立場は當然見直されるべきではないか。

とにかく役所が漢字の學年配當までする御時世。世間の人が言葉をつかふにオドオドしてくるのは當然かもしれない。「龍卷のやうなもの」といふは、役所で定義してくれなくては、どういってよいか不安なのだと思ふ。何日も經って見つかった遺體について心拍停止状態と表現する。

刃物といはず、刃物のやうなものといふ。包丁のやうなものならわかるが刃物はさういふものの總稱だから、元來形をいふことはできないものなのではないか。

スケートの羽生選手が「日本に歸國する」といふのも、歸國といふ語に自信がないせいではないかと思ふ。

負傷といふところを怪我といふアナウンサーが多い。事件に卷き込まれた場合でも怪我だから、まるで本人の自己責任のやうに聽こえる。負も傷も表外字ではない。いや教育漢字であって、負は小學校3年から、傷は小學校6年から使用可能と10年前の辭典にでてゐる。

かういふことを確かめるのが面倒だから、漢語のヒビキの強い語は敬遠しておくに限るといふやうな風潮がはびこってしまったのではあるまいか。

とにかく、新聞の紙面でも、この「頂門の一針」ですら、職業的批評家ともあらう方々が、いや職業的であるからこそかも知れないけれど、漢字制限を守らんとして交ぜ書きをしてゐること、驚くほどだ。

鹿兒島で讀んだ新聞によれば新聞各社の用語・校閲の責任者の會議があって、文化廳の國語に關する意識調査のことが話題になったらしい。この意識調査については「流れに棹さすといふ表現について」3286號(26.4.26)で批判したのであるが、伊澤修二は政府機關がこのやうな調査をやること自體無意味であるとする。そこのところを引く。

<國語調査會でこの頃音韻調査報告書といふものを編纂して、之を世に公にした。之は失禮な申分ではあるが、何の價もないものだと思ふ。先づ其の始めにアーと云ふ語を言ふにアーとアアとどちらが多いかと云ふことを取調べて居る。本來此くの如き種類の調査は音韻專門の學者某々がどう云ふ種類の人何千何百人からその材料を採つたかが、明確でなければ、何の信用も措かれない。

どう云ふ社會の發音をどのやうにして調査したと云ふことが明にされてあれば、學術上の參考にもならうが、今の分では全く價値のないものである、若し進んで少し細かに批評をするとなれば、隨分他にも云ふべきことは多いが、それは餘りに專門的になるから茲では云はぬ、唯一つ云つて止めよう、この内にかういふことがある。


「お前の國にはヂジのどちらがあるか、或は混じて用ゐて居るか、一つだけ用ゐて居るか」と云ふやうな問ひがある、多くの府縣から出た所では、ジはあるが、ヂはないと云つて居る。それには Ji ジ Dji ヂと羅馬字で書いて居るもある。

其の内宮崎縣では兩方あるといつて居る。それは尤である。──これは私も多年注意をした問題で、一夏宮崎縣にいつて、態々取調べたことがある。宮崎ではフジの山、フヂの花これが明に言ひ分けられる。

吾々の云ふフヂの花と云ふ發音と、宮崎の人の云ふフヂの花のヂとは別に違つては居らぬ。シに濁りを打つたジ即ちフジの山のジは日薩隅の外にはないのである。然るにこの報告では全く反對である。

他の各縣では大抵ジはあるがヂはないと答へて居る。この奇なる間違も羅馬字を用ゐる、支度からの出來事と見れば譯が了る。それは英語を標準とする羅馬字では、ジを ji と普通書いて居る。ji をジに當てたためにヂに當てるものに困つて dji としたのであらうが、dji と云ふやうな音は日本國中さがしても、古今に渉り決してありますまい。實はジと云ふ音は英音の羅馬字に書き現はすことは出來ないのだ。獨立したジの音は英國にはないのである。唯々 azure pleasure と云ふ如き場合に出る S は Z の音である、此に對する音韻學者の責任ある説明を私は承りたいのである。これ位で學術方面のことは置かう>


後半、筆者がなんども繰り返し述べてきたことが、實地調査を踏まえて書いてあるではないか。

國語學の教授だった先輩に擴張ヘボン式の説明を送ったところ、戰前にかういふ説があれば戰後の表記改革はなかったかもしれないと言はれた。伊澤論文を讀めば、戰前にあったではありませんかといふところ。

いや、だから戰前は五十音圖が破壞されることはなかった。破壞されたのは敗戰の混亂に表記改革論者が便乘したからにすぎない。伊澤論文がなぜ埋もれて來たのか、檢索にもかからないのか不思議でならない。

國語に役所が箍をはめてゐることが國語の、延いては國民の生氣を奪ふものだと思ふものであるが、費用の面でも大きいはずだ。外國に日本語教師を派遣する。おそらく戰後の日本語と決めつけた教へ方なのだらう。もし、さうであれば、日本文化を知りたくて日本語を學ばうとする人にとっては邪魔なだけだ。

伊澤修二は高等師範學校長であった。實務上の立場から當時の表記規制を批判してゐるところを引く。

<私は當時文部の一部分である高等師範學校長をして居たから、高等教育會議員の一員でもあつたのであるから、高等教育會議に諮問でもあれば、勿論其の議に與らなくてはならぬ筈だが、一向そんな事はなかつた。又聞く所によれば、當時文部省内に設けられて居た國語取調委員にも更に諮問はなかつたといふことである。

又高等師範學校長などに問ふべき問題でないかも知らないが、勿論その方でも自分は問はれた覺えもない。たゞ彼の省令の公布と共に今度かう云ふ假名遣にすると云ふことを官報で見て知つたに止まつて居た。それが即ち今日有名になつた棒引の假名遣にすると云ふことであつた。

私は自分の職掌上からも、此の如きものが出た以上は先づ行はるゝか否か、試驗をして見なければならぬと考へた。愈々これを試驗するとすれば、附屬小學校がその職分として試みねばならぬ。

依つて高等師範學校の教員を以て委員會を組織し、前後數十囘の會議を開いて、その改正通りに行つて見ようと云ふ方案を取調べた。その時既に棒引の假名遣に餘程議論があつて、漢字音だけの棒引ならば、行はれないことはないだらうが、國語假名遣まで棒引にすると云ふことになつたならば、とても行くまい。

況んや子供は漢字音か國語か了からないのであるから、遂には一緒になつてしまうであらうと云ふ議論であつた。兎に角に文部省で出した以上は、試驗して見ねばならぬと云ふので、遂に一種の方案を立てゝやりかけたのであつた。

然るに果して棒引のものが國語のものに這入つて來ると云ふ始末で、國語の方を字音につき合つて棒引にするか、或は棒引を止めるかと云ふことは、高等師範のみならず、他の方面に於ても、教育者の均しく認むる所となつて、利害得失の研究中、その結果の分からぬにも拘らず、文部當局者は法令を楯に取り、政治上の力に依りて、早くも33年の冬には、一般の教科書屋に命じて、小學校教科書はみなこの棒引假名遣に改めさせて、34年の四月よりこれを全國に強行した。これは全く事實である。

尤もその當時吾輩の考には高等小學校に及ぼさうと云ふ考へもなく、中學校にまで及ぼさうなどゝ云ふ考へは勿論なかつた。唯々高等師範でこれを取調べた時には尋常小學校の咄し言葉だけには用ゐてもよからうと云ふことだけはかつかつ一致が出來たが、その以上の所に行はふといふことはすこしもきまつても居なかつた。

所が今日は進で一般の學者教育者に著述出版を禁じ官府の專有に歸したる、所謂國定教科書にも此の棒引假名を使用して、全國に強行するに至つたのである。抑政府には官報上に公式を以て發布する文書を始とし、自ら一定の假名遣の存するものあるに、同じ政府より發行する官文書とも見るべき小學校用教科書に限り、假名遣を定め全く異例の、シカモ、これを全國に強行するといふ權利が文部大臣にあるか、どうかと云ふことは一考を價することゝ思ふ。

それはともかく政治上の疑問なれば、政治家の判斷に任せるとしてさて、吾々の堪へ難ぎは、今日吾々の子弟は棒引の、日本語でも何でもないものを日々教へられて、これに服從しつゝあるのである。かゝる無邪氣な無罪な無力なる小學兒童のためにこそ吾々は飽くまで盡力せねばならぬ、と決心をして居る次第である。

然るに今年はそれよりも一層過劇な案を立てゝ、教育上最高諮問機關たる高等教育會議に諮詢をして、これを全國に布かうとした。即ち小學校は無論のこと、中學校以上にまでも行はうと云ふ諮問案が出たのである。而して在野の吾々にまでも諮問せられた。

吾々は文部に答へる前に世間の學者教育者はもとよりのこと、經世家、政治家の考をも聞きたいと思つて居つた。所で今日は自らが自分の考へを陳べるに最も適當な場合であると思ふ──そこで若し彼の二號表よりも今一層過劇な、今一層恐るべき諮問案を高等教育會議で可と決したならば、今日の文部大臣は或は斷行したかもしれないのである。然るに同會議では、かういふ問題は吾々に了からないから、暫く決議を延べて貰ひたいといふので延期になつたから、今日ではまだ小學校以上に之を行ふことはせぬやうだが、從來餘り高等教育會議に重きを置かぬ文部省のことなれば、いつ何時斷行するかは何人も請け合ふことが出來まいと思ふ。>

敕撰和歌集も、枕の草子も源氏物語も國語を金甌無缺たらしめるための裝置であった。

日本語の五母音體系といふものが安定してゐたといふことも與ってゐると思ふけれど、清濁といふことを清音に疊み込むといふ假名の手法も、また五十音圖の行といふパラダイム(活用表)も無關係ではなかったはずだ。

伊澤修二は「恰も我が金甌無缺の國體に、革命的歴史のあらざる如く、我が言靈のさきはふ國語にも、曾て破壞的の歴史を見出さぬのは誠に喜ぶべき現象ではござらぬ歟。」と言ったけれど、戰後の表記改革はいはれなく國語の傳統に楔を打ち込んで未だに我々は正書法を失ったままだ。

國語は「その變遷も推移も、みな自然の理法に隨つていつとなく、徐々と發展し來りたる者」なのだから役所が手をだしてはいけなかったのだ。

以上、縷縷述べてきた。國語は金甌無缺であったと過去形であることの無念を思へ。

2014年11月15日

◆習近平の特別専用機で象牙を密輸

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)11月14日(金曜日)通巻第4393号 >  

 
〜習近平の特別専用機に象牙を積み込んで密輸した黒幕は誰だ?
  国際ルールを平然と無視し、私益にはしる利権集団が存在する〜


世界的な大問題となって、多くが眉をひそめた。


自然動物保護は欧米では深刻なイッシューになっているが、アフリカで野生の象を密漁し、象牙を大量に捕獲して密売する犯罪グループが習近平専用機の「特権」を利用して搭載し、中国へ持ち帰っていた事実は日本のマスコミも伝えた。

黒幕は誰か?

第一に軍の関与が指摘されている。現地の密漁グループと強いコネクションが必要であり、第二に当該国家の政府高官と深いつながりがなければ空港内へ堂々と持ち込んだりはできないだろう。第三は習近平に気づかれないうちに機内の貨物室に積み込むわけだから、専用機乗組員の共犯者がいるであろう。

つまり、大がかりな利権集団の暗躍がある筈である。

黒幕は誰か?

政治局常務委員の某高官が絡んでいるとすっぱ抜いたのは米国ででている華字紙「博訊新聞網」(2014年11月10日)である。

同紙に拠れば令計画が習近平に嫌がらせをするために、この情報をロンドンのメディア(ロンドングローブ)に曝露したという。

当時、令計画は中央弁事処主任(大統領特別補佐官のトップに匹敵)であり、政治局常務員らの日程を具体的に把握できる立場にあった。

誰がアフリカ訪問を繰り返しているか、具体的には数回にわたって、象牙が中国海軍の艦船にも搭載され中国に密輸されていた証拠も掴んでいたという。

警備局長の要職にあったのは令計画の部下の周生賢で、彼は林業総局長を経て、現在は環境保護部長(環境庁長官)、周はいってみれば環境保護の先頭にたって、密輸を取りしまる。周は令計画の筆頭の子分だという。

2013年3月、習近平が国家主席となるや、首席補佐官の座は栗戦書に引き継がれ、しかも当時の令計画は息子のスキャンダルが暴かれて閑職に追いやられた。

そこで、令一味は、習近平特別機の象牙密輸の情報をつかみ、英米の媒体にばらまいたのだという。

しかし、こうしたがガセネタを西側のマスコミは検証なしには報道しない。

西側マスコミと環境保護団体はアフリカでの調査に乗り出した。当該アフリカの沿岸部で象牙の取引価格が急膨張している証拠は挙がった。しかし習の特別機に積み込まれたとする証拠は挙がらなかった。現場写真もない。

事件から1年半が経過して、環境団体の調査というかたちで象牙密輸事件が報道された。ちょうど北京APEC、習の晴れ舞台に泥を塗るには格好のタイミングだった。
 

◆「日本の技」台風に負けない屋根

吉村 英輝



台風で多くの犠牲者を出したフィリピン中部のレイテ島で、山梨県からきた2人の職人が「どんな台風にも飛ばされない屋根」の作り方を現地の若者に指導している。台風上陸から1年の節目に、日本の国際協力機構(JICA)が始めた支援の現場を訪ねた。

中心都市タクロバンから車で約1時間のドゥラグ地区。台風で全半壊した高校は復旧途中だ。強い日差しの中、臼井克也さん(42)が溶接技術を指導していた。「正確な寸法のとり方、状況に応じた施工の知恵を学んでほしい」という。

1年前の台風の際、この高校では、生徒たちは完成して間もない建物に避難。だが、唯一屋根が残ったのは、20年以上前に日本が建設した校舎のみだった。全員がその建物に逃げ込んで台風が過ぎ去るのを待った。

臼井さんの仕事仲間で、共に指導にあたる日本在住32年のフィリピン人男性、ノエル・ワタナベさん(51)は、「基本に従った設計と施工なら、どんな台風でも飛ばない屋根が現地の材料でもできる」と強調。日本仕込みの“職人精神”をたたき込むと意気込む。

現地の現場監督は「資材の強度確認や下準備など、日本のやり方は時間がかかる。だが、避難施設にもなる学校はそれで強くなる」と語っていた。指導は2カ月間続く。産経ニュース【外信コラム】

◆拉致解決には新たな体制が必要

櫻井よしこ



第1次安倍政権で拉致担当首相補佐官を務めた中山恭子参院議員は、外務省主導の現在の対北朝鮮交渉は拉致問題を横に置いて国交正常化を優先するものだと、10月31日、「言論テレビ」で厳しく指摘した。

「外務省には、拉致被害者が犠牲になっても致し方ないという方針が従来からあります。2002年、平壌宣言を出した当時の国会論議で、たった10人の(拉致被害者の)ために日朝国交正常化が遅れるという声が外務省高官から出ました。国会議員の中にもそれ(拉致よりも国交正常化優先)で行こうという動きがありました。蓮池さんら5人が帰国するまでそうでした」

5人の帰国で、拉致被害者の存在とその悲劇が国民に浸透した。「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」という当時の小泉純一郎首相の主張は、その段階で日本の世論となった。しかしいま、これが反古にされ、元の外務省の悪しき路線に戻っているとの氏の分析は、日朝交渉の現状を見れば極めて正しい。

5月29日に日朝両政府の発表したストックホルム合意には、日本側の責務として、?不幸な過去を清算し国交正常化を実現する、?北朝鮮の特別調査委員会による調査開始段階で、人的往来、送金、船の入港などの規制を解除する、などと書いてある。

他方、北朝鮮の責務として、?日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、日本人妻、拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する全面的調査を行う、?調査は全ての分野を同時並行的に行う、とある。

日本が過去の植民地政策を反省、清算し、日朝国交を樹立することが先決だとしているのである。国交正常化に伴って、1兆円ともいわれる巨額資金が支払われるとの情報も流布されてきた。拉致問題を解決する考えなどなく、遺骨問題などを同時進行で調査することを隠れ蓑にして、まず日本の資金を手に入れようとする北朝鮮の狙いが透けて見える。

遺骨ビジネス

日本外務省は、そうした彼らの思惑に呼応するかのように、北朝鮮側の調査開始時点で、拉致問題のためにかけていた厳しい制裁措置を解除すると謳ったのだ。中山氏が指摘する。

「全世界が実行している対北朝鮮制裁措置は核、ミサイル問題で国連主導でかけたものです。日本はそれに追加して拉致問題ゆえに、人の往来や送金、船舶入港に関して制裁しました。

ところが5月の合意後、北朝鮮が特 別調査委員会を立ち上げただけで、結果も出していないのに、日本政府は 制裁を解除しました。制裁本来の目的から外れ、北朝鮮の言葉だけの合意 に心を許し、譲歩しているのです」

全懸案の調査が同時進行する中で、米国の遺骨収集の基準に準ずれば一柱2万ドル、約200万円とされる遺骨引き渡しが始まり、彼らの外貨稼ぎに利用される危険性がある。眠っているのは約2万柱、約400億円に上る。中山氏は、アメリカ政府も北朝鮮との遺骨問題を「遺骨ビジネス」と呼んでいると強調した。

「アメリカの方から伺った限りでは、もう本当に酷いというのです。お骨の一片を持って来て2万ドルを要求する。付き合い切れないということで、アメリカは遺骨探しを中断していると伺っています。アメリカに替わって、いま、日本がこのビジネスの対象になっているのです」

それにしても、理解し難いことがある。一連の事情の中で変わらない真実は、北朝鮮が喉から手が出る程資金を欲しがっていること、日本側が拉致被害者全員の帰国を目指していることである。

乗り越えなければ日本の資金など手に出来ないはずの拉致問題を、彼らはなぜ解決しようとしないのか。拉致問題が解決すれば、遺骨返還金どころか国交正常化で多額の資金が手に入る。対中関係の悪化、韓国の支援中止で、外貨獲得の可能性があるのは、日本との関係改善の道だけだ。この疑問は中山氏の説明で氷解した。

「今年初めの情報で、北朝鮮は拉致問題の解決を急がないと日本は動かないという相当な緊迫感を持っていると、私は承知していました。ところが外務省と交渉を始めてみたら、どうも違う。非常に甘い。どうやら拉致問題に手をつけなくても、相当な資金を手にする術があると彼らは感じ始めた。それで5月の日朝合意を押し切った。そのとき彼らは内々、勝利宣言をしたと思います」

今回、北朝鮮がゼロ回答で応じた理由であろう。

「外務省の対北交渉は完全な敗北の連続です。本当に弄ばれている印象を強く持ちます。外務省には拉致被害者救出はできません。正確に言えば、それは外務省の仕事ではありませんし、彼らには海外で問題に巻き込まれた日本人を救出するという発想もありません」

こう厳しく断言した中山氏は、02年に帰国した5人を当時の安倍晋三官房副長官らが中心になって「国家の意思」で残すと決定し、北朝鮮に戻さなかった状況を振りかえった。

日本は国家なのか

「たった12年前ですが、全国から大変な非難が起きました。今では考えられませんが、あのときまで、国家という言葉は日本では禁句でした。特に『国防』という言葉は使えなかった。政府が国として国民、国土を守るという表現は、敗戦後、全くできなくなっていたと言っても過言ではないと思います。

外務省は非常によく出来る方々の集団ですから、現行憲法に 則って、日本国とか国家という単語を使わずに、近隣諸国と友好関係を結 ぶのが自らの役割だと考えていると思うのです」

その延長線上に今回の日朝合意がある。拉致問題が発覚したとき、横田早紀江さんが「日本は一体、国家なのか。国民を救うのが国の役割のはずなのに何故、救えないのか」と訴えた。

それを聞いたとき、私は、戦後初め て日本人が国の役割を自覚させられたと感じたが、中山氏の指摘も同様の 意味を持つ。外務省だけが、まだそれ以前の次元にとどまっているのであ る。中山氏が穏やかな口調で語った。

「拉致問題解決を外務省に求めるのは、或る意味、酷な話です。日本側の交渉担当者を交替させ、解除した制裁も再度かける必要があるでしょう。警察、公安、民間の専門家なども交えて共同で救出に当たらなければならないと考えます」

かつて、5人の被害者を北朝鮮に一旦戻そうとした田中均アジア大洋州局長(当時)らに抗って、国家の決断として日本に残したのは安倍現首相であり、齋木昭隆現外務次官だ。北朝鮮内部の複雑な事情もあり、拉致問題の解決は困難を極める。

しかし、北朝鮮の場合、帰国させようとの決断が なされれば、一気に動き出す。それを促すために、これまで安倍首相は厳 しい制裁措置を取ってきた。その原点に立ち戻り、態勢を整え直すことが 大事である。
『週刊新潮』 2014年11月13日号2014.11.13 (木)
日本ルネッサンス 第630回

◆私の「身辺雑記」(161)

平井 修一


■11月11日(火)。朝は室温17度、曇、ちょっと寒い、フル散歩。

まいったなあ、日中首脳が目も合わさずにではあれ、とりあえず握手するなんて。うーん、小生は来年には中共を壊滅できると楽しみしていたのに、とりあえず反日の矛を収めた習近平、中共は3年、下手をすると5年ぐらい生き延びるのかもしれない。困った。とても困惑している。

習が人気とり、支持拡大のために大暴れして海上民兵で日本を攻撃する→巡視船同士で撃ち合いになる→軍が出動して衝突する→中共海軍が壊滅する→人民が怒り大暴動になる→中共幹部が殺される→中共崩壊→各省地方政府が 独立する。

この青写真、シナリオはパーになるかもしれない。どうしたらいいか。

宮家邦彦氏の論考「外交文章から読み解く歴史的一歩の日中合意」(JBプレス11/9)から。

<過去数年間、(日中の)シンポジウムでは、中国側が日本の歴史問題と尖閣問題を執拗に取り上げ、日本側がその防戦に努めるという、実に生産性の低い議論を何度も繰り返してきた。

それが今回(氏が参加したシンポで)は誰もが、「良いニュースだ、本当に嬉しい、日中相互批判はやめよう、関係改善に期待する」などと言い出したのだ。

「四点合意文書」の基本的性格から考えてみよう。

まず、少なくとも、これは外交文書ではない。狭義の「外交文書」が国家を代表する者による署名のある、国際法上の履行義務が生ずる「国際約束」であるとすれば、今回の文書は、法的ではなく、政治的な拘束力を持つ「外交的文書のようなもの」と言うべきだ。

それが証拠に、そもそも日中両政府が発表した4種類の文言はそれぞれ完全に同一ではない。11月7日に日本の外務省が発表した和文と英文は、同日中国外務省が発表した中文と英文と似ているようで、微妙に異なっているのだ。

「合意ではない」などとは言わない。両政府の考え方と表現振りが微妙に違うのだ。

11月7日に日中両国政府が交わした「四点合意」なるものの実態(文言の微妙な違い)は以上のとおりだ(略)。それでは、宮家ならどう解釈するのか。お前の独断と偏見を書いてみろ、とお叱りを受けるかもしれない。もちろん筆者にも個人的意見はあるが、今回筆者はこれについて「正しい」解釈を書くつもりは一切ない。

なぜならば、この「合意」または「意見の一致」については、単一の「正しい」解釈など存在しないし、また、そんなものは存在すべきでないと信ずるからである。

そもそも、外交上の了解や合意には一定の「曖昧さ」が付き物であり、特に重要なものについては「戦略的曖昧さ」が必要となる。

こうした「戦略的曖昧さ」こそは合意や了解に生命を与え、その長寿を保証する重要な要素だ。今回の日中間の「意見の一致」は、過去数年間の意見の相違と摩擦を日中両政府が漸く乗り越え、今後の新しい均衡点へと両国を導く極めて重要な一里塚となり得るものであり、またそうでなければならない。

両国間に「agree to disagree」が必要であることを、日中両国政府だけでなく、日中双方の国民も正確に理解しなければならない。この合意が日中関係の将来に持ち得る戦略的重要性に鑑みれば、今回どちらがより強く原則を貫いたか、どちらがより多く譲歩したか、といった問題など枝葉末節なのである>(以上)

              ・・・

「見解の相違があることを了解する」ということなのだが、中共マスコミは「勝った、勝った!」と国民に説いている。日本の論壇では「痛恨のオウンゴール」「国家100年を毀損する失策」という「大負けだ!」との論もあれば、上記の宮家氏のように「とりあえず停戦したのだから、それでいい、前進だ」という論もある。

中共が周辺国と停戦し、休戦し、やがて講和となり、その過程で中共が複数政党制とか参政権などを認めるかもしれない(ソ連崩壊後のように)。万が一にもそうなったら、「中共殲滅、支那解放」のソフトランディングなのだが、「焦土と血の中から国家は生まれる」と思っている小生には、新しい支那の国はハードランディングの難産で生まれてほしいと思う。

まあ「四点合意」で習がいつまで大人しくしているかは分からない。そのうち暴れまくるかもしれない。しばらくは様子見だ。ちょっと、というか大いに残念ではある。

■11月12日(水)。夕べは寒かったし洗濯物を乾かすためにも暖房をつけて寝たので朝は室温20度。曇ときどき微雨、ちょっと寒いがフル散歩。初冬という感じ。

5%から8%に消費税が上がっただけで消費が減退している。総務省の家計消費状況調査(支出関連項目:2人以上の世帯)9月分速報によると、支出総額331,406円、名目で0.8%の増加、実質で3.0%の減少だ。64の調査項目で48項目が実質マイナス、プラスはたったの16項目だった(前年同月比)。

この調査は購入頻度が少ない高額な商品・サービス等への支出を調査することを主な目的にしているのだが、エアコン49.3%減、冷蔵庫26.1%減、パック旅行費(外国)20.4%減、自動車(新車)6.0%減という具合。

日本人は蚤の心臓なのか。ケチなのか。余裕がないのか。しかし携帯電話使用料や衛星デジタル放送視聴料はそれぞれ5.1%、8.1%と伸びている。

参考情報として「インターネットを通じて注文をした世帯当たりの支出金額」が掲載されているが、2万5752円で10.4%増だ。

スマホで遊んで、テレビを楽しみ、通販で買い物。円安だから海外旅行は控える。なにか内向きな感じだ。引き篭りみたいで、今一つ元気がない。

東京ディズニーリゾートの今年度上半期(4〜9月)の入園者数は前年同期比1.7%減だった。一億総ヒッキー。今、国民が発奮して消費を盛り上げないとまずいのじゃないか。

今朝の産経は「消費税再増税見送り、年内総選挙」と報じていた。増税見送りは妥当だが、総選挙は「?」、何のためか分からない。

■11月13日(木)。朝は室温17度、快晴、温暖、フル散歩。

アベノmix-upだな。「混乱」ということ。アップアップ? 池田教に配慮しての総選挙か。総選挙をするほどの、まともな争点なんてありゃあしない。難問山積なのに・・・投票率が恐ろしく低いだろうから自公、共産に有利ということか。安倍たちは何を考えているのか、高2レベルの小生には分からない。

ネトウヨは「何なのだ」とド白けだろう。バカバカしくて多分投票しないだろう。安倍、自民に愛想を尽かすだろう。大体、靖国に8.15に参拝しない総理なんて魅力がない。

ここで田母神や慎太郎が踏ん張ればネトウヨの支持を得られるだろう。「日本でも極右躍進」と海外メディアは報じるだろう。以下の公約は効き目があるはずだ。

「在日外国人への生活保護禁止」「移民受け入れ反対」「安楽死認可」「専業主婦をいじめるな」「GHQ憲法を捨てて本物の自主憲法を」「外形標準課税促進」「家制度の復活を」「社会保障は60歳未満を優先せよ」「建設現場で囚人を働かせろ」「原発再稼働」「中共殲滅、支那解放へ」「核武装」「レッドパージ」

まあ他にも拉致、竹島、北方四島などいろいろあるけれど、いずれも「奪還」マターで、戦争を覚悟しなくてはならない。難しい問題だ。拉致被害者はどこかの施設にまとまって収容されていると思うのだが、そういう情報を政府は得ているのかどうか。襲撃して取り戻すしかないのではないか。

■11月14日(金)。朝は室温14度、今季最低。快晴だが手袋が欲しいくらい冷たい、フル散歩。

週刊文春によるとサンゴ密漁船に対して海上保安庁の特殊警備隊SSTが投入されたそうだ。「ヘリコプターで出動。密漁を行う中国漁船の真上からロープを伝って降下すると、軽機関拳銃を構えて船内に突入、包丁やモリなどで激しく抵抗する中国漁民を制圧し、横須賀へ連行した」という。SSTについて海保のサイトで調べたらこうあった。

<実戦出動回数としては日本の特殊部隊の中で最多を誇り、日本最強の特殊部隊と言っても過言ではありません。

ヘリコプターからリペリング(ヘリから降ろされたロープを使って滑り降りる)による降下、巡視艇、高速艇などによる強行接舷、気泡が出ない循環式潜水器を使用した潜水による接近などによって対象船舶に乗り込み、上記装備等を使用して犯人を制圧します。突入に際しては、公開されている限り自動小銃4名、拳銃4名の編成をとることが多いようです。

詳細については公表されていないため、推測の部分が入っています>

頼もしい。一罰百戒、暴支膺懲を!(2014/11/14)

◆『吉井さんですか?』

室 佳之


1か月ほど前に、突然知らない番号から電話があり、仕事に忙しい時で、ひょっとして緊急の電話かと思い、つい出てしまったらそう訊かれた。

咄嗟に『いえ、違います』と云ってすぐに切ってしまった。直後にメールが入ってきて、

『よしいさん 久しぶりです。高麗大学のJSです』と書かれていた。小生の名前は『佳之(よしゆき)』で、韓国留学中の呼び名は『ヨシ』だった。

ハングルの読み方とは難しいもので、彼の国での発音を日本の仮名にすると、『ヨシイ』と母音を伸ばす感覚になるらしい。こちとらてっきり間違い電話かと思ったが、実は小生宛てで正しかったのだ。

彼のメールの続きは、1年以上前から日本の韓国大使館に出向中とのこと。YMと結婚後お子さんを生んで、てんやわんやだったから連絡できなかったそうな。

JS(夫)とYM(妻)は小生が出会った1999年には既に付き合っており、その後11年の恋愛の末、4年前かに結婚した。彼等とは小生が99年度に留学した際、朝鮮伝統打楽器サークルで親しくなった。小生は、日本で97年度入学で、JSとYMも97年度生、韓国式に云えば『97学番(クーチルハクポン)』、同学年ということで自然と仲良くなった。

JSのことは、6年前の頂門の一針1,063号にて、ちらっと触れたことがある。李明博政権発足直前に小生が久方ぶりに渡韓した際、国家公務員の立場にあった彼は、李次期政権が掲げる省庁再編に戦々恐々としており、自分の椅子がなくなるのではないかと嘆いていた。そんな彼からの便りだったので、じゃぁウチに来いよ、と云って日時を合わせて拙宅で食事会となった。

家内は、恐らく韓国人と話をするのは初めて。元々、台湾関係の仕事をしているし、韓国にはやや批判的。正直、拙宅に韓国人を招待するのは冒険かとも思った。

ふたを開けてみれば、そんな心配はどこへやら、JSとYMにその娘さん、そこに小生と家内の5人が不思議な輪を作っていた。

『不思議な輪』というのは、言葉の面でのことである。留学中は、当然のごとく、彼等と小生の会話はすべて韓国語で、ボケたりツッコんだりの遠慮ないやりあいだった。

しかし、今回は家内が韓国語の『か』の字も知らない。JSは仕事で来ているから日本語はほぼ問題なし。一方YMは頑張って日本語を習っていて、家内自慢の卯の花に入っていた具材を見て『牛蒡デスネ。牛蒡ハ日本デ初メテ食ベマシタ。韓国ニハアリマセン』と云って、拙いながらも色々と勉強していて大変な驚きだった。おかげで日韓チャンポンで暖かく、ほんわかとした場となった。

ちなみにYMは、出会った中で最も強烈な女性なのだが、留学中はそのお転婆ぶり、天真爛漫ぶりに驚いたものだ。それが、どうだろう、一児の母となり、海外へ来て見れば、随分と大人しくなった。それを指摘したら、家内に向かって『コレガ本当ノ私ノ姿デス』と日本語でここぞとばかりに往年のYMぶりを見せてきた。

JSとYMとは、留学中によく行動を共にした。クリスマスイヴの日も、『ヨシが一人で寂しいだろうから』と余計なお世話だったが小生の下宿先へ遊びに来てくれた。

2人は異常なまでに仲睦まじいが、それでいて嫌みがなかった。そんなJSが2,000年の年明けに徴兵のため軍隊生活に入った。

直後に、とある事件が起きた。ある晩、寝しなに突然小生の部屋のドアをドンドン叩く音がしたかと思うと『ヨシィィ!!』と叫ぶ女の声。それを取り巻く数人の男のひそひそ声。怪しい事件のようだが、戸を開けてみれば、YMが数人の後輩らしき男子学生に担がれて泥酔していた。

後輩の男子学生達は初対面だったが、YMに指示されて、ここまで担いで来たらしい。

『ヨシ先輩、夜分にすみません、YM姉さんがここにと云われたので、、、』とのことで、YMはドサッと部屋の中で突っ伏した。後輩たちは、申し訳なさそうに帰っていった。

その後のYMときたら、突っ伏したまま酔った勢いで大声出したかと思えば、はたまた号泣するは、しまいには食べ物を吐き出して、小生が始末する羽目になった。当人はそのまま涙を流しながらいつのまにやらグゥスカ寝てしまった。つまり、JSとの別れが耐えられなかったのだ。

この時、初めて徴兵制度とはこういうことなのかと知った。韓国は、未だ北朝鮮と戦争状態の国にある。戦争なく平和だけを叫んでいる日本とは到底比較にならない。そんなことをヒシヒシと感じた一件だった。

今回二人にあの時の事件を話したが、JSはそんな一件を全く知らなかったそうだ。JSに限らず、韓国では軍隊へ行った当人の知らないところで、家族や身近な人たちは言葉に表せないほど悲しんでいるのだろう。徴兵制とはそういうものなのだと思う。

余談だが、YMが散々わめき散らした明くる朝、我々サークルでの集まりがあったのだが、小生とYMはすっかり忘れていて、中華の出前を取って食べ ていた。サークル仲間から電話がかかり、

『何やってんだ、とっくに過ぎてるぞ』

『いやぁ、そのぉ、実はYMが昨晩からウチにいてね、、、』

『なんだと!?おい、みんな!YMがヨシのウチにいるってよ!!おい、ヨシどういうことなんだ?』

と訊かれてとっさに答えたセリフが、

『それが、実は、ちょいと複雑な事情があって、、、、』

と云ってしまったのが火に油というやつで、

『なにぃ!?おい、みんな!複雑な事情だとよ!!!』

と受話器の向こうで仲間同士ワイワイやっているのが聞こえた。我ながら拙い韓国語がかえって面白いやり取りとなってしまった。

さて、今回再会して、大使館出向のJSから意外な発言があった。彼はしっかりとした日本語で『韓国はまだ発展途上で、、、』と数回発していた。JSのなかでは、自国は未だ日本に及ばないどころか、発展途上の国と捉えているのだった。ここら辺は、最近の嫌韓風潮にある韓国像の論調とやや異なるのではないかと思う。メディアや政府高官の居丈高な態度と異なり、政府官僚と云えど現場目線で動いているし、小生のような気心許せる間柄
だからか本音が云えたのかもしれない。

小生はかねてより、このあたりが韓国の実情ではないかと勝手に推測している。メディアや政治家の反日姿勢と異なり、現場で接している人や一般の韓国人はもう少し冷静に日本を見ているのではないか。嫌韓論調が間違っているとも思わないが、全て正しいとも思えないのだ。

JS
からは眞露の最高級酒『乙』を土産にいただき、最近は晩酌にロックで楽しんでいる。お返しにこちらは、懇意にしている豆腐屋の絶品のお豆腐とこれまた懇意にしている和装小物店で選んだ手拭いを土産に持たせた。今度は彼らが自宅に招待してくれるという。どんなもてなしをしてくれるか楽しみである。

    

◆木津川だより 壬申の乱A

白井 繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町