2014年11月06日

◆ピエロは笑わない:在特会

MoMotarou



やはり大阪でのド突き漫才以降、急激に売り上げが伸びているとのことでした。市長自らの宣伝協力に心から感謝します。  桜井誠(在特会会長 「在日特権を許さない市民の会」)
  https://twitter.com/Doronpa01/status/528070862075740161

               ★

10月20日大阪市役所にて橋下大阪市長は在特会桜井誠(仮名)会長と面談。橋下市長にとってはそれで終わりだったが、在特会桜井会長にとってはそれが始まりだった。

■大量自宅頒布の電子書籍と動画配信時代

在特会桜井会長の著書「大嫌韓時代」は10万部に迫る勢いでありま す。アマゾンは急遽「形式format」を自社の電子書籍版に切り替え、最新 版として購入者に異例の再提供を始めました。Youtube等の動画配信サイ トでは面談全編を伝える動画は2編のみだけを合わせても、一週間で約 200万回の再生実績を残しております。

橋下市長はこれを知らない。桜井会長のオンデマンド(on demand 要 求に依って)作戦は意外な展開を迎えつつあります。本の販売で1冊につき100円の著作権料が入るとすれば10万部で1000万円になる。運 動に弾みが付く。

■「被差別」の特権

桜井会長の独特な言い回し表現は、現場の実地活動から習得してきたもので、際どさはあるが在日等が主張する「差別表現」とは違うものでしょう。普通の人にとって「差別発言」に聞こえるように、先入観を植え付けるのが在日や既存マスコミの作戦。

しかしネットに拠るオンデマンド放送。繰り返し「"波状"主張・説明」する桜井会長には、小波(さざなみ)が大波になる可能性があります。占領期以来、第三国人勢力が、闇に押し込んできた「真実」が"地湧(じゆ)の菩薩"のごとく出現しだした。

*「地涌の菩薩」---〔法華経〕 釈迦が本門の教えを説いたとき地中から出現した菩薩。過去に釈迦の教化を受け,窮極の真実を実現する菩薩とされ,日蓮宗で重視される。本化(ほんげ)の菩薩。

■「頑張れ、男の子!」

若き人々よ、祖先が沈黙を続けてきた「真実への扉」を開ける時が来たのだ。世界的「戦後レジーム」の崩壊が始まりだした予感がする。女を守ろう、子供を守ろう、国を守ろう!

2014年11月05日

◆中国漁船団の本当の目的

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)11月4日(火曜日)弐 通巻第4382号 >   
 
〜小笠原で珊瑚を密漁する中国漁船団の本当の目的は第二列島線突破だ遠洋漁業はレーダー搭載、かならず海軍の管轄下に入らなければならない〜

2010年、尖閣諸島海域で不法操業の中国漁船を警戒していた海上保安省の船に中国の暴力船長が体当たりしてきた。おりしも民主党政権、弱腰の日本は船長の取り調べもそこそこに釈放し、衝撃のヴィデオ公開を伏せた。一色正春氏の勇気ある行動でテレビに流れ、日本の世論は激高した。

この前後から『漁船』が同海域をうろつきまわり、その周囲を中国海監の艦船が取り巻く、領海侵犯は数限りない。いったい何が目的か?

尖閣諸島は中国領土だとぬけぬけと主張したが、2012年9月に野田政権は国有化を宣言した。

すると中国は『反日暴動』を組織化して全土で日本企業を焼き討ちした。日本の反中感情に火が付き、93%が『中国が嫌い』とする世論調査結果が出た。

日中関係の悪化はすべて中国側に責任がある。

しかし軍事的視点から言えば、尖閣諸島海域への出没目的は「漁場」ではない。ずばり、第一列島線突破の訓練である。『漁船』を装った「海上民兵」であり、日本側の警備、スピード、その規模を計測しているのである。

西太平洋に覇権を打ち立てるのが中国の大戦略である以上、尖閣も小笠原における行動も、そうした戦略に基づいた戦術行使である。

五島列島でも深刻な問題がすでに起きている。

▼五島列島に「台風避難」を名目に数百隻が寄港、現代の「元寇」を思わせた
以下に拙著から引用する。

「平成24年(2012)7月18日だった。平戸から近い五島列島の南端・福江島の南のはずれに位置する玉之浦港に突如、『元寇』を思わせるほど夥しい中国船が、整然と隊列を組むかのように入港した。台風避難が目的であるとされた。合計106隻。

日中漁業協定で確認された避難ポイントは、この玉乃浦港から100キロ先であり、台風を名目にわざわざ福江島の南端、警備の薄い日本の港を狙っての集団避難は異様な光景、なにか軍事的目的があると考えられた。玉之浦は緯度的には長崎と佐世保の中間、大村飛行場と緯度が同一線上にある。

「入港後日本の海上保安庁の巡視船が監視にあたりましたが、百六隻の漁船に対して、海上保安線は150トンクラスが1隻と巡視艇というボートが1隻の計2隻だけ」(遠藤浩一編『日本文明の肖像2』所載、山田吉彦論文)

おもわず背筋が寒くなる光景だった。

玉之浦の人口は1800人、中国側は各船に20人から50人が乗っていたと推定すると、合計3000人となる。つまり台風避難を名目に玉之浦港は中国に占領された格好だった。

漁船といっても遠洋航海の船は魚群探知機を装備している。こうした漁船はすべて中国海軍の管轄下にある。山田吉彦(東海大学教授)は、『この漁船は海上民兵』と推測し、第一列島線の内側を『中国は海洋領土とすることを目指してきた』から、こうした行為に及んだとする。

すでにそのときまでに中国は西沙諸島ミスチーフを占領し、2010年8月には『270隻もの漁船団が日中中間海域に出没』し、しかも『そのうちの一隻が海上保安庁の巡視船に体当たりした』。

そして推定される中国の『海上民兵』を駆使した海洋軍事作戦とは、『百メートルおきに横に並ぶと10キロ、2列で間を埋めて50メートルおきに並んでも5キロのエリアで海底を詮索できまる。だから漁船団が動き出すと(日本と米軍の)潜水艦は動けなくなる』」(同前掲論文)』(拙著『吉田松陰が復活する』より抜粋)。
 

▼赤珊瑚盗掘の中国漁船は、じつは漁民ではなく海上民兵である。

そして小笠原諸島周辺海域に中国漁船が大挙して出没し、珊瑚の密漁を行っている。

2014年9月半ばから10月までの1ヶ月半だけでも出没した中国漁船は211隻におよび、中国人富裕層に人気の高い赤い珊瑚礁を盗んでいくのだ。

自然保護、環境保護を大事にする日本の隙をついてカネになるときけば、中国人は公私の見境なく、だぼはぜのごとくやってくる。

しかし、この密漁団には裏の目的がある。

珊瑚密漁は表向きのこと、実態はまさに第2列島線突破のための『海上民兵』の下訓練、レーダー搭載の漁船は、繰り返しになるが、すべて中国海軍の管轄下にある。

       

◆独裁者が法を創れば

Andy Chang



11月1日、中国の第12回全国人民代表大会常務委員会(全人代)の第11次会議の閉幕の前に?反スパイ法?と「行政訴訟法修正案」を通し、習近平が署名して発布を宣言した。

この2つの法案は全人代の主軸である「依法治国」と関係がある。中でも反スパイ法が最も注目されている。反スパイ法を使えば国家の安全に関わるものは全てこの法案で処理できると言う。

民主国家は国民の平和と安全のために法律を作る。独裁国家は国民を取り締まり、監督するために法律を作る。法治を人民に強要し、従わないものは制圧する。つまり民主国家の法律は国民のために作られるが、独裁国家の法律は独裁を強化するために作るのである。

民主国家では警察が人民を守るが独裁国家では警察が独裁の手足となって人民を監督する。台湾や香港では人民の抗議デモに対し警察が「違法行為」と書いたプラカードを掲げて警告し、催涙ガスや放水車でデモ群集を散らし、逮捕する。

●香港の雨傘革命

反スパイ法は香港の雨傘革命を鎮圧するために作られたと言われる。法を作って違法行為を警告すれば警察を使って鎮圧できる、「依法治国」と言い張るに違いない。中国各地で起きた暴動の鎮圧と同じである。

だが香港は中国の認めた一国二制度の土地だから89年の天安門事件のような流血事件にはならないとする意見もある。98年の香港返還から16年しか経っていない。中国は香港をじわじわと締め付け、強圧的な態度で人民を制圧する、成功しなければ中国のメンツに関
わると思っている。

別面、香港は徐徐に民主自由を失いつつあるが、中国政府が強圧的処分を取れば諸国は黙っていない。雨傘革命を制圧して世界から批判されるのは中国にとって不利である。

中国にとって雨傘革命の収集は台湾のヒマワリ革命にも大きく影響するので引き下がるわけに行かない、だから反スパイ法を行使して雨傘革命には台湾や外国の影響している、または外国のスパイが居る、国家安全に関わると言い張るに違いない。

●民主化ではなく住民自決である

香港や台湾でこれまであった政治運動と違い、雨傘革命とヒマワリ革命の若者たちは独裁と対決する決心がある。つまり彼らは独裁の民主化ではなく国民自決を求めているのである。

これは台湾の民進党や李登輝が常に口にする「台湾は民主が足りないだけだ」といった独裁政権の改善や民主化とは完全に違い、それだけに対立も明確でリスクも大きい。

雨傘革命の若者たちが掲げる「抗命不認命」(強権の命令に抵抗し、運命と思って諦めることをしない)とは、命を賭けて人民自決権を確保することで、軟弱なポリティシャンとは違うのである。

独裁政権と対決して勝ち目はあるかと言えばわからない。習近平も安門事件のように鎮暴部隊が発砲して制圧するわけには行かない。住民自決の対立は智謀・陰謀の戦いである。

●香港政府の要求

香港の行政長官・梁振英は、街頭を占拠している若者たちに彼らの行動が政府人員の出退勤を妨げているので、6日までに街頭から退去するよう要求した。これに対し若者たちは市政府人員の出退勤を妨げないよう通告した。若者たちは梁振英との対話が実現し要求を
受け入れるまで退去しない覚悟を示したのである。

梁振英の6日までと言う期限は、7日から中国で開催されるAPECの前に雨傘革命を終わらせたい考えと思われる。だが若者たちは要求が受け入れられるまでは街頭から撤去しない覚悟なので、ここ数日内に大きな変化がおきる可能性はかなり高い。つまり若者たちの要求を受け入れるか、警察を使って強制退去の行動に出るかである。この場合、中国側は外国の影響があるのでスパイ法を使って依法治国を持ち出すだろうと思われる。

雨傘革命の処分は台湾のヒマワリ革命の動きと、今月29日に行われる「九合一選挙」に大きな影響を及ぼす。中国、香港、台湾で6日以後にどのような事がおきるか注目したい。

◆私の「身辺雑記」(158)

平井 修一



■11月1日(土)。朝は室温19度、微雨、2/3散歩。

父は株式投資を趣味としていたので日経を読んでいたから、小生も子供の頃から日経に馴染んだ。といっても専ら熱心に読んでいたのは「私の履歴書」だった。

長じてからは「私」が変わっても文体が変わらないので、ははーん、同じゴーストライター(複数の担当編集記者)が本人にインタビューし、裏付けの資料などを集めて書いているのだなあと興ざめし、以来、あまり読まなくなった。

刑務所では朝日の熱心な読者になった。所帯を持ってから購読したのも朝日だったが、ソ連についての記事があまりにも多いのでうんざりし、安い東京(中日)新聞に代えた。

東京は文壇や花柳界の消息で人気があった軟派の「都新聞」の流れを汲んでおり、文壇コラム「大波小波」、花柳界コラム「千夜一夜」が面白かったが、「大波小波」は匿名だから時には誹謗中傷的だった。「千夜一夜」は名物記者が不祥事を起こしてコラムがなくなってしまった。

そんな折に読売が洗剤やビール券などの拡材をもって売り込みに来て、カミサンが飛びついたし、小生も「まあ無難な選択だな」と3か月ごとの契約を繰り返した。3か月ごとにどっさり洗剤が来た。プロ野球の記事以外は問題なかった。ところがナベツネが朝日と不倫して靖国離れを始めたので、この野郎め、と産経に代えた。

週刊誌は、小生を子供の頃から可愛がってくれた寿司屋の親父さんが愛読していた新潮を読んでいた。特に助平心を刺激する「黒い報告書」を好んだ。

それから朝日ジャーナル、社会人になってから羊頭狗肉の皮肉な記事が多い新潮(山本夏彦翁のコラムが大好きだった)、インテリ女性向けのような軟弱な文春、インテリ風のキザな朝日を読んだが、いずれも飽きてしまい、今はまったく読まなくなった(購読しないがネットでときどき読むだけ)。

ニューズウィークは図書館で読んでいるが、米国製の正義を装うリベラル風バタ臭さがちと気になる。

毎日新聞とサンデー毎日はどっちつかずで主張がなく、「時間の無駄」と昔から切り捨てている(こんなものを読む人がいること自体incredible!)。

産経にはいろいろ啓発されてきた。カミサンは曽野、櫻井、高市、山谷などの女性論客を好んでいる。毎朝、産経を読みながら朝食をとり、その間、小生と犬は散歩に出る。散歩から帰ると小生たちも朝食。7時45分にカミサンは化粧と身づくろいのためにテーブルを離れ、それから小生は産経を読み始める。

1面、総合面、オピニオン、国際、経済、書評はほとんど読むが、スポーツとエンタメはまったく興味がないのでスキップ。火事、泥棒、人殺しなどにもあまり興味がないので、社会面はちょっとだけ読む。

今朝の書評欄には「跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること」が紹介されていた。著者は22歳の東田直樹氏だ。解説者は女優の東ちづる氏(才色兼備)。

<本の帯にはこうある。「僕の口から出る言葉は、奇声や雄叫び、意味のない独り言です。僕がこんな文章を書くとは、誰にも想像できないでしょう」と。

東田さんが13歳の時に執筆した著書は、去年、「The Reason I Jump」としてイギリスで翻訳された。今や20か国以上で出版され、世界中でベストセラーとなっている>

凄い若者がいるものだが、小生も会話が不得手だし、ときどき奇声や雄叫びをあげるから自閉症の気があるのかもしれない。

■11月2日(日)。朝は室温19.5度、曇、温かい、フル散歩。先週の木曜日から集団的子育てで忙しい。今日はカミサンは5人目の孫のお宮参りのために長男の家の近くにある西新井大師へ。片道2時間ほどかかるようだ。

娘2人と孫3人に外出を促したら、東急の「電車とバスの博物館」を見物してきたという。とても面白かったそうだ。

夕方、「もう遠い遠い、ホントに遠い」と言いながら帰ってきたカミサンによると、西新井大師はとても大きな寺で、時節柄、七五三の家族連れで賑わっていたとか。

夕食はカミサンの62歳の誕生会で、小生は96個分の餃子のタネを作った。娘と孫2人が包んでくれたので大助かり。パリパリに焼いて大好評。1歳半の女児も4つも食べた。残りは娘のお土産に。

「餃子の王将」に勤めていた人によると1店舗当たり毎日500人前、3000個を包むのだそうだ。「手早く包む」「タネの汁で接着する」のがミソで、ベテランが包み、ベテランが焼くと実にうまいという。他の人が包んだのは味が落ちるからすぐに分かるそうだ。

どんな分野でもプロの「技」があるものだが、1日に1000個も包んだら腱鞘炎になりそう・・・小生にはとても無理だな。

■11月3日(月)。朝は室温20度、晴、温かい。犬は体調が悪く、食欲なし、散歩不可。「お別れの日が近いかもね」とカミサンがポツリ。

今日は「文化の日」だが、これもGHQが作ったから「野蛮の日」「屈辱の日」だ。

<11月3日は、休日としては、1873年(明治6年)に公布された「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」以降、1911年(明治44年)までは「天長節」、1927年(昭和2年)に改正された「休日ニ関スル件」以降1947年(昭和22年)までは「明治節」として、明治天皇の誕生日による休日となっていた。

11月3日は1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められた。

祝日法制定当時、参議院文化委員長として祝日法制定の際、中心的役割を担った山本勇造が政界引退後に書いた当時の回顧録「文化の日ができるまで」によると、山本ら参議院側は11月3日を「憲法記念日」とすることを強硬に主張したが、GHQ側が、11月3日だけは絶対にだめだと主張し、衆議院が5月3日を憲法記念日とすることに同意してしまい、参議院側が孤立する事態になった。

そのとき突然GHQ側から、憲法記念日という名でない記念日とするなら何という名がいいか、という話を持ち出してきたという>(ウィキ)

国家主権のない占領下で憲法をGHQから“下賜”されて、それを恥にも思わず祝日にしたいという山本勇造のような政治家がいたこと自体、小生は信じられない思いだ。

調べたらナント、山本勇造とは作家の山本有三の本名だった。「路傍の石」なんて小生らの世代では広く読まれたものだが、アカのスパイ尾崎秀実に手玉をとられた首相・近衛文麿とは生涯の親交を暖めたそうだ。つまりリベラル=アカ=容共左派=GHQ大歓迎の一人だったのだ。

文化の日は、日本人の精神である明治憲法を葬り去った日である。こういう下らない祝日を正す作業、要は占領前の時点に戻す作業をしなければならない。

■11月4日(火)。朝は室温17度、晴、穏やか。犬は復調して3/4散歩。食欲もある。本当に心配をかける奴だ。小生の散歩を先導する介護犬でもある。大事なワンコだ。

夕べ、「永らくお世話になりました」と子・孫は餃子などの土産を持って機嫌よく帰っていった。5日間の流連は「勘弁してくれ」という気分になる。朝晩の飯は俺が作る、だが昼飯は勝手にやってくれ、外食してくれと言っているのだが、皆帰ってくるのだ、腹をすかして。

「んったくもー」と嘆くが、カミサン曰く「マックもケンタもファミレスも美味しくないし飽きるしね、アンタの料理の方がずっと美味いからね」。おだてられれば木に登る、体力が続く限りキッチンヂイヂをやるしかないな。(2014/11/4)


◆如何にもアメリカ的な出来事だった

前田 正晶


Table for two, please:

本社で女性マネージャーとその友人と3人で社外に昼食に出かけた時のことだった。食事が終わり帰社する前に女性たちはRest roomに行ったので、その間私は何と言うことなしにレストランの入り口に立ててあ”Please wait to be seated”の看板の後ろで待っていた。

念のためにこの看板を日本語にしておけば「係がお席にご案内するまでお待ち下さい」とでもなるだろうか。これは文化の違いで「勝手に着席しないで下さい」という意味だ。カナダのヴァンクーヴァーで日本料理店を経営していた知り合いから「チップの収入と配分の公平を期して係が席を散らしているという意味合いもある」と聞かされていた。

当日は金曜日でもあったので、私は濃紺のダブルブレストのブレザーにレジメンタル・ストライプのタイという週末の装いだった。これがいけなかったらしい。

そこにやってきた人品骨柄卑しからざる老夫婦が私に向かって”Table fortwo, please.”と言ったのだ。私はその瞬間には何のことか解らずに対応出来なかった。するとまた良くしたもので、そこに2人が出てきて大笑いだったのだ。「そんな服装をしているから”Maitre-D”(案内係)に間違われたのだ」と言って。

そう言われてみれば、多くのレストランではMaitre-D(メートルデイー)が当日の私のような格好をしているし、帝国ホテルでも全く同じ服装の時に「お手洗いは何処ですか」と尋ねられたこともあったと思い出した。

アメリカのレストランでは努々ダブルのブレザーを着用して”Please waitto be seated”の看板の後ろに立たないことをお薦めしたい。

釣り銭用の現金がなくなって:

シカゴで約20人の日本からの団体客を買い物にご案内した時のことだった。アメリカのお洒落な紳士用品を買いたいとのご希望で、別名”magnificent mile”の目抜き通り”North Michigan avenue”の”BrooksBrothers”を私の好みで選んで出掛けた。

因みにこの団体はほとんどの方が初めてのアメリカという地方の工場の役職者で構成されていた。

さて、お買い物である。店内は大賑わいで多くの方は自分用以外に土産物を買われることが多かった。そこで贈答用の箱に入れたネクタイ等が数多く売れた。そしてお勘定である。ところが一向に精算が進行せず皆が「何をやっているんだ」と苛立ってきた。

そこで案内役が尋ねると「これほど多くの方が沢山お買い上げでしかも現金で払われた例がないので釣り銭用の現金がなくなって、係が銀行に走って行ったところで、暫時お待ちを」が答えだった。我が国では考えられないことだろう。

これは良くあることで、我が国の方には未だに「カードで払って借金をするのを潔しとしない」考え方をされることがあって、事前に幾らお願いしてもクレディットカードを取ってこられない場合がある。

ここでもカードと小切手払いのアメリカで、このような事態が発生したのだ。そして支払いが終わったが、また作業が停滞した。「何で」と訊けば「これほど贈答用の箱が必要になった経験がなかったので、今倉庫に取りに走った」と言われた。

全て想定外の出来事だったのだ。私には現金で買い物をすることが極めて希なアメリカでのことで「これぞアメリカかな」と思わせられたのだった。

Brookds Brothersはこれで終わって、次は化粧品ということでデパートに向かった。全員は何故か”Dior”を選ばれて大量お買い上げとなった。店側はてんてこ舞いの状態となった。そこで私は何気なく主任と覚しき男性に「繁昌で良かったじゃないか」と言った。

実は、かの国の仕来りではこれほどの団体を連れてきたガイドには、それ相応の報酬を払う仕組みになっていたのを私は忘れて、言わば「何か忘れていませんか」と言ったのと同様な効果を生んでしまったらしい。

主任は慌てふためいて「それは失礼しました」とばかりに高価な香水のセットを持ってきた。私には受け取る理由はないので、事情と身分を明かして鄭重にお返しした。彼は「何故」と言いたいような不思議そうな表情で引き取ってくれた。これは東南アジアではごく普通にある習慣だが、アメリカでも行われているとは余り考えたことはなかった。

Emergency Clinic:

1994年2月のW社をリタイヤーした直後にある方のご依頼で、お手伝いにラスヴェガスとカリフォルニア州に行った時のことだった。すると、その仕事での関係先のアメリカで全国展開している不動産会社の手伝いで、カリフォルニア州の南の方に出掛けることになった。

ところが、私は不馴れなラスヴェガスの夜の気温の低下で風邪を引かされてしまい、当日は未だ抜けきっていなかった。

すると、不動産会社の副社長は強引に私を予約無しで診て貰えるというEmergency Clinic(救急診療所とでも言おうか、climicの他に”room”等とも言うようだ)に連れて行った。直ぐに診て貰えた。

医師は病状を訊くだけで私の身体には一切触れず、熱を測り喉は口を開けさせて舌圧しを使ってみただけで”No problem.”の診断。そして、OTC(=売薬)のTylenol 3とExcedrinを処方しただけで80ドルを請求されて終わった。

アメリカで私が経験した限りでは電話で病状を申告して処方箋を聞いただけで有料だし、予約無しでは診て貰えないのである以上、このEmergencyClinicは非常に便利だった。私には80ドルが高いのかどうか全く判断する材料はなかった。

だが、その二つの売薬を飲みながら半日以上の長時間のドライブに耐えて日帰りの出張を強行できたのだから、実用的なことを優先するアメリカ式だと思わせてくれた診療方式を良しとせねばなるまい。

私は全米にこういう診療所があるかどうか確認もしてないし、その後も調べたことはない。だが、有り難いシステムであると思った次第で、ここに採り上げた。実は、新宿の国際医療研究センターにも休日用に緊急の掛かりつけではない患者も受けてくれる制度があり「診察料が5千円であるが、支払う意志があるか」と確認される。私は5千円の多寡は問題ではない場合があると考えるのだが。
(この項終わる)


       

2014年11月04日

◆民間労組、官公労決別を

櫻井よしこ


「足は職場に、胸には祖国を、眼は世界に」 

ゼンセン同盟はじめ民間労組は自己の存在理由をどこに求めているのか。日本が大きな曲がり角に立ついま、政治に重要な影響を与え得る労組として何のために運動をしているのか、心から問いたい。

そもそも労働組合はどのような考えに立脚すべきか。ゼンセン同盟の故宇佐美忠信会長は次のように語っていた。

「足は職場に、胸には祖国を、眼(まなこ)は世界に」

働く人々の権利と幸福を守るためにこそ、企業とともに働き、支え合うことが大事だと、氏は説いた。国民を守る祖国の国益を忘れてはならず、そのために世界情勢をわきまえよとも主張した。

右の視点に立って2006年第5回大会で発表された「国の基本問題に 関する中央執行委員会見解について」は立派な内容だった。日本国憲法に 関しては「他国またはテロによって国家の主権が侵され、国民を守れない事態にならないように国家権力は国家の安全保障体制を保持する義務があることも憲法に明記せよ」と書き、戦後約60年当時、憲法も自衛隊も時代に対応できなくなりつつあったことに関して、明確に断じた。

「もはや現実を憲法に合わせ、矛盾を再生産させ問題を先送りすることは許されることではない。現行憲法の改正を是とする方向を支持する」

改憲支持を明確にしたゼンセン同盟はいまUAゼンセンとなり140万の組合員を擁する最大勢力である。だが、連合自体は憲法論議は継続する が改正は時期尚早、96条改正は拒否という立場で、UAゼンセンの主張 は置き去りにされたまま、現在に至る。

そしていま、連合の地方組織が連合中央の指示に従わない独走が始まっている。連合本部は日米安保条約を容認し、時期尚早だが憲法改正は議論すべきだとしているのに対し、地方各地で反基地、憲法改正反対運動が展開され、地元の自治労や日教組が前面に立って旗を振るのである。

11月1日も岐阜市で「平和フォーラム」の第51回護憲大会が開催さ れた。改憲阻止を大目標として全国各都道府県で大会を開催中の平和フォーラムは、総評センターが衣替えした組織で、活動の主軸は自治労と日教組だ。

憲法改正を高らかに支持したUAゼンセンの理念は、連合、その地方組織、彼らが事実上の主軸となっている多くの組織で全否定されているのだ。なんのためにこのような人々と一緒になっているのか。

連合は選挙では民主党支持だが、その結果を心に深く刻む必要がある。4年前の参院選挙で民主党は選挙区で大敗したが、比例では自民党に勝ち、16議席をとった。うち10議席を日教組、自治労、JR総連など左派色の強い労組出身候補がとった。とりわけ目をひいたのがJR総連政策調査部長の田城郁氏だった。

JR総連は鳩山内閣が、「殺人事件など、多 数の刑事事件を引き起こし」た「極左暴力集団」の革マル派が「影響力を 行使し得る」対象だと、正式に規定した労組だ。

UAゼンセンをはじめ連合の民間労組が入れた票は、たとえ別の候補者名を書いても民主党の比例票に数えられ、多くの候補者を当選させた。穏やかな民間の組合員は自身の票がJR総連の候補者を支える結果になったことを是とはしないのではないか。

憲法、国防、教育など大事な問題ほど価値観が異なる相手とは折り合えない。それでも手を組み続けるのは自身の信念や価値観の否定になり得る。たった一度の人生を、そんな風にすごしてよいのか。

旧社会党は総評の崩壊と村山富市氏の路線変更で潰れた。同じ論理で、連合、とりわけUAゼンセンの動きは政治の大変革を促す力となる。UAゼンセン以下民間労組は連合から分かれ、再び健全な労組に立ち戻ることで、日本を自らが信ずる方向に変えていくことができるのだ。

世界は本当に大きく変わっている。日本は本当に大事な局面に立っている。UAゼンセンは日本最大の労組としても、真っ当な保守の組織としても、日本の真の再生に貢献する責任がある。

足は職場に、胸には祖国を、眼は世界に−先人の言葉をかみしめて、官公労と決別し、連合を分裂させよ。

 産経ニュース【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】2014.11.3  

◆中国船「軍事演習」で密漁は演技

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)11月3日(月曜日。明治節)通巻第4380号>    


小笠原近海に珊瑚を盗みに来ている中国漁船、すでに200隻以上。これは第一列島線をすでに突破し、第二列島線すれすれに迫る中国の民間を装った、「軍事演習」と見るべきで、密漁は演技である。

中国潜水艦部隊も強力に推進、インド洋へ進出した対潜哨戒能力だけは高い日本だが、あとは米軍の攻撃待ちしかない


13年12月だった。

中国海軍は原子力潜水艦がマラッカ海峡をくぐり抜けてインド洋へ達し、スリランカへ寄港したと発表した。そして「航海の安全ルールを守り、国際法に準拠したもので、これにより中国はエリート倶楽部入りを果たした」と言い放った。

呉勝利(中国人民解放軍海軍司令員)は「これは戦略的なシンボルであり、中国は偉大な国家としてのステイタスを得たのだ」といった。

事実、空母、ステルス戦闘機に続いて中国は米国、ロシアにつぐ攻撃型ミサイル搭載潜水艦を保有したことを意味し、大変な脅威の出現といえる。

―― ただしインドの就航予定は2015年になる

◆習・王体制の断末魔

平井 修一


外交評論家・伊藤努氏の中国の習・王体制についての論考「改革先送りで亀裂拡大」(朝雲10/30)から。

             ・・・

中国の国力増大に伴う軍事力強化や威圧的な海洋進出など、発足から2年近くがたつ習近平指導部の内外政策に関心が集まっている折、中国政治に詳しい気鋭の専門家の講演を聞く機会があった。

中国は米国や日本、ベトナムなど周辺関係国との間で対立や摩擦を抱える一方で、「一国二制度」下の特別行政区・香港でも中国側主導の行政長官選挙の制度改革をめぐって民主派学生の激しい反発を受け、抗議行動に直面している。

ここにきて経済の減速も伝えられ、内外で難しい問題を抱える中国指導部の置かれた状況を知る上で参考になったので、今回は講演の概要を紹介したい。

外部からはうかがい知れない中南海(中国指導部)の権力体制だが、この専門家によれば、中国を大企業に例えると、影響力を残す江沢民・元国家主席が前会長、引退した胡錦濤・前主席が会長におり、習近平現主席は社長を務めているとみると理解しやすいそうだ。

実権を握る共産党の頂点に立つ総書記、国家トップの座である主席に加え、軍を掌握する軍事委員会主席の地位も就任早々に手にし、権力基盤は毛沢東やトウ小平に勝るとも劣らない盤石な印象を与えるが、大企業の社長として、何かと目障りな前任者らに気を遣う必要があるとの指摘は興味深い。

習主席は就任以来、江沢民派の有力幹部を次々に反腐敗や不正の容疑で失脚させる一方、昨年3月の指導部交代時に人事で取引した胡錦濤派の元側近にも汚職捜査の手を広げている。

現指導部は当初、習主席とナンバー2の李克強首相の習・李体制とみられていたが、反腐敗キャンペーンを通じて権限を集中させた習主席は、太子党(高級幹部の子弟)仲間の側近で、汚職摘発の陣頭指揮を執る党規律検査委員会トップの王岐山書記による「習・王体制」を確立したという。

英誌エコノミストは以前、習主席は中国経済が低成長に向かい、社会の矛盾が一挙に噴出してきた悪い時期に政権の座に就いたと指摘したが、習主席は中国社会に広がるひび割れ、亀裂を修復しようと社会主義体制の引き締め、強化に動いてきたというのがこの専門家の見立てだ。

本来なら、経済がこれほど発展した中国であれば、政治改革や民主化などを通じて社会のひび割れを防ぐべきなのだが、中南海は権力を奪われるトラウマに悩まされ、改革の先延ばしで中国社会の亀裂を大きくしているのだという。

最近開催された重要会議の共産党中央委員会第4回総会では、「反腐敗」で政権運営の足場を固めた習指導部が新たな改革の旗印に「法治」を掲げたが、共産党の法治とは「法による党の支配」であり、一党支配体制強化の口実にすぎないと喝破する。

中国政府は先に大学当局に対し、「普遍的価値」「報道の自由」「市民の権利」といった学生が使ってはならない「7禁句」を伝達したが、政府系研究機関が実施したアンケート調査では、内外のネット情報に接している一般の人々や若者は重要な価値として、「平等」「民主」「富強」を上位に挙げ、「愛国」が最低にランクされたことと併せ、目覚めつつある国民
の意識と現指導部の対応の落差が浮き彫りになった。

香港で盛り上がる若者や市民の抗議行動への対処でも、対話に応じると見せかけながら実際には締め付けで乗り切ろうとしており、旧態依然とした統治は一党支配体制の限界を示すものではないか。(以上)

               ・・・

習がこの閉塞状況を乗り切るには尖閣諸島を奪取するしかない。国内世論を反日で盛り上がらせ、中共支持へと結束させるのだ。一点突破、全面展開を狙うはずだ。海上民兵=漁船を総動員して尖閣を占拠する。その予行練習として小笠原諸島に今、支那漁船を送り込んでいる。

習一派が尖閣占拠に成功し、実効支配できれば得点、南西諸島制圧、沖縄強奪への大きな一歩となる。一方で海上民兵が排除され失敗しても「領有権で日中がもめている、尖閣は領土問題だ」ということを国際社会にアピールできるから一歩前進だが、そうなる保証はない。

習はAPEC後に尖閣占領作戦を開始し、国内世論の支持が盛り上がったところで雨傘革命を武力鎮圧するだろう。中共独裁体制の延命のためにはそれ以外の選択肢はない。「安政の大獄」的な騒動を起こしたところで中共崩壊は免れない。

孤立するプーチンは軍用機の大編隊で欧州を威嚇したが、大反発を買っただけで、誰も委縮しない。孤立する習の尖閣への試みが、国際世論の大反発をを招き、恐ろしく惨めな敗戦、屈辱となれば中共は完璧に終わりとなる。習はそれも承知の上で、リスクを冒すだろう。そうするしかないからだ。一発大逆転を狙うしか、習と中共の延命カードはない。
                       (2014/11/2)

◆自衛隊(2)自衛隊と国際社会

伊勢 雅臣



■海外支援活動

陸上自衛隊で不発弾処理の専門家として活躍し、定年で退官した人々が約400名集まり「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」を結成、2013年度までにカンボジア、ラオス、アフガニスタン、アンゴラの4カ国で37万7234発の不発弾と地雷を処理してきた。Voice26.8荒川龍一郎2014年09月16日(火)

JMAS設立当初は資金もなく、元自衛隊員たちは自分たちでお金を出し合い、現地に行って様々な活動をしてきた。次第に外務省なども関心を寄せて、国の無償援助資金が貰えるようになった。Voice26.8荒川龍一郎2014年09月16日(火)

東ティモール。独立後の支援に輸送機で入った日本の自衛隊員に、空港近くで現地の若者20人と日本人数人が「自衛隊は来るな」とデモ行進。するとデモを取り巻く現地住民から「助けに来てくれたのに何で反対するんだ」、逆にデモ隊が詰め寄られた。謝罪活動家が現地の若者を焚き付けたが、不首尾に。
2014年09月09日(火) 吉田康一郎@yoshidakoichiro

【台風30号比直撃】

「日本人の真心伝えたい」 自衛隊国際緊急援助隊の中西隊長 -友人が来たという感じで迎えられた。どこかの国が『歴史、歴史』と言っているので不安だったが、(否定的反応は)全くなく、とにかく早く来てくれ http://on-msn.com/181Pf7J
2013年11月18日(月)

首相、海賊対処の海自視察「誇りに思う」 “地球儀外交”アフリカでも -平成21年3月の任務開始以来、部隊が護衛した船舶に海賊被害が出ていないことに、「国際社会からも高く評価されている。心から誇りに思う」と賛辞を惜しまなかった。http://on-msn.com/151Fu1Q
2013年08月28日(水)


■海外からの声援

韓国の新聞が「自衛隊創設記念レセプション」会場のホテルを脅した。国際的非常識に韓国駐在の外交団もあきれたらしく、急遽会場となった日本大使公邸には例年になく各国大使が多く出席し、日本を激励。豪の武官は旭日旗バッジをつけてやってきた。http://on-msn.com/1sd5B3v
2014年08月02日(土)

Japanese Culture Festival in Havana. 2014年7月7日、日本の海上自衛隊がハバナに初入港しお互いの親睦を深めました。キューバは日本文化が人気です! https://pic.twitter.com/YMbMKsYbzS
2014年07月13日(日) Rising Sun@rising_sun_con

知る権利と反日マスコミ

12/10のノーベル平和賞授賞式の報道が小さい。わが陸軍、陸自少将とノーベル平和賞のイメージを恐れたから。ロンドン五輪でも多くの自衛官メダリストを自衛官として報じなかった。ノーベル平和賞受賞式に秋山一郎氏http://wp.me/p29DIT-2HY
2013年12月11日(水) 西村幸祐@kohyu1952

「日本の貢献に感謝」 ミラー米海軍第5艦隊司令官と会見 ソマリア沖の海賊が弱体化してきたことを朗報として挙げ、「多くの国々の努力の結果だ。海上自衛隊の貢献は大変力強いものだ」MSN産経 http://on-msn.com/14tEYw6 =>過酷な環境での海上自衛隊の奮闘の感謝2013年06月11日(火)


■外国軍との共同活動

米豪軍乗せた日本海自艦、ベトナム入港 3カ国結束で中国牽制 - 米軍とオーストラリア軍計約140人を乗せた海上自衛隊の輸送艦「くにさき」が入港。ダナン市内で医療支援と文化交流。海自輸送艦が米軍や豪軍の要員を大規模に運ぶのは初めて http://on-msn.com/UgZ1NF
2014年06月06日(金)

同盟国とは一緒に血を流す国であり、一緒に戦うからこそ同盟国を守るのだ。陸上自衛隊がサマワに派遣された際、日本は名実ともに連合国の一員となり、米国から自衛隊の生死にも関わる機密情報入手が可能となった。これが戦時同盟関係の本質である。http://on-msn.com/1f9U16v
2014年04月24日(木)


■海外支援を縛る制約

カンボジアではゲリラが選挙妨害。自衛隊員たちは拳銃と小銃しか携行できず。日本の選挙監視員たちを守る法律もないため、孤立した彼らを「パトロール・巡回」と称して、自らが攻撃を受ければ「正当防衛」するという名目でしか、彼らを守れませんでした。Voice26.8世良光弘2014年09月01日(月)

陸自のイラクでの活動は人道支援に限られ、治安維持は外国軍頼みでした。近くで豪州軍が暴徒に襲われた時も、傍観しかできなかったことが2回ありました。駆けつけ警護は武力行使にあたるためできません。説明しても、どこの国の部隊にも理解できず白い目で見られました。Voice26.8世良光弘
2014年09月01日(月)

イラク特措法で派遣された自衛隊員のうち陸海空合わせて16人が自殺しています(在職中)。派遣後も入れると自殺者は合計28人とされていますが、人道復興支援とはいえ、実際は戦地に行くのですから心のケアもこれからは重要だと思います。Voice26.8世良光弘
2014年09月01日(月)

6月15日PKO協力法成立(1992) #国際派日本人養成講座 No.220 自衛隊PKO〜世界の称賛、朝日の懸念 自衛隊のPKO活動を称賛する海外の声と懸念する朝日新聞との巨大な落差。http://bit.ly/18jt637
2014年06月14日(土)


■海外の法人保護できず

967年、中国文化大革命に呼応して起きた香港大暴動時における在留邦人3千人の保護が必要になった。ストが頻発して交通はマヒ状態になり、爆弾テロも頻発。自衛隊は違憲、日航も組合の猛反対で派遣できない。外務省の回答は「米軍に依頼せよ」正論13.11佐々淳行
2013年11月04日(月)

中国で内戦が勃発した場合、これまでに投資した10兆円は戻ってこないし、在留邦人13万人を救出する手段を日本政府は持っていない。憲法上の制約で、自衛隊は救出に向かえない。(長谷川慶太郎,VOICE,H2412)
2012年11月25日(日)

自衛隊は海外で紛争や事件に巻き込まれた邦人の退避や救出に従事したことがない。「他国の領域内にある日本人の生命、身体、財産は(中略)、武力行使等の手段によって保護をはかることは憲法上許されない」(内閣法制局長官答弁)ため –
MSN産経 http://t.co/zmFWRpDr
2012年11月04日(日)


         

◆如何にもアメリカという経験

前田 正晶



1972年8月に生まれて初めてアメリカ本土に渡ったのだが、それ以来,後から後から「ここは違う国だな」と思わずにはいられないことに出会ってきた。それらを順序不同で思い出していこう。因みに、W社の仕事でアメリカに出張していたのは1993年11月が最後だった。

アメリカ人だと思うのは当然だ:

1973年だったかアトランタからNYに向かった機内で、隣に座った高校生と見た男子にいきなり握手を求められて”I am so and so.”と名乗られた。未だそういうアメリカ的なことに馴れていなかったが、兎に角握手をしてこちらからも名乗ってみた。だが、「何で私が英語が解ると思ったのか。私が外国人とは思わなかったのか」と、実は間抜けな質問をしてみた。

すると彼は「何を言うか。こうしてアメリカ国内で平然と一人で旅をして飛行機に乗っている以上、貴方をアメリカ人と思うのは当たり前ではないか。アメリカにいる以上アメリカ人だと思ったことに何の不思議があるのか」と切り返されて正直なところ唖然としたものだった。

この頃はホテルの中でも何処でも見ず知らずの者同士で”Hi!”であるとか”How are you doing?”等とにこやかかに言葉を交わす習慣に不馴れで、オロオロする状態だった。

此方から声をかけられるようになるまではかなりな精神的には負担だった。この見知らぬ者同士での挨拶に馴れて落ち着いて”Hi!”等と言えるようになってからでも、不思議なことに我が国に帰ってきても先ず絶対にそういう挨拶をすることはなかった。これぞ、文化の違いの学習の第一章かも。

Hi, Steve”:

これも上記と同様なことだが、私自身の経験ではなくても「これぞ、アメリカ」として紹介する次第だ。某商社の若き担当者が私の後任と共にW社の本社に出張した時の出来事だったそうで。

廊下を歩いていると反対方向から来た余りさえない感じの痩せた前期高齢者風の人が片手を挙げて”Hi, Paul!”と言い、Paulも平と”Hi,Steve!”と返したそうだ。「あれは誰ですか」と訊くと、答えは『社長だよ」で、呆気にとられたそうで。(Paulは日本人で、これは洗礼名で、社長はSteveRogelという人)

我が国の会社の組織内ではあり得ないことだろうが、「これぞアメリカ」と言える出来事だろう。ここにアメリカという国が錯覚を起こさせる大きな一因があると思う。即ち、如何にも平等で民主的で社長と雖も一社員を分け隔てなく扱ってくれているかのように思わせるからだ。

だが、これは単なる彼等の優れた社交性の一面を示しているだけで、CEOと一社員の間の身分違い、と言うか格の違いとでも言おうか、は我が国の会社組織内とは比較にならない大きな差があるのだ。

我が国大企業で一社員が社長に出会って「社長さん、今日は」と挨拶する習慣があるだろうか。アメリカというか英語の世界ではこういう一見分け隔てがない扱いが見せかけの平等感を醸し出しているのだと、私は見ている。

では、いきなり社長に出会って「シカト」しても良いものではあるまい。彼が自分を知っているかなどは考えずに”Hi!”と言っておけば済むことなのだが、そう思うようになれるまでが大変だろう。

CreditはSueに:

この場合の”credit”は「功績、成績、手柄」という意味だ。私は何時だったか、シアトル市内のある著名な鞄屋さんで必要に迫られていたので、何気なく”Hartmann”のブリーフケースを購入した。応対した女性店員は”Sue”と名乗り名刺を求められた。そして、訊かれるままに気にもしないで藤沢(当時)の住所も教えた。因みに、Sueは”Susan”のニックネーム
である。その後何度か買い物ではなくその店を訪れてSueに会う機会があった。

すると、その後はSueから繰り返して「セール」の案内の葉書が藤沢まで来るようになった。熱心なものだと一応感心した。何故「一応」かと言えば、アメリカで一般的な小売業に仕組みでは「販売員たちはその店の軒先を借りて自分の店を出している名店街のようなもの」で売上の全てが各人の”credit”となるのだ。

私は言うなればSue & Company”の常連客(リピーターは間違ったカタカナ語だ、念のため)として登録されていたのだ。

そして、偶々こちらの出張に時期が合う、長年狙っていたHartmannの”Garment bag”(スーツを2〜3着ハンガーに掛けてバッグを二つ折りにして持ち歩ける旅行用)のセールの案内の葉書が来た。そこで仕事の合間を狙って葉書持参で颯爽と買いに出掛けた。すると、Sueは休日で女性の店長が応対してくれて目的の商品をアメリカ式の格安のセール価格で購入できた。

私はこれではSueの成績にならないのではと気になった。店長は「心配しないで欲しい。このCreditはSueに付けておくから」と言ってくれた。これがアメリカ式常連客の確保の方法である。私は髭剃り用等の化粧品は、シアトルのデパートでその売り場で顔見知りとなった男性の販売員から繰り返し購入していた。ここでも私は彼の定期的な得意先になっていた。

すると、彼は私が何を買おうと全く問題にせず、異なるブランドの販売促進用の無料の見本品や景品をくれるようになった。そのお陰で?Aramisの傘などは数本もあるし、買ったこともないPoloの傘までもあれば、未だに各種のブランドの無料サンプルが残っているほどだった。

贅沢なものを買っていると思われそうだが、93年以前の為替でも、アメリカで買えば日本国内のごく普通の男性用化粧品と同程度かそれ以下の値段になってしまうのだった。

これはおまけ的な話しだが、ある時に朝一番にこのデパートに行ったことがあったが、何故か化粧品売り場は開店したなかったのだった。諦めて帰ろうとしたところに彼は正面のお客様入り口から悠然と出勤してきて「遅くなって済みません」とばかりに売り場を覆っていた布を取り払ってて

”How may I help you, today?と言ったのだった。これぞアメリカであろうかと些か毒気を抜かれた。(この項続く)



         

2014年11月03日

◆不思議の国”ニッポン

平井 修一



60年以上「日本人」をや(演)っているが、日本がどういう国なのか、考えれば考えるほど分からなくなる。「絶対コレ!」という価値観とか思想、主義の類がないのだ。神様は800万もあり、岩や樹木にも精霊が宿るという国柄だから、もうどうしようもない。

朝一番でお日様に感謝し、地面が乾いていれば「どうぞ雨を降らしてください」、降り過ぎると「もうそろそろ晴れてください」と祈る。あらゆるものに祈る。クリスマスも初詣も大好きだ。近年はハロウィンだとか。頭がくらくらする。

2000万人がちっぽけな島国に静かに暮らしていたら、「おい、俺たちと付き合え、門を開け、パンツ脱げ!」と米国が大砲で脅した。仕方がないから世界へ出ていったが、大清帝国という邪魔者があったから粉砕した。

ロシアという凄い国が南下してきたから、これでは吞み込まれると反発し、どうにかやっつけた。それから世界最大=セントバーナードの大英帝国、世界最強の米国=シェパードが「殺すぞ、この野郎、とっとと島国に帰れ」と脅した。ここで屈したら日本は永遠に終わると猛烈に反発し、ほとんど狂気的な反発をした。

戦争は敗けた。世界史上初めて原爆を落とされた。2発も。30万人が死んだ。国土は度重なる空襲で灰燼に帰した。占領されて主権を奪われ、国際条約のハーグ条約(陸戦規定)に反する違法な憲法を押し付けられた。それでもヘタレなかった。

それから10年ちょっとで「もはや戦後ではない」と復活を宣言し、敗戦から19年後にはオリンピックを開催し、新幹線も走り出した。しばらくすると世界第2位の経済大国になっていた。

韓国と中国の経済発展を支援した。世界中にODA支援した。最大の敗戦国がいつの間にか最大の支援国になっていた。急降下から急上昇。ジェットコースターだ。くらくらする。

国内では自由を謳歌させた。何を言ってもおとがめなし。「安倍のバカ」「在日の寄生虫」「アカ野郎」「ネトウヨめ」、果ては「中共殲滅」なんて言っても誰ひとり逮捕されない。嘘八百の朝日は本来なら爆弾攻撃を受けてもいいのに、とっても安泰だ。産経記者が韓国に拉致されても在日は生活保護で人生を楽しんでいる。

娼婦も大いに楽しみ、自由に商売している。川崎市の名物は「堀之内」。4万円出せばすさまじいほどの美女と交流できる。売れっ子は月収300万、真面目に1〜2年励めば一生の蓄えができる。

サラリーマンは現役時代は凄まじく(死ぬまで、死にそうになるまで)働くが、皆それを「まあ、そういうもんだ、血尿が出て一人前」なんて言う。そういう(生き残った)人は老後は皆ノンビリ暮らしている。

食事もままならないとかの「暮らしに困っている人」って日本にいるのか。老化や病気で困っている人はいるだろうけれど、放置され、餓死する人はほとんどいない。おおむねセイフティネットで救われているのではないか。川崎市ではホームレスはほぼいなくなった。

日本は桃源郷だ。地上の楽園だ。信じられないことをずーっとやってきた。狂気なのか、正気なのか。今はヂヂイが中共殲滅、支那解放なんて騒いでいる。訳の分からない“不思議な国”というしかない。明治維新の開国以来、“不思議な国”は不思議なことに(結果的には)成功した。

運が良かったのか、それとも実力か。理性なのか、感情なのか。投資なのか、博奕なのか。

よく分からんがおっそろしく“不思議な国”ではある。大地震、大津波、原発事故、噴火にもめげない。こんな国は二度と生まれないだろう。地球と人類史の宝石だ。誉め過ぎなら奇石、奇跡、珍奇だ。世界遺産だな。(2014/10/19)

◆多国籍企業を装う中国海洋石油

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)10月31日(金曜日)弐通巻第4378号>    

〜 カナダのエネルギー会社、掘削技術企業っていうけれど
  南シナ海の海底油田掘削は多国籍企業を装う中国海洋石油だ〜


南シナ海はあちこち400ヶ所くらいで「海洋リグ」が稼働している。専門家の見立てでは同海域に眠る石油がフル生産にはいると、日量120万バーレル。ガスは推定埋蔵3兆2000億立方フィート。原油はノウスダゴダ州のそれと、ガスはメキシコ湾に匹敵するという(ニューヨーク・タイムズ、14年10月31日)。

中国のエネルギー消費は依然として発電の70%強が石炭によるため、大気汚染、公害が悲惨な状況となり、ガスへの切り替えが国策として急がれている。

2012年に5%だったガスのシェアを2020年には10%まで引き上げようというのが中国の資源政策の根幹にある。

西砂(パラセル)、南砂(スプラトリー)の広範な領海では、中国が軍事設備を建て、セメントを流し込み、珊瑚礁を破壊して滑走路を建設し、付近で海洋リグを稼働させているが、ベトナム、フィリピンばかりか、ブルネイ、マレーシア、インドネシアと係争を繰り返している。

中国は軍事的には第一列島線を突破し、西太平洋に軍事覇権を確立する野心があるが、資源的には海底油田の確保であり、事業主体はCNOOC(中国海洋石油)だ。国有メジャーである。

とくに近年、海洋リグが目立つようになったのは深海を掘削する技術を得たことによる。それも独自開発ではなく、海外企業、とりわけカナダの掘削、開発企業の買収によるものである。

ハスキー・エネルギー(HUSKY)社は海南島の南190マイルの海洋で掘削事業を展開中だが、この会社、じつはCNOOCが50%を出資している。しかも大株主は香港財閥一位の李嘉誠である。

「ネクセン」(NEXEN)社もカナダに本社をおき、西アフリカ、メキシコ湾、北海油田などで操業中。高い掘削技術をほこり、難工事をともなう海底油断の開発では世界的に有名な企業だ。

このネクセンは、2013年2月25日、CNOOCが買収し、完全子会社となった。

共産主義の国有企業が資本主義の論理に染まって世界戦略を展開して、その過程でアセアン諸国の主要メンバーと領海紛争をこじらせているという図式である。

    

◆樺太で祖国を失った日本人たち

伊勢 雅臣


バイクで走ったサハリン(樺太)には、あちこちに祖国を失った日本人がいた。

■1.「ではご無事で」

「パスポルト」ロボットのように表情のない、小太りの若い白人金髪女性が言った。恐る恐るパスポートを差し出す。あっさり入国を拒否されてしまいそうな不安がよぎる。

ここはサハリン(樺太)最南端の港コルサコフ(大泊)の粗末な薄暗い入国管理事務所。西牟田靖さんは「原付バイクでサハリンの北端をめざして走る」ために、稚内から5時間半の船旅を終えて、今、到着した所だった。

その時、「カバンを開けなさい」と、事務的な日本語の声が響いた。声の主は荷物検査をしている東洋系の小柄な老人だった。

「それにしてもなぜこんなところに流暢な日本語を話す東洋系の老人がいるのだろか」と疑問が浮かんだが、老係官はさらに「観光か?」と戦時中の憲兵のような口調で問いただしたので、身の上を聞くことなど、とてもできなかった。

「バイクでサハリンを回るんです」

「オマエひとりでか?」

「そ、そうです」

恐る恐る答えた西牟田さんに対する老人の反応は意外だった。「心臓ふてえなあ」 心配してくれているのかと思うと、たちまち老係官の印象が変わった。

検査を終え、外でバイクに荷物をくくりつけていると、仕事を終えて外に出て来た老係官が再び、声をかけてきた。「日が暮れてしまわないうちに、ただちに豊原に行きなさい」

「豊原」は現在、ユジノサハリンスクと呼ばれているサハリンの中心的都市の日本統治時代の名前だ。その豊原が出てくるということは、この地に生まれ育った日本人だろう。

「豊原へはまっすぐまっすぐ行きなさい。そうすれば到着する。ではご無事で」と老係官は昔の礼儀正しい日本語を残して、車で去って行った。

 樺太は江戸時代には日露混住の地であったが、明治8(1875)年、樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島はすべてが日本領となった。その後、日露戦争の勝利の結果、明治38(1905)年の日露講和条約(ポーツマス条約)で、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された。しかし大東亜戦争終戦間際にソ連が侵攻し、全島を占領してしまう。[a]

 老係官は、日本統治時代の樺太に住み、戦後、逃げ遅れた住民の1人らしい。


■2.「こんな日にあなたにお会いできてうれしいです」

片側一車線、舗装はされてはいるが、ガードレールもなく、アップダウンの続く道を走ってユジノサハリンスクに着いた。人口約17万人でサハリン州の州都だ。町の中心にはソ連建国の父であるレーニンの像がいまだに立っている。

繁華街には青い目をした金髪美女が闊歩する横を、日本の中古車が「花のムスメヤ」などと日本語のペイントのまま走っている。

街には日本統治時代の建物も残っていた。かつての北海道拓殖銀行豊原支店はどっしりした石造りのビルで、現在は美術館として使われている。旧樺太庁博物館は瓦葺きの、まるで日本のお城のような建物で、入り口には一対の狛犬(こまいぬ)が置かれていた。

道を聞くために、アジア系の老人に日本語で声をかけた。老係官との経験で、日本語が通じそうだ、という事が分かっていたからだ。案の上、穏やかな正確な発音の日本語で道を教えてくれた。

そのあと「今日は終戦記念日ですね」と、老人の方から話題を投げかけてきた。しかし、西牟田さんにとっては、終戦記念日とは遠い昔の、実感の伴わない出来事だった。

しかしこの老人にとっては、この日、そして戦争というものは人生をゆるがす一大事であったのだろう。彼がもし日本統治時代から住んでいる住民だとすると、その日前後にそこが日本のものではなくなってしまったのだから。

どう言葉を返せばよいのか戸惑っているうちに、老人は自分の体験談をしみじみと独り言のように思い起こしながら続けた。「学校で玉音放送を聞いたことを昨日のように覚えています。15歳のときでした」

彼はなぜ逃げられなかったのだろう、その後はどうやって生きてきたのだろう。心の中で疑問が駆け巡ったが、老人は清々しい微笑みを浮かべて言った。「こんな日にあなたにお会いできてうれしいです。ではさようなら」

老人は会釈して、しっかりとした足取りで横断歩道を渡って、人混みの中に消えていった。


■3.「日本から来たのかい?」

ユジノ・サハリンスクから東海岸沿いに3百キロほど舗装もしていない道路を何日も野宿しながら北上して、人口2万人以上の港町ポロナイスクに着いた。ポロナイとはアイヌ語で「大きな川」という意味である。日本時代は敷香(しずか)と呼ばれていた。

路上ではアジア系の人々が花、肉、野菜、果物などを屋台で売っている。多くは朝鮮人のおばさんたちだが、西牟田青年が日本人だと気がついて、威勢のいい日本語で声をかけてくる。

大通りの広い歩道で、背筋のシャンと伸びたスマートな老人が、新鮮そうなトマトを車の荷台に載せて売っていた。ハカリには朝鮮語の表示があった。

「日本から来たのかい?」老人は訛りのない知的な感じの日本語で話しかけてきた。

「このバイクで来たんですよ」

「それは大変だったね。このトマトはうちのビニールハウスで収穫したものなんだよ。食べてみな。」

かぶりつくと、みずみずしさが口の中にあふれた。5つ買って、食べながら話を聞いた。年齢は70歳とのことだった。

「日本時代の建物って残っていたりするんですか?」

「製紙工場ならいまも動いているよ。王子製紙の工場をソ連になってからもそのままずっと使っているんだよ」


■4.終戦間際のソ連の侵攻

日露戦争の勝利によって日本の領土となった南樺太には、日本人の入植が進み、林業、製糸業、漁業、石炭採掘などの施設が各地に作られた。内地よりも給料が良かったため、当時、大日本帝国の統治下にあった朝鮮半島からも出稼ぎや徴用などで樺太にやってきていた。

終戦間際の昭和20(1945)年8月8日、突如、日ソ中立条約を破ってソ 連が宣戦布告、翌日には北樺太から国境を越えて、ソ連軍が侵攻してきた。日本が降伏した8月15日以降も、攻撃をやめず、日本軍は応戦した。住民たちは必死に逃げまどったが、ソ連軍兵士は民間人に対しても、略奪、強盗、強姦などの限りを尽くした。[b,c]

ソ連が停戦に応じたのは8月23日のことで、その頃にはソ連軍は南樺 太のほぼ全域の占領を完了していて、日本本土への避難船の往来も遮断していた。往来が禁止される前に、本土に脱出できたのは樺太の全住民43万人のうち約10万人に過ぎなかったという。

トマト売りの老人は、終戦時15歳だったが、こうして島に残された。 戦争が終わってから1950年代までには日本人には何度か引き揚げるチャンスがあったが、朝鮮人は韓国がソ連と国交がなく、またソ連も労働力を必要としていたために帰れなかった。

北朝鮮に戻った人々もいたが、たまに「ものを送ってくれ」という手紙が届くぐらいで、音信不通になった。北朝鮮に帰還した在日朝鮮人と同様、厳しい警戒と差別のもとに置かれていたのだろう。[d]


■5.「ロスケ(ロシア人)に全部燃やされたよ」

トマト売りの老人が紹介してくれたポロナイスク郊外の金山さんという老婦人の家に泊めて貰うことになった。金山さんは、この地の日本人会会長をしており、遺骨収集や墓参りなどで訪れる日本人のほとんどを世話しているとのことだった。

金山さんはポロナイスクの北の山の中で生まれた。父親は林業の作業所の棟梁を務めていて、たくさんの従業員を抱え、その家は集落の中でもひときわ大きく従業員の飯場としても使われていた。しかし、終戦直前にソ連軍が攻めてきたことで、彼女の人生は大きく変わった。家は「ロスケ(ロシア人)に全部燃やされたよ」。

昭和20(1945)年8月20日、一家はやむなくポロナイスクに下りてき た。ソ連時代は、秘密警察の目が張り巡らされ、日本人が訊ねてくると、 取調を受けたり、尾行されたりした。

やがて朝鮮人と結婚して、子供ができ、彼女の国籍も北朝鮮に変えた。ソ連時代には、日本人より重んじられていた朝鮮人や、戦後入植してきたロシア人と結婚した日本人女性は珍しくなかった。

1957(昭和32)〜58年頃、親や兄弟は日本に引き揚げていったが、北朝 鮮国籍だったこともあり、金山さんだけが樺太に留まることになった。

ソ連が崩壊した後、日本に行けるようになった。残留日本人ということで、厚生労働省から渡航費とお小遣い1万円が支給された。金山さんは日本に6回行ったという。現在の年金は月4千円しかないので、1万円はなるべく使わずに持って帰ったという。

夫はすでに他界し、子供5人がポロナイスクの団地に住む。金山さんは毎日数キロを歩いて、子供たちに会っているという。樺太に生まれ育った彼女にとって、この島は愛すべき故郷なのである。国は変わっても。


■6.小山に立つ鳥居

日ソ激戦のあった北緯50度線を越え、最北端のエリザベート岬に着い てから、西牟田青年は東海岸沿いの道を引き返した。再び、金山さんの家にお世話になった際に、ある本に載っていた写真が彼を捉えた。

それは鳥居の写真だった。「樺太時代130を数えたという神社も、い までは、鳥居が残っているものはごくわずかだ」という一文が添えられて いた。そこはウズモーリエ(白浦)という所で、ちょうどユジノサハリンスクに戻る100キロほど手前にある。

金山さんから、ウズモーリエに住む岡本さんという人を紹介して貰い、尋ねていった。出て来たのは眼鏡をかけたインテリ風の老紳士だった。鳥居のことを聞くと、すぐ案内してくれるという。

岡本さんはソ連製のサイドカーにまたがり、西牟田青年を助手席に座らせると、運転しながら日本統治時代の話をしてくれた。「この町、戦前は2千人もいたけどね。いまは500人しかいないんだ」 知的な印象の日 本語を話した。昔は、この集落の発電所の責任者をしていたという。

しばらくすると、サイドカーが停まった。右側に海、左側に小高い山、あたり一面、草むらや湿地帯となって、見捨てられたような光景が広がっていた。

「ここには学校があったんですよ」 岡本さんが通っていた学校だ。すでに校舎はなく、小さな四角いコンクリート製の建物だけが残されていた。天皇皇后両陛下のご真影や、教育勅語が安置されていた「奉安殿」だった。今は壁に落書きがされ、床には投げ込まれたゴミが散乱している。

そこから500メートルほど小山を登っていくと、そこに高さ3〜4 メートルほどの白い鳥居が立っていた。昔は、学校からこの鳥居まで、繁 華街が広がっていたという。鳥居の他には本殿や狛犬など神社らしきもの は何も残っていなかった。「ソ連時代、ロシア人が日本時代の建物を壊そうとしました。でも、これだけは頑丈で壊れなかったんです」


■7.「『日本の足あと』を訪ねてみたい」

サハリンの旅の途中、残された日本時代の建物を目にし、日本語を話す残された人びとに会い、彼らの生きてきた時代の話を聞くごちに、僕の好奇心はふくらみ続けていた。

そしてそれは、この鳥居の目線に立ち、鳥居の見続けた光景に思いを馳せることで、「かつて日本の領土だった地域に、『日本の足あと』を訪ねてみたい」という切実な、渇望感にも似た欲求にまで昇華したのだった。「日本」を知るための旅が始まった---。

この後、西牟田青年は、4年近くかけて、台湾、韓国、北朝鮮、竹島、満洲、南洋群島と、かつての大日本帝国領を巡る。樺太から南洋パラオのペリリュー島まで南北4500キロに及ぶ壮大な範囲の旅だった。その過 程を『僕の見た「大日本帝国」』と題する紀行文にまとめた。

旅を終え、終戦記念日の翌日に、西牟田青年は靖国神社に赴いた。参拝の帰りの道すがら、靖国通り側にある石の鳥居の両脇に一対の狛犬があることに気がついた。その狛犬はユジノサハリンスクで見た旧樺太博物館の狛犬と、ほとんど同じ姿、同じ貌をしていた。

サハリンが、急にまた近づいてきた気がした。


■リンク■

a. JOG(181) 北方領土交渉小史〜スターリンの「負の遺産」
 ロシアの変転きわまりなき外交攻勢に、わが国は信義と国際法で対抗し
てきた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog181.html

b. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog203.html

c.JOG(763) 職務に殉じた9人の乙女 〜 樺太真岡郵便局悲話
 ソ連軍の迫る中で、9人の乙女は電話交換手として最後まで職務を果たそうと、決心した。
http://blog.jog-net.jp/201209/article_1.html

d.JOG(271) 「地上の楽園」北朝鮮への帰還
「地上の楽園」とのプロパガンダに騙されて、9万3千余の人々が北朝鮮に帰国していった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog271.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」』★★★、角川ソフィア文庫、1998
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/404409425X/japanontheg01-22/