平井 修一
■10月26日(日)。朝は室温20度、晴、温かい。数日前からカミサンは冬時間モードで朝食は7時になったので、小生も30分寝坊して6時半起床にした。ちょこちょこっと料理をして、フル散歩。
「大災害は鉄砲玉が来ないだけの戦場」・・・なるほど、大災害に対応し克服できなければ、とてもじゃないが戦場では勝てないということなのだ。自衛隊が大災害で頑張るのは一種の戦場体験なのだ。自然災害大国の日本は模擬的戦場ばかりで、それなら将兵は鍛錬されているだろう。
ウェッジ10/25「『ゼロからイチを創り出す』自衛隊の礎築いた工学博士」は志方俊之・元陸将を取材した記事。とても勉強になった。まったく知らないことばかりで、自分はいったいこれまで何をやってきたのだろうと、情けなくなるほどだ。
氏は1936年生まれ。58年防衛大学校卒業。68年京都大学工学博士。在米日本大使館防衛駐在官、第2師団長等を経て、90年北部方面総監。92年退官。退官後、帝京大学法学部教授。内閣府 中央防災会議専門委員、東京都災害担当参与も歴任。
以下は同記事のサワリ。
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「自衛隊に入ったきっかけは、死んだ父からの手紙でした」
防衛大学校2期生として入学し、1954年の自衛隊発足直後からの組織を知る志方俊之さん(78歳)。自身が防大に入学した経緯を教えてくれた。
「軍人だった父は終戦後ソ連の捕虜収容所に入り、48年に獄中死します」
志方さんの父親は母親宛てに遺書を残していた。父親と一緒に抑留されていた戦友が日本に帰還し、母親の実家に帰省していた志方さん家族のもとへそれを届けてくれたのである。
「非人道的なソ連軍に対して息子に仇を討つように。日本が再軍備していれば、軍隊に入れるように、と書いてありました」
父親の遺志を胸にしつつ、2歳の志方さんは、6年後、学費不要で家計に負担も少ない防大へ入った。
防大卒業後、幹部候補生学校と部隊で2年を過ごした志方さんは、旧軍が技術軽視によって敗戦したと考え、京都大学大学院の工学研究科(土木工学)修士および博士課程に進学する。
「実験を繰り返し、既知なるものから未知なるものを導き出すことの重要性を学びました」
大学院進学前の59年、志方さんは、茨城県古河駐屯地の第一施設大隊に三等陸尉(少尉)として着任した。自身の部隊を率いて災害現場へ初めて足を踏み入れたのが伊勢湾台風であった。死者・行方不明者合わせて約5000人に及んだ大規模高潮災害であった。
「すべてが水に浸かり、無数の遺体がプカプカと浮いている凄惨な状況でした」
最新の重装備を用意して行ったが、すべてが水浸しのなかでは何も役に立たなかった。手こぎボートで現場へ近づき、ロープで遺体をつり上げる原始的な作業の繰り返し。
「災害救助はまずは消防や警察ですが、大規模災害においては、訓練され高い技能を持つ隊員を多く抱える自衛隊が適しています。東日本大震災でもそうした能力が発揮されました」
現場着任直後の災害救助の経験は、その後の志方さんの活動につながる。
北海道全域の防衛警備や災害派遣を担当する陸上自衛隊北部方面隊。志方さんがそのトップである北部方面総監を務めていた91年、長年の構想だった緊急医療支援訓練「ビッグレスキュー」を実施した。
北部方面隊の隊員約3000人、ヘリ40機、車両1000台を投入した自衛隊史上最大規模の医療に絞り込んだ災害訓練であった。自衛隊内部からも「自衛隊の本来任務は戦闘防衛。世間におもねる訓練だ」と批判さえあった。しかし、当時米ソ冷戦が終わり、自衛隊の役割を再考。平時の役割として大規模災害における人命救助の機能を高めようと志方さんは考えていた。
「国を防衛するのが自衛隊の本来任務です。自衛隊はその任務を遂行するため、救助から輸送、通信、食糧や水の補給、医療まですべて自らの組織で行えます。防衛と災害の現場では共通点が多い。弾が飛んでこない災害時に対応できなければ本来任務の遂行などできるはずがありません」
志方さんが抱いていた思いはそれだけではなかった。
「その後の自衛隊の国連平和維持活動(PKO)による海外派遣を見据え、自衛隊が持つ高い自己完結能力を内外に示したいという思いもありました」
自衛隊退官後の99年には、東京都の災害担当参与に就任し、都でもビッグレスキューを主導した。当時、「装甲車が銀座を走る」などと話題になり、大掛かり過ぎるとの批判も。
「人口密度が高い都市こそ、大災害を想定して一定規模以上の訓練を行わなければ意味がありません。1万人の救援隊の動きを100人の訓練で検証することはできません」
それまでになかった災害救援訓練を実施した志方さんは「ゼロからイチを創り出す」ことを得意とする。
自衛隊の戦闘訓練に「レーザー交戦装置」導入を検証したのも志方さんだ。実弾を使用することなく実戦さながらに行うこの訓練は、今では自衛隊では当たり前の訓練になっている。
在米日本大使館防衛駐在官時代に米陸軍が導入したこの訓練を知った志方さんは、陸自第2師団長を務めた際、旭川の部隊で実証実験を担当し、自衛隊の実戦的訓練に沿うように工夫を加え、正式導入にこぎつけた。
防大2期生として、自衛隊初期における苦労はなかったのだろうか。先に触れた伊勢湾台風の災害救助で部隊を率いたとき、部下のほとんどは自分より年上の陸曹だったという。
「隊員から見れば、防大出の新米少尉に過ぎませんでした。年は若く、経験では足元にも及ばない。そこで毎日朝礼で、隊員の前で五省(旧海軍で将校の教育のために使用されていた5つの訓戒)を自ら唱え、一緒に復唱させることで、若い指揮官として純粋さをまっすぐに出すようにしました」
志方さんは発足後の自衛隊をずっと見てきたが、戦後しばらく社会の自衛隊に対する視線は厳しかったという。
「後にノーベル文学賞を取ることになる大江健三郎さんが同世代ですが、ちょうど私が防大を卒業する頃に『防衛大学生は若い日本人の1つの恥辱だと思う』と述べるなど、自衛隊に対する社会の意識は現在とは比べられない嘲笑的なものでした。そのために、若い頃は『なにくそ、逆にやってやろうじゃないか』とがむしゃらになって任務に取り組みました」
そんな志方さんから見て、現在の自衛隊はどう映るのか。
「PKO活動による国際貢献や東日本大震災における災害救助により、自衛隊は社会に認められた存在になってきました。そのなかでの活動ですから、甘えが出てくるかもしれませんね」
現在政府が検討を進める集団的自衛権の行使が可能になった場合、現場の自衛隊員の活動はさらなる危険に直面する場面もあるだろう。
世代交代も進んだ自衛隊は大丈夫だろうか。
「先日、海外派遣の経験もある若い隊員がこう言っていました。『憲法の制約のために、海外の現場に行っても、危険な場所まで他国の部隊と一緒に行って任務を果たせないことを重荷に感じた』と。今後はより危険な場所に派遣される機会も増えるでしょうが、それで逃げ出したりする自衛隊員はいないと思っています」(以上)
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「サワリを紹介」するはずが、長くなった。いい記事はカットできない。ほぼ全文になってしまった。ご寛恕を。
悪逆非道な“アカの祖国”ソ連は消えた。日本は圧力に耐えた。氏は父の仇をとった。中共殲滅は我々がやる。任せてくれ。大江は地獄で待つがいい。小生も地獄へ行くから追撃し首をとる。
■10月27日(月)。朝は室温20度、快晴、ポカポカ陽気。フル散歩。
中共の空母・遼寧でボイラーが爆発したそうだが、そうなると電気が動かないから、完全にスクラップ状態になる。米国は遼寧が中共に渡される前に、艦内の電線、圧力パイプ網、ボイラーやエンジンの仕様説明書をすべて取っ払うようにウクライナに工作した。「金目でしょ」、そうなった。
だから中共はただのスクラップを買った。復元するのにとてつもない金と時間がかかった。一番の問題はボイラーで、どこまで圧力をかけていいのか、試行錯誤だった。結局、爆発した。米国の工作がまんまと成功した。米国、GJ!
このスクラップ系空母で戦闘機の発艦、着艦訓練はほとんど上手くいっていないようだ。やはりうまく機能するまでに5年、10年はかかるのだろう。それまで中共がもつかどうか。小生の見立てでは来年で中共はお仕舞だ。
習とクネは曽根崎心中。<最期に及んで徳兵衛は愛するお初の命をわが手で奪うことに躊躇する。それをお初は「はやく、はやく」と励まして、遂に短刀でお初の命を奪い、返す刃で自らも命を絶った>(ウィキ)
♪此の世のなごり、夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。未来成仏うたがひなき、恋の手本となりにけり〜
気色悪いが、まあ楽しみだ。朝鮮日報10/26から。
<日本の対外純資産(企業や政府、個人が海外に保有している資産から負債を差し引いたもの)の残高は、今年3月末時点で3兆2000億ドル(約342兆円)に達する。一方、韓国の対外純資産残高はマイナス43億ドル(約4600億円)だ。一生懸命稼いでも、いまだに資産よりも負債が多い。
人に例えるなら、韓国経済は多額の借金を抱えるサラリーマンで、日本経済は資産の運用益だけでも十分食べていける銀行のプライベート・バンキング(PB)の顧客ということになる。
日本は昨年、資本収支だけで460億ドル(約4兆9000億円)の黒字(流入超)だった。これに対し、韓国の昨年の資本収支は2億ドル(約214億円)の赤字(流出超)だった。
このままでは、国を奪われるという屈辱を味わいながらも発奮せず、子孫に何も残せなかった先祖と同じ轍を踏むことになるだろう>
中韓は「日本にやっつけられた」という国辱妄想を共有しているようだが、日本がやったことは、素晴らしい工業国である満洲を建国して支那人にプレゼントした、どうしようもない破産国家の朝鮮に完璧なインフラを作り朝鮮人に贈呈した、両国にODAでさらに援助し、経済発展を促した、ということだ。
虚報に騙されずに歴史に学べ。中韓ともに虚報を前提にした国だから、ま、永遠に無理か。北も巻き込んで3Pで心中すれば世界は大喜びだ。
■10月28日(火)。朝は室温17.5度、快晴、秋日和、空気が締まってきた感じ、少し冷える。フル散歩。
エコノミストの柯隆氏によると――
<中国には「官史」と「野史」があり、「官史」は政府が雇った歴史家が記した歴史のことで、信頼できない。「野史」は民間の歴史家が記したもので、「官史」より真実に近いものがある。
古代の中国では、王朝の中に歴史を記す専門の官僚「史官」が設置されていた。歴史を真実に近づけるためには、史官の仕事にどこからも横やりが入らないようにしなければならない。そこで史官の独立性を担保するために、皇帝は自らに関する史官の記述を見ることができなかった(そういう掟があった)。そのため史官が自分の皇帝を辛辣に記す記述もあった。
このしきたりを破ったのは唐の太宗だった。太宗は史官らが自分のことをどのように記しているかどうしても見たくなり、見てしまった。この掟が破られてから、史官たちは皇帝に殺されるのを恐れて皇帝に媚びた歴史を記すようになった>(以上)
歴史は権力者の都合の良いように創作、捏造されやすい。言論の自由、学問の自由、報道の自由がない中韓北では真実とはまったく違う歴史が教えられ、信じられている。歴史家は殺されたくないし、金も稼ぎたいから、嘘八百を書く。
偽史は長年受け継がれるから国民は洗脳される。権力者に不都合なことは遡って改竄されたり隠されたりする。六四天安門虐殺事件は「政権転覆を狙った動乱」ということになっている。学生は一方的に殺されただけだった。中共は香港雨傘革命も動乱と呼んでいる。また殺すのだろうか。
嘘の歴史と毛沢東崇拝、反日教育、自由民主への激しい憎悪で凝り固まった誇大妄想狂、習近平は安倍氏と会うのか。支那通の近藤大介の見立ては――
<現段階において、APECで日中首脳会談が開催される可能性は低いと見ている。それは主に、以下の理由からだ。
第一に、習近平主席の性格である。これが一番大きい。
習近平は、アジア周辺外交を「古代の形」に戻そうとしている。すなわち宗主国(中国)−朝貢国(周辺国)間の「冊封体制」である。
冊封体制における中国外交の原則は、「中国に頭を下げる国」には味方として施し、「頭を下げない国」は敵として扱い、冷遇するというものだ。「頭を下げる」という意味は、「中国を尊敬・尊重し、中国の要求を呑む」ということである。
現在の中国のアジア周辺外交は、この習近平が望む「古代の形」において進められている。例えば朝鮮半島においては、「頭を下げる」韓国には施すが、「頭を下げない」北朝鮮は冷遇する。
第二に、習近平の「皇帝様」としての政治基盤が、まだ固まっていないことが挙げられる。そんな中で日本の首相と握手して「親日的姿勢」を見せたらどうなるか>(以上)
これ幸いと江沢民派は反日狂の“憤青”を動員して怒りまくるだろう。「動乱」になれば習はつぶれる。そんな危険は冒さないだろう。
話は変わるが、(株)開墾舎代表取締役の西郷隆夫氏は西郷隆盛の嫡男・寅太郎(ドイツ留学の陸軍軍人、侯爵)の孫だという。
<西郷には三度の結婚経験がある。3度目の妻は慶応元年(1865年)、39歳のときに岩山八郎太の23歳の娘、糸子(イト)と結婚。寅太郎・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子・菊次郎、お菊を引き取った。第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣・西郷吉之助は寅太郎の子>(ウィキ)
隆夫氏の会社(鹿児島)は“せご(西郷)どん”が好んだ、イト自慢の家庭料理「からしぶた」を製造販売しているそうだ。豚の角煮で、辛子とお酢の風味だという。
<2018年には「明治維新150年」を迎えます。これを機に近代化の礎を築いた鹿児島に関わりが深い西郷隆盛をはじめ郷土の偉人たちの足跡を学び、我々は「世のため人のために尽くし、そして次の時代へ生かしていく」ことが大切なことだと思います>(隆夫氏)
氏は先日10/10、福岡で講演し、こう語っている。
<明治維新は世界に誇れる意識改革だった。戊辰戦争で約8100人、西南戦争で1万1000人が死亡。当時、多く見積もっても約3万人の日本人が亡くなった。フランス革命では100万人が犠牲となり、ロシア革命や中国の長征、文化大革命ではもっと多くの人々が犠牲になっている。一般人が一人も犠牲にならなかったのは西南戦争だけだ。
西郷さんが言っていた道義国家というのは、日本では70%ぐらいができているのかもしれない。残りの30%は日本人が何かを忘れている。西郷さんは、それを「誇り」というだろう>(世界日報10/27)
“せごどん”のDNAが今も引き継がれているなんて感動的だ。田母神閣下のブランドもすごいが、“せごどん”のブランド力もすごい。一緒に「太陽の党」でやったらどうか。(変な党名。「愛国保守党」のほうがいいが)
僕の長女は鹿児島県奄美生まれ。その名前は“せごどん”の奥さんの名前「愛加那」だ。(“せごどん”は奄美に流刑されていた)
習のDNAは絶滅すべし。習を殺すことまでは僕はできる。それ以降の「支那維新、道義国への再建、14億の生活の道筋をつける」のは日中台香の若い人たちだ。誇りを持って頑張ってくれ。(2014/10/28)