2014年09月22日

◆谷垣氏の「律義」はどっちに向く?

今堀 守通



今月3日の内閣改造・自民党役員人事について、中曽根康弘元首相はこう評価した。

「安倍晋三首相は『総理大臣病』になってきたな」

 ここでいう「総理大臣病」とは、決して悪い意味ではない。安倍首相が長期政権を意識した人事を行った−ということで、いわゆる「お友達」ばかりをそろえるようなことをせず、挙党態勢を意識し、派閥にもそれなりの配慮をしつつ、メリハリを利かせたということだ。

最大のサプライズであり目玉といわれた人事は、谷垣禎一前総裁の幹事長起用だった。谷垣氏が幹事長になり、自民党内の結束は強まったといわれている。ところが、「谷垣幹事長」が安倍政権にプラスとなるのか、どうも怪しくなりつつある。

今月12日、谷垣氏、公明党の山口那津男代表、そして民主党の野田佳彦元首相が「同窓会」を開いた。3人は、消費税率を段階的に8%、10%へと引き上げるのを柱とする社会保障・税一体改革に合意し、関連法を成立させた当時の党首である。

翌13日 、谷垣氏はテレビ番組に出演し、来年秋の消費税率10%への引き上げについて「あまり先送りしないようにしなければいけないのが基本だ」と強調した。

谷垣氏は、「景気の動向をよく見ていかなきゃならないのは当然のことだと思う」とも発言した。しかし、「上げたときのリスクはまだいろいろな手で乗り越えられると思うが、上げなかったときのリスクは、なかなか打つ手が難しくなる」と述べ、消費税率10%は「通過点」とも答えた。

18日の日本商工会議所の総会では、「国民に将来の安心感を持ってもらう観点から、(10%への引き上げは)法律上からも自明と理解している」と明言した。

谷垣氏の発言に「してやったり」の思いでいるのは、安倍政権と敵対関係にある野田氏と、会に同席していた藤井裕久元財務相だろう。

「同窓会」は今年3月12日に続いて2回目だった。呼びかけたのは、元自民党衆院議員の森田一・元運輸相だ。森田氏は大平正芳元首相の娘婿。大平氏は、首相在任中に消費税の前身といえる「一般消費税」の導入を目指し、現職のまま急死した。藤井氏は野田政権の「後見人」役を務め、民主党政権時代に消費税増税の旗振り役を担った。森田、藤井両氏はともに旧大蔵省OBである。

大平氏は3月12日が誕生日、6月12日が命日。1回目の「同窓会」は大平氏の誕生日に合わせての開催、今回は「大平氏の月命日」ということで開かれた。谷垣氏の幹事長就任と山口氏の代表4選を祝う会も兼ねたことになっている。

ある出席者によると、藤井氏が乾杯の音頭で「消費税は予定通り上げなきゃいかんぞ」と谷垣氏らに「奮起」を促した。あとは大平氏にまつわる話や、党首時代の思い出話に花を咲かせた。

藤井氏には大きな狙いがあった。安倍首相が消費税率10%への増税に慎重であることを見越して、谷垣、山口両氏から首相に増税圧力をかけてほしいとの期待だ。自民、公明両党側が消費税増税で圧力をかければ安倍政権は混乱するだろうという期待も透けてみえる。

余談になるが、藤井氏は終戦の日の先月15日、民主党の海江田万里代表に党人事で注文をつけた。「反対野党に徹しろ」と。集団的自衛権の行使容認を断固阻止することが念頭にある。

藤井氏は周辺に「集団安全保障はよいが、安倍首相が進めようとする集団的自衛権は問題だ」と漏らしている。はたして、海江田氏は「挙党態勢」の人事を断行したというが、集団的自衛権の行使容認に前向きな前原誠司前国家戦略担当相ら保守系を主要ポストに置かず、排除した。

「同窓会」で、谷垣氏から「消費税は予定通り上げます」という趣旨の発言はなかったという。しかし、谷垣氏は幹事長就任当初こそ安倍首相に歩調を合わせる発言をしていたのが、12日の「同窓会」を境に「先祖返り」したような発言に戻った。

安倍首相は19日、都内で講演し、消費税に関してこう発言した。

「谷垣さんに幹事長をお願いしたことを『消費税増税シフト』だといった指摘もあったが、これは誤りだ。増税は税収を確保するためであり、増税によって景気が悪化し、税収もままならないようなことであれば元も子もない。私の考えは、谷垣さんに幹事長就任を打診するにあたって率直に申し上げた」

安倍首相は昨年、8%へ引き上げる決断を最後まで渋った。今年4月以降の景気は、8%増税の反動と夏の異常気象の影響で良好と言い切れない中、「経済再生」を政権の第一に掲げた首相が、10%引き上げに慎重になるのは当然のことだろう。

谷垣氏は、「お人好し」を自認し、魑魅魍魎が集まる永田町にあって「律義」を重んじる珍しい政治家である。問題は、「律義」がどっちに向くかだ。

安倍首相が10%増税を先送りしたいとなれば、それに従うのか、それでも3党合意の順守を訴え続けるのか。谷垣氏が首相に増税圧力をかけてきたら、「政高党低」といわれる政治手法で安定させてきた安倍政権の屋台骨は大きく揺らぐ。

安倍首相は谷垣氏に「なぜ『同窓会』に出たのだ」と言いたいところではないか。少なくとも、「同窓会」が安倍首相にプレッシャーを与えたのは間違いない。(政治部次長)

産経ニュース【今週の政治デスクノート】2014.9.21









◆中共ヤクザの脅し言葉

平井 修一



中共の本質はヤクザ、ゴロツキだ。「中国政府高官『生きていられるのは政府の寛容』、香港民主派への露骨な威嚇か」と大紀元日本が9月17日に報じた。
・・・

中国政府駐香港特区連絡弁公室(中聯弁)のトップ、張暁明主任は8月末の民主派議員との会談の際、「民主派が依然として生きていられるのは、中国政府(共産党)の寛容と礼儀の証である」と話した。

香港紙・アップルデイリーは12日、AP通信社の報道を引用し、張暁明主任は8月下旬に香港民主派との会談で「あなた達が生きていられるのは、政府(共産党)の寛容と礼儀のおかげ」と話した。さらに「一党独裁の終了を求めるのであれば、中国本土で生存することは出来ない」と話した。

11日付のロイター通信も、香港民主派議員・梁耀忠氏が、「北京当局は香港民主派が特区長官への選挙出馬を許すかどうか」と質問したところ、張主任は「あなた方が生きている事を許されているのは、国家が寛容であることを示している」と即座に答えたと、2人の匿名の関係者の話を引用して報じた。

一方、中国軍駐香港部隊の動きが、最近、活発化していると複数のメディアが報じている。今年6月末、中国政府は一部の香港市民を駐香港部隊の見学に招待し、テロ対策訓練を中心とした訓練を披露した。

7月末、「占中」(ビジネス中心街を占拠)する香港民主派の大規模な抗議活動に対抗するために中国軍駐香港部隊は戦車や催涙弾を使った軍事演習を行った。

8月28日朝、中国軍駐香港部隊の数台の装甲車列が香港市内の中心部を通過した。複数の市民が目撃したという。中国当局は武力を誇示して香港人を威嚇しているとみられ、香港の情勢は不安定で緊張がいっそう高まっている。(以上)
・・・

張は図らずも本音を漏らしたわけだ。「誰のおかげで生きていられると思っているんだ。中共に逆らうとぶっ殺すぞ!」と。

習近平以下、中共党員は皆そう思い、国民のみならず周辺国にもこの態度で臨んでいるのだ。

「東シナ海も南シナ海も4000年前から俺のもんだ。文句あるか、この野郎。逆らうとぶっ殺すぞ!」「誰のおかげで商売できているんだ。ミカジメ料払え。逆らうとおっぽり出すぞ!」

「ようよう学者さんよ、誰のおかげで飯にありついているのか分かっているのかよ。学問の自由だと? 生意気言ってるとぶっ殺すぞ!」

「テメエの悪事は全部知ってるんだぜ。習近平さまに逆らったらハエ叩き、虎退治でひねりつぶすぞ、この野郎!」

「ここにビルを建てるからな、さっさと出て行きな。いやだと? ここは誰の土地だと思ってるんだ。共産党のものだろ。ぐずぐずしていると叩きだすぞ、この百姓!」

「ここは俺の縄張りだ、何嗅いでいるんだ、この野郎。戦闘機をぶつけるぞ。うちには血の気の多い奴が多いからな、死にたくなければ近寄るな。お前、殺されたいのか? それならぶっ殺すぞ、この野郎!」

基本的に習近平はこう言っているのだ。

習近平が尊敬する毛沢東は「自分に反対する軍閥、官僚、買弁、地主、知識人は敵だ」(1926年3月)とし、「革命は暴動であり、ひとつの階級が他の階級を打倒す激烈な行動だ」(1927年3月)と書いている。

戦前の支那は統一国家が名目上はあっても事実上はなく、群雄割拠の戦国時代。勝った奴らは「軍閥」=ヤクザ・マフィアと呼ばれ、負け組は「匪賊」=愚連隊・チンピラと呼ばれた。

軍閥、匪賊は金が目当てだから住民はミカジメ料を払って、「まあ、お手柔らかに」ということで、多分娼婦もつけて手打ちした。すべて「金目でしょ」ですんだのだ。

ところが共産主義の「赤匪」は基本的に貧乏人以外は全部殺しまくる。毛沢東がそう指導したからだ。

「赤匪が来る」となると街も村も住民は逃げて、まったく無人と化したという。赤匪=中共軍は貧乏人、乞食以外は「この野郎」と容赦なく殺したからだろう。皆、赤匪をエボラ、イスラム国のように恐れた。

「革命はお上品で、おっとり、みやびやかで、おだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、控えめなものではない」

毛沢東はこう言って、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす、という「三光作戦」をやったのだろう。文革や64天安門を見れば残虐性の一端が分かる。

昔から現代まで中共は「俺に逆らうとぶっ殺すぞ!」というのが初期設定、デフォルトだ。我々はこのキチ○イに対し、「西側の秩序に逆らうとぶっ殺すぞ!」と言うしかない。言うことを聞かなければ屠るしかない。さっさとつぶすべし。(2014/9/2)
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◆保守主義を理論化する必要あり

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 



<平成26年(2014)9月21日(日曜日)通巻第4342号  日曜版>

(読書特集)  
 ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆

 〜保守主義を理論化する必要あり、祖国再建の青写真を急ごう
    混沌とした日本の思想界、「なんとなく保守」という現状を憂うる〜

  ♪
小川栄太郎『最後の勝機』(PHP研究所)

副題に「救国政権の下で、日本国民は何を考え、どう戦うべきか」とある。

しかし「危機は勝機」とは昔から言われてきた箴言、いま日本が抱える問題は尖閣、靖国、TPP、原発、歴史認識であり、この連続する国難を如何に克服し、伝統ある祖国を保守するか、著者は真剣勝負に出た。

まず著者は「保守主義」とは何かを模索する。

評者(宮崎)に言わしめれば、現代日本の保守は3つのカテゴリーに区分けができ、まことの保守、体制保守、そして生活保守である。

これらが、しかし冷戦終結前までは、おおざっぱに「反共」という陣営に0て、左翼と戦っていた。左翼が昔日の面影もなく後退して、左翼の牙城=朝日新聞が命脈を絶とうとする今、保守は明確に分裂している。

著者は最初に、摘菜修や中野剛志とか、「保守」の新星を批判しつつ、保守とは生活そのもののなかにあり、とした小林秀雄、福田恒存、江藤淳らの思考の軌跡をたどる。

そして保守論壇の現況に言及し、こう言われる。

「国際的なネットワークやグローバリズムへの反感が、今の保守には大変強い。幕末で言えば攘夷だ。しかし、結局、日本が幕末を生き延びられたのは攘夷の情念を超克して、尊皇開国を決断したからです。

それから大騒ぎになりそうなTPPでもそうなのですが、どうも今の保守の議論は、攘夷を小さくした、旧来の自民党的保護主義に、根性が似ている」。 女々しい議論が横行するが、「自主防衛で強靭な国家を選択する以外に道はない」。

そうだ。そもそも独立国家に外国の軍隊がなぜ居るのかという議論が殆ど為されていないのである。

また評者もつねづね言ってきたことだが、論壇は保守全盛となったが、文壇は未だに左翼全盛なのである。大江が大御所で、グローバルをいう村上春樹が偉そうに振る舞い、左翼崩れは論壇では論理が破産したが、論理を無視する世界、つまり文学では左翼がいまも圧倒的に強い。文芸家協会は保険の相互援助組合化しており、ペンクラブは左翼の吹きだまりとなった。

このゆゆしき現状について小川氏はいう。

「日本の出版界は、歴史に残る文豪を1人も世に出せなくなった。大碩学もいなくなった。幸田露伴、泉鏡花、谷崎潤一郎、柳田国男、小林秀雄、白川静。。。商売を度外視した世界だったからこそ、逆に長い目で見れば末永く商売になる」にもかかわらず「目先のビジネスだけに血道を上げ、出版界を枯れ果てた土壌にしたのは、グルーバリズムでもアメリカの日本収奪でもなかった」のだ。

したがって国家百年の計を立て、日本を立て直す「基礎工事」をなすには、次の三つが最も大切だと著者は言う。

第一に人口減少社会の対処。第二がエネルギー問題。第三は教育である。

基本的に賛成である。ただし、評者は第一が教育、第二がエネルギー、第三は国防であり、人口減少は歴史教育が復活し日本人がもとのような「人間」になれば自然に増えるので楽観視している。

人口バランスを取るための「移民奨励」などは愚の骨頂である。

それよりも、保守とは何か、日本の保守は何をしなければならないかの前提として、著者は下記の分析を展開されている。

保守主義はイデオロギーではなく、日本人は古来より自然に親しみ、「自国の伝統を創造し続けられた事が、日本で保守の理論化が進まなかった根源的な要因」である。

また戦前は「保守思想が成立する意味も余地もなく、国民一丸となって富国強兵に専念する一方、戦後初めて左翼への言論嬢の防御が必要となったときには、防戦一方とな」っため、理論化が進まなかったと分析される。
その通りだろう。

第三に理論家を推進できなかった理由はアケデミズムの怠慢だった。かくするうちに「ソ連の崩壊により冷戦が終わりました。日本は赤化からなんとか逃げられた。ところが、今度は、その事が日本の保守派を、また油断させてしまった」のである。保守主義を考える格好の問題定義が並んだ。

まことに祖国再建への道のりは遠い。

◆大陸の動乱と遣唐使の廃止

伊勢 雅臣


平安朝では学問も進み、戦乱の続く中国大陸から学ぶべきものは残っていなかった。


■1.「菅原道真が提唱した遣唐使廃止の理由」

「歴史教科書読み比べ(16):平安時代を支えた藤原氏の英智」[a]では、天変地異がうち続く中でも、人口増を支えた藤原氏の奮闘を描いたが、内乱のうち続く大陸との縁を切って、遣唐使を廃止したことも英断の一つであった。

自由社の歴史教科書は「9世紀に入ると唐がおとろえた。朝廷は菅原道真の意見を取り入れて、894(寛平6)年に遣唐使を廃止した」と述べ、「菅原道真が提唱した遣唐使廃止の理由」と題するコラムで、次のような理由を挙げている。[1,p68]

(1) 中国では内乱が続いている。

(2) 遭難が多く、国家有為の人材を失う。

(3) 日本と唐の文化は対等で、もはや学ぶべきものはない。

(4) いつのまにか朝貢のようにあつかわれており、国の辱(はずかしめ)である。(「菅家文集」より)

遣唐使廃止は、わが国の文化的独立を象徴する歴史的な事件であり、その廃止を提唱した菅原道真の説明を記載している点は優れた配慮だが、ここの所はもう少し背景の説明が必要だ。


■2.「唐や新羅の商船を利用して」

同じ遣唐使廃止を東京書籍版はこう説明する。

<東アジアの変化と遣唐使の廃止 その後も多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して日本と唐との間を行き来しましたが、唐では国内が乱れ、9世紀にはその勢力が急速におとろえたため、日本は長く続けてきた遣唐使を廃止しました。

唐は10世紀のはじめにほろび、やがて宋が中国を統一しました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(コリョ、こうらい)がおこり、新羅をほろぼしました。

日本は、宋や高麗とは正式な国交を結びませんでしたが、両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました。>[2,P42]


自由社版よりはやや精しく中国大陸や朝鮮半島の情勢が書かれているが、よく読むと、巧みなトリックによる偏向記述が隠されている。

「多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して日本と唐との間を行き来し」たというのは、事実だが、その後、遣唐使廃止の文を続けているために、あたかも遣唐使も「唐や新羅の商船」を使ったかのように誤解してしまう中学生もいるだろう。

遣唐使船が日本の船である事は、Wikipediaの「大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の『住吉大神』を船の舳先に祀り」という記述[3]からも明らかである。そもそも大和朝廷は、すでに300年以上前の663(天智2)年に、朝鮮半島の白村江の戦いで400隻もの軍船を送っているほどの造船・操船技術を持っていた。[b]

なのに「多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して」というのは、大陸や半島の戦乱から国内を守るために、大和朝廷が半鎖国政策をとって、日本の商船の渡航を禁じていたからである。


■3.戦乱うち続いた中国大陸と朝鮮半島

東書版では「唐では国内が乱れ」「宋が中国を統一しました」とか、「朝鮮半島では高麗(コリョ、こうらい)がおこり」などと、さも平和的な政権交代が起こったかのように記述しているが、当然、王朝交代には激しい戦乱がつきものであった。

唐は907年に滅びたが、その末期には859年、868年と内乱が続き、874年から884まで10年も続いた黄巣の乱は全国に波及した。菅原道真が遣唐使廃止を提唱した理由の第一に「中国では内乱が続いている」とあるのは、この事である。

唐の滅亡後は、907年から960年の半世紀もの間、華北では5つの王朝が興っては滅び、また華中、華南では10カ国もの地方政権が割拠したため、この時代を「五代十国時代」と呼ぶ。

一方の新羅は唐との対立から長らく日本に従属し、朝貢する関係にあった。752(天平8)年には新羅王子が700余人もの新羅使を伴って朝貢した。しかし、その北に渤海が興り、唐との戦いを始めると、新羅は唐に接近して、渤海を攻撃する。

唐との関係が良くなると、新羅は日本に無礼な態度をとったり、また国内が混乱すると、慇懃な態度に戻ったりと、その節操なき外交姿勢は現在の韓国・北朝鮮と同様であった。

そして新羅の国内情勢が悪化すると、人民の一部が日本に亡命してきたり、賊と化して対馬や博多を襲ったりした。朝廷は842年に新羅人の入国を禁じ、流民は食料を与えて帰国させ、商人は交易終了後、直ちに帰国させることを命じた。[3,p150]

内乱が続く中で、892年に南西部に後百済が興り、901年には北部で後高句麗が建てられて、3国が争う時代に入る。そして後高句麗が政変により高麗となり、後百済、新羅を亡ぼして、ようやく半島を統一したのは936年であった。

10世紀前半は大陸も半島も、このような戦乱の最中にあった。大和朝廷が、遣唐使をやめ、半鎖国状態をとったのは、こういう国際情勢からだった。平安時代には、まさに平安のうちに国風文化が花開いたが、その結果から見ても半鎖国政策は正しかったと判断しうる。


■4.宋から輸入品

東書版は、遣唐使廃止後も「両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました」という。あいかわらず「先進地域から文明を学んだ」というふうに読めてしまうが、実際はどうだったのか。

大陸で群雄割拠した10国のうち、揚子江の下流、東シナ海に面した呉越国は他国よりも平和だったために産業や文化が発達し、海外貿易も盛んで、わが国にも936(承平6)年以降、数回使者を送ってきた。また、この地方に960年、宋王朝が興り、半世紀ぶりに大陸を統一した。

宋の商船はしきりにわが国に来航して、12世紀の半ばまでの約2百年間に70回以上に達した。朝廷は宋船の来航を制限する法令も出したが、貿易の利益を狙う宋の商人は太宰府の管理する博多港をさけ、越前の敦賀などに密入国までした。

日本が「文物を輸入した」というのは史実の半面で、日本からの輸出品で大儲けできるから、多くの宋船がやってきたのである。宋の商人が持ってきたのは、絹織物、香、薬品、陶器、文房具、書籍など、平安貴族が珍重する贅沢品が多かった。

輸入されたのは中国の文物に限らない。ペルシャ産のガラス器やインド、東南アジアからの香木、染料、薬物なども唐を経由して輸入された。宋は当時の国際貿易ネットワークの中心であった。宋の商人から輸入したと言っても、「中国の進んだ文物を輸入した」とだけ理解しては一面的である。

また、東書版は何かと朝鮮を引き合いに出す習性をここでも見せて、わざわざ高麗商人の活躍も記載している。

しかし、たとえば『日本全史』は「古代世界を結ぶ物流のネットワーク 輸入された文物」という見開き2ページの記事で、世界各地からの様々な舶来商品を紹介しているが、そこには朝鮮産の商品は登場しない[4,p150]。

朝鮮は地理的な利点から仲介貿易には関わっても、平安貴族が珍重するような文化財は産出していなかったようだ。


■5.宋の商人が求めたもの

一方、宋の商人がわが国に求めたのは、金・銀・硫黄・水晶などの鉱産物、絹、布などを中心として、金銀蒔絵(まきえ)、漆器類、扇・屏風・刀剣などの工芸品も珍重された。日本が一方的に「文物を輸入」したのではなく、互いの文化財を交換したのである。

1073(延久5)年、宋の第6代皇帝・神宗は、渡来していた日本僧の帰国に際して、大和朝廷あての正式の国書と贈り物を持たせて、国交を開こうとした。しかし朝廷は国交再開には消極的だった。

宋との貿易は貴族の珍重する贅沢品が中心で、これ以上、拡大しても国益が増進するはずもなく、また宋が統一したとはいえ、いつまた動乱に戻るかも知れない大陸に関わっては、国内の平和が脅かされる恐れもあったからだろう。

日宋貿易とは言っても、宋の方が熱心で、日本の方が消極的だったという史実を見れば、「文物を輸入しました」というより、「日本の文物を求めて、朝廷の半鎖国政策もものともせずに、宋や高麗の商船がやってきました」と書いた方が正確だろう。


■6.日本から仏典を逆輸出

遣唐使廃止の理由の第3に「日本と唐の文化は対等で、もはや学ぶべきものはない」という点も、国史を学ぶ上で重要なポイントだ。國學院大學名誉教授の樋口清之氏は『うめぼし博士の逆・日本史3』で、こう語っている。

<遣唐使制度が始まってからわずか十数回も往復しただけで、平安初期には、すでに中国の文化・文物の大部分が日本に輸入されてしまう。仏教経典の全集というべき大蔵経も来てしまった。大蔵経とは、三蔵法師が天竺(インド)から中国へ持ち帰って漢訳した仏典のことである。>[5,p105]

日本があらかたの仏典を持ち帰ったのに対して、中国では五代十国の戦乱で、多くの文献が失われたようで、宋代に渡った日本人僧は逆に多くの書籍を持っていった。

<1003年(長保5)年に入宋した天台宗の僧寂照(じゃくしょう)も多くの書物を持っていったが、そのうちにも宋ではもはやみることのできなくなったものもあって、その一部はかの地の僧の手によって出版されたという。成尋(じょうじん)は天台宗や真言宗関係の経典6百巻以上をたずさえて渡宋したが、これもかの地では貴重なものであったらしく、神宗に献上されている。>[5,p155]

■7.中国以上に進んでいた我が国の仏教学

半世紀もの戦乱で多くの書物が失われたということは、焼かれた寺や殺された僧も多かったであろう。そんな動乱の中で仏教研究が進むはずもない。逆に平和な日本では、買い集めた仏典で研究に没頭することができた。宮内庁書陵部の橋本義彦氏は日本の僧が入宋に際して、書物を持っていった事に関して、こう述べている。

「こうしたことは唐代までは見られなかったできごとで、わが国の仏教学が中国と対等、あるいはそれ以上の地位まで進んだことを語っている」。
[5,p155]

その実例として氏は、源信(942-1017)の著した「往生要集」が中国に送られ、多いにもてはやされた、という事実を挙げている。

また、上述の成尋の旅行記では、多くの学僧と会った話はあるが、教えを受けた様子はなく、かえって法華経の講義をしたことが書かれている。[5,p156]

寂照は宋に在ること30余年でかの地に没したが、その間第3代の皇帝真宋をはじめ朝廷の人々に深く敬愛されたという。[5,p157]

しかし、それではなぜ日本僧たちは、はるばる波濤を超え、危険を冒して大陸に渡ったのか。彼らの目的は中国仏教の研究や、典籍の輸入ではなく、天台宗の根本道場である天台山に詣でたり、文殊菩薩があらわれるという霊場五臺山に巡礼することだった。

たとえて言えば、中世以降の欧州のキリスト教徒が聖地エルサレムに巡礼をするようなもので、そこで何を学んだかという事よりも、苦難を乗り越えて、そこに行く事自体が修行だった。その求道心は立派である。

■8.大陸で活躍した日本人

大陸に渡って活躍した日本人を見ても、日本の文明の程度がすでにひけを取るものではなかった事が分かる。

弘法大師・空海は804(延暦23)年に遣唐使の一員として入唐した。船が目的地のはるか南の福州に到着した為、地方の役人が怪しんで都への出発許可を与えない。空海は遣唐大使の代理として福州観察使への手紙を書いたが、観察使はあまりに見事な漢文に驚き、ただちに疑いを捨てて、出発を許した。[6,p107]

長安ではインド仏教の流れを伝える最後の高僧・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に巡り会った。死期の迫っていた恵果は空海を見るや「われ先より汝の来たるを知り、相待つこと久し」と喜び、千人以上もいた弟子たちを差し置いて、ただちに密教の秘法をすべて空海に授けた。こうしてインド密教の正統は、日本に伝えられたのである。[6,p117]

留学生として有名なのは、奈良時代、717(養老元)年に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)である。唐で科挙に合格し、高官にまで出世し、李白や王維ら当時一流の文人たちと交際し、彼らに引けをとらない漢詩をつくっていたという。

 在唐35年にして、一度は帰国を許されて遣唐使の帰国船に乗り込んだが、ベトナム中部に漂着し、唐に戻った。帰国船に乗り込む前の送別会で、王維ら友人を前にして日本語で詠ったとされているのが、百人一首に選ばれている次の歌である。

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

同じ天の原の月に照らされている、はるか郷里の山を偲ぶ切々とした望郷の思いが伝わってくる。こういう歌で、遣唐使として渡唐し異境に客死した先人の心を偲ぶことは、中学生の情操教育にも良いだろう。


■リンク■

a. JOG(857) 歴史教科書読み比べ(16): 平安時代を支えた藤原氏の英智平安時代は、藤原氏の専横と国司の人民収奪で乱れた時代だったのか?
http://blog.jog-net.jp/201407/article_3.html

b. JOG(808) 歴史教科書読み比べ(10) 〜 白村江の戦い老女帝から防人まで、祖国防衛に尽くした先人の思い。
http://blog.jog-net.jp/201307/article_7.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. ウィキペディアの執筆者,2014,「遣唐使」『ウィキペディア日本語版』,(2014年9月18日取得,
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD
%BF&oldid=52588558)

4. 蟹江征治他『日本全史(ジャパン・クロニック)』★、講談社、H2
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406203994X/japanontheg01-22/

5.橋本義彦『日本の歴史文庫(5) 貴族の世紀』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETFY/japanontheg01-22/

6.目崎徳衛『日本の歴史文庫(4) 平安王朝』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETG8/japanontheg01-22/

    

2014年09月21日

◆モディ首相は習近平に怒り表明

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)9月20日(土曜日)通巻第4341号>  

 〜「中国の武力侵攻は相互理解を踏みにじる行為だ」
   モディ首相は開口一番、習近平に怒りを表明していた〜

インドと中国の首脳会談は18,19日にニューデリーで開催された。

ところが、この記念すべき会談を狙うかのように中国軍が紛争地帯カシミールのラダク地区へ侵入した。このニュースがもたらされたとき、モディ首相は怒気を含んだ口調で強く習近平に抗議した。

「これでは相互理解を深めることが不可能である」と。

習近平はこの事態を知らず、翌日になって「事態を憂慮する。現状を維持することが相互の利益であり、(もし中国軍が策定されてラインを侵害したとすれば)それは偶発的事故である」と述べた(『ザ・タイムズ・オブ・インディア』、9月19日)。同紙は、19日午后、中国軍が撤退していると報じている。

習夫人はこの間、デリーのインタナショナルスクールなどを訪問して笑顔を振りまき友好の演技に余念がなかったが、インド外相のスシャマ・グラショットはカウンター・パートの王毅外相と会談し、モディ首相と同じ見解を述べた。

中国はインド訪問に当たって実業界幹部多数を伴い、合計200億ドルの商談をまとめたと言われ、また中国はインド訪問と首脳会談の最大の目的をインドのSCO(上海協力機構)の正式メンバーに加える事だった。

中国と露西亜の考え方では、このSCOを将来的には中央アジアのNATOのような存在とし、アフガニスタンの安定に前向きな施策を共有したいからである。

第2の目的は近未来構想としての「BCIM(バングラ、中国、インド、ミャンマー)の経済回廊」の設立である。

したがってインドのいうような中国軍のカシミール南端への侵攻があったとすれば、習近平は軍をまったく掌握していないことになる。

◆植村隆の師匠・清田治史

平井 修一



サイト「正しい歴史認識」が「捏造の元祖が大学を退職!吉田清治を最初に報じた元朝日新聞取締役の清田治史・次は北星学園の植村隆」と報じている。

帝塚山学院大学(PDF)のサイトにはこうある。

<教員の退職について 清田治史氏に対して多数のご意見、お問い合わせを頂戴しておりますが、同氏は9月13日を以て、本人の申し出により退職したことをお知らせいたします>

以下、「正しい歴史認識」から引用する。

                ・・・

この清田治史(きよた はるひと)とは、元朝日新聞の取締役(西部本社代表)で、今年8月5日付け朝日新聞朝刊の「慰安婦誤報検証記事」の中では「大阪社会部の記者(66)」として記載されている。

1982年に世界で初めて「世紀のペテン師」吉田清治(よしだ せいじ)のことを記事にしたのは、この清田治史だった!

漢字で見ると「清田治史」と「吉田清治」なので非常に紛らわしいが、読み方は大きく異なる。

世界で最初に吉田清治(ペテン師)のウソを報道した清田治史(元朝日新聞記者)は、朝日新聞による一連の「従軍慰安婦強制連行」捏造報道に関する批判が高まる中、平成26年(2014年)9月13日をもって帝塚山学院大学教授及び国際理解研究所所長を追われるように退職した!

元朝日新聞論説委員・長岡昇さんの記事「慰安婦報道、一番の責任者は誰か」(9/6)から。

<古巣の朝日新聞の慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。

ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。なぜお詫びをしないのかも不思議でした。

そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。

一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治の証言を扱った記事です。1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。

大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。

この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。

その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。

「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。

だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。

そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです>(以上)

              ・・・

師匠と弟子と詐話師・吉田清治の醜いコラボが、でっち上げの虚報を産み出し、朝日が世界中に拡散し、日本と日本人を貶めたのだ。被害者1億3000万人という世紀の冤罪事件。泉下の英霊やご先祖様を含めれば数億になる。

我々は朝日を絶対許さない。1億火の玉となって殲滅戦を戦い抜こう。君よ憤怒の河を渉れ。合言葉は「鬼畜朝日。停戦しません、潰すまで!」。1人たりとも討ち漏らすな。(2014/9/17)

         

◆ソウル 漢字復活の悲喜

黒田 勝弘



産経ニュース 【外信コラム】 2014.9.20

昔の韓国は街の看板には規制が厳しくて、英語禁止の時代があった。解禁は1990年代以降だったか、その結果、今や英語だらけだ。ハングル自慢をはじめ日頃の「わが国最高」という愛国キャンペーンはいったいどうなっているの、と厭みをいいたいほどだ。

そんな中で珍しくソウル都心の高層ビル街に漢字で「清進商店街」と書いたアーケードが登場し目を引いている。光化門広場近くの鍾路の大通りに面した再開発地域だ。以前は古い路地街で、昔のソウルの面影を残したその風情がよかったが最近、高層ビル街に様変わりしてしまった。

「清進商店街」の漢字はその罪滅ぼし(?)かもしれないが、英語全盛時代に漢字とはどうやら中国人観光客などを意識したもう一つの国際化らしい。高層ビル街での漢字復活は逆にエキゾチックでさえある。

ちなみにこれまで漢字の看板というと中華料理屋しかなかったが、近年は行政当局がソウルの地名標示などに漢字を付けている。ところがこれが現在の中国の簡体字だから困る。

中国人も日本人も分かる「駅」でいいのに「站」だし、ソウルの「首●(爾)」も落ち着かない。中国人記者も昔の「漢城」や「京城」の方が首都らしいのにと首をかしげていた。その意味では「清進商店街」は伝統風で好ましい。

●=欠の人が小

◆愚者も一票、賢者も一票

Andy Chang

  
世界の注目を集めたスコットランドの住民投票は「独立否決」の結果が出て、英国や米国その他の国で安堵の声があがった。印象的だったのは投票の前後を通して賛否双方が平和を維持し、結果が出た後も衝突が無かったことだ。

これは英国国民の「民度」が高いことを示してる。選挙で政治問題を解決する方法は公平であると同時にいろいろな問題もある。一人に一票は民主平等で公平だが、人間は十人十色、みんな違った意見がある。国の将来を左右する問題を解決するには危険でもある。人
民の教育程度、民主の程度が大切で、民度の低い国で正しい選挙が出来るか疑問である。

●愚者も一票、賢者も一票

英国、スコットランドのように民度が高く、人民の教育や知識が平均的に普及している国では有権者が投票問題点を理解し、冷静な判断が出来た。しかし国によって民主の程度が違う。独裁国でも選挙、住民投票はできるが公正な結果は望めない。

選挙が出来れば民主国家というのではない。独裁国家でも選挙を行うし、金権政治力で選挙をする国は多い。台湾人は独立建国を願っているが、中華民国の住民投票法が不合理で公正な選挙はできない。

選挙とは愚者も一票、賢者も一票である。人民は投票する権利があり、富める者も貧乏人も一票、知識人も無知な人も一票である。このような投票は確かに公平だが、みんなが法案を理解し正しい判断をするとは限らないし、外部の圧力で投票する人も多い。大学教授
と有名タレントが立候補すればタレントが当選する。宣伝に左右され、金で買収される人も居る。

人間の学歴や知識だってかなり問題である。昔は共産主義に憧れた学者がたくさん居たし、今でも頑固な共産主義者が居る。知識のない人は他人の意見に左右され易いが、なまじ知識があると思っている人は間違いを反省しない。

●選挙を左右する金と権力

今回の投票はスコットランドの将来、英国の将来を左右する重要な問題だったので有権者も慎重に考慮し投票したと思うが、一般選挙では個人に利害関係のない法案もある。個人的に興味が無い法案は金や宣伝に影響され安い。

選挙は金が付き物と言うがどの国でも選挙に大きな金が動く。金は何所から来るのか。金がある団体、政党が選挙で利益を得るために金を使うのだ。金を使って宣伝し金で有権者を買収する。これが公平選挙かといえば答えはノーである。

愚者は金や宣伝に影響されやすいが、賢者は金を利用して政治に影響を与える。金が政党を作り選挙を左右する。政党政治は金が大きな力を持つ。選挙は公平な制度だが金で動かすことが出来るなら正しい選挙ではない。

人民の意見が政治に影響を与える選挙は民主主義の理想かもしれない。しかし金が有権者の意見を左右し、政治を左右すれば金権独裁となり、独裁政治と変わりはなくなる。

愚者も一票、賢者も一票である。民主選挙は完全ではないが、より完全に近いものにするには国民の民度を高める教育が大切である。

今回のスコットランドの住民投票は平和で公正な結果で、スコットランドは英国連邦に大きな政治力を持てるようになった。それが出来たのはスコットランドや英国の民主主義の徹底と一般教育の普及のお陰、つまり英国国民が世界に誇る、高い「民度」のお陰である。
各国の人民にとって良い教訓となったはずである。

2014年09月20日

◆インドからも「イスラム国」に

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)9月19日(金曜日)通巻第4340号 > 

 〜インドのハイテクシティ「ハイダラバード」からも「イスラム国」に
  豪で15名拘束、インドネシアでも4人。広がるイスラム世界での異常現象〜


習近平(中国国家主席)がインドを訪問し、モディ首相と会談した。総計2兆円にものぼる新規投資をぶち挙げ、「本当か?」と首をかしげた読者も多いだろう。

日本が具体化しつつある新幹線プロジェクトはデリーからムンバイを繋げるインド経済の大動脈で、とりわけアーメダバード(グジャラート州)とムンバイ間では本格的なフィージビリティ・スタディ(商業化の可能性調査事業)が進捗している。

アーメダバードはモディ首相の地盤。ヒンズー教が強い。この周辺に「日本企業専用工業団地」が建設され、すでにスズキ、ダイキンなど日本企業が大工場を林立させている。

習近平は、この地域に中国専用の工業団地建設を要請し、モディも歓迎した。また新幹線プロジェクトも日本の半値という好条件で横取りを狙う。

とはいえ、表面的な経済協力を謳い、にこにこ路線を演出しても軍事的対立は一向に緩和されてはおらず、中印国境では軍事均衡と緊張が続いている。

さて、そのことではない。

問題はインドのハイテクシティにおける異変である。

シリアとイラク北東に盤踞する過激派「イスラム国」(ISIS)は、いまや2万から3万のメンバーで、このうち6000名から7000名が外人部隊。それも西欧の白人が戦闘員に混ざり、気勢を挙げている。
 
「イスラム国」は世界各国にリクルート部隊を派遣し、若者を洗脳し、兵隊要員として次々と雇用しているが、警備当局は警戒を強め、先頃もインドネシアで四名、豪で15名を拘束した。

インドにも、イスラム国に魔手が延びていた。

インドが衝撃を受けたのは、イスラム教の狂信者は措くにしても、ハイダラバードから、若者が十数名、イスラム国にリクルートされ、出国寸前だったことだ。

ハイダラバードは「インドのシリコンバレー」といわれるバンガロールと並び、IT,コンピュータ、ソフトなどを開発する先端技術が集約した工業都市、技術大学も林立するうえ、たとえばマイクロソフトのCEOにビルゲーツから指名されたのは、このハイダラバード出身のインド人だった。

インドが恐れるのは、こうした理工系の優秀な若者が、しかもヒンズーの強い町で、なぜかくも簡単に敵対宗教の過激派の武装要員にリクルートされてしまうのか、という恐るべき現実である。

かつて日本の某新興カルトにあつまったのも理工系、化学などの専門知識をもった若者であり、その洗脳が深ければ深いほど狂信的ドグマから抜け出すのは容易ではない。


◆スコットランド「独立否決」

内藤 泰朗



【エディンバラ(英北部)=内藤泰朗】英北部スコットランドの独立を問う18日の住民投票は開票が進み、BBC放送など英主要メディアは19日、反対票が多数を占め、独立が否定されたと速報した。グラスゴーなど都市部で独立賛成が過半数を獲得したものの、地方部では反対派が多数を占めた。産経ニュース2014.9.19

             ・・・

自治政府首相、辞任を表明=スコットランド

【ロンドン時事】スコットランドのサモンド自治政府首相は19日、住民投票での独立否決を受け、首相職を辞任する考えを表明した。
 
サモンド氏は「スコットランドにとって(独立に向けた)運動は続く。夢は決して死なない」と述べ、独立運動の継続を訴えた。 

時事通信 9月20日(土)0時22分配信


◆そんな難しいルールは非現実的だ

前田 正晶


ルールを難しくして束縛しない方が:

アメリカ人のJokeと、我が国学校教育の英語との関連性を考えてみよう。

その冗談話は「未だベースボール(野球)がなかった頃と仮定してのことでした。頭が良い人がいて、スポーツ界を支配する偉い人に現在実存する野球と同じような細々としたルールを解説して『投手がこう18.4メートル離れたところからこういう風に作った球を投げて、打者が木のバットを振って打って、云々』と説明して『こんなに面白い競技はないと確信するので、何とか具体化を』と訴えたそうです。聞き終えた偉いさんは『そんなに複雑なルールでは堅苦しくて面白くなる訳がない』と一蹴したそうだ」というもの。

野球のルールは詳細を知れば知るほど、その複雑さと解釈の難しさに驚かされます。その点はあっても、ルールの詳細を知らないで見ておられる熱心な野球のファンは沢山おられるでしょう。また、ルールの難しさの点は、毎週日曜日の朝のTBSの「喝」の時間に登場する張本勲が屡々したり顔で解説します。

私は所謂三角ベースのような遊びが先にあって、それが今日のBaseballに発展し、その過程で小難しいルールが出来たのかどうかなど知りません。だが、現実に野球部などで経験した方を除けば、精通して野球を見ておられる方どれほどおられるかは疑問でしょう。

私はこの古き良き時代の冗談を思い出す度に、我が国の英語教育と結びつけたくなります。私は中学の頃だったと記憶しますが「英語にはそれなりの文法もあり、話したり、書いたりする時の規則はあるが、実際には例外ばかりでその辺りの不規則さが煩わしい」と教えられた記憶があります。

その時は単に「へー、そういうものなのかな」程度に聞き流していました。現実には「規則動詞」よりも「不規則動詞」の方が多いとか、「定冠詞」と「不定冠詞」の使い方の規則などは、アメリカ人も辟易とさせられています。

予備校のCMに「英語とは言葉であって、誰がやっても出来る」というのがあった気がします。その通りで、確かに意志を伝える道具としての言葉なのです。だが、我が国における英語はそれを「文法」、「単語」、「英文解釈」、「英作文」、「書き取り」、「英会話」等のようにそれぞれの分野に分けて、その分野ごとに規則性を設けてそれに従って勉強するように科学的に仕上げてあります。私はそれが良いとか悪いとか言いません。それが我が国独特の科学性なのだから。

即ち、生き物であり、動いており、時の流れや時代の変化に伴って代わっていく言葉に規則を設定して、その規則を学ばせて、その制約の中で科学的に教えていくようなキチンとした形が作り上げられていたと思ってします。

その束縛は想像以上に厳格で、時には「単語のどの位置にアクセントが来るか」という試験問題や、「どの構文が何処にかかるか」という科学的に分析して英文解釈を学ばせるような形で現れていると見ています。私は面倒で着いていくことを放棄しました。

即ち、既に存在して活きて動いてる言葉に規則を後から設けて、それに従って学び、語り、書くべしというように束縛するので、かえって難しくするだけではなく、面白くもなくしてしまったとすら考えています。

例を挙げれば「三人称で単数だから次ぎに来る動詞あの後にSをつける」という規則に縛られて「面倒だから」ということになったのか、全部の動詞の後にSをつける人もいれば、動詞は全部現在形にしてSも過去形もなく話してしまう人もいるとの結果になっています。

私はこういう事態を防止する為には「しつこく音読を繰り返して自然にSが付くようになるまでやる」という勉強法を採っただけで、それを自慢する気等毛頭なく、「そうされては如何ですか。楽に覚えられるかも」と言ってきただけです。「後天的に如何にも難しそうな規則を設けて縛らない教え方が良いのかな」と考えているのですが。しかし、音読と暗記・暗誦の重要性と効果は飽くまでも主張します、私以外にもこのやり方の成功例がある以上。

◆私の「身辺雑記」(144)

平井 修一



■9月15日(月)。朝は室温23度、晴、敬老の日。小生は敬老の対象なのかどうか。ウィで調べてみた。

<敬老の日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。

2002年(平成14年)までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2001年(平成13年)の祝日法改正、いわゆるハッピーマンデー制度の実施によって、2003年(平成15年)からは9月第3月曜日となった。(当時、提唱者が存命であったため、提唱者から日付の変更について遺憾の意が表明された)

なお、敬老の日を第3月曜日に移すにあたって、高齢者団体から反発が相次いだため、2001年(平成13年)に老人福祉法第5条を改正して9月15日を「老人の日」、同日より1週間を「老人週間」とした。

*敬老の日の始まり

兵庫県多可郡野間谷村の門脇政夫村長(のち兵庫県議会議員)と山本明助役が1947年(昭和22年)に提唱した「としよりの日」が始まりである。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、従来から敬老会を開いていた。

これが1950年(昭和25年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。

その後「としより」という表現は良くないということで1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され、翌年に野間谷村からの政府への繰り返しの働きかけもあり、国民の祝日「敬老の日」に制定された

(「こどもの日」「成人の日」があるのに「敬老の日」がないのはおかしいと声を上げ続けたという)

このため、「母の日」のように日本国外から輸入されたような記念日と違い、日本以外の国にはない。ただし、五節句のひとつである9月9日の「重陽」と主旨が類似している>

ふーん。小生は起業して雇用を創出し、できる限り納税かつ散財したから「多年にわたり社会につくしてきた」人の末席にはあるかもしれないが、それは結局は自分と家族の為であり、敬愛されるほどのことではないと思うのだが。

ところで「重陽」ってなんだ。

<重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、9月9日のこと。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた>

「敬老」は儒教由来だそうだが、そもそも老人、年寄、高齢者、古老、長老、シニア、シルバーの定義は曖昧だ。人口調査では65歳以上を「高齢者」としているが、高年齢者雇用安定法では高年齢者は55歳以上だという。

高齢者と高年齢者の違いを言える人はまずいない。

戦前は民法で「隠居」というのがあった。一般的には還暦の60歳以上で、戸主が生前に家督(家の経営権・義務)を相続人へ譲ると隠居になった。

しかしGHQ憲法の施行(1947年5月3日)による戸主制の廃止で隠居の制度も廃止された。GHQは日本のセイフティネットである「家」を解体したのだ。家や家族優先から個人優先になった。

隠居すれば老人だが、「家破壊」までは産めよ殖やせよの時代が長かったから、老人は孫の世話その他の家事をこなしていた。農村なら戸主とその伴侶は育児・家事を老人に任せて野良仕事に専念できた。老人は孫を教育もしたから、家訓、伝統は代々引き継がれた。だから老人は長老として家でも地域でも敬われた。

今の老人は敬われ、愛されているのか。多くの場合「お荷物」で、産業が振るわない地では戸主、跡取りもいない。生活保護などに頼る独居老人ばかりではないか。「敬老」は死語になりつつある。もはや死語なのかもしれない。

夕べから子・孫来泊。昨日は手抜きしたが、今夜はカミサンが手羽元とジャガ煮、小生がレバニラ炒めを作って8人で楽しむ。

食後は最近カミサンが買った「カラオケマイク」で童謡をみんなで歌っていた。

■9月16日(火)。朝は室温23度、まあ晴、とても涼しい、というか肌寒い。肌シャツの上にTシャツを着て散歩。犬は時速5キロに戻ったが、大事をとってハーフコース。彼岸花は40本ほどが開花。李香蘭は亡くなった。

43年前の1971年9月16日、20歳の小生は三里塚の天浪砦を突き崩すクレーンのアーム上で機動隊と蹴っ飛ばし合いをし、一人を落とした後に小生は落ちた。10年裁判の始まりになった。

一審判決書では「政府・空港公団の対応もまずかった、強引過ぎた」とあった。以来、為政者は「地元の理解を求める」姿勢になった。今や「羹に懲りて膾を吹く」・・・それが国造りや安保の面でいいことかどうか、小生には分からない。歴史は小生をどう裁くのだろうか。

元航空自衛隊空将・佐藤守氏の論考(ブロゴス9/15)に気になる記述があった。(名誉空将とか名誉社員という名称があってもいいのじゃないか)

<一九五〇年六月の朝鮮戦争でも毛沢東は金日成を支援すると称して「義勇軍」を送り込んだが、そのほとんどは投降した蒋介石の敗残兵であり、“人海戦術”と称して米軍に始末をさせた。

一九七九年二月に「懲罰を加える」と称してベトナムに侵攻したトウ小平も、対立する政敵と軍を最前線に送りこんでベトナム軍に始末させている。

現在の軍首脳部はほとんどが胡錦濤前主席の息がかかっているから、習近平は“尖閣”で自衛隊や米軍に始末させかねない。そう仮定すれば、尖閣紛争は第二の盧溝橋事件に発展しかねない危険性がある>

日米同盟軍の武力を使って中共軍内の反習近平派の粛清を図る・・・あり得ない話ではないが、どうなのだろう。

佐藤閣下は9/14のブログで「朝日ならぬ“夕日”新聞」とこう書いている。

<明らかに意図的な虚報を流し続けていた朝日新聞が、とうとう窮地に追い込まれた。この会社を≪報道機関≫だと勘違いしてきた読者初め、メディア界も反省すべきだろう。『朝日』ともあろうものが、何でこんな虚報を流し続けたのかと世論は喧しいが、「報道機関」の衣をまとった「諜報機関」だったのである。

戦前、戦中そして戦後と、この会社の記事は一貫して反米、反日であった。縮刷版を見直してみるがよい。

戦後急変したのではなく、一貫して「反米・反日」だったことがよくわかる。戦時中は尾崎秀実とゾルゲ事件で明らかになったように、コミンテルンの指示通りに動いていたことは明らかである。

戦後は、反米反自民であった。その典型的な現象が、今沖縄の反基地闘争に集約されている。沖縄の“言論機関”を指導してきたのは、朝日をはじめとする左翼報道機関であった。

今はさらに複雑化して、シナの豊富な資金によって動かされている。現役時代、(沖縄の)地元新聞社屋で行われていた「蘭の花展」を鑑賞に行った時、「目指せ16万部」というスローガンが壁一面に張り出されていて、同居している朝日新聞記者がそこの記者を“指導”しているのを目撃した。その後しばらくして、この新聞の社説が朝日社説の“盗用”だと騒ぎになったことがある。

今の朝日の社長は「木村伊量」というらしいが、珍しい名前だから調べてみると、以前編集局長に「朴伊量」という名前があった。別人かな〜?

週刊文春に彼は“瞬間湯沸かし器”だと書かれているから「火病」じゃない
か?>

木村伊量は半島系の帰化人なのか、通名なのか。嘘八百の慰安婦記事を書き火をつけた元朝日記者・植村隆の伴侶も半島人のようだ。植村の息子は米国留学中、娘も今秋から留学するらしい。日本から逃げ出すつもりか。禁足令を。

■9月17日(水)。朝は室温24度、晴、涼しい。

戦前の支那の様子は今の中近東と似ているのではないか。軍閥、匪賊が割拠してグチャグチャ。戦争大嫌い、ゴルフ大好きのオバマは、ずるずると泥沼にはまっていく感じがする。

戦争大好き、民主主義大嫌いのプーチンを引きづり込んで一気呵成にイスラム国を掃討して治安を回復すべきだと思うが。現代版の国共合作、米露合作、抗イスラム国戦線だ。日本はしっかり応援すべし。

宗派、民族が異なると、きっちりした国家を維持するのは難しい。高度な自治を認める連邦制などがいいかもしれない。チェチェンは「お前らの好きにしていいから、とにかく暴れるな」ということでプーチンが抑え込んだ。

柔道大好き、寝技も得意、暗殺へっちゃらという、この強面マッチョでなければイラクやシリアは治まらないのではないか。

女も治めるのは難しい。

小生の料理の最大の基本は、週刊ホテル・レストラン創業者の太田土之助氏の信念「熱いものは熱く、冷たいものは冷たく」だ。ぬるいものを出すなということ。夕食を作って熱々を配膳するとぐったりする。

カミサンが「アンタ、疲れているみたいね」と言うから、30分後に、こう話した。

              ・・・

ホテルのレストランの厨房は、和洋中華、仕入れ部門のざっくりした分け方のほかに、西洋料理だけでもサラダ・前菜部門、スープ部門、揚げ物部門、炒めもの部門、お酒部門、パン・ケーキ部門などがある。

あらゆる部門を総動員し、客の注文にさっと応える。現場は戦争だ。一糸乱れずに調理する。ステーキを焼いても不慣れで添え物を作るのが遅れた新米は蹴っ飛ばされる。「ちゃんと作りなさいね」なんて言う余裕はない。そこは戦場なのだ。

新人は殴られ蹴っ飛ばされて育つ。そしてチームの戦力になる。ほとんど軍隊だ。こうして一人前に育つ。強烈な徒弟制度、一心同体のチームワーク。

総大将はシェフだ、司令官は各部門の料理長だ。シェフや料理長が引き抜かれると部下はほとんど全員ついていく。

家庭料理では一人であらゆることを同時にする。焼く、茹でる、煮る、炒める、配膳する・・・小さな戦闘だけれども1人でやるから消耗も激しい。

              ・・・

以上はごく一般的な話なのだが、カミサンは急に「私は一人でずっとやってきたのよ!」と怒り出した。彼女は過去にフラッシュバック?する癖がある。訳が分からん。女は不可解だ。

女は恋の対象であり、会社仕事を共有するのは難しいのかなあ、女は育児、家事が一番向くのかなあ、男同士で結婚したいという気持ちも分かるなあ、なんて思う。

スラブ民族は「女と馬は殴って調教する」とか。プーチンは逆らう国民を鞭打っている。それでも(それだからこそ?)支持率は驚異の85%。イスラム国もバシバシ打ってくれ。

■9月18日(木)。朝は室温23度、晴、涼しい。前日に続きN母子来泊。

張学良をボスとする軍閥の乱暴狼藉を駆逐する満州事変の発端となった義挙、柳条湖事件(1931年9月18日)から83年。中共は「今日の日本の右傾化傾向を直視し、世界中が警戒すべきだ」と叫んでいるが、世界中が今警戒しているのは中露とイスラム国だ。ならず者トリオ。そのうち駆逐する。

■9月19日(金)。朝は室温23度、晴、涼しい。犬の体調優れず1/3散歩。気力はあるが体力がついていかない。老いるとはそういうことか。最後まで記事を書けるといいが・・・(2014/9/19)


2014年09月19日

◆戦前も朝日は虚報連発

平井 修一


朝日撃砕の突撃路はいま開かれようとしている。朝日が呼号する紙とインクと虚報の防御陣がいかに固く長くとも、われらは征く。鉄火の嵐をついて、愛国勇士は断じて征くのだ。

幾たりかの戦友が倒れていった。「朝日殲滅、日本万歳」を祈りながら死んでいった。

今こそ受けよ、この恨み、この肉弾! この一塊、この一塊の弾劾に、戦友の、そして一億の恨みがこもっているのだ。敵の生肝を、この口で、この爪で抉ってやるのだ!

広漠数万キロの戦線に、総進撃の喚声が怒涛のごとくどよもし、どよもす。戦友の屍を踏み越えて、愛国勇士は突撃する。朝日の社旗を足下に蹂躙して、進む突撃路は築地城へ続いているのだ。

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以上は朝日新聞昭和18年2月26日朝刊の「撃ちてし止やまむ」の記事がベース。「米英」を「朝日」に入れ替えるなどした。

それにしても、よくもまあ煽りに煽ったものだ。昔も今も朝日は売れれば嘘、捏造、曲解、何でもする。

この記事は空自出身の先輩からもらった「読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争記事」(リヨン社)という本で知ったのだが、安田将三、石橋孝太郎という現役記者の共著だ。調べたらこうあった。

<本書(太田出版『朝日新聞の戦争責任』)は1994年にリヨン社により発刊され、著作権侵害を理由に朝日新聞が圧力をかけ、発売停止となった本の復刻版です。

戦時中の新聞は言論統制されていたから、責任は問われないという見方がありますが、現実にその紙面を見るとそれはウソであるとわかる。統制は確かにあった。

しかし、勝利戦報道による売上大幅増加に味をしめ、むしろ統制が求めた以上に率先して戦争を煽りまくり、 結果として軍部をして、負けを認めることが不可能な地点まで追い詰めていったのが真実に近い>(サイト「検証:朝日報道」)

同書の「はじめに」にはこうある。

<当時の朝日新聞は、戦争やその時代をどう伝えていたのか。こんな素朴な疑問が出発点だった。戦時中の朝日の縮刷版を見つけ、早速読んでみた。

「ファシズム下の新聞がまともな報道をしていたわけがない」。こうした先入観を持って読み始めたものの、「まさかここまでやるとは」というのが最初の感想だった。

そうした力を持つ新聞が、ひとつ間違えば世論操作の道具となることも、当時の朝日紙面を見れば歴然としている。

当時から日本の言論を代表していた朝日の報道を検証することが、今後の教訓になるのではないか。本書が現代のマスコミを考え直すきっかけになれば幸いである>

朝日はこの提言を「発売停止」で封殺したのだ。ちょうど20年後にブーメランが頭に刺さった。

巻末の「参考・朝日の報道姿勢」にはこうある。

<さんざん虚偽報道を積み重ね、国民を戦争に駆り立てる報道を展開しながら、「まあだんだんに変えていこうじゃないか」(敗戦直後まで編集局長だった細川隆元)で(社主も幹部も)意見一致である。そこには国民、読者に対する罪の意識はうかがえない。

といっても、朝日はまったく戦争報道の責任について紙面で触れなかったわけではない。これも細川の言うステップ・バイ・ステップの一環なのか、敗戦から約3か月後の昭和20年11月7日朝刊紙面には、「国民と共に立たん」と題した社告が掲載されている。

この社告で、自らの報道責任を認め、国民に謝罪するとともに、村山社長、上野会長以下全役員が辞職する、としている。

しかし、これがおざなりな謝罪文という感を持つのは筆者だけだろうか。この社告は行数にしてわずか33行(1行13字)で、1面下方に小さく掲載されている。こんな目立たない社告に、そもそもどれほどの国民が気付いたのであろうか。

しかも、朝日が戦争に加担していった経緯や理由について詳しい説明はない。これでは過ちを繰り返さないための教訓にはならない。

しかも昭和26年には辞めたはずの村山、上野がちゃっかり経営に復帰、村山は会長兼社主、上野は取締役兼社主となるのである。

細川の狙い通り、戦後、朝日はステップ・バイ・ステップで紙面の調子を変え、現在も大新聞の座に君臨している。そして、毎年のように戦争に関する企画記事を掲載しているが、自らの戦争責任については紙面で積極的に取り上げようとしてこなかった。

まるでステップ・バイ・ステップで人々の記憶から忘れ去られるのを待っているようである>

逃げる朝日を追撃しよう。朝日の拠点を包囲しよう。買わない、読まない、読ませない。広告主に圧力を。今こそ受けよ、この恨み! 愛国勇士は断じて征くのだ。撃ちてし止やまむ!(2014/9/17)

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