平井 修一
■9月8日(月)。朝は室温22度、8人分の大量の洗濯物をベランダに出したら結構な雨。取り込んだら、やがて雨は止んだのでまた出した。自然相手だからしょうがないが、いささかゲンナリ。
夕べの餃子は48個作ったが、「おいしい、おいしい」と大好評で3個しか残らなかった。
小生はそれを「今日の昼食に」と思っていたが、昼食前にNが突如きて「パパ、これ食べていい?」。まさかNOとは言えやしない。
その餃子だが、あまりいいことではないが、実はいつもより味付けを濃くしたのだ。皆が「旨い」と歓迎したが、濃い味に慣れると、やがては病気になるだろう。
中共の反日憎悪も年々濃い味になって、急激に不健康の域になった。
(濃い味といえば、久し振りに写真で見た天津のお嬢さんはメタボ寸前。
以前はサレンダーだったが・・・)。
憎悪は募って今や戦闘機で接触死亡事故を起こしかねないほどだ。
中共は劣等感の裏返しで日本人を端からバカにしているが、彼らは中華意識ゆえに伝統的に人種差別的で、白人や黒人にも侮蔑の目で接しているようだ。「中国の“偉大なる復興”で人種問題への態度の硬化も」(FT9/5)という記事から。
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中国は露骨な人種差別と無縁ではない。北京では、別の面では見識があり、教養を持った国際人である中国の企業幹部や官僚が、アフリカ人やアフリカ系米国人のことを「猿」と呼ぶのを聞くのは当たり前のことだ。
中国と接触した歴史を持つ事実上すべての民族に蔑称があるが、白人は一般に十把一絡げにされ、「洋鬼子」と呼ばれる。
大方の中国人は白人を、本人に面と向かって「老外(ラオワイ)」と呼ぶ。文字通り訳すと「古い外人」となる言葉だ。民族的に中国系の人たちは、米国に移住し、あらゆる意味において「米国人」になることができるが、外国人は、どれほど長く中国に住んだとしても、同化するためにどれほど努力したとしても、いつまでも「老外」だ。
人種差別的な特別な蔑称が、日本から来る隣人のためにとってある。日本人は「小日本鬼子」と呼ばれている。
大多数の中国人は、日本に行ったこともなければ、一人たりとも日本人に会ったこともないが、第2次世界大戦の前と戦時中の日本軍の中国占領を理由に、すべての人が日本人という人種全体に対する深い憎しみを表す。
最後の王朝である清朝を含め、中国の偉大な王朝のいくつかは、中国の人口の9割以上を占める漢民族から従来野蛮人と思われていた異民族によって築かれた。
現在、中国西部のチベットや新疆では、高圧的で家父長主義の政府の政策によって民族間の緊張が高まっているが、チベット人やイスラム教徒のウイグル人に対する日常的な人種差別もその原因となっている。
中国で見られる人種差別的な態度は、中国がつい30年前まで外の世界を完全に遮断していた、非常に均質的な社会だという事実に起因しているのかもしれない。
しかし、この国に暮らす多くの外国人にとっては、政権を担う共産党が世界に対し、より強硬で国家主義的な政策を取るようになるにつれ、人種問題に対する態度がますます硬化したように見える。
この流れは、「中華民族の偉大なる復興」を実現するという習近平の願望に象徴されている。一見すると、これは称賛すべき目標だ。もしかしたら習氏は中国を、同国が唐王朝期に経験した比較的寛容な時代に戻す復興を思い描いているのかもしれない。
しかし、歴史について極めて選別的で、「外国人の手によって犠牲になった」という被害者意識を助長する国家主義的教育とプロパガンダに照らすと、このスローガンはもっと悪意のある見方ができるかもしれない。(以上)
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中共に善意があるわけがないから我々は「中共は悪意を持っている」という見方を常に前提にする必要がある。中共の子分の韓国も同じだ。
■9月9日(火)。朝は室温22度、涼しい。犬の希望により久し振りにハーフ散歩。犬は少し元気になった。
梶山季之(としゆき)は人気作家だった。「裸にて生まれて来たに何不足」という名言を残している。
ところが彼は韓国人に土下座して日本統治時代を詫びたというのだ。朝鮮日報9/4のコラム「友人になれる日本人はもういないのか」は、それに続けて、こう書いていた。
<産経は今年4月にも韓国と中国を「反日チンパンジー」と表現した>
まさか。産経や日本人がこんな表現を使うはずがないと、調べたら真実はこうだった。
<上田和男氏の論考「近くて遠い『反日・中韓』より、遠くて近い『親日・インド』を大事にすべし…パール判事の「知性」を思い出そう>(産経2014.4.19)。以下転載。
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動物・人類学者のお説によると、類人猿には大区分すると、攻撃的・闘争的なチンパンジー派と友好的・防御的で愛の心情を持つボノボ派の2種に分かれるそうです。
人類にも同じような性癖が継承されているらしく、さしずめ中華・朝鮮両民族がチンパンジー系なら、日本・インド両民族はボノボ系といえるのかもしれません。
こうした観点から思い至るのは、むずかる中韓とは、しばらく距離を置き、インドを代表とするアジアの友好的諸国との心情的・政治外交的距離感をもっと短縮化すべき努力が、今こそ問われているのではないでしょうか。「近くて遠い反日国」より、「遠くて近い友国」をもっと、大事にすべきだと確信する次第です>
ごくまっとうな話だ。
「反日チンパンジー」という言葉はないのに、産経がそう表現したと朝鮮日報は書く。虚報、捏造の類であり、まさに慰安婦→従軍慰安婦→強制連行による性奴隷、はこうして捏造された。朝日のお友達、中韓は皆狂っている。
それにしても梶山季之はなぜ謝罪したのか。日本=悪者の証拠を持っていたのか。「相手に謝らせることで上位に立つ」という上下関係がないと心が安定しない華夷秩序に、梶山は土下座でしっかり応えたのはどいうわけだろう。
韓国で本を売りたかったのか。
ウィキなどによれば、梶山は父が朝鮮総督府に勤務していた関係で京城(ソウル)で1930年に生まれた。1942年京城中学校入学。敗戦後に引き揚げ、両親の郷里の広島県で育つ。
梶山の人生は「中国新聞」の金井利博と知り合ったことでずいぶん変わったのだろう。梶山は高等師範学校在学中の1950年、金井が進める「広島ペンクラブ」の設立、運営に加わった。梶山に「日本悪玉論」を吹き込んだのはこの金井利博ではなかったか。
金井は「被爆地からの原爆報道の礎をなしたジャーナリスト」だそうで、大江健三郎の師匠的存在だったようだ。それにより大江は「ヒロシマ・ノート」で名を成した、のではないか。(小生はこの辺の事情は知らない。アドバイスが欲しい)
金井は九州帝大卒、1939年に東京朝日新聞社に入社、徴兵に応召し満洲で終戦。1945年10月からソ連に抑留され1年2か月後の1947年1月に復員した。
<シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した。
一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる>(ウィキ)
金井はすっかり洗脳されて「ソ連の手先」としてわずか1年2か月で“釈放”されたのではないか。復員した年の4月に(共産主義・反日に路線転換した朝日と同類の)中国新聞社に入社している。朝日の口利きではないか。
金井は梶山に小説を書くように勧め、紙面を提供した。金井はまさに作家・梶山の生みの親だ。
日本ペンクラブのサイトによると、(この組織の)「目的は、言論、表現、出版の自由の擁護と文化の国際的交流の増進ということが定款にうたわれています。日本ペンクラブの事業は、すべてこの目的に沿った文化活動で、そこに団体の性格が集約されています」とある。
日本ペンクラブは「反原発を考えるペンクラブの集い」を開催したり、日中交流の訪中団を派遣したり、「集団的自衛権に関わる政府基本方針の決め方は許されない」と声明を発表しているから共産党とそっくり、つまりアカである。
<梶山はあらゆるジャンルの作品を手掛けたが、生涯のテーマは、朝鮮・移民・原爆とも言われ、日韓併合期の朝鮮を題材にした「族譜」「李朝残影」などの作品も残している>(ウィキ)
この2冊の版元はアカの岩波。広告を見ると自虐史観タップリの洗脳本のようだ。梶山は金井に洗脳されたとしか考えられない。梶山がアカだったのはちょっと驚きだ。
梶山は歴史小説として書き、詐話師・吉田清治は実体験として書いた。吉田の嘘は罪深いが、梶山も非難を免れないのではないか。専門家の意見を聞きたい。
午後3時半、パナソニックのサービスマンが冷蔵庫をチェック。「呼べばすぐ来る、来れば戦い、必ず勝つ(直す)」。♪颯(はやて)のように現れて、颯のように去っていく、月光仮面のようで30分で分解、掃除、再生。アドバイスに従って小生も掃除。冷蔵庫は復活した。
風呂上りに空を見たら満月。そう言えば「お月見」だ。甚平を着てススキを採りに去年あった群生地へ行ったら、草刈り後で何もなかった。近所をうろうろしていたら、ブタクサ100本の中に3本だけススキがあった。外来種に純血種が駆逐されるのだ。移民反対。
たった3本を花瓶に入れても冴えないから、仏壇の花を一緒にして飾った。結構素敵で、月の明かりを受けてなかなかの「お月見」の飾りになった。中共殲滅、支那解放を月に祈る。
■9月10日(水)。朝は室温22度、涼しい。カミサンは今日は休みなので早朝に襲撃したが、諫早湾なるぬ「いやいや湾」で開門はできなかった。戦略的な勝利ではなくても、ちょっかいを出してプレゼンスを印象付けることは大事である、ナンチャッテ。
先日の夕方にカミサンは勤務先の病院で講演会があり、その後になんとケータリング業者が用意した料理での大宴会があったと言う。
「いつもならせいぜい乾きもののツマミで、缶ビールを1、2本貰って帰る人が多いのだけれど、すごい料理で皆楽しんでいたわ」
「よく金があるなあ」
「製薬会社が全部持ってくれたのよ」
薬九層倍で製薬会社は相変わらず景気がいいのだろう。医師、看護師をてなづけるのに100万円なんて安い投資だ。
病院も創業者が昨年亡くなり、その息子が新理事長になり、併せて倹約、節約を永年うるさく言っていた番頭さんの事務長が定年退職、その後任に新理事長のお姉さんがついたという。
「なんだ、徳洲会そっくりだなあ、これはもう家業だ」
「ハハハ、そうねえ。でも現場で必要なものはすぐに買ってくれるし、エアコンもすぐに交換してくれた。コンピュータシステムも一新するそうよ」
「この間までヒーヒー言っていたのに儲かっているのか」
「新理事長も新事務長もお金持ちだし、節約なんて考えてないみたい。傘下にITの会社が2つもあるしね」
まるで「売家と唐様で書く三代目」みたいだ。この病院は2代目だが、3代目で行き詰まるのかもしれない(子会社は今は3代目で、トップは現理事長が兼務)。来月には「病院創立50周年祝い」をするそうだ。
製薬会社が競って祝儀をはずむのだろうが、金はある所にはあるものだ。
さてさてオレの金はどこにあるのだろう。
カミサンは人手が足りないということで急遽出勤していった。患者が自殺を図ったそうだ。「我が身よりも会社・職場のため」という戦士が灰塵の中から経済大国を造った。父母の遺志を継ぎ、我々は政治大国、文化大国を目指す。中共に併呑されないために「お国のため」と頑張るのだ。