上西 俊雄
[はじめに]
ラヂオをつけたら、龍卷など突風に注意といってゐた。龍卷は斷じて突風ではない。公共放送が言葉を壞してゐくのはたまらない。
どうして誰も注意しないのだらうか。役所や公的機關なら自分たちで言葉の意味を決めてよいと思ひ込んでゐるやうに思はれてならない。
文部科學省が5歳兒が利用する幼稚園や保育所などの最終學年を、義務教育とするとの報道がある。現在6歳からの小學校入學年を5歳に引き下げる案も一部で檢討されたとあるが、その場合は學年配當の漢字は1年引き下げるつもりだったのだらうか。
多摩川土手で同じ木陰のベンチで一緒になった大學生に地面の表記について訊ねてみた。男性はヂメンだといひ、女性はジメンだと言った。なぜヂメンでなくジメンでなければならないかと質問されたら學校の先生は、さう決まってゐるのだからとしか答へることはできない。このことが教育を損なってゐること如何ばかりか。
ある教育委員會の人に此の話をしたところ、男性がヂメンと答へたといふところで、まさかといふ表情をした。地面はジメンだといふことは業界(文部行政關係者)では有名なことであることが感じられた。最近もらった友人のメールにこんなところがある。
<「地面」を「じめん」と書いて×をつけられ98點しかもらへなかつた兒童の例を山本健吉が紹介したときの、土岐善麿國語審議會會長の發言を、ついでに引用します。『聲』6號(昭和35年1月)の座談會。
「地面」のときに、「し」ににごりを打つんだと教へたにもかかはらず、それを習ひ覺へてゐなかつたからばつ點なんだ。「し」ににごりを打つた方がいいか、「ち」ににごりを打つた方がいいかといふ問題ぢやなくて、さういふやうに習ひ覺へなかつたといふことの減點といふふうな具合に考へていいんぢやないですかね。>
土岐善麿がこんな苦し紛れのことを言ってゐたとは驚きだけれど、一應は理屈ではある。ただし、その教室だけの、しかも、さう教へた直後でなければ通用しない理屈だ。
假名は清濁が通じるのが原則。地にチといふ音がある以上、地はジだと覺えるのは途方もなく難儀なことなのだ。一度や二度教はった程度では、やはりヂにもどってしまふだらう。
Frits Spiegl が教育改革について書いたところに次のやうな表現がある(Listener 1987.2.19)
The Associated Examining Board predictably says that pupils maystill be awarded top marks `even if they do not use correctEnglish spelling, grammar, or do not write sentences'. I wouldguess that some of the Board themselves grew up in thefree-and-easy, anything-goes, postwar educational system andwouldn't know a clause if they saw one.
要するに龍卷と突風との違ひのことなどどうでもよくなってゐること、洋の東西を問はないらしい。それなら學年配當に拘らずに、必要な字はそのつど教へることにすればよいではないか。もちろん、表音文字のやうに體系を成すものは一擧に教へなければウソだ。
[英語は表音文字]
フリッツ少年は4ヶ月で立派な英文を書くやうになった(3369號「讀者の聲」參照)のであるが、英語教育協議會(ELEC)の講演(平成14年11月)で語學の天才として紹介されたアントニオ・ティノコ氏は、どうやって英語を身につけたかといふ質問に對して、アメリカ文化センターの圖書室にこもって英語の本を一杯讀んだ、さうしたら英語が話せるやうになってゐた答へた。質問者はなんだかはぐらかされたと思ったかもしれないけれど、おそらくそれは事實なのだ。
ある程度、英語の綴りの表音性を解讀する力がなければ讀書などおぼつかない。それが身についてゐれば讀書は聽覺言語の點からみても語彙を増やすことになる。
岩佐充則氏の2005年のブックレビュー
http://archive.today/Q8RS8の3月18日には「先日、BBCの報道の中で、英國でも移民の子供が増えてゐるが、アルファベットの發音をしっかり教へる教育方法を導入したら、大きな成果が現れてゐるとの事例が紹介されてゐた」とある。
ピグマリオンから引くと、Higgins と Liza のやりとりはこんな具合だ。ブラケットはイタリック。TE は Turned e で e を逆さまにした記號(シュワー)。
<HIGGINS: Say your alphabet.
LIZA: I know my alphabet. Do you think I know nothing? I dont needto be taught like a child.
HIGGINS: [thundering] Say your alphabet.
PICKERING: Say it, Miss Dolittle. You will understand presently.Do what he tells you; and let him teach you in his own way.
LIZA: Oh well, if you put it like that---Ahyee, bTEee, cTEee, dTEee---
HIGGINS: [with the roar of a wounded lion] Stop. Listen to this,Pickering. This is what we pay for as elementary education. Thisunfortunate animal has been locked up for nine years in school atour expense to teach her to speak and read the language of
Shakespear and Milton. And the result is Ahyee, bTEee, cTEee,
dTEee. [To Eliza] Say A, B, C, D.>
初めての海外旅行でロンドンに一週間ゐた。Bayswaterの宿、地元の酒場では皆ベイズウォーターでなくバイズウォーターといふ。それにあはせてゐたら、同種の母音をすべてさう發音してゐた。オードリー・ヘップバーンが突如上流階級の發音ができるやうになる、その逆で、綴りで理解してゐたためだ。表音文字だから一字一音であるべきだとしたら、かういふ風にはいかなくなる。
26年7月18日の日經夕刊に「英語教育、先生も學ぶ」といふ大きな見出しで英語教育の專門機關の專門家にフォニックスを教はる話がでてゐる。なにか勘違ひしてゐるのではないか。
3350號で書いたやうに我が國の小學1年の國語教科書には五十音圖がなく、3年のローマ字のところにはアルファベットがない。かういふ状態のままでフォニックスもないではないか。もっと眞劍にやってもらひたい。
[表音方式とフォニックス]
以下、資料として書いておきたい。
フォニックスのことは表音小英和をつくるときは知らなかった。綴りと發音の關係を重視する方法だけれど、音(フォン)が基本であるから綴りに對する見方がかなり制限されてゐること、COD 方式に對してもった不滿と同じものを感じた。手元のメモを整理してみると、次のやうな順序になる。
(イ)『現代英語教育』昭和52年2月「英語の振り假名」
(ロ)稻垣明子『入門期英語指導へのヒント--アメリカで學んだ子どもの經驗から』 昭和53年8月
(ハ)『現代英語教育』昭和54年5月〜昭和55年3月「發音の手引き」
(ニ)三省堂廣報誌『ぶっくれっと』25號「表音小英和」
(ホ)『表音小英和』昭和55年3月
(ヘ)竹林滋『英語のフォニックス』昭和56年
(ト)稻垣明子『うたとリズムでフォニックス』昭和59年
(チ)『英語展望』No.89(昭和62年) Pronunciation Notation withoutRespelling
(リ)Longman Pronuciation Dictionary 1990年
(ヌ)『英語展望』96號(1991年春)高本裕迅「英和辭典の發音表記法について」
(ル)『現代英語教育』平成7年(1995)9月號 隱れた主役たち
以下、それぞれについて注記する。
[イ「英語の振り假名」]
岩崎研究會といふ研究會があった。岩崎民平にちなむ。竹林滋教授のやうな外語大學系で研究社に縁のある人が中心。その紀要 Lexicon は毎號三省堂にも送ってきたので、竹林教授のグループが COD 式の發音表記を工夫をしてゐることを知った。
COD 式の流用の許諾は得てゐたし、隨分ちがふものになると思ってはゐたけれど、竹林教授はその道の權威、後塵を拜するとやりにくくなると梗概だけを書いたのが「英語の振り假名」。anxiety と anxious を例にしての説明のところ、後にまったく同じものに出會った。地質學者辻野匠といふ人のローマ字論。辻野氏も驚いてゐた。後に參考文獻に追加になってゐた。
COD の編者 J.B. Sykes 氏とは發音表記のことで書を交換してゐた。20October 1976 のSykes氏の書には次のやうにある。
There will be no objection to your using the pronunciation schemeof the Concise Odford Dictionary, provided that you make properacknowledgenet of this in your own dictionary.
これに對して次のやうに返事してゐる。TC としたのは TURNED C (=openo) のこと。
I am now thinking of modifying considerably the pronunciationscheme of Concise Oxford Dictionary. For example, in the modifiedscheme, [a] represents /TC/ when preceded by /w/, e.g. quantity,watch. The modification will be made so as not to introducecontradictory symbols except perhaps one. The essential part ofyour scheme will be incorporated, which shall be properlyacknowledged in our dictionary.
1979年には推薦文を頼んで斷られてゐる。
I wish your project every success, but I am afraid I could notallow my recommendation to appear on a dictionary from anoterhpublisher.
「英語の振り假名」はいろいろの人に讀んでもらった。佛蘭西語の島田昌治先生からは、こんな形で發表してはいけない、これは大變なものになると注意された。Syke氏からは典據を問ふきつい返事があった。日附は 4March 1977 ブラケットのところは下線。
Thank you for your letter and enclosure of 24 February. With mypoor knowledge of Japanese it will be some time before I cancomment your article, but I should like to ask now wheter you oryour colleaguescan tell me [where]
Bernard Shaw made the remark about [ghoti]. It is oftenattributed to him, but we have not been able to trace anypublication of his that contains it.
山口美知代『英語の改良を考へたイギリス人たち』にもこの話がでてゐたので、いまはもっと古いことになってゐると知らせた。山口氏から、大英圖書館で確認してきたとメールがあった(平成21年9月)
[ロ『入門期英語指導へのヒント』]
我が國にフォニックスを紹介した最初の本の一つ。小川芳男先生の推薦文がついてゐた。フォニックスの紹介者としては松香洋子といふ人が有名であるが、彼女も自分の子供をアメリカで育てたことがきっかけであったはずだ。
表音小英和がでたあとで、松香さんのグループの人たちに話をしたことがある(昭和59年1月)。當時は松香フォニックス研究會と言ってゐた。子供に英語を教へてゐる女性ばかりの集り。私だったら一學期あればアルファベットを教へることができると言ったら、自分達は2時間でできると思ってゐた、頭がくらくらしたと言はれた。
三省堂の仕事としてきたのだから講演料をもらふわけにはいかないといったらオールドパーになったので編集部で飲んだのだった。
[ハ「發音の手引き」]
執筆を約束した直後に表音小英和の企畫が通った。後に、激務ともいふべき編集業務のかたはら、かかる研究をすることに敬意を表するといふ葉書を壽岳文章先生からもらったけれど、實は家人に助けてもらった。
[ニ ぶっくれっと25號]
近刊豫告であるが、表音方式の説明。
[ホ『表音小英和』]
3322號(26.6.1)を參照されたし。
[ヘ 『英語のフォニックス』について]
2863號(25.1.30)を參照されたし。
[ト『うたとリズムでフォニックス』について]
參考資料の上位に「發音の手引」があり引用も多い。參考資料のところを引く。ブラケットでイタリックを示す。
〈1〉『表音小英和』三省堂編修所 三省堂 1980
〈2〉「發音の手引」 上西俊雄 『現代英語教育』l979年5月--1980年3月號
〈3〉『英語のフオニックス 綴り字と發音のルール』竹林滋著 ジャパンタイムス l981
〈4〉『ユニオン英和辭典』竹林滋・小島義郎編 研究社 1978
〈5〉[Discovering Phonics We Use] Book A--G \& R, by Authur W.Heilman, Chicago, Rand Mcnally \& Co., 1977
〈6〉[Phonics Is Fun] Book 1--3, by Louis L. Krane, Cleveland,Modern Curriculum Press, 1978.
〈7〉[Phonics Workbook] Level A--D, by Lowell, etc., Cleveland,Modern Curriculum Press, 1976.
.〈8〉[Reading Skills] One--Six, by Margaret Early, etc., NewYork, Harcourt Brace Jovanovich, 1970.
〈9〉[The Practice Workbook of Phonics] Grad 1--2, N. Y., TreasureBooks, 1963
〈10〉[Lollipop Dragon's First Spelling], Chicago, Rand McNally \&
Co., 1980.
〈11〉[Eigo o Naraitai], by Blanche L. Bartlett 東京 C.A.J.〈發賣:お茶の水學生センター〉 1981
〈12〉『英語となかよし ワークブック』フォニックス英語研究會編 開拓社 1984
〈13〉[Let's Study Phonics]Workbook 1--4 町田 松香フォニックス研究所 1983
〈14〉[Reading with Phonics], by Julie Hay \& Charles E. Wingo,Lippincott Co., 1979.
〈15〉[Teach Your Child To Talk]; A Parent Hand Book, by Staff ofDevelopmental Language and Speech Center Grand Rapids, CEBCO, 1957,
〈16〉[Vowel Sound Thinker Puzzles]. Montana, Colborn SchoolSupply Co., 1980.
〈17〉[Phonics Flash Cards]. Montana, The Gelles--Widmer Co., 1959.
〈18〉[Beginners Phonics Flash Cards], N.Y., Edu-Cards MFG, Co., 1974
〈19〉[Phonics Flash Cards] Set A \& Set B. Cleveland, ModernCurricluin Press, 1978.
かういふのをみると、小學校入學年を5歳に引き下げる案といふのは、内容のことなのではないかといふ氣になってしまふ。
〈4〉の『ユニオン英和辭典』は『ライトハウス英和辭典』の前身。ウィキペディアで次の記述をみたことがある。
<「ライトハウス英和辭典」の第2版、第3版には、基本的な2千餘りの單語の發音表記に、他の英和辭典で一般的な國際音聲學會が定めている國際音聲記號とともに、フォニックス表記の2つが併記されていた。(この併記は、「カレッジライトハウス英和辭典」にも受け繼がれた。)この試みは、英和辭典、とくに學習英和辭典では大變畫期的な試みであった。しかし、平成13年年に改訂された「ライトハウス英和辭典」第4版、および「ルミナス英和辭典」以降、このフォニックス表記は姿を消した。>
[チ『英語展望』]
ベルリン工科大學のベイリー教授よりソウルでの學會にパネリストとして參加するやうにとの誘ひを受けて頻繁に書を交換してゐた1985年の5月にギムソンの訃報ががあった。Times Literary Supplement で確認しそれで日本音聲學會の大西雅雄先生に電話した、ヂョーンズの發音辭典の後繼者。我が國の英語教育界にとっては恩人の一人だと思ふけれど、追悼號をだしたのは日本音聲學會だけだったのではないかと思ふ。
ギムソン教授が亡くなったので、託してゐた論文をELECに持ち込んだ。掲載するかどうか委員會で決める。その結果、綴りと發音の關係についての特集號といふことになった。表音方式の説明は組版が難しい。あらためて擔當者山口昌子さんに感謝する次第。
三省堂では表音方式を削ることになったので、表音小英和の評判についての段落は割愛した。表音方式はフォニックスとは立脚點が逆だといふことはその段落にあった。(2863號參照)
[リ Longman Pronunciation Dictionary]
本書には表音方式と同じ趣旨のことが書いてあった。編者ウェルズ教授は國際音聲學會紀要の編者でギムソン教授が小論を紹介してみると言ってゐた人。それでロングマン社に問合はせた。31 August 1990附で屆いたウェルズ教授の書には、表音小英和はみたけれど、ギムソン教授から論文は受け取ってゐない、しかし、同じ結論だから御同慶の至とあった。
その部分を示す。SPD は Sanseido Pocket Dictionary で表音小英和のこと。LPD は Longman Pronunciation Dictionary のこと。
If you compare the endpapers of [SPD] with the [LPD]
spelling-to-sound guidelines, I think you must agree that they differ quite considereably. The material overlaps, as ineviatblyit must, since we are both describing the same graphemic-phonemicregularities. But I present it in a different order from you andin greater detail, using different examples and a different notation.
We can be happy, though, that we are in agreement on theusefulness of giving the EFL learner information aboutgrapheme-phoneme relationships.
ウェルズ教授が spelling-to-sound guidelines とかgraphemic-phonemic regularities と表記を先にした表現をしてゐることに留意されたい。フォニックスと逆の順序だ。
[ヌ 高本論文]
JACET (The Japan Association of College English Teachers) では LPDをバイブル到來と歡迎した。高本氏はそのシンポジウムの發表者の一人。LPD と表音小英和の方法について論じたもの。今讀みなほしてみて、「J.C.Wells編の近刊の發音辭典 Longman Pronunciation Dictionary もgrapho-phonemicsのブームを受けてであらうが」とあることに氣がついた。さういふブームがあったといふ認識はなかった。表音小英和の異常な人氣もさういふことであったのかもしれない。
ウェルズ教授によればギムソンがヒギンズのモデルだ。親しく口をきいた人がさうだといふのはなんだか不思議だ。
[ル『現代英語教育』]
「英語教育界の隱れた主役たち」といふ連載記事の6囘目。記事の最後を引く。
<書評程度で世の中は變はらぬことを悟った上西氏は、日本人の「歐米への憧れ」に目を附けたやうだ。海外、とくに英語の本場で「表音方式」が普及すれば、日本での普及が促されやう、との期待は、はたして近い將來、現實となり得るだらうか。>