2014年07月22日

◆クルド独立の展望が見えてきた

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)7月22日(月曜日)通巻第4298号 > 

 〜クルド独立の展望が見えてきた
 イラクはそれどころではなく、イランもあきらめ、トルコは反対しない〜

クルド族は推定人口1500万人。イラク、トルコ、イランの山岳地帯に住んでいるが、ながらくこれら3国が反対してきたため、独立は叶わなかった。

アラブ人とは異るため、自治区を形成したきたが、突如、ISISの跳梁跋扈でイラクが無政府状態となるやクルドは電光石火の作戦でバイハッサンと、キルクークの2つの油田を制圧した。

両方で日量40万バーレルの石油が生産できる。

すでにイラクのマリキ政権は統治能力がなく、イランも南部のシーア派居住区の防衛を背後から応援しているが、その「聖域保守」だけで精一杯。国内の経済がそれどころではなく、支援に疲れが見られる。

トルコは、もっとも強くクルドの独立に反対してきたが、情勢の激変、シリアからの難民問題を抱えており、クルド独立に反対する姿勢が弱まってきた。

ひょっとしてクルド族の独立のシナリオも実現が視野に入ってきたように想える。
     

◆日本語と英語の思考体系と文化の違い

前田 正晶


先日 "first-hand" と "secondhand" の違いを取り上げて論じた。その理由がこの「君の意見」である。アメリカのビジネスの世界では第三者からの伝聞の情報が如何に有益であっても、それを(我が国に出張してきた)上司に報告しても見込みとは異なって褒められるとは限らないのだ。

私は「私が何のために経費をかけて5,000マイルも飛んできたのかを考えよ。私は君がこの件についてどう考えているかを聞きたいのだ。第三者の意見を聞きに来たのではない」と叱責されて、恥ずかしながら日米の企業社会間の文化の違いをあらためて認識した。

ここでは勿論文化と思考体系の違いも重要な問題だが、私は我が国の学校教育で今でも構文というか何というのか、「It 〜 that 〜.」 のように"It" を先行させて "that" 以下に言いたいことを "clause" で表すことや、"They say 〜." や、"I was told that 〜." のような形で文章を作っていくと教えられているようだ。

「いるようだ」としたのは、自分自身が最早学校で教える機会もなく、22年の対日輸出の仕事の中で多くの同胞がこういう英語を使っていたので、そのように推理したまでだ。

彼等アメリカのビジネスマンはこのような伝聞を伝える文章が、仮令文法的に正しくても「伝聞では意味がない」と批判され「自分の意見を具申せよ」と要求するのだ。

しかし、学校ではこのような文化比較論にまで触れる必要もないだろう。だが、何時か何処かの段階でこの辺りにまで触れておかないと、折角良い情報だと思って報告しても、「日本人は信じられない」という意外な結果になってしまうものだ。即ち、文化比較論まで教える必要があると言いた
いのだ。

しかし、このような文化比較論は一般的な所謂「日常会話」の中で問題にされることがないのは言うまでもないので、万人に教える必要はないと認識している。

「ベテラン」に思う:

勿論、英語の綴りは "veteran" である。ジーニアス英和には“日本語の「ベテラン」は "expert" に当たることが多い”としてある。私は尤もであると受け止めた。Oxford には "a person who has a lot ofexperience in a particular area or activity" が最初に出ている。

これは "expert" とはやや違うという気がする。「古参兵」か「老練な歴戦の兵士」は2番手だ。私は高校の頃まで「宿将」の意味だと思っていた、念のため。

我が国では「ベテラン」は野球やサッカー等のスポーツ選手で一定以上の期間活躍してきた者を「ベテラン」と表現する傾向がある。私には言わんとしていることは "expert" よりも「老練」に近い敬称かと思って聞いている。勿論、そうではない者もいるが。

因みに、Webster には先ず "a person who has had long experience insomething especially in war" とある。"a former member of the armedforces esp. in war" は二番手だった。

さらに "expert" はやや長いが "having, involving, or displayingspecial skill or knowledge derived from training or experience" となっている。私にはこれがカタカナ語の「ベテラン」に当たると思わせてくれる。

ここまでが導入部だったのだが、要するに「元の英語の意味するところを深く考えずにカタカナ語化しない方が良いだろう」という、何時もながらの結論に持っていきたかったのだ。

1970年にお恥ずかしながら、私を英語のベテランと形容した上司がおられた。私は「英語の古参兵」であると言われたと思い当惑したし恥ずかしかった。その方はどうやら「熟練した人」であるか「エキスパート」と言いたかったようだったと、今になって解ってきた。

矢張りカタカナ語は我が同胞が英語の良きというか適切な理解を妨げている」と思うのだ。しかし、繰り返しになるが、国語の中でどう使われようとも、それを妨げようとは思っていない。



2014年07月21日

◆外国人「単純労働」拡大への疑問

河合 雅司


◆緩和策を矢継ぎ早に

就職難といわれてきたが、今や職種によっては人手不足である。人繰りがつかず倒産する会社まで出始めた。

少子化に伴い日本の勤労世代は減少している。これまでは景気の悪さに覆い隠され、さほど労働力不足が問題となることはなかったが、今後、景気が本格回復すれば一気に顕在化するだろう。

状況の打開に向け、政府は女性や高齢者の活躍促進、ロボット利用などを掲げるが、急いでいるのが外国人の受け入れ拡大だ。東京五輪などで需要増が見込まれる建設業に続き、造船業でも要件を特例的に緩和することにした。

法務省の有識者会議は外国人技能実習制度に「介護」などを加える案をまとめ、「骨太の方針」や新成長戦略には対象職種拡大や最大3年の在留期間を5年に延長する方針などが盛り込まれた。「女性の活躍推進のため」として、国家戦略特区で家事支援労働を認めることにもなった。

低賃金で単純労働を行う外国人によって手っ取り早く人手不足を解消しようというのだ。

だが、技能実習制度は途上国の人々に技能や知識を身につけてもらうためのもので、趣旨を逸脱している。同制度をめぐっては賃金の不払いや過酷な労働を強いる人権侵害も相次いでいる。

 ◆思惑通り帰国する?

ところで、骨太の方針は「外国人材の活用は移民政策ではない」と強調している。出入国をしっかり管理するから大丈夫と胸を張るが、政府の思惑通りに帰国するかは疑問である。日本に残ろうとする外国人は後を絶たない。

「期間限定」であろうとも、多くの外国人が働き始めれば、人口減少に悩む地方などでは地域経済の支え手として無視できない存在となる。

「当面の人手不足への緊急時限的措置だ」と言って単純労働者をなし崩しに受け入れ、外国人抜きに社会が回らなくなった時点で制度化するのでは本末転倒になる。

政府・与党には外国人の単純労働について「いずれ解禁はやむを得ない」との声も強いが、国策の大転換にもつながる問題だけに国民的な議論が欠かせない。

受け入れには治安の悪化や文化摩擦といった懸念も多いが、最大の問題点は単純労働者の大量受け入れ自体が、日本人の少子化を招く新たな要因になることだ。外国人の受け入れでは人口減少問題は解決せず、むしろ加速する。

理屈は簡単だ。人手不足であれば賃金は上昇し、労働条件もよくなる。人件費が上がる企業は付加価値を高めるべく生産性を上げようとする。ところが、安い賃金で働く外国人労働力が大量に入ってくると、日本人の賃金も総じて抑えられることになる。

若い男性が低収入や不安定な雇用に追いやられれば、求婚はままならなくなる。介護や家事支援といった職種には女性が多いが、仕事を奪われたり、長時間働かなければ生活維持ができなくなったりしたのでは、子供を持つことをためらう人も出てこよう。

 ◆受け入れずとも成長

受け入れ推進派は、外国人を受け入れなければ日本経済は成長せず、社会が回らなくなるとの見方を示すが、本当だろうか。

人口動態は経済成長を左右する絶対的な条件ではない。その証拠に、高度成長期の労働力人口は年1%程度しか伸びていない。機械化や技術の進歩が寄与したとされる。

労働力人口が激減する日本に求められているのは、高賃金労働者を活用しながら、他国に負けぬ付加価値の高いサービスを生み出すビジネスモデルの転換だ。低賃金の外国人を大量に受け入れたのでは、構造転換のチャンスをみすみす逃すことにもなる。

もちろん、出生率が劇的に回復しても、生まれた子供が「労働力」として育つには20年程度を要する。それまでは「現在の大人たち」で対応するしかないのも現実だ。

だが逆に考えると、外国人に頼らず約20年間を頑張りさえすれば、展望が開けるということでもある。意思や能力があっても働いていない、働く機会に恵まれない若者も多い。女性や高齢者を含め、意欲のある人が働ける環境の整備を急ぐことである。

人口減少に対し、日本人を増やすことで対応するのか、外国人で穴埋めする道を選ぶのか。いずれにしても、出生率の回復なくしては人口問題の根本解決はありえない。「低賃金の外国人を大量に受け入れた結果、少子化対策が台無しになった」ということがあってはならない。(論説委員)
 産経ニュース【日曜講座 少子高齢時代】2014.7.20

◆自分の味方をわざわざ敵に回すな

Andy Chang


良薬は口に苦しという諺がある。よく効く薬ほど苦くて飲みにくいもの、ためになる忠言ほど耳が痛くて聞きづらい、忠言は耳に逆らうとも言う。

苦くても効く薬だから我慢して飲むのは大人で、苦いから飲まないと言うのは子供や未成熟な人である。苦いものは有害で有害だから毒だという人は味方を敵に回すようなもので救われない。

●アメリカを告訴した林志昇理論

林志昇がアメリカ政府を相手にした告訴は、アメリカ地裁と高裁で却下された。だが林氏理論は間違っていないと主張して台湾民政府(Taiwan Civil Government: TCG)を組織し、2年前に分裂を起こし、米国台湾政府(Taiwan Government-USA:TG-USA)の2つのグループが出来た。

サンフランシスコ平和条約(SFPT)の第2条(b)で日本が台湾の主権放棄をしたため台湾の国際的地位は未定である。林氏理論では日本が放棄したのは「権利、権原、請求権」で「主権放棄」ではないという。しかも、終戦で日本に進駐した占領軍は米軍が主体だから米国は「主要占領権」を持っていると言う。

このあと林志昇は、SFPTの発効後も米国は「主要占領権」を持ち、台湾の主要占領権も持つと言う。この理屈により、米国はSFPT発効から50数年も台湾の占領権を持っていた、だから台湾は米国の属領で台湾人は米国の居住権を申請できるというのが訴訟の要点だった。だがこの訴訟は米国の地裁、高裁、最高裁で却下された。

最近になってもTCGとTG-USAのグループは米国が台湾の主要占領権を持つ、台湾は米国の属領であると主張している。但し両グループの主張に違いがある。

TG-USAは「米国の支持と了解を得て台湾政府を創る」と主張する。TCGは「台湾は日本天皇の神聖不可分の領土で、日本がSFPTで放棄したのは台湾の主権ではない。だが米国は今も台湾の占領権を持つ」と主張している。

●SFPTの解釈に疑義あり

この数ヶ月、TCGとTG-USAのメールには、SFPTの第4条(財産の処分)と第23条(条約の批准と発効)の拠ると米国は台湾の主要占領権をもってことが確実だと書いている。詳細はAC通信、No.501とNo.502を参照されたい。これは真実でないと私は思って、中国語でSFPT条約の中で台湾の主要占領権その他についての考察を発表した。

私のSFPTの見解を要約すると以下のようになる:

第一、SFPTは連合国48カ国と日本の締結した平和条約で、戦争終結の宣言である。主要占領国米国とは日本占領を指すのであって台湾は第2条で放棄されただけ、米軍が台湾を占領した事実はない。

第二、SFPTが発効すると占領軍は日本から撤退し(第6条)、占領権は終結した。占領権が今でも(日本で?)有効と言うのは不合理だし、台湾でも有効とはもっと不合理だ。

第三、もしも米国が台湾の占領権を持つならSFPT第2条(b)に明記すべきで、第4条(財産の処分)にある米国占領軍、第23条(条約の批准と発効)で占領権を持つという主張は根拠がない。つまり米国は「台湾の主要占領国」と言う根拠はない。

第四、米国は台湾の主要占領国であると言ったことはなく、そのような言動もないし、台湾関係法にも明記していない。そのような事実は何所にもない。

●反論と再反論

早速TG−USAから反論があった。SFPTが発効した後になっても蒋介石政権は続けて台湾を統治しているではないかと言う。

私はすぐに再反論を書いた。これこそ米国が台湾の主要占領国ではない証拠である。米国が台湾の主要占領国なら蒋介石政権を追い出す権利があるはずで、SFPTを締結した時、78年に米国と中華民国が断交した時も中華民国を追い出さなかった。しかも台湾における白
色恐怖や38年の戒厳令、独裁政治でも米国は沈黙していた。米国には主要占領国で中華民国を制裁する権利がないのだ。

また反論があった。米国が何もしなかったのは台湾人が米国に抗議しなかったからだと言う。そんなバカなことはない。中華民国政権に虐待されても台湾人が米国に訴えなかったから米国は何もしなかった?そんな主要占領権があるか?米国の人権無視である。

そうすると最後にアンディの理論は中華民国が喜ぶだけだ、アンディは何故このような議論をするのか、利敵行為が目的かと言う。なにおかいわんやである。

味方を敵視する理屈、つまり議論が不利になったら相手が利敵行為をしていると非難して沈黙させる。せっかくの忠言も耳に入らないなら沈黙するしかない。

●自分の味方を敵に回すな

彼らの仲間には、たとえ少しぐらい不合理でも、台湾のためなら少しの不合理は受け入れると言う人も居るがそうはいかない。味方である私が不合理な点を指摘できると言うことは敵(中華民国)も既にわかっていることである。不合理な理由で独立運動は出来ない。
忠言が気に入らないから、味方の口を封じて敵に回すような愚行を犯すべきではない。

台湾独立は多くの困難を抱えている。正義と正当な理由をもって進むべきである。敵に有利な間違った理論を使わなくても正当な理由はいくらでもある。米国が主要占領国だからTG-USAやTCGが米国に抗議するのは米国を刺激し、困らせるだけである。

米国は台湾の主要占領国ではないが台湾の安全を保護することを「台湾関係法」で明確にしている。米国を刺激する行動は台湾のためにならない。米国は友好国で台湾の保護国である。だから抗議ではなく友好的態度で接することが外交の真骨頂である。

◆袋背負いの心 〜『新釈古事記伝』

伊勢 雅臣


外国人も賞賛する我が国の「思いやり社会」の理想は『古事記』に説かれていた。


■1.大きな袋を背負って

出雲大社に祀られている大国主命(おおくにぬしのみこと)には大勢の兄弟、八十神たちがいた。ある時、稲葉の国(鳥取県東部)に八上比賣(やかみひめ)という日本一の女神がいると聞いて、兄弟で嫁取り競争をする事になった。

しかし、太古のことで途中には道のないところが多いし、旅館もない。米、味噌、醤油から、鍋釜、寝具にいたるまで、持って行かなければならない。

そこで、八十神一同で相談して、皆の荷物を大きな袋にいれ、大国主命に運んで貰うよう頼むこととした。大国主命は力持ちだし、また立派そうなので、荷物運びの従者のように見せかければ、八上比賣から選ばれることもないだろう、という魂胆だった。

八十神たちに頼まれて、大国主命はビックリしたが、自分が荷物を背負わなければ、嫁取り競争も取りやめるしかない、と聞いて、「よろしゅうございます。お引き受けいたしましょう」と答えた。

こうして大国主命は一人で大きな袋を背負い、八十神たちに従って、歩いていった。その姿はどう見ても従者としか見えない。

{しかし、大国主命は、決して「自分はお供ではないぞ」などとは仰せになりません。

平気な顔をして、黙っておいでになります。お顔を見ましても、少しも自慢そうな様子はなく、少しも悲観した様子もなく、少しもお怒りになる様子もなく、まことに元気よく、ニコニコしておいでになります}。[1,p35]

■2.『古事記』に凝縮された古代日本人の心映え

最近、刊行された『新釈古事記伝』の一節である。書名は厳めしいが、文章は小中学生にも読める平易なものだ。しかし『古事記』のおとぎ話風の物語から、著者は自らの心に映った大和民族の深い理想を解き明かしていく。

著者は阿部國治氏。戦前の東京帝国大学法学部で英法学を学び、副手になったが、その後、同じく東京帝大で印度哲学科で学び、首席で卒業した、という人物である。そのまま進んでいれば、帝大教授か高級官僚への道が約束されていたろう。

しかし、阿部氏はそんなエリート・コースを捨てて、疲弊にあえぐ農民救済のために、地下足袋を履いて全国の村々を歩いた。そんな人生を歩んだ人だからこそ、『古事記』に凝縮された古代日本人の心映えが、よく見えたのだろう。

氏の解き明かす古代日本人の心映えは、泉から湧き出る清冽な水のように、現代の子供達の心に新鮮な潤いを与えるだろう。大人も、その水で喉を潤すことで、多忙な毎日を生き抜く元気を与えられるに違いない。そのごく一端をご紹介したい。


■3.稲葉の白兎の感謝

八上比賣に会いに、稲羽の国に向かう一行は、白兎(ウサギ)に出会う。白兎は隠岐の島に生まれて、ワニを騙して、本州に渡ったのだが、騙されたワニが「痛い目にあわせて、少し考えさせよう」と、皮をはいで、陸の上に放り出した所だった。

兎は痛くてたまらずに泣きだした。「ワニの奴め、いくらなんでも、こんなにしなくてもよいではないか」と思って、ワニを恨んで泣いた。

しかし、ワニはなぜ自分を赤裸にしただけで、なぜ海に放り込んで殺さなかったのだろう、とふと思うと、「ワニは自分を反省させようとして、こうしてくれたのだな」と気がついた。

{すっかり気がついた兎さんは、心から後悔しました。「決して、もう嘘はつきません。人様に迷惑をかけて、馬鹿呼ばわりはいたしません。ほんとに立派な兎になって、ワニの好意に酬いたい」と思いました。}[1,p22]

あまりの痛さに泣きながら、「どうぞ、神様、私の身体をもとどおりにしていただきとうございます」と祈っている所に、八十神の一行がやってきた。

八十神たちは、兎に海の水を浴びて、塩をからだにつけ、日向で乾かしなさい、と教えた。兎は神様の仰せられることだから、と思って、その通りにしたら、痛みがひどくなって、さらに泣き苦しんだ。

そこに、一人遅れて大国主命がやってきた。兎から訳を聞くと、「私の兄弟たちがからかって、すまない事をしました」と謝りつつ、川の水で塩を洗い流し、日陰の風の当たらないところで静かに寝ているように教えて、介抱してやった。それで兎はすっかり治った。

兎は、こうして念願だった本州にも辿り着けたし、ワニにゆがんだ心は叩き直してもらったし、大国主命のお陰で、もとの身体に戻れたので、心から感謝した。大国主命に「あなたこそ本当に立派な方です。八上比賣様は、必ずあなた様をお婿様となさるに違いありません」と申し上げた。


■4.八上比賣の断り

八十神たちは稲葉の国に着き、八上比賣に「どうぞ、この中からお婿様をお選び下さい」と申し出たが、八上比賣はきっぱりと断った。

「皆様のように、どんないろいろな技をご修行になっても『嫁取り競争』というような、この上もない大事な真面目な旅行にお出かけになるのに、その旅行に必要な道具を、ご自分でお背負いにならないような方は、本当に真面目な人とは思いません。

それにひきかえて、大国主命様は皆様の嫌がる荷物を全部お引き受けになった、どう見てもお供としか見えないのに、平気な顔をして、しかも皆様より遅れて、ひとりでおいでになっております。

それだけではありません。

皆様は稻羽の兎にお会いになって、何をなさいましたか。あの兎は後悔をして、泣いて祈っておったのであります。ワニすら、その兎を殺しはしませんでした。それなのに、皆様は兎をおからかいになって、慰みものになさったでしょう。

大国主命様はそれを後からおいでになって、親切にお治しになってやったのでございます。あなた方は、不真面目な呑気な方々で、まだ本当に立派とは申し上げられません。

ですから、できることなら、私は大国主命様のような方のところのお嫁入りしたいと思います。」[1,p44]

この八上比賣の言葉に、八十神たは、一言も弁解できなかったことと思
います、と著者は想像している。

■5.「他人の苦労を背負い込むことを喜びとせよ」

阿部氏は、この『古事記』の一節を、次のように解説している。

<大国主命は八十神たちが荷厄介に思われ、面倒に思って嫌われた旅行道具を一切引き受けて、大きな袋にお入れになり、これを背負われました。この袋を背負われる気持ちが非常に大切だと思います。

「できるだけたくさん、人さまの世話をやかせていただくことが立派なことである」と教えられているのであります。

「できるだけたくさん、他人の苦労を背負い込むことを喜びとせよ」と、教えられているのであります。

しかも、この教えを徹底的に明らかにするために、大国主命は、お供になっておられます。お供になるというのはどういうことかと申しますと、これは、人さまの世話をしたり、人さまの苦労を背負い込んだりすると、自らの心のうちに喜びを感ずるだけではなくて、「自分はこういうことをしてあげているのだから偉いな」という誇りの気持ちが起こってまいります。

それだけではなく、相手の人や世間から、「これだけのことをしているのから、感謝してくれるのはあたりまえではないか」という気持ちさえ起こってくるものです。

このように、人さまの世話をやかせてもらって偉いと自分で思ったり、世話のやき賃を求めたりするようではいけない、と教えられているであります。>[1,p50]


「できるだけたくさん、他人の苦労を背負い込むことを喜びとせよ」というのが、阿部氏の言う「ふくろしよい(袋背負い)の心」である。

■6.「偉くなる」とはどういう事か

大人は、青年や少年に向かって「偉くなりなさい」と言う。しかし、「偉くなる」とはどういう事か、はっきり教えていないし、自分自身でも分かっていない。

そのために青少年が、有名大学に入って一流企業に勤めることが偉くなることだ、あるいはそこで出世して、部長や役員になった人がヒラ社員より偉い、と誤解する。そこに無益な競争が始まる。

つまり、間違った目標を立てて、無理な競争をした結果、どういうことになるかというと、成功した人たちは「自分の力で成功した」と思って、己惚れの気持ちを起こします。成功し損なった人たちは、表面はおとなしくしておりますが、内心は成功した人たちを羨みながら、反抗心をもっております。

こうして、世の中は、自惚れの人たちと、卑屈の人が多くなりますから、不安定な気持ちの悪いところとなります。>[1,p54]


「袋背負いの心」に目覚めれば、組織上の地位と真の偉さとの違いが分かってくる。

<この教えから言いますと、ヒラ社員はヒラ社員で立派な職分ですから、ヒラ社員の「ふくろしよいのこころ」でやればいいのでして、偉いか偉くないないかは「ふくろしよいのこころ」の自覚の程度と、その実行の程度で決まってくるのであります。

ヒラ社員だから偉くない、課長や部長だから偉いということはありません。課長や部長はなおさら「ふくろしよいのこころ」を忘れてはならず、社長であれば、いっそうこれを徹底しなければならないのであります>。
[1,p54]


■7.「袋背負いの心」こそ日本人の理想

阿部氏は、この「袋背負いの心」こそ、日本人の心、すなわち「大和魂」だとする。そして、二宮尊徳、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典など、わが国で尊敬されてきた人々は、みなこの「袋背負いの心」を持っていた、と言う。

たとえば、乃木大将は日露戦争で大功があったが、部下の多くを亡くした事から、その後の俸給の大半を遺族の生活費や傷病兵の医療費に充て、まさに人々の苦を自ら背負って生きた。[a]

二宮尊徳も、その一生をひたすら、多くの農村の復興に捧げた。その志は、ただただ農民が安定した生業ができるように、という願いから出ていた[b]。 人のため、国のために生涯を捧げたという生き方においては、吉田松陰[c]も西郷隆盛[d]も同様である。

戦後教育は、これらの人々の偉さを教えなくなったが、その結果として、どのような人物が「偉い」のかが分からなくなり、単に良い学歴を持って、出世することだけが「偉い」と誤解するようになった。これは人を騙しても、嫁取り競争に勝てば良いとする八十神たちを育てているようなものである。

数千年前の太古の昔から「袋背負いの心」こそ貴い、と信じた我が祖先に比べれば、現代日本人の心の貧しさは明らかである。


■8.思いやり社会の源泉

そんな現代日本においても、社会全体としての他者への思いやりや深切さは国際社会でも群を抜いている事は、日本にやってきた多くの外国人が語っている[e]。また、東日本大震災の中でも、思いやりに満ちた被災者たちの行動は、世界を驚かせた[f]。

それは、学校教育こそ歪んでしまったけれども、家庭や地域での子育てで、無意識・無自覚のままにも「袋背負いの心」を伝えてきたからだろう。また「袋背負いの心」をそのままに示されてきた皇室の影響も大きい。

その思いやりの心は、実は太古からの神話が伝えてきた我が先人たちの理想であったことを『新釈古事記伝』は明らかにした。思いやり社会の源泉は、実はすぐ足元にあったのである。しかも、子どもたちにも親しめる物語として。

『新釈古事記伝』は、さらに大国主命が成長して、国土作りに向かっていく様、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天照大神(あまてらすおおみかみ)の物語など、古事記の名場面をとりあげて、古代日本人が理想とした所を説いている。

大人たちがこの本を読んで、家庭や幼稚園、小学校などで子供たちに話して聞かせたら、我が国は「袋背負いの心」を持った子どもたちで充ち満ちていくだろう。そんな立派な国を目指したいものである。

■リンク■

a. JOG(802) 国史百景(5): 乃木大将の「みあとしたひて」 明治天皇に殉死した乃木大将は、その後も多くの人々の心の中に生き続けた。
http://blog.jog-net.jp/201306/article_3.html

b. JOG(600) 二宮金次郎と「積小為大」
 二宮金次郎の農村復興事業が、日本人の勤勉な国民性を形成した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h21/jog600.html

c. JOG(038) 欧米から見た日本の開国−吉田松陰 ペリーの船に乗り込んで海外渡航を目指した吉田松陰の事件は、スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_1/jog038.html

d. JOG(429) 西郷隆盛はなぜ立ち上がったのか〜 岩田温『日本人の歴史哲学』から 必敗を覚悟して西南戦争に立ち上がった西郷は、何を目指していたのか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog429.html

e. JOG(602) 外国人の見た「大いなる和の国」「私たちは日本にくると、全体が一つの大きな家族のような場所に来たと感じるの」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h21/jog602.html

f. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog699.html

g. JOG(700) 国柄は非常の時に現れる(下)〜「肉親の情」 両陛下の「肉親の情」が、被災者たちに勇気と希望を与えた。
http://blog.jog-net.jp/201105/article_5.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 阿部國治『新釈古事記伝 全7巻』★★★★、致知出版社、H26
http://www.chichi.co.jp/special/yamatonokokoro/


◆木津川だより 6〜7世紀木津川流域

白井 繁夫


『古事記.日本書紀』の古墳時代に登場した物語:「武埴安彦の反乱、忍熊王の謀反」と云う2度にわたる木津川流域の戦いに大和政権が勝利した結果、「木津」は大和盆地からの北の出入口となり、大和政権の拡大した支配領域の重要な結節点にもなったのです。

6世紀に入ると、大和政権は仁徳系の王統を継承する皇子(25代武烈天皇後の皇子)が絶えかける状況になり、大伴金村大連(おおともかねむらのおおむらじ)が、近江の息長(おきなが)氏の系統:応神天皇五世の孫:男大迹王(おほどのみこ)の擁立をはかります。

◎★ イラスト継体天皇の三つの宮.jpg

<上記イラストは6世紀初頭、継体天皇が遷都した三つの宮:★楠葉宮(北河内)→★筒城宮(綴喜)→★弟国宮(乙訓)です。>

大和、河内の一部の「男大迹王」を快く思わない勢力が丹波の別の王を推すのに対して、前述の2度の戦いで敗れた樟葉、綴喜の子孫や、近江の息長氏、母方(越前三国の振媛)や木津川流域の人々の強い支援もあり、更に前王統の手白香皇女(たしらかのひめみこ:仁賢天皇の皇女)と結ばれ、「男大迹王」は河内北部の楠葉宮で即位し、「継体天皇」になりました。

しかし、大和への入国を阻止しようとする反対勢力により、即位5年後、山背(やましろ)の筒城宮(つつき:京田辺市普賢寺)に遷都し、さらに、7年後の12月3日に弟国宮(おとくに:乙訓:長岡京市今里)へ遷都しました。

「継体天皇」が大和(磐余玉穂宮:いわれたまほのみや:桜井市池之内)に入り名実ともに大王となるのには、楠葉宮を出てから20年の歳月を要しました。

この間、近江、越前、尾張などをはじめ木津川、淀川水系の諸豪族(息長、和珥、茨田氏:まんだ)の地道な支援と、前王統の皇女との婚姻などで、継体政権は安定したのです。
(日本書紀は継体の直系の子孫:天武天皇によって編纂されており、古事記の記述と異なるところもあります。)

「木津川流域」は「継体天皇」以降の大和にとっては更に重要度が増し、海外からの渡来人も木津川市内に多く住むようになりました。

6世紀半ばを過ぎると、朝鮮半島の戦乱をさけて北九州の筑紫に到着した人達も、高麗人(こまひと)も上狛(かみこま).下狛(しもこま)など木津川地域に定着しだしました。(南部2郡:相楽、綴喜は「高麗(狛)氏」、山城北部:京都盆地は「秦氏」が集中していました。)

朝鮮半島の百済と倭国は非常に親密な関係であり、欽明天皇13年には百済の聖明王から仏像や経論が贈られ、文字や土木技術も伝えられました。

欽明天皇31年(570年)に、国交を開く目的で来日した高句麗使の一行の船が難破して北陸沿岸に漂着したのを、現地の道君(みちのきみ)が隠していると奏上あり、天皇は山城国相楽郡に館を建て、使者を安置するよう命じました。

「木津川の港」(泉津)、木津の相楽神社近隣に外交館舎「相楽館:さがらかのむろつみ」を建てて、一行を出迎えました。しかし、上表文と献物を差し出せないうちに、天皇が病死していまい、使者はいたずらに滞在が長引いていました。
(相楽館は高楲こまひ館とも呼ばれたことから木津川北岸の上狛との説もありますが外交館舎は後の難波館同様港の近く相楽:サガナカに在ったと思われます。)

次に即位した敏達天皇は、長く使者が逗留していることを知り、大いに憐れみ、即刻臣下を派遣して上表文などを受け取らせて、(572年5月)帰国の途に就かせました。
(大和朝廷は百済との外交が基本であり、物部氏らは高句麗との新しい外交に反対していました。政界のニュウリーダー大臣蘇我馬子の決断によったと云われています。)

任務を終えて帰国途中の一行は、蘇我氏に反対する者たちによって、暗殺されてしまったと云われています。当時の日本の一部には、大陸から伝来した仏教文化を受け入れずに神道をもって国教とすべきという信念を抱く反対勢力があったのです。

6世紀後半以降、外交使節は大和川を遡上しその支流なども利用して大和盆地の南部にある「宮」へ行く水運利用や、難波から大和にむけて敷設された陸路も利用していました。
しかし、木材や石材などの物資輸送に関する「木津川の重要度」にはなんの変化もありません。

朝鮮半島では3世紀(220年)、後漢の滅亡により、中国の影響から離れて、3国時代に入り、それぞれの国は発展し、文化的にも儒教から仏教に変化し、百済は4世紀が最も栄えていたと云われています。高句麗も鴨緑江から満州へ領土を徐々に拡大して行きました。

6世紀末から7世紀にかけて、朝鮮半島が再び、中国の隋、唐の侵略戦争の被害を受けていた時代、倭国では蘇我氏が皇族との婚姻を結び、絶大な勢力を得ることにより、大伴、物部の各氏を廃絶し、無力化してしまいました。

蘇我馬子は592年11月には東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて、崇峻天皇をも弑逆(しいぎゃく:臣下が君主を暗殺)しましたが、(根回しの効果か?)、他豪族からのクレームもでなかったと云われています。

30代敏達天皇の皇后(33代推古天皇)は蘇我馬子に請われ即位しました。日本史上、初の女帝が誕生したのです。(593年)推古天皇は甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子として政治を補佐させました。

7世紀に入ると、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いなど木津川流域にもまた動乱があり、大津京、飛鳥京から藤原京へと移り行くのです。

次回の話題へつづきます。
参考資料: 木津町史  本文篇  木津町
(郷土愛好家)

2014年07月20日

◆13億人民が習近平を見離す日

平井 修一


「習近平とは何者か?」とずーっといぶかっている。習の言う「中国の夢」は、大清帝国の最盛期のような超大国になるということのようだが、習のやることなすことはことごとく裏目に出て、ひたすら中共を弱体化しているように見える。(これは小生にとっても世界にとってもいいことなのだが)

マキャベリはフィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の下問にこう答えた。

<歴史に残るほどの国家ならば必ず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも、二つのことに基盤を置いたうえで種々の政策を実施した。すなわち「正義」と「力」である。

「正義」は国内に敵を作らないために必要であり、「力」は国外の敵から守るために必要である>

これは指導者として当然の国家戦略だが、小生の目に習近平は唯我独尊、傲岸不遜の誇大妄想狂のように見え、毛沢東のように大人を演じているものの、冷静かつ周到な国家戦略が少しも見えてこない。

毛沢東は「パンツ一枚になっても核武装するのだ」と言って国連常任理事国になった。外交にあたっては「金が欲しいのなら金を、名誉が欲しいのなら名誉を、女が欲しいのなら女を与えよ」とさえ指示した。

そういう戦略、方針が習からはどうもうかがえない。ひたすらモグラ叩きのようにバタバタしているように見える。一体全体、習近平とは何者なのだろう。いろいろな方の論考をチェックしてみた。(かなり長いので、お時間がないのであれば一気に最後の【結論】にお進みください)

徐静波・中国経済新聞編集長の講演「習近平体制と日中関係の行方」から。(これは習の原点、とても興味深い)

                 ・・・

▽極貧の村で懸命に働いた習近平

私は習近平と2回握手し、直接、話もしました。いま「習近平時代」という本を書いています。習近平はどんな人物かについて、3年かけて、本人や昔の部下などを取材した。習近平が下放された延安市の梁家河村にも行った。

この村は習近平の人生の原点。習近平の父は50年代に、周恩来の下でずっと国務院秘書長を務めた。秘書長とは官房長官。文革で一度倒れたが、文革終了後に副総理、広東省書記、全人代副委員長まで務めた。

だから日本のメディアは「習近平は太子党」と言っており、それは事実だが、習近平の人生はかなり苦労に満ちたものだった。中学を卒業する前に文革が始まり、父母は収容所に送られ、習には居場所がなかった。当時、若者を農村にやる下放運動があった。

15歳8カ月の時だったが、中央党校で学習させられていた母親に相談したら、父の故郷の延安に行けば、みなが世話をしてくれると言われた。習近平は北京のほかの若者と列車に乗り、バスに乗り、半日歩いて梁家河村に着いた。

当時、村の人口は308人。いまは170人しかいない。村名には「河」と付いているが、実際には河はない。習近平と他の9人でこの村に入り、人生をスタートさせた。

豚肉を食べられるのは年1回しかないという超貧しい村。春節に村で2頭の豚を殺してそれを食べるだけ。いつも食べているのはトウモロコシ、サツマイモ。北京でまあまあの暮らしをしてきた習近平にとっては、耐えられないような生活で、3カ月後に習は村から逃げ出してしまった。

最初に延安から車で3時間の父の故郷、富平県に行き親戚を頼った。しかし親戚は、おまえは「走資派」だから受け入れられないと言った。習はしかたなく北京に戻った。そこで半年くらい、当時は何もなかった中関村で下水道工事の仕事をした。

母から、「逃げてはいけない、お前には梁家河村しかいるところがない」と言われ、習近平は戻った。その時、人生が変わった。

そこで一生懸命に働いた。夜12時まで本を読む。よその話を村人に熱心にしてやった。灯油のランプの下で集まった村人が習近平の話を聞く。

その時の村長が呂さん。いまは70歳そこそこのおじいさん。当時は習の兄貴分のような若者で、「習はいい人だから、どうしても外に行かせたい」と考え、習に共産党員になって下さいと声を掛けた。習は3回入党の申請書を書いたが、父親の関係でなかなか入党できない。

4回目には、村長の呂さんが裏で一生懸命、上に諮り、県の党組織が習の父親が働いている工場まで出向いて、いま父親が政治的にどういう状況かを確認して、それならいいということで、ようやく入党が認められた。

紹介者は呂さん。彼は党支部長のポストを習に譲り、自分は村長だけでいいと言った。それで習は村の最高指導者の党支部長になった。

習が最初にやったことはガス発電。新聞に、人や動物のフンに植物の葉を入れればガスが出てくると書いてあった。そこで、バスに乗って四川省まで勉強に行き、陝西省で最初のガス発電施設、燃料施設をつくった。

北京から一緒に来た9人はいろいろ理由をつけて戻ったが、習は村に最後まで残った。村長は習に村にずっと残って欲しいと考え彼女を紹介した。19歳の良く働く若い娘。洗濯、料理など身の回りの世話をさせようとしたが、いつも習が逃げまわり、どうしても恋にはならなかった。

▽「苦難の経験あるので怖くない」

20才の時にトウ小平が復活し、大学教育を復活させた。工農兵の優秀な者を大学に入学させる。その時、チャンスが来た。延川県に北京大と清華大の2人分の枠が来た。北京大の枠は県書記の娘が取り、清華大の枠は習になった。

大学の入学は9月。7月末に習が村を離れた時、村民は何もないので、たくさんの卵をお土産にあげた。20人の若者が半日、習と一緒に歩いて県の所在地まで行った。

夜、いっしょに羊肉のしゃぶしゃぶを食べた。習がトイレに行っている間に、湯はまだ煮たってないのに、肉はすっかりなくなってしまった。それほど貧しかった。習は中学生から20歳まで、中国の一番貧しい農村で懸命に自分の青春時代を過ごした。

習が大学を卒業した時、もうひとつのチャンスが来た。父の友人の耿国防相のところで秘書官として務めることになった。3年半、耿の家に住み込み秘書官をやった。毎朝、庭を掃除する。銃を分解して、きれいに掃除して組み立てる。耿が初めて軍指導者として訪米した時、その段取りは習がやった。

3年半たって28歳の時、習は仕事を辞めたい、田舎に行きたいと言った。中南海の仕事を辞めて田舎に行くというのは、かなり勇気のいること。結局、河北省正定県に行き、県副書記になった。そこで彼の人生がまた変わった。

北京を離れてから、24年間かけて地方を回り、24年後に北京に戻った時には党中央政治局常務委員になっていた。

なぜ、彼の詳しい人生を語ったかというと、昨年(2012)11月、第18回党大会終了後の記者会見で、私は習のスピーチを聞いた。習はその中で「われわれはいろいろ苦難を味わった。これからどんな困難があっても怖くない」と言った。ものすごく自信がある。つまり彼はかなり頑固な人間。すべて自分で決める。一度決めたことは絶対にやるという性格だ。(以上)

               ・・・

なるほど、大層苦労した根性マンなのだ。自信、頑固、決心を貫くタイプだ。

野口東秀・元産経中国特派員(現・日本維新の会国会議員団本部政調会)
の論考。

               ・・・

1.中華民族の偉大な復興

党総書記に就任した習が最初に視察したのは(2012年)12月7-11日の広東省。トウ小平の銅像に献花する一方、駆逐艦、戦車に乗るパフォーマンスで「強大な軍隊建設」を号令した。(トウの)南巡講和から20年。第二期改革開放のPRか。

当地では「中華民族の偉大な復興」をこれまでのように強調し、「戦争の準備を整え、戦いに勝つことが強大な軍隊を建設するための要で、軍隊の建設を進めよう」と指摘。

同月13日の南京事件記念日には国家海洋局の航空機が尖閣の上空を侵犯、海からも領海を侵犯した。同局は「立体的に航行した」と発表。(南京)75周年を選んで侵犯しており、習指導部と軍首脳の承認で行われたとみるのが普通だ。

その3か前には海軍艦艇が西太平洋の訓練を終わり基地帰還する際に尖閣周辺を通過。今後、軍艦艇の尖閣航行を常態化する意図があるとみられる。

問題は、安定した政権になるかどうか。胡錦濤時代は基本は対日外交で「協調」だった。愛国主義に引きずられる指導者はしっかりとした基盤をもっていない。その意味で現段階では安定した基盤を習近平がもっているわけではない。

さらに習政権はほかの派閥に囲まれている、基盤は弱いと言わざるを得ない。国内的にも民主活動、少数民族対策に強硬政策をとるのは基盤が強くない証左だ。

2.長老配慮

18回党大会の開幕日には江沢民はじめ李鵬や万里、曽慶紅など12人の長老連ね、頂点に江沢民がいた。軍人事は、習近平は軍の基盤の上に立ち、対日強硬路線をとるとみられているが、軍からは江沢民の影響力がかなり排除されたようだ。

習政権の成り立ち自体、長老の意見を聞いた結果だ。習の父親、仲勲は胡耀邦との緊密な関係、共青団幹部との関係、改革派との関係が良かった。しかし(習近平は)軍に依拠した人物であり、長老に配慮した政治を行うものとみられる。(以上)
・・・

習は軍隊を掌握しているが、江沢民派とは反発しており、安定した基盤をもっているとは言えないという論。確かにそのようだ。

習が主席になる前の週刊現代2012/4/17「弱すぎる男 習近平の悲劇」から。

                ・・・

*失脚した幼なじみ

3月、中国では数年に一度の大きな政変があった。共産党の権力中枢を担う3つの派閥、太子党・共青団・上海閥のうち、太子党のトップランナーの一人と目されていた薄熙来が、事実上失脚したのだ。習近平もまた、太子党に属する。薄熙来の失脚により、習近平の権力基盤はどうなるのか---。

太子党とは、かつての共産党高級幹部の子弟を指す。親の七光りの恩恵を受けて、党内で異例の出世を遂げたり、若いうちから多額の金銭的利得を得るなどの特権を持つ人々のことだ。

彼らのもう一つの特徴は、幼少期から幹部専用住宅に住むため、互いに顔見知りで、広範な人的ネットワークを形成していることである。実際、習近平と薄熙来も幼い頃から面識があった。

習近平と薄熙来は、薄の方が4歳年上だが、幼稚園の頃から一緒に育った。薄熙来は喧嘩ばかりしている腕白なガキ大将で、一方の習近平は大人しくマジメな子供だった。

薄の弟が習近平をいじめていたという噂もあった。いわば二人は不良グループとマジメな子グループの代表で、習は薄に頭が上がらないという間柄だった。そのせいか、今でも習近平は薄熙来をどこか怖がっているふしがある。仲間でありながら同時にライバルでもある、そんな微妙な関係だというのだ。

ではいったい、薄熙来を失脚させたのは誰なのか。

薄は現総書記の胡錦濤、首相の温家宝らにとって邪魔な存在だった。というのも、彼は書記を務める重慶市で次々に保守反動(毛沢東主義)的な政策を実行に移し、貧しい民衆の不満を煽りながら、現指導部と真っ向から食い違う政治方針を打ち出した。

薄を潰す決断を下したのが胡錦濤であることは確実だ。胡はずっと「薄打倒」のタイミングを計っていた形跡もある。

習近平にとっては、胡錦濤がライバルの薄熙来を倒してくれるなら悪い話ではない。それで、今回の政変では中立を決め込んだ。

ただ、習近平は複雑な心境でなりゆきを見守っているはずだ。薄熙来の失脚により、太子党全体には少なからずダメージがある。胡錦濤=共青団の力を見せつけられ、習の政権は発足後しばらく共青団に配慮しながらの運営を迫られる。習の権力は、スタート前にして既に揺らいでいると言っていい。

『習近平 共産中国最弱の帝王』(文藝春秋)が話題となっている。中国残留孤児2世というルーツを持つ著者の矢板明夫氏は、産経新聞中国総局特派員として北京に暮らす。

習近平の素顔、生い立ち、政治信条は中国国民にさえほとんど知られていないが、氏は同書でその深層に迫っている。

<現在の中国は、改革開放政策で経済的豊かさが増す一方、共産党一党独裁が続くという大きな矛盾を抱えている。そこで生まれているのが、共産党幹部と財界の癒着だ。

こうした状況下で薄熙来は、貧しい人たちの共産党・政府に対する不平不満を煽って、地元の金持ちの共産党幹部を捕まえて処刑し、自らはヒーローを演じるという政策を実行していた。重慶に住む貧しい層は、これに拍手喝采を送った。

2010年に取材で重慶を訪れたとき、日本円で200円ほどの安価なマッサージ店に入った。すると、マッサージ師が「薄熙来は素晴らしい」と褒めちぎり始めた。「偉そうな奴ら、悪いことをして金持ちになった官僚は、みんな彼に捕まった。中国をよくできるのは薄熙来だけだ」と。

薄は捕まえた人を簡単に死刑にしたので、「でも、なにも殺さなくてもいいんじゃないか」と反論したところ、「お前は官僚の味方なのか。帰れ!」と怒鳴られ、マッサージの途中で追い出されてしまった。それほど一般民衆の間には官僚、特権階級への怒りが溜まっていた。しかし、その薄熙来は排除されてしまった。

習近平が胡錦濤ら長老に選ばれたのは、彼が父祖を否定しない、いわゆる “赤い子孫”であり、安心できる人物だという理由が大きい。李登輝やゴルバチョフのような改革派では、せっかく作った国が民主化で潰れてしまう。薄煕来のように反発をせず、思想的背景もない習近平には、その危険が少ない>(以上)

                ・・・

【結論】

習と薄熙来が幼馴染とは知らなかった。習の「民衆の間に官僚、特権階級への怒りが溜まっており、金持ちの共産党幹部を捕まえて処刑し、自らはヒーローを演じ、民衆の拍手喝采を得る」という大衆迎合ポピュリズム戦術のルーツは薄熙来だったのだ。

苦労人、頑固一徹、根性マンの習近平の戦術は、要するに「内にあっては汚職官僚」、「外にあっては日本」という敵(抵抗勢力)を作り、敵を叩くことを「正義と力」だとし、国民の支持を集め、中共を自分の思うような「大国」にしたいということだろう。

そもそも「大国」というのは政治、軍事、経済、文化で世界に大きな影響を及ぼす国ということだが、中共が注目されているのは異常な軍拡だけで、経済は確かに世界2位だが国民の生活は「飢えてはいないが楽ではない」レベルだし、過去においては中華文明はあったが、中共文化なんて聞いたことがない。

政治では自由、民主、人権、法治なんて弾圧で後退するばかりで、まったく最低のレベルだ。

習近平はどういう国を目指すのか、具体的なビジョン、青写真をまったく示せないでいる。バカの一つ覚えのような汚職叩きと日本叩きに、いくら無知蒙昧な国民でもいつまでも拍手喝采はしない。

景気は当分悪化するばかりだろうから、世界に続いて国民が習近平と中共中央を見離す日は近いと言わざるを得ない。分裂は免れないだろう。(2014/7/17)

◆何故ウクライナの上空を飛行したか

前田 正晶


謝罪の文化がない国々が如何に対応するのか:

この度のマレーシア航空機がウクライナの上空で不幸にも撃ち落とされた事件は誠に傷ましく、犠牲者のご冥福を心からお祈りする次第だ。

このような国際的に非常に微妙な要素が多い事件がウクライナの上空で発生したと聞いた時に、鈍感な私でさえ「何でそのようなところを飛んだのか」と耳を疑った。1992年にスキポールから東京に帰ってきた経験があるので、ロシアの上を飛んだのだが、まさかこの時期に飛ばしたのかとの疑問である。

この件に関する報道が輻輳しているし、私には何が真相かなど知る由もない。だが、全ての状況を把握しているはずだと推定しているアメリカでは、オバマ大統領はロシア側の地域からミサイルが発射されたと明言したと報じられた。当然ながらこの件の責任の所在についてウクライナとロシアの主張は正反対である。

私はこの時期に何とまた解決が極めて面倒な問題を起こしたものかと思っている。私の長年の主張である「謝罪の文化」を持ち合わせない西欧の諸国が関連した想定されるこの案件である。しかもアメリカは当事者ではないが、簡単に仲裁に動くとは私には到底考えられない。

謝罪の文化は我が国独特の潔さを示すもので、自らの過ちなり罪を綺麗に認めて謝罪することから補償等の事後処理の話し合いなり交渉に入っていく。そこには「水に落ちた犬は撃たない」という精神がある。

恐らくこのような美しい文化があるのは我が国だけだと思っている。経験的に言えることは「欧米諸国と我が国の北にある国々にはこのような文化も思考体系も存在しない」とは知らぬ人が我が国には未だにおられるのだ。

我田引水を承知で言えば、長年対日輸出に携わってきた間に最も克服が困難だったことの一つに、アメリカ側の「謝罪をしない文化」で育ってきた人たちに事件発生の際には「先ず謝罪から入れ」と理解させることだった。

私は「我が国との交渉では謝罪をしても一切の責任を負うと告白したことにはならない。非は我が方にあると自覚している場合には、先ず "Weregret." 程度のお座なりな表現ではなく "We admit 〜." かまたは潔く"We are sorry we made such a mistake." とでも言っても全責任を負うと言ったことにならない」と説得してきた。

拙著「アメリカ人は英語がうまい」には「海の向こうの誤らない人たち」と題した章がある。そこで強調した点はアメリカの航空会社の地上勤務の責任者が最後まで絶対と言って良いほど「自らの過ちを認めて譲歩する姿勢どころか、謝罪すらしなかったこと」だった。

私は彼等が謝らないことを承知で何度も「謝れば譲歩してやる」と言ったのだが、過ちが彼等の側にあったのは明白だと承知していた様子でも謝罪は拒否したのだった。

この度の事故がオバマ大統領が指摘した通りだったとしよう。そこに発生するだろう最大の問題は、目下世界最強のリーダーだろうと私が認識しているプーチン大統領が如何なる姿勢で対応するかだと思う。

いや、何処までロシア側の非を認めるかだと思っている。いや、認めないだろう。しかも交渉すべき相手先がウクライナだとすれば、世界最強の大統領が如何なる姿勢で事に当たるかは非常に興味深い。

私はもしもロシアかウクライナの親ロシア派か、ないしはウクライナ側が万が一にも責任を認めることがあるとすれば、それは22世紀にでもなった頃かも知れず、ましてやオランダ、マレーシア他の犠牲者に謝罪する可能性は低いと思っている。しかし、これは当事者または責任者であった側が犠牲者に対する補償に応じるだろうこととは別個の問題ではないかと考えている。

何れにせよ、世界最強のはずだったプーチン大統領はウクライナ問題の処理に加えて、今回の撃墜問題が加わった極めて難しい局面に如何に対処していくかは、これから先の世界の情勢ないしは平和に重大な影響をもたらすことだろうと考えている。

また、その輝きを失いつつあったアメリカと オバマ大統領にとっては、その威光と力を見せられる場面が来るだろうと も見ている。

換言すれば、オバマ大統領がプーチン大統領に押され気味で、中国のやや安定性が欠けるかに見える指導者・習近平にも軽視されているのではないかと危惧されていた劣勢から、ここで外交面での手腕を発揮して一気に脱出する好機が来たるかも知れないとも考えている。

同時に、外交面で着実 に実績を積み重ねてきた我らが安倍総理が如何なる態勢でこの局面に対処 するかにも関心がある。

2014年07月19日

◆沖縄が本当に危ない

池田 元彦


今年5月、沖縄県那覇市で「久米崇聖会」創立100周年記念式典が催された。久米崇聖会とは、14世紀末明代に現福建省から職能集団として沖縄に渡った、現在13の士族の末裔200名の会員組織だ。仲井間弘多知事、翁長雄志那覇市長も来賓として招待されていた。

実は仲井間知事も、翁長市長も稲嶺恵一前知事も皆その末裔で、福建由来の祖先を持つ有力者が意外と多い。その一人、翁長那覇市長は次期沖縄県知事候補として有力視されている。その最中に氏は2件もの住民訴訟が提訴された。内1件は龍柱建設白紙撤回訴訟だ。

那覇市民への周知、広報、意見聴取もなく、少数有力者の内諾を取った上、市議会に諮り成立させた。大型観光船も目前を通過する若狭湾埠頭から延びる国際通に通じる道の両脇に高さ15mの大理石の龍を象った巨大な門柱建設に、国の一括交付金を使うと言う。

87歳の金城テルさんは提訴した。翁長市長の一連の媚中公費浪費、違法政策を糾弾し、龍柱建設白紙撤回を訴える。観光施策と称するが、沖縄のシンボルは龍でなく「シーサー」であり。建立するならシーサーだ。最大の外国人観光客は台湾であり、中国の3倍以上だ。

昨年の沖縄観光客は630万人、600万の日本人を除けば、台湾25万、韓国10万、中国7万、香港9万、その他11万で、中国観光客は1%に過ぎない。何故中国に発注する。しかも建立予定の龍の爪は4本しかない。同じ通りにある孔子廟龍柱は、5本の爪がある。

これは日本を属国扱いする(して貰いたい翁長市長の)隠れた意図の象徴だ。発注にも問題がある。3次下請け迄鞘抜きし、龍柱石は福建省の石材会社が6600万で受注している。

翁長市長の媚中税金無駄遣いは未だある。龍柱の通りにある崇聖会の孔子廟域は、那覇市が12億円で購入した公園7,500!)の約20%(1335!))を占め、2%以下とする都市公園法第4条違反だ。しかも使用料完全免除だ。孔子廟は、湯島聖堂同様に明白に宗教施設だ。

祈願等の宗教的行為は憲法の政教分離に反する。学業成就の祈願カードを公園内で販売するのも違反だ。然も廟内明倫堂は公民館等として一般市民は立入る事さえ出来ない。

何故翁長市長はそこまでするのか。その裏には習近平の沖縄中国化戦略と、7世紀以上前の祖先の中華意識で沖縄を中国化したい福建省栄誉市民、翁長市長の呼応があるからだ。龍柱通り一帯を中華街にし、中国治外法権地域を先ず創出したいのだ。沖縄侵略の起点だ。

 だから台湾の中華街ではなく、飽く迄も中国の中華街だ。14年前、習近平と翁長市長は、それぞれ福建省長、那覇市長に就任して以来交流を重ね、習は4度沖縄を訪問している。福建省都福州市と那覇市は姉妹都市でもある。敵の目的は尖閣だけでない。沖縄も危ない。

習近平を背景に、翁長市長は着々と11月知事選へ地歩を固めている。那覇市議会は自民党迄翁長市長支持に回る始末だ。加えて沖縄の主要政治家やこれ迄保守一辺倒支持の事業家迄翁長支持に至り、石破幹事長は仲井間知事を支持出来ないとした。

公明党は普天間移転決断を理由に仲井間知事を遺棄している。社民党は6月訪中し知事選も協議しただろう。
 
龍柱はその兆しだ。目標は翁長県知事成立だ。沖縄県民に中国歓迎気分が浸透している。翁長市長が第1に尊敬するのは、野中広務氏だ。ムベなるかな。本当に沖縄が危ない。


         

◆インラック前首相の訪欧を許可

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 


<平成26年(2014)7月18日(金曜日)通巻第4297号>  

 〜タイ軍事政権、インラック前首相の訪欧を許可
  兄タクシン(元首相)とパリで合流、時期をまって帰国か〜

タイは軍事クーデターから2ヶ月を経過し、暫定政権はインラック前首相の訪欧要請に出国許可を出した。同時に、公費乱用の容疑で送検している。

インラック前首相はパリで兄のタクシン元首相の誕生パーティに合流し、おそらくそのまま亡命生活に入って次の時を待つのだろう。

パキスタンのブッド元首相は英国からサウジへはいって長い亡命生活をおくり、政治局面がかわると帰国した。

すぐに政権の座に復帰したが暗殺された。

シャリフ前首相はムシャラフのクーデターでパキスタンを追われ、サウジ、ドバイなど「流浪」の亡命が十年近くに及んだが、帰国して復帰、いま首相の座にある。

南アジアの政治にはこうした共通性があるが、インラック首相の場合、いかなる算段のもとに訪欧のたびにでるのだろう?

嘗て「血の日曜日事件」(1973)で国民から疎まれ、タイを逃げ出したタノム首相は1963−73まで10年の強権政治を続けた。

亡命生活に飽きて、頭を丸め僧侶として密かに帰国したが、反対が強く、タノムは帰国後、政治活動を一切、行なえなかった。

国民の怨嗟の声が強く、完全に沈黙していた。プミポン国王のタノムを相手にしなかったと言われる。さきごろ92歳で亡くなった。
    

◆中国の「傲慢ボケ」が地球を救う

野口 裕之


安倍晋三首相(59)の豪州7月訪問は、中国もにらんだ「準同盟」を確認する大成果を上げたが、敵失にも助けられたと思っている。豪州は近隣の軍事大国出現を阻み、近隣に敵性軍事大国の基地を置かせない安全保障政策を伝統的に採ってきた。


特に、北方は戦略的緩衝帯として絶対防衛権に位置付ける。ところが、中国海軍は豪北方の戦略的要衝で初軍事演習を断行、対中警戒をかつてないほど高めた。(SANKEI EXPRESS)


中国はわが国近代史の捏造に殊の外熱心だが、豪州が大東亜戦争(1941〜45)中、大日本帝國陸海軍によるニューギニア島〜ニューブリテン島〜ガダルカナル島といった北方の支配に、多大な犠牲を払い徹底抗戦した戦史を学んでいないのか。目立ち始めた中国の戦略的錯誤が、対中包囲網→地球の平和へとつながる僥倖に期待する。

豪の「北の玄関口」に出る

豪国会で演説した安倍氏は、帝國陸海軍と豪軍を主力とする聯合軍とのニューギニア戦線おける激戦「ココダ(道の戦い)」に触れた。「哀悼の誠を捧げる」ための引用だったが、州の対中警戒を覚醒させたとすれば巧妙だ。


中国海軍南海艦隊戦闘即応戦隊が1月29日、豪北西インドネシア・ジャワ島の最西端スンダ海峡を通りインド洋に進出。初の軍事演習を行い、豪北方沿岸を睥睨しつつジャワ島東のロンボク海峡を北上した。中国艦隊がインドネシア列島線を越え豪北方海域に出た前例はない。当該海域は豪州の「裏庭」ではない。「北の玄関口」である。


即応戦隊は輸送揚陸艦とイージス駆逐艦、ミサイル駆逐艦の3隻。潜水艦1隻が護衛していた可能性が高い。中国南部の軍港〜南シナ海〜西太平洋を反時計回りに23日間、1万5000キロ近くを航海した。当然、途中の示威行動は忘れない。


例えば(1)ベトナムから武力強奪したパラセル(西沙)諸島=台湾も領有権主張(2)フィリピン軍駐屯の馬歓島=台越中も領有権主張(3)マレーシア沖50キロのEEZ(排他的経済水域)内ジェームス礁=中国も領有権主張=近くを巡った。

その後はインドネシア列島沿いに、既述した(4)スンダ海峡〜ロンボク海峡(5)マカッサル海峡〜フィリピン東沖(実弾射撃訓練実施)(6)比台間のバシー海峡を経て帰港した。

危機感を強めた豪公共放送は専門家の警告を紹介した。

「豪州北の玄関口周辺で新鋭艦が示威航海したが、豪州のインド洋における航路帯に中国海軍が直接影響力行使できる実態を初めて具体的に示した」


そもそも、スンダ海峡沖には歴史的にインド洋東部に影響を与えてきた豪領の島嶼が浮かぶ。特に、ココス諸島には米軍無人偵察機基地が陣取る。豪州大陸でも、米海兵隊2500人が半年間隔で北部にローテーション配備。中央部では、米軍とCIA(米中央情報局)が共同運用する衛星追跡施設が、東南アジアなどを偵察する軍事衛星のデータを解析している。

間の悪い艦隊大航海

対する中国も、南/西太平洋上の一部小群島国家への海軍艦艇寄港やEEZでの活動を活発化。“中国漁船”の一部も、米豪軍の通信傍受を担任していると観られる。


導火線は在ったにせよ、豪州を「その気」にさせた中国海軍は他にも、大きな過ちを犯した。即応戦隊がインドネシア海域を航行中の1月30日、超党派の米議会諮問機関《米中経済・安全保障検討委員会》において、米海軍情報局が中国海軍の戦力分析・評価を説明。即応戦隊大航海の「間の悪さ」を一層引き立てた。曰く−


《旧型が急速に退役、大型で多用途の先進兵器搭載艦に替わった。2013年だけで50隻超が建造・進水・就役。14年も同様の数を見込む。先進兵器のほとんどが、米軍介入阻止を目的としている》

各兵器の分析・評価も、米議会を刺激するに十分だった。

《将来型潜水艦・水上艦搭載の対地巡航ミサイルは、グアムなどの米軍基地に向けた攻撃力を増強。潜水艦発射型弾道ミサイルはハワイ/アラスカ/米本土西部を攻撃範囲に収める》


だのに、米オバマ政権の反応は相変わらずピリッとしない。オバマ政権を横目に、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国も腰を引く。マレーシアのヒシャムディン・フセイン国防相(52)に至っては「大国=中国に接する場合、自国能力に現実的でなければならない」と公言してはばからぬ。ASEAN諸国は輸入や開発援助など、中国が時々にぶら下げるアメと脅威烈度を秤にかけ、猫の目の如く態度を変える。


「勝利による敗北」の構図
 

実際5月11日、ASEAN首脳会議は、名指しは避けたが中国に「深刻な懸念」を表明(議長声明)した。声明は、あろうことか会議直前、中国がパラセル諸島付近のベトナムEEZ内に石油掘削リグを設置、中国海軍・海上警備当局の艦船80隻と越海洋警察・漁業取締当局の艦艇30隻が衝突した事態など、南シナ海で狼藉を止めない中国への強い牽制だった。
しかも、越比など対中強硬派は無論、越比同様領有権紛争を抱えても中国批判を控えるマレーシア、中国と加盟国のパイプ役インドネシアまで、ベトナムの対中非難を理解した。


縷縷論じてきたが、賢者を自任する中華帝国としては「間」が抜けている。《自滅する中国/なぜ世界帝国になれないのか=芙蓉書房》の著者エドワード・ルトワック(71)は、一方的勝利継続は相手の反動を呼び、結局は自らを滅ぼす逆説的論理《勝利による敗北》を指摘する。即ち−


国際常識を逸脱した台頭・侵出は畢竟、各国の警戒感や敵愾心を煽る。中立的国家はじめ、友好国の離反まで誘発。敵対国同士の呉越同舟さえ促す。斯くして各国は連携・協力し、場合により同盟まで結ぶ。情勢は中国に次第に不利になり、その大戦略・野望は挫かれる》


翻ってみれば、日本はベトナムに経済支援→ベトナムはロシアから潜水艦購入→同型潜水艦を運用するインド海軍が越海軍乗員を訓練する−意図せぬ構図を生んだ。米比軍事協力は復元し、米印関係も牛歩ながら前進している。今次日豪関係深化も含め全て中国の“お陰”だ。

中国の「傲慢ボケ」が創り出す「間の悪さ」=戦略的錯誤→中国の孤立という悪循環、否、好循環が地球を救う。(政治部専門委員)産経ニュース【軍事情勢】2014.7.18

2014年07月18日

◆鏡に映る自身をたたく菅元首相

阿比留 瑠比


その菅を使おうとする中国

溺れる中国はわらをもつかむ−。安倍晋三政権を攻めあぐねる中国の共産党機関紙、人民日報系の国際情報紙「環球時報」は14日付記事で、集団的自衛権の行使容認を批判するため、とうとう菅直人元首相のブログ記事まで持ち出した。

環球時報の記事は、菅氏が13日付のブログで展開した、こんな安倍首相批判を引用している。

「自分の思いの実現がすべてに優先し、本気で国や国民のことを考えていない。唯我独尊の危険極まりない政治家である」

これまで中国が好んで、その言葉を引く日本の政治家といえば鳩山由紀夫元首相だったが、どうやら菅氏も「使える」と判断したらしい。だが、中国は日本国民が両氏に向ける視線の厳しさには鈍感なようである。

この菅氏のセリフにしても、普通の日本人が読めばどう思うか。野党だけでなく身内の民主党議員からも辞任を求められ、東日本大震災の復旧・復興も進まない中でひたすら延命に努めた、菅氏の首相時代の言動を想起するのではないか。

人間は、自分を基準にして他者を判断してしまいがちだ。菅氏が批判する安倍首相のあり方は、鏡に写った菅氏自身の姿だろう。

菅氏の最近のブログは、安倍首相を感情的に攻撃することに歯止めが利かなくなっている。例えば7月に入ってからは次の通りだ。

「自己陶酔している安倍さんには、どんな理屈も通じない」(2日付)

「安倍総理が集団的自衛権を強行し、原発を推進するのに共通するのは『自己顕示欲』と『権力欲』だ」(3日付)

だが、福島第一原発事故の翌早朝、周囲の制止を振り切って英雄気取りで現場に乗り込み、作業を遅滞させたのは誰だったか。学生時代は目立ちたがりのアジテーターとして鳴らし、国会議員になると民主主義を「期限を区切った独裁」と言い切って三権分立を否定し、首相時代には野党幹部に「権力亡者」と呼ばれたのは菅氏の方ではないか。

菅氏は3日付のブログでは「(安倍首相は)自分の思い通りにならないマスコミに対しては、取材拒否など居丈高に権力を行使する」とも主張している。

とはいえ、菅氏は首相時代の記者会見で、産経新聞の質問はめったに指名させず、たまの機会の質問には、その場で「すり替え」「フェアじゃない」などと居丈高に面罵した。首相退任直後も産経のインタビュー申し込みを拒否していた。

菅氏はまた、安倍政権の集団的自衛権への取り組みを「暴走」と指摘するが、菅政権をはじめ今までの内閣があまりに安全保障問題に無関心だったのが本当だろう。マキャベリは、国のトップの心得をこう説く。

「君主は、戦いと軍事上の制度や訓練のこと以外に、いかなる目的も、いかなる関心事ももってはいけないし、またほかの職務に励んでもいけない。つまり、このことが、為政者が本来たずさわる唯一の職責である」

中世ヨーロッパの政治思想を現代に単純に当てはめることはできないが、国民の生命・財産を守るべきトップが最も心を砕くべきは安全保障問題であることは今も変わらない。

もっとも菅氏は首相就任後もしばらく、自身が自衛隊の最高指揮官であることも、防衛相が自衛官ではないことにも気付かなかった人物だ。言うも詮なきことか。(政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2014.7.17

◆BRICS銀行、うまくいくのか

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)7月17日(木曜日)通巻第4296号>  

 〜BRICS銀行、はたしてうまくいくのか
   初代総裁はインド人、主導権は中国。露西亜は不快感〜

ブラジルで開催された第6回BRICSサミット。正式にBRICS銀行の設立が決められたが、早くも不協和音が聞こえてくる(加盟国は頭文字順にブラジル、ロシア、インド、チャイナ、南ア)。

本店は上海に置かれる。主導権が中国にあることは明らかだ。

あたかも「アジア開発銀行」は本店がマニラにおかれ、歴代総裁は日本人。ちょうどIMF・世銀の人事バランスに似ている。出資比率に応じた配分がある。ところがBRICS銀行は各加盟国が仲なか良く100億ドルを出資するのである。

となればロシア、ブラジル、南アがいずれ中国に文句を付けるだろう。インドは、当面、中国と経済的関係だけは増加させたい考えだが、もともとインド中国関係は水と油。うまく行くとは考えにくい。

インドは総裁ポストを得た手前、「2年以内に新銀行は軌道に乗る」と高らかな楽天論を展開(ザ・タイムズ・オビ・インディア)。

しかし欧米マスコミは冷淡で、英紙「ファイナンシャル・タイムズ」などは、出発時点での不協和音を力調し、うまくいくのかと懐疑的である。

ましてこのBRICS銀行は、米英主導のIMF・世銀体制に正面から挑戦するわけだから、面白くないのは米国で、NYタイムズなどは不快感丸出しの論調。ひややかに事態を見ているのが日本という構図だろう。