平井 修一
「習近平とは何者か?」とずーっといぶかっている。習の言う「中国の夢」は、大清帝国の最盛期のような超大国になるということのようだが、習のやることなすことはことごとく裏目に出て、ひたすら中共を弱体化しているように見える。(これは小生にとっても世界にとってもいいことなのだが)
マキャベリはフィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の下問にこう答えた。
<歴史に残るほどの国家ならば必ず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも、二つのことに基盤を置いたうえで種々の政策を実施した。すなわち「正義」と「力」である。
「正義」は国内に敵を作らないために必要であり、「力」は国外の敵から守るために必要である>
これは指導者として当然の国家戦略だが、小生の目に習近平は唯我独尊、傲岸不遜の誇大妄想狂のように見え、毛沢東のように大人を演じているものの、冷静かつ周到な国家戦略が少しも見えてこない。
毛沢東は「パンツ一枚になっても核武装するのだ」と言って国連常任理事国になった。外交にあたっては「金が欲しいのなら金を、名誉が欲しいのなら名誉を、女が欲しいのなら女を与えよ」とさえ指示した。
そういう戦略、方針が習からはどうもうかがえない。ひたすらモグラ叩きのようにバタバタしているように見える。一体全体、習近平とは何者なのだろう。いろいろな方の論考をチェックしてみた。(かなり長いので、お時間がないのであれば一気に最後の【結論】にお進みください)
徐静波・中国経済新聞編集長の講演「習近平体制と日中関係の行方」から。(これは習の原点、とても興味深い)
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▽極貧の村で懸命に働いた習近平
私は習近平と2回握手し、直接、話もしました。いま「習近平時代」という本を書いています。習近平はどんな人物かについて、3年かけて、本人や昔の部下などを取材した。習近平が下放された延安市の梁家河村にも行った。
この村は習近平の人生の原点。習近平の父は50年代に、周恩来の下でずっと国務院秘書長を務めた。秘書長とは官房長官。文革で一度倒れたが、文革終了後に副総理、広東省書記、全人代副委員長まで務めた。
だから日本のメディアは「習近平は太子党」と言っており、それは事実だが、習近平の人生はかなり苦労に満ちたものだった。中学を卒業する前に文革が始まり、父母は収容所に送られ、習には居場所がなかった。当時、若者を農村にやる下放運動があった。
15歳8カ月の時だったが、中央党校で学習させられていた母親に相談したら、父の故郷の延安に行けば、みなが世話をしてくれると言われた。習近平は北京のほかの若者と列車に乗り、バスに乗り、半日歩いて梁家河村に着いた。
当時、村の人口は308人。いまは170人しかいない。村名には「河」と付いているが、実際には河はない。習近平と他の9人でこの村に入り、人生をスタートさせた。
豚肉を食べられるのは年1回しかないという超貧しい村。春節に村で2頭の豚を殺してそれを食べるだけ。いつも食べているのはトウモロコシ、サツマイモ。北京でまあまあの暮らしをしてきた習近平にとっては、耐えられないような生活で、3カ月後に習は村から逃げ出してしまった。
最初に延安から車で3時間の父の故郷、富平県に行き親戚を頼った。しかし親戚は、おまえは「走資派」だから受け入れられないと言った。習はしかたなく北京に戻った。そこで半年くらい、当時は何もなかった中関村で下水道工事の仕事をした。
母から、「逃げてはいけない、お前には梁家河村しかいるところがない」と言われ、習近平は戻った。その時、人生が変わった。
そこで一生懸命に働いた。夜12時まで本を読む。よその話を村人に熱心にしてやった。灯油のランプの下で集まった村人が習近平の話を聞く。
その時の村長が呂さん。いまは70歳そこそこのおじいさん。当時は習の兄貴分のような若者で、「習はいい人だから、どうしても外に行かせたい」と考え、習に共産党員になって下さいと声を掛けた。習は3回入党の申請書を書いたが、父親の関係でなかなか入党できない。
4回目には、村長の呂さんが裏で一生懸命、上に諮り、県の党組織が習の父親が働いている工場まで出向いて、いま父親が政治的にどういう状況かを確認して、それならいいということで、ようやく入党が認められた。
紹介者は呂さん。彼は党支部長のポストを習に譲り、自分は村長だけでいいと言った。それで習は村の最高指導者の党支部長になった。
習が最初にやったことはガス発電。新聞に、人や動物のフンに植物の葉を入れればガスが出てくると書いてあった。そこで、バスに乗って四川省まで勉強に行き、陝西省で最初のガス発電施設、燃料施設をつくった。
北京から一緒に来た9人はいろいろ理由をつけて戻ったが、習は村に最後まで残った。村長は習に村にずっと残って欲しいと考え彼女を紹介した。19歳の良く働く若い娘。洗濯、料理など身の回りの世話をさせようとしたが、いつも習が逃げまわり、どうしても恋にはならなかった。
▽「苦難の経験あるので怖くない」
20才の時にトウ小平が復活し、大学教育を復活させた。工農兵の優秀な者を大学に入学させる。その時、チャンスが来た。延川県に北京大と清華大の2人分の枠が来た。北京大の枠は県書記の娘が取り、清華大の枠は習になった。
大学の入学は9月。7月末に習が村を離れた時、村民は何もないので、たくさんの卵をお土産にあげた。20人の若者が半日、習と一緒に歩いて県の所在地まで行った。
夜、いっしょに羊肉のしゃぶしゃぶを食べた。習がトイレに行っている間に、湯はまだ煮たってないのに、肉はすっかりなくなってしまった。それほど貧しかった。習は中学生から20歳まで、中国の一番貧しい農村で懸命に自分の青春時代を過ごした。
習が大学を卒業した時、もうひとつのチャンスが来た。父の友人の耿国防相のところで秘書官として務めることになった。3年半、耿の家に住み込み秘書官をやった。毎朝、庭を掃除する。銃を分解して、きれいに掃除して組み立てる。耿が初めて軍指導者として訪米した時、その段取りは習がやった。
3年半たって28歳の時、習は仕事を辞めたい、田舎に行きたいと言った。中南海の仕事を辞めて田舎に行くというのは、かなり勇気のいること。結局、河北省正定県に行き、県副書記になった。そこで彼の人生がまた変わった。
北京を離れてから、24年間かけて地方を回り、24年後に北京に戻った時には党中央政治局常務委員になっていた。
なぜ、彼の詳しい人生を語ったかというと、昨年(2012)11月、第18回党大会終了後の記者会見で、私は習のスピーチを聞いた。習はその中で「われわれはいろいろ苦難を味わった。これからどんな困難があっても怖くない」と言った。ものすごく自信がある。つまり彼はかなり頑固な人間。すべて自分で決める。一度決めたことは絶対にやるという性格だ。(以上)
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なるほど、大層苦労した根性マンなのだ。自信、頑固、決心を貫くタイプだ。
野口東秀・元産経中国特派員(現・日本維新の会国会議員団本部政調会)
の論考。
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1.中華民族の偉大な復興
党総書記に就任した習が最初に視察したのは(2012年)12月7-11日の広東省。トウ小平の銅像に献花する一方、駆逐艦、戦車に乗るパフォーマンスで「強大な軍隊建設」を号令した。(トウの)南巡講和から20年。第二期改革開放のPRか。
当地では「中華民族の偉大な復興」をこれまでのように強調し、「戦争の準備を整え、戦いに勝つことが強大な軍隊を建設するための要で、軍隊の建設を進めよう」と指摘。
同月13日の南京事件記念日には国家海洋局の航空機が尖閣の上空を侵犯、海からも領海を侵犯した。同局は「立体的に航行した」と発表。(南京)75周年を選んで侵犯しており、習指導部と軍首脳の承認で行われたとみるのが普通だ。
その3か前には海軍艦艇が西太平洋の訓練を終わり基地帰還する際に尖閣周辺を通過。今後、軍艦艇の尖閣航行を常態化する意図があるとみられる。
問題は、安定した政権になるかどうか。胡錦濤時代は基本は対日外交で「協調」だった。愛国主義に引きずられる指導者はしっかりとした基盤をもっていない。その意味で現段階では安定した基盤を習近平がもっているわけではない。
さらに習政権はほかの派閥に囲まれている、基盤は弱いと言わざるを得ない。国内的にも民主活動、少数民族対策に強硬政策をとるのは基盤が強くない証左だ。
2.長老配慮
18回党大会の開幕日には江沢民はじめ李鵬や万里、曽慶紅など12人の長老連ね、頂点に江沢民がいた。軍人事は、習近平は軍の基盤の上に立ち、対日強硬路線をとるとみられているが、軍からは江沢民の影響力がかなり排除されたようだ。
習政権の成り立ち自体、長老の意見を聞いた結果だ。習の父親、仲勲は胡耀邦との緊密な関係、共青団幹部との関係、改革派との関係が良かった。しかし(習近平は)軍に依拠した人物であり、長老に配慮した政治を行うものとみられる。(以上)
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習は軍隊を掌握しているが、江沢民派とは反発しており、安定した基盤をもっているとは言えないという論。確かにそのようだ。
習が主席になる前の週刊現代2012/4/17「弱すぎる男 習近平の悲劇」から。
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*失脚した幼なじみ
3月、中国では数年に一度の大きな政変があった。共産党の権力中枢を担う3つの派閥、太子党・共青団・上海閥のうち、太子党のトップランナーの一人と目されていた薄熙来が、事実上失脚したのだ。習近平もまた、太子党に属する。薄熙来の失脚により、習近平の権力基盤はどうなるのか---。
太子党とは、かつての共産党高級幹部の子弟を指す。親の七光りの恩恵を受けて、党内で異例の出世を遂げたり、若いうちから多額の金銭的利得を得るなどの特権を持つ人々のことだ。
彼らのもう一つの特徴は、幼少期から幹部専用住宅に住むため、互いに顔見知りで、広範な人的ネットワークを形成していることである。実際、習近平と薄熙来も幼い頃から面識があった。
習近平と薄熙来は、薄の方が4歳年上だが、幼稚園の頃から一緒に育った。薄熙来は喧嘩ばかりしている腕白なガキ大将で、一方の習近平は大人しくマジメな子供だった。
薄の弟が習近平をいじめていたという噂もあった。いわば二人は不良グループとマジメな子グループの代表で、習は薄に頭が上がらないという間柄だった。そのせいか、今でも習近平は薄熙来をどこか怖がっているふしがある。仲間でありながら同時にライバルでもある、そんな微妙な関係だというのだ。
ではいったい、薄熙来を失脚させたのは誰なのか。
薄は現総書記の胡錦濤、首相の温家宝らにとって邪魔な存在だった。というのも、彼は書記を務める重慶市で次々に保守反動(毛沢東主義)的な政策を実行に移し、貧しい民衆の不満を煽りながら、現指導部と真っ向から食い違う政治方針を打ち出した。
薄を潰す決断を下したのが胡錦濤であることは確実だ。胡はずっと「薄打倒」のタイミングを計っていた形跡もある。
習近平にとっては、胡錦濤がライバルの薄熙来を倒してくれるなら悪い話ではない。それで、今回の政変では中立を決め込んだ。
ただ、習近平は複雑な心境でなりゆきを見守っているはずだ。薄熙来の失脚により、太子党全体には少なからずダメージがある。胡錦濤=共青団の力を見せつけられ、習の政権は発足後しばらく共青団に配慮しながらの運営を迫られる。習の権力は、スタート前にして既に揺らいでいると言っていい。
『習近平 共産中国最弱の帝王』(文藝春秋)が話題となっている。中国残留孤児2世というルーツを持つ著者の矢板明夫氏は、産経新聞中国総局特派員として北京に暮らす。
習近平の素顔、生い立ち、政治信条は中国国民にさえほとんど知られていないが、氏は同書でその深層に迫っている。
<現在の中国は、改革開放政策で経済的豊かさが増す一方、共産党一党独裁が続くという大きな矛盾を抱えている。そこで生まれているのが、共産党幹部と財界の癒着だ。
こうした状況下で薄熙来は、貧しい人たちの共産党・政府に対する不平不満を煽って、地元の金持ちの共産党幹部を捕まえて処刑し、自らはヒーローを演じるという政策を実行していた。重慶に住む貧しい層は、これに拍手喝采を送った。
2010年に取材で重慶を訪れたとき、日本円で200円ほどの安価なマッサージ店に入った。すると、マッサージ師が「薄熙来は素晴らしい」と褒めちぎり始めた。「偉そうな奴ら、悪いことをして金持ちになった官僚は、みんな彼に捕まった。中国をよくできるのは薄熙来だけだ」と。
薄は捕まえた人を簡単に死刑にしたので、「でも、なにも殺さなくてもいいんじゃないか」と反論したところ、「お前は官僚の味方なのか。帰れ!」と怒鳴られ、マッサージの途中で追い出されてしまった。それほど一般民衆の間には官僚、特権階級への怒りが溜まっていた。しかし、その薄熙来は排除されてしまった。
習近平が胡錦濤ら長老に選ばれたのは、彼が父祖を否定しない、いわゆる “赤い子孫”であり、安心できる人物だという理由が大きい。李登輝やゴルバチョフのような改革派では、せっかく作った国が民主化で潰れてしまう。薄煕来のように反発をせず、思想的背景もない習近平には、その危険が少ない>(以上)
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【結論】
習と薄熙来が幼馴染とは知らなかった。習の「民衆の間に官僚、特権階級への怒りが溜まっており、金持ちの共産党幹部を捕まえて処刑し、自らはヒーローを演じ、民衆の拍手喝采を得る」という大衆迎合ポピュリズム戦術のルーツは薄熙来だったのだ。
苦労人、頑固一徹、根性マンの習近平の戦術は、要するに「内にあっては汚職官僚」、「外にあっては日本」という敵(抵抗勢力)を作り、敵を叩くことを「正義と力」だとし、国民の支持を集め、中共を自分の思うような「大国」にしたいということだろう。
そもそも「大国」というのは政治、軍事、経済、文化で世界に大きな影響を及ぼす国ということだが、中共が注目されているのは異常な軍拡だけで、経済は確かに世界2位だが国民の生活は「飢えてはいないが楽ではない」レベルだし、過去においては中華文明はあったが、中共文化なんて聞いたことがない。
政治では自由、民主、人権、法治なんて弾圧で後退するばかりで、まったく最低のレベルだ。
習近平はどういう国を目指すのか、具体的なビジョン、青写真をまったく示せないでいる。バカの一つ覚えのような汚職叩きと日本叩きに、いくら無知蒙昧な国民でもいつまでも拍手喝采はしない。
景気は当分悪化するばかりだろうから、世界に続いて国民が習近平と中共中央を見離す日は近いと言わざるを得ない。分裂は免れないだろう。(2014/7/17)