2014年07月04日

◆「核」が日中開戦を抑止する(48)

平井 修一


呉竹会評議員・阿部正寿氏(一般社団法人世界戦略総合研究所会長)の論考「危機迫る基地の島 中国の琉球独立工作が進む沖縄」(「青年運動」5/15)を要約する。CH桜沖縄支局の拡散依頼によりテキスト文書にした。
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(前略)問題は今年11月に行われる沖縄県知事選である。現在のところ次期知事として有力視されているのが現那覇市長の翁長雄志である。ところが、この翁長市長が問題の人なのである。

彼は2012年11月の那覇市長選で自民、公明に加え民主も推薦し4選を果たしたが、4期目から反政府、反米の言動が目立つようになってきた。昨年一年「オール沖縄の声」と称して、オスプレイ配備反対の実行委員会の共同代表として運動を主導した。

その一方で、中国寄りの姿勢が顕著になってきた。もともとが中国のエイゼントであったのが、市長4期目に顕著になってきたのではないかと疑われる。それを象徴するのが、一括交付金を使って建設される那覇・福州友好都市シンボルの「龍柱」である。

「龍柱」とは元来、大理石やその他の石材で作った柱で、先端に龍頭を彫ったもので、もともとは中国の皇帝の領土の境界を示す標識として使われたものである。那覇市は高さ15メートルの2本の「龍柱」を、最大の観光地である国際通りの入り口に建てる予定だ。沖縄が中国皇帝(習近平)の領土であることを象徴するようなのだ。

那覇市は福建省福州市と姉妹都市であるが、友好親善のシンボルとして「龍柱」を建てるのであれば、福州市には日本を象徴する鳥居を建てることを要請すべきであるという識者もいる。

さらに問題なのは、翁長市長は、この地域一帯を「松山公園連携施設」と称し、「歴史公園」というコンセプトの下、交流センターや学習施設なども設置する計画を発表。

その中核施設となるのが、久米36姓(福建省から久米村に移住した人々の総称)の末裔で構成される久米崇聖会が管理運営している至聖廟がある。

これらを見ても、将来中国が沖縄を分離独立させ、中国の自治区とする材料は十分整っている。

沖縄では反基地闘争やオスプレイ反対闘争が盛んであるが、その活動の司令部は沖縄のどこを探しても見つからない。これらの活動の総司令部は東京都渋谷区代々木にある。すなわち日本共産党本部が指令を出し、案件に応じて社民党や革マル、その他の諸派が共同して活動する。大規模なデモをやるときは、本土(日本)から労組専従員や活動家が費用を支払われて多数動員される。

彼らは物見遊山のつもりでやってくる。一部の人は別としてレクリエーション気分である。

沖縄の左翼が強いのは、沖縄タイムズと琉球新報が極左的左翼だからだ。両者とも経営は困難だと聞くが、倒れない理由の一つは、ローカル紙として死亡広告が載るからである。沖縄の人々は、この死亡広告を見てお通夜に行き、葬式に参加する。このためだけにこの新聞を読んでいる人が8割近くもいるという。

人の葬式をネタに反日反米を扇動するとは許せない連中である。沖縄の人々にとって、左翼的内容はどうでもよいことのように思われる。

沖縄がこれほど左様に左傾化している最大の理由は、大東亜戦争において、沖縄が犠牲にされたという思い込みがある。日米両軍の戦没者は20万人とされ、そのうち沖縄出身者は122〜228人である。沖縄の人が犠牲にされたという、沖縄人の恨みを左翼が扇動し、組織化されたのが今日の反基地反米、反日活動の出発点である。

さらに加えて、沖縄民間人が、日本の軍命で多数自殺に追い込まれたという、歴史捏造がこれに輪をかけていた。

しかし、沖縄のドキュメンタリー作家、上原正稔氏が、沖縄戦で起きた集団自決に関する連載を一方的に拒否されたとして、琉球新報社を相手に起こした「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は控訴審で原告側逆転勝訴。琉球新報社は最高裁への上告を断念した。

この判決は、これまで集団自決が旧日本軍の「軍命」で行われたかのように報じてきた琉球新報が、「軍命〕はなかったとする上原氏に完全に屈したことを意味する。これまで沖縄はタイムズと新報というローカルな偏向マスコミによってほとんど支配されてきたが、新報側の敗訴によって、その一角が崩壊したことになった。

沖縄は今日にいたるまで、地上戦で犠牲になった唯一の戦場であったという触れ込みと、沖縄は独自の文化を持つ地域で、日本(ヤマトンチュー)に支配されてきたという恨みをテコとして、反日反米活動をしてきた。

沖縄の人は元来おとなしく、島中がほとんど親戚なので、ことの善悪をはっきりさせない性格がある。それを利用して民族間の対立を煽り、反基地闘争に結びつけたのは日共本部や社民党の福島瑞穂あたりである。沖縄の人々は、米軍基地に反対するどころか、お金が落ちるので歓迎している。基地問題で大騒ぎすれば、それだけ政府からくる金額が増えるので、黙って眺めているだけで、ズルイところがある。

戦後40年間、沖縄返還以来、沖縄振興予算は9兆2144億円、日本政府が投下したお金は10兆円を超える。民主党政権時代のあるバカな首相は、米軍基地のことで沖縄県民に多くの負担をおかけしたと、しきりにお詫びをしていた。しかし、沖縄の人にしてみれば、米軍基地があるお陰でタップリ政府からお金がもらえて喜んでいるのが実情。負担が大きいフリをしているだけだ。

「人が空気を、植物が水を必要とするように、中国には平和が必要だ」

2月28日、訪問先のドイツで習近平が悠然と述べた。しかし、事実はまったく逆。「月刊中国」主幹・鳴霞氏は、「1月16日、中国は全国海洋工作会議で2013年の尖閣周辺のパトロール航行が50回に達したと報告」としている。また同氏は「尖閣の奪取はもちろんだが、その先の沖縄と奄美の占領を画策している」という。そういう中国の野望を裏付ける資料が「琉球国復国運動基本綱領」と「琉球臨時憲法」である。

まず綱領の一条には「琉球は古来より主体を持つ独立国家である。琉球人民は、琉球に対する日本の植民地支配を承認しない」とある。

さらに「憲法」には、琉球共和国は奄美州、沖縄州、八重山州の三州からなり、大統領制を敷く。同憲法七条には、中国語を公用語とするが、琉球語と日本語の使用も認められるとしている。

中共商務部の唐淳風氏は、「琉球は私たちの血を分けた同胞であり、中国が支持すれば5〜10年で独立できる」と述べている。2013年5月8日付の「人民日報」は、「独立国家だった琉球を日本が武力で併合した。歴史的に未解決の琉球問題を再び議論できる時が来た」と論じている。

沖縄併合をもっとも強く願っているのが習近平その人である、と語るのは元海上自衛官で沖縄在住の作家、恵隆之介氏である。

「中国政府で一番沖縄に詳しいのが習近平である。彼は沖縄と歴史的に関係の深い福建省で17年間生活し、最後に福建省長になった。その間、何度も沖縄を訪れている。実は今、沖縄の中国化が着々と進められている。

その中心は那覇市にある福州園である。那覇市の市制70周年の記念事業として、中国の福州市との友好都市締結10周年を記念して開園された。近くには孔子廟も建てられている」

この近くに翁長市長は久米至聖廟(孔子廟および明倫堂)建設を予定している。那覇市民の一部は、ここに中華街が出現するのではないかと恐れている。さらに初めに紹介した「龍柱」が作られる。「龍柱」は中国の皇帝が自分の支配地域を表示するためのものであった。翁長市長は、現在の皇帝である習近平の意を受けて、沖縄を中国に引き渡す準備をしているのではないか。

中国による沖縄奪取の準備が着々と進められている、それを知らないのは日本人だけではないだろうか。(以上)
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沖縄タイムス6/15によると「龍柱」は年内完成予定で、予算は一括交付金を活用し、総事業費2億6700万円。小生らの税金が売国奴と中共に簒奪されるのだ。CH桜によると沖縄では87歳の金城テルさんらが龍柱建設阻止のため5月に那覇市を相手に訴訟を起こした。(2014/7/2)

◆左翼は日本を幸せにはしない

池田 元彦


戦後70年、日本の政治は主に保守自民党が担ってきた。しかし長年の何でも反対の野党社会党や共産党と惰性的に妥協を繰返す中、与党自民党は何時の間にか保守政党であるに関わらず左翼が跋扈し、結党目的である自民党「憲法改正」案も、左翼思想が滲んでいる。

日本の現在は自民の政策選択のお蔭だが、左翼野党の主張が如何に危険、欺瞞、出鱈目だったかは、主な政治選択の経緯を振返ると良く判る。もし左翼の主張通りの政策を受容れていたら、経済成長も民主主義もない暗黒生活の日本が出現していたことは間違いない。

最初は、米軍軍事占領、GHQによる支配からの独立と国際社会への復帰を目指した、所謂サンフランシスコ平和条約締結への与野党の戦いだった。吉田首相の尽力により51国中49国の賛成署名を得て講和条約が成立し、日本は国際的に独立国として再び容認された。

社会党、共産党は進歩的知識人と称する頭でっかち、お花畑学者と組んで大声で反対した。49か国との締結を「単独講和」と欺瞞し、ソ連、中共の賛同がある「全面講和」でなければ駄目だと騒いだ。講和に反対なのは、ソ連、ポーランドとチェコの3国のみだ。

吉田首相が南原繁東大教授を「曲学阿世の徒」と一喝したのはその頃だ。講和反対のソ連を加えろというのは、語るに落ちる。日本独立を遅延させ、ソ連の日本解放を密かに期待したのだろう。南原は天皇退位も交錯していた。将に曲学阿世の徒だった。

次は、1960年の安保改定前後の、社会党、共産党の安保反対に同調する全学連、及び一部学者による安保改訂反対闘争だ。岸首相は、片務的日米安保条約を当時の制約下で可能な限りの双務的になるよう改訂努力していた。ソ連の戦略的指導、資金的援助下、安保闘争が激化した。

国会周辺でのデモが13万人と言うが、後日小室直樹や西部邁が述懐したように、彼らの殆どは条約を読んだこともなく、意味も理解していなかった。間際迄散々安保反対を言い募っていたマスコミは、土壇場で暴力反対へと論調を変え、デモは収束し、自民党は300議席を獲得した。

1970年再度安保改訂闘争を繰広げるも国民から遊離し、1967年羽田闘争、1968年佐世保原潜寄港反対、沖縄返還闘争、国際反戦デー闘争と、只単に騒乱を起こすだけだった。当時高校生の私も誘われデモに参加したが、彼らは政策でなく保守そのものに反対だったことが解った。

更に、ベトナム戦争反対、成田空港建設反対へと学生運動は孤立、過激化し、遂には連合赤軍あさま山荘事件、山岳ベース・リンチ事件で仲間を殺し合い、ダッカ・ハイジャック、中近東テロへと自壊の道を進んだ。1969年、安保延長に反対した社会党は約50議席を減らして大敗した。

国民は、元々左翼を信じていなかったのだ。土井たか子や村山富市等、闘争を支援していた連中が、成田完成後何の躊躇いもなく成田空港を利用しているのは、今でも許せない。

今、反日日本人達は、中共と共謀して、普天間から辺野古への移設反対や沖縄独立運動を画策している。自民党にも反日日本人が跋扈している。以前も指摘したが、欧州、東欧の共産主義者は、ソ連には反対するが愛国者だ。日本の左翼は反日、親中韓だ。マスコミにも跋扈している。

怠惰、腐敗、初心喪失もあるが、この戦後70年間、ソ連から守り、戦前からある民主主義を守り抜いてきたのは自民党のお蔭だ。是非、戦後の似非平和主義から日本を守って欲しい。

◆トルコ首相が8月大統領選挙へ

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年7月3日(木曜日)通巻第4284号 >

 〜エルドガン(トルコ首相)、8月大統領選挙へ出馬宣言
           クルド族は「独立」の住民投票を行うと宣言〜

五月に行われたトルコ総選挙で大勝したトルコ与党の集会(7月1日)に臨んだエルドガン首相は、8月10日に予定される大統領選挙へ正式に立候補を表明した。

野党は反発するが、連合を組めず、第1回投票でエルドガンが過半数を得る見通しが立ったという。

エルドガンは「勝敗の決め手はクルド族との和解にあり、クルドの支持を得られるだろう」とする見通しを語り、クルドの票の行方に重点をおいている。

他方、混乱するイラク情勢、過激派ISISの跳梁跋扈が一休み中だが、この間隙を縫って、クルド自治区のマスード・バルザニ(自治政府議長)が記者会見し、「数ヶ月以内に住民投票を実施して、独立を問う」と豪語した(7月1日)。

「もちろん選挙管理委員会を組織化することから着手するので実際の投票実施までに数ヶ月の時間を要するが。。。。。。」と日程を明示することは避けた。

しかしクルド独立をめざす動きをイスラエルが賛成しており、クルド自治区の住民投票実施に反対するイラク中央政府はマリキ政権の指導力低迷、オバマ政権が見限ったタイミングを絶妙に捉えていることになる。

トルコもクルドの独立を脅威視しており、「独立をめぐる住民投票は地域の不安定化に結びつきが、けっきょくトルコ国内も不安定となる要素が多大で、イスラエルを利するだけだ」とした。
      

2014年07月03日

◆書評:渡部昇一『名著で読む日本史』

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年7月2日(水曜日)通巻第4283号> 

(書評特集)
渡部昇一『名著で読む日本史』
宮脇淳子vs倉山満『真実の朝鮮史』  

 ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆ 

 天壌無窮の精神はどこから生まれたか
   北畠親房、山鹿素行、徳川光圀らの偉業を今日的に再評価

  ♪
渡部昇一『名著で読む日本史』(育鵬社)

読書家である渡部教授が選んだ16冊の歴史書は「古事記」「日本書紀」はもちろんだが、「神皇正統記」「太平記」が含まれ、また山鹿素行「中朝事実」と徳富蘇峰「近世日本国民歴史百巻」が加わっている。

これらは国民必読の書である。

さて、意外な選択が山鹿素行ではないかと多くの読者は気がつかれるだろう。

山鹿素行の「中朝事実」とはどういう書物だろう?
 
彼は天才的読書家兼哲学者兼歴史家であり、若き日に朱子学の根本的矛盾に気がつく。朱子学は支配者に都合の良き解釈であり、じつは孔子の教えとは関係がないのではないか? 徳川幕府は権力の正統性と統治の合法性を獲得するために朱子学を御用学問とした。

会津にうまれた素行は六歳で江戸に出て、9歳から林羅山に学んでいる。神童である。軍学は小幡勘兵衛と北条氏直について学んだ。理解が早く、神道の研究にも励み、すでに20歳にしてその名は高かったという。

山鹿素行がいかに大学者であったかは30歳の若さで赤穂藩に1000石で召し抱えられた破格の待遇でも分かる。家老並みである(ちなみに同藩名家老の大石内蔵助は1500石)。

赤穂藩に8年間仕え、また江戸へ戻るが、それから8年後、山鹿素行は朱子学を批判し始めたのである。

つまり朱子学の由来は南宋の正統性を主張するための大義名分を重視する考え方で身分制度や君主を尊敬させる思想体系である。

渡部教授は「朱子学は非常に理屈っぽい学問でした。素行はそれを学んで、朱子学で言っていることは孔子がいったことと一切関係がないことを発見します」。

いや素行は「孔子は南宋の朱子学で滅んだ」とさえ言った。そのため江戸幕府の宰相格でもあった保科正之(会津藩主)は、素行を追放する。

ふたたび赤穂に流されてしまった山鹿素行は、そこで蟄居しつつ書籍を著した。それが「中朝事実」である。素行は儒教のとなえた精神を国体と調和できるのは神道だと熟慮するに到り神道と仏教の研究にのめり込む。

そこで素行は『中朝事実』の序文に次の古事記の文章を引用しつつ解説している。

「天先ずなりて土後に定まる。然して後に神明その中に生まる。その神を国常立尊と申す。一書に曰く。高天原にうまれたもう神の名をあまのみなかぬしの尊という」

日本には神聖なる3種の神器があり、この神々しさと神秘性に比べれば、シナの三種の神器など比較ではないとし、「玉は温仁の徳、鏡は格知の智、剣は決断の勇の象徴」としている。

そうだ。後年の三島由紀夫は「何を守るか」と石原慎太郎に問われ「三種の神器」と明確に答えたが、石原は意味が分からず「またそんなこと言って」と茶化している。

「中朝事実」のもっとも大事な箇所は序文である。それは以下の通り。「恒に蒼海の無窮を観る者は其の大を知らず、常に原野の無畦に居る者は其の廣きを識らず。是れ久しうして馴るればなり。豈に唯海野のみならんや。愚中華文明の土に生まれて、未だ其の美を知らず、専ら外朝の経典を嗜み、煌々として其の人物を慕ふ。何ぞ其れ喪志なるや。抑も奇を好むか。将た異を尚ぶか。

夫れ中国の水土は萬邦に卓爾し、人物は八紘に精秀なり。故に神明の洋洋たる、聖治の綿綿たる。煥たる文物、赫たる武徳、以て天壌に比すべし。今歳冬十有一月皇統の実事を編し、児童をして誦せしめ、其の本を忘れざらしむと云爾。

龍集巳酉  山鹿高興謹誌」
 (ここでいう中国、中華文明というのは日本のことである)

そして山鹿素行の神州不滅、日本の皇統尊重の思想は吉田松陰から乃木希典へと受け継がれ、戦後GHQが発禁図書として焚書を命じたため、ごく最近まで誰もが忘れていた。渡部教授の再発見により、いずれ新書版の解説書もでまわることになるだろうと期待される。

本書はほかにも大事な文献が羅列されて解説されているが、紹介の紙幅がなくなった。
  

◆祝W杯出場:魂を入れよ!

MoMotarou


「キミたちの大和魂をみせて欲しい」、クラマーの言葉に選手たちはあっ けにとられます。
 
ーーこころをよむ「オリンピックと日本人」(池井 優)まともだった NHKラジオテキストより

          ★

武道のザンシン(残心)という言葉まで使うクラマ一に、選手たちはそこ まで研究してきたのかと次第にその熱意にひかれていきます。(同上、以 下転載:デットマール・クラマー 全日本特別コーチ ドイツ人)


■特別実況中継「日本サッカー メキシコの日の丸」

ーーーー日本の皆様、こちらはメキシコシティであります。銅メダルをか けたアステカスタジアムは、ただ今大変な熱気に包まれております。上空 にはコンドルが、観戦のためでしょうか、一羽二羽と舞っております。。。。

「きょうの試合で硬くなるのはメキシコの方だ。彼らはもし先制したら物 凄く調子に乗ってくる。しかしうまくいかないと、チーム内は混乱し、喧 嘩が始まる。メキシコのファンも、自国チームかもたつくと、逆に日本の 応援に回るはずだ。だから必ず前半は無失点でいくんだ」

メキシコとの3位決定戦を前にしてクラマーは日本選手に熱っぽく語りか けました。1968年10月24日、オリンピックメキシコ大会に出場した日本代 表チームは、1次リーグでナイジェリアを3ー1で下し、強豪ブラジルと 1ーl、続いてスペインとも0−0で引き 午後3時、試合が開始されます。

開始早々メキシコは怒涛のような攻めに出てきました。日本のディフェン ス陣が必死にしのぎ、カウンターを狙います。試合開始17分、期待した先 制点が生まれました。釜本が左サイドの杉山にパス、杉山は中央に走り込 んだ釜本にピンポイントのパスを送り、胸でボールを捕えた釜本が左足で キーパーの左を抜きます。

メキシコ五輪の日本サッカーといえば、この場面を思い出すほどテレビで 何度も流されたシーンです。釜本−杉山コンビのこの攻撃のパターンこ そ、クラマーコーチが何百回とくり返して練習させてきたものだったので す。観客席にいたクラマーは「やったぞ」と会心の笑みをもらしました。 

39分、再び杉山が左サイドから釜本に低いパスを送りました。受けた釜本 があざやかなミドルシュートを決めます。なんと前半で2−0のリード。し かし後半開始早々日本はハンドの反則でPKをとられます。しかしキーパー 横山が左に跳んで見事に防ぎます。

これもメキシコのキッカーがゴールキーパーの左側に蹴るくせがあること を、それまでのメキシコの試合を観察して見抜いて対応したのでした。

点が取れないメキシコにスタンドの観客は落胆し、やがて怒りだしまし た。メキシコ選手に野次を浴びせ、椅子に敷くシートを投げ、遂にはクラ マーが予言したように「ハボン、ハボン…⊥と日本を応援するにいたります。

こうして2−0のまま試合終了のホイッスルが鳴り、日本は3位、銅メダル を獲得したのです。。。

*当時の映像「メキシコ × 日本」ハイライト 1968.10
  http://youtu.be/A3BTwLITVck

■戦う姿勢

NHKの7時のニュース。ワールドカップの試合結果を伝える様子を見た あと気がつきました。試合の様子よりサポーターの映像の方が1対3ぐら いの割合で多かった。

あと印象に残ったのは、失敗した選手がグラウンドにひっくりかえったま まの映像。ニュージーランドから日本に武道を勉強に来ている「外人」が 言ってましたが、柔道の試合を見てもガッツポーズをして「残心」を忘れ ているのではないかと。武道とスポーツは違うとは云え「心構え」が為っ ていないと駄目な者は駄目になるのでした。

■放送権料の負担

ワールドカップの全放送権料の世界の5分の1は我国が払っているそうで す。その大部分はNHKの視聴料から出ているのでしょう。もしかしたら 韓国辺りはNHKから無料で配信を受けているのではないのでしょうか。 在りえるお話。嫌だ嫌だ。

2014年07月02日

◆歴史学界エリート・入江昭氏の不見識

泉 幸男
 

 さて最近、知人の奨めで

入江 昭(あきら)著 『歴史家が見る現代世界』(講談社現代新書、平成26年刊)を読んだのだが、恐縮ながら酷評せざるを得ない。

著者の入江 昭 氏は昭和9年生まれで、ハーバード大で歴史学の博士号を取得し、同大名誉教授である。業界ではエリートにちがいない。

かなりの期待感をもって手にとった。

読んでも読んでも予告編みたいに浅いので首をかしげていたら、このくだりに来て「あぁ、あかん」と思った:


≪国家のなかには中国のように数千年も存在してきたものもあるし、多数の「新興国家」のように建国後数十年に過ぎないものもある。≫ (56頁)

は? 「中国」こそ、新興国家の典型なのだがね。行動パターンを見ればわかるだろ。

建国したのは昭和24年、いや、文明史観的に分析すれば、文化大革命の終焉をもって現在の中国は建国された。それ以前は、漢字を使う別の国家だ。

百歩譲っても、満洲人の支配から独立して漢人国家を立てた中華民国建国あたりが、さかのぼれる最古のところだが。

同じく漢字を使い続けていても、シナ大陸の、ことに揚子江以北は、北方から次々に来る異民族の津波のような侵略を受けて、ヒトそのものがそっくり入れ替わっている。

いまの漢人は、孔子の末裔を演じる北方民族の末裔なのだがね。歴史学界に君臨しながら、そんなことも知らないのだろうか。

■ 毛沢東が「人民の力を高めようとした」? ■ 

≪「市民社会化」の現象には国によって著しい格差があり、それがすぐにグローバルな規模での民主化につながるとは限らない。

1960年代だけを見ても、66年に始まった中国の「文化大革命」は、最初のうちは反体制的な要素を持っており、毛沢東自身、政府や共産党の権力を弱めて人民の力を高めようとしたし、実際、上海その他の地方では学生や労働者が中心となって新しい政治・社会秩序を作ろうとした。

しかし長続きはせず、2〜3年ののちには従来にも増して強力な中央政権が出現している。≫ (106〜107頁)

なんとも、突っ込みどころ満載だ。文脈によれば、毛沢東が煽り立てた文化大革命の無政府化(アナーキー)を「市民社会化」の一環だと入江昭氏は考えているようだ。

毛沢東が「人民の力を高めようとした」とはね。やぶれかぶれの権力闘争を仕掛けた毛沢東が、政権秩序に対して無政府化(アナーキー)で対抗してみせたことを「反体制的な要素」と評価する入江昭氏の神経が理解できない。

あれは、毛沢東に奉仕する体制づくりの一環にすぎまい。さらに「2〜3年ののちには従来にも増して強力な中央政権」とは、いつの時点を指すのか。

毛沢東の権力闘争勝利の時点を言うのであろうが、それは決して「強力な」基盤のある政権ではなく、単に恐怖政治を敷いたに過ぎないのだが。


■ ナチスのユダヤ人政策と日本の温情政策を同一視 ■

いったい入江昭氏にとって「歴史」とは何なのか。

≪「歴史解釈」は常に変わりうるものだが、歴史そのものは変えることができない。「歴史を知る」ということは、過去の事蹟を学び、現代とのつながりを考えることである。≫ (149頁)

わたしなら、こう書くところだ:

≪「歴史」は常に語り変えられるものだが、出来事そのものは変えることができない。「歴史を知る」ということは、出来事をある人々がどういう切り口でストーリー化したかを批判的に検証することである。≫ (←泉ヴァージョン)

歴史とは何かということについて、入江 昭 氏にはもう少し勉強してもらいたいものだ、と あえて言わせてもらおう。

≪1930年代のナチスドイツにおける人種政策と、その極限の表れとしてのユダヤ人迫害も、ユダヤ人の大部分が国の社会に溶け込み、経済活動を行い、文化面でも積極的な活動をしていたことに対する「純血」民族(いわゆるアーリア民族)の反動であり、日本での「大和民族」優越主義と相通ずるものをもっていた。≫ (207頁)

ここに至っては、唖然とする他ない。

善良なるドイツ国民として生活していたユダヤ系の人々を突然にドイツ社会から引っぺがして、「血すじ」を理由に迫害したナチスドイツと、日本人になりすましたい朝鮮人に創氏改名を認めた日本国は、真っ向から異なる原理にもとづいている。

入江 昭 氏は、不明を恥じるべきである。


■ 先住民抹殺をうやむやにしたい漢人・白人を代弁 ■

≪世界中の人たちが着々と雑種化、混血化するにしたがって、血統とか伝統とかいうものの重要性が減少していくのは自然の成り行きであり、やがては社会、文化、国家など、あらゆる存在が自分と他者を区別する境界を取り外し、1つの地球としてのアイデンティティのみが残るようなときが来るかもしれないのである。≫ (213頁)

入江昭氏には、中国共産党から「ぜひ講演をお願いします」とお呼びがかかるのではないか。

ウイグル人女性を強制的に漢人地域に来させて漢人と結婚させることでウイグル民族の消滅を図ろうとしている中国共産党。その政策を、入江昭氏は結果的に全面支持しているわけだ。

アメリカ先住民を略奪虐殺して文明を抹殺した白人たちも、「やがては社会、文化、国家など、あらゆる存在が自分と他者を区別する境界を取り外し、1つの地球としてのアイデンティティのみが残る」と聞けば、さぞや心やすらかになるだろう。

入江昭氏のように見識の低い学者がもてはやされる歴史学界とは、いったい何なのだろう。



     

◆イラク動乱から見るアジアの安全保障

Andy Chang


イラク動乱でアメリカは兵力を派遣しないことで一致している。バグダッドの陥落を目前に見ながらアメリカ国内ではイラク援助と放棄の論争が盛んだが、両者に一致していることはオバマの責任論、つまりイラク国防が不完全なのに米軍が撤退を強行したことで今日のイラク軍の脆ろさが呈した。オバマとマリキの関係は悪く、今になってもオバマはマリキの退陣を求めている。

米国国内では兵力投入に反対の声が高い。オバマはこの時期になっても空爆の決断さえ渋っているし、オバマはイラクが自力で防衛しなければならない述べ、武器提供はするが戦闘には参加しないことを明らかにしている。

アメリカのイラクに対する弱気な援助をみると、アジアで問題が起きてもアメリカは武力行使を避けて武器提供だけで済ませる意図がわかる。日米安保、台湾の安保、中国の南シナ海侵略などに対してもアメリカは口先だけで実際には何も出来ない、やらないのではないか。アメリカが頼りにならないなら自力防衛が先決だ。

●アジアに於ける米軍の分布

ウィキペディアによると、アジアに於ける米軍の分布は:日本:5万人、陸軍、海軍、海兵隊、空軍

韓国:2万8千人

泰国266人、オーストラリア78人、シンガポール172人

キルギスタン1649人、英領インド洋528人。

米国内の基地では、ハワイ5万人、アラスカ2万人、グアム5千人。

これをみると日本に主力を置いていることがわかる。日本防衛は堅固だが台湾は放置状態。南シナ海における中国の勝手な占領は日本から派遣する第7艦隊のみで、中国の横暴な進出を防ぐには不足である。韓国の防衛は主に38度線の北朝鮮対応である。

最近はシンガポールに軍艦寄港、オーストラリアに2500人駐留、そしてフィリッピンのスービックベイ基地の再開を目指しているが、まだ発展中。

●日米安保と尖閣諸島

米軍の主力は日本にあるが中国やロシアの軍事行動を防ぐには日本の自力防衛が大切である。例えば中国が監視船や大量の漁船を動員して尖閣諸島に押し寄せた場合、海保だけでは対応できないが、米軍は動かないかもしれない。海自が出動して漁船を追い払うことが出来るかどうかは日本が集団的自主防衛権を持つかに関わってくる。日本軍は迅速な対応能力を持つべきである。

もし中国人が魚釣島に上陸すれば日本は海保だけでは対応できない。中国の監視船や漁船が故意に衝突を仕掛けても日本は抑止できない。漁船を逮捕することも出来ないだろう。米国は恐らく口頭で中国に抗議するとか、軍艦を派遣して監視するぐらいで、相手が軍事行動をとっても軍事衝突を避けるだろう。米国は頼りにならない。集団的自衛権、憲法改正は焦眉の問題である。

●台湾防衛はイラクみたいなもの

米国が中国と国交を結び、中華民国と断交したあと、米国会は台湾関係法を創った。これによると(1)米国は台湾の将来は平和的手段によって決定されることを期待する。(2)平和的手段以外の試みは米国の重大関心事である。(3)米国は台湾に防衛的な武器を供給する、などと書かれている。

台湾の将来が平和的に決定されること、つまり現状維持と平和的解決が米国の主張である。だから中国の経済侵略や中華民国(馬英九)の中国接近を止めることはできない。

更に厳重な問題は台湾に防衛的武器を提供することで、台湾の中国人スパイによって米国の提供した武器や防衛計画が中国側に盗まれる事態が起きることである。米国の機密が中国に漏れるなら台湾防衛は辞めろという主張もある。

また、馬英九政権の中国接近で現在の台湾軍の防衛力は情けないほど低下し、中国の攻撃に無力なこと。このような事態はイラク軍の脆弱さと同様、米国が武器を提供しても無益である。これを改善するには台湾人の愛国心と本土意識の高揚が大切で、政治や軍事が台湾人に掌握されなければ中国の侵略は防ぐことが出来ない。

つまり台湾人政権の樹立が肝要だが現状では米国の支持を得られない。米国は台湾関係法で「台湾統治当局=中華民国」つまり台湾の安全を維持するつもりが逆にシナ人の売国行為を支持する矛盾がある。このため中国の侵略を促進し、台湾は「現状維持=慢性衰弱死」を遂げる。

●南シナ海とシャングリラ会議

米国のアジア・ピボット宣言はどれほどの効力を発揮するのか。最近のオバマ4国訪問は早速、中国のベトナム海域で石油掘削開始と、フィリッピン海域の埋め立て工事で対抗した。

5月末にシンガポールのシャングリラ・ホテルで開催された第13回アジア安全保障会議では安倍首相と米国防長官・ヘーゲルが連携講演で南シナ海に於ける中国の覇権行動を国際社会が共同で対処する潮流が出来上がった。

安倍首相の主張した「法の支配」は国際協力で中国の主張する二国の交渉に反対の合意がなされたのである。アジアの安全保障は米国に頼るのではなく、アジア諸国連携で「法による解決」を宣言したのである。この新発展はアジアの諸国連合に近い、つまり私のPASEA構想と同じである。

    
            

2014年07月01日

◆成長のボールは民間のコートに

〜東京大学大学院教授・伊藤元重〜

<2014.7.1 03:15 [産經新聞:正論]

 政府の成長戦略が発表された。法人税率の引き下げ、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用見直し、農業改革、混合診療の拡大、労働時間規制の緩和など、過去の政権の成長戦略に比べると多くの分野で踏み込んだ改革案が盛り込まれている。

過去の多くの政権でも規制緩和や成長戦略が行われてきたが、大きな成果を上げることができなかった。今回もまた同じことの繰り返しなのかそれとも今回は違うのか。

 ≪1年半で様変わりした経済≫
 
成長戦略や規制改革が経済成長に及ぼす影響を考える際には少なくとも3つのポイントがある。

 (1)日本経済を動かすのは政府ではなく民間部門である。政府の政策の中身もさることながら民間部門が動くかどうかが鍵となる。

 (2)政策にマジック(魔法)はない。何か画期的な政策によって経済が見違えるように変わるということを期待してはいけない。重要なことは、必要な改革や政策の手数を着実に打っていくことだ。

 (3)成長戦略が有効に働くかどうかは、その時のマクロ経済の状況に大きく依存する。デフレ下ではどのような成長戦略も経済を大きく動かすことにはなりにくい。

 まず、3番目のポイントから説明しよう。アベノミクスの成長戦略で重要なことは、最初の2つの矢である金融政策と財政政策でデフレ脱却の道筋をつけたうえでの成長戦略であるということだ。

 安倍晋三政権の1年半で、成長率、企業収益、失業率、物価や賃金の上昇率などで、経済状況は様変わりしている。こうしたマクロ経済環境の中でこそ成長戦略が有効に働くことになる。例えば、デフレの下で法人税率を下げても、残った利益は企業の内部留保にとどまる可能性が高い。

しかし、経済の拡大期の今であれば、法人税減税は賃金引き上げや投資拡大などにつながる可能性が大きい。

◆岡目八目―いでよ10代の天才選手!

浅野 勝人 (安保研理事長)   

政局の見通しについて、知り抜いているはずの政治評論家よりもエコノミストの発言が的中することがよくあります。

逆に経済動向の予測について経済専門家よりも政治評論家の感が的中するケースが少なくありません。

自分の経験でいいますと、国会議員だった2000年に「そんなに遠くなく日中貿易が日米貿易を凌駕する」と述べて、経済専門家の失笑をかいました。

理由を問われて「直感です」と述べたことにもよります。ところが、2004年にその通り実現してしまったら、4兆円の香港貿易が加算されているので正確ではないと指摘されました。

2007年に香港を除いて日中の総額が日米を追い抜いたら誰も何も言いませんでした。

これを昔から「岡目八目」と言います。シロウトの目は様々入り組んだ専門知識にとらわれない率直な視線で捉えますから、意外に鋭い。社会経験豊かなシロウトの意見を軽くみると痛い目にあいます。

外交安保通の財政素人の予測を一席申しあげます。

アベノミクス!「ク」の字が欠けたらアベノミスとは某紙の川柳選集の一句です。だから、素人の目は怖いと申しあげたのです。当たる懸念があるからです。

アベノミクスの成否は株価で測られます。分りやすいからです。
企業業績はたいへん好調なのに株価はいっこうにパットしません。黒田節を幾ら唸っても釣られて踊る人はいません。

理由は明快です。株式の投資益、投資信託を含む配当への課税が高すぎるため、内外の投資家の日本株への投資意欲が湧かないからです。

今年1月1日から税率を10%あげて20%にしました。税を取る側は、もともと20%だった税率を市場活性化のため10%おまけして半分にしてやった暫定措置を元に戻しただけと説明します。

説明に誤りはありません。ところが、取られる側は、10%の税率を2倍の20%に引き上げられたと受け取ります。

税金をわずかな差益の1/5も取られては、もはやマーケットに魅力はないと感じて尻込みします。特に海外の投資家は、プレミアムに20%も課税されるのなら、税率0%(ゼロ)のバンコックのマーケットに投資した方が手取り額の率は大きいと計算します。

これが、去年の秋、せっかく勢い図いて上昇した株価が年明けとともにぼしゃった理由(わけ)です。

ですから、東京マーケットを活気付かせてアベノミクスの勢いを示すのは簡単です。「10を20にしたのはミスジャッジだった。税率を10%に引き下げる。この判断は恒久措置だ」と述べて、明日から実施する決断が官邸にできるかどうかです。

日本の株式投資人口は1%に過ぎません。わずか1%の裕福の人たちのために税率を下げる金持ち優遇措置と考えるか、マーケットを活発にして日本経済全体を勢いづける措置と考えるか、プロが判断して下さい。


ワールド・カップは、残念ながら私の予想通りでした。正確に言うと3位で予選落ちと思っていました。最下位だったのはいささかショックでした。サッカーの専門だけでなくスポーツ評論家で「決勝には残れないかもしれない」と発言した人を知りません。

私の予想が当たった理由は、実力相応の結果を予測したからです。そして、その通りの結果に終わりました。

日本代表チームは、世界レベルからみて、「中(レベル)の中の実力」の選手4〜5人が中心のチームです。本田、長友、香川、岡崎といった人たちです。

本場・ヨーロッパの二流チームでは活躍していますが、一流チームでは通用しません。だから、日本代表チームは、世界レベルでは中くらいの普通のチームです。世界各地から選り優りの一流チームが揃うワールド・カップでは下位になってしまいます。

ブラジルのネイマール、アルゼンチンのメッシ、故障していない時のポルトガルのロナウド、オランダのロッペン、ドイツのクローゼら超一流の実力をそなえた「上(レベル)の上」の選手が一人いると、そのチームは世界一流の実力をそなえたチームに昇華します。

ですから、男子日本代表チームは「なでしこジャパン」とは全く異なります。なでしこは世界一級の実力をそなえています。理由は簡単です。なでしこは「宮間あや」のチームだからです。

宮間選手は、世界一のキッカーです。世界一どころではありません。宮間選手のキックの技量は世界の中で飛び抜けています。宮間選手が蹴るフリーキックのチャンスが3〜4回あると1点は得点できるとピッチのなでしこはみんな確信しています。

そして、その通りの結果になります。宮間とともにチームの力量が世界一に昇華している証拠です。

シュート力でもドリブルの突破力でも何でもかまいません。願わくばサッカー選手としての総合力がネイマールよりも勝(すぐ)れた「世界レベルの上の上」の素質に恵まれた10代の天才選手の出現を希(こいねが)います。

生き生きと闘っているJリーグのすそ野の中から現れると信じています。(元内閣官房副長官)

2014年06月30日

◆ネパールを救った現代の二宮尊徳

伊勢 雅臣


近藤亨さんは70歳の誕生日に単身ネパールの秘境に旅立った。飢えと寒さに泣いている大勢の子供たちを救うために。

■1.70 、単身でネパールへ出発

ネパールで十数年も国際協力事業団(JICA)の果樹栽培専門家として現 地導をしてきた近藤亨(とおる)さんが定年を迎え、無事に帰国をしたのを祝って、東京で盛大な帰国祝賀会が開かれた。平成3(1991)年のことである。

ブラジルから駆けつけた学友の佐藤隆・元農相はじめ、各界の名士の祝辞が続いた後、近藤さんが答辞に立った。激励に感謝し、JICA時代の悲喜こもごもの思い出を語った後、最後に威儀を正して、こう言った。

「皆様、私はこれから再び、今度は一個人の奉仕活動としてネパール中でも秘境中の秘境ムスタンへ間もなく旅立ちます。今後はJICAを離れて全く個人の支援活動ですから、何卒(なにとぞ)一層の熱いご支援を賜りたく切に切にお願い申し上げます。

秘境ムスタンでは、この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たちが私どもの温かい援助の手を必死で待ち望んでいるのです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。」[1,p18]

思いがけない決意表明に、会場は一瞬シーンとなり、やがて満場の拍手が湧き起こったが、それが静まると今度は騒然となった。近藤さんの奥さんと娘さんたちは詰め寄って、これまで何も聞かされていなかった、と憤り、佐藤氏も友人として「家庭を守り頑張ってこられた奥さん娘さんと一緒に人並みな家族生活を営んだらどうか」と切々と苦言を呈した。

近藤さんは、こうした猛反対を予想して、あえてこの公の場で自らの決心を公表して、退路を断ったのである。家に帰ってから、近藤さんは家族を集めて、声涙下る思いで堅い決意を伝えた。

「このたびの親父の我が儘をどうか黙って許してくれ。必ず、私は秘境の貧しい村人を救うため、立派な仕事をして見せるから。」[1,p19]

決心を変える人間ではないことをよく知っている家族は、半ば諦め、半ばあきれかえった。さらに近藤さんはムスタンでの活動費を捻出するため、先祖伝来の家屋敷や山林まで手放した。

平成3(1991)年6月18日、家族が見送る中を、近藤さんはムスタンに 向けて旅立った。79歳の誕生日であった。

■2.「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」

ムスタンは、ヒマラヤ山脈の北側にある。標高3千〜4千5百メートルの高冷地で、毎秒10〜 20の強風が一年中、昼から夕刻まで吹き荒れる。さらに年間降雨量が100〜150ミリという超乾燥地帯でもある。 世界でも希に見る、農業に不向きな土地であった。

住民が畑で作り、主食としているのは、裸麦、ライ麦、ソバだけで、野菜はソバの緑の葉を茹(ゆ)でて食べる、それがなくなれば、川辺の雑草を食べる。肉や白米は冠婚葬祭の時にしか口に出来ない。これでは栄養も偏り、平均寿命は45歳でしかなかった。

働き手は男女を問わず、カトマンズや、国境を越えてインド、タイ、シンガポールまで出稼ぎに行くが、自分の名前すら書けないので、どこへ行っても最低賃金の重労働の仕事しか得られない。

「この一瞬でも飢えと寒さに泣いている大勢の子供たち」というのは、誇張ではなく、近藤さんが見てきた現実であった。

ムスタン地方の貧しさを救うべく、アメリカの自然保護団体が5年の年月と巨費を投じて、植林を試みたが、失敗して3年前に引き上げていた。またネパール政府がリンゴ栽培や畜産などの農業振興に取り組んでいたが、いずれも厳しい気候条件下で失敗していた。

近藤さんは、そんな秘境の地に、70歳の老齢ながら、単身で乗り込ん でいったのである。

■3.黄金の稲穂

近藤さんが取り組んだプロジェクトの一つに、高地での稲作がある。日本一の水稲王国新潟で生まれ育った近藤さんは、黄金の稲穂をこの地で生み出そうと決心した。

もともと熱帯性植物であるイネを、品種改良してきたとは言え、高地栽培は日本でも新潟や長野などでの標高1千mが限界だった。それをいきなり標高2750mの河川敷台地で栽培しようとしたのである。成功すれ ば、世界最高地での記録となる。

近藤さんは、北海道や青森などの試験場を訪ねて、冷寒用品種の種子を分けて貰い、試しに植えてみた。いずれも、出穂期、穂膨(ばあら)み期までは順調の発育するのだが、最後はすべて「しいな(皮だけで実のないモミ)で終わってしまう。

そんな時、故郷の農業試験場の専門家から、重要なアドバイスを得た。稲はどんなに立派な穂が出来ても、出穂期に15度以下に気温が下がると、「しいな」になってしまう、というのである。

それならと、7月の初めから田んぼの上全面にビニールシートを懸けて、保温してみようと思い立った。しかし、問題は毎日吹く風速10〜20mの強風である。これに吹き飛ばされないように、ビニール シートを張らなければならない。

そこで、水田の中に、大量の竹を高さ1mほどに立て、その上に縦、横、×字に竹を指し渡して、ビニールシートをしっかりと固定した。

3千m近い高地だが、日差しは強い。ビニールシートの下は朝でも水温20度とむっとする温度を保った。毎日、祈る思いで水田を見た。やがて見事な黄金の稲穂が立ち並んだ。どの株も丸々と太り、着粒数も申し分なかった。

平成8(1996)年9月、苦節4年にして、ネパール人青年スタッフたちと、初めての稲刈りを喜びに沸きながら無事に済ませた。その夜、近藤さんは感激に胸が震えて、いつまでも寝付かれなかった。

■4.石垣ポリハウス

近藤さんは、この技術を発展させて、標高3千6百mの高冷地ガミ農場で試してみる事とした。富士山頂に近い高さである。

その矢先に、郷里の米作りのアドバイサーから再び貴重な助言が届いた。ポリエステル波板パネルを使えば、ビニールシートより高価だが、耐用年数は15年から20年に延びるという。

さっそく調べてみると、幸運にもカトマンズで、昨年からポリエステル生産工場が操業を開始していた。すぐに透明パネル200枚を発注して、 車で運べる所まで運んで貰い、そこからは一人10枚づつ背負って、人力 でガミ農場まで運んだ。

パネルは高価なので、少しでも安価に仕上げるために、側面を石垣で囲い、屋根だけポリエステルパネルで張ることにした。石垣は厚さ60センチ、屋根側は2m、裾側は1.5mとして傾斜をつけた。石と石の隙間は泥で密閉した。

石垣作りは家造りに使われる技術で、この地方の人々にはお手の物だった。大小の岩を鉄のハンマーで打ち砕き、小さい金槌(かなづち)で手頃の大きさに形作る。それを直線に張った縄に沿って、垂直に積み上げるのである。

■5.「こんな高地でよくも素晴らしい稲を実らせたものだ」

石垣とポリエステルパネルの組合せは威力を発揮した。日中の強烈な太陽光線による輻射熱がハウス内に籠もり、春から晩秋まで最低でも20度以上、最高は35度に達した。深夜、早朝の外気温は10度前後でも、ハ ウス内は常夏の熱帯〜亜熱帯の気候である。

これに自信を得て、今までの対寒冷用水稲品種ではなく、人気のあるコシヒカリを植えた。石垣ポリハウスの高い保温力で、これまでのビニールよりも稲の草丈も優り、豊かな実をつけた。

正式な収量測定のために、国立作物試験場のシレスター博士にカトマンズからヘリコプターで来て貰った。早速、石垣ポリハウスに案内すると、博士は驚嘆の声をあげた。「ミスター近藤。こんな高地でよくも素晴らしい稲を稔らせたものだ」

正式な収量調査の結果に、博士は仰天した。「なんと素晴らしいことであろう。10アール当たり600キログラム弱、これはネパール平野部の 水田地帯に比べて、50パーセント近く多い収量ですよ」

石垣ポリハウスは、野菜を作るのにも威力を発揮した。稲の刈り取り後、あるいは通年使う専用ハウスで葉菜類やトマト、ナス、キュウリ、日本カボチャ、メロンなどが次々と見事に実った。真冬でも冬野菜を作って、新鮮な状態で食べることができるようになった。

■6.魚の養殖

稲作と並行して進めたのが、魚の養殖である。チベット高原を源流として、雪解け水を集めながらムスタンを流れるカリ・ガンダキ川上流は、激流のため魚が住める環境ではなかった。そのため、ムスタンではこれまで魚を見たこともない人たちが大部分であった。

近藤さんは水稲栽培のために、溜め池を作り、冷たい雪解け水をパイプで引き、そこで太陽光で水を温める事を考案していた。その溜め池で魚を養殖すれば、一石二鳥である。

ネパールの国立養魚試験場から鯉の稚魚を入手し、ニジマスは日本の十和田湖の水産試験場から受精卵を分けて貰った。飼料は近隣でとれるソバ、ライ麦などに、カルカッタから入る養鶏用の海魚の乾燥魚骨を混ぜて団子状にして与えると上々の食いつきだった。

稲作が成功した後は、田植えを終えた水田に鯉の稚魚を放し飼いした。ハウス内の高温で育ちも良く、9月上旬までの3ヶ月あまりの間に、2〜3センチの稚魚が10センチ前後に成長した。稲刈り直前に鯉をため池に移し、食べたいときに池から捕って、食膳に供する。近所の子供たちも珍しそうに魚を見に来る。

4年目の11月中旬、試しに食べ頃のニジマスや鯉を100キログラ ム、市場に出した所、あっという間に売り切れた。牛・豚・鶏の肉を忌み 嫌うヒンズー教徒の多いネパールで、魚は貴重な動物性タンパク質源とし て歓迎されたのである。

インド国境近くでも、鯉の養殖がJICAの協力で行われていたが、生活汚水などの影響で、味は泥臭さが抜けきれない。しかし、ムスタンの鯉は、ヒマラヤ山麓の水で養殖しているからおいしく、ニジマスも寄生虫の心配がないので刺身でも食べられるのである。

■7.「ムスタンのリンゴ」

加藤さんはもともと果樹の専門家で、JICA時代にムスタンの状況を調べて、耐寒性の強いリンゴ、アンズ、ブドウ等の果樹栽培を提案していた。その提言に従って、ネパール政府がリンゴ栽培に乗り出したが、失敗していた。指導すべき技師たちが、ムスタンのあまりにも厳しい気候に耐えきれず、定住を拒んだのである。

近藤さんは、自分の提言は決して間違ってはおらず、失敗の原因は、何がなんでもやり通すという意欲の欠如と、ムスタンの厳しい気象条件を無視した技術指導にある、と考えた。

おりしも、リンゴ栽培に失敗したドンバ村の人々が、助けて欲しいと依頼してきた。そのリンゴ園を実際に見て、近藤さんは驚いた。8ヘクタールの園地を立派な高い石垣で囲み、一番高い所に大きな貯水池が設けられ、通水路も立派に作られている。

しかし、葉は未だ9月中旬なのに黄色がかって小さく、所々実がついている木は鈴なりに小さいリンゴが成り放題だった。近藤さんは、2,3年のうちに、立派なリンゴ園に蘇らせてやろうと決心した。近藤さんは村の優秀な若者数人を集めて貰い、手取り足取りの指導を始めた。

「うまい大きなリンゴを栽培するには絶対にこんなに鈴なりにならせてはいけません。一つの花群に一つ、それも一番真ん中の果実のじっくり太った中心の実を一つだけ残し、後は全部間引いて捨てるのです」。

さらに丈の高い幹を切って、低い位置で実を成らせ、風にやられないようにする、どの枝にも日光が良く当たるように剪定する事などと教えた。若者たちは理解も早く、近藤さんの手足となって良く働いた。

数年を経て、立派なリンゴがたくさんとれるようになった。「ムスタンのリンゴ」としてブランド化され、ネパールの高級スーパーでも取り扱われるようになった。[2]

■8.「日本人の根性」

近藤さんはさらに、松や檜の植林、乳牛の飼育とミルクやバターの生産、小中学校や病院の建設など、八面六臂の活躍を続けている。今も91歳の老齢をものともせず、標高3600mの高冷地の一室に暮らしなが ら、ムスタンの人々のために尽くしている。

こうした功績が高く評価されて、2013年にネパール民主政府から最高栄誉となる「スプラバル・ジャナセワスリー1等勲章」を外国人としては初めて受賞した。

ムスタンでは近藤さんを知らない人はいない。近藤さんがどこに行っても、子どもからお年寄りまで「近藤バジェ(おじいさん)ナマステ(こんにちは)」と笑顔で挨拶してくる。

「真の国際協力は深い人間愛であり、決して物資、金品の一方的供給ではない。支援を受ける人々が心から感謝し、自らが立ち上がる努力をはらう時、初めてその真価が現われるのである」と言い、「ボランティアやNPOもこういう日本人の根性を勉強しなければいけない」と笑う。[2]

近藤さんの言う「日本人の根性」とは、江戸時代に多くの農村の復興を指導した二宮尊徳を思わせる。その土地の自然に随順しながら、自らの工夫と努力で豊かな生活を作り上げていく。それは自然を守りながら、豊かな生活を作り上げるわが国伝来の道である。

■リンク■

a. JOG(825) 「ブータン農業の父」、西岡京治30年近くもブータンで農業振興に尽くし、国王からダショーという最 高の称号を贈られ、死しては国葬に付された日本人。
http://blog.jog-net.jp/201311/article_6.html

b. JOG(765) 朝鮮農村の立て直しに賭けた日本人荒廃した朝鮮の農村を建て直そうと、重松は近代的養鶏の普及に取り組んだ。
http://blog.jog-net.jp/201209/article_3.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.近藤亨『ネパール・ムスタン物語』★★★、新潟日報事業社、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4861321840/japanontheg01-22/

2. 越後ジャーナル「近藤亨さん、ネパール最高栄誉1等勲章受章 ムスタン地区農業開発の功績認められ」
http://www.palge.com/news/h25/1/20130130kondo.htm

           

◆木津川だより「6月行脚雑感」

白井 繁夫


梅雨入りすると毎日しとしと雨が降る常識と近年は異なり、雨天はけた外れの大雨で災害を招いたり、日が照れば6月なのに異常な酷暑。齢を重ねた私ごと乍ら、身にこたえる日々です。しかし、今月は外へ出かける行事が下記のようにありました。

★6月11日〜15日まで入江泰吉記念「奈良市写真美術館」で、片岡寧豊先生主催の「万葉の花 生け花展」に協賛して、『鹿脊山(かせやま)城を考える』のテーマで、「木津の文化財と緑を守る会」を岩井照芳会長のもと、鹿脊山城の六百六十分の一の城模型とパネル写真の展示説明会をしました。

鹿脊山城は、万葉集にも詠まれている泉河(木津川)沿いの風光明媚な丘陵地(鹿脊山)にあり、奈良時代(聖武天皇)の都(恭仁宮)は対岸です。

今回は万葉の花につつまれた芳しい香りのなかでの展示説明ができ、従来の城大好きとか歴女の方以外の来場者にも会えて各説明員はおおいに張り切りました。
(片岡先生が我々のブースにもきれいな花を生けて下さり、心が和みました。)

木津川市は、奈良市と平城山(ならやま)丘陵を境に背中あわせですが、奈良県の人も含め、鹿脊山を「かせやま」と、なかなか読んでいただけなく、ましてや鹿脊山城の築城者が武家でなく、僧侶(奈良の興福寺)であったことに二度びっくりされていました。

嘗て、NHKが日本の名城シリーズの中で、この城を中世の山城(やまじろ)としては最高の防御施設を備えた城として、名だたる名城と同列に扱って放映しました。山城国では一番の中世の山城です。

鹿脊山城の創建は不明ですが、最初は仏教施設であったのが後に軍事的性格を持つ山城に発展したのではないかと云われています。最近の発掘調査で鎌倉時代の遺物が出ましたが、鹿脊山が最初に登場した時代の文献は、『大乗院寺社雑事記』文明元年(1459)です。

中世の城の最大の特徴は、石垣のない山城(やまじろ)です。織豊時代のような立派な石垣や瓦葺の天守閣を持った城ではありません。

しかし、この城山の山頂には「T主郭(曲輪)」、「U郭(曲輪)」、「V郭(曲輪)」と大きく連なった三つの「郭(曲輪)」があり、大規模な畝状空堀群、横堀、切岸などの当時の最新防御施設が備わっています。

この城の所有者:15世紀までの第一期は興福寺です。大和の北の守りの城として、興福寺の衆徒(被官)木津氏(木津執行)が、300余騎の兵を従え南山城地区の守りについていました。

第二期:16世紀の永禄年間から松永久秀に所有者が変わりましたが、天正元年に松永は織田信長に反抗して滅亡の道をたどりました。

鹿脊山城は戦国時代の大軍勢どうしの戦いには耐えられない城のため、以後は誰も活用せず、無傷の城の状態、(中世の状態のまま)数百年の眠りにつきました。山城の史跡としては非常に文化的に価値が高い城であると近年認められてきました。

ところで私ども(木津の文化財と緑を守る会)の会員だけで、この20年城山の整備に努めてきましたが、なにぶんにも微力のため、自然の状態の処も多々あり、夏場は蛇(特に蝮)に注意する必要上、見学に来られる場合は秋から冬に来られることをお薦めします。

★6月19日(木) 「奈良大好きの会:代表幹事 油谷稔様」の会員諸氏と「歴史探訪 泉津から平城京への物資街道」を散策 

T部 徒歩で下津道の歴史街道散策 U部 北の玄関港(泉津)から平城京への物資街道。
T部は近鉄京都線山田川駅から徒歩で散策できる時間的余裕のある会員、U部は所要が有り時間的に余裕のない会員が奈良でT部の会員と合流する企画でした。

私の所属する「木津の文化財と緑を守る会」が(2010年)奈良県主催の「平城遷都1300年祭」に参加して、泉津から平城京へ上津道、中津道、下津道の3ルートを案内した時、私の友人(「奈良大好きの会」のメンバー)が中津道(奈良街道)を経験していましたので、今回は下津道(歌姫街道)の歴史探訪を兼ねた散策を希望され、同会の諸氏と一緒に行動しました。

当日(19日)は予想外の晴天で、気温が随分上昇しました。我々は体調を勘案して下津道の半ばまで散策、即ち、吐師の浜から歌姫街道を木津川市と奈良市の国境まで散策する行動予定で、山田川駅をスタートしました。

参加メンバーのうち50代以下は若干で、ほとんどが60歳代以上と見受けしました。(私のペースで休憩を取りながら歩いても苦情が出ないと思い、安心しました。)ウォーク参加者は皆和気合い合いとし、初対面の私の心もいっぺんに和みました。

駅から東へ徒歩5分で「藤原百川公の墓」に着きます。百川公は大化の改新に貢献した藤原鎌足の曾孫に当たり、式家藤原宇合(うまかい)の子です。彼は山部親王(後の桓武天皇)を皇太子に推し、藤原政権の礎を築いた奈良時代の高官です。

宝亀10年(779)7月:参議中衛大将兼式部卿従三位の地位で没しました。しかし、死後:延暦16年(797)墓地として2町6反の田と右大臣従2位を、927年の『延喜式』の諸陵寮式には太政大臣正一位が贈られ、夫人の墓も同所と記されていました。

千余年後の明治28年「平安遷都1100年奉祝祭」に百川の墓と比定された眼前の小規模な「草生す墓所」を訪ねると、他の人との感じ方は異なるとは思いますが、私には「人の世の移ろい」を感じとれる処と思われました。

次の泉津の下津(吐師の浜)では、嘗ての賑いを口述と地形などで往時の港を想像してもらい、昔の郡山街道を通って「式内社相楽神社」を訪ねました。

『日本書紀の欽明記』より高麗の使者の迎賓館「相楽館:さがらかのむろつみ」や、大宝元年の遣唐使の小位(掃守宿禰阿賀流:相楽郡令)の古代の物語から江戸時代の能舞台、流鏑馬の神事、宮座祭祀、民話などで時間を費やしたため、歌姫街道沿いの「一里塚:一本松」へと急ぎました。

南の一里塚まで約20分歩くと、またたっぷり汗が出ました。『記.紀』に登場する垂仁天皇と丹波王の王女との物語から地名の由来:「(懸木かがりき→さがりき)→(相楽さがらか→さがなか)、(堕国おちくに)→弟国→乙訓」等、また一本松の松葉伝承と現在の松の松葉(4葉、3葉と2葉)探しの休息の後、「音如ヶ谷おんじょがたに瓦窯跡」へ向かいました。

「音如ヶ谷瓦窯跡」は奈良時代の「法華寺 阿弥陀浄土院」の創建瓦を焼いた瓦窯跡です。この瓦窯は1953年の工事中に偶然発見されました。

その後、音如ヶ谷瓦窯を含め、平城山(ならやま)丘陵の梅谷.鹿脊山一帯は奈良時代の多くの瓦窯跡が発掘調査で発見されており、平成22年8月奈良山瓦窯跡として国の史跡に認定されています。

平城宮の瓦や興福寺などの大寺院の瓦を組織的に大量生産する現代で云う、奈良時代の一大ハイテク工業地帯でした。全国から技術者や労働者を集めた最先端のハイテクラウンドです。

私を含め参加者もこの暑さで疲れた様子でしたので、T部はここまでとして、電車を利用して奈良市のU部会場へ移動しました。

クーラーの効いた室内に落ち着くと、雰囲気もぐっと変わり、泉津から平城京への街道もうんと近くなり、話半分で、喉を潤しながら話題は弾み、U部会は更に盛り上がりました。

近くにいた方々が奈良商出身者で、私も商業高校出のため話がかみ合い、また、大学の親友が英語の教師として奈良商に在籍時、生徒の「さんま」に吉本興業を推したことなど、話題が脱線もする非常に楽しい一日を「奈良大好きの会」の方々に与えてもらいました。

★6月22日(日):「鹿脊山城なんでも知ろう連続講座」第1回講演会
主催:木津の文化財と緑を守る会 (会長岩井照芳)

演題「鹿脊山城の楢枯れ対策と地域の景観」を鹿脊山会館で講師:山路和義氏の講演会と鹿脊山城見学会を予定しましたが、雨天のため、見学会は中止となり、講演会のみ実施しました。講演会に出席した方々と先生の講演後熱心な質疑が出て自然を守る大切さもよく理解できました。

次回(第2回講演会)は8月3日(日)開催予定です。「木津の文化財と緑を守る会」のホームページ参照ください:http://kizu1978.info/index.html

次回は飛鳥時代の木津川地域(南山城)に話題を戻して散策しようと思っています。
                        (郷土愛好家)

2014年06月29日

◆「核」が日中開戦を抑止する(45)

平井 修一


サーチナ6/4「タカ派将軍、またまた米国にかみつく『1971年、沖縄を勝手に日本に渡した』など」を要約する――
・・・

中国紙・環球時報は3日付で、中国戦略文化促進会常務副会長の羅援氏が執筆した文章「太平洋は太平でない。米国がその震源だ」を掲載した。羅氏は軍事専門の「学者」として、過激な言論で有名。2013年までは中国人民解放軍少将の肩書で活動していたので、現在でも「タカ派将軍」と呼ばれている。

羅氏は、シンガポールで開催された第13回アジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で、中国と日米が激しく主張を応酬させたことを取り上げ、中国軍の王冠副参謀総長や姚雲竹少将が米国を批判したことを高く評価した。

現在の日中の対立については、「事実が証明する通り、日本こそが一方的に現状を変え、面倒を起こしている当事者」と主張。「2012年の石原慎太郎東京都知事(当時)による東京都による尖閣諸島購入の構想」、「野田佳彦首相(同)による国有化」、「現在の安倍晋三首相が尖閣諸島の問題について譲歩の余地が全くないことを繰り返し表明していること」こそ
が、「日中関係が危機に至った深淵」と論じた。

しかし、羅氏の主張には事態の経過についての認識で、大きな欠落がある。中国は2008年に海洋調査船を初めて尖閣諸島周辺の日本の領域に侵入させ、10年には中国漁船による海上保安庁の巡視船への体当たり事件が発生。その後、中国は公船による尖閣海域への侵入を激増させた。中国側の「それまでと違う動き」がなければ、石原都知事が「都による購入」を表明したとは考えにくい。

石原都知事の構想に対しては、「地方自治体が、自らが最終責任を取れない外交上の問題に関与するのは問題」との批判もあった。それにもかかわらず多くの人の支持を得たのは中国による尖閣問題に対する「先鋭化」という「一方的な現状変更」の事態に、多くの日本人が危機感を持ったからにほかならない。野田政権による国有化は、都による動きに対して「外交の一元化が保てなくなる恐れがある」との懸念によるものだった。

中国はその後も尖閣問題を巡る行動を活発化させた。日本の立場は「領土問題は存在しない」であり、もともとは日本側からことさらに尖閣諸島について言動を起こす必要はなかった。むしろ、国内に批判の声があったとしても、歴代政権は中国を刺激しないよう、尖閣問題には「手を触れない」ようにしてきた。

中国にかぎらず、どの国の政権も領土問題で他国を相手にいったん主張してしまえば「引っ込みがつかない」という事情がある。日本としては、尖閣諸島については「何か動きがあると、中国も国内意見の統制が難しいだろう」と、相手側の“お家の事情”までを配慮してきたと言ってよい。

つまり、中国側が動きを活発にしなけば、日本側の一連の動きもなかったということになる。したがって、羅氏の主張は、事実にもとづく論考ではないと結論づけられる。

さらに、尖閣諸島では米軍が久場島 (くばじま)と正島を射爆撃場として管理している(1978年6月以降使用せず)。中国はなぜか“自国領内に米軍施設が置かれている”ことについては言及していない。尖閣諸島を巡る対立で米国を非難する羅氏としては、まっさきに同問題を取り上げてよさそうなものだが、羅氏の文章に関連する部分はない。

つまり、羅氏の主張は中国当局のこれまでの言い方と同一であり、“学者”を自称するなら当然おこなってしかるべきの「自らの考察による論の展開」は見られない。

羅氏は、続いて同問題で日本を支持する立場を示す米国を改めて非難。「善人のふりをするな!」として、「尖閣諸島の問題を作り出したのは米国」と主張した。

「1951年に中国抜きのサンフランシスコ条約に日本を署名させたりしなかったならば」、「米国が中国の釣魚島(尖閣諸島の中国側通称)を沖縄に組み込んで統治しなかったなら」、「1971年、沖縄を勝手に日本に渡さなかったなら」、「日米安保条約や米国の主張として沖縄が日米安保条約の適用対象になるとしなかったなら」として、「現在の釣魚島問題はなかった。釣魚島問題は危機的状況にならなかった。米国は現在の釣魚島を巡る乱れた局面に責任を負わねばならない」と述べた。

サンフランシスコ条約締結当時、中国共産党は国民党の戦いに勝利して、中国大陸部のほとんどすべてを支配下に収めていた。条約締結について、大陸部で発足した中華人民共和国と台湾に逃れた中華民国のどちらを中国代表と見なすかで、米国と英国などの間で意見の相違があり、結局はどちらも同条約の締結国とはせず、日本は別途、中華民国と日華平和条約を結ぶことになった。

中華人民共和国は、サンフランシスコ条約を認めていない。しかし羅氏の“流儀”にもとづいて、中華人民共和国がサンフランシスコ条約の締結国になっていたならば、尖閣諸島の問題について、さらに不利になった可能性が高い。

中国が尖閣諸島の領有権を初めて主張したのは1971年12月だった。しかも、先に行動を起こしたのは中華民国(台湾)で、1970年9月に台湾の公船が魚釣島に着岸し、乗組員が島に国旗の青天白日旗を掲揚(同旗は当時の琉球政府が撤去)。魚釣島の周辺海域にいたのは「台湾の漁船」で、拍手と歓声が上がったという。「中華人民共和国籍の漁船」は存在しなかった。

中華民国は71年6月に尖閣諸島の領有権を主張。中華人民共和国は約半年後の同年12月になって初めて、領有権を主張した。中華人民共和国には「中華人民共和国政府こそが中国の唯一の正統政府」との大原則がある。したがって当初は「中華民国が自国領と主張した。わが方も主張しないとまずい」程度の認識だったと考えられる。

なぜなら、それまでに出版された共産党機関紙の人民日報にも、国営の地図出版社の地図にも、「尖閣諸島は日本領」との記載があるからだ。

ソ連、ポーランド、チェコスロバキアなど東側諸国の一部や韓国(解説参照)は同条約の締結国ではないが、サンフランシスコ条約は戦前から日本が自国領として支配していた尖閣諸島の問題に全く触れておらず、中華人民共和国が同条約の締結国となっていたら、「全世界の大部分の国が参加した、しかも第二次世界大戦を終結させるための重要な条約で、中国は尖閣諸島問題に言及しなかった。つまり、日本の侵略で奪い取られた自国領とは主張しなかった」との理由で、同問題は「現在の中国」にとってさらに不利になった可能性が高い。

羅氏の文章からは、サンフランシスコ条約で「世界のひのき舞台に立てなかった」くやしさがにじみ出ているが、尖閣諸島問題と同条約についての自国の有利・不利を分析する視点はない。

羅氏の文章は前半の3分の2程度は、主に尖閣諸島に絡む問題に触れている。残りの部分では、「米国は、中国は現状を武力で変更しようと試みていると言うことがある」として、米国非難に終始。「今の世界で、戦争を最も多くしているのはだれだ。軍事費を最も多く使うのはだれだ。海外に最も多く軍事基地を持っているのはだれだ」などとして、中国の現在の対抗措置は「遠慮して、節制しているのだ」と主張した。

米国が全世界的に強大な軍事力を展開し、戦争もしばしば発動していることは事実であり、米国に対する批判も成立することは間違いない。ただし羅氏は「現状維持のための軍事力利用」と「現状変更のための軍事力利用」の区別はしていない。つまり、米国に対して「言っていることと、やっていることが異なる」と非難しているわけだが、非難の根拠は論理的に成立していない。

羅氏は文章の最後の部分で「世界はお前ら米国のための世界ではないぞ。太平洋は米国の太平洋ではないぞ。21世紀はなおさらのこと、米国の21世紀ではないぞ」と米国を非難した。

さらに、「米国がどうしても対抗し、衝突するというなら、中国は恐れないぞ。シャングリラ・ダイアローグが交戦の実例だ」として文章を締めくくった。国際会議で、対立する国が「舌戦」を繰り広げることはそれほど珍しくも不思議でもなく、問題はその後の外交あるいは軍事面での対抗で、どれだけ自国にとって有利に状況を展開できるかであるはずだ。羅氏が同会議を「交戦の実例」と主張し、中国の気概と能力を示した大きな成果と力説した理由は不明だ。

◆解説◆
韓国は同条約の署名国になる資格があるとして米国などに強く働きかけたが、「日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理由に却下された。(編集担当:如月隼人)(以上)
・・・

この記事を書いた如月隼人氏は「サーチナのメディア事業部の編集主幹のようだ」という書き込みがあったが、かなりの歴史通である。いつもツッコミ鋭く中共を叩いている。(2014/6/28)

◆英語基本はABC、國語基本はイロハ

上西 俊雄


5月12日、國語議聯の勉強會で永山裕二初等中等教育局教科書課課長より教科書檢定の話を聞いた。それでハガキに印刷して何人かの人に送ったこと以下の通り。ブラケット部分は太字。

<[教科書採擇について]

公教育は問題解決の方法を身につけさせて獨り歩きできるやうにすることだ。だから辭書利用は必須でなければならない。50音圖は眞っ先に教へるべきことではないか。中學校になれば古語辭典も引かねばならないのに50音圖を2度手間で教へてゐるし、寺子屋なら眞っ先に教へた伊呂波も小學校の教科書にはなかった。

戰後の表記改革で漢字だけでなく假名字母も制限されたためだ。おかげで明治大正昭和は古語辭典と國語辭典のはざまにみすてられてしまった。小學校の國語教科書も50音圖の掲載を憚ったところばかり。

世田谷區が日本語教育特區として作成した教科書ではヰもヱもでてくるがイエと振假名附きだ。ヂヅにもジズと振假名をしてゐるのだから如何に現行制度が歪んでゐるかがわからうといふもの。

それが、平成27年度使用の教科書に6年生用ではあるが50音圖を掲載したものが登場した。當然伊呂波歌も掲載になってゐる。まづはこの一歩を確かなものにしてほしい。>

50音圖を掲載したのは5社中2社。世田谷區日本語教育特區については國語問題協議會機關誌『國語國字』第189號(平成19年12月)で山岸徳平『近世漢文學史』からの孫引きで『羅山先生行状記』から

<羅山が『論語集注』の講義を京の町ではじめ、そのとき多くの町人が來聽したために席に入りきれなかった。それを耳にして、明經道の船橋秀賢が後陽成帝に、「いにしへより書を講ずる者は必ず敕許を必要とせり。しかるに今、羅山は敕許なくして坊間に講義をなすは不法なり。

乞ふ督責せられんことを云々。」と訴へた。帝はそれを徳川家康に廻附された。家康はこれを見て、あざわらっていはく、「何ぞ傷まんや、各々よろしく好むところにしたがふべし。

何ぞそれ告訴の淺卑なるや云々。」といって問題にしなかった。それで秀賢の訴へは立ち消えになってしまった。このやうな訴へが出るほど學問の世襲は進歩に有害であった。この世襲してそれぞれの學問をうけついてゐる家を師行家と稱した。>

を引いて、「教育を授けるには敕許が必要であった。今は文部科學省の許可が必要で、五十音圖ひとつ自由に教へることができない。」と述べた。2社とはいへ、規制緩和を感じるできごとだ。

英語についての主張もハガキ大にまとめてみた。

<[英語教育に關して]

公教育は問題解決の方法を身につけさせて獨り歩きできるやうにすることだ。だから辭書利用は必須のはず。アルファベットは眞っ先に教へるべきことだ。佛蘭西語や獨逸語のときにアルファベットの唱へ方からはじめることは故無きことではない。

ローマ字を教へるときにLQVXを後囘しにして、せっかくの機會を無にすることはない。英語式に正しく唱へるやうに教へれば英語の發音の基本を教へたことになる。もちろん J と CH がいはゆるミニマルペアをなすこともいはねばならない。つまり JI はヂに當てるべきつづりなのだ。

附言すればパソコン入力でディを DEXI もしくは DELI としドゥを DOXUもしくは DOLU とするのは英語力を削ぐ。ディドゥは當然 DI DU でなければならない。國語學者は4假名(ズヅジヂ)を問題にしたが、今はズヅドゥジヂディの6假名(音節表記)が問題だ。

SH の有聲音を ZH とする英語の傳統(アーネスト・サトウや朝河貫一の主張でもあった)に從へば六假名は ZU DZU DU ZHI JI DI とするよりない。問題は山積してゐる。アルファベットを單なる視覺的記號だとして後囘しにするのが間違ひ。入門期を早めるのでなく、入門期に何を教へるかが問題なのだ。>

小學3年の國語教科書でみてみると檢定合格した5社ともローマ字表を載せてはゐるが、アルファベットを載せたところは1社もない。

學習指導要領はローマ字に關して「第3學年においては、日常使はれてゐる簡單な單語について、ローマ字で表記されたものを讀み、また、ローマ字で書くこと。」と述べてゐるだけだ。

4年前の1964號(22.6.30)「戰後の表記改革は未完成」で書いたことを繰り返すが、英語の基本はABC、國語の基本はイロハ、このことには單なる比喩以上の意味がある。

ミュージカル The Sound of Music のドレミの歌も同じことを言ってゐる。


Do-Re-Mi...the first three notes just happen to be,

と歌ひだして、最後に

When you know the notes to sing, you can sing most any thing.

と歌ふ。ローマ字で讀み書きができるなら、「日常使はれてゐる簡單な單語について」とことはる理由がどこにあるだらう。要するに考へぬかれたものでない。實際、内閣告示の混亂を前提とするなら、まともに考へたりすることは不可能だ。

ローマ字についての副讀本といふのがネットでみつかった。小學校四年で教へることになってゐたローマ字が小學校3年に移されたときの過渡的なものだとの斷りがあって、「本學習材例を活用いただく場合、4年配當漢字「單」を、ここで學習することも可能です。」と注記がある。學年配當漢字といふ馬鹿げたことが今でも生きてゐるわけだ。

「單位」「今夜」の場合に TAN'I KON'YA とするところにアポストロフィといふ語がなく、NAGANO-SHI のやうに切れめを示す記號(「つなぐ印」と表現)にハイフンといふ語を用ゐてない。

文部省が豫め許可してない語はなるべくつかふべきでないといふ姿勢が感じられるではないか。これは兒童の知識を増やしてやらうとする教育の根本に關はることだと思ふ。いや、いささか脱線した。

閑話休題。次のやうなところがある。「ローマ字には、訓令式のほかにヘボン式があることを理解させる。實際には、ヘボン式で表記されてゐるものが多いことに氣づかせ、ローマ字に對する理解を深める。書き換へのできるものを探し、訓令式とヘボン式の兩方で書き表してみる。」

これは大變だ。ヘボン式と訓令式は非常に似た方式だ。目安の一つは撥音のつかひわけの有無だが、このことははっきりとは書いてない。「拗音、長音、促音、撥音などの書き方についておさへる」とはあるが、名刺作成のところでンは NN としてあるから、パソコン入力のことを意味してゐるのかもしれない。

また、たとへば長音なるものを表す場合に字母に冠するアクセント符號がヘボン式ならマクロンで訓令式ならスィルコンフレックスだといふことも書いてない。さうすると、けっきょくシチジヂフのいづれかが出てこない限り區別ができないと考へてゐるのかもしれない。

横濱開港資料館でみたローマ字教科書の DI はヘボン式であって、外來語のディを表してゐたから、方式の違ひといふのはさう簡單にきめられるものではない。

長音といふことからするとマクロンの方が本來的だと思ふけれど、標準のタイプライターで打つことはできなかった。日本式の人たちがスィルコンフレックスの方を主張したのは當時の機械の制約を考慮したためだと思はれる。

「コンピュータを使ったローマ字の名刺作りワークシートに「名前」「學校名」「學年組」「住所」を書いてみる。」ともある。この場合は一種の翻字式にならざるを得ないだらう。

名刺作成といふことが小學3年ででてくることにも驚くが、「學校」といふのを解説の圖解でみるとスィルコンフレックスを冠した字母を使用してゐる。パソコンでもマクロンよりスィルコンフレックスを冠した字母の方が入力が容易かもしれないけれど、それでも、非常に高度な技術を必要とするのだと思ふ。その指導方法は書いてない。

因みに、韓國は今世紀に入る直前、アクセントを冠した字母の使用を必要としない方式に切り替へてゐる。

このところには「名刺を作るソフトにはいろいろなものがある。子どもでも手輕にきれいに仕上がるので、ぜひ活用したい。遊び感覺でローマ字を使ひながら、着實に身につける」とある。あまり眞劍に考へてはいけないのかもしれない。

「コンピュータを使へる環境にある場合には、タイピングソフト(無料のものをダウンロードすることも可能)などを使ふと夢中になって取り組む。」とあるから、これですっかりアルファベットが表音文字であるといふ感覺が狂ってしまふわけだ。

ヘボン式と訓令式についての説明があった。いはく「ヘボン式は、實際の音を意識して表記することになってをり、例へば、サ行をローマ字で表す場合、實際、イ段の音は「シ」となってゐて、「スィ」とはなってゐない。

そこで 「shi」 のやうに表記するといった點をおさへておきたい。訓令式は、例へばサ行はすべて「s」で表すなど、音の竝び方を理論的に整理したものであり、その意味では體系的である。練習においては、指導者は、基本的に日本語の音韻體系を表すといふ特質を理解しておく必要がある。」

資料「ローマ字を指導するにあたって」といふのがあった。ローマ字は教師が教へるものだとばかり思ってゐたけれど、指導者が指導するものなのだ。次のやうな箇所があった。

<日本語をローマ字で書き表さうとする試みは古くからあり、明治以降も、「標準式(ヘボン式)」「日本式」「訓令式」などのつづり方が、一般社會で廣く行はれてきた。

義務教育の中のローマ字教育は昭和22年に行はれるやうになったが、そのときは、この三方式が自由に取り上げられてゐた。このやうな實状に對して、つづり方の單一化を圖り告示されたのが、「ローマ字のづり方」である。前述の「まへがき」には、このやうな歴史的背景がある。>

これは知らなかった。要するに規制ばかりが強くなったといふことのやうだ。とにかく「簡單な單語」でなければ、かう複雜な方式をやることは不可能だといふことはわかる。教師も大變だらうが兒童も混亂するばかりだらう。

假名字母の制限で正書法を失っただけでなく、ローマ字でどう書くかもゲーム感覺でやるしかないとすれば、それはもう文明國ではない。

中學校の指導要領でもアルファベットに觸れたところはみつからなかった。我が國の英語教育がザルに盛るやうなものであることは相變はらずだ。

附記

平井修一「私の「身辺雜記」」(116)3345號(26.6.24) のトマトとラヂオは面白かった。ラヂオといふ表記、同志を得た思ひがする。これはヂイヂといふ表記のときにも感じたけれど、平井さん自身が讀んでくださったためだとばかりおもってゐた。ところで、假名字母制限はGHQのせいではないのではないかと思ふものです。GHQはしめしめと思ったかもしれないけれど、明治期に胚胎した考への結果であり、元凶をいふなら保科孝一。

國語も英語も、表音主義といふか、音聲が基本だとして表記を後囘しにしたのが間違ひだと思ふ。表音といふのはそんなに簡單なものではない。たとへば音聲學の論文など、結局、自分で記號を考案せざるを得なくなる。

ギムソン教授にしろ、ベイリー博士にしろ改造したタイプライターをつかってゐた。國際音標文字として世界的に公認の記號でもネットでつかふのは難しい。

古語辭典の小松英雄先生から米國でパイク博士が未知の言語話者を相手にその言語の音韻分析をするところを見たことがあると聞いたけれど、その天才的言語學者の機能的非字母的發音記號といふことについての論文は活版でなく孔版印刷であった。

音聲の文字化といふのは本當に難しいものだと思ふ。正書法といふのとは根本的に立場が違ふ。文字といふ共通の枠組がなければ、けっきょくさういふことになるのだらうと思ふ。つまり傳統を受け繼ぐより仕方がないといふことです。