平井 修一
(承前)栗栖弘臣・元統幕議長の「私の防衛論」(高木書房)から。
――結局、いくら条約を結んでも、最終的には自分の国の国益が第一である、そういうものを乗り越えて他国の救援に赴くようなケースはまずない。
<ま、そういうこととも言えますね。それは今の(条約を守るという)意志の問題でしょうが、意志があっても客観情勢でどうしてもできないという場合がやはりありますね。
条約が国益を超えるかどうかという問題は、1939年に独ソ不可侵条約を結んでいながら、翌々年の41年にはすでに(独ソは)戦端を開いております。これなんかは一つの方便として結んだのだ、時間を稼いだのだと言われていますから、初めからお互いに守る意志はなかったということもあるでしょう。
それから、1945年に日ソ中立条約をソ連が一方的に破棄したわけですが、これなどは戦局の進展状況、つまり客観情勢に応じて途中で意志を変えて破ったんだという例になるでしょう。
日本でも台湾との間の日華平和条約を外務大臣の声明によって破棄したという事実がありますね。憲法98条で誠実に条約は遵守しなければならないと言っているのを、日本が政策的な見地から破っているわけです。これなんかは明らかに、自国の国益が最優先するという証拠かと思います。
おもしろいのは、核拡散防止条約の10条に「自国の至高の利益を危うくするにいたった場合には条約から脱退することができる」という条文が入っいるんです。これは今のように、国益を優先していつでも条約を破ってもいいというのではなくて、その考えも取り入れて、条約の中で、最終的には国益の方が優先しますよ、ということをはっきり述べた例だと思います>
――特に核の問題になってくると、日本は核の傘の中に入ったというのでおさまり返っていますが、あれだけ(米国と)親密な関係にあるNATOでも、いざとなったらアメリカが自国に報復されるおそれを冒してまで核を使ってくれるかどうかが問題になっていますね。
<いろいろな問題があります。しかもちゃんと核運用委員会を持っているんですね。それである程度の情報はお互いに交換をしているわけです。それですら、事があれば、各国首脳が絶えず米国に念を押している。
ところが、日米安保の中ではそういう委員会はありません。したがって、核そのものの情報もまず日本には知らされていないというようなことで、NATOでも核の傘が疑問になるときに、日本が具体的な詰めもなく「いや、大丈夫」というところにやはり認識のずれが非常に大きいと思います>
――破れ傘だということですか。
<破れているかどうかすらわからないということです(笑)。案外やってくれるのかもわからない。そういう点は否定はしないんですが、わからないということです。
核問題は、現在、日本は核拡散防止条約に加盟したわけですし、国際条約を遵守するということは憲法にも明示されているので、それに対してとやかく議論する段階ではなくなったと思います。しかし考えなきゃならぬことは、政治的な問題、あるいは国民感情的な問題、国民経済的な問題、および軍事的な問題だろうと思います。
政治的な問題としては、これはフランスあたりでよく言われる議論ですけれども、世界の国は三つの分類の中に入る。
一つは「核超大国」であって、これは自分自身の運命のみならず、その周辺国の運命まで左右する力を持っている国である。次が「中級核国家」で、これは米ソ以外の、核を装備した国である。周囲の国まで巻き込む力はないけれども、自分の国の運命は自分の手で決定し得る国である。その他は、「自国の運命を他国に依存している国」であるというふうに言われているのです。
次に国民感情上の問題としては、米ソが持っているということは、とても戦力が隔絶してて、別格として考えるというので、我々はあまりびっくりしません。フランスとかイギリスが持った時には、あれは遠い国だというので大して驚かなかったと思いますが、中国が10年前に開発、実験したときには、日本人は心では相当ショックを受けたろうと思います。
しかしその後、中国は非常に巨大な国であることが言われるようになって、まあやむを得ないだろうという一種の日本人的な劣等感といいますか、諦めが頭を占めてきた。
しかし問題は、日本周辺の韓国なり、台湾などが核兵器を開発した、あるいは一発でも持ったということになると、国民感情としてどういうふうに考えるのだろうか、この点が考慮すべきもう一つの点だろうと思います。
国民経済的な問題としますと、開発、生産が日本の経済力でカバーできるということは当然でありまして、技術ももちろんこれに伴っていると思いますが、持つ場合と持たない場合とを考えて、世界の資源というのはだんだん乏しくなっている。しかも日本は資源をほとんど他国に依存しています。食糧も燃料もそうです。
そういう情勢が強まったときに、ぎりぎりの線で、なるほど現在のところは兵器が欲しい、こういう国が多いだろうと思いますが、さらにいきますと、核開発能力が欲しい、それを与えてくれる国には乏しい資源を分割してもいいけれども、そうでない国へは輸出しないというふうな事態がないとも限らない。そういう点も考慮条件の中に入れるべきではないかと考えます。
軍事的な点としましては、通常、「核が核を呼ぶ」、少々の核装備をすると強大な国の核にたちどころに潰されるから、まったく意味がない、巨大な労力、金額を投資しても無駄である、こういうことが言われているのです。
核が核を呼ぶという理論は、私は核超大国間の理論だと思うのです。核超大国間で事を構えるとすれば、生きるか死ぬかの戦争を予期しなければいけませんので、あらゆる手段を使って――先制攻撃も考えるでしょうし、核の全面使用も考えるでしょう。
こういう場合には、相手に核があれば核で叩くということが当然考えられるけれども、中級核国家、さらに進んでは核を持たない国が若干でもそれを持った場合に、これを叩き潰すというために大きな国が核を使うということは、非常な決心を要する問題だろうと思います。
今でも核超大国は、先に核は使いませんということを言っておりますし、世界の世論もそうです。
核の中でも、戦略的な核と、戦術あるいは戦域的な核との区別が言われております。戦略的な核というのは、相手の国の心臓部、あるいは相手が致命傷と考えられるようなところにも被害を与え得るような核でありましょうし、戦術的な核というのは、戦域というか、戦場においてこれを行使する程度の核だろうと思います。
したがってこの両者を分けて核問題を考えないと、これを混淆して考えるとまた議論がおかしくなってくると考えます。
核問題を考える上においてのさしあたり考慮すべきいろんな点を申しましたが、わが国に当てはめてみて、今この問題を議論するということは、日本の国の方針、あるいは政策のみならず、条約加盟という国際的な約束をした以上は、これを取り上げる時期ではないと考えます。
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栗栖先生、日本人が昼寝をしている間にパンダ中共は核超大国の怪獣キマイラになり、日本は「核問題を取り上げざるを得ない時期」になってしまいました。嗚呼、如何にせん。(つづく)(2014/4/16)