2014年04月13日

◆“北朝鮮化”する韓国対日姿勢

名村 隆寛


北朝鮮からやって来た無人偵察機が墜落しただの、ソウル上空から青瓦台(韓国大統領府)一帯を撮影しただので、“反日一辺倒”だった韓国メディアの関心は、ここのところ、核実験強行をもちらつかせる北朝鮮や、偵察機侵入を防げなかった韓国当局の手際の悪さの方に傾いている。

そうはいっても、韓国政府・メディアの反日は依然、ぶすぶすとくすぶっている。「やれやれ」と精神的な疲労感を覚えつつ、この“つかの間(?)の反日沈静”の時期に、つい最近までの執拗な「韓国の反日」を振り返ってみて感じた。韓国の対日批判の姿勢が、相変わらず対外非難を続ける北朝鮮に、なぜか似てきているのだ。(ソウル発)

声明の南北相似化

竹島領有についての日本政府の主張。慰安婦問題。安倍晋三首相による靖国神社参拝。教科書。これら、韓国にとり歴史認識に関わる問題で、日本側で何らかの動きがあるたび、韓国政府は日本非難の声明を出す。特に多いのが、韓国外務省による声明や談話だ。この半年あまりの間だけでも、ごく日常的に繰り返されてきた。

詳しくは列挙しないが、「歴史の事実を歪曲している」「誤った行いは容認できない」「歴史を直視しなければならない」「断固抗議する」などと、韓国外務省報道官は、いつも決まったような言い方で日本を非難する。

テレビのニュース番組で伝えられる対日非難声明は、昨年末に安倍首相が靖国神社を参拝して以降、そのトーンを高め、時には感情が表面に出て、語気が特に荒く感じられることが何度かあった。個人的な感覚なのであるが、テレビ画面を見ていると、ソウルからではない別の場所から伝えられた映像と何となく似ている。北朝鮮からの主張(声明)だ。

米韓が合同軍事演習をしたり、国連安全保障理事会が対北経済制裁を決議したり、脱北者や市民団体が対北非難のビラを韓国側から飛ばした時、北朝鮮は必ず何らかの非難声明や談話を出す。つまり、自分が気に入らないことがあるたびに、北朝鮮は頻繁に非難の声明や談話を出すのだ。

国防委員会や人民武力部、外務省、祖国平和統一委員会など発表する部署はさまざま。日本のテレビでも伝えられているように、北朝鮮の言い方は大仰で、とにかくヒステリックだ。長年の伝統で、このスタイルは現在まで守り続けられている。あの力んだような“北朝鮮独自”の言い回しとは若干異なるのだが、韓国政府の対日非難声明は北朝鮮の声明に近づいている。

ソウル、平壌に接近する

この韓国政府の対日声明の“北朝鮮化”と見える現象。筆者の単なる「思い込みか」と考えてもみたが、そうでもないようだ。ソウルに駐在する他の日本メディアの記者仲間と、仕事を離れた場所で話していて、「そういえば、自分もそう感じた」という意見を複数回、耳にした。

その日の報道官の話っぷりを思い出し「ありゃ、平壌にかなり近づいてきているなあ」と互いの感覚を妙に認め合い、共感し、不思議な安心感さえ覚えた。

時には、閣僚級の人物の発言から似たような感じを受けることもある。中立、客観的であるべき記者であれ、自分の国が感情むき出しに批判されるのは、気分的にいいものではない。だが、感情的にならず冷静に考えなければならない。問題は、なぜ韓国の対日非難声明が北朝鮮化しているかだ。

北朝鮮が挑発したときや、約束ごとを守らなかった場合、韓国側が北朝鮮に向けて非難や批判の声明を出すことは珍しくない。だが、その声明の言い方は、毅然としていて厳格でこそはあれ、韓国政府による最近の対日声明や談話とは、感じが違う。

北朝鮮と韓国の比較で思い出したことがある。1980年代後半、南北軍事境界線がある板門店に初めて行った時のこと。記者になる前のことで、筆者は観光ツアーに参加するかたちで行った。軍事境界線をまたぐ軍事停戦委員会の建物(水色の小さな平屋建ての建物)の中で、韓国人ガイドから受けた説明が興味深かった。

必死。だが、余裕なし

建物の中には北朝鮮側と南(国連)側が話し合うテーブルがあり、マイクのコードは軍事境界線にきっちりと合わせて引かれている。テーブル上の南北双方には、北朝鮮の国旗と国連旗がそれぞれ置かれていた。

ガイド氏いわく「北はこの小さな旗の高さでさえ、われわれと競っています。北は本当に子供じみていますねえ」。

その言葉からは明らかに、北朝鮮に対する余裕が出ていた。ミニチュアの国旗の高さでも「敵(南)には譲れない」という北朝鮮の“必死な思い”と“余裕のなさ”を感じた記憶がある。

25年あまり前のことを今さら思い出したのは、この北朝鮮の“必死”な姿勢と“余裕のなさ”だ。余裕はともかく、北朝鮮は現在も日米韓など“敵”に対しては必死な姿勢であり続けている。経済力で明らかに北との差をつけた韓国は、北朝鮮に対しては余裕ある態度で臨んでいる。

ところが、その韓国の余裕が、日本を相手にした場合、四半世紀が過ぎた今も全く感じられない。それを強く思わせたのが、先に書いた対日声明での姿勢だ。特に歴史認識問題をめぐって韓国は、日本に「必死」であり続けている。筆者を含むソウル在住の一部日本人に、韓国の“北朝鮮化”を感じさせる原因かもしれない。

日韓関係、劇的に改善?!

核実験の可能性示唆や無人偵察機など、北朝鮮による不安要素が朝鮮半島に漂い、韓国メディアの反日報道はわずかながらも声を抑えている。そんな中、今月末にはオバマ米大統領が日本と韓国をたて続けに訪問する。米韓首脳会談の主要議題は当然、北朝鮮問題となる。    産経ニュース【ソウルから 倭人の眼】2014.4.12

2014年04月12日

◆朴槿恵大統領の仏頂面の理由

泉 幸男


なぜ朴槿恵(ぼく・きんけい)大統領は安倍首相に対して、ああまで仏頂面(ぶっちょうづら)なのか。

韓国左派メディア『ハンギョレ新聞』のコラムニスト、郭炳燦(かく・へいさん)さんが書いた「大統領のスカートの後ろの男たち」を読んで、謎が少し解けた。

記事(平成26年4月7日付)は、こちらの朝鮮語サイトで読める:
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/631564.html

引用和訳しつつ解説しよう。

■ 笑顔が理由で更迭(こうてつ)された ■

コラムは「朴槿恵大統領に送る手紙」シリーズこの日の副題は「無人機侵入 警戒ミスの指揮官たちの責任は問わず一にも予算、二にも予算と言いつのり地位を守ることにだけ汲々としたエリートたち…… 安全保障の抜け穴は大きくなるばかり」


長文コラムの中ほどに、朴槿恵大統領の過去の苛烈な人事のことが書いてある。


≪あなた(=朴槿恵大統領)が決して寛大な気性でないことは、よく知られた事実です。あなたは気に入らないと電光石火で更迭しましたよね。

去年7月、南北「開城(ケソン)工業団地」正常化会談に出ていた徐虎(じょ・こ)団長が第3回会談を前にして突然更迭されました。北朝鮮に対する徐虎団長の態度が高圧的でなかったことが団長更迭の背景にあった
とされています。

徐虎団長が会議場で北朝鮮側の代表と満面の笑顔で挨拶を交わす様子が、大統領には大層お気に召さなかったわけです。去る2月には、青瓦台(=韓国の大統領府)国家安保室安保戦略秘書官に千海成(せん・かいせい)統一省政策室長を充てることが内定してから、たった1週間で更迭してしまいましたね。

あの「事件」もやはり、昨年6月に千海成室長が代表として出た南北大臣級会談予備折衝で、雰囲気をあまりに和気藹々(あいあい)とさせてしまったのが問題だったのではないかと噂(うわさ)されています。

このような人事は、アマチュアリズムとポピュリズムの極みでした。目下、南北関係が危うさを増すばかりなのは、このようなやり方がもたらしたもののようです。≫


■ 握手が知られてはまずい ■

 なるほどね。

「交渉相手と和気藹々と談笑したのがけしからん」と部下を更迭するからには、大統領みずから安倍首相と談笑しているところを他人に見せてはまずいってことか。

朴槿恵大統領は、撮影者のいないところで安倍首相と握手しつつ、「握手をしたことは内緒にしてください」と言ったと伝えられるが、その異常さの背景が少しわかったような気がした。

いろんな交渉事をやってきたわたしに言わせれば、にこにこしながらグサリと来る相手のほうが手ごわいのだけどね。

*    *     *

さて、郭炳燦さんのコラムの続きだが、竹島関連でこんなくだりがあった。


≪先月26日の韓米日トップ会談で日本の安倍首相が朝鮮語で挨拶しました。そのとき、あなた(=朴槿恵大統領)は顔を伏せたまま、まったく無視してしまいましたね。

国際関係では永遠の敵も味方もありません。敵国とでも分かち合うものは分かち合い、友邦とでも問いただすべきことは問いたださねばなりません。

そのことがあって10日も経たぬうちに、日本では「韓国が竹島を不法占有している」という内容が載った小学校教科書が配られました。≫


■ 頭がくらくらする ■

日本って、すごい国なんだな。感心しちゃったよ。韓国の大統領が首相の挨拶を無視したら、その腹いせに、教科書を急遽印刷し直して小学校に配っちゃうんだそうだ(笑)


≪この教科書を見て学んだ生徒たちが、これから先、韓国をどのように見、どのように対応しようとするだろうか。考えただけでも頭がくらくらする。≫

いや、頭がくらくらするのは、郭炳燦さんのコラムを読む我々のほうだがね。

≪子供たちが大きくなったら、韓国に奪われた地を取り戻そうとしなしょうか。返してくれと口で言うだけでは済まないでしょう。軍事的にでも原状回復しようとするでしょう。独島もまた危険千万な「紛争地域」になってしまおうとしています。誰がその責任を取るのでしょうか。≫

だんだん読むのが疲れてきたよ。

≪よしんば国民から悪態をつかれようと、日本政府が極右に2歩進むところを1歩進むだけに とどめさせるのが政府です。

憎たらしいと言い捨てて唾(つば)を吐くのは、裏通りのクズ拾いがやるようなことです。≫


出たぁ! 差別OK社会の韓国だから、「裏通りのクズ拾いがやるようなこと」と紙面に書いても平気だ。

日本だと「中小の廃品回収業の方々に失礼だ」と言って、校閲部が削る。

◆「中国に挑戦している」と逆宣伝

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年4月11日(金曜日): 通巻第4203号>    


 〜ボーアオ(中国版ダボス会議)で李克強首相が経済改革を主張したが
      アジア諸国が「中国に挑戦している」と逆宣伝。自らの侵略性の隠蔽を計る〜


海南島のリゾート地、ボーアオ。

4月10日から開催されたボーアオ会議の冒頭、基調報告に立った李克強 首相は「法人税の半減」「老朽渋滞地域の再開発」「内陸部の鉄道整備」など基本構想の「都市化」の具体例をはじめて示した。

世界のマスコミが注目したポイントは「上海と香港の株式市場を相互利用し、外国人投資家にも解禁」という前向きの政策変更だった。

両方の市場で売買注文ができるようになり、投棄マネーの流入を避ける効果を期待した措置。今秋から実地されるという。ただし両方に上場が重複している銘柄に限られる。フィナンシャルタイムズも日本経済新聞も、この政策変更に焦点を当てている。

しかし同日発表された貿易統計は中国の輸入が11・3%の落ち込み、 輸出も6・6%の落ち込みを示し、前途の暗雲を示唆した。

李首相演説の「危険」な部分は後半部である。

「中国の領土や主権を堅持する意志に揺るぎはない」として「これを脅かす行為は認めない」とまるであべこべの認識を主唱し、領土を侵略された被害国のベトナムなどを怒らせた。

ベトナムのブー・ドク・ダム副首相はただちに反論し、「係争は国際法に基づいて、ルールに従って解決されなければならいない」と釘を刺す一幕があった。同席したアボット豪首相も同様な主張をのべた。

「ボーアオ会議」は中国版のダボス会議とよばれるもので、海南島のボーアオで江沢民時代から開催されており、小泉首相が現役時代に出席したこともあった。

ことしは台湾からも粛万長(前副総統、元首相)がかけつけ、李克強首相と貿易協定に関して話し合いがもたれた。
          

◆「ヒマワリ学運」は大成功

Andy Chang


4月6日、学生たちが座り込みをしているところに王金平立法院長がきて、「両岸協議監督条例草案」を法制化するまではサービス貿易協定は立法院の議題に乗せないことを約束した。

これは学生たちの示した4ヶ条要求の第2条、「先立法、再審査」を約束したもので、王院長の声明は「善意を示した」と解釈した学生たちは協議に入り、翌日ヒマワリ学運は木曜日(9日)午後6時に解散すると発表した。これで学運は栄誉ある終焉を迎えた。

ヒマワリ学運は平和な抗議運動で、秩序と組織と清潔を保つデモであった。このような抗議運動は世界各国の抗議デモに見られなかったことであり、ヒマワリ学運は大成功だったと言える。3月30日の50万人抗議集会が終わったあと、街頭はきれいに掃除され、ゴミは一つもなかったと言われる。

●ヒマワリ学運は大成功

台湾の民主運動が世界に類を見ない成功を収めたことについて、私の意見では次の4点が非常に大切と思う。

 1.ヒマワリ学運は統率のとれたデモで、医療部、食料部、飲料部、物資部、宣伝と印刷などの外に楽器演奏や、数カ国語で現状ニュースを流す宣伝班の活躍があった。ゴミ収集も完璧。これほど組織と統率がとれた抗議運動は世界史に残る快挙である。

 2.最も重要なことは、台湾人が中華民国政権や中国の勝手な決定を覆したのである。中華民国政権は亡命政権だが一貫して独裁を通してきた。それが覆ったのである。台湾人は暴政に反対し中国に屈服しない勇気を得たのである。

 3.台湾アイデンティティと愛国心は若者たちが発揚し、若者たちが一般人民に力と勇気を与えたのである。台湾は中国のものではない、台湾人は中国人の暴政に勇気を持って対抗する。これが台湾の政治と社会に大きな影響と変化を与えた。

 4.パソコン、スマホを使ってフェイスブックやツィッターでオンラインニュースを発信。ヒマワリ学運が世界のメディアに伝わり、15カ国のメディアが台湾に来て学生運動を報道していた。学運は国際的な賞賛と評価を得た。政府のメディアに頼らず独自で世界のメディアに情報を流した。政府メディアのデマ宣伝は効力を失った。

●闘いは終わっていない

戦いは始まったばかりである。ヒマワリ学運が解散した後、彼らの要求が政府に拒否され歪曲されるかもしれない。今後の努力の目標は(1)両岸協議監督条例を法制化、(2)国民党優勢の国会の審議で不平等条約を監視、(3)国民憲政会議の実施と開催。

王金平院長は両岸監督条例を法制化すると約束したが、国民党優勢の立法院て審議されたらどんな変化があるか予測できない。王金平院長の約束は守られるか。

両岸協議監督条例は学生たちの出した草案とは別に国民党側も草案も提出しているので、議会では国民党の草案が通る可能性が高い。

学生たちの要求では、サービス貿易協議を撤回して協議監督法のもとで草案と審議を要求しているが馬英九は反対、国民党議員も反対である。また新協議に中国側が応じるかどうか。

台湾人に有利なのはヒマワリ学運のあと各国メディアが台湾の民主運動に注目していることである。でも独裁的な中華民国や中国がメディアの関心に屈するとは限らない。

●中国人の報復

馬英九政権が大人しく学生運動の結果に従うとは思えない。公共器物破損、違法占拠などで学生指導者を告訴、逮捕、拷問などが考えられる。

ヒマワリ学運は若者たちだけでなく全階級層の台湾人が中国の台湾併呑に反対を表明したのである。馬英九が報復手段をとれば反政府、打倒中華民国運動が起きる可能性がある。

ヒマワリ学運は中華民国打倒ではなく、「両岸協議監督」を目標としている。馬英九政権と中国の協議を公開、監督することが目的である。中華民国政府がこの要求に反対すれば中華民国打倒に発展する可能性がある。中華人民共和国や中華民国がどんな手段を使うかに注意せねばならない。

●アメリカの支援

アメリカ国会は学生運動を支持する声明を発表したが、アメリカ政府の態度は曖昧である。アメリカ政府は台湾関係法とレーガンの台湾支持6カ条を基本としている。だから国会はいつも台湾(中華民国)の防衛を目的とした法案を通し、台湾当局(中華民国政府)に
武器を提供する。ところが中華民国はシナ人政権だから購入した機密はすぐ中国側に渡ってしまう。

アメリカが台湾人民を支持せずシナ人政権を支持するのは間違いである。台湾人民にも問題がある。台湾人は政治に疎く中国に関心を持ちすぎアメリカの防衛に甘えている。アメリカが「台湾当局」(中華民国)を対象とせず、人民の人権と安全保障を支持することを要
求すべきである。

2014年04月11日

◆「嫌韓本」に学ぶ韓国対応法

阿比留 瑠比


韓国を訪ねる観光客はめっきり減り、テレビドラマの韓流ブームも下火になった。書店の店頭には「嫌韓本」が平積みされ、インターネット上では韓国批判の論説があふれている。

こうした現象について、日本社会の右傾化や排外主義の高まりだと戒める向きがあるが、ちょっと違うと感じている。むしろ、韓国に対する関心と認識が深まったがゆえ、という部分が大きいのではないか。

 「日本人を差別」

「周囲の日本人のあいだに、韓国嫌いが増えている。(中略)嫌韓論と名付けたマスコミもあるが、これすら当たっていないだろう。韓国を疎(うと)ましいと思う日本人が、増えているのである。疎韓(そかん)論とでも言えば、いいのだろうか」

これは、最近書かれた文章ではない。作家で島根県立大名誉教授の豊田有恒氏がちょうど20年前の平成6年3月末に刊行した著書「いい加減にしろ韓国」から引用したものである。

ネットを通じて情報の共有が進んだ現在より割合が低いだけで、当時から韓国に対してうんざりしていた人は少なくなかったのだ。

豊田氏はこの本で日韓友好を誰よりも願いつつ「韓国人は、はっきり言って、日本人を差別している」「ここまで居丈高な対日要求を突きつけてくるのは、日本人に対する人種差別のため」とも明言している。

確かに現在も、韓国の政府やメディアによる日本だけを狙い撃ちした「ヘイトスピーチ」は異様であり、あまりに一方的である。

豊田氏は今月出した新著「どの面(ツラ)下げての韓国人」では、民主党政権が行った韓国への「朝鮮王朝儀軌」引き渡しが逆効果だったことを指摘し、「日本側の善意は、韓国には通じない。

こうした際、韓国人は、善意として受け止めるのではなく、日本人は、疚(やま)しい点があるから、そうしたのだと解釈する」と強調する。そしてこう主張している。

「反日が高価な代償を伴うことを韓国に教えないかぎり、韓国の捏造(ねつぞう)に基づく反日は止(や)まない」

 知るほど距離感

このように韓国に手厳しい豊田氏だが、もともとは大の韓国好きだった。左派系メディアや社会党が北朝鮮を賛美し、韓国に否定的だった昭和53年2月の著書「韓国の挑戦」では、韓国の経済成長を称賛し、韓国人に対する差別、偏見を批判してこうも記していた。

「家族連れで、よく韓国に行く。うちのワイフも子どもたちも、すっかり韓国が気にいっている」

それが韓国語が上達し、韓国人との付き合いが深まり、韓国を深く理解していく過程で、かえってその異質性と対日感情の御し難さに気付き、逆に距離感が広がったのだ。新著ではこう突き放している。

「韓国相手では、同じ地球人と考えずに、どこか遠い異星の宇宙人だと考えたほうが、対応法を誤らないだろう」

もとより隣国に関心を持ち、理解しようとする姿勢は大切である。ただし、相手を理解すればそれで友好が深まるとはかぎらない。政治学者の故坂本多加雄氏はこんな言葉を残した。

「国と国の関係も人間関係と同じで、知れば知るほど相手を嫌いになるということもあるんじゃないか」

いわゆる嫌韓本が売れるのは韓国の反日の正体を知り、適切に付き合い、適度に距離を置くためのヒントが提供されているからだろう。
                       (政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】 2014.4.10

◆韓国人との「兄弟の契り」の予想外

泉 幸男


5年ちかく前になるが、親しくなった韓国人が「兄弟の契(ちぎ)りを結ぼう」と言ってくれたことがある。喜んで応じたが、そのあとの展開が予想外、想定外だった。

そのときは「あれ?」と思ったていど。しかし、いま思えば、韓国という“変な国”のふるまいの裏にある原理を端的に説明するネタになりそうだ。

何が起こったのか、ご紹介する。

■ 日・韓・米がフィリピンで ■
勤務先の商社が、韓国電力と共同でフィリピン・ルソン島の発電所に出資・運営している。このプロジェクトを、わたしは断続的に合計8年ほど担当していた。悔しさと喜びの入り混じる日々だった。

日・韓の企業が手をたずさえて出資し、日・米の企業が共同で発電所設し、フィリピンの民生向上のためのインフラ整備に取り組む。大東亜戦争に散った先人たちに謹んでご報告したくなるようなプロジェクトである。

わたしが担当した最後の2年間は、出資日本企業4社の代表としてマニラでの出資者会議で発言するのが仕事だった。

エリート然とした韓国電力社員のなかでも、朴明哲(ぼくめいてつ、仮名)さんは雰囲気がどことなく剽軽(ひょうきん)で、飲み会でも朝鮮語と英語を交えて話をし、とりわけ親しくなった。

■ ヒョンジェ(兄弟)になろう ■

朴明哲さんは、NHK大河ドラマ「功名が辻」がえらく気に入っていて、千代役の仲間由紀恵の大ファンだった。わたしのブログにも2度ほど書き込みをしてくれたことがあった。ひょっとしたら、この配信コラムもどこかで目にしているかもしれない。

ある晩のこと。飲み会の後半、あちこち席を入れ替わって盛り上がっていた。朴さんと話していると、朝鮮語でこう言ってきた。「泉さん、我々はヒョンジェ(兄弟)になろうじゃないですか」。

フランス人が「これから二人称代名詞は vous(あなた)ではなく tu(きみ)を使い合おう」という類(たぐ)いだろう。よろこんでOKした。ふたりで兄弟の契りの乾杯をしたところで、予想外の展開がはじまった。

■ 兄弟とは兄貴と舎弟(しゃてい)? ■

朴さんが真顔になってこう言った。「兄弟ということなので、どちらが兄か、どちらが弟かを決めないといけない。泉さんが生まれたのは何年ですか」

1959年だと答えたら、朴さんは狼狽した。「本当か?」と2度聞き返したあと、「疑うわけではないが、パスポートを見せてくれませんか」と言うので、胸ポケットから出して渡した。

朴さんは自分のほうが年上で、泉の“兄貴分”になれると思っていたらしい。兄弟の契りを交したあとで自分が“弟分”であることが判明してしまったわけだ。

わたしは、ぽかんとしていた。「兄弟」といえば、わたしのイメージはキリスト教でいう「兄弟」で、同輩を意味する。神父や牧師の前で、教会のなかの兄弟どうし、どちらが兄でどちらが弟かを論じることなど、想像もできない。兄弟とは平等の意味である。

朴明哲さんが「兄弟になろう」と言ったとき、わたしのイメージは、肩を組んで「同期の桜」を歌う仲、だった。間違っても、「兄貴」と「舎弟」の関係ではなかった。

■ 朝鮮語の丁寧形とぞんざい形 ■

ふと気がつくと、かわいそうな朴さんは観念したかのように口のなかで「ヒョンニム、ヒョンニム、ヒョンニム……」と唱えている。

意を決したように朝鮮語で「ヒョンニム(兄上)、明日ご帰国されたら、次はいついらっしゃいますか」と聞く。(口のなかで「ヒョンニム」をもごもご言っていたのは、わたしに対してヒョンニムと言うのがよほど言いにくかったのだろう。)

「次は、4ヶ月後だと思いますよ」と、いつものように丁寧形の朝鮮語で答えたら、朴さんは「ヒョンニム(兄上)、だめです。ヒョンニムなんですから、丁寧ことばで弟に話したらいけないんです」
という。

「そんなことありませんよ。We are equal partners. Why shoud Ichange my language?

(わたしたちは平等なパートナーでしょ。なぜわたしが言い方を変えなきゃいけないんです)

それに、わたしは朝鮮語は polite form(丁寧形)でしかしゃべれないのです。教科書の朝鮮語会話は丁寧形で書いてありますからと、わたしは朴さんに朝鮮語と英語を交えて答えた。

朴さんは顔をゆがめながら「丁寧形を使うとヒョンニムらしくないのです。あなたはヒョンニムなのだから、頼むから丁寧形は使わないでください」と言う。これにはほんとにビックリした。

兄弟の契りを結んだばかりに、朴さんとわたしは平等な関係ではなくなり、朴さんはわたしに丁寧形の朝鮮語、わたしは朴さんに ぞんざい形の朝鮮語で話さなければならなくなってしまった。

■ 兄弟の契りとは上下序列の確認・固定化 ■

兄弟の契りで、お互い気のおけない同輩関係を深められると思った。しかし韓国式に兄弟の契りで親しくなるとは、「上下の序列を確認・固定」することだった。

わたしには、この韓国式の兄弟の契りは大層居心地が悪く、「ヒョンジェ(兄弟)同士になろう」という朴明哲さんの言葉に安易に応じたことを後悔した。

以前、日韓関係について論じた韓国人の講演記録をエスペラントと朝鮮語の対訳プリントで読んだことがあった。

エスペラント版を読んでいると「韓国と日本は fratoj(兄弟)の間柄であるべきで」云々とあり、特段の抵抗もなく読んでいたのだが、ふと朝鮮語版のほうを読んでみると「韓国は兄、日本は弟の間柄であるべきで」とあり、アホらしくなって読むのを即座にやめたなぁ。

朴明哲さんとの兄弟の契りの夜、ホテルに戻ってから、そんなことをふと思い出した。

■ 国と国との関係も ■

朴明哲さんとこれからどう付き合ったものか、じつに気が重くなった。

日本に戻って、ぞんざい形の朝鮮語(弟分に話す形)も少しは勉強しなけりゃと思い、朝鮮語テキストの読み方が深まったことだけが収穫だった。

マニラ再訪の折、「兄上」らしいこともせねばならぬかと思い、「功名が辻」の総集編DVDを買って行った。「ヒョンニム、ありがとうございました」と言いながら、朴明哲さんは受け取ってくれた。

幸か不幸か、その直後に勤務先で担当替えがあり、わたしはフィリピン案件から離れた。朴明哲さんと、その後は やりとりがない。

       *     *     *

このところ韓国が何かにつけて、しつこく居丈高(いたけだか)で、出口が見えない。

ソウル五輪の開催を経て韓国が、日本と同輩の国として成熟してくれることを期待した日本人は多かったと思うが、現実は違った。

もはや単なる反日ではなく、「韓国が上位で、日本が下位」であることを世界中で永遠に確認しつづけなければ気が済まないと言わんばかりの行動だ。

現実の日本を責めようにもネタがないものだから、70年前の歴史ファンタジー話(朝鮮人娼婦の由来)に頼る。日本側から見れば、歴史を持ち出すまでもなく、現実の韓国に責めどころありすぎ。同じ土俵に上がることをはばかって久しい。

■ 英仏独が「兄弟」の上下を争うか ■

「近い関係になるには上下の序列を明確化することが不可欠だ」という韓国独特の原理に、外交問題の根本原因がありそうだ。

朴明哲さんとの「兄弟の契り」の一件も、「近い関係になるには上下の序列を明確化することが不可欠だ」という韓国人原理に基づいて朴さんが行動したのが原因だ。
 
たまたまわたしが年上だったからよかったものの、年齢が逆だったらわたしが朴さんに“ヒョンニム!”と言い、朴さんからは ぞんざい形の朝鮮語で話しかけられるという立場に追い込まれるところだった。

フランスとドイツ、フランスと英国のような成熟国家どうしが、互いにどちらが「兄」でどちらが「弟」か論じる光景など、想像だにできない。互いに、いいところ悪いところがあり、感謝もあれば恨みもある仲だ。同輩国どうしである。

ところが韓国という国家は「近い関係になるには上下の序列を明確化することが不可欠だ」という原理に縛られるから、そうはいかない。

韓国は、中国に対しては必要以上に卑屈になる。上下の序列の「下」のほうに身を置くことで安定感を得る。その分、日本に対しては居丈高になる。
 
ほんとうは「尊大」にふるまいたいのだが、尊大にふるまうネタがないから居丈高にならざるを得ない。

日本との間では、上下の序列の「上」のほうに身を置くことで安定感を得ようと勝手に願い、それがかなわず勝手に悔しがる、それが韓国である。

単に「同輩国」になればいいのにと日本人は思うが、韓国としては それでは満足できない、安定しないのである。

われわれ日本人は子供のときから学校教育で「人間はみな平等。世界の国々はみな平等」と叩き込まれて来たから、韓国の行動原理に大いに戸惑いを感じる。

■ かつて南洋と呼ばれた東南アジア諸国 ■

東南アジア諸国も同様だろう。ベトナムとタイとビルマが、どちらの国が兄貴分で、どちらの国が弟分だと言って争い出したらキリがない。

互いに同輩関係の村落社会が同居しあって、基本的に「食うに困らない」国が南洋諸国である。国家どうし、村落社会どうしが媚びへつらったり序列をつけ合ったりする必要は無かった。

こういう地域に韓国人が来て、「近い関係になるには上下の序列を明確化することが不可欠だ」という原理を振りかざすとどうなるか。誇り高いタイ人やベトナム人を露骨に見下げる韓国人の行動原理。評判がよくないのは当然だ。

大東亜戦争の後半に日本帝国が南洋諸国で評判を落としたと、これは歴史教科書の定番記述だが、その一因は日本側人員に朝鮮出身者が加わったからではなかったか。

■ 序列原理の特亜 ■

中国共産党と朝鮮労働党の党内序列は定期的に発表されてニュースのネタになり、政治分析のイロハとなっている。日本の自由民主党の「党内列」が番付表のように発表されることはない。

中国も朝鮮国も「近い関係になるには上下の序列を明確化することが不可欠だ」という原理に基づいて動く国だということが、よく分かる。

読者の皆さんの記憶をたどっていただきたいのだが、中国・韓国・朝鮮国の3ヶ国に限って、日本からカネや譲歩を引き出そうとしては、媚びへつらった笑顔で「かわいげ」を演出することがあった。不自然に過度に下手(したて)に出る。(東南アジアの政治家に、ああいう媚びへつらいは無い。)

われわれ日本人は「ヨーロッパ諸国が互いにつきあっているような具合に、ふつうの同輩国として付き合えるようになりましょう」という思いで中国・韓国に巨額の援助をしてきた。

ところがあるとき突然、下手(したて)に出ていた国が俄然、居丈高にふるまいだす。オセロゲームの白が黒に変わるように、態度がコロッとひっくり返る。

下手(したて)と居丈高のあいだの「ふつう」の時期がないことに、日本人は戸惑う。日本人としては「ふつう = 諸国平等」が安定形だと思っているから。

ところが、中・朝・韓の3ヶ国は「近い関係になるには上下の序列を明確化することが不可欠だ」という原理で動くから、「ふつう = 諸国平等」が原理的に存在しない。

なるほど、中・朝・韓の3ヶ国が一括して「特亜」と呼ばれるわけである。

【注】なお、文中にいう「朝鮮語」とはソウル式の朝鮮語、いわゆる「韓国語」のこと。
 
アメリカの言語も「英」語と言うように、韓国の言語も朝鮮語と呼ぶのが正式なので、その言い方で統一しました。

なお、わたしが朝鮮語で話すとき、朝鮮語のことは“ハングゴ(韓国語)”と呼びます。だって、ソウル式の朝鮮語ですから。


2014年04月10日

◆国民党少尉の懺悔、一方での好戦

平井 修一


鳴霞女史の「週刊中国」にユニークな記事が載っていた。サイトにはこうある。

<元中国共産党エリートで「月刊中国」主幹である鳴霞(めいか)がお送りするメルマガです。日々刻々と変わる、緊迫した中国情勢を週2回配信。日本のマスコミがほとんど報道しない、中国の内部情報を随時お届けします>

2012年11月29日(木) 号から――

<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。開国少将というベンネームの作者は、外祖父(母方の祖父)が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。
                ・・・

私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やっと外祖父から真相を聞き出した。

彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。

国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。

外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があったという。

外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。

私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい。(以上)

              ・・・

支那、中共はほとんど狂気の沙汰、まさに異形の大国だ。小生のオツムではほとんど理解しがたく、頭がクラクラしてくる。

2012年12月17日(月) 号にはこうあった――

<今日配信予定のメルマガ「週刊中国」16号に、「人民解放軍からの呼び掛け」全文を掲載しています。

これは解放軍の「日中関係青年研究討論会」という組織が発表した論文で、前半は前回(12/14)発行のメルマガ15号に掲載したもの。今週は後半部分となります。

解放軍幹部が企図する内容をあらわした、この論文の結論部分は、以下のとおり。
             ・・・

我々中国人が日本人から侮られたくないと思うなら、まずもってするべきことは、自らを尊び自らを強大にすることである。

世界各民族の国力の勝負とは、とどのつまり政治制度の勝負であり、政治制度の立ち遅れは、つまるところ経済上の利益や効果に影を落とす。それならば、我々はもはや、中国の政治制度が今後も立ち遅れていくのを座視することはできない。

したがって、日本の右翼がほしいままに中国を挑発しているこの時、百年の国辱をいまなお拭いきれていない民族存亡に関わるこの時、我々は次のように呼びかけるのである。

 1)国民全体が、上の者も下の者も、みな一丸となって、中国が落伍して日本人の侮辱を受けるに至った根本的な原因を反省し、みな一丸となって、民族全体の創造的活力を最大限度に発揮させることのできる制度や環境といった問題を探求し、みな一丸となって、真に我が中華民族を奮い立たせることのできるような政治体制の改革や変革を推進する。

 2)全国人民代表大会が、かつて中国政府が採択した日本に対する賠償請求の放棄に関するいかなる条約や承認も、これを無条件で否決し破棄することを提案する。必要ならば国民投票というシステムを発動させて法律的根拠をもたせればよい。

 3)全国民は、東シナ海にある我が油ガス田に日本が指一本触れないよう政府が強い態度で日本と交渉することを支持する。必要ならば、中国が艦隊を派遣して海上の国境を防衛すればよい。

 4)中国政府は、第二次世界大戦で日本が中国侵略戦争をしたことに対する賠償についてただちに日本政府と交渉せよ。戦争の賠償こそが戦争の罪を認める前提であるということを日本政府に対してはっきりと指摘する必要がある。

また、魚釣島問題、教科書問題、靖国神社参拝問題、国連常任理事国入り問題についても、すべてその交渉の議題に盛り込むことを要求する。

5)政府と民間が対話できるようなシステムを作り上げ、官民共同討議を国是とし、全国民で共通の認識を持ち、段階的にまた秩序を保ちながら中国の政治体制の改革を推進できる方策を追求する>

              ・・・

中華民族主義によれば日中共同声明も平和友好条約も「売国的、屈辱的条約だ」ということになる。「真に我が中華民族を奮い立たせることのできるような政治体制の改革や変革を推進する」というのは、軍の幹部は「中共指導部は軟弱だ、大いに不満だ、民意を問え、軍事力を行使せよ」との主張だ。現場は戦争したくてウズウズしている。

2013年5月13日(月) 号から――

<メルマガ「週刊中国」76号、発行しました。四大軍区の各予備役師団が、それぞれ実戦演習に入っています。また、軍事委員会副主席の許其亮は、士官への講話の中で、

「戦争が明日起こってもいいように準備を備えておく必要がある」「ハイテク・情報を駆使する局地戦を戦い、大規模・短時間の惨烈な消耗戦を戦い、核兵器・生物化学兵器を使う代償の多い戦争を戦い、多くの国に波及する第三次世界大戦を闘うのである」

と語っています>

中共軍や中華民族主義者には冒頭の「国民党少尉の懺悔録」は届いていないのか。歴史を正視する、反省するという冷静な視点はないのか。ただただ対日戦を始めて、周辺国を巻き込んで第三次世界大戦を起こし、中華帝国の覇権を確立したいという野望しかうかがえない。日本は核武装すべし。(2014/4/9)

◆中国、金融危機の警戒感強まる

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

平成26(2014)年4月9日(水曜日): 通巻第4201号    

 〜中国人民元暴落気配に金融危機の警戒感強まる
     不良債権の爆発はベアスターンズの二の舞になる恐れ〜

人民元は暴落気配濃厚、いよいよ中国経済の本格的危機が迫った。米国が静かに警告を発していると英紙フィナンシャルタイムズ(4月9日)も伝えた。

同紙中国語版に拠れば(同4月9日付け)、「中国は全面的な金融危機に襲われる懸念が強まったという観測が投資家の間に広がっており、それは何時、いかなる形態で惹起されるのかが議論の的」だという。

もはや中国が金融危機を回避できるか、どうかは議論されていない。

危機の根源に横たわる問題はシャドーバンキングの債務問題と不動産の連鎖暴落が複雑に絡むが、通貨発行量、預金準備率、外貨準備、そして為替レートの問題が密着的に輻輳しあい、09年のリーマンショック以来の世界的規模の金融危機を惹起することが予想される。

企業収益が低下している状況に人民元の為替レートは、むしろ高く、これが企業収益をさらに圧迫しているため、企業の借金比率は15-25%増加していると「ランバート・ストリート・リサーチ」が算定している。

2010年から2013年末までに中国の通貨供給は倍加したが、その一方で、対ドルレートは10−15%ほど強くなった。人民元が高くなれば輸入産業はともかくとして輸出依存の経済だから経済全体が脅かされる。

そのうえ通貨が強くなれば、国内消費は進むはずなのに、物価上昇よりも不動産価格が暴騰し、投資というより投機色が強いため実質的に中国企業の銀行からの借り入れ額が膨張し、個人の借金もかさんだことは明らかである。

「BISの算定で国際債務証券は2730億ドル(28兆円弱)、中国が公表した数字の四倍以上に及び、まるで『リーマンショック前夜のベアスターンズ的状況だ』と関係者は懸念を広げている」(フィナンシャルタイムズ中国語版より要訳)。


 ▲ベアスターンズ的危機とは何か?

ここでいう「ベアスターンズ的危機状況」という意味は以下の通り。

2007年、かねて危機的経営状況に陥ったベアスターズは2つのファンドが債務不履行に陥り、08年3月、JPモルガン・チェースによって救済合併された。そして09年9月のリーマンショックへと至るまでに1年の歳月が綱渡りだったが、米国は金融危機の延命を図っただけで、かえって被害は大きくなった。

中国の状況は、このときに酷似していると最初に警告を発したのは2014年3月、BOA(バンク・オブ・アメリカ)とメリルリンチのエコノミストらで、3月5日にブルームバーグが報道している。

したがって前掲FT中国語版の分析は、これら米系金融機関エコノミスト予測の追認記事でしかないが、中国の投資家向けの同紙がいよいよの警告を発したことになる。
           

2014年04月09日

◆沖ノ鳥島桟橋工事の推進を!

馬場 伯明


沖ノ鳥島の桟橋工事で死去された5人と行方不明の2人の方は、その後、どうなっているのだろうか。

《日本最南端の沖ノ鳥島桟橋工事現場で、新日鉄住金などの社員5人が死亡、2人が行方不明となった事故で、国土交通省関東地方整備局は4日、事故原因の究明や再発防止を図る有識者の検討委員会を設置した。

委員会は京都大防災研究所の間瀬肇教授(海岸防災工学)を委員長に、造船工学や港湾設計の専門家ら5人で構成、6〜7月に中間取りまとめ。 太田昭宏国交相は4日の閣議後「施工状況や設計、気象を総合的に調べている。再び工事をするのでしっかり原因究明したい」と話した》(朝日新聞2014/4/4)

国土交通省関東地方整備局が構造・工法等を考案した桟橋であり、重量約1400t、上部の方に重心があったため転覆しやすい構造だったとも言われているが・・・。早急に原因究明を行ない一刻も早く工事を再開し完成させてほしい。

本工事はわが国の国土防衛戦略上きわめて重要な工事である。しかし、この工事が行なわれていることはほとんどの国民が知らなかった。広報の是非の議論は必要であるが、私は、国民の国土・国境・防衛意識の高揚のために積極的に堂々と広報してほしいと思う。

沖ノ鳥島は東京から約1700km、小笠原諸島の父島から約900kmの日本最南端の島で、東西約4.5km、南北約1.7km、周囲約11kmのサンゴ礁からなり立っている。

沖ノ鳥島の周囲には漁業資源や地下の鉱物資源などを独占できる排他的経済水域(EEZ:Exclusive Economic Zone)を設定され、その面積は国土面積(約38万k!))を上回る約40万k!)にも及ぶ。周辺海域には漁業資源のほかレアメタル(希少金属)資源などの存在も期待されている。

1990年、新日鉄・日本鋼管・川崎製鉄・・・らで、鉄製消波ブロックを製造し、沖ノ鳥島(南島・北島)の周囲に築いた。私は国会図書館で「沖ノ鳥島災害復旧工事誌」(平成6/3〈1994〉・企画:建設省関東地方建設局・編集:同編集委員会)を閲覧した。沖ノ鳥島の北小島と東小島の崩壊・水没を防止する難工事の記録誌(426頁)である。

新日鉄・川鉄・日本鋼管・住金・クボタ鉄工の5社が鉄製消波ブロックを9900個(3.5トン/個)製作し、直径50mの2個の構造物を鹿島建設等のゼネコンJVが施工した。露岩保全対策工事1987〜1989年。285億円(その後別途、観測所基盤復旧工事1998〜2003年。209億円)

住金(名古屋)の田中喜代治交通産機室長は「世界的にも・・歴史に残る鋳物部品」と述べている。かつて勤務した川鉄で机を並べた先輩が本工事の営業を担当した。だが、「本工事は単なる『商売』のためではなく『国益』のためだ」と胸を張っていたことを思い出す。

ところで、中国は尖閣諸島上空を含む東シナ海に防空識別圏を設定し、海域も、空域も支配下に置く野心を露わにした。さらに、中国の視線はすでに西太平洋の沖ノ鳥島に向き、近い将来、その周辺海域で資源採掘に乗り出すだろうとの声もある。(SANKEI EXPRESS)
中国は2004年頃から沖ノ鳥島を日本領土であるとは認めながらも「EEZが設定できない岩だ」と主張し始めた。
  
中国は2010年4月、沖ノ鳥島西方海域で10隻の中国海軍艦艇による軍事訓練を実施。また、2011年6月には東京電力福島第1原発事故による放射性物質の影響調査と称し海洋調査船を沖ノ鳥島周辺に派遣。同時期に中国海軍艦艇11隻が同海域で射撃や洋上給油などの訓練を行った。

中国は、日本列島・台湾・フィリピン・インドネシアなどを結ぶ第1列島線と、伊豆・小笠原諸島・グアム・マリアナ諸島などを結ぶ第2列島線を軍事防衛上ラインに設定している。

沖ノ鳥島は沖縄本島から約1100km、米領グアムから約1200km。まさに、第1列島線と第2列島線のほぼ中間に位置する。「沖ノ鳥島は西太平洋における戦略上の要衝」と(元)杏林大教授の平松茂雄氏は指摘する。

中国は本工事の失敗(事故)を冷たく笑っているかもしれない。国は「禍を転じて福と為す」べきである。国土防衛の重要性を国民に広報し、高い防衛意識を涵養することが重要である。

本工事を担当した新日鉄住金グループなどはもっと悔しい思いをしていることであろう。心中察するに余りある。だが、ここは歯を食いしばり犠牲者の思いを抱き、乗り越え、工事を完遂しなければならない。

以下《 》はWikipediaから。《2008年11月12日、日本は大陸棚限界委員会(Commission on the Limits of the Continental Shelf、略称:CLCS)に対して、沖ノ鳥島を基点とする海域を含む7つの海域を大陸棚の延長として申請を提出した。

その申請に対してアメリカ合衆国、中国、韓国及びパラオがそれぞれ、自国の見解を示す文書を提出している。

米国とパラオは日本に異議を唱えなかったが、中国と韓国は「沖ノ鳥島は、島に該当せず岩に当たる」という抗弁を2009年2月に提出した。2011年8月に開催された第28回大陸棚限界委員会において中国と韓国は改めて異議を提出し、委員会の議論は紛糾して日本に対する勧告案は採決されず、継続審議となった。

その後、沖ノ鳥島事案は審査の後、2012年4月27日に島北側の海域は認められたが、南側(九州パラオ海嶺南部海域)は結論が先送りにされた。南側に関しては大陸棚限界委員会の勧告(20項)によると「口上書に言及された事項が解決される時まで、CLCSとしては勧告を出すための行動をとる立場にない」とされた。

口上書とは中国と韓国による異議のことで、採択には委員の3分の2位以上の賛成が必要だが、結果は賛成5、反対8、棄権3で日本に必要な支持を得られなかった》(引用終わり)。

大陸棚限界委員会(CLCS)での論争において、わが国は米国やその他国々と連携し、一歩たりとも退くことなく対峙・対処しなければならない。

最後に、本稿の結論を再確認したい。(1)行方不明の2人の方の捜索を急ぐ。(2)事故原因を究明する。(3)工事を再着工し早急に桟橋を完成させる。(4)本工事・事故の経緯と合わせ、その重要な意義を国民に積極的に広報する。

痛恨の「殉職・戦死」とでも言うべき本工事事故の犠牲者を追悼し、その真摯で貴重な努力に報いるためでもある。(2014/4/7千葉市在住)


            

◆無恥の捏造屋「朝日新聞(下)

情報収録:平井 修一


■虐殺写真はデッチあげ

それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。

「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕えて処刑したものと判明する)

年が明けて昭和61(1986)年1月となると、様々なマスコミがデッチあげ写真の件で朝日攻撃を開始する。朝日は窮余の一策で、1月10日、中村支局長を更迭し、我々の攻撃目標から外してしまう。

以後、窓口は西部本社の宮本隆偉通信次長となるのだが、これは全くもって責任のがれの、卑怯きわまりない人事と言わざるを得ない。

1月22日、朝日の全国版に、「おわび」と題するベタ記事が掲載された。

《59年8月5日付の「南京大虐殺、現場の心情 元従軍兵士の日記」に記事に対し、日記の筆者が所属していた都城歩兵23連隊の連隊会から「連隊は無関係」との表明があったため、改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します。》

不可解なおわびではないか。読みようによっては、写真についてはミスだったが、日記は現存するのだ、と朝日が逆攻勢に出てきたと受け取れなくもない。朝日のそもそもの記事によれば、写真と日記は二身一体のものだったはずである。

例の記事には、「写真はアルバム3枚残っていた。・・・生前家族に『南京大虐殺の際の写真』とひそかに語っていたという。・・・生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという」と書かれているのである。

写真と日記には切り離せないものと考えるのが自然であり、それでもなお日記には信憑性があると強弁するのは、居直り強盗と同じたぐいではないか。

それでも、一方の柱であった写真はデッチあげとわかった。残るは日記の信憑性である。

すでに述べたように、中村支局長の弁によって、日記は河野美好氏のものではないとわかった以上、該当者は宇和田弥一氏以外な考えられない。どう調べても、他に該当者はいないのだ。

連隊会では数度にわたって未亡人に接触したが、反応は思わしくなかった。未亡人は「朝日新聞は取っていませんし、朝日新聞社の方と会ったこともない」と繰り返し、ついには「主人の持っていた日記も写真も、昭和57(1982)年7月の洪水の折に納屋が土砂に埋まり、読めなくなったので焼却してしまった」と言い出す始末。

終始一貫、朝日との接触を認めようとはしなかった。

昭和61(1986)年1月25日、朝日新聞宮崎支局2階会議室において、連隊会と朝日西部本社との間で会談がもたれた。出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。この会談は、どこまでいっても平行線だった。

「日記も嘘である。日記についての詫びがなされない限り、和解は出来ない」とする連隊会側に対して、朝日側は「写真についてのお詫びで終止符を打っていただきたい」と主張。

「日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じようとしない。

押し問答のすえ、「日記は見せられないが、ご指摘の箇所を読み上げることはできる」となり、連隊会側が指摘の部分を宮本次長が読み上げることになったのである。

これは大きな収穫であった。宮本次長が読み上げた日時のうち、7月27日と12月10日の分が、先述した「都城歩兵23連隊戦記」に引用した宇和田日記の中の日時とたまたま一致し、その内容もほぼ同一であることがわかったのだ。

朝日の所持している日記は宇和田弥一氏の日記に間違いはない。

そして、読み上げられた日記の内容を細かく検討することによって、日記の信憑性に多大の疑問があることも分かってきた。例えば昭和12年7月27日の日記に、

《午后3時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された》

とあるが、一兵士の身で師団から電報がきたことがどうしてわかるのか。午後3時とあるが、その時刻には将校は全員在営中で(午後5時まで勤務)、連隊長が将校全員に直接命令を下すはずだ。

週番司令は連隊長の帰営後に警備のために勤務するもので、動員令のような重大な命令を伝達する権限はない。

また、11月3日から5日にかけての杭州湾上陸の状況も問題である。11月4日の日記にはこう書いてあるという。

《(不明)の命により、軍は上海南方80里の(不明)地区に先ず第5師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し・・・》

こういう事実を一兵卒がどうやって知り得たのだろうか。私の連隊は第6師団に属していたかなど、中隊長の私でさえ知る由もなかった。

先述したように、私は昭和49年に歩兵23連隊の戦記編纂の責任者となり、その時初めて旧日本軍の公刊戦史を見て、第5師団が来ていたことを知ったのである。それを一上等兵が、しかも当日の日記に書くことなどあり得ない話ではないか。

さらに、日記の中に「F」という言葉があるが、これは「敵」を意味し、将校たちが図上演習の際に用いる略語である。あとからテープを聞いてみると、読み上げた朝日の宮本次長も「これは何だろう」とひっかかりながら読んでいるし、聞いている連隊会もピンときていない。

そんな用語が、なぜ上等兵の当時の日記に書いてあるのか。次に、翌11月5日の記述に、

《金山衛城を占領との情報到る》

とあるが、「金山衛城」なる地名が出てくるのはおかしい。この地名を知るには地図が必要だが、地図は中隊に1枚しかなく、わが中隊では私だけが所持していた。

こうした不可解な記述は枚挙にいとまがない。

特に問題の12月15日以降、虐殺の記述に至っては疑問だらけである。15日、2千名の中国人が逃げ場を失って現れたというが、その時の部隊配置と湖沼の多い特殊な地形を考え合わせると、水西門西方2.5キロの警備を突破しない限り、水西門付近に敵兵が現れることなどあり得ない。

さらに決定的なことを言えば、宇和田氏の所属していた第1中隊は大隊主力とともに、12月22日には南京城内に移駐している。それなのに、当初の朝日記事によれば、21日以降、“虐殺”の日々が続き、28日には「人格の陶治とか何とか戦場こそこれがこの良き舞台だと喜んだ我だったが、いまの状況では全く何事かと思われる」などと書いているという。

移駐してしまった部隊の兵士が、そこになお留まっているかのように記述しているのは全くおかしい。

日記の筆者は誰なのだろう。一兵卒でも日記を書く者が皆無であったとは言えない。しかし、兵馬倥偬(へいまこうそう、戦乱であわただしいさま)の戦場の中にあって、一兵卒が1日も欠かさず日記をつけることなど、とうてい考えられない。

宇和田氏と同じ中隊にいて南京作戦に参加した生存者も、彼が日記を持っていたり、つけたりしている姿を見たことも聞いたこともないと証言している。

私は朝日の持っている宇和田日記は、当時その一部を空白のまま、メモとして書き残し、戦後、大幅に加筆されたものではないかと考える。

しかもその内容から見て、かなりの軍事知識と情報を持つ者の指導を受けたのではないだろうか。

最悪のケースを想定すれば、戦後、宇和田氏が昭和12年版の当用日記を持っているのを知った何者かが、これを借りるなり、譲り受けるなりして、空白の部分に勝手に書き込んだことだってあり得ないではない。

とりわけ南京陥落以降の記述については、そういう疑問を私は抱いている。

我々はすでに、宇和田氏本人の筆跡を手に入れていた。復員後、ある知人に宛てた達筆の手紙を入手していたのである。これと問題の日記の筆跡を照らし合わせれば、すべてが明らかになるだろう。

仮に2つの筆跡が一致すれば、宇和田氏本人の日記となるが、その場合、記述の内容から見て、何者かが戦後に指導して書かせた公算が大きくなる。筆跡が一部でも違っていたら、特に南京以降の筆跡に違いがあれば、事は重大である。写真のデッチあげどころの騒ぎではない。

何としても、日記を出さざるを得ない状況に朝日を追い込む必要がある。

■朝日は筆跡鑑定を恐れた?

昭和61年2月5日から10日にかけて、朝日側からしきりに和解嘆願の電話が入ったが、連隊会はこれを拒否、12日に西部本社へ和解拒否の文書を送りつけた。

5月6日、闘いの舞台は宮崎から東京に移される。朝日の東京本社を相手取って訴訟を起こすため、東京の弁護士に依頼することも含めて、事件は東京在住の私に引き継がれたのである。

6月12日には、弁護士を通じて朝日に最後通牒を出した。連隊に対する謝罪文を出せ、要求が受け入れられない場合は本裁判にかける、という通告書である。

朝日側は、専務が海外出張中といった理由で引き延ばし戦術に出てきた。「6月いっぱいまで回答は待って欲しい」が「7月の10日頃まで」となり、7月9日にようやく双方の弁護士が顔を合わせることになる。

この席で朝日側は、裁判にかけるならいつでも受けて立つ、と開き直ったのである。

私の顔は日記のことでいっぱいだった。万が一にも日記が焼却されたりしたら、とりかえしがつかなくなる。本裁判よりも日記の保全が第1だと考えた私は、弁護士を通じて8月22日、小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立てを行った。

舞台が小倉になったのは、西部本社が日記を所持していると言明していたからだ。判決が下されたのは、それから4ヶ月たった12月17日のことである。

裁所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日は翌18日に西部本社で日記を
見せろとの判決を下した。

ただし、全文を見せる必要はない、一番問題なのは昭和12年の12月15日から28日までの記述だから、その間の日記だけをすべて写真に撮らせるよう言い渡しただけである。

翌18日の朝は、今日こそ日記が見られる、しかも写真に撮れる、すべてが明るみに出る、という緊張でピリピリしていたが、そこへ弁護士から通報が入った。

昨日の判決にあわてた朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、その日のうちに福岡地裁小倉支部に抗告したという。日記はどうあっても見せるわけにはいかないという朝日の執念が、素早い対応となって現われたのだ。朝日は結局のところ、筆跡の鑑定を極度に恐れたとしか思えない。

私と弁護士はとりあえず西部本社に出向いたのだが、もちろん日記の撮影は中止となった。問題は地裁の判決がいつになるかだが、おそらく昭和62(1987)年の2月以降になるだろう。そして地裁で同様の判決が出たとしても、朝日はたぶん高裁に控訴する。

時間稼ぎは朝日の最も望むところではないか。

それでなくともわが連隊会の実情は、最高責任者たる坂元昵氏が88歳、最後の連隊長だった福田環氏が89歳、比較的若い私でも73歳という高齢である。これから先、何年続くかわからない裁判に、どれだけの会員が頑張り通せるか。

実際、坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。酔って寝ても、夜半に目がさめ、やがて睡眠薬を飲むようになっていた。

高齢に加えて、金銭上の問題もあった。老後のための僅かな貯えをこれ以上会員たちに放出させるに忍びない。朝日は恐らく、露骨な引き延ばし戦術に出てくるだろう。本裁判となれば10年はかかるだろう。それまで我々の余命があるかどうか。

あれやこれやを考え合わせると、今後の裁判闘争を闘い抜く見通しがたたない。私は一件の終息を考えざるを得なくなった。私は、その日のうちに朝日西部本社の幹部と話し合い、こう提案した。

「これは今のところ私だけの判断だが、うちの連隊は南京事件に無関係であるという記事を全国版に載せてもらえないか。そうすれば、保全申し立てを取り下げてもいい」

朝日側は、まるでこの提案を待っていたかのように、「それだったら応じてもよい。検討します」との返事であった。

年が明け、今年(昭和62)の1月7日に私は鹿児島に飛んで、坂元氏の了承を得る。翌8日には連隊会に報告し、ここでも了承を得た。

■もう一つの「戦史」

昭和62(1987)1月21日、いよいよ福岡地裁に保全申し立ての取下書を提出することになった。手続きは当然こちらの弁護士が行うものだが、後から知ったことだが、おかしなことに朝日側の弁護士がわざわざ書類を取りに来て、自ら小倉まで運んでいき、22日に手続きをすませてしまったのである。

一刻も早くこの問題を片づけたいという朝日の意見が、ありありとうかがえる一幕であった。

そして翌23日の朝刊全国版には、「証拠保全を取り下げ、「南京大虐殺と無関係」、都城23連隊が表明」と見出しをつけた記事が早くも掲載された。

《いわゆる「南京大虐殺」報道に関して、都城23連隊会(宮崎市)は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の保全の申し立てを小倉地裁に行っていたが、22日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり「連隊は南京虐殺とは無関係」と表明した。この問題は、朝日新聞が59年8月、日記の内容を報道したのに対し、連隊会側が「連隊として虐殺に関係したような印象を与えた」と反発していた》

2年5ヶ月におよぶ闘いは終わった。決して上々の結果ではない。むしろ甚だ不本意な終戦である。

しかし、だからといって、これで朝日がすべての責任から逃れたわけではない。連隊会が味わった苦痛もさることながら、この事件で一番苦しんだのは河野美好未亡人の吉江さんではなかったか。

「49年に死亡」という誤報のせいで、吉江さんは村人から白眼視され、老いた身で働く職場でも肩身の狭い思いをしていると聞く。言論の自由の美名の陰で、こうした精神的苦痛をなめるひとがいることを忘れてはなるまい。

問題の日記は永久に陽の目を見ることはないだろう。しかし、朝日新聞が連隊会の投げかけた疑問に何一つ答えられなかったという事実も、また永久に残る。

連隊会はこの4月、宮崎で慰霊祭を開き、護国神社で英霊に対し事件の解決を報告し、あわせてその経緯を克明に記した前記「連隊会だより」を刊行する。それはわれら都城歩兵23連隊の、もう1つの「戦史」となるであろう。
             ・・・

ある方の投稿から。

<南京大虐殺は朝日新聞記者「本多勝一」が中心になってキャンペーンを行ないました。が、度々証言・写真の捏造が発覚し、批判を浴びています。

特に、昭和59年8月4日付夕刊に掲載された南京虐殺の記事・写真(記事を書いたのは中村大別・当時宮崎支局長)。朝日新聞東京本社の広報担当役員である青山昌史が、昭和61年1月17日に「捏造を認め」ました。

中村大別は、一週間前に責任逃れの為現場を離れ西部本社企画部次長に栄転。

今でも、朝日グループは、懲りずにキャンペーンを継続しています。反日は、朝日の金儲けの手段なんです。

朝日新聞教の信者も多くいますから、記事を鵜呑みにします。記事を鵜呑みにすれば、だんだん思想が反日に変わります。読者数が増える=新聞発行部数が増える=CM単価が上がる=儲かる!>

小生の感想:いやはや朝日はほとんど狂気の捏造屋だ。超弩級の詐話師が作り、バカが読む。亡国新聞だ。殲滅あるのみ!(2013/7/21記、悩んだ末に2014/4/8投稿)

2014年04月07日

◆無恥の捏造屋「朝日新聞」(上)

情報収録:平井 修一


吉川正司・元都城歩兵第23連隊中隊長が「朝日新聞との闘い・われらの場合 都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ」を書いている(「文藝春秋」昭和62・1987年5月号)。

27年前の記事で、朝日は忘れたいだろうが、ネットのおかげで我々はしっかり朝日の汚い手口を知ることができるのは幸いだ。怒りを新たにして朝日殲滅、日本再興へ励もう。以下、転載する。(長いが同志諸君、日本の名誉、皇軍の名誉がかかっている。どうぞ踏ん張って読んでくれ!)
            ・・・

昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。

「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。

思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。

その記事によれば、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵が所持していた、「虐殺に直接携わり、苦しむ真情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているなどの写真3枚が見つかった」というのである。

惨殺写真もさることながら、日記の内容は衝撃的だった。

昭和12(1937)年12月12日の南京入城から3日後の15日に、こういう記述がある、と記事は言うのだ。(カッコ内は朝日の註)

「今日逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称)約2千人ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に出会う。・・・処置なきままに、それぞれ色々な方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行しだした様子」

21日には、こう書かれてあるという。

「今日もまたニーヤ(中国人のこか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」

かねてから南京大虐殺に固執していた朝日にとっては、きわめて重大な発見とみえて、記事のリードには「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」とある。

ところが、この“歴史資料”は生き残り将兵で結成している「都城23連隊会」の人々のその後の調査によって、見るも無残に突き崩されることになる。

南京陥落の時、私は中尉であった。都城歩兵第23連隊の中に連隊砲中隊というのがあり、その中隊長代理として南京作戦に加わったのである。

突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。

連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。

従って朝日の記事内容はまさに寝耳に水であった。

身に覚えのない報道に対して、最初に行動を起こしたのは、地元に住む「都城23連隊会」の面々だった(私は東京在住)。

これ以降の記述は、主として宮崎の連隊会事務所がまとめた「連隊会だより12号」にのっとってすすめていくことをお断りしておく

■「新聞は嘘つかん」

報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。

氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。

途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。

問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。

続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ」

北郷村には3つの寺があり、2度空振りのあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。名前は河野美好――。

ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」との返事である。

この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。

昭和59年9月22日。連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。

連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
支局長「いや、当宮崎支局の取材です」

連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
支局長「万全を期している」

連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」

連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連隊会「その兵士の名前は」

支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」

連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわからんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長「・・・」

連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」

連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」

支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」

連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。

支局長のポストに就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」

ここで無言のまま席を立った中村支局長は、やがて1枚の写真を持って現れ、連隊会の代表たちに「これを見てください。」と突きつける。それは、建物の前の路面に生首が12、3個ころがっている写真であった。

連隊会「これはなんです、これが虐殺現場を撮影したと思われる写真なのですか!」

支局長「その通りです。中国人の生首です」

連隊会「これを見て、支局長は即座に虐殺現場の写真だと思われたのですか」
支局長「その通りです」

連隊会「おかしいですね。生首が転がっているだけでは、兵隊なのか一般人なのかもわからない。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。支局長はこれをひと目見ただけで、よくも日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたね。その根拠は!?」

支局長「この写真を持っていた本人が、生前この写真を見ながら後悔していたという事を聞いていましたから、てっきり虐殺の現場写真だと」

連隊会「しかし、その本人は10年前に死んでいるんでしょう。それでは直接本人から聞かれたわけではなく、その家族の方からの話ではありませんか。信用できますか!」

このあともしばらくやりとりは続き、連隊会側は最後にこう要求した。

「先日、孫がやってきて『爺ちゃんたちは悪い人間じゃねー』と言いますので、『何を言うか!爺ちゃんたちは、日本を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。悪いことなどしてはおらん」と言うと、『新聞は嘘つかん』と逆襲されました。

私ども生きている者は我慢の仕様もありますが、若き命を散らせて消えた英霊は浮かばれません。どうか、全国版で都城歩兵23連隊は南京大虐殺には参加せず、無関係である旨の記事を出していただきたい」

中村支局長の回答は「その事はしばらく待って下さい。私一存ではどうも」というもので、物別れのまま朝日との第1回会談は終了した。

■有力な日記執筆候補者

昭和59年10月のある日、連隊会事務局に、問題の日記の筆者についての重大な情報が入る。情報は第1中隊の代表者である山路正義氏からのもので、
「歩兵23連隊の戦記編纂の折に、『この日記は役に立つのではありませんか』と、北郷村の三浦松治氏が私に当用日記を届けてくれたことがありました。その日記は、北郷村出身で私と同じ中隊にいた、故宇和田弥一君のものでした。

日記の中から何か戦記に掲載しうるものはないかと詳細に目を通し、結局、2ヵ所を戦記に載せた次第です。しかし、朝日が指摘している虐殺などのことは書いてありませんでしたから、この日記ではないかもしれませんが、一応ご参考までに」

という連絡であった。

調べてみると、宇和田弥一君は昭和48年に腎臓病で世を去っている。朝日の言う49年に死亡とは1年のズレがあるものの、戦争当時は上等兵で、農業学校を出ていて教養もあるし、筆も立つ、河野美好氏と共に、有力な日記執筆の候補者として浮かび上がってきたのである。

実は、山路氏の情報の中にある「歩兵23連隊の戦記編纂」の最高責任者は私であった。私は、市ヶ谷にある自衛隊の幹部学校で戦史教官をやっており、戦記を編纂するなら一番適任であろうとなって、昭和49(1974)年に発案し、53(1968)年にようやく完成させたのである。

その際、各中隊ごとに編纂委員を決め、資料を集めてもらった。その中に宇和田氏の日記も入っていたのである。ところが、私は全体の監修者という立場にあったため、当時、宇和田日記の現物は見ていない。

実際の事務所は宮崎でやり、戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送されていることが後にわかった。連隊会は情報入手後、ただちに仲介役の三浦松治氏に聞いてみたところ、

「年月ははっきりしませんが、ある日のこと、故宇和田さんの霊前に詣でたところ、奥さんが『こんなものがありましたが、何かお役に立ちますか』と申されて、一冊の日記帳を差し出されました」との返事だった。

“山路情報”は確実に裏付けられたが、奇妙なのは、「最初の北郷村調査の折に何故そのことを告げなかったのか」と問われた三浦氏が「別の日記かと思って黙っていた」と答えたことである。

さらに奇妙なのは、宇和田未亡人の対応だった。連隊会から未亡人に電話をし、「ご主人は日記帳を持っておられたそうですね」と尋ねると、間髪を入れずに、「はい、写真3枚と日記帳がございました」との答えが返ってきた。

日記の有無だけを尋ねたのに、なぜ聞きもしない写真の件を持ち出されたのか。いずれ電話のあることを予期していたかのような反応は、まことに不可解であった。

■「家族のために助けてください」

双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。この席で、中村支局長は意外にも、

「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。

連隊会側は色めきたった。支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。

てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。

連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。

「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」

5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の“現物”を見せてもらっている。しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。

朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。

ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。

連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」

と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、

「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
 
ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。

4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。

抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。

今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。

前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。

支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、『お詫び』だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」

中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」

支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」

中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」

2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。

昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。

《日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍による「南京大虐殺」事件について、宮崎市に事務局をおく都城23連隊会の安楽秀雄会長、中山有良事務局長ら代表がこのほど朝日新聞宮崎支局を訪れ、同連隊会は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。中山事務局長によると、都城23連隊は12年12月13日、南京城西南角から城内に入った。同事件について論議されることから、同連絡会員、関係者に対して調査を行ったが、事件に関係した証言などは得られなかったとしている。》

いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。

ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。

全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。

昭和60(1985)年12月20日、“お詫び”記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。

中山氏はさっそく、「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。ところが支局長は言った。

「全国版?全国版には載せてありません」
「載せていない?それじゃ約束が違います」
「約束した覚えはありません」
「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないで
すか」
「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」

そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。

中山事務局長は、「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。

「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」

朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。(つづく)

◆成否問われるオバマ外交

小雲 規生


国際社会に平和と協調を訴え続けてきたバラク・オバマ米大統領(52)の外交手法の成否が問われている。

オバマ氏はロシアがウクライナ南部クリミア自治共和国の併合を強行するなか、十分な力を発揮できず、軍事力行使を「封印」するオバマ外交の消極性が国際情勢の混乱を招いているとの批判が勢いを増している。

ただし現在の米国は軍事力を背景にした積極外交に転じる余力がないのも事実。オバマ氏は国際社会が一致してロシアに経済的な圧力をかけることに勝機を見いだし、オバマ外交の正しさを証明しようとしている。

 ■ 平和・協調と真逆の動き

「世界はいつだって混沌(こんとん)としている」。オバマ氏は3月25日、核安全保障サミットが開かれたオランダのハーグでの記者会見で、思うにまかせない国際情勢への心情を吐露した。疲れのみえる表情は諦観も感じさせた。

親露政権の崩壊でウクライナの混乱が加速するなか、オバマ氏は「軍事介入には代償が伴う」「ロシアの行動は国際法違反」と繰り返し、ウクライナの領土の一体性を守ろうとしてきた。

しかしクリミアには「自警団」を名乗る部隊が展開され、住民投票では圧倒的多数がロシアへの編入を支持。ロシアはやすやすとクリミア併合を実現した。

オバマ氏の言葉に耳を貸さないのはロシアだけではない。中国の習近平国家主席(60)は3月24日のオバマ氏との会談で、ロシアへの経済制裁への協力に応じず、北朝鮮は中距離弾道ミサイル発射などの挑発を連発し、シリア内戦ではすでに14万人以上が犠牲となっている。

さらに北大西洋条約機構(NATO)加盟国のトルコでも3月に入り、エルドアン政権が「ツイッター」や「ユーチューブ」の接続を遮断して言論を弾圧。

エジプトでは暫定政権のもとでムハンマド・モルシ前大統領(62)の支持者529人に死刑判決が下った。オバマ氏が地域安定の要と位置付ける国々でも、平和と協調とは真逆の動きが進んでいるかたちだ。

 ■ 軍事介入の余力なし

こうした混乱の背景には、オバマ氏の軍事介入への明確な消極姿勢があるとの指摘がある。オバマ氏は3月25日も「米国自身の自衛が関わらない場合は、軍事的な行動はとらない」と発言。共和党の重鎮ジョン・マケイン上院議員(77)らは消極外交が「米国を弱くみせた」ことが国際情勢を混乱させたと批判する。

また有力政治評論家のチャールズ・クラウトハマー氏は、ベトナム戦争後の厭戦(えんせん)気分のなかで消極外交をとったカーター政権が1979年の旧ソ連のアフガン侵攻後、軍事費拡大などの積極外交に転じたことを評価。ロシアのウクライナへの介入で「オバマ氏は目を覚ますのか」と問いかけ、NATOとしての軍事的な対応でロシアの動きを抑止するよう訴える。

しかしオバマ氏の消極外交は米国の現実に基づいた対応という側面もある。ブッシュ前政権が2003年に開戦に踏み切ったイラク戦争では、開戦理由だったフセイン政権の大量破壊兵器保有が確認されず、「大義なき戦争だった」との見解が浸透し、米国民に厭戦気分を広げた。

また巨額の戦費は金融危機対応とあいまって財政を圧迫し、現在の米国には軍事介入や治安維持活動の余力はない。

 ■引き出せるか露の妥協

このためオバマ氏は「米国が継続的にできることは国際社会を結集させることだ」として、経済制裁強化に事態打開の期待をつなぐ。ハーグで開かれた先進7カ国(G7)首脳会合では、ロシアが事態を悪化させれば、一致してロシアの基幹産業を標的にした強力な経済制裁を行うことで合意。ロシアからの対抗措置で先進国経済が打撃を受けることを承知のうえで、ロシアに代償を支払わせる意志を示した。

オバマ氏はこうした制裁をてこにして、プーチン氏に「クリミアをウクライナの一部としたうえで、自治権を拡大させる」といった案をのませることを想定しているもようだ。

プーチン氏は妥協のそぶりをみせていないが、冷戦時代とは異なり、ロシアと世界経済のつながりが深まるなか、今後の展望があるわけでもない。

ロシアはクリミアを得たものの、ウクライナの親露政権を失い、先進国との経済関係も失いかねないのが現状で、制裁によるロシア経済の落ち込みはプーチン氏の政権基盤を危うくする。

オバマ氏がプーチン氏から妥協を引き出せれば、大きな成果を上げることになる。しかし対立を深める結果に終われば、消極外交がクリミア併合を抑止できなかった結果だとの批判は免れず、オバマ外交は正念場を迎えている。(ワシントン支局)産経新聞 4月6日(日)9時39分配信

◆金正恩政権の「対話攻勢」を検討する

元韓国駐在日本大使   寺田輝介


金正恩の義理の叔父として政権中枢に地盤を築いてきた張成沢国防委員会副委員長が昨年12月13日に処刑されたことは、金正恩政権の恐怖政治の一端を示したことになり、国際社会に大きな衝撃を与えた。

また2月17日に公表された国連北朝鮮人権調査委員会最終報告書は、北朝鮮の広範囲に及ぶ人権侵害を白日の下に晒し、国際社会の関心そして懸念を呼び起こした。

北朝鮮にとり極めて厳しい国際環境の中で、金正恩政権は本年初め「対決姿勢」から「対話姿勢」に舵を切り、現在「対日対話」に注力しているが、その前途は不透明である。

本稿では主として金正恩政権の「対話攻勢」を中心に同政権の対外関係の現状を検討する。

1. 金正恩政権の「対話攻勢」の始動
(1)。金正恩政権の「対話攻勢」の狙いと背景
(@)本年初めより金正恩政権は先ず韓国、次に日本に対し「対話攻勢」を仕掛けてきた。北朝鮮の「対話攻勢」の背景には、米朝関係がほぼ凍結状態にあること、加えて張成沢の処刑の結果、中朝関係が停滞しているとの要因がある。

オバマ政権は、2012年2月の米朝合意が北朝鮮のミサイル実験強行により反故にされて以来、北朝鮮が非核化の具体的措置を示さぬ限り、対話に応じぬとの立場を堅持しており、差し当たりこの立場が修正される可能性はない。

中国は、北朝鮮が第三次核実験を強行した結果、金融制裁を実施している上、中朝経済関係のパイプ役を務めていた張成沢を失ったことから、当面北朝鮮関係を動かし難い状況にある。

この為、北朝鮮は中・米関係をめぐる戦略環境の改善を目指すと共に、経済の再建を図る為にも、日韓をターゲットとし、「対話攻勢」に出て来たと言えよう。特に来年、朝鮮労働党創建70周年を迎えることからも、国民に経済的果実を与える必要があり、「対話」の成果として日韓よりの経済的見返りを狙っていると見られる。

(A)日・韓に対する「対話攻勢」の主導者はいずれも当初は北朝鮮赤十字会であり、人道問題を「対話」の梃子に使った。韓国に対しては、離散家族の再会事業の復活を使い、日本に対しては、日本人の遺骨返還と墓参の実現を「対話」再開の誘い水に使ったのが特徴である。

(2)。南北対話の再開と挫折
(@)金正恩第一書記が1月元旦に発表した「新年の辞」で、南北関係改善に言及したのを受け、1月16日には国防委員会は「重大提案」を発表、その中で南北和解を訴えつつ、敵対行為中止などの提案が実現されれば、韓国側が求める離散家族再会など「南北間の全ての問題が解決される」とする「対話戦略」を打ち出した。

1月29日には、在北京の池在竜・北朝鮮大使が外国メディアを招いて記者会見を催し、南北関係の改善を訴えるなど一段と韓国への対話攻勢を強めた。

この様な流れの中で北朝鮮赤十字会が、1月6日の朴槿恵大統領の年頭会見における提案に応える形で、南北離散家族の再会事業の呼びかけを行い、紆余曲折を経て、2月20日から25日まで3年4ヵ月ぶりに北朝鮮の金剛山で再開事業を実現した。

(A)金正恩政権は、昨年3回目の核実験を強行(2月12日)、これに対する国際社会の非難が高まると、朝鮮戦争停戦協定を「白紙化し」、「ソウル、ワシントンを火の海に」と恫喝、さらには開城工業団地を閉鎖するなど、韓国と周辺に対する恫喝、挑発を続けた。

然るに本年は2月下旬から始まった米韓合同軍事演習をめぐり、短距離ミサイル、ロケツトを立て続けに発射するなど揺さぶりをかけたものの、昨年の如き過激な挑発的行動を取ることはなかったことから、南北対話路線が一応定着したかと見られたところ、3月26日北朝鮮軍は中距離弾道ミサイル「ノドン」を発射した。

27日国連安保理が「ノドン」発射を非難する「報道機関向け談話」を出すと、北朝鮮外務省は30日、この談話について、「核抑止力を更に強化するための新たな形態の核実験も排除できないであろう」と非難声明を発表した他、翌31日には北朝鮮軍が黄海上の軍事境界線にあたる北方限界線の近くで海上砲撃訓練を集中的に実施し、これに対し韓国軍が対抗射撃で応じた結果、南北対話は中断された。

(B)北朝鮮が年初南北対話を求めた背景には、北朝鮮経済の苦境を物語る経済的動機があったことは言を俟たない。

離散家族の再会が金剛山で行われたことも、現金収入をもたらす金剛山観光プロジェクトの復活を強く期待する北朝鮮の思惑が秘められていたと言えるが、朴槿恵政権が金剛山観光の再開や経済協力に応じる姿勢を示さなかったこと、更には3月26日の日米韓首脳会談で韓国が日米と対北朝鮮非核化問題等で共同歩調をとったことに対し、累次の軍事的示威行動によって反撥し、南北対話を中断させたと言える。

(3)対日対話攻勢
北朝鮮は目下「対話攻勢」の対象を日本に絞り込んで来た様相を呈している。

この攻勢には中・韓に当面反撥する北朝鮮の戦略的思惑が含まれている。(@)北朝鮮は、過般訪朝した猪木参院議員に日本の国会議員らの訪朝を呼びかけていたが、本年1月及び2月にハノイ、香港でそれぞれ行われた日朝秘密協議は、金正恩政権が既存の飯島内閣参与―朝鮮総連のチャンネルを使うことなく、直接対日対話に乗り出す決意を固めたことを示している。

3月2日付「産経」は、外務省アジア大洋州局長が1月、ハノイで北朝鮮の国家安全保衛部当局者と極秘に会談したと報じているが、この会談は嘗て第一次小泉訪朝を実現させた田中―ミスターXとの秘密交渉の進め方を彷彿させるところがある。

北朝鮮は、安倍首相が「拉致問題は、私の内閣で解決に向け全力を尽くす」と繰り返し言明していることを捉え、安倍政権の安定度を見た上で日本政府と直接交渉する機が熟したと判断したのであろう。

明らかに2回に及んだ秘密会談の結果、日朝赤十字実務会談を北朝鮮で死亡した日本人の遺骨返還や墓参を議題として開き、併せて日朝外務省課長級非公式協議を行うこと、更には横田夫妻が孫娘とモンゴルで会うことが合意されたと見られる。

(A)以上の経緯から見れば、朝鮮赤十字会からの協議要請を受け、3月3日日朝赤十字会談そして外務省課長級政府間協議が開かれたのは自然の流れであった。

更に第二回日朝赤十字会談が3月19、20日、非公式政府協議と併せて開かれ、同政府協議で日朝局長級協議開催が合意されたことは、北朝鮮が如何に日朝対話の進展に関心を有しているかを示すものである。

(B)3月17日行われた記者会見で横田めぐみさんの両親が3月10日から14日にかけて第三国のモンゴルで孫娘と面会したことが明らかにされ、本邦各紙のトップニュースとして大きく報じられたが、今次面会の実現は、従来固執していた北朝鮮における面会から譲歩した、北朝鮮側の政治的「善意」を示すものとして対日世論の懐柔を狙って巧みに演出されたと見做し得よう。

もっとも日本側としても拉致問題の解決を安倍政権の重要政治課題としている以上、この面会には異議がなかったのであろう。しかし面会が実現されたことにより、日本国民の拉致問題解決を求める声が一段と強くなり、日朝局長級協議に対する期待感が高まったことは否めない。

(C)今後北朝鮮は日朝赤十字間のチャンネルと日朝局長級協議開催の双方を巧みに利用していくであろう。

前者については、遺骨返還事業がまとまれば、米国の先例に照らし(225人の遺体を発掘し、2800万ドルを支払ったー2013年11月号「東亜」参照)、多額の財政的負担を要することになる。まさに外貨収入を渇望する北朝鮮にとってうってつけのプロジェクトである。

政府間協議については、北朝鮮が「拉致問題は解決済み」としてきた従来の姿勢を改め、解決に向けた再調査を約束するか否かが差し当たり北朝鮮の対日対話攻勢の真剣度を測るリトマス試験紙となろう。

(4)凍結した米朝関係
2月19日付「朝日」によれば、2月10〜14日に訪朝した米国のグレッグ元駐韓大使に対し、6者協議の首席代表を務める李容浩外務次官が「金正恩第一書記は長期政権になる。

米国のオバマ大統領が対話に応じなければ、我々は次期大統領まで待つ」旨発言したとされているが、同次官の発言は必ずしも金正恩政権の立場を代弁しているとは思われず、因みに3月26日未明に発射された中距離弾道ミサイル「ノドン」のタイミングが意図的に日米韓首脳会談中であったことから、「脅威を見せつけて揺さぶり、米朝協議などへの対応を迫る狙いがある」と見られる(3月27日付「朝日」)他、3月30日の北朝鮮外務省声明が「新形態の核実験」実施の可能性についての言及したことも引き続き北朝鮮が対米交渉再開を断念していないことを示すものと考えられる。

しかしながらオバマ政権は、中東,ウクライナ情勢の対応で手が一杯であり、到底北朝鮮に対応できる状況にはないと見られる。

(5)中朝関係
張成沢粛清の結果、中朝経済関係は滞ったままであり、差し当たり改善の見通しはない。

外交面では武大偉朝鮮半島問題特別代表が3月17日訪朝したが、特に成果はなかったと見られる(3月25日付電子版「東亜日報」)。

他方朴槿恵政権成立以来、中韓関係が特に緊密化しており、朴大統領と習主席が1年余りの間に4回も首脳会談を行ったことは、中国を唯一の後ろ楯としている北朝鮮にとつては対韓国戦略的敗北を意味するものであった。

この様に不利な戦略的環境にあれば、金正恩政権が中国を牽制する観点から軍事行動を含め対韓対決姿勢を意図的に強めることは過去の事例から見てあり得ることである。

従って、中国としては、朝鮮半島の不安定化を避ける為にも、対北朝鮮アプローチを再検討せざるを得ず、この為等距離外交の原点に戻り、習国家主席の韓国訪問に合わせて、未だに訪中の機会がない金正恩を中国に公式招待する等の地政学的バランスの回復を目指すであろう。

2.「対話路線」のゆくえ
本年始動した金正恩政権の「対話路線」は、南北対話が挫折した現在、日本が唯一の対話対象国になり、「日朝関係は、米朝関係、南北関係が低迷している時に動きだすことが多い」(安保研リポート  2013・12.27)との北朝鮮の伝統的対外行動パターンが再現されているが、この対外行動の行方には多くの問題点が内包されている。以下特に注目すべき諸点を取り上げる。

(@)最近金正恩政権の朴大統領に対する反撥は日々に強まっている。

訪独中の朴槿恵大統領が3月28日行ったドレスデン演説の数日後、北朝鮮軍が黄海上の北方限界線で海上射撃訓練を実施したことは、金正恩政権の同演説に対する反撥を示していると言えるが、特に同演説の中で、朴大統領が交流・協力を通じて「統一」を築くとした点を、韓国が北朝鮮の「体制変革」を意図していると受け止め激しく反撥したと見られる。

(A)南北対話が中断する一方で、対日対話攻勢は加速されている。焦点は日朝局長級協議の場で、一度反故にされた2008年6月合意(拉致問題の再調査)が如何なる見返り条件の下に復活されるか否かであるが、拉致問題の再調査実施で日朝合意が成立したとしても、今後の日朝対話は核・ミサイル問題を抜きに進める訳には行かず、日本側の対応は難しくなろう。

また北朝鮮の過去の行動パターンから見ると、北朝鮮が満足すべき利益を得られないと判断した場合、直ちに対日対話を打ち切るであろう。

(B)現時点で特に注意を払うべき点は、金正恩政権がどの程度真剣に対米対話の再開を考えているかである。

北朝鮮外務省が3月30日、「核抑止力を強化するため、新たな形態の核実験も排除しない」との声明を発表したことは、北朝鮮が真剣に対米対話を求めたにも拘わらず、米国がこれに応じない場合の最悪のケースを示唆したと考えられる。

現在北朝鮮が核実験の準備を行っている兆候はないが、米国の北朝鮮専門ウェブサイト「38  ノース」は、北朝鮮は4週間から6週間ほどあれば核実験の準備を完了させることができると見積もっており、注意を要するところである。

(C)今後注目すべき点は、ロシアのクリミア併合が朝鮮半島情勢にどのような影響を及ぼすかである。

北朝鮮は、米国の対ロシア制裁の限界を見て、深まる一方の対中依存に対する軌道修正を図るべく、「ロシア」カードの使用を考えるであろう。

これに対するロシアは旧ソ連時代に占めた地位を復活することはまず無理としても、北朝鮮との経済関係を深めつつ、朝鮮半島への政治的影響力拡大の方途を探るであろう。

(D)日本外しを進める中国は目下日朝対話の行方を凝視していると見られる。

先般のオランダにおける米中首脳会談で習近平主席がオバマ大統領に強く6ヵ国協議の再開を求めたと報じられている通り(3月26日付電子版「中央日報」)、中国は6者協議の再開に重点を置いていることから、日本としては、北朝鮮が現在日本に対してのみ維持している「対話」の中で6者協議の再開を呼びかけるなど中国の関心を念頭に外交的ジェスャーを示し、日中外交関係改善の一助とすることがこの際考えられよう。