情報収録:平井 修一
吉川正司・元都城歩兵第23連隊中隊長が「朝日新聞との闘い・われらの場合 都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ」を書いている(「文藝春秋」昭和62・1987年5月号)。
27年前の記事で、朝日は忘れたいだろうが、ネットのおかげで我々はしっかり朝日の汚い手口を知ることができるのは幸いだ。怒りを新たにして朝日殲滅、日本再興へ励もう。以下、転載する。(長いが同志諸君、日本の名誉、皇軍の名誉がかかっている。どうぞ踏ん張って読んでくれ!)
・・・
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。
「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。
思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
その記事によれば、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城23連隊の元上等兵が所持していた、「虐殺に直接携わり、苦しむ真情をつづった日記と、惨殺された中国人と見られる男性や女性の生首が転がっているなどの写真3枚が見つかった」というのである。
惨殺写真もさることながら、日記の内容は衝撃的だった。
昭和12(1937)年12月12日の南京入城から3日後の15日に、こういう記述がある、と記事は言うのだ。(カッコ内は朝日の註)
「今日逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称)約2千人ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に出会う。・・・処置なきままに、それぞれ色々な方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢えて喜んでいるのが流行しだした様子」
21日には、こう書かれてあるという。
「今日もまたニーヤ(中国人のこか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」
かねてから南京大虐殺に固執していた朝日にとっては、きわめて重大な発見とみえて、記事のリードには「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人といわれながら、日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だが、動かぬ事実を物語る歴史的資料になるとみられる」とある。
ところが、この“歴史資料”は生き残り将兵で結成している「都城23連隊会」の人々のその後の調査によって、見るも無残に突き崩されることになる。
南京陥落の時、私は中尉であった。都城歩兵第23連隊の中に連隊砲中隊というのがあり、その中隊長代理として南京作戦に加わったのである。
突入翌日の13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。
連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。
従って朝日の記事内容はまさに寝耳に水であった。
身に覚えのない報道に対して、最初に行動を起こしたのは、地元に住む「都城23連隊会」の面々だった(私は東京在住)。
これ以降の記述は、主として宮崎の連隊会事務所がまとめた「連隊会だより12号」にのっとってすすめていくことをお断りしておく
■「新聞は嘘つかん」
報道から2週間後の8月19日、連隊会は宮崎市で第1回対策協議会を開いた。調査のため北郷村に人を派遣することになったが、たまたま当時の第2中隊長だった坂元昵氏から、私が行くとの申し出があった。
氏は生存者の中では最高責任者で、その時86歳という高齢を顧みず、8月24日、自分の息子に車を運転させて、わざわざ鹿児島から出てこられた。
途中、宮崎で中山有良事務局長を乗せ、北郷村に到着したのである。何よりもまず、日記の主が誰であるかを突きとめねばならない。
問題の記事によれば、日記を書いた兵士は当時23歳の上等兵で「帰国後、農林業を営み、49年に腎臓病で死去した」という。坂元氏らは、北郷村に住む数名の生存者に訊ねたが、誰にも記憶が無い。
続いて郵便局に行き、年金や恩給の受給関係書類から見つけようとしたが、これも無駄骨だった。お手上げかなと思ったところで坂元氏が妙案を出した。「お寺を回ろう。過去帳があるはずだ」
北郷村には3つの寺があり、2度空振りのあと、最後に回ったお寺で、ようやく49年に腎臓病で死亡した元兵士を探し当てたのである。名前は河野美好――。
ところが翌朝、河野未亡人に電話してみると、何とも意外なことに、「主人は日記などつけたことはありません。日記を書くような教養はありませんでした。それから写真機を持つような、そういう贅沢な身分ではありません」との返事である。
この時点で調査はいったん暗礁に乗り上げてしまう。
昭和59年9月22日。連隊会の一行5名が朝日新聞宮崎支局に第1回の抗議に出向いた。対応に出たのは中村大別支局長で、双方にはおおむね次のような激しいやりとりがあった。
連隊会「まずお伺いしますが、本件は東京の本社が取材されたのでしょうか」
支局長「いや、当宮崎支局の取材です」
連隊会「宮崎支局の取材とは驚いた。取材には万全を期しておられるか」
支局長「万全を期している」
連隊会「それなら、なぜ事前に連隊会に照会されなかったのか」
支局長「日記帳や写真が出てきたから、照会の必要はないと思った」
連隊会「日記には23連隊の何中隊と書いてあったか」
支局長「そこまで確認しなかった。こんど見ておく」
連隊会「その兵士の名前は」
支局長「いや!それは言えない。本人に迷惑がかかるから」
連隊会「真実なら何も名前を隠す必要はないではないか。本人の名前がわからんとなれば、支局長、あなたを告訴せねばならぬことになるが、よろしいか」
支局長「・・・」
連隊会「貴社が虐殺があったと判断した根拠は、日記帳と現場を撮影したと思われる写真からか」
支局長「その通りだ」
連隊会「新聞記事によると、その日記は1月1日から12月31日まで、毎日1日も欠かさず記入されているとのことだが、本当か」
支局長「その通りだ。表紙はボロボロになっており、白い紙質は褐色に変じ、インクの色も変色して昭和12年に記載されたものに間違いないと判断した」
連隊会「それはおかしいではないか。戦争をしている兵隊が毎日毎日、日記がつけられると思いますか!それに鉛筆書きならいざしらず、インクとは恐れいった。当時は、ペン書きするにはインク瓶からスポイトでインクを補充せねばならない時代だが、戦場へインク瓶を携行するなど考えられない。ましてや一兵士が戦場へカメラを持参するなどとんでもない話だ。将校ですらカメラを携行したものは1人もいない。
支局長のポストに就任されるだけの学識あるあなたが、1日も欠かさず日記が記入されているということだけで、これはおかしいと思い、カメラ携行とあれば、これは臭いな、となぜお考えにならなかったか。貴方ご自身の方が余程おかしいと私たちは思うのですが、いかがですか」
ここで無言のまま席を立った中村支局長は、やがて1枚の写真を持って現れ、連隊会の代表たちに「これを見てください。」と突きつける。それは、建物の前の路面に生首が12、3個ころがっている写真であった。
連隊会「これはなんです、これが虐殺現場を撮影したと思われる写真なのですか!」
支局長「その通りです。中国人の生首です」
連隊会「これを見て、支局長は即座に虐殺現場の写真だと思われたのですか」
支局長「その通りです」
連隊会「おかしいですね。生首が転がっているだけでは、兵隊なのか一般人なのかもわからない。悪く勘ぐるなら、中国の兵隊が匪賊討伐を行った際に打ち首になった匪賊の首かもしれません。支局長はこれをひと目見ただけで、よくも日本軍が中国人を虐殺した写真だと判断されましたね。その根拠は!?」
支局長「この写真を持っていた本人が、生前この写真を見ながら後悔していたという事を聞いていましたから、てっきり虐殺の現場写真だと」
連隊会「しかし、その本人は10年前に死んでいるんでしょう。それでは直接本人から聞かれたわけではなく、その家族の方からの話ではありませんか。信用できますか!」
このあともしばらくやりとりは続き、連隊会側は最後にこう要求した。
「先日、孫がやってきて『爺ちゃんたちは悪い人間じゃねー』と言いますので、『何を言うか!爺ちゃんたちは、日本を守るために生命を投げ出して戦った立派な者ばかりだ。悪いことなどしてはおらん」と言うと、『新聞は嘘つかん』と逆襲されました。
私ども生きている者は我慢の仕様もありますが、若き命を散らせて消えた英霊は浮かばれません。どうか、全国版で都城歩兵23連隊は南京大虐殺には参加せず、無関係である旨の記事を出していただきたい」
中村支局長の回答は「その事はしばらく待って下さい。私一存ではどうも」というもので、物別れのまま朝日との第1回会談は終了した。
■有力な日記執筆候補者
昭和59年10月のある日、連隊会事務局に、問題の日記の筆者についての重大な情報が入る。情報は第1中隊の代表者である山路正義氏からのもので、
「歩兵23連隊の戦記編纂の折に、『この日記は役に立つのではありませんか』と、北郷村の三浦松治氏が私に当用日記を届けてくれたことがありました。その日記は、北郷村出身で私と同じ中隊にいた、故宇和田弥一君のものでした。
日記の中から何か戦記に掲載しうるものはないかと詳細に目を通し、結局、2ヵ所を戦記に載せた次第です。しかし、朝日が指摘している虐殺などのことは書いてありませんでしたから、この日記ではないかもしれませんが、一応ご参考までに」
という連絡であった。
調べてみると、宇和田弥一君は昭和48年に腎臓病で世を去っている。朝日の言う49年に死亡とは1年のズレがあるものの、戦争当時は上等兵で、農業学校を出ていて教養もあるし、筆も立つ、河野美好氏と共に、有力な日記執筆の候補者として浮かび上がってきたのである。
実は、山路氏の情報の中にある「歩兵23連隊の戦記編纂」の最高責任者は私であった。私は、市ヶ谷にある自衛隊の幹部学校で戦史教官をやっており、戦記を編纂するなら一番適任であろうとなって、昭和49(1974)年に発案し、53(1968)年にようやく完成させたのである。
その際、各中隊ごとに編纂委員を決め、資料を集めてもらった。その中に宇和田氏の日記も入っていたのである。ところが、私は全体の監修者という立場にあったため、当時、宇和田日記の現物は見ていない。
実際の事務所は宮崎でやり、戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送されていることが後にわかった。連隊会は情報入手後、ただちに仲介役の三浦松治氏に聞いてみたところ、
「年月ははっきりしませんが、ある日のこと、故宇和田さんの霊前に詣でたところ、奥さんが『こんなものがありましたが、何かお役に立ちますか』と申されて、一冊の日記帳を差し出されました」との返事だった。
“山路情報”は確実に裏付けられたが、奇妙なのは、「最初の北郷村調査の折に何故そのことを告げなかったのか」と問われた三浦氏が「別の日記かと思って黙っていた」と答えたことである。
さらに奇妙なのは、宇和田未亡人の対応だった。連隊会から未亡人に電話をし、「ご主人は日記帳を持っておられたそうですね」と尋ねると、間髪を入れずに、「はい、写真3枚と日記帳がございました」との答えが返ってきた。
日記の有無だけを尋ねたのに、なぜ聞きもしない写真の件を持ち出されたのか。いずれ電話のあることを予期していたかのような反応は、まことに不可解であった。
■「家族のために助けてください」
双方の都合で延び延びとなっていた朝日との2回目の会談が、昭和60(1985)年2月4日、朝日新聞宮崎支局で開かれた。連隊会側の出席者は前回と同じく5名、先方は中村支局長である。この席で、中村支局長は意外にも、
「先般から日記が本件のポイントだとご指摘になっておられるから、今日はその日記をお目にかけます」と言ったのである。
連隊会側は色めきたった。支局長は後方の棚から、ナイロンの袋に入った日記帳と思われるものを取り出した。
てっきりテーブルの上に置かれるのかと思ったら、そうではなく、手に持ったままテーブルから10歩くらい、およそ5メートルほど離れた位置まで後退して、立ったまま自分の胸の高さのところで日記帳の真ん中あたりを左右に広げて見せたのである。
連隊会の後藤田萬平氏が椅子から立ち上がり、近づこうとすると、支局長はこれを制した。
「近寄ってはいけません。書体がわかると誰が書いたかわかりますから」
5メートルも離れていたのでは、それが日記帳だと判断することさえ出来はしない。実は私自身も、昨年末に一度だけ日記の“現物”を見せてもらっている。しかしこの時も3メートルほど離れたところからで、判読はいっさい不可能であった。
朝日のこうした態度は何を意味するのであろうか。日記が本物なら、なぜ堂々と見せようとしないのか。よほどやましいところがあると思われても、仕方がないではないか。
ともあれ、会談は結局のところ第1回目の論争の蒸し返しに終始したが、それでも終わり近くでかなりの収穫があった。
連隊会側が、「日記を書いた兵士は、49年に腎臓病で死亡したとの朝日記事を踏まえて調査したところ、河野美好氏であることが判明しました。しかし、未亡人は否定しています。どちらが本当か、支局長と河野未亡人とで対決していただけませんか」
と持ちかけたところ、支局長はしばし間をおいてから、
「いや、その人ではなく、別の人から届けられたものです」と答えたのである。
ここで、日記の主は河野氏でないことがはっきりした。つまり、49年に死去したという部分は、誤報であることが明らかになった。小さなこととはいえ、記事全体の虚構性をうかがえるに足る貴重な第一歩となったのである。
4日後の2月8日、都城23連隊会は、朝日新聞宮崎支局長宛に正式な抗議文を提出した、記事取消しを求めるなら、「正式の文書にしてご提出下さい」との中村支局長の強気な発言を受けてのものである。
抗議文を提出してまもなく、当の中村支局長から連隊会の中山事務局長に連絡が入った。
今日ご来社、ただし中山さん1人でおいで下さい、他人には聞かれたくない相談がありますから、との電話であった。
前述した「連隊会だより12号」は、中山事務局長を中心にまとめられたものである。その「連隊会だより」によれば、中山氏が宮崎支社に赴くと、支局長はひどく低姿勢で2階の会議室へと案内した。
支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、『お詫び』だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
支局長「そこのところ何とか」
2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。
《日中戦争中の昭和12年暮れ、南京を占領した日本軍による「南京大虐殺」事件について、宮崎市に事務局をおく都城23連隊会の安楽秀雄会長、中山有良事務局長ら代表がこのほど朝日新聞宮崎支局を訪れ、同連隊会は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。中山事務局長によると、都城23連隊は12年12月13日、南京城西南角から城内に入った。同事件について論議されることから、同連絡会員、関係者に対して調査を行ったが、事件に関係した証言などは得られなかったとしている。》
いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。
ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
昭和60(1985)年12月20日、“お詫び”記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
中山氏はさっそく、「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。ところが支局長は言った。
「全国版?全国版には載せてありません」
「載せていない?それじゃ約束が違います」
「約束した覚えはありません」
「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないで
すか」
「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」
そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
中山事務局長は、「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。
「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」
朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。(つづく)