2014年03月31日

◆「南京大虐殺はなかった」を読むB

平井 修一


■虐殺論者とそのウソ(1)

日本人で「虐殺はあった」と主張する人を一応「虐殺論者」と呼ぶ事に致しますが、この中には新聞記者、学者、評論家という人達、それともう一つは戦争に行った兵隊、下士官、将校がおります。

そういう人達の虐殺論がいかにウソでありデタラメであるかをこれからご説明します。

(1)まず、当時の従軍記者の例をあげます。当時南京には、新聞各社の記者が100名以上もおりました。
 
イ)朝日新聞の今井正剛記者という記者が「南京城内の大量殺人」という本を書いております。大阪毎日(当時)の後藤記者が、
 
「あなたはとんでもない事を書いていますね」とただしたところ、今井記者は「あれは興味本位で書いたのだ」と白状しています。朝日の同僚の記者は、「今井君は危険な前線に出て、目で見てものを書く人ではなく、後方で人の話を聞いて記事を書くのが上手であった」と批判をしております。

ロ)東京日々新聞の鈴木二郎という記者は「私は12月12日に中山門より入城した。後続部隊が次々に中山門上で万歳をし、写真を撮っていた。中山門の上では盛んに捕虜が虐殺されていた」と証言しております。

作家の阿羅健一氏が「あなは12月12日に中山門に入られたのですか。それは13日の間違いではありませんか」と問い正したのにも拘わらず、「いや、私は12日に入って、現実に捕虜が殺されるのを見たんだ」と譲らない
のです。

12月12日には、私は先ほどお話したように、中山門正面約2キロ手前の溝山の山頂にいました。双眼鏡で中山門の城壁がやっと見えたのですが、敵兵がいっぱいおりました。

一体いつになったらあれを占領できるのかと、その時思ったことを私ははっきり覚えています。

そんな時期に、一新聞記者がどうして中山門に入るのでしょうか。中山門の高さは約10メートル、厚さ20センチの扉はったり閉まっており、しかも門の内側には土嚢(どのう)がいっぱい積み上げられてありました。


13日の未明、我が歩兵20連隊が砲撃によって崩れた城壁をよじ登って占領し、私は15日に中山門に入ったのですが、ここで捕虜が虐殺されたような形跡は全くありませんでした。

要するに、鈴木二郎という記者の証言は、全くのウソであります。
 
ハ)東京日々新聞の浅海一男という記者が「百人斬り」という記事を書いています。

京都の9連隊の野田、向井の2人の少尉が、上官から「どちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、勝者に賞を与えよう」と命じられ、2人が百人斬りを競ったというものでありますが、これが全くのウソであります。

第一に、軍隊で戦争の真っ最中に、上官が将校にかかる競争を命じ、勝った方に賞をやろうなどと言うこと、また将校もそんなエサで釣られるようなことは、軍隊の常識としてあり得ません。

その時の上官であると言われている富山大隊長も「そんな馬鹿なことがあるものか」と、ハッキリ否定しておられます。

さらに野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。そういう将校に、敵に突入して百人斬りを命ずる馬鹿がいるでしょうか?

そういう作り話がまことしやかに書かれ、そのために両少尉は戦犯にされ、処刑されたのです。

東京裁判の最中に、向井少尉の家族が、浅海記者にあの記事はウソである、作り話であるということを証言して欲しいと懇願していますが、浅海記者は逃げ回ってその証言を回避しております。

私は、彼が2人の若い将校を殺したのも同然だと考えております。

(2)次に、戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。
 
まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。

場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨している例もあります。

また、証言者が「中隊の軍紀は非常に厳正でありました」などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。

自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。

宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮で買ったものであると、読者が抗議しています。

また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。

そのような記事について「そんなことはあり得ないことである」と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段なのです。

都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件(平井:後日詳報)、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。全く礼儀知らずと言うほかありません。(2014/3/30)

              

2014年03月30日

◆在京外国特派員は中韓反日宣伝を盲信

原川 貴郎


各地で桜の開花宣言がされ、関東地方も一気に春めいてきたが、海外では相変わらず中国・韓国によるディスカウント・ジャパン(日本の地位失墜)運動の寒風が吹き続けている。

中国が各国に駐在する大使を動員し、安倍晋三首相の靖国神社参拝を批判するキャンペーンを世界中で展開すれば、韓国は国際漫画展といった文化行事まで利用し、「慰安婦」で日本をおとしめるのに躍起だ。

執拗(しつよう)なまでの手数で繰り出される反日プロパガンダは、従来のものとも相まって、残念ながら各国に浸透しているのかもしれない。

「慰安婦」像が設置された米グレンデール市に抗議に訪れた地方議員団のメンバーが先ごろ、日本外国特派員協会(東京・有楽町)で開いた会見でのやりとりは、その一端を示しているようだった。

「今日の記者会見は、日本への糾弾だね」

「戦時中、大分の炭鉱で働いていた韓国人がいたが、あれも強制だったと思うか?そうでなかったと思うか?」

「今日は労働者の話ではなく、『性奴隷』の話で記者会見をしているので…」

地方議員団の代表世話人を務める東京都の松浦芳子杉並区議は、想定外の質問に戸惑いの表情を見せた。

松浦氏は「河野談話はまったく曖昧な証言を基に作成したものだ」と指摘した上で、グレンデール市で日本人の子供たちが韓国人の子供らによるいじめ被害に遭っている実態を紹介。「性奴隷という言葉を刻んだ『慰安婦』像は、将来に禍根を残す」と訴えた。

ところが、外国人記者からの質問は、本紙でも一部報じたように、理解不足や偏見に基づくものが目立った。

「『性奴隷』は捏造(ねつぞう)だと言うが、そう言うだけの事実はどのぐらいあるのか。日本は今、世界の中で同情を失いつつある」

「河野談やその背景を明らかにすることで、世界の理解を得られるよ
り、むしろ反発を招くことが予想されるが、どう思うか」

冒頭でドイツ人記者がこんな質問を浴びせると、最後には別の記者が「『慰安婦』像は(戦争の悲惨さや自由の大切さを伝える)平和の象徴になっているのではないか」と指摘。ともに記者会見に臨んだ東京都の辻村ともこ狛江市議は、思わず「ありえない…」とつぶやいた。

ある外国人ジャーナリストは会見後、「今日の記者会見は、君たちへの質問ではなく、日本への糾弾だね」と総括したという。

「日本政府がきちっと反論しないので、韓国のプロパガンダがまさり、多くの外国メディアの人が日本への嫌悪感を持つほどの土壌ができあがっていると感じた」 辻村氏はこう振り返る。

背景に東京裁判史観

会見の内容は、米誌タイムや香港紙、サウスチャイナ・モーニング・ポスト(ともに電子版)などが報じた。

それらの記事は、松浦氏らの訴えを基本的にはそのまま伝えたものの、香港紙は松浦氏の主張を「(慰安婦とされる)女性の話をねつ造だと否定する日本の右翼」との文脈の中で紹介。タイム誌は、「日本の保守層が『性奴隷』をめぐる戦いで攻勢に出る」ことについて、「有害無益のようだ」と論じるなど、松浦氏らにすれば、不本意な内容だった。

もちろん、会見の後、一部の外国人記者が「慰安婦の問題で、あなたたちのようにはっきりと反論する日本人の女性は初めてみた。良識ある人が聞けばわかるはずだ」と理解を示すなど、前向きな変化もあった。だが、総じていえば、会見とその後の報道は、「歴史」や「慰安婦」問題をめぐる国際世論の厳しい実態を改めて浮き彫りにしたといえよう。

会見時に通訳を担当したのは、日本在住50年の外国特派員協会の最古参記者、ヘンリー・S・ストークス氏の近著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)の翻訳者でもある藤田裕行氏。外国特派員に多くの友人・知人を持つ藤田氏は、国際ジャーナリズムの傾向と背景についてこう語る。

「外国人、特に連合国の人たちにとって、歴史の真実は東京裁判史観です。そこでは日本が悪者でなければならず、それと相いれない主張をするのは、歴史を塗り替えようとするリビジョニスト(歴史修正主義者)だ、というステレオタイプ(紋切り型の見方)でやっている。ストークス氏などは例外で、本当にきちっと勉強している特派員は数えるほどですよ」

こうした現状を克服していく上で、不可欠となるのは、「発信するだけでなく、それを国際世論にまで高めるだけの広報宣伝力」(藤田氏)だ。

物量に物を言わせて世界中で展開される中韓の反日宣伝に対抗する態勢を築くには、情報発信におけるさらなる予算措置を含め、国を挙げての取り組みが急務だ。
産経ニュース【原川貴郎の東アジア風速計】 2014.3.29


◆木津川だより 〜岩船寺〜

白井繁夫


「岩船寺」(木津川市加茂町岩船)は、前回訪ねた浄瑠璃寺の北東約1.2kmの処にあります。この両寺院付近の山間の小道を辿ると、各所に散在している鎌倉時代の石仏に出会えます。

観光案内には岩船寺から浄瑠璃寺へと山を下っていくと約40分の距離で楽しく散策できると記してありました。

ところが、私は浄瑠璃寺へ先に来ましたので、やむなく山道を登る逆ルートをとり、下って来る人とすれ違うので山中で迷うことが無いと思いながら歩いて往くことにしました。

浄瑠璃寺の門前から加茂へ向う舗装道路を進むと「藪の中地蔵」と呼ばれている磨崖仏が竹藪の中にありました。お地蔵さんだけでなく定印の阿弥陀さん、長谷寺式(右手に錫杖.左手に宝珠)の十一面観音立像がそれぞれ舟形の龕(がん)の中に浮彫りされてあり、中央の地蔵菩薩は1.5m高位もあって、本格的な石工橘安繩作の立派な姿です。

当尾(とうのお)の石仏のなかで最も古い弘長2年(1262)の作で、現在までに知られている橘派石工の最古例です。大工や助手、並びに願主や僧尼など9名の名前を記した長文を刻んでありました。

ここから北へ向かうと大門石仏群があり、この地方最大の阿弥陀如来の大磨崖像を見ることが出来るとのことです。この度は「岩船寺」へと、「カラスの壺」を目指して進むルートを歩き、「あたご燈籠」で右(東方)へ折れて、4本の山道が出会う広場へと進みました。(通称「カラスノツボ」:“路傍にあった石を円孔に彫って「唐臼(カラウス)の壺」の形状の様に見えたのがなまって、カラスノツボと呼んだとのことです。”)

石仏はこの場所の西の崖下の東面に阿弥陀如来、南面に地蔵菩薩が刻まれており、刻銘は南北朝時代の康永2年(1343)の作とあります。当尾石仏群の中では最も新しい遺品の一つと云われています。

阿弥陀如来像の右側に線刻で燈籠をあらわし、その火袋の所を彫って燈明を立てられるようにしているのは、大変珍しいとのことです。

「カラスの壺」から東へ進み山道の登り坂の手前を右に折れて「笑い仏:阿弥陀三尊像」へ寄り道しました。

小高い崖に巾広の舟形のくぼみ(龕)を彫りその中に三体の坐仏を浮彫りしてあり、仏の上の岩がせり出して自然の軒をなし、雨露がかからない様になっているためか、蓮華台に坐す各仏は数世紀(永仁7年:1299年の猪末行作)を経ても、風化されていない状態です。

中央の阿弥陀如来や左右の脇仏もともに、穏やかな顔で目を細めてほほ笑む姿は、真に「笑い仏」と呼ばれて愛され、親しまれて来たことがよく理解できました。

もとの山道に戻り、「岩船寺」を目指して登り始めましたが、山中に入ると(私にとっては)急坂を登るので、周りの景色や石仏のことなど構う余裕を失い、ただ只管に一歩づつ足を前に出すだけになりやっとの思いで、門前にたどり着きました。(歳は取りたくないですね)

「岩船寺」の門前は、浄瑠璃寺よりもっと山寺といった風情でした。狭い山間に建っている寺門への石段を登る西側に檜皮葺の白山.春日の2神社(室町時代の遺構)がありますが、寄らずに寺門をくぐり境内に進みました。(この神社は嘗ての岩船寺の鎮守でした。)

右(西側)の庫裏とつながる本堂には丈六の阿弥陀如来坐像(重文)が安置されており、小さい池の左(東側)に重文の十三重石塔、南の奥の小高いところに屋根は瓦葺ですが、褪せた朱色の三重塔(重文)が建っています。

門のすぐ左には五輪塔.地蔵菩薩石像.不動明王石室(応長2年:1312年作)等それぞれ皆重文の石造遺構です。あまり広くない境内ですが、調和し静かに佇んでいました。

三重塔岩船寺.jpg
写真:岩船寺境内:池の左が十三重石塔、南の奥に三重塔が建っています。

「岩船寺」の創建については明らかではありません。

『岩船寺縁起』によると、「僧行基が岩船寺の近くの鳴川に阿弥陀堂を建てたのがはじまりで、その後、空海が善根寺(鳴河寺)を建立して、空海の弟子(甥)の智泉大徳が、嵯峨天皇の皇子の誕生祈願に善根寺の東禅院灌頂堂(かんぢょうどう)内に報恩院を建立しました。その後、弘安2年(1279)にこの報恩院を岩船(いわふね)の地に移し、同8年に供養した。」とあります。しかし確証はありません。

大同年中(806〜809)嵯峨天皇の皇后(橘嘉智子)が、皇子誕生を祈願して報恩院を創建し、智泉を咒願(しゅがん)とした、とあります。『弘法大師伝:高野山智燈撰』。
「岩船寺」の山号が高野山報恩院とされているのが、善根寺の法燈を継ぐものと云われています。

「岩船寺」の寺名は、弘安10年(1287)不動磨崖仏の銘文にはじめて登場し、つづいて永仁7年(1299)の阿弥陀三尊像(笑い仏)にも出ています。

本堂に安置されている天慶9年(946)在銘の阿弥陀如来坐像(重文)や11世紀初めの普賢菩薩騎象像(重文)は、他寺から移入したとしても応長2年(1312)在銘の不動明王石室(重文)や鎌倉時代後期の作の十三重石塔(重文)などの石造物の遺品からすると、鎌倉時代後期には存在したものと推察されます。

室町時代の嘉吉2年(1442)に現在の三重塔(重文)が建立され、同じ頃、鎮守の白山神社の本殿も建立されました。

寺の周辺には13〜14世紀の年紀をもつ石造遺物が多く散在しており、山の峰々を回峰行する修験道的な活動の道場の役目を持つ「岩船寺」は、中世僧徒の活動の場所でもありました。

『興福寺官務牒疏』には「坊舎八宇、交衆十二人」とあり、15世紀ごろが最も寺運が盛んであったのではないかと思われます。

「岩船寺」は浄瑠璃寺同様、興福寺一乗院の末寺でしたが、現在は真言律宗西大寺の末寺です。

本堂に上がると、4体の四天王立像に守られた大きな阿弥陀如来坐像(重文)に圧倒されました。欅の一木造りで高さが3m弱あり、本堂が小さく感じました。像内の墨書銘により天慶9年の作とわかり10世紀半ばの基準作例として大変貴重とのことです。

堂内には、もとは三重塔に祀られていた平安時代の普賢菩薩騎象像(重文)や十一面観音立像(鎌倉時代)などあり、疲れた体も心も各仏様から安らぎのひと時を戴きました。

次回は古代にもどり、「木津川沿いの古墳時代の散策」もと思っています。

参考資料:
      日本の古寺美術  18   保育社  肥田路美著
      加茂町史 第一巻   古代.中世編  加茂町
      大和の古寺7     岩船寺 岩波書店 
                       (郷土愛好家)

◆「南京大虐殺はなかった」を読むA

平井 修一


■「南京大虐殺」論は何故起こったか

これだけ大きな戦争をやったのです。何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。しかしながら「大虐殺」などということがなぜ言われるようになったのか。

その第1は、戦後に東京裁判において、検事側の証人の証言により初めて問題とされたのであります。支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択されたことが第一の原因であります。

第2は、東京裁判が進行するに従って、NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。

第3は、新聞報道機関が「虐殺、云々」と盛んに書きたてた、それを一般の人が信じるようになった事であります。NHKラジオ放送と同様、統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。

しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、一般の人も信じるようになったわけであります。

■東京裁判における検事側の証言

いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で言われるようになったと申しましたが、ならばその東京裁判とはどういうものであったか。

東京裁判の全般について詳しく立ち入ることは差し控えますが、第1には裁判という形を取った戦勝国による日本への復讐であります。

第2には日本の「歴史の断罪」であります。つまり日本の歴史を始め、日本古来の道徳も、宗教も、家族制度の教育も、日本にあったものは全て悪いものなんだという決め付けであります。

第3は、日本人に自虐観念を植え付け、洗脳し、精神的に弱体化しようとしたことであります。

また裁判の運営についても、
 
(1)偽証罪の無い裁判であったこと。
(2)検事側の証言は明瞭な偽証であっても無批判に採択し、弁護側の証言は多くは抹殺されたこと。
(3)公正なるべき判事が安易に検事に同調し、検事と全く同じ立場で運営していること。
(4)弁護人の原爆投下の責任追及、ソ連の不法参戦の追及を、裁判長が「本裁判に関係無し」として発言を封じたこと。
(5)判決は11名の全判事合議によるべきにも関わらず、一部多数派の偏見的意見のみにより判決を強行しております。
 
その不当なことは明かなのであります。

「南京大虐殺」に関する検事側証人のデタラメな証言は、偽証罪が無いのですからことさらに被害を大きく、いわゆる白髪三千丈的証言がなされ、弁護人の反対尋問によってそのウソが暴露され、証言した証人や、それを採用した検事がむしろ恥をかき、失笑をかったという事さえありました。
 
(1)アメリカ人牧師マギーの証言は、日本軍の殺人、強盗、強姦、放火など、聞くに耐えない証言を1日半かけて行いました。

これに対してアメリカ人のブルックス弁護人が反対尋問したところ、マギーの証言は、実際目撃したのはわずか2件で、ほとんどが噂を伝え聞き、憶測、はなはだしきは自分勝手な想像に過ぎない事が暴露されています。
 
(2)その他、当時南京城内に居住していた牧師、南京大学教授、医師、ジャーナリストなど、多くは悪意に満ちた証言をしております。
 
(3)中国人の証言に至っては、全く白髪三千丈という証言であります。宗教団体の紅卍字会副会長の許伝音という者の証言は、「自分は4万3千人の死体を運搬して埋葬した」と言い、また「34万人が殺害され、4千軒の家屋が焼き払われた」とも言っております。
 
しかし南京城内には、平時は100万人位の人口があったらしいのですが、大部分は戦禍を避けて避難をしておりまして、当時は精々15万人位であったろうというのが、割合確実な数字です。それを34万人殺害されたと言っている。

家を4千軒焼かれたと言いますが、12月13日に占領した南京に、私は15日に入りそれから約1ヶ月余りいたわけですが、その間に1件の火事も焼け跡も見ておりません。

「哀声地に満ち死体山を築き、我が軍民悉(ことごと)く掃射を受け、死体揚子江を掩(おお)い、流水為に赤し」

中国人は当時の南京をこう表現しておりますが、流石に中国は文章の国であると感心の他ありません。揚子江は軍艦が南京からもっと上流まで上って来るのです。対岸は霞んで見えません。その流水が「為に赤し」とは、何をか言わんやです。
 
(4)崇善堂という慈善団体が、約15万から20万の死体を埋葬したと証言しています。
 
だいたい戦闘が終わりますと、作戦をした軍隊は一応「戦場掃除」といって、敵味方の区別なく戦死者の遺体を片付けるのが軍事常識なのです。我が軍がそういう片付けをしているのに、そんなに多数の死体を埋葬したということはとても考えられないのであります。

同時に、そんなに多数の死体を埋葬するには、一体どんなに大きな穴を、あるいはどんなにたくさんの穴を掘れば良いと言うのでしょうか? 考えただけでもウソだとお分かりになるのでしょう。

さらに東京裁判の判決は、全くデタラメ、支離滅裂のものでした。

第一に広田弘毅という方が軍事参議官の職にあったということで絞首刑になっております。軍事参議官というのは軍人の、しかも大将、元帥の古参の人だけが任じられる職であるのに、外務大臣であった文官の広田弘毅がその職にあったということで処刑されている。

あるいは陸軍大臣であった荒木貞夫という方は、なったことのない総理大臣の肩書きで判決をされております。

またインドのパル判事は裁判中から「日本無罪論」を唱えておりましたが、判決では一切無視されたばかりか、これを印刷することも頒布することも禁止されました。

このように東京裁判の不当な事は、後になって裁判の管轄権者であったマッカーサーでさえ、解任後帰国して大統領トルーマンに対し、東京裁判は誤りであったと告発し、又主席検事であったキーナンも東京裁判論告や判決は厳しすぎたと言っております。

その他、英国国際法権威ハンキー卿、米連邦裁判所ダグラス判事、米国際法学者マイニア博士を始め、独・英などの国際法学者、哲学者などもその不当性を厳しく批判をしており、今やそれは近年国際法学界の共通の認識になっております。

然るに現在の日本の状態はどうですか。

半世紀以上経ってすでに独立国であるにも関わらず、いわゆる進歩的と称する学者、文人、評論家、マスコミの多くは依然として「東京裁判史観」という麻薬に犯されたまま、「東京裁判は正しかった、南京大虐殺はあったのだ」と言っているのです。(つづく)(2014/2/28)

2014年03月29日

◆「中台統一」懸念で政治問題化

田中 靖人


台湾の立法院占拠はサービス貿易協定が発端 

台湾の学生らが立法院を占拠したのは、昨年6月に中台双方が一層の市場開放を目指して調印した「サービス貿易協定」の承認をめぐり与党、中国国民党が審議を打ち切ったことが原因だ。

同協定は、2010年9月に発効した中台間の事実上の自由貿易協定(FTA)にあたる「経済協力枠組み協定(ECFA)」の柱の一つ。サービス貿易協定では、新たに中国側が80項目、台湾側が64項目を開放。中国側は他国・地域には未開放の電子商取引、娯楽、医療サービスの3分野を認めるなど、台湾側に大幅に譲歩したとされる。

 だが、台湾では、中小企業が多い業界を中心に、巨大な資本を持つ中国企業の参入で淘汰(とうた)されかねないと懸念が高まり、学生の間でも、就職先が失われるとの認識が広まった。

 加えて、中国企業による印刷業の寡占が進んだ場合、間接的に出版や言論の自由が侵されるのではないかという懸念など、中国側が目指す「中台統一」に利用されかねないとの不信感を生んだ。2月中旬に中国・南京などで行われた、分断後初の主管官庁トップ(閣僚級)協議で、中国側から早期承認を求められたことも、問題の「政治化」を促したとみられる。

 民進党は、協定の条項ごとの審議を求めて抵抗。立法院で過半数を占める国民党が今月17日、「審議が3カ月を超えた」として委員会審議を打ち切ったことで、学生らの乱入を招いた。馬英九総統が23日の記者会見で「発展のために選択肢はなく、(承認は)これ以上待てない」と述べたことも、学生の反発を強めている。
産経ニュース2014.3.27

関連情報:

『三橋貴明の「新」日本経済新聞』 2014/03/28
三橋貴明

台湾で学生たちが中国とのサービス貿易協定に反対し、立法院(日本でいう国会)を占拠し、学生・市民の一部が行政院(内閣)に突入する事態になっております。

日本では、あまり報じられない(特にテレビでは)のですが、本問題は我が国を悩ませる問題とリンクしており、極めて重大であるため取り上げます。

27日、廣瀬勝氏(中国投資を警告する日台共闘の会代表)および沈柏勝氏(台湾投資中国受害者協会理事)にお目にかかり、台湾の現状について色々と聞いてまいりました。

『台湾の学生側集会に首相、対話は決裂 立法院占拠
http://www.asahi.com/articles/ASG3Q6DPFG3QUHBI00S.html
 台湾の立法院(国会)を学生らが占拠して5日目となった22日、江宜樺(チアンイーホア)行政院長(首相)が周辺で行われている集会を訪ねた。江氏は学生側が求めた中台サービス貿易協定の取り下げに応じず、対話は決裂。江氏は改めて記者会見し、学生に議場退去を求めた。

学生側は対話の条件として協定取り下げなどを求めたが、江氏は「協定は台湾に有益」として拒否。このため、学生側は十数分ほどで話し合いを打ち切り、馬英九(マーインチウ)総統が直接話し合いに応じるよう求めた。占拠は違法との立場から江氏は議場には入らなかった。

江氏は記者会見で、学生らの熱意を認めつつ、民意を代表する最高機関である立法院の占拠は許されないと強調。議場を占拠して要求受け入れを迫る学生らの手法を厳しく批判した。一方、立法院周辺には学生らを支援しようと連日数万人が集まっている。』

台中サービス貿易協定は、金融、広告、印刷、レンタカー、「通信」、宅配、娯楽施設、スポーツ施設、映画、韓国、旅行、内装工事、老人ホーム、卸売、小売、運輸、美容室、クリーニング、オンラインゲーム、葬儀など、恐ろしく幅広い「サービス分野」について、
「台湾が中国に市場を開放する(=制度を変更する)」というものです。

「え? 逆は?」

と思われたかも知れませんが、なぜか台湾の対中ビジネスの方は「福建省のみ開放」であったり、「中国側が主導権を握る形で開放」だったりするのです。言葉を選ばずに書けば、不平等条約です。

特に、危険視されているのが「通信」で、一般のインターネット通信も「台湾側は」完全に中国に対し市場開放をしなければなりません。(対する中国側は福建省において、台湾のネット販売業者が拠点を設けることを認めるだけです。しかも、出資55%以下という制限付き)通信を中国共産党側に「開放」するとなると、これはもはや、「国家の安全保障に関する機密情報も、中国共産党にダダ漏れ」という事態を招きかねないわけで、台湾の学生や市民たちが激怒して当然です。

(逆に、中国共産党が国内のネット環境を外資に『開放』するわけがないわけでございます)しかも、馬政権は本協定を「秘密交渉」として推進し、交渉が妥結し、馬総統がサインした「後」に中身を台湾国民に公開したもんですから、大変です。学生たちが激怒して当たり前です。馬政権は「民主主義のプロセス」をすっ飛ばしたわけでございます。

冗談でも何でもなく、この貿易協定は台湾の「独立」に対し、決定的な刃と化すでしょう。TPP同様に、台湾においても貿易協定は最終的に議会(立法院)の批准を得なければなりません。民進党などの要望で、馬政権は協議の見直しを進める姿勢を見せていたのですが、3月17日に打ち切り。結果的に、学生や市民の猛反発を受けることになりました。
 
さて、馬政権発足以降、台湾では両岸関係条例が大幅改定されるなど、次第に「中国共産党に国を開く」状況が進んできました。現在、中華人民共和国の人民は、台湾に四年間居住するだけで台湾の身分証を取得することができます。信じがたいことに、その時点で「公務員」にもなれるとのことです。

今回の台中サービス貿易協定の中にも、中国のビジネスマンが一定のお金を支払うことで、簡単に台湾移住が可能で、ビザ更新も無制限に行えるという内容が盛り込まれています。本協定が発効すると、台湾は「中国人の波」に飲み込まれることになるでしょう。

ところで、台湾は日本以上の少子化です。合計特殊出生率は1.07(2013年)程度に過ぎないのですが、以前は毎年25万人子供が生まれていたのが、現在は12万人になってしまっているそうです。

なぜか。

理由は簡単で、中国とのビジネスが盛んになり、中国人労働者との賃金競争が激化し、台湾国民(あえて書きますが)の所得が伸びなくなってしまったためです。以前は、一世帯で3〜4人の子供を育てることができたのですが、今は1〜2人が限界とのことでございます。

そして(ここからが重要ですが)、台湾の馬政権は、中国移民を増やす理由として「少子化」を挙げています。

そもそも、中国人と労働市場で競争する羽目になり、所得が伸びず、子供を増やせなくなった台湾において、少子化を理由に「更なる移民拡大」を馬政権は推進しているわけです。実際に馬政権の思惑通り、台湾にさらに中国人民を呼び込んだところで、労働市場の競争がますます激化し、実質賃金が切り下げられ、台湾国民はこれまで以上に子供を増やすことができなくなるでしょう。

「少子化の対策は、日本の場合はデフレ脱却だ」

と、繰り返し語ってきました。「大前提」として、国民の所得が実質的に増えていく環境を取り戻さなければ、少子化問題は解決のしようがありません。

それにも関わらず、現実の日本や台湾(そして、恐らく他の国々も)では少子化や人口減少を理由に、更なる実質賃金の切り下げをもたらす「国境を越えたヒトの移動の自由」が推進されています。あるいは、推進されようとしています。

また、我が国のTPP交渉も、やはり「秘密交渉」です。TPPの中身が「内政問題」であるにも関わらず、内政をつかさどる国会議員ですら情報にアクセスすることができません。異様です。

というわけで、台湾の問題を他人事として捉えないようにして欲しいのです。日本国民と台湾国民は、共に「根っこが同じ問題」に苦しめられているわけですから。

PS
三橋無料Video「中国侵略問題」を公開中
http://www.youtube.com/watch?v=Bner2NC2O-8 (情報収録 中山)

◆「南京大虐殺はなかった」を読む@

平井 修一


産経新聞(関西版)が2014年2月6日号でこう報じている。

<松原仁氏は民主党の国会議員ではあるが、拉致問題に熱心に取り組んできたことで知られ、いわゆる南京大虐殺についても国会の場で論じてきたのは有名な話である。例えば、平成19年5月、衆議院外務委員会でこんな発言をしている。

「1937(昭和12)年11月に、国共合作下の(中国)国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置した。…南京戦を挟む1937年の12月1日から翌年の10月24日(までに)300回、毎日のように記者会見をやった。参加した外国人記者、外国公館職員は平均35名。何を言ったかというと、日本軍はけしからぬと。…にもかかわらず、そこで一回も南京で虐殺があったと言っていない。極めて不思議であります。簡単に言えば、なかったから言わなかったのであります…」

これは実に説得力のある話だ。仮にも30万人規模の「南京大虐殺」があったのであれば、戦時中に中華民国はじめ外国で問題にならなかったはずはないのである>

“南京大虐殺”という嘘っぱちについては、山本夏彦翁(故人)が言うように「証拠より論」で、声の大きい方が勝つ。小生はこの件について書かないつもりだったが、たまたまネットで「“南京大虐殺”はなかった」を読み、いつか紹介したいと思うようになった。

この著者の森王琢(もりおう・みがく)氏は昭和12(1937)年12月の南京攻略戦の大隊指揮官であった。平成4(1992)年4月の岡山国民文化懇談会における氏の講演記録をまとめたのがこの本で、副題には「謹んで英霊に捧ぐ」とある。現場の体験者としての証言であり、帝国軍人としての誇りがうかがわれるので小生は第一級の史料だと判断した。何回かに分けて以下紹介する(若干整理した)――

■はじめに

私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。

昭和12(1937)年7月の蘆溝橋事件(ろこうきょうじけん)勃発後、9月に第16師団(京都)に動員下令、私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し、最初は北支に上陸、次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、12月9日に南京の東北地区に進出しました。

途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死のため、私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。

南京は昭和12(1937)年12月13日完全に占領されましたが、私は翌年の1月下旬まで約1ヶ月余り、南京及びその近辺で警備に任じられておりました。

いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、この身体で体験している者であります。

私が今からお話しします事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、本当はどういうものであるかという事を知って理解して頂き、1人でも多くの人に真相を語り伝えて世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。

当時第一線において部下と共に戦い、たくさんの部下を戦死により亡くしました指揮官と致しまして、「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、まことしやかに伝えられ、しかもそれを大部分の日本人が些(いささ)かも疑いを持たないで信じている状態は、何としても我慢の出来ないことなのです。

共に戦った戦友、ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、1人でも多くの人に真実を知って頂きたい、そのために自分が役に立つならば、どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、また下手な文章であっても書いて、それを活字にして残しておかねば
と願っているのであります。

■南京総攻撃の概要

敵の首都、南京を攻撃するために各方面より進撃した各部隊は、昭和12(1937)年12月10日には大体要図のように南京を包囲しておりました(略)。

東からは私の属していました京都の第16師団、東南からは金沢の第9師団、宇都宮の第114師団が真南から、熊本の第6師団は西へ、第13師団の山田支隊は紫金山の北側の揚子江に沿った地帯を前進、さらに揚子江の向こう岸には国崎支隊(旅団長の指揮する第5師団福山第41連隊)と、南京は完全に包囲されていました。

私は京都福知山20連隊の第3大隊を指揮して中山門に向かって攻撃をしたのであります。

当時支那軍は、南京城外に第36、51、58、87、88、101、112各師団の南京保衛軍というのが要塞を作って防備をしておりました。松井石根総司令官は12月9日、飛行機で南京城内外にビラ(和平開城勧告文)を撒き、

「戦争をするにしのびないから、南京を明け渡すならば攻撃はしない。承諾するかしないかについては、12月10日正午中山門城外に軍使を出せば、そこで交渉する」

と勧告をしたのですが、敵は全く回答をしなかった。そこで日本軍は南京総攻撃に踏み切ったわけです。

流石(さすが)に敵の首都でありますから、確かにものすごい激戦でありました。

私の大隊の正面2キロほど先に溝山(こうざん)という小さな山がありましたが、12月10日の正午に攻撃を開始して、溝山に辿り着いたのはもう夕刻でしたが、敵の大部隊を前にして紫金山方面からもの凄い砲撃を受け、全く動けなくなりました。

溝山は雑木林であったのですが、それが砲撃で丸裸になる程で、ここでも損害が続出しました。

南京の総攻撃はそういう状況から始まりまして、11日、12日と、全然動けない状態でした。12日の夜半11時から12時頃と思いますが、突然銃撃が激しくなりました。

私はこれは敵が退却する前兆であると感じまして、1時間もすれば銃撃が止むだろうと思っていましたら、案の定ピタッと止まりました。

すぐ将校斥候(せっこう。偵察)を派遣しましたが、午前2時過ぎにその斥候が帰って、「中山門まで敵なし」との報告を受けましたので、直ちに中山門に突入する決心を致しまして連隊長に報告をし、第三大隊突入のご承認を得ようとしたのであります。

その報告を出すと入れ違いのように連隊長から、「第三大隊はその場に止まり引き続き警戒に任ずべし。連隊は軍旗を奉じて、予備隊を以って中山門に突入する」という命令がありました。

今まで3日間程随分苦戦を重ね、今突入出来るという時にそこに止まっておれと言われた、その時の悔しさは私は一生忘れることが出来ません。

連隊長が軍旗を奉じて中山門に突入・占領されたのは、13日の午前4時頃でした。

他の部隊も、京都の9連隊が中山陵、明孝陵の辺りを攻撃し、津の33連隊は紫金山を攻撃、佐々木支隊(旅団長の指揮する奈良の38連隊その他の砲兵等)は、紫金山の北側から南京最北の獅子山に向かい突進しました。

第9師団は私の師団の左を東南から光華門を占領し、宇都宮師団は雨花台から中華門に、第6師団は西側を北上攻撃、こういう次第で南京は昭和12(1937)年12月13日に陥落したわけであります。(つづく)(2014/3/27)

2014年03月28日

◆朴大統領の甘えと堅い顔

阿比留 瑠比


25日夜にオランダで行われた日米韓3カ国首脳会談の冒頭部分をテレビで見て、韓国というのはつくづく厄介な国だなあと改めて痛感した。

それと同時にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの著書『職業としての政治』の中の次の言葉を連想した。ウェーバーの引用を好む政治家や政治記者が、なぜか、あまり取り上げない部分である。

「政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが『倫理』はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは−もしそんなものがあるとすれば−こういう態度のことである」

さて、3カ国会談では、安倍晋三首相がわざわざ韓国語で「お会いできてうれしい」と語りかけたのに対し、朴槿恵大統領は返事も会釈もせず、硬い表情を崩さなかった。

イヤイヤ出てきたようなその様子は、北朝鮮の中距離弾道ミサイル発射などで緊張が高まる東アジアの「今そこにある危機」の協議よりも、70年も昔の歴史問題の方がもっと重要だと言わんばかりだった。

日本では一般に、事の軽重、物事の優先順位が分からないことを「愚か」と呼ぶが、韓国では全く基準が違うのだとみえる。

もっともテレビに映らない場面では「安倍首相と朴氏は握手し、笑顔であいさつしていた」(同席した政府関係者)。朴氏の外交儀礼を無視した態度は、主に韓国内向けのポーズだったのだろう。

昨年9月にロシアで安倍首相と朴氏が立ち話をした際も、朴氏は非常ににこやかで会話の中身も常識的だったと聞く。ただ、朴氏は別れ際に首相にこう念を押すのを忘れなかった。

「私と握手したことは言わないでくださいね」

日本の首相に、少しでも歩み寄ったような印象を与えるのは政権運営上、朴氏としては避けたいところなのである。

理解し難いのは、世界でこれだけ日本の悪口をまき散らしながら、当の相手が自分の「演技」に付き合うのは当然だと考えているフシがあることだ。しかも米国まで巻き込んで、である。どこまで自己中心的で甘えているのか。

その上、朴氏は今回の3カ国首脳会談直前にも、独紙で「日本の一部の政治指導者らが、過去の歴史問題や慰安婦問題で韓国国民の心に傷を与え続けた」などと日本批判を展開している。これから会談する相手への配慮などまるでない。

そもそも、日韓関係が現在のように悪化したきっかけは2012年8月、李明博前大統領が歴代大統領で初めて竹島(島根県隠岐の島町)に上陸し、さらに突如として天皇陛下に謝罪を求めたことにある。

朴氏は日本が韓国国民を傷つけたと繰り返すが、日本国民にも感情があり、韓国側の言動に心痛を覚えているという当たり前の道理は理解できないらしい。

「情熱と判断力の2つを駆使して、どんな事態に直面しても断じてくじけない政治家でありたい」

安倍首相は今年1月の衆院本会議で、ウェーバーの言葉を引いてこう述べた。記者の心構えもかくありたいと思うが、韓国の頑迷さには時にくじけそうになる。(政治部編集委員)

産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】 2014.3.27

◆中国船体当たりを忘れるな

池田 元彦


日本人は時が経つとすぐ忘れる。水に流す。理想的な民族的品格だが、嘘を繰返す近隣のならず者諸国に対しては、相手の嘘を即徹底的に叩かないと、勝手に事実にされてしまう。更に質の悪い欧米の左翼に、それを有りもしない既成事実として日本非難に使われる。

2010年9月7日、中国漁船が海上保安庁巡視船2艘に体当たりした。100艘の漁船が組織的に日本領海に30艘単位で侵入し、巡視船が追い払うと別の1団が侵入するという計画的、意図的な侵入で日本の出方を試し、2時間の逃走劇後の最後の体当たりだったようだ。

中国政府による菅内閣発足への肝試しご祝儀だが、見込み通り菅は脅しに屈し、即違法船長を処分保留のまま釈放した。問題は菅首相・仙谷官房長官・柳田稔法相が以降の責任を沖縄地検に押し付け、実写映像を隠蔽し、中国の嘘報道にも一切反論しなかったことだ。

船長釈放は地検独自の判断と繰返した菅首相の指示を受け、仙谷官房長官が船長の釈放を法務・検察当局に働きかけた。3年後2013年9月に仙谷が白状し、柳田法相は福岡高検及び最高検と協議し、指揮権発動を暗に認めた。これが情報公開を掲げた民主党の事実だ。

余りの媚中・弱腰に、長島昭久前防衛政務官等43名が建白書、松原仁衆議院議員等73名が緊急声明書を発表。長嶋建白書は「菅政権への建白書−国益の旗を・」と迄明記している。当時300名程の民主党議員の40%近くが菅政権の対応を国益毀損で批判したのだ。

国益を守るため、即国内外にビデオを公開し、国連でビデオ放映し、中国の無礼無法を非難すべき処を、仙谷長官は流出させた犯人捜しと、機密保持のための法整備を主張した。44分ビデオの流出後の予算委員会委員限定対象の6分間秘密公開は笑止千万でしかない。

国民にビデオ公開しない理由を、仙谷長官は刑事訴訟法第47条「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない」を盾にとり「中国人船長の容疑の証拠」だと主張した。然し47条は続く。「但し、公益上の必要その他の事由があって、相当と認められる場合は、この限りでない」嘘吐き仙谷は、条文後半を意図的に隠していたのだ。
  
船長は一度も起訴されていない。公判云々とは弁護士の癖に恥もなくよく言えたものだ。

10月書類送検され、翌2011年1月には不起訴処分となっている。那覇検察審査会は、4月、6月と2度起訴相当決議を議決するが、民主党政府に遠慮してか、2度とも却下された。

11月13日のAPECでの菅・胡錦濤主席会談を実現させるための譲歩だという言い訳が流布されたが、胡錦濤に対して自信なさそうにメモを読み上げる管は、一言の抗議も出来ず、170億円を費やしたAPECは何のためだったか、怒りを超えて呆れてものも言えない。

時事通信世論調査は、菅政権の説明は信用出来ないが80%、公開すべきが88%、機密に当たらないが81%であった。11月の産経新聞2万人電子調査では、一色保安官の行動を支持するが95%、政府は公表すべきが98%、即ち国民は菅政権の弱腰・隠蔽を拒否したのだ。

改めて問う。菅政府は中国漁船体当たり船長を起訴もせず何故即釈放したのか。釈放を指揮権発動までして沖縄地検の所為にしたのか。ビデオを何故隠蔽したのか。ビデオの何処に国益を害する機密情報があったのか。菅政府は日本国民のための政府だったのか。

2014年03月27日

◆リコノミクス不発で中国失墜へ

平井 修一


支那ウオッチャーの宮崎正弘氏が3月20日、「中国の大手デベロッパーが倒産した。いよいよ不動産バブルの崩壊が本格化する。中国経済の狂乱はおしまいである。これから中国で始まるのは320兆円規模の地方政府債と500兆円規模の理財商品のデフォルト本格化である」と書いている。

そうなら大歓迎だが、ちょっと調べてみた。

第一生命経済研究所・経済調査部の主任エコノミスト、西M徹氏も中国経済の先行きに警鐘を鳴らしている。

<今月5日から始まった第12回全国人民代表会議(全人代)第2回会議。最終日の李克強首相による記者会見は中国経済が抱える様々な問題に対して網羅的に対処する方針を示したものの、昨年の今頃に金融市場でもてはやされた言葉である「リコノミクス(李首相主導による構造改革によって安定成長を目指す政策運営)」は完全に鳴りを潜め、中国経済の独自性や特異性を前面に押し出した政策運営がなされる可能性が出ている。

目下のところ、中国経済を巡る最大のリスクの一つと考えられるのはいわゆるシャドーバンキングを巡る問題であるが、理財商品をはじめとする不透明要因が膨張している状況に鑑みれば、対策はより素早く実現に移されることが望ましいものの、現時点においては「中国の理屈」で行われる方向性は変わっていない。

このことは、今月7日に大手太陽電池メーカーの社債が利払い不履行(デフォルト)状態となったほか、その後も数社で社債と株式の交換が停止される動きがみられるなど異常事態に陥っていることにも現れている。

共産党及び政府が「中国の理屈」を前面に押し出した対応を図ることはそれ自体仕方のないことだが、一連の対応は中国の金融商品は「信用できない」というレッテル張りに繋がるリスクを高めたと言える。

中国の公的債務残高のGDP比は世界的にみても低水準にあり、理財商品や地方政府債務などシャドーバンキングを通じた債務を公的に処理せざるを得ない事態に陥ったとしても、現時点では対応が可能な水準にあると考えられる。

しかし、シャドーバンキングを巡る問題が大きくなった後も新たな理財商品は売り出されているなど事態が沈静化する見通しは立っておらず、状況は悪化の一途を辿っている。問題の根本的な解決を先延ばしすれば、事態は一段と悪化して政府による問題対応能力が限界を迎える可能性も懸念される>

夕刊フジも「中国“3大バブル”の終わりの始まりか」とこう報じている
(3月20日)。

<中国南東部の浙江省の不動産開発会社が事実上破綻した。「影の銀行(シャドーバンキング)」の深刻化や社債のデフォルト(債務不履行)に続き、中国経済最大の病巣とされる大手不動産にも破綻ドミノは及んできた。

地元メディアなどで破綻状態と報じられたのは、浙江省にある不動産開発業者。35億人民元(約575億円)の負債を抱え、資金繰りができなくなった。銀行15行から融資を受けているが、個人からも違法に資金を集めた疑いで経営者らが当局に拘束されたという。これを受けて中国市場では、不動産関連企業の株式や債券が売り浴びせられた。

アジア経済に詳しい企業文化研究所理事長の勝又壽良氏は指摘する。

「不動産景気を原動力に高度成長をほしいままにしてきた中国だが、バブルが崩壊したら、中国の金融機関もドミノ倒しになる。政治的な混乱も不可避だろう」>

中共は不動産開発を景気の調節弁にしてきた。上げたい時は大いに投資し、過熱を冷ましたい時は投資を抑えた。このやり方が効かなくなってきたのだ。御用新聞の人民日報も「中国経済 足取りが緩やかに」と報じている(3月20日)。

<1-3月の情勢は楽観できない。アナリストたちの一致した見方はこうだ。社会消費財小売総額が継続的に減少していることは、中央政府が反腐敗の方針を継続していることをある程度反映する。また最近の不動産の売れ行きの鈍化も、住宅や家電製品などの支出を減少させている。固定資産投資をみると、製造業の減少ペースが最も目立ち、ここから一部の産業が直面する生産能力の過剰という「持病」がうかがえる>

鼻息が荒かった中共がどうして「持病」になったのか。

関志雄・野村資本市場研究所シニアフェローが日本記者クラブで「中国経済の現状と課題 チャイナリスクは克服できるか」とこう講演している(2014年1月24日)

<ある程度、経済が発展すると、余っていると言われた労働力はどんどん不足します。賃金も上がっていきます。そういう段階になると、従来のように、単純な組み立てなどの労働集約型産業でいくら頑張っても、もはや経済発展はそれ以上進まない。

ここに来ると、必要なのは、労働力の投入量の拡大よりも、イノベーションを通じて生産性を上げていくことになります。具体的には、産業の高度化が必要になります。ごくごく例外として、日本や韓国、台湾のように成功するケースもあるが、多くの発展途上国は、大体このあたりで経済発展が挫折してしまう。世界銀行の言葉を使えば、「中所得の罠」に陥ってしまうのです。

中国の2012年の1人当たりGDPは6000ドルを超えた。それを基準にすれば、200カ国の国連加盟国の中では、90位ぐらいなのです。まさに中所得のレベルに達しています。

だから、これから中国は日本のように一気に先進国の仲間入りを果たすのか、それとも中南米の国々のように、経済発展がこれから挫折して、先進国との距離が小さくならないのか、という分岐点に来ています。

もう一方の「体制移行の罠」についてです。中国はベルリンの壁が崩壊して以降のロシア・東欧と似ているという面があると申しあげましたが、実は似ていない面もあります。ロシア・東欧は短期間で体制移行を遂げようとして、いわゆるビッグバン・アプローチ、つまりショック療法をとった。90年代においてはハイパーインフレや金融危機が起きるなど、いろいろな紆余曲折がありました。

これに対して、中国の場合は、より漸進的な形で改革を進めてきました。三十数年たったいまも、まだ社会主義という看板を変えていない。漸進的改革という意味は、単に時間をかけてやっていくということだけでなく、言い換えれば、やりやすい順で、既得権益を尊重しながら進めていくというものです。

アメかムチかと言われれば、できるだけムチを使わないでアメ一本というのがいままでの中国のやり方なのです。そのおかげで三十数年にわたって10%近い成長をしてきたのです。ごく最近までロシア・東欧のビッグバン・アプローチよりすぐれているという評価を得ています。

しかし、考えてみれば、やりやすい順でやっていくと、やりにくい部分ばかり残ってくるのではないか。いま、まさにそういう場面に差しかかっている、というのが清華大学の先生方の考え方なのです。その中でも、市場経済に見合った形での政府の役割の転換と国有企業の改革が遅れています>

国有企業の改革は利権が絡んでとてもできそうにない。断行すれば内乱になるかもしれないからだろう。

在米の経済学者、何清漣がこう書いている。

<中国人民代表大会/政協商会議のクライマックスは「政府工作報告」です。

「中国経済の成長方式の転換と積極的財政政策と穏やかな貨幣政策等有利な要素の影響下に、中国経済は継続して安定発展をつづけようとしている」

とあります。ハッキリ言ってこの前提自体が矛盾したものです。積極財政政策というのはつまり政府が沢山カネを使うということです。一方「穏やかな貨幣発行」というのは貨幣発行量をコントロールすることです。

過去数年、政府のプロジェクトがひとつ増える度に銀行の貨幣発行で支えられてきました。もし貨幣や債券を発行しないならお金は何処から来るのでしょう? 報告にはそのルートの記述がありません。

不動産バブルの崩壊は時間の問題です。経済構造の調整が実現する以前に就職と国民収入を向上させるなどというのはホラ話です。中国人の8割は中・低収入水準にあり、大量の失業者はなんとかかんとかやっと生存しているだけで、低収入者は生活に必要なもの以外にお金は使いません。

中間階級は住居取得のためにローン奴隷になっており、これまた景気よく消費などできることではありません。

中国政府は過去十年、不断に紙幣を増刷して地方債を発行し、さらに政府投資が経済を牽引してきました。その結果世界最大の紙幣印刷機になり、高度のバブル化をとげ地方政府は債務の泥沼です。報告は「穏健な貨幣政策」を唱ってますから、これではもう紙幣印刷で地方債を増発できません>

カネはない、信用もない、助けてくれる友好国もない、たっぷりあるのは汚水と汚泥とPM2.5・・・中共が手詰まりになってきたことは確かだが、どのように倒れるのだろう。

人民日報3月24日から。

<中国発展高層フォーラム2014年―2014年の世界経済情勢見通し」が22日から24日にかけて北京で開催された。国務院発展研究センターの劉世錦副主任は、中国経済はモデル転換の時期にあり、現在は財政金融リスクのコントロール、非貿易部門の効率向上、新たな成長分野の模索の加速という3つの課題に直面しているとの見方を示した。

劉副主任は、当面の財政金融リスクは地方の資金調達プラットフォーム、不動産、生産能力の過剰な産業、シャドーバンキングなどの分野に集中している。リスクはそれぞれに絡み合い、連鎖し合って、リスク波及のループを形成しているとの見方を示した>

改革開放の30年で北京の大気汚染は回復不能になった。有効な手立てはない。30年でおかしくなった中国経済も有効なリスク回避策は示されていない。習近平も李克強も「汚職摘発、腐敗一掃」という名目の内ゲバ(派閥争い、内部闘争)に明け暮れている。リコノミクスは「中国の夢」で終わりつつある。さっさと終わってくれ。(2014/3/25)

◆日本にカジノはいらない

馬場 伯明


叩けばひっこむ。でも出てくる。また叩けば、またひっこむ。モグラ叩きの「カジノ(賭博場)談義」である。2020年の東京オリンピック招致を機にカジノ解禁が、勇躍!再浮上してきた。

カジノ解禁に向け国際観光産業振興議員連盟(細田博之会長、以下「カジノ議連」)の議員らが機敏に動き、2013/11に「カジノ法案」を委員会に提出、継続審議となり、2014年度の国会審議から法案成立をめざす。

カジノ立地に賛成する代表的な人々の言葉をいくつか・・・。

元・石原慎太郎知事「そこら中にカジノがあってもいい」(アジア大都市ネットワーク21総会:シンガポール2013/6/30)。前・猪瀬直樹東京都知事「カジノは大人のディズニーランドだ」(2013都議会予算委員会)」。

橋下徹大阪市長「カジノっていうのは雇用も生まれるし間違いなく経済は活性化する。国際的な観光地になる。安倍首相ならできると思う」(大阪で安倍晋三首相(カジノ議連・最高顧問)と2013/1/11に会談、カジノ付き大阪夢洲総合リゾートを提案)。

日本語では「カジノ」と言うが、ほんとは「カシーノ(Casinoイタリア語)。「【Casino】カジノ。モナコ(Monaco)などにある娯楽場で、ダンス・音楽その他の催物があり、賭博が行われる」(新クラウン英和辞典)。

カジノ議連の議員らは、カジノ解禁・立地の利点として、観光・地域経済の活性化、税収の増加、雇用の増加などを主張する。

一方、反対派は、犯罪の増加、治安の悪化、青少年の健全育成に悪影響、勤労意欲の減退、ギャンブル依存症の増加などを指摘する。

どちらがいいのか。私は日本へのカジノ導入に反対する。美しい国、日本に賭博場はいらない。その理由などを次に記す。

まず、何といっても、カジノ議連の議員ら推進者の拝金主義による薄汚れた魂胆が見える。あえて「悪態」を続ければ、「さもしい」「いじましい」「ずるい」などの言葉で表現してもよい。

特別に批判したいことがある。カジノの推進者が、自分はそのバクチをしないで、他人に「バクチをやれ!やれ!」と煽動することだ。「フィギュア・スケートはしないがアリーナは作ってやりたい」という考えと一見似ているようだが、本質的に異なる。

それは、まるで、麻薬の売り元が、自分の体には麻薬を打たず、麻薬中毒患者に平然と押し込み販売する犯罪行為の構造と似ている。

カジノの悪弊の事例には事欠かない。1973/11に、故・浜田幸一(ハマコー)がラスベガスのカジノで約4億6000万円を一晩ですった事件があった。小佐野賢治が代わりに用立てたと報道された。

2011/5には大王製紙3代目の井川意高前会長がシンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」で100億8000万円をドボン。連結子会社7社から55億3000万円を不正に借り入れ懲役4年の実刑が確定した。だが、江戸時代なら死罪だ。東大卒でも博打に嵌まれば精神的には子供より劣る。

カジノは道徳教育に真っ向から反する。カジノやバクチを礼賛し教えた結果、子供たちに素直な道徳心が身につき、深い愛郷心や熱い愛国心が育まれることは・・・絶対に、ない。

カジノ議連の議員らは鉄面皮で懲りない面々である。一体どのような家庭・道徳教育を受けてきたのか、親の顔が見たい。また、どのような家庭・道徳教育をしているのか、私は、その子供や孫の顔も見てみたい。

カジノ立地で雇用が増え地域経済が潤い生活が豊かになるというが、潤い(収入)に倍する悪影響がある。風紀が乱れ地域は荒(すさ)み、まともな若い子育て世代の人たちはその地域から引っ越してしまうだろう。

たとえば《 韓国で唯一自国民の入場が認められた韓国北部のカジノリゾート「江原ランド」の町では、「カジノホームレス」が増え、開業時人口約25,000人が13年後には約15,000人まで減ったという。子育て中の若い世代が町を出てしまった》(朝日新聞2014/3/14)

さらに、中国のマカオのカジノでは中国要人のマネーロンダリング(資金洗浄)の場に使われている疑惑があるという。(同紙)

日本のカジノ議連は、経営形態として、国の許可を受けた民間企業による民設民営方式のカジノを想定している。すでに、ラスベガス・サンズのオーナー、S・アデルソン氏や日本のゲーム・パチンコ機器大手企業らが参画に意欲的である。

それでも、カジノ解禁・立地は、絶対に許してはならない。日本の精神風土が荒廃し「日本沈没」に繋がる。最後に、再度、私は言っておきたい。

カジノ議連の議員らの行動の卑怯さは「金は他人が出せ。自分はしない」ことだ。不幸は他人事。道徳と正義に反する。

「カジノは最高だ。家族(妻子孫ら)を引き連れ、全員カジノ(賭博場)に行きバクチ(博打)をやる」と宣言し「だから!カジノの解禁立地を!」という論理での彼らの演説は、聞いたことがない。

橋下徹大阪市長が、息子・娘らを全員引き連れカジノの遊び(と教育?)に浸るのならば「『カジノ・・命!』の覚悟やよし!」と見て、彼に対しては本拙文の批判を取り下げてもいいが・・・。

一方で、石原慎太郎氏が大嫌いな中国人(シナ人)の金満層が日本カジノの重要な顧客と予想され、とも連れの中国マフィアも日本進出を狙っているとも言われる。

中国人に「オンブにダッコ」状態になるかもしれない。石原氏はハマの波止場で彼らの上陸をどう阻止するのだろうか。(2014/3/26千葉市在住)

2014年03月26日

◆安倍首相、米英仏首脳と連携確認

水内 茂幸


【ハーグ=水内茂幸】安倍晋三首相は24日午後(日本時間25日未明)、先進7カ国(G7)緊急首脳会議に先立ち、オバマ米大統領、キャメロン英首相、オランド仏大統領と個別に意見交換し、ウクライナ問題での連携を確認した。

安倍首相は、核安全保障サミットの会場内で隣に座ったオバマ氏に「ウクライナ情勢の解決に向けた努力を多としたい」と伝えた。4月に予定されている日本訪問も歓迎する意向も示した。

首相はまた、キャメロン氏と約10分間懇談し、「ロシアとウクライナとの直接対話を促す努力をしている」と説明した。ウクライナで5月にも行われる大統領選挙の際に、日本からの監視団などの人員派遣を検討していることも伝えた。

オランド氏とは、防衛装備品の共同開発などで協力を強化していくことでも一致した。
(産経ニュース2014.3.25 09:53)

◆安倍首相が臆することはない

加瀬 英明


安倍首相が12月に靖国神社を参拝すると、すぐに駐日アメリカ大使館の報道官が「失望した」というコメントを、発表した。

アメリカの日本観が、変わったのだ。小泉首相は靖国神社を六回にわたって参拝したが、当時のブッシュ(息子)政権が不満を表わすことはなかった。

私はワシントンに通ってきたが、このところアメリカは中国にすっかり靡いている。ワシントンは、中国の目覚ましい興隆によって、眩惑されている。中国の貿易総額が、昨年、4兆1600万ドルに達し、アメリカの4兆ドル弱をはじめて上回って、世界一の貿易大国となった。

アメリカは8年前まで、127ヶ国にとって最大の貿易相手だったが、今では76ヶ国に減っている。中国がかわって124ヶ国にとって、最大の貿易相手となった。

中国は巨額の資金を、毎日、世界で動かしている。アメリカは何よりも金(かね)が好きな国柄であるから、中国がもて囃される。

中国が今後も巨大化してゆき、日本が力を衰えさせてゆくという見方が、政権、議会、シンクタンク、マスコミによって、共有されている。テレビや新聞に中国が取り上げられない日はないが、日本が報じられることは、少ない。日本の影が薄い。

中国はアメリカのマスコミ、シンクタンク、大学を、金(かね)漬けにしている。ワシントンが中国の搾菜(ザーサイ)になっている。ワシントンの主要紙『ワシントン・ポスト』は、『人民日報』の英字紙『チャイナ・デイリー』が挿入されている。

ワシントンは安倍首相を警戒し、猜疑心をもってみている。「安倍」というと、「ナショナリスト」「反動(リアクショナリー)」「挑発者(プロボケーター)」という誹謗(ひぼう)がついてまわっている。

安倍政権が12月に靖国神社を参拝したのも、そうだった。慰安婦について河野官房長官談話を手直ししたり、日本が侵略戦争を戦ったという村山首相談話を否定すれば、中国、韓国を刺激して、東アジアに不必要な波風を立てるから、日本に慎んでほしい。日本はおとなしくしていれば、よいのだ。

安倍首相が、臆することはない。これからは靖国神社を春秋の例大祭と8月15日に、堂々と参拝するべきである。電撃的に参拝すると、目を盗んで行ったように誤解されて、いっそう叩かれることになる。

河野談話の見直しも、国会を中心として粛々と進めよう。今回、維新が当時の石原副官房長官の証言を引き出した功績は、大きい。過去は正さなければならない。

アメリカの思惑に気兼ねせずに、日本がなすべきことをはっきりと行い、過去において誤解を招いた政府談話を、否定するべきだ。

日本が謝罪し続けたとしても、日本の立場はよくならない。アメリカの要路の人々に、日本の靖国神社や、慰安婦問題について、曖昧な態度をとってきたのか、いくら説明してみたところで、何の役にも立たない。

中国、韓国はさらに新しい種をつくりだして、日本を非難し、貶め続けよう。

日本はイスラエルを、手本とすべきだ。イスラエルはヨルダン川西岸に入植地を次々と建設するなど、アメリカの神経を逆撫でているが、アメリカはもう馴れっこになっている。

アメリカがイスラエルを味方にせずに、中東政策をたてられないように、日本なしにはアジア政策を考えられない。

2014年03月25日

◆「中共の対日外交の失敗」

情報収録:平井 修一


支那人「老兵東雷」氏による「現代日本の怪物化と対日外交政策の失敗」と題する論文を笹川陽平氏がサイトで紹介している。笹川氏の前書きにはこうあった。

<この老兵東雷と名乗る中国人識者のブログアップの準備中の2月21日付読売新聞朝刊に、北京特派員の牧野田亨記者が、『老兵東雷』の本名は『李東雷』元人民解放軍中佐として紹介していた。

論文は、「今の日本が軍国主義になることはありえない。(日中の緊張は中共の)対日外交の失敗。安倍首相の靖国神社参拝、防衛予算増加などを『軍国主義化』と結びつけて非難する言論に対し、今の日本人は『平和憲法を66年も受け入れ、十分な自由、民主を享受し、文民の管理下で一代一代と戦争の思考から離れていった』と説明した上で、『軍人が政治に関与しないのが(今の)日本だ。どうやって軍国主義に向かうのか。戦後60年以上が過ぎ、日本は変わった。『軍国主義復活』との言い方は人々を誤解させ、たやすく過去の恨みと結びつける。自分の体験を交え、事実を伝えたいと思ったと述べている」>

と笹川氏は要約している。

かなり長い論文で、かいつまんでみたものの結構長くなってしまった。が、とても興味深いから諸兄は一気に読んでほしい。この論文を中共は削除していないようだが、どういうことなのかは後で考えたい。まずは以下紹介する。
・・・

高校では文科系に入り歴史を学んだ、割と全面的に歴史を学んだと言っていいだろう。それでも南京大虐殺については依然として耳にしたことがなかった。

1985年に軍校に入学し、そこで歴史の授業を受けた。実際それは党史を学ぶ授業で、その時教わった抗日戦争の内容は分かりやすいもので:「日本軍が大挙して侵攻したが蒋介石と国民党はそれに抵抗しなかった。張学良の西安事件により国民党と共産党は共同戦線を張った、しかし国民党の(共同戦線)破壊に遭い、(最後は)共産党が全国の抗日戦線を指導し勝利に至った」というものだった。

南京大虐殺についてはこの時期に知ることとなった。

故に、大学卒業まで完璧な洗脳教育を受けていて、日本人の印象はかなり悪いものとなっていた。しかし洗脳で植えつけられたものは、後の自らの体験により逆転された。

その1:

1978年の改革開放後、鎮海と寧波が合併し一つの市区になった。また、鎮海は寧波の海の玄関口であることから、(新中国の象徴であった)上海宝山製鉄所に原材料を運ぶための港を作ることになった、後に著名になる北侖港だ。

宝山製鉄所が日本人の支援を得て作られた事はその時点で知っていた。そこの設備が日本の製鉄所の中古品であることも後で知った。私の知る限り寧波港の建設でも日本人の支援があった。

父は寧波で初代の港湾建設者だったので、夏休みは父と共に通勤バスに乗り、港で過ごした。そのバスはそれまでに乗った事のある普通のバスと違い、とてもしっかりした作りで、窓ガラスには日本の文字が記されていた。つまりそのバスも日本からの支援だったのだ。後に思ったのだが、中国の開放が始まったばかりの頃、私たちには日本への反感などほとんどなかった。

日本の家電は中国で一番人気があったし、その品質の素晴らしさは今も年寄りたちが懐かしむほどだ。当時の中国人は家に日本の家電があることを自慢に思っていて、90年代まではそうだった。

日本の映画もまた『君よ憤怒の河を渡れ』という作品が一世を風靡し、日本のドラマに中国人は感動の涙をおおいに流した。日本のスターの名も、今の(AV女優)蒼井空さんのように、津々浦々に知れ渡り、日本の歌謡曲も流行った。中国から日本に嫁いだ女性も多くいた。

その頃私は幼かったので、国家間の政治ゲームなど知る由もなかった。なぜ中国人は日本人に反感を持っていなかったのか、声高に南京大虐殺を訴える人もなく、釣魚島(尖閣)を知る人もなく、日本製品不買運動や戦争賠償の要求を叫ぶ人もいなかったのはなぜか、全く分からない。

日本の事は全て自然に受け入れられ、わだかまりも無かった。当時日本はすでにかなりの先進国であり、30年にわたり貧困と極度な物資不足の中で暮らして来た中国人には日本にモノ申す気概など無かったのかもしれない。貧すれば鈍するということか? 中国人もプラグマティストだったのか? いや、当時の中国人は党の言うことに従順だったことを忘れてはいけない。では今、中国の改革開放に日本が貢献した事を話題にする人はいるか?

1990年から渉外事務に就いたが、残念ながら当時の中国の外交的環境はひどく劣悪だった。前の年に広場(89.6.4天安門事件)で起きた事により、中国は長い期間にわたり西側諸国からの政治的経済的制裁を受けることになったからだ。西側諸国(日本も政治的には西側諸国である)は中国との外交交流を停止した。

でも後に友人に聞いた話では、89年(10月1日)の国慶節祝賀式典の夜、トウ小平が天安門の建物の中で、中信集団の招きで来訪した日本の代表団と会ったそうだ。それは(89.6.4天安門事件後の)西側諸国からの最初の代表団だった。私の友人はその席での通訳だった。

私が日常生活の中で初めて日本の軍人を見たのは1990年夏だった。それがどこの国の主催のレセプションだったかは忘れた。北京では多くのレセプションが開かれ、各国の大使館が建国記念日や軍隊の日のレセプションを開いていた。とにかく、あるホテルでメガネをかけ髭を生やし、それまで見たことの無い軍人制服をした日本人を見かけた。

彼は日本大使館の国防武官で、階級は一佐、更に正確に言うと自衛隊からの大使館員だった。私は心の中でひそかに彼を罵倒した。それは、子供の頃に見た映画で植えつけられた印象があったからだ。彼もまた中尉の身分を持つ中国の若き軍人である私に好奇心を抱いた。彼がそこそこ上手に中国語を喋れたので話しをしてみた。すると私は徐々に通常の、肩の力を抜いた状態に戻れた。それは、戦争はとっくの昔に終わり、目の前の日本の軍人は当時の軍国主義者とは違ったからだ。

その後も彼は新年になるごとに日本のカレンダーを送ってくれた。それは素晴らしい印刷が施された見事なもので、当時の中国のカレンダーなど比べ物にならなかった。その後も自衛隊訪中団の受け入れを担当したが、彼らはみな温和で謙虚で礼儀正しかった。

その3:

1995年、イギリス外務省の奨学金を取得しイギリスに留学、外交学を専攻した。クラスメートには韓国、香港などアジアの学生が多く、男女3人の日本人学生もいた。日本の学生と長く触れ合うのはこれが初めてだった。彼らは皆若く、私が中国人だと言うとまず天安門広場を連想した。私は彼らとすごく大きな距離感を感じた。と言うよりも、西側諸国からの学生のほとんどが私に距離感を持っていたと思う。

一番好きだった授業は現代国際関係史だった。この現代関係史が私に中国現代史をマクロに俯瞰させ、初めて明確な考えを持たせてくれた。つまり、中華民国こそが1949年以前の中国の国家主体であること、そしてそれにより私は20世紀初頭の中国の歴史をマクロに知り、党史の教育による呪縛から脱し、第二次世界大戦と抗日戦争の全容を知ることができたのだ。

中国の学校教育では中国共産党史が中華民国史を代表し、徹底的に歴史を歪曲している。その目的はただ一つ、執政の合法性を証明するために歴史を改編しているのだ。実に恐ろしい。

1997年2月、中国の高級将校行政班と共にハーバード大学ケネデェイ行政大学院で研修を受けた。ここで私は二つの地域の問題について全く新しい見方をするようになった。一つは、アジア太平洋におけるアメリカのプレゼンスが地域の安全に有利であること。アメリカの核の傘が日本の軍事力発展の制約になっているからだ。

二つ目は、それまでの視角を超えて中日関係を見ることになったことである。

その研修の内容はグローバル化から地域衝突、情報化時代から核の危機など多岐にわたり、国際関係においてアメリカでトップクラスの学者や元国防長官などが講師を務めた。そのうちのお二人が私には印象的だった。それは、後にソフト・パワー説を発表したジョセフ・ナイ氏と、アメリカの東アジア問題の権威であるエズラ・ヴォーゲル氏で、私はお二人の講義の通訳をした。

エズラ・ヴォーゲル氏の中日関係の講義は素晴らしく、中日関係の話しでは激しやすい中国の士官たちでさえぐうの音も出ないものだった。氏は第三者的視点から中日関係を語り、明治維新による日本の徹底的な変革や、第二次世界大戦後の日本がなぜ戦争の原因を徹底的に清算できないのか、日本の天皇が何故保たれたのか、靖国神社と先人を尊重する日本文化、日本の平和憲法、強いものに従う日本人とは、等々を語ってくれた。

この講義で私は、自分たち中国人が日本を知らないこと、知ろうとしていないこと、独りよがりの狭隘な考えで日本を理解しようとし、そのナンセンスな理解を疑おうともしていなかった事を知らされた。

その日は講義が終わっても皆黙り込んでいた。皆エズラ・ヴォーゲル氏の話しに納得がいったからだ。でも私は講義後に大佐と論争することになった。私が「中国の若者は日本を全く恨んでいない、逆に日本が大好きだ」といった事に大佐は、自分の息子が日本人を恨んでいることを理由に「中国の若者は心底日本を恨んでいる」と反論したからだ。事実は彼の主張は間違ってはいない。

では中国人はいつから再び日本人を恨むようになったのか、私には今でも分からない。ここまで沢山書いたがまだ1997年までしか書けていない。私はこの年に30歳になったけれど、まだ日本には行ったことが無かった。ここからが実際に目にしたことで起きた変化である。

その5:

1998年からは度々日本を訪れ、実際に日本を見ることになった。

中でも最も印象に残ったのは、1998年に当時の軍事委員会副主任兼国防相だった遅浩田上将の訪日に随行した時の事である。それは中国の国防相の初の日本公式訪問だった。訪日をひかえた壮行会で遅副主席は代表団随行員全員に「日本に行くと腰が砕け、日本人にペコペコする無様な輩がいるが、みな決してそうなるな」と語った。

我々はその言葉どおり、始終腰をぴんと張って日本でのスケジュールをこなした。この『腰をぴんと張れ』は後に私が発表した「冷静に日本を見る」という未熟な作品の第1篇となった。

遅副主席は抗日戦争の最後の段階で(中共軍の)八路軍に参加した。後に発表された母を偲ぶ文章の中では、八路軍参加を母親がどれほど応援してくれたか書かれていて、それに深い感銘を受けた。遅副主席が人民大会堂で日本のある政党の代表団と会った時の事だが、彼らにこう言ったことを今でもはっきり覚えている。

彼は「あなたたち日本人に私は感謝したい。そもそも私は勉強して私塾の先生にでもなろうと考えていた。でも日本が中国を侵略し、私の村の人を虐殺したことで、私は軍に入ることになった。それが今の私を国防相にし、上将にした」

この言葉から、日本に対する彼の感情が私の何倍も複雑であることが分かった。

東京滞在中は指導者との面会、会談、宴席など公式活動でびっしり埋まり、軍関係から政界、財界から華僑組織と広く接することで忙しく、東京がどんな所かも知ることもできなかった。覚えているのは歓迎宴で振る舞われた日本料理がとても手の込んだものだったという事だ。

政府との正式な交流活動を終えると、軍の視察と各地見物の日程が組まれていた。日本の防衛庁が、時間を節約するためにヘリコプターを手配し、航空自衛隊の百里基地や海上自衛隊の横須賀基地、陸上自衛隊の富士訓練センターへ案内してくれた。

百里基地ではF-15とF-2戦闘機の航空パフォーマンスや装備の展示も披露してくれた。でもあまり深い印象は残らなかった。私の軍に関する知識の中でも空軍については最も知らなかったからだ。陸自の富士訓練センターは富士山の麓にあり、そこでは陸自の武器装備の展示や、一部については操作のデモンストレーションを見せてくれた。

一連の対応は、我々が外国の軍事代表団を受け入れる時とほぼ同じだった。日本側の受け入れ態勢は我々と同じく綿密に準備され一糸乱れぬものだった。でも我々以上に緻密であった事は否定できない。

横須賀基地が最も印象的だった。横須賀はアメリカと日本の共用の軍港で、その後再び訪日した時にはアメリカの空母「キティホーク」が停泊していたが、この時に日本側が披露したのは国産の護衛艦「春雨」だった。「春雨」は1996年に就役した防空対潜水艦護衛艦であり、当時の中国の現役の軍艦よりはるかに進んでいた。

私は仕事柄、他国の軍艦を沢山見てきた。新旧・大小様々で、海に浮かぶものも海中を進むものも見た。日本の造船業と科学技術の水準は極めて高く、日本の軍艦から依然として日本製の精緻さを感じさせられた。

日本の海軍を訪れたこの時、私は「もし再び中日で海戦が起きたとして、中国海軍が日清戦争の時以上の結末を迎えることはないだろう。戦いは海上にとどまり、陸上戦にまで広がることは無いだろう」と確信した。

幸い中国の海軍装備はこの十数年で大きな進化を遂げたが、戦闘力を備えているのか分からない。

公式訪問が終わると、文化の旅になった。私はこれまでに『文明の力:箱根から京都まで』という文章で、遅副主席が東京を発った後の文化の旅について書いた。それは二日前に改めてウィーチャットでも公表した。それを書いたのは2007年1月4日で、文中に私は中華文化による覇権への期待を込めた。

事実当時の私はあまりにも楽観的に考えていた。この7年間世相の乱れは拍車がかかり、経済の繁栄が中華文明に復興をもたらした形跡は見られなかった。同時に、中国による「日本怪物化」も激化した。

訪日した当時、中国にはまだ高速鉄道が無く、新幹線での移動は感慨深かった。車中で同僚とふざけ合い、不意に浮かんだ「バカヤロウ」という言葉を私は言ってみた。すると、たまたま近くにいてそれを聞いた若い女性が驚き、そんな罵り言葉をどこで覚えたのかと質問してきた。

遅副主席は日本訪問終了後、引き続き他国を訪問したが私は随行せず、大阪から東京に戻り単独で二日間を過ごした。私は二日間観光客として、賑わいながらも秩序ある街並みを見物し、普段の町の様子、夜の新宿、仕事帰りにパチンコに興じる日本人、通勤ラッシュの東京の地下鉄の尋常じゃない込み具合を体験した。

その後も後続の代表団と共に日本で産業と農業の見学もした。他にも国防部関係者として日本での会議に何度か参加し、中国人留学生の部屋を訪ねたり、日本の大学構内をブラブラしたり、沖縄の米軍基地にも行った。

私が感じた中国と日本の一番の違いは秩序であること、中国より人口密度が高いが、国民の資質はそれより遥かに高いことを感じた。かつて有った「大国の台頭」というテレビのシリーズ番組で、日本の台頭についても述べられ、その理由に日本のしっかりした教育を挙げていた。

私が不思議に思うのは、日本では政治と国際問題が政治家と官僚のゲームとなり、一般の国民の生活とは直接関係していないようであることだ。中国では皆が政治を熱心に見つめ、それぞれに日本に対する沢山の感情を抱いている。とは言え、これは私の勘違いである可能性もある。

時は経ち、アジア太平洋の多国間安全協力が私の主な仕事となった。多国間とは二カ国以上を指す。私は多くの地でアジア太平洋安全国際会議に出席した。会議で私は主にアメリカと日本の参加者と対峙した。この両者には明らかな違いがあった。アメリカ人は単刀直入を好み、私もそういう率直なやり方を好んでいた。だから日本人とのやり取りは気疲れが多かった。

再び日本に行ったのが2008年。私は転職し北京オリンピックのオフィシャルサイトの記者になっていた。世界中をめぐる聖火リレーに随行し私は長野を訪れた。そこで国内にいる中国人には見ることが出来ない光景を目の当たりにした。私は聖火ランナーの前を走る報道用の車に乗り、北京でのオリンピック開催に反対する様々なアピールをカメラに収めた。当時それを『長野で妖怪変化を見た』と題した手記にした。

北京オリンピックの聖火リレーはロンドン・パリ・アメリカ・ニューデリー・オーストラリア・長野・ソウルを走ったが至るところでチベット独立運動活動家の抗議の声、聖火の強奪や火消しなどに遭った。そして抗議は日本で最高潮に達した。

そんな情景をロンドンで初めて見た時は腑に落ちず怒りを覚えたが、度々目にするうちに気にならなくなった。抗議することは民主政治の国の本来の姿であり、私たちがそれに慣れていないと気付いたからだ。

我々には見慣れていない事を陰謀化したがる傾向がある。ただし、私は長野で行われた北京オリンピックの聖火リレーにおける『日本の警察官の懸命な努力』について書いた。あの日、日本の警察が北京オリンピックの聖火を守るために身を盾にして守り抜いたからだ。

勿論あの日、長野市ではそれ以上に多くの中国国旗がはためいていた。私は「日本の中国人留学生や華人は親日的だから控えめにするだろう」と思い込んでいた。しかしあの日、日本各地の華人と留学生が粛々と長野に集まり、聖火リレーの走行ルートで、その愛国心からなる声援を送っていたのだ。

帰国後、私はカメラに収めた写真を整理し、それを『聖火ランナー』『チベット独立運動家』『愛国学生』『一般大衆』『警察とメディア』に分けたPPT資料にし、大学での講義に用いた。

受講者は見せられた写真に色々な思いを抱き、私の言葉に感情を左右させた。それでも、私がそれら全てを発表しない限り、北京オリンピックに関する諸外国の情報を全面的に知ることは出来ないのだ。

ではこれまでの長期間、中国のメディアは日本について全面的に報じてきただろうか。我々は日本の誰かの何か一部でも明らか出来ただろうか。私は自身のPPTにとても独特にタイトルをつけた。それは、『寛容な目で世界を見よう』である。

その8:

3年前、世界の気候問題に関する議論が活発になり、まさにピークに達したころから、私は低炭素環境保護、省エネ排出削減の仕事をはじめた。環境問題に注目する中、私はふたたび日本をじっくり観察することになり、再度、日本の国際的義務について考察することになった。

環境保護という視点からみた場合、日本はまちがいなく、世界において環境文明がもっとも発達した国のひとつであり、国際的義務を負うという視点からみると、日本が負っている国際的義務は非常に高く、世界で尊重されているレベルは中国よりはるかに高い。また、日本は中国に対する援助が最も多い国である。

1)日本のGDP(に対するエネルギー効率)原単位は中国の7分の1である。これは恐るべき数字である。

中国がGDPのみを追求したがゆえにまねいた、高エネルギー消費、低効率、深刻な汚染、低いアウトプットを意味しており、環境に対する略奪と回復不可能な破壊にほかならないからである。逆に、資源が不足し、人口密度が極めて高い日本の、地球や人類に対する貢献を意味している。環境文明は現代文明の新たな標識と言える。

2)「京都議定書」は世界の環境と気候問題で一里塚の意味をもつ文書である。また、日本の京都で採択され、先進国の二酸化炭素排出制限を規定したものであり、日本は比較的厳格にこの文書を執行している。

3)日本のどれだけの企業や組織またボランティアが、中国北部の砂漠地帯の植樹造林に参加したかは知らない。しかし、私は統計で出てきたこの数字が驚くべきものであり、中国人がこれにより慙愧の念にかられるであろうことを知っている。

30年あまりにわたって、日本は中国にとって最大の援助国であり、中国は日本がもっとも多く援助した国である。中国が海外から受けた援助の内、60%以上が日本からのものである。

30年にわたって、日本は中国に合計2900億人民元の援助をした。首都空港、浦東空港を含む中国の多くの空港、港、鉄道などいずれも日本からの援助を受けた。この種の援助には、中国人数万人の日本での研修も含まれている。

5)90年代、日本はアメリカを抜いて世界最大の対外援助国となった。もし日本に以前ほどの国力がなくなっていたとしても、依然として世界最大の対外援助国の一つである。

以上、認識を新たにした8つの理由を述べた。私は、日本がいったいどのような国であるのか明確に述べていないことはわかっている。私の日本に対する理解が不十分であることを認める。しかし、私は、あなたがたが考えている日本とは異なる日本を示すことができたと信じている。

問題は、こんなに長い間、なぜ今の日本を「怪物化」することになったのかである。なぜ日本を怪物化しなければならなかったのか?

今の日本を怪物化するもっとも主要な手段は、中国人に歴史を連想させることである:日本は侵略の歴史を認めず、謝罪せず、A級戦犯が祭られている靖国神社を参拝し、また平和憲法の改訂をたくらんでおり、日本はまたしても軍国主義の道を行くのだ。

このロジックはすでに何年も使用されてきた。多くの中国人の心に深く根ざして長い年月がたった。なぜなら軍国主義が中国に深刻な災難と民族の恥辱をもたらしたことは、今に至るまで、中国人の心に憎しみとして深く刻まれているからである。

一方、日本は、軍国主義に走るであろう論調がここ2年続いているところへ、さらに新しい刺激、尖閣諸島の主権問題が加わった。

ニュース報道をみると、ここ数日、多くの中国在外大使が、その国のメディアに日本の軍国主義傾向を批判する記事を発表している。これは対外宣伝攻勢である。中でも笑えるのは、駐英国中国大使が日本を「ヴォルデモート」(「ハリー・ポッター」の主人公の最大最強の敵で、イギリス魔法界で広く恐れられる闇の魔法使い)にたとえたことである。しかし、事実そうなのか?

疑問1、

日本は侵略の歴史を認めたのか? 謝罪したのか? 大多数の中国人はしていないと考えている。そればかりか、日本は侵略の歴史を否定しようとたくらんでいると考えている。

しかし、日本に滞在する作家、兪天任氏は、日本はすでに何度も謝罪していると私に言った。私は兪天任氏の言葉を信じる。

疑問2、

日本の歴史教科書問題は中国によって故意に誇張されているのか? 兪天は、日本には侵略を徹底的に否定する教科書はない、と私に言った。中日間の歴史教科書をめぐる争いは、今にはじまったことではないが、日本には統一された歴史教科書というものがなく、各学校が歴史教科書を選択して用いるということ知るべきである。

しかし、中国のメディアが中国人に与える印象は、日本が歴史教科書を改訂し、日本の子どもに侵略を美化した教育をしているというものである。事実、歴史教科書問題では、私は、私たちの歴史教科書も歴史の真相に復するよう強く望んでいる。

疑問3、

靖国神社にはA級戦犯の位牌が祭られているのか? なぜなら、日本神道では偶像崇拝をしないため、中国人が想像するような戦犯の位牌はそもそも存在しないはずだ。

日本のA級戦犯14名の氏名は、死亡した歴代の軍人200万人の名簿の中に出てくる。これらの戦犯が名簿の中に出てくるのは1978年(まさに中国の改革開放時代で、中国は数年後はじめてこれに抗議した)で、これ以降、日本の天皇は靖国神社を参拝していない。

日本の政客は自らの主張や国内政治の必要性から参拝するか否かを選択している。兪天任は正式に靖国神社を参拝し、彼のブログに参拝の過程を詳細に記述している。これこそ重要な資料である。

疑問4、

もっとも重要な疑問は、今の日本が軍国主義の道を歩む可能性はあるのかということである。中国の外務省やメディアは、日本軍国主義の復活を警戒するよう呼びかけることが非常に好きだ。日本は本当に軍国主義の道を行くのだろうか?

根本的視点でみると、1947年に公布された日本の「平和憲法」第二章第九条で、すでに戦争、軍備、交戦権の放棄が明確となっている。平和憲法は日本の基本的国家主権の一部を剥奪し、国際政治において他の国より一段低くしたのである。これは当然のことで、日本は罪を受けいれるべきである。

当時、「明治憲法」の枠組みの中で軍国主義国家となり、世界、アジア、中国にかくも悲惨な損失をもたらしたのは、いったい誰のせいなのか? 第二次世界大戦終結時、残念なことに中国民国政府は内戦にあけくれて、日本に対する軍事占領に直接参画できなかった。さもなければ、中国の日本に対する発言権は現在のような状況にはならなかった。

しかし、大きく譲って言えば、日本の平和憲法が改訂または廃止されたとしても、日本は正常な国際政治的地位を有する国に戻るだけであり、経済力に見合った真の意味での大国になるのである。ただし、軍国主義の発展とは相当かけはなれている。

疑問第5、

今の日本に軍国主義の道を歩む必要はあるのか? グローバル化、経済統合が進む世界で、まだ戦争という手段を用いて、侵略や都市を占領し土地を奪い取り、他国の領土を占領し、不平等条約を締結して、資源や市場を略奪する必要があるのだろうか?

米日安保条約があり、米日軍事同盟があり、米国の核の傘がある。日本は軍事力を過度に発展させる必要はないのだ。日本が軍国主義の道を歩むことを中国人は承諾しない。アメリカ人は承諾するだろうか?

よって、私は、日本が軍国主義の道を歩むという推論は、悲惨な歴史を経験した中国人にとっては非常に理にかなったことであるが、日本人にとっては荒唐無稽な陰謀説であると考える。

しかし、日本があらためて軍国主義に向かっているというのは、おしいことに、長期にわたる反日キャンペーンで中国の愛国者の敏感な神経に刺激を与えてきたし、愛国者たちの激昂した気持ちを直ちにピークに到達させる効果がある。(しかし)いわゆる日本が軍国主義に向かっているというのは、基本的には偽命題である。

今の日本人はどんな様子か、中国人はあまり知らないだろう(頭から知りたくないと思っているかもしれない)。平和憲法で66年間洗脳された日本人、平和な環境の中で、私権、自由、民主(日本式民主)を十分享受してきた日本人、文人官僚の管理下にある日本人、戦後の各世代の考え方が戦争からどんどん遠ざかっている日本人、軍隊が国家化し、軍人は政治に参画しない日本。

彼らがどうやって軍国主義に向かうのか教えてほしい。

標題の「なぜ今の日本は怪物化なのか?」の疑問に戻りたい。この問題は本当のことを言って、答えは難しい。直接的な証拠が不足しているからだ。よって、自身の仮説や他人の考えを借りて以下の通り書いてみた。

1)個人的仮説:相手を怪物化するのは中国の伝統文化の一部
中国人は相手を怪物化することに長けている。国レベルで言うと、私たちは米国、ソ連、ベトナム、インドなどすべての相手を怪物化したことがある。相手を打ちのめすためには手段を選ばない。これは中国文化の一部ではないだろうか?

2)個人的仮説:国内の政治的要求を満たすためのプラグマチズム

長期にわたり、中国は「経済では利用し、政治では圧力をかける」という対日政策をとっきたと考える。経済で利用するとは、改革開放の25年、中国は日本の資金、技術、市場に大きく依存してきたし、政治面で圧力をかける目的は、経済面でよりよく利用できるようにするためである。

圧力をかける手段の一つは、過去の日本と今の日本を区別せず、過去の怪物日本でもって今の日本を怪物化するのである。

!)共同仮説:ナショナリズムはいいものだ

これは最後の文章で展開しようと思っている観点である。ナショナリズムは、政権担当者がもっとも好んで利用するツールであろう。ナショナリズムは拡張主義に用いることができるし、孤立主義を招くことも可能である。

ナショナリズムの特徴の一つは、自らの民族を美化し、対立民族を低く評価し、醜く描くことである。ナショナリズムの最大のメリットは国内の課題を転嫁できることである。

!)個人的仮説:民意と政策決定の相互作用の悪循環

以前の日本に対する怪物化は、経済的によりうまく日本を利用するためであったとすれば、今の日本に対する怪物化には新しい要素がある:政策で民をしばり、政策が民意に縛られる。

インターネットが出現する以前、民意と輿論は完全に政策決定者の手中にあり、民衆は発言権がなかった。ネットが発達したことで、民意が表現されるようになり、特にナショナリズム的色彩を帯びた民意は非常にたやすく認められるようになった。民意を縛っていた側と縛られていた側の相互作用で、怪物化と陰謀説がますますエスカレートし、多くの人が信じるようになった。

多くの場合、民意は非理性的であり、真実ではない。尖閣諸島問題はその典型的な事例である。尖閣諸島の領有権を主張する民間の活動団体が行動を始めるまでは、中国政府は尖閣諸島問題を大きく取り扱っていなかった。今の中国にとって核心的利益ではないからである。

尖閣諸島の主権争議の存在を維持することは、私たちにとって有利であるが、尖閣諸島問題の経緯を理解している中国人はごく少数である。民間の活動団体の行動が引き金となって、ネット上の民意が、尖閣諸島問題の明確化と強硬な姿勢と対決を政府に迫り、結果、2012年の日本車焼き討ち事件を招いた。

歴史問題における、中国の日本に対する姿勢が、軟弱から強硬へ、不明確から明確へ、あいまいから確実へと変化していることがわかる。そこで一つ質問をしてみたい。以前、中国は中日の歴史問題で妥協したが、2000年前後から妥協しなくなったのはなぜか?

私の答えは次の通りである。

1)中国の総合力が強大になった。当時の天安門事件後の政治的経済的制裁から脱却し、政治的には国際舞台に返り咲き、国際問題に参画するようになった。江沢民主席は世界に向けて自信たっぷりに江沢民外交を行った。

2)中国経済はトウ小平の南巡談話後、開放政策によって、急速な発展をとげて世界最大の市場となった。市場は私たちにとって最大の対外資本である。中国とEU、中国とアメリカの貿易額は急成長し、中国の対日経済依存度は低くなった。中国は日本に対してNOと言えるようになったのである。

3)しかし、どんどん自信をつけてきた中国も、2000年までに外交上、極めて手痛い挫折を2回経験し、中国の外交のあり方を変えることになった。1回は、李登輝が持ち出した両国論に大陸が過度の反応をし、1996年の台湾海峡危機を招いたことである。中国の大規模な軍事演習により、台湾海峡へ向けてミサイルを発射するが効果なく、逆に台湾独立勢力が大きく力をつけることになってしまい、2000年には陳水扁が予想に反して台湾
地域の指導者に当選した。

台湾海峡危機で、日本とアメリカはいずれも、確実に台湾側についた。あの時期、中国外交は活気づくが、結局思い通りにはならなかった。

2回目は1999年、ユーゴスラビアの中国大使館がアメリカを中心とするNATOの爆撃を受けたことであり、これは、中国政府が恥をかかされた、国際関係の基本的ルールを踏みにじる事件であった。これに対するデモや抗議行動はあったが、中米関係は最終的には回復した。

4)1997年2月、中国の改革開放の総設計師トウ小平が世を去った。彼が打ち出した臥薪嘗胆式中国外交のスローガン(「韜光養晦」、能ある鷹は爪を隠す)は、才能を包み隠して表に出さず、成果をあげる、である。彼が亡くなるまで、才能を包み隠して表に出さないことは徹底的に実施された。そして死後、徐々に成果をあげはじめ、台湾統一問題ではタイムスケジュールを出すまでになったのである。

5)インターネットが中国で急速に発展したことで、中国の民衆は政府の情報ルートに頼ることなく、多くの情報が得られるようになり、意見を表明する機会も多様化した。こうして、ついに民意が中国の外交政策に影響をおよぼしはじめたのである。

2000年以降の13年間、中国は経済面で急速に台頭し、日本を抜いて世界第二の経済体となり、日本は中国最大の貿易パートナーの地位を失い、日本の対中援助プロジェクトも終了した。日本は長期にわたる経済低迷に陥った。中国大陸と台湾の関係は急速に改善され、国民党が政権をとり、台湾の大陸に対する経済依存度が高まった。

中日間では、かつてのような均衡が徹底的に打破され、中国は、ついに日本に対して心理的優位にたつことになった。中国は、ついに宿敵日本に躊躇なくNOが言えるようになったのである。このような視点にたつと、中国の日本に対するプラグマチズム外交は、非常に成功したようにみえる。

2012年9月29日は中日国交正常化40周年の記念日で、中日両国関係改善の重要なチャンスであった。両国政府は事前にこのために努力をした。しかし、記念日を迎える前に尖閣諸島事件が発生し、状況は悪化し続けて、9月14日前後には中国の各大都市で大規模な反日デモや日本車の焼き討ち事件が起きた。

中日国交正常化40周年の年から、中日の国交はますますおかしくなった。中国の対日外交は、民意を日本との和睦に導く試みから、民意を利用した反日へと、すっかり変わってしまった。中国のメディアも躊躇なく、すさまじい勢いで反日を伝えた。

ここで、中国の対日外交がなぜ失敗したのかをまとめてみる。

1)民衆外交の目的は、両国民間の信頼、協力、友好を構築し、互いによいイメージをつくることである。中国国内で対日戦争を叫ぶ人が増えているが、これは外交の失敗ではないのではないか?

2)中国外交(外務省だけではなく、主要メディアも含めて)では、国民に真実の日本や真実の世界を伝えていない。もちろん、歴史の真実もである。しかし、情報時代にあるがゆえに、ウソは続けられない。

3)中国の特色ある外交言語は国際的文脈に入っていけない。中国外交は長期にわたり、自ら作り上げた勝利の中で生きてきたのだ。

4)愛国主義の旗印のもと、ナショナリズムを宣揚しているが、ナショナリズムはもともと両刃の剣であり、制御しがたくなったときのみ、自らの傷害をまねくものだ。

5)もっと大きな失敗は、中日の衝突は中国に不利であり、私たちの最大の競争相手であるアメリカに有利なことだ。私たちの戦略家たち(実際には実戦経験や行政経験がなく、真実の世界を理解しておらず、今なお冷戦の考え方をしている中国の国際関係学者)は、米国軍事力が東アジアへ戻ってくるのを大喜びしている。米国が東アジアへ戻ってくる原因は何か?

東アジアには従来から3つの潜在的危機が存在する。朝鮮半島、台湾海峡、南シナ海である。いずれも中米日が関連している。今、また尖閣諸島問題が浮上している。

南シナ海は本来、中国とアセアン諸国の争いであり、中国は長期にわたり、南沙問題で「主権は自らのもの、争議は棚上げし、共同開発を進める」という立場をとってきた。私たちは南シナ海問題の国際化、拡大、複雑化に一貫して反対してきた。しかし、南シナ海は日本にとって海上の生命線である。中日間の尖閣諸島の争いは、南シナ海問題を複雑化し、中国と係争中のアセアン諸国は米日に向かうに違いない。

はっきり言えば、中日間の尖閣諸島の争いによって、現段階で中国は敵をたくさんつくりすぎた。しかも、中国は現段階では平和的にせよ武力行使にせよ、紛争を解決する実力は持ち合わせていない。力がないにもかかわらず、戦争をわめきたてれば、結果はまちがいなく自らの顔を何度もひっぱたくことにほかならない。このような外交を失敗と言うにまだ足りないのであろうか?

7年前、私は「冷静な眼で日本をみる」というシリーズを書き、最終章の題名を「中日関係の新思考」とした。この中で、つぎのように述べた。

「中国は台頭しつつある。しかし、私たち自身の構造的問題によって、われわれの台頭の歩みは確実なものではなくなる。対日関係では、われわれは歴史の荷物を放棄する力がなく、優越感と劣等感が入り混じったわだかまりを放棄する力がない。われわれはまだ真の意味で腰をまっすぐ伸ばせていない。重い歴史をおろし、日本を平等で正常な国として競争し、大中華の平和的覇権を構築する日を期待しよう」

去年、抗日戦争勝利68周年で、私はネットに「68年経った。中国は夫に不満をもつ妻の気持ちを放棄すべきだ」と題する文章を発表した。その中から一部を引用してこの文章を終えることにする。

「一部の歪曲された抗日戦争史によって、私たちは小さいころから勝者の感覚を味わったことがない。残っているのは、抜け出しがたい悲しみと恥辱と憎しみだけである。中国を抗日戦争で勝利に導いたことは、蒋介石の一生でもっとも栄誉なことである。あれが勝者の栄誉である。

1945年9月3日、同盟軍中国戦区の司令官蒋介石は、全国に向けて抗日戦争勝利の談話を発表した。その一部を記す――

「われわれ中国の同胞たちは「旧悪を根にもたず」「人の善行を助ける」ことを知り、われわれの民族の伝統ある最高の徳とすべきである。われわれは一貫して、日本の武力をひけらかす軍閥のみを敵とみなし、日本の人民を敵としないと表明している。今日、敵軍はすでに同盟軍によって打倒された。もちろんわれわれは、彼らがすべての降伏条件を忠実に実行するよう厳しく命じるべきである。

ただし、われわれは報復してはならないし、敵国の無辜の人民に対する侮辱などなおさらしてはならない。われわれは、彼らがナチス軍閥に愚かにも強制されたことを憐れみ、彼らが間違いや罪悪から抜け出せるようにするだけである。

敵のかつての暴行に、暴行でもって応じ、かつての間違いや優越感に対し、侮辱で応じるなら、恨みによる報復が繰り返され、永久に終わらなくなることを知るべきである。これはわれわれの仁愛と正義の軍が掲げる目的では決してない。これはわれわれの軍民同胞が特に注意すべきことである」

これこそが勝者がもつべき意識である。非常に残念なことだが、このような意識はとっくに姿を消してしまった。さらに残念なことは、一つの山に虎2頭は住めないという中国の伝統文化により、抗日戦争勝利後も民主に向かうことはなかった。中国は内戦や政権交替を経験した。

新政権は、抗日戦争の受益者として、建国後長期にわたって愚民政策をとり、文革時代には狂気にいたった。歴史というのは、思い通りに化粧を施せる花嫁にすぎない。たとえ現在、歴史の真相に一歩一歩近づきつつあるとしても、ナショナリズムはまたしても利用可能なツールとなるのだ。

夫を恨みつづける妻の気持ちとはどんなものか? 過去の悲哀にひたるのみ。はかりしれないほど多くの悲哀の中で、さらに悲哀を拡大するのみ。恨みごとを言うことしか知らず、反省しない。憎しみのみを知り、寛大になれない。進歩しない。

68年経った。日本は第二次世界大戦後のさまざまな束縛から徐々に脱却しつつあり、正常な国の地位を回復し、政治大国の地位をめざしている。ただし、軍国主義にはかなりほど遠い。中国と韓国を除けば、歴史問題で日本ともつれ合っている国はほかにない。

中日関係は従来のような大国間の争いに向かっている。これは恐るべきことではない。なぜなら、グローバル化時代にあって、戦争はもはや大国間で勝負する際に優先的に選択されるものではなくなった。中国は勝者の自信をもって、新しい中日関係に向かい合うべきである」

2014年1月17日北京にて(了)(2014/3/23)