情報収録:平井 修一
支那人「老兵東雷」氏による「現代日本の怪物化と対日外交政策の失敗」と題する論文を笹川陽平氏がサイトで紹介している。笹川氏の前書きにはこうあった。
<この老兵東雷と名乗る中国人識者のブログアップの準備中の2月21日付読売新聞朝刊に、北京特派員の牧野田亨記者が、『老兵東雷』の本名は『李東雷』元人民解放軍中佐として紹介していた。
論文は、「今の日本が軍国主義になることはありえない。(日中の緊張は中共の)対日外交の失敗。安倍首相の靖国神社参拝、防衛予算増加などを『軍国主義化』と結びつけて非難する言論に対し、今の日本人は『平和憲法を66年も受け入れ、十分な自由、民主を享受し、文民の管理下で一代一代と戦争の思考から離れていった』と説明した上で、『軍人が政治に関与しないのが(今の)日本だ。どうやって軍国主義に向かうのか。戦後60年以上が過ぎ、日本は変わった。『軍国主義復活』との言い方は人々を誤解させ、たやすく過去の恨みと結びつける。自分の体験を交え、事実を伝えたいと思ったと述べている」>
と笹川氏は要約している。
かなり長い論文で、かいつまんでみたものの結構長くなってしまった。が、とても興味深いから諸兄は一気に読んでほしい。この論文を中共は削除していないようだが、どういうことなのかは後で考えたい。まずは以下紹介する。
・・・
高校では文科系に入り歴史を学んだ、割と全面的に歴史を学んだと言っていいだろう。それでも南京大虐殺については依然として耳にしたことがなかった。
1985年に軍校に入学し、そこで歴史の授業を受けた。実際それは党史を学ぶ授業で、その時教わった抗日戦争の内容は分かりやすいもので:「日本軍が大挙して侵攻したが蒋介石と国民党はそれに抵抗しなかった。張学良の西安事件により国民党と共産党は共同戦線を張った、しかし国民党の(共同戦線)破壊に遭い、(最後は)共産党が全国の抗日戦線を指導し勝利に至った」というものだった。
南京大虐殺についてはこの時期に知ることとなった。
故に、大学卒業まで完璧な洗脳教育を受けていて、日本人の印象はかなり悪いものとなっていた。しかし洗脳で植えつけられたものは、後の自らの体験により逆転された。
その1:
1978年の改革開放後、鎮海と寧波が合併し一つの市区になった。また、鎮海は寧波の海の玄関口であることから、(新中国の象徴であった)上海宝山製鉄所に原材料を運ぶための港を作ることになった、後に著名になる北侖港だ。
宝山製鉄所が日本人の支援を得て作られた事はその時点で知っていた。そこの設備が日本の製鉄所の中古品であることも後で知った。私の知る限り寧波港の建設でも日本人の支援があった。
父は寧波で初代の港湾建設者だったので、夏休みは父と共に通勤バスに乗り、港で過ごした。そのバスはそれまでに乗った事のある普通のバスと違い、とてもしっかりした作りで、窓ガラスには日本の文字が記されていた。つまりそのバスも日本からの支援だったのだ。後に思ったのだが、中国の開放が始まったばかりの頃、私たちには日本への反感などほとんどなかった。
日本の家電は中国で一番人気があったし、その品質の素晴らしさは今も年寄りたちが懐かしむほどだ。当時の中国人は家に日本の家電があることを自慢に思っていて、90年代まではそうだった。
日本の映画もまた『君よ憤怒の河を渡れ』という作品が一世を風靡し、日本のドラマに中国人は感動の涙をおおいに流した。日本のスターの名も、今の(AV女優)蒼井空さんのように、津々浦々に知れ渡り、日本の歌謡曲も流行った。中国から日本に嫁いだ女性も多くいた。
その頃私は幼かったので、国家間の政治ゲームなど知る由もなかった。なぜ中国人は日本人に反感を持っていなかったのか、声高に南京大虐殺を訴える人もなく、釣魚島(尖閣)を知る人もなく、日本製品不買運動や戦争賠償の要求を叫ぶ人もいなかったのはなぜか、全く分からない。
日本の事は全て自然に受け入れられ、わだかまりも無かった。当時日本はすでにかなりの先進国であり、30年にわたり貧困と極度な物資不足の中で暮らして来た中国人には日本にモノ申す気概など無かったのかもしれない。貧すれば鈍するということか? 中国人もプラグマティストだったのか? いや、当時の中国人は党の言うことに従順だったことを忘れてはいけない。では今、中国の改革開放に日本が貢献した事を話題にする人はいるか?
1990年から渉外事務に就いたが、残念ながら当時の中国の外交的環境はひどく劣悪だった。前の年に広場(89.6.4天安門事件)で起きた事により、中国は長い期間にわたり西側諸国からの政治的経済的制裁を受けることになったからだ。西側諸国(日本も政治的には西側諸国である)は中国との外交交流を停止した。
でも後に友人に聞いた話では、89年(10月1日)の国慶節祝賀式典の夜、トウ小平が天安門の建物の中で、中信集団の招きで来訪した日本の代表団と会ったそうだ。それは(89.6.4天安門事件後の)西側諸国からの最初の代表団だった。私の友人はその席での通訳だった。
私が日常生活の中で初めて日本の軍人を見たのは1990年夏だった。それがどこの国の主催のレセプションだったかは忘れた。北京では多くのレセプションが開かれ、各国の大使館が建国記念日や軍隊の日のレセプションを開いていた。とにかく、あるホテルでメガネをかけ髭を生やし、それまで見たことの無い軍人制服をした日本人を見かけた。
彼は日本大使館の国防武官で、階級は一佐、更に正確に言うと自衛隊からの大使館員だった。私は心の中でひそかに彼を罵倒した。それは、子供の頃に見た映画で植えつけられた印象があったからだ。彼もまた中尉の身分を持つ中国の若き軍人である私に好奇心を抱いた。彼がそこそこ上手に中国語を喋れたので話しをしてみた。すると私は徐々に通常の、肩の力を抜いた状態に戻れた。それは、戦争はとっくの昔に終わり、目の前の日本の軍人は当時の軍国主義者とは違ったからだ。
その後も彼は新年になるごとに日本のカレンダーを送ってくれた。それは素晴らしい印刷が施された見事なもので、当時の中国のカレンダーなど比べ物にならなかった。その後も自衛隊訪中団の受け入れを担当したが、彼らはみな温和で謙虚で礼儀正しかった。
その3:
1995年、イギリス外務省の奨学金を取得しイギリスに留学、外交学を専攻した。クラスメートには韓国、香港などアジアの学生が多く、男女3人の日本人学生もいた。日本の学生と長く触れ合うのはこれが初めてだった。彼らは皆若く、私が中国人だと言うとまず天安門広場を連想した。私は彼らとすごく大きな距離感を感じた。と言うよりも、西側諸国からの学生のほとんどが私に距離感を持っていたと思う。
一番好きだった授業は現代国際関係史だった。この現代関係史が私に中国現代史をマクロに俯瞰させ、初めて明確な考えを持たせてくれた。つまり、中華民国こそが1949年以前の中国の国家主体であること、そしてそれにより私は20世紀初頭の中国の歴史をマクロに知り、党史の教育による呪縛から脱し、第二次世界大戦と抗日戦争の全容を知ることができたのだ。
中国の学校教育では中国共産党史が中華民国史を代表し、徹底的に歴史を歪曲している。その目的はただ一つ、執政の合法性を証明するために歴史を改編しているのだ。実に恐ろしい。
1997年2月、中国の高級将校行政班と共にハーバード大学ケネデェイ行政大学院で研修を受けた。ここで私は二つの地域の問題について全く新しい見方をするようになった。一つは、アジア太平洋におけるアメリカのプレゼンスが地域の安全に有利であること。アメリカの核の傘が日本の軍事力発展の制約になっているからだ。
二つ目は、それまでの視角を超えて中日関係を見ることになったことである。
その研修の内容はグローバル化から地域衝突、情報化時代から核の危機など多岐にわたり、国際関係においてアメリカでトップクラスの学者や元国防長官などが講師を務めた。そのうちのお二人が私には印象的だった。それは、後にソフト・パワー説を発表したジョセフ・ナイ氏と、アメリカの東アジア問題の権威であるエズラ・ヴォーゲル氏で、私はお二人の講義の通訳をした。
エズラ・ヴォーゲル氏の中日関係の講義は素晴らしく、中日関係の話しでは激しやすい中国の士官たちでさえぐうの音も出ないものだった。氏は第三者的視点から中日関係を語り、明治維新による日本の徹底的な変革や、第二次世界大戦後の日本がなぜ戦争の原因を徹底的に清算できないのか、日本の天皇が何故保たれたのか、靖国神社と先人を尊重する日本文化、日本の平和憲法、強いものに従う日本人とは、等々を語ってくれた。
この講義で私は、自分たち中国人が日本を知らないこと、知ろうとしていないこと、独りよがりの狭隘な考えで日本を理解しようとし、そのナンセンスな理解を疑おうともしていなかった事を知らされた。
その日は講義が終わっても皆黙り込んでいた。皆エズラ・ヴォーゲル氏の話しに納得がいったからだ。でも私は講義後に大佐と論争することになった。私が「中国の若者は日本を全く恨んでいない、逆に日本が大好きだ」といった事に大佐は、自分の息子が日本人を恨んでいることを理由に「中国の若者は心底日本を恨んでいる」と反論したからだ。事実は彼の主張は間違ってはいない。
では中国人はいつから再び日本人を恨むようになったのか、私には今でも分からない。ここまで沢山書いたがまだ1997年までしか書けていない。私はこの年に30歳になったけれど、まだ日本には行ったことが無かった。ここからが実際に目にしたことで起きた変化である。
その5:
1998年からは度々日本を訪れ、実際に日本を見ることになった。
中でも最も印象に残ったのは、1998年に当時の軍事委員会副主任兼国防相だった遅浩田上将の訪日に随行した時の事である。それは中国の国防相の初の日本公式訪問だった。訪日をひかえた壮行会で遅副主席は代表団随行員全員に「日本に行くと腰が砕け、日本人にペコペコする無様な輩がいるが、みな決してそうなるな」と語った。
我々はその言葉どおり、始終腰をぴんと張って日本でのスケジュールをこなした。この『腰をぴんと張れ』は後に私が発表した「冷静に日本を見る」という未熟な作品の第1篇となった。
遅副主席は抗日戦争の最後の段階で(中共軍の)八路軍に参加した。後に発表された母を偲ぶ文章の中では、八路軍参加を母親がどれほど応援してくれたか書かれていて、それに深い感銘を受けた。遅副主席が人民大会堂で日本のある政党の代表団と会った時の事だが、彼らにこう言ったことを今でもはっきり覚えている。
彼は「あなたたち日本人に私は感謝したい。そもそも私は勉強して私塾の先生にでもなろうと考えていた。でも日本が中国を侵略し、私の村の人を虐殺したことで、私は軍に入ることになった。それが今の私を国防相にし、上将にした」
この言葉から、日本に対する彼の感情が私の何倍も複雑であることが分かった。
東京滞在中は指導者との面会、会談、宴席など公式活動でびっしり埋まり、軍関係から政界、財界から華僑組織と広く接することで忙しく、東京がどんな所かも知ることもできなかった。覚えているのは歓迎宴で振る舞われた日本料理がとても手の込んだものだったという事だ。
政府との正式な交流活動を終えると、軍の視察と各地見物の日程が組まれていた。日本の防衛庁が、時間を節約するためにヘリコプターを手配し、航空自衛隊の百里基地や海上自衛隊の横須賀基地、陸上自衛隊の富士訓練センターへ案内してくれた。
百里基地ではF-15とF-2戦闘機の航空パフォーマンスや装備の展示も披露してくれた。でもあまり深い印象は残らなかった。私の軍に関する知識の中でも空軍については最も知らなかったからだ。陸自の富士訓練センターは富士山の麓にあり、そこでは陸自の武器装備の展示や、一部については操作のデモンストレーションを見せてくれた。
一連の対応は、我々が外国の軍事代表団を受け入れる時とほぼ同じだった。日本側の受け入れ態勢は我々と同じく綿密に準備され一糸乱れぬものだった。でも我々以上に緻密であった事は否定できない。
横須賀基地が最も印象的だった。横須賀はアメリカと日本の共用の軍港で、その後再び訪日した時にはアメリカの空母「キティホーク」が停泊していたが、この時に日本側が披露したのは国産の護衛艦「春雨」だった。「春雨」は1996年に就役した防空対潜水艦護衛艦であり、当時の中国の現役の軍艦よりはるかに進んでいた。
私は仕事柄、他国の軍艦を沢山見てきた。新旧・大小様々で、海に浮かぶものも海中を進むものも見た。日本の造船業と科学技術の水準は極めて高く、日本の軍艦から依然として日本製の精緻さを感じさせられた。
日本の海軍を訪れたこの時、私は「もし再び中日で海戦が起きたとして、中国海軍が日清戦争の時以上の結末を迎えることはないだろう。戦いは海上にとどまり、陸上戦にまで広がることは無いだろう」と確信した。
幸い中国の海軍装備はこの十数年で大きな進化を遂げたが、戦闘力を備えているのか分からない。
公式訪問が終わると、文化の旅になった。私はこれまでに『文明の力:箱根から京都まで』という文章で、遅副主席が東京を発った後の文化の旅について書いた。それは二日前に改めてウィーチャットでも公表した。それを書いたのは2007年1月4日で、文中に私は中華文化による覇権への期待を込めた。
事実当時の私はあまりにも楽観的に考えていた。この7年間世相の乱れは拍車がかかり、経済の繁栄が中華文明に復興をもたらした形跡は見られなかった。同時に、中国による「日本怪物化」も激化した。
訪日した当時、中国にはまだ高速鉄道が無く、新幹線での移動は感慨深かった。車中で同僚とふざけ合い、不意に浮かんだ「バカヤロウ」という言葉を私は言ってみた。すると、たまたま近くにいてそれを聞いた若い女性が驚き、そんな罵り言葉をどこで覚えたのかと質問してきた。
遅副主席は日本訪問終了後、引き続き他国を訪問したが私は随行せず、大阪から東京に戻り単独で二日間を過ごした。私は二日間観光客として、賑わいながらも秩序ある街並みを見物し、普段の町の様子、夜の新宿、仕事帰りにパチンコに興じる日本人、通勤ラッシュの東京の地下鉄の尋常じゃない込み具合を体験した。
その後も後続の代表団と共に日本で産業と農業の見学もした。他にも国防部関係者として日本での会議に何度か参加し、中国人留学生の部屋を訪ねたり、日本の大学構内をブラブラしたり、沖縄の米軍基地にも行った。
私が感じた中国と日本の一番の違いは秩序であること、中国より人口密度が高いが、国民の資質はそれより遥かに高いことを感じた。かつて有った「大国の台頭」というテレビのシリーズ番組で、日本の台頭についても述べられ、その理由に日本のしっかりした教育を挙げていた。
私が不思議に思うのは、日本では政治と国際問題が政治家と官僚のゲームとなり、一般の国民の生活とは直接関係していないようであることだ。中国では皆が政治を熱心に見つめ、それぞれに日本に対する沢山の感情を抱いている。とは言え、これは私の勘違いである可能性もある。
時は経ち、アジア太平洋の多国間安全協力が私の主な仕事となった。多国間とは二カ国以上を指す。私は多くの地でアジア太平洋安全国際会議に出席した。会議で私は主にアメリカと日本の参加者と対峙した。この両者には明らかな違いがあった。アメリカ人は単刀直入を好み、私もそういう率直なやり方を好んでいた。だから日本人とのやり取りは気疲れが多かった。
再び日本に行ったのが2008年。私は転職し北京オリンピックのオフィシャルサイトの記者になっていた。世界中をめぐる聖火リレーに随行し私は長野を訪れた。そこで国内にいる中国人には見ることが出来ない光景を目の当たりにした。私は聖火ランナーの前を走る報道用の車に乗り、北京でのオリンピック開催に反対する様々なアピールをカメラに収めた。当時それを『長野で妖怪変化を見た』と題した手記にした。
北京オリンピックの聖火リレーはロンドン・パリ・アメリカ・ニューデリー・オーストラリア・長野・ソウルを走ったが至るところでチベット独立運動活動家の抗議の声、聖火の強奪や火消しなどに遭った。そして抗議は日本で最高潮に達した。
そんな情景をロンドンで初めて見た時は腑に落ちず怒りを覚えたが、度々目にするうちに気にならなくなった。抗議することは民主政治の国の本来の姿であり、私たちがそれに慣れていないと気付いたからだ。
我々には見慣れていない事を陰謀化したがる傾向がある。ただし、私は長野で行われた北京オリンピックの聖火リレーにおける『日本の警察官の懸命な努力』について書いた。あの日、日本の警察が北京オリンピックの聖火を守るために身を盾にして守り抜いたからだ。
勿論あの日、長野市ではそれ以上に多くの中国国旗がはためいていた。私は「日本の中国人留学生や華人は親日的だから控えめにするだろう」と思い込んでいた。しかしあの日、日本各地の華人と留学生が粛々と長野に集まり、聖火リレーの走行ルートで、その愛国心からなる声援を送っていたのだ。
帰国後、私はカメラに収めた写真を整理し、それを『聖火ランナー』『チベット独立運動家』『愛国学生』『一般大衆』『警察とメディア』に分けたPPT資料にし、大学での講義に用いた。
受講者は見せられた写真に色々な思いを抱き、私の言葉に感情を左右させた。それでも、私がそれら全てを発表しない限り、北京オリンピックに関する諸外国の情報を全面的に知ることは出来ないのだ。
ではこれまでの長期間、中国のメディアは日本について全面的に報じてきただろうか。我々は日本の誰かの何か一部でも明らか出来ただろうか。私は自身のPPTにとても独特にタイトルをつけた。それは、『寛容な目で世界を見よう』である。
その8:
3年前、世界の気候問題に関する議論が活発になり、まさにピークに達したころから、私は低炭素環境保護、省エネ排出削減の仕事をはじめた。環境問題に注目する中、私はふたたび日本をじっくり観察することになり、再度、日本の国際的義務について考察することになった。
環境保護という視点からみた場合、日本はまちがいなく、世界において環境文明がもっとも発達した国のひとつであり、国際的義務を負うという視点からみると、日本が負っている国際的義務は非常に高く、世界で尊重されているレベルは中国よりはるかに高い。また、日本は中国に対する援助が最も多い国である。
1)日本のGDP(に対するエネルギー効率)原単位は中国の7分の1である。これは恐るべき数字である。
中国がGDPのみを追求したがゆえにまねいた、高エネルギー消費、低効率、深刻な汚染、低いアウトプットを意味しており、環境に対する略奪と回復不可能な破壊にほかならないからである。逆に、資源が不足し、人口密度が極めて高い日本の、地球や人類に対する貢献を意味している。環境文明は現代文明の新たな標識と言える。
2)「京都議定書」は世界の環境と気候問題で一里塚の意味をもつ文書である。また、日本の京都で採択され、先進国の二酸化炭素排出制限を規定したものであり、日本は比較的厳格にこの文書を執行している。
3)日本のどれだけの企業や組織またボランティアが、中国北部の砂漠地帯の植樹造林に参加したかは知らない。しかし、私は統計で出てきたこの数字が驚くべきものであり、中国人がこれにより慙愧の念にかられるであろうことを知っている。
30年あまりにわたって、日本は中国にとって最大の援助国であり、中国は日本がもっとも多く援助した国である。中国が海外から受けた援助の内、60%以上が日本からのものである。
30年にわたって、日本は中国に合計2900億人民元の援助をした。首都空港、浦東空港を含む中国の多くの空港、港、鉄道などいずれも日本からの援助を受けた。この種の援助には、中国人数万人の日本での研修も含まれている。
5)90年代、日本はアメリカを抜いて世界最大の対外援助国となった。もし日本に以前ほどの国力がなくなっていたとしても、依然として世界最大の対外援助国の一つである。
以上、認識を新たにした8つの理由を述べた。私は、日本がいったいどのような国であるのか明確に述べていないことはわかっている。私の日本に対する理解が不十分であることを認める。しかし、私は、あなたがたが考えている日本とは異なる日本を示すことができたと信じている。
問題は、こんなに長い間、なぜ今の日本を「怪物化」することになったのかである。なぜ日本を怪物化しなければならなかったのか?
今の日本を怪物化するもっとも主要な手段は、中国人に歴史を連想させることである:日本は侵略の歴史を認めず、謝罪せず、A級戦犯が祭られている靖国神社を参拝し、また平和憲法の改訂をたくらんでおり、日本はまたしても軍国主義の道を行くのだ。
このロジックはすでに何年も使用されてきた。多くの中国人の心に深く根ざして長い年月がたった。なぜなら軍国主義が中国に深刻な災難と民族の恥辱をもたらしたことは、今に至るまで、中国人の心に憎しみとして深く刻まれているからである。
一方、日本は、軍国主義に走るであろう論調がここ2年続いているところへ、さらに新しい刺激、尖閣諸島の主権問題が加わった。
ニュース報道をみると、ここ数日、多くの中国在外大使が、その国のメディアに日本の軍国主義傾向を批判する記事を発表している。これは対外宣伝攻勢である。中でも笑えるのは、駐英国中国大使が日本を「ヴォルデモート」(「ハリー・ポッター」の主人公の最大最強の敵で、イギリス魔法界で広く恐れられる闇の魔法使い)にたとえたことである。しかし、事実そうなのか?
疑問1、
日本は侵略の歴史を認めたのか? 謝罪したのか? 大多数の中国人はしていないと考えている。そればかりか、日本は侵略の歴史を否定しようとたくらんでいると考えている。
しかし、日本に滞在する作家、兪天任氏は、日本はすでに何度も謝罪していると私に言った。私は兪天任氏の言葉を信じる。
疑問2、
日本の歴史教科書問題は中国によって故意に誇張されているのか? 兪天は、日本には侵略を徹底的に否定する教科書はない、と私に言った。中日間の歴史教科書をめぐる争いは、今にはじまったことではないが、日本には統一された歴史教科書というものがなく、各学校が歴史教科書を選択して用いるということ知るべきである。
しかし、中国のメディアが中国人に与える印象は、日本が歴史教科書を改訂し、日本の子どもに侵略を美化した教育をしているというものである。事実、歴史教科書問題では、私は、私たちの歴史教科書も歴史の真相に復するよう強く望んでいる。
疑問3、
靖国神社にはA級戦犯の位牌が祭られているのか? なぜなら、日本神道では偶像崇拝をしないため、中国人が想像するような戦犯の位牌はそもそも存在しないはずだ。
日本のA級戦犯14名の氏名は、死亡した歴代の軍人200万人の名簿の中に出てくる。これらの戦犯が名簿の中に出てくるのは1978年(まさに中国の改革開放時代で、中国は数年後はじめてこれに抗議した)で、これ以降、日本の天皇は靖国神社を参拝していない。
日本の政客は自らの主張や国内政治の必要性から参拝するか否かを選択している。兪天任は正式に靖国神社を参拝し、彼のブログに参拝の過程を詳細に記述している。これこそ重要な資料である。
疑問4、
もっとも重要な疑問は、今の日本が軍国主義の道を歩む可能性はあるのかということである。中国の外務省やメディアは、日本軍国主義の復活を警戒するよう呼びかけることが非常に好きだ。日本は本当に軍国主義の道を行くのだろうか?
根本的視点でみると、1947年に公布された日本の「平和憲法」第二章第九条で、すでに戦争、軍備、交戦権の放棄が明確となっている。平和憲法は日本の基本的国家主権の一部を剥奪し、国際政治において他の国より一段低くしたのである。これは当然のことで、日本は罪を受けいれるべきである。
当時、「明治憲法」の枠組みの中で軍国主義国家となり、世界、アジア、中国にかくも悲惨な損失をもたらしたのは、いったい誰のせいなのか? 第二次世界大戦終結時、残念なことに中国民国政府は内戦にあけくれて、日本に対する軍事占領に直接参画できなかった。さもなければ、中国の日本に対する発言権は現在のような状況にはならなかった。
しかし、大きく譲って言えば、日本の平和憲法が改訂または廃止されたとしても、日本は正常な国際政治的地位を有する国に戻るだけであり、経済力に見合った真の意味での大国になるのである。ただし、軍国主義の発展とは相当かけはなれている。
疑問第5、
今の日本に軍国主義の道を歩む必要はあるのか? グローバル化、経済統合が進む世界で、まだ戦争という手段を用いて、侵略や都市を占領し土地を奪い取り、他国の領土を占領し、不平等条約を締結して、資源や市場を略奪する必要があるのだろうか?
米日安保条約があり、米日軍事同盟があり、米国の核の傘がある。日本は軍事力を過度に発展させる必要はないのだ。日本が軍国主義の道を歩むことを中国人は承諾しない。アメリカ人は承諾するだろうか?
よって、私は、日本が軍国主義の道を歩むという推論は、悲惨な歴史を経験した中国人にとっては非常に理にかなったことであるが、日本人にとっては荒唐無稽な陰謀説であると考える。
しかし、日本があらためて軍国主義に向かっているというのは、おしいことに、長期にわたる反日キャンペーンで中国の愛国者の敏感な神経に刺激を与えてきたし、愛国者たちの激昂した気持ちを直ちにピークに到達させる効果がある。(しかし)いわゆる日本が軍国主義に向かっているというのは、基本的には偽命題である。
今の日本人はどんな様子か、中国人はあまり知らないだろう(頭から知りたくないと思っているかもしれない)。平和憲法で66年間洗脳された日本人、平和な環境の中で、私権、自由、民主(日本式民主)を十分享受してきた日本人、文人官僚の管理下にある日本人、戦後の各世代の考え方が戦争からどんどん遠ざかっている日本人、軍隊が国家化し、軍人は政治に参画しない日本。
彼らがどうやって軍国主義に向かうのか教えてほしい。
標題の「なぜ今の日本は怪物化なのか?」の疑問に戻りたい。この問題は本当のことを言って、答えは難しい。直接的な証拠が不足しているからだ。よって、自身の仮説や他人の考えを借りて以下の通り書いてみた。
1)個人的仮説:相手を怪物化するのは中国の伝統文化の一部
中国人は相手を怪物化することに長けている。国レベルで言うと、私たちは米国、ソ連、ベトナム、インドなどすべての相手を怪物化したことがある。相手を打ちのめすためには手段を選ばない。これは中国文化の一部ではないだろうか?
2)個人的仮説:国内の政治的要求を満たすためのプラグマチズム
長期にわたり、中国は「経済では利用し、政治では圧力をかける」という対日政策をとっきたと考える。経済で利用するとは、改革開放の25年、中国は日本の資金、技術、市場に大きく依存してきたし、政治面で圧力をかける目的は、経済面でよりよく利用できるようにするためである。
圧力をかける手段の一つは、過去の日本と今の日本を区別せず、過去の怪物日本でもって今の日本を怪物化するのである。
!)共同仮説:ナショナリズムはいいものだ
これは最後の文章で展開しようと思っている観点である。ナショナリズムは、政権担当者がもっとも好んで利用するツールであろう。ナショナリズムは拡張主義に用いることができるし、孤立主義を招くことも可能である。
ナショナリズムの特徴の一つは、自らの民族を美化し、対立民族を低く評価し、醜く描くことである。ナショナリズムの最大のメリットは国内の課題を転嫁できることである。
!)個人的仮説:民意と政策決定の相互作用の悪循環
以前の日本に対する怪物化は、経済的によりうまく日本を利用するためであったとすれば、今の日本に対する怪物化には新しい要素がある:政策で民をしばり、政策が民意に縛られる。
インターネットが出現する以前、民意と輿論は完全に政策決定者の手中にあり、民衆は発言権がなかった。ネットが発達したことで、民意が表現されるようになり、特にナショナリズム的色彩を帯びた民意は非常にたやすく認められるようになった。民意を縛っていた側と縛られていた側の相互作用で、怪物化と陰謀説がますますエスカレートし、多くの人が信じるようになった。
多くの場合、民意は非理性的であり、真実ではない。尖閣諸島問題はその典型的な事例である。尖閣諸島の領有権を主張する民間の活動団体が行動を始めるまでは、中国政府は尖閣諸島問題を大きく取り扱っていなかった。今の中国にとって核心的利益ではないからである。
尖閣諸島の主権争議の存在を維持することは、私たちにとって有利であるが、尖閣諸島問題の経緯を理解している中国人はごく少数である。民間の活動団体の行動が引き金となって、ネット上の民意が、尖閣諸島問題の明確化と強硬な姿勢と対決を政府に迫り、結果、2012年の日本車焼き討ち事件を招いた。
歴史問題における、中国の日本に対する姿勢が、軟弱から強硬へ、不明確から明確へ、あいまいから確実へと変化していることがわかる。そこで一つ質問をしてみたい。以前、中国は中日の歴史問題で妥協したが、2000年前後から妥協しなくなったのはなぜか?
私の答えは次の通りである。
1)中国の総合力が強大になった。当時の天安門事件後の政治的経済的制裁から脱却し、政治的には国際舞台に返り咲き、国際問題に参画するようになった。江沢民主席は世界に向けて自信たっぷりに江沢民外交を行った。
2)中国経済はトウ小平の南巡談話後、開放政策によって、急速な発展をとげて世界最大の市場となった。市場は私たちにとって最大の対外資本である。中国とEU、中国とアメリカの貿易額は急成長し、中国の対日経済依存度は低くなった。中国は日本に対してNOと言えるようになったのである。
3)しかし、どんどん自信をつけてきた中国も、2000年までに外交上、極めて手痛い挫折を2回経験し、中国の外交のあり方を変えることになった。1回は、李登輝が持ち出した両国論に大陸が過度の反応をし、1996年の台湾海峡危機を招いたことである。中国の大規模な軍事演習により、台湾海峡へ向けてミサイルを発射するが効果なく、逆に台湾独立勢力が大きく力をつけることになってしまい、2000年には陳水扁が予想に反して台湾
地域の指導者に当選した。
台湾海峡危機で、日本とアメリカはいずれも、確実に台湾側についた。あの時期、中国外交は活気づくが、結局思い通りにはならなかった。
2回目は1999年、ユーゴスラビアの中国大使館がアメリカを中心とするNATOの爆撃を受けたことであり、これは、中国政府が恥をかかされた、国際関係の基本的ルールを踏みにじる事件であった。これに対するデモや抗議行動はあったが、中米関係は最終的には回復した。
4)1997年2月、中国の改革開放の総設計師トウ小平が世を去った。彼が打ち出した臥薪嘗胆式中国外交のスローガン(「韜光養晦」、能ある鷹は爪を隠す)は、才能を包み隠して表に出さず、成果をあげる、である。彼が亡くなるまで、才能を包み隠して表に出さないことは徹底的に実施された。そして死後、徐々に成果をあげはじめ、台湾統一問題ではタイムスケジュールを出すまでになったのである。
5)インターネットが中国で急速に発展したことで、中国の民衆は政府の情報ルートに頼ることなく、多くの情報が得られるようになり、意見を表明する機会も多様化した。こうして、ついに民意が中国の外交政策に影響をおよぼしはじめたのである。
2000年以降の13年間、中国は経済面で急速に台頭し、日本を抜いて世界第二の経済体となり、日本は中国最大の貿易パートナーの地位を失い、日本の対中援助プロジェクトも終了した。日本は長期にわたる経済低迷に陥った。中国大陸と台湾の関係は急速に改善され、国民党が政権をとり、台湾の大陸に対する経済依存度が高まった。
中日間では、かつてのような均衡が徹底的に打破され、中国は、ついに日本に対して心理的優位にたつことになった。中国は、ついに宿敵日本に躊躇なくNOが言えるようになったのである。このような視点にたつと、中国の日本に対するプラグマチズム外交は、非常に成功したようにみえる。
2012年9月29日は中日国交正常化40周年の記念日で、中日両国関係改善の重要なチャンスであった。両国政府は事前にこのために努力をした。しかし、記念日を迎える前に尖閣諸島事件が発生し、状況は悪化し続けて、9月14日前後には中国の各大都市で大規模な反日デモや日本車の焼き討ち事件が起きた。
中日国交正常化40周年の年から、中日の国交はますますおかしくなった。中国の対日外交は、民意を日本との和睦に導く試みから、民意を利用した反日へと、すっかり変わってしまった。中国のメディアも躊躇なく、すさまじい勢いで反日を伝えた。
ここで、中国の対日外交がなぜ失敗したのかをまとめてみる。
1)民衆外交の目的は、両国民間の信頼、協力、友好を構築し、互いによいイメージをつくることである。中国国内で対日戦争を叫ぶ人が増えているが、これは外交の失敗ではないのではないか?
2)中国外交(外務省だけではなく、主要メディアも含めて)では、国民に真実の日本や真実の世界を伝えていない。もちろん、歴史の真実もである。しかし、情報時代にあるがゆえに、ウソは続けられない。
3)中国の特色ある外交言語は国際的文脈に入っていけない。中国外交は長期にわたり、自ら作り上げた勝利の中で生きてきたのだ。
4)愛国主義の旗印のもと、ナショナリズムを宣揚しているが、ナショナリズムはもともと両刃の剣であり、制御しがたくなったときのみ、自らの傷害をまねくものだ。
5)もっと大きな失敗は、中日の衝突は中国に不利であり、私たちの最大の競争相手であるアメリカに有利なことだ。私たちの戦略家たち(実際には実戦経験や行政経験がなく、真実の世界を理解しておらず、今なお冷戦の考え方をしている中国の国際関係学者)は、米国軍事力が東アジアへ戻ってくるのを大喜びしている。米国が東アジアへ戻ってくる原因は何か?
東アジアには従来から3つの潜在的危機が存在する。朝鮮半島、台湾海峡、南シナ海である。いずれも中米日が関連している。今、また尖閣諸島問題が浮上している。
南シナ海は本来、中国とアセアン諸国の争いであり、中国は長期にわたり、南沙問題で「主権は自らのもの、争議は棚上げし、共同開発を進める」という立場をとってきた。私たちは南シナ海問題の国際化、拡大、複雑化に一貫して反対してきた。しかし、南シナ海は日本にとって海上の生命線である。中日間の尖閣諸島の争いは、南シナ海問題を複雑化し、中国と係争中のアセアン諸国は米日に向かうに違いない。
はっきり言えば、中日間の尖閣諸島の争いによって、現段階で中国は敵をたくさんつくりすぎた。しかも、中国は現段階では平和的にせよ武力行使にせよ、紛争を解決する実力は持ち合わせていない。力がないにもかかわらず、戦争をわめきたてれば、結果はまちがいなく自らの顔を何度もひっぱたくことにほかならない。このような外交を失敗と言うにまだ足りないのであろうか?
7年前、私は「冷静な眼で日本をみる」というシリーズを書き、最終章の題名を「中日関係の新思考」とした。この中で、つぎのように述べた。
「中国は台頭しつつある。しかし、私たち自身の構造的問題によって、われわれの台頭の歩みは確実なものではなくなる。対日関係では、われわれは歴史の荷物を放棄する力がなく、優越感と劣等感が入り混じったわだかまりを放棄する力がない。われわれはまだ真の意味で腰をまっすぐ伸ばせていない。重い歴史をおろし、日本を平等で正常な国として競争し、大中華の平和的覇権を構築する日を期待しよう」
去年、抗日戦争勝利68周年で、私はネットに「68年経った。中国は夫に不満をもつ妻の気持ちを放棄すべきだ」と題する文章を発表した。その中から一部を引用してこの文章を終えることにする。
「一部の歪曲された抗日戦争史によって、私たちは小さいころから勝者の感覚を味わったことがない。残っているのは、抜け出しがたい悲しみと恥辱と憎しみだけである。中国を抗日戦争で勝利に導いたことは、蒋介石の一生でもっとも栄誉なことである。あれが勝者の栄誉である。
1945年9月3日、同盟軍中国戦区の司令官蒋介石は、全国に向けて抗日戦争勝利の談話を発表した。その一部を記す――
「われわれ中国の同胞たちは「旧悪を根にもたず」「人の善行を助ける」ことを知り、われわれの民族の伝統ある最高の徳とすべきである。われわれは一貫して、日本の武力をひけらかす軍閥のみを敵とみなし、日本の人民を敵としないと表明している。今日、敵軍はすでに同盟軍によって打倒された。もちろんわれわれは、彼らがすべての降伏条件を忠実に実行するよう厳しく命じるべきである。
ただし、われわれは報復してはならないし、敵国の無辜の人民に対する侮辱などなおさらしてはならない。われわれは、彼らがナチス軍閥に愚かにも強制されたことを憐れみ、彼らが間違いや罪悪から抜け出せるようにするだけである。
敵のかつての暴行に、暴行でもって応じ、かつての間違いや優越感に対し、侮辱で応じるなら、恨みによる報復が繰り返され、永久に終わらなくなることを知るべきである。これはわれわれの仁愛と正義の軍が掲げる目的では決してない。これはわれわれの軍民同胞が特に注意すべきことである」
これこそが勝者がもつべき意識である。非常に残念なことだが、このような意識はとっくに姿を消してしまった。さらに残念なことは、一つの山に虎2頭は住めないという中国の伝統文化により、抗日戦争勝利後も民主に向かうことはなかった。中国は内戦や政権交替を経験した。
新政権は、抗日戦争の受益者として、建国後長期にわたって愚民政策をとり、文革時代には狂気にいたった。歴史というのは、思い通りに化粧を施せる花嫁にすぎない。たとえ現在、歴史の真相に一歩一歩近づきつつあるとしても、ナショナリズムはまたしても利用可能なツールとなるのだ。
夫を恨みつづける妻の気持ちとはどんなものか? 過去の悲哀にひたるのみ。はかりしれないほど多くの悲哀の中で、さらに悲哀を拡大するのみ。恨みごとを言うことしか知らず、反省しない。憎しみのみを知り、寛大になれない。進歩しない。
68年経った。日本は第二次世界大戦後のさまざまな束縛から徐々に脱却しつつあり、正常な国の地位を回復し、政治大国の地位をめざしている。ただし、軍国主義にはかなりほど遠い。中国と韓国を除けば、歴史問題で日本ともつれ合っている国はほかにない。
中日関係は従来のような大国間の争いに向かっている。これは恐るべきことではない。なぜなら、グローバル化時代にあって、戦争はもはや大国間で勝負する際に優先的に選択されるものではなくなった。中国は勝者の自信をもって、新しい中日関係に向かい合うべきである」
2014年1月17日北京にて(了)(2014/3/23)