「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
<平成26(2014)年 3月18日(火曜日)弐:通巻第4187号
<完全資料版>
〜「島嶼問題を考える」(尖閣、南沙・西沙諸島)シンポ、盛況裡に開催スプラトリー諸島を中国はいかよう に強奪したか、これは明日の「尖閣」だ〜
http://www.jpmuseum.com/tosho/ (全記録です ↑)
<▽ 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS
・(読者の声1)「ウクライナ捕虜記」です。
ウクライナは多民族の関わる戦争、革命、飢餓などの歴史的大事件の舞台ですが日本人にとっては遠い国です。しかし戦後多くの日本人が抑留され奴隷として酷使され、犠牲者が眠っています。
以下、「シベリヤ・ウクライナ捕虜記」後藤敏雄著、国書刊行会からの抜粋です。著者は京都帝大仏文卒、満洲で兵役中敗戦。ソ連抑留。後京都大学名誉教授。
(引用開始)
「昭和21年8月3日、シベリヤのバイカル湖の近くのジダで乗車してから25日目に目的地に着いた。大きな河が見えた。この町がウクライナのザボロージエ市であることがわかった。
河はドニエプル河だった。夕方ドイツ人捕虜が食事を運んできた。彼らは私たちと話すことを恐れているようだった。それでも話をしたいらしく、辺りを見回し、急いで話してあとは素知らぬ顔をしていた。
少し後に作業で外に出たが収容所のすぐ横の原っぱには人間の頭蓋骨がゴロゴロ転がっていた。銃弾の跡があるので相当の激戦地だったのだろう。捕虜の数はドイツ人、日本人、ハンガリー人など合計一万人と言われていた。
スターリンの悪口を言うソ連人には数え切れないほど会ったが、ヒトラーの悪口を言うドイツ人には一人も会わなかった。ドイツ人は利害がないところでは親切だった。幹部でないものは日本人宿舎に来て話したがった。
彼らはよく戦争の話をした。ドイツ軍捕虜は異口同音にスターリングラード戦の時、日本軍がちょこっと助けてくれたら勝てたのにと言った。スターリングラードのことはよほど悔しかったと見えて、ドイツは米国に負けたのであって、ソ連に負けたのではないと思っていた。
私がシベリヤで会ったドイツ女のことを話すと、「ああボルガドイツ人か」とすぐ分かったようだ。ロシアのエカテリーナ女帝がドイツの農業移民をボルガ地域に入植させた。それをスターリンが敵性民族としてシベリヤに送ったのだ。ハンガリー人もよく訪ねてきた。
東洋人の血を引くので親しみを感じているようだった。ユダヤ系のハンガリー人で日本人を細君にしているという人が将校室に来ているというので会いに行った。奥さんはハンガリー人と日本人の混血だという。
奥さんの父親はロシア革命時代にシベリヤから満洲に逃げ、横浜で日本婦人と結婚し娘が生まれた。2人は娘が2歳の時ハンガリーに戻り、ブダペストに住んだ。この娘ミチコが彼の奥さんだった。彼はミチコの美点を全て日本人にかぶせているようで日本に愛着を感じているようだった。
ドイツ人は戦争に負けてもなお世界に冠たる民族という優越感をもっており、ロシア人も一目置いていた。ロシア人は人がいいと言うことはよく言われていた。しかし信頼できるかというと話は全く別である。その場だけのつきあいでソ連人同士でも人間相互の信頼など感じられなかった。逆に相互監視していた。
製鋼所建設の大工事が始まった。重要なポストが13あったが10はユダヤ人が占めていた。
私と川口(捕虜)は護衛兵が付かなくなったので、外でロシア女と話す機会があった。彼女らはシャツとパンツ一枚で地上20米の高所でガス溶接作業をしていた。日本では想像もつかない重労働だ。
彼女らは日本の女の生活を知りたがった。日本の女も働くのか、と聞くので、結婚すると家に入るというと、ひどく羨ましがった。あるとき川口がソ連国籍を取ってロシア娘と結婚するか、と冗談に言うと、それはいけないと言った。
「貴方は純粋の日本人だから、日本に帰って純粋の日本の女性と結婚しなければいけない」と言い、何とかして川口の不心得を諭そうと一生懸命になっていた。川口はあまりの真剣さに弱っていた。
私は多民族国家の中でなぜそういうことが問題になるのかと思った。彼女は、自分にはない純血、欲しくても得られない純血というものをどうしてそんなに粗末にするのか、と腹が立ったのだろうか。私と川口はそんなことを話しながら帰った。
ドイツやハンガリー人は偽装がうまく老獪であった。私は木訥で馬鹿正直で、いつも損ばかりしている日本人が自分を含めていとおしいような気になった。
9月下旬帰国(ダモイ)の噂が立った。今までも偽情報があったがついに所長がやってきた。帰国が自分の手柄のように言った。昭和23年10月11日、収容所の前の駅で日本人が右往左往していた。夕方万歳の声が聞こえた。所持品は一部本を除き全て没収された。
斉藤大尉が死亡者名簿だけはといったが取り上げられた。2年前についた時と比べると見違えるように復興したザバロージェ市を離れるのは複雑な気持ちだった。貢献した日本、独他数百万の捕虜の強制労働は歴史から抹殺されるのだろうか。
列車が町外れに出た。笹本大尉が丘の斜面の小松原を指さして稲葉少尉らがあそこに眠っていると言った。私たちは車窓から黙祷した。2年2ヶ月の間に犠牲者は44名に達していた。シベリヤに入ると日本人を見かけた。また来る時同様ソ連の囚人列車を見た。
昭和23年11月12日、ナホトカに到着した。町は熱狂的であった。
日本人捕虜の梯団が革命歌を歌い行進し互いに同志と呼び合っていた。私たちウクライナ組は呆然としていた。偽装民主化の中隊長が赤旗の歌を合唱するのが精一杯であった。我々はほかに革命歌も踊りも何一つ知らなかった。
毎日共産主義者が帰国者を脅し持ち物を奪った。私のソ連共産党小史を見た男は罵倒したが、最後まで書き込みがあるのを見ると、「どうせ税関で取り上げられますから」と言って取り上げていった。私が一人でいると、朝鮮人の若者が私にくってかかってきた。
真っ赤になって興奮し、涙を流さんばかりであった。私のせいで自分がこんな目に遭っているのだと固く信じているようだった。しかしソ連にとっては何民族でも労働力に過ぎないのである。ドイツ人やハンガリー人の間ではこんな事は起こっていなかった。
11月29日、復員式が行われた。ソ連に感謝の決議文が朗読され赤旗の歌の合唱で終わった。井上軍医は自発的に病弱者のために残ってくれた。11月30日港まで行進した。そして日本船遠州丸が入ってきた。
船が岸壁を離れた。3日目に君が代を歌おうと言いだした者がいると言うので大騒ぎになった。しかし気勢は上がらなかった。船員に聞くと別の船ではウクライナ梯団のものが赤をつるし上げたという。
ナホトカの敵討ちだ。(後記:戦後の日本の言論界はこうしたソ連寄りの雰囲気の中にどっぷり浸かってきたのではないか。ソ連が何をしようと沈黙する。ソ連をとがめるのは反動的であるとされてきた)
ドイツ人は日本人のようなことはしなかった。祖国へ帰ることを敵前上陸とは言わなかっただろう。恥ずかしい。(注:ドイツ人捕虜も帰還列車からソ連に迎合した裏切り者を突き落としたという)日本が分割されなかったことはなんと有り難いことだったか。船が日本に近づいてきた。
もうすぐ両親や友人、旧師に会えると思うと感傷的にならざるを得なかった。昭和23年12月3日、舞鶴に上陸した。私には5年半ぶりの日本の風景だった。生きて帰れたのがウソのような気がした。同じ船で帰った人たちもナホトカとは違い猫のように温和しくなっていた。
ソ連の悪口を言う者も出てきた。シベリヤの洗脳も実際には効果を上げていなかったのではないか。しかし強者に迎合するという習性は悲しいことであった。復員局の平寮には先着組が残っており、私たちのことを心配してくれていた」(引用止め)。(東海子)
・(読者の声2)「ウクライナ情勢、日本は「調停者」と成り中国の機先を制せ」
クリミアの住民投票でロシア編入賛成派が圧勝した事を受け、クリミア&ロシア対ウクライナ新政権との軍事衝突の可能性がある。
これを避けるためには、調停者が必要となるが、安保理常任理事国が当事者のため国連は機能せず、これまで沈黙を守ってきた中国が調停者として浮上する可能性がある。
これは中露の紐帯を強めるため、日本としては断固阻止しなければならない。
日本は一応西側のスタンスを取ってはいるが、実質上の調停者となる資格は十分にあり、北方領土問題を優位に進めるためにも、プーチンとクリミアの地位の落とし所を今から腹合わせしておくべきだ。
同時に、中国が今回のクリミア問題を材料に尖閣、沖縄収奪計画の正当化を図って来るため、日本はこれらとクリミアの違いを歴史的、法的、状況的に峻別し説明する準備をしなければならない。
◆クリミアの大義◆
16日、クリミア自治共和国と、これに隣接するロシア海軍基地のあるセヴァストポリ特別市でロシアへの編入を問う住民投票が行われ、編入賛成派が圧勝した。ウクライナ新政権は、クリミアの離脱は憲法違反としており、独自の国軍の編成を図っているクリミア及びロシアと軍事衝突する可能性がある。
プーチンの腹は何処にあるのか明確ではないが、セヴァストポリの海軍基地恒久使用を担保する事により戦略上の目的の大半は達成出来る上、クリミアの併合は国際政治上のリスクだけでなく経済的にも大きな負担となる(3000億円とも言われる)ため、クリミアの「高度な自治」で妥協する余地がある。
クリミアは元々ロシアの領土だったものを、ソ連時代に主に行政上の理由でウクライナに帰属させた経緯があり、ロシア系住民が大半を占める事、ウクライナ新政権からロシア語を公用語から除外する等の差別的決定、迫害の危険も加えて、住民投票によるウクライナからの分離独立は歴史的、国際法的、状況的に応分の正当性がある。
これらの点が、中国の尖閣、沖縄収奪計画と一線を引く要素であり、日本はクリミア調停に乗り出すと共に、この違いを更に明確に国際社会に説明すべく、事実確定、理論構築、広報・外交戦略を組み立てねばならない。
◆北方領土へ◆
昨秋クレムリンで行われた安倍・プーチンの第2次安倍内閣発足後初会談において、プーチンは日露通行条約が締結された1855年産のワインを供した。
この条約は、日露国交発足であると共に、南千島のみならず樺太の言わば日露共有を謳ったものだった。
ここに、柔道家プーチンが得意とするダブルミーニングの謎掛けがある。「この謎を破って、もっと踏み込んで来い。」
「でなければ、ロシア国民の手前、落とし所の糊白が作れないではないか。」
北方領土問題の解決は、端的にいえば日本が出すシベリア開発資金の金額と、幾つの島を何時交換するのかに尽きる。「国際的大義を伴う長期的国益の追求」外交の要諦は、万古不変だ。
この原則の下にある限り、今回のクリミアを巡るロシア、米国、EU、中国のパワーゲームに、安倍総理はもっと踏み込んでよい。
(佐藤鴻全、千葉)