平井 修一
「東海子」さんがメルマガ「頂門の一針」に「もとコミンテルンのソ連工作員、ジャック・ロッシ氏はKGBに逮捕され強制収容所をたらいまわしにされ地獄遍路をする」と書いていたので調べてみたら、上智大名誉教授の外川継男氏のサイトに「ジャック・ロッシさんの事」という記事があった。
外川氏の専門は西洋史、ソ連東欧史。1934年東京神田生まれ。1957年東大西洋史学科卒。61年北大大学院博士課程中退、北大法学部附属スラブ研究施設助手。69年助教授、73年教授、78年北大スラブ研究センター長。
1983年から1984年にワルシャワ大学客員教授として同大学日本語学科にて日本語と日本事情を教える。87年上智大学教授、99年特別契約教授、2004年退職し名誉教授。著書・訳書は多数(注1)。
以下に転載する(一部)。
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「ジャック・ロッシさんの事」(1996年4月20日発行)
初めてジャック・ロッシさんに会ったのは、もういまから十七、八年も前のことになる。当時北大のスラブ研究施設に勤務していた私は、『スラブ研究』という紀要に載せる原稿のことで、以前北大にいて、その後東京の上智大学に移った内藤操教授(注2)を都下、東大和市のお宅に訪ねた。
このとき内藤さんは私に、どてらを着てこたつにあたっていたロッシさんを、ソ連の強制収容所時代の親友だといって紹介してくれた。60歳代の、小柄で痩身の、白髪で色の自い、もの静かで品のいい人だった。
フランス人であるロッシざんと私はフランス語で話したが、内藤さんとはロシア語で話していた。その話し声は普通の人より小ざめで、少し高かった。
当時ロッシさんはロシア語で『強制収容所便覧』を書き終えたところだった。その内容紹介を『スラブ研究』に発表するのが、このときの事務的な用件であった。当初これを全部『スラヴ研究』に発表できないかと検計してみたが、大学の紀要ではやはり無理だとわかって、結局この著作の歴史的・文化史的意義と一部の内容の紹介を、内藤さんが内村剛介というペンネームで『スラブ研究』の第26号(1980年)に発表することになった。
その後この著作はロシア、イギリス、アメリカで出版され、近く日本語版も出る予定と聞いている。スターリン時代のソ連政府は、強制収容所の存在そのものを否定していた。
その後フルシチョフ時代におずおずとスターリン批判が行なわれるようになったが、本当に市民が強制収容所の実情を知ることができるようになったのは、ペレストロイカが開始された1986年以降であった。
それ以前はソルジェニーツィンをはじめとするいわゆる反体制作家や亡命作家によって、サミスダート(地下出版)とかクミスダート(国外出版)のかたちでわずかに出版されていただけで、一般市民にはなかなか手が届かなかった。その代表的な作品にギンズプルグの『けわしい行路』(邦訳『明るい夜暗い昼』)やシャラーモフの『コルィマ物語』がある。
ロッシさんは『強制収容所便覧』で、そこで使われていた用語の特殊な意味と使用例を詳細に説明している。「監獄」という言葉ひとつを取ってみても、帝政時代からソ連にかけての時代の移り変りのなかで、どのような種類のものが作られ、それがどのような特徴をもつものか、何ぺ−ジにもわたって解説している。
したがって、これは単にソ連社会の犯罪面だけでなく、ロシア・ソ連社会全般の実態を知る重要な資料になっている。ロッシさんの説明はきわめて詳細であるというだけでなく、学術的にも信頼できるもので、その後ロシアのみか、アノリカやイギリスの専門家によって高く評価されるようになった。
私は一昨年の春から一年問をフランスで送ったが、後半はヴァンセンヌの森の近くのサン・マンデという、パリのすぐ東にある小さな町で暮らした。ここは定年退職者が多く、比較的治安もよくて、近くに池のある大きな公園もあって、東京にたとえると三鷹か吉祥寺といった感じのところである。
一方、ジヤック・ロッシざんは、そこから四、五キロ北のモントルーユという町に住んでいたので、お互いに行き来する機会があった。
この日本流に言えば2DKのマンションに、ロッシさんは80歳を過ぎて一人で住んでいる。家具はあまりなく、清潔にしている。ベッドはなくて、マットレスだけである。そのかわり、ほかとくらべてやや多く思われるのは、辞書、本、雑誌、新聞のたぐいで、フランス語とロシア語が半々くらいのように見うけられた。テレビがない代わりに小さな短波のラジオがあって、これでニュースを聞いたロッシさんから、私は細川内閣の総辞職を教えてもらった。
ここを初めてたずねたときは家内と一緒だったが、ロッシさんは近くのスーパーで買ったパイと、紅茶でもてなしてくれた。コーヒーははとんど飲まないようで、むしろ緑茶を好んでいた。しかし、パイが出たのは最初だけで、そのあとはたいてい甘味の少ないビスケットとお茶だけだった。
生活は簡素のひとことに尽きる。服もあまり持っていないようだが、いつも清潔でさっぱりしたなりをしていた。ひげもきれいに剃って、老人特有の不潔なところは徴塵もなかった。
ジャック・ロッシは1909年、リオンの裕福なフランス人の家庭に生まれた。11歳のときに母を喪い、その後家庭の事情からポーランドに移った。少年のジャックを驚かせたのは、当時ビウスッキー統治下のポーランドにおける、貧富の大きな差であった。
17歳のときジャックは非合法のポーランド共産党に加入し、帝国主義戦争反対ビラを所持していたところから、正式の裁判にかけられて禁固9力月の刑に処せられた。しかし、このとき彼は人民の未来の幸せと革命の「大義」のために奉仕できたことを誇りに思った。
刑期を終えて釈放されてからも、彼は父親のところには戻らなかった。非合法活動をしながら、中国語など主として東洋の言語を学ぴ、一時期教壇にも立ったことがあるらしい。ジャックは1928年からコミンテルン(共産主義インタナショナル)で「技術者」として活動するようになった。
その天才的語学能力と、たぶん電気通信の枝術が評価されたのだろう。モスクワの本部からの秘密連絡のために、彼はヨーロッパ各地をとびまわった。ある時、偽のスウェーデン旅券で、船でジェノヴァから地中海のアジア側まで秘密文書を運ぶことを命じられたが、同じ船に本物のスウェーデン人が乗っているとボーイ長から聞かされて、航海中病気と称してついに一歩も船室から出なかった。
後年彼が監房で一緒になった、拷問から戻された男を慰めるためにこの話をしてやったとき、男はそのスウェーデン人こそ自分だったと言っジャックを鷲かせた。
スペイン内戦たけなわの1937年に、彼は秘密の送信機とともに、フランコ軍の後方に送りこまれた。しかし、ある日突然モスクワに戻るように本部から命令がきた。スターリンによる粛清が猖獗をきわめていたころだったが、その実態は知るよしもなかった。
当時ジャックには形式的に妻になっている女同志がいたが、彼女はしきりにジャックがモスクワに行くことに反対した。しかし、「革命の闘士」たることを誇りに思っていたジャックは、彼女の懇願を押し切って、命令にしたがってモスクワに戻った。
そこで彼は有無を言わざず逮捕・投獄ざれた。容疑はフランスとポーランドのスパイだという、まったく身に覚えのないことであった。毎夜つづいた深夜の拷問の末、強制労働10年の判決がくだされ、ソ連各地の監獄をたらい回しにされたが、そこで彼はロシア人、ウクライナ人、タタール人、プリヤート人など、ソ連のさまざまな人種、階層の因人と一緒になり、彼らの経歴からソ連社会・政治の現実を身をもって知ることになった。
10年の刑期が終わるころ、極北の収容所にいたジャックは、形式的に釈放されたが、その実態は、収容所の柵の外側に住んで囚人と同じ労働をつづけることであった。しかしまもなく、警察の行政手続きによって、裁判もなしに、今度は25年の「自由剥脱」の刑に処された。
ジャックと同様、1937年の大粛清で逮捕・投獄されたものは、当局より通達のあるまで、刑期終了後も元の状態におかれることになっていたが、第2次大戦後の労働力不足を補う必要もあって、このような人たちはほとんどみな、ジャックのように行政処置で裁判なしに再ぴ収容所に入れられて、強制労働に従事するはめになった。
ジャックが釈放されたのはスターリン批判の行なわれた1956年のことで、収容所生活は20年に及んだ。しかし、そのあとすぐフランスに帰れたわけではなく、ようやく彼が腰を落ち着けてフランスに定住することになったのは1985年のことであった。
このときジャックはすでに76歳になっていた。
ジャック・ロッシさんが手紙を添えて、出版されたばかりの著書を送ってくれたのは、今年の正月の3日だった。『フラグマン・ドウ・ヴィー』というタイトルで、フラグマン(断片)もヴィー(生、人生)も複数だから、直訳すると『ざまざまな生の断片』ということになろうか。
内容は20年に及ぶロッシさんのソ連の強制収容所での見聞である。約50ほどの挿話が収められたこの170ぺ−ジほどの本には、ロッシさん自身が描いたデッサンが5枚ばかり入っている。内容からタイトルをつければ『ソ連強制収容所の人生模様』とでもなろうか。
この著書は、あたかも名カメラマンがとった、ピントのピッタリ合った自黒の写真集を思わせるものがある。著者はこの中でソ連当局の非人間的扱いを声を大にして糾弾したり、自分の体験を悲劇として語ったりすることは、まったくない。
むしろいつものロッシさんの話しぶりがそうであるように、やや小さな声で、自分が見たこと、聞いたことを、いささかの誇張も交えずに、淡々と物語っている。この本の最後の挿話は「日本人」と題する一篇だが、それは以下のような物語である。
「止まれ!」
私は命今に従う。長い廊下の、とある扉の前にいる。それは他と同じように灰色だ。下の方には黒ペンキで四八号と記されている。廊下の看守はみすぼらしい男の私には興味をしめざずに、付き添って来た看守に近づく。
彼はその看守から渡されたカードをすばやく一瞥するや、2つのばかでかい南京錠をひとつずつあけてから、大きな鍵を錠前に差し込んで2度回し、私に敷居をまたがせると、すぐに扉を閉める。
目の前は大きな監房である。うしろで2つの南京錠をかけ、ついで鍵を錠前に差し込むきしんだ音がする。そのあと静かになる。
30ほどの顔がこちらに向けられる。東洋人だ。ほとんどが、自分の寝板の上にあぐらをかいて座っている。みな哀れな縞のパジャマを着ている。2週間前に私がこの施設に着いたとき着せられたのと同じやつだ。
これらの男はみなひどく痩せている。明らかに彼らは、監獄から支給される食糧だけで生きていくのを余儀なくされている。それ以上はなにもないのだ。そしてそれがもうずいぶん長くつづいているのを私は知っている。私も同し状況下にあるからだ。
ただここですぐに私は、なにかまったく異様なあるものに打たれた。彼らの眼差しには品位があるのだ。その目には、腹を滅らして収容所にいるほとんどすべてのものに特徴的な、あの飢えたジャッカルの表情の痕跡がないのだ。
これが私が日本人について抱いた最初のイメージであった。
それは1949年、アレクサンドロフスク中央監獄でのことだった。そのとき私はもう12」年も収容所暮らしをしていた。それは虚偽、不公正、失望、屈辱、挑発、倣慢、堕落、偽善、そして飢えと寒さと恐怖に満ち、垢にまみれた十二年だった……
私にとってこれらの試練は、それがロシアのコミュニストによって科せられたものだっただけに一層つらいものだった。とりわけ彼らこそ世界中にマルクス・レーニン主義の炎をもたらす「純粋で」「ほんものの」コミュニストだと思っていたからだった。
フランスの若いコミュニストである私は、光栄あるこの事業に参加することをとても誇りにしていたのだった! 熱にうかされていた私は、すすんで支払いをする(犠牲になる)つもりだった。ああ! 私に支払わせたのは「敵」ではなく「友」だった。
それが突如この日本人の、帝国陸軍将校のこの監房のなかで、私は何年ぶりかで初めて新鮮な空気を吸ったような印象を受けた。あとになって監獄のコミッサール(政治将校)は「東洋の猿」と一緒に閉じこめておくことで、私を侮辱し、罰したつもりだったということを知ったとき、私はどんなに驚いたことか……彼らをだましつづけるために、私はどんなに気をもんだことだろう!
その後1949年から1956年にかけて、偶然移動のときに私は日本人と一緒になることがあった。彼らの礼儀、規律、そして清潔さはこのひどく汚れた世界にはあまりにもそぐわなかったので、彼らに会うたびにいつも一陣の清浄な空気か、静かで晴朗な日の出にでも遭遇したように感じられたものだった。
どういうわけかわからないが、ソビエト当局は日本の将校を他の収容所の囚人大衆とは一緒にしない方針を取っていた。彼らが自分たちの一体性と文化を保ち、収容所がまさにその破壊を使命としたもろもろの価値(観)を保持しえたのは、たぶんこれがひとつの理由だったろう。
私と一緒の日本人の大部分は、私だけが知らない彼らの言葉だけで話していた。しかし私は元首相の子の近衛文隆公と(英語で)充実した会話をしたことをとても楽しい思い出としている。私がミサオ、のちの内村剛介教投と出会ったのはここであった。私たちはあるときはロシア語で、あるときは中国語で、あるときは英語で話したものだった。
1952年だったか、ソビエト当局は日本人因人をもう少し人間的に扱うことでなにか政治的利益が得られるかも知れないと気付いた。そこで日本人は7年か8年ぶりで自分の家族と通信することが許された。
親切にもミサオは自分の妻のハマコからもたらされる温かさを私にも分けてくれた。私ときたら15年というもの、外界のニュースにはまったく接していなかった。検閲によってきびしく制限されたメッセージのなかに、ハマコは次第に「あなたのお友達に私からよろしく」という一言をすべりこませてきた。そのたびに私は、厚い牢獄の壁を越えて自由な世界からやって来る新鮮な空気に触れたように感じたものだった。
私はいつもそのことで彼女に感謝している。それ以来ミサオと彼の家族はずっと私の友達でいる。2人の子供のマナミとリリカにとって、私は「ジャックおじさん」である。
奇妙にもグラーグ(強制収容所)にいた全期間を通じて、日本人と一緒のとき私には一万二千キロも離れた、とりわけグラーグの十二年間によって隔てられたフランスとその文化との距離をもっとも短く感じられたものだった。(以上)
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小生はソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」を何回も読んでは、そのたびに泣いた。共産主義という、およそ人間が考え出したもののなかで最も悪魔的な思想、最も残酷な体制による、普通の人々への理不尽な圧迫! 小生はアカを憎む、容共左派、オオエ真理教的進歩派、朝日、岩波をとことん憎む。
ロッシの話もまた感動的だ。ともにめげなかった日本人にも感動した。
外川氏の名前に記憶はなかったのだが、調べてみたら彼の翻訳した「共産主義黒書」を小生は読んでいる。また、内藤操、ペンネーム内村剛介氏の著作や訳書はずいぶん読んでいるし、内村剛介は反スターリン、新左翼の有名な論客だった。だからロッシについても身近に感じられる。内村氏がシベリヤ抑留者だったことは初耳だった。
いい話を読ませてもらった。
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注1)外川継男氏の著作
「ロシア (地図で読む世界の歴史) 」ジョン・チャノン、ロバート・ハドソン、外川継男 (1999/11)
「共産主義黒書(ソ連篇) 」クルトワ・ヴェルト、外川継男 (2001/11/25)
「ロシアとソ連邦」(講談社学術文庫) 外川継男(1991/6)
「バクーニン著作集〈1-6〉」(1973年) 外川継男、左近毅 (1973)
「向う岸から」(古典文庫) ゲルツェン、外川継男 (2008/7/1)
「ラーゲリのフランス人―収容所群島・漂流24年」ジャック・ロッシ、ミシェル・サルド、外川継男 (2004/9)
「さまざまな生の断片―ソ連強制収容所の20年」ジャック・ロッシ、外川継男、 内村剛介 (1996/7)
「サビタの花―ロシア史における私の歩み」外川継男(2007/12)
「向う岸から」ゲルツェン、外川継男 (1970)
「ゲルツェンとロシア社会―ツルゲーネフおよびバクーニンとの論争によせて」(市民社会叢書〈第3集〉) 外川継男 (1973)
「スラブと日本 (講座スラブの世界)」原暉之、外川継男 (1995/3)
「世界の歴史 18 ロシアとソ連邦」外川継男 (1978/4)
「ロシア・ソ連史 (図説世界文化地理大百科)」外川継男、吉田俊則
(2008/11/20)
「世界を創った人びと 25 トルストイ」外川継男 (1978/1)
注2)内村剛介(うちむらごうすけ、1920年3月18日 - 2009年1月30日)はロシア文学者、評論家。栃木県生まれ。本名、内藤操。
1934年、満州に渡る。1943年、ハルビン学院卒業。敗戦後の1956年までシベリアに抑留された。帰国後、商社に勤務する傍ら文筆活動を始め、『生き急ぐ』はロングセラーとなる。スターリニズムやソ連の文学・思想を、抑留体験から解読・批判したほか、現代日本への批判も行なった。1973年、北海道大学教授。1978年、上智大学教授。2009年、心不全のため88歳で死去。
小生は彼の「文学と革命 第1−2」(トロツキー)や「スターリン時代」などを持っている。(2014/3/2)