2014年03月04日

◆真実ゆがめる朝日報道

櫻井よしこ


2月21日、「朝日新聞」が掲載した「米国から見る安倍政権1年」という大型インタビュー記事には思わず苦笑した。在米の作家、冷泉彰彦氏が安倍晋三首相の政治外交に米国の懐疑と警戒が強まっているとして、こう指摘する。

「ジョン・ダワー氏の言うように、日本は『敗北を抱きしめて』まともな国になったはず」なのに、安倍首相は「米国が主導して作り上げた戦後の国際秩序」を乱している。ダワー氏の偏見と事実誤認に満ちた書を後生大事にするこうした記事をはじめ、社説、「天声人語」、読者投稿などを駆使した朝日の紙面構成には疑問を抱かざるを得ない。

朝日は、メディアの役割として「不偏不党」「真実の公正敏速な報道」をうたう。にもかかわらずその報道は往々にして事実に基づいていない。むしろ真実をゆがめ、結果として中国や韓国の利益を代表するかのような報道があふれている。

中国では「抗日戦争勝利記念日」と「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」がおのおの9月3日と12月13日に定められ、習近平政権の歴史問題での対日強硬路線がより強化されつつある。日本企業を相手どった訴訟は、中韓両国で連発されると考えられる。

中国の得意とする3戦、世論戦、法律戦、心理戦の内、少なくとも前2者の戦いが日本相手に全面展開中である。

こうした時こそ、事実の確認が重要である。だが、朝日の報道は無責任にも逆方向に向かっている。3月1日の朝日朝刊4面の「河野談話 先見えぬ検証」の記事である。菅義偉官房長官が河野官房長官談話の作成過程を検証する考えを表明したことを伝える同記事の隣に「河野洋平氏・政権にクギ」という囲み記事を朝日は並べた。

河野氏が「前のめりの方々、昔の人たちの経験談をよく聞き、間違いのない政治をやってほしいと」と語ったことを紹介し、これを安倍政権へのクギと解説したのだ。が、前のめりで慰安婦談話を出したのが河野氏であり、捏造(ねつぞう)記事でお先棒を担いだのが朝日だったのではないか。この記事はそんな自分たちの過ちに口を拭うものだ。

91年8月11日、大阪朝日の社会面一面で、植村隆氏が「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」を報じた。

この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている。植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである。

                ◇

この延長線上に93年の河野談話がある。談話は元慰安婦16人に聞き取りを行った上で出されたが、その1人が金学順氏だ。なぜ、継父に売られた彼女が日本政府や軍による慰安婦の強制連行の証人なのか。そのことの検証もなしに誰よりも「前のめり」になったのが河野氏だ。

日本国内における談話作成のプロセスの検証を、朴槿恵大統領は「3・1独立運動」の記念式典で強く牽制した。朝日は3月2日、早速、「河野談話再検証の動きなどがこのまま続けば、関係改善の糸口を見つけるのはさらに困難」になると報じた。

同じ4面に前田直人編集委員が集団的自衛権に関して「安倍さん、イケイケドンドンですか」「民主主義は手続きが大事だ」と強調するコラムを書いた。

なんとも嫌みな紙面構成である。だが、言っていることは正しい。手続きは大事なのだ。そこで朝日に問いたい。河野談話作成の手続きだけでなく村山談話国会決議の手続きの不透明さをなぜ、追及しないのかと。

村山富市氏は首相就任当初から、日本国政府の歴史に関する謝罪決議採択を目指した。反対論が強く、決議案否決の読みが確定したとき、村山氏らは驚く一手を使った。

西村眞悟衆議院議員が05年7月号の『諸君!』に詳述したが、6月9日、金曜日夕刻、衆議院内に「本日は本会議は開会されない、各議員は選挙区に戻られたし」という通知が配られたそうだ。

騙(だま)し討ちが計画されているとは露(つゆ)ほども知らない、決議反対派の議員の多くが永田町を後にした午後7時53分、突然、土井たか子衆議院議長が本会議開催のベルを押した。出席議員は230名、欠席議員は265名だった。

官報によると、本会議は午後7時53分開会、7時59分散会となっている。電光石火の6分間の勝負だった。

これが選良たちの行動か。とまれ、同決議をもとに、極秘に作業が進められ、約2カ月後の8月15日、村山談話は突然閣議決定された。

世紀の企(たくら)みのご当人はいま、河野談話策定過程の検証について「事実がなかったとあげつらって何の意味があるのか」、村山談話は「日本の国是」と語る。

こうした恥ずべき言動は殆(ほとん)ど検証せず、朝日は安倍政権叩(たた)きを続ける。そこに、毎日新聞、東京中日、共同通信、米国のリベラル系人脈が加わり、中韓両国に吸い寄せられたような論調が築かれていくのはどうしたことか。

メディアは何よりもいま、事実関係の特定に力を注ぐべきではないのか。朝日の綱領は単なるスローガンか。こうしたメディアの無責任を放置すれば、日本は中韓の仕掛ける世論戦、法律戦の戦いに敗れかねないだろう。

産経ニュース【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】2014.3.3 03:13

◆南スーダンで内戦が激化

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

平成26(2014)年3月3日(月曜日)貳:通巻第4169号 
 
〜自衛隊330 名が派遣されている南スーダンで内戦が激化している
 石油パイプライン攻防で輸出は四分の一に激減。一番の困惑組は中国だ〜

南スーダン上ナイル州の都市マラカル奪回を宣言したのはヌエル族の武装組織「ホワイト・アーミー」(2014年2月18日)。すでにこの石油基地では銃弾が飛び交い、殺人、レイプは日常茶飯、秩序は崩壊している。1月23日に休戦協定が結ばれたのは、彼らが組織再編と再武装の時間稼ぎに過ぎなかった。

すでにマラカル周辺では1万人以上が殺され、60万人から70万人が難民となった。

2011年7月、南スーダンが独立したおり、石油生産基地は北側のスーダンではなく、南スーダンに集中しているため、輸出港へ運ぶパイプラインの安否が気遣われた。その生産基地の主力のひとつがマラカルである。

当時、もっとも懸念したのは中国だった。

それまではスーダンのバシル政権に梃子入れしてきた関係から、南スーダンへの接近も北京にとって重要な外交課題だった。果たして南スーダン新政権は中国が投資した石油施設、パイプラインを守ってくれるのか?

スーダンの石油は日量25万バーレル前後、その半分以上は中国が輸入している。パイプラインの敷設と警護を中国が支援した。

スーダンではダルフールで30万規模の虐殺が行われ、バシル政権は国際世論から非難されたが、武器供与の筆頭は中国だった。それもいつしかうやむやになった。

そして南スーダンの内戦状態はむしろ激化している。

国連のスーダンミッション(UNMISS)には日本も韓国も加わって、直近のハプニングは韓国軍が日本の自衛隊に実弾の借り入れを申し込んだことだ。

南スーダンは国庫の98%が石油収入で、一人あたりのGDPは1000ドルと言われるが、石油利権の奪い合いが政治の中心なる。日本は南スーダン独立後、200億円を援助し、JICAを通じて教育、農業技術、インフラ建設に協力してきた。自衛隊は330名が派遣されており、それでも治安が悪く、ティンカ族、シルック族、ヌエル族の対立で、戦乱の巷となった。

加えて13年10月に南スーダン一帯が洪水に襲われ被災者が20万人、難民が溢れだし、日本はこの洪水災害でもテント毛布など1800万円相当を寄附した。
 
国連事務所が襲撃され、印度兵2人が死亡する事件が起こったが、首都のジュバでも爆発、銃撃が繰り返され、その基本構造にはリック・マチャール前副大統領率いる反政府武装組織と、サルバ・キール大統領派との軍事抗争である。

「後者にはウガンダ兵が多数混入しており、米国はウガンダの介入に警告している」(英誌エコノミスト、3月1日号)。

いまのところ中国の介入の痕跡はない。

◆長友佑都を育てた母と教師

伊勢 雅臣


「感謝の気持ちがあるから、僕は成長できる」と長友は言う

■1.「誰かを思い、大切な人のために闘う」

イタリアのプロサッカー1部リーグ(セリエA)インテル・ミラノ所属の長友佑都の活躍が目立っている。2月10日の試合はミッドフィールダーとしてフル出場し、1−0での勝利に貢献。2月16日の試合では決勝点のアシストをして連勝をもたらした。

最近は主力選手として出場し、ゲームキャプテンも任されて、チームワークの要となっている。その長友がこんな事を書いている。


<「佑都の武器は、スピードでもフィジカルでもなくて、相手の懐に入っていく力だよね」インテルでチームメイトと楽しくやっている僕を見て、事務所のスタッフが言った。「どこへ行っても仲間といい関係が生み出せる。それはひとつの才能」というわけだ。>[1,p219]

その「才能」は中学時代の経験から開花した。


<中学時代、ウソ偽りのないまっすぐな思いでぶつかりあう人間関係の熱さや感謝の心を学べたことも大きい。誰かを思い、大切な人のために闘う。そして誰かとつながっている。ひとりじゃないといつも感じられる。だからいい仲間に出会えるのかもしれない。>[1,p219]

■2.12歳で自分のサッカー人生が終わったような気がした

愛媛県西条市の西條北中学校時代、長友は荒れていた。小学6年生の時に、愛媛FC(フットボール・クラブ)傘下の中学生チームに入りたいと、テストを受けたが不合格。

失意のまま、西條北中学校のサッカー部に入ったが、そこは不良の巣窟だった。たいていの部員は放課後の練習をサボって町の盛り場に出かけていく。警察に補導される先輩もいた。12歳で長友は自分のサッカー人生が終わったような気がしていた。

また父母が離婚していて、母子家庭と見られることのストレスもあった。放課後、母が働きに出ている家に友達を呼んで、たむろすこともたびたびだった。

母親は、一日の仕事を終えて、疲れて帰宅し、散らかった部屋を片付ける際も、「また、今日も、ぎょうさん友だち来てたんやねぇ」と言うだけだった。

長友がゲームセンターで遊んでいることは近所の評判にもなり、「佑都くん、大丈夫なん?」と母親に告げる人もいた。それでも母親は「ゲームセンターにおることがわかっているから、なにかあってもすぐ居場所がわかって便利ですよ」と笑って切り返した。

母親は「自分自身で気がつかないと意味がない。いろいろな人とつきあうことで、良いことや悪いことを自分で判断できるようになる」と考えていたと、後に長友に語っている。

■3.「お母さんの気持ちを考えたことあるんか?」

長友の入学と同時に、西條北中に赴任してきたのが井上博先生だった。「中学校の教師になり、サッカー部を指導したい」という夢を持っていたが、なかなか教員試験に合格できなかった。しかし、小学校の教員を経て、29歳の時に西條北中で念願のサッカー部の顧問になった。

井上先生は、なんとかサッカー部をまともにしようと、奮闘を始めた。1年生を集めて、先生はこう訴えた。「お前ら1年生は俺と一緒に北中に来た。卒業するまでの3年間で、お前らがサッカーやれるよう俺がなんとかするけぇ。先輩のことは気にせんと、一緒にサッカーやろうや。」

「熱いこと言うてるけど、どうせ口だけやろ」 母を捨てた父親との事から、長友は大人の男に不信感を抱いていた。それにゲームセンターで遊んでいるほうが楽しかった。

ある時、いつものようにゲームセンターで遊んでいると、「お前ら、なにしとるんじゃ」と声が響いた。声の方に振り向いた途端、恐怖に凍りついた。身長はそれほどないが、いかにも筋肉マンの井上先生が、怒りの炎を宿した目で睨んでいる。

「立てや」と言われて、長友と隣にいた友だちが立ち上がった途端、パチンと乾いた音がして、友だちが「痛い〜」と頬を押さえて、膝から崩れ落ちた。次の瞬間には長友の頬に痛みが走った。

「お前がこんなことをやってるんを見ているお母さんの気持ちを考えたことあるんか? そのゲームやっているお金は誰のおかげぞ!!」 顔を真っ赤にしながら口にしたその言葉が長友の胸に響いた。

■4.「俺はな、ホンマに申し訳ないと思っとる」

ゲームセンターでの出来事があってから、井上先生はことあるごとに「佑都、ちょっと話せへんか」とやってきた。先生の車の中で話すこともあった。

「お前なぁ、ついこのあいだまでサッカー大好きで、毎日毎日サッカーやってたんやろ。どうよ、今、物足りひんちゃうん? もっとサッカーやりたいやろ」

「小さいころ、プロになりたい言うとったやろ。お前はプロになれると思うで。愛媛FC落ちて、ショックなんはわかるけど、ここで諦めたら、終わりやで」

「佑都らの代は、神拝小時代から強かったし、うまかった。ええ選手がそろっとる。そやけど、中学のサッカー部がこんな状態やけぇ、サッカーへの情熱が薄れてしもうた。俺はな、ホンマに申し訳ないと思っとる。お前等、サッカーやりたいのに、、、、サッカー部がこんな状態で、、、、」

先生が泣いていた。大人の男が泣くなんて、初めて見た。心が震えた。

「母さんのこと考えてみぇや。朝から晩まで働いているんは、子どもの幸せのためや。お前のスパイク買うたん、誰か、よう考えてみぃ。母さん喜ばせたないんか」

■5.「俺はお前とサッカーがやりたいんや」

「先生の言葉が耳に届いたとき、僕は母さんの顔を思い浮かべた。毎日一生懸命働いて、しんどいのにいつも笑っている母さん。泣き言も愚痴も言わず3人の子どもたちのためにすごい頑張っている母さん。

西條に来てから、母さんがのんびり座っていたり、ゆっくり寝ている姿を見たことがない。僕が遊びへ逃げても小言ひとつ言わずに見守ってくれている母さん。それだけ僕を信用し、期待しているということだ。というのに、僕は嫌なことから逃げて、楽なことしかやってない。

「なにやってんねん」

情けなくて、腹立たしくて、申し訳なくて、カッと身体が熱くなった。涙が頬を伝ってきた。一筋涙が流れると、もう止まらない。声をあげて泣いた」。[1,p40]

そんな風に井上先生とふたり、泣きながら語る夜が何度もあった。長友は思った。

「サッカー部の生徒全員に裸の心でぶつかってくれる先生。僕らを真面目にさせるため、サッカーへ戻すため、必死になってくれる。ひとりの選手、ひとりの人間に対して、こんな風に本気になれるなんて、こんな先生ほかにはおらへん」

「俺はお前とサッカーがやりたいんや」という先生の言葉に長友は黙ってうなづいた。サッカーに打ち込む日々が始まった。

■6.「自分の信念がぶれないのは、ノートがあるからだ」

「これはな、心のノートやけん。なにを書いてもいいけん。とにかく毎日
書いてこい」

2年生になると、井上先生がそう言って、ノートを配った。しかし、授業中ですらノートをつけない長友にとっては、家で机に向かってノートを広げることだけでも億劫(おっくう)だった。

「今日も元気に練習できた」

「ゴールを決められなくて、残念だ」

毎日毎日、そんな1行を書くだけでも精一杯だった。それでも、先生は「ノート見せてみぃ」と毎日、皆のノートを確認し、なにかしらメッセージを書き込んで返す。そのメッセージからもまた、先生の熱意を感じることができた。

真っ白なノートを前に、今日一日にあったことを考える。なにが起き、どんな行動をし、そしてどういう風に感じたのか、あれこれ考えると、その瞬間には自覚していなかったさまざまな自分の感情に気づくことができる。そして文字に書かれた自分の思いを読み直すと、客観的に自分を見つめることが出来た。

まるで自分自身と会話を重ねているような時間だったので、その作業がどんどん面白くなっていった。家に戻り、夕食をすませると、さっそくノートを開く。先生のメッセージを読み、そして自分の気持ちを記す。一日に何ページも書くことがあった。

「チームがひとつになることは、ボールを蹴るよりも大切なこと」

中学時代に長友が「心のノート」に記した言葉だ。長友は今でも実家に帰ると、心のノートを開くことがある。過去のノートを読み返すことで、大切なことが思い出される。「自分の信念がぶれないのは、ノートがあるからだ」と長友は思う。

■7.「目標があったら、僕はとことんやるタイプなんや」

秋には、3年生が引退し、長友ら2年生がサッカー部の中心となった。その頃の長友は小学生時代と変わらないプレースタイルだった。ボールを持ったら離さず、どこまでもドリブルで勝負する。しかもボールを奪われても守備に戻らない。

「佑都。お前の持ったボールは、ゴールキーパーから始まって、ディフェンダーが頑張り、チームメイトがつないでくれたボールや。お前だけのもんやない。そこを感じてプレーせなアカン。心でボールを蹴ってくれ。仲間のために走れ。」

先生の言葉は理解したが、守備に戻るスタミナがなかった。走って自陣に戻って守備をしたくても出来なかった。サッカー部のトレーニングで校外を3キロくらい走る練習メニューでも、校門を出たら、さっと横道に隠れる。チームメートが戻って来ると、こっそり中に戻る。顔や頭を水で濡らして、さも走ってきたかのように見せる。

「佑都、お前な、上を目指したいと考えてるんやろ? だったら、走れるようにならなアカン。スタミナをつけなければ、上には行かれへんぞ!!」

プロになるためには強豪の高校に行くしかないと考えていた長友は、先生の言葉にカッと熱くなった。「やるしかないやろ」。そう腹をくくった。次の日から、400メートル10本、3キロ2本、など、チーム練習で1日15キロ以上は走った。

先生の指導スタイルは、自分の弱点を自分で気づかせ、それを克服するためにどうするかは、自分で考えさせる事だった。それは母親の「自分自身で気がつかないと意味がない」という言葉と共通していた。

「佑都。どないしたんや。メッチャ速なっとうやん」 いつのまにか、チームでもいつも一番を争うようになっていた。

努力をしたら、結果が得られる。だから努力がどんどん楽しくなってくる。「目標があったら、僕はとことんやるタイプなんや」 目標を置いて、それに向かって努力していく面白さ、そしてそれをとことんやる自分自身の力に気がついた。

■8.「感謝の気持ちがあるから、僕は成長できる」

西條北中サッカー部はぐんぐんと強くなっていった。しかし、3年生の夏、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会出場を目指したが、県予選3位で敗退。

高校は、強豪・東福岡高校に行きたいと思った。しかし、私立だし、寮費もかかる。これ以上、母親に大変な思いをさせてもいいのか、と悩んだ。井上先生は「推薦入学でお願いできる可能性もあるよ」と後押ししてくれた。

長友が思いきって、母親に相談すると、ホッとしたような顔でこう答えた。

「母さんはね、佑都に東福岡に行ってほしいと思ってんのよ。あんたから「行きたい」と言うてくれんのをずっと待っとったんや。お金のことなんか、どうにでもなるんやし、子どもが心配する必要はないから。」

東福岡高校のサッカー部には九州、中国、関西からも選手が集まってくる。県や地域の選抜チームに選ばれた選手も少なくない。そんな部員が150名もいる。その中では長友は背も低く、身体も細い。レギュラーになるための道はとても遠く見えた。

しかし長友は自分の弱点を自分で掴み、自分なりの練習でそれを一歩一歩、克服していく。サッカー部での練習の他に、早朝と夜間は自主トレだ。睡魔との戦いだったが、授業中には絶対に寝ないで頑張った。母親が必死で働いて、授業料を払ってくれているからだ。

「感謝の気持ちがあるから、僕は成長できる」と長友は言う。その言葉通り、高校から大学、プロ、そして欧州へと、その都度、下から入って、そこで成長して這い上がっていく繰り返しだった。

長友の成長の原動力は「感謝の心」だ。そして、その「感謝の心」があるからこそ、イタリアのインテル・ミラノでもチームメートの「懐に入って」、チームの要としてやっていけているのだろう。

その「感謝の心」を教えてくれたのが母親と井上博先生だった。

長友の母親や井上先生のような人物が我が国の教育再生に必要です。 教育再生を目指す方、関心・問題意識のある方に:

JOG Step 教育再生
http://blog.jog-net.jp/201305/article_2.html

 JOG Stepは、特定テーマに関して、過去の弊誌記事を体系的に整理し、お申し込みいただいた受講者に第1号から順次、週1〜2編のペースでお送りする無料講座です。

■リンク■

a. JOG(761) なでしこジャパンの団結力 体格のハンディをはねかえした「なでしこジャパン」の団結力はいかにもたらされたのか。
http://blog.jog-net.jp/201208/article_2.html

b. JOG(638) 「日本人という生き方」(上) 〜 ウガンダの高校生を変えた日本の躾
「時を守り、場を清め、礼を正す」の躾で、彼らは野球に真剣に打ち込むようになった。
http://blog.jog-net.jp/201006/article_14.html

c. JOG(639) :「日本人という生き方」(下) 〜 ウガンダ高校生たちの志 日本の躾を身につけたウガンダの高校生たちは、 「母国を良くしたい」と志すようになった。
http://blog.jog-net.jp/201006/article_13.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 長友佑都『日本男児』★★★、ポプラ社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4591124452/japanontheg01-22/


2014年03月03日

◆ウクライナ政変はおそらく内戦へ発展

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年3月2日(日曜日):通巻第4167号> 

 〜ウクライナは内戦、国家二分裂の危機に直面している
        プーチンのロシアがこのまま引き下がることはあり得ない〜


いまから19年前、筆者はヤルタにいた。黒海が目の前、クリミア半島の南端のリゾートにはリバディア宮殿が残り、博物館となっている。何の? かの「ヤルタ会談」の会場がこのリバディア宮殿である。

スターリンは、この宮殿をルーズベルト大統領の宿舎として配置し、自らはリバディア宮殿を見下ろせる(監視できる)高台の宮殿の泊まり、そしてワイン好きのチャーチルは、そこから車で一時間かかる別の宮殿に泊めた。

スターリンは英米を分断したのである。

そのことは別の場所に書いたので省略するが、ヤルタで歴史的な会談の跡を見学したあと、筆者は列車でヤルタからセバストボリ経由でウクライナの首都キエフへ向かった。

19時間の旅、列車内では、物品販売がなく、仕方がないのでヤルタでお土産に買ったワインを空けて?名も知らぬ田舎の駅でとまると、プラフォームに売りに来ていた農民から赤カブなど、なんでも構わないから酒のつまみになるようなものを買い求め、トイレの水道で洗って、秘匿してきたウィスキーも空けて、寝台車で朝目覚めるとキエフだった。 

キエフは美しい街である。

ちょうどクリントン大統領の訪問前日とかで、街はお祭り気分、要するに欧米の積極的支援に人々は期待していたのだ。

当時、モスクワは悄然と霞み、ウクライナのナショナリズムは高まり、「ロシアなにするものゾ」の勢いがあった。エリツィンは落日を迎えており、回りを囲んだユダヤ人の経済顧問団もつぎつぎと政権を去っていた。

キエフでオペラをみたが、ウクライナ語での上演だった。ロシア語通訳が、これはわかりません、と言った。

ウクライナ独自の通貨も発行していたが圧倒的な偉力は米ドルだった。

1月以来、民主化デモは暴動となり、ヤヌコビッチ大統領の退陣をもとめていた。基本にあるのはEUと組もうとする北西部とロシアに組みするのが得策という南西部の対立である。ウクライナはもともと、この対決構造があった。

かくしてウクライナをめぐるロシアと欧米の対決姿勢、これは新しい「グレート・ゲーム」の始まりである。

シリア問題でロシアに外交得点を奪われた欧米は、その仕返しでもするつもりかソチ五輪開会式をそろってボイコット、鬱憤を晴らした。なにしろとってつけた理由はロシアが同性愛結婚を許さないのは人権無視だ、って。

意趣返しの上塗りがウクライナ政変である。

まるでベン・アリ(チュニジア前大統領)やムバラク(エジプト前大統領)の逃亡劇に似て、ヤヌチェンコ大統領はEU加盟を叫ぶ反政府派のデモに石もて追われる如く逃亡を余儀なくされた。

ロシア特殊部隊に助けられて、クリミアへ逃げ延びたヤヌチェンコ大統領は、「わたしはいまも合法的に大統領職に留まっている」と発言し、対決の構えを見せた。ロシアは軍隊を周辺の派遣し、特殊部隊を送り込んだ。
 
▼ガス・パイプラインという生命線

ウクライナはEUにとっても、ロシアにとっても生命線である。
 
それは農業生産、ロシアの穀倉地帯というだけが理由ではない。ガス・パイプラインである。ガスプロムの敷設したパイプラインはウクライナを通過してEUに輸出されている。

年間1600億立方メートル、EU全体の4分の1の需要をまかなう。

バルト海海底をくぐってドイツへ向かうパイプラインはまだ工事中。南を迂回するパイプラインは仕向地が異なり、なにしろ一番の顧客はドイツである。

スターリンの圧制下、キエフを支配して「大祖国戦争」を戦ってロシアにとってウクライナはコサック兵の補給地、戦場。そして黒海に面したセバストボリ、オデッサがある。

冷戦が終結し、ソ連が解体した折、ウクライナから夥しいユダヤ人が海外へ出た。だが、イスラエルには夢がなく、またオデッサへ舞い戻ったユダヤ人が目立った。

セバストポリは軍港、しかもロシア黒海艦隊の基地である。ウクライナ海軍の基地も併設されている。これはロシアが条約によって2045年まで租借できることになっており、「家賃」は年間9800万ドル。

ただしウクライナのガス輸入代金が代替される。従来、セバストポリの住民はロシアへの帰属を要求してきた。だからウクライナからの分離独立運動は、現地の住民から看れば当然の要求であり、クリミア半島の南西部という軍事的要衝である限り、ロシアが手放すわけはないだろう。

かつてチンギスハーンはこの地を占領し、欧州への軍事的橋頭堡を築いた。やがてロシアは軍事大国となって、クリミア戦争ではオスマン・トルコ帝国からロシアが奪い、またナチスが一時的に占領したほど軍事的攻防が続いた。

黒海の対岸、オデッサは戦艦ポチャムキンの叛乱の舞台としても有名だが、プーシキン、トロツキーの生まれ故郷でもある。露土戦争で、ロシアが奪い、そのご英仏、ナチスなど占領者は変化した。人口100万、とくにユダヤ人が多い街として知られる。

ウクライナは1941年、「ポグロム」と言われるユダヤ人への大虐殺がおこなわれた場所でもあり、また1986年のチェルノブイリ事故という大惨事に襲われたのもウクライナである。

この大地は血と悪霊とで呪われているのだろうか。

▼やはりウクライナは「うっ。暗いな」。

そしてこのグレートゲームの新しい参加者が中国である。

習近平はウクライナを訪問した折、ヤヌコビッチ大統領(中国語では「亜努科維奇」と宛てる)と会見して友好協力条約に調印したばかり(13年12月)。中国はウクライナへの農業、エネルギー分野ばかりか、インフラ建設、ハイテク、航空技術、宇宙開発の分野での協力を謳ったのだ。

むろん、中国の狙いは、ウクライナから購入した空母ヴァリヤーグ(いま中国名は「遼寧」というが)が示唆するように残存する武器技術である。

プーチンはウクライナへ150億ドルの援助を打ちあげ、30億ドルを供与した段階で中断した。

2月26日、ケリー国務長官は「米国は10億ドルを保証する」と発表したが、いずれもウクライナが望む350億ドルにほど遠い。銀行筋は今年だけでも300億ドルの資金ショート、借り換えが発生するだろうと見積もっている。

IMFはウクライナへの金融援助の条件として、消費者へのガス代金補助を取りやめ、緊縮財政の遂行を提示した。ウクライナ国債はCCCの格付けに陥落し、通貨は暴落を続ける。

そしてヤヌコビッチを打倒した野党はと言えば、反ヤヌコビッチでまとまっただけで烏合の衆、右翼ナショナリストから西欧型民主主義までセクトによって価値観は多様であり、前回のオレンジ革命(2004−05)のケースとは似ていない。
 
ウクライナ暴動はヤヌコビッチが強権発動、デモ隊に発砲して多くの死傷者をだしてから流れが変わった。

1917年のサンクトペテルブルグの流血も、天安門事件も、リビアもシリアも、ひとたび悲惨な流血に舞台が暗転すれば、急激に流れが変わる。血の弾圧は西側マスコミに報じられ、ひたすら人道無視、非民主的という大合唱が欧米に鳴り響き、その論調を無批判に転載するしか能のない日本のマスコミによって多くの日本人がヤヌコビッチに批判的となる。

ムバラク亡き後、エジプトは大混乱に陥り、結局は軍事政権が生まれるように、或いはリビアがカダフィ亡き後、無政府状態に陥落したように、或いはサダム亡き後のイラクが米国の望んだ逆方向へ転んだように、アフガニスタンもまた。したがってウクライナが基本構造に南北対立がある以上、迅速な解決は望むべきもない。

ウクライナ政変は、無秩序と混沌、おそらく内戦に発展するだろう。

悲観的な予測ではなくウクライナ南はロシア人が多く、ロシア寄りであり、戦略的にオデッサ、セバストポリを抱え、ロシアがEUに歩み寄るウクライナ北部と妥協するはずがないからである。
 
そうした意味でグレート・ゲームの新しい幕が開けたのである。

◆ジャック・ロッシのこと

平井 修一


「東海子」さんがメルマガ「頂門の一針」に「もとコミンテルンのソ連工作員、ジャック・ロッシ氏はKGBに逮捕され強制収容所をたらいまわしにされ地獄遍路をする」と書いていたので調べてみたら、上智大名誉教授の外川継男氏のサイトに「ジャック・ロッシさんの事」という記事があった。

外川氏の専門は西洋史、ソ連東欧史。1934年東京神田生まれ。1957年東大西洋史学科卒。61年北大大学院博士課程中退、北大法学部附属スラブ研究施設助手。69年助教授、73年教授、78年北大スラブ研究センター長。

1983年から1984年にワルシャワ大学客員教授として同大学日本語学科にて日本語と日本事情を教える。87年上智大学教授、99年特別契約教授、2004年退職し名誉教授。著書・訳書は多数(注1)。

以下に転載する(一部)。

            ・・・

「ジャック・ロッシさんの事」(1996年4月20日発行)

初めてジャック・ロッシさんに会ったのは、もういまから十七、八年も前のことになる。当時北大のスラブ研究施設に勤務していた私は、『スラブ研究』という紀要に載せる原稿のことで、以前北大にいて、その後東京の上智大学に移った内藤操教授(注2)を都下、東大和市のお宅に訪ねた。

このとき内藤さんは私に、どてらを着てこたつにあたっていたロッシさんを、ソ連の強制収容所時代の親友だといって紹介してくれた。60歳代の、小柄で痩身の、白髪で色の自い、もの静かで品のいい人だった。

フランス人であるロッシざんと私はフランス語で話したが、内藤さんとはロシア語で話していた。その話し声は普通の人より小ざめで、少し高かった。

当時ロッシさんはロシア語で『強制収容所便覧』を書き終えたところだった。その内容紹介を『スラブ研究』に発表するのが、このときの事務的な用件であった。当初これを全部『スラヴ研究』に発表できないかと検計してみたが、大学の紀要ではやはり無理だとわかって、結局この著作の歴史的・文化史的意義と一部の内容の紹介を、内藤さんが内村剛介というペンネームで『スラブ研究』の第26号(1980年)に発表することになった。

その後この著作はロシア、イギリス、アメリカで出版され、近く日本語版も出る予定と聞いている。スターリン時代のソ連政府は、強制収容所の存在そのものを否定していた。

その後フルシチョフ時代におずおずとスターリン批判が行なわれるようになったが、本当に市民が強制収容所の実情を知ることができるようになったのは、ペレストロイカが開始された1986年以降であった。

それ以前はソルジェニーツィンをはじめとするいわゆる反体制作家や亡命作家によって、サミスダート(地下出版)とかクミスダート(国外出版)のかたちでわずかに出版されていただけで、一般市民にはなかなか手が届かなかった。その代表的な作品にギンズプルグの『けわしい行路』(邦訳『明るい夜暗い昼』)やシャラーモフの『コルィマ物語』がある。

ロッシさんは『強制収容所便覧』で、そこで使われていた用語の特殊な意味と使用例を詳細に説明している。「監獄」という言葉ひとつを取ってみても、帝政時代からソ連にかけての時代の移り変りのなかで、どのような種類のものが作られ、それがどのような特徴をもつものか、何ぺ−ジにもわたって解説している。

したがって、これは単にソ連社会の犯罪面だけでなく、ロシア・ソ連社会全般の実態を知る重要な資料になっている。ロッシさんの説明はきわめて詳細であるというだけでなく、学術的にも信頼できるもので、その後ロシアのみか、アノリカやイギリスの専門家によって高く評価されるようになった。

私は一昨年の春から一年問をフランスで送ったが、後半はヴァンセンヌの森の近くのサン・マンデという、パリのすぐ東にある小さな町で暮らした。ここは定年退職者が多く、比較的治安もよくて、近くに池のある大きな公園もあって、東京にたとえると三鷹か吉祥寺といった感じのところである。

一方、ジヤック・ロッシざんは、そこから四、五キロ北のモントルーユという町に住んでいたので、お互いに行き来する機会があった。

この日本流に言えば2DKのマンションに、ロッシさんは80歳を過ぎて一人で住んでいる。家具はあまりなく、清潔にしている。ベッドはなくて、マットレスだけである。そのかわり、ほかとくらべてやや多く思われるのは、辞書、本、雑誌、新聞のたぐいで、フランス語とロシア語が半々くらいのように見うけられた。テレビがない代わりに小さな短波のラジオがあって、これでニュースを聞いたロッシさんから、私は細川内閣の総辞職を教えてもらった。

ここを初めてたずねたときは家内と一緒だったが、ロッシさんは近くのスーパーで買ったパイと、紅茶でもてなしてくれた。コーヒーははとんど飲まないようで、むしろ緑茶を好んでいた。しかし、パイが出たのは最初だけで、そのあとはたいてい甘味の少ないビスケットとお茶だけだった。

生活は簡素のひとことに尽きる。服もあまり持っていないようだが、いつも清潔でさっぱりしたなりをしていた。ひげもきれいに剃って、老人特有の不潔なところは徴塵もなかった。

ジャック・ロッシは1909年、リオンの裕福なフランス人の家庭に生まれた。11歳のときに母を喪い、その後家庭の事情からポーランドに移った。少年のジャックを驚かせたのは、当時ビウスッキー統治下のポーランドにおける、貧富の大きな差であった。

17歳のときジャックは非合法のポーランド共産党に加入し、帝国主義戦争反対ビラを所持していたところから、正式の裁判にかけられて禁固9力月の刑に処せられた。しかし、このとき彼は人民の未来の幸せと革命の「大義」のために奉仕できたことを誇りに思った。

刑期を終えて釈放されてからも、彼は父親のところには戻らなかった。非合法活動をしながら、中国語など主として東洋の言語を学ぴ、一時期教壇にも立ったことがあるらしい。ジャックは1928年からコミンテルン(共産主義インタナショナル)で「技術者」として活動するようになった。

その天才的語学能力と、たぶん電気通信の枝術が評価されたのだろう。モスクワの本部からの秘密連絡のために、彼はヨーロッパ各地をとびまわった。ある時、偽のスウェーデン旅券で、船でジェノヴァから地中海のアジア側まで秘密文書を運ぶことを命じられたが、同じ船に本物のスウェーデン人が乗っているとボーイ長から聞かされて、航海中病気と称してついに一歩も船室から出なかった。

後年彼が監房で一緒になった、拷問から戻された男を慰めるためにこの話をしてやったとき、男はそのスウェーデン人こそ自分だったと言っジャックを鷲かせた。

スペイン内戦たけなわの1937年に、彼は秘密の送信機とともに、フランコ軍の後方に送りこまれた。しかし、ある日突然モスクワに戻るように本部から命令がきた。スターリンによる粛清が猖獗をきわめていたころだったが、その実態は知るよしもなかった。

当時ジャックには形式的に妻になっている女同志がいたが、彼女はしきりにジャックがモスクワに行くことに反対した。しかし、「革命の闘士」たることを誇りに思っていたジャックは、彼女の懇願を押し切って、命令にしたがってモスクワに戻った。

そこで彼は有無を言わざず逮捕・投獄ざれた。容疑はフランスとポーランドのスパイだという、まったく身に覚えのないことであった。毎夜つづいた深夜の拷問の末、強制労働10年の判決がくだされ、ソ連各地の監獄をたらい回しにされたが、そこで彼はロシア人、ウクライナ人、タタール人、プリヤート人など、ソ連のさまざまな人種、階層の因人と一緒になり、彼らの経歴からソ連社会・政治の現実を身をもって知ることになった。

10年の刑期が終わるころ、極北の収容所にいたジャックは、形式的に釈放されたが、その実態は、収容所の柵の外側に住んで囚人と同じ労働をつづけることであった。しかしまもなく、警察の行政手続きによって、裁判もなしに、今度は25年の「自由剥脱」の刑に処された。

ジャックと同様、1937年の大粛清で逮捕・投獄されたものは、当局より通達のあるまで、刑期終了後も元の状態におかれることになっていたが、第2次大戦後の労働力不足を補う必要もあって、このような人たちはほとんどみな、ジャックのように行政処置で裁判なしに再ぴ収容所に入れられて、強制労働に従事するはめになった。

ジャックが釈放されたのはスターリン批判の行なわれた1956年のことで、収容所生活は20年に及んだ。しかし、そのあとすぐフランスに帰れたわけではなく、ようやく彼が腰を落ち着けてフランスに定住することになったのは1985年のことであった。

このときジャックはすでに76歳になっていた。

ジャック・ロッシさんが手紙を添えて、出版されたばかりの著書を送ってくれたのは、今年の正月の3日だった。『フラグマン・ドウ・ヴィー』というタイトルで、フラグマン(断片)もヴィー(生、人生)も複数だから、直訳すると『ざまざまな生の断片』ということになろうか。

内容は20年に及ぶロッシさんのソ連の強制収容所での見聞である。約50ほどの挿話が収められたこの170ぺ−ジほどの本には、ロッシさん自身が描いたデッサンが5枚ばかり入っている。内容からタイトルをつければ『ソ連強制収容所の人生模様』とでもなろうか。

この著書は、あたかも名カメラマンがとった、ピントのピッタリ合った自黒の写真集を思わせるものがある。著者はこの中でソ連当局の非人間的扱いを声を大にして糾弾したり、自分の体験を悲劇として語ったりすることは、まったくない。

むしろいつものロッシさんの話しぶりがそうであるように、やや小さな声で、自分が見たこと、聞いたことを、いささかの誇張も交えずに、淡々と物語っている。この本の最後の挿話は「日本人」と題する一篇だが、それは以下のような物語である。

「止まれ!」

私は命今に従う。長い廊下の、とある扉の前にいる。それは他と同じように灰色だ。下の方には黒ペンキで四八号と記されている。廊下の看守はみすぼらしい男の私には興味をしめざずに、付き添って来た看守に近づく。

彼はその看守から渡されたカードをすばやく一瞥するや、2つのばかでかい南京錠をひとつずつあけてから、大きな鍵を錠前に差し込んで2度回し、私に敷居をまたがせると、すぐに扉を閉める。

目の前は大きな監房である。うしろで2つの南京錠をかけ、ついで鍵を錠前に差し込むきしんだ音がする。そのあと静かになる。

30ほどの顔がこちらに向けられる。東洋人だ。ほとんどが、自分の寝板の上にあぐらをかいて座っている。みな哀れな縞のパジャマを着ている。2週間前に私がこの施設に着いたとき着せられたのと同じやつだ。

これらの男はみなひどく痩せている。明らかに彼らは、監獄から支給される食糧だけで生きていくのを余儀なくされている。それ以上はなにもないのだ。そしてそれがもうずいぶん長くつづいているのを私は知っている。私も同し状況下にあるからだ。

ただここですぐに私は、なにかまったく異様なあるものに打たれた。彼らの眼差しには品位があるのだ。その目には、腹を滅らして収容所にいるほとんどすべてのものに特徴的な、あの飢えたジャッカルの表情の痕跡がないのだ。

これが私が日本人について抱いた最初のイメージであった。

それは1949年、アレクサンドロフスク中央監獄でのことだった。そのとき私はもう12」年も収容所暮らしをしていた。それは虚偽、不公正、失望、屈辱、挑発、倣慢、堕落、偽善、そして飢えと寒さと恐怖に満ち、垢にまみれた十二年だった……

私にとってこれらの試練は、それがロシアのコミュニストによって科せられたものだっただけに一層つらいものだった。とりわけ彼らこそ世界中にマルクス・レーニン主義の炎をもたらす「純粋で」「ほんものの」コミュニストだと思っていたからだった。

フランスの若いコミュニストである私は、光栄あるこの事業に参加することをとても誇りにしていたのだった! 熱にうかされていた私は、すすんで支払いをする(犠牲になる)つもりだった。ああ! 私に支払わせたのは「敵」ではなく「友」だった。

それが突如この日本人の、帝国陸軍将校のこの監房のなかで、私は何年ぶりかで初めて新鮮な空気を吸ったような印象を受けた。あとになって監獄のコミッサール(政治将校)は「東洋の猿」と一緒に閉じこめておくことで、私を侮辱し、罰したつもりだったということを知ったとき、私はどんなに驚いたことか……彼らをだましつづけるために、私はどんなに気をもんだことだろう!

その後1949年から1956年にかけて、偶然移動のときに私は日本人と一緒になることがあった。彼らの礼儀、規律、そして清潔さはこのひどく汚れた世界にはあまりにもそぐわなかったので、彼らに会うたびにいつも一陣の清浄な空気か、静かで晴朗な日の出にでも遭遇したように感じられたものだった。

どういうわけかわからないが、ソビエト当局は日本の将校を他の収容所の囚人大衆とは一緒にしない方針を取っていた。彼らが自分たちの一体性と文化を保ち、収容所がまさにその破壊を使命としたもろもろの価値(観)を保持しえたのは、たぶんこれがひとつの理由だったろう。

私と一緒の日本人の大部分は、私だけが知らない彼らの言葉だけで話していた。しかし私は元首相の子の近衛文隆公と(英語で)充実した会話をしたことをとても楽しい思い出としている。私がミサオ、のちの内村剛介教投と出会ったのはここであった。私たちはあるときはロシア語で、あるときは中国語で、あるときは英語で話したものだった。

1952年だったか、ソビエト当局は日本人因人をもう少し人間的に扱うことでなにか政治的利益が得られるかも知れないと気付いた。そこで日本人は7年か8年ぶりで自分の家族と通信することが許された。

親切にもミサオは自分の妻のハマコからもたらされる温かさを私にも分けてくれた。私ときたら15年というもの、外界のニュースにはまったく接していなかった。検閲によってきびしく制限されたメッセージのなかに、ハマコは次第に「あなたのお友達に私からよろしく」という一言をすべりこませてきた。そのたびに私は、厚い牢獄の壁を越えて自由な世界からやって来る新鮮な空気に触れたように感じたものだった。

私はいつもそのことで彼女に感謝している。それ以来ミサオと彼の家族はずっと私の友達でいる。2人の子供のマナミとリリカにとって、私は「ジャックおじさん」である。

奇妙にもグラーグ(強制収容所)にいた全期間を通じて、日本人と一緒のとき私には一万二千キロも離れた、とりわけグラーグの十二年間によって隔てられたフランスとその文化との距離をもっとも短く感じられたものだった。(以上)

             ・・・

小生はソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィッチの一日」を何回も読んでは、そのたびに泣いた。共産主義という、およそ人間が考え出したもののなかで最も悪魔的な思想、最も残酷な体制による、普通の人々への理不尽な圧迫! 小生はアカを憎む、容共左派、オオエ真理教的進歩派、朝日、岩波をとことん憎む。

ロッシの話もまた感動的だ。ともにめげなかった日本人にも感動した。

外川氏の名前に記憶はなかったのだが、調べてみたら彼の翻訳した「共産主義黒書」を小生は読んでいる。また、内藤操、ペンネーム内村剛介氏の著作や訳書はずいぶん読んでいるし、内村剛介は反スターリン、新左翼の有名な論客だった。だからロッシについても身近に感じられる。内村氏がシベリヤ抑留者だったことは初耳だった。

いい話を読ませてもらった。

               ・・・

注1)外川継男氏の著作
「ロシア (地図で読む世界の歴史) 」ジョン・チャノン、ロバート・ハドソン、外川継男 (1999/11)
「共産主義黒書(ソ連篇) 」クルトワ・ヴェルト、外川継男 (2001/11/25)
「ロシアとソ連邦」(講談社学術文庫) 外川継男(1991/6)
「バクーニン著作集〈1-6〉」(1973年) 外川継男、左近毅 (1973)
「向う岸から」(古典文庫) ゲルツェン、外川継男 (2008/7/1)
「ラーゲリのフランス人―収容所群島・漂流24年」ジャック・ロッシ、ミシェル・サルド、外川継男 (2004/9)
「さまざまな生の断片―ソ連強制収容所の20年」ジャック・ロッシ、外川継男、 内村剛介 (1996/7)
「サビタの花―ロシア史における私の歩み」外川継男(2007/12)
「向う岸から」ゲルツェン、外川継男 (1970)
「ゲルツェンとロシア社会―ツルゲーネフおよびバクーニンとの論争によせて」(市民社会叢書〈第3集〉) 外川継男 (1973)
「スラブと日本 (講座スラブの世界)」原暉之、外川継男 (1995/3)
「世界の歴史 18 ロシアとソ連邦」外川継男 (1978/4)
「ロシア・ソ連史 (図説世界文化地理大百科)」外川継男、吉田俊則
(2008/11/20)
「世界を創った人びと 25 トルストイ」外川継男 (1978/1)

注2)内村剛介(うちむらごうすけ、1920年3月18日 - 2009年1月30日)はロシア文学者、評論家。栃木県生まれ。本名、内藤操。

1934年、満州に渡る。1943年、ハルビン学院卒業。敗戦後の1956年までシベリアに抑留された。帰国後、商社に勤務する傍ら文筆活動を始め、『生き急ぐ』はロングセラーとなる。スターリニズムやソ連の文学・思想を、抑留体験から解読・批判したほか、現代日本への批判も行なった。1973年、北海道大学教授。1978年、上智大学教授。2009年、心不全のため88歳で死去。

小生は彼の「文学と革命 第1−2」(トロツキー)や「スターリン時代」などを持っている。(2014/3/2)


   

2014年03月02日

◆日本は野蛮な国ではない

池田 元彦
 

共産党一党独裁の中国は、GNP世界第2の実力を背景に、周辺諸国への政治経済的圧力のみならず、軍事的にも一方的侵攻の意図を顕にし、東南・東アジア諸国への現実的脅威となっている。尖閣諸島のみならず、沖縄全島奪取を想定している。野蛮で品格のない民族だ。

中国国内では、年間20万件以上の内乱が発生している。多くの場合、内陸地域の地方行政の貧困農民に対する収奪と悪政・汚職が原因だ。また周辺非漢人地域への、漢人送り込みによる主にウイグル、チベット族の文化抹殺、民族浄化・圧制に対する反抗・反乱も目立つ。

ロシアも中国ほど露骨ではないが、常に領土拡大、国家隆盛を民族的意思とする国で、過って東欧をドイツと略奪し合い、終戦直前に日ソ中立条約の一方的破棄と背信裏切りをしてまで、北方領土を略奪し、60万人以上の日本将兵をシベリアの極寒の中、過酷労働を強い、多くを殺した。

その北方領土。日本の交渉は従来から所謂4島全面返還だ。だが占守島を含む千島列島全部が本来の返還対象だという重要な事実を、皆忘れている。千島列島は、千島樺太交換条約で交換した、日本の正統、正当な領土だ。それを交渉当初から放棄するとは莫迦としか言えない。

冬季五輪開催地ソチから300km西に黒海沿岸を辿れば、政府・反政府の騒乱で慌しいウクライナだ。ウクライナはソ連時代も一独立国として国連に加盟していた。NATOへの加盟も検討したことがある。それが昨年EUの加盟一歩手前迄のところで、ロシア・プーチンが力づくで止めた。

150億ドルの金融支援と天然ガス60%引提供に、元々ロシア派のヤヌコーヴィッチ大統領がロシアに靡き、EU加盟を翻した大統領に国民が怒りデモが勃発。過激化する群衆に発砲して対抗する大統領は議会と軍部に見限られたがロシアに亡命し、偽装ロシア軍がクリミアに介入を始めた。

彼の大統領公邸は豪華シャンデリアや高価家具置物で一杯。公費で贅沢三昧、かつ親戚に利益還元していたことが明白となった。ルーマニアのチャウチェスクと同じで、一旦大統領になると国費の無駄遣い、汚職、蓄財、何でもござれ、だ。どうも旧ソ連、東欧圏にはそのイメージが付き纏う。

アジアでも近い話がある。東南アジア微笑みの国タイにもある。バンコック市内は現在黄色いシャツの座込みデモ隊に占領され、交通渋滞や商店街は売上減少で困っている。タクシン派デモに対して2010年日本人カメラマンを含む90人が政府軍に射殺された武力制圧が直接原因だ。

背景には、地方農村へのばら撒き政策で人気のあったタクシン首相を支持する赤シャツ隊と、都会中流層以上からなる黄シャツ隊の政府・反政府の騒乱が、爆弾テロも発生し、益々過激化しつつあるのが現状だ。タクシンの手法は、財政のバラマキ、コメの高価買上による地方、農村支援だ。

目的は悪くないが、国の財政を破綻させたタクシンの不正蓄財、それで国外追放されたタクシンを恩赦で帰国させようとする妹インラック現首相の意図に黄ャツ隊は怒り心頭に発し、二進も三進も行かない。難しいのは、タクシン支持派が過半数を超えていることだ。民主主義の泣き所だ。

振り返って日本はどうか。皇室はそんな利権などない。首相や政治家で、諸外国のように、独裁者然として巨額の不正蓄財、汚職をするような人物は幸いにして見当たらない。多少怪しいのが居ても、それでも基本は国益優先、私益は控えめ程度だ。いい国柄の国日本に生まれてよかった。

この日本人の真面目さ、誠実さ、公金に対する清潔さが、品格ある日本を支えているのだ。

◆お節介を焼くアメリカ

加瀬 英明


「アメリカが理想主義を対外政策にすえて、世界に介入するのは、アメリカが2つの広大な海によって守られている島国だからだ」(『地図をひろげて世界のありかたを学ぶ』)と書いたところ、読者からもっと説明してほしいという求めが、寄せられた。

アメリカの行動様式を理解するためには、地理的条件に加えて、アメリカの外交がなぜ理想主義によって駆り立てられてきたのか、アメリカの生い立ちを知らねばならない。

私は先に「もし、ヨーロッパのように力がある国々が犇(ひし)めいていたとすれば、現実から遊離した理想主義によって、取り憑かれることがなかった」と、述べた。

アメリカの地図を見れば、南でメキシコと接し、北にカナダが拡がっている。メキシコの先には太平洋と大西洋によって挟まれた、回廊のような中米があって、弱小国が連なっている。カナダは人口が希薄であってきたし、メキシコや中米諸国も、アメリカに脅威をおよぼすことがなかった。

 アメリカ独立の淵源

アメリカ合衆国史がイギリスから迫害を逃れて、清教徒(ピューリタン)の一団が帆船『メイフラワー』によって、1620年にアメリカの東海岸に到着したことから始まることは、よく知られている。清教徒は同じ新教(プロテスタント)のイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)によって、弾圧を蒙っていた。

アメリカは信仰によって、築かれた国だ。清教徒と同じように多くのキリスト教宗派に属する人々が、新大陸が「神によって約束された地(プロミスド・ランド)」であると信じて、渡ってきた。

今日、ヨーロッパでは宗教離れが進んで、大伽藍も観光施設になっているが、アメリカ国民はキリスト教の信仰心がいまだに篤い。

入植者たちは「神から与えられた地」である新大陸に着くと、原住民には迷惑なことだったが、すべて土地であれ、原住民の生命であれ、恣(ほしいまま)に奪った。高名なイギリスの批評家のG・K・チェスタートン(1874年〜1936年)は『合衆国の歴史』で、「インデアンをできるかぎり早く駆除すべき害虫として扱った(ヴァーミン・トゥ・ビー・エクスター
ミネィテッド)」と、述べている。

もちろん、新大陸に渡ったヨーロッパ人は、白人至上主義を頑なに信じていた。入植した初期の時期から、黒人奴隷を連れていた。奴隷は家畜だった。インデアンは黒人と違って従順でなかったので、奴隷に適さなかった。

 神が与え給うた明白な運命とは 

アメリカの歴史が「マニフェスト・デスティニー」を合言葉として、動かされてきたことは、有名である。日本ではこれまで「明白な運命」とか、「膨張の天命」と訳されてきたが、アメリカ人にとって「神が与え給うた明白な運命」とされた。

アメリカ国民はアメリカの飽くなき領土拡張が、神の意志によるものだと信じてきた。まさに天命である。アメリカ国民は「マニフェスト・デスティニー」という魔法の言葉によって駆り立てられて、国土を太平洋岸までつぎつぎと拡げていった。

1840年代に、メキシコが多くのアメリカ人がテキサスに入り込んで、占拠したのに憤ると、1846年にアメリカ・メキシコ戦争によって、今日のテキサスから、カリフォルニア、ユタ、ネバダ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドまで手に入れた。この年にイギリスを威嚇して、戦争を恐れたイギリスから、オレゴンを獲得した。

さらに1898年にハワイを奇襲併合し、同じ年にスペインに米西戦争を仕掛けて、フィリピン、グアム島などを奪った。

 マニフェスト・デスティニーにおされて

いまでも、アメリカは「マニフェスト・デスティニー」によって、動かされている。アメリカ国民は全世界が自分のものだと、思っている。

もっとも、帝国主義の時代が終わったから、新しい領土は求めないが、世界をアメリカのビジネスと、“ビッグマック”(マクドナルドのハンバーガー)などの文化のもとに置いて、アメリカ化しようとしている。アメリカ化と民主化は、同じ意味の言葉だ。

ブッシュ(息子)政権が中東を「民主化」するといって意気込んで、アフガニスタンとイラクに大軍を送り込んだように、しばしば軍事介入するのも、そうだ。TPPをはじめとするグローバリゼーションも、まったく同じ情熱から発している。

アメリカ国民は世界をアメリカ化することが、正義であると思い込んでいる。このような理想主義から、世界に対してお節介を焼く。全世界が「約束された地」なのだ。自宗だけを絶対とする一神教に基いて、建国した国だから、自分勝手だ。

しかし、ヨーロッパ諸国も昔は旧教(カトリック)であれ、新教であれ、偏狭なキリスト教の信仰によって、縛られていた。それなのに、どうしてアメリカだけが今日でも、キリスト教から発する情熱を、燃やし続けているのだろうか?

 ルネサンス以降の世界

この疑問に答えるためには、14世紀に始まったルネサンスと、そのあとの啓蒙の時代に、遡らなければならない。啓蒙主義が17世紀から力を持つようになったが、それまでの教会による強固な支配に対して、キリスト教原理主義による拘束から解き放されて、人間の理性と科学を尊ぶようになった。

流血の蛮行だったフランス革命も、啓蒙の時代の申し子だった。フランス革命は「理性の祭典(フェット・ドゥ・ラ・レアゾン)」と呼ばれて、科学的合理主義と「自由、平等、博愛」の標語をかざして、恐怖政治が行われた。神と伝統文化を、否定した。

日本からノートルダム大寺院を訪れる無邪気な観光客が、荘厳だといって感心するが、革命によって「理性の伽藍」と改名され、祭壇が壊され、そのかわりに模造の丘のうえに、「知性に捧げられた」ギリシア神殿のミニチュアが安置され、その右に裸の「理知の女神」像が赤白青の3色の腰布を巻いて立ち、左に「真実の炎」と呼ぶ常明灯がともされた。

19世紀に、ニーチェが「神は死んだ」といって神を否定したのは有名だが、啓蒙の時代が到来するまでは、死後の世界にしか存在していなかった天国が、地上に降ろされた。西洋文明に現われたユートピア願望である。地上に天国(ユートピア)を実現しようとする、共産主義の全体主義運動が、そうだった。ヒトラーのナチス運動も、アリアン人種が世界を支配するユートピアをつくろうとするものだった。

アメリカは善意から発して、世界をコントロールしようとしている。アメリカ国民は世界をアメリカ化することが、人類の世界にわたる進歩(ユニバーサル・ヒューマン・プログレス)であると信じている。アメリカ型に変形した、ユートピア思想なのだ。

この使命感が、アメリカを除くすべての国々の軍事費を合わせたより、大きな国防費によって、支えられている。軍事力が世界に超越していることが、アメリカに傲りをもたらしている。

 理想主義と功利的主義の両輪

アメリカは理想主義的(ユートピリアン)な夢をみるとともに、功利的な(プラグマティック)国である。かつて西洋列強の帝国主義も、世界をキリスト教化しようという崇高な(信者にとって)大義に隠れて、世界を略奪したが、アメリカのマニフェスト・デスティニーも、通商によって富を獲得したいという打算が、働いてきた。アメリカに独特な理想主義は、力が弱い国としか隣接せずに、2つの大洋が外濠となって守られてきたことによって、培養された。

ペリーが1853年に浦賀沖に投錨した時に、「神がこの素晴らしい地(日本)を創造された。われらの試みがこれまで見離された人々(日本人)を(キリスト教)文明へお導き下さるように」と、日記に記した。

 その92年後に、硫黄島で玉砕した海軍司令官の市丸利之助中将が『ルーズベルトに与ふる書』に、「貴下らはなにゆえにこうまで貪欲なるか。われらは東洋のものを東洋に返さんとしているだけだ」と、書いた。この血染めの遺筆は、バージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に展示されている。

2014年03月01日

◆出直し選余波 事業凍結

読売新聞
 

〜大阪市当初予算案 担当者ら戸惑い〜

大阪市議会の定例会が28日開かれ、1兆6628億円の2014年度一般会計当初予算案などが提案された。同予算案は橋下市長の辞職(2月27日付)と出直し市長選(3月9日告示、23日投開票)の実施に伴う骨格予算で、予定されていた新規事業の多くは急きょ凍結に。

橋下氏が力を入れてきた教育分野や観光イベントなども棚上げされ、現場の担当者や事業関係者らからは「こんな形で足止めを食らうとは……」と戸惑う声やため息も漏れている。

市教委では、教諭OBらに小中学校で授業のサポートなどにあたってもらう「学習支援事業」を計画し、170校分、計約3億5000万円の計上を求めていたが、見送られた。

同市では4月から、市内24区のうち12区で学校選択制が導入されるため、学校単位の成績差で極端な人気格差が生じるのを防ぐ狙いもあった。

事業の実施校として手を挙げるつもりだった小学校長は「現場は人手不足。授業を十分に理解できていない児童へのきめ細かな対応が必要」と語り、小学2年の息子を持つ40歳代の父親も「学年の最初につまずくと、遅れを取り戻すのは難しい。4月から実施してほしかった」と話した。

「大坂冬の陣」から400年の節目にあたる今年は、数多くの観光イベントも予定されていたが、3億円以上の予算が「お預け」に。「御堂筋イルミネーション」(淀屋橋―新橋交差点、1・9キロ)を約1キロ延伸する計画も凍結された。

延伸対象だった沿道近くのホテルの男性従業員は「クリスマスシーズンに特別プランを検討していたので残念。やるのかやらないのか、早く決めてほしい」と気をもんでいた。

各区長の裁量予算については、おおむね計上が認められたが、各区がモデル的に実施したうえで市内全域での展開も検討する「区チャレンジ事業」は、そぎ落とされた。

都島区では、JR京橋駅周辺を「路上喫煙禁止地区」に定めて過料1000円を徴収する取り組みの関連費が認められず、東淀川区でも、幼稚園・保育園に通っていない子どもがいる家庭を戸別訪問し、発育状況を確認する事業の予算計上がかなわなかった。
     ◇
28日の市議会でほかに、出直し市長選の費用6億3227万円を計上した今年度補正予算案が可決。市立西区民センターの指定管理者の関連議案を否決した。
 会期は3月12日まで。
(2014年3月1日 読売新聞)

◆裏切られた韓国への信頼

阿比留 瑠比


「河野談話」の根拠となった韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査に ついて、当時の事務方トップである石原信雄元官房副長官が20日の衆院予算委員会で「事実関係の裏付け調査は行っていない」と証言するのを聞き、内心忸怩(じくじ)たるものがあるのだろうと推察した。

石原氏は聞き取り調査について、こう強調した。

「韓国側に対して『客観的に過去の事実を話せる人を選んでください』といい、『(韓国側は)責任を持って選びます』ということで、聞き取り結果を踏まえて河野談話になった」

 「韓国側の善意を信頼して全体の作業を行った」

石原氏は24日に東京都内で行った講演では「(政府内で)元慰安婦の 話を聞くかどうかが大きな論争になった。正しく公正に話してくれるかが問題になった」と明かし、こう続けた。

「韓国側は『反日運動をやっていた人や、バイアスのかかった人は排除して、真実を語る人を選ぶ』ということだった。その前提で韓国を信頼する形で聞き取り調査を行った」

 「その前提条件に問題ありとなれば、何をか言わんやだ」

ならば、韓国側が責任を持つと約束したはずの元慰安婦の人選と、聞き取り調査の実態はどうだったか。

おさらいすると、産経新聞が入手した聞き取り調査報告書によると16人中、氏名すら明確でない者が3人いて、生年月日が記載されているのは半数の8人にとどまった。その生年月日すら、別の調査やインタビューには全く違うことを述べている者もいる。

朝鮮半島で重視される出身地についても大半の13人が不明・不詳で、 大阪、熊本、台湾など慰安所がなかった地域で働いたという証言もある。その上、日本で慰安婦賠償訴訟を起こした原告が5人も含まれる。この点は聞き取り調査を行った担当官も気づいていたらしく、調査報告書にも「訴訟では原告C」などと注意書きもしてあった。

また、調査が行われた場所は韓国政府の公館ではなく、太平洋戦争犠牲者遺族会という反日的な民間団体の事務所だった。この遺族会は慰安婦賠償訴訟の母体でもあり、しかも、訴訟の原告側弁護士である福島瑞穂氏(社民党前党首)がオブザーバーとして聞き取り調査に加わっている。

さらに、この遺族会幹部は慰安婦問題に火をつけた3年8月の朝日新聞の誘導記事「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」を書いた記者の義母に当たる。

こんな人選や調査が石原氏のいう「公正」や「真実」に値するだろうか。

一方、河野談話発表翌日の5年8月5日付の朝日新聞はこう書いている。

《聞き取り調査が終わった7月30日夜、ソウルで田中耕太郎・内閣外政審議室審議官は「(元慰安婦の)記憶があいまいな部分もあり、証言の内容をいちいち詳細には詰めない。自然体でまるごと受けとめる」》

つまり、当時の宮沢喜一内閣はただ早期の政治決着を急いでおり、事実関係の追及や真相の解明など二の次だったのだろう。そうした安易な姿勢を韓国側に見透かされていたのだ。

当時の外政審議室幹部は河野談話発表から数年後、同室後輩にこう語った。

「振り返って、3年12月の慰安婦訴訟提起からの一連の流れをみると、意図的な動きを感じる」

まさに何をか言わんやである。(産経政治部編集委員)

産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】 2014.2.28

◆インドで何が起きているか B

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
」 

<平成26(2014)年2月25日(火曜日):通巻第4159号> 

(承前)
インドのこれからの経済発展の可能性は非常に高いが、政治的要因が発展を阻害することが往々にして起こる。

政治システムが高度の自治を各州政府に認めているため、州によって法律が異なる。たとえば厳格な禁酒を実施するアンドラ・ブラデシュ州、タミル・ナドゥ州もあれば、自由に酒が飲めるゴア、ボンベイ。

キリスト教信者が多い沿岸部(とくに西海岸から南端まで)は比較的民主化が進んでいて、西洋化しているが、デカン高原やアッサムの山奥、パキスタンに近い砂漠地帯など、習俗も風俗も、ましてや宗教が異なると、州の政令が違うのは自然である。

いや、インドは共和制である前に連邦国家、人口にかかわらず各州から上院議員が選ばれる。この点で米国の合衆国に似ている部分がある。経済政策に関して中央政府は従来、地方政府にまかせっきりだった。社会主義を標榜しながら地方分権、自由放任だった。それが主因となって経済開発から取り残された地域もでてきたのだ。

宗教が輻輳している地域では宗教紛争が絶えず、わけてもヒンズー教原理主義は暴力的にイスラム教徒に迫害をくわえている。ときに報復としてテロが起きる。

イスラム教徒と結婚しようとしたヒンズー教徒の娘は、周囲から輪姦された上、過酷な罰金を取られた。リンチにあってやけどを負ったり、なかには殺される女性も多く、しかもこうした事件は村長の命令であり、そのまま被害者らは泣き寝入りというケースが多い。都会では考えにくい悪習がいまものこる村落が多い。

またヒンズー原理主義の地域では見えないカーストが工場管理をやっかいにする。


 ▼経済構造の偏りが問題だ

経済的諸問題について検証したい。

第一にインドは日本と同様な原油輸入である。もとよりインドは早くから海を越えてアラビアからアフリカ東海岸、その間に挟まるインド洋の島嶼国家への進出も早かった。

このため貿易と国際金融に明るい特質があるが、同時に商売上手という意味では、その執拗な性格とねばっこい交渉術から「印僑」を呼ばれる。

インドの銀行をみると日本では聞いたこともないアラブの銀行が店舗を構えている。東海岸ではシンガポールの金融機関の進出も目立つ。

中東からアフリカ東海岸への印僑の拡がりは歴史的な因縁のうえに成り立つので、日本はアフリカ進出に関してはむしろインド企業と組む方が迅速な結果を産むかも知れないし、事実、こうしたビジネスモデルで成功した企業もある。

ともかく原油高に直面する昨今、日本と同様にインドも貿易赤字がつづくという脆弱性がある。

第二に通貨インド・ルピーが変動相場制度のため、ファンド集団からの投機的奇襲には脆弱である。

さらに言えばインド・ルピーが暴落気味ゆえに、マイナス方向へのスパイラル現象がおきる。すなわちインフレが経済成長より高く、また通貨安が金利高をよぶ。

中国の安い労賃による工場設立という魅力とは異なり、インドでは通貨安によって輸入物資(とくに石油)が急騰するため原油高騰のマイナス面が大きい。そのうえ、インドは外貨準備がすくないため、インド通貨がさらに投機筋の攻撃に曝されるとルピー暴落の懼れがある。

第三にエネルギー不足解消のため太陽光に大胆に切り換え中だが、先の見通しは立っておらず、原発による発電も追いつかない。火力発電がいまも半分近いため、石炭さえインドは輸入国へ転落している。
  (この項、さらに続く)

      

◆「パール真論」を読む(4)

平井 修一


パールは何も変わっていなかった。しかし以前とはパール招請をめぐる状況が一変していた。以前の招請は下中弥三郎(平凡社創業者)を中心とする世界連邦論者、アジア主義者たちが行っていた。彼らは「日本無罪論」に何も疑いをもっていなかった。しかしすでに下中は世を去り、このときパールを招請したのは「日本無罪論」の言葉を目の仇にする「東京裁判研究会」だった。

パールの来日を前に新聞に載った歓迎記事にも「研究会」の学者たちが「日本無罪論ではない」と書いていた。この最後の訪日でパールは何か違和感を覚えなかっただろうか。

パールは田岡良一(国際法学者、当時は京都大学名誉教授、関西学院大学教授)とNHKで対談したが、田岡はこう言っている。

「日本国民が1931年から1945年にかけて行った愚かなことが、博士の判決で正当化されて完全に無罪だと判断すべきではないのですね。日本国民は違った判決書を作成すべきです。その我々自身の判決書に従って、お互いに熟考すべきで、あのように愚かな行為を繰り返さないと誓約すべきだと考えます」

田岡のこのいやらしいまでの自虐的な言い方は一体何なのか。「我々日本人は有罪ですよね?」とパールに否定的返答を求め、パールの判決書では不満だと表明しているのである。

国際法の権威のはずの田岡は「我々自身の判決書」なるものを、何の法に基づいて書くべきと思ったのか、まったく理解不能である。

パールが帰国する前日、世界連邦建設同盟が主催する歓送会が行われた。田中正明氏ら世界連邦、アジア主義グループの人々とパールが交流した数少ない行事だった。「東京裁判研究会」の言行録では、このときのパールの挨拶はこれしか載せられていない。

「はじめ6か月の予定と聞かされてきたが、膨大な資料を見て、とても半年などで終わるものではなく、判決までに6年はかかると思いました。それが、日本人戦犯を有罪にするのに都合のよい資料だけを公表し、その他の資料を隠してしまったため、3年足らずで終わったのであります」

しかし「世界連邦新聞」1966年11月1日付によると、パールはもっと重要なことを話していた。

「私は通算4回、日本に来ました。1回は東京裁判、2回と3回目は下中さんが、裁判中私が判決文と取り組み、どこにも出なかったのを慰めるつもりで呼んでくださった。そのたびに日本の皆さんが深い愛情をもって下さることが感じられました。

今度も私の医者が絶対反対しましたが、日本の皆さんの愛情に応え、日本で死ぬなら安心して死ねると思ってきました。

私の日本に対する希望は、日本人はイデオロギーに毒されたり、占領政策の残りかすに毒されて分裂することなく、民族として団結してほしい。そして罪悪感におしひしがれず、誇りをもって世界のために起ち上がっていただきたい。今やあなた方を裁いた人々さえも、あなた方を注目しています。世界は日本に期待しています」

どうやらパールは最後に訪れた日本で、日本人の分裂を感じたらしい。それはおそらく「日本無罪論」に疑いを持たない人々と、「日本無罪論じゃないんでしょう?」と執拗に聞いてくる人々との分裂ではなかったか。

「日本人は分裂せず、団結してほしい。罪悪感におしひしがれず、誇りをもってほしい」

それこそがパールが日本に残した遺言といっていいだろう。

しかし言行録でその発言を抹消した「東京裁判研究会」の「共同研究 パル判決書」だけがパール判決書の完訳本として流通し続けた。その本では「日本人は罪悪感を持つべきですよね」と言わんばかりのことをパールに面と向かって言った学者が序文を書き、パール判決書の曲解の仕方まで載せられていた。

そしてパールの願いとは逆に、イデオロギーと占領政策の残りかすの毒はますます強まり、パールの没後40年の年(2007年)には、パールに関するウソとデマを集大成した本(中島岳志著「パール判事」)が出版され、それを学者やマスコミがほめあげるという事態にまで至ってしまった。

最後の訪日において、パールは行く先々で「I Love Japan」と記した。日本の恩人は死ぬまで日本を愛していたのだ。それに応えるには、まずパール判決書を正確に読み取り、そして占領政策の残りかすを払拭することから始めなければならない。(おわり)

              ・・・

本の返却日が来たので、とりあえずここで筆をおく。判決書の原文は「史実を世界に発信する会」のサイトにある。
http://hassin.org/01/newsletter/843
英語力がないために不本意ではあるが「共同研究 パル判決書」を取り寄せているところなので、機会があればまた報告したい。(2014/2/24)

2014年02月28日

◆中国軍は尖閣諸島をどう強襲するか

古森 義久


中国人民解放軍が尖閣諸島への電撃的な攻撃作戦の準備を始めた!!!アメリカ海軍の太平洋艦隊の幕僚がそんな発言をしました。

<「中国は尖閣諸島強襲の準備を始めた」波紋を呼ぶ米海軍現役軍人の発言>

・ファネル大佐の発言によれば、中国軍はそのために日本との短期で敏速な集中的、局地的な戦争を遂行するための準備を開始した。中国側の狙いは、まず尖閣諸島に水陸両用部隊を動員しての奇襲上陸作戦を実施し、尖閣諸島と場合によっては琉球諸島の南部までも占領する。

その後に反撃に出てくる日本側の海上兵力と短期決戦を展開して、日本側の兵力の敏速な撃滅を目指すことを目的にするようになったという。

・ファネル大佐はまた「中国軍はこれまで実際の軍事行動の対象としては台湾だけを標的とし、台湾占拠のための海軍、空軍、水陸両用上陸戦力などを増強し、演習を繰り返してきたが、いまや標的は台湾だけでなく、日本を新たに加えるに至った」とも述べた。

・ファネル大佐の報告によると、中国軍は総括としては尖閣諸島をまず軍事占拠し、その後に東シナ海で活動する日本側の海上戦力を撃滅するための短期間の敏速で局地的な対日戦争遂行を現実のシナリオとして考えるに至り、そのための各部隊の訓練や演習を開始したという。

・同大佐の報告では、中国軍は東シナ海、南シナ海の両方で最近、急速に中国海警など准軍事組織の活動を強化しているが、この動きは日本やフィリピンなど領有権の対立相手国を威嚇するとともに、相手国の主権、施政権を骨抜きにすることが狙いだという。中国海警などの艦艇の東シナ海、特に尖閣諸島周辺の海域での行動は東シナ海全体の緊張を高める主因となっているともいう。

■重みのあるファネル大佐の証言

ガーツ記者はこのファネル大佐の発言の内容を伝え、さらに、中国の軍事動向に詳しい米陸軍のラルフ・ピーターズ退役中佐の「最近の中国軍の演習は、間違いなく尖閣諸島への上陸を目標としている」という言葉を紹介していた。

ただしピーターズ中佐は、「中国は、日本との戦争の準備をしていることを誇示する点に地域大国としての威信をかけており、実際にはすぐ日本との戦争に踏み切るわけではない」とも述べていた。現状では、中国軍は日本の自衛隊との局地的な戦闘では勝ち目がなく、中国軍自身もそのことを知っているから、 そう簡単に対日軍事行動は取れないというのだ。

だが、米海軍の太平洋艦隊と言えば、有事には中国海軍と真っ先に対決する米側の部隊である。その太平洋艦隊の諜報情報部は、中国の新たな軍事行動の展開を最初に察知しなければならない機関だと言える。

その機関の次席に当たる現役軍人のファネル大佐が、公開の会議の場で「中国軍が尖閣諸島の軍事占領と日本の海上自衛隊艦艇撃滅を目指す作戦を準備中」と語ったのである。日本としてもこの証言を重視せざるを得ないだろう。(終わり) 
2014.02.27 Thursday name : kajikablog


◆「パール真論」を読む(3)

平井 修一


判決書にも「世界連邦」という言葉が出てくるが、世界連邦のもとに各国の主権と軍備を制限し、国際法によって秩序づけるというのがパールの理想だった。原爆の出現で軍備はもはや無意味となってしまったと考え、日本の再軍備に反対した。

これを現在の価値観から左翼的な夢想だと見るのは時代背景を無視した思い上がりである。2発の原爆投下にまで至ってしまった未曾有の世界大戦の直後の時代に、人が恒久平和の理想を思い描くのは当然のことではないか。

しかもパールは、何が平和を破壊したのか、誰がもっとも非難されるべきかという真実を見失うことは決してなかったのである。

1952年、パールは再び来日した。この時の様子は「パール博士 平和の宣言」に詳しい。このときパールは広島で開催された世界連邦アジア会議で講演を行ったが、それは甘い夢想とは無縁のものだった。欧米の代表を目の前に、真っ向からこう言ったのである。

「民族問題あるいは人種問題が、今なお未解決のままに放置されているということは、われわれの断じて容認し得ないところである。しかもこの問題は、西洋諸国において相当責任があるということを私は断言することができる。私は人種問題、民族問題を除外して、永久平和も世界連邦もないと確信している」

さらにパールは原爆投下を強く非難した。

「これは一種の実験として、この日本に投じたのである。これを投下したところの国から真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない。われわれはこうした手合いと再び人道や平和について語り合いたくはないのである」

そして、第一次大戦後に日本が人種平等案を提出し、英米が握りつぶしたことも強い調子で語った(注)。この講演は会議の性格を一変させてしまったという。

その翌年、パールはインドで自らの判決書を出版した。そして、なんとそこに20ページもの原爆犠牲者の写真を付録として載せたのである。パールの孫のサティアブラタ氏は、「これがダドゥ(祖父)の死んだ人への礼拝のやり方であり、生きている人の苦しみ、彼らになされた恐るべき不法行為、そして彼がそれを償うことができないことに対する認め方なのである」と言っている。

パールが最後に来日したのは1966年。13年ぶりの来日で、その間に高度経済成長によって日本の風景は一変した。パールも年老い、病躯をおしての来日だったが、その頭脳はまったく衰えてはいなかった。

途中体調を崩して「無言の講演」を余儀なくされ、希望していた長崎訪問も叶わなかったが、その後やや持ち直し、京都を訪れることができた。その新幹線の車中でこう言っている。

「私が前にきたときは、英語を解する人はほとんどいませんでした。しかし今度は出発前、息子にも日本ではもうどこへ行っても英語で不自由はしないだろうと言ったものでした。ところが来てみると案に相違して英語を話す人は極めて少ない。私はこれを嘆くのではなくて、反対にうれしく思うのです。なぜなら、それだけ日本人が母国語を大事にしていることを証明しているのですから」

パールは京都を大変気に入った。

「できたら余生をこういうところで送りたい。どうか京都を大事にしてください。日本古来の美しい景色をいつまでも残しておいてください。文明は多くの美しいものを失わしめました。京都をそのような外国の悪い影響から守ってください」と熱っぽく語ったという。(つづく)(2014/2/23)