伊勢 雅臣
韓国資本による最初の株式会社は、朝鮮総督府の保護と日本企業の協力の下で急速に育っていった。
・日本統治下の朝鮮で人口980万人→2400万人の高度成長。・北朝鮮に世界最大級のダムを造り、一大化学工業地帯を出現させた日本人・朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母となった日本皇族女性
■1.カサブランカでの韓国企業の存在感
モロッコのカサブランカと言えば、日本人にはハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの名画『カサブランカ』からの連想でエキゾチックなイメージを抱くが、実際に行ってみると、まさに高度成長中の新興国そのものである。ハイアット・リージェンシーやらノボテルといった高層ホテルが林立し、道路はプジョーやフォルクスワーゲンなど欧州車で大渋滞だ。
そんな中でことさらに目立つのが韓国メーカーの宣伝パネルである。飛行機を降りたとたんに、空港ビルの通路でサムスンのスマートフォンの巨大広告が出迎える。
街中で見上げれば、ビルの屋上にはヒョンダイの車の広告塔。よくもまあ、北アフリカの西の端の国まで、こんなに広告を出すなあ、とそのバイタリティには感心してしまう。
まさにグローバル資本主義の申し子のような韓国企業の活躍ぶりだが、その韓国の資本主義の発達に関して「萌芽説」がある。もともと李朝朝鮮の頃に、朝鮮半島には資本主義の「萌芽」が芽生えていたが、日本統治時代にそれが弾圧され、戦後、独立してから、ようやくその萌芽が開花したという説である。
その萌芽説を実証研究で打ち砕いたのが、ハーバード大学のカーター・J・エッカート教授の『日本帝国の申し子』である。米国のアジア学会、歴史学会から権威ある賞を受賞し、高い評価を確立した研究書だ。
そこでは、朝鮮資本による最初の近代的企業が、日本帝国の中で育っていく様子が生き生きと描かれている。韓国の資本主義は「日本帝国の申し子」だった、というのが、タイトルの意味である。
■2.金性洙、京城紡織株式会社を設立
朝鮮資本による最初の株式会社・京城紡績株式会社の創業者・金性洙(キムソンス、1891〜1955)は、裕福な地主の家に生まれ、当時の有産階級の例に従って、明治41(1908)年、17歳にして東京に留学し、23歳まで過ごす。
金性洙が目の当たりにしたのは、工業のめざましい発展を原動力に近代化を遂げていく日本の姿だった。留学中の明治43(1910)年に日韓合邦が実現した。金性洙は合邦を推進していた「親日派」とは一線を画していたが、自分が日本で学んだ知識を母国の近代化に役立たせたい、という志を持っていた。
当時の近代的工業といえば、まずは紡績業であった。大正8(1919)年10月、金性洙は弟の金季洙(キムヨンス)とともに、朝鮮総督府の許可を得て、京城紡織株式会社(京紡)を設立した。130人の株主の大半は朝鮮人だったが、設立当初から日本人株主もおり、総督府の協調的発展政策に沿ったものだった。
その前年に終わった第一次大戦で欧州諸国が壊滅的な打撃を受け、日本の市場がスエズ運河以東にまで広がった。日本の製造業は増産に取り組んだが、膨大な需要には応えられなかった。そこで朝鮮総督府も朝鮮の製造業を発展させる方針をとった。
この方針に則って、日本資本による朝鮮紡織株式会社(朝紡)が1917年に設立されていたが、それを追って朝鮮資本で設立されたのが京紡であった。
■3.初期の京紡を支えた総督府の補助金
京紡設立の翌年、大正10(1921)年、総督府は朝鮮における産業発展を図るための「産業調査会」を設け、総督府首脳陣、日本の高級官僚、朝鮮に関心を持つ日本人実業家による5日間の自由討議を行った。
その頃、日本と朝鮮との間で関税廃止の動きが本格化しており、そうなれば、朝鮮製品が日本製品に圧倒されて、巣立ちしたばかりの朝鮮産業が成長できない、と危惧されていた。
この会議には、朝鮮人実業家も参加した。彼らは、朝鮮の産業開発において、対等のパートナーとして扱われることを要求し、日本人実業家と同じ権利や特権を与えられることを求めた。
たとえば、日本資本の朝紡には7%の配当金に相当する補助金が与えられていたが、朝鮮資本の京紡にも、その後、同様に補助金を支給されることが決まった。
補助金は大正13(1924)年から10年ほど支給され、総額では昭和10(1935)年の京紡の払い込み資本の4分の1を上回った。京紡は設立以来、大正14(1925)年まで赤字が続き、昭和2(1927)年にようやく配当を出せたが、それも総督府の補助金のお陰だった。
「初期の京紡にこのような政府の定期的な援助がなければ、京紡は存続できなかったといっても過言ではない」とエッカート教授は断言している。[1,p117]
■4.成長を支えた朝鮮殖産銀行の融資
経営が安定するにつれ、京紡は朝鮮だけでなく、満洲にも新たな市場を開拓し、売上を伸ばしていった。しかし、売上を伸ばすためには、設備と人員を増やし、工場を広げなければならない。
大正12(1923)年には100台だった織機を、昭和10(1935)年には900台近くにまで増やし、昭和6(1931)年には工場を拡張している。大正8(1919)年には約40人に過ぎなかった従業員が、昭和7(1932)年には500人まで増えていた。
難題だったのは、こうした急成長のための資金繰りだった。株式会社といっても、株式市場で充分に資本を調達することは難しかった。政府の補助金では会社を維持する事はできても、成長のための投資までには回らなかった。
そこで京紡が頼ったのは、朝鮮殖産銀行からの借り入れだった。朝鮮殖産銀行は、日本政府が朝鮮半島の農業や産業の開発を促進するための金融機関として大正7(1918)年に設立したものだった。
殖産銀行は、内地の金融市場から債権の形で資金を集め、朝鮮半島での農地開拓や産業開発への融資を行った。同行では日本人行員と朝鮮人行員が同一の待遇で業務に励んでいた。[a]
朝鮮の産業開発のフロントランナーとして走る京紡は、まさに殖産銀行の設立方針に沿った融資対象であった。昭和6(1931)年の工場拡張に際しては、殖産銀行から25万円の長期(10年)融資を受けた。その後、運転資金
を株式市場から資本を調達しようとしたが、まったくの当て外れに終わ
り、翌年の9月に再び、50万円の新たな長期融資を受けた。
この後も、京紡は成長のための資金を殖産銀行に求め、昭和20(1945)年には、資本金1050万円の2倍以上、2200万円の長期融資を受けていた。
■5.朝鮮殖産銀行という官製財閥の一員
朝鮮殖産銀行から見ても、京紡は優良な融資先だった。殖産銀行創立20周年の昭和13(1938)年に出版された社史では、最も成功したプロジェクトの一例として京紡をとりあげ、一頁を割いてその写真を掲載している。
殖産銀行は養蚕から、紡織、重工業まで、朝鮮の商工業のあらゆる分野に関わり、ちょうど日本の財閥企業を三井系とか、三菱系とか言うように、当時の人々は京春鉄道や漢江水力電気といった企業を「殖銀系」と呼んでいた。京紡も「殖銀系」の一員と見なされていたのである。
貸し付けにおいても、殖産銀行はl京紡を優遇しており、当時いちばんの上得意向けの特別低利貸付が適用された。利率は固定で年5.5%、元本は13年以上かけて返済する、というものだった。
また、日本の財閥と同様、内部での人のつながりもあった。その典型例が京紡の初代社長・朴泳孝だった。大正8(1919)年に金性洙が京紡を設立した時、まだ28歳であったため、初代社長として担ぎ出した人物である。
朴泳孝は、日本をモデルとして朝鮮国家を改造しようとした指導者の一人であり、李完用内閣の宮内府大臣も務めた政治家であった。明治43(1910)年の合邦後、婚姻を通じて朝鮮王族の一員となっていた朴は公爵の爵位を授けられ、日本の貴族議員となっていた。この朴が朝鮮殖産銀行の設立当時からの取締役を務めていたのである。
また殖産銀行第3代頭取の林繁蔵は、個人として京紡の日本人株主の中ではトップクラスの株数を所有していた。金性洙も殖産銀行の主要子会社のうち少なくとも3社の株を数千株、取得している。
ちょうど日本の財閥が銀行と企業の間で株式の持ち合いや人のつながりを持つように、京紡は殖産銀行という官製財閥の一員として、育てられていったのである。
■6.「取引先を大事にしてくれました」
綿布の生産を行っていた京紡は、設立後17年間は原料である綿糸の生産ができなかった。それだけの資本と技術を持っていなかったからである。
綿糸は日本から輸入するしかなかったが、その市場価格は、原料である原綿の影響を受けてきわめて不安定で、一年の間に30%もの価格変動も珍しくなかった。それに対処するために繊維業界では資金と知識を持つ大手商社が中心となって先物取引を行っていた。
京紡は設立1年目に、先物取引に手を出して、大きな失敗をし、倒産の危機に瀕したこともあった。素人が手を出して、やっていけるような業界ではなかった。この面で手を差し伸べてくれたのが、日本の八木商店であった。繊維商社・八木商店であった。京紡の会長を務めた金容完は、エッカート教授のインタビューにこう答えている。[1,p177]
「八木商店の経営者たちは京紡の経営者にとてもよく似ていました。どちらも名門の出であり、誠実で意欲的な人たちでした。利益を追求するだけでなく、取引先を大事にしてくれました。
なにより助かったのは快く信用貸しをしてくれたことです。資金繰りが苦しければ掛け売りで品物を回してくれましたし、問題をかかえているときは必ず手を差し伸べてくれました。あの社長には本当に世話になったものです。」
「創業当初の京紡にとってこのような配慮は、この上なくありがたいものだった。商社とのつながりがなければ、日本製品との競争で生き残ることは不可能だった」とエッカート教授は述べている。
■7.設備導入と技術者教育
技術の面でも、京紡は日本帝国の力をフル活用した。
日本の綿工業はイギリスをお手本とし、英国から設備を購入していたが、昭和元(1926)年に発明された「豊田式自動織機」で欧米を追い抜き、一人の労働者が操作できる織機の数が従来の6台から60台へと格段に伸びた。
イギリスのプラット兄弟会社のその独占製造・販売権を売り、豊田の技術者が指導に出かけるまでになった。
京紡は豊田はじめ、日本の設備メーカーから最新鋭の設備を買い入れた。昭和8(1933)年には、224台もの野上(のがみ)式自動織機を輸入しているが、これは当時の最新・最上の装置であった。また設備本体だけでなく、付属品やスペアパーツもほとんどすべて取り寄せていた。ねじ釘一本にいたるまで日本製であった。
設備だけでなく、技術者の育成においても、京紡は日本に依存していた。京紡は京城高等工業学校から若い朝鮮人技術者を多数、採用していた。彼らは繊維学科で3年間、紡績、機織、染色などの専門教科を学んでいたが、京紡は彼らを採用後に日本に送り、呉羽紡績株式会社の工場で実地訓練を受けさせていた。
■8.同じ国の同胞として
戦後の韓国で工業化を推進した朴正煕政権時代の20年間には、「まるでデジャブュ(既視感)のような不思議な感覚に襲われる」[1,p334]とエッカート教授は述べている。
朝鮮総督府に替わって朴正煕政権が経済発展を主導し、そのもとで日本政府の経済援助、日本企業の技術援助により、経済を発展させる、という、戦前と同じパターンだったからである。金性洙の弟で、ともに京紡の発展を担った金季洙は朴政権下で韓国財界のトップを務め、日本企業との橋渡しもしていた。
現代の韓国経済も、サムソンやヒョンダイなど、ごく少数の財閥系企業が中心となっており、日本経済のように優れた中小企業が多くの分野で幅広い裾野をなしているのとは対照的だ[b]。これも朝鮮総督府による戦略的な産業育成と同一パターンだと考えれば、合点がいく。
そして、これらの韓国企業が、日本の設備や電子部品、あるいは定年退職した日本人技術者に頼ってきた所も同様である。
こうして育ったサムスンやヒョンダイのような韓国の大企業がカサブランカにまで存在感を発揮しているというのも、戦前の京紡が満洲で活躍していたという点と似通っている。
京紡が日本帝国の申し子として育てられていった過程を見ると、日本の朝鮮統治は、イギリスのインド支配やオランダのインドネシア支配とは根本的に違っていた事が分かる。大英帝国の中でインド人企業が政策的に育てられたなどとは聞いたことがない。インドネシアの民衆に至っては、350年間、オランダによりほとんど文盲状態に留め置かれた。
日本の朝鮮統治に近いのは、英国が1801年に北アイルランドを併合した事だろう。現在のイギリスの正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。北アイルランドは大英帝国の経済圏の中で、造船業を発達させ、あのタイタニック号もそこで作られた。
イギリスが「連合王国」となったのと同様の意味で、日韓は「合邦」をしたのであり、朝鮮総督府、朝鮮殖産銀行、そして京紡を助け育てた日本企業の人々は、同じ国の同胞として、朝鮮半島の経済発展に力を尽くしたのである。
■リンク■
a. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://blog.jog-net.jp/200108/article_1.htmlb. JOG(797) 夢も希望もない韓国経済 〜 外国資本に貢ぐ輸出企業、窮乏化する国民
http://blog.jog-net.jp/201305/article_1.html■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-194』★★、草思社、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4794212755/japanontheg01-22/