2014年02月28日

◆籾井さん! お引き取りください

浅野 勝人(安保政策研究会理事長)
  

2月17日の安保研ネットに「ジャーナリズムとは何か」について所感を掲載いたしました。その際、ジャーナリズムは不偏不党をかざして中立公正を求め、「権力と対峙」するのが使命と申しました。

ジャーナリズムを支える報道の自由は、高い倫理観と重い責任感を担保に保証されており、その欠落はジャーナリズムであることの放棄を意味すると申しました。

これは、NHK政治記者、解説委員として20年、国会議員、政府高官として20年、取材する側と取材される側の体験から学んだ真理です。それぞれの立場で積み重ねられた失敗と悔恨の中から生まれた帰結といった方が正直です。

どの報道機関もジャーナリズムを大切にする多くの人材の努力を積み重ねて維持・発展してまいりました。NHKも1925年に放送を開始してから90年間、膨大な職員の艱難辛苦が実って、世界一の文化集団、世界有数の報道機関に成長して参りました。

この間、毎日新聞会長・阿部眞之助、朝日新聞代表取締役・野村秀雄、NHK解説委員・前田義徳ら、日本を代表するジャーナリストがNHK会長として真のジャーナリズムの確立に努め、その積み重ねが今日のNHKの骨格をなしています。

確かに中立公正とは何かを見定めることほど難しい判断はありません。

そんな中で、世界的規模のネットワークの放送メディアに限ってみれば、NHKやイギリスのBBCは不偏不党の立場を守ろうとする姿勢が鮮明です。

少なくとも、NHKが中立公正なニュースや番組を提供しようと懸命に努力している姿を認めている人は少なくありません。

そうでなければ、TVを視聴する世帯のおおむね80%がNHKの受信料を払うはずがありません。

籾井さん。NHKの放送内容が左寄りだから、ナットを締め直してまともな姿に戻すのが自分の仕事と思ったようですが、とんだ間違いです。

真ん中に立って見れば中道に見えるものが、あなたが右に偏った地点から見ているので真ん中のものが左寄りに映っただけです。

ですから、籾井さんは自らナットを締め直して放送法を順守するまともな位置にご自分を置き変えれば問題はおきませんでした。

そもそもジャーナリズムほど個々の個性、個人の能力に支えられて成り立っている業種はありません。

例えば、経営陣と取材記者、カメラマン、プロデゥサー、ディレクター、アナウンサー、映像編集者、技術者、その他多彩な職種の職員との相互信頼が失われたら放送メディアは崩壊します。

ですから放送内容の軸位置を大きく変えさせようとしたら、籾井さん、あなたのかざす思想、哲学、理念に東京の放送センターだけでなく、全国の放送局に勤務する1万人の職員が心服して納得しないかぎり達成できません。

世界一の文化集団、世界トップ級の報道機関にはどんな使命があり、どれほど多くの貴重な個性が存在するか、あなたにはまるで理解できていません。

分っていないから、放送人としての見識と能力を備えた10人の理事全員に、会長就任と同時に日付を空白にした「辞職届」を出させたのでしょう。

こんな非常識な振る舞いは、現職の理事に対する冒涜に止まらず、受信料を払って今日のNHKを築いてきた視聴者をはじめ、OBや関係者全員に対する侮辱以外のなにものでもありません。

籾井さん! もはやこれまで : お引き取りください。
       (元NHK解説委員、元内閣官房副長官)








2014年02月27日

◆また李鵬一家のスキャンダル

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年2月27日(木曜日):通巻第4162号 <前日発行> 

〜また飛び出した李鵬一家のスキャンダル
  こんどは孫娘、香港でのビジネス作法も特権階級の傲慢さ〜

李鵬(当時首相)は1989年の天安門広場を埋めた学生、労働者、インテリから非難・攻撃の的だった。

「李鵬下台」(李鵬やめろ)のシュプレヒコールはいまも耳元に残る。しかし改革派の趙紫陽が失脚し、李鵬はしぶとく生き残ったばかりか、守旧派に守られて、そのつぎに全人代委員長となった。周恩来の養子は無能でも出世した。
 
李鵬は自らが総書記か国家主席になれると思いこんでいたらしく、江沢民なんぞ何処かの馬の骨と認識して憤懣やるかたなく、自己認識にかけるため客観的評価が出来ない政治家だった。

やったことと言えば、成り上がり者、江沢民への当てつけばかり、一番派手な「事件」は97年7月1日、香港返還式典で江沢民と並んで雛壇にのぼるという珍妙なパフォーマンスをみせつけたことだった。このために、李鵬は江沢民とは別途に特別機を仕立てるという前代未聞の演出に熱中した。

引退後、李鵬は「六四は私が命じたのではない(発砲命令はトウ小平だった)」と弁明に終始し、そうした「李鵬日記」を上梓する寸前だった。長男の李小鵬が山西省副省長になるのと引き替えに李鵬は出版を取りやめる一幕もあった。李小鵬は、いまや山西省省長サマである。

ジャルダーノを経営していたジミー・ライ(頼智英)はハイエクを信奉する自由経済主義の実業家だが、「李鵬の頭は亀のたまご」と言ってのけ、彼のジャルダー・チェーンのうち香港に近い2店舗が放火される事件がおきた。

ジミーは嫌気がさしたか、ジョルダーノを売却し、リンゴ日報の経営に専念する。このいざこざを横目にシェアを飛躍的に伸ばしたのがユニクロだった。が、そんな些末なことを言いたいのではない。
李鵬には3人の子どもがいる。

長男が李小鵬(山西省長)、次男が李小勇である。娘には李小琳がいて、彼女は中電国際董事長(CEO)、その豪華な生活ぶりはときおりパパラッチされる。香港でブランド品を買いまくる。ボディガードに黒塗りの高級車、顰蹙を買っているが、そういう意識はない。「バカ殿にバカ娘か」と香港市民は批判する。

さて次男の李小勇(夫人は葉子燕で「北伐」に手柄を立てた葉挺・将軍の孫娘でもある)、この夫婦の娘が葉丹丹という。

葉子燕は香港スケート連盟主席であり、娘の丹丹が東莞にあるスケートリンクの経営者でもある。一族のなかで、この夫婦だけは水利、電力ビジネスにつかなかったので、注目された。

▼李小勇と朱琳夫妻の娘が葉丹丹である

そして香港の娯楽誌や明報が伝えるところでは、東莞のスケートリンクと深センのスケートリンクがアジアの有名な協議会開催の会場を奪い合うという五輪会場並みの争奪戦を演じた。

スキャンダルはいまに始まったことではなく李小勇には前科がある。

98年、香港で投資家を騙し、金利が30%などと途方もない大法螺を吹いて四千人から五億元(97億円)をあつめ、その投機的不動産企業「新国大」は倒産、けっきょく賠償されたのは四千万元だった。大規模な不動産詐欺と騒がれたが、李小勇はこの怪しげな会社の名目上の社長だった。

この詐欺的な投機スキャンダルが表沙汰になるや、李小勇夫婦はさっとシンガポールに逃亡し「居住証」を獲得し、表向きは倉庫業を営んでいた。

そして94年にはシンガポールと香港に豪邸があることも発覚したうえ、しょっちゅう、シンガポールの「阿一鮑魚」(鮑料理の最高級レストラン)で食事していることも報じられた。

「毎月4、5回は友人を引き連れてきていましたし、個室がないときはロビィで大衆と一緒に食事してました。特製鮑が好みで、ほかにも燕の巣をよく食し、5、6人ほどの友人との合計はいつも7万円前後でした」と従業員の証言がある(多維新聞網、2月26日)。

シンガポールでは最高級マンションの建ち並ぶタンジョンルー路に住み、ほとぼりが冷めるのを待った。スキャンダルの最中に購入した香港の所有不動産もヴィクトリアピークに近い最高級住宅街に戸建ての豪邸(4000万香港ドル=5億3000万円ほど)、香港ではワンチャイ地区にも3400万ドルの陽明山住宅を購入したが、いずれも名義が李小勇気でなく、「朱峰」と名乗った。母親の朱琳(李鵬夫人)にちなむ偽名である。

なにゆえに朱が姓だと名乗り、李姓を忌避するのかという疑問も深まっている。

◆張成沢氏は喜び組担当だったため

古澤 襄


■金正日の料理人・藤本健二氏が英紙で発言

<「金正日(キム・ジョンイル)総書記の料理人」だった藤本健二氏が「金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党第1書記は(父である金正日氏への)喜び組の提供を主導したことを理由に、叔父の張成沢氏を粛清した」と主張した。

藤本氏は22日(現地時間)、英国の日刊紙デーリーメールのインタビューに応じ「金正恩第1書記は18歳のときに留学を終えて帰国した後、喜び組の女性と接するようになった。


父親とは異なり、金正恩第1書記は女性の前ではシャイで、複数の女性と関係を持つことを憎んだ。父親の女性遍歴も嫌っていた」と語った。藤本氏は2001年に北朝鮮を脱出したが、12年に金正恩第1書記から招待され、訪朝している。

藤本氏は、金正恩第1書記が6歳のころから毎日数時間一緒に過ごし、親しくしていたという。藤本氏は「金正恩第1書記は、幼いころから大人のように振る舞い、子ども扱いされることを嫌った。『小さな大将』と呼ばれると非常に怒った」と伝えた。
(韓国・朝鮮日報)>
2014.02.26 Wednesday name : kajikablog


◆「パール真論」を読む(2)

平井 修一


パールは判決書の中で、第1次大戦中のドイツ皇帝の手紙を引用した。

それは、「老若男女を問わず殺戮」すれば「フランス人のような堕落した国民」との戦争は2か月で終わる。しかし「人道を考慮することを容認すれば、戦争はいく年も長引く」したがって戦争を早く終わらせるため無差別殺戮を選択したという内容だった。

東京裁判で扱われた戦争において、このドイツ皇帝の残虐政策、およびナチス指導者の指令に近いものは唯一、原子爆弾使用の決定であり、そのようなもの(残虐政策)は日本になかった。そうパールは断言している。

日本を一方的に裁くためだけに用意された法廷において、パールは堂々とアメリカを断罪したのである。

パールが遅れて東京裁判に参加したとき、すでに他の9か国の判事は「反対意見」の公表をしないと決定していた。しかしパールはその決定を断固拒否した。パールの存在によって判事たちは動揺し、最終的にはパールの他にオランダのレーリンクら4名が別個意見を提出することになった。

インドのネール首相はパールに対して、「連合国の意を損ねるようなことはしないでほしい」と求め、何を考えているのかを問いただしたという。

それに対してパールは、「理非曲直によって裁判をしている。首相ができることは私を交代させることだけであって、仕事の中身まで指示してはいけません」と返事したという。

結果的にはインド政府もマッカーサーも最後までパールを解任しなかった。それを評価することもできよう。しかし、それもすべてパール個人の勇気と正義の信念があったからこそのことだった。

学者の中には、「東京裁判にはもちろん不備があったが、戦後の国際秩序をつくった政治的意義は認めるべきだ」と言う者がよくいる。しかし、これが詭弁であることはパールが判決書の結論である「勧告」にはっきり書いている。

「(戦後の秩序のため日本の懲罰が必要だったというのであれば)真の究極の証明すべき事実は世界の公の秩序と安全に対する将来の脅威であろう。かような将来の脅威を判断する資料は、本裁判所には絶対ない」

東京裁判においては、世界秩序と安全の維持について、有益な議論はなにも行われなかった。原子爆弾の意味するものも省みられなかった。憎むべき敵の指導者を裁くことによって熱狂した感情は、「世界連邦」の建設を考慮する余地も残さず、平和の真の条件に対する民衆の理解は増進するどころか、かえって混乱させられるであろう――パールはそう記した。

そしてこれが真実だろう。日本の学者たちはいつまで真実から目をそむけ、欺瞞の中に住み続けるつもりだろうか。(つづく)(2014/2/21)

2014年02月26日

◆籾井NHK会長発言と朝日新聞の責任

加瀬 英明


NHKの籾井勝人新会長が就任記者会見したなかで、「慰安婦」に関する発言があった。

もっとも、籾井会長は会見中、その直後に、「この発言を全部取り消します」と、断わっている。

ところが、朝日新聞をはじめとする新聞・報道メディアがその発言を大きく報じて、野党が責任を追求した。すぐに韓国に飛火して、韓国与党が辞任を要求する騒ぎとなった。

籾井会長は「戦時慰安婦はどこの国でも、あったことだ。日本だけいわれるのはおかしい」「慰安婦は今日のモラルでは悪いが、その時の現実としてあった」「この問題は日韓条約で解決ずみのことなのに、なぜ蒸し返されるか、おかしい」という大意のことを、述べた。

私は籾井会長の発言は、きわめて妥当なものだと思った。

いったい、どこが誤っているのだろうか。戦場における兵士の性処理の問題といえば、東西いつの時代を問わず共通している。

朝日新聞などのメディアは、籾井会長がこの問題について発言したのが、不適切だといって非難した。だが、録画を見ると、慰安婦の問題を会見の場に持ち込んだのは、朝日新聞の記者だった。

籾井会長は記者の質問をきいて、しばし絶句している。そのうえで、「ちょっとコメントを控えては、ダメですか?」とたずねてから、「戦時慰安婦はどこの国にもあったことですよね」といった。かなり長い沈黙があって、「会長の職はさておき」と断って、私人としての考えを述べた。

すると、この記者が「これは会長会見の場ですよ」と念を押したので、「それなら、今の発言は全部取り消します」と、断わっている。

それだったら、ジャーナリストの職業倫理からして、この発言をニュースにすることはできないはずだった。

それにもかかわらず、朝日新聞はどの他紙よりも大きな紙面を割いて、籾井会長が取り消した発言を報じて、責任を追及した。籾井氏の発言のどこが誤っているのか、論証できるのなら、そうすべきだった。

もともと、韓国で問題になっていなかった慰安婦問題に火をつけたのは、朝日新聞による誤報だった。

「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち1人がソウル市内に生存しているのがわかった」(平成3年8月11日朝刊)と報じたが、後に若宮啓文主筆が著書のなかで、この記事について、「元軍人の話を信じて、確認のとれぬまま記事にするような勇み足もあった」と、振り返っている。

しかし、この記事をきっかけとして、朝日新聞は日本の官憲が日本統治下の朝鮮で娘たちを拉致して、慰安婦になることを強制したという、事実を捏造した報道を堰を切ったように始めた。「勇み足」は、つい勢いあまってやり損うことであって、咎めるべきことではない。若宮氏は日本語が不得手だからか、退社後韓国に渡って、大学で教えている。

朝日新聞はいつも日本を嫌って、日本の名誉を傷つけることに熱心である。

だが、日本が嫌悪すべき、爪弾きの国だというイメージが世界で定着したら、日本が危機に陥った時に、どこの国も救おうとしまい。由々しいことだ。

これは、安全保障の問題である。

◆インドで何が起きているか(2)

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年2月24日(月曜日)貳:通巻第4158号 >

 日本の工業団地を大胆に誘致した地方政治家の決断
   デリー〜ムンバイ回廊に高速道路と新幹線は日本が援助するのだ

(承前)
インドでは土地の収用が大変なことを前節に述べた。しからば州政府が工業化を大目標として、開発公社を設立し、従来困難だった土地収用と団地の造成、開発を責任を持って実践し、水道、電気などインフラを整備する。外国企業を積極的に呼び込む。

どの国でもやっていることだが、ようやくインドでもこうした条件が整い、デリー郊外に二つ、となりのラジャスタン州とグジャラート州とにJetroと組んだ、日本企業専用の工業団地が出現、もしくは造成中という情勢となった。

経済成長著しいグジャラート州には大工業団地が幾つかあるが、近未来に州都のアーメダバードがデリー〜ムンバイ回廊のほぼ中間に位置する要衝となる。

そして南インドではハイダラバード、バンガロールを追って、チェンナイに日本企業の進出が夥しくなっている。

順番にみていこう。

第一に日本企業が「インド本社」を置くのは圧倒的に首都ニュー・デリーである。デリー市内には日本人のたまり場、日本食材店、日本料理レストランが夥しくある。日本人のバックパッカー専用の安宿もある。
 
その南西がハリアナ州である。というより従来はデリー郊外の荒れ地、湿地帯だったが、急速に開発され工業団地、いや新都心ともなった。これが新開地「グルガオン」である。

ホンダの大工場を筆頭に日本企業が密集している。グルガオンにはメトロも近くまで繋がり、第貳期工事で乗り入りが予定されており、日本人客が多いビジネスホテルもすでに数軒、殆どの宿舎でもWifi無料のところが多い。

第二は、そのグルガオンから西へ90キロ。行政的にはラジャスタン州となるが、ここもデリー郊外、つまりデリーメガロポリスの内縁と言って良い。マネサールやパワルなどに工業団地がある。 はやくからスズキなどは工場をつくって二輪、スクータを大量生産してきた。ホンダはグルガオンと、ここをあわせて年間200万台以上のオートバイ、スクータを量産している。

ラジャスタン州を東西に抜ける国道八号線沿いに開発されたのが「ニムラナ工業団地」である。ハリアナ州との州際で、デリー国際空港から105キロ、渋滞に巻き込まれても2時間、早朝、夜中なら30分で着く。

日本と共同で開発した、このニムラナ工業団地へ進出する特権は付加価値税の免税措置、土地代の廉価供給。電力の特価提供など数々の優遇条件あり、付近にはスズキ、ホンダなどの大工場がある。

第三は、そのラジャスタン州のとなり、グジャラート州である。前にものべたが、この州の首相(チーフ・ミニスター)が次期インド首相候補最有力のナレンドラ・モディ師である。
 
モディ師はニムナラ工業団地の成功に刺激を受けて、日本企業の大規模誘致を決断、それのは「日本企業専用工業団地」の造成が近道という強い政治決断の下、着々と準備を進めた。だからモディ師のリーダーシップの拠るところが大きいのである。

グジャラート州にはすでにタタやフォードの工場もあり、ダイキン、日本通運なども操業中である。

▼大学学園都市がハイテク産業の拠点に早変わり

第四はムンバイの東200キロにひらけるマハラシュトラ州のプネーである。マハラシュトラ州はインド全体のGDPの15%をはじき出す商業地域であり、ムンバイはまた映画製作でも世界的に有名である。

インドを代表するIT産業のメッカはハイドラバードとバンガロールだが、プネーも文教都市として開けたため大学が多く優秀なエンジニアを雇用しやすいという条件がある。
 
プネーにはタタ自動車の工場が稼働しているが、くわえて近年、郊外のチャカン周辺に土地を確保した企業にはGM,ダイムラー、LG、フォルクスワーゲンなど。化学分野では3M。このプネー郊外にも「日本企業専用団地」の造成が決まった。

プネーはインド最大の商業都市ムンバイに近く、また輸出港ナパシェパには僅か130キロという便利性が付帯している。

すでに日本企業は百社ちかくが進出した過密地帯でもあるが、交通アクセス、商業のインフラなど立地条件に上積みされる有利な諸条件が整っている。
 
第五はバンガロール。コンピュータ産業、ソフト開発のメッカともいわれる高原都市には国際的企業が密集する。

トヨタはコンパクト・カーの生産基地を付近に構え既にエティオス、イノーバなど年間31万台規模。イノーバは南アへの輸出も始めている。ホンダも第三工場をバンガロール郊外に開設し、二輪車ばかりか、プリオ、シビック、アコードなど四輪自動車を12万台。新興場が出来れば年間生産は24万台となる。

バンガロールには集積回路、IT産業が密集した国際都市に変貌しており、筆者が最初に取材した7、8年前より、凄まじく様変わりした。

第六はハイドラバードだが、ここは既に述べた(小誌4153号)。筆者は東郊外のハイテクシティを建学したがマイクロソフト、グーグル、アップルなどの拠点であり、ちかくアンドラブラデシュ州から分離独立するテランガナ州の州都でもあり、国際空港はインド各地ばかりかすでに世界各地からも乗り入れている。

第七が南インドの玄関、タミル語の街、チェンナイ(旧マドラス)である。

チェンナイ近郊にはヒュンダイ自動車の大工場があり、インド国内における販売シェアはスズキ、タタ、トヨタにつぐ勢い。ノキア、小松、ルノー、日産もチャン内郊外のオラガダム工業団地とその周辺にある。チェンナイが州都のタミルナドゥ州はタミル語、おとなしいタミル人は日本人と肌があうという。

こうして日本企業の生産拠点をおおきく集約すれば以上の七つ。日本のインド進出は13年末で1072社となった。これからも爆発的に伸びるか、どうか、次節ではインド経済全体が抱える問題点をけんしょうしてみよう。
(この項つづく)。

◆「パール真論」を読む(1)

平井 修一


第1次安倍内閣の2007年8月23日、産経新聞は「首相、東京裁判のパール判事長男と面会」と報じている。

<【コルカタ=杉本康士】インド訪問中の安倍晋三首相は23日午前(日本時間同日午後)、コルカタ市内のホテルで、極東国際軍事裁判(東京裁判)で判事を務めた故パール判事の長男、プロシャント・パール氏と面会し、東京裁判で被告全員の無罪を主張したパール判事の業績をたたえた。

パール判事は東京裁判に対する意見書で、戦勝国が事後法により敗戦国を裁くことに疑問を提起し、原爆投下を批判した人物。

首相は冒頭、「お父さまは今でも多くの日本人の尊敬を集めている。日印関係の基礎を築かれた一人だ。パール判事のご遺志は日印関係を発展させることだったと思う。今日、日印関係は大変強化されている」と語りかけた。

プロシャント氏は、昭和41年に父親とともに日本を訪れ、安倍首相の祖父である岸信介元首相と面会したことに触れ「岸氏に会う機会を得てから長い期間が過ぎた」と振り返り、岸氏と一緒に収まったモノクロ写真を贈った。「安倍首相が、岸氏と同様に日印関係の発展に尽くされると確信している」と伝えると、首相も「関係発展に全力を尽くしたい」と応じた。

安倍首相は、東京裁判で有罪判決を受けたいわゆる「A級戦犯」について、国会答弁で「国内法的に、戦争犯罪人ではない」と明言している>

パール判事、ラダ・ビノード・パール(1886年1月 - 1967年1月)はインドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。もともと理系(数学)だったが、母親がインド独立のためには息子を法律家にすることが必要だと考えていたそうで、この影響により法学者へ転身したようだ。

1946年5月から開かれた極東国際軍事裁判、いわゆる東京インチキ裁判ではインド代表判事として派遣された。国際法上根拠のない「インチキ裁判」「敗者に対する報復裁判」だと喝破した最初の判事である。

小林よしのり氏はパール判決書を英文、和文ともに精査して「パール真論」を刊行した(平成20/2008)。判決書をほとんど読んでいないでパールや判決書をあれこれ評論する書籍や記事にうんざりしたのが動機のようだ。あとがきにこう書いている。

<今年(2008)は東京裁判終結から60周年にあたる。その年になっても日本人が東京裁判史観を克服できないばかりか、「パールも東京裁判を一部認めていた」などという妄説がまかり通るようになるとは、パールは夢にも思っていなかったであろう。

デマの火は小さいうちに消し止めなければ取り返しのつかないことになることは、慰安婦問題などで経験済みだ。そのため「SAPIO」誌上で半年近くパールについて描き進め、さらに大量に描き下ろしを加えて本書を完成させた>

この「パール真論」をこれから紹介していきたいのだが、法律文書は日本語でも難しい。ましてや英語の判決書の日本語訳だから理解するのがやっかいで、端からそれを紹介すると読者は「猫またぎ」してしまうかもしれない。そこで最終章の「パールの遺言」から紹介していくことにする。びっくりする話にあふれている。

               ・・・

パールが東京裁判判事の任に就いたのは、自ら望んだからでもなければ、特に選ばれたからでもなかった。当時のインド政府は、独立を見据え「連合国の一員」として東京裁判に判事・検事を送ることだけが重要で、人選には特にこだわっていなかった。

そして候補者複数に断られ、これでは裁判開始に間に合わないという切羽詰まったなか、たまたま判事を引き受けたのがパールだったのである。

なお、東京裁判には当初「インド人検事」もいた。しかし「日本懲罰のために英米と協力することが嫌になって」半年で辞任。インド政府は後任を出さなかった。

パールは開廷から2週間遅れで赴任して、11人の判事の中で国際法の裏付けを持つ者が自分ひとりであるのを知って驚愕し、行われている裁判が茶番劇で、正義の破壊であることを即座に見抜いた。

そこで他の判事たちに「覚書」で自らの意見を配布、それに他の判事が反論し、罵り合いに近い応酬が延々続いた。有形無形の圧力がかかっていたことは間違いなく、身の危険を感じることもあったようだ。

そんな中、インドに残してきた病身の妻、ナリニバーラーの危篤を知らせる電報が届く。パールは一旦インドに帰国、妻の病状の重さを知って打ちのめされた。そして嫌々引き込まれた日本でのゲームにうんざりしていたこともあり、判事を辞して妻のそばにいようと決心した。

ところが妻がそれを受け入れなかった。「あなた自身と日本人のために帰るべきだ」と、パールが日本に戻るまで言い続けたというのだ。

パールは家族に裁判のこと、日本人の境遇への同情、それに耐える不屈の精神に対する賞賛、そして法が彼らの精神を破壊し、彼らの自尊心を奪い取るように堕落させられていることに対する憤りについて話したという。

妻はその話を聞き、重篤な病の身である自分のことよりも、訪れたこともない国にいる見ず知らずの傷ついた人々のことを思い、そこに夫が必要だと悟って送り出したのである。パールは後にこう語った。

「逆に重病の妻から励まされ、いや追い出されたといえるかもしれませんが、私は再び日本にとって返しました。そして裁判終結後、40日ばかりして妻は私のなし終えた仕事に満足して亡くなりました」

パールの孫は、祖母のその行為を「正真正銘の、並外れた愛を示したと常に思っている」と言う。まさにそのとおりだ。パール夫人も日本の大恩人である。かくしてパールは判事席に復帰した。

一体誰が、好き好んで関わったわけでもない不愉快な仕事のために、生きて再び会えるかどうかもわからない妻を残して異国に戻るなんてことができるだろうか?

チンケなプライドや、自分の食い扶持や、論壇内のおつきあいといった私的な理由で、公的な議論を歪めている日本の知識人の体たらくを見るにつけ、パールに対して頭が上がらない思いが増すばかりである。
(つづく) (2014/2/20)

2014年02月25日

◆インドで何が起きているか(1)

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年2月24日(月曜日):通巻第4157号> 


◎ インドで何が起きているか、連載その1

  〜南インドも北西部には負けておられない
    タミル・ナードゥ州の投資増加は18 ・2%の高度成長〜

天皇皇后両陛下が昨師走にインドを親善訪問されて、とくに力点を置かれたのはチェンナイ(旧マドラス)だった。

南インドの玄関で人口700万人。国際線も乗り入れている。両陛下はデリーの記念行事の後、チェンマイへ行かれ州首相以下の大歓迎を受けた。

このチェンマイの位置するのがタミル・ナードゥ州。州首相はジャヤラリサア(通称ジャヤ。女性)。じつはこのジャヤ首相、つぎのインド首相候補で、有力3位につけている。

彼女自身たいへんな野心家であり、チェンナイ市内至る所に彼女の大きなポスターが掲示されている(ついでながら現時点の世論調査では次期総選挙、与党大敗。野党連合の大躍進が確定的で、BJP(人民党)党首のモディ師が首相になるのはほぼ確実)。

地図をひらくとよく分かるが、位置的にはコルコタ(旧カルカッタ)の南西部、すぐ目の前がスリランカ。このタミル・ナードゥ州にはドラビーダ文化が色濃く残り、イスラムの影響がほとんどない南部インドを代表する。言語はもちろん、タミル語だ。

日本は、このチェンナイで地下鉄建設を援助することが決まっている。

ジャヤ(タミル・ナードゥ州)首相は2014年2月21日に「タミル・ナードゥ州ヴィジョン 2023」をいう経済計画を発表した。製薬、バイオなど成長産業のセンターを形成し、いずれ162万人の雇用を創成すると高らかに打ち上げた。

その会議には国際企業33社を招聘、うち17社がインフラ建設などでタミル・ナードゥ州進出を約束した。

この州にはすでに日立、ヤマハなど日本企業も目立つようになった。投資増加率は18・2%で、経済成長がめざましいグジャラート州より多い(ちなみにグジャラート州へ日本企業の投資が急増しているうえ、デリー〜ムンバイ回廊の中間地点にあたるため、新幹線建設でも要衝となる)。

チェンナイはインド洋に面しており、綺麗な海岸線でも知られるが、カーストを嫌ってキリスト教に改宗した人が夥しく、やけにキリスト教会が多い街である。

市内には日本領事館も置かれているが、ちかくには中国領事館がある。その付近にたいそう立派な中国料理レストランがあったが、客はガラガラだった。

▼ 土地の収用に時間がかかるのがインドのアポリアだ

さて、日本企業はなぜ工業団地に集中するのか?

インドの土地問題は極めつきに厄介である。なぜならインドは民主主義国家であるうえ、各州の自治が高度に認められており、土地の収用法が統一されておらず、そのうえ州政府の遣り方も微妙に異なるからである。この点では土地全てが国家の所属で、土地の売買は地方政府の権限できまるという非民主的な中国とは比べられないだろう。

とはいえ、土地の収用交渉に相当の時間が必要で、交渉は一苦労、二苦労どころが債権者が輻輳したりしているため数年揉めてもけっきょく埒があかず工場進出を諦めてしまう例も目立つのだ。

タタ自動車は西ベンガル州の新工場建設を断念したし、アルセロール・ミタル(インド企業だがルクセンブルグ本籍)や韓国ポスコ製鉄が土地の取得が困難との判断から製鉄所新設を見送るという異常事態も出現している。

ホンダは第三工場を建設した際に、農家に将来の収穫を予測した分まで支払って、ようやく工場を新築した。第四工場はグジャラート州にようやく土地を選定したほど長期の交渉が必要だった。

今後も成長が臨めるインドにあっては人材確保以前の問題、土地の収用が大問題なのである
(この項、つづく)。

2014年02月24日

◆新エネルギーの「青い鳥」

長辻 象平


◆高温ガス炉・HTTR

過酷事故を起こさない原発があるのをご存知だろうか。高温ガス炉というタイプだ。

名前からは火力発電を連想しがちだが、立派な原子炉だ。

普通の原発と異なり、運転するのに水もいらない。だから砂漠の奥にも建設できる。

この夢のような原子炉の研究開発は、米国などでも進んでいるが、実は日本が世界のフロントランナーの位置にある。

茨城県大洗町にある日本原子力研究開発機構の高温工学試験研究炉(HTTR)がそれだ。熱出力は3万キロワット。平成3年の着工で、臨界は同10年。

HTTRは開発途上だが、950度を発生させている。普通の原発では、水で約300度の熱を取り出して発電するが、高温ガス炉ではヘリウムガスで熱を取り出す。この高熱を発電以外の水素製造などにも使えるのが特徴だ。水素は新たなエネルギーとして注目されており、高温ガス炉は時代の要請にかなった次世代炉なのだ。

◆時代の風が吹いてきた

これほど優れた高温ガス炉の卵がどうして脚光を浴びることなく15年以上の間、無聊(ぶりょう)をかこっていたのだろうか。

最大の理由は、原発の潮流が大型化に向かっていたためだ。高温ガス炉の発電能力は、大型原発の4分の1に当たる約30万キロワットが上限となっている。

大型化すると大事故時でも炉心溶融に至らないという利点が消えるので、小型炉にとどまらざるを得ないのだ。

電力会社などの食指は動かないまま歳月が過ぎた。十分な国の研究予算もつかなくなり、影が薄くなりつつあった。

それが、福島事故で原発を取り巻く環境は一変した。

何よりも原発の安全性が求められるようになっている。従来の原発は安全設備に多大なコストがかかるが、高温ガス炉は簡素な対策で対応可能。原理上、大量の放射能放出事故は起き得ないので大規模な住民避難も必要ない。

安全かつ安定的な電源が待望されている今こそ、高温ガス炉の出番なのだが、政策決定者の感度は鈍い。あるいは脱原発ムードの中では、積極開発を言いだす勇気がないだけか。

◆砂漠の国でも発電可能

エネルギーなしに、国の発展はあり得ない。

この歴史的な法則を、日本と原子力協定を結んでいる中央アジアのカザフスタンの方がより深く理解していたようだ。

昨年8月、カザフの核物理研究所と原子力機構、日本の黒鉛メーカーは、共同で高温ガス炉の炉心用高機能黒鉛の性能試験を行うことを決めた。間もなくカザフの施設でその試験が始まる見通しだ。

砂漠が多い同国に高温ガス炉は適しているし、送電網が未整備でも消費地の近くに建設できるので都合がよい。

カザフは、高温ガス炉の生産国となる将来ビジョンを描いているようだ。中東諸国も高温による海水淡水化に強い関心を寄せている。カザフは、世界の最先端にあるHTTRの技術の基礎を、原子力機構から学びたい考えだ。

日本の高温ガス炉・HTTRのウラン燃料は球形で、堅牢(けんろう)な複数の被膜に包まれている。直径は1ミリ未満。この多数の燃料粒子が黒鉛素材の中に封入、焼結されている。燃料は小球なので外力に強く、高熱に耐える黒鉛に守られている。

高温ガス炉は、配管破断による冷却材喪失事故にも強い。冷却材のヘリウムガスを失っても自然に核分裂反応が止まってしまう。制御棒を挿入しなくても止まるのだ。

福島事故では原子炉を「止める」ことには成功したが、「冷やす」ことに失敗した。

その結果、炉内の水が蒸発して燃料自身が溶け崩れたが、高温ガス炉では何もしなくても輻射(ふくしゃ)や対流で炉心が自然に冷える設計になっている。全電源喪失が起きても平気だし、水を循環させたり、注入したりする必要もない。

まさしく安全希求社会に最適の次世代炉だ。国が早期実用化に向けた開発体制を立ち上げれば、原子力の若手研究者が意欲的に取り組むことのできる分野が開ける。高温ガス炉の用途は広く経済性も高い。放射性廃棄物の管理に悩まなくて済む燃料で稼働させるアイデアも生まれている。

韓国も高温ガス炉に力を入れているし、中国が日本を急追している。HTTRを宝の持ち腐れにする愚は避けたい。
(ながつじ しょうへい  論説委員) 
      産経ニュース【日曜に書く】2014.2.23

◆日韓合邦の申し子

伊勢 雅臣


韓国資本による最初の株式会社は、朝鮮総督府の保護と日本企業の協力の下で急速に育っていった。


・日本統治下の朝鮮で人口980万人→2400万人の高度成長。・北朝鮮に世界最大級のダムを造り、一大化学工業地帯を出現させた日本人・朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母となった日本皇族女性

■1.カサブランカでの韓国企業の存在感

モロッコのカサブランカと言えば、日本人にはハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの名画『カサブランカ』からの連想でエキゾチックなイメージを抱くが、実際に行ってみると、まさに高度成長中の新興国そのものである。ハイアット・リージェンシーやらノボテルといった高層ホテルが林立し、道路はプジョーやフォルクスワーゲンなど欧州車で大渋滞だ。

そんな中でことさらに目立つのが韓国メーカーの宣伝パネルである。飛行機を降りたとたんに、空港ビルの通路でサムスンのスマートフォンの巨大広告が出迎える。

街中で見上げれば、ビルの屋上にはヒョンダイの車の広告塔。よくもまあ、北アフリカの西の端の国まで、こんなに広告を出すなあ、とそのバイタリティには感心してしまう。

まさにグローバル資本主義の申し子のような韓国企業の活躍ぶりだが、その韓国の資本主義の発達に関して「萌芽説」がある。もともと李朝朝鮮の頃に、朝鮮半島には資本主義の「萌芽」が芽生えていたが、日本統治時代にそれが弾圧され、戦後、独立してから、ようやくその萌芽が開花したという説である。

その萌芽説を実証研究で打ち砕いたのが、ハーバード大学のカーター・J・エッカート教授の『日本帝国の申し子』である。米国のアジア学会、歴史学会から権威ある賞を受賞し、高い評価を確立した研究書だ。

そこでは、朝鮮資本による最初の近代的企業が、日本帝国の中で育っていく様子が生き生きと描かれている。韓国の資本主義は「日本帝国の申し子」だった、というのが、タイトルの意味である。

■2.金性洙、京城紡織株式会社を設立

朝鮮資本による最初の株式会社・京城紡績株式会社の創業者・金性洙(キムソンス、1891〜1955)は、裕福な地主の家に生まれ、当時の有産階級の例に従って、明治41(1908)年、17歳にして東京に留学し、23歳まで過ごす。

金性洙が目の当たりにしたのは、工業のめざましい発展を原動力に近代化を遂げていく日本の姿だった。留学中の明治43(1910)年に日韓合邦が実現した。金性洙は合邦を推進していた「親日派」とは一線を画していたが、自分が日本で学んだ知識を母国の近代化に役立たせたい、という志を持っていた。

当時の近代的工業といえば、まずは紡績業であった。大正8(1919)年10月、金性洙は弟の金季洙(キムヨンス)とともに、朝鮮総督府の許可を得て、京城紡織株式会社(京紡)を設立した。130人の株主の大半は朝鮮人だったが、設立当初から日本人株主もおり、総督府の協調的発展政策に沿ったものだった。

その前年に終わった第一次大戦で欧州諸国が壊滅的な打撃を受け、日本の市場がスエズ運河以東にまで広がった。日本の製造業は増産に取り組んだが、膨大な需要には応えられなかった。そこで朝鮮総督府も朝鮮の製造業を発展させる方針をとった。

この方針に則って、日本資本による朝鮮紡織株式会社(朝紡)が1917年に設立されていたが、それを追って朝鮮資本で設立されたのが京紡であった。

■3.初期の京紡を支えた総督府の補助金

京紡設立の翌年、大正10(1921)年、総督府は朝鮮における産業発展を図るための「産業調査会」を設け、総督府首脳陣、日本の高級官僚、朝鮮に関心を持つ日本人実業家による5日間の自由討議を行った。

その頃、日本と朝鮮との間で関税廃止の動きが本格化しており、そうなれば、朝鮮製品が日本製品に圧倒されて、巣立ちしたばかりの朝鮮産業が成長できない、と危惧されていた。

この会議には、朝鮮人実業家も参加した。彼らは、朝鮮の産業開発において、対等のパートナーとして扱われることを要求し、日本人実業家と同じ権利や特権を与えられることを求めた。

たとえば、日本資本の朝紡には7%の配当金に相当する補助金が与えられていたが、朝鮮資本の京紡にも、その後、同様に補助金を支給されることが決まった。

補助金は大正13(1924)年から10年ほど支給され、総額では昭和10(1935)年の京紡の払い込み資本の4分の1を上回った。京紡は設立以来、大正14(1925)年まで赤字が続き、昭和2(1927)年にようやく配当を出せたが、それも総督府の補助金のお陰だった。

「初期の京紡にこのような政府の定期的な援助がなければ、京紡は存続できなかったといっても過言ではない」とエッカート教授は断言している。[1,p117]

■4.成長を支えた朝鮮殖産銀行の融資

経営が安定するにつれ、京紡は朝鮮だけでなく、満洲にも新たな市場を開拓し、売上を伸ばしていった。しかし、売上を伸ばすためには、設備と人員を増やし、工場を広げなければならない。

大正12(1923)年には100台だった織機を、昭和10(1935)年には900台近くにまで増やし、昭和6(1931)年には工場を拡張している。大正8(1919)年には約40人に過ぎなかった従業員が、昭和7(1932)年には500人まで増えていた。

難題だったのは、こうした急成長のための資金繰りだった。株式会社といっても、株式市場で充分に資本を調達することは難しかった。政府の補助金では会社を維持する事はできても、成長のための投資までには回らなかった。

そこで京紡が頼ったのは、朝鮮殖産銀行からの借り入れだった。朝鮮殖産銀行は、日本政府が朝鮮半島の農業や産業の開発を促進するための金融機関として大正7(1918)年に設立したものだった。

殖産銀行は、内地の金融市場から債権の形で資金を集め、朝鮮半島での農地開拓や産業開発への融資を行った。同行では日本人行員と朝鮮人行員が同一の待遇で業務に励んでいた。[a]

朝鮮の産業開発のフロントランナーとして走る京紡は、まさに殖産銀行の設立方針に沿った融資対象であった。昭和6(1931)年の工場拡張に際しては、殖産銀行から25万円の長期(10年)融資を受けた。その後、運転資金
を株式市場から資本を調達しようとしたが、まったくの当て外れに終わ
り、翌年の9月に再び、50万円の新たな長期融資を受けた。

この後も、京紡は成長のための資金を殖産銀行に求め、昭和20(1945)年には、資本金1050万円の2倍以上、2200万円の長期融資を受けていた。

■5.朝鮮殖産銀行という官製財閥の一員

朝鮮殖産銀行から見ても、京紡は優良な融資先だった。殖産銀行創立20周年の昭和13(1938)年に出版された社史では、最も成功したプロジェクトの一例として京紡をとりあげ、一頁を割いてその写真を掲載している。

殖産銀行は養蚕から、紡織、重工業まで、朝鮮の商工業のあらゆる分野に関わり、ちょうど日本の財閥企業を三井系とか、三菱系とか言うように、当時の人々は京春鉄道や漢江水力電気といった企業を「殖銀系」と呼んでいた。京紡も「殖銀系」の一員と見なされていたのである。

貸し付けにおいても、殖産銀行はl京紡を優遇しており、当時いちばんの上得意向けの特別低利貸付が適用された。利率は固定で年5.5%、元本は13年以上かけて返済する、というものだった。

また、日本の財閥と同様、内部での人のつながりもあった。その典型例が京紡の初代社長・朴泳孝だった。大正8(1919)年に金性洙が京紡を設立した時、まだ28歳であったため、初代社長として担ぎ出した人物である。

朴泳孝は、日本をモデルとして朝鮮国家を改造しようとした指導者の一人であり、李完用内閣の宮内府大臣も務めた政治家であった。明治43(1910)年の合邦後、婚姻を通じて朝鮮王族の一員となっていた朴は公爵の爵位を授けられ、日本の貴族議員となっていた。この朴が朝鮮殖産銀行の設立当時からの取締役を務めていたのである。

また殖産銀行第3代頭取の林繁蔵は、個人として京紡の日本人株主の中ではトップクラスの株数を所有していた。金性洙も殖産銀行の主要子会社のうち少なくとも3社の株を数千株、取得している。

ちょうど日本の財閥が銀行と企業の間で株式の持ち合いや人のつながりを持つように、京紡は殖産銀行という官製財閥の一員として、育てられていったのである。

■6.「取引先を大事にしてくれました」

綿布の生産を行っていた京紡は、設立後17年間は原料である綿糸の生産ができなかった。それだけの資本と技術を持っていなかったからである。

綿糸は日本から輸入するしかなかったが、その市場価格は、原料である原綿の影響を受けてきわめて不安定で、一年の間に30%もの価格変動も珍しくなかった。それに対処するために繊維業界では資金と知識を持つ大手商社が中心となって先物取引を行っていた。

京紡は設立1年目に、先物取引に手を出して、大きな失敗をし、倒産の危機に瀕したこともあった。素人が手を出して、やっていけるような業界ではなかった。この面で手を差し伸べてくれたのが、日本の八木商店であった。繊維商社・八木商店であった。京紡の会長を務めた金容完は、エッカート教授のインタビューにこう答えている。[1,p177]


「八木商店の経営者たちは京紡の経営者にとてもよく似ていました。どちらも名門の出であり、誠実で意欲的な人たちでした。利益を追求するだけでなく、取引先を大事にしてくれました。

なにより助かったのは快く信用貸しをしてくれたことです。資金繰りが苦しければ掛け売りで品物を回してくれましたし、問題をかかえているときは必ず手を差し伸べてくれました。あの社長には本当に世話になったものです。」

「創業当初の京紡にとってこのような配慮は、この上なくありがたいものだった。商社とのつながりがなければ、日本製品との競争で生き残ることは不可能だった」とエッカート教授は述べている。

■7.設備導入と技術者教育

技術の面でも、京紡は日本帝国の力をフル活用した。

日本の綿工業はイギリスをお手本とし、英国から設備を購入していたが、昭和元(1926)年に発明された「豊田式自動織機」で欧米を追い抜き、一人の労働者が操作できる織機の数が従来の6台から60台へと格段に伸びた。
イギリスのプラット兄弟会社のその独占製造・販売権を売り、豊田の技術者が指導に出かけるまでになった。

京紡は豊田はじめ、日本の設備メーカーから最新鋭の設備を買い入れた。昭和8(1933)年には、224台もの野上(のがみ)式自動織機を輸入しているが、これは当時の最新・最上の装置であった。また設備本体だけでなく、付属品やスペアパーツもほとんどすべて取り寄せていた。ねじ釘一本にいたるまで日本製であった。

設備だけでなく、技術者の育成においても、京紡は日本に依存していた。京紡は京城高等工業学校から若い朝鮮人技術者を多数、採用していた。彼らは繊維学科で3年間、紡績、機織、染色などの専門教科を学んでいたが、京紡は彼らを採用後に日本に送り、呉羽紡績株式会社の工場で実地訓練を受けさせていた。

■8.同じ国の同胞として

戦後の韓国で工業化を推進した朴正煕政権時代の20年間には、「まるでデジャブュ(既視感)のような不思議な感覚に襲われる」[1,p334]とエッカート教授は述べている。

朝鮮総督府に替わって朴正煕政権が経済発展を主導し、そのもとで日本政府の経済援助、日本企業の技術援助により、経済を発展させる、という、戦前と同じパターンだったからである。金性洙の弟で、ともに京紡の発展を担った金季洙は朴政権下で韓国財界のトップを務め、日本企業との橋渡しもしていた。

現代の韓国経済も、サムソンやヒョンダイなど、ごく少数の財閥系企業が中心となっており、日本経済のように優れた中小企業が多くの分野で幅広い裾野をなしているのとは対照的だ[b]。これも朝鮮総督府による戦略的な産業育成と同一パターンだと考えれば、合点がいく。

そして、これらの韓国企業が、日本の設備や電子部品、あるいは定年退職した日本人技術者に頼ってきた所も同様である。

こうして育ったサムスンやヒョンダイのような韓国の大企業がカサブランカにまで存在感を発揮しているというのも、戦前の京紡が満洲で活躍していたという点と似通っている。

京紡が日本帝国の申し子として育てられていった過程を見ると、日本の朝鮮統治は、イギリスのインド支配やオランダのインドネシア支配とは根本的に違っていた事が分かる。大英帝国の中でインド人企業が政策的に育てられたなどとは聞いたことがない。インドネシアの民衆に至っては、350年間、オランダによりほとんど文盲状態に留め置かれた。

日本の朝鮮統治に近いのは、英国が1801年に北アイルランドを併合した事だろう。現在のイギリスの正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。北アイルランドは大英帝国の経済圏の中で、造船業を発達させ、あのタイタニック号もそこで作られた。

イギリスが「連合王国」となったのと同様の意味で、日韓は「合邦」をしたのであり、朝鮮総督府、朝鮮殖産銀行、そして京紡を助け育てた日本企業の人々は、同じ国の同胞として、朝鮮半島の経済発展に力を尽くしたのである。

■リンク■

a. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
 朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://blog.jog-net.jp/200108/article_1.html

b. JOG(797) 夢も希望もない韓国経済 〜 外国資本に貢ぐ輸出企業、窮乏化する国民
http://blog.jog-net.jp/201305/article_1.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-194』★★、草思社、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4794212755/japanontheg01-22/


◆木津川だより 浄瑠璃寺(2)

白井 繁夫


奈良山丘陵の京都側当尾の里には、前回述べた「浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)の門前に、南北朝時代造立(文和4年:1355年)銘の石塔婆(せきとうば)が、のどかな風情に溶け込むように立っています。

そこから寺の門へ向って馬酔木(あしび)が、素晴らしい生垣となった通路があります。
入口の門は生垣より小さすぎて、何か遠慮しているようにも見えますが、訪れる有縁の人々を格式ばらずに普段着の姿で迎え入れようとする気持ちが感じ取れるのです。

北の正門をくぐると、左側に鐘楼があり、更に少し進むと静寂な池が広がっています。この池の東側の奥には、檜皮葺の朱塗りの三重塔(国宝)が、木立の間から美しい姿を覗かせています。

池の右側(西側)には、九体の金色阿弥陀仏を安置する本堂が建ち、この本尊仏がこの寺の通称名「九体寺」となったのです。

池の中の島には弁天祠があり、三方は丘陵に囲まれて、晩秋の紅葉につつまれた境内は、まさに藤原時代の浄土庭園そのものが、いまも眼前に広がり再現されているようでした。

永承2年に義明が浄瑠璃寺を創建した時の本仏(重文の秘仏薬師如来)を安置する三重塔は、京都より治承2年(1178)に移築された塔ですが、平安時代後期の京では多数の塔が建立されていました。しかし、現在はこの塔が唯一の遺構となっています。

◎ 下の写真:浄瑠璃寺三重塔(国宝)
浄瑠璃寺三重塔.jpg

浄瑠璃寺の塔は、檜皮葺の三間三重塔婆で総高16mと小規模です。しかし、一乗院三重塔(兵庫県)とともに、初重に縁がある最初の例です。いかにも平安貴族が好んだであろう姿、軒が深くて勾配が緩やかな檜皮葺の屋根の下に、東方浄瑠璃世界の教主(薬師如来)を安置しています。

この塔の池越しの対岸には、西方浄土の来迎仏(金色の阿弥陀如来)が祀られており、春秋の「彼岸の中日」には、まさに金色の仏の真後ろへ太陽が沈んで行くと云われています。

◎ 下の写真:浄瑠璃寺の国宝の本堂(九体阿弥陀堂)
本堂(九体阿弥陀堂).jpg

本堂は嘉承2年(1107)に建立されて、その50年後に現在の処に移動しました。建物の桁行11間、梁行4間の寄棟造りの一重の御堂(国宝)です。但し、最初の屋根は檜皮葺でしたが、江戸時代に本瓦葺に葺き変えられて、現在の姿になったのです。

本堂には九体の阿弥陀如来坐像(国宝)が祀られており、来迎印の周丈六像(約2.2m高)の中尊を中心に、左右両脇に半丈六(約1.4m高)の定印阿弥陀如来各4体が、横一列に並んでいる姿を拝しました。

その時、もの言わぬ仏に真に圧倒され、思わず跪き、合掌して仕舞いました。

平安時代後期に隆盛だった定朝様の特色を持った中尊を始めとする各仏像は、御堂関白の宇治の別業(子の頼道が寺にした)に安置されている、いわゆる定朝の代表作「平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像」に勝るとも劣らないように感じました。

その時、思わず藤原道長のエピソードが脳裏をはしりました。

平安時代中期の「末法思想」の恐怖からか、極楽浄土への阿弥陀仏信仰が社会の上下を問わず盛んになりました。特に権勢や財力を持った皇族や貴族の間では「九体阿弥陀堂」の建立に力を注ぐようになりました。

贅を尽くした最初の堂宇を寛仁4年(1020)に道長が自邸の東隣に建立したのが、「法成寺(ほうじょうじ)無量寿院」です。(中央に池を配し東西に薬師堂と阿弥陀堂、北の金堂には大日如来など、それぞれの堂を繋ぐ回廊等々、今は現存していませんが、浄瑠璃寺等も含めその後のモデル寺院でした。)

藤原道長と云えば「一家立三后」とか、即興の歌 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ主です。しかし権勢の頂上にいた者でも、臨終近くになると、「九品(くぼん):上品上生から下品下生まで9階級:9体の阿弥陀如来」の仏の手に蓮の糸の組紐をかけて、その紐を自分の手に繋いで没したと云われています。

浄瑠璃寺の中尊は、この世のあらゆる階層の人々、即ち、全ての人々を救いたいと、印相も来迎印(右手を胸の高さに挙げ、左手は膝に置き、両手ともに親指と人差し指で丸を作る)で極楽浄土へ迎えようとしており、両脇の各阿弥陀如来はこの世で善根を積んだ人、徳のある人々はそれなりに極楽へ導こうと、定印を結んでいます。

浄土信仰の「九体阿弥陀堂」は上流貴族や権勢の人々の浄土欣求(ごんぐ)が主となって、修行などの思想が薄れ、京を中心に30余の寺院が建立されました。(地方では、数ヶ所のみ:奥州平泉の大長寿院、源頼朝の鎌倉永福寺と東大寺の重源が阿波より移建した浄土堂)

しかし、どうしたことか街道から離れた山間のその当時は、無名に近い寺院「浄瑠璃寺」だけが、現在往時の姿を留めて残っています。

何が幸いしたのか、勝手に推測してみました。

★浄瑠璃寺は京都と大和を結ぶ主要街道から少し離れた山間の修行僧の修行や教学の道場として創建され、その後は興福寺の末寺となって、政に関らず来た。
★中興の祖「恵信」は摂政藤原忠道の子息であり、後に興福寺の別当となり、摂関家と興福寺のバックアップを得て、浄瑠璃寺の発展に努めるが中央権勢に交わらなかった。
★浄瑠璃寺以外の九体阿弥陀堂寺院は皇族や権力者が建立の堂宇で、平安時代以降の鎌倉から江戸時代までの戦乱や政変の炎につつまれたり、破壊されたりして滅してしまった。

浄瑠璃寺は、明治初期の廃仏毀釈の時、真言律宗大和西大寺の支援と地元の人々の厚い信仰に守られて被害をあまり受けなかったため、古代から近世までの国宝や重文の堂宇を始め、貴重な仏像や文物などが多数今日まで保存されています。

浄瑠璃寺が所蔵している国宝や重文などの主要文物説明を省略して列挙します。

★本堂内の九体阿弥陀仏以外の国宝や重文など四天王像(国宝)4体のうち2体(持国天と増長天)他2体は国立博物館、重文の子安地蔵と不動明王(三尊像)、(秘仏)吉祥天女像(重文)
★本堂以外の堂宇に安置
  三重塔:(秘仏)薬師如来(重文)、潅頂堂(かんじょうどう):(秘仏)大日如来、 (秘仏)弁財天
★国立博物館へ出展
  東京国立:延命地蔵(重文)、四天王の多聞天(国宝)、奈良国立:馬頭観音(重文)、京都国立:四天王の広目天(国宝)
★浄瑠璃寺の浄土庭園(特別名勝及史跡)石燈籠二基(重文)、(本堂と三重塔の前:池の両岸に立つ)

「浄瑠璃寺の寺宝」を上記に列挙しましたが、同寺院の寺僧長算が転写した「浄瑠璃寺流記事」(重文)は良くぞ保存されていたものだと思って感動しています。

次回も当尾の里にある「岩船寺」へと足を伸ばしてみようと思っています。

<参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺 日本の古寺美術 18 保育社
      大和の古寺  7  浄瑠璃寺  岩波書店
      加茂町史 古代.中世編  加茂町>

                       (郷土愛好家)

2014年02月23日

◆河野談話の検証期待

中村 将


慰安婦問題のあいまいさ あぶりだす狙い

【ロサンゼルス=中村将】米カリフォルニア州グレンデール市に設置された「慰安婦」像をめぐり、地元の日系住民らで作るNPO法人「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」は20日(日本時間21日)、市に対し、像の撤去を求める訴訟を同州の連邦地裁に起こした。

韓国側が米国で展開している日本に対する慰安婦問題追及の根拠が、米国の司法によって検証される局面もあるとみられ、そのあいまいさをあぶり出すことが訴訟の狙いの一つといえそうだ。

GAHT側は「最も重要なことは、グレンデール市の慰安婦に対する対処が米政府の方針と相いれないことだ」と指摘する。米政府は日韓の対話を推奨し、2つの同盟国の政治的に微妙な問題に巻き込まれることを避けている。

だが、訴状によると、外交政策の形成に関与する権限がないにもかかわらず、市は慰安婦像を建てることで、議論の多い、政治的に微妙な元慰安婦の歴史において、韓国側の立場のみを取った。

「旧日本軍に強制的に連れて行かれた慰安婦の歴史をもっと学ぶべきだ」。これまでのグレンデール市議らの言葉からは、韓国側の主張する歴史が“事実”であるかのように独り歩きしている様子が浮かぶ。

像のそばに設置された「日本軍が強制連行して性奴隷にした20万人の婦女子が慰安婦に…」と書かれたプレートからも分かるように、証拠を検証した結果ではなく、韓国の主張のままなのだ。

「日本政府も強制性を認めた」と話す市議もいる。平成5年の「河野洋平官房長官談話」を指すが、原告側には、こうした根拠の信頼性の検証を裁判所に委ねることも手段としてはある。「河野談話」は元慰安婦からの聞き取り調査に基づき作成されたが、裏付けは取っていないことなどの背景を含めて、米国で説明する機会にもなり得る。

審理が始まる前に原告側、被告側の主張を裁判所が把握するのに数カ月かかることもあり、裁判は長期化も予想されるが、原告側関係者は「われわれの主張や説明もそれだけじっくりできる」と話している。
産経ニュース 2014.2.22
 

◆「安倍たたき」日米連携の構図

古森 義久


日本の作家や学者の個人としての発言が中国軍の尖閣諸島(沖縄県石垣市)への攻撃を招き、オバマ政権は日米安保条約による日本防衛には応じないかもしれない−。

こんな乱暴な論旨のコラム記事が、2月17日の米紙ワシントン・ポストに出た。筆者は同紙コラムニストのジャクソン・ディール氏。中南米や東欧が専門の記者で、日本についての論評はこれまで皆無に近い。

そのディール氏が「日本の挑発的な動き」と題する一文で安倍晋三首相の靖国参拝からNHKの籾井勝人会長や百田尚樹、長谷川三千子両経営委員の発言を「日本の強硬なナショナリズムへの旋回」と断じたのだ。

安倍首相の靖国参拝での平和や不戦の誓いはもちろん完全無視し、作家や学者が個人としての意見を述べることは国や政府の政策と無関係だという事実も無視して、日本全体が新たな軍事政策でも打ち出したかのように、「日本によるアジアの危機」を喧伝(けんでん)する。

コラム記事はそのうえで、そんな強硬で挑発的な日本には中国が軍事攻撃を仕掛けかねず、その場合、オバマ政権も日本を守ろうとしない可能性がある、と日米同盟崩壊の危機をも示唆するのだった。

いまの日本が対外的に強硬になり、挑発的で軍事志向になったという主張には根拠がない。日本の、国としての実際の政策や行動のどこにそんな具体例があるのか。中国政府の年来の主張と同じ虚像の押しつけである。相互に無関係の点と点を結び、勝手な線を描く手法でもある。

と、ここまでディール氏のコラムを検証してきて、そのすべてが朝日新聞の最近の論調と酷似していることに気づいた。結局は「安倍たたき」であるという基調が、まず共通しているのだ。ディール氏のコラムが使う細かな「論拠」はみな朝日新聞だけがとくに大きく報じてきた偏向気味の素材である。

最近の朝日新聞は、安倍首相への攻撃材料に「米国が反対している」とか「日米同盟に悪影響を生む」という米国カードをもっぱら使い出した。だから朝日はディール氏のコラムもすぐに、米国やオバマ政権の安倍首相への反発として転電した。ただし、この個人の筆者による署名入りコラム記事をワシントン・ポストの「論説」とした。安倍たたきの効果を増すための権威づけ詐術だろう。

ここで浮かんでくるのは、日米の反安倍勢力がキャッチボールのように連携の球を投げあい、攻撃をエスカレートさせようとする構図である。日本側のこの種の勢力は従来、「中国や韓国の反発」というカードを使ってきた。だが日本の世論がその効用を認めなくなり、米国利用へと転じたのだろう。

朝日新聞は「安倍政権そのものが日米関係のリスクとなりつつある」(20日付国際版)とまで書いた。日本の政権のあり方よりもまず米国追従の日米関係あるべし、としか読めない倒錯した記述だ。

日本の安全保障や日米同盟に関して米国の要望には反対し、中国と歩調を合わせる主張を長年続けてきたメディアが、一変して日米関係至上のスタンスをとるのはやはり安倍たたきの社是からなのか。

青くさい言葉ではあるが、公器としてのニュース・メディアの責任が改めて問われる時期である。読者の側も、流される情報に対する一段と冷徹な懐疑や批判が求められるだろう。(ワシントン駐在客員特派員)
産経ニュース【緯度経度】  2014.2.22