2014年01月14日

◆東條英機の銅像や記念碑なんてない!

羽成 哲郎


千葉県護国神社(千葉市中央区)の竹中啓悟宮司(55)は平成8年に同 神社の宮司となるまで、東京・九段北の靖国神社で祭儀課長を務めていた。

7日に遅まきながら護国神社で新年のおはらいをしてもらった。その後、 話し込むと、安倍晋三首相が25年12月26日に靖国神社に参拝したことに自 然と話題が向かった。

昭和16年の開戦時の首相である東條英機をはじめ、いわゆる「A級戦犯」 の靖国神社への合祀(ごうし)は昭和53年だった。その2年後には竹中宮 司は靖国神社に勤めていた。大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の各首相が 合祀後も何回も参拝しているが、中国、韓国はまったく問題にしていな かったと言う。

首相の靖国参拝が問題になったのは60年に中曽根首相が「公式参拝」して 以降のことだ。その経緯をみれば中国が自国の都合で「外交カード」とし て利用したことは明らかだ。竹中宮司は苦笑しながら靖国神社にいたころ の経験を明かしてくれた。

「参拝したあとに『東條英機の銅像や記念碑なんてないじゃないか』とい う人がいました」

戦争を推し進めた人を崇拝している−。そう思って見にきた人は全然違う ことに驚くのだという。これはメディアの伝え方にも問題があると思っ た。靖国神社と参拝に誤ったイメージが増幅してしまっている。

事実はどうか。靖国神社には幕末から先の大戦までの間、国のために犠牲 になった軍人ら約246万余柱が祭られている。

「遺骨や位牌(いはい)もないじゃないかとも言われますが、霊璽(れい じ)簿が納められているだけですから」

霊璽簿は神事を経た名簿といえるもので、そこではA級戦犯かどうかは言 うに及ばず階級などで特別扱いされているわけではない。

ちなみに近くの千鳥ケ淵戦没者墓苑は、身元が分からずに引き受け手がい ない遺骨が納められている施設である。

安倍首相の参拝から4日後の12月30日、靖国神社に赴いた。どんな空気か 見ておきたかったからだ。子供を連れた家族や中年も若者もいて、あまり 偏りはみられなかった。

穏やかな西日に向かうように、拝殿の前には少し列ができていた。初めて 参拝したと見受けられる人もそうでない人も祈りをささげていた。

第1鳥居と第2鳥居の間にある銅像は大村益次郎のものだ。日本陸軍の創 設者で靖国神社の創建にも功績があった。人だかりができていたが、由来 を見て「そうなんだ」というささやきが漏れている。

竹中宮司はこんなことも言った。

「こちら(護国神社)にきてからですが、英霊という言葉を見て若い人が 分からなそうにしているので意味を説明しました」

毎年、なにかの節目に戦没者の冥福を祈る。本来、家庭や学校でその意味 を伝え続けていくはずだが、それが断絶しかけている。戦没者の子供が亡 くなると、孫が「参拝にもう行かない」と止めてしまう例もあるのだという。

その積み重ねが慰霊の意義が正確に理解されていない現状につながってい るのではないか。それでも靖国神社や護国神社にお参りする人も決して少 なくないことに勇気づけられた。

日本人だけで300万人以上が亡くなった先の戦争は今の社会になおさまざ まな問題をもたらしている。お参りすれば心はおのずと静まる。新しい年 の始まりは心ならずも異郷に倒れた一人一人に思いを致すことだった。
産経ニュース【羽成哲郎のぴーなっつ通信】 2014.1.13

◆靖国神社 遺族の心情/参拝者の真情

伊勢 雅臣


■1.遺族の心情

安倍首相靖国参拝 「日本の誇り取り戻す第一歩」 -「戦死した兄のた め、私に代わり参拝してくれたように思え、感激で涙が止まらなかった。 感謝したい」(大阪市、72歳女性)http://on-msn.com/1lHchEv >これ が慰霊の真の姿。これが早く当たり前になりますように。
2014年01月10日(金) 伊勢雅臣@ise_masaomi

NHKが紅白で歌わせなかった『東京だよおっかさん』の訳 -さくらの花び らの「日本人よ、誇りを持とう-残念ながら国が靖国神社に公式参拝をし ないまま「おっ母さん」たちは、ひとり、またひとり、と散華された息子 の許へと旅立っていかれるのです。http://bit.ly/17hjKkb
2013年11月11日(月) 伊勢雅臣@ise_masaomi

島倉千代子『東京だよおっ母さん」の放送されない2番 やさしかった  にいさんが 田舎の話を聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろ おっ 母さん あれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも ねえお兄 ちゃん http://bit.ly/18guSOh>これぞ日本人の靖国参拝
2013年11月10日(日) 伊勢雅臣@ise_masaomi

そもそも私は8月15日に限らず靖国神社に日常的に参拝しています。初詣 や子供の誕生日、七五三など、節目の日もあれば、そうでない日もありま す。靖国神社は英霊が静かに眠る場所であり、そこを騒々しい場にしてほ しくはありません。これは遺族としての率直な思いですVoice13.11新藤義孝
2013年10月29日(火) 伊勢雅臣@ise_masaomi

特攻隊員として戦死した植村真久は最愛の娘に遺書を残した。「お前が大 きくなって、父に会いたい時は九段(靖国神社)にいらっしゃい。」成長 した素子は昭和42年、靖国神社にて日本舞踊『桜変奏曲』を奉納した。振 り袖姿で舞う素子の姿を、父も必ずや見ていたに違いない。Voice13.9早坂隆
2013年08月30日(金) 伊勢雅臣@ise_masaomi

日本に神社は数あれど、伊勢神宮など皇室の先祖神を祀った神宮は別とし て、天皇陛下が深々と頭を垂れられるのは唯一、靖国神社だけ。天皇陛下 がご親拝されるがゆえに、兵は死して名と名誉を留める。これは戦うもの にとって最後の心の拠り所です。Voice13.9渡部昇一
2013年08月30日(金) 伊勢雅臣@ise_masaomi


■2.参拝者の真情

今回(の伊勢の神宮の遷御の儀に)、安倍総理と8人の閣僚が参列しまし た。総理としては戦後初の参列だそうです。伊勢神宮で、日本と国民をお 守り下さる神々に感謝する心はまた、靖国神社で日本に殉じた人々に感謝 する心と相通ずるものがあるのではないでしょうか。正論2512櫻井よしこ
2013年11月30日(土) 伊勢雅臣@ise_masaomi

靖国神社に行って来ました。平日の夕刻ににもかかわらず、参拝する方々 が途切れません。いつも思うことなのですが、ここに来れば、日本のため に命を捧げた英霊の魂に触れることができ、よし、頑張ろうという気持に なります。 https://pic.twitter.com/20DD4cWLLN
2013年08月10日(土) 國尾 衛@mamorukunio

靖国へ既に参拝した政治家も、8月15日参拝予定の政治家も心ある日本国 民。やっぱり、一番大事なのって国民一人一人が英霊に祈りを捧げること だと思う。靖国神社が遠かったら、各地元の護国神社もあるし。国民一人 一人が英霊への感謝を忘れなければ、アホの歴史捏造国家へ土下座する人 も減ると思う。
2013年08月10日(土) KOH_ICHI@KOH__ICHI

日本右傾化論への“弁明”法・黒田勝弘 MSN産経 靖国神社:国のために殉 じた人の霊をまつるのは当然ではないか、日本では「死ねばみな仏」とい う、韓国人も日本人の国民感情をもっと理解してはどうか…これでだいた いOKである。http://on-msn.com/YRWoQV
2013年05月19日(日) 伊勢雅臣@ise_masaomi

沖縄戦で戦死した男子学徒約1200名、「ひめゆり学徒隊」など将兵の看護 にあたった女子学生約400名、身を呈して国土を守ろうとしたこれらの学 徒も、いま靖国の御社に鎮まっておられる。
(祖国と青年,H24.07,p70)
2012年11月03日(土) 伊勢雅臣@ise_masaomi


◆安倍晴明の実母?

河崎 勝二


山登りや名所旧跡巡りの仲間のサークル「歩こう会」が、予期もしない驚きと感動を与えて呉れた。

大阪城を散策中に知り合った仲間同士の会「大阪城歩こう会」に参加して、日曜ごとに10数人が連れ立ち近畿の著名な山々に登ったり、歴史に包まれた名所に出掛けるようになって久しい。

季節の移ろい、新鮮な空気と絶景、出会った人達との交流、その土地の産物の味などに接する楽しみは、実際に汗を掻き、五体の筋肉を酷使して歩き回る者だけしか味合えない産物だと信じている。

最年長のリーダー格の80余歳の仲間は、お年を感じさせない軽妙な足取りと訪ねる先への道筋は勿論、そこに纏わる地縁の知識に長けておられるのには、頭が下がる。

さて、今回の驚きの出来事のキッカケは、たまには気楽に行ける平地の名所に行こうとの女性の提案で、大阪和泉市の「信太の森」に出掛けたことだった。

その「信太の森」は平安時代の清少納言の「枕草子」の中で、「もりは信太の森」と称えられていることで知られているということで、麓を熊野古道がはしる古代から参詣の道の側、ということでも広く知られているという。

朝鮮半島から5世紀ごろ伝えられた須恵器釜跡があり、わが国最古の釜跡も見付かっている。なかなか深みのある歴史の里である。

現地に実際足を踏み入れると、流石に周囲は信太山丘陵に囲まれ、裾野まで広がる多種多彩な樹木景観は、素晴らしさの一言だった。

早速、現地博物館「信太の森ふるさと館」を訪ねた。ここの歴史や成り立ちを知る上では、それが最適だからだ。

建物1階の右手にある80坪ほどの「信太の森ふるさと館」に入り、次々と見回っている内、浮世絵風の数枚の異様な「版画絵」が目に入って仰天した。子供を膝の前に座らせた母親らしき女性が、手に持つ筈の筆を口に咥えて、和歌の文字を障子に向かって書いている姿の絵だ。

文字は「恋しくばたずねきて」と書いてある。ところが女性のギョロッとした目線は横向きに何かを見据えている。表情も厳しく尋常ではない。この絵は、一体何を語ろうとしているものなのか。

隣には、大木の下に2匹の白狐が闇の上にある白き物体を見上げている、思わしげな別の「絵」が並べられている。

背中に言い知れぬ寒気を感じたので、館員を呼んで説明を受けることにした。館員は、懇切丁寧にこの「絵」について語ってくれた。この「絵」は、古浄瑠璃などでも伝えられる「葛の葉物語」の一場面だそうだ。

<その昔、大阪の摂津の国に安倍保名(あべのやすな)という若者が、信太大明神を参詣に来た時、狩人に追われた深手の傷を負った白狐を匿い逃がした。これに腹を立てた狩人が保名を責め、大怪我をさせ立ち去った。

すると傷で苦しむ保名の所に「葛の葉」と名乗る女性が現れ介抱した。この女性は助けた白狐の化身だったのだが、保名はそれとは知らず、二人はやがて一緒に暮らす仲となり、男子を儲けた。子の名は「童子丸」。

6年後のある日、葛の葉は庭に咲いた菊の花に見とれてわが身を忘れ、うっかり現わした尻尾を「童子丸」に見付けられてしまった。葛の葉は、もはやこれまでと一首を障子に書き残して森へ消え去った>。(版画絵がこの模様を伝える)。

その一首とは、「恋しくばたずねきてみよ和泉なら 信太の森のうらみ葛の葉」だったのだ。

<保名と童子丸は恋しい母を求めて探し回り、やっと森の奥で涙を流しながら二人を見つめている一匹の白狐と出合う。ハッと気づいた保名が「母の元の姿になっておくれ」と哀願すると、白狐は傍らの池に己の姿を映し出し、たちまち葛の葉の姿となった。

しかし、葛の葉は泣き叫ぶわが子を諭しながら、形見に白い玉を与えて最後の別れを惜しみつつ、再び白狐になって森の奥に消えていった>。

これが「葛の葉物語です。」と職員が説明を締めくくった。悲しい言伝えに心を痛めて聞き入っていた筆者に、この館員は追い討ちを掛けるようなショッキングなことを告げた。

「この童子丸が、実はかの有名な陰陽道の祖の安倍晴明(あべのせいめい)だといわれているのですよ。」

私の出生地は大阪阿倍野区で、安倍晴明を祀る「安倍神社」は目と鼻の先のところにある。子供の頃から親に連れられ足繁くお参りした神社だ。「安倍晴明の出所」などに思いを馳せた事も無かったが、まさかこの「版画絵」に描かれた「葛の葉物語」の童子だったのかと考えると、頭が真っ白になった。

今は、「安倍神社」とは離れたところに住んでいるため縁が薄れたが、この伝説を知った以上、お参りに行ってみたくなった。

それにしても仲間と共に方々を「歩く」ことは、時空を超えた様々な楽しみと感動の舞台に接遇させてくれるものだとつくづく思い知らされ、改めて有り難さを痛感する。(了)(郷土愛好家)

2014年01月13日

◆反日の出口 今度は「用日」論

黒田 勝弘


正月に日本に行ってきたが反韓感情の広がりに驚いた。韓国について「日本のやることなすことすべてに文句をつけ、足を引っ張る国」という印象が広がっているのだ。確かに、ソウルにいても韓国マスコミの報道に接する限り韓国は反日の固まりだ。

日本で以前は「韓国に住んでいる」というと「大変ですねえ」といわれた。それが近年は韓流ブームのせいか「いいですねえ」と劇的に変わっていた。ところが今また「大変ですねえ」に戻ったのだ。

最近の日本社会で驚くことは、韓国での反日嫌がらせ現象が実によく知られていることだ。これは近年、韓国のネットメディアが韓国情報を日本語でせっせと日本に送りこんでいるせいと思われる。その結果、ソウル在住の筆者も知らないささいな反日ネタまで多数、日本で流通している。

韓国メディアの反日情報ビジネスが日本で反韓ブームを招いているのだから自業自得かもしれない。しかし韓国居住者からすると、他の日常情報の中で相変わらずの反日だから新鮮味はないし、実感は弱い。

韓国での実感はメディアが異常に突出しているのだ。したがって「大変ですねえ」には「いや日常的にはそうでもないですよ」というしかない。

ところで日本では、朴槿恵(パク・クネ)大統領や外相らが外に出かけて日本批判をしてまわる“告げ口外交”に、多くの人が一様に不満を語っていた。そして「黒田記者も恋人みたいに持ち上げていた彼女に裏切られたのだから、もう日本に戻ってきてはどうですか」と皮肉られた。

“恋人”は余計だが、確かに大統領候補時代以来、陰に日なたにかなり彼女を“ヨイショ”したことは間違いない。その意味で失望ではある。ただ、今から50年近く前、戒厳令で国内の反対世論を押し切り日本との国交正常化を実現した朴正煕(チョンヒ)大統領の「背中を見て育った娘」のことだから、日本の重要性は分かっているはずだと思いたい。

こんなことを書くとネット世界の反韓派などからは「まだそんな甘いこといっている!」と叱られそうだが、引っ越しできない相手なのだから、嫌いでもやはり付き合い方はそれなりに考えなければならない。

以前このコラムで、1980年代の反日の際、韓国で「克日(日本を克服 する)」なる新語が登場したことを紹介した。メディアと政府が一体となって「反日から克日へ」「克日のためには敵を知るため知日だ」とキャ ンペーンが展開され反日が収まったという話だが、今度は韓国の有力紙に「用日」論が登場した。

9日付「中央日報」の社説「政府は“用日”の世論に耳を傾けるべきだ」がそれだ。さる世論調査で「中国の浮上などを考え日本との安保協力は必要」が64%、「大統領は対日関係改善に積極的に動くべきだ」が58% を占めたことなどを紹介し、国益のためには名分や原則にこだわらず「日本を活用する」という“用日”でいくべきだと主張している。

とすると当然こちらも“用韓”論ということになるだろう。
                  (ソウル駐在客員論説委員)
                  産経ニュース【から(韓)くに便り】 2014.1.12

◆首相は「竹島の日」式典に出席すべき

松本 浩史


島根県が主催する2月22日の「竹島の日」記念式典に、安倍晋三首相は出席なさった方がいい。それにより、韓国がいかに反発しても、かえって事の本質があぶり出されること請け合いである。「安倍外交」の真価が問われている。

島根県の溝口善兵衛知事は8日、昨年に引き続き、平成18年から主催している「竹島の日」に、首相をはじめ、菅義偉官房長官や岸田文雄外相ら関係閣僚を招待する意向を表明した。

昨年も招待しているから、2年越しの要請となる。溝口氏は出席の有無について「(政府が)どう対応されるかは分からない」と控えめな言い回しをしたが、心中察して余りある。

けれども、ある自民党関係者は「悩みどころだ」と表情を曇らせる。言うまでもなく、韓国の反応を気遣っているのである。ましてや、昨年暮れに首相が靖国神社に参拝した際、韓国は国を挙げて猛烈に反発したばかりだ。

「靖国参拝のときを底とすれば、式典への参加は、その底からさらに足をめり込ませるようなものだ。穴から出られなくなる」

こうした愚かしい論がくすぶっているから、いわく言い難いむなしさを覚えてしまう。

こんなざまを見透かしたように、韓国の外務省報道官は9日の記者会見で、溝口氏の言動について「到底理解できない」と批判し、首相の出席を強く牽制した。

けれども、そもそも、島根県の式典は国内行事であって、その出席者にまで他国があれやこれやと口を挟むのはいかがなものか。内政干渉のそしりは免れまい。

政府は昨年の式典で、首相らの出席は見合わせたものの、領土問題を担当する当時の内閣府政務官を派遣した。「軽量級」の感は否めなくても、政務三役の出席は初めてだった。すべき手段は最低限、尽くしたわけだ。

このころはまだ、その半年ほど前に李明博大統領(当時)が竹島に上陸したことで冷え込んだ日韓関係の改善に向け、首相には配慮があった。3日後の25日には、朴槿恵大統領の就任式を控えており、仕切り直しは可能と読んでいたのは明らかだった。

ところが、今年は趣を異にしている。朴大統領は就任以降、対日批判を繰り返しており、首脳会談が開ける予兆もない。6日の新年記者会見でも、旧日本軍の強制性を認めた河野談話に触れ、「否定する言行が出ている」と発言。首相の靖国神社参拝を念頭に置いているのは間違いない。

だいたい、首相は、式典そのものついて、「県主催」ではなく、「政府主催」の持論を持っている。だからこそ、自民党は先の衆院選でこれを公約に掲げた。溝口氏が会見で「県としては政府主催で開催してほしいというのが重点要望だ」と述べたのも、こうした経緯を踏まえている。

もう少し言わせてもらえば、「竹島の日」は、島根県が平成17年1905(明治38)年2月22日に県内の島だと告示したことにちなみ、条例で定めた記念日であり、国が法律で決めたものではない。

首相の領土問題に関する踏み込んだこれまでの発言に思いを致すとき、条例ではなく、法律によって記念日を明示するくらいの取り組みがあってもよい。

出席したことで韓国が反発したら、首相とすれば好都合である。韓国が拒み続けている 国際司法裁判所(ICJ)への付託に関し、堂々と単独提訴に踏み切ればよい。

「李承晩ライン」という軍事境界線を一方的に設定し、この中に竹島を取り込んだ過去の経緯や、沿岸警備隊の駐留部隊を派遣し、現在に至るまで常駐させていること…。こうした不法占拠の実態が明らかになる。

かつて竹島問題で、こんな例えを読んだか、聞いたかしたことがある。土俵も行司もいないで相撲をとっているようなもので、よしんば勝ったとしても相手は絶対に負けを認めない−。首相の出方次第で「土俵」も「行司」もいる舞台に持っていける。

溝口氏の出席要請に応じてこそ、「領土を先頭に立って守り抜く」との考えを示している首相の真骨頂が発揮されるだろう。
産経ニュース[松本浩史の政界走り書き]2014.1.12
 

◆「大東亜戦争肯定論」を読む C

平井 修一


島津斉彬が越前藩主松平慶永に与え、また西郷隆盛に教えたという意見書の写しが残っている。その中の一節は興味深い。斉彬もまた雄大な「大陸出撃策」を胸中に潜めていた。彼の秘策によれば、まず日本の諸侯を三手に分けて、

「近畿と中国の大名は支那本土に向かい、九州の諸侯は安南(ベトナム)、咬留巴(インドネシア)、ジャワ、インドに進出、東北奥羽の諸藩は裏手よりまわって山丹(シベリア)、満洲を攻略する。わが薩摩藩は台湾島とその対岸広東福建を占領し、南シナ海を閉鎖して英仏の東漸をくいとめる」

大陸出撃の目的は清国の内政改革だと斉彬は言っている。

「出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。一日も早く清国の政治を改革し、軍備を教えしめ、日本と連合するときは英仏といえども恐るるに足りない。

しかるに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を見ること属国のごとく、日本より連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。ゆえにわれより出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐをもって上策となす」

もちろん斉彬はこの策を嘉永、安政のころに直ちに実行できると思うほど空想家でも「過激派」でもなかった。

「もしも余が現在公然とかかる説を唱えたら、世人は斉彬が発狂したと思うだろう。まさにそのとおりだ。今、海外出撃の大号令が下ったとしても、命令一下、南シナ海の激浪を乗り切る軍船を結集し得る藩は一つもない。

わが薩摩藩にしてすでに然り、他藩については申すまでもない。ただし、余に十五年の歳月を借せ。薩摩を日本一の富強の国にし、日本統一の基地にしてみせる。日本を西洋諸国並みの富強の国にするためには五十年かかるかもしれぬが、薩摩を日本一の強国にするのには十五年あれば十分だ。まずそこから始める」

と西郷隆盛に教えたと伝えられている。

越前藩主の松平慶永は斉彬の年少の同志であり、その心酔者でもあった。老中堀田正睦宛の次の意見書が斉彬の意見に甚だ似ているのは偶然ではない。

「一、方今の形勢、鎖国いたすべからざる(鎖国してはいけない)義は
具眼の者、瞭然にと存じ奉り候。

一、強兵のもとは富国にあるべきござ候えば、今後、商政をはじめ、貿易の学を開き、有無相通じ、皇国自有の地の利により、宇内(世界)第一の富饒(富国)を致しきことにござ候。

一、居ながら外国の来攻を待ちおり候よりは、我より無数の軍艦を製し、近傍の小邦を兼存(共存)し、互市(貿易)の道繁盛にあいなり候わば、かえって欧州諸国を超越する功業も相立ち、帝国の尊号終に久遠に輝き、虎狼の徒自ら異心消沮いたすべく、これただひたすら請願の次第にござ候」

開国派もまた攘夷派であったのだ。「開国は攘夷のための実力を蓄える手段に他ならなかった」という上山氏の意見に私は同意する。攘夷派の志士たちが後に開国派に簡単に転向したことも理解できるが、攘夷論を捨てたわけではない。

この意見書の中に、維新から大東亜戦争に至る開国日本のコースがほぼ的確に描き出されているという説に異議はないが、私の言う「百年戦争としての東亜戦争」はおそらく弘化年間に始まっていた。

最初は「異船出没」による「斥候戦」であったが、英艦サラマン号の沿海測量、再々度に及ぶ英仏艦隊の琉球入港と上陸、海軍代将ビットルの率いる米艦2隻の浦賀入港は、明らかな「威力偵察」と見なければならぬ。

それより約5年後のアメリカ提督ペルリとロシア提督プチャーチンの「来航」は、ともに完全武装の軍艦4隻(ペルリの最初の予定では12隻)を率い、幕府を強要して和親通商条約を結ばせたのであるから、これを「発砲なき戦争」と解釈することは必ずしもこじつけではなかろう。日本側の出方によっては、いつでも発砲が行われたであろうことは、ペルリ来航に関する諸文献が証明している。

そして薩英戦争、馬関戦争という「局地戦争」で、西洋と日本の砲弾が交わされた。
(つづく)(2014/1/9)

◆「大東亜戦争肯定論」を読む B

平井 修一


吉田松陰と同じ意見を持つ人は実に多い。佐藤信淵(注1)に「宇内混合秘策」があり、橋本佐内(注2)に「日露同盟論」があることは有名すぎる。松陰の師である佐久間象山(注3)が同一系統の思想の持ち主であることは言うまでもない。

藤田東湖、平野國臣、真木和泉守、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本竜馬の遺文の中にもこれと符節を合する「東亜統一論」を発見することができる。「西力東漸」に対する思想的反撃は幕臣たると陪臣たるを問わず、すべての「考える日本人」の胸中に生まれていた。

橋本佐内は「日露同盟論」でこう主張する。

「日本は東海の一小島、現在のままでは四辺に迫る外来の圧力に抗して独立を維持することは難しい。すみやかに海外に押し出し、朝鮮、シベリア、満洲はもちろん、遠く南洋、インド、さらにアメリカ大陸にまで属領を持って、初めて独立国としての実力を備えることができる。そのためにはロシアと同盟を結んで、イギリスを抑えるのが最善の道である。

ロシアは我が隣邦であり、これと同盟してイギリスと戦えば、たとえ破れても滅亡だけは免れる。しかも対英のこの一戦たるや、必ず我が国を覚醒せしめ、我が弱を強に転じ、これより日本も真の強国になるであろう。

正面の敵は英国であるが、今すぐに戦えと言うのではない。日本の現状では、それは不可能だ。一戦を交える前に、国内の大改革を行い、露国と米国から人を雇い、産業を興し、海軍と陸軍の大拡張を行わねばならない」

松陰も佐内も、この時代の苦悩から生まれた若い天才であり革命家であった。どちらも30そこそこで刑死したが、彼らの残したものは多かった。特に松陰門下には松下村塾の俊秀たちがいて、これが長州の藩論を動かし、やがて薩摩と結んで維新革命の主流となったことは人も知る通りである。

さらに言えば、「苦悩」は学者と志士だけのものではなかった。当時「名君賢公」とうたわれた藩主たちもまた、それぞれ共通の根から発した「国内改革案」と「東亜経略論」を持っていた。中でも水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽、薩摩の島津斉彬などの意見が注目に値する。

徳川斉昭には藤田東湖があり、松平春嶽には橋本左内がいた。が、島津斉彬の場合は、藩主自身の思想と実行が、西郷隆盛、大久保利通をはじめとする藩士たちを導き、啓蒙し、訓練した。斉彬は藩主として在位わずか7年、安政5年(1858年)7月に50歳で急逝したが、この間にペルリの来航があり、ハリス(米)、エルジン(英)、プチャーチン(露)が江戸に乗り込んでいる。

琉球が英仏艦隊の再三の訪問を受けて開港を強要された問題もさることながら、斉彬にとって重大な事件は、インドの崩壊と、支那におけるアヘン戦争と長髪賊(太平天国)の乱であった。

この乱は清朝打倒を目的としていたが、その極端な排外主義が支那分割の機会を狙っていた西洋列強に干渉の口実を与え、英仏連合軍の北京侵入となり、皇帝の逃亡となり、内乱の拡大となり、清朝は英人ゴルドン将軍の力を借りてようやく鎮定することができた。

この内乱の中に、斉彬は当時の東亜最大の強国であった清帝国の解体を予感し、やがてそれが日本の運命になりかねないことを憂慮した。(つづく)

             ・・・
注1)佐藤信淵(のぶひろ)は明和6年(1769年) - 嘉永3年(1850年)。江戸時代後期の絶対主義的思想家であり、経済学者、農学者、兵学者、農政家でもある。

「宇内混合秘策」は冒頭に「皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」と書いて、満洲、朝鮮、台湾、フィリピンや南洋諸島の領有等を提唱したため、大東亜共栄圏という思想の「父」であるという見解もある。

注2)橋本左内(さない)は天保5年(1834年) - 安政6年(1859年)。幕末の志士、思想家、越前国福井藩藩士。藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。

また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入や、日本とロシアは提携の必要性があるなどといった開国論を展開した。井伊直弼の安政の大獄により斬首。享年26。

注3)佐久間象山(しょうざん、ぞうざん)は文化8年(1811年)−元治元年(1864年)。幕末の松代藩士、兵学者、朱子学者、思想家。

門弟の吉田松陰が密航を企て失敗すると、象山も事件に連座して伝馬町に入獄、その後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山は河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。

彼の門弟には前述の松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など後の日本を担う人材を多数輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。(2014/1/8)

      

2014年01月12日

◆首相も国会議員も投げ出しの過去

峯 匡孝


細川護煕元首相は過去、旧熊本藩主細川家と五摂家筆頭近衛家の血筋を引く華麗さを背景に「新党ブーム」「政権交代」の火付け役として常に脚光を浴びてきた。その一方で、職を途中で投げ出す癖もあった。

「60歳を区切りにしようと思ってきた。ここが区切りのつけ時と判断し、辞職を決意した」

16年前の平成10年4月、民主党結党を見届けた細川氏は突如、任期途中の衆院議員辞職を表明し、政界から身を引いた。

細川氏の国政入りは、自民党公認で初当選した昭和46年6月の参院選にさかのぼる。当時33歳。だが、自身が政界再編を引き起こす覚悟がすでにあったのか、産経新聞のインタビューにこう答えている。

「自民党自体も破滅すると思いますね。また破滅したっていいと思うんですよ。自民党が分裂するなら分裂したらいいと思う」

細川氏は参院議員を2期務め、大蔵政務次官などを歴任。58年に熊本県知事に転じると、2期8年務め、「日本一づくり運動」など斬新な政策で全国的に“ニューリーダー”としての知名度を高めた。

3選を目指すと思われていたが、「『10年一区切り』を念頭に仕事をやってきた」と不出馬を表明。退任後については「衆院議員とか東京都知事とかの噂があるが、全く白紙の状態」と述べるだけだった。

だが、退任1年余り後の平成4年、新党の結成構想を発表。これが後の新党ブームのさきがけとなる日本新党となる。

「私がソロを弾き始めた。次第にそれが大きなオーケストラになる」

新党結成宣言でこう語った細川氏ら野党は、5年7月の衆院選で自民党を過半数割れに追い込み、8党・会派による非自民連立政権を誕生させた。社会党、新生党、公明党、日本新党などの統一候補として推された細川氏は同年8月、79代首相となった。

政権発足後の産経新聞とフジテレビの共同世論調査で内閣支持率は83・4%に達した。自民党時代から最大の懸案だった政治改革関連法を成立させるなど高い支持を得ていた。

だが、政権は新生党の小沢一郎代表幹事が影響力を握る。細川氏が6年2月に発表した税率7%の「国民福祉税」構想も小沢氏の主導とされ、税率の根拠を「腰だめの数字」としか説明できず、翌日には撤回せざるを得なかった。

細川氏が政権の座を降りざるを得なかったのは、佐川急便から1億円を借入した問題だった。6年の通常国会は、自民党の激しい攻撃に遭い、予算審議に入れない非常事態となった。

「私個人の問題が現実に国会審議の障害になっている。政治の最高責任者の道義的責任は重い」

「政治改革」を標榜していた細川氏だったが、退陣を選んだことで、自身の「政治とカネ」の疑惑を闇に葬り去った。

細川氏はその後、日本新党を解党し、小沢氏らと新進党を結党したが、別の金銭問題が浮上し、突然離党。理由を「今の政治の流れがこれでいいのか一人で考えてみたい」と説明したが、その後もフロムファイブなどを経て民主党の結党を見届け、“定年”を理由に衆院議員を辞した。

細川氏は昭和13年、細川家17代当主、護貞氏の長男として生まれた。母方の祖父は近衛文麿元首相。護貞氏は産経新聞のインタビューを受けた際、当時日本新党代表だった細川氏について問われると、こう笑い飛ばした。

「生臭いことをやっている俗人ですな。『そんな俗っぽいことおやめなさい』と言ったんだが。ハッ、ハッ、ハッ」
産経ニュース 2014.1.10

◆そこまでやるのか中国寄り

黒田 勝弘


韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が6日、テレビの生中継で年頭の記者会見を行った。彼女にとってこれは昨年2月の大統領就任以来、初めての記者会見だ。会見の後、大統領官邸の記者室に顔を出して記者たちとなごやかに握手をしていたが、こんな風景も初めてだという。

彼女は国内ではよく「プルトン(不通)」といわれている。「意思疎通が不十分」、つまり国民との対話が足りないという批判だが、品のあるソフトな笑顔の裏は意外にガンコなようで、記者会見嫌いもその批判の対象になっていた。

ところが、今回の記者会見にはいくつかの異例があって驚かされた。外国人記者も出席したのだが、12人だけに制限された。こんな厳しい制限は歴代大統領では初めてで、女性大統領へのせっかくの「お近づき」を期待していた外国人記者たちをいたく失望させた。

また外国人記者に対しては、事前に大統領官邸当局が一方的に指名した2人にのみ質問の機会が与えられたが、このやり方は過去、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領時代など時にはあったから仕方ない。

その2人を欧米系と非欧米系のメディアに分けたのもよくやるやり方だ。ところが今回、その非欧米系の1人に選ばれたのが何と中国中央テレビ(CCTV)の記者だった(欧米系はロイター通信)。

過去の大統領会見で非欧米系メディアからとなると必ず日本人記者が含まれていた。ソウルの外国人記者団では日本系が最大だからだ。近年、中国の記者も増えているので、非欧米系で複数が指名されるときは中国人記者も入るようになっていたが、今回のように日本人記者を差し置いて中国人記者だけを指名というのは史上初めてである。

CCTVをはじめ中国メディアは共産党独裁下の国営機関だ。そうしたメディアに非欧米系を代表させるとは。朴政権の「中国寄り」と「日本無視」を象徴する風景である。

中国人記者の質問に対する朴大統領の答えも興味深かった。記者は、韓国の大学関係者が新年の四字熟語に選定したという「チョンミケオ(転迷開悟)」を紹介し、解釈をたずねた。

仏教用語で「迷いを脱し悟りを開く」の意味だが、朴大統領はまず「そうした四字熟語で新年を展望するというのは、韓国と中国がいかに人文的に近いかを示すものだ」といい、さらに記者の韓国語をほめた上で「姿も韓国人と似ているので韓国人と思われるだろう。いろんな面で近しい感じを受ける」と語った。

ついでに「“転迷開悟”は、習近平国家主席が進める腐敗反対などの政策にも通じる」と“ヨイショ発言”をするなど中国ベタベタの雰囲気だった。

ただ、韓国では漢字は排斥されているため「チョンミケオ」などといわれても国民の大多数はチンプンカンプンだ。最近の新聞報道によると、子供の名前を漢字で書けない親も多いとか。中国文化の核心である漢字を排斥しながら「人文的に近い」はないと思うのだが。

朴大統領はこれまで自らの国政の基本としてしきりに「非正常の正常化」を強調している。

とすると、その中国寄り政策も、日清戦争で日本が清(中国)に勝つことで韓国がやっと中国の影響(支配)を脱して日本の影響下に入った19世紀末より前の、中国影響下の時代に再び戻るという「正常化」なのかもしれない。日本としてはそれこそ「転迷開悟」を求めたいところだが。産経ニュース【緯度経度】(在ソウル)2014.1.11


◆「大東亜戦争肯定論」を読む A

平井 修一


林房雄の著書「大東亜戦争肯定論」(1964年刊)を読んでいる。この本については西尾幹二先生が当時目を通して、「そういうことだろう、違和感はなかった」と書いていたので、それならと遅ればせながら小生も読み始めたというわけだ。

林は1903年(明治36年)5月〜1975年(昭和50年)10月。小説家、文芸評論家で、三島由紀夫とも親交があった。「大東亜戦争肯定論」は中央公論1963年9月号から65年6月号にかけて連載され、その後、番町書房で正(1964年)・続(65年)2冊で刊行された(のち全1巻)。

さらに2001年、夏目書房で単行本全1巻で再刊、のち普及版が出版されたが、夏目書房の倒産(2007年)により、古書以外での購入はできなくなった。小生が今手にしているのは最初の1冊(正)で、図書館で借りた。

林はあえて、敗戦後GHQにより使用を禁じられ、占領終了後もその用語がタブー視された「大東亜戦争」という名称を用いた。GHQがNHKや新聞を通じて日本人に植え付けた「日本悪者論、自虐史観」が、1964年頃から「それはおかしいのじゃないか」と思う人が少しずつ現れてきたようである。

朝日や岩波などの左翼論壇全盛の中でこの本の刊行は、大東亜戦争を見直すきっかけになったのではないか。その意味で歴史的な本ではなかったか。第1章と後書きのごく一部を要約して紹介する。

             ・・・

「東亜百年戦争」。確かに人騒がせな題名に違いない。聖戦、八紘一宇、大東亜共栄圏などという戦争標語を復活し、再肯定し、もう一度あの「無謀な戦争」をやり直せというのかと、まず疑われる恐れが十分にある。

ありのままを言えば朝日新聞紙上の小論争の中で、

「私の大東亜戦争肯定は、私自身の歴史研究の成果であって、現在でも変わらない。この“無謀な戦争”が世界史の転換に与えた大衝撃は、ウェズ(注)やトインビーの証言を待つまでもなく、戦後の世界史が実証している」
という気負い立った一言を吐いた。それが中央公論編集者の目にとまり、「大東亜戦争のどこを、どんなふうに肯定するのか」と尋ねられ、発言の責任を取らせられた形になった。

私は編集者のその問いに答えることにした。題名は私自身が選んだものだ。決してその場の思い付きではなかった。長い間の持論をそのまま文字に著しただけである。

大東亜戦争の本質に関する議論は、いろいろな場所ですでに始まっているようだ。あの「不可解で不条理な戦争」を自己自身の歴史としてとらえ、自身の目で再照明したいという願いは今日の「考える日本人」に共通する心情ではないか。日本人の一人一人がこれを行わねばならぬ時が来ていると私は考える。

私は日露戦争の直前に生まれた。シベリア出兵、山東出兵、満洲事変、日支事変を経て大東亜戦争。平和は知らない。私たちが知っているのは戦争だけだ。10年続く平和はなかった。

徳川時代の少なくとも200年間は平和であったという。外国との戦争はなかった。2世紀以上も平和に生きた時代があり、1世紀近くを戦争で明け暮れした時代がある。

私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための「小休止」ではなかったか。徳川200年の平和が破られた時に「長いひとつの戦争」が始まり、それは昭和20年8月15日にやっと終止符を打たれた、のではなかったか。

「太平洋戦争を起こしたのは明治以来50年の軍国主義教育のせいだった」という論がある。この感じ方、考え方は現代知識人の心情のひとつの典型であるが、どんなものだろう。戦争教育なしには戦争は行えないが、教育以前に戦争があるのではないか。

少なくとも戦争の予感またはその萌芽がなければ戦争教育は行われない。教育以前に、それを必要とする戦争事実が発生していたのだ。明治維新をはるかに遡るある時期に「東漸する西力」(東洋へ押し寄せる西洋の力)に対する日本の反撃戦争が開始されていた、と私は考える。「再版大東亜戦争史観」だと叱られそうだが、もう少し私の意見を聞いていただきたい。(つづく)
               ・・・

注)ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells, 1866年9月21日 - 1946年8月13日)は、イギリスの社会活動家、歴史家、著作家。小説家としてはジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれる。

ウェルズは日本国憲法の原案作成に大きな影響を与えたとされる。特に9条の「平和主義と戦力の不保持」は、ウェルズの人権思想が色濃く反映されている。ウェルズの原案では「平和主義と戦力の不保持」は「全ての国に適用して初めて戦争放棄ができる」と記されており、結果として日本のみにしか実現しなかったことで解釈に無理が生じ、9条改正議論の一因となっていると言われている。(ウィキ)(2014/1/5)

     

2014年01月11日

◆NHKの抜本的改革は必須だ

池田 元彦


NHKの偏向放送振りは、見るに堪えない。ここ10年特に酷い。国民から強制的に視聴料を徴収しながら、親中韓、反日自虐史観放送をされては堪らない。加えて民放でも出来るどうでもいい大衆受け番組迄放映しているのだから、公共放送としては失格だ。

別冊正論でも、正統派知識人がNHKを論っている。サイレントマジョリティも、記事の全てに同意、賛同する。韓国の歴史捏造ドラマ、中韓の主張は詳細報道するが日本政府の反論をキチンと放送しない反日番組を何故、金を払って迄見なければならないのだ。

公営、国営放送が有っても良い。金を徴収されても良い。民間放送が予算上出来ない長期取材等の良質なドキュメンタリー、皇室・日本政府の記者会見や動向、国会討議等、民間が出来ない内容を想定して、NHKに視聴料を払うのだ。前提は日本を代表する放送局だ。

民間放送が多少お馬鹿番組や偏向番組を放送しても許せる。CMで賄い、無償且つ見る、見ない、の選択肢が有る。NHKは有償で、虚実を織り交ぜた偏向番組を放送する。だから許せない。しかし、良い番組、良質なドキュメンタリーもある。NHK全てを否定しない。

が、歴史・教育番組、国内・国際ニュースとなると、不思議と偏向、反日番組が何故か多い。NHKは韓国・外国籍人を相当数正式雇用していると言う。準国営放送局が、他国籍人を番組制作に関与させることは諸外国であり得ない。事実なら、大問題だ。

一方、中国中央電視台や、KBS(韓国放送公社)の日本支局をNHKの施設内に受容れている。番組制作に関する情報提供、況や容喙を受容れているとすれば、当に犯罪ものだ。

「天安門では1人の死者も居ない」。「日本と台湾が戦争をした」。世界大会の日の丸掲揚、国歌斉唱は画面も音声も放映もしない。天皇行事や首相記者会見をニュースの第1番に出さず、些少な事件を優先する。中韓の主張を鸚鵡返しに垂れ流し、日本の反論を無視する。

チャングムでは王様の妻を「皇后様」と言わせ、あまちゃんでは、日頃ブランド名を隠すのに、街で滅多に見かけないヒュンダイ(≒現代)のタクシーやバス、鏡月(≒韓国焼酎)としか想定出来ない緑の瓶を不必要に映像に入れる。反日偏向と言われて当り前だ。

「歴史は動いた」や多くの歴史教育番組では歴史的事実でない嘘や珍説を怪しげな大学教授等に喋らせる。海外のNHKワールドでは、女姓司会者に日本貶めの発言をさせている。国会中継録画は、中韓に都合が悪い部分はYOUTUBEから屁理屈を付けて削除する。

今のNHKは、過っての道路公団の悪巧みと同じ悪事を重ねている。沢山系列会社を作り、本社の利益を移管隠蔽し、公共放送局として不要な利潤追求ビジネスを展開している。

日本の伝統風土、皇室、日本政府、国会、国防関連ニュースの優先度を上げ、中韓等の非難が有れば、先ず日本政府や高官の反論、立場を明解にキチンと紹介すべきだ。耐えかねた国民のデモは報道せず、左翼のデモは大げさに取り上げることも止めるべきだ。
    
経営陣が入れ替るが、日銀総裁同様、合議制なので強力なリーダーシップが必要だ。報道の中立とは国益を前提基準とする中立で有って、何でも政府に反対することではない。中立性守れるかと朝日等は騒ぐが、反日報道を中立だと欺瞞するマスコミこそ中立を守れ。

◆「大東亜戦争肯定論」を読む @

平井 修一


林房雄の著書「大東亜戦争肯定論」(1964年刊)を読んでいる。この本については西尾幹二先生が当時目を通して、「そういうことだろう、違和感はなかった」と書いていたので、それならと遅ればせながら小生も読み始めたというわけだ。

林は1903年(明治36年)5月〜1975年(昭和50年)10月。小説家、文芸評論家で、三島由紀夫とも親交があった。「大東亜戦争肯定論」は中央公論1963年9月号から65年6月号にかけて連載され、その後、番町書房で正(1964年)・続(65年)2冊で刊行された(のち全1巻)。

さらに2001年、夏目書房で単行本全1巻で再刊、のち普及版が出版されたが、夏目書房の倒産(2007年)により、古書以外での購入はできなくなった。小生が今手にしているのは最初の1冊(正)で、図書館で借りた。

林はあえて、敗戦後GHQにより使用を禁じられ、占領終了後もその用語がタブー視された「大東亜戦争」という名称を用いた。GHQがNHKや新聞を通じて日本人に植え付けた「日本悪者論、自虐史観」が、1964年頃から「それはおかしいのじゃないか」と思う人が少しずつ現れてきたようである。

朝日や岩波などの左翼論壇全盛の中でこの本の刊行は、大東亜戦争を見直すきっかけになったのではないか。その意味で歴史的な本ではなかったか。第1章と後書きのごく一部を要約して紹介する。
・・・

「東亜百年戦争」。確かに人騒がせな題名に違いない。聖戦、八紘一宇、大東亜共栄圏などという戦争標語を復活し、再肯定し、もう一度あの「無謀な戦争」をやり直せというのかと、まず疑われる恐れが十分にある。

ありのままを言えば朝日新聞紙上の小論争の中で、

「私の大東亜戦争肯定は、私自身の歴史研究の成果であって、現在でも変わらない。この“無謀な戦争”が世界史の転換に与えた大衝撃は、ウェルズ(注)やトインビーの証言を待つまでもなく、戦後の世界史が実証している」

という気負い立った一言を吐いた。それが中央公論編集者の目にとまり、「大東亜戦争のどこを、どんなふうに肯定するのか」と尋ねられ、発言の責任を取らせられた形になった。

私は編集者のその問いに答えることにした。題名は私自身が選んだものだ。決してその場の思い付きではなかった。長い間の持論をそのまま文字に著しただけである。

大東亜戦争の本質に関する議論は、いろいろな場所ですでに始まっているようだ。あの「不可解で不条理な戦争」を自己自身の歴史としてとらえ、自身の目で再照明したいという願いは今日の「考える日本人」に共通する心情ではないか。日本人の一人一人がこれを行わねばならぬ時が来ていると私は考える。

私は日露戦争の直前に生まれた。シベリア出兵、山東出兵、満洲事変、日支事変を経て大東亜戦争。平和は知らない。私たちが知っているのは戦争だけだ。10年続く平和はなかった。

徳川時代の少なくとも200年間は平和であったという。外国との戦争はなかった。2世紀以上も平和に生きた時代があり、1世紀近くを戦争で明け暮れした時代がある。

私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための「小休止」ではなかったか。徳川200年の平和が破られた時に「長いひとつの戦争」が始まり、それは昭和20年8月15日にやっと終止符を打たれた、のではなかったか。

「太平洋戦争を起こしたのは明治以来50年の軍国主義教育のせいだった」という論がある。この感じ方、考え方は現代知識人の心情のひとつの典型であるが、どんなものだろう。戦争教育なしには戦争は行えないが、教育以前に戦争があるのではないか。

少なくとも戦争の予感またはその萌芽がなければ戦争教育は行われない。教育以前に、それを必要とする戦争事実が発生していたのだ。明治維新をはるかに遡るある時期に「東漸する西力」(東洋へ押し寄せる西洋の力)に対する日本の反撃戦争が開始されていた、と私は考える。「再版大東亜戦争史観」だと叱られそうだが、もう少し私の意見を聞いていただきたい。(つづく)
・・・

注)ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells, 1866年9月21日 - 1946年8月13日)は、イギリスの社会活動家、歴史家、著作家。小説家としてはジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれる。

ウェルズは日本国憲法の原案作成に大きな影響を与えたとされる。特に9条の「平和主義と戦力の不保持」は、ウェルズの人権思想が色濃く反映されている。ウェルズの原案では「平和主義と戦力の不保持」は「全ての国に適用して初めて戦争放棄ができる」と記されており、結果として日本のみにしか実現しなかったことで解釈に無理が生じ、9条改正議論の一因となっていると言われている。(ウィキ)(2014/1/5)

2014年01月10日

◆反原発は狂気の沙汰だ

池田 元彦


規制委員会が原発事故調査報告をIAEA(=国際原子力機関)に提出する見込みだ。全電源喪失原因は、国会事故調の地震原因ではなく「津波」原因と明確にし、「日本の公式見解」となる。観測史上第4番目の9.0の地震でも、原発そのものには一切問題なかったのだ。

小泉元首相の即停止発言に、無能を曝け出した菅元首相、反日自虐史観の野中広務、古賀誠元議員が悪乗りした。しかし原発即停止は、国益を損なう視野狭窄の主張だ。日本では50年前東海村で初めて原発発電、以降54基で全電源の25%を供給してきた。

福島第1原発は冷却水補給で躓いたが、放射線事故死は1名もいない。事故死は、世界でもチェルノブイリだけで、極めて安全な発電装置なのだ。

2000年迄の過去30年間の死者5名以上のエネルギー別の苛酷事故数は、石炭1,040件を筆頭に、石油、天然ガス、LNG、水力がそれぞれ、232、45,46、10で、原子力はチェルノブイリの1件しかない。

1件当たりの事故死者数でも原発は最小で0.579だ。原発1基の建設費は3千億円前後だが収入は毎月150億円で、極端に言えば20日間で回収できる。資源エネルギー庁試算では、原発1時間当たりの発電コストは4.6円/kWh。石油の半分以下で一番安い。

浜岡原発100万kWhの発電に、名古屋ヤドーム33個分が必要だが、太陽光発電(3.5kWh:家庭用)ならドームが1,390個、風力では5,100個必要だ。明白な省スペース発電であり、雨雲雪・風嵐の影響や蓄電池の劣化もなく夜間でも安全に安定供給出来る。

石油・石炭のようにCO2やNOxを放出しないクリーンエネルギーでもある。保管・廃棄にしても、巨大発電量に関わらず廃棄物が極めて小さい。安全、安価、省スペース、自然に優しいエネルギーは、現時点で原発を置いて他にない。即廃止は、情緒的感情論だ。

地球上全ての生物は太古より放射線を浴びて放射線耐性を獲得した。空気やオゾン層がない時代は、現在より過酷な放射線があった。平均2.4mSv程度の放射線量は現代人の誰もが浴びている。CTスキャンは9mSvの照射量だ。1mSv の除染等馬鹿の無駄遣いだ。

ラッキー博士は年間100mSv 程度の放射線は、寧ろ人体に好影響だと統計実績を示す。放射線がなければ人間は死ぬ。塩と同じだ。食べすぎたら健康を害する。その閾値が放射線100mSvなのだ。ICRP(国際放射線防護委員会)基準は、根本的に間違っている。

ハーマン・マラーは、ショウジョウバエの実験で染色体破壊と遺伝で、放射線は有害だとしてノーベル賞を受賞した。しかし現代では、1つの細胞内でDNAが1日百万回程度壊れても自動修復することが周知の事実で、極僅かな放射線でも有害と言う彼の主張は否定されている。実験に使ったハエの精子DNAに、例外的に修復機能がなかっただけの話だ。

ICRPは、間違いを知りつつ、今も基準是正しない。チェルノブイリの立入禁止地区に、10名足らずの老人が26年間、健康に生活している事実をどう説明するのか。 原子力絶対とは主張していない。

日本近海に埋蔵するメタンハイドレードの開発等未来も明るい。原発代替で石油・LNGが3.8兆円も輸入され、貿易収支はこの3年間赤字だ。安全保障上からも燃料大量外国依存は危険だ。マスコミは何故真実を隠し、原発反対を煽るのか。