2016年09月23日

◆毛沢東の孫が吠えて見せたが

平井 修一

毛沢東の孫、毛新宇は中共軍の少将。かなりの肥満は毛沢東譲りかもしれ
ないが、「太り過ぎ、これでは戦争できないだろう」という批判の一方
で、貴種ということで人気もある。少将になれたのは中共トップの“お情
け”のようだ。「毛沢東の孫が体制批判『政府は人民の民主の権利を踏み
にじっている』」から。

<【新唐人2016年9月20日】中国国家主席であった独裁者、毛沢東の唯一
の直系の孫である毛新宇氏が中国政治体制の改革問題について語る動画を
ネットで話題になっている。毛氏は動画で、中国政府の役人が法制度を軽
視して人民の民主の権利などの言論を踏みにじっていると批判している。

動画の中で、毛氏は全国人民代表大会と中国人民政治協商会議の二大会議
に参加する際につけるバッジをつけており、「両会」期間中に受けた取材
のように見える。(平井:二大会議=両会は名誉職で、拍手するのが仕事)

毛氏は、「政治体制を改革するのに最も難しい点は、我々指導者幹部と党
政機関がどのようにして人民により多くの民主を与えるかという点だ。そ
してもう一つ、どのようにして人民により大きな監督権を与え、役人の腐
敗を監視するようにするかである」と述べている。

毛氏はさらに、人民の民主の権利と監督権を拡大する方法を考えるべきだ
と主張している。毛氏は手ぶりも添えながら続けた。

「中国の基層を為す多くの民衆は、彼らが本来有するべき民主の権利が政
府幹部によって軽視されていると感じている。それが彼らの最も強烈な心
の声だ。悪い役人や幹部が法を無視し、人民の民主の権利を踏みにじり、
さらには、法律が人民に授けた民主の権利を鞭打っている。これは民衆が
最も憤りを感じていることである」

これは2013年3月4日に北京で行われた「両会」に出席した毛氏が全国政治
協商会議委員として新華社の取材を受けた際の発言である。実際に当時毛
氏がどれくらいの時間語ったのかは分からないが、新華社は簡略化して報
じていた。

毛氏の発言動画がネットで公開された後、中国のネットユーザーの間で議
論が白熱化している。「この孫ときたら、今の政治体制を作ったのは自分
のおじいちゃんだということを知らないのかな?」「彼のおじいちゃん
も、政権を取る前は、民主的な監督とか、国民党の腐敗とか、ずっと言っ
ていたけどね」などのコメントが上がっている。

一方で、毛氏の動画に「いいね」をするネットユーザーもいる。「彼も分
かっている、という事実には慰められる。私たちが想像する以上に多くの
ことを分かっていると思う」「この孫のことをずっと軽蔑してきたけれ
ど、今回の発言は道理にかなっているし、良心があると感じた。だから
『いいね』をするよ」などのコメントも寄せられている>(以上)画像は↓

http://jp.ntdtv.com/news/17361/毛沢東の孫が体制批判「政府は人民の
民主の権利を踏みにじっている」

支那は法治ではなく人治の国だから、法律でいくら民主を保障したところ
で、国の上に君臨する共産党が「この野郎」と怒れば、すべてパーであ
る。何から何まで共産党の胸先三寸、生殺与奪勝手放題だ。

支那人民の不幸は毛沢東率いる赤匪の「金持ちから奪ったものをお前たち
にも分けるから、仲間に入れ」という甘言に騙されたことによる。結局は
すべての土地と生産財は中共が独占してしまった。

革命から67年たっても、コネもない数億の貧困層は相変わらず食うや食わ
ずの生活だ。貧しく汚く惨めで不安な暮らしが三代続き、この先も続くと
いう負の連鎖。「騙された方が悪い」という国柄だから、誰も同情しない
し助けもしない。

毛沢東の孫が吠えて見せたが、何も変わりはしまい。暴動で共産党を一掃
しない限り明るい未来はないだろう。共産党に殺された8000万の人民の血
は8000万の党員の血で贖われねばならない。(2016/9/21)


◆「阿Q」の呪縛は続いている

河崎 真澄



「阿Q」の呪縛は続いている 魯迅没後80年、生誕135年にして中国 社会
の病巣はなお変わらず

近代中国の文豪、魯迅がぜんそく発作によって上海市内で亡くなったの
は1936年10月19日。55歳だった。今年は没後80年、生誕から 135年にあたる。

魯迅が晩年を過ごした旧居が市内の山陰路に残されている。1930年代、数
万人の日本人が暮らしていた“日本租界”とも呼ばれた虹口(ホンキュ)の
一角にある、3階建てレンガ造りの瀟洒(しょうしゃ)なアパー トだ。

山陰路はかつてスコット路と呼ばれた。旧居から通り沿いに歩いて数分
先、現在は四川北路となっている場所に、魯迅が通った「内山書店」の所
在地を示すプレートがかかっている。

日本人の内山完造(1885〜1959年)が開いた書店で、日中の文 化人が集
まるサロンとなり、プレートには魯迅と内山の2人の姿が刻印されていた。

初秋の週末、魯迅をしのぶ散歩に出たのは、魯迅が作品を通じて訴え続
けてきたことが、いまなお指導者には届いていないのではないか、と感じ
たからだ。

紹興酒で知られる浙江省紹興で1881年9月25日に生まれた魯迅 (本名は
周樹人)。医学を志して1905年に初の中国人として仙台医学 専門学校
(現在の東北大学医学部)に留学したが、当時、虐げられていた 中国人
の姿をみて、医学よりも「むしろ最初に果たすべき任務は彼ら(中国人)
の精神を改造することだ」(短編集「吶喊(とっかん)」の自 序)との
思いを強くし、文芸の道から「中華民族の覚醒」を求めようとした。
2016.9.22 08:00更新

【河崎真澄のチャイナウオッチ】
「阿Q」の呪縛は続いている 魯迅没後80年、生誕135年にして中国
社会の病巣はなお変わらず


 近代中国の文豪、魯迅がぜんそく発作によって上海市内で亡くなったの
は1936年10月19日。55歳だった。今年は没後80年、生誕から
135年にあたる。

 魯迅が晩年を過ごした旧居が市内の山陰路に残されている。1930年
代、数万人の日本人が暮らしていた“日本租界”とも呼ばれた虹口(ホン
キュ)の一角にある、3階建てレンガ造りの瀟洒(しょうしゃ)なアパー
トだ。

 山陰路はかつてスコット路と呼ばれた。旧居から通り沿いに歩いて数分
先、現在は四川北路となっている場所に、魯迅が通った「内山書店」の所
在地を示すプレートがかかっている。

日本人の内山完造(1885〜1959年)が開いた書店で、日中の文化人が集ま
るサロンとなり、プレートには魯迅と内山の2人の姿が刻印されていた。

初秋の週末、魯迅をしのぶ散歩に出たのは、魯迅が作品を通じて訴え続け
てきたことが、いまなお指導者には届いていないのではないか、と感じた
からだ。

紹興酒で知られる浙江省紹興で1881年9月25日に生まれた魯迅(本名は周
樹人)。医学を志して1905年に初の中国人として仙台医学専門学校(現在
の東北大学医学部)に留学したが、当時、虐げられていた中国人の姿をみ
て、医学よりも「むしろ最初に果たすべき任務はかれら(中国人)の精神
を改造することだ」(短編集「吶喊(とっかん)」の自序)との思いを強
くし、文芸の道から「中華民族の覚醒」を求めようとした。
産経ニュース【河崎真澄のチャイナウオッチ】9.22 08:00更新

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫



飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会


2016年09月22日

◆支那経済に未来はない

平井 修一



何清漣女史の論考9/4「中国の憂鬱――世界のエンジンから足枷へ」から。

<2016年の杭州G20サミットで中国はこれをチャンスに国際的地位をさら
に向上させようと一生懸命「良きホスト役」の役柄を演じ切るべく全力を
尽くしていますが、気まずい雰囲気を完全に打ち消すのはやはり難しいよ
うです。

この気まずい雰囲気は海外からの中国での人権批判が原因ではなく、中国
の世界経済の舞台上の役割の変化から生まれています。

(リーマンショック後の)2009年は中国は世界経済を救うノアの箱舟役で
したし、2012年は世界経済を引っ張るエンジン役でしたが、いまや、グ
ローバル構造は支離滅裂になり、中国は西側国家からグローバル化破壊の
元凶だと見られているからです。

*各国が受け入れがたい世界経済構造の巨大な変化

今回のサミット開催はまさに全世界経済の構造に巨大な変化が起きている
時期にあたり、参加する西側国家は中国経済の衰退が世界の足をひっぱっ
ていると感じています。

この言い方は西側国家の一種の願望、すなわち中国経済が過去30年の間に
二桁成長を遂げてきて世界経済成長のエンジンになったことで、現在もこ
れからもそうあるべきだということから生まれています。

2009年以前、世界経済の構造は米国が主導し、中国は中国モデルを動かし
てきました。2009年以後、米、中、EUの3本の鼎(かなえ)型になりまし
た。この変化に対し、世界各国はすべて受け入れました。

なぜなら1990年代の初期から2009年にかけての20年間、中国は世界経済の
中で巨大な役割の転換を遂げ、あっという間に世界の辺境国家から世界経
済の発展の世界的エンジンに大化けしたからです。

いわゆる「エンジン」というのは世界が「メイド・イン・チャイナ」の安
物製品で埋まったことではなく、中国の各種の需給が日増しに旺盛になっ
て、多くの国々の経済発展を促したことにあります。

例えば中国は世界の資源と農産物の最大のバイヤーであり、多くの鉱業資
源国家と食糧生産国家はみな利益を得ました。過去15年間、中国は世界の
大多数の鉱業金属の4割から5割を消費し、一時は全世界の鉄鉱石供給量の
3分の2近くを消費したのです。

*中国経済の衰退で消えた資源国の発展の夢

中国が世界GDP第2位に躍り出る過程では巨獣のごとく全世界の各種金属、
燃料、農作物を丸呑みし、アフリカ、南米から豪州まで多くの国家が自分
たちの繁栄の夢の基盤を中国経済の持続する高速発展に賭けました。

そして今や中国経済の衰退の災いは中国人自身に対してのみならず、何十
もの各種資源を中国に売り込んできた発展途上国、全世界で資本の有利な
投資先を探している先進国の投資業界に及んでいます。

今、中国経済の減速が意味するのは中国の対外輸入、特に生産に必要な資
源と原材料の需要減少で、これは中国に頼って繁栄していた国家に対する
影響が特に大きいものです。

例えばオーストラリアは、中国に小麦や大量の鉄鉱石を輸出することに
よってその10年間の経済の栄枯はみな中国の需給によって上下しました。
ここ数年、中国の鉄鉱石需要が減少して、政府の税収も減り、比較的小規
模の鉱山は破産したり、人員解雇を迫られています。

オーストラリア政府の中国に対する態度も大きく変化し、2015年8月30日
には、議員たちによくよく考えるようにと国会が国会図書館による「中国
を防げ」というパンフレットを発行する印刷許可を与えました。

オーストラリアは一貫して中国崛起を支持してきたのですが、今やいかに
して南海の利益を広げようとする中国にどう対応すれば良いかを考える必
要に迫られています。とりわけ、中国の「海と陸のシルクロード計画」に
言及しており、この中国指導のプロジェクトが米国のプロジェクトに対抗
するものだという点で憂慮を表しています。

つまり簡単に言えば、世界各国の中国に対する態度の変化は2012年に始
まっています。習近平が中共の最高権力を握って以後、国内の奇形的な経
済構造を調整せざるを得なくなり、中国の資源と原材料にたいする膨大な
需要が急激に低下したのです。

地方財政を維持するために不動産業を発展させるとしながらも、実際には
欧州、アジア、南米地域に過剰生産能力を輸出する「二つのシルクロード
計画」を実行したのです。中国は自国の深刻な過剰不動産業界と各種のイ
ンフラ施設発展のために全世界の各種の鉱物資源を消耗し、関連国家に就
職先と様々な程度の繁栄を維持させてきたのです。

そして中国側では世界中から輸入した鉄やアルミなどの資源をつかって、
仰天するような量の不動産や各種の遊休インフラ設備を作り出して、「み
んなに住宅を」を実現したのです。現在、農村戸籍家庭の93%はマイホー
ムを持ち、都市戸籍の住民は1戸平均3人で1戸あたり1.2戸の住宅を持って
います。

「21世紀経済報道」誌2015年12月3日号によれば、中国の不動産業界の本
当の在庫は98億平米に達し、現実の購買力では完全消化に10年かかるとい
います。

さらに深刻なのは中国工程院の郭仁忠が2015年10月にメディアに明らかに
したことですが、国務院の12省と144都市の調査では、全国の新しい都市
計画によって造られようとしている市街地は34億人分、つまり中国各地の
政府が企画している住宅は全世界の人口70億人の半分を収容できるという
のです。

*中国は世界経済を救えない

もし中国政府がこうした狂ったような計画を実行しつづけるならば、中国
は依然として世界経済の発展のエンジンであり続けることができるでしょ
う。しかし残念ですが、習近平は2015年、傾国の力を以っても中国の株式
指数を言葉通りの10000ポイントに上げることはできず、5000ポイント前
後で上下していますし、結果は2015年の株式市場で25兆元の価値が消え失
せ、60万戸の中産階級が消滅しました。彼もまた中国を世界の資源購入者
としつづけエンジンとなす術はもたないようです。

杭州G20サミットはまさに終わろうとし、参加者は中国に対して山ほどの
意見をもってきて、カバンいっぱいの重要な協議をして去っていくでしょ
う。協議は結構ですが、現実はもっと厳しいのです。

中国が世界経済のエンジンとしての地位を維持したいと願っても、あの無
茶苦茶な都市計画の結末として、世界の半分の人々に住宅を供給すること
はでませんから、世界各国の資源や鉱物、膨張する資本を飲み込み続ける
ことはできません。

世界各国は中国に対して資源や原材料を輸出することは望んでも、中国の
過剰生産能力を必要とはしていません。ですから、各国要人は帰国後、や
はり自国経済構造を調整し、一段と増すだろう失業や福祉の低下という苦
しい日々を過ごさねばならず、自国選挙民の怒りと恨みを買うしかありま
せん。

以上が世界が再び資本拡張の「新大陸」を発見するまでの中国と世界各国
(ひょっとすると米国は例外かもしれません)の経済の新常態なのです>
(以上)

支那は貧困を一掃する前に失速し始めた。「中国貧困家庭の母、子4人と
無理心中 貧富の差めぐる議論に」から。

<【AFP9/14】中国北西部・甘粛省で、貧困世帯の母親が子ども4人を斧で
斬殺した上、自殺する事件があった。その2週間後には夫も自殺。事件は
インターネット上での憤りの声や、貧富の差をめぐる議論を巻き起こして
いる。

同州警察によると、母親の楊改蘭容疑者(28)は、6歳、5歳、3歳の娘3人
と5歳の息子を斧で殺害した後、農薬を飲んで自殺。夫の李克英さんも、
家族の葬儀を済ませた後に服毒自殺した。

報道によると、一家は住んでいた阿姑山村でも最貧層だったが、村の委員
会は、世帯年収が貧困線の2300元(約3万5000円)を上回っているとし
て、政府が支給する低所得世帯向けの生活保護費の支給を拒否していた。

複数のメディアが、事件の要因の一つとして当局の腐敗を挙げ、一家の生
活保護申請が却下されたのは地元役人に賄賂を渡していなかったためだと
報じている。

中国青年報によると、楊容疑者は地元病院に搬送された際、治療自体は拒
否しなかったものの、「私を救わないで」と繰り返し訴えていたという。

中国は世界第2位の経済大国に急成長したが、貧富の差は歴然と残ってい
る。国営英字紙・環球時報は国家統計局のまとめとして、貧困線以下での
生活を強いられている人が現在7000万人に上っていると報じている。

同紙は中国社会科学院の地方開発専門家、党国英氏の話として、「この事
件は、開発が進んだ東部の都市部に暮らす中国人に衝撃を与えた。依然何
百万人もの国民が貧困生活を強いられているということが想像できない人
が大半だからだ」と指摘している>(以上)

世界第2の経済大国の裏面、不都合な真実だが、おそらく氷山の一角だろ
う。支那に明るい未来はあるのかどうか。

何清漣氏は「中国経済は巨大なネズミ講」とも書いている。早めにカネを
投資すれば、遅れて投資した者のカネを先行者利益として優先的に回して
もらえる仕組みで、投資者が次から次へと拡大再生産されないと破綻する
しかない。

日本でも一時期は箱モノ行政で、実需がないのに次から次へと建物を造
り、やがて金庫が空っぽになって財政破綻状態の自治体が急増したものだ。

支那は相変わらず実需もなく回収の見込みもないインフラなどの不動産投
資頼みのいびつな経済構造のままだ。先行者利益で蓄財した金持ちは、破
綻を恐れて外国へカネを移している。

ニューズウィーク9/20はこう報じている。

<国際決済銀行(BIS)は、中国での信用供与は異例の伸びを示してお
り、3年以内に銀行危機に陥るリスクが高まっているとの見方を示した。

BISの報告によると、金融の過熱を示す早期警戒指標である国内総生産
(GDP)に対する総与信のギャップ(credit-to-GDP gap)が第1・四半期
に30.1となった。10を上回ると危機が「3年以内に発生する」シグナルと
なる。これはBISが評価した中で最も高く、2位のカナダ(12.1)も大きく
上回っている>

支那丸の船体が徐々に傾き、やがて沈没するのだろうが、ソ連式にあっと
いうまに沈没するかもしれない。遅かれ早かれ21世紀のビッグニュースに
なるはずだ。(2016/9/20)

◆木津川だより 高麗寺跡 A

白井 繁夫

「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

2016年09月21日

◆政教分離主義への固執は

小堀 桂一郎



現行の日本国憲法には、異国の諸種の政治的宣言文の継接(つぎはぎ)
細工にすぎない、悪評高き前文や、日本の国家主権そのものを否定してゐ
る9条2項の他にも、国民の社会生活それ自体の障礙(しょうがい)とな
つてゐる欠陥条項がいくつかある。実例を一種挙げるならば信教の自由を
保障してゐる第20条の3項〈国及びその機関は、宗教教育その他いかな
る宗教的活動もしてはならない〉との、いはゆる政教分離主義の原則を提
示した条文である。

 ≪生活阻む憲法の欠陥条項≫

之に加へて第89条には、〈宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若 し
くは維持のため〉に、その組織が行ふ慈善、教育、博愛の事業に対し、
公金を支出したり、公の財産をその利用に供したりしてはならない、との
規定がある。

この2つの禁令を言葉通りに解釈すると、宗教教育を施してゐる事が明
らかな、いはゆるミッションスクールに向けてその活動支援の為の公的な
財政的補助は憲法違反といふことになつてしまふ。

神社・佛寺の所有する 貴重な美術工藝品や重要な文化財としての古式建
築の維持保存の為の公金 支出も法規上は違法といふ事になる。

それでは困るから、かうした場合は、宗教といふ属性は括弧に入れて不問
に付した上での公教育一般、及び国宝といふ範例が存することでもある重
要な文化遺産に対しては、やはりそれが宗教美術であるといふ性格は無視
した上での国家的乃至公的な財政的保護は従来適法として認められて来た。

この点で上記の2つの制限条項にはいはゆる解釈改憲の措置が施された
わけで、今の所特に大きな問題は起らぬままに一応適切に運用されてゐる
と見る事ができる。

ところが近年、我が国は平成16年に中越地震、19年に中越沖地震、 23年
に東日本大震災、本年28年には熊本県を中心とする九州中部での 大地
震と、10年余りの間に多くの地震・津浪災害に襲はれ、殊に23年 の大災
害に際し福島県では原子力発電所の受けた被害により避難指示区域 に指
定された地域の住民が、生れ故郷の我が村に5年を経てまだ帰れずに ゐ
るといふ前例にない異常事態が生じた。

住民が居なくなつてしまつた放射能汚染地域の事は姑(しばら)く別に
考へるとして、今問題としたいのは、地震・津浪による直接の被災の結果
として土地の鎮守の神を祭る神社や先祖の墓を預つてくれてゐる佛寺が流
失したり倒潰・破損等によりその機能を失つてしまつた地域共同体の復興
についてである。

産経ニュース【正論】2016.9.19 16:20更新


◆支那は新興国から後進国へ

平井 修一



サーチナ6/22「空の便で中国を旅することは悪夢・・・日本とはまさに正
反対」 から。

<日本航空が2015年に定時到着率で世界1位となったほか、空港でも羽田
空港と伊丹空港が同じく定時運航率で1位となった。日本では航空会社、
空港の双方で時間どおりの運航がなされているということだ。

中国メディアの環球網はこのほど、ドイツメディアが中国の空港は離発着
ともに定時という概念がなく、まさに「災難」であると批判したことを伝
えた。

記事は、北京市で「霧雨」が降っていたことを理由に、中国の航空会社が
離陸を遅らせたと伝えつつ、北京首都国際空港も多くの便を取り消したと
紹介、「小雨が降っただけなのに、空の便は麻痺状態となった」と論じた。

さらに、ドイツメディアが「空の便で中国を旅することは悪夢」と報じた
ことを伝え、中国民用航空局のデータとして「2015年における中国の空の
便の遅延時間は平均21分だった」と紹介、全体の便数の3分の1に何らかの
理由で遅延が発生したと紹介した。

ビジネスのため、観光のためなど、空の便を利用する人の目的はさまざま
だ。だが、どのような目的であっても、誰にとっても時間は貴重なもので
あり、「霧雨」程度で定時運航がなされないというのは大きな問題と言える。

この点、日本の場合は羽田空港が大規模空港部門で定時運航率1位、伊丹
空港が小規模空港部門で1位、さらに日本航空も定時到着率で1位となるな
ど、中国とは正反対のサービスを提供できている。(編集担当:村山健
二)>(以上)

民族性が影響しているのかもしれない。几帳面でサービス精神旺盛、「お
客様は神様です」の日本人。民間企業であり、競争が激しいし、利益を上
げないと経営が成り立たなくなるから社員は真面目で真剣だ。

一方で支那では多くの大企業は国有であり、社員は公務員で、“親方五星
紅旗”的な鉄板飯が保証されている。「遅れず、休まず、働かず」になり
やすい。目立つとハエ叩きに遭いかねないからやる気にならない。「適当
にやる」のが常態化しているのだろう。

航空機が当てにならないのなら鉄道はどうかというと、鉄道も国有だから
どうもパッとしないようだ。サーチナ8/17「日本と比べたら・・・中国の
鉄道サービスは『粗雑で礼儀に欠ける』」から。

<中国は総延長で世界最長の高速鉄道網を構築したとおり、中国の鉄道産
業はハード面においては飛躍的な発展を遂げたと言える。だが、利用客の
利便性などソフト面においてはまだ改善の余地が大きいと言わざるをえない。

中国メディアの張家界在線はこのほど、日本の鉄道のサービス面における
質の高さを伝えつつ、中国高速鉄道がさらなる発展を遂げるためには
「ハードのみならず、ソフト面の改善が必要」だと訴えた。

記事はまず、日本を訪れた中国人旅行客が「日本の鉄道のソフト面に感銘
を受けた」という事例を紹介。日本の鉄道のうち、海岸線を走る路線など
では乗客が車窓からの景色を楽しめるよう座席が窓のほうを向いている構
造であること、さらに日本の鉄道では大声で物を売る販売員がいないこ
と、車掌が乗車券を確認しない場合があることなどを紹介し、「日本の鉄
道は利用客の目線でサービスが提供できている」との見方を示した。

続けて、中国高速鉄道はハード面において飛躍的な発展を遂げたのは事実
だとしながらも、「ソフト面におけるサービスがハードに追いついていな
いのも事実」と指摘。心をこめたサービスやきめ細やかなサービスが欠け
ていると指摘し、中国のサービスは「親近感や礼儀が欠け、粗雑であるう
えに価格も高い」と論じた。

中国はもともと社会主義国であるため、「お客様目線」というものが欠け
ている事例は数多く存在する。新幹線の輸出においては、技術力を基礎と
したハード面のみならず、時間に正確な運行や安全性、質の高いサービス
などのソフト面も競争力につながっており、こうしたサービスは中国で
あっても容易に模倣は出来ないものと言えよう。(編集担当:村山健
二)>(以上)

小生は食材宅配のショクブンを利用しているが、今日はこんなメモが入っ
てきた。

<本日お届の玉葱ですが、ご案内しました産地の入荷が不良のため、下記
のように変更させていただきますのでお知らせします。どうぞよろしくお
願いします。
玉葱 兵庫県産 → 北海道産>

呆れるほどの几帳面さ、しかも小生が10年ほど前に“チャイナフリー”を提
案したら、速攻でその通りにしてくれた。

こういうきめ細やかさは2000年間の伝統の中で磨かれたものであり、50
年、100年ではとてもキャッチアップできるものではない。支那のいい加
減さは世界中でバレており、英国は支那資本の原発建設に監視を強めるよ
うだ。

信頼を勝ち取ることができない中国産品・サービスは世界市場で最早伸び
ることはできないのではないか。支那経済は減速し、長期の低迷に陥るし
かないのではないか。新興国から後進国へ徐々に転落するのだろう。
(2016/9/20)


◆木津川だより 高麗寺跡

白井 繁夫

古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺
跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興
寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)
が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥
寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を
集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約
600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が
行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽
藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期
(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古
の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第
10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は2
万011m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名
(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であ
り、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半
島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あ
やし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化
し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力
を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等
の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役
立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺
(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名で
す。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社
(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2
郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺で
す。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山
区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波
に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島
に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりま
した。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、
桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から
近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和
へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高
津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:
木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の
頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こ
まひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿
いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子
が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であ
り、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏
(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊
仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍
配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武
天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は
平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理
用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に
創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平
安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期
まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を
掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これから
は以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川 市
教育委員会


     

2016年09月20日

◆私の「身辺雑記」(381)

平井 修一



■9月12日(月)、朝6:00は室温25度、涼風、初秋の感。自転車で段ボー
ル置き場へ。

昨日から体調は少々上向いた。日曜日の午前中はカミサンに換気扇を外し
てもらい、しっかり掃除、オーバーホール。ずーっと気になっていたが、
気力体力が衰えていたので手が出せなかったのだ。

シコシコ2時間ほどかけてきれいにし、必要なところに油をさして動かす
とほぼ新品同様の軽快さ。すごいなあ、修ちゃん、GJ! 自分で自分を誉
めてやるのよ、誰も誉めてくれないから。

やってみせ やらせてみせ 誉めなければ 人は動かじ

まっこと、その通りだ。ご褒美に白ワインのロックとビール、そして昼寝。

土曜(10日)の晩には息子が長女を連れてやってきた。「ヂイヂが発狂し
た、かなりヤバそう、ふらふらしている」という連絡を受けたのだろう。
要は遺産相続の話。

息子「俺が埼玉の奥地に家を建てたからバアバはものすごく怒っていた
し・・・」

小生「ずいぶんがっかりしていたけれど、もうわだかまりはないよ。嫁さ
んはやっぱり実家に近い方がいいし・・・『マスオさんになっちゃっ
た』ってバアバは諦めたみたい」

息子「・・・相続のことだけど・・・どれくらいあるの」
小生「2、3億かな・・・バブルのときは5億くらいだったけど。気になる
のは分かるけれど・・・全部バアバが相続するようにするから、あと10年
とかは心配する必要はないよ・・・今年収はいくらよ」

息子「650万ほど」

小生「夫婦で1300万なら十分にやっていけるだろうから、当分は遺産を当
てにする必要もないだろう」

息子「・・・こっちに戻ってもいいけれど」

小生「やめとけやめとけ、嫁さんが安心して育児に励めるように、好きな
ようにさせておけばいい。男は嫁さんをペロペロ可愛がっていればいいの
よ、悪いようにはならん」

あとはわが家の昔話をしてオシマイ。父の関川家、母の久保家、そして養
子に行った平井家の話。息子はルーツに関心を持ち始めたようだ。もしか
したらわが家の墓を守る気持ちになったのかもしれない。

■9月18日(日)、朝6:00は室温25度、曇/微雨。久し振りにハーフ散歩、
帰路に墓参り。彼岸入りは明日だが、善は急げ、だ。

久し振りの日記だが、雑文でも気力体力がないと書けないのだなあと、つ
くづくビックリする。産経9/14、曽野綾子氏の「9.11から15年 不幸を魂
の財産にする叡智」には感動した。まだ感動するだけの気力は残っている
のだろう。

<避けて通りたい現実だが、困難や災難や、時には病気が、人間の心を育
てるのを、私も幼い時から見て大きくなった。当然のことながら、戦争
も、貧困も、病気も、人間の対立も、決してなくならないのだろう。しか
し人間は、涙の中から覚り、知ることがある。

だから私たちは避けて通れない不幸があった時、それを無駄にしない人間
になることだ。それだけが叡智と呼べるものだろう。

限りある生命と時間だからこそ、人間は賢くなり、生きるべき道を発見す
る。不運と不幸がいいわけではないが、それを生かす人間になる他はない>

珠玉の言葉だな。小生がひっくり返っても書けない。人間のデキが違う、
格が全然違う、哲学者、賢哲、高僧の域だ。小生が遊園地のポニー、ゴー
カートなら、曽野氏はテンポイント、シンザン、F1だ。解脱とはそういう
ことかもしれない。

解脱悟道の道は遥かなり。一歩でも前進したい、半歩でもいい、10センチ
でも5センチでもいい、たとえ1センチでも100日なら1メートルになる。シ
コシコやっていけば、やがて何かが見えてくるかもしれない。三途の川
だったりして。

■9月19日(月)、朝6:00は室温24度、泣き出しそうな曇。

散歩コースの彼岸花の群生はなかなか見栄えがするが、気力体力がなく
なっているから去年のようには楽しめない。「年年歳歳花相似たり、歳歳
年年人同じからず」とはこのことか。

室温が32度になるとクーラーをかけているのだが、去年はこれでまったく
問題なかった。今年は30度でクーラーをかけるべきだった、体力というか
耐性が減損し始めているのだから。

老化とはそういうものだと頭では分かっているのに、自分が実際に熱中症
なのか脱水症状なのか食欲不振なのか、まあ夏バテでひどい目に遭わない
と分からないのである。「羹に懲りて膾を吹く」くらいがいいのかもしれ
ない。

曽野氏の上記の論考に賛同する人は多いかもしれないが、実践する人は千
人、万人に一人、0.1〜0.01%くらいだろう。人間はサル山の大将だが、
現実にはザル。学びより遊び、忍耐より敗退、賢人より凡人が圧倒的主流
派である。悲惨な目に遭っても、悲しむばかり、降参するだけで、叡智に
昇華できる人は稀だ。

哲学者や思索家、思想家は、賢い生活者であることより、むしろ晩年は
ちょっと気の毒なことが多かったのではないか。ソクラテスは妄想をばら
まいて若者に害を与えたと非難され自害したし、ローマ帝国の哲人皇帝と
呼ばれたマルクス・アウレリウス、「ウォールデン」を著したソローの最
後もちょっと悲惨だった。

ソクラテスとマルクスの奥さんは悪妻と言われるが、ソローは片想いで生
涯独身だった。哲人であることとよき生活者であることは両立しがたいの
ではないか。そういえば三木清の奥さんは子供が幼児の頃に亡くなった
し、彼の晩年は悲惨、凄惨この上なかった。

多くの凡夫凡婦は賢者でいることより堅実な生活者であろうとする。曽野
氏の論考は立派だが、現実を見ると「小さな親切、余計なお世話」のよう
な気もするが・・・

来夏は小生はさらに気力体力が後退しているはずだ。よほど用心しないと
大嫌いな病院送りになってしまいそう。先日の小生の巻き起こした「幸せ
の黄色いハンカチンチ」色惚け事件は、死を前にして本能にある「もっと
子孫を」のソフトが起動したためだろう。ベートーベンもカール・マルク
スも、そして家康も、晩年でも欲望は盛んだったようである。

「頂門」の渡部亮次郎氏から励ましの電話をいただいた。ありがたいこと
である。もうひと踏ん張りするしかないわな。(2016/9/19)

      

法令守らぬ「蓮舫代表」担ぐ怪奇

阿比留 瑠比



法令守らぬ「蓮舫代表」担ぐ怪奇 何が問題かも理解できず

民進党代表選では、にわかには信じ難い「怪奇現象」が起きている。候
補者の一人、蓮舫代表代行が13日に台湾籍を持つことを明かし、「二重
国籍疑惑」が事実だったことを認めたにもかかわらず、代表選での優位は
動かないのである。

国籍法は、「外国の国籍の離脱に努めなければならない」と定める。蓮
舫氏はその規定を順守せず、自身がどの国の国籍を持つかも把握しないま
ま、天皇が任免する認証官である閣僚まで務め、産経新聞が疑問点を指摘
しても「意味が分からない」と逃げてきた。

民進党議員らは、そんないい加減な人物が、政権交代があれば首相とな
り得る野党第一党代表の座に就くことに、何の疑問も感じないのか。だと
すれば背筋が寒くなる。

民進党という狭い「コップの中」で、勝ち馬に乗ってポストを得るため
だと考えているのなら、まさに国民不在である。そうではなくて、何が問
題か理解できていないとしたら、ますますどうしようもない。

例えば岡田克也代表は、周囲から「これは問題ですね」と忠告されても
ピンとこない様子だったという。8日の最後の代表記者会見では、蓮舫氏
を擁護してこんなことを語っていた。

「お父さんが台湾の人だから、何かおかしいかのような発想が一連の騒ぎ
の中にあるとすると、極めて不健全なことだ。多様な価値観を認めるわが
党が目指す方向とは全く異なる」

永田町では「理路整然と間違う」と言われてきた岡田氏だけあって、最
後の瞬間まで焦点が外れたままのようだ。誰も蓮舫氏の父親が台湾人であ
ることなど問題視していない。そもそもこれは、価値観の問題ではない。
公党のトップに立とうという者が法令を守り、手続きをきちんと踏んでい
るかどうかの話だ。

蓮舫氏自身も7日の報道各社のインタビューで、代表選で国籍が話題に
なったことについて「非常に悲しいなという思いはある」と述べていた。

だが、正当な指摘や批判を、まるで他民族やマイノリティーへの差別で
あるかのようにすり替えるやり方は、本当に差別に苦しむ人々を軽んじ、
利用するかのようでいただけない。

救いは、決して多くは聞こえてこないものの、民進党内にも得心できる
意見があるのが分かったことだ。井戸正枝元衆院議員は13日付のブログ
で、こんな正論を展開していた。

「お父さんが台湾の人だから、何かおかしいかのような発想が一連の騒ぎ
の中にあるとすると、極めて不健全なことだ。多様な価値観を認めるわが
党が目指す方向とは全く異なる」

永田町では「理路整然と間違う」と言われてきた岡田氏だけあって、最
後の瞬間まで焦点が外れたままのようだ。誰も蓮舫氏の父親が台湾人であ
ることなど問題視していない。そもそもこれは、価値観の問題ではない。
公党のトップに立とうという者が法令を守り、手続きをきちんと踏んでい
るかどうかの話だ。

 蓮舫氏自身も7日の報道各社のインタビューで、代表選で国籍が話題に
なったことについて「非常に悲しいなという思いはある」と述べていた。

だが、正当な指摘や批判を、まるで他民族やマイノリティーへの差別で
あるかのようにすり替えるやり方は、本当に差別に苦しむ人々を軽んじ、
利用するかのようでいただけない。

救いは、決して多くは聞こえてこないものの、民進党内にも得心できる
意見があるのが分かったことだ。井戸正枝元衆院議員は13日付のブログ
で、こんな正論を展開していた。

「お父さんが台湾の人だから、何かおかしいかのような発想が一連の騒ぎ
の中にあるとすると、極めて不健全なことだ。多様な価値観を認めるわが
党が目指す方向とは全く異なる」

永田町では「理路整然と間違う」と言われてきた岡田氏だけあって、最
後の瞬間まで焦点が外れたままのようだ。誰も蓮舫氏の父親が台湾人であ
ることなど問題視していない。そもそもこれは、価値観の問題ではない。
公党のトップに立とうという者が法令を守り、手続きをきちんと踏んでい
るかどうかの話だ。

蓮舫氏自身も7日の報道各社のインタビューで、代表選で国籍が話題に
なったことについて「非常に悲しいなという思いはある」と述べていた。

だが、正当な指摘や批判を、まるで他民族やマイノリティーへの差別で
あるかのようにすり替えるやり方は、本当に差別に苦しむ人々を軽んじ、
利用するかのようでいただけない。

救いは、決して多くは聞こえてこないものの、民進党内にも得心できる
意見があるのが分かったことだ。井戸正枝元衆院議員は13日付のブログ
で、こんな正論を展開していた。

「問題の本質を『差別』や『多様性』他の言葉で覆い、他のことには触れ
ない、というのはどうなのだろうか。今回はあくまで『公人』のコンプラ
イアンスの問題が発端なのだから、そこから逃げてはいけないのだと思う」

安倍晋三政権に批判的な政治評論家、森田実氏も13日付のフェイスブック
で、「民進党の自殺行為に等しい大愚行です。狂気の沙汰です」と警告
し、代表選やり直しを訴えていた。民進党は今、それとは知らずに崖っぷ
ちに立っているのではないか。(論説委員兼政治部編集委員) 

        産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2016.9.15

◆異常気象の暗示するもの

石原 慎太郎



今日地球の文明は進みグローバル化なる現象の元に地球は時間的物理的に
狭小なものとなり、文明の情報は蔓延(まんえん)してその刺激でいかな
る後発、いかなる貧しい地域においても人間の欲望は膨らみ続けその成就
へのさまざまな努力にいとまはない。

私は知事時代に温暖化によって水没しつつあるというツバルという砂州の
小国を訪れてみたが、人々は大国が捨てた半ばの腐肉を食べストレス凌
(しの)ぎにマリフアナを吸いながら暮らしていたものだったが、この今
となれば所詮の手だてではすまぬ事態がじりじりとだが、的確に迫ってき
ているということを、我々は己の子孫たちのために、未だ来らざる時、ご
く近い未来のために目を凝らして見つめるべき時に到来しているのではな
かろうか。

そんな時私はいつか何かで読んだ東欧の詩人ゲオルグの詩の一節を思い出
さぬ訳にはいかないのだ。

『たとえ明日この地球が滅びるとも、君は今日その手で林檎(りんご)の
木を植える』

講演の後質問が許され、ある者が「この宇宙に地球のように生命体が存在
し進んだ文明を保有する天体が幾つくらいあるだろうか」と質(ただ)し
たら彼は言下に「三百万」と答えた。

次いで誰かが「そんなに多く進んだ 文明を持つ星があるならなんで宇宙
船なり宇宙人が実際にこの地球に到来 しないのだろうか」と聞いたらこ
れまた言下に、「地球なみに文明が進む とそうした星は自然の循環が
狂ってきて宇宙時間からすると瞬間的に自滅 し生命体は消滅してしまう
からだ」と答えたものだった。

そこで私が「宇 宙時間での瞬間的というのはこの地球時間でいうと何年
ほどのものです か」と質したら、彼が「まあ百年くらいだろう」と答え
たものだった。私 としてはその時の質疑応答を強い印象で聞いたのを覚
えている。

もちろん ホーキングは神様ではないし、第一当時ALS(筋
萎縮性側索硬化症)と いう難病にかかっていた彼もその後看護婦と再婚
して存命してはいるがそ れでもなお、あの天才の予言は未(いま)だに
耳鳴りのように私の記憶の 中に響いて残っている。



◆中国の膨張主義の背景に強い劣等感

櫻井よしこ



意外なことに中国人には強い被害感情がある。彼らは度々、「奪われた」
と語り、力をつけたいまは取り戻す時期だという。深層心理に澱のように
蓄積しているこの強い被害者意識が、中国を反撃としての膨張主義に駆り
立てる。習近平国家主席の「偉大なる中華民族の復興」を支える基盤にも
同様の要素がある。
 
中国人の心理を文化人類学者の楊海英氏は「コンプレックス」だと分析
する。コンプレックスの塊りとしての心理を歴史的背景の中でとらえるこ
となしには、現在の中国の行動を理解することはできない。
 
楊氏の近著、『逆転の大中国史ユーラシアの視点から』(文藝春秋)は
その意味で中国理解の刮目すべき手掛かりとなる。南モンゴルで生まれ、
中華世界で成人し、中華思想の下で教育された氏の「少数民族」の論考
は、自身の体験、モンゴル民族としての体験、文化人類学者としての幅広
いフィールドワークに加えて、先人の研究に学んだ知見に裏打ちされてお
り、強い説得力をもつ。
 
氏は著書で断じている。

「コンプレックスに囚われすぎているために、中国はいつまでたってもき
ちんと近代とむきあい、自分のものとすることができない」「この劣等感
は、われわれ(日本人やモンゴル人)が想像する以上に根深い」
 
政策から外交姿勢まで含めて、全身で中華思想を発信しているのが習主
席だ。だがこの中華思想こそ、事実を見る際の彼らの目を曇らせる。アヘ
ン戦争以降の清朝の没落も、近代における日本の台頭も、すべて「漢民族
が諸民族をリードし、一致団結して抵抗したことによって、日本帝国主義
と西洋列強をしりぞけた」「悪いのはみんな外国だ」という話にしてしま
う。そうすれば、自らの敗北を省みる苦痛は回避できるが、歴史から何も
学べずに終わる。
 
彼らは真に歴史を見詰めることもなく、中国中心の心地よい物語にどっ
ぷり浸って満足し、中国人の論理を「自他の見境も」なく押しつける。こ
れが中華思想の本質である。

歴史の復讐
 
彼らが華々しく世界に提唱したアジアインフラ投資銀行(AIIB)も
「一帯一路」の経済発展構想も、アフリカ諸国への年来の巨額融資も中華
思想にその根源を発するものだが、一連の働きかけで中国が真に国際社会
に向かって開かれ、諸国に歓迎される国になるかといえば、そうではな
い。中華思想はむしろ、彼らの足かせになっている。古代以降、歴史の中
に中国を置いて見れば、自己中心史観の中国は常に世界との相性が悪かっ
た。これからの彼らは必ず「歴史に復讐され」ずには済まないだろうと楊
氏は結論づける。
 
では中国とは一体何か。漢民族とは一体誰か。この点を、氏はユーラシア
大陸全体を眺めてつき詰めていく。本書冒頭の「『シナ=中国』と『ユー
ラシア東部』の国家の変遷表」が雄弁に「中国」、正しくは「シナ」の実
態を示している。
 
紀元前21世紀から400年余りシナに君臨した「夏」から始まり、私たち
が暗記させられた「殷、周、秦、漢、三国、南北朝、隋、唐、宋、元、
明、清」などという中国王朝のつながりの中で、漢民族の王朝は前漢・後
漢の405年間と明の276年で計681年にすぎない、宋はシナを部分的に支配
した地方政権にすぎないというのが、氏の指摘だ。

「中国5000年の歴史」或いは「4000年の歴史」と言うが、それは決して漢
民族の歴史とイコールではなく、「古い漢人(プロトシナ人)」は184年
の黄巾の乱でほぼ消滅した。
 
では、私たちが漢民族と呼ぶ人たちの正体は一体誰か。そもそも漢民族は
自らを「民族」とはとらえず、「漢人」だと表現するという。自らを「漢
民族」ととらえない理由は、彼らには国家や共同体の概念が非常に希薄だ
からであり、それが国家と民族がほぼ同一の日本もしくは日本人との大き
な相違である。
 
また漢人にはユダヤの人々のような宗教による絆もない。楊氏に言わせれ
ば、「中国語」さえ漢人の共通語ではない。現在の中国語は1919年の「五
四運動」で起きた言文一致運動の中で、北京語が標準語とされ、それを中
国語と呼んでいるだけで、中国語、即ち北京語が漢人をつなぐ共通の要素
ではないというのだ。
 
国家、共同体、民族、宗教、言語のいずれも、漢人の漢人たる共通基盤
ではない中で、限りなくバラバラになりがちな彼らをひとまとめにする強
力な共通項となったのが漢字だった、と見るのは楊氏だけではない。だが
漢字を用いる言語体系でひとつのまとまりとなり得ても、そこから国家や
共同体の概念に基づく社会が生まれるわけではない。現代中国人が共産党
支配の下で個人の利益を国家の命運に優先させ、全てをカネで決めるかの
ような行動様式を取りがちな理由もここにあるのではないか。
 
一方で漢民族が支配した歴史がわずか700年にも満たない事実を踏まえ
て、「シナ」が生み出した輝ける文化の創造主を探してみると意外な事実
が判明する。

「横に分ける」
 
シナの優れた文化といえば、日本人は恐らく唐を思い浮かべる。わが国は
遣唐使を派遣して、彼らから大いに学んだ。現代中国でも一時期「唐王李
世民」というドラマが大人気で、「唐は漢民族の歴史で最も華やかな時
代」と国民に教育されていた。しかし、近年の歴史研究によって、唐は漢
人ではなく「鮮卑拓跋(せんぴたくばつ)人」が樹立した王朝であること
が証明され、その事実が知れ渡るに従って、中国共産党は唐を褒めそやさ
なくなったそうだ。シナの歴史で唐の次に華やかな時代は元であったが、
元はモンゴル人の王朝だ。結局、現代中国人には漢民族による、誇るに足
る輝かしい歴史は存在しないと、楊氏は結論づける。
 
氏の著書で私が最も啓発されたのはユーラシア大陸を「横に分ける」と
いう視点である。日本の研究者がカザフスタンやキルギスタン、パミール
高原、天山山脈とアルタイ山脈、サヤン山脈をつなぐ線を軸にユーラシア
大陸を縦に分けて考えがち(どうぞ、地図を見てほしい)なのに対して、
モンゴル人、ロシア人、中国人は横に分けて考えるというのだ。
 
横の境界線の第一が古代シナ人の作った万里の長城である。万里の長城
から北極圏までと、万里の長城から西のヒマラヤ山脈、イラン高原、さら
に黒海南岸をつなぐ横の線で分割して思考するという。非常に斬新かつ示
唆に富む指摘ではないか。
 
いま大きく動く世界の中で、日本は間違いなく正念場にさしかかってい
る。勝負のし所は、中国との向き合い方、中国に優る日本の価値観を以て
どこまで世界への貢献を具体化していけるかである。中国の実態をよりよ
く知り、己を知るためにも、楊氏の著書は必読であろう。

『週刊新潮』 2016年9月8日号
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◆木津川だより 高麗寺跡 

白井 繁夫


古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は20100m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であり、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あやし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺です。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりました。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こまひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これからは以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川市教育委員会

   2015年8月23日 (再掲)