2013年11月24日

◆日本非難の本ばかり(1)

平井 修一


大東亜戦争に関する戦後の書物の多くはGHQと共産主義者の共通認識「日本悪者論」「自虐史観」に汚染されている。いかにひどいか、恐ろしいほどである。先日、満洲国についておおよそのことをレポートしたが、その際に図書館の開架で満洲関係の本をざっと見たのだが、こんな具合だった。

■「昭和二万日の全記録」(講談社、1989年)編集委員:原田勝正、尾崎秀樹、松下圭一、三國一朗

内容例:各地で争議は頻発し、社会運動への弾圧、思想弾圧はますます強化され、対外強硬派は大陸への野望を実行に移し、張作霖が爆殺される<小生の印象:原田勝正は日共が評価する遠山茂樹らの日本近代史研究会同人。「戦前真っ暗史観」の本である>

■「キメラ 満洲国の肖像」(中公新書、1993)山室信一著

内容例:満洲国が消滅しても、その地に生き続けている人々にとって、満洲国がつけた傷はうずき続けて消え去りはしないのである<山室信一は岩波・朝日文化人、9条教信者>

■「満州帝国」「満州」「満州帝国の戦跡」「写真で見る満洲全史」(河出書房新社、1996、2005、2008、2010)太平洋戦争研究会編

内容例:日本は中国に戦争を仕掛けた<太平洋戦争研究会は左翼系の研究者が多い>

■「大連歴史散歩」(皓星社、2007)竹中憲一著

内容例:日本軍は大虐殺をした<著者は中共とのつながりが深い>

■「満州国 虚構の国の彷徨」(光人社、1991)秋永芳郎著

内容例:陸軍中央部と関東軍の野望<満洲国は軍国主義日本の歩みと共に建国され、敗戦と共に潰え去った傀儡国家だという。GHQを真似ての口パクパク、自虐史観の典型みたいだ>

■「満洲の歴史」(講談社、2008)小林英夫著
内容例:張作霖に代表される政治指導者たちは高い政治統治能力を持っていた。それを「軍閥」という名称のもと、古いイメージでこの地と向き合った、この大いなる錯覚が東北をめぐる日中関係の不幸の始まりだったのではないか
<張作霖が偉大な指導者? 著者は岩波、大月、青木など左翼系出版社か
ら数冊刊行している>

■「満州再訪・再考」(草の根出版界、2003)黒田敞弘著

内容例:日本は日清戦争を引きおこし、旅順で4日間に2万人の庶民を虐殺した<この事件は米国の新聞記者一人が「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じたもの。他の記者は誰も見聞していない。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があり、現在の中共は2万名弱としている。著者は高校教師でありながら中共の口パクパクで反日教育の後押しをしているのだから、生徒はたまったものではない>

■「決定版 昭和史」(毎日新聞社、1984)

内容例:満州事変は関東軍の暴走で始まった
<「日本悪者論」の定番パターン>

いやはや、まず、まともな本がほとんどないと言っていい。「まともではない」というのは、「極悪非道の日本という暗黒史観を前提にし」「公正な観点、平衡感覚が欠落し」「世界の中の日本という視点がなく」「事件当時の証言、資料、空気の検証が弱い」ということである。

なぜこんな異常、異様、奇妙奇天烈なことになったのか。それを書いていこうと思っていた矢先に出会ったのが「大東亜戦争の総括」という本だ。

20年前の1993年(平成5)、自民党が「歴史・検討委員会」を設置し、「公正な史実に基づいた日本人としての歴史観の確立」を目的に「大東亜戦争をいかに総括するか」をテーマに講師を招いて毎月開催、20回に及んだ。これをまとめて終戦から50年目の1995年(平成7)に「大東亜戦争の総括」を編集・発行したとある(発売は展転社)。

奇しくもこの委員会の事務局長は、満洲で石原莞爾とともに関東軍を率いて満洲国建国に寄与し、戦後GHQに虐殺された板垣征四郎陸軍大将の次男、板垣正(参議院議員)だった。板垣はあとがきにこう書いている。

<政治家はもとより、日本人自身の歴史認識が深刻な危機的状況におかれていること、戦後、占領政策と左翼偏向に基づく教育の影響力の大きさを思い知らされる。しかし、どう考えても、次代の青年や子供たちに自国の歴史に対する誇りも、日本人として生きる喜びももたらすことのできない教育は、間違っていると言わなければならない。

まして、(占領軍が)一方的に日本を断罪し、自虐的な歴史認識を押しつけるに至っては、犯罪的行為と言っても過言ではない。

ここに積み重ねてきた検討の成果を広く国民の前に提示し、それぞれの講師の信念と勇気ある正論に一人でも多くの人々に触れていただき、日本人自身の歴史認識を取り戻すための契機となることを念願し、本書を刊行するに至った>

この本をベースにして「日本悪者論」「自虐史観」を粉砕していきたい。
(2013/11/20)
    <「頂門の一針」から転載>

◆徳洲会事件の裏にW

古澤 襄


徳洲会事件は政界を揺るがす大きな事件になる可能性がある。東京地検特捜部は事件の真相を知るWから事情聴取をしているという情報がある。

Wは石原前都知事と親しく徳洲会の徳田虎雄氏のところにも出入りしていた。猪瀬直樹都知事と徳田氏の橋渡しをした可能性が取り沙汰されている。

■徳洲会施設に補助金7億5000万円 猪瀬氏副知事時代

医療法人徳洲会グループは東京都内にも病院・保険施設を抱えており、猪瀬直樹都知事が副知事だった時代には、グループが開設した老人保健施設に都が約7億5000万円の補助金を支出していた。

グループは東京都内に総合病院として東京西徳洲会病院(昭島市)を運営しているが、昨年5月にグループ傘下の特定医療法人「沖縄徳洲会」が老人保健施設「武蔵野徳洲苑」(西東京市)を開設した。

武蔵野徳洲苑の工期は平成22〜23年度の2年間で、沖縄徳洲会が西東京市に設立を申請し、都が近隣に所在する施設数などを考慮して150床を認可した。

150床規模の施設の場合、都は最大で9億6千万円の工事費を補助している。沖縄徳洲会は一般競争入札で工事業者を選定し、工事額全額の7億4970万円の補助を受けた。(産経)2013.11.23

<「頂門の一針」から転載>

◆国を守る気概がなければ

加瀬 英明
    

テレビを観ていたら、今年は学徒出陣の70周年に当たるが、出征した学生の記録が各大学にないために、いくつかの大学で職員が事務室で調べているところが、放映された。

私は学徒出陣を称える風潮を、好まない、大学生は開戦から1年11ヶ月後に戦況が不利になると、昭和18年10月にようやく徴兵猶予が解かれて、入営した。

だが、イギリス、ドイツ、アメリカなどの諸国では、大学生は開戦とともに真先きに入隊して、前線に赴いている。

なぜ、大学生は悼まれるのに、庶民兵は軽く見られるのだろうか。庶民が出征する時には、神宮外苑の観客席を埋めた女子学生が歓呼して見送り、首相が親しく激励することがなかった。今でも日本を蝕んでいる学歴崇拝の心理が、働いているのだろう。

私は学徒兵の名誉を傷つけるつもりはない。ある学徒兵の遺書から、引用したい。

「私ノ肉体ハココデ朽ツルトモ私達ノ後ヲ私達ノ屍(しかばね)ヲノリコエテ私達ノ礎(いしずゑ)トシテ立チ上ツテクル第二ノ国民ノコトヲ思ヘバ又之(これ)等ノ人々ノ中ニ私達ノ熱キ血潮ガウケツガレテヰルト思ヘバ決シテ私達ノ死モナゲクニハアタラナイト思ヒマス」(茶谷武(たけし)・昭和20年ルソン島において二十四歳で戦死。『続・いのちささげて―戦中学徒・遺詠遺文抄』国文研蔵書叢書20)

いったい敗戦後68年たって、この学徒兵の「熱き血潮」を受け継いだ国民が、いるものだろうか。

今日でも、国を守る必要があることは、変わりがない。だが、国民に国を守る気概がなければ、日本を外敵から守ることはできない。

しばらく前に、私はイギリスのオクスフォード大学を訪れたことがあった。学生食堂の壁に大きな銅板があって、第1次、第2次世界大戦で戦死した学生全員の名が刻まれて、そのうえにただ「CARRY ON」(あとに続け)と、書かれていた。

一国の独立は国を守る決意があって、はじめて可能になる。

アメリカの占領下で警察予備隊が誕生し、独立を回復した年に、保安隊と改称された。当時の新聞記事によると、予備隊のころから部隊が駐屯地がある地方都市や、町の大通りを行進すると、住民が沿道に並んで、日の丸の小旗を振って、歓呼したものだった。

演習に出かけると、旧軍と同じように農家の主婦たちが机を並べて、口々に「兵隊さん、ご苦労さま」と声をかけて、茶を汲んだ。

独立を回復すると、衆参両院が全会一致で法改正を行い、戦犯として法務死した人々も戦死者として、遺族年金を支給することになった。また、戦犯として刑期をつとめていた人々の、即時釈放を求める決議を行った。

2年後に、保安隊が自衛隊に改編された。戦車隊が銀座大通りを都民が人垣をつくって、歓呼するなかを行進している写真がある。まだあのころの日本国民は、国防意識が高かった。

その後、国防に対する関心が、年を追って衰えていった。これは、けつして“平和呆け”によるものではない。ソ連が解体するまでは、米ソ冷戦下で高い緊張が続いていた。しかし、日本国民がアメリカによって守られることに、すっかり馴れてしまううちに、“保護呆け”を患うようになった。

いま、中国の脅威が募る一方、アメリカが力を衰えさせつつある。

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月23日

◆失敗したアメリカの中東政策

古澤 襄


アメリカの中東政策は失敗した。ブッシュ政権が起こしたアフガン戦争、イラク戦争はイスラム過激派やタリバンの復活を招いている。

この戦争はアメリカの強大な軍事力によって反米勢力を粉砕したかにみえたが、相次ぐ爆弾テロによって駐留米兵の犠牲が増大した。米国内で反戦ムードが高まり、オバマ政権は撤兵せざるを得なくなった。

米国とアフガニスタンの両政府は2014年以降も一定規模のアフガン駐留協定で合意したが、アフガン国内の反米傾向が納まる気配がない。いずれはイラクと同様に全面撤退を余儀なくされるであろう。

シリアでも米国は影響力を失い、親米国家だったエジプトも混迷から抜け出すことが出来ない。中東におけるアメリカの影響力はもはや皆無と断じててもいい。残るのはアルカイダ系の過激派の伸張ではないか。

オバマ政権が中東から手をひくことにイスラエルやサウジアラビアが危機感を深めているが、アメリカには為すすべがない。イスラエルが単独でイラン攻撃をする可能性すらある。

■米国とアフガン、14年以降の駐留継続に向け協定案で合意

<[カブール/ワシントン 20日 ロイター]米国とアフガニスタンの両政府は20日、米軍による2014年以降のアフガン駐留継続に備え、米兵の地位を定める安全保障協定の最終案について合意した。

アフガン政府が発表した合意案によると、争点となっていた軍事作戦については、「米国が単独で対テロ作戦を行わず、米国とアフガンの国益を保護する意図を持って」二国が協力すると規定したが、米軍の単独行動は完全に排除されていない。

また、米兵がアフガン国内で犯罪や民間人への攻撃を行った場合、米国側が裁判を行う独占的権利を持つとされている。この協定案は、21日からアフガンの有力者らが参加して行われるロヤ・ジルガ(国民大会議)で協議される。(ロイター)2013.11.22

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月22日

◆伊勢雅臣氏の「韓国論」を読む

平井 修一


もう10年も前だがブログ「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「抗日史観を国家の背骨にせざるをえない韓国の“お家の事情”」を書いている。

伊勢氏は昭和28年東京生まれで現在は60歳。理工系で東京工業大学卒、製造業に勤務し、大学の非常勤講師、社団法人国民文化研究会(注1)理事 も務めた。

現在の国民文化研究会の常務理事の一人に伊佐裕氏(伊佐ホームズ社長)がおり、小生の横浜市立大学時代の友人から「伊佐君とは福岡の修猷館高校で同期だ」と聞いていたから、もしかしたら伊勢氏は小生の友達の友達の友達なのかもしれない。

それはさておき、表題の論文は韓国を理解する上ですこぶる参考になる。ポイントを転載する――

1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。

しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切報道しなくなった。

朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇である。

日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むのが韓国の特異な歴史観である。

この点を知らずに「日本が心から謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考えているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけである。

韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんでいる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。

<われわれが光復(独立)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあるということができる>

確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続けるのみであった。

そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認されていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認められる可能性はあったろうが、それすらもなかった。

終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝えられている。

「韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わたしは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった」

それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。

呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物には、民族の旗「太極旗」が翻った。

しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しばらく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。

朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名余りの代議員を集めて「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを無視した。

9月8日、米軍が仁川に上陸すると「朝鮮人民共和国」の代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。

9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。

なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか? 一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。

もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲国軍中尉だった。

こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。

「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって戦争に邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立させたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞うはずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが2、30年の信託統治を考えたのも十分理解できる。

1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだした金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛成した。

米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。

結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカから与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は見あたらない。

韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的である。

インドもインドネシアも(日本の協力もありそれぞれ英、蘭という白人宗主国から)自ら独立を勝ち取ったという厳然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要はない。

独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が必要であり、インドもインドネシアも十分な反抗期をもったからこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。

それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それに対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそれを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出して、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の「背骨」にしているのである(注2)。

韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「国定史観」を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわが国が受け入れなければならない理由はない。そのような事をしたら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づくべき歴史学の健全な発展を阻害することになる、云々。

・・・
注1)現在は「公益社団法人国民文化研究会」。定款には「この法人は、日本の長い歴史の中に蓄積された祖先の足跡を学び、国民各層への伝統文化の普及に努めるとともに、国内外で活躍する有為な青年の健全な育成を推進し、もって文化の振興並びに豊かな人間性の涵養に寄与することを目的とする」とある。

伊勢氏は「戦前は東条内閣の言論・経済統制に反対し、戦後は日教組の偏向教育に反対してきた気骨ある団体」と書いている。

注2)「抗日」を国家の「背骨」にしているのは中共も同様で、彼らが皇軍を破ったというのは暴虐な政権に正当性を与えるためのプロパガンダ、大嘘である。

蒋介石秘録にはこうある。

<公式に残る戦史では中国軍と日本軍の戦闘は、小戦闘3万8931、重要戦闘1117、大会戦22の計4万7000回に及ぶが、第八路軍(共産軍)が戦闘に参加したのは平型関(1937年9月、1個師団)と山西南部遊撃戦(1938年春、2個師団)のたった2回にすぎない。このことは、連合軍参謀長ウェデマイヤーの報告によって確認されている通りである。

毛沢東の思想を吹き込まれた第八路軍が、まともに抗日戦を戦うはずがない。彼らは兵力の損耗をおそれて日本軍とは正面から戦わず、政府軍(国民党軍)の力で勝ちとった戦果を横取りし、あたかも彼らが勝ったかのように宣伝することのみ力をそそいだ>(2013/11/19)

<「頂門の一針」から転載>

◆「朝三暮四」のオバマケア

Andy Chang


「朝三暮四」の故事は、朝に3個、暮に4個のどんぐりを猿に与えたところ、猿が少ないと怒ったので、それでは朝に4個、暮に3個としたら猿が満足したという。これは「朝令暮改」とも言って、命令ガコロコロ変る例えに使われる。オバマがこの故事とソックリな新命令を下して散々な目にあっている。

オバマケアとはオバマの政治生命を賭けた国民皆保険制度のことだが、3年来実施不可能と言われていたのに強引に実施したあと、トラブルはたくさん起きた。オバマはトラブルを解決するため、昨日(14日)問題を解決すると称して新命令を下した。ところがこの新命令で反対の声が更に高まった。

オバマケアは国民皆保険制度で、主旨は保険に加入していなかった4千万人を強制的に加入させ、全国民が医療保険を受けられるようにした。無保険の若者が参加すれば保険費が安くなるという。

だがオバマは低所得層の国民は政府が保険費を払うとした。保険費は国税で払う。そうすると既に17兆ドルを越えた国家負債が更に増え、増税を余儀なくされる。オバマは国民皆保険で国民に強制参加させる法律をつくり、歴史に名を残す野心があった。しかし彼はオバマケアで史上最悪の大統領となるだろう。

●国民皆保険は実施困難

アメリカの医療保険は全国50州が各自の保険制度を作っている。政府の保険ではなく、保険会社が各地方の人口、保険費、医薬、入院料などを考慮して数十種のプログラムを販売している。個人保険もあるが、普通は会社が社員の保険費用を一部負担する。

同じ州でも都市と地方では保険費が違う。それだけに問題は大変複雑なのだ。オバマが統一プログラムを作っても連邦保険を売るのではなく、各州がオバマケアの条件に沿って個別のプログラムを販売する。つまり全国の未加入者が加入しても保険費は安くならないし、貧乏人の政府負担を入れれば保険費が高騰するだけだ。

オバマはオバマケアの宣伝で、(1)個人が保有していた保険と、従来の医者を保留できる、(2)オバマケアで保険費が2500ドル安くなる、と全国行脚で26回も約束した。この二つの確約が二つとも不可能とわかっていたことも判明している。連邦の記録(FederalRegister)によるとオバマ政権は2010年7月で既にオバマケアが実施不能であると知っていたと言う。ウソを承知で実施したのである。

●ウソだらけのオバマケア

10月1日にオバマケアが実施されるとコンピュータートラルでログインできないことがわかった。オバマ政権はこのプログラムに3億3千万ドル以上も支払ったが、実施以来6週間で27000人が契約できただけ。オバマは来年3月末までに全国民の加入、未加入者は罰金を科するが、プログラムに問題があって加入出来ない。

更に大きな問題は、オバマケアの強制条件では保険会社は赤字になるので末期がん患者、持病のある人など5百万人が保険を解約された。新契約では保険費は数倍になる。オバマの確約した保険と医者の保留が出来ず、保険費は逆に数倍になる。

新契約が27000人で解約が5百万人である。しかも来年1月には社員50人以上の会社は社員健保を強制されるので、中小企業は雇用人数を50人以下にする。このため失業者増加と健保解約が1.2億人以上になると予想されている。アメリカの人口は約3億だから1.2億人の解約があればオバマケアは実行不可能ということだ。

●無謀なオバマの解決策

さて、昨14日のオバマの発表した「解決策」とは解約通知を受けた5百万人の契約を「来年12月まで継続する」許可を与えるというのだ。来年11月には中間選挙があるので、オバマケアのため苦戦する民主党員を考慮して年末まで延期するのだが、以下に述べるように問題が山積している。

(1)オバマケアは法律であり、大統領が勝手に延期命令をだす権利はない。違法行為である。

(2)契約は保険会社の権限でオバマに契約、解約の権利はない。各州の保険コミッショナーが同意し、各会   社に通知して実施する。各州のコミッショナーが同意するかどうかは不明。

(3)健保会社が同意してから解約5百万人に通知を送り、契約を延期できる。保険会社は契約続行で大赤字と   なる。

(5)保険契約は1月1日に発効するので、契約変更まで6週間しか残っていない、時間不足、実施不能である。

(6)命令を発布しても実行できなかったら会社の責任でオバマの責任ではないと言う。オバマはパンドラの   箱を開けただけだ。

一年だけ延期の許可を得て、オバマの「健保も医者も保留できる」確約が一年だけになった、一年後は保留できなくなるが、国民が朝三暮四の猿のようにこれで満足できると思っているのか。これぞまさに「朝令暮改」、国民をバカにしている。

●地に堕ちたオバマの名誉と野心

オバマは医療保険を統一して成功すれば功績は歴史に残るといった野望があった。失敗したらオバマの名誉は地に堕ちる。オバマの支持率は39%まで下がり、それが事実となりつつある。

医療保険とは高騰する医療費のため多数の加入者を集めて個人出費を少なくするのである。だがオバマは国民全体を加入させ、不参加者や不参加の会社に罰金、貧乏人の費用を政府補助にした。

無理な条件が山積して、しかもそれを知悉していたのに強引にオバマケアを通し、政党二極化が顕著になった。オバマ独裁で共和党を押さえ続けてきた。結果が今のオバマの失墜である。

オバマケアは来年になるともっと問題が噴出するといわれている。オバマケアで来年11月の中間選挙は民主党惨敗と予想されている。共和党が勝てばオバマケアを廃止するだろう。アメリカ国民のために歓迎すべきである。
    <「頂門の一針」から転載>


2013年11月21日

◆JR北は破綻処理するしかない

屋山 太郎
 

平成23年5月に石勝線で特急がトンネル内で脱線・炎上し、乗客79人が負傷する事故が起きた。これを機に、JR北海道の事故や不祥事が続発している。

乗務員のアルコール検査を昨年まで組合側が拒否していた一事をみても、この会社の異常さが分かる。本社が現場に送ったとされるブレーキ部品について発送記録も現場が受け取った記録もないというのは、信じ難い“無政府状態”だ。

 ≪国鉄分割・民営化時と酷似≫

経営側も組合側も、それぞれの言い分を言っているが、今の状態は、国鉄が二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなって、分割・民営化されたときの状況とうり二つである。

当時、国鉄は国労、動労、鉄労の組合が三つ巴(どもえ)の抗争を繰り広げていた。国労の富塚三夫書記長が「国鉄が機能しなくなれば国力が落ちる。そうすれば革命がやり易(やす)くなる」と言うのを聞いて、「絶対に国鉄を民営化しなければならない」と決心したものだ。

結局、国鉄は貨物会社も含め7つに分割・民営化されたが、再生に当たり、経営側は動労を取り込んで“革命的労働組合”を分断統治した。国鉄ストに実力を発揮するのは運転士組合(動労3万人)であり、これを崩した結果、23万人の国労は蹴散らされた。

民営化後の組合は、かつての鉄労系が中心となったJR連合系と動労、国労が支配したJR総連系という2大勢力体制となった。問題は、革マル系が牛耳る少数派の動労系が巨大勢力になったことだ。

箱根以西のJR東海、JR西日本、JR四国、JR九州で革マル系のJR総連は少ないが、JR東日本とJR北海道では総連系が80%を超す。東日本と北海道では総連系の組合員が他の組合員の結婚式に出ただけで組合幹部から脅されるという。国鉄時代は、先鋭的な組合の分会長が会社側の区長を脅して休日を増やすといったヤミ協定が平然と結ばれた。

国鉄の経営が破綻したのは、何よりも、組合側に人事権と給与権を握られたことにあっただろう。組合と仲良くしなければ総裁にも労政局長にもなれなかった。その癒着について、私は文藝春秋誌(昭和57年4月号)に「国鉄労使国賊論」と題して一文を書いた。驚いたのは、全国の国鉄職員(組合も当局も)から「その通り!」と激励の声が届いたことだ。

≪巨大労組に押しまくられ?≫

JR北海道のレール検査をめぐり、同社はこの11月12日、保線担当部署が測定した数値と社内データベースに複数の食い違いが見つかった、と発表した。

車両の幅とレールの幅が規定通りでなければ脱線につながる。JR北海道本社では、函館保線管理室の社員が社内調査に対して「数値を変えた」と述べたとし、「改(かい)竄(ざん)と認めざるを得ない」と表明した。こういう重大事がなぜ見過ごされていたのか。会社側と組合側との間で、「大目に見る」という暗黙の馴れ合いがあったのではないのか。

経営側は、線路の更新には資金がなく、検査する人手がないと言う。分割・民営化に際して、北海道、四国、九州の3社の経営が苦しいことは予想された。

このため、経営安定基金として北海道に6800億円、四国に2000億円、九州に3800億円を配分して、基金の運用益を使うよう措置された。その運用益が金融情勢の変化で徐々に減り、経営が窮屈になったことは確かだろう。

だが、四国も九州も賃上げせず持ちこたえている。その中で北海道の給与だけが高いのは、経営側が強力な組合要求に押しまくられてきた帰結ではないのか。

≪労使とも一新して出直せ≫

アルコール検査をしないとか線路検査でインチキするとか、鉄道会社社員である資格などないということだ。経営側はそんな不良社員は即刻、解雇すべきだ。石勝線のトンネル事故の後、当時の中島尚俊社長は線路の点検に懸命になった。

ところが、組合側は、休日出勤や時間外労働を押し付けたのは“36協定違反”だと経営陣を責め立てた。心労が重なって中島社長は入水自殺するに至った。

不可解なのは、JR北海道の取締役会に、坂本真一相談役(元社長)、柿沼博彦特別顧問(前会長)という、取締役以外の旧経営陣2人が毎回出席していることだ。新経営陣は前例を破ってでも現状突破を図るものだ。そこに経営を悪化させてきた旧経営陣がなぜ出席するのか。紙に書いていないヤミ協定、労組との暗黙の取引が引き継がれているのではないか。

11月7日、参議院国土交通委員会で民主党の田城郁(かおる)参院議員が太田昭宏国交相に要求した。田城氏は、革マルの総大将で動労元委員長の故松崎明氏の側近、JR総連の組織内当選者だ。氏が求めたのは(1)賃金の積み増し(2)レール補修の費用(3)枕木をコンクリートに代える−などである。しかし、問題の本質はカネではないだろう。

日本航空(JAL)は平成22年に、乗員組合、機長会の横暴の末に経営破綻した。JR北海道も経営破綻させて、経営側、組合側の双方を取り替えて再出発する以外、再建の見込みはない。(ややま たろう評論家)
  産経[正論] 2013.11.21

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月20日

◆NHKの中国迎合報道

古森 義久


NHKテレビの11月18日の日中関係についてのニュース報道を視 聴していたら、以下の断定がありました。

「日本が尖閣諸島を国有化したことから日中関係が悪化した」(朝のニュース番組での表現です)

「(日本により)尖閣諸島が国有化され、日中関係が悪化した」(正午のニュースでの表現でした)

*(いずれも視聴してすぐメモをとった記録ですが、細部の違いはあるかもしれません)

以上の報道はいまの日中関係がよくないのは日本の尖閣諸島国有化が原因だと断じています。しかもひとつの見解としてではなく、あたかも「太陽が東から昇る」式の客観的な事実であるかのように報じているわけで す。

つまりNHKはいまの日中関係の悪化はひとえに日本側に原因がある のだというスタンスを明確にとっていることになります。

日中関係が悪化したのは、日本の2012年9月15日の尖閣国有化が原 因ではありません。この「国有化」は中国が日本攻撃の理由に使っている だけなのです。

日中関係悪化の原因は中国側の言動にあります。しかも山のようにです。

しかしわが日本の公共放送のNHKは、その日中関係悪化の「因果関係」について全体の実態をみずに、中国側が望み、主張するプロパガンダをオウム返しに繰り返しているのです。

いまの日中関係の悪化については以下の原因や要因があげられます。

(1)2010年9月に中国漁船が尖閣近くの日本領海に侵入し、日本 の海上保安庁の船に体当たりした。

(2)2010年9月に 中国がその漁船の船長の処遇についての日本 側への圧力として日本企業の社員4人を逮捕した。

(3)2012年9月の日本政府の尖閣国有化は東京都による尖閣購入 への中国側の反発を鎮める措置であり、野田政権はその意図を中国側に説 明した。

(4)2012年9月から10月にかけ中国政府は全土で反日の暴力破 壊行動を扇動し、許容した。

(5)中国は2012年以来、軍艦、公艦、軍用機などを尖閣諸島の日 本領海、日本領空に頻繁に侵犯させる軍事がらみの攻勢を一段と強めてきた。 (6)中国は尖閣諸島の領有権を日本側が譲らない限り、首脳会談には応じないという姿勢をみせている。

           =======

中国側がこれだけの一方的、暴力的、軍事的な措置を取った結果、日中関係が悪くなったのにもかかわらず、わが日本の公営放送のNHKは「日本の尖閣国有化が日中関係を悪化させた」と断じるのです。

繰り返しますが、日本の尖閣国有化は中国に配慮したソフトな措置だったのです。

しかも日本が固有の領土だと主張する島を国有化することはごく当然であり、自然です。さらにその措置はあくまで法の論理に従う平和的な手段です。

ところが中国はその平和的な手段に対し、日本の工場や商店を破壊するという暴力的な手段を取ったのです。さらに軍事力を動員して、日本への領海侵犯、領空侵犯を繰り返すのです。

そもそも尖閣の国有化や東京都による購入は中国側による侵犯、侵入への防御的な対応でした。まず最初に中国側の侵犯行動ありき、なのです。尖閣の現状を変えようとしているのはあくまで中国なのです。

NHKはその本当の原因を無視して、長いプロセスのなかでの一段階に過ぎない日本側がやむにやまれずにとって防御の動きだけをピックアップして、「原因」だと喧伝するのです。この対応パターンは中国政府の主張とまったく同じです。

NHKの経営委員会のメンバーの方々にも是非、知っていただきたいNHKの偏向報道の実例です。
           2013.11.19      

<「頂門の一針」から転載>

◆「大村益次郎」暗殺の件(8)

平井 修一


医者である大村益次郎の軍事的才能を見抜いて彼を歴史の大舞台に引き上げたのは木戸孝允である。木戸はすっかり大村に兄事していた。木戸は伊藤博文から「海江田信義が大村襲撃犯について公然と同情論を口にしていた」という報告を受けていた。

<海江田は大姦物なり。大いにご用心。大村の一條(一件)も彼扇動と申す説これあり申し候。昨年来の私怨にて、己の非は知らず、却って大村を怨み、これまでも大村をおとし候姦謀をたびたびあい企て候由にて、土人(土佐人)などよりも、密かに気をつけ呉(?)候こともこれあり申し候>(木戸から槇村正直宛明治2年10月15日付の手紙)

長州人は海江田を嫌いぬいたろう。そのためかどうか、海江田はその後、奈良県知事に就いたが翌年不祥事で解任され、島津久光のお守り役や貴族院議員などをしていたが、中央政界で活躍することはなかった。

彼の自伝的な「維新前後実歴史伝」の刊行は長州人や周囲の冷たい視線に対して「大村との確執は大村が悪い」「俺はこれだけ国事に奔走したのだ」とアピールしたかったのだろう。その続編のつもりなのか雑誌の取材に応じて掲載されたものは“放談”となり、酷評されて晩節を汚した。

大村は急な西洋化や廃刀令推進により沸々とたぎってきた攘夷派の怒り、怨嗟に無頓着だったのか、あるいは殺されても仕方がない、防ぎようがないと覚悟していたのだろうか。

大村は一命をとりとめたが重傷で、傷口から菌が入り敗血症となる。10月大阪病院に入院するが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。しかし勅許を得ることに手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなってしまった。10月27日に手術を受けたが11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化、5日の夜に死去した。享年46。

木戸は伊藤宛の手紙で「大村没去の報到来。力も落ち、勢御座なく候。痛惜限りなく、御降察下さるべく候」と、いかに落胆が大きかったかを書いている。

「暗殺によって大村益次郎を失った木戸の政治力は、ただでさえ強圧的な薩摩、とくに大久保利通のまえで確実に弱体化していった。気落ちした木戸の心身はそれ以後、消耗の度合いを深めてゆき、明治10年、ついに病死」(木戸孝允館)してしまった。

大村は自己の死を予感していたのか、手帳には次の歌が残されていた。自歌ではなく、文久3年に切腹した長州藩幹部で開国派の長井雅楽の辞世の歌だった。

今さらに何をかいはん代々を経て君のめぐみに報ふ身なれば君のためすつる生命は惜しからで ただおもはるる国の行く末

最近亡くなった島倉千代子の歌「東京だョおっ母さん」は日本人の涙を誘ったものである。

(せりふ)ねえ おっ母さん戦争で亡くなった兄さんここにねむってるのよ

♪やさしかった兄さんが田舎の話をききたいと桜の下でさぞかし待つだろおっ母さんあれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも

(せりふ)ねえお兄ちゃんお兄ちゃんが登って遊んだ庭の柿の木もそのままよ見せてあげたいわ
(作詞野村俊夫、作曲船村徹、昭和32年)

皇軍の将兵が死を恐れず勇猛果敢に戦うために、また命を捧げ英霊となった将兵が崇敬され、この地で再会できるようにと大村は九段坂上に靖国神社まで作った。緻密な合理主義者の面目躍如だ。

神社の大村の銅像は明治26年(1893)に建立された。上野の山にたてこもる彰義隊討伐に際して江戸城から指揮を振るう姿と伝えられる。大村も吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作らとともに維新殉難者として靖国神社に祀られている。合掌。(おわり)(2013/11/17)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月19日

◆不動産王らが逃げ出した

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」

<平成25(2013)年11月18日(月曜日):通巻第4067号>

欧米企業、香港不動産王ばかりか、今度は中国の不動産王らが逃げ出した
不動産タイクーンらは本能的に不動産バブルの崩壊を知覚している

中国最大の不動産デベロッパーは万科集団(英語名VANKE)。すでに欧米各地に豪華マンションを建てた。大手の「SOHOチャイナ」はニューヨークの豪華物件を購入した。

そこにはブラッド・ピットやレオナルド・デカプリオが入居しているという。

中国財閥第一位の大連の万達集団(王建林社長)は、不動産から娯楽産業へのシフトを図り、世界最大の映画館チェーンをねらって全米最大チェーンを買収し、本場ハリウッドに乗り込んで映画製作に乗り出すと表明した。

青島に巨大なスタジオを建設して中国最大の「映画村」とする。不動産が本業だった時代に比べると、王建林ははやばやとバブル崩壊を見越して次の時代を先取りしていることになる。

王は「財産の5分の1は海外事業展開に振り向ける」と豪語した。

すでに小誌でも報じたように欧米の金融機関の中国撤退は顕著、狂気の投機の結果、中国至る所に幽霊マンション、ゴーストタウンが林立している。内蒙古オスダスが悪名高いが、河北省唐山、遼寧省の栄口も巨大都市が完成し、入居ゼロに近く、「夜間は真っ暗闇になる」と新華社も伝え始めた。

不良債権の爆発は時間問題。「しかるに大都市で不動産価格が不思議に上昇し続けており、また2番目のマンション購入は70%の頭金、しかも20%の税金が課せられるというほど当局は冷却化政策をとっているにも拘わらず、一体誰が買っているのか?地方の幽霊マンションは地方政府、銀行、国有企業がひそかに購入してバランスを取っているが取引価格は不明」(英誌エコノミスト、11月16日号)

つまり庶民には手が届かず、中産階級がいかほどの購入をしたかはまったく分からない。中国経済の闇である。

大手コングロマリットの「複星国際集団(英語名FOSUN)」は、NYのワンマンハッタンプラザ(複合の摩天楼)を購入し、またSOHOチャイナはウォールストリートに近い地区にあったGMビルを購入した。

<「頂門の一針」から転載>

◆封印された外務省の失敗

伊勢 雅臣


日米開戦を防げず、逆に真珠湾「騙し討ち」の口実を与えた外務省の失敗。

■1.米国での慰安婦像設立に明確に反対しなかった外務省

ロサンゼルスの北にある人口19万人のグレンデール市に、韓国系市 民、議員らが中心となって、慰安婦像を設立した。韓国は同様の慰安婦像 の設立を全米20カ所以上で進めようとしている。

韓国側の国際「反日」広報活動に対して、本来なら外務省こそ先頭に立って、戦わなければならないはずだ。しかし一向にその姿が見えない、と思っていたら、事の真相を伝える記事が現れた。[1]

市議会が開いた公聴会では、反対する100名以上の日系市民も集まる 中で、慰安婦像設置の先頭に立つフランク・キンテロ議員(ヴェネズエラ系米人)が次のような発言をした。彼は韓国に2回も招かれて、日本大使館前の慰安婦像を訪問したり、元慰安婦に会ったりしている。

<第一は、ロスの日本領事館にこの件について問い合わせたが、領事館からはまったく抗議の言葉はなかった。第二には、日本とメキシコにある姉妹都市にはすべて通知してあり、彼らの同意を得ている。>[1]

ある日本人有志がロスの総領事に事情を問い合わせた。総領事はこの問題で市長に会いに行ったようであるが、何を話したのか、何も語らなかった。

逆に「穏便に、韓国側の感情を逆撫でしないように」と注意されたと いう。これから察するに、「抗議の言葉はなかった」というキンテロ議員の発言は全くの嘘ではなかった。

また、グレンデール市の姉妹都市・東大阪市はこの事業に反対する意思を外務省を通じて表明したが、その反対表明は外務省か総領事館で留め置かれ、グレンデール市には伝えられなかった。キンテロ議員は、東大阪市に通知をしたのに、反対の意思表示を受けていないので、「彼らの同意を得ている」と強弁できたのである。


■2.外務省の不作為

像の設立後、グレンデール市のウィーバー市長はインタビューで「1千通を超す(抗議)メールを受けた」とし、「グレンデールが日本人の最も憎む都市になったことは残念だ」とも述べた。[2]

実は、この市長は5人の市議会議員の中で、唯一、反対票を投じていた。もし、総領事館が事前に「こんな像を建てたら、グレンデール市は日本人の反発で受けるだろう」と明確に「抗議」し、また東大阪市の反対意見を伝えていれば、キンテロ議員の発言は防げた。市長はそれをテコにあと2人の市議を説得して、否決に持ち込めたかも知れない。

相手の実情を探り、相手の中にも味方を見つけて、後押しするのは、外交の定石の一つだ。それがまったく成されていない日本外交には、二つの問題がある。

一つは、韓国系団体が全米各地で慰安婦像を建てて、反日広報を展開しようとしている意思を認識しておかなければならない。その狙いが分かっていれば、いくらこちらが「穏便に」図っても、相手は「穏便に」は対応してくれない、と分かったはずである。

もう一つはそもそも外交とは「穏便に」だけの事なかれ主義では済まない。主張すべき時に主張しないと、後で事が余計にややこしくなる。今回もグレンデール市に対して、強硬な反対を表明していれば、騒ぎは未然に防ぐ事ができ、さらに同様の慰安婦像建設を全米に広げようという韓国の策謀の芽を事前に摘めた可能性がある。

外務省が、やるべき事をやらずに国益を害しているのは、まさに不作為の罪である。しかし、実は外務省は同様のパターンで、もっと巨大な歴史的不作為をしている。日米開戦時の外交である。

■3.ルーズベルト政権のペテンを暴露できなかった日本外交

日米戦争が決定的になったのは、1941年11月26日にハル国務長官が 日本側に全面的な中国撤退を求める『ハル・ノート』を提示した時である。これで日本政府はルーズベルト政府には和平意思がない事をようやく 理解し、12月8日の真珠湾攻撃を決断する。

しかし、このハル・ノートは実は米国内でも知らされていなかった。戦後、ハル・ノートの存在を知った当時の共和党下院リーダー・ハミルトン・フィッシュは後に自らの著書で、こう記している。


「1941年11月26日、ルーズベルト大統領は、日本に対し最後通牒を送り、その中で日本軍のインドシナおよび中国(満洲)からの全面撤退を要求した。この最後通牒により、日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルトにあると言うのは、歴史的事実である」。[3,p33]

ルーズベルト大統領は、ハル・ノートを議会や国民には知らせず、日本に真珠湾攻撃に追い込み、それを「騙し討ち」として議会演説して、対日戦争に持ち込んだのである。

そもそもルーズベルトはその1年前の大統領選挙で、次のように米国の不参戦を公約として当選していた。

「私は、母であり、あるいは父であるあなたがたに話すにあたって、いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べたことがあるが、今後何度でも繰り返し言うつもりである。「あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない」[3,p82]

この選挙公約がなされたのは、当時の世論調査でも米国民の97%が欧州での戦争参戦に反対していたからである。それを公約としてルーズベルトは大統領に当選していた。

したがって、その公約の裏で日本にこのような「最後通牒」を送っていたことが暴露されたら、共和党が猛反発し、米国民もルーズベルトに騙されていたと激怒したであろう。

実際に12月4日、ルーズベルトが密かに作っていた「戦争計画」が暴 露され、ルーズベルトは大変な窮地に陥っていた。同時期にハル・ノートを公表していれば、ルーズベルトは、日米和解に動かざるをえなかったであろう。

この程度の事は米国の新聞を読んでいれば、素人でも考える事だ。それがプロの外交官がしなかったというのであれば、まさに不作為の罪としか言い様がない。

■4.日露戦争での鮮やかな広報外交

大東亜戦争開戦時の外務省の不作為ぶりに比べて、日露戦争時の日本外交は同じ国とは思えないほどの鮮やかな対照をなしている。

日本政府から米国での世論工作に派遣された金子堅太郎は、セオドア・ルーズベルト大統領(日米開戦時の上記フランクリン・ルーズベルト大統領は従弟)とハーバード大学で同窓だったという縁を生かして米政府に日本の大義を説き、全米各地で英語による講演を行って日本支持の世論を喚起した。

たとえば、金子はロシアのマカロフ海軍大将が日本海軍の敷設した機雷によって亡くなった時、その戦死を悼む発言をした。それは当時の米国民の抱いていた騎士道精神、キリスト教精神を強く刺激した。

ロシア側の広報官ウフトムスキー公爵は「キリスト教徒 対 異教徒」という構図で、欧米での支持を求めたが、たとえば、ロシア寄りのスタンスをとっていた数少ない雑誌の一つ『ハーパーズ・ウィークリー』誌には、次のような読者からの投書が寄せられていた。

「試しに、貴誌の読者諸賢にウフトムスキー公爵の論評と、ほぼ2、3日おきに新聞で報道される金子男爵の演説を比べてみてもらいたい。金子男爵の慎み深さと真にキリスト教的な奥床しさと、ウフトムスキー公爵の尊大な発言とを。結局、少なくとも論理的思考力、判断、演説という点において、ロシアは文明のレベルで決定的に日本に劣っている、と認めることになるだろう」。[4,p164]

こうして米国の世論を日本びいきにしたことで、日本国債による戦費調達も可能となり、またルーズベルト大統領が頃合いを見計らって調停に乗り出した。金子の広報外交がなければ、日露戦争の勝利はおぼつかなかった。

■5.最後通告の手交遅れという大失態

日米開戦時の外務省は、不作為というだけでなく、取り返しのつかない失態をしている。最後通告の手交を、真珠湾攻撃の30分前に行う予定だったのが、準備の不手際で1時間2尾分も遅れ、そのために「騙し討ち」との言い分をアメリカ側に与えてしまったのである。

その遅れた理由が、当時の外務省の体質をよく表している。本省からは重要な文書を送るので、現地のタイピストを使わないように指示があった。この時、大使館の日本人でタイプを打てるのは奥村勝蔵という一等書記官一人しかおらず、それも一本指でポツポツと打てるだけ。しかも奥村書記官は大使館の送別会に出席し、その後もポーカーに興じていて、翻訳・タイプの着手が遅れた。

本省側から指示された時間を、1時間20分も遅れて野村大使と来栖大 使はハル国務長官に最後通告の文書を渡した。ハルは文書の内容は暗号解読によってすでに知っていたのだが、初めて読んだという演技をして、「騙し討ち」だと怒りを顕わにした。

この致命的な失態には、外交官としての能力や判断力がいかに欠けていたか、が如実に表れている。

そもそも当時の大使館で、タイプの打てる日本人が1人しかいなかった、という事からして驚くべきことだ。外交官として国費で留学や語学研修をしているのに、タイプもできないというのは、どうした事か。

判断能力の面でも、そもそも日米が開戦するかどうかの瀬戸際で、本省から事前に「予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ」との事前の指示があったにも拘わらず、館務の責任者・井口貞夫参事官は緊急体制をとらず、主要な大使館員が送別会に出ていた。

その後の対処についても、なっていない。ハルが回想録にこう書いている。野村は指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかできていなかったとしても、あとはでき次第持ってくるように大使館員に指示して野村は一時きっかりに会いに来るべきだった、と。

いずれにせよ、この程度の初歩的な失態で、日本は真珠湾の「騙し討ち」という歴史的な汚名を着せられたのである。

■6.「私はなぜ自殺しなければならないのか」

野村大使と来栖大使がハルに追い返されて戻ると、大使館の前には人だかりができ始めていた。2人は建物の中に入って、初めて真珠湾攻撃の事実を知り、ようやく本省が手交の時刻を指定してきた理由が分かった。大使館には抗議の電話が殺到し、誰もが口汚く日本を罵った。多くの新聞記者が強硬にインタビューを求めた。

その彼らに真相を伝えておかなければならないとは、野村には思いもいたらなかったようだ。仮定の話だが、野村がそのことに気づき、大使館の前で説明し、さらには責任をとるため、門前でピストル自殺でもしていれば、日本が「騙し討ち」をする意図をもっていなかったことだけはアメリカの国民に伝えることができたかもしれない。[5,p65]

だが、あいにく野村にはそういう判断をするだけの能力も姿勢もなかったようだ。その晩、大使館では磯田三郎陸海武官やその他の武官・職員が、野村の寝室を交代で見張った。野村が自責の念にかられて自殺するかもしれない、との噂がながれていたからである。

後に磯田が、そのことを野村につげると、彼は意外そうに言った。「私はなぜ自殺しなければならないのか。私は外交官である」

手交が遅れた後でも、野村大使の対応によっては、その失態を多少なりともリカバリーする余地はあったが、何もしなかった。自分たちの失敗で、祖国に取り返しのつかない、しかも言われなき不名誉を与えた、という自覚がまるでなかったようだ。

■7.「反日」広報に手が打てないのは確信犯的不作為!?

米政府は「騙し討ち」との言い分を最大限に活用して、国民を激高させ、日米開戦に踏み切った。また後に広島に対して原爆攻撃をした際にも、トルーマン大統領は、日本は真珠湾の「騙し討ち」の何倍もの報復をこうむった、との声明を発している。

しかし、野村に限らず、外務省にこの失態の責任をとろうとする姿勢はなかった。最後通告の電文が到着した晩に懇親会で外出していた奥村勝蔵は戦後、外務次官にまでなっている。同じく、緊急体制をとらなかった井口貞夫参事官も外務次官となり、その後、アメリカ大使まで勤めている。野村大使自身も、戦後、参議院議員を2期、務めている。

[5]の著者・杉原誠志郎氏は、これらは戦後、首相となった吉田茂が、 自らの出身母体である外務省の失態を隠そうとしたための措置である、としている。

吉田首相にその意図があったのかどうかはひとまず措くとして も、外務省はこの失態に関する資料も公開せず、反省も表明せず、国民に 謝罪もしていない。

外務省にとってみれば、占領軍が広めた「軍部が独走して日本を戦争に引きずり込んだ」という自虐史観は、外務省にとっても、自らの不作為と失態を糊塗するために好都合だったのだろう。

[5]では、戦後、外務省が中国の教科書干渉、「従軍慰安婦」の河野談話、「新しい歴史教科書」つぶしにおいても、不作為、そして時には、中韓側に立って日本政府の足を引っ張っていた実態を紹介している。

そう考えると、冒頭で紹介したグレンデール市の慰安婦像問題にしても、外務省が保身のために自虐史観に目をつぶっているという確信犯的な不作為なのでは、という疑いが生ずる。

だとすれば、中韓による「反日」プロパガンダで、外務省がいっこうに有効な手を打ち得ないのも、能力の問題ではなく、姿勢の問題だと言うことになる。

   <「頂門の一針」から転載>

2013年11月18日

◆「大村益次郎」暗殺の件(7)

平井 修一


矢野玄道(はるみち)は1823年(文政6)− 1887年(明治20)。国学者、神道学者で、明治4年(1871年)に「二卿事件」への関与が疑われ蟄居していたたことがある。

この二卿事件(または「外山・愛宕事件」)は明治4年(1871)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が政府転覆を謀ったクーデター未遂事件である。背景はこうだ。

<尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩・長州両藩を中心とした明治政府が成立したことにより、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は明治政府が戊辰戦争が終わると直ちに「開国和親」を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を抱いた。これは倒幕に参加していた薩長土肥の志士や公家の一部にも及んでいた。

彼らは明治政府を倒して新しい政府を作り直して攘夷断行、外国と戦うべきであると唱えていた。

その先駆けとなったのが、明治2年12月1日(1870年1月2日)に長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵隊などによる「脱隊騒動」であった。

この反乱は木戸孝允らによって間もなく鎮圧されたものの、大楽は九州に逃亡して攘夷派が藩政を掌握していた久留米藩や熊本藩の支援を受けて攘夷派志士の糾合を画策し再起を伺った>(ウィキ)

大楽源太郎は、大村益次郎暗殺犯の神代直人らが門下生であったことから首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられていたが、翌明治3年(1870)、多くの門下生が脱隊騒動を起こすと再び首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられ、山口より脱走し豊後姫島に潜伏した。

その後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。さらに久留米に走って応変隊を頼るが、政府からの追捕で明治4年(1871)に斬殺された。

矢野玄道と大楽源太郎は神道的な過激な攘夷思想と「不平士族」の魁(さきがけ)的な憤懣で共通している。神代直人らの襲撃犯、そして海江田信義も同類ではなかったか。

もっとも海江田は新政府の顕官で経済的には恵まれていたから「開国和親」や近代化は受け入れるようになっただろうが、大村の進める廃刀令などには断然反対だった。海江田は同志のような大村襲撃犯を死刑にするのは忍びなかったようだ。

<(明治2年12月19日)勤務を終えて家にいると夕方、当直の足立副長官が来訪し、「京都府から明日の20日に粟田口蹴上で行刑(刑罰の執行)があるので弾正台の立ち合いを求めてきました」と言うので了解した。

翌日に弾正台へ行くと騒々しいが、足立によると今日の行刑の罪人の姓名、罪状などの連絡がないという。それを知らずに立ち合いを諾したのは私の責任だが、急きょ、立会中止を刑場の巡察に伝えた。

弾正台官員で評議したが、死刑は天下の重大事であり、軽々しく扱うものではないということになった。刑部省が死刑を決めたのならその是非を審理するのが弾正台の役目である。このやりとりの後に刑を執行するの筋である。死刑囚でも同じ人間なのだから、きちんと審理すべきなのだ。これが天下の法則である。

京都府大参事の松田道之に「東京の弾正台本部からも何の連絡もない。法則を無視するのでは信義を失い、天裁(天の裁決)とはとても言えない」と伝え、「止刑(執行停止)すべきだ」と書いた書面を渡した。

松田は刑場へ行き行刑中止を命じた。今回の止刑は条理に基づくものだが、軽いことではないので弾正台員一同の進退を朝廷に仰ぐべしとなり、東京の弾正台本部へ二人の巡察を派遣した>

12月22日、止刑に驚いた大久保利通が上京し、海江田に言う。「止刑は天裁の命令を破棄したことであり非常にまずい。明日にでも執行すべきだ。そもそもなぜそんなことをしたのか」などと注意を促した。

海江田は「十余年来、あなたに兄事して微力を国事に注ぎ王政維新がなりました。あなたは今や参議の重任にあり、私もかたじけなくも監察の重職にある。参議と比べれば監察は下ではあるが、責任は軽くはない。たとえ大臣、参議でも非があればそれを糺すのが仕事です」

大久保がいくら言っても海江田は頑なに自説を通し、大久保は説得をあきらめた。その後しばらくすると「糾問の筋これありにつき東京へ出頭せよ」との命令が下り、海江田は薩摩藩邸預けの後に謹慎処分となり弾正台を去った。大村暗殺犯の刑執行は明治2年12月29日だった。(2013/11/16)
<「頂門の一針」から転載>

◆韓国、反日の落としどころ

黒田 勝弘


韓国に「克日」という言葉がある。反日や親日と同じく日本がらみで「日本を克服する」の略語である。「日本に勝つ」とか「日本を追い越す」と似たような意味だが、もっと精神的な意味が込められているので「日本を乗り越える」といった感じだろうか。

1980年代初め、最初の教科書問題で反日運動が高まったときに登場 した。反日世論を沈静化させるため「反日から克日へ」と政府とマスコミが一体となってキャンペーン的に使った。

つまり、日本に対して非難、糾弾するだけの「反日」は日本へのコンプレックスの裏返しで、民族感情の発散にすぎない。日本に勝つためにはやはり自分たちが力をつけるしかない。本当に日本に勝とうとすれば、瞬間的な反日ではなく持続的な自助の努力が必要だ−これが克日論である。

それがさらに「日本を克服するためには日本を知らなければならない」という「日本を知ろう」キャンペーンになった。「敵に勝つには敵を知れ」という“孫子の兵法”である。反日から克日・知日へ…と世論を誘導することでさしもの反日運動も収まった。

当時、韓国は全斗煥(チョンドゥファン)政権で日本は中曽根康弘政権だったが、米国のレーガン政権を加え「日米韓協力の最良の時代」といわれた。世論調査でも対日感情が最も良かったときで、皇太子殿下(現・天皇陛下)ご夫妻の訪韓さえ実現直前までいった。

あれから30年。今や韓国で「克日」を聞くことはほとんどない。死語になってしまったようだ。韓国が大きく強くなったためもう「克日」の必要がなくなったのかもしれない。

ところが最近、久しぶりに韓国メディアに克日論が登場した。安倍晋三政権登場以来、終始“安倍たたき”で反日世論を主導、扇動(?)してきた最大手紙、朝鮮日報(13日付)の楊相勲(ヤンサンフン)論説室長の「世界がバカなのか、われわれが度を越しているのか」と題する論評がそれだ。

最近の日韓関係に関し、ワシントンでは韓国の“意地っ張り”に批判の声が出ていると紹介した後、韓国は日本を非難ばかりしているが国際社会では韓国より日本の方がはるかに信頼度が高いと指摘し、「人が何といおうが自分たちだけでフトンを引っかぶってバンザイを叫んでいるような態度では対日問題は永遠に克服できない」と主張している。

そして「(先進国を目指し?)ここまで走ってきたわれわれにとって最後の関門は合理、理性、礼儀、冷静だ。最後の関門だが最も高い門だ」というのが結論になっている。

官民挙げての反日ムードの中で大胆な自己批判だ。朝鮮日報は韓国を代表するメディアだが、このところ反日キャンペーンからの軌道修正がうかがわれる。「克日」という言葉こそ使われていないが、自らに問題を引きつけて反日を収拾にもっていくというのは韓国でよく見られるパターンである。

識者はもちろん街の声でも対日関係悪化にイラ立ちが募っていて「早く首脳会談を開くべきだ」といっている。後は朴槿恵(パククネ)大統領がいかに対日ハードルを下げられるかだ。
産経ニュース ソウル駐在特別記者 【から(韓)くに便り2013.11.17

<「頂門の一針」から転載>