2013年11月17日

◆「大村益次郎」暗殺の件(6)

平井 修一


大村益次郎は明治2年(1869)8月13日に京都に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ、20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分。9月3日、京へ帰る。

翌4日夕刻、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の神代直人ら8人の刺客に襲われる。

静間と安達は死亡、大村は重傷を負った。前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、右膝関節を斬られ、右膝は動脈から骨に達するほど深手であった。

兇徒が所持していた「斬奸状」では、大村襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。

海江田信義は言う。

<夕方、急報があり、大村益次郎が木屋街の旅館において刺客に暗殺されたという。私は直ちに大巡察を遣わし現場を検証させ、京都府一帯に非常線を張り刺客を捕縛した。刺客は長州などの浪士だった。

その後大久保利通が東京から書(手紙)を寄せ、「大村暗殺の凶変に関して、海江田は表向きは厳しく兇徒を糾弾しているが、裏では欣然として喜んでいるのではないか、凶変は海江田の教唆によるのではないかといった噂がある」などと伝えてきた。

私はすぐに返事を書いた。「私は当日大村が来京することさえ知らなかった。人をそしるのも甚だしい噂である。今は兇徒の審問中であり、数日後になれば事実が明らかになるでしょう」と。

数日後に糾明を終えたが、国政上における大村の意向を嫌悪するあまりこのような暴挙に出たということに過ぎなかった>

「過ぎなかった」というのは「大したことではない」ということか。軍事軍政のトップ、大臣の暗殺事件をずいぶん軽く見ている気がする。

京都の安を預かる警察の長である海江田が大村の来京を知らなかったというのはにわかには信じがたいが、では兇徒に大村の旅館と宿泊日時を告げたのは誰なのだろう。海江田でなければ弾正台の彼の部下ではなかったか。

神代直人は非常線を突破して逃げ、豊後姫島(大分県)に潜伏していたが、師である大楽源太郎が政府から嫌疑をかけられていることを知ると山口へ戻り、凶行から2か月後の11月に捕縛された。捕吏が来る直前に腹を切ろうとしたが死にきれなかった。

「朝廷エ御願出控」という史料は、山口藩から政府への届書・願書などを綴ったもので、その中に神代直人の捕縛報告書と供述書がある。

まず捕縛報告書。

<神代直人
右の者は先だっての京都における暴動の所業により早々召捕るよう御布令があり、精々探索していたところ、10月上旬、豊後国姫島に潜伏していたので捕縛方を派遣したところ逃亡、周防国小郡にて召捕りました。

すでに屠腹しかけて存命は覚束ないので、京都の始末を糺問して斬首しました。厳刑するようにとの御沙汰もあり、且つ直人は重傷なのでそう処置しました。死体は仮埋葬しました。山口表より、この段を政府へ報告するようにとの申しつけにより報告します。よろしく御沙汰ください。以上山口藩公用人十一月>

次に供述書。

<神代直人 口書
私は国学修行のため京都矢野玄道方に入塾し勉励していたところ、朝廷御入用の御書物買入のため大坂へ罷下りし際、私の弟守人が死去したとの連絡を受け、すぐに書翰を矢野方に差出し、七月上旬に大坂を出立、帰郷しました。

先般、王政御恢復になり、下々に到るまで恐悦しておりましたが、当今に至り外夷(外国)への御取扱が御手厚になり、却て人民の苦しみとなり、外夷の侮りは日々増長し、恐れながら皇威は建たずと存じ、大田瑞穂、団伸次郎と申し合わせて尽力致すべしと決心しました。

大村兵部大輔殿着京となり、大村氏は兼てより開港の説を重張し、今日の形勢に立至ったのも、必竟、彼のせいであり、速に殺害せずには王政御一新の御目途がたちません。

慨歎の至と考えていましたので、金輪五郎、宮輪田進、五十嵐伊織、ならびに京都岡崎の伊藤源助も同論にて、四条上ル町八百屋忠兵衛方その他、諸所に潜伏し、闇殺事件を謀り、終に当九月四日夜、同志の者と染島何某が同道し大村氏旅宿へ斬入りました。

私、五十嵐、染島三人が河原に待機していると、間もなく一人が駆出てき、同志一同内よりそれを追ってきて、この一人を殺害しました。大村氏に相違無いかと尋ねると、相違無いと伸次郎が答えたので、それでは梟首しようと合意しました。旅宿で打果たした者は知りませんが、なお駆出てきた者が一人あり、その他はまったく知りません。

その後、潜伏中に大村氏の首級(頭部)ではないと知り仰天しました。京都を出る前日、百万遍の内に居る佐々木大和助と申す者に一宿を頼みましたが、江戸へ行くというので、居合わせた土屋源吉と申す者に私が帰国したいと言うと、同道しようとのことになりました。

もちろん闇殺の事件は話していません。同月十二日頃出発し、兵庫で乗船し、船中にて私の潜伏所確保を源吉に頼み、姫島にいる清末忠蔵と申す者は源吉の父の門人とのことなので、その父親から清末へ添書を差出して貰い、十月二日、源吉と姫島へ着き、忠蔵方に行き、其の後、同所から船で小郡檀と申す処へ帰ったところ、直に召捕られそうになり屠腹仕掛けました。

右の次第を申し出ます。以上

山口藩公用人 十二月 宍道直記>

この供述書「京都之始抹糺問」には大楽源太郎の名も海江田信義の名もない。海江田が事件に関与していたかどうかは分からないが、少なくとも大楽源太郎は神代など門下生に「大村は君側の奸である、天誅を下すべし」くらいは言っていたはずである。

その代わりに「国学修行のため京都矢野玄道方に入塾し」とあるが、矢野玄道(はるみち)とは何者か。(2013/11/15)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月16日

◆「大村益次郎」暗殺の件(5)

平井 修一


大村が着任した明治元年(1868)5月の江戸は、幕府残党による彰義隊3000名が上野の東叡山寛永寺に集まり不穏な動きを示していた。西郷隆盛や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化した。

大村は奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打ち、5月初旬には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲されて江戸府知事兼任となり、市中の全警察権を収めた。

こうして満を持した大村は討伐軍を指揮し5月15日、わずか1日で彰義隊をの軍議でも大村は海江田と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した“君はいくさを知らぬ”の一言に海江田が尋常りを見せた」(ウィキ)とあるが、本当なのかどうか。

司馬遼太郎の「花神」にはそう書いてあるのだが、「君はいくさを知らぬ」の言葉は出典が書いていないから創作ではないのか。もし原典があるのなら他の作家や学者も引用するはずなのだが、どこにも見当たらない。海江田の談話にもない。

司馬は大村大好き、海江田大嫌いで、この言葉を創作することにより二人の決定的な対立を演出したのではないか。いくら小説でも誤解を与えるような記述はどうかと思う。(福田恒存、安倍晋三、渡部亮次郎らも司馬作品に疑問を呈している)

この軍議で海江田は「兵力が不十分だから討伐の即行は困難」と主張した(大佛次郎)が、京都から帰ってきた西郷が大村の指揮下に入り総攻撃の決行に賛成したから海江田に否やはない。西郷とともに薩軍を率いて戦った。

それから1年後の明治2年(1869)5月17日、函館五稜郭で榎本武揚らの最後の旧幕残党軍も降伏し戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が成った。

その年の7月に海江田は京都に新設された「弾正台」支台の弾正大忠(長官)に異動した。新政府の警察・監察機関だったのだが、とんでもない組織になっていく。

<維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあり、したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであった。主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各省の非違を糾すという名目で、彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げるようになったのである>(ウィキ)

海江田の談話から――

<そのころ、朝廷では陸軍の制度を改革し、武士の佩刀を廃止しようとするなど、ほとんど我が国固有の武道を疎外する傾向があった。私はすこぶるこれを憂慮し、しばしば建議したが、結局は採用されなかった。

京都の私立学校で演武の大会があり、全国から剣客が陸続と集まり、私は巡視したが、戸田栄之助、高山峯三など名のある剣客だけでも十人ほど参加していた。

私は赤胴の具足を新製して彼らに贈り励ました。剣客は皆大いに喜び、奮い立ったものである。この勢いは廟堂にも聞こえて、ある時、顕官が私にこう言うのだ。

「近頃のうわさでは、君は多くの剣客を保護して武道を奨励しているというが、その本意は何なのか。私には分からないが、剣客などを集めれば結局は変乱を醸成することになる」

私はこう答えた。

「それは思い過ごしでしょう。殺伐のように考えているようですが、真の武人ならそのようなことにはなりません。神聖な武道の不殺の真理を身につければ人心は相和し、変乱の禍もなく、国体も一層健全になります。

そもそも武道は我が国固有の伝統であり、剣を学び、剣の徳、武の徳を身につけて精神を鍛えれば、人々の意識はいよいよ元気になり、国も発展するでしょう。

全国の剣客もそういう考えであり、変乱を起こす恐れなどありません。剣客が集まるのを懸念する者はその本質を知らないからであり、ともに武を論ずる相手ではありません」

顕官は呆然として口をつぐんだ>

顕官を前にして「あなたは真の武人ではない、ともに武を論ずる相手ではない」と言うのだから、「いやはや海江田の火遊びには困ったものだ」と顕官は思ったろう。

一方の大村は「自分は武士である」と意識したことがあるかどうか。刀が武士の魂だとは思わなかったろう。剣や武を愛する海江田とは水と油である。

大村は長州戦争以来2年間にわたる戦争指揮の経験を踏まえながら近代日本の軍制建設を進めてゆく。諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。

明治2年6月、大阪に軍務官の大阪出張所を設置し、9月には大阪城近くに兵学寮を設け、また京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。京都宇治に火薬製造所を、また大阪に砲兵工廠を建設することも決定した。

<大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある>(ウィキ)

7月に初代兵部大輔に就任した大村は軍事施設と建設予定地の視察のため京阪方面に出張する。

特に廃刀令を進める大村に対する海江田の思いは嫌悪から憎悪となっていったようだ。「京都では海江田が遺恨を晴らすため不平士族を使って大村を襲うよう煽動している」などの風説が流れて不穏な情勢だった。

木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、大村はそれを振り切って中山道から京へ向かった。(2013/11/14)

<「頂門の一針」から転載>


2013年11月15日

◆「大村益次郎」暗殺の件(4)

平井 修一


こんなある日のこと、江戸を脱走した賊兵など300人ほどが来て恭順の意を参謀局に告げた。どう対応するか議論になり、海江田は「彼らを江戸府下の諸寺院に収容して謹慎させ、食事を与え、各自にその後の方向を決めさせたらいい」と提案した。

ところが大村「それはだめだ」と、こう反論した。

「彼らは一度朝廷に反抗した国賊である。その罪は決して軽くない。どうして恩典を施す必要があるのか。食事を与えるなどは泥棒に飯をやるのと同じではないか。彼らは必ず悪事をなす。放っておくのが一番だ」

忠義の武士、海江田は逆上した。

「なんと残酷なことを言うのです。朝廷に抗するものは撃つけれども、前非を悟って謝罪、降伏してきたものを殺すようなことは理ではありません。

彼らを放置すれば飢えて強盗や窃盗などの乱暴をし、府下の領民が被害を受けることにもなりかねない。天下に仁政を施すのなら、捕縛された盗賊でも保護し、食事を施し、病気があれば薬も与え、非を改めれば刑をゆるめることもあるでしょう。

確かに彼らは大義を誤った匪徒ですが、心情を察すれば、徳川200余年の大城を明け渡す無念から朝廷に抗しただけです。普通の人情なら当然です。主家を思う情によるものでみだりに憎むものではありません。

投降者に食事を施して今後の方向を決めさせようというのは、他の罪人への扱いと変わるものではなく、その恩典にもかかわらず再び抗したのなら直ちに誅すればいい。投降者を死に追いやるようなことは朝廷の本意ではまったくありません」

海江田は投降者に恩典を施し収容した。これ以来、大村は参謀局に顔を出さなくなった。うんざりしたのだろう。

<当時西郷の留守をして大総督府の参謀を勤めていた海江田信義が、長州人の大村益次郎が作戦指揮に出てきたのを嫌って、事毎に大村の専断を許さなかったと言われる。藩に依って差別の色が強烈なのは、薩長のような権力を競走する立場ではことに露骨であった。国の意識よりも藩の方が先行するのである。

大村は容れられないので一度は帰京しようとまでしたが、自分と意見の共通した江藤新平が江戸にきたので思い直した>(大佛次郎「天皇の世紀」)

駿府の大総督宮(有栖川宮熾仁親王)が江戸に来て大総督府を城内に設けた。ある日、宮から海江田に呼び出しがあり、宮はこうおっしゃる。

「聞くところによれば、このところ参謀局では意見対立があり、薩長の不和になりつつあるそうだが、これは本当なのか。このままでは大きな禍になりかねないから深く注意しなければいけない」

大村が宮に訴えたのだろうと海江田は不快になったが、ここ数日の論争の顛末を説明し、こう結んだ。

「大村判事は長州人で私は薩摩人ですが、これまでの論争は個人としての大村判事と個人としての私の間での意見対立であり、薩長の意見を代表しているものではなく、薩長の不和をかもす恐れはありません。私の意見が誤りで大村判事の意見が正しいのなら私は大村判事の説に従い、非を改めることを惜しむものではありません」

普通ならこのあたりで「いずれにしましても宮にご心配をかけましたのは私の不徳の致すところです。以後重々注意いたします」となるが、海江田は畏れ入って引き下がるようなヤワではない。宮に向かってこう言ったのである。

「宮は私と大村判事のいずれが正しいと思われますか」

これはいささか無礼であり、宮は困惑したが、海江田の言い分を聞いたばかりだし、公家伝統の優柔不断からだろうか、「お前の方に理がある」とおっしゃった。

「それならば大村判事が非を認めずあくまでも自説を貫こうとするのは人間としておかしいでしょう。大村判事をここに呼んで宮が裁断してください。そうすれば薩長不和にもなりませんし、私ども二人も釈然として融和するでしょう」

海江田の迫力に押されて宮は大村を召されたが、大村は多忙を理由に来なかった。海江田とやり合うのを嫌ったのだし、宮が大村の「海江田を参謀局からはずさなければ私は京に帰ります」という言葉に「まあ待て。麿が海江田を説こう」と言っただろうから、大村としては「私が出る幕ではありません、宮ご自身でご決済ください」という、突き放した態度からだろう。

数日後、再び宮は海江田を召したが、宮はとても憂慮しているようだった。海江田は言う。

「難しい事情があるようなら私が職を辞します。勤皇の仕事が終わったわけではありませんが、江戸城の明け渡しという難事にも努めて幸いにも無事を保つことができました。辞職してもその事跡は残りますから無念とは思いません」

宮はしきりに止めたが、海江田は翌日、病気と称して辞表を提出し、城内から井伊邸へ移った。宮は辞職を認めなかったから休職扱いである。大村はそれ以後、参謀局に出るようになった。

海江田が辞表を出したことで大村との確執はとりあえず一件落着するかに見えたが、その後も続いた。

ある日、休職扱いの海江田が辞表の承認を促すために登城すると、幕府の宝物を集めて海江田が封印しておいた一室が開けられ、宝物が散らばっている。海江田が驚いて管理担当者に「宝物を取り出したのは誰か」と尋ねると「参謀局の命令です」と言う。

どういうわけだろうと参謀局に入ると、大村はいなかったので、他の局員にこう告げた。

「宝物は徳川氏のもので、それは先日、私が田安徳川家の家臣と協力して一室に封印したものだ。時勢が落ち着いた時に政府が受け取ることになるだろうが、それまでは徳川氏の私財であり、みだりに取り出したりするのはどういうわけか。

江戸城が朝廷に引き渡されたのは天下の大義を明らかにしたからであり、簒奪したものではない。徳川方が涙のなかで渡したのは城と兵器、軍艦、兵士であり、宝物の処分は決まってはいないのだ。倉庫を開けるというのはまるで掠奪ではないか。どういうわけなのか」

するとある局員が「ちょっと鑑賞していただけだ」と言う。海江田は怒った。

「何をバカなことを言っているのか。府下の人心は定まっておらず、奥羽の賊軍はまだ平定していず砲煙弾雨の中にある。多くの同志が倒れ、あるいは傷ついている。それなのに宝物の鑑賞とは時勢無視も甚だしい」

局員は恥じて再び宝物を倉庫に封印したという。

封印を解除させたのは大村である。官軍と言っても兵器調達のための軍資金はいくらあっても足りないから宝物を売却する準備として部下に「高く売れそうな宝物を選び出しておけ」と命じたのだろう。海江田は大村が宝物を私掠しようとしていると思っただろうからなお一層嫌悪したに違いな
い。(2013/11/13)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月14日

◆党幹部の持ち逃げカネは1兆ドル超

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

・中国腐敗追及チーム、次は世界的規模の不動産疑惑を調査
・・共産党幹部が持ち逃げたカネは一兆ドルを超えたと内部報告
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すでに18000名の中国共産党幹部の腐敗分子(貪官、裸官)らが海外へ逃げたが、持ち逃げしたカネは、昨年までの中国当局の公式発表で1000憶米ドル、CIA筋の推計は6000億ドル(TIME、6月17日号)といわれた。

ところが、ところが。最近の推定数字は1兆ドルである。これは中国の共産党中央規律委員会が内部で報告している数字だと、華字紙がいう。

米誌『アトランティック』(11月6日号)は「王岐山が率いる反腐敗チームは、次に幹部らが海外に買った不動産を調査し、汚職を摘発する方針だ」と伝えた。

それも捜査は地球的規模におよび、米国、カナダ、オーストラリア、英国などが中心となるという(各国の捜査協力を得られるか、どうか。西側は不動産購入などプライバシーの情報は公開しないのが原則だが、中国は国連条約を楯にしている)。

貪欲な高官らは子女を外国へ留学さえ、その元へ巧妙な手段で送金を繰り返し、不動産を取得させるのが通常手段だった。とくに近年目立つのがロンドン、ニューヨーク、ロスアンジェルス、シドニーの高級住宅地物件で、しかも7割は現金を積んで買うという。ローンを組んで審査される手間暇を省くわけだ。

情報に拠れば、米国とカナダは中国の捜査要請に協力的で、とくにカナダは不正取得された不動産の処理方法を中国の係官と協議したとする話まで飛び交っている(『半月文摘』、11月13日号)。

この噂が流れるや、ニューヨークの高級住宅地の価格が下落したそうな。

2013年第1四半期だけでも中国の検察当局は疑惑の物件3700件を捜査し、8750万米ドルの取引を調査した。この捜査のメスが入ったことで海外へ逃げた高官は戦々恐々、絶望を抱いていると同紙は報じている。

全米不動産協会の数字では2012年から13年3月までの1年間に、中国人が購入した物件は123億ドルでしかなく、同期のカナダは74億ドル。つまり表面的に外国人の不動産購入に分類されたものだけで、実態はアメリカ籍の中国人が買うわけだから、本当の数字は不明。

判明した物件や金額は氷山の一角でしかないのである。
 
したがって『絶望』しているのは摘発される懸念におののく腐敗高官ばかりか、捜査展望が不透明な反腐敗チームであろう。

中国の闇の奥には、まだ闇があるのだ。

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月13日

◆中国がつく尖閣「棚上げ」の嘘

坂元 一哉


嘘も百回いえば、嘘ではなくなる。たぶん、それを狙っているんでしょうね。まあいちいち腹を立てても仕方ありませんが、国際政治の世界では、本当のことでも百回いわないと、本当だと思ってもらえないことがあるので、気を付けなくてはいけません。

 ≪真実語って「倍返し」せよ≫

尖閣諸島に関する中国の執拗な宣伝活動について、ある外務省OBがそうコメントしていた。たしかにその通りだろう。

先月、北京で行われた日中平和友好条約35周年を記念する有識者フォーラムでも、挨拶に立った唐家セン元中国外相が、尖閣諸島をめぐる日中対立の責任は、40年間の「棚上げ」を破った日本側にある、とする中国政府お得意の主張を繰り返したそうである。明らかな嘘だが、ああまたおかしなことをいっている、と聞き流すのはよくないだろう。

むしろ「倍返し」にするぐらいの気持ちで本当のことを繰り返し述べるべきである。尖閣諸島をめぐる日中対立の責任は、40年前の「棚上げ」を破った中国側にある、と。

むろん、こちらからそういうときには、40年前の「棚上げ」の意味を明確にする必要がある。1972年の日中国交回復時に存在したと中国政府が主張する「棚上げ」は、尖閣の領有権を問題に「しない」「棚上げ」だったことを、である。

中国政府が尖閣の領有権を問題に「しない」という態度をとったので、それは日中国交回復交渉の議題にならなかった。

中国側の考えを尋ねた田中角栄首相に対して、周恩来首相は、「今回は話したくない」と述べ、さらに、これは海底に石油があるらしいから騒がれているだけだ、という趣旨のことを付け加えている。

 ≪問題に「しない」とした周恩来≫

中国政府はいまでこそ、尖閣の領有権は、台湾、チベット並みの中国の「核心的利益」だといわんばかりの態度を見せている。だがそれは日中国交回復時の周恩来首相の態度とは、まったく異なる。

尖閣を問題に「しない」という中国政府の態度に、日本政府はとくに異議を唱えなかった。これは政治的にはもちろん、国際法的にも賢明な態度だったと思われる。

数年後、トウ小平の時代になってから、中国政府は日本に対し、尖閣の領有権を問題に「する」よう求めはじめる。領土問題の存在を認めたうえで将来世代に解決を任せる、という「棚上げ」である。日本政府がそれを受け入れるはずはなかった。

だが中国政府は、92年に尖閣諸島をも領海に含む領海法を制定。領有権を問題に「する」「棚上げ」を求める姿勢を明確にした。

それは国際法的にまったく無理な姿勢というしかない。というのも、もし中国政府が尖閣の領有権を問題にしたいのであれば、それは、日中国交回復時にすべきものだったからである。

中国政府は、尖閣諸島は日本が日清戦争で中国から盗んだ島だと主張する。盗まれたのならなぜその後、70年代になるまで、75年間も黙っていたのか不思議だが、ともかくそう主張する。

そしてその主張を前提に、そういうものを返すよう要求した第2次世界大戦中のカイロ宣言、そしてそのカイロ宣言の実行を求めたポツダム宣言に従って、中国に返還すべきである、という理屈を立てている。

だが尖閣は、日本が中国から盗んだ島ではない。それが明らかだからこそ、サンフランシスコ平和条約の領土処理で尖閣諸島は、ポツダム宣言にいうところの、連合国が決定する「諸小島」の一つとして、日本に主権が残ったわけである。

 ≪復交時に求めず、いまさら…≫

中国はサンフランシスコ平和条約に署名していない。サンフランシスコ市で講和会議が開かれていたときには、国連軍と朝鮮戦争を戦っており、国連からは侵略者の烙印(らくいん)を押されていて、会議には呼ばれなかった。中国政府がこの平和条約を認めない、と主張することは可能かもしれない。

だが、その場合、中国政府はいつ、戦時中のカイロ宣言とポツダム宣言に基づいて、尖閣諸島を中国に返せ、と日本に要求することができただろうか。

それは中国が日本との間で戦後処理を行い、国交を回復した72年しかあるまい。その時に要求しなかった(問題にしなかった)ものを、いまさら要求されても(問題にされても)、まじめに聞く耳を持ちようがない。

中国政府には、72年の日中共同声明第1項をよくかみしめてもらいたいものである。そこには、こうある。

「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」

中国政府の要求は、「不正常な状態」の終了を宣言するこの第1項に反し、日中間の戦後秩序を破壊することにもつながりかねないのである。
(さかもと かずや・大阪大学大学院教授)
産経[正論]2013.11.13

<「頂門の一針」から転載>

◆「大村益次郎」暗殺の件(2)

平井 修一


海江田信義は大村益次郎を嫌った。ほとんど憎悪していただろう。どんな経緯でそうなったのかを海江田の談話をまとめた「維新前後実歴史伝」をベースに報告していこうと思っているのだが、まず海江田のプロフィールを紹介する。

海江田信義、別名有村俊斎(武次)は天保3年(1832)−明治39(1906)の薩摩藩士、政治家。薩摩示現流などを学んでいる。

黒船が来航する2年前の嘉永4年(1851)には西郷隆盛を盟主に大久保利通らと「精忠組」を結成、幕政改革を考えるようになり、尊皇攘夷思想を深めていく。弟2人は桜田門外の変にかかわり自刃、海江田は前回紹介したように生麦事件にも関係した。

倒幕の戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として、江戸城明け渡しには西郷を補佐し、勝海舟らと交渉するなど活躍するが、長州藩の大村益次郎とは終始意見対立した。大村が暗殺されると海江田は長州出身者の反発を受け、華族制度施行の際に伯爵になれず子爵になったともいわれている。

新政府に不満をもつ藩父の島津久光からの信頼は厚かった。貴族院議員などを歴任し75歳で死去。

大村についての本は多いが、海江田のそれは非常に少ない。彼が暗殺にかかわったかどうか、本当のところは分からないが、ヒール(悪役)という認識が定着しているからかもしれない。

なお、海江田の長女・鉄子は東郷平八郎に嫁いでおり、「海江田信義の幕末維新」の著者である東郷尚武は海江田の曾孫で東郷平八郎の縁戚でもある。

前置きが長くなって恐縮だが、「維新前後実歴史伝」についても少し説明しておく。

これは明治24年(1891)9月から翌年10月までに刊行された全10巻の和装本である。編述者(編集記者)は西河稱(しょう)、発行者は牧野善兵衛。国会図書館のほか大阪府立、岡山県立などの大きな図書館に所蔵があるようだが、いずれも貸出は禁止で、国会図書館内ではデジタル化したものを閲覧可能のようだが不便だ。

小生が読んでいるのは1990年に東京大学出版会から刊行された復刻版である。日本史籍協会編集の「続日本史籍協会叢書」の第1期第1巻〜第3巻に収録されている。これは横浜市立中央図書館のほか、東京都立や近隣の県立図書館で所蔵しているから比較的入手しやすいだろう。

この復刻版には吉田常吉(1910−1993)の「解題」が付けられている。彼は日本史学者、東京大学名誉教授で、幕末史が専門だという。こう書いている――

<(明治24、25年は)維新後すでに25年、その前後に国事に携わった人々も老年期に達しようとしている。その思いが海江田子爵をして(体験を後世に遺していこうという)提案をさせたものと思われる。彼は諸言で、「吾は自ら“隗より始め”あわせて同感の諸士もまたこの挙に出んことを希望す」と述べているように、実歴談としてはかなり早い時期の出版物である。

本書が実歴談ものの出版に拍車をかけたのだろう、(勝海舟の「氷川清話」など)数年にして旧諸侯、旧幕臣、旧藩士6名の実歴談が出版された。

明治維新前後に際会して国事に携わった壮時を偲び、当時を知らぬ人々のために、古老が実歴談を遺すことは有意義なことである。ただ歳月が経過して記憶が散失し錯誤を犯すこと、あるいは時勢の変化によって現代に即応し筆を曲げることなど、絶対にないとは保証しがたい。

これは実歴談の通弊で、読者はよろしくその点に留意しなければならぬ>

だから「維新前後実歴史伝」は海江田から見た事件や人物像であり、前回紹介した生麦事件のように他の人からみれば「いや実際はこうだった」ということはあるだろう。鵜呑みにはできないということだ。

それと海江田は尊皇攘夷思想だが、あくまで薩摩藩として行動している。後に薩摩藩は大久保、西郷らの主導で天敵の長州藩と同盟し倒幕王政復古・開国近代化・富国強兵路線になるが、海江田が「開国近代化」を支持したかどうかは分からない。藩の方針に従ったまで、ということではないのか。

藩父の島津久光は死ぬまでマゲを落とさなかったそうだが、海江田も廃刀令や武士階級の廃止などを苦々しく思っていた。藩父とともに徹底的な、と言うか、いささか頑迷固陋的な保守主義者ではなかったか。

一方、大村は蘭学者であり兵学者という技術者で、長州藩士になったものの攘夷思想を持っていたとはとても思えない(適塾で同門の福沢諭吉曰く「大村の攘夷は長州藩にいるための自己保身ではないか」)。尊皇ではあっても徳川体制で公武合体し近代化を進めればいいという考えではなかったか。理工系の合理的な進歩主義者という印象だ。

戊辰戦争の戦火が広まるなか明治元年(1868)5月、大村は大総督宮(有栖川宮熾仁親王)補佐、軍務官判事として海路で江戸に到着した。長州閥の大村は不惑を過ぎた43歳、薩摩閥の海江田はまだ血の気の多い37歳。ボタンの掛け違いのような不幸な出会いであった。(2013/11/11)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月12日

◆近現代における嫌韓有理(後編)

池田 元彦


朝鮮人主張の「古代日本に文化文明を教えてやった」とは全く根拠もない嘘出鱈目だと、先週論証した。今回は、近現代における朝鮮人主張の嘘欺瞞の歴史を明らかにしたい。

明治維新後、中国朝貢国朝鮮の近代化を求め、日清戦争で日本は朝鮮独立を実現した。朝鮮は確固とした近代化推進が出来ず、内紛や日本との条約違反を繰返し、ロシアの朝鮮侵略も現実味を帯び、結果として日露戦争に勝利し、ロシアの介入を未然防止した。

国家意識の薄い朝鮮は宮廷内紛を繰返すのみで、伊藤博文暗殺は自らの朝鮮併合を速めた。併合は植民地ではない。日本本土と同じ扱いを基本とする。事実、総額80億ドルの持出投資で、衛生、教育、農林業、工業化、近代国家としての国家運営等を朝鮮に導入した。

戦後はGHQ管理下の日本を侮り、初代大統領は竹島を武力強奪し、所謂李承晩ラインを引き、日韓基本条約迄の13年間に国際法違反を繰返し、日本漁民8名を殺し、約4千人を抑留し、漁船等328隻を強奪したが、一切の補償も、謝罪もなく現在に至っている。

日本とは対戦相手でもないのに、21億ドル等の対日戦争賠償金を米国に要請、却下されている。日本は53億ドルの在韓日本資産の請求権を放棄し、1965年日韓基本条約を締結した。1800億円(内無償1080、有償720)の資金等供与、並びに1080億円の民間借款を支援資金として供与した。総計で当時の日本国家予算の2.3倍に相当する。

請求権・経済協力協定第2条に「両国並びに国民の(間略)請求権は(間略)完全かつ最終的に解決された」と明記。韓国民の日本への訴えは筋違いだ。この日本の資金援助で最貧国から「漢川の奇跡」を経、ソウル五輪を成功させ、今ではOECD加盟国だ。

1997年経済破綻は570億ドルのIMF救済で凌いだが、実質的最大の救援国は日本だ。2008、2011年の経済危機は、日韓スワップ協定で各300億、700億ドルの最大支援をした。2002年日韓共催ワールドカップでは、スタジオ建設費300億円の資金融資もした。

韓国の論評は「もっと支援を。必要な時に助けるのが真の友人だ」と日本の財務状況も顧みず、常に支援を受けながら不満を言う。日本への債務不履行も相当額有ると言う。

現在の韓国は経済破綻寸前だ。国の借金43兆円、公共機関負債総額53兆、家計負債88兆、かつGDP対比国家債務比率36.2%、処分可能所得に対する家計債務割合137%もある。赤字国債比率は50%を超え、1人当たり2万円の年金支給も支払い出来ない状態だ。

以上明らかだが、戦前戦後も日本は朝鮮韓国に隣国として最大限の譲歩と支援を重ねているが、それにも拘わらず、その援助に対して不平不満を重ねるのが韓国である。

韓国の強引な参入による2002年日韓共催ワールドカップ。日本はスタジアム建設費用300億円を融資し未返済のままだ。2020年日本五輪開催決定前、東北等8県の水産物輸入禁止を韓国は発表。結果放射線は出ず、代替輸入の中国産に多くの衛生基準違反があった。

韓国は、国を上げ組織的に反日キャンペーンを国際的に展開している。併合前、高宗が密使をハーグに派遣したように、大統領は欧米主要各国首脳に反日告げ口を繰返している。

国家として余りに非礼であり、反日敵性国家として対処するのが一番ではないか。(投稿)

<「頂門の一針」から転載>

◆「大村益次郎」暗殺の件(1)

平井 修一


靖国神社の第一鳥居、通称「大鳥居」が再建されたのは昭和49年(1974)で、当時小生は市ヶ谷にあった日本エディタースクールで学んでいた。文章講座の授業で「町へ出てネタを拾ってこい」と指示され、ぶらぶらと靖国神社へ行ったら、大鳥居が完成間近だった。

これを記事にしようとメモをしていたら記者と間違えられたのだろう、神社の関係者が来て「正式に発表しますので、それまでは報道しないでくださいね」と言われた。それでよく覚えているのである。

♪空をつくよな 大鳥居 こんな立派な お社に 神とまつられ もったいなさよ 母は泣けます うれしさに

(「九段の母」、作詩石松秋二、作曲能代八郎、歌手塩まさる、昭和9年発売、昭和14年に大ヒット)

この大鳥居の先にこれまた天に届けとばかり高いところに立っているのが大村益次郎の銅像である。彼が参拝者を出迎えるのだ。参拝者は皆見上げることになる。境内の一等地であり、一番目立つ。

大村は日本陸軍の祖として尊敬されているが、それにしても破格の扱いだ。なぜか。大村は明治2年6月、戊辰(ぼしん)戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策しているのだ。靖国神社の祖でもあるわけだから当然破格の扱いになる。

靖国神社があるから将兵は「靖国で逢おう」と命を捧げた。妻子には「靖国に行けばいつでも俺と逢えるよ」と遺言して戦地へ赴いた。大村の銅像は参拝者、遺族はもとより英霊を迎えているのだ。

<大村益次郎(1824−1869)は幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。

長州征討戦と戊辰戦争で指揮し勝利の立役者となった。軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖と見なされることも多い>(ウィキ)

明治2年(1869)9月4日、大村は京都で元長州藩士の神代直人(こうじろなおと)ら8人の刺客に襲われて重傷を負い、2か月後の11月5日に死去した。享年46。

神代直人は長州藩で尊王攘夷運動を推進した大楽源太郎の門下生で、師と同様に過激な神道的尊王攘夷論者だった。神代は初めは高杉晋作暗殺を計画したが、高杉が愛妾おうのと四国へ逃げて果たせなかったことはよく知られている。

大楽は大村暗殺の首謀者の嫌疑を受けて謹慎(幽閉)中に門下生が山口藩からの脱隊騒動を起こし、出頭を命じられると長州から脱走したから黒幕の疑いは濃厚だ。しかし、暗殺事件当時から神代直人らを使嗾したのは薩摩藩士の海江田信義(のぶよし、後に子爵)ではないかと噂されていた。

海江田は有名な生麦事件において島津久光の行列を乱したとして斬られた瀕死の英人リチャードソンに「今楽にしてやると止めを刺した」(松方正義談。薩摩藩士、後に公爵、首相)と言われている。

当時は武士の多くは尊皇攘夷思想だったが、海江田は狂信的とまではいかないだろうが攘夷論者であり、根っからの尚武、武道を尊ぶ人だった。

海江田の談話をまとめた「維新前後実歴史伝」には「止めを刺した」とはないが、こう語っている(文語体からの拙訳)。

<文久2年8月21日(1862年9月14日)、久光公は予定通り勅使とともに帰京の途についた。300の従士は整然と威儀を正し、品川、川崎の駅を過ぎ、生麦村を過ぎようとしているとき、私は駕籠のそばについていたが、外人4人、うち1人は女が騎乗で走りすぎていった。

しばらくすると3騎、男2人、女1人が馳せ帰ってきたが、男2人は刀傷を負って、腰から鮮血が滴り出ている。男1人は斬り倒されて路傍に横たわっており、腰からの出血をぬぐっている。行列は一時騒然としたが、久光公は瞑目して神色自若とされていた>

実際はどうだったのか。「記録を見ると事件はもっとすさまじい姿相である」と大佛次郎がこう書いている。

<薩摩藩士がリチャードソンに斬りつけ、左肩より左腕、左腹部に切創を負わしめた。リチャードソンはなお逃れたが、腹部の傷から腸が流れ出て気力を失い、落馬し、立つことができなくなった。これを海江田らが追ってきて、付近の畑へ引きずっていき、各自、刀を振るってリチャードソンの右手首をほとんど切り落とし、左肩より胸部にかけて切り下げ、喉にとどめの一刀を刺した。

外人が主人島津久光の行列を乱したのだし、当然のことと(彼らは)見たのだが、無礼を犯したのが日本人であれば、これと同様な残忍な処置に出たかどうかは疑問であった>(「天皇の世紀」)

海江田は攘夷断行で興奮している。この際だから横浜の外人居留地を燃やしてしまえと吠えた。

<私としては開戦したかった。「外人の来襲に備えて警備するのでは後手に回るから、先んずれば人を制す、300の従士から100人を自分に預けてくれ、神奈川(横浜)で居留地を一撃して焦土とし、紅毛碧眼の奴らを粉砕してくるから」と言ったのだが、大久保(利通)らの反対で叶わなかった。

外人の来襲はなく、部隊は異常なく戸塚を発したが、それより先の駅駅では生麦の一事が伝わっており、庶民はこれを悦んで「さすがに薩摩侯だ」と歓呼した。

京都に入るとその熱狂は数倍で、久光公の武威を賞賛しないものはなかった。朝廷から招かれて百官が居並ぶ中、主上(帝)から親しくお褒めの言葉があり、剣(備前兼広)を下賜された。まことに古来から例がないほどの恩遇であった>(「維新前後実歴史伝」)

海江田は忠君愛国(藩)、武骨で勇敢な薩摩隼人で、攘夷の思いも人一倍強かったのだろう。(2013/11/10)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月11日

◆破綻した中国の経済成長モデル

田村 秀男 


 ■「日本取り込み」作戦の公算

厳戒の北京で、9日から4日間の予定で中国共産党の第18期中央委員会第3回総会(3中総会)が開催中だ。主要議題は「広範囲で大胆な経済改革」という。

1970年代末以来、堅持してきた高度経済成長モデルのほころびがひどい。汚職腐敗、貧富の格差、不動産・金融バブル、さらに環境破壊と問題が噴出し、成長も行き詰まってきた。さて、どうする。

3中総会前には、北京の天安門前でウイグル族とされる容疑者による車両突入・炎上事件や、山西省太原市の省共産党委員会庁舎前での連続爆発事件が起きた。農民などの暴動や各種抗議活動は1日当たり数百件起きている。

これまで、一党独裁体制の存続の鍵は経済成長にかかっていると党中央は判断してきた。党指令によって人民銀行がお札を刷り、資金を重点配分すれば投資を増やせる。人民元レートを安い水準に誘導すれば輸出も伸びるのだ。だが、この成長の方程式はここにきて狂いっ放しだ。

2008年9月の「リーマン・ショック」を受け、輸出が打撃を受けると、当時の胡錦濤政権は国有商業銀行が融資を一挙に3倍に増やした。地方の党幹部は不動産開発の受け皿会社を相次いでつくり、農地を潰して高層ビル群を建設する。

上海など大都市郊外はもちろん、住宅需要の少ない内陸部でも高層住宅建設ラッシュが起きた。中国は固定資産投資主導で、世界で最も早く、リーマン不況を乗り切ったが、その成功プロセスは癌細胞を増殖させた。汚職腐敗の横行である。

党の利権官僚によって不正蓄財される資金は、香港経由などで海外にいったん移されたあと中国本土に還流して投資される。その売買益は再び海外に流されたあと、今度は「外資」を装い、還流するというふうに循環する。

その多くは不動産や高利回りの「理財商品」に投資され、バブルを膨らませる。それが外に逃避すると、不動産や金融商品バブルが崩壊する。現在の中国経済が抱えている不安の多くは、党幹部の利権にまみれた汚いカネによって引き起こされているのだ。

実際、中国経済の動向は、非合法の投機資金(「熱銭」)を追えばかなりわかる。

不正資金総額を粗っぽい中国統計から正確に算出することは不可能だが、およその見当は付けられる。厳しい外国為替管理体制を敷く中国で、海外との間で合法的に出入りできる資金は

(1)貿易収支の黒字または赤字分

(2)中国からの対外投資に伴う利子・配当収入から外国企業の対中投資の利子・配当収入を差し引いた所得収支

(3)外国からの対中直接投資−である。これら合法資金の純増加額合計から外貨準備増加額を差し引いた額を非合法な資本収支としてみなしたのが本グラフである。

非合法資金はリーマン直後に年間2千億ドル規模で逃避したが、党指令による融資増で値上がりし始めた不動産に熱銭が還流し、不動産や金融のバブルを引き起こした。バブル崩壊不安が生じた11年後半から熱銭は引き上げ始め、資本逃避が続いたが、ことし4〜6月期には再び流入に転じた。

それを裏付けるように、中国不動産市況は最近、値上がりしている。差し当たり、中国はバブル崩壊危機をしのいだように見える。

実体景気のほうはどうか。中国はことし、実質7%台の経済成長を続けているのだが、李克強首相は党官僚の数字操作が可能なGDPデータを信用せず、運賃収入を基礎に集計する鉄道貨物輸送量などを重視している。

その前年比はリーマン後マイナスに落ち込んだあと急回復したが、輸出不振のために12年前半から再びリーマン後と同じように低下した。固定資産投資増の効果で、ことし7〜9月にようやくプラスに転じた。

モノの景気を含め、経済崩壊には歯止めがかかったようだが、本格回復にはほど遠い。3中総会での「経済改革」提起は不安の反映だろう。

北京からは党内のあせりの声が漏れ伝わって来る。「経済改革はうまくいかないだろう」「日本からの投資をもっと引き寄せる方法はないか」と、日本の有力者に持ちかける党幹部もいる。先端技術や、製造ノウハウを合弁先の中国企業に提供してくれる日本を頼るほうが現実的との判断が働いている。

党支配の経済モデルに執着する限り市場や社会は安定しない。党幹部はそれを承知だが、利権が優先する。そこで、日本を取り込む作戦に出る公算が大きいのだ。中国側に誘われるまま、対中投資を続ける企業は泥舟に乗る覚悟が必要だろう。産経ニュース 2013.11.10

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月10日

◆歴史的観点からの嫌韓有理

池田 元彦


韓国の謂れなき日本誹謗は度を越している。米国を介しての同盟連携国の最低限の外交プロトコールや儀礼の無視のみならず、「DiscountJapan(日本を貶める)」を国家の主要政策として、諸外国に根拠のない日本バッシングを繰返す、どうしようもない反日国家だ。

一流新聞が天皇を日王と表記し、国会議員が議場で日本人を倭奴(ウェノム)と発言する国民性は、幼い頃からの歴史を捻じ曲げた反日教育だけの所為ではない。歴史的にも、日和見、虚言癖、言い逃れ、或は激昂し易い朝鮮人特有の「火病」持ちの所産でもある。

朝鮮人は必ず「文化・文明の殆どを無知蒙昧の倭奴に教えてやった。」と本気で虚偽主張をする。高麗王朝17代王仁宗の命を受け1145年に編纂された高麗国正史「三国史記」、及び1280年代完成の「三国遺事」は共に朝鮮最古の史書だが、朝鮮人の嘘を簡単に暴く。

三国史記新羅本記は「第4代王昔脱解は倭の東北千里から来訪し、その大輔=総理大臣は倭人瓠公」とする。系図では第16代迄は脱解直系子孫、第17代以降も傍系子孫だ。初代朴赫居世も倭人と推定する説もある。高麗、李氏朝鮮の本家新羅は、倭人系国家だった。

後漢書韓伝は「馬韓、弁辰は南に倭と接する」、魏志倭人伝は「馬韓を経て(陸行すると)倭の北岸狗邪韓国に到り」と書く。朝鮮半島南西部には倭人の国が確実に存在していた。

宋書は、倭王武の順帝宛上表文の「海を渡って平らげること95ヶ国」を認め、順帝から「武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙した」とする。倭の管轄下に朝鮮半島諸国があることを宋順帝は公式に認証している。

広開土王碑文には「391年、倭が百済と新羅を破り臣民とした。」とある。鉄の産地は主に新羅地域だが、隋書は「倭人が鉄を採掘している、という『韓伝』の転載」記事が有る。3世紀の半島は鋳鉄刀剣が主流だったが、倭では鋳造製が主流だった。

稲作の半島経由はなく、中国から北九州へ伝播したことはDNAからも実証されている。金官加羅等の前方後円墳は5、6世紀造成で日本からの伝播を示す。随書は「新羅も百済も、優れた物品が多い?国=日本を大国と見做し、敬仰し使節が常に往来している」とする。

新羅本記は、紀元前50年から364年の400年間に、12回もの倭の侵攻があったと記す。

古代に於いて、人質は常に倭国が取り、差出すのは常に百済、新羅であったことは否定できない。古代、文明、文化の何を朝鮮半島が倭にもたらし、倭に教えてくれたのか。

日本の勢力は隆盛で、752年の奈良大仏開眼供養には、アジア各国からの参列者があった。導師はインド出身の僧菩提僊那で、従者には胡人も混じり、日本、唐、高麗の楽舞が大仏に奉納された。1万数千人との参列者は、正倉院文書に名簿が有り、決して誇張ではない。

仏教が百済から正式に伝えられたとするが、日本には当時70足らずの国分寺、国分尼寺が建立されていた。問題は文化・文明の発祥か、それを引継ぎ興隆させたかであるが、単に伝達通路であることだけを自慢するのは、寧ろ恥ずかしいことではないか。

正倉院には、天皇家の貴重な品物、文書が保管されている。世界各国の博物館に保存されている華美な金銀宝飾製品は少ない。1250年間守り伝える国民性に新たな感銘を覚える。(投書)

<「頂門の一針」から転載>

◆名護市長選の「保守分裂」は・・・

松本 浩史


政府・自民党がさらしたいかにもお粗末なこのざまは、どう受け止めればいいのか。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先となる同県名護市の市長選(来年1月12日告示、19日投開票)をめぐり、行き届かない候補者調整がたたり、移設容認派の2人が出馬表明するに至った。

移設反対派の現職に風を送っているのだからあきれる。事の行く末によっては、日本外交の基軸である日米関係を揺さぶりかねない。

「ダブルスタンダード(二重基準)で参院選に臨んだのが間違いだった。矛盾のツケが吹き出たようなものだ」

政府関係者は、保守分裂の様相を呈し始めた市長選をこう嘆く。7月実施の参院選で沖縄選挙区(改選数1)から出馬した自民党候補は、移設問題に関しては、県連の方針を踏まえ、党本部の「(名護市)辺野古への移設推進」を唱えず、「県外移設」を主張。しかし、3万票以上の差を付けられ現職に敗れた。

市長選で県連が支援する県議も出馬会見では、移設容認派に担ぎ出されながら、「容認」とは明言しなかった。受け入れ反対の空気が強い県内世論に配慮したためとはいえ、いささか分かりにくい振る舞いといってよかろう。それだから、任期中に移設を容認していた前市長が割って入る余地を残した。

石破茂幹事長が近く地元入りして一本化調整に当たるそうだ。けれども、そうやすやすと落ち着くとは到底、思えない。政府・自民党が振る「移設推進」の旗は、自滅で色あせてしまい、選挙戦を厳しい様相にしてしまった。

もっとも、移設に伴う埋め立て承認をめぐり、政府が仲井真弘多知事に申請した時期を今年3月に設定したのは、反対派が市長選で勝利する可能性に配慮していた。仲井真氏が「承認」などの判断をするのは当時、申請後、8カ月前後とされていた。

つまりは、11月ころに当たり、市長選前に結論を出せる環境を整えたわけだ。当然ながら、仲井真氏はもともと容認派だったため、「承認」に期待する向きが強かった。

だが、そうは言っても、直後に行われる市長選の情勢をいささかも顧みず、判断できるはずもない。保守分裂で容認派の劣勢が濃くなり、選挙前に「承認」の判断をすれば、反対派を勢いづけるのは必至。このため、政府・自民党では、「今のままだと選挙前の判断は政治的に無理」(同)との見方が支配的となっている。

それでも、どうにか容認派の一本化を実現させて、選挙前の判断に期待を寄せる声もある。しかし、たとえできたとしても、選挙戦が熾(し)烈(れつ)を極めるのは間違いなく、判断そのものが結果を左右しかねない。となればもはや、できる話ではないのである。

政府には、仲井真氏が「承認」せずに「不承認」とした場合、県に代わって政府が埋め立てを承認する特別措置法の制定という案もささやかれ始めた。「保留」であれば、地方自治法に基づき、県に是正を指示。従わなければ、代執行し政府が承認することもできる。

「承認」されず、政府があれやこれやでどうにか移設を進めるにしても、手続きに使う時間の浪費は、国益からみれば、この上ない損失である。もし市長選で反対派が勝てば、政府の対応にいくらでも抗議をするだろうし、市議会が反対決議をするかもしれない。

「米軍再編の非常に重要なステップだ」

政府が承認申請をしたとき、米国防総省のリトル報道官は、歓迎するこんな声明を発表した。約1カ月前に行われた安倍晋三首相とオバマ大統領との日米首脳会談で、首相は早期移設を目指す考えを表明しており、すかさず動き出したことを評価したといえる。

3年3カ月にわたる民主党政権で揺らいだ日米関係を立て直すという、首相の思いは強い。北朝鮮の核・ミサイル問題や尖閣諸島(沖縄県石垣市)をめぐる対中関係など、日本の安全保障環境は不透明さを増しており、日米関係を一層深化させなければならない事情もある。

移設問題の歯車を回すことは、その一助になる。市長選の一本化調整に政府・自民党がしくじったことは、そんな流れに水をさすようなもので、とてもまずいのである。
産経ニュース【松本浩史の政界走り書き】 2013.11.9

<「頂門の一針」から転載>

◆「中国の報道は死んだ」

矢板 明夫


―新快報事件 当局の圧力で社長更迭 

中国広東省の人気紙、新快報の李宜航社長兼編集長と馬東瑾副編集長が11月1日に親会社の羊城晩報報業集団に解任されたことが、中国のメディア関係者に大きな衝撃を与えた。

権力の横暴を正面から批判し、与えられたわずかな報道の自由を守ろうとした新快報が当局側に完全に鎮圧されたと受けとめられている。「今回の事件で、中国の報道は完全に死んだ」との感想をもらした大手紙の記者もいた。

1面トップで抗議

新快報の経済担当の陳永洲記者(27)が、湖南省長沙市の建設機械大手「中連重科」の不正経理疑惑を追及したことがきっかけだった。国有企業である中連重科は、不正な会計書類処理を行い政府に巨大な資産損失を与えたとして、陳記者は5月頃から15回にわたって報道した。中連重科は「虚偽報道」として長沙市公安局に陳記者を告訴した。

陳記者は10月18日、広州市内にある自宅近くの派出所に呼び出され、待ち受けていた長沙市公安局の警察官に車で連行された。4日後の22日になってから、長沙公安局はようやく陳記者の拘束を発表した。

拘束を受け、新快報は陳記者の書いた一連の記事を調査し、確かな取材に基づいた報道であり、ほぼ間違いではなかったと判断した。23日に新快報の1面の横幅いっぱいに「請放人(釈放して下さい)」との大見出しで長沙の警察に抗議する記事を掲載した。

中連重科に関する報道の責任は新聞社が持つべきで、記者を捕まえるのは筋違いとして「弊紙の報道に問題があれば、訂正や謝罪はいくらでもするし、それでも気が済まなければ、裁判を起こせばよい。われわれは判決に従って賠償金をきちんと払うつもりだ」と記した。長沙市の警察が新聞社に連絡もせず、いきなり記者を拘束するやり方を批判、徹底抗戦の構えを見せた。

拘束記者の謝罪

香港に隣接する広東省を拠点に置く新快報は、中国を代表する改革派メディアとして知られる。今回、当局に対し激しく抗議した背景には、中国当局による言論弾圧が最近、強化されたことへの不満がある。

2012年秋の党大会を前に、新快報は習近平国家主席(60)ら最高指導部メンバーの青年時代に関する独自の記事を掲載したため、当時の編集長が更迭された。また、今年8月に中国政府高官の不正を実名告発した新快報の劉虎記者も北京の公安局に誹謗容疑で逮捕された。

以上の2つは当局を刺激しやすい政治絡みの報道だが、今回拘束された陳記者は経済担当だった。これまで比較的に規制が緩やかだった経済分野での管理も強化されたことに、新快報は危機感を覚えたことが激しい抗議の原因だ。

中国政法大学の何兵教授ら多くの知識人がインターネットで新快報を応援し、北京紙「京華時報」など複数の新聞は、新快報を暗にする支持する記事を掲載した。

しかし、中国国営中央テレビ(CCTV)は26日、留置中の陳記者が「第3者から50万元(約800万円)を受け取って記事を書いた」と罪を認める映像を繰り返し放送した。

これを受け、新快報は27日に1面で謝罪文を掲載、一転して非を認めた格好となった。関係者によると、新快報の編集部内で最後まで抗議し続ける声もあったが、当局の大きな圧力を受けて謝罪をせざるを得なくなったという。

真相は闇の中

北京の人権派弁護士ら多くの知識人は、陳記者が裁判で正式に罪を問われる前に、中国当局がその供述をテレビで流すことは法律上と人権上の問題があると指摘している。

また、「自由を失った陳記者は自白を強要された可能性もある」と見る人も多い。仮に陳記者に本当に問題があったとしても、中連重科が新快報に対し民事訴訟を先に起こすべきで、いきなり警察を使って記者を逮捕するのは法律上の問題がある。「今後、記者が批判報道を書きにくくするのが当局の狙いだ」と指摘する声もある。

長沙市関係者によると、中連重科の経営者は習主席も属している太子党グループと大変近い関係にあるという。今回、新快報は国有資産の私物化という太子党にとってのタブーに触れてしまったことで、報復にあったという。

あるメディア関係者は、「今回、共産党宣伝部の圧力で、新快報の社長らが更迭されたことで今後、当局に逆らうメディアはいなくなるだろう」と話している。
(やいた・あきお 産経中国総局)
産経ニュース【国際情勢分析 矢板明夫の目】 2013.11.9

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月09日

◆狙いは朴槿恵政権打倒か

古澤 襄


■北治安機関が韓国のスパイを摘発

北朝鮮の治安機関・国家安全保衛部が「平壌に侵入した韓国のスパイを逮捕した」というニュースは、日本での扱いは小さいが、注意して推移を見る必要がある。

国家安全保衛部の発表は韓国内で親北朝鮮分子の摘発が行われ、それと連動した朴槿恵政権に対する非難と見ることが出来る。韓国の聯合ニュースは「これは傀儡(かいらい)保守勢力の反共和国謀略策動がどの程度に達したかを如実に示している。現在、安全保衛機関で詳しく調べている」と北朝鮮の主張を報じた。

北の国家安全保衛部は「初期段階の取り調べから、スパイは約6年間にわたり、北朝鮮に対するスパイ活動を働いていたほか、隣接する第3国で謀略を張りめぐらせていた」としている。

第3国がどこなのか、まだ明らかにしていないが”隣接する”というかぎり中国か日本であろう。中国を第3国と称するのか、どうか。また「謀略を張りめぐらせていた」というのは、スパイ活動の組織があると指摘している。

朴槿恵大統領は北朝鮮よりも日本の安倍政権に対する非難に力点を置いてきている。しかし北朝鮮は名指しで「平壌に侵入した韓国のスパイ」と対決の姿勢を示したことから、北側の力点は朴槿恵政権打倒に移った可能性がある。韓国内にいる親北勢力の動きが活発化しそうである。

英ロイターはソウルから「韓国の国家情報院の高官は、韓国スパイ報道は根拠がないと一蹴している」と伝えているが、スパイ活動の内容がさらに明らかにされると、そうも言ってはおれまい。対抗上、韓国内の北スパイの摘発と非難が強調される可能性が出てきた。
2013.11.08 Friday

<「頂門の一針」から転載>