2013年11月07日

◆3中総会直前 習近平政権メンツ失う

矢板 明夫


【北京=矢板明夫】9日から開かれる中国共産党の重要会議、第18期中央委員会第3回総会(3中総会)の直前に、山西省党委庁舎前で起きた連続爆発事件は、今後の政局に影響を与える可能性をはらんでいる。北京の天安門前で車両突入事件が起きたのはわずか9日前。

各地で警戒態勢を強化している最中に、党施設のすぐ前で爆発が起きるという前代未聞の事件が発生、習近平政権はメンツを失う結果となった。

習政権の政策路線を本格的に決める3中総会に向けて、党内人事や、政策の主導権をめぐる争いが激しさを増す中、事件の責任を問う動きが出てきそうだ。

現在、山西省のトップを務める袁純清・党委書記は、胡錦濤前国家主席がかつて率いた党の下部組織、共産主義青年団出身者で、李克強首相の大学時代からの友人でもある。一方、同省ナンバー2(党委副書記)の李小鵬省長は李鵬元首相を父親に持ち、習近平国家主席と同じく太子党グループに属している。

袁純清、李小鵬両氏の関係の難しさは共産党関係者の間でよく知られており、今後、責任の押し付け合いが激化し、余波が政権に波及する可能性もある。

石炭の産地である山西省は貧富の格差が最も大きい地域の一つとして知られる。炭鉱掘削をめぐる土地収用や環境汚染をめぐり、地方政府と住民のトラブルも多い。発破用の火薬などが比較的容易に入手できるとも指摘されている。

山西省政府はちょうど5日に常務会議を開催し、経済問題などについて検討したばかりだった。また、先月下旬から、党中央規律検査委員会の調査チームが同省を視察しており、今回の事件はこうした機会を狙って計画的に仕組まれた可能性もある。
産経ニュース2013.11.7 00:49

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月06日

◆習近平から何が飛び出してくるか

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
<平成25(2013)年11月5日(火曜日)>
      通巻第4055号  
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 「三中全会」で習近平から何が飛び出してくるか
   待ったなしの改革は農地、銀行、国有企業、そして金利自由化
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中国の通貨供給がGDPの2倍強に達している。この異常事態は預金者、中間層までが銀行からカネをかりて、不動産に投資しているからだ。

そして誰も住んでいないマンション群が、たとえ鬼城(ゴーストタウン)化しようが、しまいが、そもそも居住する意思は最初からないのだ。恰もマカオの博打場のように値上がりをまって売り抜ける。人生を博打と考えている中国人多数は、そうした投機行為にいささかの躊躇いがない。

11月9日から北京で「三中全会」が開催される。

第18期第3回中央委員会全体会議である(参加者は370人)。ここで重要な新路線が打ち出されるだろう、と予測するのは英誌『エコノミスト』(2013年11月2日号)だ。

なぜ「三中全会」なのか。

1978年、毛沢東の死から2年後にトウ小平主導の第3回中央委員全体会議は、『改革開放』が高らかに宣言された歴史的会合となった。

階級闘争より日々の生活向上である、とトウ小平は言った。ひとりあたりのGDPは200ドルから、いまや6000ドル弱へと飛躍を遂げた。

習近平路線の新機軸は、したがって、次の会議で出てくるだろうというのが、この仮説の前提である。

しかも習近平は外国からの賓客を前にして「次の三中全会は1,978年いらいのヒストリカルな会議になるだろう」と発言しているらしい。

第一は金融改革に連結する国有企業の非効率、腐敗、無能経営の実態へ荒治療的なメスがどこまで入るかだろう。

国有企業の非効率部門の再編は遅々として進まず、銀行と癒着した不透明な融資が改善されない限り、不良債権の山は膨らむ一方である。たしかに93年の国有企業改革は、不採算企業を切り捨て、4000万人が失業した。

第二は農民が農地を所有する権利を認めるか、どうか。

農地を売却する権利は地方政府が持ち、過去の不動産開発は地方政府が勝手に農地をデベロッパーに売却し、農民には雀の涙の保証金を支払って、あげくに路頭に迷わせた。

農地を失った農民が五千万、これが社会騒擾、社会騒乱の原因になりかねないし、げんに頻発する農民の暴動、都会へでての自爆テロも多くが絶望の果てに、深い怨念を爆発させる失業農民と言われる。

だが、農地売却により歳入をえてきた地方政府は財源を失うばかりか、利払いを含む償還時期を迎えており、不良債権の処理を農地改革が表裏の関係となって、この問題の解決をうんと長引かせるであろう。

第三は金融方面への大胆な改革が必要とされているが、とりわけ民間企業が銀行からの借り入れが容易になり、金利の自由化へと進めば、為替の変動相場制への移行も時間の問題となって、人民元のハードカレンシー入りが可能となる。

しかし金融が大胆に緩和されれば国有企業は深刻な経営危機を迎え、やがてそれらが民営化に踏み切らざるを得なくなれば、失うものが獲得できるものより大きいという反対派をおさえこめるか、どうか。

<「頂門の一針」から転載>
      

◆「満洲国」建国譚(7)

平井 修一


河本大作大佐の張作霖爆殺(1928)、つづく板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐の作戦による関東軍の決起(1931)が満洲平定をもたらした。それにしても日本政府は何をしていたのだろう。

<(中村大尉殺害事件で)日本側の怒りも極点に達した。満洲事変の2か月前である。満洲の緊張した空気は、やっと政府上層部を動かした。今まで慎重だった南次郎陸相は1931年8月20日の師団長会議で「満蒙は日本の生命線である。重大危機を打破せねばならぬ」と訓示を行い、軟弱外交の幣原外相を攻撃している。

9月1日は全国の在郷軍人会が一斉に気勢をあげて街頭行進する。政党は選挙があるので在郷軍人には弱い。新聞も営業上、そうした空気に迎合して強硬な社説を掲載した。

関東軍司令部では司令官、参謀長がまったく知らされないまま板垣、石原らが問題解決の方策と準備に追われていた。旅順の軍倉庫に眠っていた重量25トン以上の24センチ榴弾砲は奉天に運び込まれ、輸送費は東京の橋本欣五郎大佐が東京商業会議所会頭から受領した軍資金3万円(今の3億円)から支出した。

この金は(張作霖を爆殺した)河本大作大佐が東京で橋本から受領して板垣、石原らに届けた。これだけ世界を震撼させた現地の軍資金はわずかに3万円だったのである>(古野直也「張家三代の興亡」)

日本政府の正式な支援はなかった。板垣、石原らが関東軍の参謀長にさえ相談しなかったのは新任の司令官の本庄繁が張作霖の軍事顧問をしていた人物であり、とても信頼できなかったからだろう。後に張学良は「もし私が東京に行けたら一番先に本庄大将の墓参りをしたい」と語るほど、本庄と張家はズブズブの間柄だったのだ。

決起の将校は血判した関東軍8人、朝鮮軍1人。東京では大川周明、橋本欣五郎大佐が推進派で、南陸相、金谷参謀総長など陸軍首脳部は黙認派だった。南陸相は「うまくいくならやれ。失敗しそうなら中止せよ」という指示をしている。

1931年(昭和6)9月18日午後10時20分から戦闘が始まり、関東軍は翌朝には奉天を落とした。

<前日までは排日侮日記事で埋まっていた現地の新聞は、若き英雄の張学良への賛辞に代わって「大盗学良」と攻撃を始めている。「天人ともに赦さざる張学良の十大罪状」という長文の中国人の投書が掲載された>(同)

漢人は勝者にすぐになびくのだ。

満洲の政治体制をどうするのか。日本が領有できる国際環境ではなかったから議論百出した。日本では張家から毒まんじゅうを貰った人々を中心に「張学良を呼び戻して説教し、改心させたらいい」という声もあった。

一方で早くも満洲事変の7日後には、関東軍に奉天省各方面団体連合会から「張学良の復活には反対だ、住民自治を」と希望する声も寄せられた。

張学良軍閥は満洲各地方の軍閥を配下に手なずけていたから、彼の軍隊が駆逐されても地方軍閥は残っている。その軍閥連合で共和制にする案もあった。満洲はもともと満洲人の故国なのだからと清朝を復活させる案もあった。

日本政府、幣原外相は関東軍に距離を置き、在満の日本領事館に「中立を保ち傍観せよ」と指示していた。このため作戦中の関東軍は「領事館の電信電話はもちろん、水一杯、宿泊も拒否され、路上で野宿するしかなかった。外交機関が国軍に対してこれほど冷たかった例は外国ではあり得ないことであろう」(同)という状況だった。

「政府を当てにはできない」と板垣、石原ら関東軍の血判8人組と陸軍首脳は当初から思っていたが、戦闘の折々にそれを痛切に思い知らされただろう。彼らは大義名分のためもあって当初からの青写真「満洲帝国建国」を画策していった。

支那事変勃発から半年後の1932年2月、関東軍の肝いりで満洲各地方の有力4大軍閥らが蒋介石・国民政府からの満洲分離独立を宣言、さらに翌3月には内モンゴルの指導者を加えて、清朝最後の皇帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀、あいしんかくら・ふぎ)を元首とする満洲国の建国を宣言した。    (2013/11/4)


<「頂門の一針」から転載>

2013年11月05日

◆社告はエイプリルフールお詫びします

品川 阿生居士


拙稿を本欄にまで掲載していただいて光栄に存じます。しかし、問題の朝日新聞の社告をさらに調べておりましたら、以下のようなことが判明しました。これらのことからすると、社告はエイプリルフールに引っかけたガセと思われます。

愚生の不行き届きで大変なご迷惑をかけたことを深くお詫びいたします。ブログ読者には、よろしければこれをそのまま掲載していただいて、記事の取り消しと陳謝にしたいと思います。

結局、朝日新聞社は誤報を取りけさないまま日本の国に迷惑をかけ続けいることになります。品川 阿生居士。 

★「2007年4月1日の朝日新聞朝刊(東京早版)の社告」をいくら検索しても、朝日新聞社の発信のものがない。

★普通の組織の不祥事では関与責任がある一連の人たちが処分されるのに、このケースでは、社長と記事執筆者だけが処分されたことになっている。

★Wikipedia によると、朝日新聞の社長の秋山→木村の交代は、2012年6月26日になっている。
木村伊量  Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E4%BC%8A%E9%87%8F
2012年6月26日、朝日新聞社代表取締役社長就任

脚注

^朝日新聞デジタル:朝日新聞社長に木村取締役 秋山社長は会長に -2012年4月27日
秋山耿太郎 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E8%80%BF%E5%A4%AA%E9%83%8E
2005年6月24日朝日新聞社代表取締役社長就任。2012年6月26日に代表権のない会長に就任
脚注

^朝日新聞デジタル:朝日新聞社長に木村取締役 秋山社長は会長に -2012年4月27日

★引用した池田信夫ブログ「慰安婦問題をめぐる本社の報道について」http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292728.html  の末尾に「追記:通りがかりの人が誤解するといけないので、念のため日付をよく見てください。」とある。申し訳ありませんでした。よって4日付けの記事を取り消します。

主宰者より:主宰者の拙速でもありました。謹んでお詫びいたします。

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月04日

◆朝日の誤報がと読売が報道

古森 義久


このところ新聞週間だったせいか、大手新聞が新聞の効用やあり方をいろいろ論じています。その延長として新聞の公共性を強調するのか、各紙とも世間の批判や政治への非難を熱心に述べています。

そのなかでも朝日新聞の最近の安倍政権叩きはなにか絶望的な悲鳴さえ感じさせるほどのヒステリックな情緒に満ちています。これが公器なのか。

朝日新聞は安倍氏個人への誹謗に始まり、憲法改正への動きの悪魔化、集団的自衛権解禁への中国代弁のようなデマゴーグ論調、日本の国益を論じない秘密保護法糾弾、沖縄基地問題での日米同盟否定の、これまた中国との二人三脚、総理動向の情報についての自民党幹部からの提言への議論封じのヒステリックな反発に・・・枚挙にいとまがありません。

しかし日本が日本という国家としての道を進もうとする動きは、なんでもダメダメというスタンスにも、朝日新聞としては、自己組織が公器だという認識はあるのでしょう。

でなければ、他者をこんなに一方的に糾弾できるはずがありません。

であるならば、自分たちの公器としての責任を果たしてください。

朝日新聞は日本一の発行部数を誇る読売新聞から再三にわたり、自紙の大誤報を指摘されているのです。慰安婦問題での大誤報です。

読売新聞の11月1日朝刊に以下の記述が掲載されました。

「いわゆる従軍慰安婦問題が日韓両国間の外交問題になったのは、1992年の朝日新聞の報道が発端だ。旧日本軍に関し、『主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した』などと事実関係を誤って報じたもので、これを受けて韓国で日本への反発が強まった」

読売新聞は正面から朝日新聞の誤報こそいわゆる従軍慰安婦問題を捏造した元凶であり、主犯だと断じているのです。読売新聞の「慰安婦問題は朝日新聞の誤報によって生まれた」とする報道は私の知る限り、これで3回目です。

朝日新聞はこれまた私の知る限り、この読売新聞の指摘にまったく答えていません。これほど公共性の高い指摘や非難もまずないでしょう。なのに公器を自称する朝日新聞は一切、知らん振りなのです。

朝日新聞は読売新聞の報道が正しいのかどうか、答える責務があります。公共性を持つニュースメディアであるならば、です。他者を批判し、叩きまくり、自分の非の指摘にはほほかぶり、というのでは、あまりに情けないことになります。

朝日新聞よ、公器たれ!読売新聞の誤報指摘に答えよ!

こんな大仰なスローガンは私の趣味ではないのですが、朝日新聞のこの件でのあまりの厚顔無恥には、短絡な抗議が適切に思えます。
2013.11.03

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月03日

◆政治家と政治記者

岩見 隆夫


政治家と政治記者の長い間柄は良好だったとは言い難く、外からは癒着、なれあい批判の方が多かった。しかし、そう一面的でもない。

たとえば、1980年ごろだったか、私は演説不作をテーマに政治家を取材した。ある日、吉田茂元首相の孫である麻生太郎に予約をとり衆院議員会館の部屋で待っていた。ところが、麻生は入ってくるなり、

「ブンヤは部屋に絶対入れるなっと、あれだけ何回も言っただろうがっ!」

と秘書を一喝した。仰天した。初めての経験である。

相手は新鋭だが、こちらは中堅、見れば年齢差もわかる。

<これは新聞嫌いだな。それにしても行儀が悪すぎる>

と私は思い、

「まあ、座んなさい。あんた、こんなこと言ってたら、将来政治家としてやっていけないよ……」

などと諭した覚えがある。その場はそれで収まった。

その後の麻生も、政治記者との関係は<信頼>でなく<緊張>、<軽蔑>と<嫌悪>も交じっているかもしれない。

そういう両者関係は、言葉遣いはともかくとして、むしろ必要不可欠だと私は思う。癒着、なれあい排除だけでなく、適度な緊張関係を保つためにも好ましいからである。

しかし、なれあい、緊張と違った<良好>な一面もある。これから書く2つの実例は私の個人的体験で、また自慢話かと言われるかもしれないが、お許しいただく。

確か76年だったと思う。いまのように日韓関係が荒れていた。自民党の一匹オオカミと言われた宇都宮徳馬が、政府の金大中処分に抗議して議員を辞職した。

論説委員だった私は、政府を批判して小ぶりの社説を書いた。翌早朝、自宅に電話がかかった。のっけから、

「三木武夫です。おはよう。けさのはよかったねえ。よかった」

「また、どうしてそんなことが……」

「わかるよ。文体で、うん。イワミ節」

ウソとはわかっていても、うれしかった。記者出身の側近秘書Oが手を回して、筆者を確認したのに決まっている。

それにしても、現職の首相が、朝起きぬけに一つの社説に着目し、行方を捜し、電話をかけてよこす。これは一体何を意味するのだろう。人によって解釈はいろいろだ。

三木はとにかく記者が好きだった。三木派担当を集めては、たえず談笑会を開いていた。私は三木派ではなかったが、数人の意見交換会を何度開いたかわからない。三木は何かを上手にくみ取っているようなところがあった。三木はたくまずして、メディアと政治家の間をつないだ功労者の一人だと、私はひそかに尊敬している。現職のころ、<世論と結託>した首相などとたたかれたこともあったが、本人は内心誇りに感じていたのではなか
ろうか。

もう一つ、70年ごろ、私は自民党の大平派を担当したばかりだった。当時、大平正芳は無役、旧池田派3代目を前尾繁三郎からかなり強引に引き継いだばかりで、派内は相当に荒れていた。

前尾にはリーダー候補の宮沢喜一らも味方している。私は先輩に命じられたのか、私の自主的意思だったのか、<分裂の恐れも>といった、大平にとっては致命的とも言える記事を書いた。

翌朝、東京・瀬田の大平私邸はいつもより早く朝駆けした。応接間の隅で一人小さくなっていた。しばらくすると大平が入ってきて、

「おお、けさはまた早いじゃないか」

「はい、けさほどはどうも……」

と私は深く頭を下げた。

「あー、きみはまあ文の人だからなあ」

下げた頭が上がらないまま、涙がポロポロ流れた。怒鳴るかわりに、こんな言葉を用意してくれていたのか。

ほかの領袖(りょうしゅう)なら、

「なんだ、けさのは。当分出入り禁止だ!」

と一喝されても仕方ないところだ。

まもなく、他社の担当が次々入ってきて、

 <なぜおまえがここにおれるんだ>

といった顔で見つめた。当時の派閥はそんなところである。

大平も文が好きだった。朝食をとりながら、しょっちゅう文章に朱をいれていたのを見ている。メディアを理解しようと努力していた一人だったろう。

政治家と政治記者の関係は、<緊張>と<なれあい>の間に、<良好>への双方の理解と努力がないと、政治社会は劣化する、と私は思う。

(敬称略)近聞遠見:毎日新聞 2013年11月02日 東京朝刊=第1土曜日掲載

<「頂門の一針」から転載>

◆「満洲国」建国譚(6)

平井 修一


張学良は張作霖の軍「東北軍」、権力、資産を継ぎ(1928、昭和3年)、日本を含めた列強がとりあえず支那の中央政府として承認した蒋介石の国民政府(南京政府)の傘下に入った。蒋介石に倣って張学良は一段と満洲における排日侮日政策を進め、満洲での暴政に対する3000万漢人の鬱憤は20万の日本叩きへと向かっていく。

<彼ら(漢人)は上から押し付けられる苦しみの刷け場(はけば)を何かの相手の上に向けないではいられなくなった。その相手になったのが日本人や朝鮮人で、上は張作霖親子から下は道端の一商人までが自ずと結束して、日鮮人排斥、圧迫に全力を注ぐことになった。

満洲での漢民族の勢力が断然優勢になりすぎたばかりか、攻勢をとってきて、日本が絶対に死守しなければならない地位と権益というものが危うくなってきた>(長與善郎「少年満洲読本」1938年)

日本は日露戦争以来の27年間(1905〜1932)で厳しい財政の中、満洲に17億円(今の17兆円)もの投資をしてきた。日本のためと同時に満洲の発展のために社会インフラの整備などに力を注いだ。

鉄道、道路の敷設、通信網の構築、上下水道の整備、大学以下の学校の開設、図書館、博物館、病院などの設立、警察の設立、農業畜産の改良、植林・・・

日本以前にロシアも満洲に投資したが、これは自国の利益と政治的、軍事的な狙いによるもので、現地の住民の福利厚生、文化の向上などまったく視野に入れない欧米列強の植民地支配そのものだった。日本は先(1910)に併合した朝鮮と同じように近代国家づくりに全力を尽くしていったのだ。

<際限もないほどの文化(文明開化)事業は、ただ満洲を日本の食いものにしようなどという利己的な根性でできるものではない。むしろ損をしてでも満洲とそこに住む人間の生活を向上させたい公の精神からでなければやれないことだ。

それほどまでに打ちこんでやった仕事がすっかり他人(漢民族)に横取りされて、自分の利益以外に何も考えないような者へ貢物に過ぎなくなってしまっても構わない、17億円の掛け損になってもいいというほどに日本はおめでたいお人好しではいられない>(同)

張作霖の死後も日本政府は相変わらず張学良の東北軍を支持し、排日侮日に対して有効な策をとらずにいたため、邦人は実に悲惨な目に遭った。

<満洲事変の直前、支那大陸には「排日侮日運動」の嵐が吹き荒れます。「日貨排斥」(日本製品ボイコット)を叫んだ中国人たちは日本人に物を売らないばかりか、日本人の店からは物を買わず、また日本の女子供と見るや石を投げつけたものです。そのころの様子について、満鉄社員で「満洲青年連盟」の理事をしていた山口重治という人はこう書いています。

「奉天では日本人がうっかり城内(市内)に行くと、巡警、野次馬でふくろだたきに遭う。小学児童の通学には領事館警察隊が護衛していったが、それでも投石された。

このように追い詰められ、満鉄が(営業妨害による)事業不振で大縮減(リストラ)をやれば、満鉄に付随しているいろんな業者が参ってくる。まず土木業者が手をあげる。料理屋、旅館も火の消えたようになる。付属地外の日本人工業、鉱業、林業も圧迫で事業をやめざるをえない。

20万人の日本人は旗を巻いて日本に引き上げるか、残って餓死するかの土壇場に追いつめられたといっても言い過ぎではない」>(西尾幹二「GHQ焚書図書開封」)

漢民族のやり口は今も変わらない。

ロシアは北満に退いたが鉄道網を拡大したり、モンゴルの独立を扇動するなど勢力回復に努めている。帝政にとって代わったソ連も「世界革命は東方から始めるべし」と南下政策と共産主義の拡大を進め、満洲における排日侮日を煽り、張学良もこれに乗じて日本勢力を駆逐しようと敵対していく。

こうしたなかで漢民族による朝鮮人農民虐殺(萬宝山事件、1931年7月)、張学良の東北軍による日本軍参謀殺害(中村大尉殺害事件、1931年6月。8月に発覚)と続き、日本中に怒りが広がった。一触即発の状況で、関東軍、東北軍ともに臨戦態勢に入った。

関東軍の高級参謀の板垣征四郎大佐と作戦主任の石原莞爾中佐は作戦を練り、「柳条湖付近で満鉄のレールを小さく爆破」し、東北軍による攻撃とすることで戦端を開き、奉天の東北軍の拠点を一気に攻めるなどと計画した。

一方の東北軍は「奉天、遼陽その他の各地に駐屯する日本軍に対し機先を制して一斉に討滅行動を起こす」などと計画した。

<どちらが先に戦闘を開始するか不明だった。東北軍の20万の兵力と、これと手を結んだ補助的な匪賊10万が先制攻撃すれば在満(関東州を除く)7000の関東軍は苦戦し、日本人に多くの死者が出たであろう>(古野直也「張家三代の興亡」)

1931年(昭和6)9月18日午後10時20分、柳条湖の満鉄線路わきで関東軍将校が少量の火薬に点火し、ドーンという音とともに枕木2本が飛び、レールが1メートルほど折損した。関東軍は「東北軍による破壊工作」と発表し、直ちに軍事行動に移った。東北軍の拠点に、日露戦争の旅順攻略に威力を発揮した24センチ砲弾を撃ちこみ、かくして満洲事変が始まった。

「2人の将校が首謀してわずか5か月で満洲全土を制圧した。混乱をいっぺんに鎮める解決のための大胆な武断政治であったと言えるだろう」(西尾幹二)

「満洲国」建国へのレールが敷かれていった。(2013/11/2)

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月02日

◆信じては裏切られる日韓関係

阿比留 瑠比


野田元首相に見るウブさ…信じては裏切られる日韓関係

野田佳彦前首相が在任中の日韓関係について語った10月29日付の読売新聞の記事を読み、日本はどうして韓国に対してこう「うぶ」なのかと悲しくなった。野田氏が平成23年10月、訪韓して李明博前大統領と会談した際の李氏のこんな言葉を紹介していたからだ。

「歴代の韓国大統領は任期後半になると、『反日』を使いながら支持率を上げようとする繰り返しだった。私はそういうことはしたくない」

野田氏は当初、この文句を真に受けたようで当時、周囲に「李氏は今までの韓国大統領とは違う。歴史問題を振りかざさない」と語っていた。訪韓に同行した政府筋も「歴史的会談だ。日韓関係は新たな段階に入った」と高揚感を隠さなかったのが印象深い。

もちろん、そんなものはただの希望的観測であり、錯覚に過ぎなかった。

このときの訪韓で野田氏は「朝貢外交」(日韓外交筋)といわれながら、引き渡す義務のない朝鮮半島由来の古文書「朝鮮王朝儀軌」をわざわざ持参した。にもかかわらず、李氏からはお礼の一つもなかった。

それどころか、直後の12月の会談では李氏は感情をあらわに慰安婦問題で日本を批判し、会談時間の3分の2をこれに割いた。あまつさえ24年7月には、歴代大統領で初めて竹島(島根県隠岐の島町)に上陸し、天皇陛下に理不尽な謝罪要求まで行ったのである。

相手の言うことをそのまま受け止めては裏切られるナイーブな日本と、平然と前言を翻して恬(てん)として恥じない韓国−。日本の対韓外交は、何度同じ轍(てつ)を踏めば懲りるのだろうか。

慰安婦募集の強制性を認めた5年8月の河野談話の根拠となった、韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査にしても日本政府は当初、「証言の『信憑性(しんぴょうせい)』の問題が生じるなどの理由から行わない方針を取ってきた」(同年3月24日付朝日新聞)のである。

それが、聞き取り調査を実施して強制性を認める方向へと変わったのは、韓国の金泳三大統領(当時)が「慰安婦問題で日本政府に補償を求めない」との基本方針を明らかにしたことが大きなきっかけだった。

これも現在では、ほとんど反古(ほご)と化している。韓国の憲法裁判所が元慰安婦の賠償請求に関し、韓国政府が日本政府に対し具体的措置を講じてこなかったのは違憲と判断したため、韓国は請求権問題を扱う協議を日本に求め出したのだ。

「韓国政府としては、両国の過去について問題は出ないようにしたい」

10年10月、韓国への「痛切な反省と心からのおわび」を盛り込んだ日韓共同宣言を当時の小渕恵三首相と締結した際、金大中大統領はこう強調した。韓国政府高官も「政府レベルで今後、過去に触れることはない」と明言し、日本側は歴史認識問題はこれで「最終のもの」(野中広務官房長官)と受け止めたが、そうは問屋が卸さなかった。

現在の朴槿恵大統領に至っては任期後半どころか初めから「反日」全開で、とりつく島もない。譲歩しようと思い遣ろうと無駄なのだから、ここはとことん、日本の主張をぶつけた方がいい。(政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】 2013.11.1

<「頂門の一針」から転載>

2013年11月01日

◆「朴槿恵外交」に韓国でもいらだち

黒田 勝弘


日本無視の「朴槿恵外交」に韓国でもいらだち 国際的な孤立自覚か

【ソウル=黒田勝弘】韓国では朴槿恵(パク・クネ)政権が2月にスタートして以来、いまだ日韓首脳会談が開かれないことに、いらだちが出始めている。

朴大統領は今週末から英仏などヨーロッパ訪問に出かけるが、これまで国際会議への出席も含め、米中露や東南アジアはすでに訪問しており、日本だけを避けている感じだ。

日本を“無視”するような朴槿恵外交に主要メディアや知日派の間では不安と不満が出ている。朴大統領に対し「被害者意識からの脱皮」(朝鮮日報)や「嫌いな人とも対話」「冷静で理性的な国益計算」(中央日報)を求め、「首脳会談で両国間の葛藤を克服すべきだ」(同)として「朴大統領の決断がカギ」(東亜日報)としている。

また安倍晋三首相をはじめ日本側がしきりに会談を呼びかけているのに対し、朴大統領がこれを拒否しているという図式に「外交当局者も負担を感じている」(外交筋)といい、「米国をはじめ国際的にもクビをかしげる向きが多い」(同)という。

朴大統領が安倍首相との首脳会談になかなか腰を上げない背景には、安倍首相に対し「右傾化」とか「軍国主義復活」などと非難を続ける韓国内の世論がある。就任以来、日本に対し「正しい歴史認識」を要求してきた手前、雰囲気がよくないというわけだ。

しかし、ここにきて韓国で批判の声が強かった日本の集団的自衛権に対し米国の支持が明確にされ、安保を中心に日米緊密化が印象付けられた。韓国の日本に対する一方的で極端な非難が国際的には必ずしも同意されていないという現実が明らかになった。

そこで、これまで“安倍たたき”に熱中し右傾化非難キャンペーンを展開してきたメディアにも、日本との対話必要論が出てきたというわけだ。

しかし韓国の大統領官邸や外務省当局者は最近、日本記者団との相次ぐ懇談で問題打開のため日本側の努力を要求している。尹炳世(ユン・ビョンセ)外相も29日、ソウルでの日韓言論セミナーのあいさつで「問題の本質は日本の間違った歴史認識だ」と強硬論を繰り返している。

首脳会談へのきっかけはまだ見えないが、非正常的で異様な現状に各界で“疲労感”が出ているのは確かだ。朴大統領がこだわる「正しい歴史認識」は原則論だけに日本としては必ずしも拒否の対象ではない。

朴大統領の意中は依然、明らかでないが、「首脳会談は首脳の決断一つだ。名分や理屈はいくらでもつく。遅れれば遅れるほど負担は大きくなる」(外交筋)との声も出ている。
産経ニュース 2013.10.31

<「頂門の一針」から転載>

◆「満洲国」建国譚(5)

平井 修一


このシリーズも5回になった。忙しい読者を煩わせたくないので、早めに終えたいと思うのだが、小生に基礎知識がないために勉強、検証しながらの作業で、GHQの洗脳番組「真相はこうだ」のように「あれは日本の侵略だ、悪辣非道な日本の軍部が悪い」と簡単に片づけられないから、なかなか端折ることができないでいる。

1928年6月5日に張作霖を爆殺した関東軍高級参謀の河本大作については書かないつもりだったが、このテロ事件は当時満洲に移住した邦人(朝鮮系を含めた日本人)が張作霖から受けていた強烈な非道、無道、圧迫、それに対して何の手立ても打てない日本政府への怒りを代弁したのではないかと思い、やはりこれは検証すべきだろうと、今回は河本大作について報告したい。

幕末維新のテロ、暗殺で歴史を大きく動かしたのは水戸浪士らによる井伊大老殺害だったと言われている。張作霖爆殺もそれと同様の激震ではなかったか。

河本大作は1883年(明治16)−1955年(昭和30)。兵庫県の地主の子として生まれた。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36)11月に陸軍士官学校(第15期)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。陸士15期は乃木希典の次男保典(日露戦争で戦死)と同期である。狭き門の陸軍大学校(第26期)を1914年(大正3年)に卒業した。

張作霖爆殺事件当初から関東軍(日本の支那駐屯軍)の関与は噂されていたが、河本大佐が名乗り出て、その後の調査で彼が計画立案し、現場警備を担当していた東宮鉄男大尉、桐原貞寿工兵中尉らとともに実行したと判明した。

張作霖の暴政に対して義憤に駆られただろう河本は、しかし軍に迷惑をかけたくないと私的な同志のみで実行したのだろう。

当初「満洲某重大事件」と報じられた爆殺事件に際して田中義一総理、日本政府はどう対応したのか。

<第一報が田中首相に入った時、彼は朝食中であったが、箸を投げ捨てて「しまった」と洩らしたという。国会での追及に政府は「捜査中」と逃げた。田中首相は日露戦争で張作霖を助命し「張学良は子供のよう」とまで語っている人であった。満洲と中国を切り離して、蒋介石の中国統一とは別に、満州を張一家に支配させて日本が影響力を行使するというのが方針だっただけに、河本らの謀略には頭を抱えていた>(古野直也「張家三代
の興亡」)

広大な満洲の治安を確保するために日本は張作霖を利用し、張作霖も日本の後ろ盾を得て蒋介石らと対峙していた。持ちつ持たれつで、日本の指導部のなかには張作霖の暴政には目をつぶり、彼を支持する人々もいたのである。

支那は昔も今も賄賂の国で、裁判も出世も金次第である。赤い紙に金を包んで渡すので、これを紅包(ホンパオ)と言い、円滑に事を運ぶので機械の油、機油(キユ)とも言うそうだ。

古野によれば張作霖は日本人の政治顧問を2人抱えており、顧問の計画に従って思い切った金額の紅包を日本の政党、首相、陸相に贈り、親善と懐柔に勤めていた。関東軍司令官や関東州長官も対象だった。

張作霖にとっては満洲の3000万人から搾り取った金で、彼自身の懐が痛むわけではないし、国防費と考えれば安上がりなのだ。もらう方も、つき返して国際親善に傷がついてはいけないという大義名分もあったのだろう。スブズブの馴れ合いだった。

当初田中首相は、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張したが、陸軍の強い反対で果たせずに、軽い行政処分にとどまった。このことを野党から「満洲事件(張作霖爆殺事件)を村岡関東軍司令官に帰したことは厚顔無恥である」と糾弾された。

また昭和天皇にも「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と強く叱責され、勅勘をこうむったため田中は涙を流して恐懼し、翌1929年(昭和4年)7月に内閣総辞職した。

河本大佐は停職、待命、予備役編入となり、新たに招いた石原莞爾参謀に後事を託して満洲を去った。石原は後に板垣征四郎らと満州事変を断行、満洲国を設計施工した軍人として記憶されることになる。

「叙情的軍人」と古谷が形容した河本は、金に淡泊で、「満蒙問題解決のために死ぬことは最大の希望」と言っていたという。河本は当時の満洲の邦人からすれば義人であり、テロは義挙として喝采されたのではないか。

<張作霖爆殺事件に対する日本の上層部の対応を見ると、幼稚としかいえないほど程度が低いといわざるを得ない。当時の激しい空気と燃え上がる心情を「平和ボケ」の現在の視点で見てはいけないのだ。

国権、国益の維持には各国とも軍が熱心である。多くの先輩、同僚の軍人が血を流した土地は簡単に捨てることはできないのだ。関東軍が遼東半島と南満州に1万の兵力を維持していたのも、権益保護のために条約により国際的承認を得たもので、簡単に「侵略」とは言えないと私は考える>(同)

河本はその後は関東軍時代の伝手を用いて、1932年に南満州鉄道の理事、1934年には満州炭坑の理事長となった。張作霖事件の責任を一身に負ったことが関東軍に評価されたためだと言われる。1942年には国策会社山西産業の社長に就任、ロシア=ソ連軍の満洲侵入後も現地で生活していた。

戦後、山西産業は中華民国政府に接収され、日本人の半数は終戦にあたり帰国したが、残り半数は終戦前と同じ待遇で留任、河本自身も中華民国政府の指示により「総顧問」の肩書きで残留した。残留したのは家族などを含めて1200人余りで、河本の勧誘によるものであった。

やがて河本は日僑倶楽部委員長に就任、太原で彼を慕う日本人青年有志とともに国民党軍に協力して10万の中共軍と戦ったが、3か月後の1949年4月には中共軍は太原を制圧、河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。中共は多くの共産党幹部らを殺害した張作霖を爆殺した恩人として河本を粗略にはしなかったという。

日本の敗戦から10年後の1955年8月25日、河本は収容所で病死した。享年72。河本の遺骨は同年12月、他の日本人抑留者及び日本人遺骨とともに祖国に戻っている。

翌1956年1月に青山斎場で葬儀が営まれ、旧陸軍や満洲国の関係者などが大勢参列し盛大なものであったという。弔文は友人代表の大川周明が寄せ「河本君は心身ともに不思議なほど柔軟にして強靭、屈伸自在で、しかも決して折れたりしない。きわめて小心にして甚だ大胆、細密に思慮し、周到に用意し、平然と断行する」と評した。

故郷の三日月町史は河本について「報国の至誠とその果断決行は長く記録されよう」と評している。地元有志により1965年には顕彰碑が建立された。忘れてはならない日本人である。(2013/10/31)

<「頂門の一針」から転載>

◆中国がなぜ日本の「人権」を叩くか

古森 義久


中国は世界でも最悪の人権弾圧国です。 その中国から世界でも最高の民主主義国の日本が慰安婦などでの「人権」を理由に誹謗を受ける。

おかしな話ではありませんか。日本国内でその中国の誹謗を煽り、日本を貶める朝日新聞のような勢力が存在することは、さらにおかしな話です。

その中国の人権弾圧の実態の報告です。このテーマはこのエントリーで終わりです。

■中国共産党が人権を弾圧する19分野米国が精査した中国の反国際的行為

(17)公衆衛生

中国政府が公衆衛生を守り、特に食糧と医薬品の安全性を保つ能力に対して、国民は不信感を述べている。中国初の精神衛生法が2013年5月に発効したが、民主活動家や抗議運動指導者らが懲罰のために精神病患者として拘束されることを防ぐ手段を明記していない。

(18)香港とマカオでの事態

2017年の香港行政長官の選挙で、住民すべての投票権保障を実現しようとする動きがあるが、中国当局は反対している。マカオでも同様に住民全員の選挙権保有が求められているが、なお当局の抵抗が強く、予断を許さない。

(19)政治犯データベース

この「中国に関する議会・政府委員会」の活動の中核とされる中国政治犯の資料収集では、2013年9月現在、合計1304人の中国人が政治犯と宗 教犯として拘留されている。その他に6005人が過去に政治犯、宗教犯として逮捕され、いまはすでに解放されたか死亡したという。

■個人の人権や自由を奪う共産党独裁支配

以上のように中国の人権弾圧の実例を伝える報告は、米国政府と議会のそれぞれの対中政策形成にとって大きな規範となる。

中国は、要するに人権の弾圧と自由の抑圧の国なのである。米国に限らずどの国の政権も中国に対する政策を選ぶ際は、中国内外の動きをしっかりと見つめることが先決となろう。その考察ではまず相手国家の政府の特徴を見ることが重要となる。たとえ膨大な手間がかかっても、である。

個人の人権や自由は、世界人権宣言で真っ先に約束された個々の人間たちの基本的な権利である。その基本的な権利が中国では共産党独裁支配により、一般国民から大幅に奪われている。この年次報告はその現実をいやというほど繰り返し伝えているのだ。

「人権弾圧」はまさにグローバルに忌避し排斥せねばならない現象である。わが日本も、自国と自国民にとって、それが何を意味するかを真剣に考えて対応すべしということでもあろう。(終)
2013.10.28

<「頂門の一針」から転載>

2013年10月31日

◆習氏の弾圧策裏目

〜胡錦濤派と闘争激化も〜

矢板 明夫


【北京=矢板明夫】11月9日に開幕する中国共産党の重要会議である第18期中央委員会第3回総会(3中総会)の前に、中国政治の心臓部である北京の天安門前で発生した車両突入事件が、今後の共産党内の権力闘争を加速させる可能性が出てきた。

中国メディアによると、ウイグル族の関与が明らかとなり、習近平主席が主導する最近の少数民族への高圧的な政策が裏目に出た形だ。今後、習主席と距離を置く党内の改革派を中心に政策転換を求める声が高まる可能性がある。

新疆ウイグル自治区では、4月から6月にかけて警察官とウイグル族グループが衝突する事件が相次いで発生した。その際、習指導部は武装警察官を多数投入し、発砲を許可するなどして鎮圧した。その後、ウイグル族から刀を取り上げ、一部の地域でひげを禁止するなど宗教弾圧を強化し続けた。

共産党筋によると、こうした強引なやり方に対し、「民族間の対立を深刻化させる」と言った批判が、胡錦濤前国家主席が率いるグループなどから寄せられた。

習主席自身の強い意向で実現した6月訪米で具体的な成果をあげられなかったこともあって、習主席の内政・外交政策を否定し、全面転換を求める意見が党内で急増したという。

関係者によると、習主席は後ろ盾である江沢民元国家主席に助けを要請。完全引退したはずの江氏は7月にキッシンジャー元米国務長官と会談した際、習主席への全面支持を表明。ウイグル問題への対応にも言及し、「断固たる決断で、迅速に沈静化させた」との「お墨付き」を与えた。

党内で今でも大きな影響力を持つ江氏が習主席に助け舟を出したことで、習主席への批判は一時沈静化した。

しかし、香港の人権団体によると、今回の突入事件の死者の一人は、新疆ウイグル自治区ルクチンで6月に発生した暴動の際に、警察に射殺されたウイグル族の遺族だという。報復する目的で「自爆テロ」を仕掛けたことが確認されれば、習氏の少数民族政策の「失敗」が証明され、批判の声が再び高まることも考えられる。

3中総会では、習氏に近い張春賢新疆ウイグル自治区書記に対し車両突入事件の責任を問う準備が進められているとの情報もあり、改革派が、習主席から政策制定の主導権を奪う動きに出る可能性もある。
産経ニュース 2013.10.30 22:38

   <「頂門の一針」から転載>

◆「満洲国」建国譚(4)

平井 修一


東京都と小生の暮らす神奈川県は多摩川が境になっている。北が東京、南が神奈川だ。広域暴力団が東京まで進出してきたら、川を渡って神奈川まで押し寄せかねない。神奈川県民としては「暴力団の東京進出断固阻止」と結束し、彼らを北の埼玉県、さらに北の栃木県あたりまで押し返すよう努めるだろう。

日清戦争(1894)も日露戦争(1904)も暴力団・ロシアに対する日本の怖れがベースにある。上記の寓話に当てはめれば、東京=朝鮮、多摩川=日本海、神奈川=日本、埼玉=満洲、栃木=シベリアになる。

ロシアは北欧、東欧、中近東に領土を広げ、次には東へ東へと進み、さらには南を目指した。20世紀のはじめにロシアの領土は世界の陸地の6分の1にあたり、英国の規模に匹敵した。陸軍は平時110万人、戦時450万人でヨーロッパ最大、海軍力は世界第3位という大帝国だった。

日清戦争で朝鮮は清から離脱したものの、三国干渉後に満洲を勢力下においたロシアは朝鮮半島にもつ利権を手がかりに南下政策(朝鮮支配)をとりつつあった。これを阻止しなければ日本はロシアに飲み込まれるという恐怖はとても大きかったのだ。

日露戦争に辛勝した日本は講和条約で南満洲にもつロシアの鉄道権益や、その付属地の炭鉱の租借権、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権などを譲渡された。こうして日本の満洲進出が始まっていく。

<日本は満洲の権益を守るために(満洲を押さえていた軍閥)張作霖の軍隊を育成する。軍事顧問団を置き、教育、訓練を行い、日本の陸軍士官学校へ留学の便宜を与え、武器弾薬も支援した。

張作霖は陸軍大将・寺内正毅と会見した時は腰が低く、「閣下が私に命ぜられることには喜んで従います。日本が満洲にもつ権益は私がいる限り安全です」と親日ぶりを強調して日本の指示をとりつけ、自分を売り込んでいる>(古野直也「張家三代の興亡」)

ロシアが手を引いた後は日本が南満州鉄道(満鉄)などを作って満洲開拓を進めていくが、ロシア時代から本格化した漢人の流入はさらに勢いを増した。

<日清戦争の頃に満洲の人口は5、600万で、そのうちには満洲人や蒙古人が300万以上もいたろうから、支那人はせいぜい2、300万のものだった。それが今(1938)では3000万というのだから、その雪崩れこみ方がいかにもの凄いものだったか分かるだろう。

クロパトキンという日露戦争のロシア総司令官は言ったことがある。「ロシアは満洲に莫大な資金を投じたが、そのお陰で利益をこうむったものはロシア人でなくて支那人だった。ロシアの金3億ルーブルは支那人の手に落ちて、そのために彼らは永久に満洲の地に土着できるようになった」と。

その事実は日本の場合でも同じだったのだ>(長與善郎「少年満洲読本」1938年)

長與は作家。この本によると当時の満洲の人口は3400万ほどで、9割が支那人、1割足らずが日本人、満洲人、蒙古人、朝鮮人、それと10万人の白系ロシア人などだった。満洲には耕作地がある、鉄道工事、鉱山採掘、工場などの仕事もある、関内と違って天災や戦乱も少ないから、支那人は満洲を目指したのだ。

<その支那民衆は繁盛して富んでいったかというと、そうはいかなかった。支那独特の厄介な代物、軍閥という地方支配者があり、これが武力づくで滅茶苦茶な政治をし、紙幣を乱発したり大豆を買い占めたり、20年先までの税を取りたてたり、広くて肥沃な耕作地を独占するなど、人民の膏血を搾り取るからだ。満洲も支那伝来の悪弊を免れなかった>(同)

親日家を装っていた張作霖はやがて勢力をつけていくと排日・反日を強めていった。

<張作霖は支那の中央にまで勢力をもつようになると、今度は満洲での日本の勢力が邪魔になり、日本がロシアから受け継いで支那から得ている権益を踏みにじり奪い返しにかかった。例えば満鉄に並行する鉄道を数本も敷いて、その運賃を安くして満鉄の営業をつぶしにかかるとかいろいろ邪魔をした>(「少年満洲読本」)

<日本人は満鉄付属地内だけが自由で、一歩外へ出ればあらゆる制限、禁止令、土地売買厳禁、担保無効が待っていて営業活動は不可能になりつつあった>(「張家三代の興亡」)

しかし、日本政府は有効な手立てをとることもなく、依然として張作霖を支持していた。

ソ連の支援を受けていた孫文の遺産を引き継ぐように広東に蒋介石を中心とした国民党・国民政府が組織され、1926年から全国統一を目指す北伐が開始された。各地の軍閥の一部も帰順し、1928年6月、北伐軍は北京にまで進出していた張作霖に迫る。

日本政府は張作霖に北京撤退を忠告し、6月3日、各国外交団と日本軍儀仗兵の見送りを受けながら、張作霖は特別列車、妾の乗る一等列車群、金銀財宝や家具調度品を満載した列車、延べ数百両を従えて満洲の奉天を目指して出発した。

<奉天駅の少し手前、満鉄線とクロスする地点で、関東軍高級参謀の河本大作の手によって6月5日5時23分、張作霖は爆殺された。53歳でこの満洲大元帥は死んだ。(日本の)支那駐屯軍はこの事件にはまったく関係していなかった。

張作霖の死を一番喜んだのは蒋介石である。これで(張作霖の)東北軍が満洲から関内に進出して暴れる心配がなくなったのだ。息子の張学良は28歳の青年だから頭を撫でておとなしくするのは簡単なことだと考えたと思われる。

かくして蒋介石は満洲に工作員を入れて反日侮日を強化し、国民党政府の栄職就任という餌で若い張学良の誘惑を始めている。その終点が易幟(国民政府の旗を翻す)であって、これは日本と訣別して中国本土と合体したことを示す>(「張家三代の興亡」)

父のあとを継いだ張学良が12月に降伏、蒋介石の北伐は完了し、ここに一応の全国統一を果たしたのであった。(2013/10/30)

<「頂門の一針」から転載>