2013年10月23日

◆自衛権行使態勢充実の課題

宝珠山 昇
 

(前略)幹事さんから“戦後レジームからの脱却”の中核の一つである集団的自衛権の行使などを主題として話してほしい、とのご要望がありました。昨年のこの会でも話しました「中・露の東進、日本の課題」の続きを話させていただきます。

昨年秋の話を要約しますと、?米・中・露、三つの大国の狭間にあり、米中冷戦とも言える戦略環境の下で、?敗戦の重い後遺症を発症して、喘いでいる日本を再生するためには、憲法改正論議と並行して、現行憲法下でもできること、例えば、機密保全態勢の充実、集団的自衛権行使態勢の整備、などを着実に実行し、日本国を防衛する決意を内外に具体的に明示することが肝要である?

しかし、どうしたらこれらの目標を達成できるかの方法論については、皆さんの賢明な行動に期待することのほか、解答を見出せないでいる、といった趣旨のものでした。

注:「中・露の東進、日本の課題」の詳細についてご興味をお持ちの方は、次のアドレスを
クリックしてご覧くだされば幸いですhttp://www1.r3.rosenet.jp/nb3hoshu/CyuRoTousinNitinoKadai.html

○日本版NSCの創設、秘密保護法の制定、など

この2ヶ月ほど後、即ち昨年末の総選挙における、日本国民の賢明な投票行動が、これらへの解答を出しました。

国家安全保障会議(日本版NSC)の創設、特定秘密保法の制定、集団的自衛権を含む自衛権行使態勢の充実、武器使用や武器輸出の国際標準化、“局益追求・省益忘却、とか、省益追求・国益軽視”などとさえ言われる国家公務員の改革、などに本気で立ち向かおうとする政権が誕生しました。

7月の参議院議員選挙でも、“アベノミクス”とともに、これらの政策が支持され、“決められる政治”が復活しました。
 
 これらの政策の実行、即ち、日本が独立国として成長することを、快く思わない内・外の勢力は、懸命に、密かに妨害活動をしているように見えます。

ここでは、これらの実効を確保するために、国民が手を携えて、これらの
妨害を乗り越え、相応の負担や協力をしなければならない課題の幾つかに
ついてふれてみたいと思います。
 
○情報態勢の充実

NSCの創設は、反対が少ないようですから、容易に達成できるでしょう。しかし、NSCが十分な機能を発揮するためには、情報態勢の充実が必要 不可欠です。

現在の日本の情報態勢の下では、情報大国などから、機密度の高い情報を得ることはできないでしょう。スパイ天国とも言われており、日本に機密情報を出すことは、それが洩れるリスクが大き過ぎるからです。これらを改革し、国家安全保障戦略の策定・実行などに必要な、核戦略、テロ対策などを含む多様・多量な機密情報を整えるには、長い年月がかかるはずです。

情報態勢充実の一環である特定秘密保護法案については、様ざまな立場からいろいろの意見・論議が出されていますが、忘れられていることもあります。

秘密保護体制の強化によって被害を受ける可能性が高いのは、機密情報の取得、製造、配布などの業務に携わる現場の人々とその家族です。情報態勢の確立には、これに携わる人々の意識改革、その処遇改善などが必要です。これらも、短年月で実効が出るものではありません。また、関係諸国が行っている様ざまのチェックを通過して、信頼されなければなりませんが、それを得るまでには長い年月がかかるでしょう。

○集団的自衛権の行使態勢の充実

集団的自衛権も、自衛権であり、自然権です。これを国家の独立・生存・安全・繁栄のために、適切に行使することができるようにするのは独立国家の指導層の責務でしょう。

戦後の日本は、国の安全保障を米国と安全保障体制に大きく依存することとして、生存環境の激変にもかかわらず、敗戦国の厭戦思考、反帝国陸海軍思考、戦勝国による警戒・工作などの影響を受けて、国防力の強化を忌避し、自衛権の行使を抑制する制度を採り続けてきました。

集団的自衛権の行使について、種々の論議がありますが、閣議決定がなされても、すぐに実効が出るものではありません。いくつかの立法行為が必要であり、さらにこれを実行するためには「国会承認」などの手続きが必要となるはずです。

これらの各段階で、時々の国際情勢などに応じて、種々の論議を重ね、成熟した民主国家として、先進国水準に適う適時・適切な自衛権行使がなされるようになるには、長い年月が必要でしょう。

更にこれらの制度ができても、実際に自衛権を行使するためには、その身命を国のために捧げる奉公精神を身に付けた多数の若い国民とそれを支える知力、装備、補給、施設、訓練などが必要不可欠です。

これには、多くの国民が、国を守る義務を現場で引き受ける人々を支持し、処遇する環境が醸成される必要があります。

しかし、一般論として、多くの国民も政治家も、個人的には自衛権行使の義務を履行しなければならない現場には携わりたくない、むしろこれを回避する道を指向しがちでしょう。少なくとも戦後左翼などはこれらを称揚し、自らの利権増進に利用して、日本の独立度の向上を遅らせてきています。

20余年前、国際貢献態勢の整備にかかわりましたが、戦後左翼のみならず、その現場に行かされるかもしれない自衛官の父母、兄弟姉妹、戦場経験のある親戚や知人などから、“お前は俺達の子供を戦場に送るつもりか”などと責められたこともありました。時の指導者層もなかなか決断できませんでした。

○指導者層の責務回避の言動

独立国家の指導者層は、国民が自衛権行使の義務を履行するように、その現場に行くように、処遇を整えて、お願いし、理解と協力を高める努力をする責務を負っているはずです。が、これまでの指導層の自覚と努力は不十分でした。

今も、集団的自衛権の行使態勢の整備について、国民の理解が深まっていないなどを理由として、決断を先送りしようとする指導者も眼につきます。

これらは、国家の指導者としての責任回避・逃避、後世への責任押付け行動、指導者失格の言動と言えましょう。

また、これを、改正実現には年月を要する憲法改正に係わらしめて、決断を先送りしようとするのも、同様でしょう。

さらに、周辺諸国を刺激するから慎重に論議しようとか、周辺諸国の理解を得て行使できるようにしよう、等と主張する工作員かと思われる者さえいます。

日本に対して憎悪を持って対応しているように見える諸国の理解など得られるはずがありません。むしろ、彼らの反発が強ければ強いほど、日本の選択は独立国として優れたものであると考えて推進すべきものと考えます。

○武器使用や武器輸出の国際標準化

国際貢献活動についても、自衛隊員などの武器使用を、集団的自衛権の行使に係わらしめて、国際標準以上に厳しく制限して、危険度の高い外地に派遣しようとするのも、その人権を侵害しかねないことを忘れたものでしょう。

武器輸出三原則は、三木内閣の時代に実質的に武器禁輸原則にされて、先端技術の共同開発・利用などへの日本企業の接近を阻害し続けてきております。

武器使用も武器輸出も、激変している国際戦略環境に対応して、国際標準にまで緩和し、正常化することが、日本の繁栄、生存条件を改善するものと考えております。

○沖縄の基地問題は、沈静化の方向に進んでいるようです。しかし、米国への基地の安定的提供は、日米同盟体制堅持の中核の一つですから、国と地方の指導層の更なる協調と説得努力が必要でしょう。

○新法制局長官は国際法の権威者

指導層の一人、内閣法制局長官、即ち、日本の法体系の整合性を検証し、助言する機関の長に、初めて、外交官出身者が選任されました。新長官は、これまでも、国際的視野から、日本の法制を検証、助言する職務に携わってきており、紛れもない国際法の権威者の一人です。

これまでの日本の憲法解釈などは、敗戦後の、厭戦思想、反軍思想などが蔓延し、且つ、食うや食わずの困窮を極めた時代に構築されたもので、国際戦略環境の変化を軽視したものではないでしょうか。新長官は、地球化の進んだ国際法の高く広い視野から検証して、助言されるものと期待しています。

○戦後レジームから脱却路線は継承

ある評論家は、これらを推進している安倍内閣が、消費税を8%へ増税後、支持率が低下し、3年後の衆参同日選挙で敗北し、安倍さんが目指している戦後レジームからの脱却は達成されないのではないか等といった見方を開陳していました。また、一部の政治家、政党などが、それらを工作しているのはご存知のとおりです。

安倍政権の行方はともかく、戦後レジームから脱却路線だけは継承され、東京オリンピック開催までに、この道筋がつけられることを念願しています。

この路線の進展は、人気ドラマ半沢直樹の「倍返し」などといったものではありませんが、周辺諸国の対日姿勢などを改善させるものと考えています。

○“原発ゼロ”は地球的視野狭窄

最近の小泉元首相の“原発ゼロ”の主張は、鳩山、菅元首相などのそれと同様に、地球的視野を欠き、国際競争力向上の重要性や科学技術進歩の可能性などを軽視した不適切なものと考えております。

小泉元首相は、フィンランドのオルキルオト放射性破棄物処分場(オンカロ)などを視察して、同様の処分場を国内で取得することの困難さを知り、その単純な解かり易さを原発に結びつけ、“ゼロ”を正当化しているように見えます。

それは、原発の正の側面には眼を瞑り、負の側面に焦点を当て、人々の不安を煽る、指導層としてあるまじき言動ではないでしょうか。

フィンランドは、原子力以外の発電能力は頭打ちで、既に原子力発電に30%依存しながら、輸入に頼っている電力不足を緩和するため、原子炉の増設に取り組んでいる国でしょう。

フィンランドの指導層は、原発の負の側面を知りつつ、その正の側面に眼を向け、困難な処分場の建設にも取り組み、国民の理解と協力を求め・高め、国益(独立・生存・安全・繁栄)の増進に努めていると理解されます。

日本の指導層も、諸国の原発への取り組みや放射能汚染や環境汚染などの実態を踏まえて、処分場などを建設、また、汚染を防止・軽減するため、一定の負担や犠牲もやむを得ないこと等について国民に訴え、理解と協力を得られる諸施策を探求し、実施することを希望します。 

誰もが知り、懸念している核破棄物処分の困難さなどを理由として、また、現存している多量の破棄物を忘れて、“原発ゼロ” などの安易な、責任回避の道を主張しないでほしい、処分場設置や汚染防止などに役立つ知恵・技術を開発する努力を推奨してほしい、と思います。

○多極化の進展、日本再建の好機

国外に眼を転じますと、オバマの米国は世界的指導力を低下させ、プーチンのロシアはそれを高めている、また、中国は、指導部内に深刻な路線対立を抱え、その経済は既に破綻している、朝鮮半島はその道連れになる、などといった報道も見られます。イスラム、アラブ、ヨーロッパなどの指導者の苦悩も絶えないようです。

この激動は、インターネット等の発達に より速度を増してゆくでしょう。これらを再建の好機にしたいものです。引き続き、皆さんの賢明・健全な行動によって、誇りある日本の再生が進されることを期待しています。(都内での講演要旨)
(ほうしゅやま のぼる 日本郷友連盟 特別顧問)

<「頂門の一針」から転載>

2013年10月22日

◆エリート層の育成が急務

櫻井 よしこ


学校教育の充実と。   

10月9日の「産経新聞」1面を見て、心底うれしく思った人は少なくないはずだ。そこには「日本『成人力』世界で突出」という見出しが躍っていた。

これは経済協力開発機構(OECD)が行った初の成人の能力を測定する調査結果である。対象国・地域は世界24に上り、16〜65歳の成人約15万7000人が対象となった。

調査項目は(1)読解力、(2)数的思考力、(3)ITを活用した問題解決能力だった。日本の大人は(3)に問題を残したが、(1)と(2)では断トツの1位だったのだ。

私たちは長年子どもたちの学力低下に悩んできた。OECDの調査でも日本の子どもの学力低下に歯止めがかかっていないことは明確に示されている。

今回の大人の知的能力の調査でも、日本の大人のうち、16〜24歳の若い大人は中高年に比べて成績は振るわない。他国の同年齢の層に比べれば水準は高いが、肉迫されているのだ。それでも全体で日本の成人の知的能力は世界一という調査結果がうれしくないはずはない。

一方で課題も見えてくる。右の調査は、日本の大人の成績は真ん中あたりに集中していて最上級も最下級も他国に比べて非常に少ないのである。

例えば、読解力だ。「レベル1未満」から「レベル5」までの6段階で、日本は「レベル3」の人の割合が48.6%で最も多かった。

他方「レベル1」はOECDの平均が12%だったのに比べて日本は4.3%、「レベル1未満」ではOECD平均の4.3%に対して日本は0.6%と、いずれも非常に少ない。

調査は対象者を中卒、高卒、大卒に大別して行われたが、日本の特徴の一つは中卒者の成績がとてもよく、OECD平均の高卒者と同じ水準だったこと、米国とドイツの高卒者と比べた場合、彼らよりも高かったことだ。

私はここである人物を思い出さずにいられない。15歳で入社し、30年間真面目に働き45歳で社長となり77歳になった今年の10月1日付で第一線を退いた人物だ。

この方の会社の前を通ると、社員の皆さんが元気なあいさつの声をかけてくださる。私はこの方の会社の事業内容はよく知らないのだが、会社の前を通るたびに交わすあいさつと社員の礼儀正しさが日本人の徳を実感させてくれる。まさにこうした人々がいて、日本は何とか今日まで持ってきたと実感する。OECDの調査が示しているのはそういうことではないかと思う。

さて、調査は一方で、最上位の「レベル5」で日本が振るわないことも示している。読解力で4番目、数的思考力で6番目だ。日本の教育は、平均的に非常に高いけれど、突き抜けて力を有する人が少ないということだ。

これは、誰も皆平等で差別はいけない、エリートを育てるより、落ちこぼれをなくすことが大事として、ゆとり教育に徹してきた結果であろう。

そこでいま、日本に必要なことが2つ頭に浮かぶ。1つは、前述の若年層の水準が中高年に比べて低いという事実から学校教育の充実を急ぐべしということだ。もう1つは、社会を引っ張っていくエリート層の育成を急ぐことだ。

読解力にも数的思考力にも優れ、物事を全体的に見て判断できる人材の育成が、日本が国として過ちなきように進み続けるのに欠かせない。そのときに必須なのが日本人教育、つまり日本の文化や歴史教育だと思う。

人生も、会社経営も、国の進路も、自分自身が何者であるかを知ることなしには決められないことがある。日本という国、日本人という民族がどんな価値観を社会の根幹に据えて歴史を紡いできたかを知ることで初めて正しく判断できる場合がある。

立派な日本人としての判断や指導力を養成する歴史教育の必要性をあらためて痛感したことだ。(週刊ダイヤモンド)
2013.10.21 Monday

<「頂門の一針」から転載>

◆支那の宝物を守った日本軍

平井 修一


台北・国立故宮博物院の展示会が来年(2014)日本で開かれるという。故宮は支那歴代王朝の宝物を集めた博物館で、小生が訪れたのは1980年頃だから30年ほど前だ。時間がいくらあっても足りないくらい興味深かった。

この宝物を列強の掠奪から守ったのには日本軍の功績が大きいのだが、故宮の公式サイトには一言も書かれていないから、小生が大いに宣伝したい。

トルストイの「戦争と平和」(1865)は1812年の「ロシア戦役」を背景にしている。フランス帝国のナポレオン1世が欧州12か国の軍を率いてロシア帝国に侵攻し、敗北、退却するまでが生々しく描かれている。トルストイはこう書いている。

<数百万の人たちが、お互いに掠奪、放火、殺人など、ありとあらゆる悪をやってのけ、それは全世紀を通じての全世界の裁判記録も、とうてい蒐集し得ないほど多かったのだが、この時代にはそれらは犯罪とはみなされなかったのである>

ナポレオンは自軍がモスクワ市内を掠奪するに任せ、ナポレオンも将兵も冬将軍と退勢を挽回したロシア軍に追われて逃げ出すときに掠奪物を携行していった。軍の行動を鈍重にしているおびただしい荷物の列を見たとき、ナポレオンはぞっとしたというが、これが致命傷になり、70万の将兵で生き延びたのは2万人だけだった。

戦争に掠奪はつきものだった。トルストイが言うように「犯罪とはみなされなかった」からだ。森鴎外は日清戦争(1894)のときに部下に「チャンと言ってはならぬ、支那人と言え。支那人から盗んではならぬ」と教育しているが、軍人勅諭(注)の教えもあって日本軍の質はずば抜けて良かった。

新渡戸稲造が「武士道」を米国で刊行した1900年、支那は「北清事変」に揺れていた。列強の支那進出に反発した武装勢力「義和団」が北京にある列強の公使館や居留地を包囲したのだ。清国政府は守る気もないし能力もない。

火急を要する事態で、英国をはじめとする列強は北京に一番近い日本に出兵してくれと依頼してきた。

<そこで日本は直ちに第五師団を動員した。太沾(タークー、天津近郊)に上陸すると同時に日本陸軍の真価は各国陸兵の面前で評価されることになった。あらゆる苦闘に耐えて、連合軍の中堅として各地に団匪(義和団)を撃破しているのである。救援軍至るや籠城の各国人は相擁して泣いた>(菊池寛著「大衆明治史」昭和17年)

清朝末期とはいえ首都の北京には宮殿や金持ちの豪邸に宝物があふれていた。菊池寛はこう続ける。

<北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。下島氏(軍医)の話。

「西洋の兵隊の分捕りというものは話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分たちは分捕り専門といっても言い過ぎではなかったほどでした」

中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕り隊といった隊をつくり、掠奪しては太沾の軍艦に運ばせたという。英国兵も大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して財物を盛んに運び出している。ドイツ兵は天文台から有名な地球儀をはぎ取っていき、これが後にベルリンの博物館に並べられて問題を起こしている。

有名な満寿山(清朝の別荘の頤和園にある丘)など、日本兵は駈けつけて保護しようとしたが、この時には素早いフランス兵が入っていて黄金製の釣鐘など姿を消している。日本軍が撤退すると今度はロシア兵が入って宝物を掠奪し、英軍はさらにその後に入って、大規模に荷造りをして本国へ送るという始末である>

西尾幹二先生曰く――

「ヨーロッパへ行くと、ロンドンの大英博物館でもベルリンのベルガモン博物館でも、アジア各国の宝物や彫刻その他がたくさん並んでいる。戦争して、掠奪してきたのだ。いま台北の故宮博物院にある宝物は日本軍が守ったから中国に残ったのだ。それでなければヨーロッパへ持って行かれてしまったに違いない」

日本兵は勇敢なうえに軍規がとても優れていた。兵は常に背嚢(リュック)検査を受けており、文明国の軍隊としての名誉を失わぬように教育されていた。皇軍は世界に誇るべき軍隊だったのだ。

・・・
注)軍人勅諭(1882)は明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭。

「武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ」などとある。

(現代語訳:武勇を尊ぶ者は、常々他人に接するにあたり温和を第一とし、人々から敬愛されるよう心がけよ。わけもなく蛮勇を好み、乱暴に振舞えば、果ては世人から忌み嫌われ、野獣のように思われるのだ。心すべきことである)

軍人は紳士たれ、ということだ。(2013/10/18)

<「頂門の一針」から転載>

2013年10月21日

◆佐久間艇長の遺書

伊勢 雅臣


乗組員全員が最期まで持ち場を離れずに職務を果たそうとしたこの事件は、欧米でも大きく報道された。


■1.持ち場を離れなかった第6潜水艇の乗組員たち

沈没した第6潜水艇が発見されたのは明治43(1910)年4月16日午後3時38分、広島湾の沖合約2千メートル、水深約15メートルの海底だった。艇首を上げ、艇尾は泥の中だった。前日朝に出発してから、一日半が経っていた。

引き揚げ作業は困難を極めた。2機の起重機で吊り下げたまま浅瀬に運び、翌17日明け方から、艇内の海水と漏洩ガソリンをポンプで排出し、換気の後、ようやく艇内に入ることができた。

乗員はそれぞれの持ち場で倒れていた。佐久間艇長は司令塔の真下で、仰向けになっていた。艇首の魚雷発射管左右には、前後の扉を閉じて海水の浸入を止めようとしたのか、欲山一等兵曹と、遠藤一等水兵が倒れていた。

原山機関中尉は、海水と電池の電液の混合による有毒ガスの発生を懸念したのだろう、二次電池の前で事切れていた。吉原一等水兵、河野三等機関水兵、堤二等兵曹、山本二等機関兵曹は手動ポンプの付近に集まって倒れていて、交代でのポンプ排水中に絶命したのだった。

その他の乗員を含め14名全員がそれぞれの持ち場で、息絶えるまでなんとか潜水艇を浮上させようと努めていたのである。


■2.「この精神がため日本人は強きなり」

当時は潜水艇開発の初期で、海外でも同様の事故が相次いでいた。イギリスでは1904年、1905年、フランスでも1905年に潜水艇が沈没。これらの事故では、いずれも乗組員がハッチに殺到し、折り重なるようにして死亡しており、ある例では先を争って殴り合いをした形跡まであった。

それだけに、乗組員全員が最期まで持ち場を離れずに職務を果たそうとしたこの事件は欧米でも大きく報道され、各国から弔電や弔慰金が海軍省、海軍大臣に多数寄せられた。

事件当時モスクワにいた日本大使館の駐在武官は、日本の海軍省に次のような報告を電文で送っている。

<我潜水艇不幸に対するロ国人士の感想に関する件

 第六潜水艇の不幸はロイター通信のロンドン電報により直ちに当地に伝わり、各新聞これを掲載しかば一般にしれわたり、海軍軍人と否とに区別なく何れも口を極めて乗員最後の勇壮なる行為を賞賛し、中にはこの精神がため日本人は強きなりとまで語る紳士あり。>[1,p110]

ロシアが日本と戦って敗れた日露戦争から、わずか5年後。憎き仇敵という感情が各層に残っていただろうが、第六潜水艇の乗員の「勇壮なる行為」はそのロシア人の胸を打ったのである。「この精神がため日本人は強きなり」とは、国家予算でわずか10分の1の小国日本が大国ロシアを倒した事を踏まえての実感だろう。


■3.「潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ」

殉職した佐久間艇長以下の遺体は、4月17日午後に収容された。福井県小浜中学の後輩で、佐久間に憧れて、海軍入りした倉賀野明中尉は、その夜、遺品の整理中に佐久間の手帳を見つけた。

「艇長ほどの人、必ず何か最後に書き残しているはず」と思い、手帳を開くと、大きな字で書き殴ったようなメモが見つかった。有毒ガスがたまって、呼吸が苦しい中、司令塔ののぞき穴から漏れてくる、かすかな明かりを頼りに書いたものだった。

それは次のような文章で始まっていた(スペースは改行を示す)。

<佐久間艇長遺言

小官ノ不注意ニヨリ 陛下ノ艇ヲ沈メ部下 ヲ殺ス、誠ニ申訳ナシ、サレド艇員一(ママ) 一同、死ニ至ルマデ 皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処 セリ、我レ等ハ 国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々 遺憾トスル所ハ天 下ノ士ハ之ヲ誤リ以テ将来潜水艇 ノ発展ニ打撃 ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂フルニアリ 希クハ諸君益々 勉励以テ此ノ誤解ナク将来 潜水艇ノ発展 研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲサスレバ我レ等 一モ遺憾トスル
所ナシ、>[1,p115]

■4.潜水艇発展にかけた志

日本海軍が最初に配備した潜水艇は、アメリカから購入した5隻だった。明治38(1905)年、この事故からわずか5年前のことである。これらが第1〜第5潜水艇と呼ばれた。

当時の最新兵器であるだけに、乗組員は知識・技能ともに優秀な志望者から選ばれていた。佐久間は当初から、志願してこの世界に飛び込み、第1、第2、第3潜水艇の艇長を歴任していた。

アメリカから購入した潜水艇を参考として、翌年、国産第1号として建造されたのが、この第6潜水艇だった。アメリカ製に比べて、小型で操縦も難しく、故障が多かった。海軍一の難艇で「ドン亀」と呼ばれていた第6艇を乗りこなすために、さらに選りすぐりが集められていた。その艇長に抜擢されたのが佐久間だった。

機関長の原山政太郎中尉は幼少の頃から「神童」の誉れ高く、海軍機関学校を首席で卒業し、24歳にして機関中尉となっていた。鈴木新六上等機関兵曹は、第2、第4潜水艇の内燃機関の故障を完全修理したことから、「内燃機関の神様」の異名をとっており、上層部より特に請われて、第6潜水艇に配属となった。その他の乗員も同様に、海軍の中でも選りすぐった人材であった。

佐久間艇長の遺書が、まず自分達の起こした事故が「潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるよう」という事から始まっているのは、彼らの潜水艇発展にかけた志があったからである。

そして、なんとしても潜水艇を浮上させようと、最後の最後まで死力を尽くしたのも、自らが助かりたい、という気持ちよりも、ここで事故を起こして日本の潜水艇技術の発展に打撃を与えてはならない、という使命感であったのだろう。


■5.最先端の航走法に挑戦した佐久間艇

これら選りすぐりの乗員によって、4月11日から14日まで各種の訓練が行われていた。13日の「水雷発射訓練」では魚雷4回連続発射を実施し、全弾を標的に命中させるという見事な成績を上げた。14日は長距離潜行訓練で、約15キロ、2時間30分という第6潜水艇にとって過去最高の記録を達成した。

15日に取り組んだのが「半潜航」だった。潜水艇は水上航走では通常の艦船と同様、ガソリン・エンジンで動く。水中に潜ると、ガソリン燃焼に必要な酸素を得られないので、蓄電池を電源としたモーターに切り替える。ところが当時のモーターは出力が弱く、蓄電量も少ない。速度を半分にしても航続距離は10分の1以下となってしまう。

前日に出した最高記録でも潜水航走約15キロでは、よほど敵艦に近づいてから潜って攻撃せねばならず、仕損じて逃げても、電池がつきたら、水上航走で標的になるだけである。

打開策と考えられていたのが半潜行だった。これは水面下3メートルほどに潜り、司令塔から突き出した通風塔から空気を取り入れて、ガソリンエンジンで長距離を航走する。しかし通風塔の開口部は海面上わずか1メートル弱しか出ていない。これでは潜水艇の前後左右のわずかの傾きにより、通風口から海水が浸入する。

佐久間艇長の手帳では、詳細に事故の経過を報告しており、それをもとにした技術的検証で、通風口から海水が浸入し、それにより浮力を失って沈没、さらに通風口のバルブを閉めようとしたが、そのチェーンが外れるという事故が重なって沈没に至ったと結論づけられた。

佐久間艇長以下は、世界でも最先端の航走法に挑戦したが、いまだ不十分であった設備技術の欠陥により沈没したのである。佐久間艇長の手帳に、事故の経過の詳細が記載されていたのも、この事故の原因を究明して、後進にさらに挑戦を続けて欲しいという願いからであった。


■6.「部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はん事を」

事故の詳細を報告した後、佐久間艇長は次の言葉で結んでいる。

<謹ンデ陛下ニ 白ス、我部下ノ遺 族ヲシテ窮 スルモノ無カ ラシメ給ハラ ン事ヲ、我ガ 念頭ニ懸ルモ ノ之レアルノミ>

その間にも、「(気圧高マリ 鼓マクヲ 破ラルゝ如キ感アリ)」あるいは、「十二時三十分 呼吸非常ニクルシイ」と書き、最後に、「十二時四十分ナリ」と結んでいる。

「部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はん事を」という佐久間艇長の願いは、多くの国民の心を揺り動かした。海軍のみならず、民間でも朝日新聞を中心とした寄付金募集が行われ、最終的に5万6千円(現在価値にして、推定2億円)が集められた。

そのうち3万5千円が14人の遺族に等分して手渡され、残り2万1千円を資金として、呉市の鯛之宮神社に「第6潜水艇殉難慰霊碑」が建立された。


■7.「いまも悲しきものゝふの道」

夏目漱石は、佐久間艇長の遺書の写真版で、その全文を読んで、「文芸とヒロイック(JOG注:英雄的行為)」という一文を書いた。

当時の文学界は自然主義と称して、現実世界の苦悩を書く事が流行っており、そういう人々は英雄的行為を軽蔑したり、虚偽呼ばわりしがちであった。漱石は、それに対して言う。

<余は近時潜航中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイックなる文字の、我等と時を同じくする日本の軍人によって、器械的の社会の中に赫(かく)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。>[1,p154]


自然主義を、戦後の今日の「平和主義」に置き換えてみれば、漱石の主張は現代にも通ずる。そういう主義に凝り固まった人々には、佐久間艇長の「ヒロイック」な面は「軍国主義」としか見えないだろう。

歌人・与謝野晶子は、この事故と佐久間艇長の遺書に触れて、「挽歌11首」を詠んでいる。そのうちの5首を紹介しよう。

瓦斯(ガス)に酔ひ息ぐるしとも記(しる)しおく沈みし艇(ふね)の司令塔にて

武夫(ものゝふ)のこゝろ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ

海底の水の明りにしたためし永き別れのますら男の文

水漬きつゝ電燈きゑぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ

海に入り帰りこぬ人十四人いまも悲しきものゝふの道

与謝野晶子は、戦後の教科書では「反戦歌人」などと教えられているが、真実はこのように「悲しきものゝふの道」への万感の思いを歌い上げた歌人であった。


■8.「私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです」

「第6潜水艇殉難慰霊碑」が建立された呉市の鯛之宮神社では、毎年追悼式が行われている。平成23(2011)年に第100回を迎え、この年から小学6年生の「作文朗読」が始められた。

呉市教育委員会の協力により、各小学校で先生が佐久間艇長と遺書のことを生徒に話し、感想文を書かせる。その中で優秀な作品を追悼式で本人が読む。

その最初の年に選ばれた一人が、呉市立呉中央小学校6年の谷川舞さん。舞さんの父は潜水艦『ふゆしお』に乗務しており、まさに佐久間艇長の後継である。

舞さんは、心に残ったこととして、「沈んでいく船の中で、自分の持ち場を離れずに、力を尽くしたこと」「自分のことだけを考えて行動しなかったこと」「みんなのことを思う佐久間艇長の思いやり」の3つを挙げ、最後に東日本大震災に関連して、こう結んでいる。

「今、日本では、東日本大震災という、かつてない大きな地震によって、たくさんの方々が、大変な状況の中で生活をしておられます。その中でも、佐久間艇長さんのような方々がたくさんいることを思い出しました。

食料を譲り合い、自分が持っている物を分けたり、子どもや高齢の方を優先したり、自分も苦しいけれど、みんなのために譲り合う姿に、心を打たれました。

私がテレビで見た消防士の方は、津波が来るぎりぎりまで、車で声をかけて回ったそうです。結果、亡くなられましたが、最後まで人を思いやっていた方のことが、ずっと心に残っていました。

 第六潜水艇の学習をして、この事故は百年も前のことですが、今の日本にもその心は受け継がれていることを感じました。私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです。そのためには、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考え責任をもって行動したいです」。[1,p68]

100年後の子孫のこの朗読を、草葉の陰の佐久間艇長以下14人の英霊は、さぞや嬉しい想いで聞いていたに違いない。



■リンク■

a. JOG(724) 福島の英雄たち
 自衛隊、消防庁、警視庁などの無数の英雄たちが、身を呈して福島第一原発事故の収拾にあたった。
http://blog.jog-net.jp/201111/article_3.html

b. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
http://archive.mag2.com/0000000699/20110522080000000.html

c. JOG(700) 国柄は非常の時に現れる(下)〜「肉親の情」 両陛下の「肉親の情」が、被災者たちに勇気と希望を与えた。
http://archive.mag2.com/0000000699/20110529080000000.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 足立倫行『死生天命 -佐久間艇長の遺書-』★★★、ウェッジ、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4863100922/japanontheg01-22/

      <「頂門の一針」から転載>

          

◆足を自らノコギリで切断

田中 靖人


河北省の農村で、足が壊死(えし)する難病を患った男性が、病院で手術を受けられず自らのこぎりで右足を切断するという凄惨(せいさん)な“事件”が起きた。男性は一命を取り留め、報道後は義援金も集まっているものの、メディアには農村地域の医療体制の不備を指摘する声が上がっている。

入院拒否で治療受けられず

国営新華社通信(電子版)の12日付の記事などによると、この男性は河北省保定市の農村に住む農業、鄭艶良氏(47)。昨年1月、臀部と太ももにうずくような痛みを感じ始め、しばらくして歩けなくなった。村の診療所や保定市や北京市の複数の病院で診察を受けた結果、動脈血栓症と診断された。

鄭氏の妻が新華社の記者に語ったところによると、ある病院では「治療法がないので入院させられない」と言われ、別の病院では30万元(約480万円)の仮払金に加え治療費は100万元に上ると告げられた。鄭氏夫妻にそのような大金が支払えるはずもない。医師は妻に「余命は長くて3カ月だ」と告げた。

その後、根本的な治療が行われないまま鄭氏の足には潰瘍が広がり、同年3月には膿が流れ出し、4月に入るとウジがたかり始めた。鄭氏は「自分で足を切る」と言いだし、反対する妻とたびたび口論になったという。

20分間で足を切断

鄭氏が実際に右足を切り落としたのは昨年4月14日。この日も口論になり、妻が部屋から出て行った約20分間に、鄭氏は自ら手術を実行した。

用いたのは、果物ナイフとノコギリ、舌をかまないように棒に巻き付けた布の3点。鄭氏によると、すでに壊死が進んでいたため、血はさほど出ず、肉を切っている間は痛みはなかったが、ノコギリの歯が骨に達した途端、激痛を感じた。あまりの痛みに奥歯4本をかみ砕いてしまったという。

足を切り落とし終えると鄭氏は妻に「こっちへ来て(足を)拾ってくれ」と声をかけた。戻ってきた妻は目を疑い、危うく卒倒するところだったという。妻は「あの日のことは一生、忘れられない」と語った。

鄭氏はその後、村の診療所の医師の往診で、投薬と痛み止めの注射を受けた。だが、痛みが激しく、1日1本の鎮痛剤を1時間ごとに打つときもあった。

惨状の報道で一転

今月に入り、鄭氏の惨状が全国に報道されると、保定市当局は素早く反応。鄭氏は11日、保定市内の病院に搬送され、無料で入院・治療が受けられるようになった。

14日には保定市長が慰問金2000元を手に病室を訪れた。また、各地から義援金も寄せられ、その額は14日までに21万元に達した。鄭氏の現在の望みは、義足を着けて働けるようになることだといい、どこか前向きな報道が目につく。

また、12日付の新華社の記事は、鄭氏が加入していた公的医療保障「新型農村合作医療制度」で、正規の手術が受けられたはずだと強調。入院・手術費の補償が受けられないと考えていた鄭氏夫妻とは正反対の見解を示している。

だが、12日付の新京報(電子版)は社説で、「政府の財政投入不足により、一部の農村地区では医療制度は有名無実化している」と指摘した。報道の結果、治療を受けられるようになった鄭氏は「不幸中の幸い」だとした上で、「鄭氏の後ろには、病気を患いながら治療を受けられない多くの民衆がいる」と警鐘を鳴らしている。

産経ニュース 【中国トンデモ事件簿】2013.10.19

<「頂門の一針」から転載。

2013年10月20日

◆中韓の反日宣伝に対抗を

平井 修一


プロパガンダとは「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図をもった宣伝行為」(ウィキ)で、情報戦、心理戦、宣伝戦、世論戦などと訳されている。日本は遠慮深い国民性なのだろう、この分野は今なお遅れている。

国家による大規模なプロパガンダは、ロシア革命直後のソ連で急速に発達した。 レーニンはプロパガンダを政治闘争に不可欠なものとして「宣伝扇動」と名付け、共産主義の教義は「教育ある者には歴史・科学の論法を用いて筋道だてることで」「教育ない者には不平不満を利用することで」吹き込むべしと指令したという。

1917年の十月革命後、レーニンのボリシェヴィキ政権は人民に対する宣伝機関を設置し、1919年には世界各地の共産主義運動を指導・支援するコミンテルン(国際共産主義=第3インターナショナル)をモスクワに設立している。日本共産党は1922年に「コミンテルン日本支部」として生まれた。

コミンテルンは1932年に「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(通称「32年テーゼ」)で日共に「天皇制打倒」などを指示した。これは初期の日共の綱領的文書となった。

コミンテルンは世界的なプロパガンダ機関であったが、レーニン死後に最高権力者になったスターリンの統治体制は「テロルとプロパガンダの両輪による」と評され、ソ連は「世界初の宣伝国家」とも呼ばれた。

ソ連と敵対していたナチス・ドイツのヒトラー「プロパガンダは人々の感情に訴えかけるべきで、知性に訴えかける部分は最小にしなければならない」「プロパガンダを効果的にするには、要点を絞り、大衆の最後の一人がスローガンの意味するところを理解できるまで、それを繰り返し続けることが必要である」と、感情に繰り返し訴えることの重要性をあげている。

米国の「宣伝分析研究所」によるとプロパガンダ技術には次のようなものがある。

■ネーム・コーリング(レッテル貼り)

攻撃対象を恐怖や嫌悪感を催すネガティブなイメージと結びつける。(日本軍は朝鮮人女性を強制連行して従軍慰安婦=性奴隷にした、など)

■カードスタッキング(トランプの「イカサマ」)

自らの主張に都合のいい事柄を強調し、悪い事柄を隠蔽する。情報操作、マスコミ統制など。(従軍慰安婦は日本軍に拉致された女性だ、進んで商売でやっていたなんて聞いたこともない、など)

■バンドワゴン

その事柄が世の中の趨勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外されることを恐れるから、自らの主張が世の中の趨勢であると錯覚させるようにする。(歴史を学べ。性奴隷などおぞましいことは許されない、日本は謝罪、賠償すべきだ、これは韓国人の総意だ、など)

■証言利用(権威の利用)

「信憑性がある」とされる人に語らせることで、主張に説得性を高める。(元従軍慰安婦の証言はいっぱいある、日本はしらを切るのか、など)・・・

プロパガンダでは事実かどうかなんてどうでもよく、声が大きければ勝ちなのである。山本夏彦翁は「論より証拠ではない。証拠より論なのだ」と言った。「嘘も百回言えば本当になる」ということである。

「南京で30万人を殺した、日本は謝れ」などと中共は言うが、壕を掘って大量に埋めたはずの死体はまったく出てこないことなど関係ないのだ。声の大きい者、感情に繰り返し訴える者が勝ちなのである。

映像の訴求力は文盲や無学の無知蒙昧な人にもアピールしやすいから、プロパガンダのために国家や政治団体が映画を制作したりすることが多い。

ソ連ではレーニンの「すべての芸術の中でもっとも重要なものは映画である」との考えのもと、世界で最初の国立映画学校が作られ、共産主義プロパガンダ映画が盛んに制作されるようになった。エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」 (1925)などが有名だ。

1936年にはスターリンの指示によって欧州最大規模のアニメスタジオ「ソユーズムリトフィルム」が創設された。1957年にはアンデルセン原作の童話アニメ「雪の女王」もここで創られ、斬新な手法と感動的な内容に宮崎駿は大いに感心し、アニメ監督を志したという。

原作の「雪の女王」を読むと、「キリスト教を信じれば神の力と人々の善意で困難を克服できる」というのがアンデルセンのメッセージなのだが、共産主義以外の宗教を否定するソ連製のアニメではまさか神様を登場させるわけにはいかないから、「弱者も団結・連帯すれば巨悪に勝てる」という内容に換骨奪胎されている。

それは露骨な共産主義のプロパガンダではないが、それまでの社会主義リアリズム映画はソ連国民に飽きられていたし、国際的な映画市場でもハリウッド映画に大きく水をあけられていたから、ビジネスとして困難になってきたことによるソフト路線だった。

自国民が金を出して観てくれる映画、外貨を稼ぐために西側諸国民も観てくれる映画を創らざるをえなくなったからである。

スターリンが死ぬと後継のフルシチョフは「スターリン批判」(1956)を行い、民主化推進の一環として映画制作への締め付けを緩め、それによりアニメ「雪の女王」も創られたわけだ。国際市場での競争でソ連共産主義経済は資本主義に負け始め、教条主義を修正せざるをえなくなったのである。

日本人は「バカを相手にしたところでしょうもない」と中韓のプロパガンダに無視を決め込む傾向があるが、黙っていれば「日本は反論できないのだな」というメッセージを世界に広めることになってしまう。

モグラたたきで消耗するが、民活を利用してでもガンガン反論していくべきではないのか。容共左派が多そうな外務省に任せてはいられないと思うのだが、どうなんだろう。(2013/10/19)
     
<「頂門の一針」から転載>

◆敵は宮内庁と『朝日新聞』

櫻井 よしこ


9月26日、私の出演しているインターネットテレビ番組に下村博文文部科学大臣を招き、オリンピック・パラリンピック招致の苦労話などを聞いた。招致の成功は日本が、ご皇室、首相、選手を含む「オール・ジャパン」の総力戦で臨んだ成果だった。

その中で、気にかかったのが宮内庁の対応であり、「朝日新聞」の社説だった。両者共に高円宮妃久子さまがブエノスアイレスでの国際オリンピック委員会(IOC)総会に出席なさることへの反対論を展開した。

下村氏によると、IOC総会へのご皇室の方々のご出席を宮内庁に要請すると、2つの理由で断られたという。招致活動への参加は政治利用である、勝負事に関わらせることは出来ないという説明だったそうだ。

「両方とも違っていると思います」と氏は次のように語る。

「3月にIOCの評価委員一行が来日したとき、形の上ではオリンピックに関わることではなかったが、皇太子さまがまずお会いになった。迎賓館での晩餐会には久子さまも出席なさった。

当初宮内庁はこれにも反対したが、東京五輪50年を祝う会も兼ねる形でおいでいただいたのです。なぜそこまで苦労してご参加いただいたかといえば、欧州諸国の王室の方々多数がIOC委員に就任しているからです。ご皇室には長く深い伝統、文化、歴史がありますから、彼らの日本のご皇室への憧れはとても強いのです」

久子さまとの会話はIOC委員らに強い印象を与え、お会いしていただいたことが日本への理解を確実に深めたと下村氏は語る。サッカー協会の名誉総裁でもある久子さまには、スポーツを通して旧知の王室の方々も少なからずおられた。こうした実績から、五輪招致に貢献していただくには久子さまはベストに近い方と、下村氏ら日本政府が考えたのは自然なことだろう。

下村氏らは宮内庁のメンツも立てながら、五輪招致の成功を願って、ご皇室においでいただけるよう知恵を絞った。詳細は言論テレビの動画を見てくださればと思うが、結論からいえば宮内庁は故三笠宮?仁さまのご長女、彬子さまのご出席を決めた。

「彬子さまも本当に素晴らしかったのですが、以前からのつながりで考えれば久子さまも欠かせないと思い、宮内庁との交渉を続けました」と下村氏。

こうして久子さまの出席が決まったことについて、風岡典之宮内庁長官は9月2日、「苦渋の決断」と述べ、4日には「朝日」は「五輪と皇族 巻き込んでいいのか」と題する社説で、招致の成否が「政権の評価に影響する」、だからこそ、招致活動に皇族は協力してこなかったと主張した。4月28日の主権回復式典に天皇皇后両陛下が出席なさったことについても
「政治目的で利用との指摘があった」と批判した。

おかしな批判だ。日本の主権回復は日本全体の喜びである。それを記念する式典へのご出席は、日本国の元首として当然であろうに。

招致交渉の最も強固な相手は他国の候補都市やIOC委員よりも主として宮内庁と「朝日」だったということだ。

久子さまの仏英両言語によるスピーチは9月8日未明に中継された。山本信一郎宮内庁次長は、両陛下がそれを未明のテレビでご覧になり、「開催決定を大変にお喜びになっていた」ことを会見で明らかにした。

宮内庁がご皇室を守ろうとしていることはわかる。しかし、ご皇室を守る手立てであれば、五輪招致活動を「勝負事」として退けることより、もっと他にすべきことがあるのではないか。

まず、ご高齢の両陛下の地方視察を含むご公務の軽減である。またもう一つ大事なことは皇太子妃雅子さまのご病気の診断と治療を長年一人の医師に任せきりにし、その実態が不明であるという異常な状況を、根本から改善することではないか。(週刊ダイヤモンド)
2013.10.19 Saturday name : kajikablog

<「頂門の一針」から転載>

◆木津川だより 海住山寺A

白井 繁夫


関西本線加茂駅から北へ徒歩で五〜六分歩くと、木津川に架かる「恭仁(くに)大橋」に着きます。

この橋を境に、北側が瓶原(みかのはら)の地区。即ち、聖武天皇の「恭仁京」(くにのみやこ)の大極殿跡、(山城国分寺跡)があります。

そこから北方の三上山(さんじょうさん)中腹にある「補陀落山(ふだらくさん)海住山寺(かいじゅうせんじ)」の創建は、前回も触れたように定かではありませんが、寺伝によれば、天平七年(735)と云われています。

この海住山寺には、平安時代(九〜十世紀作)の十一面観音菩薩立像(重文)が祀られており、万葉歌にも詠われた風光明媚な、歴史の重みを感じるところです。(地図Z:4番)
地図Z:http://chizuz.com/map/map/144914.html

当地区を詠っている古歌のうちの二・三句をご紹介します。

★大友家持が久邇の京を讃めて作った歌(万葉集巻六−1037)
 ・今つくる 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし
(...山や川のすがすがしいのを見るとなるほど都を造られるのももっともと思われる)

★小倉百人一首:中納言兼輔の(地名の風情に)恋慕を込めた歌(新古今集)
 ・みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

★田辺福麻呂が廃都になり【京】の景観が失われたのを悲しむ歌(万葉集巻六−1060)
 ・三香の原 久邇の京は 荒れにけり 大宮人の 遷ろひぬれば

等などが詠われているのです。

「海住山寺」も、保延三年(1137)の火災により、堂塔、仏閣ことごとく灰燼となってしまい、その後七十余年を経た、承元二年(1208)11月、海住山寺中興の祖、解脱上人「貞慶(じょうけい)」が、笠置寺から移住して、「堂宇(どうう)」を再興しました。

「海住山寺」については、中興の祖「貞慶(1155〜1213)」と、同第二世、即ち、「覚真:かくしん(1170〜1243)」が、海住山寺の貴重な「歴史的史料」を残しています。

両人は、南都仏教の教義(戒律)の復興にも貢献した重要人物でありますので、少し触れてみます。

「貞慶」は藤原貞憲(さだのり)の子、信西(しんぜい)入道通憲(みちのり)の孫です。

「貞慶」の一族には、学僧、名僧:延暦寺の澄憲(ちょうけん)、高野山の明遍(みょうへん)、醍醐寺座主(ざす)の勝賢(しょうけん:叔父)、興福寺別当(べっとう)の覚憲(かくけん:叔父:貞慶の師)等々が居ます。

「貞慶」も、若くして藤原一族の氏寺「興福寺」の維摩会(ゆいまえ)の講師になりました(文治二年:1186)。

「貞慶」の信仰は、弥勒信仰から観音信仰へと変化し、弥勒の霊場(笠置山)から補陀落山の観音霊場(海住山寺)へ移住して、南都仏教の律学(戒律)を立て直したのです。

「貞慶」は、専修念仏(現浄土宗)の「法然」と鋭く対立していましたが、幸いなことに後鳥羽上皇や源頼朝の支援があり、朝廷や幕府の援助も受けて、様々な活動を行いました。

さて、中興第二世の「覚真」即ち、「海住山寺」の「慈心房覚真(じしんぼうかくしん)」は、後鳥羽上皇の側近、院司藤原長房(ながふさ)であり、参議に昇進していました。

興福寺別当雅縁の瓶原(みかのはら)山房を、「貞慶」が供養した時、「覚真」は、後鳥羽上皇の臨幸にお供して同席していました。(瓶原山房が後の海住山寺の仏閣?)

「覚真」は、承元四年九月(41歳の時)、出家して「貞慶の弟子」となり、律学を学び建暦二年(1212)興福寺に、常喜院を建てて「戒律の道場」にしました。

「覚真」は、京都高山寺の明恵(みょうえ)上人高弁と親交があり、教学の意見交換などしあう改革派でもありました。その上で、海住山寺、高山寺の興隆にも尽力したのです。

その他にも、社会的.経済的にも活躍し、和束川(わずか)から瓶原郷へ水を引く(現在も利用されています)大井手(おおいで)の灌漑用水路を拓き、貞応二年(1223)完成させました。

「貞慶・覚真」の二代で成した観音霊場としての「海住山寺の堂塔」造営は、律学を根本思想において戒律を重視し、釈尊を崇拝できる仏舎利を安置した「五重塔」の建設でした。

奈良時代から平安時代にかけて、貴族仏教がだんだんと腐敗堕落して行き、諸宗派が混在するようになりました。

「貞慶」は釈尊の教えに回帰して、釈尊の遺骨(仏舎利)の崇拝を唱え、戒律復興を目指しました。

こうした中で、先述の「法然」は、阿弥陀仏を専修する教団を興しており、南都仏教復興を成し遂げるため、鑑真や空海が請来(しょうらい)した仏舎利を拝領して、それを本尊として安置する五重塔の建立を計画したのです。

「海住山寺」には、鎌倉時代唯一の遺構として重要である五重塔が現存しており、(女人禁制など)戒律を重んじた「貞慶」の理念が伝わる国宝の五重塔をはじめ重文の堂宇や文物があります。

これらについては、次回に記述致します。

参考資料:日本の古寺美術 18   保育社        肥田路美著
     海住山寺(美術文化シリーズ71)中央公論美術出版 工藤圭章著
     加茂町史  第一巻   古代.中世編        加茂町 

2013年10月19日

◆世間を天としている文化

加瀬 英明


朝晩、秋の気配が深くなった。

蟋蟀(こおろぎ)、鈴虫といえば、秋の季題だが、都心のわが家の小さな庭でも、夏の季題の一つとなっている風鈴を仕舞い込むと、秋虫の声が聞こえてくる。
 
新酒も、秋の季題だ。「すずむしの宴(うたげ)」といえば、『源氏物語』のなかに、鈴虫の声に興じながら、酒盛りをするところがでてくる。「鈴虫」は源氏第38帖の巻名だが、「鈴虫のふり出せたるほどはなやかにおかし」「こよひはすずむしのえんにて明かしてんとおぼしめ給う」と、記されている。

私は秋虫の声をさかなに、妻に酌をさせて、秋宵を楽しむ。すずむしの宴だ。「おかし」は心がひかれる、風流という意味だが、宵と醉いが重なるのがおかしい。

宴(うたげ)には東西を問わず、古来から歌曲がつきものであってきた。古語で「さかな」は、酒席の興を添える歌や、座談をいった。

私は日劇の徳間音響の舞台や、10チャンネル(旧)の『題名のない音楽会』で歌ったことがある。日劇の時には、島倉お千代さんが大きな花束を、届けてくれた。永遠の憧れの女性だ。

音楽によっては、喉の渇きを癒すことも、腹を充たすこともできない。それにもかかわらず、人は文字を知る前から、歌曲によって慰められてきた。

私はつきあいがよいので、しばしばカラオケを歌う。歌は演歌がよい。

演歌は、日本の男や女にとって、ついこのあいだまで、溜め息のようなものだった。日本のどこへ行っても、演歌の心が空気のなかに、まるで微粒子のように飛びかっていた。

美空ひばりのショーを、観たことがあった。美空さんのステージをはじめて観たが、〃日本一の歌の女王〃といわれるだけあって、さすがに堂々としていた。

第1部は着物姿で、第2部はイブニングを着ていた。緞帳(どんちょう)があがると、舞台が深い青い照明のなかに、浮かび上がる。

ギターの爪弾(つまび)きが始まって、『悲しい酒』の前奏だとわかると、いっせいに拍手が起こる。ひばりが立っている。すぐに歌わずに、語りはじめる。

  淋しさを忘れるために、飲んでいるのに

  酒は今夜も、私を悲しくさせる

それから歌に入る。「胸の悩み」「酔えば悲しく」「飲んで泣く」「一人ぽっち」「心の裏で泣く」「泣いて怨んで::」

あの時代の日本人だったら、心を揺さぶられずにいられない。歌から歌の合間に、ひばりが自分の言葉を使って、聴衆に語りかける。

劇場をいっぱいに埋めた聴衆のなかから、「ひばりちゃん!」という威勢のよい声が、舞台へ向かって飛ぶ。私には教えられるところが、多かった。
 
ひばりが「これまで、私の人生を振り返ってみると、楽しかったことは、片手で数えるほども、ありませんでした。悲しく、つらいことばかりでした。悲しかったことを数えたら、きっと手がいくらあっても、足(た)りないでしよう。

でも、ひばりは負けません。ひばりは頑張ります」というと、聴衆はステージに立ったひばりに、完全に感情移入してしまう。いっせいに手をたたく。

ショーが終わりに近づくにしたがって、テンポの速い曲を歌って、舞台を盛り上げてゆく。喝采が続く。

ひばりが、「みなさんも頑張ってください。ひばりも、一所懸命に頑張ります」と、呼びかけると、場内がもう割れんばかりの喝采で、沸きたった。私も、感動した。

日本人にとっては、もう長いあいだ、つらいことや、苦しいことは、あたり前のことであった。耐えることが、自然の状態だった。それが、男や女の魅力を増した。

私は演歌に親しんだ世代の尻尾(しっぽ)のほうに、属している。

昭和46(1971)年といえば、いまから42年前でしかない。この年に、鶴田浩二が歌った『男』という演歌がヒットした。

前奏が始まる前に、独白(かたり)がある。

  子供の頃、祖母(そぼ)に、よく言われました。

  『お前、大きくなったらなんになる、なんになろうと構 
  わないが、世間様に笑われないような良(よ)い道を見つ

  けて 歩いておくれ』って::

  それが、胸に突き刺さるのでございます」

そのうえで、歌が始まる。

   自分の道は 自分で探す 

   つまづきよろけた その時は 

   見つけた道の たまり水 

   はねる瞼(まぶた)に 忍(にん)の字を書いて

   涙を くいとめるのさ

このような祖母は、日本のどこにもいた。いまでもカラオケで、この歌を青春時代を懐(なつ)かしんでうたう人が、少くない。

私はこの歌を聞くたびに、歌の上手下手にかまわずに、感動する。私たちはそう意識することがなくても、瞼(まぶた)にそっと忍の字を書いて、譲り合って生きてきたのだ。

私たちは神や仏だけでなく、親や上司や、人々による引き立てだけでなく、世間のお蔭(かげ)をこうむって、生きているのだ。世間(せけん)をあたかも神のように畏(おそ)れて、敬った。

世間を天としている文化は、世界のなかで日本だけだ。すばらしいではないか。

若者は、私たちの世代と別世界に生きているというが、いまでも若者まで「‥‥紹介させていただきます」とか、「参加させていただきました」「つくらせていただきました」と、「‥‥いただきます」を連発する。これは、外国にまったくない表現である。

自分の力だけではなく、世間に「させていただいた」ことに、胸のなかで感謝しているのだ。
 
この国に生まれて、本当によかったと思う。

<[頂門の一針]から転載>

◆『3病人せとぎわ問答』

〜「書評」〜

岩見 隆夫


A.78歳・政治ジャーナリスト・肝臓がん▽B.75歳.元会社社長・肺がん▽C.71歳・元大学教授・心臓病。3人に共通しているのは、人生の残り時間にさほどの未練はなく、達観しているらしいこと? そんなわけで、ここはひとつ相寄り、「三病人本音トーク」といこうかと。

         ◇   ◇   ◇

B.「勝手ながら、きょうはおれがテーマを決めさせてもらう。『書評』だ」

A.「ふーん、なにかおまえの読書遍歴に突然異変でも起きたというのか」

B.「起きたといえば起きた。おれはもともと正統派の読書家なんかでないことは、おまえたちも知ってる通りで、気まぐれ読書だ。ほとんどの人がそうじゃないのか。

ところで、最近おれの耳にあの山本周五郎の名作『樅ノ木は残った』を読まないと、人生の損失だという声がしきりに聞こえてくるようになった。それも二度や三度じゃない。多分口コミだと思うがね。

その話は以前も聞いたことがあるので、そんな本、とへそ曲がりのおれは、わざと避けて通ってきた。しかし、ここまで言われると、本当に損するような気がして、読み始めたというわけ。意志が弱いね」

A.「それで読み終えたの」

B.「いや、まだ3分の1」

C.「ぼくは高校生の時読んだなあ。面白かったという印象が残ってるだけで、みんな忘れちゃった」

A.「おまえの異変というのは、そんなことか」

B.「実はもうひとつある。それが大きい。月刊情報誌の『選択』(9月号)というのをめくっていたら……」

A.「えっ、おまえ、あんな雑誌まで読んでいるのか」

B.「いや、いや、たまたま友人からもらって初めて手にした。そこで、『本に遇う』という書評コラムにめぐり合ったんだ。〈山本周五郎の二枚舌〉というタイトルでね。これがすばらしい。筆者は河谷史夫、どんな人か知らんけど」

A.「その書評コラムはおれも愛読している。河谷さんは『朝日新聞』出身のその世界では知られた名筆家だよ」

B.「で書評だが、前半で山本周五郎の世界を概観している。そして、後半で『周五郎伝 虚空巡礼』(齋藤愼爾著・白水社)という新刊本を批評している。この本によると、山本という作家は悪癖がたくさんあったそうだ。

酒癖が悪い、ウソつき、配慮に欠ける、狭量、ひがみっぽい、劣等感の固まり、2度目の夫人に『あなたって二枚舌ね。まったくとんでもない男』といわれている。にもかかわらず齋藤は最後に〈周五郎の作品の何篇かを読まずに通過するのは、明らかに生涯の損失〉とまた損失という言葉を使っているんだね」

A.「それでおまえますます『樅ノ木……』に引きずり込まれたということ」

B.「簡単に言えばそうなるが、河谷書評の描き方が決定的だね。文章、文体に特別光るものはないが、読み終わってみると、〈読むしかないか〉という気持ちに当方をさせている。知能犯……」

◇「周五郎の作品全部読め」 残念、時間が足りない

A.「そこなんだ。日ごろおれなんかも一般の新聞、雑誌の書評を読んでいるほうだ。ところが、ほとんど面白くない。だから役に立たない。それでも題につられたりして、読んでしまう。書評で買いたくなる本は、買いたくなくなる本より圧倒的に少ない。ところが本屋に行くと、〈書評の本〉なんて特別にヒラ積みにしている。書評の中身読んだのかね」

C.「ぼくもまったく同じ感想なんだ。学者という仕事柄、毎日曜日に主要紙に4、5ページもさいて特集する書評、あるだろ。目を通してしまう。ところが、面白くないどころか、何を書いているのかわからないのもある」

B.「そんなにひどいのか」

C.「この前の『朝日』(10月6日付)に載った『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい−−正義という共同幻想がもたらす本当の危機』という頭が痛くなる題名の本の書評、ひどいなんてものじゃない」

B.「要するに死刑執行論」

C.「うん、いや違う。著者の森達也氏は廃止論。評者の佐々木敦早大教授のほうが執行論。だから『朝日』が評者に選んだのだろう。しかし、タイトルだけだとそんな感じを受けるだろう。

ところで、著者は〈当事者〉性とかいろいろ言葉を駆使して〈叫ぶ人〉に訴えかけているらしいのだが、書評を読むかぎり、私の頭の理解を超えていたね。〈私たちは、文字通りの「他者」たちの悲嘆や絶望に共感する術は、実のところは、ない〉と書いてるそうだが、そうかなあ。森という人にはないかもしれないが、ぼくにはある。

もっと驚いたのは、評者の執行論の立場からの批判が一行もない。最後は〈著者は貴重な想像力の持ち主だと思う〉と褒め上げている。なんだ、こりゃ、ですよ」

B.「河谷書評とこういう一般書書評との差がなぜこんなに大きいのだろうな」

A.「それは評者のレベルが低いからだ。いまは若い編集者が適当に有名筆者に頼んで、できてきたものをそのまま載っける。書き直しを頼むということもなくなった。編集者にも見識があった」

C.「ぼくは、書評とは何か、についてもっと研究したほうがいいのではないか、と思うね。特に評者の立場。最初から評者の顔がむきだしになり、著者は薄れてしまうというのが結構多い。うんざりだよ、何のための書評か」

B.「それだ。例の河谷書評は冒頭に数カ所だけ〈わたし〉が出てくるが、サワリのようなものでまったく気にならない。あとは雑誌二ページ、完全に〈河谷ぬき〉、完全に山本周五郎の世界に浸れる。

ところが最後の最後にツルリとね、著者の齋藤が〈周五郎の作品の何篇かを読まずに通過するのは、明らかに生涯の損失〉と締めたのを受けて、〈何篇などといわず、全部読めと、齋藤は言うべきだった〉と書評を結んでいる。全部、なんておれはかなわんよ、時間が足りん」

A.「ハハハハッ、残された時間の話はともかくとして、欧米では一流の書評家は一流の著者より高く評価される、と聞いたことがある。書評文化というのかねえ。日本はそれに少しでも近づいているのか、遠ざかっているのか、心もとない。まあ、おまえは当分『樅ノ木は残った』を楽しめるのだから幸せだ」

B.「病院のベッドの上で、読む気力が湧いた時だけだから時間がかかる。文庫本全3冊、だから、まあ1カ月か」

 ◇今週のひと言

日本は秘密が漏れやすい、そういう民族性も悪くない。

◇(いわみ・たかお=毎日新聞客員編集委員)
サンデー時評:2013年10月16日
 (サンデー毎日2013年10月27日号)

<「頂門の一針」から転載>

2013年10月18日

◆論理的ではない河野氏の言葉

阿比留 瑠比


元慰安婦報告書−論理的ではない河野氏の言葉

慰安婦募集の強制性を認めた「河野談話」は、やはり国民を欺いた政治的妥協の産物だった。

河野談話の根拠の決め手となったのが、韓国・ソウルで行った元慰安婦16人への聞き取り調査である。それが、産経新聞が入手した調査報告書で驚くほどお粗末な内容であることが明らかになったのだから、談話を一方的に押し付けられている国民はいい迷惑だ。

秘匿の意味は薄く

政府はこれまで、聞き取り調査の内容について情報公開請求しても「非開示」としてはねつけてきた。それは名目である個人情報保護のためではなく、実際は中身がずさんなので表に出せなかったのではないか。

本来なら河野談話の主役である河野洋平元官房長官に直接問いただしたいところだ。だが、残念ながら産経新聞の取材は受けてもらえないので、河野氏の言葉を他媒体から引用したい。

「日本政府調査団の慎重姿勢に徐々に心を開いた16人が当時、『出所や中身は公表しない』との約束で口を開いてくれた」(平成20年10月8日付読売新聞)

河野氏は聞き取り調査内容を公表しない理由についてこう主張するが、実際には日本での慰安婦賠償訴訟の原告が5人いる。日本の新聞のインタビューを受けて連載記事で取り上げられた人も、安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大教授(当時)ら韓国側が行った聞き取り調査に応じ、元慰安婦の「証言集」に収録されている人もいた。

つまり、日本政府が内容を秘匿することにあまり意味はないのである。また、河野談話作成にかかわった当時の政府高官は今回、産経新聞に河野氏の主張と矛盾することを語った。

「私は公開してもいいと言ったが、河野さんが『絶対だめだ』と反対した」事実関係置き去りどちらの言い分が本当かはまだ「藪(やぶ)の中」だが、いずれにしても河野氏の発言は情緒的すぎる。河野氏は月刊誌「世界」の昨年10月号のインタビューではこんな言い方をしている。

「日本政府の調査に対し、当事者の方々がその辛(つら)い体験を話してくださったのは、こちらの姿勢への信頼が生まれて初めて語ってくださったのです。『証拠がない』という批判は、その信頼を裏切るものだ」

とはいえ、実際の調査は1人当たりわずか約3時間程度で、それも通訳を介してのやりとりである。安氏ら韓国側の調査のように、5、6回面会してじっくり話を聞いたわけではない。

また、河野氏は当事者の信頼を裏切るなというが、およそ論理的ではない。まるで、元慰安婦の証言はすべて丸ごと信じるべきだと言わんばかりで、そこには事実関係の追究・解明という視点も、国益という観点も見あたらない。

韓国側調査の方が

一方、福井県立大の島田洋一教授が平成19年3月にソウルで安氏と会った際、安氏はこう語ったという。

「私も元慰安婦の聞き取りも含め詳しく調査したことがあるが、調べた限り、日本軍が女性を強制動員して慰安婦にした客観的資料はない。研究者として証拠といえる証言もなかった」

河野氏より韓国の学者の方がよほど事実に対して謙虚であり、良心的だと感じる。
(政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2013.10.17

<「頂門の一針」から転載>

◆支那の兵士、日本の兵士

平井 修一


1928年に毛沢東はこう書いている。

<国民党新軍閥は蒋介石派、李宗仁・白崇禧派(広西省)、馮玉祥派(広西省)、閻錫山派(山西省)の4派があり、北京・天津の軍閥である張作霖を攻め落としてからこの4派の結束は崩れて内部の激しい闘争に変わった>

支那の軍閥とは何か。

1912年以降、支那の中央政権は清から中華民国へと交替したが、その統治力は全国に及ばず、地方ではさまざまな武装集団が出現した。村落の自衛組織もあれば、侠客集団や盗賊集団もあり、その中で反社会的なものが「匪賊」とか「土匪」と呼ばれた。

武装集団の大規模なものが「軍閥」で、その中には匪賊と大差のないものもあり、満州軍閥の張作霖は匪賊出身である。そうした軍閥の兵士たちは給料の欠配や統率者への不満から容易に暴動を起こし、放火・掠奪・殺人を行った。軍閥兵士や敗残兵が賊徒化したものが「兵匪」、毛沢東率いる共産党革命軍の赤軍は「共匪」と呼ばれた。

いずれも手下になる兵士は脅迫されてそうなった者もいるだろうが、手下になればとりあえずは飯にありつけるから、食いっぱぐれた連中が匪賊、軍閥に集まったようだ。

毛沢東は赤軍のなかにどうしようもないクズがいることを嘆いている(1929年)。

<赤軍にルンペン出身者が大きな数を占めていることから、流賊主義的な政治思想が生まれている。根拠地拡大や労農大衆の組織化など骨の折れる地道な活動をせずに、単に寝返り兵、投降兵を抱え込んだり、大きな都市で飲食することばかりを考えている。良質な活動家を参加させて赤軍の階級構成を変えなければだめだ>

このルンペン兵士は「軍規がゆるんでおり」「家屋を焼き払い」「逃亡兵をやたらと銃殺する」のだと言う。

当時は蒋介石・国民党の国民政府(首都南京、後に重慶)が一応の中央政府だったのだが、この政府軍もずいぶんと怪しい軍隊だった。住民は匪賊にはミカジメ料を払えば襲撃されなかったが、政府軍の兵隊は愛国心も規律もなく餓狼のように住民を収奪したようだ。

国民政府軍の新兵募集の様子はこんな風だった。

<(彼=著者自身は)強制徴募による新兵の一人であるということに違いはないが、その徴発された時の事情が少々(他の者たちと)違っていた。募兵官が町に姿を現し、人狩りを始めたということを聞いて、隠れたのがいけなかった。誰か密告したものがあったのだ。

ある日、五、六人の兵隊が一人の将校に指揮されてどやどやと踏み込んできた。「陳登元(著者)が(留学先の)日本から帰っているはずだ。どこへ隠したのだ。早く出せ!」

そういうが早いか、八方に分かれて家宅捜索を始めたのである。が、彼らはいくら探しても無駄だった。彼は、祖父母たちがこの家をこしらえた時に、匪賊に備えて誰にも分からないように秘密の地下室を作っておいた、その中に隠れていたのだから>(陳登元著「敗走千里」、教材社、1938年3月)

兵士たちは陳登元の老父母に、あくまでも息子をかばうのなら群衆に命じて略奪させるぞ、お前たちは国家の統制を乱すものとして銃殺だ、などと脅す。その時に野次馬のなかから「その家には秘密の地下室がある」と言う者があり、陳登元は発見されて、徴兵忌避の逃亡兵として銃殺されそうになる。

陳登元はやがて国民政府の兵士として日本軍と戦うのだが、こんな風にして徴兵されたものだから戦意があるはずもなく、彼らは常に生き延びるために逃げ回るのだ。「敗走千里」という書名どおりである。

支那の諺に「良い鉄は釘にしない、良い人間は兵隊にならない」とあるが、大昔から兵士の質は毛沢東が嘆くように悪かった。「逃亡兵は銃殺」というのは、敵前逃亡する味方の兵士を撃ち殺すことで、それ専門の「督戦隊」という支那特有の部隊があり、そうしなければ皆逃げてしまうのだ。

日本軍が国民政府軍の立てこもる南京城を落とした時(1937年)、城内に膨大な死体があったそうだが、彼らが退却する際に徹底抗戦をさせようとする督戦隊を逆に殺したのではないかと小生は思っている。

陳登元のように支那兵は拉致されて兵になった者が多いので、日本軍は彼らを「拉兵」と呼んでいたという。士気は低いし規律もない。

1894、5年の日清戦争に出征した森鴎外は「鶏」という作品の中で大要こう書いている。単身赴任の小倉の家に元の部下が鶏をもって訪ねてくる場面だ。

<「戦地でお世話になった麻生でござります」
「うむ。軍司令部にいた麻生か。どうして来た」
「ご機嫌伺いに参りました。これは沢山飼っておりますうちの一羽でござります。ちょうど食べ頃でござりますからもって上がりました」
「それは徴発ではあるまいな」

麻生は頭を掻いた。(戦地で麻生は鴎外から「徴発はならぬ」と注意されたのだ)

「恐れ入ります。ついみんなが徴発徴発と申すもんでござりますから・・・」
「それでも貴様はあれきり支那人の物を取らんようになったから感心だ」
「まったくお陰をもちまして心得違いを致しませんものですから、凱旋いたしますまで、どのくらい肩身が広かったかしれません。大連でみんなが背嚢(はいのう)を調べられましたときも、銀の簪(かんざし)が出たり、女の着物が出たりして恥をかく中で、わたくしだけは大いばりでござりました」>

日本軍の規律はその頃から向上していき、仏印(フランス領インドシナ。今のベトナム、ラオス、カンボジア)進駐の1941年7月、現地のフランス語新聞はこう書いた。(フランスはドイツに占領され、英米陣営を離れて日独伊三国同盟側についていた)

<日本が仏印の軍事的利便供与を要求した真意は分からないが、日本はフランスに領土と主権の尊重を厳粛に約束した。われわれは、世界で最も道義的であり、公明だと言われる日本民族の名において約束された言葉を深く信用すべきだ>

日米開戦の5か月前の日本の評価であり、日本軍の規律もすこぶる良かったことがうかがえる。話をもどそう。

やがて軍閥は合従連衡を重ね、最終的には国民党軍、共産党軍の二大軍閥に編入されて消えていったのだが、現在の共産党軍(人民解放軍)の規律も大して変わっていないようである。中国ウォッチャーの宮崎正弘氏がこう書いている。

<汚職は中国の文化なのだ。2007年、中国海軍ナンバーツーだった王守業中将が失脚したとき、その汚職の規模に驚かされたものだ。王は海軍の装備品調達の責任者だった。出入り業者が豪邸を建ててくれ、ふたつ大きな冷蔵庫のなかから出てきたのは米ドル、ユーロ、香港ドルなど外貨のキャッシュで、2億ドル前後もあった。

軍は就職先として近年はやけに人気がある。とくに農村部の若者にとっては収入が安定し、戦争はないと踏んでいるから安定的職業のランクになる。軍人になるための賄賂は1万元の相場で、親が部隊長に届ける。

しかも、次は「いじめに合わないように」と部隊連隊幹部などに1000元、2000元を届ける。これが軍内の見えない、しかし常識のシステムである>

私欲のためには命懸けだが、大義のために死ぬ気はないのは昔からなのだろう。(2013/10/16)

<「頂門の一針」から転載>

2013年10月17日

◆米上院、財政問題解決で与野党合意

古澤 襄


■16日に上下両院で採決も

<(ブルームバーグ)米上院の与野党指導部は16日、財政問題の行き詰まりを解決し、債務上限を引き上げることで合意に達した。上下両院ともに早ければ16日に採決を実施する可能性がある。

今回の合意に伴い、16日目に入った政府機関の一部閉鎖が解除され、17日に失効する米国の借り入れ権限は延長される。下院共和党はこの日、上院合意案の可決を容認する意向を示唆している。クルーズ上院議員(共和、テキサス州)ら上院の反対派は採決を遅らせるつもりがないことを明らかにしている。

リード民主党上院院内総務は「今回の妥結は米国経済に強く求められている安定をもたらす」と述べた。

2010年に成立した医療保険改革法への資金打ち切りと、債務上限引き上げおよび政策面の譲歩を伴わない歳出への反対を共和党が主張したことで始まった過去4週間の対立は、今回の合意成立で終結する。共和党はその主張のいずれも、ほとんど認められなかった。

マコネル共和党上院院内総務は「率直に言ってわれわれの多くが期待した結果からはるかに小さいが、それでも一部が予測していた事態と比べると極めて良好な結果だ」と述べた。

リード、マコネル両院内総務が交渉した枠組みは来年1月15日までの予算を共和党が認める水準で確保し、2月7日まで債務上限を引き上げる内容。 (ブルームバーグ)>

<[ワシントン 16日 ロイター]米上院のリード民主党院内総務とマコネル共和党院内総務は16日、債務上限の引き上げと政府機関再開で超党派合意に達したと発表した。

共和党が過半数を握る下院でも上院案が採決にかけられる見込みで、側近によると同日中に上下両院を通過すると予想されている。

財政協議の妥結期限を翌17日に控え、米議会は再び土壇場で破滅的なデフォルト(債務不履行)を回避できる見通しとなった。

超党派の合意案では、連邦債務の上限を来年2月7日まで引き上げるとともに、政府資金を1月15日まで手当てするという内容。

債務上限については、議会の折衝が長引いた場合、財務省が非常手段を用いて資金繰りを行うことを認める。

医療保険制度改革法(オバマケア)の修正を求めていた共和党保守派にとっては、手痛い政治的敗北となる。

今回の一件で求心力が低下しているベイナー議長の地位が脅かされるかは不明。

また今回の合意案では、上下両院の議員による委員会を設置、12月13日の期限までに、より広範な予算問題での合意を目指す。(ロイター)>
2013.10.17

   <「頂門の一針」から転載>