平井 修一
小生が生まれた1951年からのわずか六十余年で日本人の生活はまったく様変わりした。いつでも冷蔵庫には冷たいものがあり、ポットにはいつも熱いお湯がある。スイッチを入れるだけでお風呂も沸くしご飯も炊ける、夏には冷房、冬には暖房で快適だ。
便利、快適に慣れすぎて、もう電力がない生活は考えられない。停電が1か月も続けば、サバイバルの技術も耐性もないから死者が続出するに違いないし、経済も破綻しかねない。ずぶずぶの電力依存症になった。
人類史は電力以前と電力以後に大別できるかもしれない。
人類史において動力のほとんどが「人力」という時代はずいぶん長かったろう。そのうち畑を耕したり荷車を引いたり、移動手段として牛馬などの「獣力」を利用するようになった。
中世になると水車を発明して精米や粉引きは「水力」を利用し、オランダでは干拓地の排水用に「風力」利用の風車が開発された。やがて18世紀の近世には「蒸気力」を利用する機械が発明されて産業革命が始まった。19世紀には蒸気に代わって圧倒的なパワーをもつ「電力」が登場し、21世紀の今もそれが動力の主役になっている。
しかし、それはある程度国力のある国の話であって、現実には電力が世界中に普及しているとはまったく言えない。国際協力機構によると世界中で電気のない暮らしをしている人は15億人、世界人口の20〜25%ほどにもなる。中でもサブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠以南の国々)と南アジアの電化率は低く、サブサハラの農村部では5人に4人以上が電力のない地域で生活しているという。
新興国のインドでさえも、国民の4人に1人が電気を利用できず、「2009年の1人当たり消費電力量は779kWhと、日本の消費量の2割に達していない」という(海外電力調査会)。
<アジア(非OECD国)、アフリカ、中東、中南米は、北米(OECD国)や欧州(OECD国)に比べ、1人当たりの電力消費量は依然として低い水準でした。例えば、2008年時点でアジア(非OECD国)の1人当たり電力消費量は、北米(OECD国)地域の6.5%程度にすぎません>(エネルギー白書2011)
電力の恩恵をたっぷり受けていないと経済はなかなか成長できず、後進国から抜け出せないでいる国は実に多いのである。
振り返れば日本でも「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及し始めた1950年代後半までは、普通の家にある電気製品は電灯、ラジオ、アイロンくらいで、電灯でさえも日本全国津々浦々、どんな僻地にも灯るようになったのは1970年に近かったのではないか。
<電気は郡部では戦後になってやっと普及した地域もあり、早い地域と遅い地域では50年以上もの差があります。家庭に配電するには電線を敷設する必要があり、それは電力会社にとって初期投資となります。
しかし戦前は現在のような9電力会社体制ではありません。東京電燈の成功を見て、全国各地に雨後の竹の子のように電力会社が設立されましたが、それは弱小資本の乱立でもありました。
電気の使用料を利用者から取り立てるのも大変でした。銀行の口座振替などない時代であり、集金人が一軒一軒戸別訪問で集金する以外にないからです。また当初は使用量を計測する機械もなく、電燈の数で課金するような仕組みでした。
そうした集金システムにしても電線の初期投資にしても、人口密度の高い都市部が電力会社にとって投資効率が高いわけです。都市部ではいくつもの電力会社が大口ユーザーの奪い合いの激烈な競争を繰り広げる一方で、人口密度が低く投資効率の悪い郡部は長年放置され続けてきたのです。
終戦となり現在にいたる9電力会社体制に再編され、電力会社の経営が安定して日本中に電線が引かれるようになったのです>(ヤフー知恵袋)
わが川崎市は京浜工業地帯と呼ばれていた東の東京湾岸臨海部から発展したのだが、西のはずれにある小生の町(昔は田舎)あたりに電気が通じたのは、東京電燈が東京・茅場町から送電を開始した1887年(明治20年)から14年後の1901(明治34)年ころだったろう。この年、隣町に吉澤製紙(後の玉川製紙)工場が設立されているから、電線が引かれていたに違いない。
カミサンが生まれたのは奄美大島本島の秋名(あぎな)という集落である。本島の北端に近く、最大と言うか唯一の町である名瀬(なぜ)からは、30年ほど前に行った時は車で山道をたどり1時間はかかった。カミサンが育った昭和20〜30年代は陸路が整備されていなかったから秋名−名瀬はもっぱらポンポン船に頼っていた。離島のさらなる僻地だったのだ。
奄美大島の電化について調べてみたが、「鹿児島県史」によると東京に遅れること24年の明治44年(1911)、奄美で初の電気事業が名瀬村で開始され、家々に電灯が灯った。本島南部の電化は大正12年に、北部は昭和7年になってからであった。小生と同年配くらいの奄美人がこう書いている。
<(東南部の)住用川発電所は大正8年から平成3年までの71年間電気を作り続けてきた水力発電所です。150kwの出力は現在では標準的家庭の1ヶ月分に満たない程度のものでしょうが、当時電化製品のない時代、ほとんど電灯用として大変貴重なものだったでしょう。
因みに私の父が電力会社に入社した昭和38年、最初の仕事は夜間に村々を回り電気泥棒を探すことだったそうで、当時一軒の家が電気を引くとその線の途中に勝手に分岐して電球をつけることが多々あったらしい。
小学生の時の先生が郵便はがきの当選番号で洗濯機が当たった時にまだコンセントが家になかったという笑い話を思い出します。奄美の全ての村々に電気が行き渡るようになったのは、まだつい最近のことなのです>
ちなみに電気がこれだけ普及しているのに感電事故(労災を除く)は非常に少なく、死傷事故は平成22(2010)年度は67件。関東管内の平成23年度の死者はたったの2人だった。
安くて便利で安全な電気、電力が支えたから今の経済大国日本がある。ただ、その元となる石油やガスは輸入に頼っているから、その面での電力自給率は20%にも満たない。低コストの原発は経済成長のみならずエネルギー安保の観点からも必要なのである。(2013/09/17)