岩見 隆夫
吏道(官僚としての道)のすたれをもっとも気にしていたのは、官僚出身の宮沢喜一元首相だった。かつて旧大蔵省が汚職事件で手入れを受けた時、宮沢は、
「昔は吏道というものがあったんだがなあ。いまはない」と嘆いた。
汚職だけではない。
安倍晋三首相は集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更に踏み切る決意をしている。ところが、先日まで安倍の内閣を補佐していた前内閣法制局長官(最高裁判事に転身)が記者会見で、
「私自身は(行使容認は)非常に難しいと思っている」
などと語った。選挙で選ばれたわけでもない一介の高級官僚が、まるで首相に対抗するかのような政治論を平然と口にする。それが大きなニュースになる。
職を解かれれば何を言ってもいいのか。メディアも「極めて異例」と書くだけで批判しない。吏道地に落ちたり、だ。宮沢が生きていたら、さぞ怒ることだろう。
ところで、宮沢は生前(2007年、87歳で死去)、集団的自衛権について多くのことを語り残している。それは良心的なエリート政治家の葛藤の軌跡と言ってもいいのかもしれない。
米国のサンフランシスコで対日講和条約締結50周年記念式典が催されたのは、01年9月8日のことだった。3日後に米国は9・11同時多発テロに襲われるのだが、それは偶然である。
記念行事として開かれた講和50周年シンポジウムで、宮沢が講演した。演題は<平和と繁栄をもたらした50年間の同盟関係>。
宮沢は50年前の講和会議に、吉田茂首相一行の全権団随員として参加している。当時、講和参加の政治家でただ一人の生き残り。日米の半世紀を語るにふさわしい。
この講演で、宮沢は意外なことに言及した。50年前の歴史的選択を高く評価したあと、
「日米同盟をより効果的なものにするために、私は、日本が自衛権の論理的延長として集団的自衛権を位置付けることを提案する。
米軍の具体的な活動が、日本の安全保障のリスクに明確かつ直接にかかわる活動であるかぎり、米軍を援助し、守るために日本の自衛隊を運用できる、運用すべきだという考え方をしたい」
と述べた。<明確かつ直接>の条件付きながらも、集団的自衛権の憲法解釈変更を日本政府に求めたのである。
「おっ、あの護憲派の宮沢さんが……」
と驚きの声が政界の内外から漏れたのは当然だった。しかし、改憲論ではない。同じ講演で、
「憲法9条改正の要はなく、集団的自衛権について、政府の9条解釈を明確にすべきだ」
とも言っていた。安倍が今手を染めようとしている9条解釈変更には賛成だが、9条改正には賛成しない。
「21世紀への遺言のつもりだ」
ともつけ加えた。日米同盟の将来像について、宮沢なりの踏み切りだったと思われる。
それ以前の宮沢発言には変化がみられた。講演の6年前に書いた「新・護憲宣言」は、
<蟻(あり)の穴から堤も崩れる>
の教訓に学び、自衛隊は自衛以外の戦闘目的で運用しない、という抑制的立場で貫かれていた。<蟻の一穴>になりかねない集団的自衛権には触れていない。
しかし、その2年後(1997年)、改憲派の中曽根康弘元首相との対論集「改憲・護憲」になると、迷いがみられる。憲法解釈変更を強く主張する中曽根に対し、宮沢は、
「私の考えも、想定される事態への具体的な対応という観点からみれば、中曽根さんとあまり違っていない。かりに横須賀沖の公海上で日本が敵から脅かされ、日米で共同作戦があって、アメリカの軍艦を日本の自衛艦が助けたケースと、同じことがカリフォルニア沖で起きたのとでは違う。
横須賀沖は日本の自衛のために行動しているわけで、それを集団的自衛権の行使だから憲法違反というのは法律家の資格のない人の言うことだ。……」
などとすっきりしない。それが01」年の講演では<自衛権の論理的延長>
に転換した。
何があったのか。一つは湾岸戦争(91年)の教訓だった。
「日本はあんなに油を買っているのに、血も流さない、汗も流さない」
と国際社会で批判を浴び、当時の宮沢首相は国連平和維持活動(PKO)を決意する。PKO協力法を成立させ(92年)、自衛隊のカンボジア派遣(同年)に踏み切った。これにも、
「護憲派の宮沢さんなのに……」
と批判の声があがり、宮沢は非常に怒りを覚えたと語っている。
状況は刻々と変わる。政治は敏感、果断に対応しなければならない。宮沢の遺言はそれを言いたかったのだろう。(敬称略)
近聞遠見:=毎日新聞 2013年09月07日 東京朝刊=第1土曜日掲載
<「頂門の一針」から転載>