2013年08月12日

◆韓国にとって歴史とは何か

Bayan


■中韓との外交戦略

最近の中韓との緊張状態を憂えて、早急に友好関係の回復を図るべきだと考える人も多いだろう。しかし、基本的に対外関係は自国の国内事情とは独立したものではなく、また国際情勢や経済情勢など多様な要素の影響を受ける。その意味で、友好友好と叫べばよいと言う単純なものではない。

中国については、アメリカに代わって世界を指導しようと言う野心があり、外交はその為の手段であって他国との友好関係の解釈が我が国の親中派のそれとはまったくの別物だ。日本に友好的な態度を取るのはそれが外交上有益だからであり、本当の意味で日本と仲良くしたいなどと考えている中国指導者はいない。

一方韓国は反日に凝り固まっている。法律が遡及しないと言う近代法の大原則を踏みにじる対日協力者やその子孫の資産を没収すると言う法律を制定した事を見てもその非常識さがわかる。何しろ情緒法と言われる国民感情が法の解釈に先行する異常な国家なのだ。

中国とは戦争状態にあったので、反日の意味も分かるが植民地支配を受けたと言うだけで未だに日本の事になると異常な反応を示す韓国はまともな近代国家ではない。

日本が取るべき方法は、国際法上の権利は明確に主張すると同時に、日本の経済や軍事力を高め、日本に敵対する事が自国にとってメリットが無い事を中韓に分からしめる以外にはあるまい。口先だけの友好や、人的交流などの付け足しの事は適当に対処し、まず日本が自国を強くすることに傾注するべきだろう。

■韓国にとって歴史とは何を意味するのか?

サッカー東アジアカップ戦で、韓国サポーターが「歴史を忘れた民族に未来はない」と言う横断幕を掲げた。韓国にとって、歴史とは何を意味するのだろうか。

日本の植民地支配について本当に歴史を知るなら、何故韓国が大した抵抗もせず日本に併合されたのか。また何故その後も殆ど反植民地運動らしいものが発生しなかったのか。日本の植民地支配の功罪はどうなのだろうか。独立後の韓国の国家運営に植民地支配がどのような影響を与えているのかなどを冷静に分析する必要があるだろう。

そのような冷静な議論が出来ず、何でも日帝36年と批判するばかりでは何の意味もないのではないだろうか。日本が明治維新を成し遂げ近代化できたのなら韓国にも可能だったはずだ。

にも拘わらず、世界の情勢に目をつぶり儒教的事大主義に拘泥した結果が自国を植民地にされると言う悲劇だったはずだ。物事を冷静に見ず、観念論的に見るのは儒教の悪い点で小中華を自認する韓国の悲劇の根本はここにあるのだろう。

日本支配時代に日本に殺された人間の数と朝鮮戦争で北朝鮮および中国に殺害された人数を比較すれば、如何に朝鮮戦争が悲惨であったかは一目瞭然だ。

にも拘らず、北に対して融和的である韓国人の心情は国家より部族を重視する前近代的なもので、その段階をとっくに卒業した日本人には理解できない。何より歴史観と言うものが怨念から一歩も出ず、感情だけで歴史を見るようでは歴史から学ぶことが出来ていないのは韓国の方だろう。

<「頂門の一針」から転載

2013年08月11日

◆「原発ゼロ」の理論ゼロ

平井 修一


今朝(8月10日)は6時にはすでに室温は33度、9時には34度、正午にはなんと37度とわが家の記録を更新した。今日も終日クーラーの世話になるだろうが、電力供給は大丈夫なのか。東電も関電も使用量は能力の90%を超えているというから、かなり限界に近づいているようだ。

資源エネルギー庁によると、日本の総発電量に占める原子力発電の比率は、震災前の2010年12月に32%だったのが、震災後の2012年12月は2%まで減少した。今はどうなっているのかは分からないが、安倍政権は「原発の再稼働を進める」と言っているから、まあシェア3割復帰が当面の目標なのだろう。

一方で「原発ゼロ」を目指すべきだと言う人は多数派のようだ。日共が応援している「首都圏反原発連合」はこうアピールしている。

<原発ゼロを望む国民の声は圧倒的多数であり、もはや原発を残す理由は何ひとつありません。それにもかかわらず政府は「原発の活用」を掲げ、原発再稼働と輸出に躍起になり、まるで福島の事故などなかったかのように振る舞っています。私たちはこうした政府の再稼働姿勢に真っ向から反対します>

「戦争ゼロ」にも皆賛成だろうが、理想と現実は違うもので、「原発ゼロ」を目指すのなら電力をどう確保するのかという代案を提示すべきなのに、彼らは基本的に「代案ゼロ」である。

太陽光発電が有力だという人もいるが、「太陽光発電の設置容量は増加しているが、発電量には2007年時点ではほとんど寄与していない」(環境省)。事情は今も同じだろう。

冷静に考えれば、現在と同じような低廉・便利な電化生活をしたければ原発を活用するしかないし、それが嫌だというのなら生活の質を落とさなければならない。30%節電すれば原発は不要になるだろうが、原発ゼロを主張する人で30%節電している人はゼロだろうから、主張していることと行為が矛盾している。

昨年の原発事故による年間死傷者はゼロだが、交通事故によるそれは、30日以内死者数5237人、負傷者数82万5396人、合わせて83万人である。それなら「原発ゼロ」を言う前に「車ゼロ」と大いに主張すべきなのに誰も言わない。圧倒的多数が便利なのだから少数の犠牲はやむを得ないと思っているのだ。これでは政治マターにならない。

つまりは「原発ゼロ」は“ためにする”主張であり、責任ある言論とはとても言えない、ただの妄言である。かつて反徳川勢力が「攘夷断行」を迫り倒幕した例にならい、自民党政権に無理難題をふっかけて倒閣し、あわよくば容共左派の政権を再び作りたいというのが本音である。民主党政権の失敗、社民党の凋落に懲りてはいない。

こうした政治マターに騒動師は群がるから、辻元清美も当然名乗りを上げる。ブログにこう書いている。

<「脱原発ロードマップの会」で事務局長を務めてこられた平岡秀夫さんが無所属で立候補されました。平岡さんは原発ゼロ社会の実現になくてはならない存在です。ぜひ平岡さんをもう一度国会へ!>(4月10日)

2004年4月にイラクで反米武装勢力の“人質”となった「イラク三馬鹿」の一人、高遠菜穂子も健在で、「脱原発にシフトしたドイツへ福島の高校生を派遣します」(7月22日)と資金を募っていた。

反日教祖の大江健三郎も「さようなら原発集会」を呼び掛けて大いにアジったものである。

原発事故の影響は死傷者ゼロとはいえすこぶる大きい。未だに避難生活を強いられている人はとても辛いだろう。小生は多少の寄付をしたくらいで、「避難先として我が家を提供する」などの具体的な支援をする気はない。被災者と会ったところで「お気の毒です、ご不自由でしょうが頑張ってください」と慰め励ますことしかできない。

小生ができないことを国、自治体は一生懸命にやってくれているだろうが、被災者の不運のすべてを解消することはできない。最終的には本人が踏ん張って生活を再建するしかない。不運は誰も避けられず、嘆いていたところでどうしようもない。

忘れもしない昭和33年夏、台風で多摩川の支流が氾濫し、わが家は床上浸水になり、7歳の小生は避難する際に溺れた。夜が明けていたので助けられたが、夜中だったら行方不明となり死んでいたろう。不運ながらも九死に一生を得た。

町の記録には「駅前から橋までの商店街は胸まで増水し、全家屋とも床上浸水」とある。わが家は建物は残っていたが、ほとんどすべてを失い、母は泣いていた。救援物資は毛布1枚だった。父母は必死で生活を再建した。洪水を免れた隣の町内の悪童は「ざまあみろ」と喜んでいた。

この世に悪童、悪人がいるように、人災も天災もあり、当たり前のことながら100%の安全はなく、運が悪ければ被害者になる、被災する。そこから立ち上がるのは基本的かつ最終的に自分自身の努力である。「原発ゼロ」「憲法九条」と唱えていても安全は保障されない、国会デモの帰りに事故に遭うかもしれない。万全の対策をとっていても想定外のことは起きる、人生はそういうものだ。

科学技術発展の恩恵を受けながら、これはOK、これはNOと仕分けすることはできやしない。温暖化が心配なら火力発電も自動車もゼロにすべきで、放射能が嫌ならレントゲンや放射線治療も拒否すべきだろう。核を否定するのなら米軍の寄港や駐留も否定することになる。それなら勝手に「原発ゼロ村」を作って原始時代の生活をするがいい。(2013/08/10)

<「頂門の一針」から転載>

2013年08月10日

◆日本は何故米国に負けたのか

Mi-Ke


68回目の終戦記念日が近い。1945年7月26日、英米中の名前でポツダム宣言が発せられ、日本の有条件降伏が勧告された。日本政府は、天皇の地位が曖昧なため黙殺した。8月6日広島、9日長崎にウラン、プルトニウムの各原爆を米国は人体実験を兼ね落した。

戦争を始めたのは誰か。日本人の移民排斥、各種経済制裁をして来たのはアメリカだ。

追詰められた日本は、各種資源がこのままでは2年余りで枯渇し、国家として生延びることも戦うことも出来ない為、対米戦争已む無しの方向に進まざるを得なかった。

日本は全権大使2名体制とし、対米戦争回避のための努力をしたが、フランクリンルーズベルト(=FDR)は、次々に経済封鎖を推し進め、かつ日本の解決を希求する諸提案に曖昧に対応しつつ、最後に日本の最大限の譲歩提案に対して、ハルノートを突き付けた。

戦後、東京裁判で唯一国際法専門の法律学者であるインドのパル判事が「モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう」と評した程の、容赦ないハルノートは日本に戦争を踏切らせた。東条英機の回避努力も水泡に帰し、結局日米戦争が始まった。

最近の調査等では、FDRは暗号解読やその他ルートから日本の真珠湾攻撃を事前に承知していたことはほぼ確実である。日本の開戦通告は、大使館の重大チョンボで、FDRに騙し討ちとされ「リメンバーパールハーバー」の合言葉で、米国議会は30分で参戦を決めた。

米国民は戦争を望んでおらず、ルーズベルト大統領3選目は「貴方の息子を戦場には送らない」との約束で勝利したに拘わらず、日本の真珠湾攻撃は彼に格好の言訳を与えた。

米西戦争の時のメイン号沈没、ベトナム戦争の時のトンキン湾事件、古くはテキサスを乗っ取る為のアラモ砦の戦い等々、倒したい相手に、先に手を出させる形で戦争を始めた。

英国をドイツの攻撃から救いたい。米国民は戦争反対なので、日本を追詰め、窮鼠猫を噛ませて、出来れば先に攻撃させて、一挙に米国民の賛成を得て参戦するのがFDRの戦略だったと言われているが、それ以上に、FDRには日本に対する個人的憎しみを感じる。

FDRのDはデラノ、母方デラノ家の意味で、阿片戦争前後に阿片で巨万の富を築いた、中国利権を持つ一族だ。日本の中国進出は、中国の資産を強奪する強盗に思えたのかもしれない。日系人だけを強制収容所に入れた。

「日本人の頭蓋骨は我々のより約2000年、発達が遅れている」と本気で思っていたのもFDRだ。FDRの深層心理はその辺りに有る。

日本の無条件降伏を言い募り、原爆投下を想定し(実際にはトルーマンの決断)、カイロ宣言で、日本を明治以前の領土に押し込めようとしたのもFDRだ。戦後彼の政府機関や高官に、数えきれないソ連のスパイが暗躍していたことも紛れない事実、汚点だ。

フーバー元大統領回顧録は、レンドリース法を楯に、当時価格で100億ドルもの武器、戦車、戦闘機を無償でソ連にFDRが議会に諮ることなく供与したとしてFDRを非難するだけでなく、「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいと言う狂人(FDR)の欲望であった」と断罪している、という(茂木弘道氏講演より)。

未翻訳であるが、重要な歴史的証言だ。

FDRの功積は、中国、北朝鮮を共産主義国とし、米国に共産主義を広めたことである。

<「頂門の一針」から転載>

2013年08月09日

◆ぬるま湯から出て日本が主張すべきこと

阿比留 瑠比


「私たち日本人は、唯一の戦争被爆国民であります。その非道を後の世に、また世界に伝え続ける務めがあります」

安倍晋三首相が6日に広島市で行われた平和記念式典でこうあいさつし、原爆投下について「非道」という言葉で非難したことに注意をひかれた。式典には米国のルース駐日大使も参列しており、首相は歴史問題でやんわりと米国を牽(けん)制(せい)したといえるからである。

折しも読売新聞には映画「プラトーン」や「JFK」で知られる米映画監督、オリバー・ストーン氏のインタビュー記事が掲載されていた。ストーン氏はこう語っていた。

「原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったというのは幻想だ」「日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたかを学んでほしい」

このような見方は米国では必ずしも主流派ではないだろう。とはいえ多様な意見、見解が存在し、かつ堂々と表明されるのは米国らしい懐の深さだといえる。主要紙が平気で「原爆投下は神の懲罰だ」(中央日報)と書く一方で、自国に都合の悪い評論家、呉善花氏の入国は理由も示さず拒否する韓国とは全く違う。

ただ、日本も韓国を笑ってばかりはいられない。戦後ずっと、原爆投下の理非追及も不当性や被害を訴えるのも控えめで、「戦争に負けたから仕方ない」と自虐のぬるま湯に閉じこもり、問題をあいまいにしてきたことは否めない。

例えば、広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた有名な碑文がある。

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

主語がはっきりせず、まるで日本人が「原爆を落とされるような悪いことはもうしません」と言っているかのように読める。

実際、東京裁判で被告全員無罪を主張したインドのパール判事が広島を訪れた際にこの碑文を知り、「過ちは誰の行為を指しているのか。原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である」と憤ったエピソードはよく知られている。

広島市のホームページによると、碑文の趣旨は「原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというもの」だそうだが、そう読み取れるだろうか。

また、長崎市長を4期務めた本島等氏は平成10年8月掲載の産経新聞のインタビューにこう語っていた。

「日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ」

一般市民が無差別に大量虐殺された日本側がこんな状態では、米国が原爆投下の正当化姿勢を改めることは期待し難い。オバマ大統領が21年11月に来日して首相官邸で記者会見を行った際、幹事社だった筆者はこんな代表質問を用意した。

「過去に日本に2発の原爆が投下されたことについての歴史的な意味をどうとらえ、現在もその選択は正しかったと考えているか」

「核なき世界」を目標とする大統領も、この質問には一切答えずはぐらかした。防戦一方で勝てるゲームはない。歴史問題をめぐって日本も、たまには相手の痛いところを突くぐらいした方がよいはずである。(政治部編集委員)
産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】 2013.8.8 11:50


<「頂門の一針」から転載>

2013年08月08日

◆日本になかった「憲法実用主義」

佐瀬 昌盛


 ■日本になかった「憲法実用主義」

敗戦時、奈良女子高等師範学校付属国民学校の5年生だった。国民学校とは今で言う小学校。戦時色濃厚となった時代にそう改称された。われら「小国民」は例外なく軍国少年少女で、私なぞ、その名も勇ましい「征空鍛錬班」の一員だった。

奈良は幸運にも空襲を免れた。それでも随所に戦争があった。集団疎開の学童が教師引率の下、すきっ腹を抱えながら軍歌を歌って登校していた。「産めや殖やせや、子は宝」の時代ゆえ、受け入れる地元校がもともと満員だ。そこへ集団疎開組が加わる。教室や時間割の算段は大変だった。だから後年、気付いた。あの戦争に勝てるわけはなかったと。

 ≪GHQの非軍事化に沿って≫

戦時下、日曜日には町内の竹槍(たけやり)訓練があった。撃墜米機から落下傘脱出するヤンキー兵を地上で刺す、という。週日には隣組の消火訓練もあった。念のために言うが、失火対策ではない。

米機による焼夷(しょうい)弾攻撃への備えだ。父は中支戦線にいて不在。長男たる私と母が手製の防空頭巾と消火モップを持って出てみると、どの家も同じように母と子の参加だった。居合わす男はおじいさんばかり。

敗戦でそれががらりと変わった。戦時中の戦意高揚歌の一節に「いざこい、ニミッツ、マッカーサー」というのがあったが、実際にマッカーサー将軍が厚木に降り立つと、学校で民主主義教育が始まった。けれども「国民学校訓導」、つまりは先生たちがしどろもどろで、その初手は不都合な戦中教科書に墨を塗ることだった。

爾来(じらい)68年、民主主義日本は世界に類例のない不思議な道を歩んだ。最適例はやはり憲法問題だろう。何しろ日本国憲法は占領下に、体罰たる日本非軍事化(ディミリタリゼーション)方針に沿って生まれた。

制定時の1946年11月には連合国軍総司令部(GHQ)にもまだ東西冷戦への予感がなく、そのGHQ主導で「戦争の放棄」と戦力・交戦権の否認を謳(うた)う第9条が誕生。12歳の私にはそれが眩(まぶ)しかった。
 
≪「リアリズムの塊」西独憲法≫

同じ敗戦国でもドイツは憲法どころではなかった。占領管理方式をめぐる戦勝4国の対立で全国土が冷戦と分断の舞台と化し、西独限りの憲法制定も49年5月と遅れた。

が、何が幸いするかは別だ。冷戦下だったため、西独憲法には日本国憲法の前文や9条の夢想性がなく、リアリズムの塊だ。将来の再軍備向けの布石でさえ西独自身が打っていた。

6年後には憲法改正を経て再軍備を開始。それから58年、今日の統一ドイツ憲法には手術の痕跡が50以上。世界記録だ。必要に憲法を合わせるこの憲法実用主義(プラグマティズム)が日本にはない。

日本国憲法前文と9条の裏にあるGHQの日本非軍事化政策は、一時的体罰と考えられていた。50年6月に朝鮮半島で冷戦ならぬ「熱戦」が始まると、米国は日本に再軍備を求め、体罰を解こうとした。

が、吉田茂首相が経済の弱体を理由にこれを謝絶、妥協の産物として警察予備隊が誕生した。自衛隊の前々身だ。間には保安隊時代がある。つまり、非軍事化という一時的体罰を正式解除せず灰色の便法が採られたのだった。

戦後68年、法令上、日本は再軍備していない。いまなお自衛隊は警察と軍隊の間の灰色的存在だ。警察力は国内治安維持、犯罪取り締まり、交通警察などにみるように、対内的、国内的に働く。国防は警察の任務でない。

自衛隊の最重要任務は国防で、その作用は外向きだ。国防に当たるのは本来は「軍」で、ゆえに「自衛隊」(セルフ・ディフェンス・フォース)も英語では、つまり外向きには「軍(フォース)」を名乗る。が、警察予備隊なる出自ゆえに法令上は警察系統だ。

 ≪「灰色自衛隊」脱するときだ≫

近年の安保環境の変化に対応して、実体的に自衛隊は「軍」すれすれの灰色となった。必要の結果だ。ただ、「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じる現行憲法下では、「軍」を名乗れない。名は体を表さず、なのである。

諸国の「軍」は交戦規定(ルールズ・オブ・エンゲージメント)を持つ。9条2項は概念不明確ながら交戦権を認めないので、自衛隊は「交戦規定」を持てず、代わりに「部隊行動基準」なるものを持つ。

苦しい言い換えだが、自衛隊が「軍」と紙一重となるにつれ、この「基準」も世に言う交戦規定にうんと近づいた。が、現行憲法の呪縛は残る。これが現段階。国としての必要を満たすには、あとは憲法を変えるしかない。

敗戦時に10歳だった少年は運命のいたずらで20世紀最後の26年間、防衛大学校に勤務した。当初、教え子たちは私と同世代の、憲法解釈を異にする作家の「防大生は現代の恥辱」なる発言や、心ない世人の「税金泥棒」の罵声に耐えなければならなかった。

だが、1年半前の内閣府世論調査では自衛隊に「良い印象」を持つ声が91・7%を記録した。これほどの評価を享受する国防組織を私は他に知らない。今後必要なのは、立派な合格点に達した自衛隊のため、憲法上正当かつ明確な位置付けを国と国民が用意することだ。

(させ まさもり防衛大学校名誉教授)
産経[正論]2013.8.8


<「頂門の一針」から転載>

◆ローマ皇帝アウレリウスの憂い

平井 修一


「人は死しても名を残すべし」(五代史)と言うが、有名人でも死後50年、名を残している人はまずいない。例えば人気作家。

「あ」で始まる没後50年以上の作家には愛知敬一、会津八一、饗庭篁村、青木栄瞳、青野季吉、青柳喜兵衛、秋田雨雀、秋田滋、秋月種樹、秋野平、芥川龍之介、浅井洌、朝倉克彦、浅野和三郎、東健而、阿部次郎、阿部徳蔵、有島武郎、淡島寒月などがいる。

ところが小生が読んだことのある作家は芥川、有島、淡島の3人に過ぎない。饗庭(あえば)は名前だけは知っているが、それ以外は全く知らない。ほとんどの人は小生と同様ではないか。

「死体からノミが離れていくように、作家が死ぬと読者は去っていく」と山本夏彦翁は書いていたが、有名人でもそうであるのなら凡夫凡婦は没後10年もたてばほぼ完璧に世間から忘れられる。

無残な話だが、それが社会の新陳代謝であり、健全なのだろう。

ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスは121年4月26日生まれ、180年3月17日に満58歳で没した。40歳の161年に帝位を継承し「第16代ローマ皇帝」になったが、当時の支那は後漢、朝鮮は高句麗、新羅、百済。日本は「記紀」によれば第13代の成務天皇時代にあたる。

成務天皇が実在したかどうかさえ不明で、当時は弥生時代の後期、卑弥呼が邪馬台国を治める以前であり、諸国が対立し互いに攻め合っていた「倭国大乱」の頃である。国家らしいものができる以前のことだからほとんどで神話の世界である。

しかし、弥生時代後期末の遺跡から発見されたガラス玉は古代ローマ帝国で作られたガラスを素材にしていたというから、後漢経由でアウレリウス皇帝治下の文物が日本にも伝わっていたようである。

いずれにしても気が遠くなるような2000年も昔のことであるが、アウレリウスが自分自身のために書いた思索のメモが残されていたために彼の名は今も広く記憶されることになった。

このメモの原題は「自分自身へ」で、現在では「自省録」として世界中で読まれている。アウレリウスがこれを書いたのは166年から176年、彼が45歳の頃から55歳の頃らしい。50歳前後の頃、彼は自分を老人だと言っているが、当時の人は何歳くらいまで生きたのか。

先先帝は62歳没、先帝は74歳没、彼は58歳没、次帝は31歳没(暗殺)、次次帝は67歳没(暗殺)である。暗殺された皇帝は参考にならないが、子供の死亡率はとても高かったものの、2000年前でも長生きする人は長生きで60〜70歳くらいまでは生きたようである。

戦前の日本では定年の50歳は初老人と呼ばれ、それから70年後の今は60歳で初老、65歳あたりから老人のようだ。

アウレリウスの時代では、彼が「自省録」書いた45〜55歳は壮年期の終わりから老年期で、心身ともに疲れ果てていたのだろう、「死」についての記述が多い。精神科医の傍ら「自省録」を翻訳した神谷美恵子は、「この書は人生の重荷と孤独と悲哀の産物で、彼の心がしばしば死に向かったのもうなづける」と書いている。

<自分が誠実に、謙虚に、善意をもって生きているのを誰も信じなくても、誰にも腹を立てず、人生の道を外すことなく、目的に向かって純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせず、運命に従って歩んでいかなくてはならない。

人の一生は短い。私の人生も終わりに近づいた。それなら自分で自分自身に敬意を表し、人の評価は気にするな。

寿命が延びたところで知力を保てるのか。もうろくし始めれば分析力、判断力、推理力、洞察力、注意力は真っ先に衰える。人生を去るべきではないかという判断さえもできなくなる。だから機能が衰える前に急がなくてはならない。

自分が死んでいくときに、それを歓迎する者が一人もいないというような幸運な人間はいない。誠実な賢者でも「いなくなって清々した」などと言われるのだから、我々をお払い箱にしたい者はたくさんいるだろう。だからこの世に執着する気、未練はない。

しかし、「いなくなって清々した」と言う者に対しても善意をもち続け、最期まで友好的、親切、慈悲深くあれ。死に際は、魂が肉体からスーッと抜け出ていくような大往生の趣が大事だ。

自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。よく熟れたオリーブの実が、わが身を産んだ地を讃え、わが身を実らせた樹に感謝しながら落ちていくように>(「自省録」)

彼が皇帝になったのは運命である。普通の家に生まれれば学者か宗教家、能吏として平穏な生涯を送ったろうが、名門に生まれた。誠実で真面目、学問好きのひ弱な神童だったが、ストア派哲学にかぶれ、自制心や忍耐、道徳、禁欲を学び、やがて体も鍛えて「文武」の人になった。

先先帝から愛され、次いで先帝の養子になり、そして40歳で皇帝になった。ローマ帝国全盛時代の最後の頃で、パクス・ロマーナ(ローマの平和)に亀裂が入り始め、内憂外患の多難な時代であった。彼は内にあっては仁政に努め、外に対しては蛮族の侵入を阻止する領土防衛の最高指揮官として東奔西走、前線に皇帝旗をなびかせた。

<読書と瞑想が何よりも好きな内向的で“孤独と憂愁の人”アウレリウスにとって、皇帝としての責任を一身に負い、政務や戦争に忙殺されるのは決して有難いことではなかった。しかし義務観念の強い彼は、全努力を傾注して仕事を果たし、また自分の理想とするところを現実化しようと心を砕いた。不幸にして彼の在位中はほとんど絶えず戦争が続き、ために席の温まる暇もないくらいであった>(神谷美恵子)

モーゼズ・ハダス著「ローマ帝国」にはこうある。

<有名な「自省録」は、アウレリウスが戦いの合間に寸暇をみつけて書きつづったものである。ほどなく帝国の財政、人的資源は戦争のために窮乏していった。多数の男子が辺境から召集されたために、農民は人手不足になり、畑仕事を蛮族に頼むようになった。皮肉にも蛮族はこうして帝国の辺境地帯に定住しはじめたのである。折悪しくペストが国中に蔓延し、人々は士気を失い、帝国は危機に瀕していった・・・>

アウレリウスの最期も出征先の戦塵の中、疫病に倒れたのだった。「哲人君主」の評価と「自省録」により彼は2000年後も名声を保ち続けているが、果たして彼は幸福だったのだろうか、悔いのない大往生だったのだろうか、小生には分からない。(2013/08/04)   

<「頂門の一針」から転載>

2013年08月07日

◆日本に勝ったという中国の虚構

村井 友秀


中国共産党は国民に、共産党が日本帝国主義を打倒したと教育している。だから、国民の反日感情を高めると共産党の人気が上がるのである。共産党に対する不満が高まったとき、国内矛盾を転嫁するスケープゴートとして、日本が格好のターゲットとなるのもそのためだ。だが、中国共産党の主張は歴史的事実なのだろうか。

 ≪日本軍侵攻に救われた共産党≫

1930年代の日中戦争は日本では「支那事変」と呼ばれ、日本政府は「事変」であり、「戦争」ではないと唱えていた。日本にとって主敵はあくまでソ連や米英であって、中国は主戦場ではなかった。日本は「戦争」の敷居を越えないよう、「事変」の枠からはみ出さないよう、主観的には注意深く行動したつもりであった。

しかし、「事変」が拡大するにつれて日本軍の戦死者は増大し、「今、中国から撤退すれば、『事変』の中で戦死した10万人の日本軍兵士の命が無意味になる」という感情論に国民が同意するに至って戦争は長期化していった。

26年に国民革命軍総司令に就任した蒋介石は共産党を「内憂」、日本の侵略を「外患」とみなし、まず共産党を排除した後に日本軍の侵攻に対処する「安内攘外」論を主張した(31年)。35年には国民党の攻撃により共産党は豊かな沿岸部の根拠地を失い、不毛の内陸部へ逃走する。なお、共産党はこの逃走を「長征」と呼ぶ。

その後も、国民党は共産党を軍事的に圧倒していたが、37年7月に日本軍と本格的戦闘に入ると、その攻撃で国民党の組織と軍隊は大きな打撃を受けた。日本軍に攻められた国民党は共産党を攻撃する余裕を失い、日本軍に対抗するため、37年9月に「第二次国共合作」を成立させた。国民党の攻撃によって崩壊の危機に瀕していた共産党にとり、日本軍の侵攻は起死回生のチャンスであった。

しかし、「第二次国共合作」も日本軍の侵攻を阻止できない。11月に上海、12月に首都南京、38年には、徐州など華北・華中の主要都市も日本軍に占領された。

 ≪毛戦略の第三段階は実現せず≫

その時、共産党は何を考えていたのか。毛沢東は「持久戦論」で次のように主張した。「日本は強力な帝国主義国家で、軍事力・経済力は東洋一であり、中国は日本に速戦速勝できない。しかし日本は国土が小さく、人口、資源が欠乏し、長期戦には耐えられない。したがって、敵の後方で遊撃戦を展開し、敵の内部崩壊を促進すれば、中国が最後に勝利する」

「持久戦論」は戦争を三段階に分ける。第一段階は日本軍の戦略的進攻と中国軍の防御の時期である。第二段階は日本軍と中国軍の戦略的対峙(たいじ)の段階だ。第三段階は中国軍が運動戦と陣地戦で日本軍を殲滅(せんめつ)する最終段階である。

共産党によると、第一段階は37〜38年、第二段階は38〜43年、第三段階は43〜45年となっている。しかし、日本軍は44年から45年にかけて50万人の兵力を動員し、日中戦争で最大の作戦となった「大陸打通作戦」を実行して洛陽や長沙を攻略した。

中国の戦場では45年においても日本軍は優勢であった。現実の日中戦争では第三段階は実現せず、日本軍が太平洋で対米戦争に敗北することにより、中国における戦争は終わった。

他方、蒋介石は「日本の大陸政策はソ連を第一の敵としている。中国は日ソ間の矛盾を利用できる。日本が南進すれば太平洋を制する米国と対立する。ゆえに中国が米ソと結んで日本を孤立させれば日本に勝利できる」(「夷を以て夷を制す」)と主張した。

日中戦争中、国民党の地方軍閥は対立抗争を繰り返し、共産党軍は地方都市を占領して日中戦争の主要な戦闘には参加せず、37年の上海戦、38年の徐州戦、武漢三鎮攻防戦にもその後の長沙戦にも、ビルマ戦線にも出ていない。

 ≪日中戦争決した日米戦争≫

蒋介石が期待し、予想したように、日本軍よりも強力な軍事力を持った米軍の対日戦争によって日本軍が崩壊し、日本は太平洋戦争に敗れた。毛沢東の遊撃戦ではなく日米戦争の結果によって、中国戦線でも日本軍は降伏した。

第二次世界大戦における日本軍の戦死者約240万人のうち、中国戦線での戦死者は約46万人である。中国一国と戦っている限り、日本本土は攻撃されず、戦死者が耐え難いまでに夥(おびただ)しい数になることもなかっただろう。日中戦争の勝敗を決した最大の要因は、米国の軍事力にほかならなかった。

中国共産党は日中戦争後に争われた国共内戦の勝者であった。内戦で争われるのは、軍事力ではなく国民の支持である。国共内戦では、腐敗した体制を墨守する国民党は、現状に不満を持つ国民の支持を失って敗者になり、共産主義という未来の理想社会の実現を掲げた共産党が、期待と支持を獲得して勝者になったのである。

中国共産党の主張は歴史的事実とは異なる。虚構に基づく体制は民主主義には耐えられない。(むらい ともひで)「防衛大学校教授・ 産経【正論】2013.8.7

<「頂門の一針」から転載>


◆「尖閣は先送り!栗山発言を歓迎」

浅野 勝人
 

なぜか、1年振りに北京大学で「私の授業」が再開されました。7月16日に「的外れの嫌中論」と「公害・環境問題」の2コマ、3時間の集中講義をしてまいりました。

尖閣問題で中断、延期となった講義の再開ですから「尖閣」に触れないわけにはまいりません。下記に講義のさわりを「抜粋」します。

◆<尖閣を「脅威の島」にするな!>

尖閣諸島、釣魚島の領有権問題については、去年5月31日の2回目の講義、外交防衛政策論「不可分のパートナー」で基本的な見解を述べました。ところが、その後、日中間の深刻な争いの原因になっていますので、もう一度、冷静に考えてみたいと思います。

1978年、8月。日中平和友好条約の締結交渉の折、ケ小平副主席は、園田外相に「このまま放っておけばいい」と述べて、尖閣諸島・釣魚島の帰属をめぐる論争を避け、条約の調印にこぎつけました。

これが「領有権の帰属論争棚上げ」「けんかの棚上げ論」です。                        

当時、NHK政治記者として人民大会堂で取材していた私は、争いの基となる領土の帰属論争を棚上げ・先送りして条約調印を優先した経緯(いきさつ)を園田外相から直接聞いています。

ところが、今になって、園田・ケ小平会談の議事録にそのくだりが見当たらないという事が「棚上げ論」否定の根拠になっています。このやり取りは会談の席上、テーブルを挟(はさ)んで日中双方の政府代表多数がいる前で両者が交したのか。

最終会談を終えた直後にテーブルを離れて、2人が肩寄せ合って交わしたやり取りなのか、前者なら議事録に残っているはずですし、後者なら議事録になくて当然です。

当時、そこまで詰めて園田外相に確認しなかったのが悔やまれますが、今更、あの世に逝って、園田さんに確かめて還ってくるわけにはまいりません。私は、正式な議事録に残るような形での会話ではなかったのではないか、むしろ微妙な暗黙の合意を具体的な文字にして残しておかない方が無難だと両者とも判断したのではないかと推測しています。

もうひとつ、多くの場合、「領有権の棚上げ」と「領有権の帰属をめぐる論争の棚上げ」とが混同して議論されている点です。「領有権の事実上の放棄」と「ひとまず言い争いは止めよう」というのでは、根本的に異なります。まるで意味が違います。

そもそも日中双方、園田直・ケ小平両者とも国家主権の放棄につながる「領有権の棚上げ」を認める立場にありません。日本側で云えば、園田外相を北京へ派遣した福田赳夫首相が「領有権の棚上げ」を交渉妥結の条件として認めるわけがありません。ケ小平も中国国内で同じ立場にあったはずです。

さりとて、領有権を主張しあったら、条約交渉は大詰めで決裂です。だから、お互いに交渉のテーブルを離れて、領有権の扱いには触れないで、領有権をめぐる帰属論争を棚上げ・先送りして条約交渉を結着させることで「老練な政治家同士が握った」(合意した)のだと私は確信しています。

今となっては書物で確かめるしかありませんが、園田直の著書「世界 日本 愛」の中に、それを偲ばせる以下の記述があります。

「実は・・・もうひとつ・・・日本の外務大臣として言わなければ帰れないことがあるのですが・・・」
そうしたらケ小平さんは、

「わたってる、わかってる。わかっているから、あんたの言うこと黙って聞いているじゃないか」
と言うんですね。

そこで勇を鼓して、尖閣列島は古来わが国のもんで、この前のような“偶発事件”を起こしてもらっては困ると、こう言ったんだ。
ケ小平さんは、ニコニコ笑って両手を広げてね、

「この前のは偶発事件だ。漁師というのは魚を追っていけば、目がみえなくなるものだよ。ああゆうことはもう絶対やらん、絶対やらん」
とね。

もう私はそのとき天に祈るような気持ちで気が気じゃない。万が一にもケ小平の口から、「日本のもんじゃない」とか「中国のもんだ」なんていう言葉が飛び出せばおしまいですからね。

もう、こう身を固くしてね・・・そしたら「いままでどおり、20年でも30年でも放っておけ」という。言葉を返せば日本が実効支配しているのだから、そのままにしておけといっているわけです。

で、それを淡々と言うから、もう堪りかねて、ケさんの両肩をグッと押さえて、
「閣下、もうそれ以上いわんで下さい」
彼は悠々としてましたが、私の方はもうフウッとこう体から力が抜けていきましたよ。人がみていなければケさんに「ありがとう」といいたいとこでした。(原文のまま)

< この著書のゴーストライターは、NHK政治部記者時代の2年先輩。有能な特ダネ記者から園田外相の秘書官になった渡部亮次郎に違いない。ちょっと、はったりの強い人だが、断じてウソを書くジャーナリストではない。>
(中 略)

日中平和友好条約の締結から35年が経ちました。ケ小平が「20年でも30年でもこのまま放っておけばいい」と言ってから、その歳月も過ぎ去りました。こんな情況をいつまでも放置しているのは、政治に知恵が無さ過ぎます。

日中双方が互譲の精神に基づき、原点に返って、争いを封じ込める新しい仕組みを考え、尖閣問題が両国にとって脅威とならない存在にしなければなりません。

そして、そのための話し合いのテーブルに着くことは、アジア・太平洋地域の平和と繁栄に責任を共有する日中両国政府の務めです。そして、この問題の早期解決を図ることこそ賢者の選択です。

ちなみに、私の見解をひと言で表現してくれた人がいます。
サッカーの日本代表チームの監督だった岡田武史・中国スーパーリーグ、杭州緑城の監督です。

「幼稚園のとき、砂場で遊んでいて、ここから入るなと線を引いて友だちを排除したら、先生に『どうしたら仲良く遊べるか考えなさい』と叱られたことがあった。尖閣問題はそれと同じで、けんかするか、話し合うかしかない。話し合いが嫌なら、じゃあ戦争をするのか。私は(けんかも戦争も)したくない。それだけのことだ。」

以上は、「北京大学での講義」のごく一部です。

当該、安保研サイトの5日、「今朝のニュース解説」によると、栗山元駐米大使が「棚上げ・先送り」の発言をしたことに関連して、国交正常化交渉の折、すでに田中角栄と周恩来両首脳の間で「尖閣の領有権論争は棚上げ・先送り」することで暗黙の了解があった。そこに同席していた栗山元外務次官が確認しているといいます。

覇権条項と共に尖閣が大きな政治問題になったのは、平和友好条約交渉の折のことでしたが、それより6年前、日中両国首脳の間ですでに暗黙の了解があったことを再確認して、ソロを歌い続けてきてよかったと静かに思っています。

(2013/8・5:(社)安保政策研究会 理事長
(元内閣官房副長官、元外務副大臣、元NHK解説委員)






2013年08月06日

◆昭和恐慌とアベノミクス時代

山堂コラム 481


「現二今日正午頃二於テ渡辺銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ―――」昭和2年3月14日の衆議院予算委員会。若槻憲政会内閣の片岡蔵相の発言。昭和初めの金融恐慌が一気に噴き出す一場面。今でも語り草。

事実この日から日本中の銀行が取り付け騒ぎとなり2カ月の間に37の銀行が休業に追い込まれた。しかし本当の昭和恐慌が吹き荒れるのは更に2年後。1929(昭和4)年11月24日。NY株式市場での株大暴落(所謂・暗黒の木曜日)。其の世界大不況の渦に巻き込まれてから。

おりしも浜口雄幸(ライオン宰相)内閣は欧米諸国に後れをとったと金輸出解禁に踏み切る。前・田中(オラが大将)内閣予算の支出を5%減額するなどの緊縮策も井上準之助蔵相に命ずる。

不況は更に拍車がかかり翌・昭和5年1月1日の解禁から僅か半年の間に日本から2億円(現20兆円?)の金・GOLDが流失した。

日本の主要輸出商品だった絹・綿糸の値段は3分の1に。商品市場・株式の大暴落、中小企業の倒産(小売商の30%が夜逃げ)、労働者の解雇、賃下げ。失業者数は300万人(5人に1人)に及び、都市部から鉄道線路沿いに歩いて帰郷する失業者の群れ。

その農村も娘を女衒に売らねばならないほど疲弊。大学・専門学校の卒業者の3分の1が就職出来なくて「大学は出たけれど」が流行語。今の日本の状況がこの時代に酷似していると思うのはオラの思い過ごしだろうか―――

第1次大戦が終わった大正末期から昭和初期にかけての日本は今のアベノミクス時代と相似形である。第1次世界大戦の漁夫の利で未曾有の好景気を謳歌。戦後の方は六本木ヒルズ族のミゾウユウの大バブル。ベルサイユ条約での5大列強入りはランブイエ・サミットG5。

しかし忽ち鈴木商店に台湾銀行。プラザ合意にリーマンショック。破綻寸前の国家財政が漸く均衡に戻らんとする寸前の関東大震災。平成23年は東日本大震災。震災手形・国債乱発。復興予算・フクイチ原発。されど復興も放射能除染も遅々として進まず。

日本が昭和大恐慌から立ち直ったのは猛烈な円安によるダンピング輸出。失業圧力による企業のコスト・賃金高の低減。要するに貧富の差の拡大政策。小泉行財政改革なら規制緩和、非正規雇用の増大。竹中CIAのハゲタカ招致グローバル化。昭和のルンペン、平成のホームレス・・・

以後石原莞爾(関東軍参謀)らによる満州事変へと続く。「柳条湖事件」から2年後の昭和8年、日本は恐慌前の経済水準に戻る。しかしそのまま大陸での泥沼戦争へ。

満州事変に対する欧米からの介入は実は大したものではなかった。蒋介石中国があまりにも煩(うるさ)いのでリットン調査団が入ったが、東アジア・大陸への思惑はロシアを含め各国でばらばら。むしろ欧米諸国は自国植民地圏で排他的ブロック経済を構築するのに大童。いまのTPPにFTA、似たようなもの・・・

東アジアへの欧米からの関心が、同じようにいま薄まってきており中国や韓国が急に居丈高になってきた。韓国などは日本を孤立化させる毒を世界中にばら撒いている。ちょうど筋書き上は「満州事変」直前の状況。

こうした中、安倍・麻生政権は憲法9条改定や靖国参拝を「やるぞ、やるぞ」と声高に語ることが対抗措置・反論になると・・・そう勘違いしているのではないか。

しかしそれは日本の独り善がり、空念仏。せいぜい国内の似非右翼や国家主義者向けのリップサービス。国際的には何の実利も効果も齎(もたら)さない。

日本の国際的孤立化を図ろうとしているチャン・チョンの策謀に嵌るだけ。麻生副総裁の先月29日桜井よし子氏主宰シンポジウムでの「ナチス憲法発言」は、それをいみじくも実証して見せたと言えなくもない。(了)


<「頂門の一針」から転載>

2013年08月05日

◆誰も処分されない異常事態

比護 義則


年金受給権の時効を撤廃し、過去の記録ミスによる支給漏れ分を支払う「時効特例給付」が行われず、約1300件 計約10億円)にも及ぶ日本年金機構の未払いが発覚し4カ月が経過しても、機構や監督責任がある厚生労働省の職員に対する処分が行われる気配がない。

平成19年に5000万件の未統合の「宙に浮いた年金」が判明し、年金加入者をばかにしたずさんな年金行政が露呈。国民から猛反発を受け両者とも猛省を促されたばかりだが、給付でミスしても誰も責任を取らない驚きの状態が続いている。

同じ受給対象者でも支給と不支給の両処分が存在する「ぶれた年金」の存在が浮上したのは、機構職員の内部告発があった平成24年1月。驚いたことに機構は同月から約1年間も問題を放置し無為無策のまま業務を継続。

内部の調査委員会が最終的に未払い金額をとりまとめたのは今年3月になってからだ。機構は翌月、記者会見で年金未払いを引き起こした理由について「準備期間が短かった」「運用が正しいと思っていた」と子供じみた言い訳に終始した。こうした職員の怠慢に危機感を抱いた田村憲久厚労相の対応は素早かった。

すぐさま公正な事務手続きの徹底を図るため、金子順一事務次官(当時)に再発防止を言明した内部通達を行うよう指示。次官通達では「公務に対する職員の姿勢に緩みが生じている。公僕の使命感が希薄になっている」と危機感を示した。

さらに同省監察本部を開き、年金未払いを放置した事務処理の検証と職員の処分の検討作業をスタートさせた。

ところが、監察本部では8月に入っても「責任問題があれば職員を処分するが、事実関係を確認中だ」として悠然と構えている。同様に機構も「職員の処分が、いつになるのか決まっていない」と曖昧な態度に終始している。

そもそも機構は問題の「原因」を調べるのがとても苦手だ。

今年7月、機構のコンピューター端末にある業務用共有フォルダー内に、時効特例給付の是非について「悩んだら払え」と指示する内部文書が存在することが判明。統一された法解釈ではなく、職員個人の好き勝手な裁量に支給の適否を任せる言語道断の文書で、あきれるしかない。

この文書について、機構は「誰が作成したか分からない」と回答。「個人的なものなので、共有フォルダーに入った経緯は調査しない」と明言している。さらに、内部文書の存在をマスコミが明らかにしたことについて「外部に漏れたことが問題だ」として、情報漏洩(ろうえい)の方を気にする始末だ。

そもそも共有フォルダーは業務上必要な書類の保管場所として使用され、支払い給付作業を行う職員のスケジュールや各種関連法令の文書が入っている。私的文書が紛れ込むのはおかしいことなのだ。

文書が存在した原因を特定し「ぶれた年金」が生じないようにするのが公正な年金行政を行うために不可欠な要素なのだが、機構にはやる気がない。

もちろん、こうした問題を起こした職員は数年で担当部署から異動するため、現在の担当者は無関係だ。ただ、二度とミスを起こさないようにするため、問題の原因や責任の所在の追及を放棄してはならない。放棄すれば、また同じような不祥事が起こる。そのときは、また国民が被害者になる。

産経ニュース2013.8.4 【嫌われ記者?比護義則が行く】 

<「頂門の一針」から転載」

2013年08月04日

◆ディオバン問題は氷山の一角

匿名希望


ディオバン問題がやっとマスコミを賑わす時代となったのですが、実はこれはホンの氷山の一角であり、その他の領域でも同様な傾向がすでに末期的なところまで来ていることをお知らせしたいと思います。その典型的な例としてメタボ検診を取り上げてみたいと思います。

メタボ検診とは、2008年4月、厚労省が通達した特定検診制度です。これは40-74歳までの健康保険者に対し特定検診の実施を義務化したのですが、この中身が大変で、開いた口が塞がらない内容なのです。診断基準を下に示します。

診断基準
1.腹囲:男性85cm、女性90cm以上が必須
2.血圧:130/85mmHg以上
3.脂質異常:中性脂肪150mg/dl以上またはHDLc40mg/dl未満
4.血糖:110mg/dl以上の3項目中2項目以上

これに該当する場合は病気として治療しなさい!と命令しているのですが、まあ、インチキこの上ない内容なのです。一読をお勧めします。

1.まず第一に腹囲。

何で女性のほうが基準が大きいのですか?これじゃ、男性は全てメタボと診断されます。国際基準ではもちろん男性90cm女性80cm以上です。何か怪しい・・・。

2.次に血圧。

130以上はすべて高血圧と診断し薬を飲ませなさいということらしいのです。ホントですか?私の若い頃(30年前)の高血圧の基準は160/90以上でしたよ。それが1990年代には150/90となり、2000年代になると140/85と下がり、2010年代、ついに130/85以上を高血圧とするという事らしいのです。この基準でいくと60歳以上のなんと6割が高血圧という病気持ちということになります。病院と製薬会社は大儲けです。これもナンカ怪しい・・・。

3.今度は脂質異常。

この疾患はかつては高脂血症と呼ばれていたことは皆さん御存知でしょう。診断基準も総コレステロール:220mg以上、悪玉コレステロール(LDL)140mg以上、善玉コレステロール(HDL)40mg以下、中性脂肪150mg以上とされていました。

ほとんどは総コレステロールの値で判断しており、220mg以上の人には「この値では血管の中にゴミが貯まり、脳梗塞、心筋梗塞になりますよ!怖いですよ!」と脅し、「でも、この薬を飲めば大丈夫ですよ」と、まるで宗教の勧誘の如くバンバン薬を出していたのです。

ところが!なんと!なんと!なのです。

「コレステロール値は少し高めの数値のほうが長生きし、むしろ低いほうが早死にする」という結果が相次いで発表されたのです。大阪府立成人病センターによる八尾市住民1万人の追跡調査では、男性は総コレステロール値が240〜279mg、女性では200〜279mgが一番長生きだったのです。

同様に日本循環器管理研究協議会の全国300ヶ所約1万人のデータでも、男性220mg以上、女性240mg以上で死亡率が最も低かったのです。」

そこで!

日本動脈硬化学会もあわてました。「どうすべ〜、困った・・・」。すったもんだともめた末、出した結論が「高脂血症という名前はやめて脂質異常にすればいいじゃないか。そいで、総コレステロールの項目もはずしてしまおう」ということで、現在は、名前は「脂質異常」、内容もHDLコレステロールと中性脂肪のみを基準にするということになったわけです。何だかな〜〜〜

5.最後に糖尿病

血糖110mg以上が糖尿病らしいですよ。ホントですか?日本糖尿病学会の診断基準でも空腹時血糖:126mg以上、75gブドウ糖負荷2時間後の血糖200以上、随時血糖200以上、そして、ヘモグロビンA1c6.1%以上なのです。いかにメタボ検診の数値がいい加減かわかります。

更に、この糖尿病学会の診断基準も、2012年4月、HbA1c6.1%以上が6.5%以上に変更となったのです。

何故なのでしょう。

実は、ACCORD試験というものが原因なのです(ホンダの車の話じゃないですよ)。2001年、米国国立衛生研究所(NIH)が糖尿病の患者1万人を集め、標準治療群(HbA1c:7.0~7.9%)と集中治療群(HbA1c : 7%未満)で経過を追ってみたところ、厳密に治療してHbA1cを7%以下にした群の人たちがバタバタと死んでいったのです。

本来は2009年まで行う研究だったのですが、人道的に許されないと判断され、2008年2月、研究は中止されました。要するに血糖を下げすぎたら死ぬということらしいのです。

これにビックリした日本の糖尿病の専門医達、「どないすべ〜〜」と相談した結果、「基準は6.5%以上に変更しよう。理由がつけにくいから〜〜、そうだ、技術的な計測法を少し変更し国際標準値(NGSP)と言う事にして、値が変わったんじゃと言う事にすべえ」としました。何だかな〜〜。

7%以下までの厳密な治療で、バタバタ死んで行ったのに、「6.5%以上はやっぱり糖尿病だから、薬飲みなさい」だって!。

何故、こういう結果になっているのでしょう。

皆さんには信じられないかもしれませんが、医療界の動脈硬化が原因なのです。厚労省は日本政府ですから、産業活性化のためには製薬業界の売り上げ上昇に協力しますし、見返りに天下りもします。

製薬業界は大量の研究費を大学の若手研究者にばら撒きます。その結果、コレステロールが体に悪いことを意味するデータが出た研究者には更に大量の研究費が舞い込みます。大量に研究費を持ってくる医者が教授になっていきます。更に、その教授が、地域の医師会で製薬会社まる抱えの講演会を開きます。

医師会の諸先生方は基準が下がれば下がるほど患者が増えるのですから、「そうか〜〜」と感心し、翌日には「あんたはこの薬も飲んだほうがいいよ。偉い先生も言っていたし」と投薬し、患者は大量の薬を持ち帰ります。全員がウィンウィンの関係です。患者さんだけが大変なのです。

ここに登場する人達は皆いい人達です。全員が少しだけの「ナンカ変だな」との気持ちを持ちながら、「世のため人のため」なのだと、納得して突き進み、メタボ検診の非常識な基準にもなんら疑いを持ちません。そんな中、「おかしいじゃないんですか?」と言う者がいたら、即座に全員から非難されます。「お前は病院をつぶす気か!」と。

でも、もうそろそろ薬漬けの医療は止める時期なのです。私の独断と偏見では、血圧は150以上、高脂血症は総コレステロール300以上、糖尿病はHbA1c7%以上を基準にしています。

では、メタボはどうしたらいいのでしょう。目先の数値を変えても仕方ないのです。小沢一郎の人相が悪いからと言って、顔だけキムタクに整形しても腹黒さは変わらない。むしろ騙される人間が増え、余計に状況が悪化することになります。

結局は自分の食生活と運動で解決するしかありません。自分で自分のコントロールのできる人は長生きします。コントロールできずに、メタボの数値がそのままの人はそれなりの寿命となるでしょう。運動もせず、食事もコントロールせず、薬だけ飲んで数値を正常値に偽装した人は、もっと早死にすると思います。

70〜80歳台の患者に厳重な血糖管理が必要な訳がないのです。高血糖が10〜20年続けば各種の合併症が起こりますが、寿命のほうが早いのです。むしろ低血糖のほうがよほど怖いと言えます。

コレステロールも同様です。インスリン治療は、開業医にとっては経営的に非常に効率的だし、製薬業界も潤い、専門医も研究費が潤沢となるからなのです。

ディオバンだけではありませんよ。高脂血症薬も糖尿病薬も全く同じ構造なのです。良識ある医者は皆気づいています。しかし、それを口に出したとたん村八分が待っているのです。ではどうするか!。地域の講演会等で隠れるように患者に直接啓蒙するか、こうしてネットで匿名で出すしかないのです。

結論は、薬を減らして、しっかり運動するしかないのです。皆様、くれぐれもお気をつけを・・・。       (医師)


<「頂門の一針」から転載>

◆木津川だより  銭司遺跡@

白井繁夫


木津川右岸にある「恭仁宮の遺跡」(大極殿跡:山城国分寺跡)から東方約2.5km上流へR163号を行くと、「銭司遺跡:ぜずいせき」(地図Z:3番)があります。
地図Z:http://chizuz.com/map/map144914.html

実は、木津川市加茂町銭司の地区にあるこの遺跡で、「皇朝十二銭」の第1番目にあたる「和同開珎:わどうかいちん・わどうかいほう」が鋳造されていたのです。ところが迂闊にも、木津へ移住して長年月を経ております私自身、このことに全く気付いていなかったのです。

私の日本史の知識は中学生と同等以下ですから、「和同開珎」と云えば、秩父市にある「和銅遺跡」が有名であると云う程度でした。(私は約60年前、商業高校(四国のさぬき市)へ入学し、当時は商業科目中心の為、大学受験の社会科は世界史と人文地理(独学?)の2科目をとり、日本史は中学生止まりです。)

しかし、市内を流れる木津川沿いの「恭仁京」を学んだとき、私にとって、「銭司遺跡」は真に目から鱗でした。以下、銭司地区で感じた事など混えて記述します。

加茂町銭司地区は古くから銅滓.坩堝(るつぼ).ふいご羽口.古代の瓦などが発見されており、
他方、旧の地名表示から見れば、大字「銭司:鋳銭司」、小字「金鋳山、金谷、山金谷、和銅等」など、鋳造関係の地名が昔から存在しています。

ところが、最初の疑問はこの地区には銅の鉱床を持つ山など無いと思っていたのに、古代の都(平城京、恭仁京、平安京等)に近いだけで貨銭を鋳造するはずはない。何故だろうと、興味を持ったことからスタートしました。

「銭司遺跡」は小字「金鋳山」に在り、東西約100m,南北約150m の面積で、南側の木津川に向かって緩やかに傾斜している地形です。この金鋳山の各地から各種の鋳造関係の遺物が出ました。

大字「銭司(鋳司)」の北側の山は標高200から300mで、木津川に沿って東西に走り、南の台地に約50戸の銭司集落が点在しています。

小字「金鋳山」で完形の「坩堝」が明治4年、「和同開珎」50枚が明治10(1877)年に発見され、大正時代初めの伊賀街道改修工事中、坩堝片.銅滓.古瓦片等の遺物が多数出土し、
1923年(大正12)京都府史蹟勝地調査委員、(梅原末治氏)が試掘調査を実施しました。

写真はR163号沿い(字金鋳山)の「鋳銭の碑」と大字「銭司の集落」です。

P1010337銭司遺跡の碑.jpgP1010339銭司の集落.jpg

出土した遺物
★「坩堝:るつぼ」は3形式有り、第1式から第3式への過程は坩堝の製作技術の発展段階を示しております。
★「鞴口:ふいごくち」は2形式(第1式は筒型、第2式は朝顔形開き):筒型は坩堝の第1式、
朝顔形は第2、第3式に対応しています。

・遺跡の年代
遺跡の遺物は「長門の鋳銭」と相似ていますが、さらに進歩した器具もあり、「恭仁京」の古瓦と同一の瓦も出土しており、「恭仁京の造営」と共に鋳銭司が置かれ鋳銭が行われたと推定されています。

貨幣は、和同開珎の晩鋳より万年通宝(760年)、神功開宝(765年)天平神護の通貨まで、
この地で鋳造されていました。(相楽郡岡田郷の鋳銭司は天平7年(735)から延暦元年(782)まで約50年間設置されており、その間貨幣が鋳造されたと云われています。)
その後、桓武天皇の財政整理で廃止され、隆平永宝(796年)に切り替わったのです。

・この遺跡の時代背景
和銅元年(708)発行の「和同開珎」は鋳造技術、鋳造体制より量は少なく用途も古銭同様神事や仏事などにも使用されていました。

しかし、平城京.恭仁京.難波宮.平安京の造都事業や盧舎那仏の製作に多くの雇役丁が投入されその功直も銭給となり、大量の銭貨が必要になりました。

大量銭貨の鋳銭事業には、@銅鉱の存在A鋳造技術者B良質の粘土C水運の利便などが非常に重要な要素「必要条件」です。

奈良時代、ここの遺跡に「岡田の鋳銭司」が置かれた理由:即ち、@〜Cの必要条件を満たせた状況について、次回にもう少し説明させて貰いたいと思っています。

参考資料: 銭司遺跡 (加茂町文化財調査報告第1集) 1986 加茂町教育委員会
      加茂町史  第1巻 古代.中世編    加茂町

( 郷土愛好家)

2013年08月03日

◆「坊さんと先生だけ」は先入観

岩見 隆夫


トップの采配について考えてみる。

首相という強力な権力者が指示すれば、大抵のことはできるのだろう。だれもが漠然とそう思っている。一般論として。

だが、実際の首相の采配が必ずしもそうでないことも、歴代を見ていてわかっている。まず指示がマトを射ているか、次に指示倒れにならず、やり抜く政治力と執念を持ち合わせているか。そのあたりで値打ちが定まってくる。

一例として、大平正芳首相。鈍重のようにみえて、決断型だった。反対を覚悟で消費税導入を決意するが(1979年)、挫折すると後事を竹下登蔵相に託した。竹下は周到な準備のすえ、自分の政権のもとでついに導入を果たす(89年)。

「あれは大平さんの執念が乗り移ったんだよ」

と竹下は晩年の回顧録で語ったが、大平による10年越しの采配だった。

 安倍晋三首相は参院選大勝のあと、

「どっしりと腰を据えて、政策を力強く前に進め……」

と決意を語った。マトを射た指示を繰り出してくるか、自民党に1票を投じた人も、安倍の采配に疑心暗鬼である。

新刊の「武村正義の知事力」(関根英爾著・サンライズ出版)という本を読んだ。トップの采配で相当のことができることを改めて知る。

武村が革新陣営に推され、全国最年少の滋賀県知事に当選したのは74年11月、40歳だった。3期12年務め、衆院議員に転じる。

1期目に県財政の再建と琵琶湖の汚染対策に取り組み、2期目に野心的な<文化の屋根をかける>政策を打ち出した。文化的施設を充実させる一方、一般の県行政のすみずみまで文化的気配りをする。<屋根>の意味である。

柱に据えたのが図書館行政だ。当時、滋賀県内に図書館は4館しかなく、全国最下位を低迷していた。武村は、図書館の仕事は人だ、と考え、部下に、

「県立図書館の館長にふさわしい人を全国から探してほしい」

と指示する。白羽の矢が立ったのが前川恒雄。東京都日野市立図書館長を務める、この道の練達の士だ。

しかし、前川は招きに簡単に応じない。武村の指示で、副知事らが次々に日野入りし、説き伏せる。強引だ。滋賀にやってきた前川は、

「市町村にどんどん図書館をつくりましょう」

と武村に思い切った補助制度を求め、かなえてもらう。だが、市町村長を回って協力を頼むと、どこも、

「本を読むのは坊さんと学校の先生だけ。つくってもだれもこない」

とつれない。しかし、だれも坊さんと先生だけ、を見たわけではない。誤った先入観だった。

まもなく空気が変わる。新設の図書館にびっくりするほどの利用者が訪れたのだ。図書館網は全県に広がる。館長は他府県からベテランをスカウト。入館者数、1人当たりの貸出冊数がぐんぐん増え、まもなく東京を抜いて<日本一の図書館県>にのぼりつめた。

前川の証言によると、そのころ武村に、

「知事として読んでおいたらいい本を毎月3冊ほど選んでくれ」

と頼まれ、選択に悩みながら届けた。知事室を訪ねると机の上にちゃんと置いてある。

「読んでますか」

「いやあ、全部は読めないけど、表紙をみるだけでも勉強だよ」

中央政界入りしてから、武村が前川に漏らしたという。

「知事時代、いろいろな仕事をしたが、少ない経費で大きな効果を上げたのは図書館だ」

武村だからこそできた、と思う。采配はそうあってほしい。

首相と知事では、采配のレベルが当然違うが、トップとしての姿勢は共通している。

安倍自民党はいまや衆参両院で410人。全議員の56%を占め、第2党の民主党116人の3・5倍の大所帯だ。これだけの数の力があれば、と思うかもしれないが、実はそうではない。

ふくらんだ分だけ党内事情は複雑になり、内外のあらゆるテーマをめぐって、論争、対立が顕在化してくる。もちろん、外側からは、野党の攻勢、少数だけに先鋭化してくるとみなければならない。

1強体制は決して安泰ではない。そんななか、安倍の采配が問われる。党内融和、政権安泰を優先させれば、調整的、微温的にならざるをえない。反対、抵抗を押し切っても壁に風穴をあけようとすれば、傷を負う、しかし、采配はさえ、政治が躍動するだろう。

さて、安倍はどうする。(敬称略)

近聞遠見:毎日新聞 2013年08月03日 東京朝刊=第1土曜日掲載

<「頂門の一針」から転載>