2013年07月05日

◆明治35年「子規の食卓」

平井 修一


「アサヒグラフ」は朝日新聞の月刊写真誌で、1923年(大正12)1月に創刊され2000年(平成12)に休刊した。今は映像があふれているから最早写真誌の時代は終わったのだろう。小生は銀行や医院などで見た記憶があるが、買ったことは一度もなかった。売れなければ休刊、廃刊するしかない。

人気は最終ページの「わが家の夕めし」で、1967年(昭和42)から連載された。登場した有名人は千人近くになり、梅干し、カップヌードルの粗餐から、珍味・佳肴の宴まで、個性的な晩餐風景を紹介している。作家の稲垣足穂の夕食はビールが一本、ちゃぶ台に乗っているだけで、これには笑った。

食生活の変遷を知る上では面白いシリーズではあったが、写真を撮られる方ではそれなりに準備をするから、いつもは一汁二菜のところを一汁四菜くらいにはしただろうし、家族ばかりか友人知人も招いて“賑やかな団らん”を演出するから、割り引いて見るのがいい。

人は何を食べているのか、日記に書き遺されていることがあり、小生には興味深い。正岡子規の最晩年の随筆「病牀六尺」中の食事の記載は――

明治卅五年五月八日
昨夜少しく睡眠を得て昨朝来の煩悶やや度を減ず、牛乳二杯を飲む。午(ひる)飯は粥(かゆ)に刺身など例の如し。晩飯は午飯とほぼ同様。

五月十五日
上根岸三島神社の祭礼であつて、この日は毎年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁、木の芽あへの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつた。

筍(たけのこ)に木の芽をあへて祝ひかな
歯が抜けて筍堅く烏賊(いか)こはし
不消化な料理を夏の祭かな

六月二十一日
去年頃までは唯一の楽しみとして居つた飲食の慾も、今は殆ど消え去つたのみならず、飲食その物がかへつて身体を煩はして、それがために昼夜もがき苦しむことは、近来珍しからぬ事実となつて来た。

六月二十二日
この日逆上甚だし。新しく我を慰めたるもの、
一、桜の実一籃
一、菓子麺包(パン)各種

食事は朝、麺包、スープ等。午、粥、さしみ、鶏卵等。晩、飯二碗、さしみ、スープ等。間食、葛湯(くずゆ)、菓子麺包等。

七月三十一日
牛乳一合、麺包すこし。午飯、卯花鮓(うのはなずし)。豆腐滓に魚肉をすりまぜたるなりとぞ。また昼寐す。覚めて懐中汁粉を飲む。

晩飯、飯三碗、焼物、芋、茄子(なす)、富貴豆(ふきまめ)、三杯酢漬。飯うまく食ふ。

九月八日
近頃は少しも滋養分の取れぬので、体の弱つたためか、見るもの聞くもの悉(ことごとく)癪(しゃく)にさはるので、政治といはず実業といはず新聞雑誌に見るほどの事、皆我をじらすの種である。

九月十三日
人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である・・・

それから6日後の9月19日、子規は亡くなる。満34歳だった。

ところで子規は牛乳を飲んでいる。病気にいいということだろうが、日本人が牛乳を飲むようになったのは明治時代からで、それも洋行帰りなどの相当ハイカラな家庭に限られていた。新し物好きの子規は「牛乳は滋養強壮にきく」とどこかから聞いて飲むようになったのだろうが、当時の食生活からするとかなり進んでいたことになる。

蛇足ながら一般の日本人が牛乳を飲むようになったのは終戦後のことである。年間1人当たりの牛乳・乳製品の消費量は1946年にはわずか1.1kgであったが、高度経済成長期の1960年代に入って急速に増え、1960年12.0kg、1970年28.8kg、1980年42.0kg、1990年47.5kgとなり、2000年には46.6kgとなった。2000年の消費量は1946年の実に41倍である。

この世は些事からなるという。日常茶飯事の食事も些事と言えば些事だが、大事と言えば大事である。飯を食うために働くか、働くために飯を食うか・・・コインの表と裏のようなもので不即不離、不可分で、どちらも真実、どちらも大事ということである。食事をテーマに何回か書いていく。(2013/07/03)

<「頂門の一針」から転載>

2013年07月03日

◆参院選 民主公認減「苦渋の選択」

古澤 襄


■あす公示 大河原氏「あり得ない」

<参院選の公示が4日に迫る中、東京選挙区(改選定数5)では、現職2人を公認していた民主党が、2日夜になって急きょ1人の公認を取り消した。

共倒れを防ぐのが狙いだが、公認を取り消された現職は無所属で出馬する意向を示し、情勢は混沌(こんとん)としている。無所属や諸派を含め、最終的に同選挙区には20人前後が出馬し、激しい選挙戦が展開される見通しだ。

「苦渋の選択」。海江田代表は同日夜、報道陣に厳しい表情で語った。

民主党は同選挙区で過去3回、連続して2人ずつ当選させてきた。今回も大河原雅子氏(60)と鈴木寛氏(49)の現職2人で臨む予定だった。

しかし、6月の都議選では改選前の43議席から15議席へと大きく後退。5つの選挙区で共倒れし、都連内には参院選への不安の声が高まっていた。土壇場で大河原氏の公認が取り消され、中山義活都連会長は「都議選の反省を踏まえるとベターな判断だと思う」と語った。

一方の大河原氏は同日、新宿区内の事務所で記者会見し、「公示日の間近にこんなことはあり得ない。私は党にとって必要ないのか」と悔しさをにじませ、党籍を残したまま無所属で2期目を目指すことを明らかにした。

都議選で大勝した自民党は、再選を目指す丸川珠代氏(42)に加え、比例選からくら替えする武見敬三氏(61)の2人の現職で、1986年以来となる2議席の獲得を狙う。

都議選で現職23人の全員当選を果たした公明党は、3選を目指す党代表の山口那津男氏(60)が必勝を期す。みんなの党は、現職の川田龍平氏(37)を比例選に回し、新人で写真家の桐島ローランド氏(45)を擁立する。

共産党は、党都委員で若い吉良佳子氏(30)を公認し、都議選で議席を倍増させた勢いに乗って2001年以来の議席獲得が悲願だ。

みどりの風は服飾デザイナーの丸子安子氏(45)、みんなの党とたもとを分かった日本維新の会は、知名度のある元民放アナウンサーの小倉淳氏(55)をそれぞれ公認。幸福実現党は党女性局長の釈量子氏(43)を擁立する。

このほか、昨年末の都知事選で約10万8000票を獲得した発明家の中松義郎氏(85)や、昨年の衆院選(東京8区)で約7万1000票を獲得した俳優の山本太郎氏(38)らも出馬を予定している。

◇ネット解禁で投票率も注目

参院選東京選挙区の投票率は、過去3回連続で上昇し、前回(2010年)の58・70%は平成に入ってから最も高かった。ただ、6月に実施された都議選の投票率は、史上2番目に低い43・50%にとどまった。今回の参院選から解禁されるインターネットを使った選挙運動で、有権者の関心が高まるかどうかも注目される。(読売)>
2013.07.03 Wednesday
<「頂門の一針」から転載>

2013年07月02日

◆経済無視の反原発関連公約を拒否

前田 正晶


2日に産経が「主張」で自民党以外が掲げるこの種の公約を批判している。こんなことは私が民主党政権の頃から言っていたことなので、私にとっては新鮮味はないが、是非とも主張して置いて貰いたい重要なことである。

先日も産経は菅直人の最悪の置き土産である原子力規制委員会を、菅自身が誇らしげに簡単には外せない存在と自画自賛したと報じていた。菅は福島の事故発生時に対応が出来なかった(対応を誤ったのではない)。

これを奇貨として「原発即危険極まりない存在」との観念を全国に浸透させただけに飽き足らず、こともあろうに孫正義と結託して太陽光パネルを恰も最善の再生可能エネルギーとして位置づけ、その高価買い取り制度まで導入してしまった。私に言わせて貰えば経済を知らぬ彼独特の悪政の極みである。

これまでに私が繰り返し主張してきたことだが、長引く不況下に電力会社にコスト高になるだけの火力発電依存態勢を採る以外ない形にさせ、産業界の負担を増加させ、景気回復を遅らせる手段を講じた。私は民主党政権は「国を滅ぼす気だ」と論じていたので、菅のこの一連のエネルギー関連の悪政を意図的だとすら見なしている。

それにも拘わらず、原発がなくなれば安全だと思い込ませた菅の置き土産は、この度の参議院選挙に際しても「原発ゼロ」と「脱原発」を掲げる政党を数多く現出させ、安倍政権がアベノミクスを掲げて景気回復を推進していることに逆行するかの如きキャンペーンを張らせようとしている。

原発を止めさせたことがインフレとは別種の物価上昇をもたらしたことを菅直人と民主党の責に帰すべきことでアベノミクスが原因ではない。

私は菅を史上最悪の総理の上位にランクしたが、鳩山元総理も菅の向こうを張って外国に出て行っては国益を損なうどころか、我が国を貶める発言に生きがいを見出しているが如きである。これらが参院選挙に民主党に負の貢献をすることを期待するが、原発に関する出鱈目な公約は案外受けてしまうのではないかと密かに真剣に憂いている。

<「頂門の一針」から転載>

2013年07月01日

◆比例選投票先、自民42%・民主9%

〜読売調査〜  

古澤 襄


毎日に続いて読売も世論調査を実施したが、自民党は東京都議選でみせた圧勝パターンが続いている。参院での比例選投票先では自民党が42%でヒトケタ台にひしめく民主党など野党を大きく引き離した。

自民、公明両党が参院で過半数の議席を「獲得する方がよい」とする回答は52%と前回の46%を大きく上回った。終盤国会で野党が参院で安倍首相に対する問責決議を可決し、重要法案が廃案になったことをみて、「ねじれ国会」を解消し政治の安定を求める意見が強まったとみられる。

そのせいか、問責の旗ふり役を演じた「みんなの党」は維新と同じ5%にとどまっている。5%同士で争えば共倒れが免れない。

<読売新聞社は6月28〜30日、参院選公示を前に全国世論調査(電話方式)を実施した。

比例選での投票先について政党名を読み上げて聞いたところ、自民党が42%(前回6月8〜10日は44%)で、1けた台の他の政党を大きく引き離した。自民党は、この質問を始めた今年1月以来、トップを維持。東京都議選で候補者全員当選を果たした勢いが続いている。

自民党に続くのは、民主党の9%(前回7%)、公明党の6%(同5%)で、日本維新の会は5%(同5%)となり、みんなの党の5%(同4%)と並ぶ4番目に後退した。共産党は4%(同3%)だった。

参院選の結果、与党の自民、公明両党が参院で過半数の議席を「獲得する方がよい」とする回答は52%(前回46%)に上昇した。「ねじれ国会」を解消し、政治の安定を求める人が多かった。通常国会最終日に野党が参院で安倍首相に対する問責決議を可決し、重要法案が廃案になったことなどが影響したとみられる。

安倍内閣の経済政策を「評価する」と答えた人は54%で、「評価しない」の31%を大きく上回った。投票先での自民党の優位は、「アベノミクス」が支持されているためのようだ。(読売)>
2013.07.01 Monday name : kajikablog

       <「頂門の一針」から転載>

◆横須賀市長選で自民敗れる

〜進次郎氏の地元〜

古澤 襄


自民党一の人気男・進次郎青年局長が地元の横須賀市長選で敗れ、「全力で戦ったが負けは負けだ。私の力不足で本当に申し訳ない」と頭を下げた。

進次郎人気が即投票行動に繋がるとはいえない。やはり現職の吉田雄人氏に挑んだ前副市長の広川聡美氏の力不足。参院選でも進次郎人気を当てにして上滑りの選挙をしたら横須賀市長選の二の舞になる。

<横須賀市長選が6月30日、投開票され、自民党の小泉進次郎青年局長(32)の推す広川聡美氏(61=前副市長)が、現職の吉田雄人氏(37)に敗れた。吉田氏は再選。政党の支持を受けない吉田氏が09年の市長選で当選以来、4年間続いた小泉王国VS吉田市政の「ねじれ」は解消されず、進次郎氏には大きな痛手だ。

選対本部長を務めた進次郎氏は「全力で戦ったが負けは負け。私の力不足です」と繰り返し、頭を下げた。市を二分した仁義なき戦い。「大将を勝たせるには汚れ役が必要だ。私は汚れ役も引き受ける」と、なりふり構わなかった。

前回は、父小泉純一郎元首相が推した候補が、当時33歳の吉田氏に敗北。父のリベンジ戦でもあった。国会がある日以外は地元に張り付いたが、届かなかった。「勝って当たり前」といわれる王国での敗北。「青年局長の面目もつぶれる」(党関係者)と厳しい声もある。「こういうことを経験するのも、政治の道なんですかね」と話した。

地方で続く、首長選の自民党の連敗記録も止められなかった。先月23日の東京都議選は全勝したが、党幹部は地方で勝てない現状に危機感を募らせる。進次郎氏は気持ちを切り替え、4日公示の参院選で再び「選挙の顔」として、秋田県から「被災地、離島、過疎」をテーマに全国を回る。
(日刊スポーツ)
2013.07.01 Monday name : kajikablog
       
<「頂門の一針」から転載>

◆韓国殿 その将来を危惧

前田 正晶


我が国の後を追い、手本にしてきたのではないか:

メル友尾形氏は「日本は、中世から抜け出ていない朝鮮を近代化するために、懸命に努力しました。教育から始まって、司法、行政、財政、戸籍、土地制度、経済、金融制度などの全ての面で一から作ったのです。インフラ整備はいうまでもありません。こうしたことが整備されて、初めて近代社会・経済・産業は可能になるのです。」と言う。

この指摘は重要なポイントだと思います。

私は別の面から韓国を見ることにします。1970年でしたか、初めて出張したソウルで韓国の会社の中に入って、社長室から事務所の机の偉さの順による配置等が我が国と同じというか、明らかに我が国を範に採っていると感じました。

彼らには他に基準とするものがなかったと思いましたが。当時入った新世界百貨店では、売り場のケースというか商品陳列台の後ろに女性がやや高い位置に正座していたのか非常に印象的でした。

その後の韓国の経済発展を見れば現在世界を席巻しているかの如き電機製品のサムソン、自動車・造船・建設等の現代、ここ新宿区百人町のKoreatownに溢れるアパレルというか繊維製品等を見れば、嘗て我が国が経済成長の過程で主力とし輸出に注力したものを追ってきたと思えるのです。

私の見解では「彼らは日本が歩んだ道に入っていけばその先に安定した輸出市場があると思い付いたのだ」となります。

スポーツの面でも同様です。身体能力と体格が良く似た同じアジア人としては日本がいち早くオリンピックを制した女子ヴァレーボール、プロ等で高い人気を博している野球、世界的というか欧州で最高の人気スポーツであるサッカーに注力し、先ず我が国を倒すことを目標に「追いつけ、追い越せ」の精神で猛烈な競争を挑んできました。

ここでは更に、目下男女ともアメリカ市場で大成功を収め、我が国の多くのトーナメント勝ちまくっているゴルフを忘れてはなりますまい。

次は海外への人口流出です。私は如何に彼らが自国の政治家の統治能力を信じていないとは言え、アメリカに色々な名目であれほど大人数が流れ、我が国に如何にも自国で暮らしているかの如くに傍若無人に振る舞っているのを見れば、5,000万か6,000万か忘れましたが、その程度の人口が減り続ける国に果たして将来が約束されているのか疑いたくなります。

しかも、出ていった先で安定した良い職を得るのも容易ではなくても、行く先々の大都市圏にKoreatownを形成していく旺盛な生活力には刮目させられます。

彼らには華僑のように経済を支配する力も資力もなくては、間もなくヒスパニックを追い抜くだろうと思うほど人口を増加させて、アメリカでこれから先にどうする気かと問い掛けたいもの。アメリカにはこれまでのように追いかけてきた日本が先行したパタンはないのですから。

それに忘れてならないことはアメリカの歴然として存在する社会の階層です。微妙であり陳腐であり言い方をすれば、アメリカは"WASP"の国なのです。

<「頂門の一針」から転載>

2013年06月30日

◆政治家の劣化・政治の堕落

山堂コラム 476


東京都議選も終わって来たる7月の参院選―――自民党の圧勝が確実視されるようになってきた。実態は野党馬糞の川流れ。自公は濡れ手に粟の敵失不戦勝なのだが、それでも安定多数獲れば日本いい国神の国。更なる右傾化。

何より自民世襲のボンクラたち。特に3A2石のガキどもが、国民の信任得たりとばかり、やりたい放題し放題。すっかりその気で舞い上がり、夜郎自大の国防軍。中共・朝鮮なんぞ一捻(ひとひね)り、なーんて。外交で勝てなくて戦争に勝てるわけがないのだが。

集団自衛権にTPP、米国ハゲタカの手先となって虎視眈々と狙うのは原発再稼働に国土強靭化法・・・強靭化とは聞こえがいいが土建屋政治の再来よ。まあ、あのねえ皆さん!日本列島改造ですよ。

で、3A2石とは一体誰だべ?知らざあ言って聞かせやせう。安倍・麻生・甘利が3Aで、石破・石原が2つの石。合わせて白浪5人男。みな二世かと思ったら、晋三なんぞ「売り家と唐様で書く三代目」だで。

そのまんま東とか慰安婦橋下とか・・・文字通り戦後レジームから脱却した口軽男・尻軽女の政治屋が次々と現れる。結局は我ら国民がそれを求めるからなのだが上から下まで軽佻浮薄・木偶(でく)の棒。

自民政調会長の高市おばはん。べらべらとカンナ屑、燃やすが如きちゃべくりまくる何たる軽さ。ただただアベに胡麻摺るだけ。得点稼ぎで中身なし。

もっとも前・民主党政権も酷かった。なんせ香港まで出かけて中共向けTVで「尖閣は日本が盗んだもの」なーんて平気で宣(のた)まう。そんなのがついこの間まで日本国の総理大臣やってたんだから。それにしても前原や岡田フランケンシュタイン、いったい何処へ隠れちまったんだろう。

30年ほど前、中曽根内閣のころ。官邸サブだったから朝晩官房長官といっしょだった。官房長官は後藤田正晴・藤波孝生そしてまた後藤田。どちらも今の日本では絶滅危惧種となった頑固一徹、煮ても焼いても食えない政治家。

カミソリ後藤田はこれまで何度か触れたので今回は藤波――この饅頭屋がなかなか渋い。文教3羽ガラス、所謂3文(さんもん)族の1人。残る2人は森喜朗と西岡武夫。

文教族といっても必ずしも教育に熱心な政治家をいうのではない。教育行政に絡む文教利権に聡い政治家というほどの意味。森喜朗(元総理)なんぞ幼稚園利権に絡んで保育所の設置を押さえてきたから少子化進む現在でも待機児童多々有。そうした実績を残した文教族。

西岡は学問とはまるで無縁の「諫早湾干拓」に邁進した文教族。

藤波も正規の学校以外の、例えば塾とか予備校とか、そういう方面の充実?に奔走していた。後ろめたさもあったのだろう、我々にはあまり言いたがらなかったが。

口数少ない、余計なこと言わない駿台予備校特待生。

彼はリクルート事件の控訴審で逆転有罪。最高裁棄却でそれが確定して政界を去る(平成11年)。

同リクルート事件では竹下の青木、安倍(晋太郎)の清水といった、親方を庇うために犠牲になった秘書は多い。しかし閣僚までやった政治家で親分のために「根深汁」まで身を落としたのは藤波くらいのもの。

早稲田の雄弁会以来のフクスマのケネデイこと渡部恒三。藤波に「ボク中野正剛を目指すから、キミ緒方竹虎を目指せ」と励まし合ってきたと言う。どちらも朝日OBのデマゴーグ。東條の憲兵隊に殺された中野正剛はともかく、戦後はCIAの協力者だったことが判明する緒方竹虎?ねえ―――

他にもCIAに協力することで連合軍の戦犯免れた者はおる。戦後レジームを登りつめた著名な保守政治家もその1人。

リクルート事件の政界ルート一身に引き受けて、人身御供のような晩節を歩んだ藤彼の生き方ではとても相容れないこと。フクスマのケネデーもこう云うところでひと言多い。口軽男の先駆けよ。(了)

<「頂門の一針」から転載>

◆木津川だより 幻の恭仁京 A

白井 繁夫


聖武天皇は、天平12年12月に恭仁宮に遷都して、唐の洛陽を模した都城の造営を開始したのです。諸兄の友人(大伴家持)は、「恭仁宮遷都」を祝して万葉歌に(6−1037:今造る恭迩の都は...)、(6−1050:現あきつ神 我が大君の...)と、「恭仁京」を讃めて作った歌など40余歌を残しています。

天平13年には平城宮の大極殿を「恭仁宮」に移築し、全国に国分寺、国分尼寺造営の詔を発します。7月、平城より元正太上天皇が「恭仁宮」へと移ります。11月にはこの宮を「大養徳恭仁大宮やまとくにのおうみや」と号するのです。

<天平14年2月、皇后恭仁宮に幸し、4月に宮に御す。恭仁京の東北道を開き、8月に造離宮司を任命して、紫香楽宮の造営を開始する。留守司:平城は藤原仲麻呂、大伴牛養。「恭仁京」は鈴鹿王、紀飯麻呂、巨勢(こせ)奈氏麻呂。

天平15年になりますと、少しずつ光明皇后と藤原氏が推す紫香楽宮に、聖武天皇の軸足が傾きかける?! 

4月留守司:平城宮は多治比木人、恭仁京は橘諸兄、紀飯麻呂、巨勢奈氏麻呂、鈴鹿王。8月に紫香楽の鴨川を宮川に改名し、甲賀郡の調庸を畿内に準じる。10月大佛造顕の詔、行基の協力で寺地を拓く。東海、北陸、東北の調庸を紫香楽へ注ぐ>
ことになるのです。

こうして、12月に遂に「恭仁宮の造作」を中止してしまいました。

天平16年〜17年(744〜745)は、国政の決定的ターニングポイントになってしまったのです。(つまり、「恭仁京の造営半ば」で、紫香楽宮造作を開始し、大仏造立も始めた為、難波宮へ遷都を希望する人々が多くなって来ました)。

天平16年閏正月:詔して恭仁宮の朝堂に百官喚会し、恭仁と難波の何れを都とするかを問います。賛成者難波宮が若干少なかったのですが、閏11日難波宮へ行幸します。(紫香楽宮は光明皇后と甥の藤原仲麻呂の主張に対し、恭仁京は元正太上天皇と橘諸兄が推していました。)

難波宮へは聖武天皇の唯一の皇子(安積親王)、元正太上天皇、諸兄等が御供しましたが、何故か、留守司に鈴鹿王と藤原仲麻呂を任命して出発した安積親王は脚病の為、途中の桜井頓宮から恭仁宮へ還り、翌13日17歳で急死しました。(藤原仲麻呂の関わりの噂が、出ました?)。

安積親王は、諸兄の縁戚である縣犬養広刃自(ひろとじ)で、大伴家持の「主家」でもある旧族との間に生まれた皇子です。一方、天皇家との外戚関係を基軸とする新興貴族(藤原一族)安宿媛(あすかべ:後の光明皇后)と聖武との間に生まれた阿倍内親王(後の孝謙天皇)の皇太子との体制が確立しました。

(ところで、大伴家持は恭仁京を讃える歌や(難波宮を含め)万葉集に安積皇子の薨じた悲しみの歌6首を加えて44首残していますが、紫香楽宮の歌は一首も見当たりません)。

その後、難波宮を皇都として中外門に大楯槍をたてましたが、聖武天皇は紫香楽へ行幸し、元正太上天皇も紫香楽へ行き、聖武天皇と和解しました。天平16年11月には廬舎那仏の体骨柱をたてました。

天平17年になっても旱魃が続き、美濃では大地震が起こり、紫香楽の宮城や寺の東山や市の西山も火事が発生して大仏の体骨柱も罹災しました。

聖武天皇は、5月2日に諸司官人・僧に京を聞き、留守司(紀麻呂)を任命して恭仁京を経て11日平城宮へ行幸し、中宮院を御在所として、もとの皇后宮を宮寺としました。

聖武天皇は、8月末に難波宮へ行幸しましたが、9月末に平城京へ還都して以後、「恭仁京」には再度還都することはなかったのです。

以上が「幻の恭仁京」と云われている経緯です。

<次回の散策>:遷都には厖大な労力と資金を要しますが、古代の資金「和同開珎:わどうかいちん」の「鋳銭遺跡」恭仁宮の東部にある「銭司(ぜず)遺跡」を訪ねる予定です。        (終)

参考資料:加茂町史   第1巻  古代.中世編     加茂町
   聖武天皇の三都  難波.恭仁.紫香楽 (2008.3.8.:文化講座) 中尾芳

(郷土愛好家)

2013年06月29日

◆最悪のケースは米国債売却

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
    平成25(2013)年6月28日(金曜日):通巻第3975号 


 
中国バブル崩壊、最悪のケースは米国債売却
金利急上昇、世界市場大混乱必至。日本では中国進出企業株 暴落
*********************************

刻一刻と爆発が迫った。

もはや中国バブル崩壊は不可避的で、残るのは時間の問題である。何時? どの程度の規模でそれが発生し、世界経済に与える悪影響はどれほど深甚か?

社会的にも暴動の激化、騒擾の日常化が考えられる。

すでに英国中央銀行は、「金利の急上昇に備える」かまえをみせている(ウォールストリート・ジャーナル、6月28日)。

米ニューズウィーク誌(日本語版、7月2日号)は全面が中国バブル崩壊シナリオ特集で、とくにシャドー・バンキングと不良債権の危険性を論じ、日本のメディアでも各紙、週刊誌、経済雑誌がおなじ特集をしている。

・第一に中国の経済停滞は避けられないだろう。

GDP統計はもともと水増しの面妖データである。不動産投資にGDPの47%が集中しているから、銀行の不良債権はおそらく350兆円を越えている(昨年まで小誌は最悪270兆円と見積もってきたが、これを訂正します)。
 
ゼネコン、デベロッパー、不動産斡旋、住宅ローン、信託、くわえて建機、健材、インテリア関連から看板塗装にいたるまで、倒産が続出する事になるだろう。

・第二に中国の金融システムは、一党独裁の結果、柔軟性が失われているため、暴落はかえって改革の糸口を産むかも知れない。銀行関連のトップに王岐山系列、背後に朱容基の人脈が登場しているのは、一縷の希望を抱かせる。

ともかく四大国有銀行(中国工商銀、建設銀、農業銀、中国銀行)ならびに招商、光大など大手銀行は国家がつぶさない。すると残る手だては何か?

デノミさえも計算に入れた、通貨供給の増大、人民元を市中にまき散らす手段だろう。

・第三に対外的に中国バブル崩壊は世界市場を揺らすことになるが、リーマンショックの場合と異なるのは、銀行が国有であること。潰れる懼れはないうえに中国はCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)を販売していない。中国の国債は香港とロンドンで市場があるだけ、購入者は限られており、日本は6800億円だけ保有しているくらい。


▼中国が保有する米国債を売るに走ると世界経済に悪影響が出る

こうみてくると世界市場で激甚な悪影響がでる懸念はひとつだけ。それは手元資金確保のため中国が保有する米国債2兆ドル強を売却することである。

金利が急騰することは避けられず、金利相場は日本にも跳ね返るだろう。

・第四にシャドー・バンキングはのっぴきならない窮地に追い込まれ、犠牲の山羊として、見せしめ裁判も行われるだろうが、人民元の暴落があれば輸出競争力の回復が臨まれるので製造業の再活性化という逆のシナリオも描ける。

・第五に日本の受ける損害である。

せっかく回復した日本経済にチャイナリスクが加わって、上海株価が下落すると、ダイキン、コマツ、トヨタ、伊藤忠など過度な中国進出をなした日本企業の株価が連動して下落した。

日本政府が保有する人民元建て国債と通貨スワップ、中国株へ投資した個人投資家や中国株を組み入れた投資信託、ならびに香港のレッドチップ保有者は大きな損失を蒙るだろう。

他方、中国国家ファンド(CIC)系が保有する4兆円をこえる日本企業株がおそらく売却されるので、不気味な大株主をかかえるとして注目視された各企業は株価が一時的下落に見舞われようとも、安心感を得られるメリットがある。

邦銀が貸し込んでいる3兆円強の融資は在中国日本企業であり、問題は少ない。

いずれにせよ、関係者はよくよく中国経済の推移を見守る必要があり、打てる対策は早めにすべて講じておくべきであろう。

<「頂門の一針」から転載>

◆木津川だより 幻の恭仁京 @

白井 繁夫


聖武天皇は、天平12年(740)10月29日東国行幸に立たれ、大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱(672年)で吉野から近江へ向かって進軍した同じルートを辿られた後、12月15日に「恭仁宮」へ入られ、平城京へは戻らず、「恭仁京の造営」を開始しました。

木津川の右岸「加茂町瓶原」の例幣(れいへい)の台地に、天平13年平城宮の大極殿を移築され、この宮を「大養徳恭仁大宮:やまとのくにのおおみや」と名付けました。

聖武天皇は、「恭仁京の都城」を東西各8坊(横幅全長約7.2km),南北は9条(縦全長約4km)の条坊を有する京域の、伝統的な左右対称の都市計画に基づき造営しました。

ところで、聖武天皇は日本書紀を愛読されておられました。天武天皇の頃は、日本書紀に非常に深い関心が寄せられていましたので、新しく作る「恭仁京」は旧弊を排して、天皇が描く理想の律令国家建設を目指したのだと思います。
 

しかし、天平12年から17年を指して「聖武天皇の彷徨の5年」と云われており、その間、恭仁京への遷都は4年間ですが、紫香楽宮、難波宮を経て平城京へ還都しましたので、「恭仁京は幻の都城」とも云われてきたのです。

さて、聖武天皇は、藤原不比等以来、藤原氏一族が切望した期待の天皇誕生でした。その天皇が造る都が何故短命だったのか、藤原氏の歴史を少し遡ってみます。

皇極天皇4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)において中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺し、翌日には蘇我蝦夷(えみし)も自害させた「乙巳(いつし)の乱」がありました。

蘇我本宗家(稲目→馬子→蝦夷→入鹿)と、四代に亘り政権を掌握した豪族(蘇我氏)から大王家(皇室)が権力を取り戻した「大化の改新」で、藤原氏は、皇室との関わりが深くなりました。(大織冠藤原内大臣鎌足:乙已年の大功として功田100町永代付与される。)

皇極天皇退位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位しましたが、蘇我氏一族の影響が強い飛鳥から「難波長柄豊碕」に宮を遷し、孝徳天皇.中大兄皇子の天皇を中心とする政治に移行したのです。

古代日本最大の内乱「壬申の乱」(672年)前後(七世紀)の東アジアの情勢ですが、中国、朝鮮半島でも戦乱があり、中国では隋から唐に変わりました。

朝鮮半島では、高句麗、百済(倭国と同盟)、新羅等の国がありましたが、新羅のみが唐と組み残りました。

そこで新羅・唐連合軍が、次は日本(倭国)を攻めてくるに違いないとの読みがありましたので、これに備へて、九州の太宰府、難波津(宮)等の防衛ラインを固めると共に、都を飛鳥の地から近江大津宮へ、天智天皇は(667年)遷都したのです。


天智天皇崩御後、大友皇子と大海人皇子の内乱、即ち、「壬申の乱」は、天智朝(蘇我、紀、巨勢氏等の古来の名族)と天武軍(律令官人として立身出世を目指す中小豪族、藤原氏含む)の戦いとなりました。近江へ進軍した大海人皇子は、美濃で軍勢を整え、672年8月「瀬田橋(大津市)の戦」に挑んで、大友軍を大敗させました。大友皇子は、翌8月24日自決しています。

天武天皇と皇后(後の持統天皇)の親政が実現し、強大な権力を持つ律令国家が誕生しました。天武2年(673)都は近江大津宮から飛鳥淨御原宮(あすかきよみはらのみや)へ遷都して、制服の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制度、冠位制度の改定などの新制度も定めた中央集権制を進めました。

聖武天皇は天武天皇に非常に関心を寄せており、「日本書紀」の『天武紀』のみ特別構成(上下2巻)を官人達にも講読させました。

さて、天武12年(683)12月の詔ですが、「およそ都城.宮室は一處にあらず。必ず両参を造らむ。ゆえに先ず難波に都せんとす」となっています。このことは複都制の採用を宣言したものと解釈できます。


天武朝では飛鳥淨御原宮.後飛鳥岡本宮が併存して、なお難波宮を首都に対する陪都として造営しており、天武朝末年(684年)には、日本史上最初の条坊制の本格的都市(藤原京)にも着手しています。

その後、(690年)持統天皇が本格的に藤原京の造営に着工して694年に遷都し、持統、文武、元明天皇と藤原京は3代16年間つづき、710年平城京へ遷都しました。


首(おびと)皇子(後の聖武)は、子供のころから元明天皇に連れられて恭仁郷(地図Z:2番)や岡田離宮などへ度々行幸しており、瓶原(みかのはら).鹿背山.泉乃河.泉津の長短や地形を熟知していました。

ですから、「平城京から恭仁宮への遷都」を決めたのだと思うのです。

地図Z http://chizuz.com/map/map144914.html

恭仁京遷都の意義
★旧勢力の影響(旧弊の豪族、南都の僧侶など)を排し、都に流行している疫病(疱瘡)を避けられる土地で 新しい律令国家の都城建設
★水陸の交通の要衝(泉津は大河川港であり全国の街道にも通じる)であり徴税品(租庸調の米塩油布等)、 木材等の物流、各地の情報収集に利便な地である
★天災(地震、旱魃、風水害)、政情不安等に対する人心の安穏を願う仏法を確立して国家
 統一を願う。(天平12年2月:聖武天皇と光明皇后は河内知識寺で廬舎那仏を拝してその大佛建立地を求 める)

元明天皇の平城京(遷都:710年)は、藤原不比等が中心となって、唐の長安を模した条坊の都城にしました。ところが天平9年(737)に藤原四卿が天然痘で亡くなり、橘諸兄が政権の座に着きました。

このため、聖武天皇の恭仁郷への遷都計画は、橘諸兄の地盤強化のために、橘諸兄の別荘「相楽別業」の近くで進めることで、両者の思惑が一致したのです。
                                  (後編Aへ)

<参考資料>:加茂町史   第1巻  古代.中世編  加茂町
   聖武天皇の三都  難波.恭仁.紫香楽 (2008.3.8.:文化講座) 中尾芳治

2013年06月28日

◆第3太喜丸に栄えあれ!

馬場 伯明


東日本大震災と大津波から2年余、ふるさと長崎・島原半島の漁業者が気仙沼で被災したが、今、力強く操業している。うれしい限りである。

2013年5月25日マル井水産有限会社(井上幸宣社長58歳)が建造した新船「第三太喜丸(199トン)」が、満艦飾の大漁旗をはためかせ、地元の雲仙市南串山町の中ノ場の母港へ凱旋帰港。その雄姿を披露した。

思えば、2011年3月11日の被災で、同社がサンマ漁の本拠地としている気仙沼港の倉庫・トラック・集魚灯・魚網などの全てを失った。

損害は2億円に近かった。ただ幸運にも、第一太喜丸(133トン)はこの季節東北の漁場を離れており被災を免れていた。

2011年秋、同船は各方面の協力を得て、サンマ漁の集魚灯・魚網などの資機材を緊急調達し出漁した。被災による出漁船舶数の減少と単価の安定等によりこの年予想を超える漁獲と水揚げを得ることができた。

震災前に進めていた新造船計画(第三太喜丸)はとうてい無理と思われた。しかし、大震災直後の2011年4月、駆けつけた気仙沼で、行政・地元漁協・造船所などから井上社長に新船建造について強い要請があった。

井上社長は「復興のシンボル」として大型の新船(第三太喜丸199トン)の建造を決断した。建造は地元の木戸浦造船(株)である。

新船は昨年2012年7月に完成、気仙沼で進水式を行い三陸沖でサンマ漁に入った。年末から2013年にかけては東シナ海でカジキマグロ船として操業している。漁獲・水揚げは前年に続き順調だという。

新船の概要を紹介する。199トン、全長48m。総事業費8億8千万円。日本政策金融公庫の復興特例融資等を活用した。最新の操舵機器、LED集魚灯システム、高鮮度保持のシャーベット製氷機・保管庫、乗組員室の個室化、娯楽室配置等高機能を備えた最新鋭のハイブリッド漁船である。

2013年5月25日の朝10:00、第三太喜丸は気仙沼漁協や雲仙市の関係者らを乗せ、100枚を超える大漁旗をはためかせる満艦飾で橘湾・国崎半島沿海を航行した。中ノ場港の岸壁では大勢の人たちが大歓声で迎えた。

私たちは岸壁から乗船し設備などを見学した。甲板では八幡神社の志賀稔宮司により神事がとり行われた。そして、祝辞、謝辞、乾杯・・・。

船からは紅白の蒲鉾が撒かれた。マル井水産本社前の岸壁広場で大量の紅白餅が撒かれた。私も(井上社長の依頼で)餅の箱を抱え同船の希望の未来を託し力いっぱい撒いた。
 
新進気鋭の井上太喜船長(副社長・28歳)は「漁は順調です。この船が長崎と三陸・気仙沼との懸け橋になれたら・・」と熱く話してくれた。

13:00からは雲仙温泉の高級ホテル東園(あずまえん)で祝賀会。出席者は何と372人、本来1卓10人が12〜13人掛けの座席配置となった。

開会は同町の境屋水産(有)の竹下始子さんによるお祝いの「謡」で始まった。来賓の祝辞が続いた。水産庁漁業調整課長(代読)・佐藤亮輔気仙沼漁業協同組合長・長崎県知事(代読)・金澤秀三郎雲仙市長。

さらに、久間章生(元)防衛大臣・奥村慎太郎(前)雲仙市長・松村俊洋日本政策金融公庫(統括)・木戸浦相一郎木戸浦造船(株)社長。

井上社長が「皆様の御蔭を持ちまして・・・」と万感の思いの謝辞で出席者にこたえた。全員が「よかった!」と笑顔で頷いていた。

菰樽の勇壮な鏡開きの後、乾杯の音頭は、全国さんま棒受網漁業協同組合理事・鎌田水産(株)代表取締役会長の鎌田和昭氏であった。

鎌田会長は、大震災・大津波の被災から新船建造・進水・操業に至る、井上社長の苦労と成果、今後への期待などを詳しく語った。乾杯の唱和と拍手が広い会場に高らかに響き渡った。

第三太喜丸が獲ったマグロの新鮮な刺身や東園自慢の料理をいただきつつ、各席では和やかな懇談の花が咲いた。祝電が披露され、スナック「カサブランカ」のママ・後田陽子さんらが歌や踊りで華やかに盛り上げた。

宴たけなわの頃合い・・・。井上真二・橘湾東部漁業協同組合長が「さあ〜〜っ、お手を拝借!」と威勢よく三本〆の音頭を取った。井上真二組合長は井上幸宣社長とは同じ南串山町在住の漁業者仲間である。

祝賀会はお開きとなり、マル井水産の皆さんの見送りの中を、ホテルの送迎車に乗りこんだ。(いい祝賀会であった)。

翌日。2013年5月26日は無風快晴。地元の愛野カントリー倶楽部で第三太喜丸進水祝賀記念ゴルフコンペ。30組117人。私も参加した。

ダブルぺリア方式の勝負。優勝は今川和夫氏(長崎みつぎ被服・Gross37:39)、準優勝は女性の田中惠子氏(田中鮮魚卸35:40)BestGrossだ。

豪華な賞品が全員に用意された。冷凍マグロ・カツオが何本も。生鮮サンマ1箱引換券、キャディ・バッグ数本、商品券(5〜1万円)、地元のお菓子、地元ジャガイモ10kg箱多数・・。私は下位。でもSRIXONの高級キャデイ・バッグが当たった。さらに全員に「明太子」1箱の参加賞。 

井上社長が「馬場さん、三本〆の音頭を!」と。「では、被災地の復興と第三太喜丸の安全航行と大漁、およびマル井水産の繁栄を祈願し、あわせて本席の皆さまのご健勝を願い三本〆といたします。いよ〜〜っ・・」。

夕方からプレーした有志10人が雲仙市(小浜温泉)の料理屋「浜一」に集合。賞品のカツオとマグロ各1本を主人に料理して貰い肴とした。

マグロの厚切りの刺身。カマ焼き、煮付け、カツオの刺身と大蒜の効いたタタキ。昨日の菰樽の酒のお下がり。コップ酒が旨かった。

じつは、この間、マル井水産と第三太喜丸にとって、まことに縁起のいい出来事が2つあった。

一つは、2012年末、第三太喜丸は東北のサンマ漁から南串山町に帰還し出漁した東シナ海での流し網で、カツオの大群に遭遇し予想外の大漁、築地市場へ急送、数千万円の水揚げとなったという。強運の太喜船長だ!

もう一つは、太喜船長に、第1子(長女)に続き第2子が誕生する予定だという。未来の船長(長男)かどうか?井上家には二重の喜びとなる。

「井上幸宣さんな、胆ん太かもん。ほんなこつ!(井上幸宣さんは、胆(きも)が太いから。ほんとに!)」という周りのからの讃辞しきりである。

新船第三太喜丸の建造は、井上父子(親子鷹)の被災の苦難を乗り越えた気力と怯まない決断力の賜物である。運を味方にするのも実力である。

終わりに、東北の被災地の真の復興と東北の海の豊饒とを願うとともに、航行・操業の安全と大漁およびマル井水産の繁栄を心から祈る。第三太喜丸に栄えあれ!
(2013/6/26千葉市在住)

<「頂門の一針」から転載>

2013年06月27日

◆問責可決のもう一つ背後

古澤 襄


みんなの党とミッチー一族

杉浦正章氏が「問責可決の背後に”小沢・輿石”ライン」とすっぱ抜いた。私もつられてもう一つの秘話を語ろう。

今度の問責決議の裏には、直接、火をつけた「みんなの党」の渡辺代表の存在がある。”ミッチー”のあだ名で親しまれた渡辺美智雄元副総理の息子。

だが渡辺代表の動きは”小沢・輿石”ラインとはリンクしていない。むしろ民主党が参院選後に”小沢・輿石”ラインと保守系に分裂すると見越した、保守派の抱き込みを狙った布石とみるのが正しい。

さらに秘話を続けると”ミッチー”一族は、何と10年以上も前から、小沢氏の選挙区・岩手4区に支持勢力を扶植してきた。その結果、4区の西和賀町では自民党支持が小沢支持を上回った。

石破幹事長は、この15日に西和賀町沢内の中心部で街頭演説の熱弁をふるった。小沢氏の心臓部に斬り込んでいる。小泉進次郎氏や小池百合子氏も北上市や盛岡市の応援に投入するであろう。

私はこんどの東北旅行で”ミッチー”一族の奮闘が、「みんなの党」に生かされていない現実を見てきた。「みんなの党」はまだ東京、神奈川、栃木の地域政党から脱していない。

大阪維新の会が地域政党から脱しきれない様に「みんなの党」も、まだ発展途上にある。東京都議選で「みんなの党」が維新の不振を尻目に躍進したが、参院選で同じことが起こる可能性は少ない。

<「頂門の一針」から転載>

2013年06月26日

◆中国野望露見 米中首脳会談

櫻井 よしこ


6月7、8日の両日、米西海岸の美しい保養地に建つアネンバーグ別荘で行われた米中首脳会談の全容についての情報はいまだ明らかではない。したがって、会談の意味について断定は出来ない。

そうした中でも確かなことは、米中両国が友好関係の確立を演出したものの、ほとんどの事柄について、合意が得られなかったこと、中国の野望と焦りが明らかになったことなどであろう。

米中関係がどれほど飛躍的に改善されたかを宣伝したのは、中国メディアだった。それはまた、オバマ政権の了とするところでもあり、「8時間にわたる類例のない会談」「オバマ、習両首脳2人だけの朝の散歩での会談」などという肯定的な表現が飛び交った。だが、中身は非常に乏しく、むしろ、対立軸はより明確になったといえる。

双方の思惑がぶつかり合い、基本的に譲歩は困難だと考えられるのが、中国の太平洋進出の野望である。習近平国家主席は首脳会談初日の7日、冒頭こう述べたと、中国通信が伝えている。

「昨年の訪米では、広大な太平洋には中米両大国を受け入れる十分な余地があると語ったが、私は現在もそう思っている」

2012年2月に習氏は副主席として訪米し、当時米国側から非常に冷たい対応を受けた。バイデン米副大統領は習氏を前にして、驚くほど率直な表現で人権問題などを取り上げ中国を非難した。そのときにも語った事実上の太平洋分割統治を習主席は今回も冒頭で述べたわけだ。中国がどれほど強く太平洋進出の野望を抱いているかは数年前の衝撃的な発言からもうかがえる。

08年3月、米太平洋司令官のティモシー・キーティング氏が上院軍事委員会に出席して、艦隊を率いて中国を訪問した折、中国側から太平洋を分割統治しようとの提案を受けたと証言し、米国の対中警戒感は高まった。この太平洋分割統治を提案したのは中国海軍少将、楊毅氏だった。私は11年に楊氏と長時間語ったが、その際に「太平洋分割統治の提案」について尋ねると、氏はこう語った。

「キーティング大将が07年に中国を訪れ、北京の世界貿易センターで会談しました。彼が中国は航空母艦を開発する必要があるのかと問い、私は率直に『ある』と答えました。中国が必要とする空母の数を聞かれましたので、1隻から12隻だと答えると、キーティング大将は笑いました」

ちなみに米国が保有する空母は12隻である。このような会話の先に、楊氏は次のように述べたそうだ。

「中国と米国が太平洋の区域を分けて担当してもよいのではないか。責任の分担だと私は言ったのです。それが後に太平洋を東西に分割する共同管理を提案したと報道され、私は非常に驚きました」

楊氏は恰も冗談話にすぎないかのように語ったが、習主席が昨年、今年と、米国に提案したのは、まさに太平洋の分割統治案である。中国は一度言い出したことは譲らない。中国の発想は、今後も東シナ海、南シナ海での領土領海の拡張を続けるという決意表明であり、周辺国にとっては受け入れ難い。

しかし、この中国の強気な姿勢に脅える必要はない。日本は何よりもまず、目の前の尖閣諸島の危機を乗り越えるために最大限の努力で海上保安庁、自衛隊の力を増強させなければならないが、同時に中国が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に参加してもよいという姿勢さえ見せるほど、追い詰められていることを知っておくべきだ。

TPPへの参加は中国共産党一党支配の終焉を意味することであり、現在の中国にとって参加は不可能であろう。にも拘わらず参加する可能性を論じてまで米中首脳会談を欲していたということだ。中国に国際法、自由、民主主義などの価値観を示し続けていくいまの日本外交は正しいのである。(週刊ダイヤモンド)
2013.06.25 Tuesday name : kajikablog

<「頂門の一針」から転載>