平井 修一
「アサヒグラフ」は朝日新聞の月刊写真誌で、1923年(大正12)1月に創刊され2000年(平成12)に休刊した。今は映像があふれているから最早写真誌の時代は終わったのだろう。小生は銀行や医院などで見た記憶があるが、買ったことは一度もなかった。売れなければ休刊、廃刊するしかない。
人気は最終ページの「わが家の夕めし」で、1967年(昭和42)から連載された。登場した有名人は千人近くになり、梅干し、カップヌードルの粗餐から、珍味・佳肴の宴まで、個性的な晩餐風景を紹介している。作家の稲垣足穂の夕食はビールが一本、ちゃぶ台に乗っているだけで、これには笑った。
食生活の変遷を知る上では面白いシリーズではあったが、写真を撮られる方ではそれなりに準備をするから、いつもは一汁二菜のところを一汁四菜くらいにはしただろうし、家族ばかりか友人知人も招いて“賑やかな団らん”を演出するから、割り引いて見るのがいい。
人は何を食べているのか、日記に書き遺されていることがあり、小生には興味深い。正岡子規の最晩年の随筆「病牀六尺」中の食事の記載は――
明治卅五年五月八日
昨夜少しく睡眠を得て昨朝来の煩悶やや度を減ず、牛乳二杯を飲む。午(ひる)飯は粥(かゆ)に刺身など例の如し。晩飯は午飯とほぼ同様。
五月十五日
上根岸三島神社の祭礼であつて、この日は毎年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁、木の芽あへの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつた。
筍(たけのこ)に木の芽をあへて祝ひかな
歯が抜けて筍堅く烏賊(いか)こはし
不消化な料理を夏の祭かな
六月二十一日
去年頃までは唯一の楽しみとして居つた飲食の慾も、今は殆ど消え去つたのみならず、飲食その物がかへつて身体を煩はして、それがために昼夜もがき苦しむことは、近来珍しからぬ事実となつて来た。
六月二十二日
この日逆上甚だし。新しく我を慰めたるもの、
一、桜の実一籃
一、菓子麺包(パン)各種
食事は朝、麺包、スープ等。午、粥、さしみ、鶏卵等。晩、飯二碗、さしみ、スープ等。間食、葛湯(くずゆ)、菓子麺包等。
七月三十一日
牛乳一合、麺包すこし。午飯、卯花鮓(うのはなずし)。豆腐滓に魚肉をすりまぜたるなりとぞ。また昼寐す。覚めて懐中汁粉を飲む。
晩飯、飯三碗、焼物、芋、茄子(なす)、富貴豆(ふきまめ)、三杯酢漬。飯うまく食ふ。
九月八日
近頃は少しも滋養分の取れぬので、体の弱つたためか、見るもの聞くもの悉(ことごとく)癪(しゃく)にさはるので、政治といはず実業といはず新聞雑誌に見るほどの事、皆我をじらすの種である。
九月十三日
人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である・・・
それから6日後の9月19日、子規は亡くなる。満34歳だった。
ところで子規は牛乳を飲んでいる。病気にいいということだろうが、日本人が牛乳を飲むようになったのは明治時代からで、それも洋行帰りなどの相当ハイカラな家庭に限られていた。新し物好きの子規は「牛乳は滋養強壮にきく」とどこかから聞いて飲むようになったのだろうが、当時の食生活からするとかなり進んでいたことになる。
蛇足ながら一般の日本人が牛乳を飲むようになったのは終戦後のことである。年間1人当たりの牛乳・乳製品の消費量は1946年にはわずか1.1kgであったが、高度経済成長期の1960年代に入って急速に増え、1960年12.0kg、1970年28.8kg、1980年42.0kg、1990年47.5kgとなり、2000年には46.6kgとなった。2000年の消費量は1946年の実に41倍である。
この世は些事からなるという。日常茶飯事の食事も些事と言えば些事だが、大事と言えば大事である。飯を食うために働くか、働くために飯を食うか・・・コインの表と裏のようなもので不即不離、不可分で、どちらも真実、どちらも大事ということである。食事をテーマに何回か書いていく。(2013/07/03)
<「頂門の一針」から転載>