中山 恭子(講演録 2)
私自身國家といふのは當たり前だといふ風にして何の考へもなく國家の意思の問題ですと傳へました。それは中央アジアの(資料を出して頂けたらと思ひますが)1999年から2002年、この拉致問題に關はっだのが2002年の9月ですから、8月に退任しましたので、ウズベキタン共和國の特命全權大使を3年間務めて戻って來たところでございました。
中央アジアという國について日本の中ではまだ殆ど知られてゐないかと思ひます。中國を挟んで西側、中國の西の國境、長い國境を接しているそこに5つの國があります。ソ聯の中に含まれてをりましたので、日本では「ソ聯」といふ一括りで考へられてをりました中のそれぞれの國について殆ど知らされてをりませんが、スタンというのは地域、國と考へて頂いていいと思ひます。
ウズベキスタンといふのはウズベックの國、トルクメギスタン、それからタジキスタン、キルギスで5つの國があります。ウズベキスタンとタジキスタンの大使をしてをりました。
このキルギスで拉致事件、人質事件が起きたのを覺えてらっしゃいますでしょうか。1999年の8月でした。8月に着任して12日くらゐの時に事件が起きました。
キルギスで起きたんですが、このあたりは非常に國境が入組んでまして、日本人の鑛山技師四人を拉致した犯人といふのはタジキスタンに據點を持ってゐました。この8年前、1991年にこの5つの國が獨立してゐます。獨立した後、それぞれの國の中で激しい抗爭がありました。
ウズベキスタンはカリモフ大統領といふ方の下でカザフも世俗國家です。ところがこの地域、さうですね八世紀ごろに唐とアラブが戰ふことがありましてですね、唐が大敗するんです。
その時にアラブが入りましたので強制的にイスラム化されてゐる地域なんです。ただ非常にラフなイスラムでして、女性達はノースリーブやミニスカートも平氣で穿いてますし、所謂ラマダンといふ斷食でも、大使館に勤務してゐた現地雇ひの人々も平氣でお水は飮みますしお晝ごはんも食ぺてゐます。
ラマダンしっかりやってる人ゐないのって聞いたら搜しますって言って傳へてきたのが、「居ました一人、ラマダンやってます」、40人くらゐ、警備の方もいらして4、50人ゐる中でそんな状態。
ただ、お葬式とかさういふ時にはイスラム風に、日本の佛教よりはもうちょっと違ふかも知れませんが、非常に明るい人達なんてすが、そのタジキスタンは獨立した後、内亂状態になりました。
イスラム國家を創りたいといふその動きと世俗のままいかうといふ二つの勢力がぶつかって内亂状態になりました。
その内亂状態の激しい戰鬪が繰り廣げられてゐたその一つの原因は當時アフガニスタンにタリバンとかアルカイーダができてまして、アフガニスタンと長い國境を接してゐますタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメギスタンもアフガニスタンと國境を接してゐます。
で、この一番長い國境を接しているタジキスタンにアフガニスタンからイスラム原理主義グループが入っていったといふ事で戰鬪が激しくなって内亂が收まらない状態になってゐました。
その内亂を戰ってゐたイスラム原理主義グループの者がタジキスタンだけではなくてウズベキスタンにも自分達のイスラム國家を創らうといふ動きがあって、ウズベキスタンに向って行った途中、キルギスで日本人鑛山技師を拉致したといふ事件でした。
そんな事もあってこのグループは1日か2日で夕ジキスタンの方へ人質を連れて自分の據點があるところに戻ってしまひました。私自身はウズベキスタンと夕ジキスタンを管轄してをりましたので、自分の管轄してゐる地域に、人質になった日本人を連れた犯人グループが入ってきました。さういふ状況でしたので大變緊張しました。
これまで戰後かういった事件が起きた時の外交政策は、その事件が起きた國にすぺてを任せる、救出も責任も、あらゆる事を任せるといふのが日本の戰後の外交のあり方でした。今囘この時も同じ樣に、その時の外務省の人が惡いといふわけではないと思ってゐるんですが、これまで通りにキルギス政府にすべてを任せました。
ところが犯人も人質もタジキスタンに入って來てゐます。國が違ふところに任せても救出することはできません。私か動かうとしましたんですが、情報をとるだけでよろしい、それ以外は動くなといふのが政府の方針でした。
でも、イスラム系原理主義グループの動きを見れば日本人が撃ち殺されるといふ事が目に見えてゐる情報が入ってきてをりました。
そこのウズベキスタン大使館の日本人で10人ぐらいしかゐない小さな大使館ですけれども、偶々このアフガニスタンやウズベキスタン、タジキスタンの情報をもった若い外交官がをりまして、その人を中心にして、ほんとに若手の職員がどうしても救出したいと言ったら、僕達もやりますと言ってくれました。
大使館の小さい中で必死で救出にあたりました。お蔭さまでこのタジキスタンの大統領、ウズベキスタンの大統領、そしてタジキスタンで内亂を戰ってゐたイスラム勾當のグループ。
これはイスラムの中でも過激派ではない、アフガニスタンから來た、イスラム原理主義ブルーフではない鬪士と接觸することができて、この方々が一緒になってこの拉致したイスラム原理主義グループの仲間を取り圍んで警告の中で絶對動けないカタチで取り圍んだ上で、日本人と現地人の人たちを救出してくれました。
かういった拉致事件が起きてそれぞれの國にお禮に行きましたら、%「起きて」でなく「起きた」ではないか。
「自分たちとしては當然のことをしただけですよ。」カリモフ大統領もそれからタジキスタンのそれぞれの方々みな、さう言ってくれました。
そしてその後仕事を始めました。この動きは日本では殆ど知られてをりません。キルギスタン政府が救出したといふ事になってゐますが、中央アジアの人々はみんなこの動きをよく見て知ってゐます。そんな事もあって、その後仕事をする時にほんとに樂に出來ました。
それは、この中央アジアで日本人が何らかの被害に遭ったら大使が命懸けで救出にあたる。日本といふのはさういふ國なんだ、それを理解してくれました。そして確實な信頼を與えてくれました。
そんな事もあって仕事をしていく上で、日本とは、なんて全く説明する必要はありませんでした。さらにこの中央アジアでは、もっと根っこの部分で非常に強い日本に對する信頼、親日の動きがありました。
イスラム化されてをりますが、それ以前には佛教が非常に盛んなところでしたので至る處に佛教遺跡がある地域です。それから拜火教も當時盛んで、イスラム教化された後はすべて消えてしまってゐるんですけれども、いろんな宗教がいっしょに存在してゐた地域です。
サマルカンダのレギスタン宮、の劇場の左側の壁にプレートがあります。ロシア語、英語、ウズペギ語、日本語の4枚のプレートが掛かってゐて、1945年、46年に極東から連れて來られた日本國民がこの建物の建設に携はり、出來上がるのに貢獻した、さういふ文言が書かれてゐます。
すぐお解り頂けますよね。45年、46年、極東からたくさんの人達が西に運ばれた。本來であれば東で、日本に戻る人々が西に運ばれて各地で重勞働に從事させられました。特にウズベキスタンではこのナポイ劇場だけではなくて、大きな水力發電所ナカバルといふ市があってそこには大きな水力發電所が造られてゐる。
まづはさっきの河、シルダリアといふ河、大きい河です。そこから水を引いてまづ貯水湖を造ります。これも日本の人達が造ってくれたんです。そしてその貯水湖から大きなパイプで水を落して水力で發電をし、使った水をまた大きな運河でシルガリアに戻す。一連の大事業です。
それだけではなくて、どこへ行ってもウズベキスタンの中を走ってゐますと「大便、この道路ね、日本の人達が造ってくれた道路なんだよ」。アパートに行きました時にはある年配の女性が「このアパートは日本人が造ったアパートだから、絶對安全なんだ」。ものすごい自慢なんてすね。
で、自分は十二歳の時にここに移って來たんだけれども、あそこでその前から軍が造ってゐた。日本の人達を覺えてゐる。モッコをしょって腰を屈めて、土を運んでゐたよ。さういふ事を傳へてくれます。
私に傳へるだけではなくてみんなに傳へてゐるんです。その運河にも行ってみました。運河に架かってゐる橋の上で車を停めて立ちましたら今も滔々と水が流れ遥か彼方までこの運河に沿って畑がずっと續いてゐました。
先程の水力發電のナカバル市の市長さんも日本人がこれだけ大きな貯水湖、水力發電所を造ってくれて、一日も休まずにウズベキスタン全域に電力を供給してゐます。そして水が貯まったお蔭で緑豐かな人がたくさん住む町になりました。前はここは突風が吹くやうな砂漠地帶だったんですよと教へてくれました。
ウズベキスタンには十三ヶ所日本人墓地があります。これはその水力發電所を造った時に亡くなった、土葬ですのでひとつづつかういふ風に埋葬されてゐます。それからここあるやうな黒い、號が書かれたものがそれぞれの處に挿してあります。これも拔かずにありました。
この後、日本人と一緒に働いたといふ九十歳のお爺樣がをられる。もう亡くなりましたが。「會ひますか」と言はれて是非と言ってお訪ねしました。まづ最朷に日本人だと傳へましたら、「お墓に行ってくれたか。」といふのが最初の言葉でした。「今行って來ました。」と傳へましたら、あそこは自分のとっても大切な友人達が眠ってゐるんだよ。何て言ふんですか…聲が出ませんでした。
このウズベキスタンでは日本人のお墓ではなくて、それだと更地になりますがとても大切な友人のお墓なんだ。そのお爺樣を中心に、ひ孫ぐらいの方までずっと傳へてくれてゐます。しかもこの、レコバードだけではなくてそれぞれの墓地を訪ねましてもみんなさうなんです。
「とても大切な人達が眠ってるんですよ」
かういふ答が返ってきます。
ただ、親を搜さうにも日本で隨分お聲掛けしましたけどゐませんでした。たまたま一人、どうしませうかと相談する中で、ウズベクの人達が「日本人は素晴らしかった、嘘をつかない人達だったし、とってもいい物を造ってくれた人達だといふやうな話をして、その方は「妹と貯金をしてきたけどお墓を整備してもらふために使ひます。」という事で、それではと言ふことから墓地整備をしました。
〔スライドを示し〕
この眞ん中の方、もう亡くなりましたが、ここに自分の友人が眠ってゐると言ふ事で、墓地を整備した後、訪ねてくれました。櫻も植ゑたんですが、水がないもんで、みんなでバケツリレーをし、育ててくれたりしてをります。ここの櫻は何本か殘ってゐます。
櫻は1650本、日本人のゆかりの土地に植ゑましたので、その中の半分くらゐから、今、花を咲かせてゐます。
ウズベキスタンの場合、この時の日本人違といふのは、殆どが死亡した時の年齡は當蒔で三十ちょっとてす。ですから殆ど若い人達で 1928 年生まれといふ人が數人ゐました。
親から日本人の人々は非常に規律正しい人々、禮儀正しい人、そして物を造るのがとても上手で、誰かが弱ってゐたらみんなで助け合ってゐた。それと監視の人が居ても居なくても、いいモノを造ってくれた。何かをあげれぱ必ず自分の出來ることでお返しをしっかりしてくる。
さういふ律義な人達です。「あなたも日本の人を見習って大きくなりなさい。」さう言って育てられてきました。さういふ話が各地で傳はってゐます。
十三ヶ所お墓がありますからそこでそれぞれの場所で日本の若者達が働いてゐました。どこに行っても同じ答が返ってきます。そんなこともあってウズベクの人々は非常に親日的しかも日本の人々のことを恥づかしくなるほど信頼してくれてゐます。
ここで働いてゐた人々は一つの隊が固まって移動してきてゐるわけではありません。混成部隊です。そして混成部隊といふことは日本の一つの隊が特に良かった、さういふ事ではないことを示してゐます。どの隊も同じやうに、さういふ若者達がどこへ行っても同じ囘答が返ってくる。
一ヶ所のモノだけではなく日本の當時働かされた若者達といふのは、どこで、どこに行っても、どの隊をとっても同じだったんだと實感できます。
中央アジアに働いた人達だけではなく朝鮮半島に居た人達も、中國に居た人達もみんな同じ教育を受け同じ考へで、日本にみんな同じ教育を受け同じ考えで、日本に歸れるかどうかも分からない中で、日本人として恥づかしくない、さういふ生活をし、恥づかしくないモノを造らうとして必死でがんばった。これが實態です。
かういふ中で住んでゐますと、日本といふものの素晴らしさといふものを改めて思ひ知らされますし、今の日本をウズベクの人々が見てどう思ふだらうかといふやうな心配にもなりますし、この時の日本の在り方がいろいろ問題があったかも知れませんが、日本が持ってゐるいいもの、當時頑張ってゐた日本の若者達、この人達にほんたうに敬意をはらひ感謝をしたい素直にそんな氣持になります。
本日はお話させていただく機會を作っていただき眞にありがたうございました。
(講演は4月 27 日「NPO法人百人の會」總會でのもの。要録が同會の活動報告6月 15 日號に掲載。漢字制限假名字母制限を無視することについての許諾を得て入力、算用數字も基督教暦の年數以外は原則としてあらためたのは位取り式では苦しい箇所があったため。長いので2囘に分けての後半。上西俊雄)
<「頂門の一針」から転載>