2018年02月25日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」 第6章

                “シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(97)】2/21も氷は張らないものの寒かっ
た。寒さが続くと「温暖化」のニュースはほとんど見なくなる。ニュース
にならないし、「このクソ寒い時に何が温暖化なんだ、ボケ!」と視聴者
や読者にツッコミされるから報道しないのだろうか。可笑しくなる。

ゴアみたいに「温暖化」で懐を温めている「温懐家」は、早く春が来ない
かな、春子よ、夏子よ、熱い心と体でボクの胸に飛び込んでおいで、もう
ボクはキミなしでは冷え切っちゃうよ、なんて気分だろう。You bastard,
son of a bitch! Go to hell!

寒いと屋外作業療法ができず、PCや読書で過ごすことになる。おかげでツ
ンドク新聞はきれいさっぱり片付いた。長女が「これ面白いよ」と貸して
くれた「子供へのまなざし」(児童精神科医・佐々木正美著)は、子育て
をすっかり終えて蓋棺を待つばかりの小生にはあまり食欲がわかないので
ツンドクコーナーへ。

その代わりにアルベール・カミュの「異邦人」を3読(3回目の読み込み
を)したが、主人公の若者、何となく行きがかりで人を殺したムルソー
の、自分、他者、人生、世間へのすさまじい無関心、多分それは絶望、に
は恐れ入った。

<私はいつも最悪の仮定に立った。即ち上訴却下だ。「そのときは死ぬと
きだ」他の人より先に死ぬ、それは明白なことだが、しかし、人生が生き
るに値しない、ということは誰でもが知っている。結局のところ、30歳で
死のうが、60歳で死のうが、大した違いはない>

斬首の公開処刑を前に独房を訪れた司祭のあーだこーだにムルソーはうん
ざりする。

<私は・・・もう飽き飽きした、と言った・・・私は神のことで(残り少
ない)時間をむだにしたくなかったのだ。彼は話題を変えようとして、自
分のことを「ムッシュう」と呼んで、「わが父」と呼ばないのは、なぜ
か、と尋ねた。それが私をいらいらさせた。あなたは、他の人たちにはそ
うかも知れないが、私には父ではない、と答えた。

「いいや、わが子よ」と彼は私の肩に手を置いて、言った。「私はあなた
とともにいます。しかし、あなたの心は盲(めし)いているから、それが
わからないのです。私はあなたのために祈りましょう」

そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口を開け
て怒鳴りだし彼を罵り、祈りなどするなと言い、消えてなくならなければ
焼き殺すぞ、と言った。私は法衣の襟首をつかんだ。喜びと怒りの入り混
じったおののきとともに、彼に向って、心の底をぶちまけた・・・>

小生がムルソーなら「頼みもしないのに来るなよ」と脅し、話し始めたら
「Kiss my ass! お稚児さんのケツの穴でも舐めてやがれ! キチ〇イに
説教、余計なお世話だ、テメエの頭のハエでも追ってろ、クソ坊主め! 
出て行け、殴るぞ、このクズ、Shit hole!」と罵倒するだろう。

残念ながらこの世は愛ではなく、憎悪、悪意、疑念、敵視というマイナス
電流同士がぶつかり合って激しい火花を起こし、歴史をつくってきたの
だ。これからもそうだろう。それを知らずに悲しからずや、道を説く君。
バカに付ける薬はないか・・・

教皇は布教のためには習近平の足の裏を舐めそうだ、神がいるのなら雷が
落ちるだろう、手に手を取って地獄の道行き、♪「あなた」「おまえ」夫
婦みち 命くれない 命くれない ふたりづれ。

くれない、紅? リベラル≒アカモドキ世界はもうすっかり暮れている
ぜ。いい夢でも見て、永遠に眠るこった。

そんな思いをした日の夜は悪夢に悩まされる。北朝鮮の招待所、ゲストハ
ウスという収容所、ガサ入れ、千葉刑務所、面会・・・午前3時にハー
ハー言いながら目覚め、すっかり疲れ果てていた。カミュの力は偉大なり!

さてさて、本題へ。2/21産経に奇妙な記事があった。

<直腸に金塊を隠し密輸図る 韓国籍の女性7人 中部空港の金属探知機
で発覚

韓国籍の女性7人が1月末、加工した複数の金塊を直腸に隠して韓国から中
部空港(愛知県常滑市)に密輸しようとしていたことが20日、空港関係者
への取材で分かった。金塊密輸はこれまで、下着などに隠す手口が多かっ
たが、体内に隠す手口が発覚するのは珍しいという。

関係者によると、密輸しようとしたのは50〜60代の女性7人で、ツアー客
を装っていた。韓国の仁川空港から中部空港に到着後、金属探知機による
検査で分かり、密輸は未遂に終わった。

7人は数センチほどに加工し、透明の袋に入れた複数の金塊を肛門などか
ら挿入、直腸に隠していた。入国後、トイレなどで出す計画だったとみら
れる。

名古屋税関中部空港税関支署は7人に罰金の納付を求める通告処分にする
方針。罰金が納付されれば、金塊は返却されるという>

韓国には大統領以下、北の工作員がうじゃうじゃいるから、ミズ肛門のオ
バサンは工作員、あるいはヤクザのウマイ話に乗ったのだろうか。福岡と
大阪の空港は警戒が厳重だから名古屋にしたのだろうが、誰に渡そうとし
たのだろう。

中部地方はアカの中日/東京新聞のシマだが、中日の2/21はこう報じている。

<7人は1個200グラムの金塊を1人当たり5〜8個隠していた。同空港では1
月、国際線から国内線に切り替わる旅客機内のトイレに金塊を隠して密輸
しようとしたとして、愛知県警が6人を逮捕。関税法違反(無許可輸入未
遂)などの罪で5人が起訴された>

最高で1.6キロの金塊を肛門に押し込む、便意を催さないか・・・臭い
で、怪しい臭いがするで。日本への金の密輸が盛んだが、それは日本に限
らないようだ。

<北朝鮮、バングラデシュに謝罪 外交官が金27キロ密輸

ニューデリー(CNN 2015.03.13)北朝鮮の外交官が27キログラムの金を無
申告でバングラデシュに持ち込もうとして摘発された問題で、北朝鮮の駐
バングラデシュ大使が謝罪した。北朝鮮の国営メディアはこの件について
報じていない。

バングラデシュの税関当局のトップ、ジアウディン氏はCNNに対し、この
外交官は3月5日、シンガポール航空便で首都ダッカの空港に到着。税関で
金を持ち込もうとしているのが発見されたという。

税関当局に対しては、北朝鮮の外交官が「違法なもの」を持ち込もうとし
ているとの通報が事前にあったという。

「とても苦労した」とジアウディン氏は述べた。ウィーン条約で定められ
た外交特権があるため、「相手が外交官の場合、非常に慎重にならなけれ
ばならない」からだ。ジアウディン氏によれば、摘発されたのダッカの北
朝鮮大使館のソン・ヨンナム一等書記官。当初は荷物の検査を拒んだという。

「バッグを開けたり調べたりするなどとんでもないと言っていた。最初は
『これは電気モーターだ』と言っていたが、さらに問い詰めると考えを変
え、『これは暗号装置で機密性の高いものだ』と言い出した」とジアウ
ディン氏は語る。

最終的に税関職員はこの大使館員のバッグを開け、金の延べ棒170本や装
飾品など、実勢価格で100万ドル(約1億2000万円)相当の金を発見した。

バングラデシュの外交筋によれば、同国政府は北朝鮮大使に抗議した。問
題の大使館員はすでにバングラデシュを出国したという>

そもそも誰が、何のために密輸するのだろう。

<「東アジア貿易研究会 & 日本貿易振興機構 2015」によると、北朝鮮全
体では92か所の金山が確認されており、総埋蔵量は2000トンである>(WIKI)

小生が経済制裁を受けている北の大将なら、「輸入代金を金塊で払うわけ
にはいかない、金塊をドルとかユーロに換えなければ融通が利かない、金
塊を密輸出して外貨を用意しろ」と言う。マネーロンダリングだ。

<密輸グループの儲けの仕組みは、例えば消費税のかからない国で1億円
分の金塊を購入したとします。日本の税制度では金塊を持ち込む際、税関
で申告し、消費税8%分=800万円を支払う決まりになっています。

密輸グループは税関のチェックをかいくぐり、金塊を日本の貴金属店に持
ち込みます。貴金属店は消費税を上乗せした1億800万円で金塊を買い取り
ます。密輸グループはただ運ぶだけで、800万円の利ざやを手にするとい
うわけです>(MBS 2017/9/29)

“飛び子”と呼ばれる運び屋は儲かるし、北の大将も1億円の洗浄済み
キャッシュを在外公館や朝鮮総連、朝鮮系金融機関(例えば朝銀信用組合
など)に隠匿できる。

北は昔から偽札、覚醒剤でも儲けている。日本での裏の実行部隊はヤクザ
だろうが、その半分は在日だと思われる。また、半島人、日本人のほか、
アジア系国籍の容疑者も珍しくない。北は国際的なアングラ組織を持って
いるのだろう。

<全国の暴力団構成員数が2016年末時点で約1万8100人となり、前年末か
ら1割減ったことが16日、警察庁のまとめで分かった。2万人を割ったの
は、統計の残る1958年以降で初めて。

検挙人員は約2万人で、覚せい剤取締法違反が4分の1を占め、営利目的事
件で見ると構成員1000人当たりの摘発が07年の3.7人から6.5人に急増。警
察庁は「利益率の高い伝統的な覚せい剤に回帰し、生活に窮して上納金に
困り、なりふり構わず連携する状況もうかがわれる」と分析している>
(時事ドットコムニュース 暴力団勢力の推移(2017年3月)

北の2大スポンサーは中共とロシアだが、中共は支援に腰が引けてきた。
ロシアもドル箱のオイルや鉱物資源の値崩れで十分な支援をできるはずは
ない。朝鮮レストランもダメ、国際人材派遣もダメ、多分、武器輸出も細
るだろう。北には今や外貨獲得手段はアングラ産業しかないのではないか。

近年ではネットを利用した攪乱、窃盗のシノギ、「サイバー攻撃」も活発
化している。

<北朝鮮のサイバー攻撃専門「180部隊」 各国の銀行から預金強奪?

[ソウル 2017/5/21 ロイター]北朝鮮の主要な工作機関にはサイバー攻
撃を専門に行う「180部隊」と呼ばれる特殊部隊が存在し、最も大胆かつ
成功を収めたサイバー攻撃の一部を実施した可能性があると、脱北者や当
局者、インターネットセキュリティーの専門家は指摘している。

米国や韓国のほか、世界10カ国以上で近年発生している、大半が金融ネッ
トワークを狙った一連のサイバー攻撃は、北朝鮮が行っているとみられて
いる。

また、今月150カ国・地域で30万台以上のコンピューターに感染した身代
金要求型ウイルス(ランサムウエア)「WannaCry(ワナクライ」による世
界的なサイバー攻撃が北朝鮮と関連している可能性を示す技術的証拠を発
見したことを、サイバーセキュリティー専門家は明らかにしている。これ
に対し、北朝鮮は「ばかげている」と一蹴した。

北朝鮮に対する容疑の核心は、同国と「ラザルス」と呼ばれるハッカー集
団とのつながりだ。同グループは、バングラデシュ中央銀行の口座がハッ
キングされ8100万ドル(81億円)が盗まれた2016年の事件と、2014年のソ
ニー・ピクチャーズへのサイバー攻撃と関連があるとされている。米国政
府は、ソニーへの攻撃を巡り北朝鮮を非難。一方、バングラデシュ中銀の
事件については、検察が北朝鮮を立件すると一部の米当局者が明らかにし
ている。

ただ決定的な証拠はなく、刑事訴訟もまだ起きていない。両事件につい
て、北朝鮮も関与を否定している>

北は最早、韓国の背中も見えないほど引き離された。生きる道は裏街道し
かない。韓国の急成長は日本をも脅かすほどだったのだ。

<1970年時点で北朝鮮の国民1人当たりGNPは286ドルと、同年の韓国の203
ドルを上回っていたが、労働力の不足を過剰労働によって補う増産運動は
限界に達し、停滞を迎えていた。韓国経済の急成長に焦りを感じた北朝鮮
は、1970年代に入ると日本や西欧諸国から工業プラントの導入を図った
が、オイルショック(1974年と1979年の原油高騰)の影響で主要な輸出品
目の亜鉛など非鉄金属の価格が下落し、外貨による返済が滞って後年まで
西側諸国との貿易に禍根を残した>(WIKI)

深田祐介によると日本は戦後にもう一つの「15年戦争」をした。1960年か
ら1975年までで、日本はこのドンパチのない経済戦争に勝った。ビジネス
マンは戦士だった。1975年には日韓条約による日本の資金提供を得た朴正
煕の“開発独裁”が花を開き始め、韓国は日本を抜き去りそうな勢いだっ
た。「日本商人事情」(1978年)から(修一:西暦で表示した)。

<1976年の韓国の経済成長率は15.2%で、74年の16.7%に次ぐ史上2番目
の高度成長を記録した。77年も10.3%と依然高い伸び率を示している。

今日、日本やアメリカ、ヨーロッパの先進国が(第一次オイルショッ
ク=OPEC減産で高騰)軒並み不況風に吹かれている中で、韓国の好調ぶり
は目を見張らせる。この躍進の原動力としては、好調を続ける海外貿易が
あげられている。

1976年の輸出額は78億ドルで、前年対比56%の伸びだ。外貨不足を悩んで
いたのは「今は昔」の話、1978年には外貨保有高が43億ドルに上り、輸入
自由化の第一歩も踏み出した・・・

韓国が着実に力をつけてきたのは、まぎれもない事実で、何しろ先年の
「ニューズウィーク」誌が「The Korea are Comming(韓国がやってく
る)」という特集記事の中で、「世界中で日本人を“怠け者”に見せるのは
韓国人だけ」というくらい勤労意欲(モラル)が高い。

「韓国人作業員は、日本人より低い賃金で、数倍働きますな。韓国人の方
が作業員としては日本人よりも優秀ではないかという評価は、国際的に定
着しつつあるんやないかな」

実際に現場で韓国人と働いてきた宇名(修、プラントメーカー日揮の国際
事業本部部長代理)は言う>

韓国の高度成長は1970年前後から始まり、1998年のリーマンショックま
で、およそ「30年戦争」だった気がする。WIKIから。

<1人当たりの国民所得が世界最貧国グループであった韓国経済は、その
後、ベトナム戦争参戦によって得られたドル資金と、1965年の日韓基本条
約を契機とした日本からの1960年代半ばから1990年までの約25年に渡る円
借款、およびその後も続いた技術援助により、社会インフラを構築して経
済発展を遂げた。これが「漢江の奇跡」と呼ばれる。

その後、ベトナム戦争で培った施設設営のノウハウと中東に影響力を持っ
ていたアメリカとの良好な関係をバネに、1970年代の中東の建設ブームに
乗る。1979年の朴正煕大統領暗殺後の1980年、一時的にマイナス成長に転
じるが、1981年以降急回復し、1988年のソウルオリンピックを成功させ、
1997年のアジア通貨危機で国際通貨基金に介入されるまで高い経済成長を
続けた>

コリアンパワーは大したものだった。が、自信がつくと尊大になるのは避
けられないのか、1982年頃に韓国・古都の慶州を取材したときは(韓国政
府は「もはや妓生、焼き肉、キムチではない、老若男女を呼べる国にし
ろ」と号令したのだろう)、ガイドから「日本は半島を侵略した、反省し
ろ」としつこく言われて閉口したものだ。韓国政府は必要に応じて反日、
反北、反米を煽ったり冷ましたりしているように見える。品格を疑われや
しまいか。

北としては南に追いつかれ、追い抜かれただけでも動揺するが、日本を追
い越さんばかりの勢いには、「このままでは飲み込まれる」という、独裁
体制の危機感を覚えるようになったろう。韓国の足を引っ張りたい、左右
対立を煽りたい、先進国には絶対させない、滅茶苦茶にしたい、つぶれる
がいい、と小生が大将なら思うし、軍人も危機があるからこそメシが食え
るという事情もあって「韓国をやっつけましょう」と神輿を担ぎ揚げたの
ではないか。

血みどろの半島版「仁義なき戦い」が始まる。

「品格やて・・・アンタに言われとうないわい」と言われたら「そうやな
あ」と黙るしかない発狂亭“ギロチンドロップ”雀庵の病棟日記から。く、
く、苦しいがな、反省してるがな、堪忍や・・・・

【2016/12/15】木曜。*(承前)少子高齢化は他人事ではない。日本も大
いに焦るべきなのだ。小生の独身時代、1970年代は「独り暮らしはキツイ
ぜ、でも結婚して2人になればやっていけるよ」と言われていた。住まい
は一つで済むし、世帯収入も増える、無駄な出費(酒、女、博打など)も
減るからだ。やがて子供が2人になれば奥さんが専業主婦になっても、旦
那が出世するし、年功序列だから給料もそこそこ上がるから、どうにか
やっていけた。

小生の後輩、1980年代になると高度成長期のぬくもりも消えてきて、給料
は上がらず、一方で家賃、住宅が高騰し、それが無理になる。共稼ぎしな
いととてもやって行けず、結果的に一人っ子で精いっぱいという情況にな
り、それが今でも続いている。今や専業主婦は夢また夢になった(日本の
女性の多くは専業主婦に憧れている)。

その一方で、コンビニやファストフードの急増で、独身であってもそれほ
ど不自由はしない。男女とも30過ぎの未婚者はまったく珍しくないし、家
庭に拘束されるのはイヤ、好きなように生きたい、という人も増えている
ようで、生涯未婚率は年々上昇している。

小生の若い頃は「30過ぎの独身男は気持ち悪い」とさえ言われていたが、
今はそんな話は聞かない。

今の自分を見ると、結婚はハイリスク=ハイリターンで、昔のようにロマ
ンスではなくなったなあと思う。個人主義が広まり、揺り篭から墓場まで
のセイフティネットである「家制度」がなくなりつつあり、3世代同居は
遠い昔のよう。叔父さん、叔母さんまで同居するようなアジアのロングハ
ウスも消えつつあるのではないか。

少子高齢化は、やがて人類の危機になるかもしれない。

広辞林は「人」をこう説明している。「動物分類上では哺乳綱霊長目ヒト
科に位置。体制(修一:生物体の各関係と全体としての統一)の分化など
の観点からは、現在動物中、最も進化しているとは言えないが、中枢神
経、特に大脳の統合中枢の発達が著しく、言語、感情、理性の働きが優
れ、組織的な社会生活を営む。人間。人類」

脳が発達し過ぎて、動物としての生殖本能、生存本能が徐々に劣化してい
るのではないか。100年、宇宙時間では一瞬で、人類は滅亡することもあ
り得るだろう。恐竜時代は2億年も続いたが、ユカタン半島への隕石の衝
突である日、突然絶滅した。今日の延長が明日ではないかもしれない。
(つづく)2018/2/23



2018年02月23日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」 第5章

              “シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(96)】屋上にはスズメのほかにも色々来
る。シジュウカラ、ツグミ、ハトは時々来る。メジロはツガイで一度来た
だけで、種子のエサには興味がなさそう、青物、果物を主食にしているの
かもしれない。

鳥の弱点は細い足で、ボス格のハトは片足になってから姿を消した。最
近、片足になったシジュウカラはシンドそうで、屋上の隅にしゃがみこん
だりする。可哀そうだが、小生は何もできない。体を壊したら生きていけ
ないのが自然界だ。

誕生日 フェイスブックで 知る時代 うれしさ半分 不気味さ半分(修)

まるでジョージ・オーウェルの世界。ポール・ニザンを真似ればこんな心
境だ。

「僕は67歳だった、それが人生で一番いい時などとはまったく思えない。
心技体が一致することはめったになくなった。着実に、一歩一歩、衰えて
いくのを、最初は不思議に思い、やがて恐れ、そのうち受け入れ、今は観
察、鑑賞して、“なるほど、老化とはこういうものか”と新たな発見を、楽
しさ半分、諦め半分の境地で眺めている。美しい年代とはとても言えまい」

そんな感じ。レジでオタオタしたらレジ女が財布から必要な金を出してく
れたり、レジに財布を置き忘れたり、カネを落としたり・・・探すのが面
倒だから店を出たら「お客様、500円玉を落とされましたよ」とレジの女
の子が追いかけてきた。ありがとうとは言ったものの、老化はいかんとも
し難し。笑うしかない。

終活は 逃げ水のごと 果て見えず(修)

日々の雑事に追われて忙しく、遺言書予定稿にまで手が回らない。「なん
かスッキリしないのは嫌だな、まるで便秘みたい」と思うことが結構ある。

2月に入ると「ああ、今年も確定申告か、面倒くさいなあ」と毎年思って
いたが、今年は申告用紙が届かない。発狂して「自立支援受給者」になっ
たので、免税になったのだろうか、それとも税務署の作業の遅れとかなど
によるのだろうかと思案していたが、それにしても遅すぎる。

で、ネットで調べたら去年あたりから申告用紙を送らなくなったらしい。
国税庁のサイトでは e-Tax を推奨しており、そのためにはプリント不要
でも「ICカードリーダライタ」が必要で、「買いに行け」と言う。1000円
ほどで買える安いものだが、年に一度のために「何で買わなあかんのや」
という気分になる。

申告用紙はなくてもいつもの税理士に必要なことを書いてレシートなどを
添えて送ればいいだろう、今週中には終わるだろうと、まあ方向性が決
まったからスッキリはした。税務署は死の床でも徴収しに来そうだ、「納
税せんと安らかな最期にはならんで、この送信ボタンをクリックすればOK
や、最後の力出してや、男の子やろ!」、そのくらいの根性がないと財政
はもたないね。

さてさて、本題に入ろう。「続 韓国からの通信」の最後に著者の池明観
がつけた年表にはこうある。

<1974/8/29:木村(俊夫)外相(田中内閣)、参院で「北からの脅威に
ついては客観的にはないと理解している」と答弁。

同8/30:朴大統領、後宮日本大使を招き、「日韓両国の友好維持のために
は、日本を基地とした韓国に対する破壊活動が行われないよう誠意ある姿
勢を示すべきだ」と異例の警告。(在日韓国人、文世光による8/15大統領
狙撃事件についてのもの)

同8/31:韓国外務省、「木村外相の朝鮮半島に対する認識は驚くべきもの
で遺憾」と反論。

同9/2:金東サク外相、後宮日本大使を招き、朝鮮総連の名をあげて「反
韓国的な破壊活動分子の制圧」を要求する覚書を手渡した。

同9/5:木村外相、衆院で「韓国政府を朝鮮半島全体における唯一、合法
な政府との認識は持っていない」と答弁>

木村はどうせ東大出のバカだろうと思っていたら、東大→官僚→政界→佐藤
政権(内閣官房長官など)→田中政権(外相)。「自民党ハト派の代表的
存在」だと。世間ではこの手を利口バカ、間抜けと言う。

木村の不用意な発言で日本大使館は反日デモに襲撃された。その後、日韓
でやりとりがあり、決着した。

<同9/20:金鐘泌首相、特別放送を行って「椎名特使来韓で事態は一段落
した」と述べる。反日デモ収束>

このデモは「官製デモ」だったのだろうが、独裁(的)国家では官製デモ
は当たり前のようだ(中韓の得意技)。反対派のデモや騒乱も仕掛け人が
いるのだろう。踊らされる人々は少なからずいる、昨日緑で、今日海老茶
とか。

なお、同年9/12には英国の大学教授が「日本の政財界人は対韓援助のリ
ベートで莫大な財をなしている」と指摘したとある。実際はどうなのだろう。

自民党の大物、金丸信は訪朝の際に金塊を受け取ったと噂されたが、
「1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行
い、同日脱税の容疑で逮捕した。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、
(金塊を含む)数十億の不正蓄財が発覚」(WIKI)した。

<金丸は北朝鮮支持の朝鮮総連と親しく、総連の外交部門を担う国際局出
身で後に総連のトップになる許宗萬と社会党の田辺誠、自民党の野中広
務、山崎拓、加藤紘一と共に日本の政治家の中で北朝鮮と特に親しかっ
た>(同)

今はどうかは知らないが、自民党は昔から派閥抗争が激しく、派閥の領袖
は実弾=カネ集めが大きな仕事だったろう。カネがなければ派閥抗争に負
ける、負ければ総裁・総理どころか大臣にもなれない。

南であれ北であれ、多分いずこの国でもODAのような「金銭的な支援を受
けたらリベートを出す」というのが、恐らく今でも当たり前なのかもしれ
ない。日本からカネを引っ張るためには「カネ、女、名誉、好きなものを
与え」(毛沢東)て日本の政治家を篭絡するのが中韓北やアジア、後進
国、発展途上国、新興国のやり方ではなかったか。

北のダークマネーやコネクションは、総連を通じて日本の政治家、官僚、
公務員、財界、マスコミなどに少しずつ、しかし着実に浸透していったの
ではないか。

小生は知人から以下の話を聞いたことがある。

「〇〇政府の招きでアゴ・アシ(食事・航空機など交通費)付きの視察旅
行に行ったが、会議やレセプションをようやく終えてホテルへ戻ったら、
ナント美女が部屋で待っていた。翌朝、皆に聞いたらニヤニヤしていたか
ら、皆、美味しくいただき、夜の国際交流も上手くいったわけだ」

“ポマード”橋竜は中共のハニートラップに引っかかり、全部録音、録画さ
れたという噂があった。心労で早死にしたのではないか。

トランプは「ロシアによるハニートラップ」の噂があったが、民主党によ
るデマゴーグだろう、続報がない。嘘や噂で政敵を叩いたり、己の正当性
を主張したり、浮草のような庶民がアイデンティティを求めて「反日」
「容共」「南北融和」を叫んだり、勝つためには何でもありが政治のイロ
ハなのかもしれない。

難しいこと、ややしいことは分からないが、フィルターやバイアスなしの
「大バカのキチ〇イ」という単純な目で見ると、この世はかなり複雑怪奇
だ。個人の脳のOSやメモリーがどうなっているのか、ウィルスに感染して
いないか、などなどは顕微鏡やMRI、CTでは物理的な故障は見えるだろう
が、ソフト部分は分かりにくいだろう。いつか分かる時がくるのかもしれ
ないが、それがいいのかどうか・・・この世は分からないことばかりだ。

自信を取り戻したり喪失したり、寄せては返す波の音、発狂亭“ブリ
ティッシュフォール”雀庵の病棟日記から。

【2016/12/15】木曜。*産経、石平氏の論稿によると、支那では生涯結婚
できない「余剰男」が3400万人おり、嫁さん不足が深刻化している。「一
人っ子」政策で、女子の胎児の中絶が盛んに行われたためで、あぶれた男
は国外に嫁さんを求めるべしという声が高まっているとか。

今や「結婚=嫁を買う」で、年収の10倍あたりの200万円ほどが相場らしい。

「一人っ子」政策の是非は研究したことはないが、無理やりでも制限しな
ければ中共の人口は今頃は20億人になっていたろう。漢族の繁殖力はすさ
まじいが、この政策導入GDPの80%は農業であり、昔の日本と同様、子供
も重要な労働力だったから当時は「産めよ殖やせよ」だったろう。

しかし、人口ボーナスは重工業成長のための労働力供給源にはなったが、
中共独裁政権では人民に「自由民主は与えないが、その代わりにメシは保
証する」が建前、原則、お約束だ。この30年間ほどの高度成長で「とにも
かくにも飢えはなくした」が、14億人でさえこのレベルなのだから、20億
人のメシを用意することはまったく無理で、「一人っ子」政策を強行しな
かったら暴動多発で中共独裁はとっくになくなっていたろう。

中共は日本以上に急速に少子高齢化が進んでおり、労働人口減の人口オー
ナスが深刻になっている。このため「一人っ子」政策を緩和しつつある
が、一人っ子でさえ立身出世させるために家族、一族はヒーヒー言ってお
り、二人目ウェルカムとはなかなかならないだろう。

となると余剰男にアジア後進国から嫁さんを調達してきてもらい、子供を
産ませるしかない。しかし、嫁さんは売り手市場だし、結納金も上昇、出
会い・斡旋業者への支払い、そしてマンションを用意しなければ食いつい
ては来ないだろう。

まさか、農村の粗末な家、パパママ、さらにヂヂババの4人付き余剰男に
嫁ぐアジア娘はいるのだろうか、貰うものを得たら失踪するような確信
犯、詐欺師が多いのではないか。小生が気の利いたアジア娘ならシンガ
ポールや香港でメイドをするがなあ・・・美形なら外国人技能実習生とし
て訪日し、ソープで股軍奮闘、2、3年で3000万円貯めて(昔からお娼妓さ
んの年収はサラリーマンの10倍)故郷に錦を飾るが・・・(つづ
く)2018/2/21

◆あの女子の勝利はTeam effort の輝かしき成果だ

                  前田 正晶


実は21日は好ましくないことで甚だ多忙だった。朝起きたところS医師が
命名された
「80肩」が痛烈に痛んで右肩が上がらず、電気シェーバーを顔の高さまで
上がって来
なくなっていた。問題は他にもあって、それ以下の高さでは別段支障なく
動くわけで
もなく、後ろに上でを回すことも不自由になってきた。それに何故か両足
が筋肉痛を
起こしていて歩き辛くもなっていた。



そこで何とかせねばと、先ず8時40分に出発して寒い中を徒歩約10分のは
ずのSクリ
ニックに向かった。到着して9時5分前の一番乗り。これは珍しい現象で、
この大繁盛
のクリニックでは8時半に行っても先客がずらりということが屡々あるの
だ。実は痛
み止めを飲めば暫くして解消することは解っていたが、兎に角診て頂いた
上でのこと
にしようと考えていた。



診察の結果では特に異常はなく、肩に直接ではなく「これで収まる」と上
腕部の筋肉
に注射をして頂き、食後に痛み止めを飲むこととジムに行って体を温め入
浴すること
は結構であると言われて、また徒歩で高田馬場駅前のジムに向かい9時半
に到着。だ
が、軽い運動をして10時40分に入浴して暖まった後でも軽くならないの
で、一刻も早
く出して戴いた痛み止めを服用すべく家内と共に近くの外食へ。



12時20分頃に目出度く食後に痛み止めの服用を終わって帰宅すれば、13時
10分過ぎに
は注射の効果も加わったのだろう、右手が上がるようにまで回復。そこか
らは暫く休
養して平昌オリンピック観戦に備えた。21日の期待は女子の「団体パー
シュート」と
表示されている Team pursuitで日本代表の優勝するところを見る点に
あった。



実際には、これと女子のカーリングが準決勝から決勝戦となるトーナメン
トに勝ち上
がれるかどうかの分かれ目となった対スイス戦とかち合っていたことだっ
た。だが、
幸いにも対オランダとの決勝戦にチャンネルを上手く合わせることが出来
た。実は、
私はここでも閃きではなく、理論的に考えても、あの段階まで鍛え上げら
れてきた日
本代表が勝つのは当然だと考えていた。



現に日テレのアナウンサーも何度か言及していた通りで、オランダは個人
の優れた実
力に加えて身体能力に賭けたテイ―ム編成であったのに対して、我が方は
十分以上の
練習量と選手間の意思の疎通を完全に図る得るまでの段階に、テイ―ムと
して完璧に
まとめ上げられていると聞かされた。また、3人が一列となって巧みに華
麗に風圧を
避けてスピードを上げる走法を見せられていたので、先ず優勝は動くまい
と期待する
に至って次第。



そして、結果はその期待通りとなったのだが、私は大方の見方では「あの
偉大なる勝
利はカタカナ語化された『チームワーク』の賜物か結晶である」と言いた
いだろうと
思う。私が屡々「生涯最高の上司」と形容してきた副社長兼事業本部長は
team work
という言葉を嫌って「我が事業部で全員が心を一つに纏まって事に当た
る」場合に
team effortを使うのだった。



私は女子のあのテイ―ムは、見事なまでに「テイ―ムとして努力してきた賜
物」が、
あのオリンピック記録まで生んだ優勝になったと解釈して静かに感動して
いた。



これで、羽生君の優勝も見たし、小平奈緒さんのウオーミングアップ用の
ゴーグルを
掛けたままの優勝の場面にも会えていたところに加えて、昨夜のteam
pursuitの
team effortによる制覇も見ることが出来たので、全ゴールドメダル獲得
の試合を見
ることが出来たのは幸運だったと思う。



なお、英語の講釈も加えておきたい。アメリカでは「パーシュート」ではなく
pursuitは「パスート」と発音する人が多く、アクセントは「スート」に
置かれてい
る。即ち、「パーシュート」との表記は、UKの方の発音に基づいているよ
うだ。尤
も、産経は「団体追い抜き」を使っているが。



裏番組?だった対スイスのカーリングの試合は閃きでは「オリンピック
ピックでは不
振だったが世界のランクが上のスイスが勝ってしまう」となっていた。事
実、LS北見
は「ここで勝てれば勝ち抜け」と解っていたので過度に緊張したのか失投
(失石?)
が多かったようで、中盤の1回での4失点で諦めた。だが、勝ち上がれるか
の対象だっ
たアメリカが負けて目出度く決勝トーナメントに上がって行けた。これも
「良くやっ
た」と褒め称えてあげたい立派な成績だと思う。



だが、その準決勝の相手が8勝1敗と1位で上がってきた韓国であるのは、
今からもう
気が重いのだ。「これにもし負けても3位決定戦で一度勝っているスエー
デンに当た
れれば良い」などと選手たちは考えていないだろうな。

2018年02月22日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」 第4章

                    “シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(95)】「頂門」2/17、馬場伯明氏の「ふる
さとの子供らへ講話」はショックだった。小生の人生は泥の河のクチボソ
だが、氏は清流のアユのようだ。下品と上品、下層と上層、下水と上水、
汚泥と鹿沼土、ヤクザと堅気、スラムと芦屋、陋巷の娼婦とタカラジェン
ヌ・・・なんという大きな差だろう。

今さら人生をやり直せやしない、ならば居直るしかない、汚泥にも蓮は咲
くかもしれない。神様、仏様、稲尾様、どうかシットホール、stupid
asshole、池田教からも拒絶された憐れなアホのわてをお導きください。

余計な話やが、南無妙法蓮華経ってサンスクリット語を直訳すれば「蓮の
花のように素晴らしい教えに帰依します」やで、これだけを何百回繰り返
したところで意味あるんかい。うるさいだけや、わては池田教の人民葬に
はこりごりや、「お前らええ加減にせんかい、静かに見送ってやれや!」
と怒鳴りつけたくなるわ。

「隣室の人に迷惑をかけないように読経は静かにしましょう」「手を抜か
ないで仕事はちゃんとやりましょう」と池田教はお寺さんから破門された
ころから社会の初歩的マナー、初めの一歩を教えているそうやが、「サン
スクリット語の原典を学びましょう」くらいは教えてもええんやないか。

昔、そういう「原典回帰」の話があったんやが、仏教界は猛反対というか
完全に無視したみたいや、「お経はチンプンカンプンのおまじないやから
有難いんやで、余計なこと言わんといて」。

そう言えば2月16日は日蓮上人の誕生日やった。3年後には降誕800年にな
る。ビジネスチャンスやで。池上本門寺は全国からそろいの法被を着た門
徒で大賑わいになる。パレードはすごい迫力や、ほとんど戦闘集団、ゾク
ゾクするで、一見の価値ありや。

上人は「日本一の智者となしたまへ」と祈願され、小生は「日本一の痴者
になるんや」と躁状態。

♪そりゃわいはキチ〇イや チョコも食べるし スズメも鳴かす せやか
て それもこれも みんな芸のためや 今にみてみい! わいは日本一に
なったるんや 日本一や、最高齢で芥川賞やで わかってるやろ グリコ

なんやそのしんき臭い顔は チョコや!チョコや!チョコ買うい!・・・

でな、わては小学校で受賞記念講演するんや、予定稿はもう用意してるで。

<オゥッス! わしは高校で応援団やったさかい、オゥッス!が挨拶なん
や、オゥッス・・・そうや、ええ声や・・・オーーッス!はな、田端義
夫っちゅう人気歌手の挨拶やった。田端義夫知ってる子おるか・・・1人
だけか・・・なんで知っとんねん・・・そうか、おばあちゃんがカラオケ
で歌っているか・・・「かえり船」、ええ歌やで。オーーッス!

♪波の背の背に ゆられてゆれて 月の潮路の かえり船 霞む故国よ 
小島の沖に 夢もわびしく よみがえる

敗戦直後の昭和21年から、国破れて山河在り、焦土の日本に外地の兵隊さ
んが帰ってきた、ソ連に抑留されて奴隷労働を強いられた兵隊さんもおっ
てな、5年後、10年後にようやく帰ってきた人もおる。10人に1人はソ連で
命を落とした。零下何十度という極寒のなかで、まともな食事も治療もな
く、故国を思いながら死んでいったんや。

「かえり船」は、そういった人たちへの鎮魂の歌でもあるんや。命懸けで
日本のために戦った人たち、先輩がおるから今の日本があるんやで。「後
に続く者を信ずる」と言い残しているんや。いざとなればな、命を懸ける
のが日本人や、日本精神、大和心や。ワルに殴られている親友を見捨てた
卑怯者のコペル君になったらあかんで。

戦争で亡くなった兵隊さんは靖国神社に祀られておる。君たちも一度はお
参りに行ってみ、「おお元気な子やなあ」と兵隊さんも喜んでくれるで。

「いご」っちゅう言葉がある(伊吾、ともに口偏)。「本を読む声」とい
う意味や。国語の授業ではな、読書は伊吾が大事なんや、読み方次第で本
のなかの感動を伝えることもできるし、読み方、話し方、アクセントも覚
える、何より友達と感動を共にすることができる。

人の一生でな、読める本はせいぜい3000冊や。街の図書館には30万冊ある
んやが、全部は読めん。ただ、読む価値ある本は100冊に1冊や、つまり
3000冊や。何を読むか、それは何でもかんでもとりあえず読んでみるっ
ちゅう「乱読」で、自分のためになる、肥やしになる分野を探すことや。
これ、結構しんどいがな、やってみる価値はあるんや。

少年老い易く学成り難し、シコシコでええ、毎日半歩でも1センチでも前
に進むことや。それが勉強、学問や。それがいい人生になるかどうかは分
からんが、「分からん」と知ることが次の勉強に繋がっていく。死ぬまで
勉強やで。ちゃんと勉強せんで遊んでおるとな、わしみたいなドアホ、ク
ズ一歩手前になったりするんや。

15分の予定が長くなってしもうた、カーテンの陰から先生が「時間です
よ」て合図しておるが・・・ずいぶん別嬪さんやな、なんていう名前や
ろ・・・そうか、アヤコ先生か・・・帰りにデートに誘ってみよ。終わり
にします、みんなも元気でな、オゥッス!・・・うん、みんな上手くなっ
たな>

さて、北による日本人拉致事件は1977年から1983年までがピークだったよ
うだが、その背景には何があったのか。小生の本棚を探してみたが、朝鮮
関係の本は前回触れた「韓国からの通信」しかも続編しかなかった(中核
派やブントの機関紙などの論考は多いが、クチパクの主張ばかりで発見が
ない)。特に北の事情を伝える本、論考は皆無だった。北は建国以来厚い
ベールに覆われており、それは今も変わらない。

WIKIの論考をいろいろチェックしたが、以下のものが要領よくまとめてお
り、それでも長いので申し訳ないもののザックリと目を通してもらえば韓
国、北、日本の「その時」が分かると思う。長くて心苦しいがコピペする
(できるだけカットしたが、それでも長い。長くていいのは健康長寿だけ
か)。

<◆5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)

1960年4月に大韓民国初代大統領、李承晩が四月革命によって失脚した
後、学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、1961年5月
16日に朴正煕少将は張都暎中将を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗
り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。

反共産主義、親米政策、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由と
した。

当時、朴正煕は、韓国陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推さ
れてクーデターのリーダーになった。その中心人物が金鍾泌だった。軍隊
そのものの規模に比して、クーデターに動員された人員は必ずしも多くは
なく、成功も覚束ぬ筈であった。

朴正煕率いるクーデター部隊が1961年5月16日に国営放送局(KBS)を占拠
した際、朴と共に決起した兵士は全軍のうち3600人に過ぎなかった。既に
1960年の四月革命の直後、朴は軍内人事の一新を求め、陸軍参謀総長に対
して辞任を要求していたが(「清軍運動」)、四月革命後に発足した第二
共和国で8月23日に首相に就任した張勉政権下では、朴や朴を支持する韓
国陸士8期生の求める軍内人事の変更がなされる様子がなかったために、
1960年9月10日の「忠武荘決議」で朴は将来の軍事クーデターを決定した。

また、陸軍士官学校11期生の全斗煥は朴による軍事クーデターを支持し、
全斗煥の呼び掛けによって士官学校生徒達がクーデター支持行進を行っ
た。11期生には後に大統領になる全斗煥、盧泰愚らが含まれており、朴が
嶺南(慶尚道)出身であったこともあり、同郷の全斗煥は「ハナフェ」
(一心会)を結成し、尹必繧站熄゚泌、朴鐘圭ら他の嶺南出身者との軍内
政争の中で「嶺南軍閥」を築き上げた。これら軍人たちには地方の貧困層
出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。

クーデター・グループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布い
た。金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張
勉政権の閣僚を逮捕した。

当時アメリカのケネディ政権は1961年4月のプラヤ・ヒロン侵攻事件の失
敗により、キューバ革命後に構築されつつあったカストロ体制の打倒に失
敗したためにその後始末に忙殺されており、アメリカ国内で張勉政権を支
持する反クーデター派をクーデター支持の中央情報局(CIA)が制した結
果、アメリカは朴によるクーデター政権を認めるに至った。

軍が突然に政治の舞台に踊り出たことは多くの人々を驚かせた。軍は朝鮮
の政治史において例を見ない巨大勢力だった。政権を奪取した朴は「国家
再建最高会議」議長に就任し、治安維持と経済改善のためとして「国家再
建非常措置法」を施行した。

1961年6月10日には秘密諜報機関・大韓民国中央情報部 (KCIA) を発足さ
せ、初代部長には金鍾泌が就任した。7月3日にはクーデター当時に議長に
立てた張都暎中将を失脚させ、軍事政権のトップに立った。これらの権力
奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。

この軍事政権に抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、朴はKCIAを用
いて押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を
目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われる
ようになる。

朴は政権奪取後、日韓国交正常化に意欲を見せ、1961年10月から11月にか
けて日本側の大平正芳外務大臣と金鍾泌KCIA長官の交渉の結果、「金・大
平メモ」が作成され、日本による植民地支配への賠償請求権を「無償3億
ドル、有償2億ドル、民間協力資金1億ドル以上」の内容で合意した。

朴はこの賠償請求によって大韓民国経済を立て直そうと考えていたが、
「金・大平メモ」の合意額は李承晩政権期の対日賠償請求額であった20億
ドルや、第二共和国期の38億5000万ドルに比べて少なかったために大韓民
国国内の世論の反発を招いた。

◆「日韓基本条約」締結、国交正常化に(1965年)

その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとな
り、アメリカ大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従
い、大将に昇進した。訪米の往路、日本に立ち寄り、11月12日に池田勇人
首相と会談、日韓両国の早急なる国交正常化で合意した。この時に一部日
本語を使って会談したため、大韓民国国内の反日勢力から批判を買うこと
となった。訪米では民主党のケネディ大統領との会談を実現した。

1962年12月17日に「第三共和国憲法」が国民投票によって承認され、大統
領任期を2期までに定めた第三共和国が成立した。1963年に軍事政権であ
る国家再建最高会議が、民政に復帰した。朴は8月に軍を退役して民主共
和党から1963年大韓民国大統領選挙に立候補し、民政党の尹潽善前大統領
を約15万票差で破って自ら第5代大韓民国大統領の座に就いた。

第5代大統領就任後、1964年1月10日の「年頭教書演説」にて自由主義陣営
の結束を求めるアメリカの意向を念頭に、朴は日韓関係の改善を訴えた。
これに対し、1964年4月に高麗大学の李明博学生会長が日韓国交正常化反
対デモを指導したため、朴政権は1964年6月3日に学生運動に対して戒厳令
を発し、李明博を含む学生運動指導者らを逮捕した。

このような国内の反対を抑えつつ、1965年6月22日には、佐藤栄作総理大
臣との間で「日韓基本条約」を調印し、8月14日に与党民主共和党単独参
加の国会でこの日韓基本条約を批准した。

日韓基本条約は日本統治時代を清算するものでなく、わずかばかりの金で
国を売るものであるとして、韓国国内では広範な反対運動が発生した。民
主化活動家の大学生や市民、「平和線」(李承晩ライン)の堅持を求める
野党民政党の金泳三議員たちは「汎国民闘争委員会」を結成し、大韓民国
国内で「屈辱外交」への激しい抵抗が繰り広げられる中、日本との条約締
結が強行され、日韓国交正常化は実現した。

また日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとし
て反対運動が起こり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されてい
た。同年12月18日には在日朝鮮人の存在を、帰国の受け入れを拒否した李
承晩政権の責任とし、戦後に日本へ不法入国した場合や朝鮮総連などの日
本で共産主義活動に加担した場合も赦すとして韓国への帰国を促す談話を
発表した。

その後、ケネディ大統領暗殺事件後に副大統領から大統領に昇格した民主
党のジョンソン政権の要請に応じて1964年に大韓民国国軍のベトナム戦争
への派兵を決定した。

大韓民国のベトナム派兵に際しては、南ベトナム軍以外ではアメリカ軍に
次ぐ約5万人の大韓民国国軍将兵を南ベトナムに派遣し、南ベトナム解放
民族戦線(ベトコン)との戦いに従事させたが、アメリカ軍と南ベトナム
軍の北ベトナムへの敗色が濃厚となるに従い、韓国の民族主義的な立場か
らアメリカから離れていった。

4年の任期満了に伴い、1967年大韓民国大統領選挙では与党の民主共和党
から立候補し、新民党から立候補した尹潽善を再び破り、第6代大韓民国
大統領に就任した。

◆北のテロで暗殺の危機(1968年)も経済は発展軌道へ

1968年1月21日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が「対南工作」で
派遣した朝鮮人民軍のゲリラ部隊に青瓦台の大統領官邸を襲撃され、暗殺
されかけている(青瓦台襲撃未遂事件)。この暗殺未遂事件への報復のた
めに朴大統領は「北派工作員」として北朝鮮の金日成首相暗殺のために空
軍2325戦隊209派遣隊(684部隊)を創設したが、1971年8月23日に684部隊
は処遇を巡って反乱を起こしている(実尾島事件)。

この間、経済政策では日本を模範とした経済政策を布いた。「開発独裁」
と言われる朴の経済政策は、ソビエト連邦の計画経済をモデルにしてい
る。例えば、1962年から始まった数次にわたる5カ年計画計画方式がそれ
である。また、朴の経済開発手法が、実際に見聞した満州国の経済からヒ
ントを得ているとする分析がある。それまでの輸入代替工業化政策を大胆
に輸出型重工業化による経済離陸政策に切り替える柔軟性を見せた。

国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財
閥や国策企業を通じて、ベトナム戦争により得たカネとモノを重工業に重
点的に投入した。これによって建設された代表的施設に、八幡製鐵所をモ
デルとした浦項製鉄所がある。また、「日本の経済急成長の秘密は石油化
学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。

西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けた
ことに始まり、1965年の日韓基本条約の締結により得た資金を不足してい
たインフラの整備に充てたことや、ベトナム参戦による特需などが「漢江
の奇跡」と呼ばれる大韓民国の高度経済成長に繋がっていく。(修一:朴
は海外派遣の看護婦と手を取り合って韓国の貧しさを泣いたという逸話が
ある)

特に日韓基本条約に基づいて1966年から1975年2月までの間に日本から支
払われた5億ドルの「対日請求権資金」は浦項総合製鉄工場、昭陽江多目
的ダムの建設など韓国の第二次五カ年計画の実現に際し、「韓国の国民経
済の向上発展に少なからざる寄与をしたといえる」と1976年に韓国政府に
よって発表された『対日請求権白書』に記された。また、韓国科学技術院
を創設するなど韓国の科学技術政策を確立した。

また、1970年代初頭より「セマウル運動」なる農村振興運動を開始し、
1976年の農村電化率は91%に達した。

1969年に自らの大統領三選を可能とするために三選改憲を実施した後、
1971年大統領選挙では新民党の金大中を破って思惑通り三選を果たし、第
7代大韓民国大統領に就任したが、4月27日の大統領選挙は辛勝だった上
に、直後の1971年5月25日に実施された国会総選挙で野党が躍進し、与党
が議会の2/3以上を占めることができなかったため、朴の大統領四選は不
可能となった。

他方、ベトナム戦争の行き詰まりの中、アメリカのニクソン大統領は1970
年3月26日に在韓米軍の削減を大韓民国に伝え、翌1971年にはアメリカと
北ベトナムとの秘密交渉が進み、さらにニクソン大統領訪中計画が発表さ
れた。このような冷戦のデタントの最中、1970年8月15日の演説で南北朝
鮮の平和共存を提案している。

◆内憂外患、不安定な時代に

第8代総選挙による野党躍進により朴の大統領四選不可能が決定したこと
は朴大統領の権力基盤を揺らがせ、国内での反体制学生運動が加速、危機
感を覚えた朴は1971年12月6日に「北朝鮮の脅威」を口実に国家非常事態
宣言を発するなど独裁色を強めた。

既に1971年2月6日に発表された米韓共同声明に従って在韓米軍の第7歩兵
師団は撤退されており、北朝鮮の脅威に対話で臨んだ朴大統領は1972年7
月4日に北朝鮮の金日成首相と共に南北共同声明を発表した。

しかし、南北共同声明発表後も朴大統領の内憂外患への疑念は収まらず、
1972年10月17日には非常戒厳令を宣布し(十月維新)、大統領の任期を6
年に延長するなどの憲法改正を行って維新憲法を制定、第四共和国に移行
した。

1972年10月の維新クーデター後、政治的なスローガンとして「維新体制」
を標榜した。「維新体制」の下で権力基盤を強化した朴は自らを脅かす者
に対しては、政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持
し続けていた。

政敵・金大中に対しては、東京のホテルグランドパレスに滞在していた
1973年8月8日にKCIAによる「金大中拉致事件」を引き起こし、日本の保守
勢力は日本国に対する主権侵害だと朴政権を批判した。金大中拉致事件に
よって悪化した日韓関係は朴大統領と田中角栄総理の間の政治的決着に
よって決着したが、日本のマスメディアはその後の金大中収監に対して朴
政権批判を重ね、朴の「維新体制」はこの金大中拉致事件によって国際的
に孤立し始めた。

なお、この金大中拉致事件に際し、北朝鮮は朝鮮統一問題の北側からの対
話中断の意志を韓国に伝えている。

1974年8月15日、日本統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行
儀に参加した際、在日韓国人・文世光に銃撃され、朴自身は無事だったも
のの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。

この際に用いられた拳銃が、文世光が日本の警察官を襲撃し強奪したもの
であったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を、自由民主党の一
部や日本社会党などから圧力を受けた日本政府及び警察側が擁護し続けた
こともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。

またこの事件は日本のマスメディアによる金大中拉致事件批判によって悪
化していた韓国の世論を更に対日強硬的なものとし、在韓日本大使館にて
韓国人群衆によって日章旗が焼き払われるなど、日韓関係をより悪化させ
ることになった。

金大中拉致事件のみならず、国家保安法や反共法などの法令による反政府
勢力に対する強権的な弾圧は「維新体制」期には苛烈を極めた。共産主義
者ないし「北朝鮮のスパイ」摘発に名を借りた不法な拷問・冤罪事件は枚
挙に暇がない。そのうちKCIAによる1975年11月22日の「学園浸透スパイ団
事件」は日本でも大きく報道された。

国内でのマスメディアへの言論弾圧も自由主義国家としては極めて異例な
ほどに行われ、映画の台詞ひとつまで国の検閲が及び、海外の新聞、特に
朴政権に批判的であった日本の『朝日新聞』『読売新聞』などは韓国への
輸入が禁じられるほどであった。

国防政策では、北朝鮮と軍事同盟の中朝友好協力相互援助条約を結んでい
た中共の核兵器開発(修一:1964年10月の東京五輪閉会式の24日に大会不
参加の中共が初の核実験。アカの岩波社員は万歳して喜んだ)に対抗し
て、密かに核兵器・ミサイル開発に着手し、韓国の核武装を望まないアメ
リカと衝突した後に中止するなど、ベトナム戦争派兵で緊密となった米韓
関係を損ないつつも、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに
基づく独自の自主国防計画を推進した。

さらに1976年には在米韓国人ロビイスト朴東宣がアメリカ下院議員を買収
しようとした「コリアゲート事件」が発覚し、朴が構想していた韓国の核
武装構想と共に、既に悪化していた日韓関係のみならず、米韓関係をも悪
化させた。

1976年10月のコリアゲート事件発覚によって悪化していた米韓関係は、
1977年に大統領に就任した民主党のカーターが「人権外交」の見地から同
年5月3日に韓国、ローデシア、ブラジルの三国を名指しで批判したことに
より更に悪化し、カーター政権時代には在韓米軍撤退も取り沙汰されるよ
うになった。

このような米韓関係の悪化の中で、アメリカの圧力により、朴大統領は核
兵器開発を一度断念したが、その後も自主国防のために1978年まで核武装
を構想していた。また、水面下では当時の米中接近や日中国交正常化に影
響され、三菱商事の当時の藤野忠次郎社長の後押しで中共の新たな指導者
となったトウ小平と経済協力を名目に接触し、暗殺直前まで中韓のホット
ライン開設も交渉していた。

◆側近によるまさかの朴正煕暗殺事件(1979年)

朴大統領は釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こって
いた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26
事件)。享年61。暗殺後、国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬
られている。なお、朴は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

朴暗殺事件後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化の雰囲気が大韓民国に充
満したが、翌1980年5月17日の全斗煥将軍による「5・17非常戒厳令拡大措
置」とその直後の「5.18光州民主化運動」(光州事件)を経て、大韓民国
は再び軍人出身の全斗煥による第五共和国に突入した>(以上)

「北による日本人拉致事件は1977年から1983年までがピークだったよう
だ」と先述したが、朴政権が大きく動揺し始めた1976年あたりから北は
「チャンス到来」と武力統一作戦を具体化していったのではないか。

金日成の長男、金正日は1974年2月の労働党第5期中央委員会において、政
治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、金日成の後継者として「推
戴」された

小生が金親子なら「南は左右対立でフラフラしている、リベラルのカー
ターの米国は動くまい、日本は米国追従のヘタレだ、米韓日とも何もでき
まい、我々には中露の支援もある。ベトナムでは1975年にはベトコンがサ
イゴンを落とし、米軍とその傀儡は尻尾を巻いて逃げた。今の半島情勢は
我らにとって千載一遇のチャンスだ、朴とその取り巻を斬首し、テロを準
備、実行しろ、溺れた犬をさらに打て」と決断する。

経済で完全に韓国に追い抜かれた北は、南を武力で強奪する意欲を高めた
ろう。日本人に成りすませば世界中を自由に行き来できるから工作、作戦
にはおおいに有効だ。

「送還事業でわが国に来た在日はクズだ、本物の、新品の日本人を連れて
きて、スパイの教育係にすべし。ばれる? 脳天気の平和ボケのチョッパ
リは何もしないだろうよ。総連を通じてカネ、女、名誉で懐柔してきたか
らノープロブレム。社会党、日共、公明党、自民党、高級官僚、教師、教
授、労組、マスコミ・・・奴らは平壌と北京、ソ連、北ベトナム、キュー
バが大好きだ。アカとかピンクのパープリンばかり、我々の手駒だ、バカ
な奴らだが、我らにとっては役に立つはずだ」

小生ならそう思う。そう判断してまず間違いはないだろう。

グリコのオマケみたいな発狂亭“ベアハッグ ”雀庵の病棟日記から。あー
ん、そんなに強く抱かんといてえな、うち壊れそうや・・・

【2016/12/14】水曜。*産経「正論」櫻田淳の論考から。

<2016年の国際政治の様相は後年、各国における「ナショナリスト」気運
の隆盛や「極右」政治勢力の台頭をもって語られるであろう。ただし、そ
の様相は、正確には「自らの利益を近視眼的、刹那的に追及する流儀」の
蔓延と呼ぶべきものだろう。

このような流儀が米国や西欧諸国にも広がろうとしている事実にこそ、当
代世界における危険の一つがある>

リベラル≒アカモドキは「ナショナリズム=極右=悪」という認識が初期
設定だが、明治維新で討幕派は尊皇攘夷、王政復古を掲げ、ゴリゴリの過
激派右翼だった。一方の佐幕派は公武合体、開国(半ば強制されたとは言
え)というリベラルではなかったか。

米国独立戦争は、英国植民地から独立して「普通の国」を目指す過激派ナ
ショナリズムと、立憲君主制と植民地の維持を主張する保守勢力の戦いで
あった。明治維新の頃に米国で起きた「市民戦争」(南北戦争)も、奴隷
労働を維持して農業を発展させたい保守派の南部と、奴隷を土地から解放
して労働力を工業化に使いたい改革派の東部との戦いだった。

保守だろうが革新だろうが、近眼だろうが老眼だろうが、いずれも「世界
の時流、発展を求める」人類の歴史の流れに乗った方が勝った。近代資本
主義国家の先頭グループは基本的に自由、民主、人権、法治を基軸に、選
挙という「血を流さない内乱」で「万機公論に決す」ようにしている。選
挙に負けた方は臥薪嘗胆、次の選挙に向けて努力する。

これが先進国のルールで、ナショナリストはダメだという櫻田の歴史認識
はリベラルに偏向し過ぎている。色付きメガネで見ていてはリアルは見え
ないぜ。

*日赤とは日本赤軍の略なのか。彼らはお人好しの国民から募金し、北の
金北豚に「どうぞ核開発を成功させてね」と1000万円をプレゼントした。
日赤に自己チェック機能はない、国連同様にアカが相当入り込んでいる。
「寄付と言われたらサギ」と疑ってかかる方がいい。

自称リベラル勢力は「人道」の余計なお世話でいたずらに戦争という「血
を流す外交、交渉」を長引かせている。明治維新で英が朝廷、仏が幕府に
ついて支援したら5年10年の長期戦になり、今の日本はなかったろう。世
界は植民地だらけになっていたろう。「赤ずきんちゃんに気をつけて!」
「気をつけよう、甘い言葉と赤い道」。

櫻田先生、「当代世界における危険の一つ」はアンタのようなリベラル、
利口バカだぜ。(つづく)2018/2/19

◆英語の表現のややこしさ

前田 正晶

英語の表現のややこしさを感じさせたトランプ大統領の“They have
gotten away with murder.”

これは最近にトランプ大統領が中国、我が国、韓国がアメリカとの貿易で
巨額な赤字を生み出させていると非難した台詞の中で使われた表現であ
る。例によって英語の知識が不十分なマスコミが誤訳し、読売新聞もその
うちだったそうだ。

正直なところ、私はこの発言を聞いていなかったので、松村隆彦氏のご投
稿が私宛の質になっていたので知り得た次第だ。私は松村氏のご質問に感
謝したい思いである。(先ほど実際の音声も聞けたが)

これは”殺人をして逃げ回っている“という意味ではない。私も良く利用さ
せて頂いているネット上のWeblioによれば「好き勝手をしながら罪を免れ
る」となっているし、松村氏の投稿にも「この日本語訳について経済アナ
リストの青木文鷹氏は、「『get away with murder=好き勝手にる』って
慣用表現で“殺人”は全く関係ない」と指摘。「殺人」と直訳するのは誤訳
で、今回の発言は「好き放題している」と訳すのが正しいと説明してい
る。“と述べられている。

私はこの to get way with murder を慣用句か口語的表現の何れに分類す
べきか確かではないが、日常的にアメリカ人の間で使われる表現には「元
の単語の意味とはかけ離れた意味になる熟語が非常に多い」と知るべきだ。

かかる表現を英和辞書で引いても仲々出てこないと思う。そういうことを
調べたければ、上記のWeblioか「英辞郎」等が頼りになると思う。言いた
いことは「単語」か「単語帳」に依存した知識での対応が無理があるとい
う学校教育の英語への批判である。

英語の厄介な点はこれら以外に屡々「汚い言葉(=swearword)」と混同
されている「俗語(=slang)」があることだ。これは決して汚い言葉で
はなく、支配階層の人たちでも使う「(ある特定業界の)隠語」や「符
牒」のことである。

少しだけ思いついた例を挙げておくと buck=ドル、booze=酒、cabby,
cabbie=タクシーの運転手、cop=警官、It’s aheadquarter’sbaby.=
「それ本社の仕事だ」に使われている babyという辺りである。因みに、
babyはある翻訳本にあった誤訳である。

慣用句=idiomatic expressions という熟語の厄介なところは「この表現
の中では元の単語の意味とは全く異なったことを表すようになっているこ
と」であり、そういう意味では to get away with murder は慣用句だと
言っても良いかと思う。

他の例を試しに挙げてみれば、to burn one’s bridge=「退路を断つ」、
Let’s get theshow on the road.=「さー、出掛けようぜ」、It’s a
piece of cake.=「朝飯前」か「そんなことは簡単だ」等辺りだが、未だ
未だ思い浮かばない例が沢山ある。

この点では、博学多識の国文学者のKS氏が<しかし、英語を勉強していて
つくづく感じるのは、単語より熟語がむずかしい、ということです。この
あいだも、Just myhumble opinion という表現に遭遇。調べてみたとこ
ろ、「私見にすぎませんが」という意味だとわかりました。>と回顧して
おられたが、KS氏が言わんとされている点は聞き慣れない「慣用句」の難
しさであると思う。

私はこう言うことをチャンと教えていない学校教育の英語にも問題がある
と思うが、それよりも重要なことは「アメリカの支配階層の間で日常的に
使われている英語にまともに触れる機会がない事には、どれが格調高く品
位がある英語で、どれが真似てはならないトランプ大統領の支持層以下で
使われている格調低き模範にならない英語かを知り得ない」とぃう辺りに
あると思う。ある一定以下の階層に行けば禁忌の「汚い言葉」の連発に
なってしまうとしるべきなのだ。

だから、私は学校教育の英語の改革も必要だろうが、何処の国から来たの
か、何処の馬の骨かも知り得ないような native speakerから英語を教え
られるべきではないと主張するのだ。

外国人には「我々が何が解り難くで苦しんでいるか」は解るわ訳がないと
思う方が無難だ。だから、トランプ大統領は我が国に向けて They’ve
gotten with murder.などと言われたのではないのか。

2018年02月21日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」第4章

“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(95)】「頂門」2/17、馬場伯明氏の「ふる
さとの子供らへ講話」はショックだった。小生の人生は泥の河のクチボソ
だが、氏は清流のアユのようだ。下品と上品、下層と上層、下水と上水、
汚泥と鹿沼土、ヤクザと堅気、スラムと芦屋、陋巷の娼婦とタカラジェン
ヌ・・・なんという大きな差だろう。

今さら人生をやり直せやしない、ならば居直るしかない、汚泥にも蓮は咲
くかもしれない。神様、仏様、稲尾様、どうかシットホール、stupid
asshole、池田教からも拒絶された憐れなアホのわてをお導きください。

余計な話やが、南無妙法蓮華経ってサンスクリット語を直訳すれば「蓮の
花のように素晴らしい教えに帰依します」やで、これだけを何百回繰り返
したところで意味あるんかい。うるさいだけや、わては池田教の人民葬に
はこりごりや、「お前らええ加減にせんかい、静かに見送ってやれや!」
と怒鳴りつけたくなるわ。

「隣室の人に迷惑をかけないように読経は静かにしましょう」「手を抜か
ないで仕事はちゃんとやりましょう」と池田教はお寺さんから破門された
ころから社会の初歩的マナー、初めの一歩を教えているそうやが、「サン
スクリット語の原典を学びましょう」くらいは教えてもええんやないか。
昔、そういう「原典回帰」の話があったんやが、仏教界は猛反対というか
完全に無視したみたいや、「お経はチンプンカンプンのおまじないやから
有難いんやで、余計なこと言わんといて」。

そう言えば2月16日は日蓮上人の誕生日やった。3年後には降誕800年にな
る。ビジネスチャンスやで。池上本門寺は全国からそろいの法被を着た門
徒で大賑わいになる。パレードはすごい迫力や、ほとんど戦闘集団、ゾク
ゾクするで、一見の価値ありや。

上人は「日本一の智者となしたまへ」と祈願され、小生は「日本一の痴者
になるんや」と躁状態。

♪そりゃわいはキチ〇イや チョコも食べるし スズメも鳴かす せやか
て それもこれも みんな芸のためや 今にみてみい! わいは日本一に
なったるんや 日本一や、最高齢で芥川賞やで わかってるやろ グリコ

なんやそのしんき臭い顔は チョコや!チョコや!チョコ買うてこい!・・・

でな、わては小学校で受賞記念講演するんや、予定稿はもう用意してるで。

<オゥッス! わしは高校で応援団やったさかい、オゥッス!が挨拶なん
や、オゥッス・・・そうや、ええ声や・・・オーーッス!はな、田端義
夫っちゅう人気歌手の挨拶やった。田端義夫知ってる子おるか・・・一人
だけか・・・なんで知っとんねん・・・そうか、おばあちゃんがカラオケ
で歌っているか・・・「かえり船」、ええ歌やで。オーーッス!

♪波の背の背に ゆられてゆれて 月の潮路の かえり船 霞む故国よ 
小島の沖に 夢もわびしく よみがえる

敗戦直後の昭和21年から、国破れて山河在り、焦土の日本に外地の兵隊さ
んが帰ってきた、ソ連に抑留されて奴隷労働を強いられた兵隊さんもおっ
てな、5年後、10年後にようやく帰ってきた人もおる。10人に1人はソ連で
命を落とした。零下何十度という極寒のなかで、まともな食事も治療もな
く、故国を思いながら死んでいったんや。

「かえり船」は、そういった人たちへの鎮魂の歌でもあるんや。命懸けで
日本のために戦った人たち、先輩がおるから今の日本があるんやで。「後
に続く者を信ずる」と言い残しているんや。いざとなればな、命を懸ける
のが日本人や、日本精神、大和心や。ワルに殴られている親友を見捨てた
卑怯者のコペル君になったらあかんで。

戦争で亡くなった兵隊さんは靖国神社に祀られておる。君たちも一度はお
参りに行ってみ、「おお元気な子やなあ」と兵隊さんも喜んでくれるで。

「いご」っちゅう言葉がある(伊吾、ともに口偏)。「本を読む声」とい
う意味や。国語の授業ではな、読書は伊吾が大事なんや、読み方次第で本
のなかの感動を伝えることもできるし、読み方、話し方、アクセントも覚
える、何より友達と感動を共にすることができる。

人の一生でな、読める本はせいぜい3000冊や。街の図書館には30万冊ある
んやが、全部は読めん。ただ、読む価値ある本は100冊に1冊や、つまり
3000冊や。何を読むか、それは何でもかんでもとりあえず読んでみるっ
ちゅう「乱読」で、自分のためになる、肥やしになる分野を探すことや。
これ、結構しんどいがな、やってみる価値はあるんや。

少年老い易く学成り難し、シコシコでええ、毎日半歩でも1センチでも前
に進むことや。それが勉強、学問や。それがいい人生になるかどうかは分
からんが、「分からん」と知ることが次の勉強に繋がっていく。死ぬまで
勉強やで。ちゃんと勉強せんで遊んでおるとな、わしみたいなドアホ、ク
ズ一歩手前になったりするんや。

15分の予定が長くなってしもうた、カーテンの陰から先生が「時間です
よ」て合図しておるが・・・ずいぶん別嬪さんやな、なんていう名前や
ろ・・・そうか、アヤコ先生か・・・帰りにデートに誘ってみよ。終わり
にします、みんなも元気でな、オゥッス!・・・うん、みんな上手くなっ
たな>

さて、北による日本人拉致事件は1977年から1983年までがピークだったよ
うだが、その背景には何があったのか。小生の本棚を探してみたが、朝鮮
関係の本は前回触れた「韓国からの通信」しかも続編しかなかった(中核
派やブントの機関紙などの論考は多いが、クチパクの主張ばかりで発見が
ない)。特に北の事情を伝える本、論考は皆無だった。北は建国以来厚い
ベールに覆われており、それは今も変わらない。

WIKIの論考をいろいろチェックしたが、以下のものが要領よくまとめてお
り、それでも長いので申し訳ないもののザックリと目を通してもらえば韓
国、北、日本の「その時」が分かると思う。長くて心苦しいがコピペする
(できるだけカットしたが、それでも長い。長くていいのは健康長寿だけ
か)。

<◆5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)

1960年4月に大韓民国初代大統領、李承晩が四月革命によって失脚した
後、学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、1961年5月
16日に朴正煕少将は張都暎中将を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗
り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。

反共産主義、親米政策、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由と
した。

当時、朴正煕は、韓国陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推さ
れてクーデターのリーダーになった。その中心人物が金鍾泌だった。軍隊
そのものの規模に比して、クーデターに動員された人員は必ずしも多くは
なく、成功も覚束ぬ筈であった。

朴正煕率いるクーデター部隊が1961年5月16日に国営放送局(KBS)を占拠
した際、朴と共に決起した兵士は全軍のうち3600人に過ぎなかった。既に
1960年の四月革命の直後、朴は軍内人事の一新を求め、陸軍参謀総長に対
して辞任を要求していたが(「清軍運動」)、四月革命後に発足した第二
共和国で8月23日に首相に就任した張勉政権下では、朴や朴を支持する韓
国陸士8期生の求める軍内人事の変更がなされる様子がなかったために、
1960年9月10日の「忠武荘決議」で朴は将来の軍事クーデターを決定した。

また、陸軍士官学校11期生の全斗煥は朴による軍事クーデターを支持し、
全斗煥の呼び掛けによって士官学校生徒達がクーデター支持行進を行っ
た。11期生には後に大統領になる全斗煥、盧泰愚らが含まれており、朴が
嶺南(慶尚道)出身であったこともあり、同郷の全斗煥は「ハナフェ」
(一心会)を結成し、尹必繧站熄゚泌、朴鐘圭ら他の嶺南出身者との軍内
政争の中で「嶺南軍閥」を築き上げた。これら軍人たちには地方の貧困層
出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。

クーデター・グループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布い
た。金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張
勉政権の閣僚を逮捕した。

当時アメリカのケネディ政権は1961年4月のプラヤ・ヒロン侵攻事件の失
敗により、キューバ革命後に構築されつつあったカストロ体制の打倒に失
敗したためにその後始末に忙殺されており、アメリカ国内で張勉政権を支
持する反クーデター派をクーデター支持の中央情報局(CIA)が制した結
果、アメリカは朴によるクーデター政権を認めるに至った。

軍が突然に政治の舞台に踊り出たことは多くの人々を驚かせた。軍は朝鮮
の政治史において例を見ない巨大勢力だった。政権を奪取した朴は「国家
再建最高会議」議長に就任し、治安維持と経済改善のためとして「国家再
建非常措置法」を施行した。

1961年6月10日には秘密諜報機関・大韓民国中央情報部 (KCIA) を発足さ
せ、初代部長には金鍾泌が就任した。7月3日にはクーデター当時に議長に
立てた張都暎中将を失脚させ、軍事政権のトップに立った。これらの権力
奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。

この軍事政権に抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、朴はKCIAを用
いて押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を
目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われる
ようになる。

朴は政権奪取後、日韓国交正常化に意欲を見せ、1961年10月から11月にか
けて日本側の大平正芳外務大臣と金鍾泌KCIA長官の交渉の結果、「金・大
平メモ」が作成され、日本による植民地支配への賠償請求権を「無償3億
ドル、有償2億ドル、民間協力資金1億ドル以上」の内容で合意した。

朴はこの賠償請求によって大韓民国経済を立て直そうと考えていたが、
「金・大平メモ」の合意額は李承晩政権期の対日賠償請求額であった20億
ドルや、第二共和国期の38億5000万ドルに比べて少なかったために大韓民
国国内の世論の反発を招いた。

◆「日韓基本条約」締結、国交正常化に(1965年)

その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとな
り、アメリカ大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従
い、大将に昇進した。訪米の往路、日本に立ち寄り、11月12日に池田勇人
首相と会談、日韓両国の早急なる国交正常化で合意した。この時に一部日
本語を使って会談したため、大韓民国国内の反日勢力から批判を買うこと
となった。訪米では民主党のケネディ大統領との会談を実現した。

1962年12月17日に「第三共和国憲法」が国民投票によって承認され、大統
領任期を2期までに定めた第三共和国が成立した。1963年に軍事政権であ
る国家再建最高会議が、民政に復帰した。朴は8月に軍を退役して民主共
和党から1963年大韓民国大統領選挙に立候補し、民政党の尹潽善前大統領
を約15万票差で破って自ら第5代大韓民国大統領の座に就いた。

第5代大統領就任後、1964年1月10日の「年頭教書演説」にて自由主義陣営
の結束を求めるアメリカの意向を念頭に、朴は日韓関係の改善を訴えた。
これに対し、1964年4月に高麗大学の李明博学生会長が日韓国交正常化反
対デモを指導したため、朴政権は1964年6月3日に学生運動に対して戒厳令
を発し、李明博を含む学生運動指導者らを逮捕した。

このような国内の反対を抑えつつ、1965年6月22日には、佐藤栄作総理大
臣との間で「日韓基本条約」を調印し、8月14日に与党民主共和党単独参
加の国会でこの日韓基本条約を批准した。

日韓基本条約は日本統治時代を清算するものでなく、わずかばかりの金で
国を売るものであるとして、韓国国内では広範な反対運動が発生した。民
主化活動家の大学生や市民、「平和線」(李承晩ライン)の堅持を求める
野党民政党の金泳三議員たちは「汎国民闘争委員会」を結成し、大韓民国
国内で「屈辱外交」への激しい抵抗が繰り広げられる中、日本との条約締
結が強行され、日韓国交正常化は実現した。

また日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとし
て反対運動が起こり、大学生を中心に大々的な反対運動が展開されてい
た。同年12月18日には在日朝鮮人の存在を、帰国の受け入れを拒否した李
承晩政権の責任とし、戦後に日本へ不法入国した場合や朝鮮総連などの日
本で共産主義活動に加担した場合も赦すとして韓国への帰国を促す談話を
発表した。

その後、ケネディ大統領暗殺事件後に副大統領から大統領に昇格した民主
党のジョンソン政権の要請に応じて1964年に大韓民国国軍のベトナム戦争
への派兵を決定した。

大韓民国のベトナム派兵に際しては、南ベトナム軍以外ではアメリカ軍に
次ぐ約5万人の大韓民国国軍将兵を南ベトナムに派遣し、南ベトナム解放
民族戦線(ベトコン)との戦いに従事させたが、アメリカ軍と南ベトナム
軍の北ベトナムへの敗色が濃厚となるに従い、韓国の民族主義的な立場か
らアメリカから離れていった。

4年の任期満了に伴い、1967年大韓民国大統領選挙では与党の民主共和党
から立候補し、新民党から立候補した尹潽善を再び破り、第6代大韓民国
大統領に就任した。

◆北のテロで暗殺の危機(1968年)も経済は発展軌道へ

1968年1月21日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が「対南工作」で
派遣した朝鮮人民軍のゲリラ部隊に青瓦台の大統領官邸を襲撃され、暗殺
されかけている(青瓦台襲撃未遂事件)。この暗殺未遂事件への報復のた
めに朴大統領は「北派工作員」として北朝鮮の金日成首相暗殺のために空
軍2325戦隊209派遣隊(684部隊)を創設したが、1971年8月23日に684部隊
は処遇を巡って反乱を起こしている(実尾島事件)。

この間、経済政策では日本を模範とした経済政策を布いた。「開発独裁」
と言われる朴の経済政策は、ソビエト連邦の計画経済をモデルにしてい
る。例えば、1962年から始まった数次にわたる五カ年計画計画方式がそれ
である。また、朴の経済開発手法が、実際に見聞した満州国の経済からヒ
ントを得ているとする分析がある。それまでの輸入代替工業化政策を大胆
に輸出型重工業化による経済離陸政策に切り替える柔軟性を見せた。

国家主導で産業育成を図るべく、経済開発院を設立した事を皮切りに、財
閥や国策企業を通じて、ベトナム戦争により得たカネとモノを重工業に重
点的に投入した。これによって建設された代表的施設に、八幡製鐵所をモ
デルとした浦項製鉄所がある。また、「日本の経済急成長の秘密は石油化
学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。

西ドイツへ炭鉱労働者と看護婦を派遣し、その給与を担保に借款を受けた
ことに始まり、1965年の日韓基本条約の締結により得た資金を不足してい
たインフラの整備に充てたことや、ベトナム参戦による特需などが「漢江
の奇跡」と呼ばれる大韓民国の高度経済成長に繋がっていく。(修一:朴
は海外派遣の看護婦と手を取り合って韓国の貧しさを泣いたという逸話が
ある)

特に日韓基本条約に基づいて1966年から1975年2月までの間に日本から支
払われた5億ドルの「対日請求権資金」は浦項総合製鉄工場、昭陽江多目
的ダムの建設など韓国の第二次五カ年計画の実現に際し、「韓国の国民経
済の向上発展に少なからざる寄与をしたといえる」と1976年に韓国政府に
よって発表された『対日請求権白書』に記された。また、韓国科学技術院
を創設するなど韓国の科学技術政策を確立した。

また、1970年代初頭より「セマウル運動」なる農村振興運動を開始し、
1976年の農村電化率は91%に達した。

1969年に自らの大統領三選を可能とするために三選改憲を実施した後、
1971年大統領選挙では新民党の金大中を破って思惑通り三選を果たし、第
7代大韓民国大統領に就任したが、4月27日の大統領選挙は辛勝だった上
に、直後の1971年5月25日に実施された国会総選挙で野党が躍進し、与党
が議会の2/3以上を占めることができなかったため、朴の大統領四選は不
可能となった。

他方、ベトナム戦争の行き詰まりの中、アメリカのニクソン大統領は1970
年3月26日に在韓米軍の削減を大韓民国に伝え、翌1971年にはアメリカと
北ベトナムとの秘密交渉が進み、さらにニクソン大統領訪中計画が発表さ
れた。このような冷戦のデタントの最中、1970年8月15日の演説で南北朝
鮮の平和共存を提案している。

◆内憂外患、不安定な時代に

第8代総選挙による野党躍進により朴の大統領四選不可能が決定したこと
は朴大統領の権力基盤を揺らがせ、国内での反体制学生運動が加速、危機
感を覚えた朴は1971年12月6日に「北朝鮮の脅威」を口実に国家非常事態
宣言を発するなど独裁色を強めた。

既に1971年2月6日に発表された米韓共同声明に従って在韓米軍の第7歩兵
師団は撤退されており、北朝鮮の脅威に対話で臨んだ朴大統領は1972年7
月4日に北朝鮮の金日成首相と共に南北共同声明を発表した。

しかし、南北共同声明発表後も朴大統領の内憂外患への疑念は収まらず、
1972年10月17日には非常戒厳令を宣布し(十月維新)、大統領の任期を6
年に延長するなどの憲法改正を行って維新憲法を制定、第四共和国に移行
した。

1972年10月の維新クーデター後、政治的なスローガンとして「維新体制」
を標榜した。「維新体制」の下で権力基盤を強化した朴は自らを脅かす者
に対しては、政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持
し続けていた。

政敵・金大中に対しては、東京のホテルグランドパレスに滞在していた
1973年8月8日にKCIAによる「金大中拉致事件」を引き起こし、日本の保守
勢力は日本国に対する主権侵害だと朴政権を批判した。金大中拉致事件に
よって悪化した日韓関係は朴大統領と田中角栄総理の間の政治的決着に
よって決着したが、日本のマスメディアはその後の金大中収監に対して朴
政権批判を重ね、朴の「維新体制」はこの金大中拉致事件によって国際的
に孤立し始めた。

なお、この金大中拉致事件に際し、北朝鮮は朝鮮統一問題の北側からの対
話中断の意志を韓国に伝えている。

1974年8月15日、日本統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行
儀に参加した際、在日韓国人・文世光に銃撃され、朴自身は無事だったも
のの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。

この際に用いられた拳銃が、文世光が日本の警察官を襲撃し強奪したもの
であったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を、自由民主党の一
部や日本社会党などから圧力を受けた日本政府及び警察側が擁護し続けた
こともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。

またこの事件は日本のマスメディアによる金大中拉致事件批判によって悪
化していた韓国の世論を更に対日強硬的なものとし、在韓日本大使館にて
韓国人群衆によって日章旗が焼き払われるなど、日韓関係をより悪化させ
ることになった。

金大中拉致事件のみならず、国家保安法や反共法などの法令による反政府
勢力に対する強権的な弾圧は「維新体制」期には苛烈を極めた。共産主義
者ないし「北朝鮮のスパイ」摘発に名を借りた不法な拷問・冤罪事件は枚
挙に暇がない。そのうちKCIAによる1975年11月22日の「学園浸透スパイ団
事件」は日本でも大きく報道された。

国内でのマスメディアへの言論弾圧も自由主義国家としては極めて異例な
ほどに行われ、映画の台詞ひとつまで国の検閲が及び、海外の新聞、特に
朴政権に批判的であった日本の『朝日新聞』『読売新聞』などは韓国への
輸入が禁じられるほどであった。

国防政策では、北朝鮮と軍事同盟の中朝友好協力相互援助条約を結んでい
た中共の核兵器開発(修一:1964年10月の東京五輪閉会式の24日に大会不
参加の中共が初の核実験。アカの岩波社員は万歳して喜んだ)に対抗し
て、密かに核兵器・ミサイル開発に着手し、韓国の核武装を望まないアメ
リカと衝突した後に中止するなど、ベトナム戦争派兵で緊密となった米韓
関係を損ないつつも、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに
基づく独自の自主国防計画を推進した。

さらに1976年には在米韓国人ロビイスト朴東宣がアメリカ下院議員を買収
しようとした「コリアゲート事件」が発覚し、朴が構想していた韓国の核
武装構想と共に、既に悪化していた日韓関係のみならず、米韓関係をも悪
化させた。

1976年10月のコリアゲート事件発覚によって悪化していた米韓関係は、
1977年に大統領に就任した民主党のカーターが「人権外交」の見地から同
年5月3日に韓国、ローデシア、ブラジルの三国を名指しで批判したことに
より更に悪化し、カーター政権時代には在韓米軍撤退も取り沙汰されるよ
うになった。

このような米韓関係の悪化の中で、アメリカの圧力により、朴大統領は核
兵器開発を一度断念したが、その後も自主国防のために1978年まで核武装
を構想していた。また、水面下では当時の米中接近や日中国交正常化に影
響され、三菱商事の当時の藤野忠次郎社長の後押しで中共の新たな指導者
となったトウ小平と経済協力を名目に接触し、暗殺直前まで中韓のホット
ライン開設も交渉していた。

◆側近によるまさかの朴正煕暗殺事件(1979年)

朴大統領は釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こって
いた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26
事件)。享年61。暗殺後、国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬
られている。なお、朴は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

朴暗殺事件後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化の雰囲気が大韓民国に充
満したが、翌1980年5月17日の全斗煥将軍による「5・17非常戒厳令拡大措
置」とその直後の「5.18光州民主化運動」(光州事件)を経て、大韓民国
は再び軍人出身の全斗煥による第五共和国に突入した>(以上)

「北による日本人拉致事件は1977年から1983年までがピークだったよう
だ」と先述したが、朴政権が大きく動揺し始めた1976年あたりから北は
「チャンス到来」と武力統一作戦を具体化していったのではないか。

金日成の長男、金正日は1974年2月の労働党第5期中央委員会において、政
治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、金日成の後継者として「推
戴」された

小生が金親子なら「南は左右対立でフラフラしている、リベラルのカー
ターの米国は動くまい、日本は米国追従のヘタレだ、米韓日とも何もでき
まい、我々には中露の支援もある。ベトナムでは1975年にはベトコンがサ
イゴンを落とし、米軍とその傀儡は尻尾を巻いて逃げた。今の半島情勢は
我らにとって千載一遇のチャンスだ、朴とその取り巻を斬首し、テロを準
備、実行しろ、溺れた犬をさらに打て」と決断する。

経済で完全に韓国に追い抜かれた北は、南を武力で強奪する意欲を高めた
ろう。日本人に成りすませば世界中を自由に行き来できるから工作、作戦
にはおおいに有効だ。

「送還事業でわが国に来た在日はクズだ、本物の、新品の日本人を連れて
きて、スパイの教育係にすべし。ばれる? 脳天気の平和ボケのチョッパ
リは何もしないだろうよ。総連を通じてカネ、女、名誉で懐柔してきたか
らノープロブレム。社会党、日共、公明党、自民党、高級官僚、教師、教
授、労組、マスコミ・・・奴らは平壌と北京、ソ連、北ベトナム、キュー
バが大好きだ。アカとかピンクのパープリンばかり、我々の手駒だ、バカ
な奴らだが、我らにとっては役に立つはずだ」

小生ならそう思う。そう判断してまず間違いはないだろう。

グリコのオマケみたいな発狂亭“ベアハッグ ”雀庵の病棟日記から。あー
ん、そんなに強く抱かんといてえな、うち壊れそうや・・・

【2016/12/14】水曜。*産経「正論」櫻田淳の論考から。

<2016年の国際政治の様相は後年、各国における「ナショナリスト」気運
の隆盛や「極右」政治勢力の台頭をもって語られるであろう。ただし、そ
の様相は、正確には「自らの利益を近視眼的、刹那的に追及する流儀」の
蔓延と呼ぶべきものだろう。

このような流儀が米国や西欧諸国にも広がろうとしている事実にこそ、当
代世界における危険の一つがある>

リベラル≒アカモドキは「ナショナリズム=極右=悪」という認識が初期
設定だが、明治維新で討幕派は尊皇攘夷、王政復古を掲げ、ゴリゴリの過
激派右翼だった。一方の佐幕派は公武合体、開国(半ば強制されたとは言
え)というリベラルではなかったか。

米国独立戦争は、英国植民地から独立して「普通の国」を目指す過激派ナ
ショナリズムと、立憲君主制と植民地の維持を主張する保守勢力の戦いで
あった。明治維新の頃に米国で起きた「市民戦争」(南北戦争)も、奴隷
労働を維持して農業を発展させたい保守派の南部と、奴隷を土地から解放
して労働力を工業化に使いたい改革派の東部との戦いだった。

保守だろうが革新だろうが、近眼だろうが老眼だろうが、いずれも「世界
の時流、発展を求める」人類の歴史の流れに乗った方が勝った。近代資本
主義国家の先頭グループは基本的に自由、民主、人権、法治を基軸に、選
挙という「血を流さない内乱」で「万機公論に決す」ようにしている。選
挙に負けた方は臥薪嘗胆、次の選挙に向けて努力する。

これが先進国のルールで、ナショナリストはダメだという櫻田の歴史認識
はリベラルに偏向し過ぎている。色付きメガネで見ていてはリアルは見え
ないぜ。

*日赤とは日本赤軍の略なのか。彼らはお人好しの国民から募金し、北の
金北豚に「どうぞ核開発を成功させてね」と1000万円をプレゼントした。
日赤に自己チェック機能はない、国連同様にアカが相当入り込んでいる。
「寄付と言われたらサギ」と疑ってかかる方がいい。

自称リベラル勢力は「人道」の余計なお世話でいたずらに戦争という「血
を流す外交、交渉」を長引かせている。明治維新で英が朝廷、仏が幕府に
ついて支援したら5年10年の長期戦になり、今の日本はなかったろう。世
界は植民地だらけになっていたろう。「赤ずきんちゃんに気をつけて!」
「気をつけよう、甘い言葉と赤い道」。

櫻田先生、「当代世界における危険の一つ」はアンタのようなリベラル、
利口バカだぜ。(つづく)2018/2/19


2018年02月20日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」 第3章

“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(94)】太陽がずいぶん北から昇るように
なった。北半球は太陽に近づき暖かい季節へ、南半球は逆に寒い季節に
なっていく。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。舞台の役者と
観客は変わっても演目はいつも同じ、ということか。

らっしゃい、らっしゃい、「喜怒哀楽、美醜、愛憎、善悪、入り乱れる涙
と笑いのロングストーリー『来し方行く末』、客席からいつでも舞台に上
がれる参加型、お代は観てのお帰りに、土産はナント戒名付きのご位牌
だ!」、らっしゃい、らっしゃい・・・

「21世紀の始めの頃の世の中、世の人々、どんな様子だったのか」と、
100年後にワープしたあなたは未来人からインタビューされる。あなたは
どう答えるのか。

「いいこと、いい人は多いけれど、悪いこと、悪い人もいる。平和もあれ
ば戦争もある、理にかなったこともあれば、理不尽もある。昔もそうだっ
たと思う。その延長だった気がする」

これを聞いて未来人は多分、こう反応するだろう。

「なんや、今と同じやんか」

宇宙の寿命は100兆年らしい。想像できないほどの長寿だ。まだ138億歳だ
から「生まれたて」。太陽系宇宙、地球が誕生してから45億年、寿命は
100億年らしいから太陽系宇宙では現役バリバリの壮年か。

ホーキング博士によると「地球の100年は宇宙時間ではあっという間」。
人間のあっという間の人生の中の出来事も、人類史の中ではほとんどは忘
れられていく。ゆく川の流れは絶えずして、すべてのものは移ろいゆく、
諸行無常・・・

「さはされなれどや、その川の上に浮かぶ木の葉の上のアリにとっては、
どこに流れ着くかは一大事や。熊さんもしっかり櫓をこがんとあかんで」
「ご隠居、その“さはさは”ってのはなんですねん」

「さはされなれど、とはな、たとえそうであろうとも、というこっちゃ。
あぶくやシャボン玉のようなはかない人生でもな、一所懸命、けなげに生
きるのが人の道や。アンタもこの歌知ってるやろ。

♪シブキ 立ち込め 打ち寄す波に 右にてぐすを 左でろこぎ つらい漁師に
たえて来た

あんたもいつまでもボテフリ(棒手振り)では所帯ももてんやろ、棟梁の
北さんのとこは結構繁盛しておるという話やから、あんたもそこに奉公し
て、腕を磨いて一人前を目指したらどうや、っていうことや。その気があ
るんならわてが話を進めてもええで」

「そうでっか・・・心配してもろうてすんません。ボテフリはのんきなも
んやけど、かごにカボチャや大根を載せて寒い中、天秤棒を担いでいる
と、なんや情のう気にもなってましたんや。一所懸命やってみまっさか
い、お願いしますわ」

この界隈では大工の棟梁が二人いて、住んでいるところから屋号は「北
屋」と「南屋」だった。「北」は結構羽振りが良かったが、「南」は半端
仕事ばかりで、食うのがやっとという感じ。繁盛しているように見えた
「北」も実は内証がいいわけでもなく、資金不足、人手不足で足踏みして
いる状態だった。

WIKI「在日韓国・朝鮮人」から――

<戦後、在日韓国・朝鮮人(以下「在日」)の帰国運動が盛り上がったの
は、1958年の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。

(援助頼りではなく自立的、主体的な経済発展を目指す)「千里馬運動」
で労働力を必要とした北朝鮮政府と、当時、生活保護受給者の半数を占め
ていた在日問題の解決を目指す日本政府、さらには在日にとって、それぞ
れの思惑が一致した結果とされる。

また、共産主義者を弾圧している韓国に帰還することが困難な者にとって
も北朝鮮は希望の地であった。このとき、帰国運動に参加した在日のほと
んどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であっ
た。このこともまた、韓国政府による「棄民政策」として、後に様々な方
面から批判されている。

日本における在日団体である在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮政府の指示
のもとで在日の『地上の楽園』北朝鮮への帰国を、強力に勧誘・説得する
活動を展開した。

当時の韓国は朝鮮戦争による荒廃のため世界最貧国であったが、北朝鮮は
国際協調によって共産諸国の支援を受けて発展を遂げ、在日朝鮮人へも支
援金を送るほどであった。日本の新聞各社、また民間の研究機関「現代コ
リア研究所」も、これに同調した。

在日韓国人の犯罪発生率が日本人の十数倍に上ること、犯罪者や密入国し
た韓国人の送還を韓国政府(李承晩政権)が受け入れないこと、摘発され
た密入国者を日本国内へ解放するよう韓国政府から要求されるなどの治安
上の問題や、在日の生活保護予算捻出に苦慮していた日本政府は、この
キャンペーンに応じた。

当時の内閣総理大臣・岸信介は国会答弁で帰国運動の「人道性」を主張
し、北朝鮮への帰国事業を受け入れた。韓国はこれを「北送」と呼んで非
難し、韓国居留民団は「北送事業」への反対運動を展開した。

韓国政府は日本に工作員を送り込み、テロ活動によって帰還事業の阻止を
図った(新潟日赤センター爆破未遂事件)。また、「在日は強制連行され
た人々である」と主張するようになった>

北よりも韓国の方が以前から反日感情が強かったのだ。韓国の世論調査で
は相変わらず「嫌いな国」の1位、2位は日本か米国、3位は北か中共だ。
北にとって最大の敵、一番恐れている国は米国で、日本は刺身のツマ、あ
まり敵視していないようだ。近年は韓国に倣って反日音頭を踊り出した
が、「総連の負債600億円を強制徴収しない大甘の日本は利用した方がい
い」という見方のようである。

韓国人は終戦後から著しい反日になり、日本軍将校出身で親日的な朴正煕
政権下では激しいい反政府運動を展開した。

<1961年、韓国では5・16軍事クーデターにより朴正煕が権力を掌握し
(日本の韓国居留)民団も支持、しかし第一次経済開発五カ年計画を推進
するも1964年には行き詰まり、その打破を目指して1965年2月からベトナ
ム戦争に参戦、同年10月には主力部隊5万人をベトナムに派遣する。

1965年6月、日本が韓国を朝鮮半島唯一の国家として承認する「日韓基本
条約」および在日韓国人の法的地位について定めた「日韓法的地位協定」
などの付随協約が結ばれた>(WIKI)

これによる日本からの支援もあって“漢江の奇跡”と呼ばれる経済発展をな
したのだが、韓国人は反朴、反日を強めたものの、北に対しては逆に宥和
的になっていった気がする。「血は水より濃い」という同民族だから親和
性が強いのかなあと思っていたのだが、実際は、知識人の戦略では「まず
は朴独裁政権を倒す、ここに力を集中する、北は二の次、三の次だった」
と言うのだ。

<張俊河(チャン・ジュナ、1918年8月27日 – 1975年8月17日)は、大韓
民国の政治家、官僚、ジャーナリスト、独立運動家、社会運動家、実業
家。雑誌『思想界』を創刊し(1953年)朴政権下での言論面での抵抗に寄
与した。日本名は張安俊河>(WIKI)

日本で反朴の運動を煽った「韓国からの通信」(岩波)の著者、池明観。

<池明観(ジ・ミョンクワン、1924年 - )は、韓国の宗教政治学者、評
論家、クリスチャン。「T・K生」の名で1973年-1988年に雑誌『世界』に
『韓国からの通信』を連載した>(WIKI)

上記の2人には師弟関係はなさそうだが、朴政権打倒という点では“同志”
であったわけだ。池明観はアカモドキの盧武鉉政権誕生を支援したが(池
明観は当時KBS理事長)、盧武鉉の相変わらずの左巻に呆れたのだろう、
池明観は「もうニューレフトの時代ではない」と縁を切った。張俊河は57
歳で自殺、盧武鉉も63歳で自殺した。

池明観は自著『韓国からの通信』を読み直すのは辛いと言っているが、
2003年10月22日の日本での講演で「我々が共に経験したあの時代と我々が
直面している『いま』とは、非常に異なった時代になっている、そして、
多くの人がどうしていいのかわからないというような心情になっているの
ではなかろうかと思うのです」と述べている。多くの韓国民は未だに
ニューレフトの時代のままのようだ。

池明観はなぜ北への攻撃を後回しにしたのか。その講演でこう語っている。

<金大中氏などのようにカリスマ性をもった人はもう韓国には出てこない
という条件の中で、どういう社会=政体を目指したらいいかを考える。今
後の政体をいかに作るべきか、これを考えるべきです。いまの混乱は、政
体をどういうふうに変えるか、そのための一種の模索であり、悶えである
というように私は解釈しているのです。ですから、それほど悲観的には考
えていません。

日韓関係、日朝関係=「北」の問題に対してですが、私は「北」に今年
(2003年)の三月の終わりに一週間行ってまいりました。「北」は大々的
な変化をしない限り存続は難しくなると思います。我々が「北」を訪問し
ても、いっさい「北」の人々には会えません。

ホテルの外に出られませ ん。こういうようなやり方では、もう世界的な
交流はできない。そして私 が「北」側にそういう話をすると答えないの
です。〔対面する人は〕自分 の意見を言わないのですが、その表情から
いって我々の言葉を受け入れて いるのです。

こういう状態なので、「北」の問題はたんにいまの六者会談だけでは解決
できないでしょう。「北」は自分自身の生き残りのための自己変革をしな
いといけないというのが私の見解です。そうでないと「北」は非常に苦し
い状態を続けるだろうと思います。

「北」へ行ってきたときのことです。私はもともと「北」で生まれたので
すが、妙香山に行く際に旧道を通ったとき、涙なくしてはそこを通れませ
んでした。こういう状況を前において、我々は人民を対象にした新しい計
画を立てないといけない。私は「北」の将来に対して非常に危機を感じて
います。

南に帰ってきても危機を感じました。こういう「北」の実情に対して、自
分たちはお腹一杯食べていながら、全く交流していない。こうした南の政
権と南の国民全体に対して、私は非常な憤りを感じているのです。

とにか く「北」を自分の同胞であるという基本的な考え方で、この問題
を考えな ければならないと思うのです。政治家たちがやっている六者会
談に対し て、私はそれほど信頼を置いていません。政治家というものは
人間の問題 を考えていないと私は思うからです。それは南の政府に対し
ても同じです。

それではいけない。本当にヒューマニズムに戻った考え方をもって接しな
ければならない。そういう熱いヒューマニズムをもっているならば、六者
会談に参加する人々にもそれにある種の感動を与えられるだろうと思うの
です。適当に政治的に交渉するやり方はやめろということが、私の基本的
な見解です>

「涙なくしてはそこを通れませんでした」・・・贅沢品も買える平壌の核
心(特権)階級と、食べるので精一杯の地方の動揺(下層)階級・・・

北にはヒューマニズムのかけらもない。ヒューマニズムとか自由、民主、
人権など、そんな西側の危険な言葉を吐いたら速攻で死刑だ。池明観はこ
ういうリアルが分かっていない。“漢江の奇跡”で北を大きく引き離した韓
国にとって、北は貧しい貧乏国家、元々が同じ民族じゃないか、敵視する
ほどのことではない、それよりは保守政権、財閥、それを支援する日本を
やっつけるのが先だ、とリベラル≒アカモドキの国民は思い、今は盧武鉉
の子分だった文在寅を選んだのだ。バックミラーしか見ない、何も学ばな
い人々。

北による日本人拉致事件は1977年から1983年までがピークだったろう。背
景には何があったのだろう。

分からないことばかりでウロウロしている発狂亭“レインメーカー”雀庵の
病棟日記から。

【2016/12/13】火曜。*産経によると「日米の労働生産性(平成22〜24
年)は、米を100とすれば製造69.7、サービス49.9、運輸44.3、卸・小売
38.4、飲食・宿泊34.0、化学143.2、機械109.6である。化学、機械以外は
著しく劣っている」。

つまり、効率が悪いということで、50なら、米国で5人で済む仕事を10人
でやっているということだろう。それが一概に悪いわけではない。

プラス面は雇用拡大、格差縮小=安定した中流層拡大、マイナス面は国際
市場における価格競争力の低下、海外への資本流出、産業空洞化などが考
えられる。海外への資本流出、産業空洞化が進めば国内の雇用は停滞、減
少、デフレになったりする。

成長率、インフレ、所得が1〜2%でいけば国の借金も目減りするからいい
なあと思っても、この塩梅は難しく、企業はM&Aなどいざという時に備え
て利益を貯め込まざるを得ないから、ほいほいと賃金は上げられない。勤
労者も老後の不安もあって貯め込む。競争は激しいから商品の値上げもな
かなかできない。三すくみ状態のようだ。

かつての洗濯機、冷蔵庫、マイホーム、さらにカー、クーラー、カラーテ
レビのように、生活を大きく変えるような商品、誰もが買いたくなるよう
な商品、つまり常識を打ち破るような画期的な商品が登場すればいいが、
世界中の天才、秀才、努力家、キチ〇イが努力しているだろうけれど、ち
まちました改革、改善はあるものの、革命的な新製品とかソフトはない。

数十年後には医療は信じられないほど進化しているかもしれない。今は直
らない病気でも完治できるかもしれないし、老化を抑える治療で120歳老
人が珍しくない時代が来るかもしれない。ウォルト・ディズニーは「難病
治療を未来に託して冬眠(冷蔵?)している」という都市伝説があるそうだ。

そういう機械とかサービスがあれば、たとえ高額でも利用してみたい気も
するが、50年後に目が覚めたら知っている人どころか人間がまったくいな
かった、猿が白衣を着て怪訝な顔をして見つめていた、なんてことにな
り、希少動物として「ホモサピエンス舎」で見世物になったりして。

ジェームズ・ワットは1736年生まれ。ワットが蒸気機関を発明していなけ
れば産業革命はずいぶん遅れていたろう。シドニーの「動力博物館」では
旋盤など多数の工作機械が蒸気で動いており、壮観、圧巻だ。生産性が大
いに高まった。ワットがいなければ黒船が日本人を驚かすこともなかった
ろう。

ワットは神経症で頭痛と鬱に苦しんだという。健康な心身は環境適応力が
高いだろうが、発明とか起業は不健康な心身から生まれることが多いので
はないか。エジソンもビル・ゲイツも発達障害のようだし、ダイエーを起
こした中内功も先輩の経済記者によると結構な変人だったという。

出でよ、天才的キチ〇イ! 小生はただのキチ〇イだから「成さず、語ら
ず、残さず」だな。(つづく)2018/2/18


◆英語嫌いを養成することに

前田正晶


教え方次第では早期に英語嫌いを養成することになりはしないか:


私は日本語の能力が固まっていない小学校3年の児童に英語を教えるべき
ではないと
固く信じている。その理由はこれから縷々述べていくが、我が国のこれま
での教え方
を小学校にまで引き下げることに意味がないと思う。また、これまでに何
度も指摘し
てきたように、実際にアメリカ人を含めた英語を母国語とする人たちが日
常的に使っ
ている表現の中には多くの慣用句と口語的表現に加えて隠語や符牒である
slangも出
てくるのだ。私が問題としたいことは、かかる言葉遣いは我が国の学校教
育の英語で
は十分に教えられていないのではないかという点だ。



私はこれまでに何度も同じ主張をして来たが、この主張はこれからも繰り
返していく
べきだとすら考えている。私はもう20年以上も我が国の外国語教育の至ら
なさを繰り
返して採り上げてきた。そして「英語教育が読解力と要らざる単語の知識
だけを高め
ることを目的としていれば、現在までのところである程度以上その目的を
達成してい
ただろう」とは言って来た。だが、「我が国のように一般的な勉強(学
問)の水準が
高く、あらゆる分野に亘って国語で学ぶことが出来る態勢が整っている国
で、万人の
英語力を高める必要があるのか」との疑問も呈してきた。

更に、「英語を高い水準までものにする必要がある者たちが、それを本気
で追求して
いけば良いのである」とも指摘した。そういう人たちはとは、海外に出て
も自らの目
指すところを追い求めようとする研究者や学者の方や、海外で仕事をしよ
うと志す若
者や、私(たち)のようにアメリカ乃至は外国の会社で彼らの一員として
懸命に働こ
うとする者たちであろう。彼らが十分に意思の疎通を図れる段階を目指すか、
“native speaker”並の水準を目標として学べば良いことで、現在の我が国
で米国の
支配階層に通じるような高い英語力を身につけても、それを何処で活かそ
うにもそう
いう場は何処にでもここにでも転がってはいないのだ。

私は何度か述べてきたが、1945年4月に旧制中学の1年生になるまでは、敵
性語の英語
などは見たことも聞いたこともなかった。英語の勉強はこの13歳から出発
して十分に
間に合った。上智大学で同級の惜しくも20歳代で亡くなった横須賀出身の
K君の素晴
らしい英語の実力には驚かされた。「世の中にはこんな奴がいるのだ」と
自信家の同
級生と語り合ったものだった。同時に彼の英語だけではない学力にも圧倒
された。彼
の英語力は既に“native speaker”並の領域に達していたが、それでも中学
入学の後
から学び始めたものだったと聞いて安心もしたし、同時に打ちのめされた
気分にもさ
せられた。

私の強調したい点は勉強法さえ適切であれば、13歳というか中学入学の年
齢から始め
て十分に間に合うと言うか、外国人にも通用する英語力は身に付くものだ
という点
だ。また、私は大学1〜2年の時に偶然のご縁で中学1年の男子生徒を英語
だけとの条
件で家庭教師を引き受けたが、その子は高校を卒業するまで英語だけは
「オール5」
を取っていた。また某商社では2年目の若手の個人指導を依頼され2年足ら
ずでその課
で一番の英語の使い手に育てることが出来た。

では、彼らに何をどのように教えたかと言えば、上記のK君の勉強法とも
同じだった
「先ずは音読である。それも中学1年程度の教科書の繰り返しての音読、
それも完全
に暗記・暗唱できるまでの音読から始める。それは音読を重ねていけば自
ずと意味が
分かるようになるものなのだ。そして何度も暗記した教科書の暗唱の繰り
返しだっ
た。



単語帳などは一切作らないようにすることも重要だ。意味が分からない言
葉に出会え
ばその都度辞書を見て覚え、絶対に書き込みはせず、英文和訳などはせず
に英語のま
まで意味を覚えるように努めることだ。単語を覚えることを禁じたのは
「単語は単な
る部品であり、部品をバラバラと並べても製品にはならないのだ」という
意味で、飽
くまでも流れの中でその使い方を覚えるのが、上達への道である」と経験
からも確信
しているのだ。



商社の若手に繰り返して教え込んだことは「こういう場合はこう言えば良
いのかと記
憶するように」と「自分が言いたいことを日本語で思い浮かべてそれを訳
すような真
似をすることなく、覚えているこれはと思う表現でしゃべって見よ」だった。

何だ、それだけでは成功例が少ないではないかという反論の如きものには
何度か出
会った。こちらから言ったことは「それでは我が国の学校教育の英語での
成功例はど
のくらいあったのですか」だった。また、「私が唱える英語の勉強法で教
えられる教
師などいない。偏った理想論では」とも批判されたが、それも育て損なっ
た方々のご
意見として承っておくだけのことにした。

また、我が国の英語教育で気になることがある。それは無闇矢鱈に“native
speaker”を有り難がることだ。私の英語をフランス文学のTK博士がいみじ
くも「支
配階層の英語」と喝破されたが、普通に我が国で暮らしていれば仮令アメ
リカ人でも
そういう階層の人たちの言葉に直に接する機会はそう滅多にない。即ち、
余程気を付
けていないと「何処の馬の骨かも解らない英語圏の国の者を、仮令それが
トランプ大
統領の支持層のような下層の出身であっても、有り難く押し戴くような結
果になりは
しないか」ということ。そういう「英語の品格と品位を聞き分けが出来る
人がどれほ
どいるのか」という問題である。

私はトランプ大統領が“I’m gonna 〜.”であるとか、“I wanna 〜.”のような表
現を濫用されることを非難した「上品ではない」と言って。それが彼の支
持層以下に
向かっての表現であり、我々日本人が初歩の段階で真似て良い言葉遣いで
はない。だ
が、そうと知って「あの言葉遣いを真似てはいけません」と教えられる人
がどれほど
いるのだろうか。我々は先ず“I am going to 〜”や“I want to 〜”をまと
もに使
えるようにすることを優先すべきだ。



尤も、トランプ大統領が最近正式な場で使われた表現では、かかる下層階
級向けの言
葉遣いは影を潜めている時もある。要するに、語りかける相手次第で使い
分けをされ
ているかのようだ。「流石は富豪で、Ivy Leagueの大学の出身者だ」と認
識出来た。

私は誰も彼もが支配階層の英語を目指して学ぶこともないだろうと考えて
いる。そう
いう教え方をすべきか否かの議論は一先ず措くが、TOEICだの何のと、試
験と資格ば
かりに集中した教え方を考え直して、実際に支配階層の人たちとの交流に
も役に立つ
ような英語を教えられるような人材を野に求める必要もあるのではないか
と思ってい
る。



私は実際に海外市場の現場でかなり優れた英語力の持ち主に何人も出会っ
ていた。だ
が、現行法では彼らには大学以外で教壇に立つ資格がないとも聞いた。そ
のような優
れた英語教育の適格者が不足していても、小学校3年からを強行するのか
と思うと、
決して好ましいことではないと言わざるを得ない。



2018年02月18日

◆「九条の二」 自衛隊加憲私案

                     宝珠山  昇

「頂門の一針」4605号 2018・2・13(火)の「自衛隊加憲の発議を期
待」に対して、これらの懸念を払拭できる代替案を示せ、と言った反論が
ある。老生の私案は次のようなものである。

第九条の二 前条第一項に規定する「正義と秩序を基調とする

国際平和」が実現するまでは、前条第二項の規定にかかわらず、我が国の
平和と独立を守り、国の安全を保つため、必要最小限の防衛力を保有する。

2 我が国は、内閣を代表する内閣総理大臣を最高指揮権者とし、前項に
定める防衛力を以って、必要最小限度の自衛権を法律の定めるところによ
り行使する。

3 我が国は、第一項に定める防衛力を以って、国際社会が行う平和維持
活動に法律の定めるところにより貢献する。

この案であれば、「文民統制」は、「内閣総理大臣を最高指揮権者とす
る」や「(国権の最高機関が議決する)法律の定めるところにより」によ
り明記される。

また、「集団的自衛権の限定的行使」は、「法律の定めるところにより」
により、柔軟性を以って行使できることになる。(柔軟性を持つことの可
否、その限界などについては、4605号を参照されたい。) 

第3項は、国連の平和維持活動などへの貢献を、この際、憲法に明記する
ものである。

補足すれば、この案は、「自衛隊は最小限度の自衛権を行使のための必要
最小限の防衛力」であることを憲法に明記し、立憲主義の本旨に則って運
営されるものであることを鮮明にするものである。

即ち、安倍自民党総裁が答弁などされている通りの(現状を変更するもの
ではないが、半世紀以上経っても種々の非生産的論議のある自衛隊を、憲
法上に正当に位置づけ、厳しい安全保障環境の下で任務を遂行する自衛隊
員の士気を損なわないようにする)などとする趣旨に合致するものと考える。

また、「(条文を)変えても変えなくても(現状が)変わらないのであれ
ば変える必要がない。変えないという選択肢も当然ある」と言った、無責
任・消極的・政争的・

感情的な反対論に対する積極的・生産的・立憲主義尊重の反論でもある。

更に、「自衛隊」を憲法に直接明記することは、法律によって設置されて
いる他の省庁等の上位に位置づけられたと誤解され、文民統制上の支障が
生ずる(これは論理的には完全に誤っているものであるが)ので、避けた
いなどとする反対論にも配慮しているものである。

なお、本稿に関連する小生の呟きについてご興味をお持ちいただける方
は、頂門の一針 4388号(2017年6月19日(月)の「安倍総裁提案の改憲
に期待」、同4501号〈2017年10月30日(月)の「改憲勢力の増大を喜
ぶ」、同4596号(2018・2・4(日)の「国会議員の責務など」、同4605号
〈2018・2・13日(火)の「自衛隊加憲の発議を期待」や、[
http://natdef.exblog.jp/ ]の憲法改正の項などを参照いただけれ
ば幸いです。 (2018年2月15日記)

2018年02月17日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」第2章

“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(93)】現役時代、仕事上でついた嘘で最大
のものは、こんな風だった。

上場企業の販促課長がこう言ってきた。

「今度な、商品発表会で1時間ほどのプロモーションビデオを流すことに
なったんやが、修ちゃん、作れる?」

「あっ、ビデオ、もう‟得意中の得意”ですわ、任せてくださいよ」

「できるんやな?」

「しっかりやらせてもらいます」

大体、テレビも見ないしビデオも見ない、映画もまず見ないから「得意中
の得意」は大ウソ、ハッタリである。しかし泡沫零細企業とは言え経営者
としては「できません」なんて言えない。それは課長も十分承知してい
て、小生にチャンスをくれたのだ、やってみなはれ、と。

もし小生がしくじったら課長の大失態になる。だから「できるんやな?」
と確認したわけだ。小生がドジっても「修一クンができます、得意ですと
言ったさかいに頼んだんやけど・・・もう出入り禁止にしますわ」と、ま
あ、上司の部長に対して多少の言い訳にはなるさかいに。

で、小生は小さなオツムをクルクル回して「どないしよ」と駅でオシッコ
をしながら考えるわけや。心なしかチンチンもうなだれている。「どない
したもんかいな・・・雑誌作るみたいなもんで、シナリオ/構成/面割、台
本/セリフ/記事/コピーを作って、映像/写真を添える・・・ここまでは雑
誌と同じや・・・あとはナレーション、音楽をくっつければええんやない
か・・・それならできるで。そうや、前の会社の後輩の岩谷がテレビ朝日
映像に転職したっと言っておったな、あいつは中学の後輩でもあるから電
話しよ」

なにやらチンチンも元気になったようだ。

「お、岩谷君か、修一や」

「あ、修一さん、お久し振りです」

「――と、いうわけでな、力貸してほしいねん」
「バッチリ、任せてください」
「よっしゃ、じゃあ細かいことは一杯やりながらってことで」
「じゃあ、プロデューサーとディレクターも連れていきまっさかい、7時
に『鳥一』に予約入れておきますわ」

てなことで恵比寿のテレビ朝日映像のスタジオで3年ほど一緒に仕事をし
た。「ここが『徹子の部屋』かいな。ずいぶん辛気臭いけど、照明が入る
とええんやろな。あの子、ニューヨークで充電して帰ってきたとき、オッ
パイプリントのTシャツ着てみなを笑わせていたな・・・おお、ここがウ
ルトラマンの編集室か。β版をデジカル化しているんやろか、地味な仕事
やな」

徹子じゃなくて徹夜が当たり前のような仕事で、48時間ぶっ通しでやった
こともあったが、「ハイ」な気分になったりするのはおかしかった。「始
発まだやから僕の車で送っていきますわ、同じ方面やさかいに」「そう
か、助かるわ」・・・居眠り運転されて怖かったこともある。

一仕事してディレクターとおしゃべりしたりする。彼はフェラーリとホ
ラー映画が大好きだった。

「徹夜明けで風呂入って昼めし食ってさ、ちょっとテレビ見たりするじゃ
ん、なんかゴミみたいな番組ばかりで、あれどないなってるんや」
「だって修一さん、昼過ぎから夕方まで、普通の人はテレビ見ませんで、
仕事してますよ。普通じゃない人が見てるんですわ。呆け老人とか、犬と
か。あの時間帯の担当なんて誰もやる気ないですわ、適当に昔の映画とか
ドラマの再放送を流しておけば十分ですよ」

では午後6時とか7時以降は見るに値するか。「8時だよ、全員集合!」は
集合する価値があるのか。9時以降はどうか、大の男が見るべきものはあ
るのか。変な女がキャスターを務める「クローズアップ現代」を見れば現
代が分かるのか。リベラル≒アカモドキということは分かるが、一度分か
れば十分ではないか。

テレビ会社の社長はまずテレビは見ていない(検査入院して自社の番組を
見て、あまりにもの低俗さに驚いた、という話がある)。ビジネスマンで
テレビを見るのはごく稀で、ほとんど話題にも上がらない。商売に関係す
る番組は見ることもあるが、新聞を含めて必要な情報は大体広報がコピー
して持ってくるから、自分でナマで見ることはない。休日でもあまり見な
いだろう、ゴルフぐらいか。

ゴルフを見ていたって「スポンサーはどこや」、ライバル社が協賛してい
れば「宣伝部は何やってるんや」と気になったりして・・・月月火水木金
金、24時間戦うのはトップにとって日常茶飯事だ。戦死は名誉。閑話休題。

テレビは女子供のオモチャ、ということ。意味のある情報はテレビではな
く、商談やら会議やら、接待や懇親会やら、リークその他の手段で得るの
がビジネスマンだ。テレビや広告などの業界人はともかく、テレビを見て
賢くなった人を小生は寡聞にして知らない。「テレビは古稀を過ぎてか
ら」でええんでね?

テレビは見るものではなく「稼ぐための手段や」とワルやスネ夫どもは
思っている。見るのではなく「出る」、機械やソフトを「創る」、モノ・
サービスを「売る」手段だと思っている。博打で家は建たないが、胴元に
なればカネも女も酒も手に入る。盆の下は宝の山や。

賭ける客は鴨葱。競馬、競輪、競艇、パチンコ・・・胴元が一番儲かるこ
とになっているんやで。宝くじなんてほとんど詐欺、犯罪的や。テレビで
一番儲けているのはテレビ局、30歳で年収1300万円、こういう真実、リア
ルはテレビを見ても分からんで。

ただ、80%くらいの人=消費者はテレビを見る、その影響力は大きいのだ
が、昔から「まじめな話は暗くなる」から、視聴率を稼ぐためには「面白
い、楽しい、愉快」な番組にならざるを得ない。視聴率が高ければええん
や、アホな番組でもな。

スポンサーの社長としてはCMもゴールデンタイム に集中的に流したい
が、どーでもいい時間帯の枠まで抱き合わせで買わさ れたりするのかも
しれない。公取に叩かれるから今はないだろうが(それ とも巧妙になっ
たのか)。

広報担当者は当然ながら自社の広報に努めるのだが、記者と仲良くしてい
ないとまずい。記者はいいネタをもらうために広報と仲良くしていないと
まずい。利害が合ってウィンウィンや。広報は他社の動向、行政の動き、
本音なども記者から得る。記者も同様に広報からネタを仕入れる。

「いいネタあるんやけど、昼飯一緒にどうや」
「じゃあ11時45分頃に鴨川で待ってますわ、あそこ個室やさかい」

「――てなことでな、日経さんだけにリークしてんのやから、明日の朝刊の
トップ、とは言わんが1面に載せてほしいんや」

「できるだけやってみますわ。役員さんに取材できますかね」
「うん、大谷常務と池谷部長には日経さんが取材に行くかもしれんとは伝
えてあるさかい」

かくしてスクープになり、他社は慌てて広報に電話する。釣り針に引っか
かるわけや、「11時に記者会見します」。で、その日の夕刊には後追い記
事が出て広報はニンマリ。さらに役員連中も取材に応じさせるから、翌日
の朝刊もそのニュースの続きが載る。広報は上司、役員から褒められるわ
け。スクープした記者もデスク、編集長から褒められるという仕組み。

警察とヤクザ、警察と朝鮮総連、総連と日共/リベラル/マスコミも「持ち
つ持たれつ」のウィンウィン関係ではないか。

「シーチン、おまえ、こんなところで何してんのや」
「あ、〇暴のダンナ、久し振りです。町会から学童の登下校の見守りを頼
まれたもんやさかい」

「お前、誘拐すなよ・・・暇そうやな、シノギはどうや」
「暴排でもうダメですわ、任侠のビジネスモデルは崩壊しましたで」

「お前んとこのシマのミカジメ料もダメか」
「ダンナ、ダメにしたんはダンナじゃないでっか」

「わしやてしとうてしたわけやないで、しょうもないわい、東大出のクソ
ガキみたいなのが署長に来て厳命されればやらざるを得ん。裏社会のネタ
をもらうにはヤクザとも上手くやらんといかん、ヤクザがおるから俺らも
食える、天下り先もある、取り締まりもほどほどが大事やと、そう言って
も通じる相手やないんや。何しろお受験階級、文化資産階級やさかい、ど
ろどろした世間の裏、人情の機微なんぞ、いくら説明したところで分から
んからな」

「ダンナも大変やな・・・なんか、仕事ないですかいな、用心棒と
か・・・まともな履歴書を書けるわけもないんで、苦労しますわ。カミサ
ンからも就職しろ、いつまでヒモでいる気やと、きつーく言われてまっさ
かい」
「いや、俺もなこの春に定年退職でな、どないしようかと迷っているんや
が・・・お前、大松ホールの用心棒はどないや」

「本社は目黒ですやろ、総連幹部の金さんが経営しているとかで、ちょっ
と遠いですなあ・・・あそこ、小鉄会系碑文谷一家のシマのはずやが・・・」
「うん、傘下の中川組やったんやがこの前オヤジが死んでな、舎弟は皆
そっくり警備会社へ移って、大松ホールもそこが出入りしてるんやが、半
グレがのさばっても以前のようにボコボコにできんさかいな、ちゃんとし
た用心棒を探しているそうや。どや、紹介したるで」

「ハハ・・・ちゃんとした用心棒・・・まあ、カミサンに相談してみます
わ。あ、そうや、住吉会のヒットマンの沢渡さん、府中から出たそうです
わ、20年ぶりに娑婆に出ても帰る組がないんやから気の毒で・・・昔の仲
間が奉加帳を回してカネを集め、今は綱島でラーメン屋をやっていると
か。確かドンパチ家って言うらしいですわ」
「チャカの達人がラーメン屋・・・時代は変わるわな、もう俺らの時代や
ないんやろなあ」

「ダンナはどこに就職するつもりなんですや」
「まだ決めてはおらんのやけど、金融業、保険業、私鉄、警備会社、建設
会社、パチンコ屋あたりかなあとは思うとるが・・・先輩もおるしな。セ
ガサミーとかゲーム/ソフト会社の総務あたりの口を探しているんやが、
任天堂とかが‟おいでやす京都へ”と呼んでくれるんならすっ飛んでいくん
やが・・・待遇ええとこは競争が激しいさかい、苦労するで」

「退職金もあるんですやろ、ノンビリやったらええやないですか。暇つぶ
しにうちらみたいな極道の社会復帰を応援するNGOを創るとか・・・・」
「競艇のアガリで笹川さんがやってはるが・・・金欠の庶民はそうもいか
んのや、住宅ローンの残りを返すとバアサンと2人暮らしでもカツカツや
で。再就職せざるを得んのや・・・そうそう六角組と貴田組の小競り合い
な、なんか知っとるか」

「何や“シッテルカドウカソレイケ”とかいうサーカス興行で蒙古組につく
かどうかのけったいなデイリみたいですが、ネタがあったら連絡しますわ」

「頼むで、じゃあまたな」

「信頼関係」とは言うものの、持ちつ持たれつ、阿吽の呼吸。馴れ合い、
相互依存、癒着、腐敗、二重スパイとかにはなりやすい。ゾルゲ事件は大
したものだった、ゾルゲはロシアでは今でも英雄だ。騙された近衛文麿
は・・・ま、血縁の細川護熙を見れば分かるだろう、いい人だけどバカ殿
様・・・

北朝鮮による拉致犯罪は1977年あたりから始まった。戦後の南北の経済、
シノギはどんな具合だったのだろう。

日本のタガが外れた半島は「仁義なき戦い」でマッカーサーもお手上げ、
「この際、原爆を」と提案したらクビを斬られて大統領の夢も消えた。ス
カシッペで「あの戦争は日本の自衛戦争だった」と議会証言したが話題に
もならず、「老兵は去るのみ」と隠居し、最高機密を持ったままご逝去。

全部ばらせば日本では称賛されるが、米国では完全に無視され、マッカー
シーの二の舞になってしまうからそうはいかない。「不都合な真実」はマ
スコミ≒アカモドキの「報道しない自由」で隠蔽されるのは世界一緒だ。

朝鮮戦争の休戦/1953年以降は南北とも焦土の中から国造りに励んだが、
南は米国の、北はソ連・中共の援助頼りで、復興はなかなか進まず、それ
でも北は鉱物資源が豊富で重工業インフラも残っていた分、南よりはかな
りマシだった。

<朝鮮戦争で大被害を蒙った北朝鮮は、ソ連や東欧諸国、中国からの援助
を受けつつ(民需ではなく軍需のために)重工業中心の産業復興を進めて
いく。(ソ連、中共などからの)援助効果もあって3カ年計画
(1954〜56)は順調に遂行され、計画を上回る速さで戦後復興していく>
(WIKI)

それに比べて南はだいぶ遅れ、世界最貧国とさえ言われたものだ。

<南北に分裂したとき、南朝鮮には工業としては紡績工場とソウルを中心
とした軽工業しかなかった。頼みの農業も日本、満州から大量の人が引き
揚げてきたこと、肥料工場が北にしか無かったことから肥料不足になり、
食料品まで不足した。

日本統治時代は日本に農産物を売り、その金で消費 材を買っていたの
が、その農産物すら不足する事態となったのである。更 には北朝鮮から
の送電を絶たれ、韓国の国民の命を守ったのは、一にも二 にもアメリカ
の援助であった。

韓国のように資源の無い国で、国を興すには貿易に頼るしかないはずであ
る。しかし李承晩は独立前最大の貿易国であった日本との国交回復を拒否
し、物乞いと強請(ゆすり)に徹したのである。1961年に朴大統領が政権
を取ったとき、韓国は北朝鮮やフィリピンより貧しかった>(ネット「戦
後の韓国」から)

共産圏のリーダーは横綱・ソ連がダントツ、3役が不在で前頭筆頭・中共
が続く。「競争的共存の課題 国民生活の比較」(岩波)によると、1957
年は共産圏にとって多分、最高の年だった。ソ連はトップを走る米国の背
が見えるまで発展した。大陸間弾道弾の完成(8/26)、人工衛星の成功
(10/4)、小型水爆弾頭の完成(10/6)は世界に大ショックを与えた(ま
るで今の北そっくり)。

ソ連に頭が上がらない毛沢東はスターリンが死んで機嫌が良かったのだろ
う、「東風が西風を圧倒している」(11月)とはしゃぎ、モスクワ宣言は
「社会主義は資本主義より優位だ」と誇った(11月)。

1917年のロシア暴力革命から40年、WW2大戦に勝利してから12年、死屍
累々、血だらけになりながらの「快挙」に、共産圏のみならず世界中のア
カやアカモドキの誰もが「世界は共産主義へ向かう」と美酒に酔いしれた
のだ。

現実は残酷なもので、ソ連は共産連峰の最高峰に赤旗を立てて万歳3唱し
たが、雲が晴れたら西側連山のはるかに高い峰々がそびえていた。ソ連に
用意されていた道は下山路だけで、33年後にはソ連自体が消えてしまった
のだ。

毛沢東は、はしゃぎすぎて1958〜61年にかけて「大躍進」という農工業の
大 増産政策を進め、米英を追い越すんだと意気込んだ。結果はさんざん
で、 経済の大混乱により1000万〜4000万の餓死者が出た。「毛沢東は生
涯で ただ一度の自己批判を行って、国家主席を辞任した」(WIKI)。

当時は共産圏が落ち目になるとは誰も思わなかった。アカい人々は相変わ
らず「やったね、GJ!」と1950年代末〜60年代まではどうにか夢の余韻と
いうかウオツカや老酒の酔いは残っており、日本では60年にアンポハンタ
イ、キシヲタオセのデモが盛んだった。

この中で「在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」が進められた。いろいろな理由
があるのだろうが、情報不足のためだろう、「北は大発展している、共産
主義の夢をかなえ、この世の天国だ」という見方が日本では急速に広まっ
た。マスコミ記者の多くは元々がマルクスボーイあがりでアカに同情的
(当時はそれがインテリの一般的な初期設定)で、たとえ現地取材したと
ころで北の宣伝に乙女のごとく騙されるだけだから、記事は「この世の天
国」のオンパレードになったろう。

在日朝鮮人は大体が貧しく(日本全体が食うことだけでも大変だった、小
生は今でもサツマイモとカボチャにはうんざりする)、たとえ大学を出て
も就職先はパチンコ店といった辛い、悲しい事情もあった。

そういう時に 「この世の天国に帰国しよう」という熱狂が起き、小泉純
一郎の父、小泉 純也議員(クリカラモンモンの代議士、小泉又次郎の女
婿)は先頭に立っ て「朝鮮人はかわいそうだ、北へ帰してやろう」と国
会で、あるいは街頭 で情熱的かつ人道的に訴えたのだ。

純也は小泉家に婿入りしたのだが、生い立ちが貧しく、大変な苦労人で
あったから、在日への同情心が強かったのだろう。ただ、それだけではな
く、選挙の事情もあったようだ。

<小泉純也は1950年代末、在日朝鮮人の帰還事業に中心的な役割を果たし
た。当時、自民党の国会議員でありながら「在日朝鮮人の帰国協力会」の
代表委員に就任し、在日朝鮮人の北朝鮮送還のため積極的に活動した。

国際政治経済情報誌「インサイドライン」編集長・歳川隆雄は、小泉純也
が在日朝鮮人の北朝鮮送還に積極的だった理由について「当時、純也の選
挙区である神奈川2区に、多数の在日朝鮮人が居住している川崎市が含ま
れていたためと推定している」とし、「冷戦の真最中だった当時、自民党
議員の身分で社会党や共産党と超党派の会合を開くこと自体が異例だっ
た」と述べた。

また歳川は「純也が、1930年代に朝鮮総督府で事務官として働いたことも
あった」と述べた>(WIKI)

小生の街は今は神奈川9区で、純ちゃんというか小泉家の選挙区(横須
賀)とは違うが、かつては小泉純也の選挙区であったわけだ。「彼はなぜ
に在日朝鮮人の帰還事業に燃えていたのだろう」というのは長い間の疑問
だったのだが、前回書いたように川崎市民は概ね“難民キャンプ”のような
朝鮮人の不法占拠、粗末なバラックを「どうにかしてほしい」と思ってい
たのだろう。小泉純也にも陳情したはずだ。

彼にすれば「それなら“この世の楽園、天国”である北へ帰ってもらうのが
いいだろう、在日もハッピー、川崎市民もハッピーだ」となる。義父・又
次郎の侠客気質、任侠道の影響もあって猪突猛進したのだろう(単細胞の
純ちゃんもその血をひいている)。

当時は北がまさかの「この世の地獄」だとは誰一人想像もしていなかった
のだ。韓国でもごく一部の情報通しか知らなかった。それなのに情報通は
沈黙し、隠していた。彼らにとってそれは実に大きな「不都合な真実」
だったからだ。報道しない自由、公表しない自由・・・不作為がやがては
大きな不幸になる。

久し振りに快晴で温かく、屋上の鉢に水遣り。もうすぐ白梅も開花するだ
ろう、心せわしい季節になる。

たくましく 優しき男に 触れもせで 悲しからずや セクハラ説く君
(修一)

「亀戸に物凄い美人が出る!」・・・独占はあかんとちゃうか、公取にゲ
ンコツ食らうで、皆でシェアするのが今のやり方や。「どや、君、僕と共
鳴せえへんか、松葉くずし、僕得意なんや、今ならお試し期間中や
で・・・」、これってセクハラ? 日々問題が蓄積される発狂亭“リバー
スボストンクラブ”雀庵の病棟日記から。

【2016/12/11】日曜、快晴。産経から。*山口直子「いま再びの『風塵
抄』」。

<(司馬は)平成5年にこんなことを書いていた。「中国文明は偉大だ
が、古来“私”の文化であり続けた」と。皇帝も大官(官吏)も庶民も私で
あり、その“私”を壮麗な倫理体系にしたのが儒教であった」という。孫文
はそれを嘆き「天下為公」(天下をもって公となす)と書いたそうだ。
「彼は中国の近代化を志すにあたって、中国人の“私”について、ときに恐
怖し、ときに絶望していた」

いま隣の国で起きている事柄の根っこにあるものはこれかと、今さらなが
らに合点がいった>

支那、儒教・・・親に孝、君に忠・・・それも私利私欲、幇利幇欲(幇=
支援、互助会とか仲間内の利欲)のためであり、古代から今日まで独裁王
朝が続き、天下国家を憂える人はごく少数だ。憂国の士は国家転覆罪で殺
されるから、何清漣女史が嘆くようにリーダーがいないのだ。女史も身の
危険を察知して米国へ逃れた。

軍閥も所詮は私利私欲なら、今の中共独裁体制で軍事費が伸び、蓄財も増
えていけば満足なのだろう。ソ連が崩壊したくらいの財政破綻、大不況、
あるいは敗戦、暴動、腐敗摘発拡大といった大ショックがない限り、支那
は変わらないだろう。

*関厚夫記者「信長最期の言葉『言語道断』深まる謎」によると、最期の
言葉は「是非に及ばず」とか「是非もなし」あたりで、小生もそう思って
いた。「敵は光秀か・・・しょうがない、今さらジタバタしてもどうにも
ならん」という意味だと思っていたのだが、信長が内心では見切りをつけ
た幕府の足利義昭将軍が光秀に襲撃させた、それに対して信長が「義昭、
光秀は言語道断、けしからん」という意味で「是非――」と言ったのだとい
う説が多数派だそうだ。

当時の本能寺は広大な敷地にあったため、信長は「猿にこの顛末を伝え
よ」とお側衆の何人かを逃がし、それが「是非――」や最後の戦いの様子を
伝えたのではないか。秀吉は毛利方の間諜を捕らえる前に信長の最後を知
り、感銘し、泣いたはずだ。そういう侠気が全軍を奮い立たせ、1日に70
キロを疾駆する驚異の「中国大返し」になったのだろう。

奇跡の君主は希代の名優でもある。歴史に名を刻む人は「今、俺は歴史の
中にいる」と強烈に自覚しているのではないか。「今、俺は精神病院にい
る」、絵にならんな。

*田村秀男記者「日米緊密、米中緊張の時代 通貨と安保政策は一体で」。

<通貨を縄張りにする財務省は親中派が多数を占め、外交、安保を仕切る
外務省は経済音痴で、ワシントンの意向次第だ。中共の通貨、貿易を原動
力として軍事的脅威をアジアにまき散らす仕掛けに関し、日本の官僚は気
に留めなかった。

安倍政権はこの機を逃してはならない。通貨と安保を一体にした対中戦略
でトランプ政権と足並みをそろえるチャンスである>

まことに正論だ。が、官僚の多くは発達障害、リベラル≒アカモドキだか
ら八方美人的で、政権がよほど強く出ないと動かない。気に入らない政策
でも反対はできないから、サボタージュで抵抗する。ロシアのことわざに
は「馬と女は殴って調教しろ」というのがあるそうだ。レーニン、スター
リンは殴るどころか殺しまくって人民を恐れさせ、イエスマンにした。日
本の官僚も信賞必罰で調教しないとまともにならないのではないか。(つ
づく)2018/2/15

2018年02月15日

◆拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇 第1章

“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(92)】2月11日は「紀元節」、今の呼称で
「建国記念(の)日」だが、明治に制定された。

<神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり、そ
の即位月日を明治に入り新暦に換算した日付(が2/11)である。

1873年(明治6年)に、2月11日は、日本国の建国の日として「紀元節」と
定められたが、戦後の1948年(昭和23)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止され
た。その後、復活の動きが高まり、「建国記念の日」として、1966年(昭
和41)に国民の祝日となり翌年から適用された。

なお、神武天皇は、古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存したと
あるが、現在の歴史学では、考古学上の確証が提示されていないこと、ま
た古事記や日本書紀のその神話的な内容から、神武天皇が実在した人物か
も含めて、その筋書きをそのままの史実であるとは考えられていない>
(WIKI)

神武天皇などが活躍した当時は「春と夏で1年、秋と冬で1年」だったとい
う説があり、これに倣えば神武天皇は60代で没。それでも当時としては長
寿だろうが、不自然ではない。

神武東征というのは、西日本の諸部族を平定した勢力が東へと押し出し、
諸部族に「仲間になるか、それとも戦で決着するか」と迫り、兵力を増や
しながら東進して紀元前660年1月1日 (旧暦)に建国を宣言した、というこ
とだろう。

塩野七海氏は「(ローマの建国神話には、ローマの始祖は狼が乳を与えた
双子だとあるが)神話は史実かどうかはさておき、国民がその物語を受
容、共有することに意味があるのだ」と書いているが、多くの日本人は、
というか少なくとも小生は「神話時代はともかくも2000年は日本という国
が連綿として続いている。世界史の奇跡ではないか」と誇りに思う。

万世一系、代々の天皇が直接的あるいは間接的であれトップに君臨し(初
期設定)、諸勢力の争いがあってもそれを超越して泰然自若としてあり続
けるというシステム(OS)を編み出したのはすごいし、それを国民(ユー
ザー)が支持し続けたというのもすごい。(温度差はあっても、少なくと
も「大黒柱とか心棒とか、受け皿とか、ないよりはあったほうがいいよ
ね」とは思っているだろう)

喜びも 悲しみもともに 2千有余年 陽射しのごとく 天地育む(修一)

前回「バカチョ〇」に触れたが、小生が小学生の昭和30年代でもわが街の
多摩川の土手の街側には朝鮮人集落があった。不法占拠だ。小学校には朝
鮮人も通っていたと思う。僕らは下校途中で「チョーセ〇人はカーワイ
ソ、地震のためにおうちはペッチャンコ」と声を張り上げたことがしばし
ばあった(関東大震災で生まれた言葉らしい)。チョーセ〇人の子はケン
カが強いと、子供たちからは敬遠されていた。

川崎市から最後の朝鮮人集落が撤去されたのは20年ほど前で、高額な補償
金に市民は「なんなんや、泥棒に追い銭かいな」と大いに困惑したもの
だ。今はマンションが建てられているが、集落の人が優先的に入居してい
るのかもしれない。

日本の敗戦で朝鮮半島には2つの国ができた。大韓民国(1948年8月15日
樹立、通称韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(1948年9月9日樹立、通称北
朝鮮)だ。

その3年前の1945年8月には日本の敗戦が決まったのだが、半島では連合国
の意向でしばらくは「連合国による暫定統治」、実質的には日本の統治
(行政機構の運用)が続いていた。

連合国は「朝鮮人は国家統治の経験、能力に欠けるから、日本による統治
をしばらくは続けざるを得ない」という判断だったのだろう。ソフトラン
ディングを狙ったわけだ。

日本でも占領下におかれてはいたものの天皇制と日本政府は存続し、ソフ
トランディングが進められたが、食糧難他いろいろな困難があり、その一
つには、日本が朝鮮半島の主権を放棄すると、敗戦国民でも勝戦国民でも
ない“第三国人”の在日朝鮮人の法的立場が曖昧になってしまったこともある。

このために戦後は朝鮮人が暴れまくった。政府も警察も国内法で彼らを制
圧していいのかどうか、ひるんでいたようだ。何しろ国家主権のない占領
下なのだから。

朝鮮人はやりたい放題。駅前の一等地の不法占拠、警察署襲撃・・・怖い
ものなしだ。

小生の大学時代の友人、石館君は卒業後に中国新聞社に就職したが、彼が
よく言っていたのは「日本中で朝鮮もんが暴れまくったが、広島でも警察
は役に立たず、代わりにヤクザが朝鮮もんを押さえ込んだやで」。WIKIから。

<『仁義なき戦い』は、日本のノンフィクション。作者は飯干晃一。本作
は戦後の広島県で実際に起こった広島抗争を、当事者の1人である美能幸
三の手記に飯干が解説を加えた作品。

美能幸三が獄中で書き綴った手記をベースに、飯干晃一が1972年(昭和
47)「週刊サンケイ」5月26日号から連載したノンフィクション。原作は
半分近くを美能の手記を引用しており、戦後の実際に起こった広島抗争
で、当事者の1人である美能の手記をベースに、飯干が補筆し当時の状況
を解説した内容が掲載されており、出版し続けている会社もドキュメント
として本書を紹介している。

団体・人名・地名も全て実名で載っており、手記と解説が一対になり、事
件や行事ごと、広島抗争が時系列に沿って進む。「週刊サンケイ」で連載
が開始されると圧倒的な人気で、印刷所ではゲラ(校正用の試し刷るり)
の奪い合いになったという。

獄中手記を美能が執筆した原動力は、1965年(昭和40)に中国新聞報道部
記者である今中瓦が『文藝春秋』4月号に執筆した「暴力と戦った中国新
聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録"」という記事への反論から
であった。網走刑務所で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を
見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、読むと10日間メシが
食えない程腹が立った。

ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで
書かれている。"美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を
交わした"、"破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた"という記
述など。特に美能は "打越会に助けを求めた"という部分にプライドを傷
つけられた。

「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙って
はいられない。ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机にかじり付い
た美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミに対する怨念を込
め、7年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた。手記は汚名返上の執念
が書かせたものであった。

このため廻りまわって「週刊サンケイ」から連載が決定した時、"登場人
物を全て実名で掲載すること" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラ
ブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名
でなければ断る」と頑なであったという。「週刊サンケイ」の矢村隆編集
部次長が、掲載許可を取り付けるため、美能と会ったのは、1971年の秋、
東京のホテル。

美能は無関係の第三者に読ませるつもりはなかったが、5度目の交渉で首
を縦に振った。この時の条件が前記の登場人物の実名掲載であった。矢村
が編集長と相談し、条件を飲んで正式に打診した。現在とは社会背景も大
きく違うとはいえ、当時『仁義なき戦い』が実名のまま世に出たことは、
まさに驚愕に値する。「週刊サンケイ」の担当者は、数多くの恫喝をヤク
ザから受けたといわれる>

毒を以て毒を制す、江戸時代からの伝統で、ヤクザがチンピラの乱暴狼藉
を押さえ込んで、配下にするわけ。飯岡助五郎のように十手を持った親分
はゴロゴロしていたのではないか。今、ヤクザが弱体化しているために半
グレというチンピラが増えているとか。

こういう経緯もあってヤクザには朝鮮人、朝鮮系が多いのだろう。暴れん
坊を押さえつけてしつけられるのはジャイアンしかいない。

小生は警察の組織犯罪対策部(通称「〇暴/マルボウ」)のデカに若かり
し頃、睨みつけられたことや、彼らの忘年会を近くで眺めたことがある
が、ヤクザと誼(よしみ)を通じて情報を得るのも〇暴の大事な仕事だか
ら、顔つき、しぐさ、服装はほとんどヤクザだった。見分けがつかないと
いうか、ヤクザ以上にヤクザらしかった。ジャケットは寅さん風に肩にか
けただけで周囲を睥睨するように歩くさまは、まるで菅原文太。

健さんもかっこよかったが文太もえかったで。

「男が世に立つ以上は、人の風下に立ったらいけん。一度舐められたら、
終生取り返しがつかんのがこの世間いうもんよ、のう。ましてや侠客渡世
ならなおさらじゃ。時には命を張ってでもという性根がなけりゃ親分とい
われるような男にはなれんわね・・・

最後じゃけん、云うとったるがよ、狙われるもんより狙うもんの方が強い
んじゃ、そがな考えしとったら、スキができるど」

文太は東映労組のボスだったが、労組は大体がアカとの親和性が高い(ソ
連の映画や舞台芸術に憧れたりする)。戦後の混乱は戦後動乱、戦後革命
(内乱を革命へ転化せよ!)の絶好の機会でもあるからアカは占領軍を
「解放軍」と言って大喜びしていた。

日共こと「コミンテルン日本支部」の宮本顕治(通称ミヤケン)は戦前の
1934/昭和9年にリンチ事件で“同志”を殺しており、殺人犯として刑務所
(ほとんど温暖な東京)暮らしだったが(大物だから待遇はいいし、セレ
ブのカミサン、百合子が仕出し屋に毎日弁当を届けさせたから多分、麦
シャリはほとんど食べなかったのではないか)終戦で釈放された。思想
犯、政治犯ではない「ただの人殺し」なのにGHQは間違って釈放したのだ
ろう。

小生はミヤケンに義理も恩も恨みもないが、スパイ容疑で“同志”を査問中
に“同志”が逃げ出そうとするのを柔道が得意のミヤケンが体固めで締め付
けたら「死んじゃった、どないしょ!?」という、まあ事故死的な面が
あったようだ。今ならミヤケンは暴行傷害致死あたりだろうから、「殺人
犯」とまでは言えないかもしれない。

ミヤケンは今の日共の始祖みたいな感じだが(要は権力闘争に勝ったわ
け)、彼がいなければ日共の歴史はずいぶん違ったものになっていたろう。

上意下達で党内議論を認めないという党内の空気は彼が作ったのではない
か。関東大震災の前年、1922年の結党から間もなく100年を迎えようとし
ているのに、革命の「か」の字もできずに「確かな野党」に甘んじてい
る。政権を取るなんてとっくに放棄しており、日共一筋、2代、3代の赤い
血筋が評価される世襲制の利権集団でしかないようだ。北朝鮮そっくり。

「任侠」同様に戦後の「日共」にも多くの朝鮮人がいた。以下はサイト
「日本共産党の正体」から。(2005年の記事らしいが、初出媒体、著者=
林玲の詳細は不明。2003年に日共を追放されたNO.4の筆坂秀世あたりが書
いたのではないか)

<「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話 ジャーナリスト
 林 玲

【5月25日、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が、創立50周年を迎え
た。北朝鮮を支持する在日団体として、何かと話題になることが多いが、
かつての日本共産党との深い関わりを知る人は少ない。日本革命を共に目
指した在日朝鮮人のコミュニストの多くが、総連結成に参加したのであ
る。党史から抹殺された秘話をジャーナリスト林玲氏がレポートする】

今では党史のどこにも書かれておらず、すっかり忘れ去られているが、実
は日本共産党は戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人と共に歩み、大いに助
けられた。

共産党と在日朝鮮人の関係を辿ってみよう。

1922年(大正11)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝
鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン(共産主義インターナショナル)
の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に
所属した。ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中の
ホー・チミンやトウ小平がフランス共産党に入党したのと同じである。

戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、
共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931
年(昭和6)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めて
いた。

1945年(昭和20)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務
所を出獄した。その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的
に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。その後、催された歓迎大会の会
場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは、獄
中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から圧倒的な
支持を集めていた、云々>(以上)

金天海はその後、北へ行ってから消息はぷっつり絶えた。処刑されたのだ
ろう。

反社会的なヤクザ組織や、共産主義革命を目指す日共、北の出先機関であ
る朝鮮総連に多くの朝鮮人がいる。つまり政府や警察の監視対象であり、
今でもそれは変わらないだろう。何があったのか、次回も闇を覗いてみよう。

天気が良くても風が冷たく、風邪の再発を恐れて外で遊べず、終日PCに向
かうしかない孤独な(Kは友達とスーパー銭湯1泊)発狂亭“ファルコンア
ロー”雀庵の病棟日記から。格闘技には、一歩間違えると「自滅技」にな
りかねないものも多いが、総じてこの世はそういうものかもしれない。わ
しゃ、自滅の連続だあ!

【2016/12/9】金曜、快晴。

*産経から。榊原英資「正論 統合危うくする反EUの歯車」、曰く――

<戦後、統合と経済の自由化が進んできたが、再び主権国家への回帰、保
護主義化が進んできている。リベラリズムや寛容な態度でまとめて一つの
ヨーロッパをつくり上げたのがEUであり、確かに難民などの問題を生んで
しまったのだが、その理念に立ち返るときではないか。

日本は自由化の流れを止めない、保護主義を食い止めるという、グローバ
リゼーション=GLBのリーダーシップを取るべきだ>

GLBとは、国境をなくす or フェンスを低くし、ヒト、モノ、カネができ
るだけ自由に動けるようにすることだ。それにより経済は活性化し、夢と
希望にあふれ、自由化=〇、保護主義=×だった。

日本で派遣労働が認められたころ、識者は「年功序列、終身雇用という労
働市場の固定は不合理だ。企業は必要な時に必要な労働力を求めており、
労働市場の流動化は進めるべきであり、生産性向上に繋がる」と主張して
いた。

どうなったか。結局は非正規雇用が急増し、多くの労働者の収入も減った。

モノとカネの流動化は、賃金の安い後進国、中共など新興国への工場移
転=国内製造業の衰退、産業空洞化、失業率の上昇、景気悪化を招き、
「就職氷河期」などと言われた。

米国ではGLBにより「早く儲かればよし」とする風潮に一層拍車がかか
り、自動車の街デトロイトをはじめ中部の製造業都市は軒並み空洞化にに
より壊滅的打撃を受け、今やラストベルト(鉄サビ地帯)と呼ばれるよう
になってしまった。

EUには移民、難民モドキが押し寄せ、低賃金化、既存労働者の解雇が進ん
だ。英国のEU離脱、欧州全体での“極右”の台頭、米国のトランプ勝利は、
明らかにGLBの大失敗を示しているのではないか。

globalization という造語以前は globalism と言っていたが、後者は孤
立主義に対する言葉で、「世界的干渉主義」の意だった。国家、国民、民
族、人種にはそれぞれの歴史、伝統、文化、成り立ち、価値観がある。国
家主権とは、「アナタはアナタ、オレはオレの道を行く」ということで、
タガをはめるのなら国連、WTOあたりでいいものを、言うことを聞かなけ
れば「村八分にするぞ」と干渉しまくり、脅かし続ければ、アカモドキの
EU真理教から皆が目覚めてくる、「うちらの主権どないなっているんや」と。

榊原などリベラル≒アカモドキは、どうせ東大出て大蔵省か外務省の官僚
を務めたバカだろう。お花畑の邪論、愚論、暴論、詐論、偽論のどこが
「正論」なのか。読者はこの手の妄言を読むためにカネを払っているので
はない。編集者はよくよく反省すべし。(つづく)2018/2/13

2018年02月13日

◆自衛隊加憲の「発議」を期待

宝珠山  昇 

憲法改正論議の中で、自衛隊加憲(9条1項2項をそのまま残し、憲法に自
衛隊の根拠規定を加えることをいう。以下本稿中同じ)を巡って、平和安
全法制が容認している集団的自衛権の行使にかかる部分を除去しなければ
反対だ、とか、自衛権行使の限界を、憲法の条文に書き込むか、法律に委
ねるのが良いか、などが論議されている。

半世紀以上、いわゆる解釈改憲、自衛権行使体制の整備の現場に、直接・
間接に関わってきた者の一人として所見を述べたい。

 〇自衛権の行使は、憲法や国連憲章で認められているか否か以前の、自
然法の根本理念、いわゆる砂川事件に関する最高裁判決の明言している通
り、主権国家の固有の権利である。集団的自衛権も当然これに含まれる。

この自衛権は、これを行使する国、民族、集団、個人の意思と能力と環境
によって限界づけられる。

これまでの日本は、憲法9条第1項が規定している「正義と秩序を基調とす
る国際平和」状態、願望的な環境の実在を信じてか、あるいは暗黙の前提
としてか、意思と能力を最小限度に縛る振る舞いをして来た。集団的自衛
権の行使は憲法が許容していないとも解し得る政府統一見解も出された。

 〇平和安全法制は、次の「3要件」を満たすものは、国際法的には集団
的自衛権に仕分けられるものがあっても、新しい環境の下では、憲法も否
認できない最小限度の自衛権行使の範囲内のものであり、行使できるとし
ている。これは従来の政府統一見解などに違背するものでもないとしている。

●自衛の措置としての武力の行使の3要件

 (1)わが国に対する武力攻撃が発生したこと、又はわが国と密接な関
係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅か
され、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危
険があること

 (2)これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適
当な手段がないこと

 (3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

 〇これに対し、この3要件の下では、自衛隊が、専守防衛を逸脱し、地
球の裏側まで行って武力行使することになる、などと主張し、自衛隊は合
憲と認めな がらも、自衛隊加憲に反対する国会議員がいる。

自衛隊加憲は、現行の平和安全法制を変更することとなるものではない。

平和安全法制は、前記の3要件を全て満たす場合に、国会承認などの諸手
続きを経て、自衛隊を諸法を順守して行動させることとしている。

(地球の裏側まで行くことが)あるか、どうかは、前記の3要件を満たす
かどうかの判断にかかわるものである。この判断は、その時の国際情勢な
どを踏まえ て、国権の最高機関が総合的に決断すべきものである。

この判断基準を予め規定などしておくことは、変転極まりない生存環境を
踏まえれば、不可能、不適当なことである。その時々の主権者及びその代
表の判断 に委ねる他ないものであろう。

また、わが国が、3要件の下で、同盟国の要請などに従って(地球の裏側
まで行って)集団的自衛権を全面的に行使しなければならない状況に至る
こと、そ れ程までに同盟国の力が低下すること、などを懸念しなければ
ならない状況はないは ずである。

万一、そのような状況が現出した場合には、国権の最高機関が、法律の
定める国会承認に際し厳正に判断、対応すればよいことである。

3要件の乱用・誤用などの防止は、国権の最高機関が行政機関などを確り
と監視・牽制する義務を履行することによる他ないものである。

 〇また、自衛権の行使を、この3要件によることを憲法に規定すること
は、将来の国民の選択の余地を縛りすぎるのではないか等と懸念し、この
自衛隊加憲 に反対する国会議員もいる。即ち、2項を削除し、自衛権行使
の限界は、将来の国民 が法律によって容易に変更できるようにしておく
べきではないか、などの主張である。

これは、わが国が集団的自衛権を全面的に行使する意思と能力と環境を持
てるようになるかどうかを問う、即ち、日本が米中ロのような国になる意
思がある か、成れるか、国際環境がそれを許すか、を問うことと同じで
あろう。この懸念は、 杞憂と言っても良いであろう。

わが国が置かれている基本的戦略環境下では、その意思は持てても、能力
を持つことはほぼ絶望的、環境面でも、選択できない、許されないであろう。

わが国は、日米同盟を、3要件の下で堅持する努力をするのが賢明であ
る。これらは先の敗戦に至る歴史を見れば論じるまでもないことである。

 〇国権の最高機関の構成員が、自衛隊加憲を発議して、国民多数の賛同
を得るように努める責務を果たすことを期待してやまない。 

なお、本稿に関連する小生の呟きについてご興味をお持ちいただける方
は、頂門の一針 4388号(2017年6月19日(月)の「安倍総裁提案の改憲
に期待」、同 4501号〈2017年10月30日(月)の「改憲勢力の増大を喜
ぶ」、同4596号(2018・ 2・4(日)の「国会議員の責務など」や [
http://natdef.exblog.jp]の憲法改正の 項などをご
参照いただければ幸いです。(老生の呟き) (2018年2月11日記)


2018年02月12日

◆「拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇」序章

“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(91)】「築城8年、落城3日」に倣えば「洗
脳1年、除染10年」だ。縁あって小生はマルクス主義にかぶれたが、「あ
りゃあハシカみたいなビョーキ、一度は罹るよ」と当時は言われていたも
のの、病膏肓で「お縄頂戴、下獄」するほどに赤く染まると、余程のこと
がないと除染は難しい。

小生の場合は50歳で胃がんで入院し、抗がん剤の副作用で1年ほどふらふ
ら、ぶらぶらしていた間に勉強し始め、脳ミソのあちこちにこびりつてい
る赤いバグを排除していったので60歳でどうにか除染できた。

理想的には、保釈後の23歳くらいまでに除染すべきだったろうが、まだま
だ迷いっぱなしで、就職し、さらに結婚すればピーピー鳴いている3羽の
スズメにエサを運ばにゃならんので除染まで手もオツムも回らなかった。
で、50の手習になったわけだ。

オウムと同じで、中核派も在家信者と出家信者がいる。中核派の最前線で
暴れるのは出家信者=兵隊で、サティアンならぬアジトとか拠点で暮ら
す。「今日は早朝と夕方は京成船橋の駅頭で署名・カンパ活動、昼間は香
取郡の八街と多古町で家庭訪問、署名とカンパを集める。夕方5時には京
成船橋に再結集だ、遅れるな」なんて指示を受け、交通費と昼食代を貰う。

通常は兵隊(職革/職業革命家、専従という言い方もあるが、現実は末端
兵士、使い捨ての駒、奴隷)になった時点で財布は取り上げられる(オウ
ムそっくり)。カネがないから離脱、逃げるにも逃げられない。パクられ
るまではアジト暮らしを続けるしかない。

カンパで集めたカネは基本的に組織の活動資金、幹部の生活資金になる。
幹部の中には子弟を留学させたり、高級外車を乗り回す者もいる。幹部
(60年安保の主力=ブント共産主義者同盟の残党、良家のお坊ちゃまが多
いようだ)の奥さんは大体が働いており、旦那を支えているようだ。

有名な幹部になるとカンパと言うか、大口の個人献金もある。赤軍派の塩
見孝也は働いて稼いだ経験がほとんどない。出獄後は生活保護とカンパで
食っていたようだ。

兵隊は食事代でパンを買うのが普通だ。まだコンビニも弁当屋もマックも
ない時代だから、腹にたまるのはせいぜいパンしかない。20歳前後の兵隊
はいつも腹をすかしており、デパ地下の試食コーナーでマネキンの目を避
けながらつまんだりする。

1日3本のたばこが配給され(幹部はロングピースを吸い放題で、小生は早
く出世してそういう身分になりたいものだと思ったものである。批判する
ことなど思いつきもしなかった)、1週間に一度ほどは風呂屋へ行けた。
風呂屋では洗濯もするが、靴下なんて汚れでカチカチだった。

アジトでは深夜まで学習、討論というか洗脳教育。船を漕ごうものなら叱
られる、「角栄は睡眠5時間だ、眠たいなどはもってのほかだ! そんな
根性で革命できるか!」。

へとへとになって雑魚寝し、もちろんパジャマなんてない。ひどい時には
スプーン合わせで寝たりする。まるで鯖缶。

お縄を頂戴して下獄し、運よく保釈になっても、3年とか、小生の場合は
10年も裁判が続く。判決を受諾すれば両親が負担した保釈金は返ってくる
のだが、「お前を支えたのは組織と弁護士だ。保釈金は組織に寄付しろ」
となる。兵隊は(同志、組織を売りたくないから)辛うじて統一公判にと
どまっていたが、判決を機に組織と縁を切りたい奴がほとんどで、面倒く
さいから「分かりました、そうします」となる。

組織と幹部にとってはこれはボーナスだから「大騒動、大量の逮捕者」は
大歓迎だった(兵隊になるアホが激減していったので、このビジネスモデ
ルは崩壊した)。

1965年の日韓闘争、その後の新左翼による乱暴狼藉、69年の東大落城、70
年安保(湿気た花火)、夢よもう一度の71年の三里塚騒動(警官3人死
亡)、ヤケクソの渋谷暴動(同1人死亡)で大規模な公然活動は終わっ
た。その後は連合赤軍のあさま山荘事件、リンチ事件が発覚し、新左翼時
代は基本的に終わった。

今はリベラル≒アカモドキに変装して辛うじて沖縄やJR総連、日弁連、日
教組、マスコミに生き残っているが、そのうち消えるだろう。

経済システムとしての「共産主義=資本主義/市場経済の否定」は今では
キューバ以外にないのではないか。中共も北朝鮮も、少なくとも市場経済
モドキになっている。国営企業は続くとしても、庶民レベルでは今さら配
給制度には戻れない。

北朝鮮はこれからどうなるのか。プロが分からないのだから小生も分から
ない。分からないけれど過去を観察することはそこそこできるだろう。そ
こには明るいか暗いかは知らないが行く末の萌芽、兆候があるはずだ。ま
ずは、戦後からの朝鮮半島人の動き、日本人の反応、対応などを調べていく。

@バカチョ〇カメラと言わないで

一時期、「バカチョ〇カメラ」が一世を風靡した。ちょっとした革命で、
駅の売店、観光地の土産物屋、動物園、遊園地などの店・・・どこでも
売っていた。当時世間では「バカチョ〇カメラ」と呼んでいたが、今は
「使い捨てカメラ」とでも言っているようだ。WIKIから。

<レンズ付きフィルムの出現

「カメラとフィルムは分離した製品であり、別個の部品である」という既
成概念を破り、最初からカメラにフィルムを内蔵、取り出しは筐体の解体
を前提としたのが「レンズ付きフィルム」である。

使用者がフィルム装填・取り出しを行う必要はなく、撮影終了後はカメラ
ごと現像・プリントの依頼先に引き渡し、通常のフィルムと同様、現像さ
れたフィルムが返却されると同時にプリントされた写真が渡される(カメ
ラ本体はメーカー側に回収される)。

外部のカメラ機能部分は現像後も返却されず、フィルムを使い切った時点
でカメラとしての機能を果たさなくなることから「使い捨てカメラ」と一
般からは呼ばれもしたが、フジの「写ルンです」は品名を「レンズ付フィ
ルム」とし、他メーカーも「使い切りカメラ」などと称した(流通面にお
いて、カメラの一種ではなくフィルムの一種として扱う必要があるためも
ある)。

写真業界では、1991年に「レンズ付フィルム」を統一呼称とした。資源浪
費イメージの忌避や、実際にメーカーでは回収した機能部分を点検して
(写真業界の義弟が小遣い稼ぎでやっていた)リユースしていることなど
を示し「使い捨て」ではない点がアピールされている>

「レンズ付フィルム」という言葉が普及しているのかどうかは不明だが、
「バカチョ〇カメラ」という言葉は消えた。小生は知らなかったのだが、
「バカチョ〇」はバカ&朝鮮人とか、バカな朝鮮人の意味だそうで、マス
コミでは禁止用語になったのだろう。

歴史を振り返れば、日本と朝鮮は「平時にあっては友、戦時にあっては
敵」で、普通の隣国同士のように勝ったり敗けたり仲良かったりしていた
が、江戸時代は鎖国でも支那、朝鮮、オランダとは交易していたから、朝
鮮は「友」で、朝鮮から不定期ながら視察団「朝鮮通信使」が明治の始め
まで来日していた(全17回)。

(秀吉はカトリックの先進国が弱小国を次から次へと植民地化するのを見
て、「支那、朝鮮が取られたら日本は丸裸や、ここは先手を打って日本を
なめたらいかんぜよと世界に向けて咆哮しよう」と大陸へ大軍を送ったの
ではないか。この「唐入り」は16世紀における世界最大規模の戦争だっ
た。家康もカトリックの先進国を警戒していたろう、それが鎖国になった)

ただ、朝鮮は同じ儒学でも支那同様のゴリゴリの朱子学(「上のものが下
を統治する」がキモらしく頑迷固陋)で、日本では儒教研究は結構自由
で、朱子学を批判する古学、陽明学(「現実を見て改革しよう」がキモら
しく創意工夫が好き)だったために、インテリ層ではお互いに不信感や蔑
視があったようだ。(所詮バカチョ〇やな VS チョッパリの野蛮人め、とか)

明治以降の日朝間のおもな出来事は――(飛ばし読みでもええで。要は半島
は自立自存できずに大国のはざまで揺れに揺れていたということ)

1875年 江華島事件。日本の軍艦雲陽に向けて朝鮮が突然発砲して、応酬
合戦となった事件。
1876年 明治新政府と日朝修好条規を結ぶ。

1882年 米朝修好通商条約。大院君扇動による壬午軍乱(壬午事変)が失
敗し、清政府と中朝商民水陸貿易章程を締結。
1883年゜米朝の友好関係構築のためアメリカへ初の朝鮮政府訪問団を送
り、朝鮮には初のアメリカ公使が駐在する。

1884年 甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事
大派の勝利となる。
1885年 巨文島事件。露朝密約事件(第1次)。
1886年 露朝密約事件(第2次)。
1888年 露朝陸路通商条約。

1894年 甲午農民戦争(東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深ま
る。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる。甲午改革(〜1896年)。

1895年 下関条約成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国
に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。親露反日政策をとった閔
妃(明成皇后)が暗殺される(乙未事変)。

1897年 日清戦争の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は
清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める。
1904年8月23日 第一次日韓協約を結ぶ。

1905年7月29日 桂・タフト協定。韓国には日本が、フィリピンにはアメリ
カ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。

1905年11月17日 第2次」日韓協約を結ぶ。外交権を失い、日本の保護国
となる

1906年 韓国統監府設置。

1907年 国債報償運動。ハーグ密使事件。高宗が退位し純宗が即位。第三
次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。韓国軍の解散が定められる。

1909年 韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺
される。朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)

1910年 日韓併合条約を結び、日本に併合される(韓国併合)。韓国から
朝鮮に国号を戻し、京城に朝鮮総督府が設置される。

1919年 三・一独立運動。大韓民国臨時政府の樹立。

1920年 朝鮮を日本の食料供給地とする産米増殖計画が始まる。

1920年 シベリア東部のニコラエフスクで共産革命が激化し、朝鮮パルチ
ザンが赤軍と協力して日本軍を全滅させる尼港事件が起こる。


1920年 梨本宮方子女王が李王家に嫁ぐ。

1920年 満州東部の間島で独立軍 (朝鮮)の抗日武装闘争が激化し、間島事
件、青山里戦闘が起こるが、翌年自由市惨変で壊滅。

1929年 光州学生事件。

1931年 朝鮮排華事件。朝鮮から中華街が無くなる。
1933年 朝鮮語学会がハングル綴字法統一案を発表する。

1934年 朝鮮農地令施行。

1937年 白白教事件。

1937年10月2日 皇国臣民ノ誓詞が発布される。

1938年 国家総動員法施行。

1940年 2月から8月にかけて創氏改名が行われる。

1941年12月8日 日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告。(太平洋戦
争/大東亜戦争勃発)

1944年 朝鮮徴兵令施行。

1945年8月8日 ソビエト連邦が日本に宣戦布告。ソビエト連邦軍が朝鮮半
島東北部に侵攻。

1945年8月14日 北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除するこ
とを内容とする「一般命令第一号」を、トルーマン米大統領がソビエト連
邦に通告。ソビエト連邦も命令内容に同意した――(以上WIKI)

この後は御存知のようにソ連バックの北朝鮮と米国バックの韓国が争い、
今は休戦という休火山になっているが、いつ噴火するかもしれないという
情況が60年以上も続いているわけだ。その中で北による「日本人拉致事
件」があり、永らく無視されていた。背景には何があったのだろうか。

久し振りに脳ミソが正常になった発狂亭“チョークスラム”雀庵の病棟日記
から。

【2016/12/8】日米開戦記念日、木曜、快晴。

*小生が政治経済、すなわち天下国家にいたく感心を持つようになったの
は、、海外旅行産業がメシの種になったためだ。この産業は平和・平穏で
ないと伸びない。テロ、戦争、疫病、反日デモなどがあると、ごく一部地
区での騒動でも「あの国は危険だ」となる。鳥インフルでさえ容赦しな
い。キャンセルの山になる。

2001年の9.11テロの際は、観光旅行も出張さえも中止になるという潰滅的
な状況になり、北米、中南米、英国の航空会社を得意先としていた小生の
会社も煽りを食って清算に追い込まれた。

そういう事情で、常に世界の治安状況、安保環境、内外の景気動向(円高
だと旅行が増える)などに関心を寄せざるを得なかったし、それを業界人
に伝えるのも仕事だった。

OPECが増産する→原油価格が下がる→航空運賃が下がる→海外旅行市場は伸
びるとか、日本で〇月に国政選挙があるから、その時期は市場が動かない
とか、どこそこで〇月に大イベントがあるあら、この間のホテル事情は悪
化するとか、イチローがマリナーズに入団したから観戦ツアーはヒットす
るぞとか、これからは個人旅行の時代になるから多品種少量販売、自由旅
行に備えよとか発信したものである。

で、現役を離れた今でも天下国家への関心が強いのだが、ほとんどの人は
身の回りのことにしか関心を寄せない、興味がない。男でもおしゃれや趣
味に没頭し、俗事に関心がない人は多いようだ。

収集癖、旅行、写真、短歌、俳句、書道、スポーツ、鉄チャン、グルメな
どなど、何か夢中になれる趣味があるとアドレナリンが分泌して元気が出
るのかもしれない。毎日が楽しいし、呆け予防にはなるだろうし、生き甲
斐にもなり、鬱々しているよりは長生きしそうだ。

老生の同志諸君、TVを見るな、趣味を持て、酒は飲んでも飲まれるな! 
小生の痛切なる助言である。

ヒラリーは何をしているのだろう。疲れ果てて入院でもしているのか、そ
れとも三度目の正直を準備しているのか・・・サッチャーもレーガンも晩
年は呆けたそうだが、加齢とともに多かれ少なかれ呆けるのは普通なのだ
ろう。冷静な判断ができずに騙されたりする。

*「お試しのはずが定期購入」、悪徳通販の常套手口だ。
*「冷暖自知:れいだんみずからしる」、他者から言われなくても、自分
のことは自分で分かる、ということだが、呆ければ「私は誰、ここはど
こ?」と思うことさえできなくなる。

*リベラル宮家邦彦が「中国の核心的利益を損う、トランプ・蔡英文の電
話会談は危いものだった。トランプとその側近は猛省すべきだ」と中共の
怒りを代弁している。ただの中共の狗、一緒に心中するがいい、賞味期限
切れ。トランプショックで呆け始めたか。

*ノーベル賞の大隅良典氏曰く「人と違う好きなことをやって新たな発見
をする。それが科学者の本質」。中共は「人と違うことをするな」「新た
な発見なんてとんでもない」「科学者、学者は中共のクチパクたれ」。こ
のままでは何年たとうと三流国家のままだろう。大清帝国の末期から人民
のマインド、オツムは全然進化していない。阿片戦争から180年経つとい
うのに「近代化拒否」のままで、国全体が呆けている。逝ってよし。(つ
づく)2018/2/10