2013年03月04日

◆丁々発止はあったのか

岩見 隆夫


アベノミクス・フィーバーの一方で、安倍外交もにぎやかだ。先のアジア歴訪に次いで、米、露、韓トップとの対話も一巡した。

首脳会談の妙味は丁々発止である。公式発表には出てこないが、後から少しずつわかってくる。

1972年9月、日中国交回復を仕上げた田中角栄首相と中国の周恩来首相との丁々発止は、戦後首脳外交史の白眉(はくび)ではなかろうか。早野透桜美林大教授の新著「田中角栄」(中公新書・12年刊)によると、2人の侵略問答は次のようなものだった。

周首相が日本軍の侵略で殺された中国人は1100万人と詰め寄るので、田中は

「あなた方も日本を攻めてきたことがあったけど、上陸に成功しなかったでしょ」

 と言ってしまった。周は色をなして怒り、

「それは元寇のことか。あれはわが国ではない。蒙古だぞ」

と言う。田中は引き下がらない。

「1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか。その時も台風で失敗した」

「あんた、よく勉強してきましたね。たいしたもんだ」

と周はほこを収めた。

「首脳会談というのは、そういうものだよ」

と当時、「朝日新聞」記者の早野に田中が話したそうだ。私も田中訪中の随行記者団に加わったので、元寇の話は聞いていたが、福建省の一件は初めて知った。田中の野人的な外交が功を奏している。

ところで、安倍晋三首相とオバマ米大統領、森喜朗元首相とプーチン・ロシア大統領、麻生太郎副総理と朴槿恵(パククネ)韓国新大統領と、このところ会談続きだった。どんな丁々発止が隠されているのか、あるいはなかったか、いずれ漏れてくるだろう。

次の外交秘話は、26年後に明かされた。

85年5月、ボンで開かれた第11回サミット(主要先進国首脳会議)。会議の合間を縫って、中曽根康弘首相とレーガン米大統領の首脳会談がもたれた。陪席したのは安倍晋太郎外相と山崎拓官房副長官、米側はシュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、リーガン財務長官の3人だった。

この席で、中曽根は思いがけない提案をする。

「この際、冷戦構造を解消しようではないか。冷戦構造の東西のフロント(前線)は欧州のベルリン、朝鮮半島の(韓国と北朝鮮の国境の北緯)38度線だ。ベルリンの壁の解消は、米国主導で北大西洋条約機構(NATO)でやってほしい。

38度線については、韓国は中国、ソ連と国交がない。北朝鮮は日本、米国と国交がない。だから、一気にたすき掛け承認をやって、38度線を取り払おう」

中曽根にとっては米・ウィリアムズバーグ、ロンドンに次いで3度目のサミット。<世界のナカソネ>と顔が売れ出していた。それにしても、大胆な発言だった。

会談はいったん中断され、レーガンは、

 「ちょっと待ってくれ」

と言って、シュルツ、ワインバーガー両長官を連れて別室に消える。しばらくして戻ってくると、

「いまの中曽根首相のオファー(提案)を我々は了承する」

と述べたという。

山崎は<冷戦解消構想>で合意の大ニュースを同行記者にブリーフしようとしたが、安倍外相に

「いまの話は外に出すな」

とクギを刺された。中曽根にも相談したが、米側と打ち合わせのうえで、

「やめておけ」

と止められたという。

その後、中曽根提案どおりに展開したのはまずドイツで、89年、ベルリンの壁が撤去され、90年、東西両ドイツが統一を果たしている。次いで韓国も90年にソ連、92年に中国と国交正常化した。しかし、日米は北朝鮮といまだに正常化できず、従って冷戦構造の解消は完結していない。

この秘話は、山崎が一昨年、「日本経済新聞」電子版に連載した<わが体験的政界論>で初めて語られている。レーガン、安倍ら関係者も死去し、そろそろ、ということだろう。このなかで、山崎は、

「小泉純一郎氏が首相になったあと、ある時一杯飲みながら、このエピソードを話した。それだけが動機とは思わないけれど、彼は2002年9月17日に北朝鮮に行ったんです。

日朝国交正常化を実現するという、あの時の平壌宣言は、85年の中曽根・レーガン合意に遠因があると考えている」

と推測した。

この合意秘話は、中曽根が昨年10月出版した「中曽根康弘が語る戦後日本外交」(新潮社)にも登場していない。(敬称略)=第1土曜日掲載

毎日新聞 2013年03月02日 東京朝刊:近聞遠見

            <「頂門の一針」から転載>


2013年03月02日

◆辛い料理が好きだ

平井 修一


辛い料理が好きだ。好きだけれど、孫がいるときは唐辛子やショウガ、胡椒などを使った料理は作れず、ストレスがたまる。カレーも今では大人用の激辛と孫用の甘口のふたつを作るようにしている。面倒である。

涙と鼻汁、咳が出るほど「うわー、辛いなあ!」という料理に出合ったのは小学3年生か4年生、昭和35年(1960)のころだったろう。大人に連れられて行ったレストランのカレーが最初だった。多分、隣町の駅前レストランだったかもしれない。ショックだった。あるサイトから――

<わさび、唐辛子など補添的に辛味を付けることはありますが、外国のように料理自体が辛いものはあまり見ませんね。日本人は「旨み」を重んじます。西洋人は旨み自体を感じ取れないそうです。

日本の食品にはヨーロッパの食品に比べ、アミノ酸の量が少ないため、アミノ酸を取るために旨みの感覚が発達しているそうです。そのため、辛いという感覚があると旨みを感じられず、あまり好まれなかったようです>

ショウガ、辛子などを含めて辛いものを多用した日本料理はほとんどない。七色唐辛子を含めた香辛料はトッピングとしては江戸時代から普及したが、辛い料理それ自体が普及したのはここ半世紀ぐらいではないか。1964年の海外旅行自由化で日本人が世界の辛い料理を知ったことが影響しているだろう。

カレー製品には、その辛さの強弱を示す辛味順位が表示されているが、この辛味順位表は、ハウス食品が業界に先駆けて1972年(昭和47年)からカレールウ、レトルトカレーのパッケージに表示を始めたものだという。現在、各カレーメーカーでも同様の辛味順位がパッケージに記載されるようになっている。

その頃から日本人は辛味料理に目覚めたのだろう。白菜キムチや辛子明太子、辛子高菜なども普及していった。

辛味料理の普及には横浜中華街の影響も大きかったろう。1866年(慶応2年)の横浜新田慰留地から数えると150年弱の歴史をもつが、中華料理街として現在のような発展を始めたのは1955年(昭和30年)以降で、現在は0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街である。日本では神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街とされている。

中華料理のなかでも、四川料理では唐辛子が多く含まれている「豆板醤(トウバンジャン)」がふんだんに使われ、メニューの多くが辛い。この豆板醤の普及が日本での辛味料理の普及を大いに促進したのではないか。

小生は豆板醤を野菜炒めや鍋料理、カレーにも愛用している。使いすぎるとお腹の調子が悪くなるが、カミサンも好んでいる。孫がいるとこれを使えないのでちょっとストレスになるが、いないときは遠慮なく利用できる。明日の昼食は辛いラーメンにしよう。

<「頂門の一針」から転載>

2013年02月28日

◆黒田氏指名で財務省との亀裂回避

古澤 襄


米ウォール・ストリート・ジャーナルは、安倍首相が日本銀行次期総裁に黒田東彦アジア開発銀行総裁を選択した背景について詳しく報じている。

日銀総裁選びが本格化するなか、黒田氏を念頭におく安倍首相と、元財務次官の武藤敏郎氏を推す財務省や麻生副総理の間に綱引きがあったという。事実、武藤氏擁立の勢力は非常に強く、積極的に官邸に働きかけていた。

首相の経済アドバイザーは、武藤氏を次期総裁として指名した場合、金融緩和と景気刺激・経済成長促進策を合わせた「アベノミクス」にブレーキがかかったと受け止められることを憂慮していた。

結果として武藤氏が総裁候補から外れたが黒田氏も財務省出身であることに変わりはなく、麻生氏も財務省の為替政策を担当していた黒田氏は「正しい選択」だと同意の意を表した。首相と財務省の亀裂も回避されたことになる。

<【東京】安倍晋三首相は、日本銀行次期総裁に黒田東彦アジア開発銀行総裁を選んだ。これは首相と財務省との間に亀裂が入ることを防ぐための融和的な決定とみられる。

今月、日銀総裁選びが本格化するなか、安倍首相と、副首相も兼ねる麻生太郎財務相との間で候補者をめぐり意見の食い違いがみられたと、ある政府筋は言う。

だが、総裁選びに詳しい複数の情報筋によれば、25日に安倍首相が黒田氏を総裁に、学者の岩田規久男氏を副総裁の一人に指名したことが公になり、緊張は和らいだ。ある情報筋は今回の指名で内閣に深刻な軋轢(あつれき)が生じなくてよかったと述べた。

政府が安倍氏による黒田氏の指名を確認した後、麻生財務相は、財務省の為替政策を担当していた黒田氏は「正しい選択」だと同意の意を表した。

麻生財務相はこれまで理想的な候補者には「組織運営」の経験が必要と主張しており、政府関係者の間では元財務次官の武藤敏郎氏を念頭に置いていると考えていた。

武藤氏は財務省内の伝統的なエリートコースである主計局でのキャリアを積み上げ次官にまで昇り詰めていたからだ。黒田氏の財務省時代の肩書きよりも高い位置付けにある。

武藤氏は2003年まで日銀副総裁を務めていた経歴もあり、日銀は財務省と一致団結して武藤氏を推していた。だが国会議員の中にも多くの支持者を持つ武藤氏は交渉に秀でているものの、金融緩和に関しては黒田氏や岩田氏ほど積極的ではないとみられていた。

このため日銀による金融緩和の強化を強く提唱している経済学者や国会議員ら安倍首相の経済アドバイザーは、武藤氏を次期総裁として指名した場合、金融緩和と景気刺激・経済成長促進策を合わせた「アベノミクス」にブレーキがかかったと受け止められることを憂慮していた。

これまでアベノミクスへの期待の高まりによって円安が進行し、東京の株式市場は4年ぶりの高値を付けている。

安倍首相のアドバイザーの一人は、武藤氏擁立の勢力は非常に強く、積極的に官邸に働きかけていたと述べ、安倍氏がその圧力に流されるのではないかと心配するアドバイザーが多かったと述べた。

だが、これまで一貫して日銀による更なる施策を求めていた黒田氏を指名したことをこのアドバイザーは歓迎した。財務省で為替を担当していた黒田氏は何年も前に、円高によって輸出業者はコスト削減を余儀なくされ、その結果として賃金や価格が下落するためデフレが悪化すると警告していた。

また、黒田氏は総裁としてのアジア開発銀行の組織運営は既に6年間にも上っているため、麻生財務相も納得するだろうと、アドバイザーは指摘する。

過去に多くの財務次官が退官後に日銀総裁に就任したが、1998年に日銀の独立性が高まってからは財務省出身者が総裁を務めることはなかったため、同省はポスト奪還に力を入れていた。

結果として武藤氏が総裁候補から外れたが黒田氏も財務省出身であることに変わりはなく、安倍氏側近の一人はそれを財務省側の勝利ととらえている。

総裁の正式決定には衆参両院の承認が必要であり、白川方明現総裁が退任する3月19日までの時間を配慮して安倍首相は今週中に日銀人事案を国会に提出する予定だ。(ウォール・ストリート・ジャーナル)>
<「頂門の一針」から転載>

◆冬のアラスカを思い出す

平井 修一


2月19日は朝から小雪が舞って、終日寒かった。雪の中を犬の散歩に出かけたが、さすがに散歩人には一人も出会わなかったが、すれ違う人々は小生と犬を見て「この雪の中をよく散歩するよ」と思ったことだろう。

寒いといえば厳冬の2月にアラスカを旅行したことがある。零下15度は初体験だった。冬場は当然オフシーズンでホテルはガラガラ、そこで「日本人旅行者を誘致したい」という州の招待だったが、後にオーロラ観光で人気を呼んだから、まあ狙いは成功したとは言えそうだ。

アラスカは米国の北西に位置し、米国50州の中で最大の面積、日本の4倍もある。それにもかかわらず人口はたったの73万人だ(2012年)。日本で言えば島根県(71.2万人)並である。

主な産業は石油、ガス、石炭、鉱業、水産、観光、林業など、自然の恵みにあふれている。アラスカは1867年にロシアから米国が買収したものだが、米国はいい買い物をした。

ロシア人は18世紀末から狩猟や交易のため北米大陸太平洋岸一帯に進出しており、一部はカリフォルニア州にまで達していた。

その後1853年から1856年にかけてのクリミア戦争により、大打撃を被って経済的に疲弊したロシアはアラスカを売却することにしたが、クリミア戦争でも敵対したイギリスに売却することを避け、米国を取引相手に選んだ。

ロシアは1859年に米国に売却意向を打診しており、南北戦争の影響もありその時点での進展はなかったが、1867年3月、ロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官に命じ、米国務長官ウィリアム・スワードと交渉を行わせた。

その結果3月30日午前4時に米国がアラスカをロシアから購入する条約が調印された。購入価格は720万USドル。面積単価は約2セント/エーカー(1エーカー=約4047平方メートル=1226坪)だった。

1871年(明治3)に円とUSドルの為替が開始した時の相場は1ドル1円だから720万円である。明治11年の明治政府の国家予算(一般歳出)が6094万円であることを考えると、アラスカの単価は破格の安さとは言え米国にとっても結構な買い物だったろう。

この条約は4月9日に米国上院で批准されたものの、当初スワードは「巨大な保冷庫を購入した」などと米国民に非難された。しかし、1896年にはアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明した他、軍事上においても要衝であることから、スワードのアラスカ購入に関する評価は高いものに変わったという。

ソ連(現ロシア)が日本から強奪した北方領土も、いつか情勢は変われば「金で解決」という機会が来るかもしれない。待つしかないだろう。

閑話休題。

アラスカの最大の観光資源はデナリ国立公園・自然保護区で、ここにそびえるのが北米の最高峰、6194mのマッキンリー山である。マッキンリーと言えば冒険家の植村直己を思い出さずにはいられない。たった一度取材しただけの縁だったが、寡黙な人だった。

<昭和59年(1984)2月12日、植村直己は43歳の誕生日に厳冬期のマッキンリーに単独登頂成功。しかし、翌日の無線交信を最後に消息を絶ちました>(植村直己冒険館)

それから29年もたった。

<2月12日。デナリ・パスを過ぎ、頂上までの中間の稜線上の植村を、前日の2人が機上で確認。「あと2時間ほどで登頂できる」と交信してきた。飛行機の2人はいったんBC(ベースキャンプ)に引き返し、16時に登頂確認のため飛ぶが、天候が雪に変わり、植村を発見できず。

2月13日。パイロットとテレビカメラマンが頂上付近に飛び、午前11時に植村と交信。頂上付近はガスで、植村の姿は確認できなかった。また交信の記録は残っているが、雑音が多く聞き取れない部分が多い。

植村は「えー、きのう、7時10分前にサウス・ピークの頂上に立ちました」といっているのは聞きとれるが、現在位置不明。「2万、2万、2万フィート」という言葉を残して、聞きとれなくなった>(湯川豊「植村直己 夢の軌跡」)

43歳の遭難死。太く短い人生だった。アラスカの氷雪は今も彼を包んでいるのだろう。

      <「頂門の一針」から転載>

2013年02月27日

◆米国は安倍首相の味方か

古澤 襄


米ウォール・ストリート・ジャーナルは、社説で安倍首相は政権復帰後の2カ月間でかなりの成功を収めているとしながら、いくつかの点でオバマ政権の支援を取り付ける必要があると指摘している。

第一の点は日本のTPP参加が米国の利害関係者によって阻止されない、具体的には米国の自動車メーカーや組合が日本製トラックの関税引き下げを望んでいないことをあげた。

第二点は、尖閣諸島に関する米国の公式声明に熱意がなかったことをあげている。オバマ大統領は安倍首相とともに公の場に姿を現したとき尖閣諸島に言及しなかったが、これはおそらく中国を刺激することを恐れたためだと推測している。

安倍首相はすでに、中国の脅威にさらされている他のアジア諸国との関係強化を図っている。だが、こうした連携は米国大統領との関係に取って代わるものではない。

恐ろしい事態が起こる前に、オバマ政権が米国の対日支援に対する疑念を晴らすことを願おうと指摘した。日本のことよりも、対外関係に消極的姿勢をみせる現政権に対する注文といえる。

<安倍首相は政権復帰後の2カ月間でかなりの成功を収めている。株式市場の急騰と70%を超える支持率を背景に、首相には国内の既得権益を打破して貿易自由化を推進していくだけの勢いがある。

ただし、日本のTPP参加が米国の利害関係者によって阻止されないよう、オバマ政権の支援を取り付ける必要もある。その支援が得られるかは依然、不明だ。理由の一つは、米国の自動車メーカーや組合が日本製トラックの関税引き下げを望んでいないことである。

安倍首相は日本の防衛力強化も強調したが、これは米国との同盟関係に依存する問題だ。

公式には、首相は長らく紛糾している沖縄米軍基地の移設問題について遠回しに言及しただけであったが、民主党政権が移設計画の再交渉を試みた結果生じた混乱を自らの政権で収拾するつもりであることはほぼ間違いない。 

訪米した安倍首相の最も厳しい発言は、尖閣諸島をめぐる中国の出方に対するものだった。

首相は、訪米直後に発表されたワシントン・ポストとのインタビュー、および外交政策シンクタンクでの講演で、中国が武力や威嚇によって東シナ海の現状を変えることは認めないと強調。

その一方で、中国との争いは望んでいないことを明確にした。中国に対して協力と譲歩の手を差し伸べ、日本の戦時中の歴史問題に関しては議論を避けた。

ひとつ残念だったのは、尖閣諸島に関する米国の公式声明に熱意がなかったことだ。日本の報道によると、ケリー米国務長官は非公式の場で岸田外相に対し、尖閣諸島が攻撃を受けた場合は、米国は日米条約に基づき日本の防衛を支援する責任があると改めて表明した。

オバマ大統領は安倍首相とともに公の場に姿を現したとき尖閣諸島に言及しなかったが、これはおそらく中国を刺激することを恐れたためだろう。

しかし、尖閣諸島をめぐる日本の経験が示しているように、中国は明確な反応が得られるまで緊張を高めたがるものだ。沈黙は危険を招きかねない。

安倍首相はワシントン・ポストに対し、中国共産党は政権維持を図るためにナショナリズムを扇動している面もあり、日本に対する歴史的批判を続けることを強く必要としていると述べた。

中国外務省の報道官はすぐにこれに反応し、安倍首相の発言は「中国を中傷する」ものだと批判した。しかし中国の行動は矛盾している。

中国政府の船はほとんど毎日、日本の領海に侵入し、強気な態度で航行を続け、日本の船に火器管制レーダーを照射する場面もあった。こうした行動は明らかに武力による脅しであり、2001年の米海軍偵察機と中国戦闘機の衝突のような偶発的事故を招く恐れがある。

就任2カ月の安倍首相はすでに、中国の脅威にさらされている他のアジア諸国との関係強化を図っている。だが、こうした連携は米国大統領との関係に取って代わるものではない。恐ろしい事態が起こる前に、オバマ政権が米国の対日支援に対する疑念を晴らすことを願おう。(ウォール・ストリート・ジャーナル)

2013年02月25日

◆「尖閣の危機」冷静、果敢に取り組め

櫻井 よしこ


尖閣諸島の海と空で中国の軍事的挑発が続く。私たちは中国の挑発にどう対処すべきだろうか。

まず尖閣諸島の領有権を巡る中国の挑戦は決着がつくまで続くと認識しておくことだ。中国が付け入る隙のないところまで完全に日本の領有権を確立してみせるか、中国が日本を排除して領土を奪い取るか、そのどちらかになるまで彼らは挑み続けてくると覚悟しなければならない。

1970年代前半から今日まで40年間続いている南シナ海における中国の侵略を見れば、一度主張し始めたことは決して後退させず諦めもしないという中国共産党の特徴が浮かんでくる。

東南アジア諸国のあらゆる異議申し立て、抵抗と戦いを無視し、或いは軍事力で粉砕して、中国は南シナ海の島々と海を奪ってきた。

中国共産党のこの振舞いは単なる資源確保が目的ではない。中国の海洋進出は米国と軍事的に対等の立場を築き、米国を凌駕するための国家戦略である。東シナ海や南シナ海の争いはより大きな戦略の枠組みの中でのいわば局地戦である。だからこそ、中国は諦めない。

総書記就任以来、習近平氏が強調してきた基本政策は尖閣諸島で彼らが軍事行動も辞さないであろうと想像させるものだ。

習総書記が強調している点は3点に凝縮される。?中華思想、?中国共産党至上主義、?軍事最優先である。とりわけ?に関して習総書記は、「平時において軍事力を活用せよ」、「軍事闘争への準備を最優先せよ」と発言してきた。

平時での軍事力活用とは穏やかではない。国際ルールを無視してでも力尽くで目的を達成せよという意味であり、大国としての規範に外れる、常軌を逸した好戦的指示である。

中国軍が海上自衛隊のヘリコプター及び護衛艦に向けて射撃用の火器管制レーダーを照射した1月19日及び30日の後も習総書記の強硬発言は続いている。

習総書記が2月2日と4日、中国人民解放軍の空軍基地、酒泉衛星発射センターなどを視察して「軍事闘争への準備を深化させよ」と指示したと、国営新華社通信が2月6日の配信で伝えた。射撃用管制レーダーの照射という人民解放軍の強硬策は、習総書記の強硬路線を反映したものだと考えるべきだろう。

■情報戦略を国家戦略の柱に

他方、日本側には別の見方もある。2月5日夜、小野寺五典防衛相が緊急記者会見でレーダー照射の件を発表したとき、中国側が「余りに慌てふためいた反応」を見せたために、中国指導部はレーダー照射を知らなかったのではないかという見方だ。

その件について明白に断ずるだけの証拠を私は持ち合わせていないが、少なくとも2つ、指摘出来る。まず、中国政府は軍による強硬策を知らなかった、従って日本はその点を配慮して対中融和策をとるべきだという主張が過去、幾度もなされたことだ。

尖閣に関してこの種の融和策は、日本の立場を不利にするだけで、なんの解決にもつながっていない。

もう1点は、前述のように、現実的に考えれば、レーダー照射について中国政府の明確な指示がなくとも、それは習総書記の意に沿う行動であるとして、中国人民解放軍が踏み切った可能性は大きいということだ。

日本政府の5日の情報発信を受けて、翌6日から3日間、中国側は尖閣周辺での動きを休止した。しかし9日にはまたもや空軍の戦闘機2機などがわが国の領空スレスレのところを飛んだ。

10日には海洋監視船「海監」4隻が接続水域に入り、11日までとどまった。中国政府は日本政府のレーダー照射の発表を「捏造」だと非難したが、対日強硬策を続行する決意を新たにしたわけだ。

今回の中国政府の対応はすべての非を相手方に転嫁するもので中国が長年、隣接諸国に行ってきた手法である。2010年9月7日、中国漁船が尖閣周辺の領海で海上保安庁の巡視船に体当たりしたときも中国政府は海保の巡視船が漁船に体当たりしたと正反対の筋書きを国営新華社通信に報じさせた。

当時の民主党の菅直人首相、仙谷由人官房長官がビデオの開示を拒んだために、内外で中国の主張が正しいのではないかという声さえ生まれ、中国政府は日本政府を非難し続けた。

中国政府のこの嘘の壁を砕いたのが海保隊員の一色正春氏だった。一色氏が止むに止まれぬ思いでビデオをYou Tube上に公開して初めて日本国民も世界も中国政府の嘘を知った。中国の嘘の壁を破るには情報公開が最も効果的なのである。

レーダー照射の報告を受けた安倍晋三首相が、小野寺防相に事実の公開を指示したのは、その点で適切だった。武器使用を極端に制限している日本は、本来なら、武器に替わる力としての情報戦略に他のどの国よりも熱心に取り組まなければならない。これまでそれをしてこなかったが、今回の事件を機に、情報戦略を日本の国際戦略の柱と位置づけるべきである。

情報戦で敗れる国には、敗北しかない。とりわけ21世紀のいま、国益をかけて日本の立場と事実を発信していかなければならない。

■現場の裁量に…

だがそれだけでは不十分だ。日本は尖閣諸島を含む南西諸島防衛のための力をもっと整備すべきである。安倍内閣は眼前の危機に備えるために400億円という少額ながら自衛隊の予算を増額した。

余りに少ない額だが、それでも11年間も続いた自衛隊予算の削減に終止符を打ち、増加に転じたことは現場の士気を高めてくれるだろう。中国には日本が領土領海、主権に関しては決して譲らないという姿勢を見せることになっただろう。

その点では評価するが、自衛隊が本来の任務を遂行するための法的環境も整えなければならない。首相は第一次安倍内閣で安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会を設け、集団的自衛権の行使を容認する4つのケースを想定した。いずれも重要だと思うが、この改革が自衛隊を十分に活用する道につながるかといえば微妙である。

日本の自衛隊は法律上の構成は警察と同じであり、一定条件を満たしたときに、作戦を実施出来るという、いわゆるポジティブリストのルールの下にある。

他方、他国の軍隊は、“してはならない”ルールを守れば、使命達成のために現場で判断して行動してよいことになっている。現場の裁量に任せるために、してはならないことを規定したものをネガティブリストという。

本来の改革は自衛隊を他国の軍と同じようにネガティブリストで規定する軍隊にすることだ。集団的自衛権容認に新たな4つの類型を加えることは、とどの詰まり、新たなポジティブリストを増やすことになるのではないか。(週刊新潮)

<「頂門の一針」から転載>

2013年02月24日

◆わが家のトリアージ

平井 修一


主夫業はマイペースでボチボチやっていられるのなら楽勝だが、そういう日々はそれほどあるわけではない。昨日は7人前、14個のハンバーグ、スープ、野菜炒め、煮物を作ってへばった。

この肉体的な疲労に加えて、時に精神的なストレスに見舞われる。どういう訳か、一度にいろいろなことが重なってどっと押し寄せるのである。「精も根も尽き果てる」ということになるが、類語・縁語はこんなにある。

疲労の極、疲れ果てる、綿のように疲れる、ヘロヘロになる、崩壊寸前の状態、意識喪失寸前、体力を使い果たす、力尽きる、燃え尽きる、ぼろぼろになる、消耗し尽く、ダウンする。

聖徳太子ではないから、問題を一つ一つ解決していかなければならない。重要事項の中で優先事項から手を付けていく。医療で言えば「トリアージ」だ。

トリアージとはこういうことである。

<災害時等において、現存する限られた医療資源(医療スタッフ、医薬品等)を最大限に活用して、救助可能な傷病者を確実に救い、可能な限り多数の傷病者の治療を行うためには、傷病者の傷病の緊急性や重症度に応じて、治療の優先順位を決定し、この優先順位に従って患者搬送、病院選定、治療の実施を行うことが大切である。

トリアージの基本概念は、必ずしも災害時に限らず、日常のなかにも存在する。例えば、一般外来において多くの患者が待っていた場合、その時の状態によっては、長時間の外来診療に待てる状態でない患者が存在したとき、重症患者を優先して治療ができるように他の外来担当医師にも応援を依頼するなどの判断がトリアージとなる>(横須賀市医師会)

このトリアージに従えば、わが家の最優先事項は「長女の健康」だ。長女は第二子を身ごもっているが、第一子の時と同様に切迫流産・早産の危険に直面しており、入院は免れたものの2月18日からわが家で養生している。命懸けの妊娠・出産で、本人も我らも不安いっぱいだ。

小生とカミサンにできることは本人の安静をヘルプすることくらいだ。
炊事、洗濯、育児などで本人に負担がかからないようにする。せめて3月いっぱいまでは赤ちゃんにはお腹の中にいてもらわないと、と祈るばかりである。まったく妊娠・出産は女性にとって命懸けの大仕事だ。

次の優先事項は、切羽詰まったものではないが解決までに長い時間がかかりそうで、悩ましい問題だ。三番目は小生とカミサンが介護を必要とするようになったときどうするのかという、多分10年先、20年先の話で、緊急性はほとんどないが、まあ、大事な話ではあってもボチボチやればいいとは思っている。

今は心身ともに疲れ果てているから最優先の長女のことに専念したい。それが一段落してから二番目、三番目の問題に取り組みたいと小生は思っているが、トリアージを理解しない者もいるから困ったものである。人生は思うようにはいかないものだ。

         <「頂門の一針」から転載>

2013年02月23日

◆森・プーチン会談で日露の扉が開くか

古澤 襄


安倍晋三首相の特使として訪ロした森喜朗元首相は21日、ロシアのプーチン大統領とモスクワのクレムリンで会談した。約1時間15分の話し合いだったという。

北方領土問題をめぐる日露首脳会談で双方の見解が一番近くなったのは、「川奈会談」と「イルクーツク会談」だったといわれているが、この首脳会談はいずれも秘密交渉だったから、記者会見が行われたもののすべての真相は定かでない。

今回も森・プーチン会談で、2001年3月の「イルクーツク声明」を交渉の基盤とすることで合意の形をみせても、交渉の機微にわたる点は明らかにされないだろう。

領土問題は日本とロシアの国益がぶつかるのだから、双方とも国内事情がからみ、一方が勝った、負けたの交渉にはならない。秘密交渉があるのは、むしろ当然のことである。4島返還がすんなりいくのなら、「川奈会談」も「イルクーツク会談」もいらない。

安倍首相は昨年12月の就任直後にプーチン氏と電話で会談し、領土問題について「双方が受け入れ可能な解決策を見いだす努力をしたい」と伝えている。プーチンと親しい森・訪ロはその地均しということであろう。

「イルクーツク会談」当時と違うのは、ロシアを取り巻く情勢が変化したことがあげられる。疲弊したロシアの再建のためにプーチンがとった資源外交は一定の成果をあげたが、資源外交の対象だったEU諸国はいまや混迷をきわめている。プーチンはアジアとくに日本を相手にした資源外交に打って出ようとしている。

森氏の腹は「歯舞、色丹両島を先行して返還して、国後、択捉両島は継続交渉」という基本路線だろうが、むしろ「歯舞、色丹両島プラスα(アルファー)」を模索しているフシがある。

そのうえでロシア原油や天然ガスの輸入拡大、またシベリア開発の日本側投資といった日露経済協力を目指しているのではないか。

プーチン大統領も「安倍首相のロシア訪問を待っている」と述べ、日ロ首脳会談で、両国の協力関係が幅広い分野で進むことに期待感を示した。

このあとは、岸田文雄外相とロシアのラブロフ外相と電話会談などを積み重ね、5月の大型連休を軸に調整している安倍・プーチン首脳会談に臨むことになる。

<安倍総理大臣の特使としてロシアを訪問している森元総理大臣は、日本時間の21日夜、プーチン大統領と会談しました。

会談の冒頭、プーチン大統領は「安倍総理大臣のロシア訪問を待っている」と述べ、日ロ首脳会談で、両国の協力関係が幅広い分野で進むことに期待感を示しました。

ロシアのモスクワを訪れている森元総理大臣は、日本時間の21日午後8時半ごろから、クレムリンでプーチン大統領との会談に臨みました。

会談の冒頭、プーチン大統領は、森元総理大臣に対し、「日本とは経済分野での協力がうまく進んでいて農業分野での協力も軌道に乗ることを期待している。安倍総理大臣のロシア訪問を待っている。訪ロに向けた作業を進めているので、安倍総理大臣によろしく伝えてほしい」と述べました。

会談の内容はまだ明らかになっていませんが、森元総理大臣は、北方領土問題について、総理大臣在任中の平成13年3月に、シベリアのイルクーツクで行ったプーチン大統領との首脳会談で、平和条約締結後の歯舞・色丹の2島返還を明記した1956年の『日ソ共同宣言』の有効性を文書で確認したことなどに触れながら、プーチン大統領の基本的な考え方を確かめたものとみられます。

また、プーチン大統領が、大統領選挙に当選する前のインタビューで、北方領土問題について「引き分け」という言葉で、歯舞・色丹以外の引き渡しは難しいという考えを示唆したことについても、その真意を探ったものとみられます。(NHK)>

               <「頂門の一針」から転載>

◆国会議員は「低齢化」しているぞ

岩見 隆夫


先日届いた『国会便覧』の最新号を見ていて気づいたことが一つある。意外にも、世の高齢化が進むのに逆らうように、国会議員は〈低齢化〉に向かっているのだ。これは何かを示唆しているのだろうか。

昨年暮れの総選挙で当選した衆院議員480人についてみると、最高齢は80歳の石原慎太郎日本維新の会共同代表、続いて保利耕輔(78歳)、亀井静香(76歳)、伊吹文明(75歳)、二階俊博(74歳)、平沼赳夫、保岡興治(73歳)、麻生太郎、竹本直一、宮路和明(72歳)、これが高齢ベスト10だ。70代以上は23人である。

さて、手もとにある古い『便覧』を繰ってみる。10年前の国会は、石原さんより年長が奥野誠亮(90歳)、中曽根康弘(85歳)、相沢英之、宮沢喜一(84歳)、塩川正十郎、山中貞則(82歳)と6人もいる。70代以上が69人。

20年前はどうか。石原さんより上が原健三郎(86歳)、二階堂進(84歳)、河本敏夫(82歳)、桜内義雄、長谷川峻(81歳)と5人で、70代以上が64人である。

40年前にさかのぼると、1973(昭和48)年だが、最高齢は千葉三郎、島村一郎の79歳、70代以上が58人だ。

以上40年間の推移を見ると、最高齢者の比較も面白いが、もっとも注目すべきは高齢者の政治活動だろう。国会には老壮青のうち70代以上の老がたえず60人前後、全議員の一割以上を占め、増える傾向にあった。

ところが、どうしたことか、10年ぐらい前から激減しはじめ、いまではピーク時の三分の一に減っている。老の経験と知恵は生かされているのか、という不安につながるのだ。

経験は当選回数が一つの目安になる。現在の最多当選は小沢一郎生活の党代表の15回、次いで野田毅14回、鳩山邦夫、保利耕輔、保岡興治、亀井静香、中村喜四郎の5人が12回、麻生太郎ら8人が11回、甘利明ら8人が10回、合わせて10回当選以上が23人である。

過去はどうか。10回以上が、10年前は20回の中曽根康弘をはじめ32人、20年前は18回の原健三郎をはじめ36人、40年前は14回の船田中、三木武夫をはじめ60だった。ここでも減少傾向が顕著である。

逆に一回当選の新人を見ると、現在が184人、10年前は108人、20年前132人、40年前93人、ちなみにこの93人のうち、現役で生き残っているのは野田毅、保岡興治の2人だけだ。新人は40年前にくらべると倍増している。

 ◇内憂外患の安倍首相 長老の助言を大切に

数字ばかりあげたが、要するに国会議員の老壮青バランスが崩れてきたと思う。国民の年齢構成に必ずしも比例させる必要はなく、政治家という熟練を要する特異な仕事の性格上からも、老(70歳以上)、壮(40歳以上)、青(25歳以上)の比率は2・6・2くらいが好ましいのではないか。

それを一応の尺度にすると、衆院四480人は老96人、壮280人、青96人になるが、現状は老23人、壮386人、青71人という構成だ。青はまあこの程度でいいとして、老が四分の一しかなく不足している。なぜこんなことになるのか。

2003年11月の総選挙の前、自民党で起きた中曽根・宮沢切り捨て事件を思い出す。当時、小泉純一郎首相は比例代表の73歳定年制を理由に、「引退してほしい」

と通告した。両元首相はともに議員継続の強い意欲を持っていたが、小泉さんは押し切り、中曽根さんが、

「まるで政治テロだ」

と面罵する場面まであった。2人は各国首脳とも昵懇で世界に顔がきく貴重な存在、小泉さんの意図がわからなかった。長老排除によって党のイメージアップをはかり選挙を有利にしようとしたのではないか、などと言われたが、この時の選挙で自民党は負けている。また、

「定年制の例外を認めると歯止めがきかなくなり、政界は老人だらけになる」

と小泉さんに賛同する声も聞かれた。この時、小泉さんは61歳の壮年、85歳の中曽根さん、84歳の宮沢さんの両長老を国会から強引に追放したのだが、私には浅慮と思われた。

世代交代とか指導者若返りはいつも唱えられてきたスローガンで、それはそれでいいが、老人排除ということではない。排除すれば政界は確実に薄っぺらになる。

なんとなく老人は居づらいような空気が、最近の政界には広がっているのかもしれない。昨年暮れの総選挙前にも、森喜朗元首相(75歳)、福田康夫元首相(76歳)、藤井裕久元財務相(80歳)、渡部恒三民主党最高顧問(80歳)、武部勤(71歳)、古賀誠(72歳)、中川秀直(68歳)の三元自民党幹事長らが、余力を残しながら去っていった。このうちの
一人に、私は、

「なぜ辞め急ぐのか」
と問うたことがある。

「いや、いや、まあ、引き際も大事なんで」
と意味不明瞭だった。

日ごろは壮青でやれるが、いざという時には老の長年の経験による洞察、深い知恵が求められる。ことに年明け以来、日本を取り巻く国際環境はキナ臭く、半月ごとに事件が起きているのだ。

アルジェリアの過激勢力による人質事件で10人の日本人が犠牲になった(1月16日)かと思えば、尖閣諸島沖では中国軍艦から日本の自衛艦に射撃用レーダーが照射され(1月30日)、対応に追われているうちに、今度は北朝鮮が3回目の地下核実験を強行した(2月12日)。来週ごろ、次の事件が起きそうな予感がして不安である。

日本だけが狙われているわけではない。しかし、気がついてみたら狙いやすい国になっている。3・11東日本大震災以来、この国は内から外から攻め立てられ、あえいでいる。普通ではない。

安倍晋三首相はこんな時、長老のアドバイスに耳を傾けたほうがいい。

<今週のひと言>

きのう何が起きたか、忘れそう。

(いわみ・たかお=毎日新聞客員編集委員)
         サンデー時評:2013年02月20日
         (サンデー毎日2013年3月3日号)

            <「頂門の一針」から転載>

2013年02月22日

◆木津川だより 鹿背山の城(鹿背山城)

白井 繁夫


古代からの歴史に育まれたところ、鹿背山の古寺跡(鹿山寺:かせやまでら)西念寺を訪ねた折、皆さんに此処の地名に親しみを感じて頂きたいと思い、当地に絡む「万葉歌」に触れました。

今回訪ねる中世の山城(やまじろ)を最初に築城した人物は、一般的に云われる武家ではなく、大和の僧侶(興福寺)なのです。

この時の鹿背山城(かせやまじょう)を「第一期の城郭」とすると、その後、(約100年後)、松永弾正久秀が大和国と南山城(京都の相楽郡)を支配下にした時期を、「第二期の鹿背山城」と名付けて記述します。

木津川市は、山城国(やましろのくに:京都府南部)ですが、古代から明治の初めまで、木津の泉津(いずみのつ)は大和の玄関港として、木津川経由し全国に通じる交通の要衝でした。一方、興福寺は南山城にも多くの荘園を所有していました。

そこで、「第一期の鹿背山城跡」(かせやまじょうあと)を語る時、皆さんが良くご存知の「興福寺」について少し触れてみたいと思います。

「興福寺」と云えば、藤原不比等所縁の寺で、藤原一族の氏寺として古代より飛びぬけて格式の高い寺であり、政治、経済、軍事に絶大な力を持った法相宗の大本山でした。

門跡寺院、摂関家の寺院と云われる大乗院と一乗院の上に「興福寺」があり、比叡山延暦寺に対して、南都北嶺と称され、大和国一国に多大な荘園を領し、勢力は南山城にも及んでいました。

鎌倉、室町時代は武士の時代でしたが、幕府は大和に守護を置かなかったので、同寺は自ら大和一国を支配し大和武士と僧兵を擁し、その軍事力は大守護大名の畠山氏、細川氏や大内氏につぐ大勢力になっていました。

「興福寺」は、交通の要衝であり、且つ、大和の北部を抑える絶好の位置『鹿背山』に、城郭の規模では中世の山城国最大の山城を築城しました。

この城の正確な築城年月は不明ですが、『大乗院寺社雑事記』文明11年10月条(1479年)に記載されているのが、文献上に出た最も古い年代と云われています。

鹿背山城の地元(木津)には、「興福寺」の衆徒(被官)木津氏(木津執行)が300余騎の兵を従えて守りに就いていました。

一方、「興福寺」と関係が深い鹿山(かせやま)寺から見ると、『大乗院寺社雑事記』文明元(1459)年7月条に「鹿山」の記述があり、当初は「興福寺」と関連する仏教施設でしたが、後は軍事的性格を持った拠点として築造されたと考えられます。

更に100年後、『多聞院日記』永禄11(1568)年9月条に「鹿山城」との記述があり、戦国時代にかけて山城(やまじろ)として使用されていたと思われます。

鹿背山城跡は、西念寺(地図Z:4番)の北東、標高136mの「城山」の山頂にある石垣の無い中世の山城(やまじろ)です(地図Z:5番)。城郭は東西350m、南北300mあり、ほぼ鹿背山全山を城郭としています。
地図Z:http://chizuz.com/map/map141418.html

鹿背山城へは、木津川市立木津小学校の鹿背山分校に隣接する向かい東側の三差路に「鹿背山城跡」への石造の道標があり、北東の坂道を「西念寺」へ向かって登り、大手道に面する「西念寺」に着くと、同寺の山門に鹿背山城跡の案内板があり、その横の青緑色ボックスの中にA3の「鹿背山城跡配置図」があります。

この図面を参考にして大手道を登ると、約20分で山頂の「I主郭:しゅかく」に着き、そこから木津川を挟んで木津市街、生駒山、木津の学研都市等が一望できます。
(服装はハイキング又は軽登山用、手袋か軍手、水筒など必要)。
P294鹿背山城から木津川.jpg
写真上:鹿背山城山頂「I主郭」から木津川を望む

城山の山頂「I主郭」から東南に「U郭(曲輪)」、「V郭(曲輪)」と大きく三つ連なり、各主郭から西南の尾根には20余の腰曲輪(こしぐるわ)、大規模な畝状竪堀群や、堀切の点在など当城の防御施設、城郭は添付した「鹿背山城跡配置図」に記載の如く、中世の山城としては最新にして最高のレベルでした。

当城の第一期(15世紀)に築城した興福寺時代と、第二期の16世紀(永禄年間)の松永久秀時代とは、所有者が代わりました。しかし松永久秀は、天正元年織田信長に反抗したために、その後滅亡の道を辿ります。

「第二期の鹿背山城と松永久秀」については、次回に記載したいと思います。

参考資料:木津町史  本文篇
添付図面:鹿背山城跡配置図  木津の文化財と緑を守る会
横画像-2.jpg

2013年02月20日

◆断崖に向かう中国経済

伊勢 雅臣


■外国資本撤退で中国経済は破綻

日本の対中輸出(香港除く)はGDPの2.76%。対中投資残高はGDPの約1.2%。対中貿易がゼロになり、対中投資が接収されても大した額ではない。しかし中国は外国資本が逃げ出すので致命傷。(三橋貴明,Sapio,H25.2)

中国共産党の独裁体制の根拠は経済成長のみ。しかし、戦争になれば外国資本は一斉に撤退して、中国経済は壊滅的打撃を受ける。日本やアメリカとの戦争は絶対に避けたいのが、中共指導部の本音。(富坂聡,Sapio,H25.2,p10)

中国で内戦が勃発した場合、これまでに投資した10兆円は戻ってこないし、在留邦人13万人を救出する手段を日本政府は持っていない。憲法上の制約で、自衛隊は救出に向かえない。(長谷川慶太郎,VOICE,H2412)

日本の対中投資32%減 10月、反日デモで急ブレーキ  :日経 http://t.co/N2HRBg6R 世界全体でも対中投資は1〜10月累計で前年同期比3.5%減。中国を市場とするサービス業投資はあっても、製造業の投資は復活しないだろう。「世界の工場」中国もいよいよ曲がり角。

中国、強気姿勢から一転、対日制裁の撤回求める声「こちらの打撃の方が大きい」 - 産経 http://t.co/wHe14f7y 2011年の対中投資は63億ドル余りで、香港、台湾を除けばトップ。日本から先進的な設備・技術が入ってこなければ、中国の産業高度化への影響は避けられない。

中国、強気姿勢から一転、対日制裁の撤回求める声「こちらの打撃の方が大きい」 - 産経 http://t.co/wHe14f7y 日本からの輸入は主に中核となる部品・原材料とか中間製品が多い。日本からの輸入が途絶えたり、減少したりすれば、困るのは中国の企業。

アパレル製造業が盛んな中国で、最大規模のミシン製造企業およびミシン精密部品製造企業は、日本のJUKIだ。(ペガサス、ブラザー含め)「故障が少なく、あらゆる素材に対応できる。工業用ミシンには日本製の代わりはない」(VOICE,H2410)

■自滅したレアアース対日輸出統制

RT @abesouri2013: 『日本のレアアース戦略、中国依存脱却は「現実的でない」―中国報道』 毎日中国経済 11月26日(月)6時45分配信 ☆ほんと、判りやすい国だ。 日本が買わないのが困るんだ。 でも、君らはこれから、もっと困るんだよ。
http://t.co/B7iTGx83

レアアースで世界市場への供給量の90%を占める中国だが、乱開発による深刻な環境汚染。江西省のある市ではレアアース廃鉱山に積み上げられた残土2億トン、破壊された森林面積1万ヘクタール、残土の汚染処理に70年かかる見込み。(日経ビジネス、H240910,p124)

中国以外から5割確保 レアアースの国内需要分 - MSN産経 http://t.co/jMZTrF4T 対日圧力にレアアース輸出制限を使ったから、こういう事になる。中国の自爆行為。反日暴動による日本企業いじめもいずれ同様の結末になるだろう。道にはずれた行為は自らに返ってくる。

中国のレアアース対日輸出停止、損失拡大の誤算:日経 http://t.co/PfHSiVxW 2010年の尖閣を巡る日中対立で中国当局がレアアースの対日輸出を止めた事から、日本企業が代替品の開発を進め、需要が急減。関連企業の約25%が稼働停止、操業中の企業でも稼働率は3〜4割。

■外国企業の撤退阻止

RT @umayado17: 中国国家ぐるみの妨害工作 撤退できない日本企業 経営者を拉致も - ZAKZAK http://t.co/puFIMCig 中国は阻止策として、企業内に『企業党委員会』という共産党組織を配置。ここで企業内部を監視し、撤退の動きを察知すれば、労働者を動員して大規模な労働争議」

中国に進出した日本の中小企業が人件費の高騰などで、いざ撤退となると労働者からは多額の退職金を要求され、税務当局からは優遇されてきた税金を過去に遡って追徴課税されかねない。多額の借金のために日本の本社も倒産するケースさえ。NHK http://t.co/X6gMa4ie 

中国での人件費の高騰などで韓国企業の撤退の動きが相次いでいる。中国側は撤退をなかなか認めないため、経営者は夜逃げするしかない。それを阻止しようと中国政府は青島の乗り場に警官を張り込ませてフェリーに乗ろうとする韓国人をチェックしている。(長谷川慶太郎,VOICE,H2412)

<「頂門の一針」から転載>

2013年02月19日

◆福島第二原発を守った本当の英雄達

櫻井 よしこ


過日、3・11の大震災と大津波にも生き残った東京電力福島第二原子力発電所(以下2F)を訪れた。2Fには1号機から4号機まで各々110万キロワット、計440万キロワット出力の原発があり、2011年3月11日当日は全てがフル稼働していた。第一原子力発電所(以下1F)では1号機から6号機の内、4〜6号機は停止中で、1〜3号機の総出力は202・8万キロワットだった。

万が一、2Fが1Fと同じ運命を辿っていたら、被害はもっと深刻だったはずだ。2Fを訪ねてみると、改めて沢山の驚きがあった。

まず、周知のことではあるが、どの原子炉もマグニチュード9の地震に動じなかったことだ。1Fも同様だ。日本の原発の耐震設計が如何に優れているかを示してくれた事例だが、問題は津波である。

緊急時、原発では?止める、?冷やす、?閉じ込めるを実行しなければならない。?は制御棒を挿入し、原子炉を自動停止することだ。激しい揺れが襲った直後に、全原発は正しく止まり、?はクリアした。

1Fは津波によって電源が喪失し、?が不可能となった。結果、放射能を閉じ込められず、?にも失敗した。2Fでは冷却機能を一旦破壊されながらも機能を回復し、?及び?を実行して、冷温停止を達成した。

当時の状況を増田尚宏所長が語る。

「いきなり大きな揺れがやってきて、最大の危機だと。腹を括りました」

コントロールセンターにいた所員たちは咄嗟にパネル台の手摺りにつかまり、辛うじて転倒を防いだ。これは07年の東電柏崎刈羽原子力発電所を襲った地震の教訓だという。

全電源が失われ、警報が鳴り響いた。原子炉冷却機能も停止した。一刻も早く電源を回復し原子炉を冷却しなければならない。増田氏は3月11日深夜、所員の安全を確保したうえでウォークダウンを指示した。

これは、敷地内を歩いて残された機材や機能はあるのか、一体どれが使えるのか、短時間で効率的に冷却機能を回復するにはどこから復旧作業を始めるのがよいかを人間の目で調べる作業のことだ。氏が語る。
■「思わず、皆が拍手」

「外は真っ暗で気温は零下です。津波警報が続いている極めて危険な中で皆、手探りでした。車や建物の残骸が散乱して足の踏み場もない状況下、建屋をまわり、原発を調べるのは本当に勇気のいることでした。皆、必死に調べてくれました」

結果、早急に必要なのは電動機、電力ケーブル、電源車、移動用変圧器などであることが判明した。増田氏は交換用電動機を東芝の三重工場から緊急調達すると決めた。空輸でなければ間に合わない。

迷わず、自衛隊に依頼する手続きをとった。柏崎刈羽原発にも陸路トラックでの輸送を依頼した。原発を守り、地元と日本を守らなければならないという必死の想いで調達を達成したとき、長い12日が終わっていた。

一連の迅速な動きは、皆が一丸となって行った真っ暗闇の中のウォークダウンによる正確な状況把握がもたらした成果だった。

翌13日、破壊された電動機を交換した。高圧電源車も移動用変圧器も配備した。だが、これらの機材と冷却装置をつなぐ肝心のケーブルが全滅していた。新たに敷設するしかない。

東電社員は無論のこと、関連企業の社員皆が作業に没頭した。ケーブルの束は両手に余るほど太く、肩に食い込む重さである。

「2!)間隔でケーブルを担ぎました。無事だった廃棄物処理建屋の電源盤から出発し、1号機の原子炉建屋、タービン建屋を回り込んで海側に据えてある1号機から4号機の各々の海水熱交換器の建屋までおよそ9キロメートル分を、ほぼ1日で敷設しました。

大の男たちが音を上げそうになるほどの重労働でした。ケーブルを敷設して電源が入り冷却装置が機能し始めると、思わず、皆が拍手しました。原子炉の温度が下がり始め、15日には全ての原子炉で冷温停止が達成されました」

氏は淡々と語る。しかし、間違いなくそれら全ての作業でその瞬間瞬間、現場の人々は皆、使命感に燃えていた。だからひとつの作業が完了し、ひとつの目的が達成される度、歓声と拍手が湧いたのだ。

増田氏は、原子力発電所の仕事の全てに自分たちは全力を尽してきたと思っていたが、3・11をきっかけに省みる点が多いと語る。震災後はそれらの課題を改めたとも言う。

「津波のひいた後、電源車を運ぶにもショベルカーやトラクターでまず残骸を片付けなければならない。電動機や変圧器をトラックから降ろすにはフォークリフトを操作しなければならない。けれど、東電社員はその種の免許を持っていませんから、動かせなかった。

関連企業の社員にもそのような免許を持っている人は中々いない。私は焦りました。その反省に立って皆で猛勉強し、いま、東電社員が全てを動かせるようになりました。いざというとき、どんな役割でも果たせるように、自らを鍛錬し、能力を身につけておかなければならないと実感しています」

■専門家から寄せられた賞讃

東電の社員たちのこうした地道な努力は、反原発、反電力会社に染まりがちな世間ではあまり知られていない。施設を巡って所長室に入ったとき、簡易ベッドが目にとまった。

驚くことに3・11から1年10ヵ月、増田氏はずっとここにいるのだ。よく見るとベッドには木枠が被せられ、その上にマットが敷いてあって、変な具合だ。氏が苦笑した。

「長い間寝泊まりする内にマットがへたってしまったのです。地元の人が気の毒がって木枠を下さり、その上にマットを敷いているんです」

或る種の感動が胸に満ち、2Fに向けて世界中の専門家から寄せられた賞讃の言葉も頭に浮かんだ。

米原子力規制委員会、マクファーレン委員長は「非常に困難な状況にある中、知恵を駆使して、自らの命を顧みず安全のため、復旧のために頑張っていただいた皆様は真のヒーローだ」と語っている。

また、「これほどのシビア・アクシデントの中で何日も寝る間も惜しんで社員を指揮し、関係者全員で冷温停止状態を達成されたことを誇りに思う。良い事例を示して下さったことに心から感謝したい」との言葉は米国最大の電力・原子力事業者、エクセロンのシャカラミ上級副社長のものだ。これを単に同業者ゆえの賞讃と受けとめるとしたら、あまりに心が狭いというものだろう。

東電社員や関連企業の社員の、命を懸けた献身的な闘いは1Fの事故ゆえに無視されがちだ。けれど1Fの事例と共に、2Fでの人々の努力、勇気と理知による成功談も伝えられて然るべきだ。増田氏以下、3・11の日から昼夜を分かたずこの上なく誠実に働いている人々に、私は心からの敬意と感謝を送りたいと思う。(週刊新潮)

<「頂門の一針」から転載>

2013年02月18日

◆人生は空知の楽しみ

加瀬 英明


12月に、仲間が例年のように集まって、明治記念館で高い会費を寄捨して、愚生の「30歳の誕生日」の「46周年」を祝ってくれた。

いつものように、100人以上が寄ってくれたが、何よりも嬉しかったのは、本誌(日本大学OB会誌)主宰者の中島繁治兄いが姐さんと義理がけして、顔を立ててくれたことだった。

それにしても、コウキコウレイシャは後期ではなく、「高貴」高齢者と書くべきだと思う。

私は1980年代に通産省のお使いをして、アフリカ南部に何回か通った。ジンバブエを訪れたところ、閣僚が晩餐に招いてくれた。

大臣と浅酌した後に、「お国の方々が日本をおたずね下さる時に、パスポートに年齢が書かれています。キリスト教徒の子として生まれれば、教会で幼児洗礼を受けて、生年月日の記録がありますが、お国には戸籍制度がないのに、どうして年齢が分かるのでしようか?」と、質問した。

すると、オクスフォード大学を卒業したという閣下が、正調の女王陛下の英語(クイーンズ・イングリッシュ)で、「自分で年齢を申告します。自分がそうだと思う年齢こそ、もっとも正しいのではないのでしようか?」と、切り返された。

私は感じいった。もし、わが国が旅券法を改正することができたら、50歳だと申告しようか。

春は人生の青年期をさしている。「春日遅」といえば、春の日の暮れるのが遅いことを意味する。

繁治兄いもその弟分の私も、まだ春の日が暮れていない。兄いと姐御とは、お似合いという言葉の挿絵のようだ。夫婦(めおと)の鑑(かがみ)だ。

香道では香木を「嗅ぐ」と下品なことはいわないで、「香を聞く」というが、お二人にお目に掛かるたびに、ほのかな春情――春の様子を聞く思いがする。

アフリカをまた話題にすると、南アフリカ共和国の大西洋側の隣国のナミビアを訪れたところ、また閣僚に御馳走になった。

アフリカ社会は部族によって成り立っているが、父親がこの国最大の部族の族長だといった。

「私の父は12人の妻がいますが、父の家を中心にして、広場を囲んで馬蹄型に妻たちの家が、6つずつ向いあって並んでいます」

やはり、格調が高いイギリスの上流の英語だ。
 
「私は1人しか妻がいませんが、えらく苦労しています。12人もいたら、いや、たいへんでしようね!」
 
と、同情した。

「私はケンブリッジ大学で学びましたから、妻は1人しかいません。でも、父は妻たちが自治会をつくっていますから、そりゃ楽ですよ。やはり人間関係は1対1が、もっとも難しいのではないでしようか?」と、聞き返された。

人はまったく予想しない時に、思いがけずに人生の真実を学んで、目を大きく見開かれるものだ。

「結婚の鎖は重い。しばしば3人で運ばなければならない」と、あるフランスの哲学者が処生術について教えている。

私が亡妻にそういったところ、「日本でも、『子は鎹(かすがい)』っていうんじゃない?」と宣(のたも)うた。夫婦の会話は難しい。

誕生会の前の晩に、ワシントンに5泊して、空路帰京した。

帰宅すると、親しい作家のSから著書が贈られてきて、待っていた。

「ワシントンから空路戻ってきたら、大兄によって紙価を高めた著書が、待っていました。

『ホテルにいい女を連れ込んでバスルームからシャワーの音を聞いているときのあの気持ち』そうです。美肴(びこう)も、美女も、初回だけは高揚した気分を楽しめます。そういえば、古語で空路――『そらち』は心もとない、うわのそらの旅路ですが、これからも、うわのそらになる瞬間を重ねて、幸せに生きたいと願いました」

と、急いで礼状を認めた。

Sの箴言(しんげん)は、出版社に案内されて、もちろん、タダメシを振る舞われ、クジラの百(ひゃく)尋(ひろ)――小腸、子宮、赤身、本皮、ベーコンだそうな――や、さえずり――睾丸とのこと――を供される時の心情を、描いたものだった。

私とSは十二支でいえば、ひとまわりは違う。

愚生はまるでガソリン・スタンドの洗車施設のようなシャワーが、まだ普及していなかった、よき時代に青春を送った。

だから、衣(きぬ)ずれが、仮初(かりそめ)―一時かぎりのよろこびだった。敵娼(あいかた)が羞(はじら)いながら脱ぐ時の衣(きぬ)ずれの音を、目を瞑(つぶ)って耳を凝らすのが、日の本の健児の冥利(みょうり)だった。

それにしても、古語では「衣」を、絹と同じ「きぬ」と、読ませた。

「ここ(注・この場)にやあらむ 人のきぬ音す」(源氏物語「蜻(かげ)蛉(ろふ)))

「なえたる(注・くたくたになる)きぬを顔に押しあて臥(ふ)し給へりとうむ」(源氏物語「浮舟」)

夷狄(いてき)の都に5泊して、蜻蛉(とんぼ)返りした。かげろふは、蜻蛉(とんぼ)の古語である。古人は、かげろふの羽がきらきらと光るのを、はかなく美しいしるしとして、嘆じた。

 『源氏物語』の五十余巻は、夕顔、若紫、摘(すえつ)花(はな)、紅葉賀(もみじのが)、花宴(はなのえん)、葵(あおい)、花(はな)散(ちる)里(さと)、絵合(えあわせ)、松風、薄雲、朝顔、玉(たま)鬘(かずら)、初音、胡蝶、蛍(ほたる)火(び)、鈴虫、夕霧などの各巻に、分けられている。

いまの日本の女性から、このような繊細な心の襞(ひだ)を感じることができるものだろうか。女性は男を映しだす鏡だ。私たち男が卑しく殺伐になった報いを、受けているのだ。人は知や意より、情を大切にしたい。

人生は、空路(そらち)の楽しみであるべきなのだ。

<「頂門の一針」から転載>