この度、訪ねる東大寺転害門(てがいもん)は、泉津からの上津道と藤原京から平城京への上ツ道との接点であり、平城京の東端の東七坊大路に面し(地図Z:4番)、京方面から東大寺を訪れる人々を最初に出迎える大門でした。
地図Z:http://chizuz.com/map/map127235.html
この国宝の転害門は、度重なる戦乱に遭いながらも天平の東大寺創建時の場所で焼失せずに残っている数少ない建造物です。ですから、当時の平城京の復元図を作成する場合の測量などの時、定点となる重要な遺構です。
ところで、東大寺の歴史は皆様良くご存じと思いますので、短絡して記述します。
聖武天皇が、天平15年(743)、大仏造顕の詔を近江国紫香楽宮で発して大仏造立工事を始めましたが、その後、天皇は(難波宮を経て)平城京へ帰ってきました。天平17年に再開工事を平城京で着手し、天平勝宝4年(752)4月に大仏開眼供養が執り行われました。
しかし、台座をはじめ色々な建物が最終的に完成するのに、宝亀2年(771)までの歳月を要したのです。
当時の東大寺の寺地は平城京の条坊のサイズで計ると50町と云われていた広大な地所でした。そして、明治の廃仏毀釈で分離した手向山八幡宮も、元々は東大寺の鎮守でした。
「九州の宇佐八幡を勧請(天平勝宝元年:749)した。」と云われています。
但し、現在の手向山神社は創建時の地点から1237年に現在地に移転しています。
下記の写真は国宝の転害門です。
「転害門」は三間一戸、八脚門(柱間が前後三つで中央が戸口)の形式を持った堂々たる大門です。屋根は切妻造り、本瓦葺で創建以来立ち続けている門です。天平時代の雄大な伽藍建築が想像できる遺構です。
八脚門は格式の高い門であり、現存する天平時代の門では法隆寺の東大門とこの転害門だけだと云われています。
ところで、「転害門」の名称の由来には次のような説があります。
★ 東大寺の大仏殿(金堂)の西北にこの門があるので、吉祥の位置で害を転ずる意から「転害門」と云う。
★ 東大寺の鎮守八幡宮(手向山神社)が催行する10月5日の祭礼(転害会:手掻会)「宇佐八幡神が東大寺に影向の時、諸神を手招きし、手掻門より入る」のお旅所であったことに由来する。碾磑門(てんがいもん)→転害門(てがいもん)→手貝門
東大寺は治承4年(1180)12月、平重衡の兵火で巨大な伽藍は灰燼となり、寺地の周辺部の法華堂.開山堂.転害門などを残すのみで一面が焼け野原となりました。
(俊乗房)重源は、建築事業を学ぶため、三度渡宋した経験を見込まれ東大寺勧進職に任命されて大仏鋳造を開始し、文治5年(1185)大仏開眼供養を行い、それから10年後、金堂、中門などの完成を得て、建久6年(1195)3月、天皇の行幸を仰ぎ、鎌倉の将軍:頼朝も参加する盛大な金堂落慶供養が催行されました。
「転害門」の鎌倉期改修は、建久6年の大仏殿竣工式に合わせ、京街道側の東大寺への入口門をもっと雄大で立派な体裁に整えるための改造で、大きく改修した所は組物(くみもの)を平三斗から出組(でぐみ:一手先)に改造:組物を一段だけ「斗(ます):と肘木」高くして建物が立派に見えるように屋根を高くし、軒先も前に伸ばした大門です。
その後の戦乱:永禄10年(1567)の松永久秀の兵火で東大寺の伽藍はまた灰燼となりましたが、周辺地にあった「転害門」は焼失を免れて残りました。
「転害門」は別名:景清門とも云われています。(源頼朝を暗殺しようとして、平景清が潜んだとの伝説に由来)
参考文献: 国宝 東大寺転害門調査報告書 (2003年3月)
奈良文化財研究センター
古寺巡礼奈良 東大寺 淡交社
次回は話題を近代(明治時代)の幻の大仏鉄道や中世の山城(鹿背山城:NHKで昨年放映)などに変えて散策しようと思っています。
(郷土愛好家)