白井 繁夫
次に訪ねる神社は『記紀』の崇神記に登場する物語、「四道将軍」の伝承に纏わる幣羅坂神社(へらさかじんじゃ)です。四世紀の初め、崇神天皇(すじんてんのう)の時代、大和朝廷の勢力が飛躍的に拡大して全国区へと発展した時期にこの神社は創建されたと云われています。
神社へは念仏石を祀る御堂の南から参道を登ると神社の正殿に出ます。(車は北側の道)
祭神は、天津少女命(あまつおとめのみこと)、大毘古命(おほびこのみこと)。社殿は、学研都市開発にともない神社の境内の一部を公団に売却した資金で昭和55年に現在の社殿に建て替えられました。
この神社の縁起は記紀の崇神記「武埴安彦の反乱」から始まります。この反乱の舞台となるのが古来より最も重要な場所で水陸ともに重要な拠点(大和の北の要衝)は木津川の泉津(いずみのつ)と山城(古事記では「山代」(やましろ)国の木津地方です。
・崇神記「武埴安彦の反乱」の概略
『天皇はまず大和政権を安定させてから、北陸、東海、西道(山陽)、丹波(山陰)へと勢力の拡大を目指し、四道将軍(四方面へ四人の将軍)を派遣させる。四道将軍の一人大毘古命が北陸(越国)へ派遣され山代の幣羅坂(日本書紀では平坂)に差しかかった時、腰裳(こしも)を付けた童女が歌った詩の内容に不審を抱き引き返して天皇に奏上した。
<「古事記」の童謡(わざうた)の原文*
御真木入彦(みまきいりびこ)はや 御真木入彦はや 『御真木入彦:崇神天皇を指す』
おのが(ご自分の)命を 盗み殺(と)せむと 『暗殺しようと』
後(しり)っ門よ (裏門から) い行きたがい 『行きちがい』
前っ門よ (表門から) い行きちがい うかかはく 『狙っているよ』
知らにと(知らないで) 御真木入彦はや>。
*ワザウタ:童謡、謡歌。上代歌謡の中でも政治上の風刺、社会的事件を予言。
この童謡は日本の落書(らくしょ)の起源とも云われています。
天皇は山代国に遣わした建波邇安王(武埴安彦)が反逆心を抱いたしるしと思い、大毘古命に、丸邇臣氏(わにのおみ)の祖先の日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を副えて討伐を命じた。
大毘古の官軍は那羅山(ならやま)に集結し草木を踏みならし(平城山)、和訶羅河(木津川)の戦場へ、幣羅坂(黄泉比良坂:よもつひらさか:地上と地下の境)から出発した。
両軍は山代の和訶羅河で向かい合い、相挑んだ。(伊杼美イドミ→伊豆美イズミ→泉)
武埴安彦の忌矢(いはひや)ははずれ、日子国夫玖の矢に当り、死した。反乱軍は総崩れになって敗走し、屎をもらし褌ハカマを汚したまま遁走した。(屎褌→久須婆→楠葉)』。
(地名伝承:イドミカワ(イズミカワ)、ナラヤマ、クソバカマ(クズハ)等々)
当時の木津川は、水運の大動脈でもあり、琵琶湖経由で越国、東海、丹波、淀川を経て山陽道へ、また海に出て大陸の唐、新羅等とも繋がっていました。
奈良山西麓を越える下津道には押熊の王がおり、他方の陸路で難波への道、大坂越えには武埴安彦の妻(吾田姫アタヒメ)が西国道を固めていました。
しかし崇神天皇は、敵対する各方面に四道将軍を派遣して各地の王を平定したので、『所知初国御真木天皇:はつくにしらすみまきすめらみこと』、即ち、初めて国を治めた初代の大王(天皇)と云う称号で呼ばれました。また崇神天皇は武埴安彦を滅ぼして、山代の新しい領土:ハツクニを手に入れた大王と云う呼称だと云う説も有ります。
幣羅坂神社は崇神天皇の名前が出る我が国初の童謡を謡った少女と、近くの市坂古墳が大毘古命の墳墓?と云われるニ柱が祭神として祀られている市坂の産土神です
現在の幣羅坂神社
次回の散策は奈良街道の市坂から奈良へ向かう平城山越えの峠の茶屋跡の『高座』を通り、般若寺近くの能楽の翁舞などで有名な奈良豆比古神社を訪ねようと思っています。
(郷土愛好家)