2012年01月29日

◆木津川だより 中津道周辺散策C−2

白井 繁夫


次に訪ねる神社は『記紀』の崇神記に登場する物語、「四道将軍」の伝承に纏わる幣羅坂神社(へらさかじんじゃ)です。四世紀の初め、崇神天皇(すじんてんのう)の時代、大和朝廷の勢力が飛躍的に拡大して全国区へと発展した時期にこの神社は創建されたと云われています。



神社へは念仏石を祀る御堂の南から参道を登ると神社の正殿に出ます。(車は北側の道)

祭神は、天津少女命(あまつおとめのみこと)、大毘古命(おほびこのみこと)。社殿は、学研都市開発にともない神社の境内の一部を公団に売却した資金で昭和55年に現在の社殿に建て替えられました。



この神社の縁起は記紀の崇神記「武埴安彦の反乱」から始まります。この反乱の舞台となるのが古来より最も重要な場所で水陸ともに重要な拠点(大和の北の要衝)は木津川の泉津(いずみのつ)と山城(古事記では「山代」(やましろ)国の木津地方です。



・崇神記「武埴安彦の反乱」の概略



『天皇はまず大和政権を安定させてから、北陸、東海、西道(山陽)、丹波(山陰)へと勢力の拡大を目指し、四道将軍(四方面へ四人の将軍)を派遣させる。四道将軍の一人大毘古命が北陸(越国)へ派遣され山代の幣羅坂(日本書紀では平坂)に差しかかった時、腰裳(こしも)を付けた童女が歌った詩の内容に不審を抱き引き返して天皇に奏上した。



<「古事記」の童謡(わざうた)の原文*

御真木入彦(みまきいりびこ)はや 御真木入彦はや  『御真木入彦:崇神天皇を指す』

おのが(ご自分の)命を  盗み殺(と)せむと    『暗殺しようと』

後(しり)っ門よ (裏門から) い行きたがい  『行きちがい』

前っ門よ (表門から) い行きちがい うかかはく  『狙っているよ』

知らにと(知らないで) 御真木入彦はや>。

*ワザウタ:童謡、謡歌。上代歌謡の中でも政治上の風刺、社会的事件を予言。

この童謡は日本の落書(らくしょ)の起源とも云われています。



天皇は山代国に遣わした建波邇安王(武埴安彦)が反逆心を抱いたしるしと思い、大毘古命に、丸邇臣氏(わにのおみ)の祖先の日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)を副えて討伐を命じた。



大毘古の官軍は那羅山(ならやま)に集結し草木を踏みならし(平城山)、和訶羅河(木津川)の戦場へ、幣羅坂(黄泉比良坂:よもつひらさか:地上と地下の境)から出発した。



両軍は山代の和訶羅河で向かい合い、相挑んだ。(伊杼美イドミ→伊豆美イズミ→泉)

武埴安彦の忌矢(いはひや)ははずれ、日子国夫玖の矢に当り、死した。反乱軍は総崩れになって敗走し、屎をもらし褌ハカマを汚したまま遁走した。(屎褌→久須婆→楠葉)』。

(地名伝承:イドミカワ(イズミカワ)、ナラヤマ、クソバカマ(クズハ)等々)



当時の木津川は、水運の大動脈でもあり、琵琶湖経由で越国、東海、丹波、淀川を経て山陽道へ、また海に出て大陸の唐、新羅等とも繋がっていました。



奈良山西麓を越える下津道には押熊の王がおり、他方の陸路で難波への道、大坂越えには武埴安彦の妻(吾田姫アタヒメ)が西国道を固めていました。



しかし崇神天皇は、敵対する各方面に四道将軍を派遣して各地の王を平定したので、『所知初国御真木天皇:はつくにしらすみまきすめらみこと』、即ち、初めて国を治めた初代の大王(天皇)と云う称号で呼ばれました。また崇神天皇は武埴安彦を滅ぼして、山代の新しい領土:ハツクニを手に入れた大王と云う呼称だと云う説も有ります。



幣羅坂神社は崇神天皇の名前が出る我が国初の童謡を謡った少女と、近くの市坂古墳が大毘古命の墳墓?と云われるニ柱が祭神として祀られている市坂の産土神です


現在の幣羅坂神社



次回の散策は奈良街道の市坂から奈良へ向かう平城山越えの峠の茶屋跡の『高座』を通り、般若寺近くの能楽の翁舞などで有名な奈良豆比古神社を訪ねようと思っています。

    (郷土愛好家)

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2012年01月28日

◆木津川だより 中津道周辺散策C−1

白井 繁夫


今回訪ねるところは、前々回訪ねた岡田国神社(国道24号の大谷交差点 地図Z:A番)から南南東約1km、奈良街道(府道24号:天理街道)の「市坂南口」バス停すぐの所の「御堂」(地図Z:C番)とその近くにある「幣羅坂神社(へらさかじんじゃ)」です。



ここの御堂は、鎌倉時代法然上人の念仏石、室町時代の動ユルギ観音、縁行者を祀る建物で安養寺と市坂の人々でお祀しています。また、幣羅坂神社は『記紀』の物語に纏わる伝承など、それぞれの時代の伝承が地元で受け継がれ現在も大事に守られ祀られていますのでそのお話をしようと思います。

(地図Z:http://chizuz.com/map/map118310.html



安養寺は僧行基が建立した寺で、嘗て、神仏習合の時代(明治以前)は神社と寺院は同じ敷地に併存していました。



・念仏石



平重衡(たいらのしげひら)の兵火(1180年)で焼失した東大寺大仏殿再興の落慶法要の時、(建久六年「1195」3月)。大仏殿再興勧進職の俊乗房重源(シュンジョウボウチョウゲン)が彼の師匠である法然上人を大仏開眼の導師として招きましたが、法然は法相華厳等の宗義に触れないで念仏の話のみで、帰途に着きました。



法然の講話を聴きに来た人々は落胆し、怒った衆徒(堂衆、大和武士達)は上人のあとを追い、大和と山城の国境で追い付き上人に理由を尋ねました。



その時、法然は念仏の功徳の偉大さを示す為に、一枚の紙に『南無阿弥陀仏』と六字の名号を書き傍らにあった石で掛け合い量り比べをしました。



当初は石が重く地に付いていましたが、上人が念仏を唱えると不思議な事に、石は上がり、六字の名号の紙が大地に付きました。一同はこの不思議を目の前で見て、名号の功徳の偉大さを知りました。



当時は、そこから安養寺の御堂が見えましたので、上人はその御堂で二夜三日念仏を修し、人々に御化導なされました。この国境の説法の跡が高座と云う地名で現在も残り、掛合い当時の石は約60貫(225kg)でしたが、どんどん増大して明治10年の測量時には約1500貫(5625kg)に増加していたと云われているこの石が法然の念仏石です。


写真左:動観音石仏    写真右:法然の念仏石が祀られている御堂



・動観音堂(ゆるぎかんのんどう)



江戸時代の南山城西国三十三カ所第九番札所となっている動観音堂の本尊、十一面観音立像(石仏) (春日大明神 動仏:ゆるぎぶつ)です。



室町時代の長谷寺式観音で私達が一般に観ている観音様と異なり右手に錫状、左手に水瓶を持っています。この石仏には大永4年(1524)9月18日の銘があります。



地元の伝承によると、昔、奈良の春日山の奥の手向山八幡宮でこの石仏が掘り出されました。いろんな村の人々がこの石仏を欲しがりましたが、この仏は微動だにしません。ところが、市坂の村人が動かすと不思議なことに動きました。



村人達は喜び、この地(市坂)に安置してお祀りしてきました。また、ここの念仏石も毎年八月二十三日に御堂の扉を開きお花を供えて、皆で数珠繰りをして来たとのことです。



この地に伝承されてきたこれら二つの不思議な話、現在の人々は如何お思いでしょうか?



安養寺の開山の僧行基については泉津の泉橋寺、木津川の泉大橋、大智寺などで話題に採り上げましたが、安養寺と僧行基については次の機会に訪ねようと思っています。(続く)
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2012年01月27日

◆「強弁谷垣」対「野田詭弁」は野田の勝ち

杉浦 正章


消費税国会は抜き差しならぬ与野党党首のガチンコ勝負で幕を開けた。代表質問での応酬は「強弁谷垣」対「野田詭弁(きべん)」の戦いであった。

もっとも、何が何でも「解散・総選挙」に結びつけようとする自民党総裁・谷垣禎一が、大局を理路整然と見誤っている分だけ、首相・野田佳彦に歩があった。7対3で野田が勝った感じだ。

総じて谷垣の質問は大局観に欠け、重箱の隅を突っつく枝葉末節型に終始した。谷垣は約40分間の質問のほとんどを、社会保障と税の一体改革に費やし、民主党の「マニフェスト違反」を9回も繰り返した。

議会の同意がない国王の課税を禁じた英国の大憲章・マグナカルタまで持ち出して追及。「マニフェスト違反でないという弁明を真に受け止める有権者は皆無」と決めつけた。明らかに政局化を意識して、はやりにはやる姿勢だった。

谷垣のマニフェスト違反の指摘は、確かにもっともだが、もっともすぎて食傷気味になることも否定出来ない。もう国民は民主党のマニフェストが破たんしていることは十分承知であり、谷垣のように石を見て「これは石だ」と指摘されても、「またか」と思うだけだ。マニフェスト違反は有権者の選挙判断に委ねてしかるべきであろう。

そしてなぜ谷垣が理路整然と間違っているかといえば、消費増税問題の根幹を見れば、歴代自民党政権が1000兆円にものぼる借金を作ったことに大半の責任がある。それゆえに先の参院選挙で10%増税への選挙公約を掲げたのは自民党自身ではなかったか。

むしろ自民党は自ら消費増税法案を議員立法で国会に提出して、国民にその是非を問うくらいの姿勢があってもおかしくない。自分が主張すれば正しくて、現政権が主張すれば「マニフェスト違反」と非難する。この矛盾の“急所”がある限り谷垣は何を言っても、「政局化」のそしりを受けて当然なのだ。

マグナカルタも国王の恣意的な課税を禁じたのであり、むしろ議会が課税権を獲得したのだ。増税不可避の認識では議会が事実上一致しているのだから、ここを推進のチャンスととらえるべきなのだ。

いくら「マニフェスト違反は明らかだ。民主党政権に提出の権限は与えられていない」と谷垣が声高に断定しても、うつろに響くだけだ。手続き論にこだわり過ぎて決定打に欠けた代表質問だった。

一方野田の答弁も重要ポイントで矛盾撞着が見られる。

マニフェスト違反でないとする根拠について「消費税の第一段の引き上げは、2014年4月であり、これは現在の衆院議員の任期終了後であり、国民に対する裏切りという指摘は当たらない」とした。任期は13年8月29日だから、任期中は引き上げを行わないと言う公約に違反しないというのである。

しかし、これはまぎれもない詭弁だ。有権者は「4年の任期中に引き上げない」を実施時期と受け取っただろうか。そうではあるまい。むしろ言葉通りに民主党が4年間は引き上げる「行動に出ない」と受け取ったはずだ。あきらかに有権者に対する裏切りだ。

野田はこの場面では率直に公約違反を認め、陳謝した上で、増税の必要を説く謙虚さが必要だった。

初戦から激突の火花が散った形だが、なりふり構わぬ谷垣の解散追い込み路線は揺らぐことはあるまい。党内的にも落選組に突き上げられて、ここで解散を勝ち取らなければ、自らの立場を危うくする。

一方で野田の「やり抜くべきことをやり抜いたうえで国民の判断を仰ぎたい」という姿勢は、解散・総選挙を消費増税の関連法案成立後に設定していることになる。このままでは消費増税法案どころか、予算関連法案の成立も危惧(きぐ)される事態だ。

内閣不信任案や問責決議案も俎上(そじょう)に上るだろう。こうしてまさに「視界ゼロ」の激突から何が生まれるかだが、焦点は舞台裏がどう動くかに絞られてくるだろう。

自民党側は元首相・森喜朗、副総裁・大島理森、民主党側は政策調査会長代行・仙谷由人、副総理・岡田克也ら表だって目立っていない面々が、その人脈を通じて落としどころを「話し合い解散」に置いて動くであろうことは、十分に予想されるところだ。

<今朝のニュース解説から抜粋>         (政治評論家)

2012年01月26日

◆小泉ジュニアは自民党の希望の星か?

杉浦 正章


辛気くさい老齢政治家が多い自民党で希望の星扱いされているのが、青年局長の衆院議員・小泉進次郎(神奈川11区・当選1回・30歳)だ。歯切れのいいコメントがテレビうけするのか、しょっちゅう出てくる。

それも父親純一郎に勝るとも劣らない説得力がある。その純一郎は離婚して、クレイマークレイマーで進次カを育てるに当たって、言葉使いのイロハから教育した。おそらく政治家としての素質を見抜き、「言葉が命」の政治家稼業の基礎をたたき込んだのだろう。

風貌・性格もよい。読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆の渡辺恒雄が朝日のインタビューで「若手なら小泉進次郎君がいい。TPP(環太平洋経済連携協定)参加など、民主党に賛成できるものは堂々と賛成して法案を通せばいいと、自民党を批判しているからだ。おやじのようにべらんめえじゃないし、高飛車でもない」と褒めあげている。

民主党政策調査会長代行・仙谷由人も敵ながらあっぱれと言うのであろう、「テレポリティクス時代の天才」と持ち上げた。どうも進次カには“爺殺し”的な側面があるようだ。しかし仙谷も「一般的に天才と言ったわけじゃない」と付け加えている。「浅薄なテレビ政治時代の天才」と言う意味の皮肉も混じっているようだ。

小泉の発言を分析すると、一つは父親のワンフレーズ・ポリティックの影響が色濃い。また白黒を断定的に形容することも父親似だ。

もう一つは発言が欧米流、とりわけ米国流のレトリックに満ちていることが分かる。現在の大統領選でみられるように、相手の虚を突く修辞技術に長けているのだ。

これはコロンビア大学大学院に留学ジェラルド・カーティス教授に師事して、政治学修士号を取得していることからもうなずける。遠くはケネディ、近くはオバマに代表される米国大統領の弁舌の巧みさを学んできたのであろう。

直近の例では、首相・野田佳彦が麻生太郎の施政方針演説で消費税に前向きな発言をしたことをとらえて「政局より大局を」と訴える根拠にしたことをやり玉に挙げている。

小泉は「もし、野党の時に野田首相が『首相の思いと同じです』と言っていたら、説得力がある。でも、麻生首相の麻生内閣不信任案の賛成討論をしたのは首相だ。ちょっと説得力がない」と批判している。野田はぐうの音も出ないはずだ。

虚を突くレトリックの典型だ。まだある。昨年末に国民新党代表・亀井静香が新党に動いたことについて小泉は「新党、新党と言うが、言う人が新しくない」とばっさりと切った。

怖いもの知らずの度胸もある。自民党がTPP反対で気勢を上げている最中に「自民党は参加が拙速だというが、私は遅すぎると思っている」と言い切った。自民党前参議院政策審議会長の山本一太がブログで「胆力がすごい」と褒めちぎったほどだ。

もっとも機微に触れる発言は巧みに避けているようにも見える。野田の消費増税での与野党協議提唱には、自民党内にも同調する意見が多いが、小泉はTPPのように旗幟(きし)を鮮明にしない。逃げているのか満を持しているのか知らないが、小泉自身の是是非非論法で言うならやはり「政局より大局」支持でなければなるまい。

しかし、「巧言令色鮮(すくな)し仁」の例えもある。オバマが米国民にその卓越した弁舌故に飽きられてきたことが象徴するように、小泉はテレビメディアの“使い捨て”にやがて直面する危険がないわけではない。

かつての新自由クラブの政治家たちに象徴されるように、あまたの政治家が彗星の如くテレビに登場し、やがて消え去っていった例がみられる。父親純一郎も長い下積み修行時代を経て、花を咲かせたのだ。何と言っても政治家は不断の勉強から出てくる鈍い底光りのような光り方が重要なのだ。クリスマスの電飾型では長続きしない。

仙谷が政治家の在り方として「テレビに取り上げられなくても、お互いに切磋琢磨の議論をすることが若い時代には重要だ」と述べているとおりだ。ちゃらちゃらしたおべっか評論家やテレビの司会者に持ち上げられて喜んでいると、大きな落とし穴に落ちる。

総裁・谷垣禎一の体たらくに永田町では冗談半分に「小泉総裁」説が流されているが、まだ20年早い。    
<今朝のニュース解説から抜粋)   (政治評論家)

2012年01月25日

◆野党演説引用は腹をくくった証拠

杉浦 正章


首相・野田佳彦の施政方針演説の焦点は、何故かっての野党党首の演説を引用したかに尽きる。どうも野田は解散・総選挙に向けて腹をくくったように見える。

なぜなら前代未聞の引用は、対野党的には逆効果であり、まさに“けんか”を売ったことになるからだ。野党は代表質問で過去の野田発言の虚飾を突き、国会は泥仕合の混戦になるのは目に見えている。消費税国会の成り行きを予測してか、元民主党代表・小沢一郎は「6月解散」に照準を定めた。

まるで選挙が始まって街頭演説の第一声を発したようなストレートな内容に満ちていた。特異とも言える施政方針演説のさわりは、福田康夫と麻生太郎の首相時代の施政方針演説を逆手にとったことだ。

まず福田が4年前に「与野党が信頼関係の上に立ってよく話し合い、結論を出し、国政を動かすことこそ政治の責任だ」と発言したこと。ついで麻生が3年前に「持続可能な社会保障制度を実現するには、給付に見合った負担が必要だ」と発言した点を取り上げたのだ。そして野田は「私が目指すのも同じだ」と強調「政局より大局を」と訴えたのだ。

“奇策”とも言える野田演説に、さっそく麻生は「いいとこ取りでボクシングで言えばクリンチされている感じ」と反発、福田も「いいこと言っているようだが、民主党は全く違う」と、苦虫をかみつぶしたような反応だ。

野田のこの発言は、自分自身の発案により練りに練ったものだという。発言が、与野党の溝を埋めるどころかかえって深めるという、逆効果になることは自ら百も承知であったに違いない。それなのに何故直球をぶつけたかだが、背景には消費増税をめぐる与野党協議がにっちもさっちもいかなくなり、当面協議実現を断念せざるを得なくなった背景があろう。


野田は、自民党が参院選の公約に10%引き上げを公約にしていながら、「政局」のために反対のための反対をしている姿を浮き彫りにしたかったのである。

野田は、施政方針演説が国民に訴える効果を十分に計算して、野党に呼びかけると言うより、国民世論に消費税をめぐる思惑の違いを鮮明にしたかったのだ。マスコミ・世論対策を狙ったのであろう。これはとりもなおさず、施政方針演説の「街頭演説化」に他ならない。

街頭演説では他党党首の発言を引用して攻撃するのは、選挙に突入すれば日常茶飯事である。野田の姿勢からは与野党協議実現への戦略、戦術を熟慮すると言うより、国民に直接訴える方を選んだことがうかがえる。

その延長線上には、今国会中の解散・総選挙も辞さぬ構えが見て取れるのである。民主党単独での消費増税法案国会提出も視野に入れたのだろう。

しかし世論の反応は芳しくない。朝日新聞は「気合い十分、説得力不足」と題する25日付社説で「自民党の演説を引用したのは余分だった。民主党の野党時代の攻撃的な言動を問い返され、またしても与野党の泥仕合を招きかねない」と危惧(きぐ)している。

確かに動画サイト「YouTube」で話題になっているのが、野田自身の街頭演説での自民党政権批判発言だ。「マニフェストに書いてないことを平気でやる。これっておかしいと思いませんか。書いてあったことは4年間何にもやらないで、書いてないことは平気でやる」と自民党を攻撃しているのだ。

マニフェストに書いてない消費増税を平気でやろうとしているのは野田自身であり、この“好餌”に野党が飛び付かないはずはない。今後、代表質問や予算委質問の絶好の材料となって、確かに国会は泥仕合となるのだ。

こうして、与野党正面衝突のコースが定まってきた。その政局を読んだのだろう。小沢が二日間にわたり新人衆院議員らを自室に招いて選挙に向けての発破を掛けている。24日も「6月をターゲットにせざるを得ない」と会期末解散・総選挙の可能性に言及、準備を急ぐように指示した。

小沢は「無党派層対策をしないと駄目だ」とも述べたと言うが、無党派層の浮動票の流れは今度ばかりは野党に向かうだろう。消費増税という不人気政策を掲げて、民主党に風が吹くことはまずあり得ないからだ。小沢チルドレンがいくらあがいても無駄だ。
<今朝のニュース解説から抜粋>   (政治評論家)


2012年01月24日

◆国政に3度目の劇場型政治は不要だ

杉浦 正章


「東京で生まれた男やさかい、大阪にはようついていかん」と名歌をもじらせてもらう。「大阪都構想」なるものをひっさげて圧勝した市長・橋下徹の鼻息が荒い。維新の会で全国規模の衆院選候補を擁立、国政を動かすのだそうだ。

果たして衆院の過半数を制して、大政党へと躍進できるのだろうか。全国規模ではとてもとてもその勢いはない。出来ると思うお方は“誇大妄想”とでも申そうか。燃えているのは大阪のマスコミにはやされて舞い上がったご本人だけではないか。もう日本に「劇場型政治」は不要だ。

「大阪都構想がゴールではない。大阪がこのように動き始めているのなら、次なる目標として日本国も動かしていこう」と、橋下は国政への党勢拡大を宣言。「本年勝負させてください」と言い切った。府知事と市長選で圧勝した“鼻息”を継続させている。

しかし問題は「最初のうまさが持続する」かどうかだ。折から政局は消費増税をめぐって、与野党が激突不可避の形勢であり、それを大阪から批判して既成政党の体たらくを突く効果は確かにあるかも知れない。自民党政権が飽きられ、民主党政権が“あきれられた”現状を見れば絶好のチャンスと映るかも知れない。

過去の新党ブームの中では、1976年の新自由クラブに似たようなムードが起きるかも知れない。

新自クは、折からロッキード事件批判に乗って清新さを売り出し、同年暮れの総選挙で躍進した。それでもたったの18議席だ。結局消滅したが、そこまで果たしてゆけるか。ゆければ立派なものだが無理がある。

まず第一に、大阪が騒いでいるだけという状況がある。元官房長官・野中広務は「日本は大阪のような雰囲気は出てこない。あれはマスコミが煽って作り出したもの」と手厳しい。浮動票は動く可能性があるが、全国で地滑りが生じるほどにはなるまい。

さらに橋下のタレント首長特有の政治手法に問題がある。テレビ向けに一つのテーマを決め、イエスかノーかの判断を求めて論破する。弁護士の経験も相まって口から先に生まれたような論陣をはり、相手を追い詰める。裁判に勝つなら何でも利用する弁護士型劇場政治だ。元首相・小泉純一郎のように敵を作ってたたくような手法が、今の国政に通用するだろうか。(略)

大阪都構想なるものが全国規模で関心を呼ぶだろうか。確かに2重行政の解消は自治体行政の重要ポイントだが、まず「隗(かい)より始めよ」と言いたい。国政に向けて“盛り”がついたようになって、足元がおろそかになっていないかということだ。

維新の会で府知事と市長を獲得したのだから2重行政解消の絶好のチャンスではないか。国に制度改革を求める前に自分の足元の出来ることから手をつけることが誠実な行政というものではないのか。

加えて大阪都構想は重要ポイントに矛盾がある。大阪、堺両市を解体し、広域行政を担う「都」と福祉など身近な行政サービスを受け持つ10〜12の「特別自治区」に再編する制度改革だが、これが2重行政どころか“12重行政”を生む恐れがある。公選区長と区議会を置くことにより、コストの増大は避けられず、手続きも煩雑化するだけではないだろうか。

要するに、国政レベルから冷静に見れば橋下政治はタレント型の劇場型パフォーマンス政治に尽きる。過去に劇場型政治がこの国にプラスをもたらしたことがあったか。小泉は所得格差を拡大し、この国の社会にぎすぎすした不公平感のみをもたらした。

政党レベルでの劇場型政治の最たるものが民主党政権の2代にわたる暗愚首相が行ったものだが、国民に根強い政治不信だけをもたらした。三度目の正直でまた劇場政治かと思うと、もううんざりだ。遅れてきた劇場政治に国民は3度もだまされることはあるまい。

首相・野田佳彦は橋下政治について「若干、劇場型になっている。府民が1人のスターを仰ぎ見ているだけでは良くない」と、野田にしては最大限の表現で警鐘を鳴らした。

維新の会は民主党とは相容れない部分も大きく、むしろ自民党、公明党との接近が言われている。既成政党側は維新の会を利用できるなら利用しようという魂胆が見え見えであり、だれも「橋下独断専行政治」を諫めようとはしない。

そこに「危うい政治」をのさばらせる危険が内包されているのだ。いずれにせよ解散は間近に迫り、選挙は既に終盤戦とささやかれる。二大政党激突のはざまに維新の会が全国規模で割り込める余地は少ない。
    <「今朝のニュース解説」から抜粋>  
      (政治評論家・元時事通信編集局長)


2012年01月23日

◆国会天気予報は

杉浦 正章


  〜「話し合い解散・時々ハプニング解散」〜


通常国会を天気予報風に見通すならば「話し合い解散、時々ハプニング解散」だろう。「消費増税政局」を軸に3月末からいつ解散があってもおかしくない激動状況に陥り、6月の会期末には、本命の「話し合い解散」が待っているという状況だろう。

この間、元民主党代表小沢一郎への判決、さらなる民主党離党、新党結成の動きなどがマグマ噴出の機会を窺う。政局は政権の帰趨(すう)も賭けた、まさに白兵戦の状況へと突入する。野田政権は野党に加えて、党内反対勢力による“腹背の攻撃”を受ける形となった。

22日の党大会での自民党総裁・谷垣禎一の発言を聞くと、もう頭に血が上ってしまっいる。消費税の協議など念頭にないどころか、民主党政権に罵詈雑言まで浴びせかけた。「民主党は(2009年衆院選)マニフェストには消費税率を上げることは書いてない。

口先だけのいかさまだった」「『偽りの政権』に終止符を打ち、政権の正統性を回復する総選挙を求める」とあらん限りの言葉を使った宣戦布告だ。もっとも売り言葉がある前に買い言葉を発したのは野田だ。

16日にテレビで「『出直しをして解散をしろ』という野党に対しては、やるべきことはやって、やり抜いて、民意を問うことをはっきり宣言したい」と“消費税やり抜き解散”を宣言した。両者共に一歩も譲らぬままで、まぎれもなく激突のコースを進んでいる。二三度火花を散らしてからでないと物事は動くまい。

野田は前門の虎後門の狼で腹背に敵を受けようとしている。野党と小沢だ。正門からは野党、裏門には狼が徘徊(はいかい)している。その小沢狼も16日の党大会にぶつけるように109人も集めて勉強会を開き、野田をけん制する動きを露骨にさせている。

109人とはよく集まったと思ったが、権力誇示の裏にからくりがあった。元官房長官・野中広務が22日のテレビの時事放談で「カネを配った」と公言したのだ。野中によると「帰りがけに金一封20万円づつ包まれていた」というのだ。「この人数は金銭的なところから出たものだ」と断言した。

野中の言葉通りなら小沢は2200万円で109人を買ったことになる。政治的には小沢の力量がまだあると思わせることができ安い買い物だったが、ネタがばれては「な〜んだ。それほどでもない」ということになる。
しかし小沢が波乱要素であることに変わりはない。

政治家の裁判の結果が政局に影響するケースが、今回ほどはっきりしていることは珍しいのだ。負けと出れば選挙を前に小沢に接近することは何も知らないチルドレンでも警戒するだろう。小沢は動くに動けなくなる。

勝ちと出れば、小沢は“大だんびら”を振りかざして六方を踏むだろう。公然と消費税解散に反対して、野田不信任案に欠席や賛成に回ったり、新党の動きに出るかも知れない。9月の代表選挙に出馬も辞さぬ構えだろう。

その裁判の勝敗を占うことは、2月に可能となる。裁判所が小沢の関与を認めた元秘書らの調書を証拠採用するかどうかにかかる側面が大きい。採用すればまず有罪の方向だ。

既に戦いの火蓋は切られた形で、政策調査会長代行・仙谷由人が22日「民主党は最初は小さかったが、数が多くないと政権がとれないとなったところからおかしくなった」と “自由党との合併”にまでさかのぼって小沢を批判。小沢も「改革が何ひとつなされていないなかで増税するのは、国民に対する背信行為になる」と政権への直接批判へとエスカレートさせた。

通常国会は26日から代表質問が行われ、その後外交・安保での集中審議を野党が要求している。この期に及んで何故外交・安保かというと、紛れもなく「田中直紀」狙いであろう。冒頭に防衛相・田中の首級をあげて激動国会の初戦を飾ろうというわけだ。

国会への消費税増税法案提出は3月になる段取りだが、それまでの間は赤字国債を発行する特例公債法案など予算関連法案をめぐって駆け引きが続く。おそらく野党は参院で予算関連法案の成立を拒否して、たなざらしにする戦術を採るだろう。

昨年同じ立場に置かれた首相・菅直人は3・11大震災で救われたが、通常の場合成立が遅れれば内閣の責任問題となり、解散・総選挙の起爆剤になり得る。

自民党は内閣不信任案や参院での首相問責決議案の上程も戦略のうちだろう。ただ野党も谷垣のように攻め一筋が終盤まで維持できるかどうかも問題となる。自民党は党内から与野党協議に応ずるべきだとの議論が風速を増すことは目に見えている。

谷垣の強硬姿勢には焦りの裏返しのようなところがあるのだ。公明党も協議を求める世論の要求に必ずぐらつく。谷垣としては落としどころが「話し合い解散」となれば「御の字」で大いにありがたいところが本音だろう。<今朝のニュース解説から抜粋>     
(政治評論家・元時事通信編集局長)

2012年01月22日

◆大平の消費税政局と酷似してきた

杉浦 正章
 

消費税がきっかけとなった政局は過去にもあった。1979年の「40日抗争」をはさんでの自民党内抗争だ。筆者は官邸キャップとしてつぶさに見たが、最近は当時の首相・大平正芳と首相・野田佳彦がダブって見えてくる。

酷似点は「政治生命を賭けて」消費税をやろうとしていることだ。そして内閣不信任案に同調しかねない反対分子も党内に抱えている。唯一異なるのは大平が消費税を撤回し、“大平政治”を信奉している野田が「死守」の構えであることだ。

79年10月の総選挙を前に首相・大平は官邸キャップらを招いてカレーライスを食べながら懇談した。
そこで突然大平は「一般消費税をやろうと思う」と言い出したのだ。9月17日の公示直前である。筆者は驚いて「選挙は大丈夫ですか」と聞くと、大平は「ああ、うう、愚直に訴える」と述べたものだ。これが消費税政局の発端であった。

大平は発言の通り選挙告示の第一声で、確かに「愚直にも」消費税導入を訴えた。しかし、当時の世論は大平の財政への危機感など全く理解せず、一般国民に至っては世論調査でも反対一色だった。

自民党が行った選挙予測調査も「大敗」と出て、官房長官・田中六助らが撤回を進言。ついに大平も大ぶれにぶれて撤回した。しかし時既に遅く、総選挙は大敗で過半数を割った。新自由クラブを抱き込んで政権は維持できたが、党内抗争の火蓋が切られた。福田赳夫らによる「40日抗争」だ。

抗争は長引き、大平は「辞めよというのは死ねと言うことか」と漏らして政権にすがりついた。しかし抗争は怨念の戦いとなり、翌80年の通常国会で野党が提出した内閣不信任案採決に福田らが欠席して、可決されてしまった。
大平は総辞職でなく解散を選択して、参議院選挙とのダブル選挙になだれ込んだ。ところが選挙第一声で大平は異常に甲高い声で演説をして、筆者は持病の心臓発作は大丈夫かと直感したが、案の定その夜心筋梗塞の発作が起きた。大平は死去して、ダブル選挙は必ず勝つ「弔い合戦」となり、自民党は圧勝したのだ。

民主党元代表・小沢一郎の最近の発言も、この経緯を念頭に置いてのものだろうと思える。18日も「こんなときに消費増税なんて冗談じゃない。何を考えているのか」と反対姿勢を一層鮮明にしている。何としてでも消費増税にストップをかけたいのだろう。

しかし野田は既にルビコンを渡ったのだ。賽(さい)は投げられたのを小沢は理解していない。ここで野田が方向転換したらどうなるか。大平と全く同じで「選挙大敗」が目に見えているのだ。大平は方向転換した結果、消費増税に賛成する良識派まで敵に回してしまったのだ。小沢は例え野田が方向転換しても、“どっちみち選挙に負ける”ことを知らずに、悪あがきしているのだ。

その間の大平の心理状況について首相秘書官だった森田一は日経のインタビューで「『しまった』という感じは見て取れたが、それは言わなかった。消費税を掲げたことに後悔はなかったと思う」と振り返っている。
野田は自他共に許す大平政治の信奉者だが、森田は野田から代表選挙前に「大平政治を目指したいので会いたい」という話があり、会食をしたという。この席で森田は「福田さんや大平のように大蔵省出身者で蔵相をやって首相になれば、事務当局に操られているといわれない。

だが、そうではない人が財務相をやって首相をやると事務当局が操っているとみられると言うと、『私はすでに増税男と言われています』と言っていて、そこはぶれないような感じだった」と述べている。

大平の失敗を意識して野田はぶれないことがこれで分かる。だが、野田も大平同様に党内に敵を抱えている。不信任案が提出されれば、小沢グループなど反対派が賛成するか欠席すれば可決されてしまう危うさがあるのだ。森田は「話し合い解散みたいな話で突破できるかどうかだろう。

私の感覚では解散が確約されれば、谷垣禎一総裁は党内を説得できるだろう」と述べている。野田が「小沢の福田化」を防ぐには、話し合い解散で小沢の裏をかくしかあるまい。

時局は与野党反対勢力の動きが活発化して、神経戦の側面も出てきた。野田にかかる精神的な重圧は、相当なものがあると思われる。しかし野田の大平との違いは、若さと体力があることだろう。解散を選択しても「弔い合戦」にはなるまい。
 (今朝のニュース解説・抜粋)            <政治評論家・元時事通信編集局長>



2011年12月31日

◆激動続きのこの1年

早川 昭三


今年1年を振り返れば、本当に色々な事件・事象が多かった。政治的にも、経済的にも多難な年だったと言えよう。 否、後世には、歴史に残る特筆すべき年であったと記されるだろう。
  

広く、世界を驚かしたのは、EUの直面した財政破綻〜ギリシャを筆頭にイタリアなどの国々の国家財政・経済の債務不履行・デフォルトの危機と、これに伴う世界的規模の金融危機と経済不況の深化。特に日本にとっては超円高問題の発生。 

1ドル95円から一挙に80円を割り込み、一時76円程度にまで上がった。これに伴い日本の輸出産業への悪影響が問題化し、日本国内の製造業の海外移転、国内産業の空洞化問題が一挙に噴出した。

加えうるに、近隣の中国から洩れてくる国内の不穏な情勢、12月17日の北朝鮮の金正日主席の死亡と後継者の弱冠27,8歳の三男金正恩体制の成立。 

今後、この近隣二カ国の動静が日本及び東アジアに如何なる影響を及ぼすことになるのか。今年は後世において、その端著の年と記憶されるのかも知れない。
  

特に大災害は、3月11日14時46分、牡鹿半島の東南東約130km付近を震源として発生した大地震。地震の規模を示すマグニチュードは9.0で、大正関東地震(1923年)の約45倍、兵庫県南部地震(1995年)の約1450倍のエネルギーの地震であった。

これが引き起こした15メートルを超す津波。宮城・岩手を中心に2万人を超す死亡・行方不明者。

これに絡んで被害を齎せたのは、福島沿岸部の東京電力原子力発電所の原子炉爆発。この二つの災害と事故の後始末は、今後とも日本の将来への大きな負担として残るだろう。
  

政治的には、東日本大災害と福島原発事故への対応を巡って、不手際続きの菅内閣から野田新内閣の発足。迷走し続けた鳩山・菅・野田内閣と続く民主党内閣への批判の矢は、到底留まる所を知らない。特に、社会保障制度と消費税引き上げの一体改革問題を巡る議論は、離党ドミノを軸に党分裂可能性も予断を許さない。


さらには外交に絡む動き。鳩山の沖縄米軍基地の県外移設発言、菅の中国漁船による尖閣列島事件における映像隠匿問題、さらに、野田のETT加盟問題が新たな火種になる。 

さて、こと大阪での激震は、11月27日に行われた大阪府知事・大阪市長のダブル選で、橋下徹氏と同氏の率いる「維新の会」幹事長松下一郎氏が圧勝したことだ。

選挙中から優勢は囁かれてはいたが、ここまで差を付くほどの圧勝結果を予想した府民やメディアは、ほとんどいなかった。

驚きは止まらない。この「圧勝」を背景に、橋下市長と松下知事は間髪を入れず急速に動き出したことだ。


橋下市長と松下知事は27日、大阪都構想の実現に向けて大阪府と大阪市の再編の実務を担う「府市統合本部」の初会合を開き、具体化協議に乗り出した。まず注目させられたのは、事務局を担当する25人の職員に、府と市の兼任とする辞令を「府市統合本部」が交付したこともその一例だった。

「統合本部の役割」として、大阪都の実現に向け法改正も含めた制度設計を行うこと、大阪全体の広域行政のあり方や二重行政の解消を検討すること、それに成長戦略や教育の問題など府と市で共通する政策課題を協議するという。

しかし、大阪全体の広域行政のあり方や二重行政の解消を目指す「都構想の実現」が、果たして府民市民にどのようなメリットを与えるのか、今でも全く見えない。

政令都市堺市も統合する腹だ、さらには大阪市営地下鉄の民営化、大阪府内での水道事業の一本化なども優先的に取り組んでいくと主張している。これには選挙後に市議会を中心に異論が出ている。

橋下市長は、19日の就任その日に上京。政府・与野党の幹部に会い「大阪都構想」に実現に協力を求めた。表面上は橋下市長の構想に賛同する動きが垣間見えたが、裏では次期衆院選挙との関連を絡めて慎重な姿勢を見せる政党幹部もいる。慎重意見の幹部は、住民投票を実施して過半数の賛成を得られれば「都」の設置を決定。

この手続きを経て「都」や「特別自治区」を設置できるという地方自治法の内容を盛り込む方向で調整すべきだとの考え方だ。

早い話、既成政党が地域政党・橋下維新の会と激突するのだけは避けたいという本音がチラつく。だから、衆院選挙を盾にプレッシャーを掛けていかないと、構想の実現が宙に浮いてしまうと、橋下氏察知している。  


そこで帰阪後直ちに、若手政治家の育成を目的に、来年から「維新の会」として政治塾を立ち上げる意向を表明。次期衆院選に向けた候補者養成をするというアピール。1月初旬に塾生公募を発表、25歳以上が対象。橋下市長自ら塾長を務めるという。


何としてでも「大阪都構想」を実現させるために、場合によれば「維新の会」を国会に送り出すと考えているのは事実。橋下氏自身も大阪市長を辞任し、衆院選に出馬すること暗示しているとも見える。


ところがそうした中、事を急ぐ橋下市長にとり、ブレーキとなる事態が足元で起きた。政令都市堺市の竹山修身市長が28日、市のホームページに、大阪都構想について「堺市の分割には賛成できない」と否定的な見解を掲載したのだ。

竹山市長によると、橋下大阪市長が指摘する府と政令市の二重行政の弊害について「堺市は、府と役割分担を行いながら行政運営を進めてきた。府と堺市の間に二重行政はない」と都構想について反論。

「政令市という基礎自治体として最大の権限と財源を活用して、市民とまちづくりを実行している堺市を分割することは、市民のためにならない」と強硬な意見を添えた。堺市が構想に同調しなければ、橋下構想は「空論」となる可能性もないではない。


そうなると、橋下戦術としては、堺市に時間をかけて手なずけていくよりも、中央政党相手に積極的に手を打って行った方が、結局労苦も少なく構想実現は早いと読み、これからは国会にむけて動き出す腹つもりのようだ。


序ながら、文芸春秋(2012年1月号)に東大教授・松原隆一郎氏が書いた「橋下徹総理」という悪夢―という記事の一部を紹介しておく。


<当第一人気を誇る橋下氏を総理に担ぎ上げる可能性も大いにあり得ます。そうなれば首相公選制を唱える橋下氏だけに、大統領型の「独裁」政治を敷くでしょう。

「選挙に勝ったのだから白紙委任を受けた」という理屈を振りかざし財政改革や安全保障、外交といった複雑な問題はシンプルな制度にいじりにすり替えらていく。そうなったら日本は破滅です。(省略)「橋下総理」という悪夢のシナリオが日本にとって“終わりなきに始まり”にならないよう祈るばかりです>。

等々、こう並べてみると、日本国内での様々な社会面での事件など霞みと吹き飛んでしまいそうな事件が次々と噴出した1年であった。

大阪に限らず、年明けから益々激しさは厳しくなりそうだ。(了)
                          2011.12.31

2011年12月22日

◆木津川だより  中津道周辺の散策B

白井繁夫


今回は、前に訪ねた岡田国神社(地図Z:2番)から南へ約0.5kmあたりにある天神山南側で発掘された、「馬場南遺跡」(地図Z:3番)を訪ねます。

この「馬場南遺跡」は、実は発掘された大量の出土品の中から、そこに建立されていたのは『神雄寺―カンノオジ』だと分かったのです。ところがこれに関する記録は奈良時代から全くなく、謂わば古代史上「謎の寺」です。その訳は追々。

この散策のあとは、「記紀の物語に纏わる神社と、その神社の参拝道入口にある法然上人の念仏石」などに向かおうと思います。
地図Z:http://chizuz.com/map/map118310.html

さて、謎の寺『神雄寺―カンノオジ』の所在地だったと、後に分かった「馬場南遺跡」のことに触れます。

発掘のきっかけは、京都府埋蔵文化財研究センターと木津川市教育委員会が、「学研都市開発」(木津中央区開発)のために、平成19年から事前調査が開始され、平成23年まで5次に亘って行われたもので、偶然にも考古学上の貴重な発掘となりました。

もしこの発掘が行われなかったら、この「馬場南遺跡」が奈良時代に重用された筈の『神雄寺』跡地だとは分かっていません。と云うのはこの地に『神雄寺』が在ったという古代からの「記録」が何故か総て「消滅」され、残されていなかったからです。

「謎の寺」と称される理由はここにあります。

この「謎」が解けたのは、発掘の際、ここが『神寺、山寺、神尾』など云われる『神雄寺』と記述された10枚の墨書土器が出土したことからでした、これがこの地に『神雄寺』があったことをはっきり裏付けたのです

更に度肝を抜かれたのは、奈良時代の万葉集<2205番 秋雑歌の[題詞](詠黄葉)>の「木簡」が、出土したことでした。

何と、この「木簡」の出土が、滋賀県紫香楽宮跡と奈良県石神遺跡に次いで、これが全国で3例目だったからです。

その「木簡」には、こう詠まれています。

<秋芽子乃  下葉赤  荒玉乃  月之歴去者  風疾鴨
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ぬれば 風をいたみかも>と詠まれます。
訳すると、 (秋萩の下の葉まで色づいてきた・・・・・月日がたって風が強くなったからだろうか・・・・・)だそうです。きっとこの場所で、優雅な曲水宴が催行されていたのではないでしょうか。
P1000897-1.jpg
写真:馬場南遺跡:文廻池の東、背後の天神山裾の谷合の神雄寺跡を遠望

貴重な出土品はそれだけではありません。
いずれも奈良時代の文献にない寺院の品々の出現ばかりでした。「正倉院三彩」に匹敵する四足の火舎型(かしゃかた)香炉(径20cm)を始めとした多くの種類と、大量の奈良三彩(破片)や、1万枚近くの灯明皿などでした。

この出土品した大量の陶器、土師器の数量や種類等にも驚きますが、更なる驚きは、「土製楽器の腰鼓」の出土でした。

『腰鼓』とは、腰の上に置いて敲いた古代の鼓。中国では唐代の墓から出土した例が有り、日本では正倉院御物の三彩品だけです。ところがこの遺跡で須恵器の腰鼓が出土したのですから、出土の価値が如何に素晴らしいかお分かりになると思います。

出土した大量の土師器の皿には、1カ所のみに煤が付いており、奈良時代の東大寺の『燃灯供養』同様、その都度、数千枚の新品の皿を使用して暗夜に灯りを燈す壮大な仏教行事を催行したと想像されます。

さて発掘された本堂は、約4m四方の小さい仏堂です。(仏堂内:約4m×3.6mの須弥壇の周辺には等身大の塑像の四天王像(断片)、塼仏など有りましたが、みんな高熱の火を被っていました)。

南側には仏事を行う礼堂があり、本堂の近くには塔跡がありました。一連の伽藍配置から儀礼空間は本堂、塔から南側の曲水状池跡が「聖域」で、東側は「俗地」と区別されていました。でも全て焼失したのか、この遺跡にはその後も寺院が再建されていません。

そこで最大の関心事は、どうして総ての記録が抹消されたのかということです。

それはこのお寺を巡って起きた恐らく朝廷か貴族の間の「紛争・政争」が原因で、当時の権力者の指示で「強制抹消」されて仕舞ったのではないと思われます。本当の理由は未だにわかっていません。「謎の寺」そのものです。

ところでこの「遺跡」の地形をよく見ますと、平城宮や東大寺から奈良山越えで泉津に至る奈良時代の官道(上津道.中津道)沿いにあります。聖武天皇の「恭仁宮」の中間に(それぞれ約5km地点)ありす。その辺りには貴族や豪族の屋敷も沢山あったそうです。

ところが、ここは聖武天皇の信任が厚かった橘諸兄の支配地域だったのです。もし、この地形が権力者同士の紛争を巻き興し、『神雄寺』を滅却させ、記録の総てを「抹消」せざるを得なかった背景が、この地形に絡んでいたのではないかとも考えられるのです。

さて、この「馬場南遺跡」(神雄寺跡)のまわりは、今は区画整理事業のため何も見えませんが、掘り出された出土品によって、記録には一切無かった1300年前の奈良時代の様子が、浮かび上がって来ました。以下整理して見ました。

@この遺跡は730〜780年代(奈良時代)に興りましたが、長岡京、平安京への遷都と共に、歴史上の記録から消えたと思われます。しかし、記録に無い『神雄寺』が本堂、礼堂、塔を備えた、伽藍建築の寺院名で出て来たのです。

A『大殿』と記された墨書土器の出土によって、奈良時代の高位の貴人の関係する寺院と  思われます。

B春には灌仏会(花まつり)が行われ、その証に径150cmの八稜形の台座(灌仏盤:誕生仏の台座)の出土。秋には曲水宴が行われ、万葉の歌木簡に詠われている優雅な情景推測されます。

C聖武天皇の御安泰、遣唐使の無事祈願:D大仏開眼会(天平勝宝4年:752年)E聖武天皇のご葬儀(756年)、盂蘭盆会(天平神護元年:765年)などの盛大な仏教行事の燃灯供養に、その都度ここで数千枚の灯明皿が使用されたと推測されます。

以上のことから、壮大な仏教行事などが国家行事と同じ規模で催行されたと推測されるのです、こうした出土品の検証が進めば。この「遺跡」はきっと近い将来、国の史跡に指定されると私は期待しています。

◆参考文献:明日香風No119 不思議な奈良三彩の謎を解く 京都橘大学教授
                               弓場紀知
     :天平びとの華と祈り −謎の神雄寺―       府埋文研究センター
                               上田正昭
    :馬場南遺跡(神雄寺跡)発掘調査 現地説明会資料(平成20、21、22年)
                              木津川市教育委員会

さて、「馬場南遺跡」を遠望して文廻池の南西から井関川の西岸道を南東へ少し歩き、右(南)に折れて行き荒渕池の西側を通り過ぎ、右『西』に曲がると、「奈良街道」(天理街道:府道754号)に出ます。

その交点の右(北)に、「幣羅坂神社(地図Z:4番)の鳥居とその少し北に法然の念仏石」が祀られているのです。

ところで岡田国神社からここまでの間、井関川沿いに天神池、文廻池、荒渕池と奈良街道沿いに3個の池が有りました。

これらの池は古代より明治の初めまで、泉津に到着した材木を運ぶため、藤原時代より『奈良時代の東大寺向けの材木も含め』、この川と池を利用して運搬するのに大いに役立ってきたのです。

このほかのルートも同様ですが、もう少し踏み込んだ内容は後日、書いてみます。(完)

2011年12月19日

◆橋下新市長 今日初登庁

早川 昭三


橋下徹・新大阪市長は19日午前8時55分に大阪中之島の大阪市役所に初登庁した。庁舎玄関で職員らの歓迎を受けて入庁し、5階の市長室に入った。

午前中は、総務部と調整して決めた人事異動を発令、発令された局長級幹部らを会議室に集め、府と市の事業統合する最高意思決定機関である「府市統合本部」の初会合を開き、27日までに所管の統合策を纏めるようを指示した。

このあと上京し、中央の政党幹部と会うことになっている。

ところで橋下新市長は、11月27日の大阪府・市長のダブル選で「大阪維新の会」を率いて圧勝した後、12月5日から大阪市が抱えている政策や課題について市幹部から説明を受ける一方、新市長が大阪府との事業統合や政策の見直しについて自らの意見を述べた。

ここでは、府市が別々に行っている経済活性化やインフラ整備などを一元化する他、懸案の府市の水道事業の統合、府市両大学や両病院の統合、大阪港施設の民間委託案などを示し、赤字財政再建に取り組むことなどの具体策を明らかにしたという。

そのうえで、成長戦略を受け持つ「府市統合本部」で実績を上げながら、これを「大阪都構想」の実現に繋いでいく方針を示したという。

同本部では、松井知事が本部長で、橋下新市長が副本部長になっているが、実質的には維新代表の橋下市長が主導を務めることは明らかで、府市の行政運営が橋下新市長のコントロール下になったことは事実だ。

こうした中、前述の予定のように19日午後上京する。上京は、中央の各党によっては、「人気のある橋下氏とは戦うよりも連携したい」との思惑があるという事態を直に探りにいくのが狙いだ。

<橋下市長は21日まで東京に滞在し、その間、民主党の輿石幹事長、前原政調会長、小沢一郎元代表、自民党の石原幹事長、公明党の山口代表、国民新党の亀井代表、みんなの党の渡辺代表、東京都の石原知事らと会談する予定。

橋下氏周辺は「日程が合えば、野田首相と会談する可能性もある」としている。新任の市長の就任あいさつに、これほど多くの与野党幹部が対応するのは極めて異例だ>。読売新聞

橋下市長は、あくまで念願の「大阪都構想」に対する各党の協力姿勢を見極めるのが主目的だが、「都構想」に消極的な政党などがあることも承知している。

従って、消極の姿勢が強ければ、橋下市長率いる大阪維新の会としては「大阪ダブル選」に圧勝した勢いで国政進出を検討しており、政党側との駆け引きも苛烈になっていくようだ。

話しは大阪市役所に戻す。橋下新市長が平松前市長を支えてきた局長級、部長級6人を、「公務員の立場で政治活動に関わった」として19日付けで「総務局付」とする事実上の「更迭」を行った。市長交代を印象づける強烈な橋下流の人事を行った。

また、<橋下新市長はすでに、約2400億円にのぼる市の人件費総額(2010年度普通会計決算見込み)について、来年度からの2割カットを検討していることとし、担当部局に削減案の検討を指示したことを明らかにした>。読売新聞

就任日の19日を待たずに、既に府市政統合の方針を述べるという異例もさることながら、インフラの整備に伴う人員整理、府市の水道事業の統合、府市両大学や両病院統合などの矢継ぎ早やな指示に加え、人件費カットも絡んで、職員の間では早くも動揺が広がっている。

その一方で、大阪港にある夢洲に「カジノ」を誘致できないかと担当部局に求めている。また、先頭にたって乗り気だったエンターテーメン「米パラマウント誘致」にも、まだ希望を抱いていると言われており、集客と経済波及効果を早期実現させたい意向も強いようだ。

とにかく、今日19日から橋下新市政がスタートした。歴代の市長とは違い、府市と事業を合同しながら、仕組みを見直していくという意図と政策が、市民のメリットにどう結び付いていくのか。

また、「都構想」の実現を口実に、果たして「維新の会」の国政進出を目論む腹積りなのか。これらが焦点となりそうだ。(了)
                         2011.12.19

2011年12月15日

◆光秀の神社祈願のなぞ

河崎 勝ニ


「火廼要慎」神社の総本山で有名な京都愛宕神社へ参詣した。その時、私が長年脳裡に澱んでいた「歴史の謎」が解けた。感極まった。そのことは追々。

京都右京区愛宕山の山頂にある愛宕神社は、大宝年間(701年〜704年)に創建されたもので、「火伏せ・防火」として霊験ある全国800神社の総本山。本殿で頂く」の火伏札は、京都・大阪などの料理屋や一般家庭の厨房に貼られ、崇められている。

この神社の一番有名なのは、標高924mの山頂にある「愛宕神社」までの山道と石段が、昔のまま、今も残っていることだ。

そこで私が気になっていたのは、明智光秀が本能寺の変で織田信長を暗殺する天正10年(1582)6月2日の1か月前の天正10年5月に、ここ「火廼要慎」神社に祈願するため足を運んだ事だった。

愛宕神社は、「火廼要慎」の神様であって、先勝祈願の神社ではない。だとすればどうしてこの「愛宕神社」をわざわざ祈願に赴いたたのだろうか。一大勝負を控えた瀬戸際の時に、敢えて「火廼要慎」神社に祈願しなければならない理由があったのだろうか。これが私の大きな「謎」だった。

さて、話を冒頭に戻そう。

「愛宕神社」のある京都愛宕山山頂を大阪から目指したのは、朝7時50分だった。

阪急「嵐山駅」で降りて渡月橋を渡り、京都バス経由で登山口となる「清滝」で下車したのが午前9時30分。そこから小さな朱色の鳥居を潜り、表参道に出る。山頂まで50丁の愛宕神社までの長い急坂の山道への挑戦がここから始まった。

脚力には自信のある仲間同士だったが、急勾配の長い山道を上るにつれ息切れが激しくなり、杖を頼りに大きな息を吐き出しながら、ただ黙々と上を目指す。

7合目に来ると杉に覆われた森林の隙間から展望が拓け、広沢池、桂川、京都市街が眼下に広がった。緩やかに呼吸を整えながらの歩行法で更に登ると、休憩所のある広場に着いた。メンバーから歓声が上がる。

少し登って黒色の総門を潜り、丁度正午に社務所に到着。そこから237段の石段を上がり、の本殿に並び、息を整え雑念を払って一礼・二拍手、「家内安全」「火廼要慎」を祈願。再び一礼して参拝を終え、石段を降りて社務所の広場に戻った。

3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれるため、大勢の参詣者が社務所に集まり、「火廼要慎」のお札と「御神籤」を求めている。

私も社務所を訪ね、白装束姿の男性職員に思い切って声をかけみた。予てから秘めていた「謎」を尋ねてみたからだった。

その職員から返ってきた話に、息を呑んだ。

<戦国時代の頃のこの神社は、本殿に愛宕大権現の本地仏の「勝軍地蔵」が祀られ、各地割拠の武将からは「戦勝祈願の神社」の象徴として崇められていたのだそうだ。。

だから、近隣の亀山城主だった明智光秀は、ここ「愛宕神社」に駆けつけのは、本能寺を攻めて勝てるかどうか占うため、この「勝軍地蔵」に祈願し、「吉狂」を占ったのだ。「火伏せ防火の神」に祈願したのではない。

光秀は、神社本殿で「籤」を引いたという。4回目にしてやっと「吉」を手にした。そこで悲願の本能寺攻めを決意したと謂われている。

序でながら、「吉」に安堵した秀光は、その翌日この社務所の前身である「西坊威徳院」で連歌会を開いている。

その時詠んだのが、あの有名な「ときは今 あめが下しる 五月かな」だったのだ。

これを聞いて、1300年前から「火伏せ防火の霊場」とされてきた当神社が、実は戦国時代は、武将にとっては「勝軍地蔵」に捧げる「戦勝祈願の神社」で、光秀の祈願の目的も、「火廼要慎」祈願ではなく、暗殺必勝を祈願する「籤」引きだったという「歴史的謎」が、遂に解けた。

同職員は付け加える。

<この神社での必勝祈願参拝は、光秀だけではない。記録によれば仙台の武将・独眼流伊達政宗も参拝しているおり、直江兼続の兜の「愛」も、本神社の名との関わりを持つ>、のだそうだ。

長年包まれていた「謎」をあっという間に払拭してくれた社務所の職員に深々と頭を下げ、仲間の待つ広場に戻った。

聳える「愛宕神社」に目を遣ると、歴史の時間と空間が蘇るような気がする。脚力の限界を超える初体験の山登りだったが、歴史の謎解きと直に向かい合えたことは無常の喜びだった。
参考―フリー百科事典「ウィキペディア」、「関西周辺の山250(山と渓谷社刊)」

2011年12月06日

◆「大阪都構想」実現は3年後?

早川 昭三


19日に大阪市長に就任する橋下徹・前大阪府知事が5日、市長選後初めて大阪市役所に入り、市長や市幹部から説明を聴くという「異例の行動」に出た。

普通なら就任する19日当日、平松前市長と「引き継ぎ式」を行った後に、市幹部から大阪市政課題を聴取するというのが通例だが、就任2週間前に市役所入りし、大阪市側の重要案件と重要課題を聴取するということ自体、過去にない。

「説明聴取」は市長室では行わず、橋下氏が率いる・大阪維新の会大阪市議団控え室に市長、副知事、局長級幹部を招いて聴取するという形を執った。

就任に向けた準備を本格化し、市役所改革に取り組むうえでの重要課題について市役所の担当部局から説明を受けるのが目的だ。9日まで4日間に亘って行う。

これを受けて、橋下氏は「まずは市役所の統治機構を変える」ために、27日に府市統合本部の初会合を開くと方針。市長と主要局長らによる市の「戦略本部会議」や「改革プロジェクトチーム(PT)」を設置し、改革の課題整理や府市統合本部との事業の仕分けを進める考えだという。

人件費や補助金支出の見直しなど市政改革の具体策については、「改革PT」で検討するとしている。4日間の聴取をもとに、初登庁後ただちに「戦略本部会議」を開いて、すぐさま「府市統合本部との事業の仕分け」に乗り出すものと見られる。

それにしても、大阪市の幹部には5日の「聴取日程」は伝えられていたが、一般職員にはほとんど知らされておらず、橋下新市長の予想外の素早い行動に驚かされ、緊張感を漲らせていた。

ところで、重要なことが後になってしまったが、橋下氏は、5日記者会見で「大阪都構想」実現を図る時期を、2015年春との考えを明らかにした。<5日刊 産経新聞>

このことは、橋下氏の選挙公約だった「都構想」の中で、その実現の時期をいつに考えているかが最大の注目点だった。

橋下氏は、「都構想」の柱となる「公募の市内24区長」に絡めてこのことを述べ、公募は来年4月に導入を目指すとした上で、任期は「都構想が実現」がするまでの3年間にすると言い切ったことだ。

「大阪都構想」については、法律改正の必要があり、与野党や地方自治体からも賛否がわかれていることなどから、そう短期間に実現しそうにはないのが常識だ。

このため橋下氏は、「都構想」に国会での進展がなければ「維新の会」を国会に進出させ実現を図ると息巻いているほどだ。

そういう折に、3年後に「都構想」を実現させると明言したことを考えると、橋下氏がそうすることに自信を得ることが裏面で実現したのかなど、何か政治的駆け引きを実らせたのかとも思いたくなる。

19日の大阪市長に就任し、「戦略本部会議」や「改革プロジェクトチーム(PT)」を総動員しながら、「都構想」を本当に3年後に実現させるのか。成り行きを見させて貰いたいものだ。(了)
                     2011.11.05

◆本稿は、12月6日(火)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2454号に
掲載されました。下記、他の寄稿者のご卓見もご拝読ください。

◆<「頂門の一針」2454号・目次>

・TPP反対論のまやかし:古森義久
・消費増税について54%が反対 毎日調査:古澤 襄
・「大阪都構想」実現は3年後?:早川昭三
・警護要人を半減せよ:平井修一
・平和ボケを治す道:伊勢雅臣
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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