白井繁夫
前に散策した藤原百川公の墓(地図Zサイト2番)から、南東へ約300m山田川に架かる、「清水橋」を渡ると、R163号線沿いに「相楽神社」(さがなかじんじゃ)(写真右 地図3番)があります。
また「吐師(はぜ)の浜」から大和への道(昔の郡山街道)の道標(写真左 地図4番、)が、この橋を渡り国道に出る手前の道(JR西木津駅への道)を左折した、すぐの四つ辻にあります。
(式内社 相楽神社(重文) 木津川市相楽清水一番地)
★(地図Zサイト:http://chizuz.com/map/map92521.html )
<祭神 足仲彦命 (仲哀天皇)(たらしなかひこのみこと)
誉田別命 (応神天皇)(ほむだわけのみこと)
気長足姫命 (神功皇后)(おきながたらしひめのみこと)>
伝承ではこの神社は、川が氾濫し土砂が押し寄せて盛り上がった所に森が出来、神社の森として祀られるようになったとされています。地元では八幡宮と呼ばれ相楽村の産土神ですが、明治10年平安時代の法典、「延喜式神名帳:927年」の記載名に基づき「相楽神社」とされました。
・ムラの伝承(相楽の起源)
神武天皇が東征の折、その家来として福岡県相良(さがら)の武士が天皇に付随して畿内に入り、定住場所を平群(現生駒市)から南山城一帯にかけて捜した結果、「相楽の地」に決め当地を「相良村」と名付けたとされています。
相楽には昔歌があります。
(サガラサムライ ホンザムライ ユウベカワッタ キンリンサン)という歌です。
それを要約すると、<・サガラサムライ(相良侍) ・ホンザムライ(本侍)天皇直参の侍、 ・ユウベカワッタ ・キンリンサン(侍を捨て)、―この地に田畑を所有していた禁裏(京の公家)さんに下った。>ということになります。
「相楽の地名起源」については、記紀を始めいろいろな伝承がありますが、私はこの歌から古代の人々の営みを感じ、このお宮さんの名前に、さらに親しみを感じるようになりました。
当神社の創建は定かではありませんが、日本書紀の欽明記(570年)から「高麗の使者の迎賓館跡」の一つとも考えられます。また祭神は外交、外征と深い関係が有り、「海上交通の守護神」とも云われている三神なのです。
そこで、当時の為政者は、『この神社を祭る古代の有力氏族、山城国相楽郡令の掃守宿禰阿賀流(カニモリスクネアカル)を、遣唐使の小位に任じた』(大宝元(701)年正月『続日本紀』)とも考えられます。
古代大和へ向かう下津道(歌姫街道)沿いの当神社は、天平時代の薬師寺、唐招提寺、西大寺等の建築用材を運搬する人々や、その後の平安遷都で大和と京を往来する人々、など古来より明治の鉄道運搬時代前まで、中津道(奈良街道)同様、人々の往来や、物資の運搬などで、賑わった幹線道沿いの神社でした。
正月行事などには、中世的な宮座祭祀のあり方が現在までよく残され、護られて来たものが多数(下記)あり、府指定無形民俗文化財に指定されています。
正月行事としては、豆焼(月々の降水量占い)、粥占:かゆうら(稲作の作柄占い:早稲.中稲.晩稲)、御田:おんだ(稲作の豊作祈願)、水試:みずだめ(年間降水量占い)などがあります。2月1日の「餅花奉納」(竹串に多くの餅を差して花に見立てた供物)には下述の伝承があります
桓武天皇が平安遷都に関連して、奈良の大安寺八幡が京へ向かう途中、当神社に立ち寄った際、接待に餅を出したのが「餅花」の始まりで、京の裏鬼門に当たる男山八幡に遷座する時、既に相楽の清水に八幡神社があったので、『石清水八幡』と名乗ったと伝承されています。<参照「相楽の民俗」の本>
・相楽神社の社殿
現在は本殿、末社五社、豊八稲荷社、拝殿、南北氏子仮屋、客殿、四足門、鳥居等で構成されています。
ところで、明治の神仏分離により宮寺(不動寺)は、廃寺となり現在は境内にありません。また神社の東側の森は、相楽小学校移転(明治29年)の用地、昭和になってからは南側が幼稚園の敷地、北はR163号線(バイパス)建設で森林が伐採され、鎮守の森も小さくなりました。
しかし、古来より静かに佇むこの神社は、小学校や幼稚園と近接したため、毎日子供の元気な声が聞こえ、日々成長する子等を見守る郷土のよりのよき神様になったと感じます。
・相楽神社本殿(重要文化財)
三間社流造、檜皮葺の社は室町時代初期の建造物です。身舎正面の蟇股(かえるまた)の藤唐草、透彫の欄間、妻飾りの組物など見るべきものも多くあり、社殿の規模や秀麗さから室町時代の重文に指定されました。
・(末社)若宮神社本殿
一間社春日造、檜皮葺の社は、各所に古様な造りが残された室町時代後期の建物で、府登録有形文化財です。能舞台は南北の両氏子仮屋の中央部、拝殿の前にありましたが、大正九年(1917)の台風で壊れ、現在の境内に礎石のみが残っています。
境内には『欅の神木』があり、この大木は「京都の自然200選」(平成三年六月)に選定されました。当神社の本殿修理の時、地下から藤原時代より鎌倉時代までの祭祀用土器や古瓦等の破片が出土しました。
当神社では、明治の初期まで流鏑馬の神事が催行されていたと云われていますが、今はかっての賑わいはありません。しかし、喧騒なこの時代を超越して静かに佇むこの神社だからこそ、古来からの宮座の組織や伝統行事が地元の人々にしっかりと受け継がれており、周囲の環境を変えることなく将来へと伝える為、境内一帯が京都府文化財環境保全地区になったのだと思いました。
次回は、下津道(歌姫街道:郡山街道)を南(古代大和)へ向かい街道沿いの一本松(一里塚)と平城京向けの瓦窯跡(音如ヶ谷瓦窯跡)を訪ねる予定です。