2011年07月13日

◆木津川だより 下津道周辺の散策A

白井繁夫


前に散策した藤原百川公の墓(地図Zサイト2番)から、南東へ約300m山田川に架かる、「清水橋」を渡ると、R163号線沿いに「相楽神社」(さがなかじんじゃ)(写真右 地図3番)があります。

また「吐師(はぜ)の浜」から大和への道(昔の郡山街道)の道標(写真左 地図4番、)が、この橋を渡り国道に出る手前の道(JR西木津駅への道)を左折した、すぐの四つ辻にあります。

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(式内社 相楽神社(重文) 木津川市相楽清水一番地)
★(地図Zサイト:http://chizuz.com/map/map92521.html

<祭神  足仲彦命  (仲哀天皇)(たらしなかひこのみこと)
     誉田別命  (応神天皇)(ほむだわけのみこと)
     気長足姫命 (神功皇后)(おきながたらしひめのみこと)>

伝承ではこの神社は、川が氾濫し土砂が押し寄せて盛り上がった所に森が出来、神社の森として祀られるようになったとされています。地元では八幡宮と呼ばれ相楽村の産土神ですが、明治10年平安時代の法典、「延喜式神名帳:927年」の記載名に基づき「相楽神社」とされました。

・ムラの伝承(相楽の起源)  
神武天皇が東征の折、その家来として福岡県相良(さがら)の武士が天皇に付随して畿内に入り、定住場所を平群(現生駒市)から南山城一帯にかけて捜した結果、「相楽の地」に決め当地を「相良村」と名付けたとされています。

相楽には昔歌があります。
(サガラサムライ ホンザムライ ユウベカワッタ キンリンサン)という歌です。
それを要約すると、<・サガラサムライ(相良侍) ・ホンザムライ(本侍)天皇直参の侍、 ・ユウベカワッタ ・キンリンサン(侍を捨て)、―この地に田畑を所有していた禁裏(京の公家)さんに下った。>ということになります。

「相楽の地名起源」については、記紀を始めいろいろな伝承がありますが、私はこの歌から古代の人々の営みを感じ、このお宮さんの名前に、さらに親しみを感じるようになりました。

当神社の創建は定かではありませんが、日本書紀の欽明記(570年)から「高麗の使者の迎賓館跡」の一つとも考えられます。また祭神は外交、外征と深い関係が有り、「海上交通の守護神」とも云われている三神なのです。

そこで、当時の為政者は、『この神社を祭る古代の有力氏族、山城国相楽郡令の掃守宿禰阿賀流(カニモリスクネアカル)を、遣唐使の小位に任じた』(大宝元(701)年正月『続日本紀』)とも考えられます。

古代大和へ向かう下津道(歌姫街道)沿いの当神社は、天平時代の薬師寺、唐招提寺、西大寺等の建築用材を運搬する人々や、その後の平安遷都で大和と京を往来する人々、など古来より明治の鉄道運搬時代前まで、中津道(奈良街道)同様、人々の往来や、物資の運搬などで、賑わった幹線道沿いの神社でした。

正月行事などには、中世的な宮座祭祀のあり方が現在までよく残され、護られて来たものが多数(下記)あり、府指定無形民俗文化財に指定されています。

正月行事としては、豆焼(月々の降水量占い)、粥占:かゆうら(稲作の作柄占い:早稲.中稲.晩稲)、御田:おんだ(稲作の豊作祈願)、水試:みずだめ(年間降水量占い)などがあります。2月1日の「餅花奉納」(竹串に多くの餅を差して花に見立てた供物)には下述の伝承があります

桓武天皇が平安遷都に関連して、奈良の大安寺八幡が京へ向かう途中、当神社に立ち寄った際、接待に餅を出したのが「餅花」の始まりで、京の裏鬼門に当たる男山八幡に遷座する時、既に相楽の清水に八幡神社があったので、『石清水八幡』と名乗ったと伝承されています。<参照「相楽の民俗」の本>

・相楽神社の社殿
現在は本殿、末社五社、豊八稲荷社、拝殿、南北氏子仮屋、客殿、四足門、鳥居等で構成されています。

ところで、明治の神仏分離により宮寺(不動寺)は、廃寺となり現在は境内にありません。また神社の東側の森は、相楽小学校移転(明治29年)の用地、昭和になってからは南側が幼稚園の敷地、北はR163号線(バイパス)建設で森林が伐採され、鎮守の森も小さくなりました。

しかし、古来より静かに佇むこの神社は、小学校や幼稚園と近接したため、毎日子供の元気な声が聞こえ、日々成長する子等を見守る郷土のよりのよき神様になったと感じます。

・相楽神社本殿(重要文化財)

三間社流造、檜皮葺の社は室町時代初期の建造物です。身舎正面の蟇股(かえるまた)の藤唐草、透彫の欄間、妻飾りの組物など見るべきものも多くあり、社殿の規模や秀麗さから室町時代の重文に指定されました。

・(末社)若宮神社本殿
一間社春日造、檜皮葺の社は、各所に古様な造りが残された室町時代後期の建物で、府登録有形文化財です。能舞台は南北の両氏子仮屋の中央部、拝殿の前にありましたが、大正九年(1917)の台風で壊れ、現在の境内に礎石のみが残っています。

境内には『欅の神木』があり、この大木は「京都の自然200選」(平成三年六月)に選定されました。当神社の本殿修理の時、地下から藤原時代より鎌倉時代までの祭祀用土器や古瓦等の破片が出土しました。

当神社では、明治の初期まで流鏑馬の神事が催行されていたと云われていますが、今はかっての賑わいはありません。しかし、喧騒なこの時代を超越して静かに佇むこの神社だからこそ、古来からの宮座の組織や伝統行事が地元の人々にしっかりと受け継がれており、周囲の環境を変えることなく将来へと伝える為、境内一帯が京都府文化財環境保全地区になったのだと思いました。

次回は、下津道(歌姫街道:郡山街道)を南(古代大和)へ向かい街道沿いの一本松(一里塚)と平城京向けの瓦窯跡(音如ヶ谷瓦窯跡)を訪ねる予定です。

2011年07月02日

◆俳句の醍醐味「本ものの俳句」

山尾 玉藻
                   
東日本大地震が発生して既に三ヶ月余りが過ぎた。しかし、未だに発見されていない一万人以上の行方不明者、福島原子力発電所で発生し続ける不穏なトラブル、余震により続出する被害など、日本国民の憂慮は深まるばかりである。

なにより、多数の罹災者に対して未だに充分な救済がなされていないことにこころが痛む。偶々この地震に遭遇しなかった私たちは、日本国民として人として自分なりにどのような援助が出来るかを考え、それを惜しむことなく続けていかねばならないであろう。

同時に、俳句に携わる者ならではの力添えもしていかねばならないと考える。
 
犠牲者や罹災者の中には多くの俳人もおられたことだろう。その方たちの無念を思うにつけ、変わりなく句会を持てる境遇にどうしても後ろめたいものを感じる。

しかしこんな時だからこそ私たちまでが意気消沈していてはいけないだろう。では今、俳人である私たちが成せること、成さねばならぬことは何なのだろう。

それはこれまで以上に俳句に真摯に向き合って真実の句を詠み、犠牲者の魂を慰め罹災者を少しでも励ますことではないだろうか。最近の私はそんな思いで自分を奮い立たせて「句会」に臨んでいる。

しかしその「句会」で地震を詠んだ作品に出会うとどうしてもこころが曇り、やりきれない虚無感に陥る。俳句に携わる者として地震を詠まずにはいられぬ気持はよく理解できる。

しかし、第三者的な心情をむやみに並べたてる表現には真実が伴わず、その表現に作者の真ごころが添っているとはどうしても感じられない。これでは折角犠牲者や罹災者を思って詠んだ句が何の励ましにもならないだろう。

「句会」の度にこのようなことを仲間たちと語り合っているが、ある時一人が「人間の非常時にあって俳句など所詮何の役にも立たないのではないのだろうか」と、失望にも近い思いを口にした。

しかし、そんな心配は無用なのである。非常時に俳句が水や食べ物にとって代われないのは論ずるまでもない。しかし、俳句がこころの糧となり生きる励みとなる時が必ずやってくるのである。

十五年前、そのことを「火星」の仲間たちが身をもって私に教えてくれた。平成七年、阪神淡路大震災で仲間の多くが罹災し、家族や家を失い、避難所生活を余儀なくされた。

ところが、彼らが避難所で辛い生活を送る中、徐々にある願いが込み上げて来たという。俳句仲間の安否を確認し喜び合う内に、それがささやかでもよいから「句会」がしたいという願いに変わったのである。

こんな願いが生まれるのは彼らにとっても予想外だったらしい。

そして震災から一ヶ月後、リュックを背負い、各所で寸断する電車を乗り継ぎ、思いがけなくも彼らが「句会」へ現れた。大きな喜びと驚きで彼らの姿が忽ち涙で滲んで見えなくなったことを、今も鮮明に思い出す。
  寒の水旨し生涯など一瞬   柳生千枝子
  避難所の夢に酢茎のありどころ    同
  蕗の薹声をだしてはうるみけり   浜口高子
  地震の夜の天狼星の確かなり    深澤 鱶
  水が出た出たよ鶯菜を洗ふ    杉浦典子
  波音の仮設暮しの年用意    田中呑舟
  被災せることには触れず鯊を釣る   同

一、二句目、人間の命の儚さや運命のむごさを嘆きながらも「寒の水」を旨いと思い、避難所で潰えた家の「酢茎」をしっかりと夢に見たりするなど、人間はつくづく強く逞しい。三句目、思わず口を付いて出たような受け身的表現が、こころの傷の深さを語っている。

四句目、受難の苦しさを赤裸々に述べたいこころを抑え、「天狼星」に全てを託して佇む姿が胸を打つ。五句目、長らくライフラインが途絶えていた中、待ちに待った水が使える喜びが素直な言葉に弾けている。

六、七句目の作者は八十四歳の独り暮しの男性である。楽天的とも見える仮設住宅での暮しぶりに、晩年になって襲った荒波さえも敢えて楽しもうとする達観の境地が窺え、大きな感動に言葉もない。
 
罹災した仲間たちの作品は読む者のこころをふるわせた。無論、大変な苦難に身を置きながらその思いを俳句に綴るまでには、それなりの時間が必要であったに違いない。

しかし逃げることなくその時間と付き合った彼らには、俳句を通して人と物ごとの真実がしっかりと見えてきたのである。俳句ごときちっぽけなものが、つい萎えようとするこころを明日へつなげていたのである。彼らは本ものの俳句を詠み、俳句の本当の深い味わいを私たちに教えてくれた。

さて三月末、私が主宰する俳誌「火星」への投句作品に、
  白木蓮の空いつぱいの祈りかな  藤田素子
があり、
過日の俳人協会主催「花と緑の吟行大会」では、
  みちのくへ空つながりて桜かな  田村春美
  陸奥の桜をおもふ桜かな   大山文子
の作品に出会った。

震災の爪痕の深さにこころ痛めた日本国民は、皆祈るような思いで青空を仰いだ。これらの作品には私たちの真の祈りとエールが言外に深く籠められ、この濁りのない音色は必ずや罹災者の下に届くことだろう。

  辛夷咲く空をもつとも信じをり   玉 藻
私なりのこころよりの鎮魂と励ましの思いを綴ってみた。
俳句誌「火星」主宰 


2011年07月01日

◆どうなる大阪府知事・市長W選挙

早川 昭三

橋下大阪府知事が、「知事を辞職し、選挙に打って出る」と明言したことで、今秋予定の大阪市長選挙と大阪府知事選挙が同時に行われる、所謂W選挙になることが、いよいよ確実視されてきた。大阪では再び大揺れとなっている。

知事は、W選を「大阪都構想」の信を問う最終決戦と位置づけ、「トリプルスコアで勝たないと行政機構は生まれ変わらない、大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」と、大阪市への対抗心をむき出しにして、W選に向けた動きを本格化させた。

この発言は、29日の知事後援会のパーティーで気勢を上げたもので、「大阪都の行政機構が出来れば鬼に金棒。最後は戦いで決着をつける。相手の大将の首を刎ねてやりたいことを実現する」ともいい切った。

ところが知事自ら市長選に出馬するかどうかについては、「知事、市長にでるのか、自宅に籠るかは、少し待って頂きたい」と述べただけに止まり、超えなければならない諸問題が絡んでいることを言葉の裏側に伺わせた。

その一つは、知事、市長選候補者を誰にするかの問題だ。知事は、予てから読売テレビの元解説委員長、辛坊治郎氏を、どちらかの候補者に考えているが、辛坊氏は出馬を否定しており、この日のパーティーにも姿を見せていない。

「相棒」となる候補者選びに手間取れば、今秋の選挙戦に苦戦を強いられることは必至。また、止むを得ず他府県の知事・市長経験者を誘引してきて選挙に臨ませたとしても、それに大阪の有権者が好ましいと反応を示すかどうかは疑問だ。

次に、橋下知事が知事辞職後、W選挙の知事選に出て当選したとしても、任期途中の辞職のため、任期は来年2月まで。従ってさらに知事を続けるには年明け早々の知事選に再び立候補する必要がある。つまり「無駄遣い選挙」と批判されるおそれがある。これをどう処理していくかだ。

さらには、大阪港の旧WTCを購入した「府咲洲庁舎への本庁舎移転」をめぐり激しい議論が予想されることだ。先の東北地震と連動して起きた地震で高層「庁舎」が大きく揺れ、壁にヒビが入る被害がでたことから、府議会や耐震専門家から「移転」に批判が出ており、これもW選挙の争点になることは見えている。

知事は、「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」と言い切り、W選で思い通りに府民の支持を得たい腹積もりだ。しかも橋下知事の支持率は依然高く、W選の「相棒の候補者」もその“おこぼれ”得票を頂くのは確実。

<「都構想」に反対する大阪市を抵抗勢力として名指しし、権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる。これが都構想の意義だ>(読売新聞)という知事の考えが、見えてきたW選挙への動きの中で、府民にどう映っていくかは、この7月からだ。 
                                  (了) 2011.06.30

2011年06月24日

◆木津川だより「下津道周辺の散策@」

白井 繁夫

泉津(木津)から古代大和(奈良)へ向かう道の一つ下津道(歌姫街道:郡山街道)周辺の散策をします。

実は、私ごとですが、木津に来るまで良く知らなかった『藤原百川の墓』。平城京から平安京へ遷都した『桓武天皇』誕生に寄与した奈良時代の高級官僚の墓、と古代より大和と京、大坂への接点に祀られている『重文の相楽神社』を訪ねます。

近鉄京都線山田川駅の東約200m山田川沿いに下り府道木津.八幡線を北へすぐの処の墳墓。
<下津道 地図Zサイト http://chizuz.com/map/map92521.html

そこで「藤原百川公の墓」のことに触れてみます。(木津川市相楽城西)

藤原百川(フジハラモモカワ:732-779年)は、藤原氏四家の内の式家藤原宇合(ウマカイ)の子です。奈良時代末期に中大兄皇子(天智天皇)を援け、大化改新を成功に導いた藤原鎌足の「曾孫」にあたります。

彼は和気清麻呂に働きかけて、僧侶の弓削道鏡を皇位にという企てを防ぎ、称徳天皇没後(770年)、光仁天皇を擁立しました。また、母が渡来人であった山部親王(後の桓武天皇)を皇太子に擁て、その後の平安遷都への道を開き、政権を藤原氏の掌中に収めたのです。

ところで、彼が宝亀十年(779)7月、48歳で没した時の地位は、参議中衛大将兼式部郷従三位(サンギチュウエタイショウケンシキブキョウジュサンミ)でした。

後年『日本後記』延暦十六(797)年2月条では、相楽郡に墓地(二町六段)を加増されて、右大臣従二位が贈られました。さらに、延喜式の諸陵寮式(ショリョウリョウシキ)には、太政大臣正一位が贈られ、夫人の墓も同所にある、と記されています。
『延長五(927)年12月選集』

ところが、隆盛を極めたかっての藤原氏一族も、千年の歳月を経た明治27年に、「百川公の墳墓」を伝承や江戸時代の文献で考証されたのですが、相楽の所在の確証が出来なかったのです。

そこで、明治28(1895年)の平安遷都一千一百年祭の奉祝の際に、当地を「百川公の墓」と認定されたのです。

いずれにしても、千年を越える歳月を同じ形体で保つことの難しさ、栄枯盛衰のこの世の儚さなどを当墓地で感慨にふけった時、百川の嫡子、藤原緒嗣の『薨伝』続日本後記のエピソードが浮かびました。
『続日本後記』承和十年(833年)七月庚戌条

桓武天皇の宴の席で和琴を弾く緒嗣(おつぐ)を見て帝、神(みわ)大臣を喚びて耳に語うらく、皇太子、親王等を召し、殿上に陪せしめて、「緒嗣の父なかりせば、予豈に帝位に践くを得んや。緒嗣.年少にして、臣下の恠む所を知ると雖も、而して其の父の元功、子尚忘れず。宜しく参議を拝して以って宿恩に報すべし。」
 藤原緒嗣が参議に就任する時のエピソード、延暦21「802」年6月17日

桓武天皇が神泉苑に行幸した折、緒嗣が29歳の時でした。 797年2月に故藤原百川に二町六段の墓地を与えた時、桓武天皇は還暦を過ぎていました。

・藤原旅子(百川の娘)は淳和天皇の生母、桓武天皇の夫人、788年没後、正一位追贈
・藤原緒嗣(百川の嫡子)(774-843年)
(788年の元服加冠は殿上で正六位内舎人に任じられた。843年没後 従一位が贈られた。)

◆参考文献:木津町史、相楽の民俗、伝承等
 : 郷土の歴史 吉村豊次郎
   郷土人の吉田墓ではないか?
   大正生まれの吐師の古老の話
     <明治時代に現JR片町線の線路敷設工事のため、吐師の古墳(百川の墓?)を   を            現在の百川墓への移設作業に彼の祖父が携わったと聞いていると>。

少し長くなりましたので、「相楽神社」については、次回に述べさせて戴きます。(完)

2011年06月21日

◆切らずに治せる「がん」治療

田中 正博

がん治療の3本柱といえば、手術、化学療法(抗がん剤)と放射線療法です。副作用なく完治する治療法が理想ですが、現実にはどの治療法も多かれ少なかれ副作用があります。

がんの発生した部位と広がりにより手術が得意(第一選択)であったり、化学療法がよかったりします。
 
また病気が小さければ、負担の少ない内視鏡手術で治ることもあります。 放射線療法は手術と化学療法の中間の治療法と考えられています。 手術よりも広い範囲を治療できますし、化学療法よりも強力です。

昔から放射線療法は耳鼻咽喉科のがん(手術すると声が出なくなったり、食事が飲み込みにくくなる、など後遺症が強い。)や子宮頚がん(手術と同じ程度の治療成績)は得意でした。 最近は抗がん剤と放射線療法を同時に併用することで、副作用は少し強くなりますが、治療成績が随分と向上しています。

食道がんでは手術と同程度の生存率といわれるようになってきました。手術不可能な進行したがんでも治癒する症例がでてきました。

また、手術と放射線療法を組み合わせることもしばしば行われています。 最新鋭の高精度放射線療法装置や粒子線治療装置を用いれば、副作用が少なく、T期の肺がん、肝臓がん、前立腺がんなどは本当に切らずに治るようになってきました。

また、残念ながら病気が進行していたり、手術後の再発や転移のため、今の医学では完治が難しいがんでも、放射線療法を受けることで、延命効果が期待できたり、痛みや呼吸困難などの症状が楽になることが知られています。

放射線療法以外の治療が一番いいがんも沢山ありますので、この短い文章だけで放射線療法がよいと判断することは危険ですが、がん治療=手術と決めつけずに、主治医の先生とよく相談されて、必要に応じてセカンドオピニオン(他病院での専門医の意見)を受けられて、納得できる治療を受けられることをお勧めします。(完)<再掲>      
大阪市立総合医療センター 中央放射線部 医師

2011年06月12日

◆動きだした「大阪都構想」協議会

早川 昭三

橋下徹大阪府知事が代表の地域政党「大阪維新の会」は、知事の目指す「大阪都構想」実現を具体化するため、先の5月大阪府議会で可決した「大都市制度検討協議会」条例による「委員構成つくり」に集中していた。協議会は条例が公布される6月13日にも設置が可能となるからだ。

この「大都市制度検討協議会」の発足も、府議会の過半数を占める「大阪維新の会」府議団にとっては、これに参加を拒否の他会派がいくら動いても、「数の力」をちらつかせながら強気で推し進めれば、事の成就は難しくない筈と腹を括っていた。

だから当初は、協議会20人委員の半数を「維新」府議団が占め、半数以下の残りの委員を公・自・民などの他会派に割り振る構成にしようと強気の方向を固めつつあった。

ところが、5月議会を終えた後から他会派の反発は益々強固になりだして、話し合いの糸口もつかめないままの状態に陥り、「協議会」早期発足も怪しくなって来ていた。

橋下知事自身は、「他会派が不参加ならば大阪都構想で突き進んでいくしかない。維新の会で都構想をどんどんレベルアップさせる」と強気の姿勢をみせていた。

しかし「維新」府議団は、今の対立状態のままは得策ではないとして、「委員構成の妥協案」を検討していることが、11日の産経新聞で明らかになった。

<「大都市制度検討協議会」について、「維新」が協議会の委員20人の構成を、維新、公明、自民、民主、共産の5会派で、4人ずつ「均等」に振り分ける運営規則を検討していることが11日、分かった。今回、妥協案を示すことで他会派の理解を得たい考えだ。

また、9月30日までに府議会に報告するとしている「協議結果」も、最終結果ではなく「中間報告」に止める方針。週明けにも各会派に打診し、了承が得られれば各会派に正式な参加要請を行うという>。

果たして、この妥協案がスムーズに運ぶだろうか。

各会派が、協議会で公平に意見を取り上げてくれるどうか、意見が纏まらないまま協議会は分裂し、結局は「維新」の「数の力」で議決される可能性が高いため、この妥協案を5会派がすんなり受け入れないのが得策。5会派幹部からは早くもそういう意見が飛び出している。

余談ながら、いま注目が凝集しているのは、「大阪都構想」実現のため、橋下知事自身が秋に想定される大阪市長・大阪府知事のW選挙に出馬するかどうかだ。市長選挙に乗り込んでいく可能性は捨てられないという見方が依然付きまとっている。

産経新聞によると、

<橋下知事は、大阪市内で開かれた政治資金パーティーで、秋に想定する市長・知事W選挙に、自身どちらの選挙に立候補するか「状況をみて判断する」と、改めて慎重な姿勢を示した。
しかし「秋の陣は死力を尽くして闘って、大阪市役所をぶっつぶす。局長、部長、課長みんなクビ」と、市役所との対決姿勢を鮮明にしている>。

こうした市長選出馬のからむ知事のさまざまな発言は、大阪市職員達の心をも揺さぶり出している。大阪は「協議会構成」を軸に、「大阪都構想」の行方が大きくからみながら、夏の暑さに合わせて“大阪動乱”が起きてくるようだ。(了)   2011.06.11

2011年06月08日

◆祇園祭(鉾立て)の吟行句会

松井 倫子

烏丸駅に降り立つとスピーカーから祇園囃子が聞こえ、いきなり華やいだ雰囲気に包まれて自ずと気持ちが昂揚してくる。

・正面は八坂神社や雲の峰  山尾 玉 藻(俳句結社「火星」主宰)

地上に出ると長刀鉾の優美な姿が現れた。前懸、胴懸、見送りのなんと立派なこと。長刀鉾を目にすると母の事を思い出す。祇園祭がどういうものかまだ分からない子供の頃から長刀鉾には馴染みがあり、長刀鉾のミニチュアを買って貰い人形ケースに飾っていた。震災を乗り越えて今も人形ケースにある。

・鉾立の箱積みてあり片かげり  山尾 玉 藻

函谷鉾、月鉾を仰ぎながら四条通を西へ進み、菊水鉾の立つ室町通へ歩を進めた。室町通には七基もの山鉾が立つが、その中の鯉山を見学した。鯉山は骨組みができたばかりの状態で荒縄の巻き方が芸術品と思われるほど見事に巻かれてあるのを見ることができた。

この縄の巻き方は「揚羽蝶」「蝦」などの優美な名前が付けられている。日本人の遊び心による命名だと思うと誇らしい。
 
・鉾立つや縄くづの浮く潦  山尾 玉 藻

鯉山の会所飾りへ露地に沿って進むと見事な前懸、胴懸、水引、見送りが陳列されていた(ギリシャの英雄叙事詩・イーリアスの場面を描いたもので十六世紀にベルギーで製作された国の重要文化財)。奥には左甚五郎作の鯉の滝登りの彫刻が飾られてあったが、鯉が滝を登っていく様が素晴らしく、鱗の一枚一枚が動いているような迫力であった。

龍門の滝を登った鯉は龍になるという中国の伝説を基にした立身出世の金言・登龍門を題材にした山で立身出世のお守りが売られていた。そこから船鉾へと新町通へ入った。

船鉾は「日本書紀」の神功皇后の新羅出船を題材にした鉾。ご神体は安産の神とされ、巡行の折、岩田帯が多数巻かれ、祭りの後、妊婦に授与されて安産のお守りとされる。

舳先に想像上の瑞鳥・鷁(げき)、舵は黒漆塗り青貝螺鈿細工である。どの山鉾も日本の神話、歴史、中国の故事、謡曲に題材を取って飾られ巡行する。想像するだけで心が躍る。ここ数年、試し曳き、鉾立てに来ているが、巡行は随分長い間遠ざかっている。鉾の辻にカメラや俳句手帳を手にする人が多数行き来している。

・鉾立つとおたべ人形紅させる 山尾 玉 藻

時間の経つにつれて見物人が増えてきた。その中に幼稚園児、小学校の低学年生が先生に引率されて来ていて、鉾に上がっているグループもあった。幼い頃のこのような体験は貴重で、町を愛する気持ちが自然に育ち、ひいては祇園祭を愛する心に繋がっていくことだろう。

会場の「三木半」に十一時に集合。

・祇園会の水の流るるロビーかな  山尾 玉 藻

講話と昼食の部屋に入ると主宰の〈鉾立の縄のにほへる昼の闇〉の色紙が飾られてあった。主宰の贈られた句を早々と飾って下さって和やかな雰囲気が漂ったようだ。三木半の女将である岡本利英氏の講話「祇園祭余話」を拝聴しながら昼食を済ませた。

因みに岡本利英氏は「運河」に所属されて「春塘」の編集人をされている。氏の話で殊に興味深かったのは囃子についてで、巡行の往路ではわたり囃子でゆっくり行き、復路はアップテンポな戻り囃子で戻ってくるということだった。

十二時半出句締切りと慌ただしく時が過ぎ、五句出句、五句選で行われた。まず主宰が用意されたレジュメの「祇園祭を詠んだ作品」を鑑賞し、その後全員の選んだ句が読み上げられ、主宰の全句へのコメント、特選句者と高得点者の表彰で無事鍛錬会が終了し、記念写真の撮影で解散となった。特選句者には主宰ご染筆の色紙が、そして高得点者には村上護著『けさの一句』が贈呈された。

句会終了後、屏風祭を開いている旧家が沢山ある新町通へ向かった。朝には屋台だけだった露店が店開きしていて賑わっていた。一軒の旧家の佇まいはつぎのようだ。奥の方に坪庭があり、その手前に座敷、またその手前に坪庭、その手前に座敷がある。座敷には籐筵が敷かれ、葭戸が立てられてあり、灯に透けて涼しげだ。

座敷の左右に名のある屏風が飾られてあり、その前に射干の生け花があった。扇を広げた形の葉組で華やぎがあるとともに何ともいえない気品が漂っている。

錦市場の漬物屋の大樽にも射干の生け花が置かれてあったが、大きな存在感で祇園祭をアピールしていた。夕方、駒形提灯に灯が入り、四条通は歩行者天国に変わっていた。
                           火星俳句会 同人 

<当日の秀句5句を並べておきます。

・提灯のゆれるばかりの朝の鉾   廣畑忠明
・松上げて山鉾雲を払ひけり    丸山照子
・鉾建や塵掃くことのうるはしく  深澤 鱶
・会所へ入る袴の折り目涼しかり  大山文子
・軋みつつ鉾の切つ先上がりけり  松井倫子

          「火星」主宰  山尾 玉藻選>

2011年06月06日

◆不可解な「開発計画提出者の不明」

早川昭三
 
近来聞いたこともない珍事が起こった。

堺市が昨年12月「建設計画の中止を含めた計画変更を求める書類」を当該学校法人に送ったところ、今年5月に同法人は、新しく堺市の意見を踏まえ修正した「開発計画書及び方法書」を送付してきた。 

堺市としては、市の方針とは異なるが、「同書内容」を平成23年5月31日(火)に公告し、平成23年7月14日(木)まで縦覧、住民などからの意見書の受付をする予定の公表を行った。

ところがその直後、同学校法人から「そんな文書は提出したことは無く、不知である」との文書が堺市に送付されて来たことから事態が急変。しかも法人公印まで押印して提出してきた「同書の提出者」が、誰だか分からないという、信じられない事実も出てきた。

このため、堺市は急遽、「同書の公告、縦覧及び意見書の受付を見合わせる」というこれまた異例の措置をとった。担当の市環境指導課では「提出書類には理事長名の公印もあり、手続きに不備はなかった」のに、なぜこんなことになったのかと困惑しているという。

話が複雑なので、下記に経過を説明するが、長くはなることにはお許し願いたい。

事の始まりは、平成23年5月24日(火)に大阪茨木市にある「学校法人藍野学院」が同藍野学院の「野外活動施設整備事業に係る環境影響評価方法書」を堺市長に提出し、堺市が受け付けたことからだった。

同書によると、「藍野学院が堺市南区の南部丘陵で計画している多目的グランドなどの施設用地を、当初計画の4fから3・3fに縮小し、管理・更衣室を設置、道路ルートの変更や残す森林面積拡大などを変更するなどの内容となっている。

ところがである。5月28日付けで学校法人藍野学院代理人の2人の弁護士から、「当学院は堺市に対し上記のように計画書や方法書を提出していない」という書面が届けられたのである。

更にその書面には、<「手続きには過誤があることは明らかでありますから、直ちに是正措置を講じて下さい」、「同時に同アセスメントは、何人かにより偽造されていることが明確でありますから、以下の点について折り返しご返信賜りたく、お願い申し上げます。 

ア 上記配慮計画書及び方法書を、現実に貴市に提出した人物の氏名及び住所。 
イ 上記配慮計画書及び方法書の提出者の署名又は記名押印のコピー。」、「なお、当学院は、
監督官庁である文部科学省高等教育局私学行政課から、上記の問題を直ちに是正するよう指導を受けておりますので、よろしくご協力の程お願い申しあげます」>
と加筆されていた。

そう云えば、公印まで揃えて提出した筈の学校法人自体が、肝腎の「提出」そのものを否認し、結果として自治体が「公告、縦覧、意見書の受付」を事実上中止せざるを得ない事態追い込まれるとは、不可解極まりないことだし、あってはならない話だ。

となると、裏舞台で何者かが、何かの目的のために蠢いているのは確かだと云える。だとすれば「何者」とは誰か、「目的」は一体何かということになる。「謎」だらけだ。

ところで、産経新聞( 5月31日(火)23時45分配信)では、 

<堺市によると、23年5月27日に同学院の小山英夫理事長らが堺市役所を直接訪れて「法人として建設を計画した事実はない」と伝え、手続きを行った代理人の氏名などの情報提供を求めたという。
 
ところで同学院は、平成20年10月ごろ、代理人などを通してグラウンドなどを含む野外活動施設を建設する意向を伝え、昨年9月30日には代理人から具体的な整備計画が提出された。
 
南部丘陵は豊かな自然が残る地域で、堺市は(同地を特別緑地保全地区に指定する方針で)「整備中止を含めた計画変更」を求める意見書を同学院に送付。堺市は今年5月、環境に配慮した修正計画が提出され、環境アセスの手続きに入った。同学院事務局は「堺市に計画は存在しないという申し入れをしたのは事実」としている>。

だとすれば、同学院が「当学院が堺市に対し配慮計画書や方法書を提出したことはない」とは事実であり、さらに「直ちに是正措置を講じるよう求め、問題の計画書は、何人かにより偽造されていることが明確である」との指摘は、的を得ていると云える。

序でながら、この「計画書等」は、堺市新町にある藍野学院堺事務所所属のK職員が、堺

市に出向き、“折衝”行為をしたとされている。ところが、数日前にこの事務所は無くなり、K職員も事務所から居なくなり、連絡も取れなくなっているという。いったい何があったのだろうか。

5月24日の記者会見で竹山修身堺市長は、「法的な問題も含め、事実関係を確認したい」と述べ、堺市議会を控えて、事態調査を厳格に進める考えを明らかにしている。

学校法人理事長の許可も得ないで「公印」を押印し、存在しない設備計画書を行政側に提出して「縦覧、意見書の受付」を求めた裏には、何者かが、何らかの「利権」が絡んだ画策を遂行しようとしていることは、間違いないように映る。

だとすれば、何らかの「利権」の遂行を図ろうとしたの、一体誰なのか。

不可解な動きを見せている堺事務所のK職員に対し、「誰が公文書偽造まがいの計画書等を作成させたのか、誰が闇の中で公印を押印させたのか」を質せば、堺市を混乱させている“謎の不明提出者”の実像が、はっきり浮かび上がってくるのではないだろうか。

どうやら、今回の異例な事態はこれだけでは終わらず、学校法人藍野学院をも巻き込んだ更に不可解、かつ「利権」が絡んだ別の“騒ぎ”へと発展していくと予測する人たちもいる。 
                          (了)    2011.06.05

2011年05月31日

◆木津川だより「泉津と周辺の散策」C

〜古代大和への玄関港(泉津)〜

白井繁夫

本誌でこれまで「木津川」の南岸(東西2.6km)に亘る古代泉津(いづみのつ)の上津(こうづ)遺跡、中津道周辺の散策を綴ってきましたが、今回は、下津道「吐師(はぜ)の浜」周辺に触れてみます。

万葉集に詠われている「木津川」は「泉川」として登場します。そこで古事記、日本書紀(以後『記紀』と云う)に出て来る「木津川」と、古代当地の人々との関わりを連想してみたいと思いのままに下記に綴ってみました。

まずは、元々木津川の呼称だった、「和訶羅川」に触れます。
 
(記)によると、@地形から、「木津川」は三重県上野から木津へ東から西へと流れて来て、泉津で流れが転換し、大きく湾曲して北の宇治(京都)に向かい、下流側は広々とした河原になります。その地形から、曲(わ)河原(かわはら)川を「和訶羅川」(わからかわ)と云うのです。

A武埴安彦の反乱伝承から、崇神天皇時代大毘古命の政府軍と武埴安彦の反乱軍が和訶羅川で対峙して相挑み戦った歴史があることから 伊杼美(いどみ)から伊豆美(いづみ)となり、「泉」となるのです。

(紀)輪韓河(わからかわ)というのはー。
  「木津川」の水路を利用して多くの渡来人がこの地に住み、帰化して、漢字や技術などを伝えたり、人の往来と共に文物の交易も興しています。 倭(大和)韓(韓三国)河 即ち、大陸、朝鮮半島を繋ぐ水路だったのです。

上述のように、記紀の表現から、古代のこの地とここの人々の営みを、こんな風に連想したくなります。

記紀に出てくる当地「吐師(はぜ)と相楽(さがなか)」について触れます。
「吐師の浜」は、古代大和への下津道の起点で、交通の要衝でした。従って「泉津」での、大和朝廷成立に繋がる各地の王との覇権の戦い、大陸との交流などなどが、記紀に登場しています。

ところで・・・(紀)によると、
<欽明天皇31年(570)4月条と7月条から、越(北陸)の岸に漂着した高麗(高句麗)の使者を迎える為、「山背(やましろ)国相楽郡に、館(むろつみ)を建て、厚く相資(たす)け養え」...とされています。つまり4月条によると、「欽明大王の時代に大和の王権が安定したとされているのです。>

更に<7月条によると、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きじのあかはと)を使者にたて、飾船(かざりぶね)で近江へ「往ぎ迎」え「高楲館(こまひのたち)に入らせ、高麗の使者を相楽館(さがらのたち)で接待したとなっています。 

序でながら、(記)垂仁紀15年条(相楽伝説)によりますと、

丹波道主(たんばのみちのぬし)王の四女王の物語から、懸木→相楽、輿から墜ち→乙訓の地名伝説とともに、相楽は、当時の丹波(山陰道)・西道(山陽道)・北陸道(越の国)等と繋がる、交通の要衝であったと推察できるのです。

さて、「吐師七ツ塚古墳群」に話を移しましょう・・・。
五世紀の古墳時代、応神大王、仁徳大王の河内王朝が各地の小国の王の前方後円墳の規制を掛けており、南山城の墳形規制は、久世の平川王家に支配されていました。

「吐師の七ッ塚古墳」は、近鉄京都線木津川台駅の北西約500m府道八幡.木津線沿の中島外科の裏側「西北」にありますが、昭和の道路工事などで「1号・2号墳」は破壊され、「3号・4号・5号墳」は現存していますが、その他の墳墓は原型を留めておりません。

「2号墳」が昭和3年の道路工事で発見され調査された際、遺物の中に木棺直葬(長さ3m前後)で埋葬されており、副葬品などから5世紀第U四半期の古墳と推測されました。

現存する「4・5号」は形状より帆立貝式古墳で、出土品等から5世紀後葉から6世紀前葉と推測される為、「吐師」の首長(王)は長期安定的政権を続け、大和の大王と交流していたのではないかと、専門家でない私は昔のロマンを追いたくなります。

そこで「吐師の浜」のことです・・・。

近鉄京都線山田川駅から東北へ約1km、木津川台駅の南東、山田川と藤木川が木津川に
合流する吐師の東部の辺りです。昭和28年の南山城の大水害で、木津川の堤防工事を(木津の浜同様)行い、現在は二重の高い堤防を築いた為、浜の面影はありません。

合流地辺でたまたま出合った老人の話によると、この「木津川」は、昭和十年頃まで帆掛け舟が行き交い、活動写真の撮影場所に最適でしたが、電信柱が建ち、堤防も変わったので、現在は京都八幡の流れ橋辺りに撮影場所が移ってしまい残念、と嘆いていました。

ところで、実に興味深い話題があります。

十八世紀の貝原益軒の紀行文(和州巡覧記)によりますと・・・。
<柞森(ははそのもり)「祝園村」と大和の歌姫村をつらねる郡山街道の中間を、「扼」(やく)としている。

そこには約20軒の荷物問屋があり、淀川、「木津川」を遡行して、大坂、京都からの船荷の米、塩、油粕、干鰯(ほしか:肥料)、荒物をここで下し、牛馬にて大和郡山や南都へ運んだ。大和の産綿などは、「木津川」を遡行して尾張国へ運ぶ>と記されています。

吐師の武田家古文書では、享和2年(1802)の木津浜、吐師浜の船持と船株について、
     船株   船数   渡船  合計船数
◆木津   22   41   10   51
◆吐師    9   26    0   26
と記されています。

江戸時代の「泉津」(木津の浜、吐師の浜)に属する船数や株数から当時の浜の状況も想像できます。当時の問屋の子孫で、今も吐師に住んでいて問屋と地元で呼ばれている屋敷は(昔の船問屋、油問屋など)“数軒”だけになったと云われています。

ところで、江戸時代当時の「木津川」の船は、十石船(淀の船は二十石)で、木津川六カ浜に属する船は、淀川、宇治川へ入る荷物、運搬のテリトリーと異なったために、両川へは入れず、結局、木津川沿いへの産物の運搬と他国からの貨物は、木津川沿いや大和へ運び込むことに限られていました。

船株を持つ廻船問屋は、大名、幕府御用品や、災害時等の物資運搬も一手に扱っていました。

しかし、「木津川」を遡行して船荷を運ぶ時、曳舟の綱を陸上から引く人達の苦労は並大抵なものではなく、正に「往きは天国、帰りは地獄」の状態だったでしょう。なんと、それが大正時代まで続いていたのです。

次回は下津道を出発して、藤原百川公の墓、重文の相楽神社など大和へ向かい歌姫街道(大和の郡山街道)の散策を綴ろうと思います。   (郷土愛好家)


2011年05月07日

◆木津川だより 「泉津と周辺の散策」B

〜古代大和への玄関港(泉津)〜

白井繁夫

京都と奈良をむすぶ国道24号線の木津川に架かる橋(泉大橋)を挟んで、北岸(山城町側)の西100m下流に、「泉橋寺」があります。

この寺院は、天平時代の「高僧行基」が建立した五畿内49院の1院と云われています。当時は(天平12年)、「泉橋院」と称して七堂伽藍を有した大寺院でした。

当寺院は、「行基」によって架けられた大橋を守護、管理し、もともと平城京や大仏殿等の造営用の木材などの搬入中に不慮の事故や、水難等に遭遇し死亡した人々の供養を執り行っていた寺院でした。しかし平重衡の乱、元弘の乱等により焼失して仕舞ったのです。

現在の寺院は、境内に光明皇后(聖武天皇の皇后)の遺髪を御祀りする為に建立したと云われる重文の五輪塔を残すのみで、往時の隆盛を極めた面影などは留めておりません。

当寺院の門前に、石造の地蔵としては日本一大きい高さ4.58mの地蔵石仏があります。
この石仏建立には永仁3年(1295)から13年の歳月がかかり、1308年に地蔵堂が上棟され、般若寺の真円が願主となり供養されました。しかし、ここも応仁の乱による被災で、文明3年(1471)地蔵堂が焼失し、石仏も同じく焼損しました。

現在の石仏は元禄3年(1690)に頭部と両腕が補修されましたが、「露座」のままです。

その「露座のお地蔵」さんですが、人々の信仰心は厚く今も綿々と受け継がれています。穏やかで、慈愛に満ちた石仏を朝夕礼拝し、境内の雑草などを黙々と除去している近隣の人の姿を見かけると、私自身日頃の喧噪など忘れ、心が洗われ、安らかで穏やかな気持ちになります。

さて、ここから山背古道(やましろこどう)に沿って「泉大橋」を渡ると、「行基」に関する説話のある南岸(木津町)の「大智寺」へ通じます。

「大智寺」は、泉大橋の西側(下流側)にあり、西大寺中興の祖:叡尊(弘安年間1278−88)が創立した真言律宗西大寺の末寺でした。

当寺院の重文の本尊『文殊菩薩』に関する伝承ですが、天平13年(741)に「行基」が泉川に架けた泉大橋が、正応元年(1288)についに流れ落ちました。その後、「行基」の泉大橋より200m余下流に、西大寺の「慈真」(当寺院の開基.1307年)が橋を架けましたが、元の橋柱が一本残りました。

その橋柱が水中で不思議な光を発するということで、「慈真」の薦めでこの橋柱から仏像を刻んだのです。その仏像が本尊の文殊菩薩坐像(鎌倉時代の作)であり、脇役の十一面観音立像(当寺院より古い平安時代後期)も、重文に指定されています。

この寺院は、たびたび霊験を現わした橋柱を刻んだ仏像を安置するため伽藍を建立して
文保2年(1316)「橋柱寺」と称して落慶供養をしました。その後、後水尾天皇の皇后:東福門院の下賜により、寛文9年(1669)「本寂」が再興した時、「大智寺」と改名しています。

さて、「大智寺」の伽藍(京都府登録有形文化財)のお話をしましょう。

境内は西方の山門から入ると参道正面に本堂、北側に鐘楼堂、本堂の北側から渡り廊下で庫裏を南面に配置した小規模な構成です。その他に本堂の前に石灯篭、東側に十三重塔があり、南山城地方で江戸中期(寛文期)の伽藍がこれだけ残っているのは貴重だと云われています。

『当本堂に安置されている重文の文殊菩薩などを拝観する場合は、安福寺本堂の阿弥陀如来(平重衡の引導仏)同様、其々の寺院に拝観希望日時等を申し込んでおいてください』。

ところで、山門を辞して木津川の西(下流)へ徒歩数分で次の目的地、和泉式部の墓に着きます。

和泉式部の墓は全国各地に有りますが、京都市の誠心院が一番有名です。しかしその墓も絶対的な極め手は無いと云われています。

和泉式部の名前は、父(越前守大江雅到)の官職と、夫(和泉守橘道貞)の任国から付けたと云われていますが、ここの地は昔から泉郷と呼ばれる『古代(記紀の物語)よりイズミ(伊杼美イドミ→伊豆美→泉)と云われる』ことに関連して、彼女はここの小さな御堂で尼となって晩年を過ごしたと云われているのです。

他方、中世の木津和泉守の墓とも云われています。真偽のほどはわかりませんが、彼女の人柄を慕い墓は、今も大事に守られています。和泉式部は平安時代中期の代表的な歌人として、清少納言.紫式部とともに並び称せられています。

また一方では、冷泉天皇の皇子、為(ため)尊(たか)親王(しんのう)や敦(あつ)道(みち)親王(しんのう)との恋愛など当時の女性としては才色兼備な人でした。彼女は素晴らしい女性と私は思いますが、一般的には評価が二分していると思われています。
 
古代泉津の中津道の起点近く、木津川に沿った式部の墓で彼女の恋愛経験の物語『和泉式部日記』と、元気に活躍していた時代の歌集『和泉式部集』を思いながら、(式部の真の墓は日本のどこに有り、彼女の生没などいまだに判明していませんが)本当に何歳で亡くなられたのかなあと、つい考え込んでしまいます。

次回は「古代大和の玄関港(泉津)から大和への道の下津道起点周辺を散策」して見ようと思っています。     
(郷土愛好家)

2011年04月26日

◆私の歳時記 

中川 晴美
 
麗かを歳時記で調べると、「春の日が美しく輝き渡って、すべてのものが明朗に感ぜられるような状態。声などが晴れ晴れとして楽しそうなさま。心にわだかまりがなくおっとりしているさま」とある。

・麗かにふるさと人と打ちまじり 虚子
 
私のふる里は西に葛城連山、東に大和三山が一望できる所に位置し、人口800人足らずの小さな集落。近鉄大阪線に沿い、静かながら便利な地である。古くからの家が建て替えられたくらいで、環濠や塚など子供の頃の風情がそのまま残っている。

・麗かや松を離るる鳶の笛    茅舎
 
この季語に出会うたび、葛城川の土手で遊んだ思い出が懐かしく脳裏をよぎる。男子も女子も、上級生も下級生も入り混じって遊んだ。

春には花を摘み、夏は川で泳ぎ、秋は河原を駈け、冬は凧揚げや縄跳びなどなど、葛城川は私のお気に入りの遊び場であった。中でも河原一面に菜の花が咲き、川面がきらきらと輝く頃の、あの明朗で晴れ晴れと楽しそうな土手が、一番好きだった。
 
・雲うらら敷浪を又砂子かな   碧梧桐
 
そんな葛城川だが、西空に聳える二上山を仰ぐと、また違う感慨が湧く。
 金烏臨西舎  金(きん)烏(う) 西舎(せいしゃ)に臨(てら)ひ
 鼓声催短命  鼓声(こせい) 短命(たんめい)を催(うなが)す
 泉路無賓主  泉(せん)路(ろ) 賓(ひん)主(しゅ)無(な)く
 此夕離家向  此(こ)の夕(ゆうべ) 家(いえ)を離(さか)りて向(むか)ふ
 
二上山は謀反の疑いにより、持統天皇から死を賜った大津皇子の眠る山。二十四歳の若さで死ななければならない皇子の、空しくも悲しい叫びが込められた漢詩である。
 
麗かな一と日の終り……。稜線を柔らかく染める二上山の春夕陽は、そんな悲運の皇子を慰めているかのように思えてならない。
 
ただ無邪気におっとりと過ごしたあの麗かな河原は、大和は国のまほろばと詠われたその原風景。私の心のふる里である。

大和と河内の国境にある二上山は、駱駝の背のような形をしており、大和側から見ると、右が雄岳(517m)左が雌岳(474m)。山頂からは、天候が良ければ、河内平野、大阪湾、淡路島まで見え、奈良側には、大和三山が一望できる。

両峰の間に陽が沈む姿の美しさから、西方浄土の入り口として古来より神聖な山とされてきた。新緑の頃、せせらぎに耳をあずけながら、ゆっくりと歩く尾根道は歴史を感じます。ぜひお出かけ下さい。 (俳誌「雲の峰」同人)

2011年04月25日

◆吹田市長選を制した「橋下旋風」

城北 勝

統一地方大阪選後半選で注目された大阪府吹田市長選は24日、橋下徹知事が代表の地域政党「大阪維新の会」(維新)公認の新人、井上哲也氏(54)が、無所属・現職の阪口善雄氏(62)=民主、社民推薦を破った。

首長選初の公認候補の勝利で、統一選前半から続く“橋下旋風”の勢いが、なお続いいている形を示す結果となった。 「約束したことはきっちり守る。市を黒字にし、公務員改革を進める。地域主権をしっかりやりたい」。24日夜、勝利を喜んだ井上氏は、初当選により喜びをこう語った。

<維新サイドは吹田市長選でも、橋下氏が得意とする「改革vs抵抗勢力」という論理で街頭演説に立ち、前半選で議員に当選した「橋下チィルデレン」議員の声を枯らせて井上氏を応援した、応援演説の橋下知事は、市民らを前に「役人天国の吹田市役所」とまくし立てた、有権者を惹きつけた。

これに対し、阪口氏は選挙戦で掲げたのは「維新の手から吹田を守る」という全面対決姿勢だった。継続的な市政の重要性を強調。橋下知事の「大阪都構想」を批判し、「維新の言う『ワン大阪』では、吹田の街づくりはできない」と訴えた。><産経ニュース>

しかし、選挙結果は現職に「ノー」を突きつけた。

現職の阪口氏は、3期12年の実績を強調する一方、維新の会の「大阪都構想」を批判。「維新の会のやり方に賛成するのか、吹田市の自治を守るのかが争点だ」と力説した。が、結果的には「維新の会」の勢いを制することはできなかった。

当選した井上氏は、確かに「維新の会」のムードに後押しされて躍進の一翼を担ったが、これからの吹田市の市政課題のハードルは高い。
 
<JR岸辺駅北側を中心に摂津市にもまたがる約23ヘクタールの広大な旧国鉄吹田操車場跡地。交通至便なこの場所に、医療施設や商業施設、マンション、緑地を設ける〈新都心〉構想が進んでいる。今年度末には同駅の南北通路が完成し、今後約5年で建物が次々に建設される予定だが、これもそう簡単には運ばない。

特に、国立循環器病研究センターと市立吹田市民病院を移転させ、医療の充実をアピールしたい構えだが、難しい問題もある。

つまり、千里ニュータウンにある同センターは、建物の老朽化などで別の場所での建て替えを含めて検討中とされているものの、動向は不透明なまま。世界的にも有名で実績のある同センターの新築移転が、市の今後の発展のカギになりそうだ。<読売オンライン>

早い話、「橋下旋風」では凌いでいけない問題があるということだ。

確かに橋下知事を代表とする「維新の会」は、地域政党として大阪府下市町村に賛同首長を増やして、「都構想」実現の礎を急ぎ整備したい考えを持っている。

とはいうものの、直下の課題は「大阪市の解体」を主目的とする「大阪都構想」実現への取り組みが最優先の使命で、今はこうした「維新の会の首長」が次々誕生することは、これからの「都構想」の実現を繋げて行く将来の予備隊に過ぎない。

おそらく、今回の維新の会・吹田市長誕生は、大阪府議会、大阪・堺市議会の「反・都構想」会派に少なからずショックを与えたことは事実だ。勿論平松大阪市長も、大阪市長選へ出馬が確定的な橋下知事の動きと「橋下旋風」に聊かも目を反らせない厳しい政治環境になったことも自覚した筈だろう。

となれば、意気高まる「維新の会」と「反・維新の会」の両勢力が、今後どのような対応策を建ててせめぎ合っていくのかが、焦点となることは間違いない。(了)
   2011.04.25

2011年04月11日

◆再び動き出す「大阪都構想」

城北勝次

10日投開票が行われた統一地方選挙前半選で注目を集めたのは、大阪の「地方政党・大阪維新の会」の選挙結果だった。

橋下徹知事が代表を務める「大阪維新の会」は、大阪府議会と政令都市の大阪・堺両市議会の過半数議席を制して、「大阪都構想」の実現に着手することを願い、主張し続けてきた。

選挙直前まで、維新の会の議席は増えるものの、過半数に達するのは困難というのが大方の見方だった。
ところが開票が終わると、大阪維新の会が、大阪府議会で過半数を獲得し、大阪・堺市議会では過半数には達しなかったものの、第1党を占めた。

<「大阪都構想」が争点となった大阪府議選(定数109)、大阪市議選(同86)、堺市議選(同52)で、橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」は、3議会とも第1党を確保した。
大阪維新の会は府議選で57議席を獲得し、目標の過半数に達した。大阪市議選で33議席、堺市議選でも13議席をそれぞれ確保した。

改選前、維新の会は府議会では29議席ですでに第1党、大阪市議会では13議席で第4党、堺市議会では7議席で第4党だった。 > 読売新聞

橋下知事は、まず「大阪市解体」し、リーダー1人に絞って無駄を省く行政改革と大阪経済の活性化を図るための「都構想」を実現するため「維新の会」を立ち上げた。そのためにどうしても3議会で議席の過半数を制することを狙い、今回の選挙戦の臨んだのだ。

だが、大阪府議会で議席の過半数を確保したものの、堺市議会と一番の標的だった大阪市議会でも過半数議席には及ばず、大阪市議会の議席数は33人に止まった。

ということは、3議会で過半数を制し、「大阪市をブチ壊す」ことで「都構想」を完遂させるという知事のかねてからの狙いは、一時的に躓いたことを意味する。

なぜなら、市議会の自公民に各会派議員44名がこぞって反対すれば、数の上で「都構想」は躓くことになり、大阪市議会が手の届かない目のうえのタンコブになって仕舞うことになる。

となれば、橋下知事が今秋の大阪市長選に立候補し、「市長の座」の座わった上で、大阪を一つに纏めて行くという「都構想」の実現方針の強行策に出なければならなくなる選択肢も浮かび上がってくることもあり得る。

とはいえ、自ら政治生命を賭けた「都構想」の実現とは云えども、そんな強攻策一本に絞って断行するとは思えない。

むしろ、来春の知事再選期までの1年の間に、今回府民の賛意を確実に取れなかった「都構想」の具体的実用性を府民によく説明して理解を求めていくことに力点を置くことに熱中する方策をとるのではないだろか。

しかし、大阪、堺両市議会の市長支持会派が、この「都構想」の話し合いの場に乗ってくることはまず考えられず、これに打開の道を開かせられるかどうかも至難の技だ。

実現させたい知事とこれを受け入れない2市長を話し合いの場に付かせるのも、ひとつの鍵になりそうだが、そうは簡単に行きそうもない。

これから橋下知事がどのような秘策を弄してくるか、これからが本当の「勝負」といえそうだ。                 2011.03.11