2011年04月01日

◆「大阪都構想」が争点 大阪地方選挙

城北 勝二

統一地方選の道府県議選、政令指定市議選が、4月1日に告示された。この統一地方選で、大阪の府議選、大阪・堺両市議選が過去にない激戦になることは必至の情勢だ。

どうして大阪の府議選・大阪、堺市議選が、激戦の様相を示すのか。

それは大阪府の橋下徹知事が、大阪市を解体・再編する「大阪都構想」を打ちあげ、同知事自ら代表となって立ち上げた地域政党「大阪維新の会」の先頭に立って、この「都構想」の是非を府・市民に問うという、過去に例の無い闘いに挑みだしたことにある。

しかも橋下知事は、圧倒的な人気を背景に、維新の候補者が3議会の過半数を制することを出来たら、今年の秋の「大阪市長選挙」に自ら出馬して市長の座を確保し、一人だけの為政者となって「都構想」を実現させたい腹だ。これが知事の描く極め付きのシナリオである。

これに対し大阪市の平松市長は、「大阪全体を王冠に例えれば大阪市は中央の宝石だ。大阪府がなすべきことは宝石を磨くことで、王冠をバラバラにすることではない。大阪都構想は『大阪都妄想』でしかない」と、知事の「都構想」を厳しく批判しており、両者の対立を受けて、維新党と既存政党が真っ向から対立し、選挙戦に突入した。

産経新聞によると、<30日現在のまとめでは、3つの選挙で前回の計395人を上回る432人前後が立候補する見通し。

「都構想」を旗印に3議会すべてで過半数獲得を目指す維新は、計119人を擁立。

堺市議選では定数52に対し立候補予定者は15人にとどまり、目標達成は困難になっている。
44人を擁立する大阪市議選(定数86)でも、1人落選すれば過半数獲得は無理な状況。

政権与党になった民主は、前回より8人多い計69人を擁立する予定。しかし政権運営を巡る逆風に危機感を募らせており、「民主離れ」とも言える現象が起きている。

維新に移った所属議員の大量離党に揺れた自民の立候補予定者は計66人。前回の候補者数計101人から3割以上少なくなる見通し。ただ、選挙後の情勢によっては自民への復党を望む維新議員は少なくない。

公明は、候補者数を前回より3人少ない計53人に絞り、「守りの選挙戦」(府議)に徹する構え。
共産の公認も前回より8人少ない計72人にとどまっている。このほか、みんなが計5人、社民が1人を擁立する予定になっている>。

こうした中、東日本大震災の発生により、肝腎の「大阪都構想」を目玉に訴えづらくなり、結局橋下徹知事も「大阪市役所をぶっこわす」「市長の退職金は全国一」などの言葉で繰り返してきた攻撃の戦略を見直しせざるを得なくなった。

このため作戦変更。防災、危機管理を前面に打ち出し、「日本全体の安全安心のため、もう一つの首都機能を作ろう。日本の司令塔が東京ひとつでは危険。いざという時、内閣に変わり西日本の安全を守る大阪都庁をつくりたい」に切り替えている。

これに対して、大阪市は震災発生当日に即「災害対策本部」を設け、これまでに延べ600人の職員を震災地に派遣するなど、政令都市としての機動力発揮能力を市民にアピールし、政令都市の存在意義を強調している。

橋下知事はこの統一地方選挙の結果に政治生命を賭けている。3議会で維新が過半数を取り、なんとしてでも「大阪都構想」を実現させたいと企図している。

「都構想」を争点とする3議会選挙への府・市民の関心は、原発被災などによって震撼させられている東日本大震災の状況下で、事実上宙に浮いている。この府・市民の意識をどう捉えられるのか。これが大阪選挙選の帰趨を決めることになるだろう。     2011.04.01  <評論家>

2011年03月30日

◆盛会だった「蕪村俳句講座」表彰式

仲村友彦

大阪毛馬生誕の俳人、与謝蕪村(1716〜1784年)にちなんだ市民講座第2期「蕪村顕彰俳句大学」の「表彰式」が27日、大阪市都島区の市立淀川中学校で行われ、つづいて近くの「蕪村公園」に設置された「入賞句のプレート碑」の除幕式が行われた。

同「表彰式」内容を、大阪日日新聞28日朝刊が次のように伝えている。

<俳句文化の活性を図ろうと昨年4月から始まった講座。今回は10月開講の第2期講座を受講した約100人が出句し、4句が各賞を受賞した。新たに市立小・中学校の国語教諭を対象とした講座も設けられ、その児童・生徒から集まった約500句の中から2句が入賞した。

表彰式では大阪市立大の村田正博教授が記念講演し、「2016年は蕪村生誕300年。記念事業の実行委員長として、大阪と世界をつなぐ一大句会の開催と、蕪村や俳句の情報基地の開設を目指したい」と力を込めた。

児童・生徒の部は大阪府知事賞に山本清和君(市立昭和中2年)、大阪市教育委員長賞に中田匠哉君(市立鶴見小5年)が選ばれ、「見たままをすっきりと詠み、若々し「健康的」などと評された。
同俳句大学の川原学長は「教育現場での取り組みもさらに広げ、大阪から文化を発信し続けたい」と挨拶した>。

ところで、今回表彰された「入賞者の作品と選評」の詳細を紹介したい。

◆まず「児童生徒の部」の表彰句。(三村純也大阪芸術大学教授 選)

〇大阪府知事賞 
・太陽が高くなりゆく春隣                     
               大阪市立昭和中学校  二年   山本清和

「春隣」は、もうすぐ春がやって来るという季節をあらわす、冬の季題。実際にはまだ寒いのかもしれないが、春の息吹を感じている感性が若々しい。太陽の高度が高くなったという発見かもしれないし、朝日がのぼってゆくところなのかもしれない。いずれに解しても、健康的なところがいい。

〇大阪市教育委員会委員長賞
・水面をさくらの花が流れてく                  
               大阪市立鶴見小学校  五年   中田匠哉
 
例えば、桜ノ宮あたりの情景。風に散った桜の花びらが、水面を流れてゆくのである。非常に単純明快な内容だが、俳句という文芸形式の枠をきっちり満たしている。何でもない素材を、何の技巧もなく詠んでいるところに、子ども俳句としての良さが感じられる。

続いて「児童生徒の部の佳作集」(三村純也教授 選)。
  
・蒲公英がわた毛をとばし野原へと  大宮中学校 一年  久保 湧己
・ゆっくりと小さなちょうが空をまう 鶴見小学校 五年  清  大輝
・青空にはり絵のような蝶ふたつ   神路小学校 五年  広田  愛
・たんぽぽの綿毛とかけっこつかまえた 神路小学校 五年 長尾 梨子
・たんぽぽにそつと蝶々が飛んできた  神路小学校 五年 永井 美帆
・青虫も夢見ているよ空飛ぶ日    神路小学校 五年  三島ふうか
・春風にゆらゆらしてる僕の胸    神路小学校 五年  竹綱 都生
・テキストに数式うめる冬の日や   昭和中学校 三年  三杉 大雅
・顔だして辺りうかがうつくしの芽  築港中学校 二年  大野  優 
・雪だるまくもりガラスにえがく朝  歌島中学校 三年  宮前 杏子 

◆「一般受講生の部」入賞作品

〇大阪府知事賞
・夕波のきらめく淀や雲雀東風     生駒市  中川 晴美
 
雲雀の鳴き声が聞え、東風が吹いている光景。夕波のきらめく淀は、毛馬堤あたりであろうか。目には西日にきらめく川波、耳には雲雀の声、そして肌にはいかにも温かさを感じさせる風。俳人にとっては贅沢すぎる場面とも言える。五感のうちの視覚・聴覚・触覚をさりげなく使いこなした点に共感した。(朝妻 力審査委員)

〇大阪市長賞
・西寺址そびらに京の葱畠       奈良市  朝長ユリ子
 
東寺と共に二大官寺として羅生門の西に造営され西寺。やがて衰退し、今はその跡地に礎石を残すのみとなった。近くは住宅地だが、宅地の間にでも畑があるのだろう。葱は九条葱だろうと鑑賞した。蕪村の∧葱買て枯木の中を帰りけり∨∧易水にねぶか流るゝ寒かな∨を思わせてくれる作品。
(朝妻 力審査委員)

〇大阪市長賞
・笹子くるいつもの薬飲みをれば    吹田市  田中 文治

「いつもの薬」とは常に服用している薬のことであり、作者は何らかの病を持っているのであろう。しかし、薬を飲みながら庭に来た「笹子」のチッ、チッという可愛げな声を楽しんでいる様子から、それほど深刻な病状でないことが窺い知れる。「笹子」はいつかは春が訪れることを告げながら、「一病息災、一病息災」と作者に告げているのかも知れない。(山尾玉藻審査委員)

〇川原学長賞
・茶の花のひときは白く描かれけり   明石市  真殿 律子
 
「茶の花」は本来目立たない花である。しかし、他の木々が落葉する季節だけに目をひき、小ぶりの白い花は見る者のこころを仄々と温かくする。「ひときは白く描かれけり」とは、茶の花を写生する人物が殊更白く描いた訳ではない。茶の花にこころ満たされる作者自身の思いが「ひときは白く」と感じさせたのである。「茶の花」らしい一元句である。(山尾玉藻審査委員)

ところで、今回の「表彰式」で参列者の耳を欹てさせたのは、村田正博大阪市立大学文学部長が、記念講演の中で「大阪と世界をつなぐ一大句会の開催と、蕪村俳句の情報基地の開設を目指したい」と述べことだ。

村田学部長は、当俳句大学の講師であると共に、この1月に立ち上げた「蕪村生誕300年記念事業委員会委員長」もつとめて頂いている。

それだけにこの決意の披露こそ、「蕪村生誕地毛馬の存在」と「俳句文化」を、この大阪から世界に向けて発信していくという意味に他ならない。既にドイツの大学と連携し合い、具体的な取り組みに着手されているという。

これが実現すれば、大阪と世界が一挙に「俳句文化」によって繋がっていくという、画期的な夢が実を結ぶことになる。「五七五に集約」された古来からの日本文化が、世界の共感を得る時代が到来すると思うだけでも、胸は高鳴る。

そのことからも、今回の「蕪村顕彰俳句大学2期講座の「表彰式」は、盛会であり、有意義であった。
                              <蕪村顕彰俳句大学 事務局長>

2011年03月29日

◆木津川だより「泉津と周辺の散策」A

〜古代大和への玄関港「泉津」〜
白井繁夫
「泉津」とは何処でしょうか、簡単なイラストでも掲載して下さい。木津の木津川へ行くと、港が良く解りますか?等の問い合わせがありました。

そこでくどいかも知れませんが、もう少し「泉津」について記述して見ました。

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A)泉津(いづみのつ)は東西2.6kmにおよぶ大河川港で古代の呼称です。

江戸時代幕府が認めた木津川の六カ浜『宇治の一口(いもあらい)から笠置(かさぎ)の浜』では、上流の上津(こうづ)から木津(こづ)の浜、下流は吐師(はぜ)の浜までを含みます。

『木津川』の呼称にまつわる記紀の物語ですが、各地の王との覇権を治め、大和王朝の確立を目指した崇神天皇の時代、四道将軍の大毘古命(おおびこのみこと)と謀叛人?建波邇安王(たけはにやすのみこと.武埴安彦)が和訶羅川(木津川)で相挑み戦った地名伝説から、『いどみかわ→いずみかわ』泉川と呼ばれるようになったと云われています。

元明天皇の平城遷都後、「泉津」から大和への三本の幹道(上津、中津、下津道)は官道として整備されました。(木津の地名:古代は『泉津』イヅミノツ、中世『泉木津』イヅミノコヅ、近世は『木津』キヅと呼ばれたと云われています。)


そこで、手書きのメージ図(イラスト。実寸縮小では有りません)で説明致します。
@ :木津川から古代奈良へ(泉津イヅミノツ)からの上津道(上ツ道)○イ
A :JR木津駅から木津川まで北へ徒歩十数分  B:平城京跡から木津川(吐師の浜)をむすぶ下津道(歌姫街道) ○4:東大寺 D:JR奈良 E:西大寺  ○ロ:泉津の中津道(奈良街道)、木津の浜から大和への道 ○7恭仁京跡(クニキョウ)
B) 木津川の港

「泉津」は飛鳥、奈良時代から大和への木材など建築用材から官の租税などいろんな文物を取り扱って栄えてきましたが、川に憑き物の洪水にも苦しみました。

正徳二年(1712)の木津川沿岸大洪水は特に酷かったと云い伝えられています。また享和2年(1802)の洪水で川口屋(川喜)の家屋が、祝園(約4km下流)まで流されたと云われています。昭和28年の南山城の大水害も前回述べたごとく川喜(割烹料亭)の信号の処から対岸に架かっていた橋が流されました。(橋げたの跡は川の中に現在も有ります。)

その後、洪水対策を兼ねた治水事業として木津川の上流にダム建設が始まり1964年完成の高山ダム(貯水量5680万トン)から1998年完成の比奈知ダム(2080万トン)まで現在五つのダムが有り、約1.2億トン(10万トンのタンカーに換算)1千隻強を水量調整できますので、現在は洪水から解放されています。

しかし、木津の浜(中ツ道)、吐師の浜(下ツ道)の港の面影は薄れました。

五つのダム完成後、木津川の流れは穏やかになりましたが水量も減少しました。また陸上交通(鉄道、車輌)の発展とともに、水運利用はもはや考えられない状態です。

木津の浜のイメージ図(イラスト)です(中ツ道周辺)

t_2P1000805.jpg

@ JR奈良線の鉄橋、  
A R24号(泉大橋)
B 行基が架けた橋(推定した場所です)
C 昭和28年に流れた橋
D 小川(港の掘割に通じる)
E 川喜(交差点の信号、奈良街道 中ツ道と対岸への旧橋)
F 福祉センター(中之島)
G 木津川護岸道路(新しい道)
(Fの中之島が昔の港の作業所、Dの延長の掘割に川の本流を避けて船を流れの無いここに着けたと思います)。
H旧の護岸道路です。(Eの交差点を通る道○9が元々の護岸道です。)
今回はご質問に少しでもお役にたてばと思っておりますが、如何だったでしょうか。次回は「泉津の中津道、下津道の出発点の周辺の散策」を綴りたいと思って居ります。
(郷土愛好家)

2011年03月23日

◆脳梗塞「2時間59分だとOK!」

安井敏裕
  

<再掲>脳卒中とは、脳に酸素やブドウ糖などの栄養を送る血管が「詰まったり、切れたり、破裂して」、にわかに倒れる病気の総称である。脳卒中には、脳梗塞(詰まる)、脳出血(切れる)、くも膜下出血(破裂)の三種類ある。

この病気の歴史は古く、「医学の父」と言われているヒポクラテスは既に今から2400年前の紀元前400年頃に、この脳卒中の存在を認識し「急に起こる麻痺」という表現で記載している。脳卒中による死亡率は日本では癌、心臓病に次ぎ、第三位で、毎年15万人程度の人が亡くなっている。

しかし、本当に問題となるのは、脳卒中が原因で障害を持ち入院あるいは通院している人たちが、その約10倍の150万人もいることである。現在、脳卒中の中では、脳梗塞の発生頻度が突出して多い。2分20秒に一人が脳梗塞になっていると言うデータもあり、全脳卒中の70%程度を占めている。

この最も多い脳卒中である「脳梗塞」について、大きな治療上の進歩があったので紹介する。

脳梗塞は、脳の動脈が血栓や塞栓という血の固まりのために詰まることで起こる。この血の固まりで閉塞さえた血管から血流を受けていた部分の脳は、いきなり脳梗塞という不可逆的な状態になってしまうのではなく、数時間の猶予があり、徐々に脳梗塞になる。

この数時間の間に血流を再開してやれば、再度、機能を回復できることになる。いわば、「眠れる森の美女」のような状態で、医学的には、このような状態の部分の脳を「ペナンブラ」と言う。見方を変えると、この部分は、血流が再開しないと数時間後には脳梗塞という不可逆的な状態となってしまう訳である。

このペナンブラの部分に血流を再開する方法として、古くは開頭手術をして、目的の血管を切開し、中に詰まっている血の固まりを取り除く方法を行っていたこともあるが、それでは、多くの場合に時間がかかりすぎ、再開通させた時には、ペナンブラの部分は既に脳梗塞になっている。また、間に合わないばかりか、出血性梗塞というさらに悪い状況になってしまうことさえある。

開頭術の次に登場した再開通法は、カテーテルという長い管を血管の中に通し、その先端を詰まった部分にまで誘導して、血栓を溶かす薬を注入する方法である。

この方法では開頭手術よりも早く、血管を再開通させることができるが、この方法であっても、血管が閉塞してから6時間以内に再開通させないとペナンブラが脳梗塞になってしまうことが防げないし、間に合わずに血流を再開させた場合には、やはり脳出血が起こってしまう。

このようなことから、一時、我々脳卒中に関わる医師は、口には出さないが、最も理屈にあった治療法である「急性期に閉塞血管を再開通させて脳梗塞になることを防ぐ」と言う治療を諦め、虚無的になっていた時期がある。再開通させることを諦め、梗塞に陥ってしまった脳自体の治療として、脳保護薬や低体温療法へと興味が移行していた時期もあった。

しかし、米国で1996年から特別な手技や道具が不要で、ただ静脈内注射するだけで詰まった血管の血栓を溶かしてくれるアルテプラーゼと言う薬の使用が始まり、2002年にはヨーロッパ連合(EU)でもこの薬剤による血栓溶解療法が認可された。

わが国でも日本脳卒中学会を中心にこの薬の早期承認を厚生労働省に求めたが、「日本人を対象とした治験で良い結果が出ない限り承認できない」という厚生労働省の方針に答える準備のために時間がかかり(drug lag)、米国から遅れること約10年の2005年10月11日に漸く承認された。

この薬は血管に詰まった血栓を溶かしてくれる血栓溶解剤で、発症後3時間以内に静脈内注射するだけで良好な予後が得られる。

しかし、この薬剤は両刃の剣で、39項目に渡る使用基準を尊守しないと、脳出血の危険性が著しく増大することが分かっている。従って、厚生労働省も非常に厳しく市販後調査(2.5年間に3000例以上の全例調査)を課している。現在は、言わば試運転ないしは仮免状態と心得て、慎重に使用する必要がある。

そして、この薬剤を用いるためには、一定の講習を受ける必要があり、全国で130回以上行われ、8000人以上が受講した。実際に、この薬剤を発症後3時間以内に注射するには、患者さんには、遅くとも発症後2時間以内に病院へ到着してもらう必要がある。

すなわち、病院へ到着しても、患者の診察、一般検査、脳のCT検査、家族への説明など、最低1時間は必要であるためである。そのために、最初にこの薬剤の使用を始めた米国では、脳梗塞を“ブレインアタック(brain attack)”と言い直し、社会全体に向かって、その緊急性を啓発した。

すなわち、“Time is brain. Time loss is brain loss.”などの標語で注意を喚起した。日本においても脳梗塞を“ブレインアタック”という緊急を要する疾患として一般の方々に認識していただくために、学会や医師会などの啓発運動も行なわれるようになっている。

さらに、平成9年3月に創設された日本脳卒中協会においても、毎年5月25日〜5月31日までの一週間を脳卒中週間と定め啓発運動に努めるようになっている。脳卒中週間をこの時期にしたのは、とかく脳卒中は冬に多いと思われがちであるが、脳卒中の中で最も多い脳梗塞は、最近の研究では6−8月に増えだすため、脳卒中予防は夏から気をつけなければならないことを啓発するためである。

この週間で使用される標語も、昨年(2006年)はアルテプラーゼの使用が認められたことを念頭において「一分が分ける運命、脳卒中」であった。2001年の日本での脳梗塞急性期来院時間調査の結果では36.8%の患者が3時間

以内に来院している。この中の一部の方がアルテプラーゼ治療を受けることになるが、この割合をさらに増やして、本薬剤の恩恵を受ける人を増やす必要がある。

この治療では10年の経験を持つ米国では、この治療を受けるためには、@患者の知識、A救急車要請、B救急隊システム、C救急外来、D脳卒中専門チーム、E脳卒中専門病棟、とういう六つの連鎖の充実と潤滑な流れを推奨している。
 
一般市民への啓発や行政への働きかけなどが必要である。一方で、来院から治療までの時間も1時間以内にする努力が病院側に求められている。いつでも、3人程度の医師が対応できなければならないし、他職種(レントゲン部門、検査部門、看護部門)の協力も不可欠である。(了)
(元大阪市立総合医療センター・脳神経外科部長・現社会福祉法人「聖徳会」岩田記念診療所 勤務)

2011年03月15日

◆木津川だより「泉津と周辺の散策」@

〜古代大和への玄関港(泉津)編〜

白井繁夫
 
木津川の堤には、木津川市の代表的駅『JR木津駅』から北の方に向かって歩きますと、十数分程で着きます。(木津川:上流の水源地三重県青山高原、鈴鹿山脈からと名張市の青連寺湖からの名張川も包含して淀川の三川合流地点の八幡市まで延長約90Kmの一級河川)。

今回は、明治29年の木津駅開業による鉄道交通発達以前の水上交通で栄えた「木津の浜と、その周辺の文物『泉津と上津(こうづ)遺跡(いせき)や安福寺:平重衡(たいらのしげひら)の十三重石塔.不成(ならづの)柿(かき)』」について、地元の伝承も織り交ぜて散策します。

まず木津駅の西口から北へ約十分強歩くと「安福寺」につきます。

「安福寺」は、JRの鉄道建設に因って線路のすぐ東側のお寺となりましたが、平重衡が斬首された時のもともとの首洗い池は線路の下に没しました。(現在は線路で分断されて西側に、不成柿:成らずの柿:の処にあります)。

安福寺の山門をくぐると左手に十三重の石塔が有ります。この「石塔が平重衡」の碑です。

平重衡(平清盛の五男)は、治承四年(1180)に源氏に味方した東大寺、興福寺等を焼き討ちした平家総大将として悪名が高いですが、(伝承では、夜半に暖をとる焚火が強風に煽られて南都が大火になったという説も)その後、一の谷の戦いで源氏に敗れ虜囚となり、鎌倉の源頼朝のもとに送られました。

しかし南都衆徒の強い要請で、鎌倉から木津の地まで運ばれ、元暦二年(1185)ここ木津川の河原で斬首されたのです。

その際、道中で面会した妻に自身の髪を渡したとか、頼朝が武将の中の武将として称えたとの話があります。また重衡が斬首された時の引導仏(阿弥陀如来像)が「安福寺」の本堂(哀堂(あわんどう))に祀られています。重衡が最後に食べた柿の種を地元の人々が植え大事に育てたといわれますが、その柿は実を付けなかったため『不成柿』等と呼ばれてきました。

しかし、ときが経ち現在の柿の木は実がなっています。(哀堂:あわれ堂→地元の呼称:あわんどう)といっています。

「安福寺」の東隣の「御霊神社」の祭神は、藤原広嗣(ひろつぐ)、早良(さわら)親王、伊予親王ですが、非業の死を遂げた広嗣の御霊を鎮めると云うより、今は「木津の鬼門除け、災害.厄除けの神社」としてお参りする人が多くなってきました。

江戸時代の木津川は七年に一回の割で水害をもたらしており、特に正徳二年(1712)の大洪水の時はこの神社の鳥居の貫(ぬき)木(ぎ)まで(約4m強)水に浸かったと云われています。

さてここから本題の、「大和の北の玄関口『泉津』の話」に入りましょう。

「御霊神社」の裏側すぐの処に上津(こうづ)遺跡(いせき)公園が有ります。上津遺跡は、泉津(木津川の南岸、東西約2.6km)のほんの一部ですが、神社近隣の宅地開発の時、(昭和51年からの発掘調査において)初めて発見されたものです。

その後調査は、平成21年の第9次まで続きますが、何と日用の雑土器から祭祀用器、交易の文物、また建物の柱跡や墨書土器、役人の遺物等が出土し、木津に「官の役所」が有ったと性格付けられました。

上津遺跡は、泉津のごく一部だけしか発掘されていませんが、古代の藤原京、平城京の建設の為多くの木材が、この木津に集積されていました。(東大寺や興福寺ももちろん木津に木屋所を設置していました)。

上津遺跡から国道24号線を越えて木津川の堤を西(下流)へ約十分余歩くと、川喜(割烹
料亭)に着きます。(この料亭は江戸時代川口屋喜兵衛と云われ、港と奈良街道筋の交差点の料理旅館として、昔から数多の有名な人々が宿泊したと云われています)。

昭和28年の南山城地区の大水害でここ川喜から対岸へ架かっていた旧木津の橋は流されました。(R24号線の泉大橋と別)

古の天平時代、行基が宗教活動も兼ねて布施屋を設け、ここと対岸の泉橋寺まで木津川に掛けた橋は、この辺りよりもう少し上流とも云われています。近代では明治10年、明治天皇が京都から奈良へ行幸された時、ここの橋が流されていたので対岸からここまで川船を繋いで橋を造ったと云われています。

泉津(古代は泉津(いずみのつ)から江戸時代は木津の浜と云われました、古代から上津道、中津道、下津道を利用する大和への玄関口)は、「木津川の六カ浜」の一つですが、飛鳥時代から近江の田上山の檜を宇治川経由で藤原宮造営用として運び、特に平城京建設、天平の恭(く)仁(に)京(きょう)造営の時は、ここに役所の施設や大仏造立のための東大寺木屋所などが設置されたのです。

さらに平城京と泉津を繋ぐ官道沿いには、全国から集めた人々によって最先端の瓦窯群も建設されて大変な賑わいであったと伝えられています。

たしかに、交通の要衝としてまた大和の玄関として人・物が集まり、渡来人の往来も有るなど、当時としては最高の文化都市でしたが、そんな重要な拠点であった木津川も、流石に洪水には悩まされたようです。これは次会の中で触れたいと思います(@−終)        

次回は、東西2.6kmの泉津の中ツ道(奈良街道)の出発地周辺(和泉式部の墓、重文の木津惣墓五輪塔)、下ツ道(歌姫街道)の出発地周辺(吐師の浜、重文の相楽神社など)の散策に移ります。
<郷土愛好家>

2011年03月12日

◆気になる大阪府庁職員の自殺増

白浜良太

大阪府庁知事部局職員の自殺者数が昨年4月からの僅か1年間に、6人にも達していることが、今開会中の大阪府議会総務委員会で明らかになった。

過去5年間の職員自殺者は、年1〜2人だったそうだが、僅かこの1年間にこれを遥かに上回る増え方に皆が身震いしている。

一体自殺の原因は何だったのか。なぜそんなに急増したのか、肝腎なこの点について、大阪府は明らかにしていない。

この事態について、府議会総務委員会で大阪府企画厚生課は、次のように回答している。

<知事部局職員6人の自殺の理由を特定するのは難しい。現段階では公務災害認定の請求は家族から1件も出ていない。

従って職員の健康管理対策に努めたいとして、職員向けの相談窓口や産業医、保健師らによる相談の充実を図るほか、ストレス解消法を解説した冊子を職員に配るなど、精神衛生対策にあたっている>。<読売新聞>

この答弁で注目されるのは、家族が自殺そのものを「公務災害」という認識は持っていないことだ。となれば自殺の原因は他に存在するという意向を持っていると推察することが出来る。
となると、まずは家族が認めていない「公務災害」とは、何かということになる。

<公務災害とは、公務員が公務遂行中に「労働災害」に遭遇すること。公務災害による損害は国家公務員災害補償及び地方公務員災害補償法によって補償されるという。

その公務遂行中の「労働災害」(労災)とは何かというと、労働者が業務中、負傷(怪我)、疾病(病気)、障害 死亡する災害のことをいう)のだそうだ。
<参考:ウイキぺディア>

つまり、6人の自殺者の原因について家族は、「労働災害」で規定している「疾病(病気)」が、自殺の原因ではないと府側に暗示しながら、その一方で起因となった真の自殺原因の追求に全力を上げてくれるよう、府側に求めていることになる。

ここで思い出すのは、これら6人のうちの1人で、昨年10月14日に行方不明となり、大阪淀川で水死体で発見された大阪府商工労働部経済交流促進課の参事(課長級)のことだ。

職場の仲間職員らが調べたところ、この参事の机の中から「頑張っても頑張っても出口が見えない」という遺書が見つかった。府側は、この「遺書」の存在と内容の開示を禁じた。

警察が参事の死を自殺と断定したことから、庁内で大騒ぎとなり、結局「遺書」の存在は、あっという間に広まった。しかも、この遺書の意味が何を指すのかということが取り沙汰されるようになった。

そののちに、参事自殺に繋がると見られる背景が浮き彫りとなり、自殺の原因が、「遺書」と重ね合わせられたことから、職員の間で大きなショックを誘った。

その背景とは、自殺の半月ほど前の部長会議で、台湾出張を計画中の橋下徹大阪府知事が、「同出張では、中国への配慮にかなり慎重にならなくてはならないのに、参事が担当する商工労働部ではこのリスク管理が全く成されていないと、上司の商工労働部長を厳しく叱責したという。

メンツをつぶされ怒りの収まらない部長は、当初の日程などを組んだ参事を呼びつけ、「どうしてくれるんや」などと激しく罵倒したというのだ。この間当の参事は一言も抗弁せず、以後精神的に大きく追い込まれていたという。

この一連の追及が参事を追い詰め、「遺書」の「頑張っても頑張っても出口が見えない」という精神的な往き詰りの吐露となっているというのが、職員や府会議員の一致した見方となった。

この参事以外の5人の自殺の詳しい原因は分からない。しかし複数の府議会議員と現職職員に「原因」を聞き取った処、持病・負傷によって自殺に追い込まれたたというケースは皆無のようで、どうも前記の参事自殺原因と極似した状況のようだと口を揃える。

実際、橋下知事は、相互に庇い合い馴れ合う役人慣習を打破し、事務の質の向上と効率化を図るため、知事の方針に異論の唱える課長級以上の幹部職員には、配置換えや降格も辞さない厳しい姿勢で臨んでいるといわれる。これは行政推進の上で批判も否定もできるものではない。

しかし厳しさに対応する幹部職員にとっては、自由闊達に上申も出来ずに萎縮状態に追い込まれ、日常心理的不安に駆られている者が出ているのは事実という話は、よく耳にする。

となると心理に溜まったストレス解消できず、結局自殺の道を選択して仕舞ったのが「原因」ではないかという、今庁内を飛び交っている噂もまんざらでないような気もする。

大阪府企画厚生課が、「職員向けの相談窓口や産業医、保健師らによる相談の充実を図るほか、ストレス解消法を解説した冊子を職員に配るなど、精神衛生対策にあたっている」と述べているのも、案外内実を知っての回答と受け取れないこともない。

だが、自殺に至った真の原因はまだ不明だ。その究明とともに、最悪の事態回避のために、大阪府庁は最善を尽くしてほしいものだ。(了)  2011.03.11

◆本稿は、3月11日(金)刊の「頂門の一針」2207号に掲載されました

◆<同号目次>
・東北地方太平洋沖地震はM8・8、国内最大規模:渡部亮次郎
・今度は菅首相に外国人献金!:花岡信昭
・「辞任はまったく考えていない」と菅首相:古澤 襄
・石原都知事が4期目出馬を正式に表明:渡部亮次郎
・気になる大阪府庁職員の自殺増:白浜良太
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2011年02月21日

◆「木津川だより」古代大和への玄関港「泉津」

白井繁夫

私の住む木津は、京都府の最南端の地の奈良市と接する処で、大阪市の中心から30kmの圏内にありますが、平成の全国的な町村合併で木津川市になるまで百年余りの間、町政のままの落ち着いた静かな木津の町でした。

 
この町に来た動機は、子供が病弱のため、(三十余年前)香里園の小児科の先生の薦めで、大阪から生駒山を越えさらに離れた空気の良い処、また私が大阪市内に通勤できる地に適した地で選んだのです。

ところがここに住み始め半年も経たぬのにすっかり子供は元気になり、今は自立し家を離れ,私も勤めを終えた身となっております。

わが町を眺めた時、学研都市として国立の国会図書館とか各種の研究所等もありますが、古代から静かに佇む神社仏閣、遺跡等、もの云わないこれら仏像、遺跡が古代からの歴史(ロマンや戦記、人々の営み)を語りかけてくれる大変素晴らしい処に住んでいたのだと気付きました。

ところで、木津川市は国宝、重文や国の史跡が府内では京都市に次いで二番目に多い都市で有ることをご存知でしょうか。

私は退職後、もっと地元に溶け込み、いろいろ学びたいと思い『木津の文化財と緑を守る会』に入会し、昨年の『平城遷都1300年祭』の際、『泉津から平城京への道』の催事に携わる機会を得ることにより、さらに良い里だと感じるようになりました。

この木津は古代の飛鳥、奈良時代から木津川に面した大和の玄関港として、特に平城京建設時には国の役所を始め東大寺、興福寺も木屋所を置き、官道(中ツ道、下ツ道等)を利用した建築用材木の運搬、そして税の米や、塩、油等の生活物資、海外の文物、人の往来等で栄えた所です。

市内には奈良時代の聖武天皇の恭(く)仁宮(にのみや)や上津(こうづ)遺跡(いせき)(広大な泉津の一部)、中世では近畿の代表的な山城(鹿(か)背(せ)山城(やまじょう):NHK教育TVで3月17、24日放映予定)、明治では幻の鉄道(大仏鉄道)等の遺構があります。

奈良時代の官道に沿って建設された奈良山瓦窯跡(国指定史跡)、記紀の物語に纏わる神社(幣(へ)羅坂(らさか)神社(じんじゃ))、重文の相楽(さがなか)神社(じんじゃ)も餅花奉納や中世的な宮座祭祀等の特徴を有しています。また、大塚山古墳や高麗寺跡等の有名な遺跡も有ります。

隣接する奈良市は東大寺、唐招提寺等の世界遺産を有し、全国的に有名な寺院が有りますが、この木津川市にも古代から人々の祈りに応えて、安らかで静かなひと時を与えて下さる上述の有名な寺院や遺跡、国宝や重文の仏像も数多く有るのです。

私は、記紀の物語とか昔から地元の人々に伝わってきた伝承・遺跡等から、当時の人々の悲喜交々の営みの姿を、皆様とご一緒に、木津川市を散策しながら感じ取ることが出来たら最高だと思って居ります

これからが「木津川だより」の本番です。その冒頭に、古代大和の玄関港『泉津』とその周辺について少し触れてみました。

泉津(いずみつ):木津川の六ヶ浜(宇治の一口(いもあらい)〜笠置ノ浜)の一つ『木津の浜』。その周辺:平重衡(南都焼討の総大将)の十三重石塔、和泉式部の墓、奈良街道(中ツ道)の出発点です

次回からは『泉津』から古都奈良と関わってきた「歴史の散歩道」へと繋いでいく予定です。お楽しみに。  (完)              
<郷土愛好家>

2011年02月17日

◆「局所的」の後にあるもの

中曽根 康弘

いよいよ、菅政権に末期現象が来たといえそうだ。世論や政界の動向を眺むるに、その感は強い。

政治家には謙虚さが必要な一方、首相には揺るぎない自信と決然たる態度、勇気、的確な判断も必要だ。内外の情勢を顧み、「この難局を乗り切れるのは自分以外にはいない」という不屈の精神が求められる。

そう考えるとき、これまでの自分自身を支えてきたのは、保守党出身の政党政治家としての歴史や伝統、信念だった。逆に、そうしたものが「市民派政治家」たる菅直人首相には感じられない。

政権にはいつでも危機は訪れるものだ。私のときには、たとえば自民党内の一部で二階堂進副総裁を総裁に擁立しようという構想が出た。

このとき、二階堂氏に対して自民党内、さらには国民がどれだけ支持しているのかと冷静に情勢分析したが、党内も国民も二階堂氏より私を支持している、と判断した。同時に日本の現状を点検し、「この難局を乗り切れるのは自分しかいない」という政権運営への自信もあった。

毅然(きぜん)たる姿勢を示すことで、二階堂氏自身が崩れ、「二階堂擁立構想」は消えていったのだ。

市民派政治家は、政党政治家の対極にある。信念や一貫性よりも、短期的で新鮮な反応を求められる。菅首相は幾度と訪れた危機を「長期的視点」で乗り越えることをせず、局所的反応で支持率を落としてきた。

菅首相は今年に入り、局所的な反応を示そうと、内閣改造を断行したのだろう。目玉は、たちあがれ日本にいた与謝野馨氏を起用したことだ。

しかし、与謝野氏にあるのは社会保障や税制への「政策力」であり、残念ながら政権の厳しい局面を打開するような「政治力」はない。

しかも、新しい内閣の顔ぶれは、政治家としての味も面白みも大衆性も感じられず、官僚の定期異動的な性格でしかなかった。

菅首相は、内閣改造によって局面を打開するには至らず、逆に首相の特権を生かせない人事に終わったと言わざるを得ない。

「政治とカネ」の問題を問われてきた小沢一郎民主党元代表の処理もできないままにきた。小沢氏に政治的な力が残っているとは思わないが、菅首相は小沢氏の政治的影響力を気にしすぎた。

その結果、「小沢氏のため」よりも「自分の不出来のため」に退陣を迫られる局面にまで来てしまっている。

私は、首相が短期間で交代すべきではないとの立場を取ってきた。しかし、内閣改造を断行しても支持率が回復しない菅政権を、国民全体が応援しようという空気になれない状況にあるのも事実だ。

参院のねじれから見ても、平成23年度予算関連法案の成立は極めて厳しい状況にきたともいえるのではないか。

民主党政権が末期にきたともいえよう。早ければ、通常国会会期末には衆院解散という可能性がかなり高い情勢になった。

民主党の人気も落ち込んでいる。衆院選が行われると自民党を中心とした新政権が誕生する可能性もある。選挙の結果次第では政界再編という新しい動きも出そうな雰囲気だ。

政治の「再出発」がいよいよ現実味を増しつつある。(なかそね やすひろ=元首相)
2011年02月11日 産経新聞 東京朝刊

◆本稿は、2月17日(木)刊の「頂門の一針」2184号に
掲載されました。その他の著名寄稿者の卓見もご覧下さい。

◆<2184号 目次>
・「局所的」の後にあるもの:中曽根康弘
・様々な問題をなげかけた「中京の乱」:花岡信昭
・平壌市内に50両規模の戦車部隊を配置:古澤 襄
・米国に大がかりなタリバン支援ネット:宮崎正弘
・好きな作曲家江口夜詩:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2010年12月04日

◆NHK福地茂雄会長、君は「男」か?

大谷英彦

久々にNHK会長の去就が新聞紙面に登場した。と、いっても産経新聞(3日)は、見出しで「NHK福地会長進退明言避ける」と報じているいうのだから、福地会長に「男の決断」という「男としての資質」があるのか問いたい。

この問題、福地会長の「資質」と共に、マスコミNHK担当記者の取材力etcにも問題ありと見ている。今回はそこを検証する。

福地会長が「2期目は辞めたい」と報じたのは朝日新聞だった。この線に沿って福地会長は今年度予算のNHK原案がまとまったのを機に経営委員長に辞意を告げた。

が、NHKを「監督」する総務省から「待った」がかかった。

NHK予算は国会の承認がなければ成立しない。誰が次の会長になるにせよ、その国会審議の答弁を「なりたての」新会長に任せていいのか?「福地の敵前逃亡」とまでは言わなかったが、正論である。

その一方で総務省や民主党「実力者」が後任案に手をつけたが折から発生した民主党代表選で後任さがしは置き去りになった。

ここで福地会長の「心変わり」が始まる。「強い会長」を目指す気になったらしい。

その好例が「大相撲中継」の「迷走」である。

NHK日本放送協会と日本相撲協会は、ともに「協会」を名乗ってはいるが、別個の組織であることは「日本人の常識」だ。が、暴力団は悪と憎む多数の人がNHKに「相撲中継は中止せよ」と申し入れた。

福地さん、「これは強い会長の存在感」をアピールするチャンスと考えたのか?中継中止を指令した。

私が「世論にこびる」アピールと見る理由は、放送総局長が記者会見で「中止も視野に」などと事前予告をし、さらに「会長がそう言っている」みたいな言い方で会長に「ゴマ」をすったなと感じているからだ。

冷徹な側近がいたら、NHKの大相撲中継はラジオ時代から連綿と続いていること。

中止の電話などには、その長い歴史を説明し、見たくない人は見ない自由もある、と説く道もあると進言した筈だ。

案の定。中継を中止したら「何故やめるのか」という抗議が殺到。次の場所から中継を再開した。本人の進退で「迷走」している福地会長の脳内MRが相撲中継の迷走を招いたようだ。

そのMRの診断、つまり「断罪」は、先般の横綱審議会でくだされた。

「何故、中継を中止したのか」という質問に福地茂雄会長は「多数の視聴者から中止を求める電話があった」という趣旨の答えをした。次いで「では何故、中継を再開したのか」と聞かれ福地会長は「多数の視聴者から中止を求める電話があったから」と答えて失笑をかった。

この脳天気ぶりもっと「恥ずかしい」のは、外で待っていた記者たちに「おおむねNHKの方針が理解された」とNHK得意の「歪曲・捏造」答弁をしたことだ。

伝え聞いた横綱審議会の首脳は激怒した。NHK福地茂雄会長は数日後横綱審議会委員を辞任した。

不思議なことに以上のような経緯はマスコミでは全く報じられていない。

会長の「迷走」はNHKの放送品質の「迷走」につながる。現に、いくつもの実例・実害が出ているのはご存知の通りだ。NHKの取材を受けた台湾の当事者を含め1万3千人を超す原告がNHKに損害賠償を求める裁判が進行中である。

NHKは、受信料を強制的に徴収しているに日本で唯一の公共放送である。という観点から新聞、雑誌などマスコミは「監視」の手を抜いてはいけない。


2010年10月20日

◆石原都知事会見で見たNHK記者のKY

大谷 英彦

石原都知事の記者会見を東京MXテレビが毎週、ナマ中継している。

ふとスイッチを入れたら石原知事が東京マラソンの新企画について説明していた。

その説明が終わって「質問のある方はどうぞ。ただし『市場』のことははずしてくれ」というような前置きがあって記者の質問に移った。

市場、つまり築地市場の移転問題のことだ。

NHKの都庁担当と氏名を名乗った記者が真っ先に手を挙げた。

「知事の発言ではございますが、あえて『市場』のことを聞きます、と彼は切り出した。

「石原知事が張った予防線に真正面から切り込む記者がいた。彼が「くせ球」を投げ慎太郎知事が立ち往生すると面白いぞ!と私も身を乗り出す思いだった。

ところが彼の繰り出す質問は、築地市場をいつごろまでに・・といった類の「何のことはない」普通の質問だった。

「こいつ、馬鹿じゃないの?」と思った。

このNHK記者が都庁担当のキャップ(チームのトップ)なのかは知らないが、NHK社会部記者の憧れは「警視庁キャップ」「都庁キャップ」「司法キャップ」の「ご三家」のキャップになることだ。

その都庁所属の記者が、他社に先駆け、知事に挑戦的に質問した内容の平凡さ、無意味さ、KYがNHK報道の退廃を物語っている。

もっとも石原知事は質問しようと挙手した他社の記者に「またバカなことを聞くなよ」とあけすけに牽制していたから、石原知事から完全にナメられている記者は少なくないようだ。

官邸の記者会見も東京都庁のように質問した記者の顔も写すようにすると仙谷官房長官の「本性」に加えて、各紙、各局記者の「実力」などもTV画面で見えるようになる・・・なんて連想がふくらんだ。

話題をNHKに戻す。

NHKは福地茂雄会長の積極的主導のもと名古屋場所は中継しない。次の9月場所は中継再開と迷走した。

この迷走を横綱審議会で叱責され、首うなだれてドアを出たところを待ち受けていた記者団の質問を浴びた。

福地会長は数分前の叱責を忘れたかのように「批判もあったがNHKの判断はご理解いただけた」と「半分以上ウソ」をついてごまかした。

これを伝え聞いた横綱審議会の鶴田会長は激怒したという。

数日後、福地会長はこっそり辞表を提出して横綱審議委員を辞任した。

新聞各紙は、この辞任をベタ1段で報じたが、相撲に詳しい読者ならNHKは歴代続いた横綱審議会委員を会長が突然辞める。何故だ?と首をひねったことだろう。

NHK福地会長は辞任しなければいけないのか?こんな質問が読者からきた時、何と答えるのだろうか。

その「ごまかし会長」がNHKスポーツ部記者のタレコミ・メールでコンプライアンス」だの報道記者の再教育だのとテレビ画面で教訓をたれていた。

この尻馬に乗って放送総局長・日向英実専務理事の蠢動も始まっている。

もはやNHKの惨状は救いがたい。不本意ながら「不払い」をつづけながら「春」を待つしかないようだ。


◆10月20日(水)刊「頂門の一針」2071号の卓見録は下記の通り
です。下記から拝読のお手続きを!
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

◆<目次>
・次期「皇帝」に習近平が確定:宮崎正弘
・八方美人だが習近平氏がのし上がる:古澤 襄
・仙谷長官は自らの過去を振返れ:阿比留瑠比
・菅内閣はすぐにでも退陣を:渡部亮次郎
・『事実を曲げてでも真実追求』:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

2010年10月11日

◆NHKの林檎 腐ってないのは何個?

大谷 英彦

たまたま取り出した箱の中の林檎。1個が腐っていたら、多分ほかの大部分の林檎も腐っている。NHKスポーツ部記者の「がさ入れ通報メール」事件を私はこう見ている。

NHKの大相撲担当記者は、普段は2名だそうだ。

現役の担当記者に聞いてみた。「名古屋場所」以来の「ごたごた」で他部からの応援も来ているので「メールを送った記者は特定できませんが、それより大谷さん。福地茂雄会長が、私たちの目の前で真っ赤な嘘をついたのを知っていますか」とこの男は「思いもかけないこと」を言い出した。

日本相撲協会とNHKの関係は密接で、NHKの歴代会長は横綱審議会員も勤めている。福地会長は、その先日「横審委員」を「こっそり」辞任した。「こっそり」といっても一部新聞などには小さく出たから事実であることは間違いない。

NHKは今年の名古屋場所の中継を中止した。NHK放送史上初の中止だった。と、思ったら次の9月場所ではコロリと中継を再開。このコロリと変わる理由をいつものNHK的傲慢自己主張でとりつくろった。

しかし相手は「相撲大好き」人間の専門集団。

先日の横綱審議会は「NHKの福地は何をやとるんだ!」と福地会長が現れる前から非難ごうごう。鶴田卓彦会長は「私がみなさんの非難を集約して伝えますから、個々の意見はお任せ願いたい」と一任をとりつけ、NHK福地会長に問題点をぶっつけた。

福地会長は「中継を止めよ、という電話が殺到した・・」と弁明したが「では何故9月場所では中継を復活させたのか?」の問いにも「再開せよとの電話が殺到して・・」と答え失笑をかった。

審議会が終わり福地会長は退出。外で待ち受けていた取材陣に答えた。「2,3詰問もあったが大方は理解してくれた」

これを聞いた鶴田会長が、どう反応したかは審らかでないが、福地会長は数日後、横綱審議会に辞任届けを出し受理された。

かくてNHKの川原会長以来歴代会長が勤めてきた横綱審議会は空席となり、福地会長は、ここでもNHKと相撲の歴史に「新例」を開いた。

大阪では「ビール会社の泡男。吹けば右にも左にも」・・と言うそうですよ」と教えてくれた人がいた。

「シリーズJAPAN」の台湾の歴史の捏造をかばい。「嫌気がさして?」NHK会長辞任と報じられながら、いつの間にやら居座って・・。最近は、ご本人が「辞めると言った憶えはないと発言しているとも聞く。

こんなNHKトップの現状。箱の中の林檎はどのくらい腐っているのだろうか?

2010年10月08日

◆狂ったNHKに不払いは当然

大谷 英彦

国会の代表質問が始まった。自民党、稲田朋美さんの質問は期待を裏切らなかった。欲をいえば、あの「論理」に会議場を沸かせる「雄弁術」「アジ性」があればなあ・・と惜しむ。

それにしても衆院本会議場の中途半端な反応に「日本国」の政治家の「熱情」なんて、その程度のものなのかと暗然とした。

だが、この暗然の思いはNHKの夜7時のニュースが始まって驚愕に変わった。

NHKは夜7時のニュースを、ラジオ時代、テレビ時代を通じて「その日の森羅万象のまとめ」を受信者に提供することを社是として守ってきた。

勤労形態、通勤事情の変化で、夜7時ではまだ帰宅していない人が多いという声にこたえて「ニュースセンター9時」が創設されたのも、この社是に基づくものだ。

その6日夜7時のNHKニュース。トップのノーベル賞に続いて、代表質問第1陣の自民党谷垣の総裁の代表質問、菅首相の答弁。プラスいつもながらのNHK政治部記者の「どうでもよい」解説。

意地悪な見方でいえば、ノーベル賞は虚を衝かれたようだ。受賞者の「ナマの声」がなかった。

さて、稲田朋美質問をNHKはどう料理するか?と思っていたら、NHKは「完全に無視」して一言も一行も放送なし。

驚いた。NHKは大胆だと感心した!いや、無恥なのかもしれない。

昔、記事を黒塗りに塗りつぶした新聞を見た記憶が蘇った。NHKは、気に入らないニュースは「塗りつぶして」伝えない「検閲」を公然とやっているのだ。

天皇陛下御在位20年の夜7時のニュースで、記念祝典に続いて数十人程度の祝典反対デモを「くっつけて」紹介した。何の価値判断か知らないが、NHKが「好きなニュース」は顕微鏡程度の微細なものでも取り上げる。

歪曲、偏向である。

一方「セックスレス」を女性アナが連呼する朝番組に続いて、間もなく今月下旬から「セカンドバージン」という人気女優のベットシーンを前宣伝の売り物にしている連続ドラマが始まる。

その予告記者会見で、その主演女優は「口にするのも恥ずかしい題名」と述べ、高名な女性シナリオ作家は「まさかNHKが採用してくれるとは思わなかった」と語ったと「週刊新潮」は伝えている。

さらに同誌は「日向総局長・専務理事がセックス路線を推進」と付け加えている。

大相撲中継の無意味な中止、再開で、横綱審議委員会から「いびり出された思考レス」なNHK会長。「虚言・保身・上目づかい」のヒラメ専務理事。この人たちでは経営判断が狂うのは当然。

狂った公共放送は不要。だから私は受信料支払いをやめました。


2010年10月03日

◆問われる検察の存在

増田健一

郵便不正事件を巡る大阪地検特捜部の主任検事による押収資料改ざん事件で、上司だった前特捜部長と前副部長が、犯人隠避の疑いで1日午後9時45分最高検に逮捕された。

故意の改ざんと知りながら過失として問題を処理し、地検の検事正らに「問題はない」と虚偽の報告をした疑いによるものだ。

翌2日、最高検はすぐに動き出し前特捜部長らが勤めていた京都地検(京都市上京区)や神戸地検(神戸市中央区)などの捜索に乗り出した。最高検が「身内」を自ら捜索するという、検察組織を揺るがす事件の解明にのり出した。

怒りがこみ上げてくるのは、「法と証拠」を盾に巨悪に立ち向かう筈の検察庁特捜部が、意図的に証拠を改ざんしたこと目をつぶり、誤って書き換えたように組織的な画策の容疑が浮かび上がってきたことだ。

朝日新聞によると、<その疑惑が表面化する発端は、1月にあった元局長の初公判だった。改ざん前のディスクのデータが捜査報告書に残り、それが検察の主張と矛盾することを弁護側が指摘したのだ。

主任検事は検察の主張とつじつまが合うようにデータを書き換えており、同僚検事に改ざんの事実を告白していた。こうした情報はすぐに前副部長に伝わり、前部長にも報告された。 前部長らは主任検事から事情を聴いたものの、検事正ら上司には「問題ない」と報告していた。>という。

となれば、データ改ざんがわかった時点で検察庁内部で適切に対応していれば、厚生労働省の元局長、村木厚子さんの無実はもっと早く証明されたことは論を待たない。

どうしてそのような「法と証拠」を踏みにじり、罪も無い被告を有罪に持ち込むシナリオを描き、獄中に放り込む強権行使を行おうとしたのだろうか。

産経新聞によると<「捜査はやるかやられるかの闘い。容疑者に負けて帰ってくるようなやつは許さない」。平成20年10月、特捜部長の就任会見で大坪弘道はこう強調した。そのためか元大阪府議の弁護士による脱税事件や、音楽プロデューサーの小室哲哉を逮捕した詐欺事件など、耳目を集める事件を好んだ。

郵便不正事件は当初から大物国会議員の関与があると吹聴し、東京地検特捜部から「大阪特捜はすごい」と羨望の声を湧き立てた。華やかな活躍の陰で、部下の検事からは「ついていけない」とこぼす声が漏れた。大坪には「瞬間湯沸かし器」というあだ名がつき、佐賀にも「策士」という評価が定着。人心は離れていった>という。

早い話、逮捕された前特捜部長と前副部長らは、自己の立身出世と名誉欲、実力を誇示したいががために、権力の頂点座を利用して、「冤罪」をつくり出すことも意に介さない改ざんと組織的な隠蔽を試みたと見るのだ妥当のようだ。

余談ながら筆者は、10数年前大阪の経済事件の参考人として地検特捜部検事から事情を聞かれたことがある。聴取されたことは、事件に関わった複数容疑者の業務範囲や容疑事実の証拠証言だった。しかし同事件には筆者自身全く埒外にいたので、特捜部が期待する証拠を証言することは出来なかった。

後になって感じたことだが、特捜部の捜査には最初からしっかりした「捜査シナリオ」が組み立てられていたということだった、そのために参考人にも証拠証言の聴取に全力を傾注していたことを実感した。しかも参考人とはいえ、特捜検事と向かい合うことには極度の緊張を憶え、同時に「権力」の実態を窺うことができたことを思い出す。

今回の事件は、検察の「正義」を自ら否定したものであり、検察組織の中で「ヒーロー」とされてきた特捜部が、「解体」さえ招きかねない重大な危機に立たされている。
検察は、捜査結果をつぶさに国民に知らせ、検察自体の抜本改革を進めなければならないのだが、出きるだろうか。     2010.10.02