2009年10月05日

◆終焉の大切さ

               仲村友彦
<本稿は、10月6日刊の全国版メルマガ「頂門の一針」1691号に掲載されました。「頂門の一針」の購読希望の方は、末尾の手続きで。>


◆本欄掲載の毛馬一三氏の「運命の子・愛犬逝く」を読んだ。その途端、胸が打ち震え、溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。

毛馬氏は、愛犬「ももちゃん」がこの世を去って行く時、余命の力を振り絞って飼い主の毛馬夫妻へ「感謝の意」を必死に訴えた凄まじい光景を書き綴っている。「生きとし生ける者」の最後とは、こうした「別れ」をして逝くものなのだろうか。

実は私も、まったく同様の経験をしている。とめど無く流れる涙のわけは、「ももちゃん」のことと、7年前に亡くした家内の終焉とが全く重なり合ったからだ。

7年前のこと、家内が以前から患っていた「胎癌」が終末を迎える事態となったため、掛かりつけの神戸六甲にある病院に入院させた。

入院直後に余命1ヵ月余しかないと主治医から宣告された私は、目の前が真っ暗になり、悲嘆のどん底に突き落とされた。2人で築き上げてきた掛替えのない絆は、この「病魔」によって呆気なく破滅させられるのか。胸が軋み、生きる力も途絶えそうになった。

だが刻々と死期が迫る家内に、そんな気力が失せた私を見せるわけにはいかないと考えた。家内とは最後の瞬間まで出来得る限り共に楽しく語り合いたいと願い、家内のベッドの傍に寄り添い、手を握り合って寝た。職場通勤もここからの往復に切り替えた。

夜中私に話しかける家内は、自分が居なくなったあとの暮らし方を優しく助言したり、日常品・貴重品の在り場所を書いておしえてくれたりした。入院後2週間経つと、私が傍に居ても眠り込む時が増えだし、暫くすると意識が時折途絶えるようになってきた。

3週間ほど経った9月のある日曜日のこと、「異変」が起きた。「痛み止のモルヒネ」の「点滴」をした寝たきりの家内が、なんと「外に出たい」という。六甲山の山並みが迫り、山おろしの風も吹き寄せる病室の「ベランダ」でいいのかなと思ったら、そうではなかった。

「お父さん、病院の庭に連れて行って!」と言うではないか。「草木の匂いを真近かで嗅いでみたいし、大地をこの指で触ってみたい」と説明する。主治医の許可を貰い、「モルヒネの点滴」をしたまま「車椅子」に乗せて、6階の病室からエレベーターで1階に降りた。

広々とした庭からは、六甲山の起伏に富んだ山並み一望出来、秋の日差しが降り注いでいる。庭にはハギ、オミナエシ、キキョウなど秋の七草や紅葉の木々の息づかいを確めて居るようだ。車椅子から秋の香り嗅ぐ様子を見てながら、私はこぼれる涙を止められなかった。

家内は、庭の景色を楽しんだあと、私の支えで体を屈めながら、指先で庭の草花を触り、草花の感触を楽しんだ。20分ほど散策したあと、病室にもどった。ベッドに寝かす時、満足気でこんなに晴ればれとした家内の表情を見るのは入院後初めてだった。

その数日後から家内は昏睡状態となり別の個室「集中治療室」に移された。兄弟姉妹たちも駆けつけ、別室に「仮眠室」をとって待機する緊迫した時間が始まった。

10月1日の深夜、「心電図」に異変が確認されだしたことから、主治医が家族を呼び集めた。「お母さん!姉さん!元気出せ!」と呼びかけた瞬間、昏睡の家内がゆっくり両眼を見開いたのだ。

家内はベッド横に緊張して佇む親族一人ひとりを見渡したあと、最後に私の方に向き直ってじっと見詰め、酸素マスクの下からはっきりとした声で言葉を投げかけた。「お父さん、ありがとう」。そう一言いうと再び昏睡し、3時間後帰らぬ人となったのだ。54歳の早世だった。

「生きとし生けるもの」の終焉とは、こうなければならないのだろう。毛馬氏の愛犬「ももちゃん」も最後の力を振り絞って庭に降り立ち、「不浄」を済ませた後、「自然の匂いと土の感触をたのしみ」、毛馬氏の奥方に「感謝と約束の履行」を目で訴えたのち、息絶えている。やはり、「恩義」に心から「礼」を尽くしている。

人間はもとより、生きものの「愛」とは、こんな世界なのだろう。「ももちゃん」の終焉の様子を知り、7年前のことを思い出しながら、筆を執ってみた次第。「ももちゃん」、天国に行ったら家内を探してほしいな。(完)

◆私が感涙した毛馬一三氏の「運命の子」愛犬逝くーは下記からご覧ください。
 http://hyakka.seesaa.net/article/128505213.html

◆「頂門の一針」平成21年10月6日(火)1691号の
<目次>

・眠れない時は牛乳を:永冶ベックマン啓子
・中川昭一氏の死因は?:石岡荘十
・日本は黙契・信用社会:平井修一
・中国の杜撰な文化事業:宮崎正弘
・荘厳なる 終焉:仲村友彦

・話 の 耳 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
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2009年10月04日

◆中川元財務相が自宅で死亡

○ベッド上、遺書はなし  <共同通信>
 
自民党の中川昭一元財務相(56)が東京都世田谷区下馬の自宅2階のベッドでうつぶせになった状態で死亡しているのが4日、見つかった。警視庁世田谷署などによると、目立った外傷はなく、事件の可能性はないとみられる。同署が死因などを調べている。自宅からは遺書のようなものは見つかっていない。

警視庁によると、中川氏の妻が同日朝、中川氏が起きてこないため、様子を見に行ったところ、ベッドでぐったりしているところを発見。同日午前8時半ごろに119番した。

中川氏は麻生内閣で財務相兼金融担当相に就任。今年2月にローマで開かれた先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)閉幕後、もうろうとなった状態で記者会見して批判を受け大臣を辞任、会見前の飲酒も発覚した。

8月の衆院選では北海道11区で民主党の候補に敗れ、比例代表での復活もできず、落選した。

中川氏は元農相の故一郎氏の長男。東大卒後、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に勤務したが、1983年1月に一郎氏が札幌市内のホテルで死亡し、同年12月の衆院選に立候補、初当選。8期連続当選し自民党政調会長、農相、経済産業相を務めた。

2009年09月27日

◆久しぶりの「奈良散策」


               毛馬一三

長男夫婦に誘われて、久しぶりに古都「奈良」近郊を散策してきた。10年振りの「奈良」行きだったが、近郊集落の古き萱葺きの農家はすっかり消え失せ、秋口に撓む稲穂の波や実った農作物の姿も見ることも出来ないのに驚いた。

何とその辺りは中高層マンションが立ち並ぶベッドタウン化しているのだ。まち中を繋ぐ道路は、都会以上の完全舗装で、道筋には洋食レストラン、コンビニ、大型スーパーなどが軒を並べている。古都「奈良」を支えてきた古色豊かな近郊の里の姿は、今やない。市街化の波がこの近郊の地まで襲ってきたのか。これでいいのだろうか。 

そんな思いをしながら、近郊を回った後、奈良県香芝市上中787−1にある「おはぎ屋」に向かった。知る人ぞ知る有名な「おはぎ」屋だそうだ。「おはぎ」に目がない筆者だが、不覚にも「奈良」にそんな処があるとは知らなかった。「奈良の昔の味」に出会えるのなら、それこそ最高と気持ちを切り替えた。

午前中の早い時間に店に行かないと目当ての「おはぎ」は売り切れてしまうという。「おはぎ」の老舗「大和紅之屋」を着いた。こじんまりとした店の前には、まだ午前10時前なのに、なんと長蛇の列の客が並んでいる。

北海道産十勝小豆と兵庫県三田産のもち米を使い、日本古来の製法で丹念に手作りする、昔ながら「おはぎ」だそうだ。30分ほど立たされて待った意地もあって、10個入り、6個入りをそれぞれ2箱、店頭にあった店特産という「赤飯」も3個買った。食した感想は追々―。

「おはぎ」を買ったあと、「奈良」の古寺や旧跡を回りたかったが、今回は「生もの」を買った所為もあって、遠方へ回る散策コースを諦め、古都の雰囲気を残しているという少し離れた「天然温泉」・大和―神の牧温泉の「虹の湯」に向かった。

ひと風呂浴びたあと、木々に囲まれた景色を眺めながら昼食を楽しめば、少しは「奈良」の気分に浸れるかなと思ったからだ。

700円の入場料とタオル代200円を払って脱衣所に入る。風呂場に足を踏み入れてお湯で体を洗い、まず「ジェットバス」の流水で体をほぐした。秋の日差しが差す室外に出ると、自然の岩と樹木を囲まれた大型野天風呂が幾つも見渡せる。檜風呂、信楽焼きの大壷湯、巨大な岩に囲まれた岩風呂、一人で楽しむ伝来の五右衛門風呂。

他所には滅多に無い頭上から滝の湯が流れ落ちてくる「打たせ湯」。それらを一通り回ると、体がほてりだして、血行がよくなるのを自覚する。 泉質は、高濃度ナトリュームと塩化物温泉だという。風呂の数は、野天風呂合わせて男性19・女性18もあり、湯の力がゆったりとした気分と新しい活力を引き出してくれそうな感じだ。

さて、温泉を堪能したあと昼食をとり、急いで帰途に着いた。帰宅すると家族全員で早速、「おはぎ」を食してみた。柔らかさと甘みが最高。まろやかな酸味も口内全体に広がる。昔ながらの懐かしい田舎おはぎ味の醍醐味だ。こんな素晴らしい「おはぎ」が奈良で受け継がれていたのか。「お赤飯」にも箸をつけてみたが、これも風味と舌触りに文句なしだ。

今回の「奈良」散策は、意外なまちなみの風景を目撃し衝撃を受けたことはたしかだ。だが、昔ながらの「おはぎと赤飯」を求められたことや、「奈良」の雰囲気を味合わせてくれた「温泉」に漬かれたのは、一興だった。

そういえば、今回の散策地の先には、聖徳太子の五重の塔や万葉の道がある。今でも古代の香りを精一杯匂わせてくれる名所だ。今度は、本場の「奈良」を訪ねてみたいものだ。(了)
                         09.09.26



2009年09月18日

◆薩摩藩の奄美・琉球侵略400周年

仙田隆宜


<本稿は9月18日夕刊の全国版「頂門の一針」(1674号)に掲載され、全国に発信されました>

奄美の島々の人間として忘れてはならないのが、400年前の「1609年」です。1609年に何があったのか。おそらく多くの人たちは、この年から奄美で始まった「歴史的事実」をご存じないでしょう。

そこで、1609(慶長14)年の3月4日のことです。

薩摩藩の総大将樺山権左衛門久高が、副将平田太郎左衛門尉増宗と共に、軍船100余艘、兵3000人を率いて薩摩藩の山川港を出帆しました。

3月7日に同軍は、奄美大島笠利に到着。龍郷湾、焼内湾、瀬戸内と大島各地を攻め、奄美大島との戦闘を始めたのです。

大島を攻め落とすと薩摩軍は、勢いに乗って同20日に徳之島・秋徳港(現在の亀徳港)に侵略。ここでは島民の必死の抵抗による戦闘が繰り広げられたのですが、大軍には勝てず、島民数百名の犠牲者が出て敗れました。

その後、薩摩軍は沖永良部を経て、沖縄・運天港に至り、さらに南下して首里・那覇での攻略の末、4月4日に沖縄を攻め落としています。

この1609年の薩摩軍による侵略以降、奄美は苦難の歴史を歩むことになります。いや近世以降も同じ苦しみの中にあったともいえるのです。

薩摩藩が奄美を狙った、藩をあげての戦略には、奄美特産の黒糖に目をつけたことが上げられます。1745年には税の貢租換糖上納、1777年には第1次砂糖惣買入れ制、第2次(1818年)、第3次(1830年)と、相次いで奄美黒糖を独占する強硬策を敢行し続けたのが、何よりの証なのです。

この奄美の人たちへの圧制と経済的な搾取はあまりにも悲惨で、このために奄美は止む無く薩摩に屈せざるを得なくなったのです。

この「水も漏らさぬ」徹底した黒糖収奪により、自藩の藩政基盤を築き上げた薩摩藩は、幕末には天下の雄藩として名を馳せ、明治維新の旗手となり得たのです。

つまり、薩摩藩が明治維新でリーダーシップを取れたのも、奄美の植民地支配に手を付けたことが大きな要因である「歴史的事実」が浮かび上がってくるのです。

明治になっても「黒糖収奪の基本的な構造」を変えようとせず、さらに1868年から50年間、奄美独立経済論という「差別政策」を続けて遂行してきています。

ところが、こうした薩摩藩による奄美植民地支配の歴史は、今日の鹿児島県で語られることはほとんどなく、歴史の闇に葬り去られています。

私たちは、薩摩藩による奄美・琉球侵略400年目の今年を捉えて、この「歴史的事実」としっかり向かい合い、専門的な研究による具体的な検証の検討を始める必要があると考えたのです。

このため、2009年10月3日(土・旧暦の8月15日・十五夜)、午後2時から鹿児島県の県教育会館3階大ホールで、『薩摩藩による奄美・琉球侵略400年記念・奄美の未来を考える集会』を開催することしました。

つまりこの『集会』では、私たちの400年にわたる祖先の無念に思いを馳せ、同時に、未来を生きる奄美の次世代の人たちに輝かしい希望と生き甲斐の道を示そうと企画したものです。

私たちは行政や特定の団体の支援を得ることなく、奄美に関心を寄せて頂く多くの賛同者が集って、こうした歴史を振り返るシンポジウムをはじめシマウタ・踊りを楽しむ会等を実施し、「奄美の歴史を正しく知って貰う」会合として、奄美の人々は勿論、鹿児島県人、全国の方々にも訴えたいと思っています。

どうかこの趣旨にご賛同頂き、この集会に多くの方が参加してくださるよう願っております。(完)

『薩摩藩による奄美・琉球侵略400年記念・奄美の未来を考える集会』実行委員会・委員長

詳細チラシ(PDFファイル)←クリックして表示



◆全国版「頂門の一針」夕刊.1674号の記事内容は、下記の通りです。

 同号<目次>

・習近平の次期総書記、国家主席が確定:宮崎正弘
・時代錯誤の情報統制:平井修一
・矛盾だらけの3党合意:丸山公紀
・薩摩藩の奄美・琉球侵略400周年:仙田隆宜
・全てを自力でのアメリカ人:前田正晶

・話 の 耳 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

・ 訃報:伊藤竹美君

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2009年09月17日

◆山科だより「西野山」


             渡邊好造


平成20年(2008年)6月に開通した阪神高速京都線の鴨川東IC(京都市伏見区)から東へ、稲荷山トンネルを抜けると山科の”新十条通り”に出る。”新十条通り”は、東海道新幹線と国道1号線(五条通り)に平行した南約1キロの位置にある。

その両サイドには、”西野山(にしのやま)”と名のつく町名が10。その西側は山地であったため”西山”といわれていたのが、”西之山”となり、”西野山”となったのは江戸時代17世紀後半らしい。

”西野山中臣町(なかとみちょう)”は、大化の改新(奈良時代・645年)で有名な中臣鎌子(のちの鎌足=614〜669年)に所縁の地名で、ここには「折上稲荷神社(おりがみいなりじんじゃ)」がある。

女性の長寿と開運、商売繁盛の神で、とくに祇園の芸妓ら働く女性の守り神として有名。伏見区にある「伏見稲荷神社」と同じ神がここ折神の森”稲荷塚”にも降臨したといわれ、和銅4年(奈良時代・712年)に社殿が建立された。6月第1日曜が稲荷祭。家内安全の長命箸が授与される長命祭は12月13日。

中臣鎌子が病に倒れ、天智8年(669年)、夫の病気平癒を願った夫人が邸宅内に”山階寺(やましなでら)”を建てた。寺は後に奈良平城京に移転し、現在も残る世界文化遺産「興福寺(こうふくじ)=法相宗」である。京都薬科大学の東側(御陵大津畑町)の石材屋の一角に「山階寺跡」の石柱が建てられている。

この頃の山科は”山階”の字も多く使われていた。"科"と"階"は、どちらも"層が重なる斜面"の意味で、山科が北の山から南へ"下り斜面"になっていることを示すらしい。

”西野山岩ケ谷町(いわがたにちょう)”に「山科神社(別名・西岩屋大明神)」がある。本殿は室町後期の建築で京都市指定有形文化財である。寛平9年(平安時代・897年)に第59代宇多天皇(在位887〜897年)が創建した。10月10日が山科祭。

”西野山欠の上町(かけのうえちょう)”の「花山(かざん)稲荷神社」は、創起が延喜4年(平安時代・904年)。元「西山稲荷神社」だったが、第65代花山天皇(平安時代・在位984〜986年)の加護にちなみ”花山”に変えられた。11月第2日曜日に御火焚祭が行われる。

「岩屋寺(いわやじ)=曹洞宗」は、”西野山桜ノ馬場町(さくらのばばちょう)」”にある。赤穂浪士・大石内蔵助が仇討ちの大願成就を祈願しながらこの地の一角に隠棲し、計画を練った。「山科神社」の奥の宮(神宮寺)だったが、その後独立している。”山科義士祭”の終着点で、義士らの木像があり、別名・大石寺という。平安時代初頭の創建らしい。

大石が山科に隠棲したのは、大石が”西野山”出身の赤穂藩士・進藤源四郎の縁戚であった関係で、進藤が身元保証人となり居宅が建てられた。進藤が仇討ちに参加しなかったのは、大石と意見が合わなかった、失敗した時の予備軍だったなど諸説がある。

この大石居宅の西北、滑石越(すべりいしごえ)にはゴルフ場やテニス・クラブがあり、ここからの山科の眺望は素晴らしい。さらに進むと京都東山の”今熊野”に通じていて、遊里”祇園”への大石内蔵助の密かなルートだったという。

大石内蔵助を偲んで昭和10年(1929年)に「岩屋寺」と同じ住所に建てられたのが「大石神社」で、赤穂義士伝などで一躍人気浪曲師となった2代目・吉田奈良丸(昭和4年に吉田大和之丞に改名)が浪曲界などに募金を呼びかけて完成した。

奈良丸は、明治12年(1879年)生れで、明治43年(1910年)のレコード(78回転のSP盤)総生産枚数34万枚の内20万枚、翌年には67万枚の内50万枚という当時としては驚異的な売上げを記録している。収益を各地に寄進した功績もあり、亡くなる前年の昭和41年(1966年)に勲五等双光旭日章を受賞した。

筆者が、昭和20年代大阪の小学校在学の頃、父のコレクシヨンにあった奈良丸の義士伝「神崎与五郎東下り」の見事なリズムと美声を手回し蓄音機で何回も聴いた。

この時、大石内蔵助所縁の山科に永住することになるとは、、。大阪への通勤時間の長さや気候の差(夏は蒸暑く、冬は寒い)などに戸惑ったこともあったが、”住めば都”。都会の一角にありながら四方を山々に取囲まれ、自然と歴史を満喫させてくれる。そんな風情ある所が、『山科』である。(完)


2009年09月09日

◆アメリカで感じたこと(四)


                   杉原行幸

この編の終わりに当たり、書き残したことを少し書き足してみたいと思います。

アメリカ人は旅行者には親切です。道は丁寧に教えてくれます。教えた後も良く見守ってくれていて、間違った方向に行くと大声を出して再度教えてくれる人もいます。

フィラデルフィアで、「日本庭園」を見に行く途中、公園で会話を楽しんでいる黒人3人に道を教えてもらった時のことです。探しあぐねて戻ってくる私を見つけ、車で連れていってくれると言って案内してくれたのです。

知らない人の車に乗るのは怖くなかったのか、と言った友人もいますが、いかにも人の良さそうな顔つきでしたので、不安は全く感じませんでした。
 
ところが、行ってみると生憎「日本庭園」は定休日だったのです。諦めずにノックをして、出て来たガードナーに「日本からわざわざ見にきた」と言うと、「OK」といってすぐ招きいれてくれました。手入れの苦労話などもしてくれて、フレンドリーそのものでした。このような例は枚挙に暇はありません。見知らぬ人にも親しく振舞う陽気さは、アメリカ人特有なものです。

その反面、訴訟社会の厳しさも聞きました。友人が開いてくれたパーテイで、私が「豚インフルエンザの話」をした時です。学校閉鎖で働く母親たちが子供の世話に困った末、交代で会社を休んで近所の子供たちの世話をしたという私の話を聞いた一人が、吃驚したように皆に「聞いて、聞いて」と叫びました。アメリカでは考えられないというのです。もし怪我でもさせたらどうなると聞きます。

数日あと、たまたま雑誌で弁護士の広告一覧を見ました。日本の医者のように専門が分かれていて、家族法とか、労働関係や個人の補償問題とかセクシャルハラスメントなどをアピールしています。

彼らは自分に依頼すれば、どれだけ補償金が取れるかを競って宣伝しているのです。被害を受けた人々が大目に見ることをせず、訴訟を起こす成り行きに発展するのも頷けます。

銃砲所持禁止についても、アメリカでは、日本人には想像できないほど強い抵抗があります。表面的な親切やフレンドリーな態度と、「自分で自分を守るという最後の砦」とは全く違うということを考えさせられます。

私とアメリカ人の友人とは外国人同士の珍しさもある表面的なものでしょうが、本当に親しくしてくれている感じる時もしばしばです。でも何かトラブルが起きた時、果たしてどうなるのか、頭の中では判る気はしますが、実感は湧きません。

私はアメリカ人を中心に外国の友人たちに、この原稿と同じくらいの長さの日本文化紹介を毎月1回英文メールで送っています。伝統行事や芸術などの記事にも関心を持ってくれますが、それよりも日本人の考え方や行動様式により多くの興味を示すようです。

一番反響があったのは、「七夕の紹介」に関連して日本人が木の枝などに、短冊を結びつける習慣があることに触れた時でした。福岡市で道路拡幅のため花のシーズンを前に、桜の樹が伐られることになったのを悲しんだ人が、市長あての短歌を枝に吊るしました。

せめて満開を過ぎるまで伐るのを許し給えと訴えたのです。進藤一馬市長は返歌をしたため、愛好家の心を賞で伐採を延期しました。桜の枝は、美談として新聞で報じられた直後、多くの市民の短冊で覆われました。

結局、その桜の樹は他の場所に移植され「檜原の桜」として今でもシーズンに
なると多くの和歌、俳句が枝に吊るされるそうです。

この日本人の優雅さ、平和的な解決法、自然を愛する気持ちなどを綴った「日本人の考え方や行動様式の文章を高く評価した反響メールが、各国から沢山寄せられました。アメリカ人も、できれば平和的な方法で物事を解決したいと思っていることに変わりないと感じさせられたのです。

夏の風物詩として「浴衣」を紹介した時も、そうでした。合わせて披露した「日本人の消夏法、食べ物の盛り付けや風鈴など五感で涼しさを感じさせるやり方」にも、共感が寄せられました。

年中行事も、行事そのものの珍しさより、日本人が季節を大切に自然を愛する気持ちや、祖先を敬う心根に共感を抱くようです。

それぞれの国の文化はさまざまであり、理解と敬意を持つことは大切ですが、すべてを判り合うことは難しいでしょう。しかし人間の底にある心情には変わりがないことを文化紹介の反響で感じました。

今回の「旅」で経験した様々なことが、これを確認した結果となったことは、私にとって一番の収穫でした。

最後に書き添えますが、NYの近代美術館では圧倒されました。想像を絶する発想のあらゆるアートが並べられていました。

人間は長い歴史の蓄積の上に、思いもつかぬ発想を出現させるクリエーテイブな存在であることを痛感しました。各国の長い歴史から生まれた伝統文化の大切さは勿論ですが、人間はさらに新しいものを生み出していくのです。

年に1度、例えばグランドキャニオンの壮大な景観に計り知れぬ自然の偉大さを感じとり、NYの近代美術館で人間の想像力の無限の豊かさに目を開くのも、自分を再生させるのにいいものだと思い、健康が許せばこうした「旅」を続けたいと念じています。(終)
       (1級ファイナンシャルプランニング技能士)



2009年09月08日

◆アメリカで感じたこと(三)



杉原 行幸

アメリカの「旅」の続きです。今度は、美術館や博物館廻りに多くの時間を費やしました。現在の経済実態もさることながら、この国の文化的インフラや考え方、またどんな人々がどんなふうに鑑賞しているか、その様子に興味があったからです。

印象的だったのは、中規模都市でも科学博物館、歴史博物館が非常に充実していて、展示も興味を引くように工夫が凝らされており、子供たちが手にとって実感できるようになっていたことです。

フィラデルフィアの中規模科学博物館「プリーズタッチ・ミュージアム」は、子供たちが競って触り、楽しんでいました。科学的なものだけでなく、スーパーでの買い物体験や、賞味期限の見方など、日常生活体験のコーナーがあるのも新しい試みだと思いました。

日本と違うのは医学というか、体の仕組みについての展示が多く見られたことです。

ミネソタ州ミネアポリス市の住宅地にある小規模な科学博物館では、リラックスするとエネルギーが強くなるという、面白く、わかり易い実験が大人気でした。2人が向かい合って座り、真中に金属のボールが置いてあって、リラックスした人の方からエネルギーが発生してボールが相手の方へ転がり落ちるというものです。

しばらく行きつ戻りつのあと、一気に決着がつく人、はじめから一方的な人など様々で、不思議に思いながらも、頷き合っていました。小規模なスペ−スでも、こうしたやり方で子供たちが楽しんで、知識を得る方法があるのだと感心しました。

規模の大きさ、展示物の巨大さと豊富さは驚くばかりです。以前シカゴの科学博物館を見てその凄さに驚きましたが、今回はワシントンDCのスミソニアン博物館群はもちろんのこと、中規模の都市でも素晴らしい内容と幅の広い展示がされているのにはあらためて感心しました。

ワシントンのスミソニアンは19の博物館がすべて無料です。それがアメリカに一度も行ったことのないイギリス人篤志家の寄付を基金として、連邦政府の保証する年4,5%の利子によって運営されています。民間でも、マスメデイアに特化したNuseumというMuseumなど新しいものが加わっています。

中でも宇宙開発はアメリカが最も誇るべきものであるとともに、夢を与えるものとして力を入れています。

2003年に、ダレス空港の近くに航空宇宙博物館の新館が出き、今まで展示できなかった巨大な展示物が開陳されました。ライト兄弟からリンドバークの大陸横断飛行を一幕目として、2回の世界大戦で名を覇せた「零戦」など各国の飛行機、3幕目の月着陸をはじめとする宇宙開発は人類の夢の歴史と未来を見せる展示としてさらに充実すると思います。

異文化に対する理解も大きな特色です。アフリカの芸術、アメリカインデアンの文化、ポートランドの大規模な日本庭園やチャイニーズガーデン、フィラデルフィアの小規模ながら日本人でも感銘を受ける日本家屋と庭園などは異文化に対する理解と敬意を感じさせます。

大戦でアメリカに貢献した日系人兵士の祈念公園やアイルランドなど各国移民の戦士の追悼碑なども、多様なルーツを持つ人々への敬意のあらわれだと思います.

アメリカは新しい国ですが、それだからこそ歴史的なものを大切にしています。また、マーチン・ルサー・キング、ケネデイやオバマなど最近の人物も登場しますが、歴史は毎日作られるという考え方に立っているということです。長い歴史の検証を経ないと歴史上の人物にはならないという日本と少し違います。

大きな特色は、アメリカ人は自由を獲ち得るためにどれだけの血をながしたかということで一貫していることです。イギリスに対する独立戦争、南北戦争、ナチス、日本帝国主義との戦い、ベトナム戦争。

流石にイラク戦争はありませんでしたが、アメリカは自由を得るために闘ってきたということが、いやがうえにも強調されています。そして、それに身を捧げた英雄たちであるジョージワシントンをはじめとする建国の勇士、アブラハム・リンカーン、マーチン・ルーサー・キングなどがクローズアップされ,国民共通の尊敬する対象となっているのです。

子供のころからこういう話を聞き、展示を見て育ったアメリカ人の歴史観、愛国心がイラク戦争の初期、ブッシュに対する圧倒的な支持となって現れたのもわかるような気がします。

それに対し、長い歴史の中で、専制君主の圧政や外国の侵略に合うこともなく建国の起源にさえ議論がある日本で、子供たちの正しい愛国心を植え付けるのは難しい点があるかもしれません。

これだけ民族に対する歴史の試練を受けていない国は世界でも稀だからです。唯一の被爆国として、また美しい自然と四季に恵まれた国として、平和と地球を守ることを中心に据え、国を愛する心を育てることだと思います。
 
スミソニアンには、世界の展示場で日本についても真珠湾攻撃、南京大虐殺、広島、長崎の悲惨な被爆写真、ヒトラーと並んで東條英機の写真も展示されています。世界中の人々がこれを見に来ているのに、日本ではアメリカと戦争したことさえ知らない子供たちがいるというのは、世界の常識からは不思議に思えるでしょう。

アメリカでは、たとえばホテルのフロント、コンビニのレジなどで全員が同じ肌の色というのは稀なことです。

多様な民族と格差を抱えながら人口を増やし続ける先進国、複雑な国際情勢の中で反米の非難も浴びながら黒人系の大統領を生み出し、大国としての責任を果たさなければならないアメリカは、問題山積ながらも偉大な国と言わざるを得ないと感じました。(続く)
                     
<1級ファイナンシャルプランニング技能士>

2009年09月05日

◆アメリカで感じたこと(二)


              杉原行幸

今回の旅で感じたかったことのひとつは、アメリカ経済の実態です。経済統計やメデイアで報じられていることでは、理解できていても、見た目、実体験ではどうかということでした。

結論からいえば、聞いていたほどは、見た目の方が景気は悪くないように思われたことでした。

もちろん旅行者として見る部分は一部であり、正しいかどうかはわかりません。しかし、訪問した8都市とも、レストランも路上のカフェも人で溢れていました。特にNYのソーホーでも日本のユニクロなどはレジが長蛇の列でした。

ファッション性のあるデザインを手ごろな値段で提供しているユニクロは人種を問わず人気があり、ロゴ入りのTシャツが飛ぶように売れているのは、日本では考えられないことです。
 
アメリカ人のいろんな友人に聞いてみました。銀行マン、大学教授、医師、彫刻家、看護師、語学教師の方々です。人によりニュアンスは違うものの、それほど悪くはなく改善の方向に向かっているという感じでした。ほとんど乗らなかったタクシーの運転手も、先行きにそう大きな不安は抱いていないようでした。

次のような質問もしてみました。

「アメリカも日本も経済大国ということになっているが、落とし穴がある。相対的貧困率という統計を見ると、先進20カ国の中でアメリカが最悪で、日本がそれに続いている。これは貧困層の総人口に占める比率で、貧困層とはアメリカで年収20,000ドル、日本で年収200万円以下の家族を指している。両国とも中間層がだんだん落ち込み、貧困層が急激に増えつつある。どうだろうか」

これについて友人も認識していました。しかも問題なのは以前の貧困層は、教育を受けていなくて職がなかったが、今の貧困層は皆教育を受けている人だと指摘した人もいました。日本でも戦前賀川豊彦が小説に書いた、貧困層と今の貧困層を対比すると同じことが言えます。

私のアメリカの友人たちはいわゆる中間層で、皆広い家に住み、テラスで食事をしても緑に囲まれおり、隣の家は見えませんし、如何にもたくさん食べそうな大きな犬を2匹くらい飼っていて、夏はバカンスを楽しんでいます。

中間層は減っているといっても実感は沸きませんが、子供には金がかかり、日本に行きたいが、海外旅行はそう頻繁にとはいかないようです。

グレイハウンドという長距離バスにも乗ってみました。アメリカでは利用する交通手段、飛行機、自家用車、列車、長距離バスによって年収がわかると聞いたことがあるからです。

確かに80%はアフリカンアメリカン、残り20%の白人やヒスパニック、アジア系の人々もリッチとは思えない人でした。ワシントンーアトランタ間を4回乗り換え、14時間乗って8.700円は確かに安いと思います。

しかも、バスは平穏で特に用心するような雰囲気はありません。若いアフリカンアメリカンの人が、腹が空いたが何か食べるものを持っていないかと聞いたので、持っていたパンをあげました。別に気持ちが悪く感じるほどのやりとりではありません。

確かに、黒人は白人に比べて貧困層が多いのは事実です。しかし社会不安に繋がるようなことはなく、道を教えてくれと頼んだ時、ダラーと手を出す人がたまにいる程度です。

肥満も、貧富の差を計るバロメーターのようです。貧しいと毎日の食事は安く、調理が簡単なジャンクフードやファストフード、揚げ物中心になるわけです。

食糧配給切符(フードスタンプ)に頼っている家庭は、州政府も予算が乏しいので、このようなものを食べさせられることになるのです。確かに長距離バスの乗客は肥っている人が多いのは事実でした。

ミネソタでキャンプにも行きましたが、キャンプサイの使用料の安さ、自家用車で牽引するキャンピングトレーラーの安さなど、アメリカでは安くレジャーを楽しむ環境が備わっていることにうらやましさを感じました。

話を聞くと、確かにキャンプの費用は貧困層でも出せる範囲ですが、彼らは給料が安いため仕事を2つ持っていたり、仕事探しに追われてなかなかキャンプを楽しむゆとりがないということでした。

全体として見た目は恵まれていても、実態の貧富の差はいろいろなところに埋もれているようです。経済が全体として良いか悪いかということもですが、格差問題が世界を通じて直面している課題だと痛感した次第です。(続く)
(1級ファイナンシャルプランニング技能士)

2009年09月04日

◆アメリカで感じたこと(一)

               杉原行幸

この夏、7月10日から8月11日までアメリカに行ってきました。地上から見た国土と貧困層の実態を知りたいと思う気持ちから、今回の「旅」は敢えて列車と長距離バスを利用しました。

話には聞いていましたが、まず驚いたのは、セキュリティーチェックの厳しさです。ニューヨークのホテルではエレベーターの乗る都度、部屋カードを提示しなればいけません。さらに驚くことは、来たエレベーターにすぐ乗ってはいけないのです。

来たエレベーターに、降りたい階を押すとアルファベットが表示され、そのエレベーターに乗ると指定の階で泊まります。違うエレベーターに乗ると指定の階には停まりません。内側にはスイッチがないので途中で変更できず、また1階まで逆戻りです。

あとから「つけてくる人」を乗せないためだと思います。ホテル内の公衆トイレもセキュリテイカードをもらわないと勝手には使えません。

博物館も、劇場も、スポーツ施設も人の集まるところでは、すべて厳重な持ち物検査があります。ジッパーもすべて開けさせられ、飲み物はボトルごと捨てさせられます。

良いコーヒーを入れて持っていた私の魔法瓶が、何と魔法瓶ごと捨てさせられました。後で拾いにいったらあったので、胸をなでおろしましたが、見学の際は絶対「手ぶら」がお勧めですね。
 
コインロッカーは指紋照合式です。昨年行った時は長い数字の暗証番号が出てきて開ける時に入力するのに暇がかかったので指紋の方がましですが、いずれにしろ手間がかかります。

ミネソタ州のミネアポリスなど、人口40〜50万の町ではそこまで厳しくはありませんでした。州によって違うのか、テロの標的になりやすい場所が特に厳しいのかはわかりません。また、列車や長距離バスはフリーパスなのは不思議でした。テロの対象にならないと考えられているのでしょうか。

警戒が厳しいのと、ニューヨークなど街をあげて改善に努めた結果か、治安は以前より良くなっている感じでした。タイムズスクエアなど以前はポルノやいかがわしい客引きがいて猥雑で危ない感じがしたものですが、今は大阪の難波よりも清潔に思われます。地下鉄も以前は脅かされていた先入観もあり、乗客も怖そうな人が多いと感じましたが今は清潔で乗客もごく普通の人ばかりです。
 
一番変わったのはハーレムでしょう。以前は路上にアフリカン系の黒人が座りこんでいたり、歩いている人も黒人が殆どでしたが、今は白人の観光客であふれ、ハーレムの特異性はほとんど感じられません。呼び方は忘れましたが、ハーレム独特の建築様式や教会のゴスペルを売り物に観光地化していて怖いもの見たさにハーレムを訪れていた時とは様変わりです。

黒人に対する白人の感覚も変わり、フィラデルフィアの博物館ではRACEというテーマの展示がありました。なぜいろいろな種族が発生したのかということや民族によって優劣はないという解説など偏見を否定する展示です。

歴史博物館ではどこでもマーチン・ルーサー・キング牧師は英雄です。しかし人種差別がなくなったか、黒人の貧困が解決されているかということはまた別問題のようです。

今までの戦争はどんなに残酷なものであったにせよ、いつかは終わっていました。しかしテロとの戦いは9.11から8年たった今日でもまったく見通しがたっていません。

セキュリティーチェックがなくなる日がいつ来るのか、答えられる人はいないでしょう。憎悪の火を消すことはいかに難しいことかをつくづくと感じました。<続く>
          (1級ファイナンシャルプランニング技能士)

◆本日刊・全国版メルマガ「頂門の一針」1659号をご高覧ください。

<同号目次>
・小沢幹事長で権力の二重構造が強まる?:古澤 襄
・官僚は活用しても主導はさせるな:前田正晶
・広島・長崎への原爆投下の真実(7):岡崎渓子
・青息吐息の新聞業界:平井修一
・下駄屋の内儀歌手「音丸」:渡部亮次郎

・話 の 耳 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年09月01日

◆山科だより「日ノ岡」

              渡邊好造

京都の中心部から山科へは、「粟田口(あわたぐち=東山区)」から”日ノ岡(ひのおか)峠”を越えるのが、平安時代以来の幹線道路である。

平成9年(1997年)の地下鉄東西線開通で、車道に平行して走っていた京阪電車・京津線の三条京阪〜御陵駅間が廃止となり、”日ノ岡峠”辺りの「九条山」、「日ノ岡」、「御陵」の3つの駅に替わって、かっての「日ノ岡駅」の地下に「御陵駅」がつくられた。

今回は、”日ノ岡峠”から現在の「御陵駅」までの、地上道路の両サイドにある南北に細長い地域”日ノ岡”(頭に同町名を冠するのは8)について紹介しょう。

”日ノ岡”は、"日の当たる岡"を意味する。ここは北、南、西を山で囲まれているため、東からの太陽光が中腹の岡にまず映えることからこの名がついた。「九条山駅」があった”日ノ岡夷谷町(えびすだにちょう)”辺りの岡を指すらしい。

"九条山"は、東山36峰の一つ"大日山"の支峰で、第38代天智天皇の頃に山科が条里制をしいていた東の一条から西の九条までの名残で、道路標識はあるが地名はない。

”日ノ岡峠”はかってはもっと勾配があり人馬通行の難所だったが、通行し易くするため土砂を削りその土砂を"ホッパラカス"捨て場所が”日ノ岡ホッパラ町”の片仮名の町名として残っている。

”日ノ岡一切経谷町(いっさいきょうだにちょう)”には、「日向(ひゅうが)大神宮」がある。地名は「一切経堂=天台宗(平安時代=9世紀後半創建)」があったことに由来する。地下鉄東西線「蹴上(けあげ)駅」から北方へ徒歩15分と近い(「蹴上」は、源義経が牛若丸時代に、平家の9人の侍から泥水を”蹴上げ”られ、怒った義経に9人全員が殺された所)。

この神宮は、第23代顕宗天皇(大和時代・在位485〜487年)の頃、九州・筑紫日向の国から移籍し創建されたらしい。"大日山"南面に位置する京都最古の神宮で別名・朝日宮、日岡神明宮とも言われ、"上の本宮(内宮)"と"下の本宮(外宮)"とがあり、"京のお伊勢さん"と呼ばれる。

交通安全、厄除け、縁結びが有名。ここの"天の岩戸"の祠をくぐると心身が洗い清められる。例祭は、下が10月16日、上が10月17日。応仁の乱で社殿などを焼失し(このとき「一切経堂」も焼失)、江戸時代初期に篤志家の寄進で再建された。

”日ノ岡峠”(九条山駅辺り)には、江戸時代から明治6年(1873年)まで使用されていた「粟田口刑場」があった。

往来の激しい街道沿いにあったのは見せしめのためで、磔にされているのが見えたらしい。1万5千人以上が処刑され、その慰霊碑「粟田口名号碑(みょうごうひ=仏の碑)」が”日ノ岡朝田町(あさだちょう)”にある。高さ280センチ・幅80センチの碑には「南無阿弥陀佛」と大きな字で彫られている。

享保2年(江戸時代・1717年)に刑場近くに建てられたが、明治の廃仏毀釈の際に壊され道路補修用に利用され埋められた。昭和8年(1933年)京都・大津間の京津国道工事の際に発掘され、いくつもに割られた碑を接合修復して現地に再建された。

同年に、その横に建てられた「京津国道改良工事記念の碑」は、峠道に使われていた”車石”の破片を積重ねて土台にしている。”車石”は、文化2年(江戸時代・1805年)に設置されたもので、荷車の通行時に車輪が土砂にめり込まないよう轍にあわせて溝を刻んだ道路敷石で、別名を輪型石という。昭和15年(1940年)建立の法華宗の「南無妙法蓮華経」と記された慰霊碑もある。

この碑の一角は、地下鉄が開通して京阪電車の線路撤去後、道路設計上わざわざ残され造られたコーナーで、地下鉄「御陵駅」から西へ350メートル。ここから上り坂となる”日ノ岡峠”への両サイドの歩道の人通りはほとんどないが、車の往来は多く流れも従来よりはスムーズになった。

京阪バスが1時間に上下線各1本、京都市発行70歳以上無料パスを持つ乗客をメインにして運行されている。道路南側の山の斜面には今にも崩れそうな旅籠ふうの家屋が何本ものつっかえ棒に支えられて残っているのが目をひく。(完)


◆注目メルマガ「頂門の一針」(9月1日刊 1656号)をご案内します。

<目次>
・小沢独裁政権誕生へ:平井修一
・官房長官は菅、岡田氏軸に調整:古澤 襄
・中国石油の賄賂漬け体質:宮崎正弘
・広島・長崎への原爆投下の真実(4):岡崎渓子
・中国が「糖尿病大国」に:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年08月18日

◆市立友渕中が全国サッカー大会へ

                       

毛馬一三

地元大阪市立友渕中学校の部活サッカー部が、19日から24日まで長崎県島原市で開かれる「第40回全国中学校サッカー大会」へ近畿大会準優勝の高槻市立第二中学校サッカー部とともに、近畿代表として出場する。

友渕中学の全国大会出場は、05年以来2回目だが、近畿の覇者として全国中学サッカー大会への出場は、これに優る欣快なことは無い。

友渕中学校のサッカー部は、17日午前3時半母校校門前から選手・コーチ26人を乗せたバスで出発、高速道路を経て遠路九州に向かった。途中、佐賀と熊本で地元中学校部活サッカー部とフレンドリー試合を行い、19日熊本からフェリーで勇躍、全国大会会場の島原に入る。

<全国中学校サッカー大会は、財団法人日本中学校体育連盟および財団法人日本サッカー協会が主催する、毎年8月に行われる中学生サッカー全国大会。全中(ぜんちゅう)といわれ、全国中学校体育大会の一部。全国から予選を勝ち抜いた各地方ブロック代表32校が参加して行われる。

1970年に全国中学校体育大会が始まった事を受け、その一環として競技人口の拡大と中学サッカーの発展を目的に本大会は始まった。第1回から第12回までは埼玉県で開催され、埼玉県営大宮公園サッカー場や浦和市駒場サッカー場を中心に行われた。

第13回からは他の競技に倣い地域ブロック持ち回り制に変更された。 本大会は中学校の部活動に限定した大会である。>

友渕中のサッカー部は、「自分を信じ、仲間を信じ、勝利を信じて闘え」との田中秀樹コーチ(体育教諭)の檄を受け、激戦を勝ち抜いて近畿代表となった「FWを中心とする攻撃型」のチーム。ノーサイドぎりぎりまで全力で「粘り強さ」を発揮する勇壮なメンバーばかりだ。

全国から32チームが参加する今回の全国大会は、19日15時から島原復興アリーナーで開会式、翌20日正午から初戦が一斉に開始され、友渕中学は島原多目的広場で、栃木県の下野市立国分寺中学校と対戦する。
第40回全国中学校サッカー大会」のホームページへ


関係者によると、対戦相手の国分寺中学も友渕中同様「攻撃型」のチームだそうで、コーチ陣は栃木県代表に至るまで戦績と各選手のデーターを収集し、得点につながる有効な攻撃方法の検討しているという。

全中初出場の05年36回大会では、初戦の石川県代表との対戦で引き分け・PK戦で敗れている。このため友渕中は、今回はまず「初戦突破」を最大の目標に、栃木県国分寺中との対戦に全力で臨む。

序ながら、近畿代表として参加するもう一つの高槻市立第二中学校は、東京都代表の日本大学第二中学校と初戦を戦う。

サッカー部の父兄や1,2年の部員たちは、自家用車などで試合当日までに現地に駆けつけることにしており、PTAや住民らも全中出場に大きな声援を送っている。

平松大阪市長も、この友渕中サッカー部の快挙に18日、自ら「お祝いと激励」を込めた祝電を送った。市長のこの声援が、友中選手たちの戦う意欲を高揚させることに繋がることは間違いない。

この猛暑の中、しんどい戦いになると思うが、悔いの無い試合をして欲しい。頑張れ、友中サッカー部!!
<参考・ウィキぺディア>
                       (了)2009.08.18

2009年08月14日

◆トムワトソンは9月に「還暦?」


渡邊好造

本年7月、スコットランド・ターンベリーで開催された"全英オープンゴルフ"は、日本から17歳の石川遼選手が参加し、タイガー・ウッズと同組でプレーするなどの話題とともに、優勝争いにアメリカ人の59歳の名選手トムワトソンが絡み大いに盛り上がった。優勝すれば142年振りの最年長記録になるところだったが、残念ながら準優勝に終った。

この時のテレビの実況解説者(1945年生れのT.S.)は、トムワトソンの活躍ぶりと彼の59歳という年齢を繰返して強調し、『9月の誕生日で満60歳の”還暦”を迎える』ということを、2日間にわたって紹介していた。

そもそもアメリカ人に”還暦”を適用するのもどうかと思うが、それよりもこの解説者が根本的に間違っているのは、”還暦”は数え年61歳であって、満60歳の誕生日に迎えるのではないということである。

トムワトソンは、本年1月1日に既に数え年61歳の”還暦”であって、これは12月31日まで続く。

いうまでもなく、”還暦“とは、十干(じゅっかん=甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)、十二支(じゅうにし=子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の組合せで60を単位とする年代を表し、1)甲子 2)乙丑, 3)丙寅、、、58)辛酉 59)壬戌 60)癸亥ときて、次に元の 1)甲子に戻ることをいう。

この組合せで61年目に生れた年に到達し、「本卦がえり」ともいう。日本では、室町時代の頃からのお祝いの風習らしいが、最近は平均寿命が延びたことで盛大にしなくなった。 ”還暦”祝いは数え年61歳だから、誕生日の満60歳でも年齢的にはその年内の範疇にあるから、それ程目くじら立てるほどのことはないかもしれない。

しかし、”古希(70歳)”、”喜寿(77歳)”、”傘寿(80歳)”、”米寿(88歳)”,”卒寿(90歳)”、”白寿(99歳)”などの祝い事も数え年だから、これらは誕生日の満年齢に当てはめると、前年に既に終っていることになる。

昨年、知人から「この3月の誕生日に無事70歳の”古希”を迎えることができました。」との挨拶文が届いた。”古希”は3ヶ月前に終ってる、と訂正するのも気が引けたので、「お誕生日おめでとうございます」とだけ返事しておいた。

テレビのバラエテイ番組などで「○○さん、今度のお誕生日で”還暦”だそうですね。おめでとうございます」と司会者がいうのを何回も聞いたことがある。

そして、スコットランドまで出かけてアメリカ人の”還暦”を2日間を通して間違えて強調する有名ゴルフ解説者がいたのは驚きだ。1日目のミスを誰か注意してやればいいのに、、、。この解説者、次は自分の”古希”を間違えるに違いない。(完)

2009年08月04日

◆NHKに巣くう報道テロリスト


                伊勢 雅臣
       
         <「頂門の一針」1627号・8月3日刊>から転載。

■1.「人間動物園」!?■
ジャーナリストの大高未貴さんは、台湾の教育部原住民教育政策委員・華阿財氏とのインタビューで、こう質問した。

「(台湾原住民の)パイワン族がロンドンの博覧会に連れて行かれ、彼らが人間動物園として見せ物にされたとNHKが報じていますが、本当ですか?」

NHKのドキュメンタリー番組『JAPANデビュー』は、台湾の原住民パイワン族が百年前のロンドンでの日英博覧会に連れて行かれ、戦いの踊りや戦闘のまねごとを披露し、「人間動物園」と呼ばれて人気を博した、と報じた。大高さんはこれが事実かどうか確かめるために、台湾にやってきたのだった。

大高さんが「人間動物園」と口で言っても、華さんは一向に理解できなかったので、メモ用紙に「人間動物園」と書いた。

華さんは目をひんむき、憤激の体で頭を何度も左右に振った。「私は、こういう事を聞いたことがない!」 それから華さんは、こう語った。

「ロンドンに行ったパイワン族の24人は誇りを持って民族の舞踏や戦いの儀式を披露しました。滞在が1年4カ月にも及んだので恋も生まれ、結婚式もあった。

イギリス人との友情も深まり、その後、イギリス人学者2人が集落を訪れ、25日間も滞在し、相互交流を深めました。その時、イギリス人がパイワン族に英語の歌を教えてくれ、いまでも集落に伝承されています」。

華さんは「私は英語下手ですけど」と照れ笑いしながら、そ英語の歌を2度も披露してくれた。

別の資料によれば、この日英博覧会では、京都の大相撲の一団や綿花農家も参加し、相撲や伝統技術を披露したという。今日でもよく行われる民族文化の実演である。

これを『JAPANデビュー』は、台湾原住民を差別した「人間動物園」と報道したのだった。華さんはパイワン族の代表として、民族の名誉を汚された事に対して、NHKへの抗議文を書いているという。

■2.「台湾人は豚のシッポを食うのか」■
『JAPANデビュー』のインタビューに登場した柯徳三さんも、実際の報道ぶりに仰天し、怒り心頭に発した一人である。柯徳三さんは、濱崎ディレクター以下NHKスタッフを自宅に招き、朝9時から昼食を挟んで夕方までインタビューに応じた。

日本統治時代の良い部分も悪い部分も公平に話したという。特に教育やインフラ整備などの良かった点については、時間をかけて説明した。

しかも、柯さんは濱崎ディレクターに対して、「日本人に対してこれを発表したら悪く思うような箇所があれば、削っても構わないよ」と言った。

しかし、削られたのは、時間をかけて説明した良かった点の方で、紹介されたのは次のようなエピソードだった。

<豚肉の角煮(ローバ)を弁当に持っていくと、笑われるんだ。台湾人は豚のシッポを食うのかと騒ぎ立てる。だから家に帰って母に文句言った。おかずを日本式にしてくれ、卵焼きとたらことかと。母も随分苦労した。さくら干しとか、みりん干しとか。そうしたら弁当の蓋を堂々と開けられる。>

この話が、日本統治下で台湾人が「差別」「弾圧」されていた実例として紹介されたのである。

■3.日本式の貧乏臭い食事■
しかし、これは「恨み言」ではなく、台湾人の誇りをユーモラスに語った話なのだ、とメールマガジン『台湾の声』編集長・林建良さんは明かしている。

<「ローバ」「豚のシッポ」とは台湾料理で一番おいしいとされる高級料理だ。それを弁当に入れるのは豊かな上流家庭の子供だけだ。一方、玉子焼きというのは、台湾では貧しい家庭の料理である。・・・

要するに柯徳三さんは、貧乏臭い弁当を母親に頼み、「苦労」させたと語ったのだ。だからそのとき、周りにいる台湾人は笑っていた。

だがインタビューを行った濱崎憲一ディレクターはそれがわからなかった。日本の植民統治下における「差別」「弾圧」のネタを探すのに急だった彼は、大喜びでこのエピソードに食らい付いたのではないか。>

他民族の食事について違和感を持つ事はよくあることである。たとえば、フランス人がカエルやカタツムリを食べるのは他国民には容易にはなじめない食習慣である。そして子供なら、それをからかったりもするだろう。しかし、この程度の事をもって「差別」と言うのは、なんとも苦し紛れの報道である。

真に日本統治の功罪を問うなら、日本人の子供と台湾人の子供が同じ学校に通っていたという教育政策、そして台湾人のなかには日本人よりも贅沢な弁当を持ってくる家があったという経済事情の方を考えるべきではないか。

■4.「日台戦争」!?■
柯さんは『JAPANデビュー』の次のようなナレーションにも怒りをぶつけた。

<漢民族としての伝統や誇りを持つ台湾人が、日本の支配に対して激しい抵抗運動を起こしたのです。

武力で制圧しようとする日本軍に対し、台湾人の抵抗は激しさを増していきます。戦いは全土に拡がり、後に日台戦争と呼ばれる規模に拡大していきます。>

「日台戦争」という表現には、誰でも驚かされる。柯さんもこう怒った。

<思いもよらない言葉ですよ。まったく聞いたことがない。日本と台湾がどこで戦争やったんだ!>]

清国は台湾を割譲したが、一部の抵抗勢力を放置していったために、日本軍は掃討戦を行った。一方、台湾人の有力者や商人などは、治安回復のために日本軍の台北入城や台南入城を要望した。これを勝手に「戦争」と呼ぶのは、歴史学や政治学の常識を無視した歪曲である。

続いて「漢民族としての伝統や誇りを持つ台湾人」という歴史認識については、柯さんは顔を赤らめて、
「台湾人は漢民族ではない!」
医師である柯さんは様々な遺伝子学的根拠を挙げて、NHKの歴史認識の誤りを示した。

■5.「あんた、中共の息がかかっているんだろう」■
柯さんは『JAPANデビュー』を見た後、濱崎ディレクタ ーに抗議の電話をした。

<私は濱崎さんに言うたんだ。あんた、中共の息がかかっているんだろう。私が聞くところによると、朝日新聞とNHKは、北京に呼ばれてチヤホヤされて、貢物をもっていったんだろう。>

これに対して、濱崎ディレクターは「いや、先生、それは違います。我々にたくさん視聴者から評価する声が、FAXや手紙で来ています」と言って、それらをFAXで送ってきた。

しかし、その後、濱崎ディレクターは柯さんに電話をしてきて、「さっきのFAXは柯さんだけに留めてほしい」と頼んだという。

この時、すでに番組のあまりの偏向ぶりに怒った人々の批判が全国からNHKに寄せられ、大問題に発展しつつあった。

濱崎ディレクターは、柯さんの怒りを静めるために、視聴者の評価する声だけをとりあげたFAXを送ったのだが、その後、これがまた番組の偏向に抗議する人々の手に渡れば火に油を注ぐ、と考え直したのであろう。姑息な手を使う人物ではある。

■6.「人をばかにしているんだ」■
もう一人、『JAPANデビュー』では、教育勅語を暗唱し、「人をばかにしているんだ、日本は!」と語った老人が登場する。

番組の検証を行うために訪台したジャーナリスト井上和彦氏は、日本統治時代を知る親日老人たちの憩いの場となっている台北市の龍山時で、この老人に偶然出くわした。

井上氏が話を聞いてみると、この老人が言いたかったのは「我々台湾人は、命をかけて日本のために戦った。にもかかわらず、戦後日本は、台湾の主権を放棄してしまった。だから台湾はみなし子になったではないか」ということだった。

「人をばかにしている」のは、台湾を見捨てた戦後の日本であり、台湾を統治していた戦前の日本ではない。

龍山寺前の公園には大道芸人も数多く、彼らは戦前の日本の軍歌や唱歌などを演奏して年配者の喝采を浴びていた。取材中の井上氏を取り囲んだ群衆は、軍歌『暁に祈る』の大合唱で歓迎してくれたという。

おそらく、濱崎ディレクターらNHKの取材陣も、同様の光景を見たはずである。そして、この老人に出くわして、その話を聞きながら、片言を切り取って、さも戦前の日本に対する批判のように加工したのである。 これは偏向というより、確信犯的な捏造報道である。「人をばかにしている」のは、濱崎ディレクターではないか。

■7.台湾と日本で沸き起こる抗議行動、集団訴訟■
こうした日本語世代の人々が集まって、5月16日、台北のNHK支局にデモ抗議をしかけた。次のような声があがった。

<NHKは台湾の人の言うことを非常に歪曲し、それから捏造した。これに対して我々日本語族は非常に怒りを感じるのです(『素晴らしかった日本の先生とその教育』の著者・楊應吟氏)>

日本国内においても、1500人もの抗議デモ隊がNHKを3回にわたって取り巻いた。その後も全国各地で抗議デモが繰り広げられている。

さらに1万人近くの原告が集まって、NHKへの集団訴訟がなされ、今もその人数は増え続けている[3]。放送法第3条3項には「報道は事実をまげないですること」とあるが、本稿で紹介した台湾の人々のインタビュー内容を恣意的に編集したことで、この条項に抵触している疑いは濃厚である。

また「公共放送のあり方について考える議員の会」が発足し、6月11日の設立総会では約60人の国会議員が参加した。

例によって、こうした動きは、産経新聞や週刊新潮以外のマス・メディアでは目立った報道がされていないが、インターネットが普及して草の根の情報伝達が広まった現代においては、以前のように大手報道機関が頬被りを決め込められる時代ではない。これは戦後最大級の偏向マスコミへの批判行動であろう。

■8.中国共産党中央宣伝部「抗日戦争の研究強化呼びかけ」■
柯徳三さんの「あんた、中共の息がかかっているんだろう」という言葉は、根拠なき罵倒ではない。「漢民族としての伝統や誇りを持つ台湾人が、日本の植民地支配によって差別された」という視点は、中国の主張そのものである。

<日本が中国とアジア太平洋各国を侵略した歴史を深く研究し、日本軍国主義の残虐行為を明らかにし、右翼勢力の歴史をねじ曲げ、侵略を美化するでたらめな論調を暴かなければならない。

日本による植民地支配に抵抗した台湾人民の戦いの歴史を深く研究し、「台湾独立」と日本軍国主義の歴史的根源を明らかにし、祖国平和統一を促進しなければならない。>

『JAPANデビュー』の企画提出から制作決定、制作期間を考慮すると、4年前のこの「指示」と時期的にぴったり一致する、というのが、チャンネル桜の水島総氏の見解である。

台湾併合を狙う中国にとって、日台友好関係こそ目の上のたんこぶだ。そして日台を離間させてから台湾を併合し、西太平洋を「中国の海」とすれば、自ずから日本も属国となり、その技術力・経済力を自由に搾取できるようになる。これが中国の戦略である。

■9.我が国の自由民主主義が脅かされている■
『JAPANデビュー』が、中国共産党中央宣伝部の「指示」に従ったものか、あるいは自主的にその意向に沿ったものである事は疑いようがない。NHKには、日本国民から集めた金を使って日本の国益を害し、他国のために捏造報道を行う報道テロリストが巣くっているのである。

放送法第3条に定められている「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」は、自由民主主義社会において国民が正しい判断をするために必要不可欠な基盤である。

意図的な捏造報道で事実を曲げ、視聴者を特定の方向に洗脳することは、中国の常套手段であり、それをNHK内部に巣くった手先が日本国内で展開することは、我が国の自由民主主義体制に対する重大な挑戦である。

NHKへの集団訴訟は、我が国の自由民主主義の基盤を守るための戦いである、と言える。

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Media Watch: NHKに巣くう報道テロリスト
NHK番組『JAPANデビュー』は、意図的
な捏造報道で、日台友好関係の破壊を狙った。
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より転載。


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