2009年08月02日

◆大阪万博、EXPO70


                                     渡邊好造

6月17日の読売新聞に『万博の遺産・国と大阪府・相続争い=公園260ヘクタールと資産400億円』とあった。万博とは、昭和45(1970)年3〜9月に開催された日本万国博覧会、あの大阪万博・EXPO'70のことである。

会場にあった遊園地エキスポランドもテーマパークに生れ変るらしい。

動く歩道、テレビ電話、電気自動車、大人数のガードマンなどが登場し、米国のアポロ計画で持帰られた「月の石」も人気を集めた。筆者は、この会場で繊維関係団体が共同出資・出展した"日本繊維館協力会"「せんい館」のスタッフの一員として勤務した。

展示企画制作のコーデイネート、会期中の運営、撤収作業までの約4年間、所属する広告代理店からの出向である。そんな経験から、39年前の大阪万博の記事が今頃また現れたことに驚くとともに、会期終了後の同年12月に広告業界専門誌( ADVERTISING - REVIEW ・ NO.52)に掲載された「大阪万博・EXPO’70」の一文を思いだした。

なにを今更と一笑に付さず、当時を思い出しながらお読みいただきたい。これが、筆者の市場調査業務から抜出すキッカケであり、一連の”山科だより”の原点になっている。

======== 『大阪万博・EXPO'70』=======
9月13日、183日間の日本万国博覧会・EXPO'70は閉幕した。”万国博”を「残酷博」、テーマの”進歩と調和”を「辛抱と長蛇」とユーモアたっぷりにもじった点は、3月15日(開会式14日)からの会期半年間の特徴をよく表している。

開場午前9時の3時間前には入場口に列がつくられ、定刻になるとガードマンの呼笛を合図に、牛の大群が走るのに似た入場者の”バッファローダッシュ”が始まる。

目指す人気展示館へ一目散だが、そこにはすでに行列ができている。優先して入場できる食堂・売店などの従業員が親類、縁者のために並んでいるのだ。その列は6月に入るとより長くなっていき、入場者は疲れと暑さで精神も肉体もグッタリである。

人気があり列の長かったのは米国、ソ連、日本などの展示館で、土・日曜、祭日となると3〜4時間の待ちは当り前、まさに「辛抱と長蛇」であった。各展示館の担当者同士は電話連絡しておけば同伴者とともに特別ゲートから優先して入館し、記念のお土産まで頂戴できた。

各館の大事なお客様は万博協会から各館に貸与された電気自動車(時速20キロ位、毎日閉館後に返却し充電)で送迎する。ところが、開幕2ヶ月後位から優先申込数が多くなりすぎて厳格になっていき、直接お願いに行くか互いに顔見知りの者が電話しないと通用しなくなった。

こうしたコネを駆使してもなかなか入館できなかったのが、皇室や政府関係者、国賓待遇のVIPのみを対象とした「迎賓館」である。

日本の威信をこめてつくられた館で、その各室には高価な家具調度品が備えられていて、絵画2千万円、玉座といわれるテーブル・椅子1千万円、置時計90万円、ライター50万円、灰皿30万円といった具合である。

会場のカメラ熱はすさまじかった。場内の売店に山のように積まれたフイルムは定価どうりでも毎日完売で、街では1万円位のカメラが飛ぶように売れたという。

カメラの使い方は、ある対象から感銘をうけたから撮るというよりも、レンズを通してとりあえず記憶させておくだけのようで、各展示館をコマ鼠のように駆抜け、アチコチこまめに撮りまくっている姿は単なる記録マニアにしか見えなかった。

こうした行動は、案内パンフレット収集にも共通していた。パンフレットは、入館者数を予測し必要数を用意するが、この予想は見事にはずれ英文・和文に関係なく連日不足した。展示物は見ないで素通りしても、パンフレットのみ、しかも余分に持っていく人がいるからである。

午後9時半の閉館間際にパンフレットだけ欲しいといってきた人もいた。各館は、印刷発注を増やしたり、予算の都合でページ数を減らしたり、VIPだけに限定配布したりで対応していた。

スタンプの押印も同様で、入館するや「スタンプはどこ、、?」と聞き、出口にあると分るや何も見学しないで直行する人もいた。「せんい館」では、開幕当初案内役女性担当者がサービスでスタンプ押しをしていたが、1日何千回となって腕が上がらなくなり来館者が自由に押すように変えた。するとスタンプ器具ごと無くなり始めた。

無くなるのはスタンプ器具だけではなく、案内表示板、電球、壁布、マネキン人形の腕など何のためにと思うような物が無くなっていった。会場内では迷子防止用に協会が”迷子ワッペン”自動配布機を設置していたが、開場1時間後に空っぽになる苦情が相次ぎ、協会関係者が調べてみると万博のお土産用にカバンにつめている人がいたという。

インド、タイ、ビルマなど東南アジア諸国の展示館には仏像が展示されていたが、その前には小銭がいくつも置かれていた。そして、会場内の池・噴水など水のある所には必ず硬貨が投込まれていた。

仏像前の小銭は、お地蔵さんの前など日本のアチコチで見られる光景だからあまり違和感はない。池・噴水の硬貨の方は、ローマの噴水”愛の泉”のマネゴトでもあろうが、お寺の壁などに住所、氏名を刻むあの落書きの心理に共通するような気がした。

会場では警官そっくりな制服制帽着用の多数のガードマンの監視が厳しく、落書きがやりにくくなった分、水中の硬貨の増加になったのではないか。閉幕日、池・噴水のこの小銭を拾い集めていた2人の男が窃盗罪で逮捕された。

今回の万博の最大の特徴は、前回のモントリオール万博(カナダ)以上に映像中心だったことである。映像展示館は普通の映画まで含めると3分の2を占め、外国館の場合はその国の風物、産物を映し出した観光PRが多かったのに対して、国内館は機械装置とマルチ・スクリーンにかけた意欲は目覚ましかった。

「三井グループ館」は映写用円形ドームの中で観客を乗せた3つのターンテーブルが縦横に動き回る、「地方自治体館は」6人乗りの円形ゴンドラに乗って日本各地の風物を眺める、「富士グループ館」は観客席が動く歩道になっていて出口に到達すると1サイクルの映像を見終わっているといった仕掛けになっていた。「生活産業館」、「東芝IHI館」は、どちらも観客席が別の映写ルームに自動で移動する。

ただ、これらの館はハード面が前面に出てソフト面がついていかなかった感が否めない。その点、「みどり館」の特殊映写機5台を使った映像、「せんい館」の映写機6台とスライド映写機12台による映像は、いずれもドーム型全天全周の常識破りなもので約15分間不気味な環境を創り出していた。

そして、EXPO’70は総入場者数6千4百21万人(1日平均35万人)の大成功の内に終了した。

閉幕近い9月5日(土)には3百30万平米(百万坪)の会場に80万人以上が詰掛け、観客は展示館入館どころか超過密状態の会場をウロウロするだけ。事故が起らなかったのが不思議な位であった。その日の終電車に乗れなかった人たちがあちこちで野宿したり、「せんい館」など一夜の宿用に特別開放された展示館で夜明けまで過ごしていた。

それから8日後の閉館時、あらためて”残酷博”の思いが蘇るとともに、4年間共に出向していた4名「あ〜あ、終った〜!」。(完)

2009年08月01日

◆医師不足の真の原因


                 川上恭司(医師)

石岡荘十氏筆の「舛添厚労省の2年」の論点である「舛添大臣はなかなかよくやっている」には賛成いたしますが、内容における医師不足問題については、一心臓外科医の立場から見て少し異論がありますので、御一読願えれば幸いです。

「医師不足が原因で救急医療が破綻しているのだから、もっと医師数を増やすべきだ」との御意見と思われますが、医師数自体は決して減少している訳ではありません。逆に、毎年確実に増加しています。ではなぜ医師不足が叫ばれるのでしょう。

ここ10年、起こって来たことを検証してみますと、大変なことが解ってきます。

例1:小児科医不足:夜間救急は、以前は内科医も小児を診察していましたが、「専門医でなければ診るべからず」の風潮が広まり、訴訟でも負けてしまう状況となったため、内科医が診なくなりました。その結果、小児科医不足です。

例2:麻酔科医不足:以前は外科医も協力して麻酔をかけ、全員野球でしたが、ある頃から「麻酔標榜医以外は麻酔をかけることまかりならぬ!」となり、結局、麻酔医不足です。

例3:産婦人科医不足:これも同様、産婆さんが“とりあげていた”ものを、産科医が権限を取り上げ、挙句の果ては産科と婦人科に分離しはじめ、「あたしゃ、癌が専門だから、出産なんかね〜〜〜」と、結果、タライ回しです。

ここに見てくる構図はすべて「医療の質を上げるためには、より専門に特化しなくてはならない」を旗印に組織をどんどんと肥大化させていく官僚構造なのです。まるで霞が関と一緒です。

営利を優先する企業であれば、即座に部とか課を統廃合するでしょうが、医療全体ではそうはいきません。専門化させればさせるほど、教授を量産(失業対策に貢献)させることができますし、学会もそれぞれに創り、「専門医以外は診療することまかりならぬ」と、既得権益擁護に走るのです。

まるで、中世ギルド社会です。挙句の果ては、「医療費を上げろ!医師数を増やせ!」の大合唱なのです。良識ある「頂門の一針」読者諸兄には、これらの構図は御理解いただけるものと思います。
ではどうすれば良いのでしょう。

我々が直面しているのは、大量の団塊世代がそろって病気になる超高齢化社会の到来です。これは、阪神大震災とか四川の大地震と同じ規模の自然災害と変わりありません。このような災害時に必要な医師は総合医なのです。阪神大震災時には脳外科医が風邪を診、心臓外科医が骨折の応急処置をしたのです。

具体的対策としては、専門分化するのではなく、各科を統合する方向に誘導することです。また、専門医をありがたがらない風潮を社会に醸造させることも必要です。厚労省も社会もその事を許容し、各専門分野の垣根をできるだけ取り除く努力をすべきなのです。

今の流れのまま「医者が足りない、医師数を増やせ」で進めば、医者が充足することはありません。増えれば増えた分だけ、新たな科を作るのですから。今でも忙しい医者は一握りで、暇な医者は五万といるのです。

こんな簡単な構図はだれでも解かりそうなものですが、一般にはあまり理解されていないようです。賢明なる当メルマガ読者の方々には御理解いただけるものと思い、書かせていただきました。    (心臓外科医)

2009年07月26日

◆日米ともに累進課税強化へ


                 平井修一

平成21年度予算の税収は国税46.9兆円、地方税36.9兆円である。合わせて84兆円。

国税の内訳は所得税15.5兆円(構成比33.2%)、法人税10.5兆円(22.5%)、消費税10.1兆円(21.6%)、その他10.6兆円(22.7%)。

所得税は給与所得者は源泉徴収され、一切のごまかしというか節税ができないからなんとなくイマイマシイ。この所得に合わせて住民税も取られるが、その合計は単身者の場合、課税対象給与年額別で以下のようになる(平成19年、財務省)。

200万円(負担率4.9%)税額9.8万円、300万円(6.3%)18.8万円、400万円(7.1%)28.4万円、500万円(8.4%)42.1万円、700万円(11.2%)78.1万円、1000万円(15.2%)151.9万円。

年収1000万円で税金・住民税が毎月10万円超も天引きされたら随分シャクだろうが、年々増える社会保障費を担保し、かつ財政赤字を是正するためにはさらなる増税は避けられないから、小生が為政者なら「富の再配分」を錦の御旗に富裕層の所得税・住民税を上げるだろう。

2000万円なら20%、3000万円なら30%などとしてはどうか。ノブレス・オブリージュという名の金持ちバッシングであり、多くの国民が拍手するから政権の支持率も上がるのではないか。金持ちも貧乏人も、高額納税者も生活保護者も一票は一票だから民主主義とは恐ろしいものである。

米国は結構な累進課税であるようだ。ブルームバーグのキャロリン・ボーム記者がこう書いている。

<全米納税者連盟(NTU)によると、納税者上位1%(総所得38万9000ドル=約3600万円=以上)が2006年の個人所得税の40%を負担した。上位50%で全体の97%を負担し、残り50%の人が負担したのは3%にすぎない>

半分の人が所得税をほとんど免れているというのはすごい社会だが、お金持ちは随分苦々しく思っているのではないか。しかし、取りやすいところから取るのは徴税の常套手段だから、財政難の米国は富裕層からさらに金を巻き上げるつもりのようだ。

<オバマ政権は富裕層を標的にする必要が出てくるかもしれない。・・・納税者の側に「税の反乱」が今にも起きるのではないだろうか・・・今後4年足らずのうちに、有権者は民主党の増税路線への回帰について論争することになるだろう。寛大な政府から恩恵を受ける人がどう投票するかは分かるが、納税者が離れていかないかどうかが唯の一疑問だ>

みずほ総研が、興味深いレポートを掲載している。

<米国では民主党系の識者を中心に、増税を視野に入れつつ、税制の累進性を高める方向での税制改革を提案する動きが目立つ。その狙いは、

1)格差問題やグローバリゼーション批判対策としての税制の活用、
2)新しい財源の確保、
3)政策目的の効果的な達成、

といった点にある>

原資がなければどんな政策も絵に描いた餅だし、重箱の隅をつつくような節税では高が知れているから、ここは増税するしかないのだ。

<具体的な提案としては、

1)ブッシュ減税の高所得者向け部分の廃止、
2)法人課税の強化、
3)ファンド課税の強化、
4)社会保障税の累進化、
5)高所得層の負担増を財源とした税制改革

などがあげられる>

消費税は逆累進性(低所得者の負担感が重い)と言われているから、5→8→10%へと緩やかに増税するしかない。片や富裕層から「分相応の税」を取ることに反対するのは富裕層だけだから少数派。反対しても多勢に無勢である。

こうして日米ともに累進性は高まるだろうが、金持ちに逃げられたらそれこそ角を矯めて牛を殺す、虻蜂取らずになってしまうから加減が難しかろう。どこまで可能なのか、財界人やエコノミストを集めた諮問会議で研究したらいい。

◆「日本のいちばん長い日」にリセット(3)

                  
               藤本 敬八郎 (彫刻家・神戸市在住)

米濱泰英著『日本軍山西残留』によると、「8 月15 日の日本の全面降伏とともに、大本営はアジア・太平洋各地に駐屯する日本軍に対し一切の武力行使の停止を命じたが、中国残留日本軍105万に対してだけは例外の扱いとしたため武装したまゝ従来の守備についていた」とある。

朝野のことばは更につづいた。

南陽は朝野に続いて客車から降りたが、そのとき南陽は日本兵から手榴弾を一個所望したという。当時の太中生はゲートルを巻き陸軍軍服に酷似した意匠の制服を着ていた。軍事教練で小銃取り扱いはみな慣れていたし、手榴弾の手渡しも特に異常な行為ではなかった。

混雑した中国人乗客にまじって、切り立つ崖側とは反対の河川敷に降りた。全ての乗客は中国人でそれぞれが大きな荷を2つも抱え、口々に憐れむように「ピエポー、ピエポー」と叫ぶ。検証した訳ではないので今もその真意は不明だが、朝野によると「善良な農夫で、反抗はしない」という意味だろうと云う。戦闘の危険から遠のいて行く群衆に中学生2人も混じっていた。

近代銃撃戦では護身の基本は、地面の凹凸を利用して身を伏せる。遮蔽物を巧みに使って敵の死角に入るべし等と習っていた。2 人は匍匐前進で安全地帯へと進む。朝野の後方5米に南陽は右手にあの手榴弾を握っていた。

技のたつ狙撃手は千里眼を持つと云われるから、むきだしの日本製手榴弾を握る小柄な日本兵? は格好の標的だったにちがいない。「痛い!」という声を後ろで聞いた。匍匐前進をやめて朝野は後方を見ると、あおむけになった南陽は、うらめしげに崖上の敵を眺めている。

一瞬の出来事に朝野は茫然自失。太腿の深傷の止血など一中学生の力の及ぶものではない。無知と無力を深く恥じた。医師だ、救急車だという今日的尺度で対処できないのが野戦場だ。朝野は為す術を失い、たゞ友の傍らについてやるだけだった。

傍らを、自分のことで精一杯の他人が通りすぎてゆく。刻々と過ぎ去る時間。南陽は虚空の中に遊んでいるのだろうか?出血が続くと肉体と脳は苦痛と現世のしがらみから解き放たれるのかも知れない。眼は虚ろであるが、穏やかな顔をしている。この間にも友軍は交戦を続け、双方に死傷者が幾人も出たという。

2人になった青雲塾では、南陽の最期のはなしをよくしてくれた。15 歳の短かすぎる南陽先輩の死。彼が思い描いた祖国独立の夢と、死の現実とをどう結びつけたらいいのか。終戦記念日。暑い夏が、また巡りくる。(終)

2009年07月25日

◆共産主義は”言行一致”か




加瀬英明

なぜなのか、若者のあいだで小林多喜二の『蟹工船』が売れて、日本共産党の支持者が増えているという。

そのかたわらで、昨年、ウォール街に発した〃百年に一度〃といわれる経済不況によって、しばらく忘れられていたマルクスの亡霊が、ちらつくようになっている。

東西かかわらず、男のマナーは言行一致が必須の条件となっている。

十九世紀なかばに共産主義を生んだマルクスとエンゲルスのコンビを、取り上げたい。

カール・マルクスは一八一八年にプロシア(現在のドイツの一部)で、著名なユダヤ人弁護士の子として生まれ、ボン大学とベルリン大学で学んだうえで、イエナ大学から博士号を取得した。マルクスは二十六歳のときにパリで二つ年下のエンゲルスと出会い、終生にわたって二人三脚の関係を結んだ。エンゲルスがいなければ、マルクスが共産主義の産みの親とならなかったろう。

フリードリヒ・エンゲルスはラインラントの裕福な繊維業者の子として、生まれた。マルクスはパリから追放されてロンドンに移って、エンゲルスと一八四八年に『共産党宣言』を共同執筆して発表した。

マルクス・エンゲルスの共産主義運動が全世界にひろがったのは、マルクスが大英博物館に籠って著した難解な『資本論』によるものではない。エンゲルスが「労働者は鎖しか失うものがない。万国の労働者よ、団結せよ!」という、『共産党宣言』を結んだキャッチコピーによるものだった。

エンゲルスは社会主義に傾倒していたが、父がイギリスのマンチェスターに所有している繊維会社の経営者をつとめながら、マルクスの半身としてだけではなく、ロンドンのマルクス一家の遣り繰りを経済的に支えた。

マルクスも中産階級(ブルジョア)の生活様式を捨てることがなかった。浪費癖も改まらなかった。

エンゲルスはロンドンの高級住宅街のプリムローズヒルの自宅で、毎夜、友人を集めて早朝まで大量のシャンペン、ワイン、ビールを飲み騒いで、散財した。艶福家だった。他にマンチェスターに二軒の家を所有して、一軒は会社の接客に使い、もう一軒に自分の繊維工場に働いていた、無学な女工のメリー・バーンズを囲って、愛人としていた。メリーが死ぬと、妹のリツィを愛人とした。

マルクスはロンドンで女中を二人雇っていた。その一人のヘレーネ・デムートはマルクスよりも五歳下だったが、ドイツの貧農の娘で、八歳のときにマルクスの妻のジェニーの実家――男爵だった――に働きにだされ、妻についてマルクス家にやってきた。

マルクスはヘレーネに手をつけて、男子を生ませた。フレデリックと名づけられ、ロンドンの労働者階級に預けられた。マルクスは妻を恐れていたから、エンゲルスが自分の子として認知した。持つべきは、よい友である。

 ヘレーネは七十代で死ぬまで住み込んで、無給で働いた。マルクス主義では労働の搾取に当たったが、マルクスはスターリンや、ブレジネフや、毛沢東などのその後の共産政権の幹部たちと同じように、自分の私生活はマルクス主義の枠外に置いた。

 マルクスの叔父のリオン・フィリップスはオランダに住み、いまもオランダの大企業のフィリップスの創業者だった。マルクスは叔父からも仕送りしてもらっていた。いまでも共産主義者は、資本主義に寄生している。

             (2009.7)
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◆「日本のいちばん長い日」にリセット(2)

                    
               藤本 敬八郎 (彫刻家・神戸市在住)

8月15日からほどなくして、太原日本中学校は閉鎖となるが、寄宿舎はしばらく現状維持された。50名以上もいた寄宿生は、それぞれ親許へ帰省し、最後に残ったのは生徒3名と舎監、賄いの計5名となった。私の場合、親許までは当時の汽車で、通常でも3 泊は要する遠距離にあった。

日本の敗戦を契機に、蒋介石ひきいる国府軍と毛沢東配下の八路軍との内戦は激しくなり鉄道、通信の治安は急速に悪化したことも、帰省を阻んだ直接の原因であった。

青雲塾という名の寄宿舎―。

閑散となって、もはや規律を失った寄宿舎には朝の点呼も朝礼もない。生徒3人が肩を寄せ合って生活していた。ずっと、同胞と思っていた3年生の朝野と南陽は、一人が韓国釜山へ帰ると云い、もう一人は北朝鮮平城が故郷だという。帰国して祖国独立のために働くという2人の心意気が眩しかった。私たちはそれぞれの思いで、帰省の手段を模索する日々が続いていた。

ある日のこと2人の先輩は「汽車の予定がついたので、一足さきに母国へ帰る」と云った。寄宿舎の門前で別離のことばを交わしながら、私は遂にひとりぽっちの残留孤児になってしまったと思った。

2人の先輩と別れて2日後のこと、「一人が傷を負って太原駅にひきかえしてきたので、すぐに迎えに行ってやれ」と舎監の命令。私は急ぎ駅へ駆けつけた。省都の駅舎は大きく、すぐに二人とは会えない。構内で行き交う者も、人の輪からも、手がかりになるものはない。

時間と不規則な人の動きだけが過ぎていくなかで、ついに私は、太中の制服を着た少年を見つけた。彼は静かにプラットホームに佇んでいた。朝野先輩だった。

彼の足許には黄土が付着した毛布にくるまれた物体が、堅いコンクリートの上に横たわっている。南陽先輩に違いない。早く医師の手当てを受けさせなければ、と。しかし、朝野には急ぐ気配はなく、ただ呆然と立ちつくすだけであった。

やっと朝野が口を開いた。「南陽の体をみてやってくれ」。私が汚れた毛布の片隅をめくると、少年は全裸であった。奇麗な白い大腿部には小さなキズがひとつ見える。体はピクリとも動かない。不思議なものを見た思いだった。こんな小さな一つの傷が命を奪ったのか! 脚に触れてみたが人のぬくもりはもうない。肉体の弾力は枯れたように堅く硬直している。一発の銃弾が足を撃ちぬいて、出血多量で死に至った、と朝野は言った。

南陽の死と朝野の述懐―。

南陽の亡骸を火葬場へ運ばなければならない。毛布は硬直した人の形をしている。亡骸を朝野と2人でトラック荷台の高さまで持ち上げるがとてつもなく重い。毛布の塊りは荷台板にぶつかるようにして衝撃音をたてた。申し訳ない音であった。

今でも不思議に思うことは、この一連の出来事の中に舎監の姿が全く出てこない。記憶の中には南陽と朝野と私の3人だけが明瞭な姿で動いてい。トラックの手配は? 火葬場への手続きは……? と思う時、矢張り舎監の先生も同行して一切を仕切られたに違いない。

青雲塾では寡黙になった朝野と2人の生活がしばらく続いたが、ある時を境に雄弁になって、南陽が死に至ったいきさつを話しはじめてくれた。

「お前と別れてから…… 」 と切り出した。太原駅を出た汽車は、東の隣駅「楡次」(ゆじ)を通り、しばらく河川に沿い山腹を削って作った軌道を進行中に、蒸気機関車は一瞬にその黒い巨体をいっぱいの蒸気に包みこまれてしまった。爆破装置に触れてしまったのだ。

間髪を入れず崖の上に中国兵20数名が現れた。3〜40米程の近距離では銃を構えた敵の姿が手に取るように見える。戦闘帽の男。布鉢巻の者。ドイツ式鉄兜を被る者。統一は全くない。服装はどうであれ、銃の引き金で実弾が飛ぶ威力には優劣はない。決して侮れるものではなかった。

攻めるに易く、守りに難いこの崖地の利を読んだ作戦は中国軍の常套手段で、度々相手を悩ませたという。こゝ山西省では、まだ武装解除されていない日本陸軍は治安目的で、この列車にも一個分隊程が同乗していた。

交戦が始まり、分隊唯一の軽機関銃が車窓枠を盾にして火を吐く。三八式歩兵小銃も応戦に加わる。中国兵が柄付き手投げ弾を投げおろすと、くるくる自転しながら客車両近くで炸裂する。敵の銃弾が車窓を打ち抜く。

至近距離交戦は、まさに地獄絵であったという。友軍には甚だ不利な地形に加え、1/3 の兵力でもひるむことなく勇敢に戦った兵士を讃える朝野の口調には力が漲り、それを聞く日本人の私には殊のほか嬉しく、熱いものがこみあげてきた。(つづく)

2009年07月24日

◆「日本のいちばん長い日」にリセット(1)




               藤本 敬八郎 (彫刻家・神戸市在住)

<これはフィクションではない。装飾的な色を遠ざけ、モノクロームの記憶をたどりながら、私の体験を書き綴った実記録である。>

日本から西へ遠く離れた中国大陸。広大な土地の内陸部山西省の省都・太原(たいげん)市。太原日本中学校第1 期生で入学した実兄は、文武両道なににつけても優等模範生で先生の覚えもよく、また学年のリーダ的存在であった。安心の拠りどころに、親は私を兄弟一緒の中学校と寄宿舎に入れておきたかった。

兄15歳、私13歳、昭和19年春のことである。

激しい戦時体制の日本は悪戦苦闘。米国だけが対戦国でなく、ここ中国大陸でも中国軍との戦いは続いていた。もはや日本帝国陸軍の力は、大本営発表とは大きな落差で感じとっていた識者が少なからずいたというが、まだ幼い頭脳の少年たちは祖国の勝利を疑わなかった。『撃ちてしやまむ』『欲しがりません勝つまでは』が、少年少女たちの心に強く深くしみこんでいたから。

父は戦前の逓信省に職を得ていた。中国大陸への最初の赴任地は河北省天津であった。このあと山西省から山東省へと転勤の多い立場で、その都度私たち兄弟は転校をよぎなくされていた。

ひとの一生には複雑で不思議な出会いがいくつもある。運命的な流れに棹さすことはできないようだ。私は、成るべくして中国の地で幼少期から少年時代を送り、時代の波に呑まれながら『運命』の二文字を背負って生きていかなければならなかった。

学徒動員先の兵器廠では、中学生はいろいろな職種へ学年相応に配属されて働いていた。中学4年生はトラック運転と、帝国陸軍の三八式歩兵小銃の点検と部品交換である。また、戦利品のソ連製武器や外国製小銃を分解点検して、欠陥を見つけだして修理をする。これらは昨日まで中国軍兵士が戦闘で使っていたものだ。

修理完了後は射撃場で実弾発射して性能を確かめる。外国製小銃は弾径が若干大きいので発射反動が強くて、少年たちの肩への衝撃が大きい。それがあの年齢の男の子には魅力であり、体験話に花が咲く。

『一刻も早く、一丁でも多くの銃を前線へ届けよ! 友軍は短剣だけで戦っている』と至上命令であった。以上は寄宿舎に帰ってからたびたび聞かされた上級生の自慢話の概要である。

銃後の民と皇軍が困窮しているとはいえ、修理した敵の銃をあてにして使うとは、惨めなものだと、わたしは子ども心に思った。しかし、これ程まで疲弊逼迫していたことを、少年たちはまだ誰も気付いてはいなかった。私たち2年生は、軍馬の鞍や鐙(あぶみ)、乗馬用長靴や手綱に保革油を塗る魅力に乏しい手作業が毎日続いていた。

昭和20年8月15日の昼。ここ兵器廠の中庭に集められた中学生たちは、みな不動の姿勢でラジオ臨時放送を聴いた。ご同輩各位も、それぞれの環境の中、それぞれの思いで日本の運命を決めた玉音放送を聴かれたことであろう。64年前の強烈な印象も今となっては、ぼんやりと燻んで色失せた『日本のいちばん長い日』の残像となってしまった。

国家戦略とはいえ、学制を簡単に変えて中学最高学年を4年制にしてしまった国策は、5年生を戦闘要員として獲得しておく必要があったのだろう。当時の少年たちの多くは、その手にのったと云えば云い過ぎだろうが。あの時代に青春を共に生きた若者の大多数が、志を国家のために殉ずる心意気を、今日の国家史観や、薄っぺらな一次元の人生観で切られてしまうのは、慙愧に堪えないものがあるに違いない。

実兄も渦中の一人であり、中学4年生のときに、甲種飛行予科練習生志願が叶って、終戦の4ヶ月前に神奈川県藤沢の海軍基地へ入隊のため帰国していった。その後の兄の生死を知るすべを私は持たなかった。(つづく)

2009年07月22日

◆北朝鮮の重労働キャンプ




石井修一

[ワシントンポスト2009年7月20日、ブレーン・ハーデン記者]
北朝鮮の強制収容所(重労働キャンプ)の報告は年々より鋭く分析し、より悲惨な実態が明らかになってきた。

韓国弁護士協会によって発表された「2008年北朝鮮の人権白書」によれば、収容所生存者と元警備員からの証言は、キャンプに収容されている推定20万人の政治犯の日常生活を詳述している。

大部分はトウモロコシと塩を食べ、歯茎は黒く、彼らの骨は弱り、年をとると腰が曲がってくる。通常50才前後で栄養失調とその関連の病気で死ぬまで、ほとんど毎日12〜15時間働かされる。服は1組だけで、石鹸、靴下、下着、生理用ナプキンはなく、彼らはボロをまとって生き、ボロの中で死ぬのだ。

キャンプは部外者によってこれまで訪問されたことがないので、これらの証言を独自に確かめることはできない。しかし、現在インターネットで誰でも利用できる高解像度衛星写真は、北朝鮮の山中に広大な強制収容所があることを示しており、生存者の話を裏付けている。

画像には、元囚人が奴隷のように働かされた鉱山、元警備員が非協力的な囚人を死ぬほど拷問すると言った保安室、元囚人が処刑を見ることを強制された広場を示している。警備塔と電気ショックを与えるフェンスがキャンプを囲んでいる。

「我々のすぐ身近にこの奴隷体制があるのです」と、韓国へ脱走したキャンプ警備員のアン・ミョンチュルが言う。「人権保護団体は、それを止めることができない。韓国もそれを止めることができない。アメリカは、北との交渉のテーブルでこの問題に取り組むべきです」・・・

しかし、米国の対北外交でこの問題は後回しにされている。

北朝鮮は公式にはキャンプが存在しないと言うが、外国人の入国を制限しているから確かめようもない。密入国したとして米国人リポーターのローラリンとユナ・リーは先月、重労働12年を宣告された。

北朝鮮の強制収容所問題には有名人セレブの支援が不足している。問題をアピールするためキャンプ生存者の訪米を実現したワシントンの活動家スーザン・スフォルテが言う。アメリカ人にこの問題を理解させ、解決へ向けて努力させるだけの注目に値する、国際的に認められた人物がいないのだ、と。

「チベット人にはダライラマとリチャード・ギアがいます。ビルマ人にはアウンサンスーチーがいます。ダルフールにはミア・ファローとジョージ・クルーニーがいます。北朝鮮問題には誰もいません」

5人の北朝鮮人によると、警備員が逃げようとした囚人を処刑する際には、囚人への見せしめとして16歳以上の囚人は処刑に立ち会わされる。彼らは死刑囚の5メートル近くに立っていることを強制される。

警備員はいつもこう講義する。「偉大なる首領、金正日様は重労働を通して罪を償うチャンスを下さったのだ」と。

死刑囚は頭部に袋をかぶされ、口には小石を詰め込まれる。3人の警備員は各々3回発砲する。見物人は血しぶきと体が崩れおちるのを見るのだ。

「囚人のほとんど処刑を目撃します。私は第15収容所で2つの処刑を目撃しました」と、ユング・アンイル(47)は言う。そこで3年を過ごし、2003年に釈放されると彼は中国へ逃げ、現在ソウルに住んでいる。

彼の投獄で最も苦しかったのは国家安全保障局での拷問だった。

「彼らは、私がスパイであることを認めろと拷問した。彼らは、野球バットで私の前歯を折り、2回、私の頭蓋骨を折りました。私はスパイでありませんでした、しかし、私は9ヵ月の拷問の後、スパイであることを認めざるを得ませんでした」

彼が逮捕されたとき体重は167ポンド(75キロ)。拷問が終わったとき 80ポンド(36キロ)になった。

キャンプで働いた元当局者によると、キャンプの数は14箇所からおよそ5箇所に集約されてきた。中国との国境近くにある第22収容所は、長さ31マイル(50キロ)幅25マイル(40キロ)とロサンゼルス市より広く、5万人もの囚人が収容されている。

大部分の北朝鮮人は、なんの司法手続なしに収容所に送られる。多くの収容者は、彼らに対する告訴内容さえ知ずにキャンプで死ぬ。連座制は北朝鮮の法律によって合法的で、不正行為者の家族の最高3世代が収容されることも少なくない。金日成がつくった規則によるのだ。「階級の敵、彼らが誰であろうとも、彼らの種は3世代を通して除かれなければならない」

囚人は外界とのどんな接触も許されない。自殺すれば連座した親族の懲役が延長されるのだ。警備員は罰されることなく囚人を叩き、強姦し、殺すことができる。女囚が許可なしで妊娠しているときは新生児は殺される。

大部分の政治キャンプは「完全な支配地区」であり、収容者は死までそこで働くのだ。


韓国は北の強制収容所への批判を避け続けるばかりか、「太陽政策」の下、北への大きな経済投資をし、食物と肥料の巨大なプレゼントをし続けてきた。・・・アメリカも問題解決へ消極的だ。

韓国弁護士協会が語る。「韓国人は北との兄弟愛を優先し、無関心の深い泥沼にはまり込んでいる。手詰まりを打破するためにこのレポートを発表したのだ」・・・(抄訳:平井修一)

2009年07月18日

◆山科だより「本願寺山科両別院」




渡邊好造

JR山科駅前、京阪電車・京津線踏切横に石柱があり『本願寺山科両別院・是より左六町・明治42年建立』とある。「本願寺」には”西”と”東”の2つの本院があり、山科両別院とはそれぞれに所属する別院のことをいう。

「西本願寺山科別院」は"東野狐藪町(きつねやぶちょう)"に、「東本願寺山科別院」は"竹鼻(たけはな)サイカシ町"にある。("竹鼻"の町名数13。"サイカシ"は、近くにあった豆科の大木サイカチの意)。この『本願寺山科両別院』を理解するには、まずは「本願寺」の歴史を辿る必要がある。

浄土真宗の開祖・親鸞は、弘長2年(鎌倉時代・1262年)に入滅し、京都東山の西麓「延仁寺」で荼毘のあと東山大谷に葬られた。文永9年(同・1272年)「崇泰院」(現・知恩院の北)の裏庭に改葬となり、ここが「本願寺」の起源となる。

その後、第8世門主・蓮如(れんにょ)の時代に、比叡山「延暦寺=天台宗」の反感を買い東山大谷の堂宇が破壊され、ここで「本願寺」はいったん途絶える。蓮如は、近江(滋賀県)「三井寺=天台宗」の南、別所近松の小堂に親鸞のご真影と遺骨を安置したが、ここも応仁の乱で追立てられ、越前(福井)では「専修寺=真宗」の門徒に焼打ちにあい、小浜(福井)へ。

文明10年(室町時代・1478年)蓮如は、山科(山科郷野村)で再興を計り、5年後に山科「本願寺」を完成させた。

その領地は御本寺、内寺内、外寺内、南殿と広大な寺内町で、堀、土塁を築いた城塞形態であった。蓮如は明応8年(同・1499年)に亡くなったが、その勢いに脅威を感じた権力者や法華宗徒などから襲撃され、天文元年(同・1532年)山科の「本願寺」は壊滅し廃寺となる。

翌年、一門は摂津国「石山本願寺」(現・大阪市中央区大坂城あたり)を御坊にしたが、ここでも元亀元年(同・1570年)〜天正8年(安土桃山時代・1580年)の11年に及ぶ信長との石山合戦に敗れて紀州(和歌山県)へ逃れる。

その後、天正19年(同・1591年)顕如の時、秀吉の援助で「本願寺」は京都六条堀川(下京区)に所領を得、顕如の三男・准如が第12世門主を相続した。ところが、いったん退いた長男・教如が慶長7年(同・1602年)家康から京都烏丸に、後に東山五条坂(下京区)に新たな所領を受け、ここで「本願寺」は西と東に分裂する。

六条堀川の"秀吉"方は「西本願寺=西御坊(お西さん)=浄土真宗本願寺派」、東山五条坂の"家康"方は「東本願寺=東御坊(お東さん)=真宗大谷派」である。

「東本願寺」は、江戸時代に"火出し本願寺"といわれるぐらい幾度もの火災に遭って明治以降に再建されたもので、正式名は教法宣布・根本道場としての「真宗本廟」という。昭和44年(1969年)に始まった権力と財産問題がからんだいわゆる"お東騒動"が続き、元々の「東本願寺」は昭和62年(1987年)宗教法人ではなくなり、以降次の4つの系統になる。

@「東本願寺=真宗大谷派真宗本廟」(下京区)、
A「本願寺=浄土真宗大谷派本願寺維持財団」(山科区上花山・東山浄苑)=平成13年(2001 年)宗教法人認証、
B「本願寺=浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」(東京都台東区)=平成13年(2001年)真宗大谷派東京東本願寺別院から名称変更、
C「大谷本願寺」(右京区)=平成19年(2007年)宗教法人認証。

ABCは@から分離独立した。

なお、「西本願寺」は平成6年(1994年)に京都世界文化遺産17社寺城の1つとして登録されている。

さて、山科「本願寺」は壊滅廃寺となったものの、その後も蓮如を慕い山科詣でを続けていた全国の信徒から、ぜひともお参りする寺が欲しいとの要望が相次いだ。

そこで、享保17年(江戸時代・1732年)、かっての山科跡地に再建されたのが、東野の「西本願寺山科別院=舞楽寺」(西御坊)、竹鼻の「東本願寺山科別院=長福寺」(東御坊)である。

近くには、"西野大手先町(にしのおおてさきちょう=西野の町名16)"に「蓮如上人御廟所」、 "西野阿芸沢町(あげざわちょう)"の山科中央公園には国指定史跡の「本願寺土塁跡」がある。

"西野広見町(ひろみちょう)"の「西宗寺」は、蓮如が山科で再興を計った時に土地を寄進した海老名五郎左衛門・所縁の寺で、文明3年(室町時代・1481年)五郎左衛門が浄乗の僧名を拝領し開祖した。門前の石柱には「蓮如上人御往生之地」とある。この辺りが山科区の中心部で、最寄駅は地下鉄「東野駅」。

本願寺系統とは別に 、山科駅に近い"竹鼻竹の街道町(たけのかいどうちょう)"に「竹ケ鼻・護国寺」がある。寛永20年(江戸時代・1643年)日勇の創建によるもので、日蓮宗の学問所・京都六壇林の一つとして"山科壇林"ともいう。

今回のテーマ”本願寺”については、「我が家の宗派は浄土真宗」という人でも理解できていないことが多く、西と東の違いについては尚更である。日本は13宗56派9600万人(文化庁・宗教年鑑)の信者を誇る世界最大の仏教国でありながら、各宗派の信者はこうした歴史・背景についてあまり関心を持たないのが実情のようである。

とはいえ、浄土真宗は仏教檀家数の9割に達し、一門の七転び八起き、有為転変を経た今日の隆盛をみると、「結果良ければ全て良し」、「人の評価は百年単位」をつくづく感じさせる。

そうした忍耐と辛抱の大切さを示すかのように「竹ケ鼻・護国寺」の門前掲示板の手書きの訓話には、松下幸之助氏の言葉で有名な「雨が降れば傘をさす」(PHP研究所刊「実践経営哲学」)に加えて「ドシャ降りならばやむまで待て」とあった。(完)


2009年07月12日

◆九十翁の「台湾の青春」




平井修一

戦後、GHQの走狗となったNHKや朝日新聞など容共左派のマスコミは、三つ子の魂百までもで、未だに「戦前の日本=侵略者」、いわゆる自虐史観にしがみついている。

左巻きではNHKの師匠である朝日も「上手の手から水が漏れ」たのだろう、「甲子園球児=純真無垢」を強調したかったのだろうか、「人・脈・記」(070703)でぽろっと「台湾の真実」を書いてしまった。

<甲子園アルバム 台湾の青春「球は霊なり」

台湾のチームが甲子園で準優勝したことがある。1931年、満州事変がおきた年に海を船でこえてきた嘉義農林である。その中堅手だった蘇正生はいま94歳。台湾・高雄の介護施設に訪ねると、ユニホーム姿で車いすに乗ってあらわれた。 

「はじめて甲子園運に入ったら、みな草色。ランニングしたら広かった。グラウンドは砂のごとく平ら。台湾は石ころがゴロゴロ。もういっぺん、行ってみたい」

とつとつと日本語をつむぐ。涙があふれ、鼻水がたれる。それでも話しつづける。蘇にとって甲子園こそ青春そのものなのだ。  

台湾は日清戦争で日本に割譲された。野球は日本人といっしょにやってきた。嘉義農林の監督になったのは近藤兵太郎。愛媛の松山商で監督をしていた人だ。「球は霊なり」と蘇らを鍛えあげた。

「近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた、差別、ひとつもありませんでした」

レギュラ−9人のうち3人は日本人、蘇ら2人は「本島人」と呼ばれ、4人は先住民族「高砂族」だった。甲子園のグラウンドをはだしで駆ける者もいた。

決勝で中京商に4一10で敗れる。作家菊池寛は観戦記に書いた。「日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」

日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなる。大陸からきた国民党軍による反対派弾圧事件で2万ともいわれる死者が出た。蘇のチームメートだった陳耕元らは混乱をさけて田舎に帰り、先住民のために学校をつくって野球を教えた。

そのすそのから育ったのが中日ドラゴンズの投手になる郭源治(50)だ。農家に生まれ、7人兄弟の3番目。先住民族の一家は貧しく、野草を煮て食べた。男の子たちの楽しみは野球だ。

「うちのおやじは日本語ペラペラ。日本が好きでした。逆に僕が教育されたころは、戦争のことなどがあって日本のことが嫌いというところはあったんです」>

蘇正生や郭源治の父親は日本の統治が台湾のためであったことに感謝と郷愁を覚えている。この事実をまるで逆に描いたNHK「JAPANデビュー」は犯罪的である。

読者各位

「NHKを正す会」へご支援を!

☆署名サイト↓でNHKにNOを突きつけて下さい!
http://www.shomei.tv/project-1030.html

2009年07月11日

◆GM再建は中国頼み



平井修一

人のうわさも75日か、GM再建のニュースがこのところほとんど聞こえなくなった。公的資金2兆円のカンフル剤でどうにかやりくりするのだろうが、再建の鍵を握っているのはどうやら中国のようである。

中国で生産して中国はもとより米国でも販売しようという計画らしい。日経BPがこう報じている。

<新生GMは米本土で工場閉鎖や人員削減などの合理化を進めると同時に、新型車の開発、生産、販売で大胆な“アジアシフト”を急ぐ可能性が高い。そのカギを握るのが韓国の子会社「GM大宇自動車技術」と、中国の上海汽車との合弁会社「上海通用(GM)」である。

「GMが中国で生産したクルマを2011年から米国で販売へ」――。5月12日、米自動車専門誌オートモーティブ・ニュースはそう報じた。・・・GMは、2011年に中国生産車を米国で1万7335台販売し、2014年にはこれを5万1546台に増やす計画を提示していた>

恐るべし、爆食・中国は世界最大の自動車王国になった。

<上半期の新車販売、初の世界一=米国抜き609万台強−中国

【北京7月9日時事】中国自動車工業協会は9日、上半期(1〜6月)の新車販売台数が前年同期比17.69%増の609万8800台になったと発表した。これにより、中国は米国を抜き、半期ベースで初めて世界一となった。・・・

中国政府は景気刺激策の一環として、小型車に対する自動車購入税の引き下げや農村への自動車普及策、旧型車の買い替え促進策などを相次ぎ打ち出している。

新華社電によると、同協会は下半期の販売ペースについて楽観を戒めつつも、2009年通年の販売台数予想を、年初の1020万台から1100万台超に上方修正した。米国では深刻な景気低迷を受け、月間の販売台数が100万台を割り込む状況が続いており、通年でも中国が初の世界一となる可能性が強まっている>

GMは米国市場では日本メーカーにやられっぱなしだから、日本メーカーの進出が遅れている中国で一気に挽回しようという腹積もりらしい。GMのバカデカイ車は「面子と見栄」(OJIN様)の中国人とはどうやら相性がよさそうで、GMは結構売れているという。 

日経に放送プロデューサーのデーブ・スペクター氏が寄稿している。

<米国人は基本的に大きくて豪快な車が好きなんです。僕もGMの車を愛用していました。1台は「シボレー・タホ」。日本では迷惑なくらいバカでっかいSUV(多目的スポーツ車)です。もう1台は「シボレー・コルベット」。これは本当の愛車で、81年型のビンテージカーでした。・・・

大好きだったコルベットは2006年9月、爆発・炎上して廃車になりました。本当に死ぬかと思いました。テレビや新聞でも報道されて警察と消防が徹底的に調べたら、燃料ホースの劣化が原因でした。・・・

今はBMWとメルセデス・ベンツに乗っています。本当はアメ車に、できるならビンテージカーに乗りたいんですが、まだ炎上のショックから立ち直っていないんですよ>

爆発・炎上するなんていう車をトヨタに造れと言っても頭を抱えるだろう。こういう派手な車は項羽や曹操、劉備などの英雄豪傑を輩出した中国にこそふさわしい。

GMが中国を再建戦略の柱とし、一蓮托生で再建なればドルも中国の保有する米国債も安定するから米中はウィンウィン、ラブラブである。GM=米国はどっぷり中国にはまり、民主・人権・法治の三点セットなんてアッケラカーノカー。やがて太平洋を東西で分割するのだろう。その頃日本は民主党政権下、倭族自治区になっているのだろうか。

2009年07月10日

◆推奨「日本人の歴史教科書」



平井修一

新しい歴史教科書をつくる会による「日本人の歴史教科書」(自由社、発行人・加瀬英明)を読了した。日本史を縦軸に、関連する世界史を横軸に書いているので、世界の中の日本の動きが立体的によく分かって面白かった。

記述は平明で、日本人として必要最小限の歴史が、できる限り客観的に書かれている。満州事変や満州国建国の記述は関東軍の独走という、いささか手垢のついたありきたりの記述で、リットン調査団報告書についても鵜呑みにしており、いささか疑問が残るが、総じて日本史を冷静的、学術的に叙述しており、歴史の流れを興味深くなぞることができた。

欲を言えばソ連が糸を引くコミンテルンの活動をもう少し詳しく書いて欲しかった。大東亜戦争においてコミンテルンは大きな影響力を持っていたのだから。今後の研究に期待したい。

寛仁親王殿下の特別寄稿「天皇と日本」や、錚々たる気鋭の保守派論客による論文「日本を読み解く15の視座」も勉強になった。

日本史の負の側面である朝鮮の「日韓併合」「三・一独立運動」への武力鎮圧などについても客観的に紹介されている。大東亜会議や東京裁判など解釈が異なる事件については両論を併記し公正を保つ配慮がうかがえる。

総じて我が国への愛情と誇りをもった記述であり、GHQに押付けられた自虐史観とはまったく異なる歴史書である。我々は真の歴史書をはじめて持ったのだ。

韓国はこの教科書に多分読みもしないで早速反発し、「日本の中学校歴史教科書検定結果に対するスボークスマン声明」を発表するとともに、わが国の外務省に対して申し入れを行った。つくる会では6月に李明博大統領及び韓国大使館権哲賢大使に対し質問書を送付しているが回答はない。

さらに在日本大韓民国民団はこの教科書を「地方の教育委員会に対して採択しないよう申し入れる等の活動を行っていることが明らかになった」(つくる会)という。つくる会は7月3日「貴団体のこのような悪質な内政干渉の活動に対して強く抗議するとともに、直ちにかかる活動を中止するよう申し入れます」と抗議している。

韓国も同様だろうが、「中国や北朝鮮にとっての歴史は、日本人が考えるような、過去の史実を正確に伝えるものではなく、現在を正当化するための政治でしかない」(宮脇淳子博士・中国・モンゴル史)。

宮脇氏は(2669年の万世一系の天皇をいただく)我々日本人こそが百年、二百年後にも通用するような、筋の通った歴史を書くべきだと強調しているが、その第一歩こそが「日本人の歴史教科書」である。

2009年07月07日

◆太り続ける米国人



平井修一

母の介護のためもあって専業主夫としては食事のバランスには気を使っているが、先日、母の血液検査をしたらL(ロー)、H(ハイ)がゼロで完璧に標準値になった。薬やサプリの効果もあるが、こと血液については母は我が家で一番健康である。

CNNが「米国の肥満率、不況下でも23州で上昇」と報じている(7月5日)。この国はますます不健康になっているようだ。

<米国民の肥満傾向は景気後退が続く中でもとどまる気配を見せず、成人の肥満率は全50州中23州で上昇していることが、米非営利団体「米国健康トラスト」と「ロバート・ウッド・ジョンソン財団」による調査で明らかになった。・・・

調査では、米疾病管理予防センターの基準に基づいて、体重(キロ)を身長(メートル)の2乗で割った体格指数(BMI、注参照)が30以上の場合を「肥満」、25以上30未満を「太りすぎ」と判定し、成人と子どもについて州ごとの割合をまとめた。

それによると、過去1年間に「肥満」と判定された成人の割合は、31州で25%を超えた。91年の統計では、20%を超える州はなかったという。

ミシシッピ州は5年連続で首位を記録。前年の31.7%からさらに増え、32.5%の成人が肥満の範囲に入った。・・・

ミシシッピ州(注:最貧困州)では、10−17歳の子どもたちのうち44.4%が肥満または太りすぎと判定されている。・・・

昨年来の不況にともない肥満傾向がさらに進行していることについて、専門家らは

(1)家計が圧迫され、栄養バランスの良い食品を選ぶことが経済的に難しくなった

(2)公共サービスの予算が失業対策などに回されるため、肥満対策が手薄になっている

(3)経済的な不安感やストレスを原因とする肥満が増えた

――などの要因を指摘している>

何を食べてこんなに太るのだろうか。どうも肉と炭水化物に偏った食生活のようだ。ハンバーガーやステーキとポテトばかり食べている印象である。

<【2月21日 AFP】全米一のジャガイモ生産量を誇るアイダホ州のアイダホ・ポテト委員会が行った世論調査によると、米国人が最も好きな野菜はジャガイモであることが19日明らかになった。

18歳以上の成人1000人を対象に行われたこの調査によると、回答者の26%がジャガイモをもっとも好きな野菜として挙げ、以下トウモロコシ(19%)とブロッコリー(17%)が続いた(注:4位はトマト16%)。

米農務省は健康のために1日に5皿の野菜を食べることを推奨しているが、アイダホ・ポテト委員会が最近実施した調査では、米国人の98%がこの基準をジャガイモを食べることで満たしているという>

原文に当たったら potatoes are "America's favorite vegetable." とある。ジャガイモが米国では野菜か! ということはコメも野菜なのだろうか。小生はスシをヘルシーだとは思わないが、コメを野菜と認識している米国人ならヘルシーと思うのかもしれない。

穀類を青物の代わりの副菜とし、肉とパンを主食とし、アイスクリームをなめ、コーラやビールを飲む・・・こりゃあ太らないはずはない。不健康な食事の代表例だろう。肥満はすでに社会問題だ。

<【7月4日 AFP】ロバート・ウッド・ジョンソン財団のジェームズ・マークス氏は、「米国の医療費を抑制するうえで肥満は非常に重要な要素だ」と指摘する。・・・2030年までに米国の医療費の6分の1が、肥満関連の疾病に費やされるおそれがあるとしている。・・・

現在米国に暮らす子どもたちは史上初めて、親の世代よりも短命な世代になる恐れがあるとマークス氏らは警告している。

しかしその一方で「肥満の原因は政策と生活習慣であることを米国人は理解し始めている」(マークス氏)ため、論文をまとめた研究グループは米国は2015年までに肥満の増加傾向を逆転させることができると信じている>

日本は10年遅れで米国の轍を踏むという説があるからご用心ご用心。

(注)BMI(Body mass index)は、身長の二乗に対する体重の比で体格を表す指数。
 BMI=体重kg/(身長m)2乗

このBMIが男女とも22の時に高血圧、高脂血症、肝障害、耐糖能障害等の有病率が最も低くなるということがわかってきた。そこでBMI=22となる体重を理想としたのが標準体重だ。
 標準体重=22×(身長m)2乗