2009年07月06日

◆九十翁の「台湾の青春」




平井修一

戦後、GHQの走狗となったNHKや朝日新聞など容共左派のマスコミは、三つ子の魂百までもで、未だに「戦前の日本=侵略者」、いわゆる自虐史観にしがみついている。

左巻きではNHKの師匠である朝日も「上手の手から水が漏れ」たのだろう、「甲子園球児=純真無垢」を強調したかったのだろうか、「人・脈・記」(070703)でぽろっと「台湾の真実」を書いてしまった。

<甲子園アルバム 台湾の青春「球は霊なり」

台湾のチームが甲子園で準優勝したことがある。1931年、満州事変がおきた年に海を船でこえてきた嘉義農林である。その中堅手だった蘇正生はいま94歳。台湾・高雄の介護施設に訪ねると、ユニホーム姿で車いすに乗ってあらわれた。 

「はじめて甲子園運に入ったら、みな草色。ランニングしたら広かった。グラウンドは砂のごとく平ら。台湾は石ころがゴロゴロ。もういっぺん、行ってみたい」

とつとつと日本語をつむぐ。涙があふれ、鼻水がたれる。それでも話しつづける。蘇にとって甲子園こそ青春そのものなのだ。  

台湾は日清戦争で日本に割譲された。野球は日本人といっしょにやってきた。嘉義農林の監督になったのは近藤兵太郎。愛媛の松山商で監督をしていた人だ。「球は霊なり」と蘇らを鍛えあげた。

「近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた、差別、ひとつもありませんでした」

レギュラ−9人のうち3人は日本人、蘇ら2人は「本島人」と呼ばれ、4人は先住民族「高砂族」だった。甲子園のグラウンドをはだしで駆ける者もいた。

決勝で中京商に4一10で敗れる。作家菊池寛は観戦記に書いた。「日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」

日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなる。大陸からきた国民党軍による反対派弾圧事件で2万ともいわれる死者が出た。蘇のチームメートだった陳耕元らは混乱をさけて田舎に帰り、先住民のために学校をつくって野球を教えた。

そのすそのから育ったのが中日ドラゴンズの投手になる郭源治(50)だ。農家に生まれ、7人兄弟の3番目。先住民族の一家は貧しく、野草を煮て食べた。男の子たちの楽しみは野球だ。

「うちのおやじは日本語ペラペラ。日本が好きでした。逆に僕が教育されたころは、戦争のことなどがあって日本のことが嫌いというところはあったんです」>

蘇正生や郭源治の父親は日本の統治が台湾のためであったことに感謝と郷愁を覚えている。この事実をまるで逆に描いたNHK「JAPANデビュー」は犯罪的である。

読者各位

「NHKを正す会」へご支援を!

☆署名サイト↓でNHKにNOを突きつけて下さい!
http://www.shomei.tv/project-1030.html

2009年07月01日

◆不法就労天国ニッポン



平井修一

「上に政策あれば、下に対策あり」は中国人の知恵だが、指紋を偽装までしても中国人や韓国人は日本に入国したいというのだから、よほど日本はおいしいのだろう。まるでシコメの深情けみたいに日本は好かれている。

<指紋“切除”で不法入国が続発 生体認証すり抜け狙い

入国審査時に指紋を読み取り、過去に強制退去処分を受けた外国人らのリストと照合する「生体情報認証システム」をすり抜けるため、指紋の一部を切除するなど改変し、成田空港から不法入国を図るケースが相次いでいることが29日、入管当局などへの取材で分かった。

昨年、不法残留で強制退去処分となった韓国人の女が特殊テープを指に張り付け、同システムをすり抜けて青森空港から再入国していたことが判明。警戒を強める中での新たな手口の登場に、関係機関も対策に追われている。

入管当局は今年から、青森空港事件などを受けて認証システム頼りの審査を見直し、指紋読み取り機が異常を察知した場合は逐一、入国者の指紋を直接肉眼で厳重チェックする方法に改めた。

この結果、成田空港では1月以降、指紋の一部を切除した後に縫い合わせたり、やすりのようなもので指紋を削った中国人の男女計4人を相次いで発見。千葉県警が、この4人を入管難民法違反容疑で逮捕し、いきさつを詳しく調べた。

県警によると「中国で、5千元(約7万円)で医者に手術してもらった」などの供述を得ており、中国側の密航あっせん組織が関与している可能性もあるとみて、動向を注視している>(2009/06/29 共同通信)

それまでしても日本に来たい理由は当然ながら「金」である。法務省によると平成20年に摘発した不法就労者3万2471人の報酬日額は、「5千円を超え7千円以下」が1万4829人と最も多く、次いで「7千円を超え1万円以下」が1万273人だ。中にはホステスやホスト、売春婦だろうか「3万円以上」という“猛者”もいる。

日銭1万円というのは中国人にとって魅力である。上海の大卒初任給は4万円、年収48万円であり、これで結構なエリートなのだ。日本で2ヶ月も働けばエリートの年収が稼げるのである。

1万円がいかに大金か。物価水準から言えば、彼らにとってそれは8万円に相当する。指を手術しても十分にペイするのだ。

彼らの受け皿が整備されているのだろう、うまく日本社会あるいは闇社会に潜り込めば摘発を免れて何年間も仕事にありつける。就労期間別で見ると、なんと5年を超える者が1万262人で、不法就労者全体に占める割合が31.6%と最も多いのだ。

今年は不況で製造業などが打撃を受けているために工員の仕事がないだろうから不法入国、不法就労は減るだろうが、景気が上向けばどっと押し寄せるのではないか。ご用心ご用心。

2009年06月28日

◆山科だより 音羽・小山・大宅・京都刑務所



                   渡邊好造

京都市山科区の中央を山科川が流れる。山科川は、宇治川、淀川へと繋がり大阪湾に注ぐ。この川に沿って外環状線道路が山科駅から南へ京都市伏見区の六地蔵へ向かう。その地下は地下鉄東西線が走る。

今回は、この道路の東側にある「音羽(おとわ)=この町名数・19」、「小山(こやま)=同・19」、「大宅(おおやけ)=同・25」の3地区と、「東野(ひがしの)=同・13」の東半分にある「京都刑務所」を紹介しよう。

「音羽」の地名は、大津市との境にある高さ593メートルの"音羽山"とそこから山科川に注ぐ"音羽川"一帯のかっての「音羽荘園」に由来する。

"音羽山"の支峰で551メートルの高さの「牛尾山(うしおざん)」は”音羽南谷町(みなみたにちょう)”に位置し、そこには由緒ある「牛尾観音=正式名・法厳寺(ほうごんじ)=浄土宗」がある。宝亀9年(平安時代・778年)延鎮が創建した。

京都東山・清水寺の所在地もおなじ音羽山であることから"清水寺の奥の院"ともいわれる。京阪電車・京津線「追分(おいわけ=大津市)駅」から山道を徒歩約1時間登る。本尊は十一面千手観音で、御開帳法会として4月と10月の17日に公開される。

“小山大石山(おおいしやま)”の「白石神社」は"音羽山"の麓にあり、大同年間(平安時代・800年初め)から"伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)"を祀っている。両神は"日本書紀"によると国々と山川草木を生み出した、とある。境内に高さ4メートル長さ9メートルの白い大石があるので、この神社名がついた。

「小山」地域(一帯を小山の里と呼んでいた)で700年来の伝統行事として続いているのが、2月初めの「二九(二の講=にのこう)」祭である。平安時代からこの地に代々住む勇者が"音羽山"の大蛇を退治したらその祟りで病になったので、その霊を鎮撫するために孟宗竹に300束の藁を巻きつけて作った20メートル位の大蛇をかつぎ練り歩く。

“音羽森廻り町(もりまわりちょう)”には「若宮八幡宮」がある。天智天皇(在位668〜671年)が山科巡行の際にこの地に建てるように勧請した。天武天皇(在位673〜686年)の第3皇子・大津皇子とその子・粟津王の供養塔がある。

皇子は朱鳥元年(奈良時代・686年)謀反の疑いで自死させられた。明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の政策によって、神宮寺(神社に付属寺)」が廃寺となり、そこにあった仏像は西隣りの「南殿光照寺(なんでんこうしょうじ)=浄土真宗」に移されていたが、昭和42年(1967年)に戻されている。

「南殿光照寺」は、”音羽伊勢宿町(いせじくちょう)”にある。ここは蓮如(浄土真宗第8世宗主)が延徳元年(室町時代・1489年)から明応8年(同・1499年)まで隠棲していた「泉水山・光照寺」のあった所で、天文元年(同・1532年)に法華宗に襲われ焼失した。寺内跡地は、国指定史跡である。最寄駅は、京津線「四宮駅」と地下鉄東西線「東野駅」。

“大宅中小路町(なかこうじちょう)”には、「岩屋神社」がある。寛平年間(平安時代・889〜897年)創建。陽と陰の巨大な2つの石に祭神「天忍穂耳命(あめのおしほ・みみのみこと)」とその皇太后、皇子がそれぞれ祀られている。治承年間(平安時代・1177〜1180年)に「園城寺(おんじょうじ・通称は三井寺)=天台宗」の僧に焼かれたが、弘長2年(鎌倉時代・1262年)に再建され現在に至る。例祭は4月29日。豊作祈願の八朔祭は9月1日。

“大宅奥山田(おくやまだ)”の「歓喜光寺(かんぎこうじ)=時宗」は、"時宗の開祖・一遍"の弟子・聖戒が正応4年(鎌倉時代・1291年)京都八幡(やわた)に創建し、京都を転々としたあと東山からこの地に落着いたのは昭和50年(1975年)。国宝で寺宝の「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」がある。

「大宅」の地名の由来は、この地の豪族"大宅"氏の名前からという説、"大屋家(おおやけ)"といわれる中臣鎌足(645年の大化改新の立役者)の館があったからという説、の2説がある。東西線「椥辻(なぎつじ=この町名数は10=付近に"なぎ"の大木があった)駅」が近い。

「東野」は、「音羽」と「大宅」の西側に位置する山科住宅街の真ん中にある。中央原野一帯をかって”野村”と称し、後に”東野(村)”と”西野(村)”に分けられた。

「椥辻駅」に近い”東野井ノ上町(いのうえちょう)”には名所旧跡とは冗談にも言えないが、「京都刑務所(1486平方メートル=450坪)」がある。約1500人の収容者は木工、印刷、洋裁などの作業に従事し、製品はすぐそばの専門店で販売されていて好評。高い塀で囲まれているが刑務所だといわれない限り分りにくいし、住民もそれ程意識しているようには思えない。

明治2年(1869年)に「二城城」の南(中京区・六角通り大宮)に"徒刑場"の名で設置され、同3年(1870年)に城の西へ、同・14年(1881年)"京都府監獄所"、大正11年(1922年)「京都刑務所」となった。

法務省・大阪矯正管区に属する刑務所である。昭和2年(1927年)京都市内が手狭になり、空き地だらけだった山科に移った。今のように便利な住宅地だったら反対運動で大変だっただろう。

かって、養鶏場の傍へ移転してきた住民が臭いからといってその養鶏場を追出しにかかる、米軍の基地ができるまでは周りは鬱蒼とした森だったのにそこに住宅が建ち並び、その住民が危険だ騒音がひどいと基地移転を迫る、空港の騒音がウルサイとして保証金を受取りながら、その空港が移転となると反対をする、など身勝手な話をいくつも聞いたことがある。

それを思うと山科の住民は皆な大人しく、礼儀正しく、そして寛大である。(完)




2009年06月14日

◆水面に浮いた蛸(たこ)

渡邊好造

友人に無類の動物好きがいて、生きているものなら犬、猫は無論のこと、蛇でも虫でもなんでもOKである。

近くの海辺で、"蛸"を捕まえてきて金魚用の水槽で飼うことになった。8本足のクネクネとしたあの軟体動物である。エサもよく食べるし、狭い水槽も気にならない様子。

1匹では淋しかろうと、もう1匹捕まえてきて同じ水槽に入れたところ、2匹目の"蛸"は底に沈まず水面にポッカリ浮いたままになった。

無理やり押さえつけて沈めても浮いてくる。与えるエサはほとんど沈んでしまい底の"蛸"が平らげてしまうので、水面に浮かぶエサをやることにしたら上下の"蛸"とも見向きもしない。"蛸"は、水面に浮かぶエサを食べないのである。

2匹目の"蛸"は病気かもしれないと思いながら、飼い続けているうちに衰弱して死んでしまった。

さらにもう1匹捕まえてきて水槽にいれると、今度の"蛸"もやはり水面から沈まない。理由が分らないまま、海水が汚れたので入れ替えることにした。その際無意識に、浮いていた方の2匹目の"蛸"を先に水槽にいれ、底にいた方を後にするとこれまでとは上下逆になってしまった。

そこでハタと気がつき、2匹の"蛸"を同時にいれると2匹とも無事底に到着した。先に底に到着した方は全てを縄張りにし、2匹同時に底に着けば狭い場所でも2分し共存することになるのだ。

人間の世界でも水槽の"蛸"と同じようなことがあるのではないか。

筆者は、40余年のサラリーマン生活で2度水面に浮いた"蛸"を経験した。 18年間勤務した広告代理店から大手消費者金融会社に転職した時が1回目。

当時(昭和53年=1978年)の消費者金融業界のイメージは良いとはいえず、転職の誘いに乗る気は全くなかったが、相談相手の公認会計士の人が言うには「問題点も多いが、これから発展し儲かる業種だ。イメージやプライドは忘れてノウハウを会得するチャンス。新会社設立資金は出すから5年先を目指せ」とのことで決意した。

ところが、筆者への期待感よりも生え抜き社員からの疎外感・排除感は想像以上で、定着するまで時間を要した。同時に入社した4人のうち他の3人は1年ももたず退職した位である。

結果的にはこの時がまさに水面に浮いた"蛸"であった。おまけに、資金を出すと言っていた相談相手は事故で4年後に亡くなった。

転職当時、"○友銀行の○ISAカード"の担当者が入会を盛んに勧誘するので、口座を開き申込書を送った。数日して封書で送られてきたのは「今回はカード発行を見合わせさせていただきます」であった。

担当者によると断り理由は消費者金融の業種。相談相手にこのことを話すと「ノウハウは知られていない。やはり金融は間違いなく儲かる」であった。今思えば、楽天の野村監督ではないがこのカード会社は「バッカじゃなかろか!」である。

その後、金利計算や貸付・回収のノウハウを覚え、目新しい業種で注目されていたこともあり、講演、原稿依頼が続くなどのプラス面も多かった。業界は順風満帆、株式上場する会社も続出し、イメージも急上昇した。

しかし、いいことばかりは続かない。平成4年(1992年)のバブル崩壊の余波もあり、会社は株投資で莫大な損金を出し、潰れはしなかったが銀行管理である。

その跡始末の一環として、平成6年(1994年)子会社の再建か整理かの見極め業務のため社長として東京へ単身赴任することになった。これが2度目の水面に浮いた"蛸"の経験である。

その子会社は、スイスの持株会社から昭和56年(1978年)に買収した結婚情報サービス会社で、これまで親会社から役員を派遣してきたが赤字解消はならなかった。

赴任当時、「今度の新社長も1年以内に親会社に追い返してやる」というのが、改革を良しとしない役員以下ほとんどの社員の合言葉だったらしい。知らぬは水面に浮いた"蛸"社長のみである。

結局、黒字転換にはかなりの投資が必要で、整理解散がベターとなった。新宿50階建ビルの眺めのいい29階の社長室で過すこと3年、業務は無事終了した。

親会社は、平成10年(1998年)に管理銀行からアメリカ資本の会社に営業権が譲渡され、英語が飛び交う新会社となる。莫大な負債は旧会社がきれいに整理し、アメリカ資本となった新会社は平成20年(2008年)に日本の銀行にさらに転売され、現在も営業を続けている。

筆者は、いくつもの危機をうまく乗切りタイミングよくリタイヤできたが、もう少し若ければ英会話は全く駄目だし、3度目の水面に浮いた"蛸"になっていたかもしれない。

なお、 消費者金融業界は、貸付金利規制(上限20%)、貸付総量規制(一個人年収の3分の1以下)、業者の財産的基礎要件規制(5千万円以上)など、改正貸金業法による厳しい規制が平成22年(2010年)6月完全施行されるため、業者の9割が消滅かといわれている。

顧客にとっても借り先、借入金額が少なくなり、その分ヤミ金のはびこる可能性も否定できない。この業界はまさに水面に浮いた"蛸"である。(完)


◆全国版メルマガ「頂門の一針」6月14日(日)1576号

<同号 目次>
・3度目の核実験情報を入手:古澤 襄
・世界大収縮での金銭哲学の要諦:佐藤ライザ
・知事はなぜ怒ったか:山堂コラム 270
・グアンタナモ基地の4人バミューダへ:宮崎正弘
・筍の育たない北国:渡部亮次郎

◆第1576号
渡部亮次郎氏主宰「頂門に一針》購読(無料)のお申し込みは
 下記のホームページで手続きして下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2009年06月03日

◆天安門発極秘報告電報


                  古森 義久

<天安門事件、米政府は当初から全容把握 秘密文書で判明

【ワシントン=古森義久】4日は1989年の天安門事件から20周年となるが、米国政府が事件当初からその全容を把握していたことを証する秘密文書がこのほど解禁され、内容が明らかとなった。

文書は北京の米国大使館員の目撃証言として、天安門地区での中国政府の行動を事件直後から明確に「虐殺」と特徴づけていた点などが注目される。

この文書は当時の先代ブッシュ政権の中国駐在大使ジェームズ・リリー氏から1989年6月4日付で米国の国務長官や国家安全保障会議あてに送られた。

北京の米国大使館からの秘密公電の文書は「6月3、4日に天安門周辺で起きた出来事の目撃証言」とされ、銃撃と死傷のほとんどが起きた長安街大通りの状況を明確にすることが目的とされていた。

天安門事件は現在ではその全体がわかっているが、当初は中国政府が民主活動家の殺害や虐殺をすべて否定したため、ベールに包まれた部分が大きかった。

しかし文書は、当時の北京の米国大使館政治部の中国語が堪能な館員が天安門広場内外に6月3日夜から4日朝まで密着し動き回って、人民解放軍部隊による民主活動家らへの銃撃の一部始終を実際に目撃していたことを明らかにした。

目撃した報告者はとくに長安街での2度にわたる軍による銃撃を「大虐殺」あるいは「2回の虐殺」と特徴づけ、流血の惨事はすべて人民解放軍による非武装の学生や一般民衆、民主主義活動家の一方的な殺害行為だと総括している。目撃証言は同じ6月4日に公電としてまとめられ、リリー大使の名により秘密扱いで本国に送られた。

文書は人民解放軍の将兵が腹ばいでライフル銃の狙いを定めて民主活動家たちを狙撃したことや、機関銃を乱射して抗議デモへの一般参加者までを撃ったことを具体的に伝え、しかもその銃撃で抗議デモ側に次々に死傷者が出た状況を生々しく報告していた。

米国政府がこの公電を長年、秘密扱いにしてきたのは、事件の解釈をめぐって主張の対立する中国政府に実情把握の程度や目撃証言による情報収集の方法を知らせないための配慮からだったとみられる。

【ワシントン=古森義久】北京の米国大使から本国政府へ送られた天安門事件についての最初の秘密報告の概要は以下の通り。

     ◇

6月4日午前1時、北新華街の片隅でも1・6キロも離れた民族飯店周辺から初めての銃声が聞こえてきた。西長安街ではバスやトラックが転覆、放火されて、オレンジ色の炎が道路沿いに広がった。

銃声がさらに大きくなり、人民解放軍の装甲車のヘッドライトが東に向けて動くにつれ、群集の間の怒りが高まった。年配の女性が「なぜ中国人が中国人を撃つのか」と叫んだ。若い男が「われわれは中国人だが、彼らは違う」と声をあげ、中南海を指さして「彼らは悪者なのだ」と叫んだ。

1時10分。群集の後方から腹に響く音が聞こえてきた。炎に包まれた装甲車が疾走してきた。装甲車の車輪に向け、群集は大きなコンクリート片を投げつけ、停止させた。怒った群集は装甲車を取り囲み、古い木材を積み重ねて火を放った。数分後、車の扉が開き、兵士が1人、飛び出した。群集は彼を捕まえて殴り、殺してしまった。

1時20分。後続の装甲車隊が群集を銃撃しながら北新華街に次々に到着した。弾丸が飛来し、群衆の中に血まみれになって倒れる人間が続出した。デモ参加者は兵士たちが空砲でもゴム弾でもなく実弾を撃っていることを知り、恐怖に駆られて天安門方向や脇道へと逃走した。

1時45分。さらに新たな部隊が天安門に着き、装甲車隊が長安街に面して一定間隔で展開し、人民大会堂の東正面にも達した。装甲車隊は東長安街の約1万5000人の抗議者らにヘッドライトの光をあて、不動の態勢をとった。

2時9分。毛沢東主席の肖像画の前に並んだ将兵と装甲車隊は長安街の大群衆に対し発砲した。群集は東の北京飯店の方向へと、どっと避難した。多数の人間が銃弾を浴びて倒れ、苦痛の悲鳴が起きた。報告者に向かって「なんとかしてくれ! あなたがた外国人に助けて欲しい!」と叫んだ男は次の瞬間、額の真ん中に銃弾を受けて倒れた。

2時30分。約100人の解放軍兵士は歴史博物館隣の道路の向かい側に腹ばいで布陣し、ライフルを40メートルほど東のデモ隊に狙いを定めていた。兵士たちが狙撃をするたびに、デモ隊はばらばらとなり、遮蔽物を求めた。数分後には街路に戻り、仲間の死体を輪タクに乗せ、元の場所に集結した。次に再び銃撃が起きると、10〜15人のデモ隊の人間たちがまた倒れた。

4時27分。天安門の照明は同3時30分に消えていたが、また点くと、装甲車、戦車、トラックなどが果てしないほど並んだ兵器集団が姿をみせた。

照明は広場の北端近くの「民主の女神」の残骸を照らし出した。人民英雄記念碑の周囲からは煙が上がっていた。広場での銃撃は学生たちが人民解放軍への武器の無い対決で、希望を失いながら殺されていったことを意味していた。

5時30分。装甲車、戦車、トラック合計約50台から成る軍の第2の隊列が轟音をあげながら東長安街を通って、天安門広場に入った。民主活動家たちが怒りの声をあげると、解放軍将兵はジープに装備した機関銃2丁を撃ち始め、15分ほども銃撃を続けた。

この大虐殺が中断されたとき、天安門広場と北京飯店の間の東長安街の路上には25〜30の人間の体が横たわり、その一部はもがき、他は動かなかった。活動家たちはその道路ににじり寄り、死傷者を輪タクに乗せ、人民解放軍の狙撃手の列とまた対決する構えをとった。

6時20分。装甲車、戦車、トラック合計約40台の軍の第3の隊列が東長安街を東から驀進し、広場に入った。人民解放軍将兵は民主活動家ら群集に向けまた10分ほど機関銃の激しい射撃を続け、多数の死傷者を出した。

この2回の虐殺の間、天安門の政府拡声器からは奇妙に優しくなめらかな声が流れ、「北京の友人たち」に「混乱は終わり、秩序が回復され、乱暴者たちは鎮圧されました」という鎮静の言葉が伝えられ続けた。

7時30分。拡声器が静かになって数分後、聞きなれた勇ましい中国国歌が流れて、周囲の空気を圧した。だが国歌の吹奏はその途中で歴史博物館の背後から響いてくるライフル発射の音と東長安街でのデモ参加者にまた発射された機関銃の連続音とに抑えつけられた。

国歌が終わると、ソフトな女性の声が流れた。「同志たち、おはようございます。幸いにも反革命分子は粉砕されました。私たちの愛する天安門広場に平和が回復されました」と。
              <産経新聞 6月2日付>

2009年06月02日

◆中国は米国を抜けない



            OJIN(在中国日本人)

三大投資家は、口をそろえて「これからは中国が世界経済の中心
になる」と言い、中でもジム・ロジャーズ氏は、「20年後、中国はアメリカを抜き世界最大の経済大国になる」と断言する。

私は中国の江蘇省南通市に在住しているが、これらは中国の実態を知らぬ机上の「空論」である。

07年、中国のGDPは300兆円強ではある。だが、アメリカは1400兆円で、ざっと5倍弱。仮に中国が、毎年10%弱の経済成長を20年間持続できたとすればそれは可能だが、10%弱の経済成長20年間継続という根拠は捜しても無い。

市井に暮らす庶民の目線から眺めた、「何故中国が、米・露・EU・日などに及び得ないのか」を述べる。

(1)少子化・高齢化が重い足枷。1980年から始めた所謂「1人っ子政策」の歪によって、日本と同じように少子化・高齢化問題を抱えている。しかも人口抑制という国の政策として厳格に実施されてきただけに、日本よりもはるかに深刻な歪をもたらしている。

全く同じではないが、中国のそういう統計が見当たらないので、日本の約10倍、という大雑把なモノサシで比較計算してみる。

1人の女性が、生涯で何人子供を産むかを示す合計特殊出生率に、ありそうな仮定を入れて計算された日本の約40年後の2050年のデータでは、総人口1億200万人。2100年には4700万人になる。日本は、2100年には、現在人口の60%減の国になる。

さて、では中国、2050年11億500万人、2100年5億700万人ということになる。問題は、生産年齢人口の割合がどれぐらいか、ということだ。

片やアメリカは?多分これからも、世界中から移民の流入が続き、人口は減少することなく増え続けていくだろう。しかも移民の大多数は、直ぐに使いものになる成年層。

国の人口が減るということは普通、生産に従事する人口が減り、非生産人口の高齢者人口比率が増えるということだ。つまり「少なくなっていく生産年齢層に社会負担が圧し掛かっていく」ということであり、社会が縮小するから経済活動も縮小し、非生産高齢者の扶養負担だけが増え続ける、という流れになる。

(2)中国にはなんにも無い‥‥

・ロシアには石油と天然ガスがある。

・アメリカには石油と豊かな穀倉地帯がある。

・EUには‥‥何もないから団結してなんとかしようというスピリッツがある。

・日本には世界最高水準の加工技術・・・1%2%の改良を積み重ねて20% 30%の結果にまでもっていく職人根性がある。

しからば中国には、いったい何があるのか?石油と天然ガスは既に自国産では足らずに、なりふり構わず世界中から漁りまくってる。

穀倉地帯?含毒食料を生産する穀倉地帯?ーーー皮肉はともかく、若者はほとんど都市部へ流れてしまって、次代の担い手がいない。

1%2%の改良を積み上げる精神・・・カケラもなし=差不多精神。

団結?オレがワレがで、中央政府のチカラが弱まれば即分裂、群雄割拠。覇権国家でもない日本を敵役にして反日教育でまとめなければ、国内をまとめることもできない散砂の民の国である。

旧ソ連は崩壊して分裂したが、あれは元々違う民族を支配していたわけだから当たり前の結果だ。だが中国は同一民族なのに強権=今は共産党)の下でなければまとまることができない民族だ。

こんなふうに何もなくて、アメリカの覇権が揺らいで成長率が下がれば中国の輸出も激減。外国企業の対中直接投資もますます減っていく。含毒食料だろうがなんだろうが、農業後継者がいないから食糧生産も落ちていく。

かつて、アメリカがクシャミをすれば日本は風邪をひくといわれた時代があったが、いま中国は「米国の成長率が1%落ちると中国の輸出は5%減るとの試算がある」。では、米国の成長率が「10%落ちたら中国の輸出は50%減る」ということになりはしないか?

更にかつて「日本がアメリカを買い占める」とかいわれた時期もあった。でも結局、日本はアメリカと並んで鼎立する‥‥ことすら出来なかった。

では、いまの中国に、その当時の日本の勢いの何分の一かでもあるか? 日本は対$360円から120円になっても技術改良と経費節減でなんとか凌ぎきった。

ならば中国に、同じことが可能か?もしも今の中国が、当時の日本と同じような状況になったとしたら、輸出産業は壊滅、瓦礫の山、輸出が壊滅したら、今の中国に何が残るだろう?

産経ニュースによれば、
<インフレや労賃、人民元の上昇を嫌って、外国企業の対中直接投資が減り始めた。昨年の日本・米国・欧州連合からの投資は、それぞれ25%、13%、29%減った。この間に、広東省の製靴業者(5千−6千社)のうち1千社が工場を閉鎖した。>

これは昨年の記事だが、25%って、四分の一ですよ!四分の一!

(3)中国にも豊富なものがあります!人口!‥‥しかし、人口が多過ぎて、産み出すものが糞となって消えてしまう。

現代では、人口が多過ぎるということは重い足枷である。その糞の
基になる食料生産の現場、農村の現況はどうなっているのか。

今の中国の農村は、かーちゃんだけの1ちゃん農業。

息子や娘は、当たり前で農村に残ろうとせず、みんな都市部へ行ってしまって居ない。専業農家ではやっていかれないので、とーちゃんも都市部へ出稼ぎ=民工)に出ている。

だいたいそのとーちゃんかーちゃんの年齢が、もう50代60代、どんなに若くても40代。この人たちが働けなくなったら誰が農業を担うのか。

(4)その一人っ子世代の実態は‥‥

小皇帝小公主という言葉はご存知だと思う。1人っ子政策の下で生まれ、両親とその両方の祖父母から蝶よ花よと大事に甘やかされて育ち、何の苦労をすることなく成長した若者。

それがもう既に親になる年代に至っていて、今産まれてきている子供達も同じく小皇帝小公主として育てられている。中国は基本的に夫婦共稼ぎだからこうした子供達は、たいてい父方の祖父母に預けられて生活している。

全部とは言わないが、爺っ子婆っ子がどういう人間に成長するか、容易に想像できる。次代を担う人間がこんな有様で、さて??

(5)もうひとつ豊富なものは軍事力!

中国は、空母艦隊を常備してハワイから東をアメリカ、西を中国で分割する?という計画で進んでいるようだが、空母?ーーーロシアとオーストラリアから鉄屑並みのスクラップ空母4隻を買い入れて、3隻はそのとおり鉄屑になり1隻だけが辛うじて使いものになりそうとか。

そんなことよりなにより、

今でも激減している人民解放軍の入隊志願者が、1人っ子世代の爺っ子婆っ子でさらに志願者が減り、ーーー高齢者と爺っ子婆っ子ばかりの軍隊では、ものの役に立つんだろか?? 仮に役に立つとしても、しかし、軍隊というのは何も生産しない、ただの金食い虫なんだよね。

旧ソ連が崩壊したのも、アメリカとの軍拡競争に引き込まれて国家経済が破綻したのが大きな要因だった。中国の軍拡の先にあるものは??

「特に金食い虫の空母艦隊」なんぞを持とうものなら、国家経済に足枷をかける以外のなにものでもないだろう。

(6)器だけ見栄えが良くなっても中味は旧態依然のまま。

いま、中国のそこそこの都市へ行くと、高層ビルが林立し、いかにも近代的なたたずまいになっているのに驚かされる。しかし、その高層ビルのどれか一つに昇って地上を眺めてみると、一つの街区の、道路に面している場所にはビルが連なっているが、そのビルの裏側、街区の広い中心部は、昔ながらの平屋のボロ家屋ばかりという状況に驚かれる。「張子の虎」だ。

沿海部や、内陸部でも、都市はまあ張子の虎ではあっても近代的な装いの堂々たる威容を見せているが、ちょっと農村部へ足を踏み入れてみれば、清朝の時代からほとんど変わっていない。

そんな生活風景が延々と連なっている。

そんな農村が、中国の7割近くを占めているのだ。中国はそういう国だ。

その他にも、いちいち上げていけばキリがないほどの、様々なものを内包している。内側から眺めるとこんな感じで、とても「中国も
一極論」には肯くことはできない。

ただ、だからといってわたしたち日本人が安閑としていたのでは、いずれは超されるときがくる「かも」知ない。

私は、1990年代の早い時期から、中国の改革開放の揺り戻しがあるのではないか、とする日本国内の中国未来論に対して、改革開放の流れが後戻りすることは絶対にあり得ない、と主張してきた。

美味しいご飯が食べられてきれいな衣服が着られるようになった庶民の意識の変化は、どんな権力を以ってしても、もう止めることはできないーーー国民の支持が得られない政権は潰える、と、中国庶民の姿を見ながら主張してきた。

それは現実となって、いま、世界中の人々が目の当たりにしている現在の情景になった。

あと何年後になるか、世界は四極鼎立となっているか三極なのか、或いはもっと違う形になっているのか。

2009年05月28日

◆山科だより 「小野」「醍醐」


渡邊好造

山科区には"小野小町(おののこまち)"所縁の町名が10あり、地下鉄東西線「小野(おの)駅」の東側一帯に位置する。

中心となるのは”小野御霊町(ごりょうちょう)”の「随心院(ずいしんいん)=真言宗」で、小野一族の邸宅跡に正暦2年(991年)に僧・仁海が牛皮山(ぎゅうひさん)曼荼羅寺を創建し、寛喜元年(1229年)その子坊が「隋心院門跡」となり、現在に至る。

"小野小町"は、仁寿2年(852年)に宮廷を辞したあと40年間、「随心院」内の”小町の化粧の井戸”あたりに住んでいたといわれる。彼女は、平安時代36歌仙の一人で、その美貌から多数の男性に言寄られたが、なかでも深草少将の99日目で力尽きたという「百夜通い」は有名である。

3月第4日曜日に開催される”はねず踊り”は、小町が"はねず(薄紅色の梅)"の咲くころに里の子と楽しい日々を過ごした、という故事に由来する。

承久の乱(承久3年=1221年)、応仁・文明の乱(応仁元年=1467年〜文明9年=1477年)で焼失したが、慶長4年(1596年)に九条、二条の両宮家が門跡に入り再興された。本尊は如意輪観世音菩薩像。国重要文化財として阿弥陀如来像、快慶作の金剛菩薩像、絹本着色愛染曼荼羅図、随心院文書など。庭園と書院は徳川秀忠夫人・天真院尼が寄進した。境内は国史跡である。

"小野"の南隣には"醍醐(だいご)"の町々が並んでいる。

ここは山科区ではなく伏見区だが、行政区が異なるとはいえ豊臣秀吉の"醍醐の花見"で有名な「醍醐寺=真言宗」を『山科だより』が素通りする訳にはいかない。京都市伏見区”醍醐東大路町(ひがしおおじちょう)”にあり、地下鉄東西線「醍醐駅」(山科駅から8分)を下車し、東へ徒歩10分位の山科の経済エリアにある。

貞観16年(874年)小堂宇が理源大師聖宝(りげんたいし・しょうほう)により開基された。延喜7年(907年)上伽藍、延長4年(926年)下伽藍、天暦6年(952年)五重塔、永久3年(1115年)塔頭の「三宝院」などがそれぞれ完成した。応仁・文明の乱で国宝の五重塔を除いて全焼し、現存する堂宇は秀吉の寄進によって再建された桃山時代のものである。

昭和7年(1932年)国宝の五大堂が護摩焚きの飛び火、昭和14年(1939年)経蔵が山火事、平成20年(2008年)准胝(じゅんてい)観音堂が落雷などで、いずれも上伽藍の建造物を焼失した。上伽藍へは急坂を約1時間かけて登る。

「三宝院」は、「醍醐寺」の総門を入ってすぐの左手にあり、表書院は国宝である。庭園は秀吉が花見の際に自ら設計し指示したといわれる。

「醍醐寺」は、古都京都17の社寺城の1つとして、平成6年(1994年)世界文化遺産に指定登録された。主として木と紙に関する文化の宝庫で、国宝41、重要文化財約4万点、未指定の寺宝文化財は15万点に及ぶといわれ、毎年春と秋に寺内の霊宝館で特別展示される。2月23日に「五大力尊仁王会(ごたいりきそん・にんのおえ=五大力さん)」が行われ、この日限定の御影(みえい=災難除け守り札)が授与される。当日、巨大な餅を持上げる大会も催される。4月第2日曜日には秀吉の醍醐の花見にちなみ桃山絵巻「豊太閤花見行列」が繰広げられる。

”醍醐”というのは、もともと「醍醐寺」が創建されたころに造られていた乳製品のことで、牛または羊の乳を「乳(にゅう)→酪(らく)→生酥(なまそ)→熟酥(じゅくそ=サルピスといい、カルピスの語源)→醍醐」の順に精製し、5番目の「醍醐」は、薬用にもされる濃厚甘味な最高の乳性飲料で今で言う練乳である。"醍醐味"は、もっとも美味なものを意味するが、「これこそ野球の醍醐味(何物にも代えられない楽しさ)だ」といった表現にも使う。

また、釈尊の一生を5期に分けた天台宗・教相判釈(きょうそうはんじゃく=仏教全体を体系化)は、1)華厳時(37日)、2)阿含時(12年)、3)方等時(8年)、4)般若時(22年)、5)法華涅槃時(8年1日半夜)の計50年のうち5つ目 の教理を"醍醐の教え"といい、最上の説法としている。

現在の"醍醐"の町々の周辺地名は「醍醐寺」に因んだものだが、寺名は山ノ神化身の老人が湧水を飲み「醍醐味なるかな」と言ったことに由来するらしい。

平安京といわれた京都だが、11年間の応仁・文明の乱で平安時代以前の神社仏閣などの建物はほとんど破壊され、醍醐寺も例外ではなく、最上の説法"醍醐の教え"も役に立たなかった。

ただ、山科がこうした戦乱に巻込まれたということは、見方を変えると京都エリアとして認められていたということ。そうでなかったら、”山科タケノコ”しか名物のないただの田舎だったであろう。

その”山科タケノコ”も宅地開発が進みあまりとれなくなっている。タケノコは肥料をやり、オガクズを積上げるなどの手間をかけてこそいいものに育つ。親竹から離れた所に勝手にボコボコ生えてきたのは「親なし」といって美味しくない。山科が京都の一角でなければ、山に囲まれた、つまらない”親なしエリア”であったに違いない。(完)



2009年05月27日

◆マスク着用率の変化


                   鷹野和美(医学博士・疫学)

「新型インフルエンザの大阪・兵庫の流行期は既に過ぎ、終息に向かいつつある」と、中央からメディアを通して伝えられた。大阪・兵庫は双方とも、感染の確認から一週間程度がピークで、現在は厳格な予防措置は必要ないという。

これを書いている今は26日(火曜)だが、25日(昨日)の出勤時間帯から、大阪の風景が一変している。

先週22日(金曜)までは、マスク着用率80%で、僕のようにマスクを着けずに歩いていると白い目で見られたものだが、昨日からはマスクを着けている20%の人々は「まだ着けてはるの?時代おくれでっせ」とでも言われんばかりの急激な変化だ。

専門家たちは「罹患者はマスクを着用することに意味があり、そうでない人には意味がない」「予防はうがいと手洗いという基本行動を確実に履行すること」という事実を上手に伝えられなかった。

僕も大学の教授や学長職を経験しているからわかるのだが、99%の確率で大丈夫と分かっていても、1%でもリスクがあれば、「大丈夫ですよ」と、語ることができない。1%の責任を問われる事態を恐れるのだ。「罹患していない人がマスクをすることに意味はあまりありません」という発言を専門家がするようになったのは、今月も後半に差し掛かってからだったことからも分かるだろう。

もう一つ大事なことは、今回の我が国の対応と、先進諸外国の対応とのあまりにも大きな差異が、一般に認識されていないことが挙げられる。

最初はメキシコの罹患者数と死亡者数がセンセーショナルに伝えられ、次いで北米から欧州への伝播が連日伝えられた。僕らの眼は世界地図の上にプロットされた罹患者数に釘付けになり、それでも「四方を海に囲まれた日本の水際作戦は完璧」と思いこんで、遠い国の話として傍観者のポジションを崩さなかった。

海外からの到着便の中に、防護服を着た検疫の職員が乗り込み、検査と消毒をする姿が報じられると、その思い込みは次第に変化し、「わが国は新型インフルエンザとは無縁」という確信になったように感じた。

「水際作戦」が奏功したら、我が国の公衆衛生行政は世界から脚光を浴びたに違いないし、ほとんどの関係者と国民がそう願っていただろう。それでも、それは願望だけで終わり、逆に「あれだけ厳しい検疫を敷きながらの大流行」ということで、世界の耳目を集める結果となってしまったのは、なんとんも皮肉な状況であった。

国内の罹患者が確認されると、大阪府と兵庫県では、いち早く「休校措置」や「不要・不急の集会の禁止」という方針を打ち出して、蔓延防止に努めた。欧米では弱毒性と判明した時期から、新型インフルエンザのリスクと、社会的、経済的リスクを天秤にかけて、新型インフルエンザを特別扱いしないことを決めた。その対応の差の一面は、連日伝えられる経済的損失として表れてもいる。

誤解を恐れずに、本当のことを伝えようとすると「今回はH1N1型だったからそんなことが言えるけど、これがH5N1型だったとしたら、同じことを言えるのか」と論理をすり替えて糾弾される可能性はある。

しかし、H1N1だから、こういうことを言っているのであって、これが強毒性と分かれば、端からそんなことは言わない。弱毒性と分かってからも、早急に正常化へのかじ取りができなかった我が国の状況と、早くから大人の対応をした欧州の国々とを比べてみると、初期対応の難しさと、真実を伝える勇気と熱意の重要さというものを痛感させられた。

厳重な対応をとったが、感染予防に対して効果がなかったことを責めるべきではないし、責められるものでもない。もしかしたら、何もしなければ、もっと爆発的に罹患者が増加した可能性は残る。ただ、即応性という点で配慮すべき状況にはあったと思う。

橋下徹大阪知事が、中央に対して措置の緩和を盛んに訴えていたが、その判断を待たずに、知事の権限であと一週間早く府民生活の正常化ができていればと思うのは、政治の素人だからだろうか。

春の学会シーズンを迎えた関西では、医学会の延期も相次いだのだから、医学の素人である為政者たちにその判断をしろというのは酷なんだろう。ただ、今回の騒動で、各方面の優秀なブレーンを揃えておくことの重要性が非常に高いことを、為政者たちは学んだのではないだろうか。

「疫学的(医療統計学的)に有意ではないから、危険性を考えなくていい」という判断は、慎むべきか否か、意見が分かれるところであろう。

例えば、狂牛病の場合には、全頭調査が正しいに決まっている。サンプルを抽出して、その牛に海綿体脳症がなければ、母集団にもないという判断は、消費者にとって危険度が大きすぎる。

生命に直接的に係るような疾患の場合と、そうではない疾患の取り扱いは自ずと違う。集団健診の場合にもターゲットとする疾患の影響の大小・多寡によって、予算や手間暇のかけ方が違う。

今回の戒厳的な予防措置の正否や適否を問うのではなく、冷静に反省点を見つけて、科学的に検証することが最重要だろう。現時点での終息傾向は大阪・兵庫でのものであり、他の地域には当てはまらないし、当の大阪・兵庫だって、今秋から今冬にかけて再燃期から蔓延期を迎えることになるはずだ。

アメリカで流行っているという「インフル・パーティー」は、ちょっとやりすぎというか、ブラックユーモアが過ぎるとも思う。非常に軽い症状なので、罹患者を囲んでパーティーを開き、今のうちに罹患して抗体を持とう!ということらしいが、あまりナメてかかるのもどうかと思う。やりすぎ、ナメすぎ、どちらも大人の対応ではないと思う。

大人の対応は「期に臨んで敏」ということなんだろう。それは別に欧州に学ぶことではなく、それこそ、我が国の善き伝統だと思うのだが。(完)
2009.05.26
<文部科学省 (財)国際生涯学習研究財団 理事
  東京大学大学院医学系研究科客員研究員 >

           

2009年05月23日

◆パンデミック・「新型インフルエンザ」


                  鷹野和美(医学博士)

「過剰に恐れてパニックにならず、でも楽観もせず・・・情報処理能力を高めよう!」

メキシコで発生した「豚インフルエンザ」が「新型インフルエンザ」になった。そしてそれは「パンデミック(pandemic)」な状態だ、と聞いても何が何やら、イマイチわからないという人が大半ではないでしょうか?今回は、一応、公衆衛生学を修めた研究者として、その辺のことをわかりやすく書きましょうね。

水鳥類にはもともとインフルエンザウイルスが存在します。それが家畜の鶏やその他の鳥類に感染って、さらに家畜の豚が感染して、人に感染するというのがインフルエンザのよく知られている経路です。そうして、次の段階として人から人に感染ってはじめて一般的な「季節性インフルエンザ」というわけです。別の生物に感染する都度、少しづつ姿を変えて、水鳥から人へと伝わっていくわけです。

だから、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザは、新型インフルエンザではない!ということをまずは理解してください。その辺についてあやふやだと、「豚インフルエンザから新型になった」といわれても何のことかわかりません。東南アジア等で、それぞれ鳥と豚のインフルエンザが人に感染ったからといっても、人−人感染ではなかったから、さほど大騒ぎにはならなかったのです。

ところが、今回メキシコにおいて、豚から直接ではなくて、人から人に感染ったことが確認されたことと、子供や高齢者ではなく、若い世代に感染者も死者も多くみられるという特徴、そしてウイルスのDNA検査の結果から「亜型ウイルスによる新型インフルエンザ」と確認されたのです。

そうして、連日のテレビ報道でわかるとおり、現在のように流通機構が発達していると、数日で世界中に拡がっています。地域が限定されて感染が見られる状態を「エンデミック(endemic)」、世界的に拡がる状態を「パンデミック(pandemic)」といいます。

WHO(世界保健機関)が、「新型インフルエンザのパンデミックアラート期」として、危険度ランクをフェーズ3から4に引き上げました。パンデミックアラート期は「新しい亜型ウイルスによる人感染が発生」したことを指し、フェーズ3は「新しい亜型ウイルスによる人感染がないか、極めて限定されている」ことをいいます。そうしてフェーズ4は 「新しい亜型ウイルスによる人−人感染が増加している証拠がある」ことを指します。

今回のウイルスは「N1H1型」という弱毒性のものによる新型インフルエンザなので、過剰な心配は要らない、メキシコでのみ死者が確認されているのは、医療環境があまり良くないことと、経済状態のよくない人が早期に病院にかかれないためだと、今は云われています。

でも、変異を繰り返すウイルスなので、熱が出た、下痢気味だ、関節が痛い等の症状が出たら、なるべく早く病院へ行ってください。パニックになることが一番恐ろしい、だから冷静に対処することをお勧めします。無知ほど恐ろしいものはないので、どうか科学的に正確な情報を集めて、冷静に対処するようにしてください。

ついでに云うと、数年前から世界の国々の医学者は、ごく近い将来、N5H1型の亜型ウイルスによるインフルエンザのパンデミックな状態が起きると予測し、様々な準備をしています。ワクチンの開発や備蓄もそうですが、実は「感染列島」という映画は、それを知らせるための「政策的警告映画」だったのです。

だから、もしかしたら、近日中に「早くもテレビ放映決定」ってなことになるかもしれません。
(上記は、2009年4月28日 草稿)

■(下記は、09.年5月21日に本誌に追加寄稿)
WHOのフェーズと、毒性の強弱は無関係です。フェーズはあくまでも、疾患の拡がりの様子を表す指標に過ぎず、弱毒性であっても、今回のようにパンデミックな展開をすればフェーズは上がります。

さて、問題は罹患者に対する対応ですね。罹患者はなりたくてなったわけでは当然ありませんが、「犯罪者」ででもあるかのような雰囲気の伝え方には、大きな問題があると思います。HIVが当初そうであったように「罹患者差別」につながることが最も危惧されます。

5月20日、八王子の高校生が罹患し、高等学校の校長がテレビカメラの前で陳謝しました。「模擬国連会議に出席することは、高校生にとって非常に意義のあることだと判断して渡航させました。申し訳ありませんでした」というのですが、最後の一文は不要だと僕は思います。

これがH5N1型などの強毒性であれば、軽率のそしりは免れませんが、H1N1型であると判明した時点で、模擬会議に出るメリットと、渡航禁止にするデメリットを、冷静に判断して、渡航が優先としたのであれば、それはそれで正しい判断だったと考えられないでしょうか。

ヨーロッパでは、H1N1型と判明したとたんに、会議や出張の中止を解除しました。大きすぎる大阪・神戸の経済的・社会的・心理的損失と比べると、冷静なヨーロッパの対応には脱帽せざるを得ません。まさに「大人の対応」です。

我が国でも初期の対応を反省した舛添さんが「通常の季節性インフルと同様の対応を」と鎮静化に乗り出していますが、効果はイマイチというところです。

H5N1型等の強毒性のパンデミックに備えるという意味では、厳しすぎる対応は一種の実験だったのかなとも思いますが、あれだけ厳しい拘置等の処置でも効果がなかったことも分かりました。

マスクは予防に効果が薄いということも、やっとテレビが言うようになりました。予防の基本は、手洗い、うがいの励行という基本的行為になります。どうか、冷静で科学的に正確な対応をしてください。(完)09.05.21

・文部科学省(財)国際生涯学習研究財団 理事
・東京大学大学院医学系研究科客員研究員
・専門 疫学

2009年05月22日

◆「世襲議員」論議に欠けてるもの


                  大谷 英彦

解散、総選挙が近づいて「世襲議員論議」が、喧(かまびすし)い。議員が言い出したのだから世間もマスコミも議員の側からだけの論議に終始している。

これを候補者を選ぶ選挙民の側から見ると、どうなるか。

私の郷里は福岡県の田川で選挙区は福岡県第11区。住んでいる千葉の選挙区より選挙情勢に関心を持っているし、詳しいと自負している。

隣は峠1つで麻生首相の福岡県第8区。そこで仮定してみる。いま喧伝されている「世襲禁止論」により麻生さんの縁者、いわゆる世襲候補は9区からは出られないから、峠1つ隣の11区に移るるとしよう。

県会議員か何かから国政を目指していた地元の「新人」は公認を得られず断念させられ、麻生さんの世襲議員が当選となる。

8区の有権者にとって、どっちが国会議員になった方が「幸せ」か?役に立つか?私は100%地元に軍配をあげる。よく言われるイギリスとは国の成り立ちが違うのだ。

例えば麻生さんの8区は筑前。11区は豊前。言葉の訛さえ違う。

現役時代、選挙情勢の取材で現地に行くと、同じ選挙区でもあの町は昔は何々で「くに」が違うからと、よく聞かされた。

現に数年前、福岡県知事に北九州市の市長をと画策した人がいた。相談を受け福岡財界の世話人だった九州電力の人に持ちかけてみた。「北九州は豊前、福岡・博多は筑前。豊前の知事さんでは筑前は納得せんばい」と一蹴された。

第一、世襲禁止は憲法上無理がある。マスコミや論者は法律にはできないから政党のマニフェストで禁止を掲げるという。でも、そうまでして選挙民に「幸せ」をもたらさない制度を作る必要があるのか。

今の政界を見回して世襲議員の多さに焦燥感を感じるのはわかる。世襲でも、無縁の新人候補とお互い対等の条件で戦えるようにしてはどうだろう。

世襲候補の強さのひとつは、親の政治団体から寄付という形で「無税」で相続できる資金にある。無税を改め、世間の財産相続と同じ扱いで相続税を課す。同じ条件で戦わせれば優秀な方が勝つ。それが世襲議員であっても私は納得する。

2009年05月13日

◆山科だより「安朱」「四ノ宮」

渡邊好造

山科の北はほとんど山である。その山の東のなだらかな斜面に、頭に”安朱(あんしゅ)”とつく町は17、”四ノ宮(しのみや)”とつく町は19ある。

今回はこの2つの町々の主な名所旧跡・見所を紹介する。 ”安朱”の地名は、江戸時代初期に"安祥寺村"と"朱雀村"が合併して生れた。山科駅は、JR、京阪、地下鉄東西線と3つあるが、いずれも”安朱”とつく町内にあり近接している。

"安朱稲荷山町(いなりやまちょう)"の高台には、「毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんせき)=天台宗=正式名・護法山出雲寺(ごほうざんいずもじ)」がある。大宝3年(703年)行基菩薩が出雲路(京都上京区の御所北側)に開設した。

仁王門は京都市重要文化財に指定され、書院の襖絵116面は狩野益信(徳川家光に愛でられた画家)筆のもの。応仁の乱で荒廃し、織田信長の兵乱によって全焼したりしたが、江戸幕府により安祥寺の寺領の一部を与えられて寛文5年(1665年)この地に再興された。

正月初詣や初寅の日の”おかげ参り”では参拝客で賑う。本尊の毘沙門天座像、寝殿、庭園、本堂、一目千両といわれる樹齢百数十年の枝垂れ桜など、見所は多い。

同じ"安朱稲荷山町"にある「護法山双林院・山科聖天(そうりんいん・やましなしょうてん)」は、「毘沙門堂」再興の折に山内の寺院・塔頭として建立された。9月には大般若祭、11月にはもみじ祭が行われる。

南へ下がった"安朱堂ノ後町(どうの・うしろちょう)"には、赤穂義士所縁の「瑞光院(ずいこういん)=臨済宗」がある。慶長18年(1613年)堀川鞍馬口に創建され、院主3世の陽甫和尚が浅野内匠頭夫人の族縁にあたることから浅野の供養塔が建てられた。

火災などで2度廃寺になっているが、嘉永7年(1854年)浅野一族末裔によって再興された。明治43年(1910年)に塔の後ろに桜の木を植えようと掘返した時義士らの遺髪がみつかる。昭和37年(1962年)堀川通り拡張のため山科の現地へ移転させられた。

「毘沙門堂」、「瑞光院」ともに山科駅から徒歩15分。京阪山科駅は、大正元年(1912年)京津(けいしん)電気鉄道東山三条駅(京都市東山区)〜札の辻駅(大津市)間開通時、”毘沙門堂”が駅名であった。JR山科駅は、大正10年(1921年)京都からのトンネル開通時に地下鉄東西線小野駅あたりから現在地に移転した。

山科駅から旧三条通りを東へ約5分位の所、"四ノ宮泉水町(せんすいちょう)"に「山科地蔵・徳林庵(とくりんあん)=臨済宗」がある。天文19年(1550年)開創され、子宝の霊験で知られる。第54代仁明天皇(にんみょう=在位833〜850年)の第4皇子・四之宮人康(さねやす)親王と百人一首で有名な蝉丸の供養塔があり、親王の”四之宮”が地名の由来である。高さ3メートルの地蔵尊は仁寿2年(852年)に刻まれたもの。

毎年8月22〜23日の”六地蔵巡り(別名・四ノ宮祭)”には、門前の旧三条通りが500メートルに亘って歩行者専用道路となり、露店が並び参拝者で一杯になる。

" 四ノ宮中在寺町(ちゅうざいじちょう)"の「諸羽神社(もろはじんじゃ)」の境内には、四之宮人康親王の山荘跡と、親王が琵琶を弾く際に座ったとの謂れの大きな琵琶石がある。貞観4年(862年)に社殿が造られ、応仁の兵火や江戸時代の火災にあったがその都度再建されている。例祭は4月23日。

"四ノ宮柳山町(やなぎやまちょう)"の山科疎水に面した「一燈園(財団法人懺悔奉仕光泉林)」もよく知られている(京阪四宮駅から北へ5分、駅名に”ノ”はない)。奉仕集団(宗教法人ではない)として明治38年(1905年)に西田天香が創始、昭和4年(1929年)にこの地に開設された。天香が接した有名人、芸術家の手紙や作品を収めた資料館は「香倉院」という。

ところで、これまで山科の名所旧跡・見所のいくつかを紹介したが、今後紹介するものも含めて日本の神社・仏閣などの建物はたびたびの戦火で消滅したり、再建したりがいかに多いか。それも短期間に繰返している。

西洋などの大聖堂は完成まで100年以上、なかには600年というのもある。異教の敵地を制圧しても建物は壊さずに、部分改修で原型を残して利用される例もある。日本の木材建築の燃え易さ、壊れやすさ、壊しやすさに対して、西洋建築の頑強さはあるものの、それだけでは納得できない。壊すつもりなら素材が何であれ同じはず。

そこには、日本とは違った宗教感覚があり、主にキリスト教・イスラム教などでは互いに異教であっても神に対する畏敬の念が強く、その感覚が簡単に破壊させないのではないか。

そして、日本では現在でも魂がヒトダマとなり空中に漂って化けて出ると信じる人が多い。これは「御霊信仰(ごりょうしんこう)」といわれるもので、とくに怨みをもって死んだ人や殺された人の魂が生きていた時よりもイキイキと動き廻って相手に手ひどい仕返しをするので、その怨霊を鎮めるために「御霊会(ごりょうえ)」をおこなった(「お坊さんが困る仏教の話=村井幸三著」)。

この信仰は奈良、平安時代から始まり”応仁の乱”以降も強く信じられていたらしく、敵対する相手の怨霊をよみがえらせないようにと建物を徹底破壊した、と私は勝手な推測をしている。(完)


2009年05月07日

◆折角の特ダネを他社に提供

大谷 英彦

NHKに入社,初任地小倉でサツまわり1年の後、昭和37年に門司の海担当となった。

最大任務は第7管区海上保安本部の取材。

当時、韓国は李承晩ラインなるものを勝手に設け、侵犯を理由に日本漁船を拿捕、乗組員を抑留し船体を没収する。なかには性能優秀な新造船だったため、韓国が警備艇に改造、多数の日本漁船を拿捕した悪辣な例もあった。

海上保安庁は、この拿捕を妨害阻止するため、全国の海上保安部から交代で巡視船を派遣し韓国警備艇と攻防を展開した。

この攻防戦は遠い海の上のことなので取材といっても現場はない。巡視船からの無線報告だけが頼り。それが何時入ってくるか分からないから各社そろって記者室から動けないといった毎日だった。

とはいえ極秘事項だったが、7管本部は韓国警備艇の暗号無線を傍受解読していた。この解読で警備艇の位置、進路をつかみ、日本漁船に警報を流す。

漁場を碁盤目に分け「農林漁区何号でアジ何トン、サバ何トン・・」と漁獲高報告の中に「警備艇何号はドドドコから何方向に向かっている」という警報を埋め込んで日本漁船に伝えていた。

担当の警備2課室は厳重立ち入り禁止。奥には裏地赤の黒い暗幕を張っていた。が、そこは記者商売。コネをつけ「今日は危ない」「今夜は大丈夫」という情報をとっていた。これがないと夜、安心して呑みに行けない。

昭和37年8月2日。その日は「大丈夫の日」だった。しばらくご無沙汰だからと思い、門司税関ビルの薄暗い廊下を門司検疫所の部屋の前まで来ると、大声でやり合っている声が中から聞こえた。

クリスチャンで温厚な所長と革ジャン姿、単車で通勤する粋な部長(後にWHOアジア代表となり天然痘絶滅に貢献した)のふたりが真剣、大声で議論している。

台湾から着いた大阪商船チャーターの貨物船御影丸(乗組員38人2731トン)を門司港外の六連島(むつれじま)錨地で検疫し全員の上陸を許可した。症状は出ていないが、台湾、フィリピンなどで大流行中のコレラの危険はないか、と激論を交わしていた。

折から台湾バナナのの輸入が禁止された直後でもあり、上陸した38人の中に若しコレラ患者がいるようなことがあれば大問題だ。

原稿にして小倉局に送稿、念のため小倉に出向いてデスクに細部を説明した。デスクはすかさず平凡社大百科事典を持って来させ「コレラといえばトンころり。すぐ死ぬんじゃないか?乗組員がピンピンして上陸したんでは、放送はちょっと待とう」「福岡(小倉の上部局)には一応送っておけ」という指示で、原稿は保留となった。

数日たっても保留のまま。そんな夜、飲み屋で読売の支局長と出合った。「変わったことないか」という質問に、検疫所の話をした。

翌日、読売の朝刊は1面トップ。「門司にコレラ上陸」「戦後初」黒ぬき特大見出しが躍っていた。

たちまち市中はパニック。生ものは危険とあって魚屋の店頭から魚が消え、予防接種は対岸の下関にまで及んだ。

福岡局から応援の取材陣がどっと乗り込んで来た。「読売に抜かれたのはアイツか」と見られているようで肩身がせまかった。

読売は、門司支局から福岡の西部本社に情報を上げたところまではNHKと同じだったが、情報はさらに東京本社に伝達、厚生省担当記者が動いた。

同じ情報を握っても老舗は違うな、と教えられた。

昭和37年度版厚生白書を見ると「御影丸の乗組員38人からコレラ患者3人、保菌者19人が発見された」とある。

後で聞いた話ででは、入港前に予めクロロマイシンを服用して検疫をパス、全員上陸を許可されたという。

また真性コレラとは別に「エルトール小川型」という弱毒性のコレラもあることも教えられた。

読売に抜かれた朝日は功をあせって冒険に出た。サンパン(港内を行ききする小型船)を雇って記者とカメラマンを検疫錨地に向かい、足止めされている御影丸に乗り込ませて船内ルポを掲載した。

これが「伝染病予防法」にひっかかり2人は隔離、支局は閉鎖の憂目をみた。

隔離患者を収容する門司検疫所彦島措置所は見る影もないオンボロ庁舎だったが、翌年度の予算で見違えるような近代施設になった。こんなのは「なに太り」というのだろう。

2か月近くに及んだ「コレラ騒動」は9月22日、厚生省が安全宣言を出し、感染者なし死亡ゼロで終焉した。

パニックとはいえ、関門、北九州のコレラ騒動と全世界を巻き込む現下の新型インフルエンザを比較する気はないが、その陰には大なり小なりの悲喜劇が展開しているだろうと想像する。(完)


2009年05月04日

◆整形外科治療の光と影 第4回

小池達也

コモンディジーズ、つまり「ありきたりの病気」と呼ばれる疾患群があります。誰がかかっても不思議ではない、めずらしくない病気という意味です。

整形外科の分野では、腰痛・骨粗鬆症・変形性関節症などが含まれますが、そういう病気ほど原因がはっきりしていなくて、治療法も確立していません。そこで、今回はその代表である変形性関節症を取り上げてみましょう。

変形性関節症とは、炎症がひどくないのに関節を構成する軟骨が次第に減少し、疼痛が生じ関節の動きが悪くなる病気です。さらに進行すると、骨棘と言われる骨の出っ張りが周辺部に出現し、さらに関節の動きが悪くなります。世間でお年寄りが、「膝に水が溜まってね、大変よ」と言ってる病気です。

治療法には、運動療法・薬物療法・装具療法・手術療法がありますが、膝の変形性関節症を例にとって説明してみましょう。

運動療法として、最も有名で効果も証明されているのが、大腿四頭筋訓練です。
 
まず、実際の方法を示しますと、仰向けに寝て片足を膝を伸ばしたままで45度くらい持ち上げます。このとき足首も頭の方へそらせた状態で5つ数えて降ろします。

これが1回で、30回繰り返して1セット、一日に片足3セットずつ繰り返してください。これまで行われた研究で、この運動を繰り返していると、関節に溜まる水が減少し、痛みも軽減し、さらに関節内の水の粘度が上昇して正常に近づくことが報告されています。

お金もかかりませんし、副作用もありません。是非やってみてください。ただし、根気は必要です。

次ぎに、薬物療法と手術療法は次回に述べることにして、装具療法の話をしましょう。変形性膝関節症の方は、O脚の方が多いことが分かっています。まっすぐに立って足をそろえて、それでも両膝の間が空いてしまう人です。

力学的に考えて、O脚の方は膝の内側ばかりに体重がかかることになり、軟骨の「片減り」が起こってしまいます。そこで、足の裏に外側が少し高くなった敷物を入れて、体重が内側に集中してかからないようにする方法がよく使われます。実際にこの装具を入れることにより、痛みがかなり軽減される方もおられます。ところが、考えてみてください、足の裏から膝まではかなりの距離があります。

足の裏に薄い敷物を入れただけで本当に効果があるのでしょうか?

実際に、これを研究された先生がおられました。すると、足の裏と膝の間には足首の関節があります。せっかく足の裏に敷物を入れたのに、その効果が足首で吸収されてしまうという現象が観察されました。

どうすればよいか?

その先生の結論は、足首まで覆うような装具を作ればより効果が出るというものでした。実際に、そういう装具を作ってくれる装具会社もあります。足の裏に敷くだけでは効果の無かった方は試されても良いかもしれません。

次回は、サメの軟骨の話です。
(大阪市立大学大学院医学研究科リウマチ外科学 助教授)<おおさかシニアネットから転載>