2009年04月30日

◆入院生活とトイレ

                    
渡邊好造
                 
知人が足首の手術で約3カ月半入院した。長期間の入院中、禁酒と病院食でかえって健康体になったという。しかし、その間ギブスをつけたまま、車椅子による移動,慣れない共同生活などで大変だったらしい。彼の話はこうである。

病院は24時間救急患者受付OK。経過は順調で、手術後半月程で次の治療患者のためにリハビリ棟に移動させられた。病棟は、4人部屋で60歳以上ばかり計56名。そのうち怪我人は10名ほど、あとは脳出血などで脳に障害が残った人、手足、言語や聴覚が不自由になった人などである。

食事が済むと「お勘定してください」と紙切れを差出す人、「オーイ、オーイ、誰か、、」と叫ぶ人、「救急車呼んでください」という人、黙って寝たままの人、ちょっと見にはどこが悪いのか判らない人など様々であった。

こうした病院生活に初めはとまどったが直ぐに慣れたし、騒いでいる人が気の毒になりできるだけ話相手になることにした。"お勘定"の人には「ここはお勘定はいらないよ」、"救急車"の人には「救急車呼んでもまたここに戻るよ」などと応対してあげると静かになる。騒いだりして看護師に厄介をかける人ほど食事時や車椅子を押してもらっている時はおとなしい。騒ぐのは寂しくて面倒をみてほしいからだそうだ。

困ったのはトイレだった。

トイレのスペースや数、設備は申し分ないが、当たり前のルールが守られないので混乱する。使用中の表示がない、ノックしても返事がない、しかしライトが点いていれば誰かいる可能性ありである。ロックできない、返事ができない、聞こえない人もいるからだ。ライトを点けず真っ暗なまま座っている人もいたし、車椅子だけが残されていたこともあった。

車椅子なしでどうして病室に戻ったのか分からない。ともかく「あつ!失礼、、」というのが何回もあった。反対にこちらの使用中、ロックしててもガタガタ無理やりドアを開けようとする人、突然ライトを消す人がいたりで、だんだんイライラがつのり始める。

病院など共同生活に適したもっといいトイレ・システムはないものか、と思いながら毎日落着かない日々が続き、あげくが便秘である。薬を飲んでも治らなかったのに、退院と同時にケロリ。まさに神経症であった。

テレビ視聴は有料(1千円で1千分のカード式)でテレビ機器を買って持込んだ方が安くつく位利用したが、嫌というほどみせられたのは”「ハゲ(育毛、かつら)」に「壁塗り(化粧品)」、「保険」に「通販」”のTVコマーシヤル、そして、その間阪神タイガースは大逆転された。

知人の入院体験談を興味深く聞いたが、なかでもトイレの話は私も知人同様場所を選ぶ方なので、他人事とは思えずとくに関心をもった。

神経質な位トイレが気になりだしたそのキッカケは、19世紀後半のナポレオンV世によるパリ都市改造前の話からである。上下水道が完成するまでのパリは、糞尿を道路中央の溝に流し、時には窓からぶちまけることもあったらしく、当時のパリ周辺は相当な臭気だったという。今では理想的な大都市でもそんなことがあったのか、それなら他の国の現状はどうなのか。

普段ひと気のない2千メートルの高地で年1回行われる3日間2万人もの祭会場、東南アジアの河川での水上生活、アジア辺境の農村地帯などなど、、テレビの旅行番組では、美しい景色やもの珍しさ、食事は紹介されるが、トイレはどこでどうなっているのか、そしてどう処理されているのか、取上げられることはまずない。

中国・北京から辺境地へ派遣された女性教師が一番困ったのは、お互いに向合うオープンなトイレだといっていたこと、世界遺産「ガラパゴス島」や「マチュピチュ遺跡」ではトイレは事前に済ませておくこと、といった風にトイレについて触れている旅行番組は極めて例外である。

昭和39年に開通した東海道新幹線の最後の課題は、トイレだったと聞いた。

一列車1600人の乗客のための配置や数、様式もさることながらその処理方式について、従来の垂流し式で時速200キロのスピードだと、周囲2キロ四方に糞尿を撒き散らすことになる。そこでタンク式と決まったが、タンクが小さいと溢れるし、大きすぎると車体の重量が増すので、停車駅毎にパイプで吸出し回収することになったという。

ともあれ、 テレビで紹介される大自然の風景や生活をみていると「良い所だなあ、行ってみたいなあ」と思うが、トイレはどうなっているのかを考えると、二の足を踏んでしまう。

知人同様に長期入院するようなことがあれば、医師の技術、陣容、機器設備もさることながら、トイレはどうなっているのかをよく調べてからにしたい。

トイレについては人間の基本問題である。日本での家庭用トイレはほぼ申分なさそうだが、共同利用システムについてはもっと研究の余地がありそうだし、旅行案内やテレビ旅行番組ではより具体的に、オープンに伝えるべきではないだろうか。(完)



2009年04月18日

◆山科だより「勧修寺」 下段に<反響記事>

渡邊好造

京都市山科区には、頭の部分に”勧修寺(かんしゅうじ)”とついた町名が29あり、”御陵(みささぎ)”の30についで多い。山科区の南東部、区の約4分の1の面積を占める”勧修寺”の町名の由来と周辺の見所を紹介しよう。

”勧修寺”の町名は、山科区南西部"勧修寺仁王堂町(におうどうちょう)"に位置する真言宗大本山「勧修寺(かじゅうじ-町名の読みとは異なる)」に由来する。

通称「山科門跡」ともいう。第60代醍醐天皇(897〜930年在位)が生母の追善供養のため昌泰3年(900年)に創建した。文明2年(1470年)応仁の乱などの兵火で焼失、豊臣秀吉が伏見街道をつくる際に境内地を削ったりしたため衰退したが、江戸時代・天和2年(1682年)に徳川幕府と皇室の援助で再建復興された。

本尊には醍醐天皇の等身像・千手観音像が安置されている(現存の像は室町時代の作)。 国重要文化財として”書院”と”蓮華蒔絵経箱”がある。書院の前庭にある燈篭は”勧修寺型燈籠”といわれ、水戸光圀が寄進した。

境内の”氷池園”という名の平安様式・池泉庭園が有名で、庭の”ハイビャクシン(ヒノキ科の一種)”は樹齢750年に達する。奈良国立博物館に所蔵されている国宝”刺繍釈迦如来説法図”は、”勧修寺繍帳”ともいわれ、もともと「勧修寺」のものだった。

同じ"仁王堂町"で「 勧修寺」の隣にある「仏光院(ぶっこういん)」は、昭和26年(1951年)に大石順教尼が身体障害者用に創建した。大石順教尼は、養父による殺傷事件で両腕を失いながらも書画で日展に入選している。

" 勧修寺東栗栖野町(ひがしくりすのちょう)"には、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓碑」がある。坂上は、陸奥国の蝦夷との争いで功績をあげ、延暦16年(797年)2代目・征夷大将軍となった。

京都世界文化遺産17の社寺や城のうちの1つ、京都東山区の「清水寺(きよみずでら)」を宝亀11年(780年)に創建したことでも有名である。清水寺はその後兵火で焼失し、現在の堂宇は寛永10年(1633年)に徳川家光が寄進し再建されたもの。

明智光秀の「胴塚」が、"勧修寺御所内町(ごしょ・うちちょう)"にある。天正10年(1582年)光秀は、山科の南"小栗栖村(おぐりすむら・現在の伏見区)"で討たれ、豊臣秀吉にさらし首にされた。

「首塚」は"東山区三条白川橋"にある。塚は、本来その霊の災禍を防ぐためのしきたりで建てられるもので、首、胴の他、日本各地には耳、鼻、腕、髪、記念碑的な意味の兜(武具)、経文、文などもある。

同じ"御所内町"内には、仁寿3年(853年)創立で「勧修寺」の鎮守神社「吉利倶八幡(きりぐはちまん)」があり、元禄8年(1695年)建立の本殿は京都市有形文化財に指定されている。

この他、"勧修寺東北出町(ひがしきたでちょう)"の「西念寺(さいねんじ)−真宗大谷派」、"勧修寺北大日町(きただいにちちょう)"の「醍醐天皇御母小野陵」などなど、、、”勧修寺”の町々には見所はいくつもあるのに観光地として今ひとつパッとせず、派手さに欠ける。周辺では車も人影も少ない。

更に気になるのは、京都全体のマップをみると「勧修寺」どころか山科についての記載がなく、山科全体の独自の観光マップも発行されていないこと。観光地としての山科はPR不足も否めない。その分落着いてユックリ見物できるのはメリット。

「勧修寺」の最寄駅は、地下鉄東西線「小野(おの)駅」で,"小野葛籠尻町(つづらじりちょう)"に位置し、付近に歌人・小野小町ゆかりの”小野”を冠した10の町名がある。この駅の西側には歴史の古いいくつもの”勧修寺”名の町が接しているのだから、「小野勧修寺駅」にして観光地山科をアピールする方が、、、とも思う。

もっともこんなこと位で京都地下鉄の大赤字(1日4千3百万円)は消えるはずもないが。(完)

■<上記・山科だよりへの反響=石岡荘十氏>(本誌 常連出筆者)

奥深い歴史の街。渡邊氏が遠い過去に思いを馳せながら、じっくりと散策する姿を髣髴とさせる。思わず、一緒に逍遥したいと突き雨後される思いである。

筆者、山科に生まれながら、この歳(74)までふるさとをないがしろにしてきた無様を恥じる思いでもある。 いつか私がルーツを尋ねたいとの想いを深めている。


2009年04月01日

◆山科だより 「御陵」

                渡邊好造

京都市山科区で”御陵(みささぎ)”が頭につく町名は30あり、”勧修寺(かんしゅうじ)”の29を抜いてもっとも多い。例えば、"御陵○○(町)"といったもので、この”御陵”の町名の由来と周辺の主要な名所旧跡を紹介してみたい。

最寄駅は、「山科駅」と地下鉄東西線「御陵駅」である。30の”御陵”の北半分は山で、町々の真ん中を山の斜面に沿って「山科疎水」が東西 に流れる。
"“御陵”の町名は、"御陵上御廟野町(かみごびょうのちょう)"の「天智天皇山科陵(てんじてんのう・やましなのみささぎ)」に由来する。第38代天智天皇(在位668〜671年)は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の頃の大化改新(645年)でも知られている。

天皇は大津宮(滋賀県大津市)で即位、よく遊猟に来ていて沓だけを残し行方不明になったこの地に上円下方の陵墓が造られた。入口に、当時製作されたといわれる水時計(漏刻)にちなんで、昭和13年(1938年)日の時計のモニュメントが設置された。

"御陵平林町(ひらばやしちょう)"には、「安祥寺(あんしょうじ)-真言宗」がある。嘉祥元年(848年)僧・恵運により創建され、広大な領地に「上寺」と「下寺」とがあった。応仁の乱や幾度もの火災で「上寺」は跡地だけ、「下寺」はこの地に堂宇を残しているが、現在境内への入場はできない。

"御陵大岩町(おおいわちょう)"の「本圀寺(ほんこくじ)−日蓮宗」は、建長5年(1253年)日蓮が鎌倉に法華堂を創建し、貞和元年(1345年)「本国寺」として京都六条へ移転した。貞享2年(1685年)水戸光圀の圀の一字を貰い現名に変った。

天明8年(1788年)の大火でほぼ焼失し、建長12年(1607年)建立の国重要文化財の”経蔵”だけが残った。昭和46年(1971年)山科の現在地へ移転、”経蔵”は再建された本堂の横に並んでいる。天皇の御綸旨(ごりんじ-公文書)を多数所蔵。正面の開運門へは、山科疎水を跨ぐ朱色の正嫡橋を渡る。

同じ"大岩町"には「永興寺(ようこうじ)ー曹洞宗(そうとうしゅう)」と「山科豊川稲荷社(とよかわいなりしゃ)」とが隣合せになっている。「永興寺」は、道元禅師の弟子が建長6年(1254年)に「永興庵」を開き、「稲荷社」と一緒に京都東山の円山公園から現在地へ移転し100年位になるらしい。一本の楠 から作られた日本一大きい木魚が有名。

「山科豊川稲荷社」は、愛知県「豊川稲荷社」の分霊とある。稲荷なので神社のようだが、愛知県の本体は「円福山・豊川閣・妙厳寺(えんぷくざん・ほうせんかく・みょうごんじ)-曹洞宗」という寺院で,嘉吉元年(1441年)に開創された。祭られている"豊川ダキニ真天"は、サンスクリット語の魔女を意味する"ダーキニー"が仏のお陰で改心したという善女で、お守り札の説明書には仏でなく女神とある。

住所表示が”曹洞宗・永興寺境内”で、同じ宗派の寺院であることの片鱗はこれしかない。どういう訳か山科・御陵駅のパンフレットにはこの2つの寺院の名前や所在の紹介がなく、地図にはこの個所何もない山地になっている。

"御陵血洗町(ちあらいちょう)"という意味ありげな町名は、義経が牛若丸の頃、奥州平泉への旅の途中、9人の暴漢を斬ったあと、この辺りで血のついた刀を洗った池があったことに由来する。池は既にないが、「義経の腰掛石」は京都薬大のグラウンド脇に残されている。

山科・京都の名所旧跡を訪ねながら、いくつか違和感を感じたことがある。

史実は水時計なのになぜ日時計なのか、緑豊かな疎水を跨ぐ橋を何故けばけばしい朱色にしたのか、京都全体でいえば、古都を南北に分断する背の高いJR京都駅ビル,その北側に灯台をイメージしたという京都タワーなどなど、、、。

いずれも昭和以後に造られたもので、設計者とそれを受入れた管理者は、名所旧跡の謂れや周りとの調和に気を配ったのだろうか、と疑いたくなる。あと一つ、各種PRパンフレットや地図への掲載、非掲載はどのような基準で決めるのかよく判らない。なお、現在の”御陵”周辺は、建物の高さ、壁の色などの制限が厳しくなっている(完)

2009年03月30日

◆大阪市をUSJが放擲(ほうてき)?

■主宰者よりー<本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」(3月30日・1496号に掲載されました。下段に寄稿目次を掲載。ご覧下さい>>
 
                  山内直樹

大阪府議会がWTC「大阪ワールドトレードセンタービルディング」への移転案を否決した煽りは、WTCの持ち主の大阪市を苦境に追い込む結果となった。即ち、大阪府の買取りが不能になったことで、WTCは04年の特定調停からわずか5年で、2次破綻に迫られることになったのだ。

この危機に対処するため大阪市は、府議会否決2日後の26日、ただちにWTCに対する会社更生法の適用を大阪地裁に申請した。実を言うと、特定調停が成立した第三セクターが、再度破綻するというのは全国でも極めて異例なことだそうだ。

会社更生法適用の申請に基づき裁判所では、更生管財人を選任し更生計画を立て、55階建ての同オフィスビルの新たな購入先を探すことになる。

ところが、府議会から「建物の耐震構造や安全性等の説明不足」を厳しく指摘され、価値評価を下げてしまった同ビルを民間が機嫌よく買取るとは、まず考えられない。となると行き着くところ、大阪市が自ら買取らざるを得ないと言う事になる。

ここからが問題なのだ。WTCを買取るためには、大阪市はそれに必要な費用を工面しなければならない。つまり、買取るには金融機関へ491億円の損失補償(3月末時点)や退去するテナントの保証料50億円の返却等の財源を準備しなければならない。

財政難の追い込まれている大阪市にとって、一体これ程の巨額な財源を何処から捻出してくるのか。これだけの巨額出費は、正直いってとても今の大阪市の財政力で賄えるものではない。

こうした折、大阪市にとって耳を欹てる情報が舞い込んできた。大阪のテーマパークUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)の筆頭株主の米GS(ゴールドマン・サックス)グループが、より少ない資金でUSJ全株を買い取って非上場化する、「株式公開買付けのTOB」に踏み切るとブチ上げたのだ。

つまりこの「TOB」に応じて、大阪市が保有する9%のUSJ株を売却すれば100億円の収入を得られるほか、USJへの160億円の貸付金の返還、さらに市港湾局会計の基金80億円の返却が見込め、合算すると、340億円が大阪市の懐に入る算段となる。

となれば、このTOBによって得る売上額と起債による財源を合わせて、WTC破綻に伴う出費に投入すれば、WTC買い上げが可能になる。ならばこの際、市保有全株式の売却に応じるのが有効ではないかという案が俄に浮上しだした訳だ。

案の定このTOBを、「正に天の助け」と手放しで歓迎する一部幹部の声が出だしたほか、平松市長でさえ「今に株価に比べれば一定のプレミアムもあり、WTCへの出資は回収出来る」と云って、恰も「TOB」が突如現れた救世主の如き認識を示した。

だが、これはWTC運営の失敗による損失を、USJの最後の持ち株9%を売り払って、穴埋めするのは、その場凌ぎの役所一流の辻褄合わせ手法に過ぎない。しかも「TOB」に応じることが、USJ立ち上げの主役であった大阪市が、USJから完全に「追い出される」ことに結びつくことになることを、当の市長らは気づいていないらしい。

USJは、01年3月大阪市の臨海地区に大阪市が主導する第三セクターとして開場。大阪市は当然25%の株式を保有する筆頭株主となり、市から代表取締役や役員、幹部を送り込んで、東京デズニ-ランドに対抗する西のテーマパークを目指して運営に乗り出した。

初年度は1,000万人超の入場者を誘致し、関西経済に大いに貢献した。しかし以後入場者が800万人台に止まりだしたことから、04年に米GSから米国人社長を招請し運営の総てを任せた結果、経営再建を理由に市の保有株が9%に圧縮させられた。

それ以後、大阪市のUSJ運営に対する発言力は急速に低下、事実上外資主導のUSJに変貌。米GSからの経営陣招請とGS資本導入が裏目に出て、大阪USJの営業利益は、おおかた外資に流出していくという仕組みが出来上がって仕舞ったのだ。

しかも今回の「TOB」による株式買い上げ・非上場化も、USJを牛耳っている米GSが、大阪府撤退によるWTC2次破綻の行方をいち早く見抜き、この機に大阪市保有全株を買い上げて、大阪市をWTCから完全「放擲」することに打って出たものだとの指摘もある。

その可能性は否定できないと幾人もの有識者・関係者が口を揃える。大阪市が、閉塞する大阪経済を活性化させる起爆剤と娯楽の殿堂にしたいとして、巨額の税金を投入したUSJの当初の理念に外れることは、納税者市民に対する重大な信義違反だという。

要は、「TOBによる非上場化で企業価値を高め、景気回復の時期を待ち、上場益を確保する」という、筆頭株主のGS系ファンド「クレインホールディングス」の巧妙な株価操作に安易に応じることなく、USJから「放擲」の憂き目に遭うことを避けることはできないものか、再検討すべきであろう。

USJから「放擲」されたうえ、その売却関連資金をWTCの買取費用に即埋め合わせするという愚かな市政運営に、市民が合点する筈はないとおもうのだが・・・。(了)
                   2009.03.29


■上記本稿が掲載された全国版メルマガ「頂門の一針」1496号
             平成21(2009)年3月30日(月)

■<同号目次>
・小沢代表辞任ほぼ確定:花岡信昭
・大阪市をUSJが放擲?:山内直樹
・キティちゃん、助けて:平井修一
・台湾人と日本人が共に生きた日々:伊勢雅臣
・型の無い日本サッカー:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
    



2009年03月18日

◆NHKの欠陥商品

                 大谷 英彦

NHKテレビの「視点・論点」などに姜尚中や田中均ら(尊敬していないから敬称つけない)が登場するようになった。いよいよNHKはおかしくなってきた、と喋ったら、編集長から「雑誌で取上げたいからモニターしてくれ」と頼まれた。

最近のテレビは見ていると腹が立ってきて血圧が上がる。身体に悪いからナマで見るのは止め、録画で腹が立つところは早送りすることにしていたが、モニターとなると、そうもできない。

手始めは9日の「クローズアップ現代」を真面目?に見た。仏軍艦のルポなどでソマリア海の実情を紹介した後、畠山アナウンサーと防衛省担当の政治部記者がブラウン管の窓にいる浜田防衛相に質問する。

いつもの女性はいない。畠山アナになったのは、卒業式の日の丸掲揚問題で東京都の教育長にヒステリックに噛み付いた彼女は「危険」とみて交代させたのか?勘ぐってみたが真相は知らない。

その畠山アナも政治部記者も、質問は野党の代弁そのまま。矢張り血圧が上がってきた。

桜井よしこ氏が指摘する(3月12日の「頂門の一針」)論点からの質問はゼロ。浜田防衛相も「・・・と思う」という間接的な表現に終始。「世界に伍す」という信念、断定的発言は一度もなかった。

朝日新聞と並べてNHKの反日、左傾をいう人がいる。その観点からすれば、この番組には何の色もついていない。しかし「欠陥商品」である。

何が「欠陥」なのか。ソマリア海に実際に行く海上自衛隊隊員の取材が欠けている。海上自衛隊は論議されている「新法」の内容で任務を全うできるか。その取材がないまま、浜田防衛相と「国会答弁」的質疑に終始したから「欠陥商品」である。

ジャーナリズムの本道は問題の本質をみせること。有料放送のNHKは桜井よしこさんに共感する大人の日本人にジャーナリズムの純製品を売ってもらいたい。混ぜ物や偽物を売ってつぶれた会社は多いぞ。(ジャーナリスト)
         (3月13日「頂門の一針」に掲載)

2009年03月13日

◆暇老人のボヤキ録「ちょっと変・・・」

渡邊好造

1)定額給付金をホームレスなど住民登録していない者へ配布しようと考える人がいるなんて、とんでもない。住民登録していないということは税金を払っていないということ、税金を払えないとしても住民登録ぐらいはしないと、、、。義務を果たさない者に権利はない。

2)朝青龍を品格に欠けると非難し、相撲のよさが日本独自の様式美にあるというなら、品格、様式美とは何かをまず明確にすることが肝要。栃東・優勝時のガッツポーズ、高見盛のあの派手なパフォーマンス,塩を手の平一杯掬いあげて天井めがけて投げ上げる、ひげを剃らない、 モミアゲを顎まで伸ばす、相撲は女人禁制なのに横綱審議委員に女性がいる、これらは許されるのか。

3)タウンページ(電話帳)なんて使っている人がいるのか。盛んにテレビ広告を展開しているが、無駄の極みに思う。

4)日本では幼児の臓器移植ができないので、多額の寄付を集めて海外にいく。多額の寄付を集められる者だけが移植を受けられるのはどうか。移植の必要な幼児は他にもいるはず。寄付金の使い方、移植の対象者の選定方法など要検討である。1億円以上も寄付を集めて、余った金の処分に不明朗さが噂になっている。

5)敷金、礼金なしで入居したアパートの家賃を1週間滞納し、鍵を付け替えられ家具を放り出される"ゼロゼロ物件"について訴えた人がいる 。無料で1週間住めたのになにをいうか。敷金があっても放り出されるのに、敷金なしで家賃未払いだと、ある日いなくなり逃げ得になる。

6)法定金利20パーセントの何倍もとるヤミ金はけしからんというが、借りにいくのは多重債務者であったり、過払い金の請求で多額の金を受け取った者など,通常の業者が貸してくれない人である。ヤミ金は確かに問題だが、彼らだけを悪として追及しても借り手がいる限りいたちごっこである。借金は,バクチ、万引き、オサワリ、盗撮と似たところがあって、一度はまるとやめられない。アメリカでは、借金病を治療する病院があり、所有するクレジットカードを切り刻むことから始めるらしい。

7) 北方領土問題は、解決するのか。解決するフリをしているだけではないのか。

8) ストップ格差社会。金持ちと貧者、都会と地方、都市と農村などの格差解消というが,是正はできても解消なんてできる訳はない。世界的大金持・ポールゲッテイがこんなことを言った。「今、私の全財産を世界に放出し分配すれば、貧富の格差は一時的に解消できるかもしれないが翌日には元に戻る。ある人は株、ばくちなどで儲ける人、損する人、盗む人、盗まれる人がいるからだ」 。格差は無くならない。だから世の中は面白い。

9)"国旗 日の丸"、"国歌君が代"に敬意を示さない学校教師がいる。この人達は日本という国が嫌いなのか、敬意を示せと命令された事が気にくわないのか、国旗のデザインと国歌の歌詞・曲をつくりかえればいいのか、それとも国旗も国歌もいらないのか。

10)2011年7月、テレビはアナログからデジタルに変わる。従来のテレビに必要なチューナーはどんなもので、価格は、切替は簡単なのか、チャンネル調整はどうするのか、など判らないことだらけ。

補)"ちょっと変、よく分からない"とボヤキをいう暇な老人の補足説明。 「 この発言が問題になるようなら、真意が伝わっていないので大変驚きだ。そんな意味で述べたのではない。言葉遣いがまずかったのなら訂正する 」 (完)(「山科だより」寄稿者)

2009年03月07日

◆整形外科治療の光と影 (その2)

                    小池達也

前回、無作為化あるいは二重盲験試験が重要だという話をしましたが、その実例を二つ示します。

みなさん、緑黄色野菜が健康に良いというのはよくご存じでしょう。

これは、緑黄色野菜をたくさん食べている人に癌が少ないという横断分析(ある時期にいっせいに集団を調べる研究方法)やコホート研究(ある集団を癌が発生するまで観察するやり方)により証明されています。

そして、緑黄色野菜にはべータカロチンが多く含まれており、癌患者さんの血液中のベータカロチン量は少ないことも報告されています。

すると、ベータカロチンを摂れば、癌にならないのではないかと誰でも考えます。誰でもは考えないかもしれませんが、医者は考えます。

そして、大規模無作為化試験が行われました。結果は驚くべきもので、ベータカロチンを服用した人の方に癌の発生が多かったのです。対象者の選定や投与方法に問題があったかもしれませんが、少なくともベータカロチンだけを服用しても癌を抑制することは出来なかったわけです。
 
もう一つの例は、小さな出来事から始まりました。1996年に、パーカーという自閉症の子供が居たのですが、彼は慢性の下痢を患っていました。お母さんが病院へ連れて行ったところ、セクレチン(消化に関係するホルモン)テストという検査をされました。

自宅に帰ると、いつもよりパーカーの調子がよい。つまり、自閉症の症状が軽くなっていることに気づきました。今日したことはセクレチンテストしかなかったので、これが効いたのではないかと母親は考えました。そして、口コミで広まり、多くの自閉症の子供がセクレチン注射を受け、さらに噂は広まりました。

効果が証明されてない薬(本来検査薬)が治療に使われているのは良くないので、臨床試験が組まれました。そしてようやく、1999年に無作為化試験の結果が有名な雑誌に発表されました。自閉症の子供を2群に分け、一方にはセクレチンを注射し、もう一方には生理食塩水(つまり水)を静注します。

その後、4週間にわたり自閉症の症状がどう変化するかを記録しました。セクレチン投与を受けた子供たちは、当日から調子が良くなり4週間目でもまだ症状の軽減が認められました。

ところが、生理食塩水を投与された子供たちは、なんと症状がもっと良くなりました。結論はセクレチンは自閉症に効果無しでした。このように、きちんとした臨床試験で効果が証明されていないものは、安易に使わない方が良いでしょうね。

さらに、この話には後日談があります。この研究を実施した研究者が、参加してくれた子供たちの親に結果を説明したにもかかわらず、半分以上の親は自分の子供にセクレチンを投与することを望んだとのことです。
 
その後、2004年までに12の同様の無作為化試験が行われましたが、結果はすべて同じでした。

(大阪市立大学大学院医学研究科リウマチ外科学 助教授)<おおさかシニアネットから転載>





2009年03月04日

◆山科だより「大阪への通勤」

    渡邊好造

私が、初めてJR(当時は国鉄)山科駅に降り立ったのは昭和36年(1961年)である。当時、大阪―京都駅間は電車、山科駅以東へは蒸気機関車が走っていた。

大阪から京都への電話はそれほど不便ではなかったが、山科への通話となると、申込み後つながる迄約20分位要した。山科駅前にはハンドル式の電話ボックスがあり、ハンドルをカリカリとまわし、交換手が出て10円玉を入れる。

10円玉を先に入れると、交換手が出ると同時に10円玉は落ちて切れてしまう。私はこの時30円も損をしたが、地方ではこの方式が当り前 で、説明をよく読まなかった者が悪い。

平成9年(1997年)、京都地下鉄東西線が開通した。それに並行して山科駅前の再開発が進み、ホテル、デパートも出来、御陵あたりの京阪の路面電車が地下に消えた。スーパーマーケットとコンビニと交通信号があちこちに増え、車は溢れかえっている。しかし、全体の様相に変化は少なく、山科はまだ昔の面影を残している。

私が山科に移り住み、大阪に通勤し始めたのは昭和48年(1973年)のことである。JR大阪・山科駅間東海道線(現名・琵琶湖線)快速電車は所要時間45分で、山科の東の終点は米原駅であった。昭和49年(1974年)に湖西線が京都駅始発で山科駅から分岐し近江塩津駅まで開通するようになった。

山科・大阪間の通勤者2人の驚くべき事件は、未だに忘れられない。1人は、京都駅で湖西線に乗換え、5分後に山科駅で降りるはずが終点まで寝込んでしまった。着いた所が山科から50キロほど先の近江今津駅。戻りの電車がなく歩いて帰ってくる途中、午前3時ごろトラックにはねられて死んだ。約3時間歩き続けたらしい。駅のベンチで寝るなり、ヒッチハイクするなりいくらでも方法はあるのに、、、。

もう1人は、大阪駅発東京駅行き夜行寝台列車に乗り、京都駅からタクシーで山科の自宅へ帰るつもりだった。大阪駅を出発した列車のアナウンスが、”次は静岡に停まります”だったのでビックリ仰天、そんなアホな、なんとかしなければ、、、、。

デッキで40分ほど途方に暮れていると、列車は山科駅の次の大津駅で徐行し始めたので、咄嗟にホームに飛び降りたという。当時の夜行寝台列車のドアーは手動だった。命は助かったものの、大怪我をしたのはいうまでもない。

大阪から山科へはJR以外にも2つのルートがある。1つは、阪急電車梅田駅(大阪駅から徒歩5分)から烏丸(からすま)駅、そこから地下鉄で山科駅へ。2つ目は、京阪電車淀屋橋駅(大阪駅から地下鉄1駅)から三条京阪駅、同じく地下鉄で山科駅へ、である。

ただ、どちらも山科まで1時間5分ほどかかり、それぞれ午後11時40分頃の最終に乗ると地下鉄への連絡はなく、山科までタクシーとなる。その点、JR大阪駅発新快速電車なら山科まで35分で着くし、最終快速電車は午前0時27分まである。

問題はグッスリ寝てしまって乗過ごした場合、阪急、京阪ではその先1〜2駅で終点だから安心していられるが、JRの最終だと山科から24キロ先の9つ目の駅・滋賀県野洲(やす)駅が終点で、帰りの電車は朝5時までない。

大阪・山科駅間の料金は、JR820円、私鉄と地下鉄利用なら640〜670円。私は今でも1年に数回大阪へ出かけるが、往きはJRで素早く、帰りは私鉄で安心、を心掛けている。

なお、JR大阪・京都駅間540円、京都・山科駅間180円,あわせて720円で、いったん京都駅で下車すると100円安くなる。大阪・京都駅間は私鉄(約400円)との対抗上特別区の低料金になっていて、大阪・山科駅間の定期券を2枚にして購入すれば、1か月で差額1440円を浮かせることが出来る。

山科は、電話利用が不便だったり、死んでもいいから家に帰りたい人がいたり、JR料金がいきなり高くなったり、京都市内でありながらトンネルをひとつ潜るだけで京都とは異質の文化を感じさせる所である。(完)

2009年02月25日

◆市「敬老パス修正案」へ異議あり!

山内直樹
                                  
「敬老パス」とは、70歳以上の市民が無料で大阪市営バスと地下鉄に乗車できる、大阪市自慢の敬老優待乗車証のことだ。

この「敬老パス」について新任の平松市長は、08年秋市財政逼迫を理由に、10年度から利用上限を月5千円(年換算6万円)、所得に応じて最大年1万5千円の自己負担を求める案を提示した。

ところが大阪市会多数派の自民、公明など野党は猛反発。結局反対決議案が可決され、市長の目論見はお釈迦になった。

それもその筈、70歳になれば同無料パスのフル活用で、市内一円で催される様々なサークル活動や、趣味の会、それにデパートなど先端流行品々のバーゲンセールなど、何処へでも気軽に通える、いわゆる老後の生き甲斐と楽しみに結びついている。

しかも健康増進のプールやフイットネスや、重複している医療機関への通院にも利用出来ることから、70歳になればこの利便性と実益が受けられるとして歓迎されてきたものだ。こうした高齢者市民の強烈な恣意を汲み取り、市会自公両派は反対決議に回った。

にも拘わらず平松市長は、10年度からの一部有料化方針を諦めず、「年間3千円の自己負担で、8万円分利用できる」との修正案を、この2月市会に提出する。

つまり1人の年間平均利用料・約3万円をもとに、一律3000円自己負担を求める。その上で無料上限額を年8万円にしている。市によるとこの修正で、10年度の経費削減効果額は、否決された当初案の27億2千万円より約3億3800円減少するものの、財政再建に効果があるという。

地域の30余人が参加する「老人会」の集まりで、筆者を含め、現に「敬老パス」を活用している知人に意見を聞いてみた。返ってきた返事は、不合理な市長方針に対する憤慨ばかりだった。

筆者の場合、梅田を軸としてバスと地下鉄を乗り継ぎ、難波や平野区や天王寺区の趣味の会や、買物に出かける。昨年8月の利用額が8,820円、9月は更に増えて9,620円、12月と新年1月は11.000円を共に超えた。会合や催しが多かった所為だ。

無料だからといって暇潰しに「乗り回し」した利用額ではない。総て市内各地で開かれる趣味の会への参加が主だった。友人たちの利用額も、多少の差はあったものの、月平均すれば1万円前後で皆一致していた。

「月に1万円は使うし、会合によって広がる輪のサークルに参加すれば、もっと増えそうだ」と、「敬老パス」の有り難みをしみじみと漏らす知人もいる。

「どうして大阪市が自慢とする同パス利用を抑制し、年金受給者の生き甲斐を奪うのか。この有料化で市財政再建に役立てるという発想は、市政に長期貢献してきた高齢者市民を軽んじる市長の姿勢が滲み出ている」と怒りを隠さない。

「市長に異議あり」として出された対案を総括すると、下記のようなものだった。

・個人負担金3,000円は、「敬老パス」発行時の事務費としてのみ徴収する
・無料上限額は、年10万円とする
・年500万円以上の所得者に対しては所得制限として、無料上限額を年5万円とする

こうした意見は、筆者が参加している他の地域の高齢者の会合でも、総じて同様な内容だった。

しかも、同パスが市内中心街での買物に活用されることによって、市経済の活性化に大きく貢献している実態も、市長は認識すべきだという意見も出た。同パスが無ければ、遠方へのショッピングには出向かないという訳だ。

驚いたことには、いま問題になっている交通局の敬老パス実施に伴うバス事業への理不尽な交付金配分や、年収1300万円以上のバス運転手がいたといわれる交通局職員給与の改善対策などの不始末を、「敬老パス」に尻拭いさせる市長の方針には納得出来ないとの意見も飛び出したことだった。

この再提案に賛成しているのは、市会与党の民主党だけで、やはり今回も自民会派は全面反対、公明会派も大勢が反対に傾いており、市会の反対姿勢は崩れていないという。市会の良識に期待したいという声も大きい。

ついでながら市長は、65歳以上のみの世帯など17万7千世帯の上下水道基本料金1、576円の全額免除を、「介護度4〜5の人が暮らす世帯」に限った素案に改定し、1万世帯余りに対象を絞る修正案も提出する。

平松市長は、「自分の思いが歳出削減に反映された」と自慢げだそうだが、市長が最も配慮しなければならないのは、年金収入だけで生活困窮に追い込まれている高齢者である筈だ。

仮に高齢者にも市財政再建に寄与して欲しいのであれば、まだまだ散見される大阪市の無駄な事務費の切り詰めや、各種事業・関係団体への不合理な交付金配分などの改革を実行してから、高齢者市民の合意を得るべきではないだろうか(完)
                     2009.02.25

2009年02月17日

◆山科だより 「 山科義士祭」

渡邊好造

「 山科義士祭」は、京都市山科区で昭和49年(1974年)以後、毎年12月14日に開催されている。

元禄15年(1702年)12月14日(新暦だと翌年の1月30日となるが、)の赤穂浪士による吉良上野介邸討ち入りにちなんだ義士祭は、山科以外にも、赤穂市、泉岳寺,それに吉良邸跡でもみられる。

山科の義士祭は、大石内蔵助が主君・浅野内匠守の仇討ちのチャンスを窺った隠棲,閑居の地であったことに由来する。

同祭は、200名以上の行列が山科疎水の北にある”毘沙門堂”を出発し、目的地の”大石神社”まで義士ゆかりの名所を5時間かけて巡る、山科区あげての大行事となっている。

行列がまず立ち寄る”瑞光院”には、浅野と46義士の遺髪塔がある。47でなく46義士なのは、ただ一人足軽の身分だった寺坂吉右衛門が、討ち入りのあと大石の配慮で抜け出して切腹を免れ、遺髪がなかったからとのこと。(足軽は士分ではないので、もともと切腹は許されない)

山科駅や山科区役所を経て”岩屋寺”に到着する。別名・大石寺と呼ばれるこの寺には、浅野と義士の位牌、木像、寺坂が大石から託され収めた遺品が展示され、境内には大石の山科閑居址もある。

行列の目的地”大石神社”は、昭和10年(1935年)に竣工、大石ら義士の書,浅野の肖像画などが展示されている。

ところで、山科のテーマからはずれるが、大石らの武勲を称えた”義士伝”は、江戸庶民の最大の娯楽であった浄瑠璃や歌舞伎のために書かれた”仮名手本忠臣蔵”を原本にしているものが多い。

その筋書きは、善玉と悪玉を明確にした大衆受けする一大メロドラマで、正確な史実に基いているかどうかは問題ではない。浅野、大石側は善で吉良側は悪に仕立てあげられていて、斬りつけられた吉良に非はなかった、気の毒なのは吉良である、吉良は気配りのきく名君であった、ということでは観客は集まらないというのが前提なのだ。

完全武装した赤穂浪士47名が吉良邸を襲い、吉良も含めて22名を殺戮、自分達は一人も死んでいない。本来なら義挙などではなく、むしろテロ集団の暴挙というべきではないか。そのあと自首した全員が切腹させられたから、命懸けでよくやった、となったのであろう。

大衆芸能で大人気となる人物や物語には4つの要素がある。それは、1)逆境に陥る 2)人に侮られる 3)大成功をおさめる 4)悲劇的な最後になる、の4点で、赤穂浪士の他、源義経、豊臣秀吉(2代目で没落)らがそれに該当する。

これらの人物は、映画にテレビにと繰り返し取り上げられ、筋書きが全部わかっていながらそれでも多くの人を惹きつける。

討ち入り後出されていた赤穂浪士全員あるいは大半の浪士の助命嘆願がもし受け入れられて、そのあと生き長らえていたとしたら、山科をはじめ各地の義士祭は行われていなかったかもしれない。(完)

2009年02月12日

◆「WTC共同鑑定額」は適正!?

                田邊幾三

大阪府政の差し迫った焦点は、橋下知事が大阪市大手前の現府庁舎を大阪南港のWTCに移転させる条例案を2月定例府議会に提案し、これを巡る論議が激化することだ。

そこへ来て大阪府と市の「WTC共同鑑定額」が急浮上、その意外性がさらに事態を混迷させる様相を示してきた。

ところでWTC移転問題は、本誌主宰毛馬一三氏が本誌2009.01.16号に掲載した「どうなる大阪都心移転構想」で、府庁舎移転の知事の意図やこれを巡る賛否両論などが詳細に記述されている。
http://hyakka.seesaa.net/category/2004358-1.html

筆者も同上稿を読み、この構想が「大阪都心移転」をも視野に入れ、行く行くは将来大阪活性化を図る新都市像を創り上げる壮大な計画であると認識し、同構想に賛意するひとりとなった。

しかも、教育問題や府財政再建に実績を上げた就任1年目の知事の政治姿勢に、改革と変化を標榜する強い恣意が受け取れたことも、同構想への理解を深める要因となった。

事実橋下知事が、政治生命を懸けてこの条例改正案の可決を目指す決意を明らかにしていることに、その姿勢と気概を感じ取ったことも否めない。

ところが、同構想に関して府民や有識者らに感想や意見を聴いて居る内、意外にも二つの懸念や不安が渦巻いていることにぶち当たった。

ひとつはWTC建物の耐震構造に対する懸念。もう一つはWTCの評価額が、売り手の大阪市と買い手の大阪府との間に、何と60億円もの開きがあったことだった。

特に両者が個別に鑑定した「評価額」に、どうしてそれほど大差が生じるのか、府民の多くが首を傾げた。

確かにWTCは、早ければ9月にも二次破綻が想定されている。そうなると大阪市は、金融機関への損失補償が500億円とテナント保証金50億円の支払いを迫られる。大阪市は追い込まれている。

だから「売却額が高ければ、その分持ち出し負担分が少なくて済む大阪市と、倒産物件だから買い叩きたい大阪府のそれぞれの鑑定額に開きが生じるのは当たり前」という本音が市長周辺から流れた。

つまり開きの差が生じるのは、「然るべし」という論理だ。しかし鑑定額の差によって、税金の持ち出しが大きく連動することへの認識と危機感が希薄なことに府民・有識者らから疑問と不満が上がったのは事実。

こうした世論を意識したのか、橋下知事と平松市長が考え出したのが、府市共同で「WTC再鑑定」を行い、この再鑑定額をもとに改めて協議しようということだった。「府市共同鑑定」浮上のきっかけである。

その結果がこの10日出され、注目の「共同鑑定額」が、何と99億円であることが明らかになった。

つまり当初150億円だった大阪市の鑑定額が51億円も下がり、大阪府が当初鑑定していた95億円に大幅に近づいた形となったのだ。府市は今後、この共同鑑定額を軸にWTC売買価格を最終調整する方針だという。

ところがこの共同鑑定額は、WTC売却を纏めるための当初からの“出来レース”ではないかという意見が流布されだした。

買い手と売り手が売却物の再鑑定を共同で実施することは、まず民間ではありえない。「売値」が訴訟になった場合、裁判官の下で鑑定機関が選任され、「鑑定額」が確定する例はあるのみだという。(大阪弁護士会所属 弁護士談)。

そんな中で2月24日から始まる大阪府議会では、橋下知事提案の「府庁舎移転」条例改正案が予定通り提案されるが、可決に必要な議員3分の2の賛成を確保する情勢には、今のところ至っていない。

橋下知事は、WTC鑑定額を府の鑑定額に近づけられてことで府が持ち出す移転費用の大幅軽減に成果を上げたことを、各府議団の幹部をはじめ、各議員に報告しながら、賛成派の擁立に懸命に動いている。

しかし、府議会各派では、自治体でも先例の無い今回の「府市共同鑑定額」を軸とする条例改正案には、同意出来ないとの空気が支配的だ。

しかも本来、WTCのある住之江区の南港活性化は、政令都市大阪市に課せられた行政実務であって、これを事実上放棄している大阪市の後始末を大阪府が「庁舎移転」してまでも担うことなどは妥当ではないとして、反対の構えだ。

まして100億円の買取費と耐震補強費20億円の府税を投じて、今更WTCに移転する必然性は見当たらないとの強硬反対論が根強い。

ところで、府との交渉が不可能になった場合、大阪市はWTCを会社更生法による法的整理を行い、買い手が見つからなければ、市が買わざるを得ない窮地に追い込まれる。時間との戦いともいえる状況だ。

いずれにしても異例の「合同評価額」の提示は、府市が窮余の一策で考え出したと見るのが自然のようだが、府議会から同案が否決される公算が強いだけに、知事がめざす「府庁舎移転構想」そのものが頓挫することにも繋がりかねない。

となれば知事は、世論を背景に府議会に同意を求める作戦に打って出ることが予想されるが、今回急浮上の「共同鑑定額」問題は、2月定例府議会の混迷を一層加速させる要因になりそうだけに、先行きは不透明のままだ。(完)
             (ジャーナリスト)2009.02.12

2009年02月05日

◆選挙「出口調査」発案のきっかけ

濱口 忠昭

<本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」1443号(平成21年2月6日)に掲載されました。同号「目次」は下記に掲載>


アメリカを震源地とした世界的な金融恐慌の影響で、日本の輸出産業は壊滅的な打撃を受け、派遣労働者や期間労働者の雇用打ち切りが社会問題となっています。

麻生総理は選挙内閣として発足したにも関わらず、経済政策が緊要だとして選挙は先送りの状態になっています。しかし総選挙は避けられず、まもなく民主党との激戦が始まります。選挙が始まると、当選者の予想が熱を帯びてきます。落選すれば名誉と権力を失うのだから候補者も必死です。
 
マスコミでの選挙取材では、例えば総選挙の場合、中央政局の動向、選挙区での政党の趨勢、各候補者の過去の得票実績、選挙参謀の予測、他陣営の見方、有権者の意識などを基に、候補者毎の強弱を担当記者が取材します。

つまり、こうした取材を繰り返し重ねて候補者毎の得票予測、即ち「票読み」を行い、開票速報の備えるのです。

選挙管理委員会で開票が始まると、この記者の「票読み」と実際の開票状況とを突合せながら、「票読み」通りの得票数が出ていると確信した瞬間、担当記者が選挙デスクにその候補者の「当選確実」を進言、これを精査した選挙デスクが「当選確実」を打ちます。

この「当選確実」の速さと正確さが、選挙報道に当たるメディアの真価を問われ熾烈な争いです。仮に「当選確実」を誤って出せば、そのメディアの信用は失われ、勿論担当の記者生命は終わりです。「当確」を打ち間違えて左遷された選挙デスクを何人も知っています。
 
ですからこの「当選確実」の速報を正確にしかも迅速に打つことが、各メディアの永遠のテーマであり、究極の課題と言われるもので、現在も昔も変わっていません。

ところで、筆者がふとしたきっかけから、そうした願望をほぼ果たすのに効果があるのではないかと考え、数年にわたり試行錯誤を繰り返しながらようやく発案した「選挙当日の出口調査」について、以下お話したいと思います。

そもそものきっかけは筆者が昭和46年、NHK大阪放送局報道部の岸和田通信部記者として選挙取材の時のことです。

投票所の近くで有権者の様子を取材中、たまたま投票を済ませた知人から声を掛けられた際、何気なく「誰に投票したのですか」と聞いた質問がそもそもの始まりでした。

当時、取材とはいえ投票結果を聞くのは、選挙妨害や選挙違反に該当するのではないかとの危惧がありました。それでなくとも、選挙は中立、公平が大前提で、選挙管理委員会の発表前に投票結果を有権者個人から聞きだすのは、なんとなく憚れる雰囲気でした。

しかし、聞き出した結果を投票終了後、開票結果のニュースとして使用するのであれば、選挙妨害には当たらず、通常の選挙取材として許容される範囲だと考えたのです。

その後選挙毎に幾つかの投票所で10〜20余人を対象に聞き取りを試みました。聞き取りを行う際、「もし、差し支えなければ教えて下さい」との意向を必ず伝えました。「いいですよ」との許諾の返事を貰った上で、「投票した政党は何党か」、「その理由は何か」などを手短に聞き取ったのです。相手に警戒もしくは誤解されてはいけないので、遠慮しいしいあまり詳しくは聞きませんでした。

ところが驚いたことに、開票の後にこの「出口調査」の結果と候補者(政党)の得票数とを突き合わせて検証したところ、なんと両者が極めて近似傾向を示し、候補者間の優位さと政党間の得票順位を見事に捉えているではありませんか!

「出口調査」が、選挙結果とほぼ合致することを浮き彫りにしていたのです。それでもこれが偶然の結果ではいけないと考え、その後実施された各種選挙で繰り返し挑戦してみました。やはり同様の結果が裏付けられたのです。

「やった!この出口調査をやれば、当確が迅速・正確に打つことが出来、寸刻を争う他社メディアとの速報報道を制することができる」とわが胸を躍らせました。

丁度枚方市を担当していた昭和51年12月6日開票の衆院選挙の時、選挙デスクにこの「出口調査」を報告し採用を提案しました。しかし「秘密堅持色の強い特定政党支持者が、投票結果の真実を明らかにするだろうか」等の慎重判断から、その時の選挙では当確判定のひとつの「参考資料」として使用されただけでした。

しかし、選挙後の会議でこの「出口調査」が検討された結果、有効であるとの結論が出され、以後NHK大阪報道部の選挙取材でこれが採用されたのです。「出口調査」が大きく羽ばたき出した瞬間でした。

今、「出口調査」は開票速報に絶対欠かせない必須情報になっています。調査対象の開票所も選挙情勢に合わせて緻密に選別され、その数も増やし、メディアが組織を上げて枢要な判断の拠り所にしているようです。

最近の選挙報道では、「出口調査の結果によりますと」などと使われるのが当たり前になってきたためでしょうか、取材される側の有権者もその心算で聞き取り気持ちよく応じているようで、トラブルは起きていません。ただ、特定政党にその調査結果を利用される恐れは無いのかと心配するのは筆者だけでしょうか。

いずれにしろ、投票所の前で、恐る恐る聞き出した筆者の素朴な発案が、時を経てまさかこんなに注目され、大きく飛躍しようとは思いもしなかっただけに余計に感無量です。(終)                                    (ジャーナリスト)2009.02.05

◆本稿が掲載された全国版メルマガ「頂門の一針」1443号(平成21年2月6日)の「目次」は、下記の通りです。

<目次>
・戻ってきた狼の群:永冶ベックマン啓子
・選挙出口調査起源:濱口忠昭
・武器制限のソマリア派遣?:櫻井よしこ
・朝日新聞襲撃事件の真相か(2):平井修一
・惨たり製紙産業:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年02月03日

◆光秀が愛宕神社に祈願したわけ!

<本稿は、全国版電子雑誌「頂門の一針」に掲載されました。本稿下の「目次」をご覧の上、ご購読(無料)の手続きをお願いします>
                                  
河崎勝ニ

「火廼要慎」神社の総本山で有名な京都の愛宕神社へ先頃初めて参詣した。その際筆者にとって長年腑に落ちなかった「歴史上の謎」が解き明かされ、胸のつかえが一挙に消え去った。

京都右京区の愛宕山の山頂にある愛宕神社は、大宝年間(701年〜704年)に創建されたもので、「火伏せ・防火」に霊験ある全国800神社の総本山。本殿で頂く「火廼要慎」の火伏札は、京都・大阪などの料理屋や家庭の厨房に貼られ崇められている。

この愛宕神社が有名なのは、標高924mの山頂にある「愛宕神社」までの参道が、急勾配のままの山道と石段が昔のまま今も残されていることだが、それ以上に世の関心を集めているのは、明智光秀がここで戦勝祈願したことであることはご承知の通り。

光秀は、天正10年(1582)5月、織田信長を討てるかどうか占うため、神社本殿で「籤」を引き、4回目にしてやっと「吉」を手にして本能寺攻めを決意したとされる。

だが、本能寺攻めの占いの「籤」を引いた明智光秀が、なぜ「火廼要慎」の神様へ祈願したのか。筆者にはそのことが予てから不可解な歴史の「謎」だった。

さて、話を冒頭に戻す。

今回の「愛宕神社」参詣は、この冬何処にも見られない積雪の姿を、標高924mの愛宕山の山頂でなら眺められるに違いないという発案からだった。その瞬間「愛宕神社」へ行けるのなら、この謎解きに迫れるのではないかと、筆者の気持ちは昂ぶった。

健脚を楽しむ「大阪城歩こう会」の13人の主たるメンバーが、完全防寒具に身を固め、杖とアイゼンを用意して大阪梅田を阪急電車で出発、京都愛宕山山頂を目指したのが、その日の朝7時50分だった。

阪急「嵐山駅」で降りて渡月橋を歩いて渡り、京都バス経由で登山口となる「清滝」で下車したのが午前9時30分。そこから小さな朱色の鳥居を潜り、表参道に出る。山頂まで50丁、愛宕神社までの長い急坂の山道への挑戦がここから始まる。

持参の気温計を覗くと、平地の気温は4度だったのに、ここでは氷点下2度。脚力には自信のある仲間全員が、急勾配の長い山道を上るにつれ、息切れが激しくなり、杖を頼りに白い大きな息を吐き出しながら、ただ黙々と上を目指す。

7合目に来ると杉に覆われた森林の隙間から展望が拓け、広沢池、桂川、京都市街が眼下に広がった。緩やかに呼吸を整えながらの歩行法で更に登ると、休憩所のある広場に着いた。そこでやっと周囲一面に広がる積雪に遭遇。メンバーから歓声が上がる。

少し登って黒色の総門を潜り、丁度正午に社務所に到着。そこから237段の石段を上がり、「愛宕神社」の本殿に並んだ。息を整え雑念を払って一礼・二拍手、「家内安全」「火廼要慎」を祈願。再び一礼して参拝を終え、石段を降りて社務所の広場に戻った。

3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれるため、幼児を伴った参詣者らが大勢社務所に集まり、「火廼要慎」のお札と「御神籤」を求めている。社務所を訪ね、白装束姿の男性職員に思い切って声をかけ、予てからの「疑問」を訊ねてみた。

返ってきた話に息を呑んだ。その職員の親切な説明によると、
<戦国時代の頃のこの神社は、本殿に愛宕大権現の本地仏の「勝軍地蔵」が祀られ、各地割拠の武将からは「戦勝祈願の神社」の象徴として崇められていたという。

だから、近隣の亀山城主だった明智光秀は、ここ「愛宕神社」に駆けつけ、本能寺を攻められるかどうか占うため、この「勝軍地蔵」に祈願し、「籤」を引いたというのだ。「火伏せ防火の神」に祈願したわけではない。

その結果に勇躍した秀光は、その翌日ここ社務所の前身の「西坊威徳院」で連歌会を開いている。その時詠んだのが「ときは今 あめが下しる 五月かな」だった>。

これを聞いて、1300年前から火伏せ防火の霊場とされてきた当神社は、実は戦国武将にとっては、「勝軍地蔵」に捧げる「戦勝祈願の神社」というもう一つの顔を持っていたことが分かった。その結果、腑に落ちなかった光秀の祈願と「籤」引きの「歴史の謎」が、遂に解けたのだ。

更に同職員は付け加えた。<この神社に関係があるのは光秀だけではない。記録によれば仙台の武将・独眼流伊達政宗も参拝しているおり、連続ドラマ「天地人」の主人公直江兼続の兜の「愛」も、本神社の名との関わりを持つという>。

長年のわだかまりを払拭してくれた社務所の職員に深々と頭を下げ、仲間の待つ広場に戻った。聳える「愛宕神社」に目を遣ると、歴史の時間と空間が蘇るような気がする。脚力の限界を超える初体験の山登りだったが、歴史の謎解きと直に向かい合えたことは無常の喜びだった。

これだから「大阪城歩こう会」の山登りは止められない。(完)
2001.02.01
参考―フリー百科事典「ウィキペディア」、「関西周辺の山250(山と渓谷社刊)」


◆本稿が掲載された全国版メルマガ「頂門の一針」の
平成21(2009)年2月2日(火)『夕刊』の「目次」

・未熟語あれこれ:渡部亮次郎
・危険な経済ナショナリズム:平井修一
・盛り上がるアメリカ人とは:前田正晶
・誇り高き日本人C・W ニコル:伊勢雅臣
・光秀が愛宕神社に祈願したわけ!:河崎勝ニ
 
話 の 福 袋
 反     響
 身 辺 雑 記

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