平井 修一
ネットは小4向けから大学総長向けまで実に多彩な情報を提供してくれる。小生のようなヒッキーはPCで多くの情報に接することができるので、とても助かるし、勉強になる。びっくりすることがとても多い。以下もそ
んな情報だ。
現代ビジネス1/6「大阿闍梨が明かす、千日回峰行の苦しみ“爪はボロボロ、血尿は出る。ところがある日、不思議な感覚が芽生えてくるのです”」島地勝彦×塩沼亮潤 【第1回】から。
<店主前曰:世の中にはもの凄い人がいるものである。
現存する僧侶になかで吉野の大峯千日回峰行をやり遂げた唯一の大阿闍梨、塩沼亮潤さんが目の前にいらっしゃる。お顔がじつに爽やかである。こころが澄み切っているのだろう。
一方わたしといえば、欲望の塊のような人間である。偉そうに“シマジ教”の教祖を自認しているが、こころは濁り切って、 顔は年齢不詳を目指して極めて妖しい雰囲気を醸し出している。
担当編集者のヒノがいみじくもいったものである。「今日は清と濁の顔合わせとなりましたね。面白くないはずがありません」と。
* * *
――本日、塩沼大阿闍梨にお目にかかるにあたり、塩沼さんが小学5年生のときに観て感銘を受けたという、酒井雄哉さんの修行に密着したNHKドキュメンタリーをDVDで観ました。千日回峰行っていうのはただごとでは
ないですね。
あの番組を小学5年生のときに観て、「よし、おれもやろう」と決心なされたとのことですが、やっぱり塩沼さんは常人ではありませんね。学生時代はスポーツマンだったんですか?
塩沼 高校時代はテニスをやっていました。あと、学校までの4キロの道のりを毎日走って通っていました。その当時から「近い将来、千日回峰行をするんだ!」という気持ちでいましたから、勝手に準備期間と考えてい
たんですね。
――毎日走って通学していたんですか! わたしにはとても考えられません。そして千日回峰行を成し遂げたいま、次の夢はどんなものですか?
塩沼 そうですね、将来は、大きな世界を飛び回るお坊さんになりたいですね。
――そのために語学も勉強なさっているんですか。
塩沼 いま泣きながら教わっているところです(笑)。
――英語がある程度できれば世界中で話が通じますものね。
塩沼 はい。あと、フランス語も習っています。
――へえ〜、フランス語までやっているんですか! それは驚きました。
塩沼 みっちり絞られています(笑)。やっぱり何歳になっても挑戦していきたいなと思っているんです。わたしはずっとそういう気持ちでいますので、千日回峰行をしたときよりも、もしかするといまの情熱のほうが上かもしれません。朝起きると「さあ、いくぞー!」という気持ちになります。
――それは真面目に千日回峰行をやってこられたからでしょうね。
塩沼 はい。あのとき手を抜かなかったから、いまがあるのだと思っています。
――今東光大僧正から比叡山の千日回峰行の話は聞いて知っていましたが、じつは奈良の吉野山のほうが比叡山よりもきついらしいですね。
塩沼 そうかもしれませんね。体力的なきつさでいうと、比叡山の2日分が吉野の1日だともいわれています。
――酒井さんは比叡山のお山を毎日40キロ回っていましたよね。塩沼さんの場合はどれくらいだったんですか?
塩沼 48キロの行程でしたが、吉野の山は高低差があるのでかなりしんどかったです。
――なるほど、吉野のほうが山が険しいんですね。
塩沼 標高1500メートルを超えると気温もグッと下がりますし風雨もきつくなります。いわゆる修験道の行場ですね、鎖をつたって岩場をよじ登るようなルートを含めての48キロですから、かなり厳しい道のりです。
――それを1日で行って帰ってくる。しかも毎日。
塩沼 毎晩、深夜0時に出発していました。
――れでお寺に戻ってくるのは夕方ですか。
塩沼 午後3時半ごろですね。そこからさらに行が待っているんですよ。掃除、洗濯から翌日のための雑事を含めて、吉野の場合は、全部自分でしなくてはいけませんから。
――なるほど。ただ山を歩くだけじゃないんですね。塩沼さんが千日回峰行をやろうと思ったのは小学5年生のときでしたが、実際に決行したのは何歳のときだったんですか?
塩沼 23歳のときです。高校卒業後19歳で出家得度しまして、金峯山寺の修業道場に入りました。そこで4年間の小僧生活を経て、師匠の許可をいただき、ようやく山を歩く“行”に入ることができました。
――いままで多くの僧侶が千日回峰行に挑戦されたと思いますが、なかには途中で亡くなられた方もいらっしゃったんでしょうね。
塩沼 おそらく長い歴史のなかではそういう方もいらっしゃるはずです。
――あえて発表もしないだろうし、もしかすると記録も残っていないかもしれない。つまり「仏さま」になったということなんでしょうね。
ヒノ 吉野の山でいままでに千日回峰行をやり遂げたお坊さんは何人ぐらいいたんでしょうか?
塩沼 吉野の大峯千日回峰行は1300年の歴史がありますが、満了したのはわたしで2人目です。百日回峰行をなされた方はたくさんいらっしゃいますけど、千日となると、やはり体力が余程でないと勤まりません。
――体力も大事でしょうが精神力も並々ならぬものが必要なんでしょうね。
塩沼 たしかに精神力も必要です。食べるものは毎日おにぎりです。あとは1日1回の精進料理。タンパク質もカルシウムもほとんど摂取できないので、必ず栄養失調になり、1ヵ月ほどで触るだけで爪がボロボロと砕けて
きます。3ヵ月が過ぎるころからは血尿出てきます。
――そういう過酷な状況で自分を痛めつけて、それでも明るい希望を持てというのは、本当に壮絶な修行ですね。
塩沼 そうなんです。そこでマイナスなことを考えると自分の成長がない。ただ苦しみに耐えて耐えて、その苦しい時期を過ぎると、そうですね、イメージでいいますと、土手っ腹でドンと受け止めて、両の足で一歩
前へ進むと、自分が成長したような感覚が持てるんです。
千日回峰行をはじめたときはまだ23歳でしたから、若かったんでしょうね。「やるぞ」という情熱に燃えて山道を蹴るように歩いていましたが、だんだん日数が経つうちに、山道を愛撫するように優しく歩けるようにな
りました。
――23歳でお山を歩きはじめて、修了までは何年かかったんですか?
塩沼 お山を往復するのは連続122日までと決まっていますので、都合9年かかります。ですからわたしは19歳で金峯山寺に入りまして、いわゆる若者の青春時代もなく、そのままずーっと山のなかにいて、千日回峰行が終わったときには32歳になっていました。青春もなくただバーッと走り切ったとう感じでしょうか。
――そしていまは故郷の仙台に戻られて、慈眼寺を開山して住職さんをやってらっしゃるんですよね。
塩沼 はい。それから、もうお寺は存在しませんが、吉野山の持明院の住職もやっています。
――存在しないというのは、つまり、明治時代初期の廃仏毀釈で壊されたんですか?
塩沼 そうなんです。吉野には塔頭もたくさんあったんですが、全部破壊されてしまいました。残念なことです。
ヒノ 修行中、山道を歩いている最中に、眠くて眠くて我慢できなくなったことはありますか?
塩沼 最初のころはしょっちゅうでしたね。よく歩きながら眠っていました。いつも提灯を持って夜道を歩いているんですが、あるとき突然、足首をガってつかまれたんですね。誰もいないはずなんですが、とにかくそういう感覚に襲われて足が自然に止ったんです。
「あれ、どうしたんだろう」と思って目を凝らしてみたら、まわりにはなにもない。もう30センチほど進んでいたら、その先は何十メートルの断崖絶壁になっていました。その瞬間、たぶん、仏さまがパッとわたしの体を持ち上げてくれたんだ思うんです。
一度そんな怖い思いをすると同じ失敗は二度と繰り返さなくなりまして、それからは歩いて眠ってしまうようなことはなくなりました。
――聞いているだけで鳥肌が立つ恐ろしい話ですね。
*大阿闍梨がみた地獄「修行をはじめた頃、亡霊と餓鬼ばかりが現れました。あれは夢だったのか、幻覚か。それとも…」【第2回】1/13
――今回、お目にかかる前に塩沼大阿闍梨さまのご本はすべて読ましていただきました。いろいろと感動しました。
塩沼 ありがとうございます。どこがいちばん感動されましたか?
――いちばん印象に残っているところは、千日回峰の修行中に寒さや苦しさで涙が出てくるところです。その涙が蒸発して天に昇り、雲になって雨となり、結果、みんなの飲み水になったり、田畑を潤す水になったりするんだという、大阿闍梨さまのスケールの大きな連想飛躍ですね。
塩沼 昨日まで流した涙が雨となり、悟れや悟れと励ましの雨音になる。わたしの流した涙が頬を伝わって地面に落ち、川を流れ海に行き、やがて蒸発して雲になり、ここに降って雨音を立てながら「頑張れ!」と自分を励ましてくれている。そういう気持ちになれたんです。
いま思い出しても涙がにじんできますけど、最悪な状態にあっても不平不満がなくなっている自分を発見しました。
――そういう山中の嵐のなかでも、いつも前向きに希望を持つということは凄いことですし、難行を全うするためには必要な心構えなんでしょうね。
塩沼 たしかに、どんな状態でも、いつも希望は持っていました。テレビを観て千日回峰行をやりたいと思ったのは小学5年生でしたが、出家した19のときにはもう、千日回峰行が終わってからの夢があったんですよ。そ
の夢を追いかけていたので、わたしにとって千日回峰行は「やって当たり前」という感覚でした。
ですから失敗したらどうしようなんて悲観的な考えは微塵もなかったんです。その先の夢があったからこそ、あんな難行を乗り越えられたのかなあと、今では思います。
――比叡山の酒井大阿闍梨は戦後、闇ブローカーをやったり、奥さまが自殺されたりした後、40歳で出家して、そこから千日回峰行をなさっていますが、塩沼大阿闍梨の場合は高校を卒業した翌年、ストレートで吉野山に行かれたんですよね。
塩沼 はい。わたしの場合は人生の辛酸を舐めることもなく、10代で吉野山の金峯山寺に入りました。はじめはわたしも酒井さんがおやりになった千日回峰行しか知りませんでしたから、比叡山にいくしかないと思っていました。ところがたまたま知り合いを通じて「千日回峰行は比叡山ともう一つやっているところあるよ」教えてもらったんですね。それが奈良の吉野山でした。
詳しく調べてみましたら、吉野の千日回峰行のほうが比叡山より過酷なんですね。それがわかったので、どうせやるならより厳しいほうに行こうと決心したわけです。あとあと後悔しないためにも。
――右の道を選べば楽で、左の道を選べば辛く難しいというとき、わたしを
含めて一般人は右に進んでしまうものですが、さすがは塩沼大阿闍梨、そこからちがっていますね。すべての芸術家はあえて難しい道を選んでいます。たとえばモーツァルトやベートーヴェンがそうです。
塩沼 楽だと思ったら成長しないものです。自分に出来るか出来ないかわからないくらいのハードルを設定して、ギリギリのラインを攻めていくのが修行としてはいいかもしれません。
――さきほど真っ暗な山道を半分寝ながら歩いていて断崖絶壁の30センチ手前で目が覚めて助かったという怖い話をお聞きしましたが、歩いていても眠くなるっていうのはよくわかりますね。
DVDを観ると酒井さんは途中でいろんなところに立ち寄ってお経を読んでいました。吉野山の場合はどうなんですか?
塩沼 吉野の場合は、大きな神社も含めて、お寺や祠、お地蔵さん、観音さんなど、立ち寄る場所がぜんぶで118ヵ所あります。
――そこで経文を誦すると、目が覚めたりするんではないですか?
塩沼 はい、目が覚めます。ところが不思議なことに、お経をあげているときに限って怖いものをみたりするんですよ。
――それはまだ塩沼さんが悟りの境地に達していないから、怖いものを怖いものとしてみてしまうんでしょうか?
塩沼 おそらくそういうことかもしれません。はじめは物凄く怖かったでよ。でもしょっちゅうみているうちに慣れてくるんですよ。
――それは亡霊とか餓鬼とか亡者ですか?
塩沼 幻覚のなかで3匹の餓鬼が行く手を阻んで石を投げつけてきました。実際に石がみえて、必死で避けたりするんですけれども、ハッと気がつくと何もない。それから、4メートルはあろうかという大きなイノシシ
が襲ってきて「うわっ、やられる」と思ったら、何もなかったとか。また、後醍醐天皇の南北朝時代の戦場跡では、亡霊を何度もみました。
低いテーブルで握り飯を食べて休憩していると、なんだか霧に包まれたような感じになりまして、バーンと体を倒されたんですね。金縛りのようになって、体が動かない。胸のあたりに武士の手甲があるような感じがし
て、それがだんだん首のほうに上がってきた。
首を絞められるという恐怖から、このままじゃヤバいと思って、意を決してワーッと大声を出しながら体を動かしたんですね。次の瞬間、気がついたら武士の手甲は消えていました。
――それは幻覚というより本当のような話ですね。
塩沼 幻覚なのか夢なのか、何なのかよくわからない世界です。ところが3年目が終わるころから、そういう怖いものは一切みなくなりました。反対に今度は、キレイな世界がみえるようになったんです。
あるとき、金色の光のなかで天女が3人舞い、こちらにいらっしゃいと手招きしていました。近づいてみますと、その天女から袋に入った金剛石を渡されました。天女は何もしゃべらないんですが、「あなたの行くところ
にはまだまだ上がありますよ」という声が聞こえてきて、これはご褒美なのかなと思いました。
ふと上をみると、螺旋階段があって、その先はまたスーッと真っ暗な闇の山道になったいました。そんなことがありつつも、後半の3分の1は何もみなくなりました。
――亡霊からだんだん天女になっていって、そのあとは何にも遭遇しなかったんですか?
塩沼 あ、そういえば、仏さまはよくみました。
――それは塩沼さんという人間がだんだん解脱していく過程だったんでしょうね。
塩沼 そうだと思います。そのころになると、岩場に座っておにぎりを食べていると、小鳥が肩の上に乗ってきたりしました。多分、鳥たちもわたしの存在が怖くなくなったんでしょう。徐々にそういう自分になっていったんだと思います。
明け方、小鳥が数羽わたしの周りに寄ってきて、ごはん粒をあげるとチュンチュンいって一緒に食べたり、あとは、きっと巣に持っていくんでしょうね、わたしの法衣の麻地の糸くずをつまんで、喜んで飛び立っていきました。動物たちがだんだんわたしを怖がらなくなってくるんです。
――小鳥の小さな脳みそで考えて塩沼さんに親しみを感じて寄ってきたんでしょうね。
塩沼 それも行の終盤、3分の2をこなしたころでしたね。それでもやっぱりまだ山のなかだけなんですよ。俗世間に近いふもとの修業道場に降りてみると、そこにはいろんな人間関係があり、ふたたび悩みや迷いの世界に入って行きました。
「山ではあんなにわかったつもりだったのに、どうして出来ないんだろう」と自己嫌悪に陥ります。悶々としている自分がいます。それでまた次の年の行に入り、繰り返しになるんですが、最後には悟りが開けてわかっ
てくるんですね。
繰り返し、繰り返し、同じことを情熱を持って続けていくと、解脱して悟りにたどり着く可能性が出てくるんです。お釈迦さまが仰っていますように、修行とは繰り返し、繰り返し、同じことを情熱を持ってやることなんでしょうね。
――深夜12時に出発するとき持って行くおにぎりはご自分で作るんですか。
塩沼 おにぎりだけはふもとのおばあちゃんが作ってくれます。
――何個持って行かれるんですか?
塩沼 2個です。
――大きさは?
塩沼 これくらいですかね。
――かなり大きいですよね。
塩沼 はい、大きめのおにぎりを弁当箱に入れて毎晩持って出ました。
――おにぎりの中身はなんですか?
塩沼 梅干しが入っています。
――海苔は?
塩沼 ナシです。1つが梅干しで、もう1つが天むすです。
――え、天むすですか!?
塩沼 すみません、これは冗談です。ハッハッハッハ。
――なんだ、真に受けて想像しちゃいましたよ。アッハッハ。
塩沼 本当に天むすだったらうれしいんですけどね。梅干しも食べると胃を壊してしまいますので、防腐剤代わりに入っているだけなんですよ。
――なるほど。うだるような夏の夜もあるんですものね。
塩沼 そうなんです。その2つのおにぎりを食べ繋いで、黙々と登って行くわけです。
――往って帰って48キロを、たったそれだけで食い繋ぐわけですか?
塩沼 いえいえ、24キロです。大峯の山頂には宿坊がありますから。
――その宿坊には誰か人が住んでいるんですか?
塩沼 はい、人がいます。大峯山寺という大きなお寺がありまして、1719メートルの山のてっぺんに200人が泊まれる宿坊が5軒もあるんですよ。
――へえー!
塩沼 いまはお坊さんは常時1人しかいませんで、他には宿坊のお手伝いをしてくださる方が十数人いらっしゃるだけですが、明治時代までは「講」が盛んで、字(あざ)ごとに大峯山に登る講社がありまして、近畿
地方では年に一度の大峯詣りとうのが流行っていたみたいです。成人したら、大峯山に登らないと一人前じゃない、というようなことで。
――江戸でいうところの「大山詣り」みたいな感じですかね。
*大阿闍梨が明かす少年時代「中学校に入ってからは、パチンコ屋さん通いがやめられませんでした。なぜなら…」【第3回】1/20
――幻聴や幻覚の怖い話も凄いですが、現実の体験で怖かったことはなにかありますか?
塩沼 そうですね、山道でいちばん怖かったのはマムシとの遭遇でしょうか。
深夜、雑草が生い茂った狭い山道を錫杖でトントンやりながら提灯の明かりだけで進んでいくわけですが、体が疲れているので、マムシがいるかもしれないなんて考える余裕もなくなり、つい一気にバーッと駆け降りてしまうんですね。運を天に任せて走ったりする場合もあります。
ある日、明るくなった山を下ってきたときのことです。ふと足元をみると太いマムシが死んでいました。きっと夜中にわたしが頭を踏みつけて殺してしまったのだと思います。でも、偶然にもピンポイントで頭を踏んだからよかったものの、もしも尻尾を踏んでいたら、確実に足を噛まれていたでしょう。
そしてあっという間に毒が回り、わたしの方が死んでいたかもしれません。この時も仏さまが守ってくれたんだと思います。
――夜中ですし、そもそも山の中に病院なんかありませんものね。そんな命がけの修行を全うされた大阿闍梨に対して尾籠な話で恐縮なのですが、これだけは聞かせてください。やっぱり排泄は野糞なんですよね?
塩沼 はい、野糞です。山のなかではそれしか方法がありませんから。都合1500回くらいはしていると思います。おそらく現代の日本で、いちばんたくさん野糞をしたお坊さんじゃないでしょうか(笑)。
――それだけ歩いて運動しているわけですから、腸も動きも活発になるでしょうね。しかも食べるのはおにぎり2個だけでしょう。すぐに消化されて出てきそうです。
塩沼 毎日ほぼおにぎりだけなので、便の色も、おみせしたいぐらいなきれいなんですよ。黄金色というか、黄土色ってやつです。しかも必ず同じ時刻に同じ場所で催すんです。食べる時刻も量も決まっているからですかね。オシッコもそうです。飲む水の量が決まっているからでしょうか。
――何時ごろに催すんですか?
塩沼 明け方ですね。そうだ、こんなことがありました。まだ初年度のころです。いつもの場所にしゃがんで用を足そうとしたそのとき、普段なら誰もくるはずのない時間に、白装束を着けたおばちゃん2人が錫杖を持っ
て、わたしの目の前に現れたんですよ
――それはマムシより驚いたでしょうね。
塩沼 しかもそのおばちゃんたちと目が合ってしまった。みないふりしてそのまま通り過ぎてくれればいいものを、あろうことか「あ、行者さんだ!」といってわたしを拝みはじめたんですよ。
一同 アッハッハッハッハ
塩沼 わたしもさすがに困り果てて「すみません、先に行ってください。ここは拝むところではありません。ごめんなさい」って、おばちゃんたちを拝み返しました。
――おばさまたちも、まさか野糞をしている最中とは想像もしなかったでしょうね。千日回峰行にもそんな恐ろしい冗談があったんですね。
塩沼 これも修行の1つだったんでしょうか。あのときは本当に焦りました。
――きっと仏さまのお導きだったんじゃないですか。仏教には「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉があるくらいですからね。仏さまが塩沼阿闍梨にイタズラしたんでしょう。
塩沼 そうかもしれませんね。
――話題を変えましょう。塩沼さんの子供のころの話を聞かせてくれませんか。
塩沼 子供のころは、いたって普通の子でした。ただ、とても貧しい家庭に育ちまして、母親からいつもいわれていた言葉がありました。それは「お前がどんなに偉くなっても、人の下から行きなさい。みなさんにお仕
えさせていただくという気持ちだけは忘れてはいけません」ということでした。
立木 いい言葉ですね。シマジはこの言葉をかみしめたほうがいいんじゃないの。
――なるほど、地べたからもの申すという姿勢ですね。わたしもこれからこころして、その姿勢で生きていきたいと思います。
塩沼 わたしの子供のころは、米や味噌がないと「ちょっと隣に行って借りてきて」と親からいわれたものです。それで「おばちゃん、お米貸して」と頼みに行くにがわたしの役目でした。
そうしたことが普通に出来たのも、ご近所同士の絆が強かったからでしょう。しかしいまはそういう近所づきあいもなくなってしまいましたよね。
ヒノ とくに東京のような大都会では隣に住んでいる人とも会話すらありませんからね。
塩沼 わたしが高校に進学出来たのも、知人や親戚のみなさんから助けていただいたお蔭です。「せめて高校までは行かせないと」と、知人や母親の兄弟たちがみんなで手伝ってくれたんです。
でもご厚意に甘えてばかりではいられませんでしたので、わたしも家計を助けるために中学2年生からアルバイトをはじめました。
――どんなアルバイトをやっていたんですか?
塩沼 知り合いの方が喫茶店をやっていて、毎週日曜日に3時間働いて1200円いただいていました。ある日、カップルのお客さまがいらして、コーラを注文されたんですが、アルバイトで入ったばかりのわたしはコー
ラの出し方もわかりません。
そこでマスターに「コーラはどうやってだせばいいんですか?」と訊くと、「いつもやっとるようにやっとけ」といわれました。わたしはまかないでカツ丼とコーラをいただいていたですが、そのときと同じように氷
も入れず生ぬるいコーラを自分たちが飲む普通のコップに注いでそのまま出してしまいました。
――それはなんとも微笑ましいエピソードじゃないですか。
塩沼 デート中のふたりがわたしの出したコーラをみたときのキョトンとした顔を、いまでもよく覚えています。わたしはなにもわからなかったので、どうしてふたりがそんな顔をするのか見当もつきませんでした。いまにして思えば、本当に申し訳なことをてしまいました。
それから中学のころはパチンコ屋さんによく通っていました。パチンコ屋さんに行くと、まず小さな箱を持って床に落ちているパチンコ玉を拾います。子供のやることですから誰も怒りません。拾った玉が箱の底に一列に集まると、それでパチンコを打ちはじめるわけです。
当時「飛行機」という台がありまして、一気に打つと玉がすぐなくなってしまいますが、コツがあるんですね。最初に角のいちばん目のところに当てて、それから間をあけて打つと、開いたところにバンバン入ります。それで必ず2箱か3箱ぐらいいっぱいにして、米や味噌、醤油、砂糖などに換えて家に持って帰っていました。
――そんなことをしてパチンコ屋の店員から怒られなかったんですか?
塩沼 店員さんもわたしが拾った玉で打っていたことは百も承知だったと思います。でも交換する景品が米や味噌や醤油でしたから、この子の家はよっぽど生活に困っているんだろうと思ったようで、ときどき「開放台」という開きのいい台を教えてくれることもありました。
開放台で打つと大きな箱がいっぱいになることもありました。常連のおじさんたちとも仲良くなって、玉を分けてくれることもよくありましたね。
立木 そうか、だから大阿闍梨さまはいまでも「パチンコ屋さん」といい、「店員さん」といっているんですね。シマジが「パチンコ屋」「店員」と呼び捨てするのとはえらいちがいだね。
塩沼 パチンコ屋さんには本当に助けてもらいました。高校に入ってからもパチンコ屋さん通いは続きました。悪いことだという意識はまったくありませんでしたから、制服のままでお店に入って打っていました。
――一家の生活がかかっていたんですものね。
塩沼 でも、ある日、学校の先生にみつかってしまったんですよ。その先生もパチンコが大好きだったらしく、たまたま同じパチンコ屋さんにきていたんですね。2、3度わたしが玉を拾って打って景品を持って帰るのをみていたようです。
先生としてはわたしが現金に換えたところを捕まえるつもりだったようですが、わたしが持って帰るのはいつも米や味噌や醤油でしたから、「どういうわけだろう?」と不審にはおもっていたようです。
ところがあるとき、見かねた先生から「次にやったら停学だぞ」と警告されました。そうはいっても、わたしも生活がかかっていますので、おいそれとやめるわけにはいきません。
――まあ、先生も立場上そういわざるを得ないですしね。
塩沼 でも、そのうちに先生もわたしの家庭の事情がわかってきたようで、パチンコ屋さんで会うと「今日は出ているか?」といって肩をポンと叩かれたりしました。仕舞いには、もの凄く仲良くなって、わたしから
「家に遊びにきてください」と誘いして、うちで一緒にご飯を食べるまでになりました。
――まるで小説のような、感動的なお話ですね。その先生の惻隠の情が目にみえるようです。涙が出そうです。
立木 シマジ、泣くな。泣くなよ。お前の濁った涙が蒸発して天に昇って雨になり、川に流れて水道の水になったとしたら、おれはそんな水は絶対に飲みたくないし顔も洗いたくない。シマジの涙で出来た水は邪悪な味がするに決まっている。
――タッチャンにそこまでいわれると泣きたくても泣けなくなるじゃないですか。本当にいまの大阿闍梨のお話を聞いて涙がジ〜ンと滲んできたんですがね。
どんなに家が貧しくても胸を張って明るく生きる塩沼少年の姿が目に浮かびます。こころまで貧しくなっていない証拠ですね。「貧すれば鈍する」というのは塩沼さんには通じない言葉だったようですね>(以上)
いやはやすさまじい修行、すごい人生だ。水泳選手から「スイマーズ・ハイ」の話は聞いたことがあるが、過酷な修行においてもそういう恍惚というか瞑想、無我、解脱の境地になるのかもしれない。
職人、芸術家、スポーツ選手なども、レベルが高度になると宗教家のように解脱するようである。
「オレは監督としても、自分のためにやってる人が結果的にチームのためになると思う。自分のためにやる人がね、一番、自分に厳しいですよ」「ときには嵐のような逆風が人を強くする」「敵と戦う時間は短い。自分
との戦いこそが明暗を分ける」
以上は王貞治氏の言葉だが、過酷な修行があってこそ人生の真実に到達するのだろう。まことに「艱難汝を玉にす」だ。(2016/2/27)