2016年02月17日

◆平沼氏が一貫して訴え続けた自主憲法制定

櫻井よしこ



昨年9月初旬、脳梗塞で倒れ療養中だった平沼赳夫氏が、自身のホームページに復帰の動画を発表した。
 
痩せたが、しっかりした口調で経緯を語っている。倒れて以降のリハビリ、昨年秋の自民党最高指導者(安倍晋三総裁)との面談、自民党党規委員会での満場一致の復党の受け入れ、長年の主張である自主憲法制定を目指し、「大和の国、平和な国」としての日本の復活にこれからの政治活動を集中させることなどを語っている。
 
氏は衆議院議員選挙への初立候補のときから自主憲法制定を訴えてきた。日本の在り方について、これまで度々氏とは意見交換をしてきたが、氏がよく語る往時のエピソードはやはり憲法にまつわるものだ。

「憲法は票にはならないのですよ。ですから、若い政治家として憲法の話ばかりすると、亀井(静香)さんに、もっと目の前の選挙区の利益につながる話をしろと、よく怒られました。それでも私はずっと、自主憲法制定を訴えてきました」
 
正直で真っすぐ路線の平沼氏が、真に政治家に向いているかどうか、私には分からない。しかし、氏の自民党復党は当然で、そもそも、氏を党から追い出した小泉純一郎氏の手法が理不尽だった。
 
平沼氏の自主憲法制定に異論を唱えるのは難しい。読めば読むほど、現行憲法がどれほど日本人に向いていないかはすぐ分かる。その居心地の悪さは逐条的にどこかを変えれば済むというものではなく、全体を入れ替えるのが一番だと、私も思う。
 
私たちの眼前にはすでに幾つか新しい憲法試案が示されている。例えば「読売新聞」「産経新聞」、そして自民党がおのおの発表済みだ。私は「産経」の労作である「国民の憲法」が最も優れていると考えるし、それを現行憲法に置き換えられるのであれば、それが1番だと思う。つまり、「自主憲法」の制定である。
 
しかし、それは手続き的にも現実的にも難しい。どれほど変な内容でも現行憲法は一応明治憲法の改正規定に従って変えられ、昭和天皇も御名御璽を押された。であれば、現行憲法の破棄ははばかられるのであり、改正するにしても、現行憲法に定められた手続きに従うのがよいのではないか。
 
現行憲法の改正手続きは、1度に変える条文の数を制限しているわけではない。理論的には全面入れ替えも可能だ。しかし、それで国民は納得するだろうか。わが国は中国ともロシアとも異なり、国民の総意を大事にする民主主義の国である。そう考えれば、国民の納得を得るには改正の大きな争点は、やはり1つか2つであろう。
 
2月3日、全閣僚が出席する衆院予算委員会において、安倍首相は憲法9条2項に関して、「7割の憲法学者が自衛隊について憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考えもある」と述べた。
 
今更だが9条2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」との規定だ。  

この9条2項故に、自衛隊は違憲だと、日本の憲法学者の7割が考えている。今や国民の92%という圧倒的多数が自衛隊を支持しているのに、圧倒的多数の憲法学者らが違憲だと主張するのは正常ではない。解決方法は2つ、(1)憲法優先で自衛隊をなくす、(2)憲法自体を改正する、である。
 
中国の脅威が眼前に迫るいま、自衛隊の強化こそ必要で、(1)はあり得ない。正しい解は、(2)である。
 
安倍首相の憲法改正に懸ける思いを正確に読み取りたい。平沼氏は発作後全く動かなかった左足も回復した。憲法改正への意欲を明らかにした安倍首相と共に平沼氏には着実な歩みと、さらなる活躍を祈りたい。

『週刊ダイヤモンド』 2016年2月13日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1120 

2016年02月16日

◆私の「身辺雑記」(313)

平井 修一



■2月12日(金)、朝5:00は室温13.5度、大分緩んできたか、快晴、ハーフ散歩。

夕べは7人で手作り餃子、ナスの味噌炒め。大好評。体調が安定しない2歳女児も餃子を5つも食べた。ひやひやしたが吐かなかった。今朝は具沢山のお雑煮など。みな機嫌よく職場、学校、保育園へ。

今朝、人生で一番最悪な思いをしているのは不倫疑惑の自民党議員Mだろう。彼は議員辞職をするらしいが、下半身がかなりルーズだったようだ。

ウィキによると最初の嫁さんは売国奴の加藤紘一の娘(自民党議員)で、婿入りして加藤の票田を狙っていたようだが、女性問題で離婚。二番目の今の嫁さん(自民党議員)はこの2月5日に第一子の長男を産んだばかりだったというが、もう離婚するしかないだろう。

Mはこの際、不倫相手と心中するか、ヒモになるしかないのではないか。まだ35歳なのに人生を棒に振ってしまった。身長188cm、体重78kg、大男、総身に智慧が回りかね、か。一寸先は闇だが、○○につける薬はないか
ら・・・

日本的猫熊抱擁者も同様で、「ただ消え去るのみ」だな。人民網2/8に、春節で中共中央に祝辞を送った日本人のリストがあった。

江田五月・日本民主党最高顧問、海江田万里・日本民主党元代表、浅野勝人・元外務副大臣(元自民党議員)、宮本雄二・元駐中国日本大使(元外務省)、浜田和幸・日本参議院議員(日本のこころを大切にする党議員)、

瀬野清水・元駐重慶日本総領事、五十嵐貞一・元在中国大使館参事官、尾形武寿・日本財団理事長、宮田淳・明海大学/朝日大学理事長(私学の3代目オーナー、支那人留学生が欲しいのかもしれない)、白西紳一郎・日中協会理事長。

まあ、日本のパンダハガーなのだろう。白西がバカなことを書いている。

<今年は申年、中日関係も猿の如く活力に満ちてほしいです。世界が注目する習国家主席の「1ベルト、1ロード」構想を将来的には日本まで延長頂ければ、中国や世界経済発展に貢献できると期待しています>

ほとんど暗愚、痴呆、胡乱、妄想、迷走、蒙昧、狂乱、混乱、暴走、逆走、「愛は盲目」の世界だ。白西のような中共信者は中共にとって大いに活用できるから、人民網2015/11/10に「中日友好の実践者」として大きく紹介されている。

<「中国の皆さん、大家好(ダージアハオ)!」(平井:皆さんこんにちは)。東京で行われる各種中日交流活動の来賓席に、いつも同じ白髪のご老人の姿がある。司会者が紹介すると、立ち上がって中国語で大きな声で応える。日本の中国友好団体「日中協会」の白西紳一郎理事長だ。

過去50年間、白西さんの海外渡航回数は600回を数えるが、その目的地はたった一つ、それは中国だ。

*中日友好への信念 生涯訪問先は中国だけ

日中協会の主な業務は各種中日交流活動を展開し、日本で留学する中国人学生をサポートし、中国からの訪日団を迎えることだ。白西さんは理事長として毎年頻繁に中日間を往復し、75歳の高齢を迎えた今年も、上半期だけで5、6回は中国を訪問、9月には中国人民抗日戦争勝利70周年記念行事に参加している。

白西さんが毎年の訪中で必ず組み入れるスケジュールがある。それは南京に出向いて南京大虐殺の被害者の冥福を祈ることだ。今年の4月も30人余りの日本人有識者を率いて南京を訪問している。この活動は1987年より始まり途絶えたことはなく、参加者はのべ1000人を数える。

白西さんは「日本で唯一中日友好を生涯の職業とする人物」とも呼ばれ、中日友好に固い信念を持つ。1967年に初めて訪中して以来50年間、白西さんの訪中回数は600回近くになる。中国以外はどこの国にも行ったことがない。

(平井:1967年あたりは文革が猛威をふるって紅衛兵が残虐な手段で殺人しまくっていた時期だ。白西は大いに共感し、拍手したのだろう。完全なる狂気!)

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%96%87%E9%9D%A9#mode%3Dsearch

1945年8月6日、米軍は広島に原爆を投下し、日本の降伏を加速するとともに、現地に甚大な被害をもたらした。白西さんはあの日、祖母と広島におり、投下された原爆の爆発音を今でも鮮明に覚えている。すだれ越しに稲妻のような光を見るや否や、巨大な爆発音が続き、祖母とすぐに物陰に隠れたために怪我をせずに済んだ。

実家はお酒を造っていたため、2日後の8月8日、父親の自転車の後ろに乗って広島市中心部にある酒蔵を見に出たが、あたりは廃墟と化していた。白西さん一家の命は守られたが、友人や親戚は原爆の犠牲となっており、こうした情景は生涯忘れ難い幼少期の記憶となっている。

「なぜ広島がこんなに大きな爆弾に襲撃されねばならないのか」、当時小学生だった白西さんは理解できずにいた。その後分かったことは、米軍は日本の重要な軍港を狙い撃ちしたということ。当時広島には江田島海軍兵学校、大型戦艦の製造所などがあり、侵略戦争に加わった多くの軍隊がそこから派遣された。「広島は決して普通の街ではなく、日本軍国主義の重要な拠点」だったのだ。

白西さんは、戦争は侵略戦争と反侵略戦争とに区別でき、すなわちそれは不正義の戦争と正義の戦争であり、まずは戦争の性質をはっきりさせる必要があると語る。

「仏教で因果応報と言われるように、手を出したから出されたのであって、故郷広島への原爆投下も、日本が先に悪事を働いたから」。この点が分かってはじめてなぜ日本が攻められたのかや、中米英仏といった国の立場などが分かり、同時にこの点は日本が反省すべき点なのだと白西さんは言う>(以上)

山本夏彦翁曰く「“年寄のバカほどバカなものはない”という諺、大好きです」「老人は、自分は戦争の渦中にあったから、戦争を経験したというが怪しい。その渦中にあっても人は多く経験しない。経験はついに才能の一種か」「教育は10年で人間を変える。ヒットラーユーゲントは10年である。わが軍国少年も10年である。共に目は澄んでいた」。

洗脳された老人は除染できない。古人曰く「老い木は曲がらぬ」「矯めるなら若木のうち」「年寄れば愚に返る」。毛唐曰く“You can't teach anold dog new tricks”(老いた犬に新しい芸を教えることはできない)。

小生は「反共バカ一代」、白西は「親中バカ一代」、金正恩は「嫌習バカ一代」。辣椒(ラージャオ、王立銘)氏曰く――

<北朝鮮は7日、人工衛星「光明星4号」を発射した。この人工衛星を載せたミサイルの射程は約1万3000キロで、理論上ではアメリカ大陸のどんな場所にも到達できる。しかし、一方で今回発射された軌道は中国沿岸部に沿っていた。

さらにこの日は中国にとって旧暦の大みそかというとても重要な日でもあった。家族全員が集まっていっしょに大みそかの夕食を食べる祭日を、北朝鮮はよりによって発射日に選んだ。これは春節の「お年玉」と言えるのだろうか。

金正恩のビンタは誰の顔に放たれたのか、中国外交部のスポークスマンは知らないのかもしれない。ただ、私や全世界の多くの中国人ははっきりと見た。習近平の顔に金にビンタされた跡がくっきり残っているのを.....>(ニューズウィーク2/12)

http://www.newsweekjapan.jp/rebelpepper/2016/02/post-20.php

上海閥・瀋陽軍区子飼いの“狂犬・鉄砲玉”北朝鮮・金正恩一派は自分たちを排除しようと画策した習近平を噛み殺すことしか考えていない。今、習は北をどうにもできない。out of controle、制御不能。

それを知らない人が多すぎるからトンチンカンな記事になる。「電話出ない中国外相、“日本外し”の怪」(日経2/12)から。

<「(北朝鮮問題について)我々は対話のドアはいつもオープンだ。中国側からは多忙であると聞いている」

岸田外相は2月9日の記者会見で、日中外相の電話協議が実現していない点を突っ込まれ、こう明かした。こちらから申し入れているにもかかわらず、先方が同意しない現状を“暴露”した格好だ。

では、なぜ、中国は日本との電話協議を避けるのだろうか。中国内の事情に通じた宮本雄二・元駐中国大使に聞いてみよう。

「北朝鮮にどう対応していくか。まだ、中国の最高首脳レベルで戦略が定まっていない可能性がある。米国は超大国であり、韓国とは良好な関係なので渋々、協議に応じるが、日本とは話し合いづらいのだろう」

安倍政権幹部は語る。

「(中共は)日本との融和に動くには、まだ政治リスクが大きい。中国当局者はそう感じ、守りに入っている感じだ。なぜなのか明確には分からないが、内政上、何らかの事情があるのかもしれない」

日中関係筋にはこんな見方もある。「王毅外相は中国共産党内で自分の立場を守るため、日本と積極的にはかかわりたくはないと思っているのではないか」

(平井:上海閥の犬になった北は習近平の権力闘争にとって一番悩ましい問題、弱点、恥部だから触れたくない、刺激したくないということ。勝てる見通しがまったくないのだ)

外相レベルのパイプが詰まったままでは、首脳レベルの意思疎通はさらに難しい。岸田外相は2月9日の記者会見で、安倍・習近平協議の可能性について聞かれ、素っ気なく答えた。「何も検討しておりません」>

中共は最大8000万人の人民を殺し、今は周辺国への威嚇を強めている。しかし、脅しに対してみな反発し、因果応報、天罰覿面で四面楚歌、経済不調で中共はのた打ち回っている。

中共はすべてにおいてout of controleになってきた。自滅・・・習近平の後を追って白西も殉死するがいい。必要なら介錯してやろうか、嗜虐的な紅衛兵よりは遥かにきれいにやれるぜ。

■2月13日(土)、朝5:00は室温14.5度、今朝も大分緩んできたか、曇、ハーフ散歩。

体調不良の小1女児預かり。一難去ってまた一難。子供は小2までは手がかかる、小生もそうだった。小児科の女医先生から「修ちゃん、修ちゃん」と可愛がられるほど馴染になった。奇病で入院したこともあった。母は大変だったろうなあ。

昼には室温なんと20度、晴れて春のよう。だが北京の「習ちゃん」はブルーだろう。

日本戦略研究フォーラム政策提言委員/拓殖大学海外事情研究所教授・澁谷司氏の論考「習近平政権による軍改編の"失敗"と北朝鮮」(2/12)から。

<北京政府は金書記の核実験・ミサイル発射実験を苦々しく思っているに違いない。面子を失うからである。けれども、瀋陽軍区が北を支えている限り、北京は如何ともしがたい。

そこで、習近平政権は北京軍区と瀋陽軍区を合併させ、直接、北京が新戦区全体をコントロールしようと目論んでも不思議ではない。

ただ、今年2月に発足した5戦区体制(「北部戦区」「中部軍区」「東部戦区」「南部戦区」「西部戦区」)を子細に見る限り、習体制による解放軍改編は“失敗”したと言えよう。当初案である北京軍区と瀋陽軍区の完全統合ができなかったからである。

それどころか「北部戦区」は、習政権が目指した北京からの瀋陽軍区コントロールが効かない体制となっている。と言うのも、旧瀋陽軍区は北京軍区の一部、内モンゴル自治区を取り込んで、拡大版「北部戦区」へと生まれ変わったのである。

恐らく、習政権が意図していた北京軍区と瀋陽軍区の統合案が、党や軍の反対で流れたに相違ない。

他方、北京軍区は内モンゴル自治区を失った。ただ、同軍区は、予定通り済南軍区等を併合して「中部軍区」となり、お茶を濁している。これでは、北京政府は何のために解放軍改編を実施したのかわからない。

北の一連の(核、ミサイルの)動きは、政治的に、中国の軍改編と密接に関わっていると見るべきだろう。旧瀋陽軍区(現「北部戦区」)が北朝鮮を使って、故意に北京政府を揺さぶっている公算が大きい。

恐らく真の構図は、中国共産党内の「太子党」対「上海閥」(プラス「共青団」?)の権力闘争である。その党内闘争に北が利用されているに過ぎないのではないか。

ひょっとすると、旧瀋陽軍区が北朝鮮を使って習近平体制に対し脅しをかけているのかもしれない。もしも、北京政府が旧瀋陽軍区を解体、あるいは金正恩体制を打倒しようとした場合、「北部戦区」が北朝鮮の核やミサイルを北京に打ち込む算段なのかもしれない。既に旧瀋陽軍区と北朝鮮は“一体化”しているのである(軍事ジャーナリスト・鍛冶俊樹氏)>(以上)

習の軍改編は上海閥・瀋陽軍区の猛烈な反発で失敗した・・・これは多分真実だろう。

産経2/1も「この日(人民解放軍戦区成立大会に)発表された戦区の区分けと本部所在地は昨年まで伝えられたものとはかなり違っており、区分けの際に軍現場で激しい主導権争いがあった可能性もある」と報じている。

またも敗けたか習近平。中華民族の偉大なる復興は遠のき、軍閥「上海閥・瀋陽軍区」の壮大なる利権は死守どころか内モンゴルにまで拡大された。これでは習はとても戦争できないが、どうするのだろう。下手に動けば中南海にミサイルが撃ち込まれかねないし・・・さっさと辞任するんだな、殺される前に。

■2月14日(日)、朝7:00は室温19度、すっかり春だが、夕べは嵐、今朝もずいぶんな雨だ。散歩不可。

昨晩はカミサンは長女の家で孫二人の世話、小生はN母子の世話。小生は都合8人前の夕食を用意した。芋3種と豚の煮物、かき揚げ、うどん、五目ご飯。

「女子と小人は養い難し」。女子と器量の小さい者は「節度をわきまえず、近づければなれなれしく、遠ざければ怨みを抱く」ので扱いにくい、という意味だそうだ。まるでクネだな。

この手の人≒「中2レベルでテレビを見る人、多分善人だが浅慮の人」にいちいち腹を立てていたら物事が進まない。適度にあしらい、時に注意し、時に叱り、たまに殴るぐらいで対処するしかない。彼らは信念があって発言、行動しているのではないのだ。その時の気分、機嫌、感情、妄想で動いているにすぎない。メルケルを見よ。

中2レベルのお花畑リベラル≒アホの欧州ではもはや「難民を受け入れよ」と誰も言わなくなった。今は「国境にフェンスを!」「エルドアンにカネを渡してトルコで難民を食い止めろ!」だ。(会議で決めたものの、笑うべし、現実には誰も金を出していない、リベラル≒インチキ≒ウソツキ)愛は盲目的サル知恵で国境をザルにしておきながら「ギリシャは役立たずだ、我々が難民船を取り締まるべきだ」とギリシャの主権を公然と無視、そのうち「難民船を撃沈しろ」となるだろう。

残念ながらこの世はクネと金北豚、妄想習とプッチンプーチン、痴呆メルケル、銭ゲバキャメロンだらけ。

君子たらんとする者は彼らの軽挙妄動に振り回されないようにしなければならない。譲ってはならない一線は武力を発動しても絶対に守るが、それ以外は鷹揚に、時には毅然と対処するにしかず。

彼らを一人前と思うから腹が立つのであり、半チクの小僧、悪ガキと思ってあしらい、時に握手、時に抱擁、時に鉄拳制裁する。まったく外交は厄介だ。

それがこの世の現実だから、この世は生きるに値しない、と思う人がいるのは当然のことだ。子・孫、伴侶のヘルプ要請に応えるために生きているとは小生は思わないが、それは多少なりとも理由づけにはなる。

では、何のために生きているのか。「大なるもののために死ぬ」ことこそ男の道だ。オランドは男らしくなってきた。

ネットで「葉隠」を読んでみた。 

<武士たるものは、武道を心掛くべきこと、珍らしからずといへども、皆、人、油斷と見えたり。其の仔細は、武道の大意は、何と御心得候か、と問ひかけられたるとき、言下に答へ得る人稀なり。そは平素、胸におちつきなき故なり。さては、武道不心がけのこと、知られ申し候。油斷千萬のことなり。

武士道と云ふことは、即ち死ぬことと見付けたり。凡そ二ツ一ツの場合に、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわりて進むなり。若し圖(図、予測、想定)にあたらぬとき、犬死などと云ふは、上方風の打上りたる武道なるべし。

二ツ一ツの場合に、圖にあたることのわかることは、到底出來ざることなり。我れ人共に、等しく生きる方が、萬々望むかたなれば、其の好むかたに理がつくべし。

若し圖にはづれて生きたらば、腰ぬけなりとて、世の笑ひの種となるなり。此のさかひ、まことに危し。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違ひとよばるれども、腰けにくらぶれば、耻辱にはならず。是れが武道に於てまづ丈夫なり。

毎朝、毎夕、改めては死ぬ死ぬと、常住死身に成つてゐるときは、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり>

訳:

<武士道とは何か。言下に答えられる人は少ない。武道を心掛けることは当然だが、これだけでは心もとない。

武士道とは死ぬこと、死に方が真髄である。二つのうち一つを選ばなければならない状態、つまり死ぬか生きるかというような場面では、死ぬほうに進むほうがよい。むずかしいことではない。腹をすえて進むだけのことである。

思ったようにいかない場合を考えたり、それでは犬死にだなどという意見は、上方風の思いあがった武士道である。

二者択一の場で、思ったようにするなどということは、そうそうできることではない。自分も人も生きるほうが好きである。おそらく好きなほうに理屈がつくであろう。

しかし、もし選択を誤って生き延びたととしたら、腰抜けである。思ったように行って生きるのと、思ったように行かないで生きることとは、紙一重の差である。

うまく行かず死ぬことになってっも、「犬死、気違い」だというだけで恥にはならない。これが武士道の一番大切なところである。

毎朝毎夕、いつも死ぬ覚悟をしていれば、武士道の自在の境地に達することができ、一生失敗することがなく、家職をまっとうすることができるのである>

「家職をまっとうする」、すなわち主君、邦家を守るために生きる=死ぬことである。イスラエル建国の英雄、亡国ユダヤ人のヨセフ・トルンペルドールは日露戦争の捕虜となり、大阪・高石のロシア人捕虜収容所で過ごすなかで、大なるもの=「亡国から2000年を経ての祖国再建」に命を捧げる決意をした。

日露戦争で日本軍は死を覚悟して次から次へと吶喊していった。トルンペルドールはそれに大きな感動を覚え、祖国はいいものだ、とつくづく感じ入った。彼の最期の言葉は「国のために死ぬことはよいことだ」だった。

そういう機会を老生は得られるのだろうか。四十七士の堀部弥兵衛金丸は前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)、同志のうち最年長者、享年77。辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。

ナント後期高齢者でも運が良ければ突撃できるのだ。

11時には雨が上がってすっかり快晴、室温23度、窓を開け放った。その日に備えて散歩ではしっかり足腰を鍛えた。(2016/2/14)

◆規制をなくして育てよ、人工知能

櫻井よしこ



週末、2人の奇才に人工知能(AI)について聞いた。MITメディアラボの所長で、『ニューヨーク・タイムズ』社外取締役などを務める伊藤穰一氏と、ソニーコンピュータサイエンス研究所所長の北野宏明氏である。
 
初対面の北野氏からは、機関銃のように言葉がつながって飛び出てくる。最新の情報技術や産業についてのアイデアが溢れ出るのだ。
 
AIといえばお定まりのように「日本は周回遅れ」と言われる。そうなのか。氏が語る。

「アメリカのAI学会では、中国訛りの英語がわからなければ結構苦痛です。中国はアメリカのしていることは殆どしています。北京、清華、上海の各大学の学生が大挙して留学し、米国で快適に学んでいます」
 
中国のAI分野での人材急増には目を見張るという。13年に中国で開催したAI国際学会では殆ど人材はいなかったが、この2年で爆発的に増え、清華、北京、深圳、杭州などの各大学にAIの人材が集中しつつある。一方、日本人の存在感は確かに希薄である。そもそも「気合いが違う」と、氏は語る。

「インドでも中国でも、成功の果実はとてつもなく大きい。日本の成功は2年早く教授になるという程度です。私は去年3月頃、文科省の依頼でAI研究の基本計画を描きました。計画推進を任され、研究の場は理研になり、当初の概算要求額100億円は13億円になりました。
 
それはともかく、人間の根本から研究したいという理研の考え方とはミスマッチです。AIは今や完全な産業政策で、その主舞台は殆どバトルフィールドと化しています。そうした現実とは無縁の選択のようです」
 
AIが高度に発達すると、どんなことが起きるのか。今でもAIはスマホで情報を教えてくれる。夕食のメニューも、未知の道もガイドしてくれる。やがて人間の仕事も代行してくれる。たとえばタクシーの運転だ。

「運転しない」時代
 
北野氏が説明した。

「百度(バイドゥ)が突然、自動運転の車を走らせ始めました。中国は、道路交通に関する国際条約、ジュネーブ条約に加盟していませんから無人車をバンバン走行させられる。先を越されましたが、日本でも2月中に僕らの作った会社ZMPが湘南でタクシーの自動運転実証実験をします」
 
車は確実に「運転しない」時代に入りつつある。ホンダのキャッチコピー、Fun To Driveはどうなるのか。自動車産業の根本的変化も避けられない。

「先週、ニューヨークで『AIの未来』という会議に出ました。フォードがグーグルと提携と報じられましたが、皆の見方は、『グーグル、やったね!』ではないのです。フォードが自らの生き残りの場所を見つけたという見方です。同様にGMがLyftという、アプリを用いたタクシー配車サービスのUberみたいな会社と提携しました。Lyftは強気で、これからGMをコントロールするつもりです。AIで完全なゲームチェンジが起きているのです」
 
GMは自動運転の部分で進んでいるとは思えず、LyftがGMをコントロールできる余地があるという。ハードウエアは絶対に必要だが、利益はそこからは出ない。ハードウエアメーカーがAI企業の指示に従わなければならないという現実は今もある。いずれその力関係はもっと絶対的になると、氏は確信する。

「すでに家電メーカーがアップルやアマゾンの事実上の下請けになりつつあります。車産業も間違いなく、そうなります。日本の基幹産業がアップルやグーグル、中国の百度などに侵食される事態が5年から10年で起きると考えるべきです」
 
日本のAI研究はどうなっているのか。伊藤氏は、日本のAIはトヨタの事例に見られるように物理的な物作りになりがちだと指摘する。

「トヨタはモノを賢くしようとしています。でもAIってネットワークなんです。だからトヨタの自動運転はなかなか難しいと思う。過去にすばらしい実績を積んだ企業は、中々物作りの枠から抜け出せない」
 
企業の成功物語が偉大であればある程、既存のものを破壊した上に成り立つ完全に新しい試みには当然、反発が強くなる。

「意外かもしれませんが、日米は同じ問題を抱えています。イスラム国(IS)が急速に力をつけたのはネットの効用です。しかし米軍は特に強くなっていない。ネットワーク化されても縦割りの軍では効果が限られるからです」
 
伊藤氏が、米国を激しく追い上げる中国の特徴を説明した。

「中国は僕たちのルールなど気にかけません。たとえば、アメリカはスパイ活動で得た情報は絶対に民間には渡さない。そこは法の壁で厳格に仕切っています。けれど中国は国、軍、民間が完全につながっているため、情報も共有される。アメリカが、スパイ活動を国益に限定して民間の営利目的には使わないという話を中国側にすると、馬鹿じゃないかと彼らは笑う。経済は国の競争力なのに、なぜ、という理屈です。民主主義や法治国家について、彼らとは全く話が合わないのです」

「オープンAI」
 
中国のAI推進の主力は「剥き出しのキャピタリズム」だ。「金儲け」への溢れるような熱情を追い風に、中国のAI研究は急速に進む。一方、アメリカには全く異なる新しい風が生まれている。伊藤氏が語った。

「一昨年、グーグルがディープマインドという12人の会社を5億ドルで買収しました。巨費を投じて、12人の人材を買ったわけで、人材獲得競争の熾烈さが見てとれます。でもそこにはよりよい社会を目指す精神があります。僕の仲間たち、テスラ、Yコンビネーター、リンクトインなどの創業者が『オープンAI』に10億ドル出資すると発表しました。
 
AIはデータとアルゴリズムが基礎です。それを今、グーグル、フェイスブック、アマゾンが持っている。彼らはさらに情報を蓄積して、世界一賢いAIを生み出してしまう。一部の資本の支配をうけるAIが世界を席巻することへのリスクヘッジとして、オープンソースのAIを育てたいという考え方がここに反映されています。アメリカの健全な民間人、起業家精神です」
 
さて、日本である。結論から言えば捨てたものではない。無人タクシーはアメリカより日本の方が導入し易い。日本のタクシー運転手は教育レベルが高く、技術の導入がスムーズに行く。千葉・幕張では無人機による配達実験が行われる予定だ。高度な科学的試みを高い教育水準を備えた一般国民が支える。こうした実験をオープンにし、情報を集積して実用化する。同時に、ここに紹介した奇才の両氏をはじめとする人材を登用して、自由な研究を進める場を早急に設ければ、日本も大丈夫だ。

『週刊新潮』 2016年2月11日 日本ルネッサンス 第691回

              

◆名付け親は文豪・魯迅だった

矢板 明夫



「趙家の人々」「趙の国」がネット禁止用語となったのはなぜか? …

016年1月。中国国内の新聞やテレビ、ネットメディアの担当者たちは、共産党宣伝部門から新しい禁止用語のリストを受け取った。追加された約30の言葉の内「趙家の人々」「趙の国」「趙の王様」など「趙」と関係する言葉が約半分を占めた。「今回、当局の反応はさすがに早い」と感心した雑誌の編集者もいた。

■語源は「阿Q正伝」

「趙家の人々」とは、昨年末から中国国内のインターネットでにわかに流行し出した言葉だ。「権勢を誇る一族」の隠語で、中国の特権階級を揶揄(やゆ)するニュアンスがある。語源は文豪、魯迅(1881〜1936年)の小説「阿Q正伝」(1921年作)から来ている。

家も金もなく、字も読めない浮浪者、阿Qが、村の金持ち、趙家の息子が科挙試験に合格したと聞き、「俺と同族だ」と周りに自慢したが、翌日、趙家に呼ばれ「でたらめを言うな。お前なんか趙家を名乗る資格がない」などと罵倒され、殴られた…という部分があった。

また、中国で子供に漢字を教える有名な学習書「百家姓」というのがある。代表的な姓を羅列してあるだけの内容で、“趙銭孫李”から始まる。宋(960〜1279年)の時代につくられた書物であるため、当時の皇帝一族の姓である“趙”が最初に出てくる。このことからも、趙家は他の家からみれば特別な存在というイメージがある。

■「300家族で中国を支配」

昨年末、広東省のたたき上げの企業家の大手不動産会社が、元大物政治家、●(=登におおざと)小平一族の影響下にあるとされる保険会社に買収されたニュースがあった。インターネットには「この国では趙家の人々でなければ、企業のオーナーになる資格はない」と魯迅の小説を引用する形で、論評する文章が投稿されたことを受け、「趙家の人々」という言葉が一気に広がった。

この場合、「趙家の人々」は、元副首相を父親にもつ習近平国家主席(62)を含め、●(=登におおざと)小平氏(1904〜97年)、江沢民氏(89)ら元指導者の子孫らを指している。

中国では、エネルギー、金融、不動産など大きな利権に絡む業界はほとんど彼ら特権階級に牛耳られており、一般人が苦労してビジネスで成功したとしても、企業が買収される場合が多い。抵抗すると、投獄されるケースもある。

「300家族の5000人で中国経済を動かしている」という言葉があるほどだ。

中国ではこれまで、元高級幹部子弟を示す言葉として「太子党」があったた。太子は中国語で皇帝の長男を指し、つまり太子党とは皇太子のグループという意味の言葉だが、「由緒正しい家柄に生まれた人々」という意味で使われることが多く、その範囲は大変広い。大学の教師や医師など利権と関係のない人々も含まれている。

また、太子党の人たちはメディアなどでよく自分たちのことを「紅二代」と自称している。中国の共産革命(赤い革命)に貢献した功労者たちの子供という意味だが、知識人たちはあまり使いたくない言葉である。

■「一族」に失脚高官なし

「太子党」と「紅二代」に対し「趙家の人々」は、まさに今、権勢を振るっている貴族たちをうまく表現しており、すぐに定着し、インターネットで頻繁に使われるようになった。

習近平指導部が発足してから、約3年間展開し続けた反腐敗キャンペーンで、数百人の政府高官が失脚したが、ほとんどが農民や労働者の出身で、党内の一大勢力である共産党指導者の子弟はほとんどいないことを例にあげ、「なるほど、趙家の人々には最初から免罪符があったわけだ」「俺たち一般人民は所詮、趙の姓を名乗る資格がない阿Qたちだ」と嘆く書き込みもインターネットにみられた。

 「趙家の人々」から派生する言葉として、「趙の国」(中国)、「趙の王様」(習主席)という隠語も生まれた。政府の看板や中国当局が掲げるスローガンの中の「人民」を「趙家」に置き換える言葉もはやった。

「中国人民銀行」を「中国趙家銀行」、人民警察を「趙家警察」、「人民のために奉仕せよ」を「趙家のために奉仕せよ」といった具合だ。中国当局が全国の小中学校で展開する愛国主義教育は所詮、「趙家を愛する教育だ」と主張する声もあった。

100年近く前の魯迅の小説が思わぬ形で改めて注目され、その中に出てくる言葉が今になって当局に禁止用語に指摘されたのは、中国社会が清(1616〜1912年)の末期からあまり進歩していないことを象徴しているようだ。(中国総局記者)

産経ニュース【矢板明夫のチャイナ監視台】2016.2.14
                 (採録:松本市 久保田 康文)

2016年02月15日

◆日本人にとって英語力は必要か

池田 元彦



日本人は極めて英語が苦手な人種だ。国際的な英語力判定機関であるTOEFLやTOEICでも駄目な傾向は皆同じだ。数年前のデータではあるが、TOEFLでの日本人平均点は171カ国中150位、アジアでも30カ国中28位だ。TOEICでは、48カ国中40位だ、決して高くない。

アジアの上位5位は、シンガポール、インド、マレーシア、パキスタン、フィリピンだが、アジアに限らず英語が出来ないと、エリートと見做されないし、決して実力相応の地位には昇れない。

こういう国々では、英語が出来ない人は一生報われないし、否なら必死になって勉強するしかない。

ビジネスの国際化を見据えて日本の大手企業は社内で英語力と昇進等を結びつける施策を展開してきた。多くは海外短期出張、長期出張、駐在別にTOEIC何点以上と基準を決め、毎年TOEICを受験させ、社員の英語力向上を、相応の経費をかけてまでも推進している。

ニッサンのように外国人取締役が参加する役員会でなら未だしも、何から何まで全部英語で会話、メールをせよと英語社内公用語化する会社もある。楽天やファーストリテイリングはその究極だ。

果たして95%以上が日本人で、日頃外国人と接することも無い社員迄本当に英語が必要なのか。

文科省は2年前グローバル化の対応の教育環境作りを進めるとして初等中等教育段階からの「英語教育改革実施計画」を公表した。2014年から逐次改革し2020年のオリンピックを見据え英語教育を本格化すると言うのだ。小学3,4年生で週1か2コマ、高学年は週3コマの英語授業だ。

小学教諭15万人中、高度の英語指導力を備えた教員等いない。英語で授業可能な(英検準1級、TOEFL550点、TOEIC730点以上)中学校教師は25%、高校で50%と9年前の調査が有る。最近なら少しは改善していると思うが、文科省のこの基準では、英語で授業など無理だ。

実は早期英語教育については同時通訳や国際ビジネスマン等英語力十分の人程、殆どの人は反対している。幼児や小学生に必要なのは、先ずは日本語による言語能力、論理的思考能力の開発と道徳律の理解だ。未だ言語理解が曖昧な段階では百害あって一利なしなのだ。

幼稚園や英語塾に通わせる時間があれば日本の童話や昔話、或は海外の幼児読本でも良いが音読、読書を通じて日本語の言語構造や単語の意味を体で覚える。それが最優先なのだ。その素養が有れば、中学から始めても英語の理解力は間違いなく飛躍向上する。

高校、大学、社会に出ても同じだ。英語を勉強する暇があるなら、専門分野を更に追求し、日本の古典や歴史、伝統文化を学ぶことが重要だ。そして本当に英語が必要な仕事、役職につきそうな時或は就任後、本気で現地で生の英語を実践学習すれば良い。決して遅くない。

立派なビジネスマンになる為に、幼い頃から英語を学ぶのは、本末転倒だ。偉くなった時の為に仏法ではなく、嗜みとして和歌、音曲等の稽古に励む僧侶の話と同じだ。流暢でなくとも論理的な英語で熱意・迫力・専門知識をもってすれば、相手は必ず耳を傾けてくれる。

私が勤めていた会社は、基準を設けTOEICにも熱心だったが、出張するのは専門分野の知識、交渉力、熱意、物怖じしないが、英語力が基準に満たない社員が結果多かった。

先ず先にやることが有るだろうということだ。また日本人は日本語で一生暮らせ、大学授業や日本語翻訳の専門書を読めると言う事が世界の例外的な幸せであることを理解していない。


◆南北朝時代 〜 報国と私欲の戦い

伊勢 雅臣



「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。

■1.あまりにも表面的な「南北朝時代」の記述

後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。この後、約60年間、2つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。

尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、2つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。[1,p70]

これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。

一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。

南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。

吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。[2,p93]

何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして 勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。


■2.尊氏の策略から始まった南北朝

そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。

九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。

5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った 足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。

しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。

後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。

後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。

■3.南朝の全国ネットワーク

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。

東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりなが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。

西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。

さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。

■4.「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想[a]に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その一人が北畠親房(ちかふさ)である。

 息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも拘らず、各地で南 朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。

延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた『神皇正統記』を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。

『神皇正統記』は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。[3,p249]

南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。

すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである。[4,p129]

南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が『神皇正統記』で描いた理想によって結ばれていた。

■5.「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。

建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。

正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。[5,p210]

正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23 歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。

後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて 朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。

以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに 「七生報国」を一族として実践したのである。

新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。

■6.足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が一つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛、謀略、裏切りの連続であった。

尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。

尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。

この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。

直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。

尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。

尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏三代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。

和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるという事だったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。


■7.足利武士たちの無知と私利私欲

尊皇心、道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。

足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。

足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。[6,p175]

 上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。『神皇正統記』を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。

南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。

■8.「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都 から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁 元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く。

皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い、戦乱の世が続いたのも当然であった。

『物語日本史』の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。

吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱 は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。[5,p245]

歴史教育が単なる知識の詰め込みではなく、日本国民としての生き方を考えさせる場であるとするならば、生徒にはこういう指摘にも触れさせるべきだろう。

週間メール入門講座「教育再生」http://bit.ly/118DokM 閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り

■リンク■

a. JOG(927) 歴史教科書読み比べ(24) 建武の中興
「挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」
http://blog.jog-net.jp/201511/article_6.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、
自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/

3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9FWMI/japanontheg01-22/

4. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/

5. 平泉澄『物語日本史(中)』★★★、講談社学術文庫、S54
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061583492/japanontheg01-22/

6. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇』★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/

◆民主党よ、「批判ありきの批判」では

高橋 昌之



自らの愚をさらけ出 すだけではないのか?

民主党の岡田克也代表は1月30日、都内のホテルで開かれた党大会であいさつし、夏の参院選に向けて「政権交代をするための大きな足がかりの選挙にしなければならない」と結束を求めました。

しかし、あいさつの内容は安倍晋三政権を厳しく批判する一方で、民主党が何を目指し、どのようにして政権交代可能な勢力を作るのかは全く示しませんでした。今回は岡田氏のあいさつをもとに、「批判ありきの批判」に終始する民主党について書きたい。

岡田氏はあいさつの中で、今年の参院選について「2つの意味で日本は 分岐点にあり、極めて大事な選挙だ」と述べました。2つの意味のうちひとつについ ては、安全保障法制と安倍首相の言動を挙げ、「憲法の平和主義、立憲主義、あるい は民主主義さえもが今、危機的状況にある」と指摘しました。

集団的自衛権の行使を限定的に可能にする安全保障関連法を成立させたことへの反論ですが、まがりなりにも3年間政権を担当した政党の主張とは思えま せん。

いまだに対案を示さず、戦後長らく続いた自民、社会両党のイデオロギー対立 のような主張に終始しているのでは、共感は得られません。

政権を担当した経験があるからこそ、民主党は現在の複雑化している国際情勢、日本を取り巻く危機にどう対処するのか、自らの見解を対案として示すべき です。

しかし、そのための真剣な議論は党内で行われていません。きちんと議論した ら保守系とリベラル系で意見が割れるからです。「民主主義が危機的状況にある」の は民主党の方ではないか。

岡田氏がもうひとつの分岐点として挙げたのは、「政権交代がきちんとできる政治がこれからできていくのか、それとも1党が圧倒的に力を持って政権交代 がない政治に戻ってしまうのか」ということでした。

野党第1党としての民主党に支持を求めたものですが、現在の情勢が 「政権交代可能な政治」になっていない責任はまさに民主党にあります。政権担当能力 がない政党が政権に就いたらどういうことになるかは、前回の民主党政権で国民は懲 りています。その反省がないまま、対案を示さず、政権を批判するだけの政党だっ たら、もう1度政権を託してみようという声にならないのは当然のことです。

岡田氏はまた、あいさつで、安倍政権について「普通の政権ではない。憲法を変え、平和主義や基本的人権の尊重といったものに対して、平気で原点を変 えかねない」としたうえで、「改憲勢力が(参院選で)3分の2をとればそういう憲 法改正をやってくる。絶対許してはならない」と強調しました。

安倍政権が主導する憲法改正を「平和主義や基本的人権の尊重という原点を変える」と決めつけたうえで、「だから参院選で与党を勝たせてはいけない」 というのも、「批判ありきの批判」です。

自民党は憲法草案をまとめていますが、安倍首相は一貫して「国民の議論を深めていく」と述べています。憲法改正の議論をあるべき方向に進めたいのであ れば、まず民主党が憲法を改正するのか、しないのか、するとしたらどのように改正 するのか、という見解をまとめることこそ必要です。それをせずに参院選での与党批 判にすり替えるのは邪道としか言いようがない。

一方、岡田氏は維新の党との新党結成について「選択肢として排除されていない」と述べました。そのうえで「大切なことは政策、理念が共有されて、本気 で政権を担う政治勢力ができるかどうかということだ」と指摘しましたが、これはま さに民主党にブーメランのように返ってきます。というのは、まず民主党内で政策、 理念が共有されていないからです。

維新の党は両党が解党したうえでの新党結成を求めていますが、「野合」ではなく「政策、理念を共有した新党」を作るなら、筋道はそうでしょう。民主党 執行部は「解党」に否定的ですが、それは党が分裂するのは必至だと思っているか らにほかなりません。しかし、そうした自己保身を優先させているなら、新党を語る 資格はありません。

参院選に向けては、1人区での野党共闘のために共産党が候補者を取り 下げ始めています。そうした選挙区で民主党はじめ他の野党は共産党と同じ主張をし て戦うのでしょうか。政策や理念が異なる野党の共闘が国民から支持されるとは思え ません。

与党に対抗できる案を示せず、「批判ありきの批判」にとどまらざるをえな いからです。

民主党は与党を批判すればするほど、自らの矛盾をさらけ出している「愚かさ」に気付くべきです。そうしなければ参院選後に「自壊」が待っているだけだ と思います。

産経ニュース【高橋昌之のとっておき】2016.2.6
                (採録:松本市 久保田 康文)


       

2016年02月14日

◆朝日新聞に拠る「ドイツ信奉」の呪縛

加瀬 英明



フォルクスワーゲンの排ガス偽装問題がアメリカで発覚して、ニュースが世界を駆け巡ったころに、私はドイツの弁護士と会った。

すると、「フォルクスワーゲン社は何も悪いことをしていない。排ガステストを行う時に、基準以内に収まればよいという規則だから、走行時のものではない」と、いった。

 フォルクスワーゲンのソフトは、ハンドルを少しでも操作すると、排ガスの濃度が走行モードに替わるものだった。車はテストのあいだは、停止している。

 私は講演に招かれた懇親会の席上で、何回も「ドイツ民族は信用できるのに、どうしてあのような事件が起こるのでしようか」と、質問された。

 私はあらためて驚いた。ヨーロッパでドイツを囲む国の人々は、みな、ドイツによって酷い目にあっているから、ドイツは信用できないとみているのに、日本ではドイツというと、憧れに近い感情をいだいている。

だが、日本は明治から先の敗戦にいたるまで、3回にわたって、ドイツに酷い目にあっている。第1が、日清戦争直後の明治28(1895)年 に行われた、三国干渉だ。ドイツ、フランス、ロシアが日本を威嚇して、 日清講和条約によって獲得した、遼東半島の租借権を放棄させられた。日本国民を悲憤慷慨(ひふんこうがい)させ、「臥薪嘗胆(がしんしょうた
ん)」を誓った。

つぎが、昭和12(1937)年に上海の日本租界に、条約に従って数 千人の守備隊しかいなかったのに、30万人の蒋介石軍が襲いかかった。 第2次上海事変である。

蒋介石軍はベルリンが派遣した、ドイツ軍顧問団によって指揮され、ドイツが供給した最新兵器を装備していた。日本は日華事変の泥沼に、のめり込んでいった。

3度目が、日本はナチス・ドイツに唆(そそのか)されて、昭和11(1936)年にソ連に対抗する日独防共協定を結んだ。ところが、 3年後にドイツは独ソ不可侵条約を結んで、ソ連と手を携えた。そのために、平沼騏一郎内閣が「複雑怪奇」といって、倒れた。

それでも、日本はその4年後に懲りずに、日独伊三国同盟条約を結んだ。

明治3(1870)年の普仏戦争に、それまで日本陸軍が教官を招い て、手本としていたフランスが敗れたために、ドイツに切り替えた。それ 以後、陸軍はドイツに心酔した。

朝日新聞をはじめとする大新聞が、ナチス・ドイツを筆を揃え て礼讃して、ドイツ熱を煽った。朝日新聞のナチスを崇める論説や、記事 は酷いものだった。

戦後、朝日新聞が文化大革命から長い間にわたって、毎日のように、毛沢東の中国を讃美する紙面をつくって、狂態を演じたのと、まったく変わりがなかった。

いま、日中関係が険悪化しているが、日本が招いたものだ。もし、日本が対中外交に当たって、腰を屈めることなく、毅然とした態度をとってきたら、中国が日本を侮って、増長することがなかった。

今日でも、ドイツを手離しで信頼するのは、きっと旧陸軍と朝日新聞が描いたドイツ像から、いまだに醒めていないのだろう。

朝日新聞は敗戦の最後の日まで、現実を無視して、精神力さえあれば、日本が勝つと叫んで、読者を一億玉砕へ駆り立てた。今日、“平和憲法”を護る精神さえあれば、日本の平和が守られるといって、読者を煽り立てているが、70年前からまったく変わらない。

フェルディナント・ポルシェ博士が創業したポルシェ社が、フォルクスワーゲン社のオーナーだ。

ポルシェ博士は天才的な工業デザイナーで、スーパーカーのポルシェと、ヒトラーの国民車のフォルクスワーゲンの産みの親で、ヒトラーの盟友だった。そしてドイツ軍の戦車、軍用車や、軍用機のエンジンを整作した。

ヨーロッパでは「ポルシェを運転すると、周辺諸国を侵攻したくなる」と、いわれる。


◆逆ギレした中国の狂乱ぶり

石   平



ソロス氏に「経済のハードランディング」を指摘され、2015年の中国経済に関する当局の統計数字が1月中にほぼ出そろった。それらのデータに基づいて、過去1年の中国経済の実態を探ってみよう。

政府公表の15年の経済成長率は6・9%。1990年以来25年ぶりの低水準だが、問題は、この低水準の成長率でさえ、かなりの水増しがあろうと思われることである。

経済の実態をより適切に反映できる「李克強指数」の2つ、「電力消費量の伸び率」と「鉄道貨物運送量の伸び率」をみると、15年、前者は0・5%増にとどまっており、後者に至っては11・9%減だ。

ならば、経済全体の成長率が6・9%もあるはずはない。もう一つ、対外貿易の関連数字を見てみると、真実はより明確になってくる。

15年の中国の対外貿易総額は8%減。そのうち、海外からの輸入総額は14年と比べて14・1%も減少した。海外からの輸入は当然、消費財と生産財の両方を含んでいる。輸入総額が14%以上も減ったことは、中国国内の生産と消費の両方が急速に冷え込んでいることを反映している。

結局、政府公表の経済成長率以外の、すべての統計数字を照らし合わせてみれば、15年の中国経済は事実上、0%成長に近い水準にあったことはほぼ断言できよう。

それでは、今年の中国経済はどうなるのか。

今月1日、国家統計局が発表した1月の購買担当者指数(PMI)は49・4で、昨年12月より0・3ポイント悪化した。新年早々の不吉なデータは、今年の中国経済の不安な先行きを表しているといえよう。

こうした中で、中国経済問題に関するひとりの外国人の発言が、中国国内で騒動を引き起こすこととなった。

1月21日、米の著名な投資家のジョージ・ソロス氏は世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で「中国経済のハードランディングは不可避」と発言し、アジア通貨の空売りをも宣言した。

2日後の23日、新華社がそれを取り上げて厳しく批判したのをはじめ、「ソロス発言」への中国メディアの一大批判キャンペーンがスタートする。

25日、人民日報海外版は「中国を空売りする者は必ず敗れる」との論評を掲載。26日には新華社が再び、ソロス発言をやり玉にあげて、彼のことを「視力障害」だと揶揄(やゆ)した。

28日、人民日報は1面で署名記事を掲載し、ソロス発言に反論すると同時に、「中国経済は絶対ハードランディングしない」と宣した。29日、人民日報海外版も再度ソロス発言への批判記事を掲載したが、その中で「でたらめ」という罵倒までをソロス氏に浴びせた。

それでも気が済まないのか、今月3日、今度は国家発展改革委員会の徐紹史主任(閣僚級)が登場して、ソロス氏の「中国経済ハードランディング論」を徹底的に批判した。

このように、外国の一民間人の発言に対し、中国政府は国家の中核メディアと政府高官を総動員して、いわば「人民裁判式」のすさまじい批判キャンペーンを展開した。

その中で、共産党機関紙の人民日報までが、執拗(しつよう)にも「でたらめ」などのひどい言葉を持ち出して外国人の投資家に投げつけてきたのである。

このような恥も外聞もない「狂乱ぶり」は逆に、ソロス氏の「中国経済ハードランディング発言」が、中国政府の痛いところをついた証拠であろう。中国政府自身もソロス氏発言が真実だ、と分かっているからこそ、必死になってそれを打ち消そうとしているのだ。

言ってみれば、ソロス氏への「人民裁判」の背後にあるのは、まさに中国経済の絶望的な状況である。ソロス氏をいじめただけでは状況は何一つ変わらない。

【プロフィル】石平 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。

産経ニュース【石平のC hina Watch】2016.2.11



◆「ノモンハン」77年後の日露

平井 修一



菩提寺の山門をくぐったところに大きな石碑がある。表には「陸軍砲兵准尉 勲七等功六級 横山梅吉之墓 陸軍大佐 入江元書」とあり、裏面にはこう刻まれている。

忠剛院殉義梅光居士

君ハ昭和八年一月現役兵トシテ野戦重砲兵第一聯隊ニ入隊 同九年十二月砲兵伍長ニ 同十三年八月砲兵曹長ニ任セラル 同十四年初夏満蒙国境「ノモンハン」ニ於テ日「ソ」ノ間ニ紛争起ルヤ三島部隊ニ属シテ出動「ハルハ」河畔ノ戦闘ニ参加シ勇戦奮闘武功赫赫タリ 偶偶同年八月二十七日「イリンギンブルードロ」附近ニ於テ「ソ」軍機械化部隊ト激戦ヲ交ユルニ方リ 君ハ率先陣頭ニ立チテ奮戦中敵弾ヲ被リ壮烈ナル戦死ヲ遂ク

昭和十六年十一月 横山亀吉建立(以上)

亀吉さんは梅吉さんの父上か兄上だったかもしれない。合掌。

そう言えば多摩川畔で料亭を営んでいた「鰻屋」(屋号)のオジサンは横山姓だったから、梅吉さんは小生の遠戚かもしれない。以下ウィキから。

<ノモンハン事件は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で、1930年代に大日本帝国とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。

満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

(平井:梅吉さんが戦死した8月27日前後も日本軍は大いに苦戦していた)

反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は8月23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。

南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。(平井:梅吉さんはこの戦闘で倒れたのだろう)

前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。

すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。

この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまったため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した>

ノモンハン事件は双方で数万人の死傷者が出た。被害は、

日本軍:戦死8,440、戦傷8,864、戦車約30輌、航空機約160機ソ連軍:戦死9,703、戦傷15,952、戦車及び装甲車輌約400輌、航空機約 360機

<1990年代以降、ソ連の崩壊に伴いソ連軍の損害が明らかになると、ソ連軍の損害を少なく隠蔽していたことが明るみになった。またロシア側により発見された史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数をあげており、互いに相手に与えた損害を過大に見積もっている。

日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般となっている。

(歴史家の)秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、

「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっている」

と指摘している>(ウィキ)

戦争は実に嫌なものだが、戦争でなければ決着できない場合がある。日露は2回の戦争と冷戦で、日本は2勝1敗、ロシアは1勝2敗。お互いに「嫌な奴、恐ろしい奴」と思っており、プーチン・ロシアは「油断ならぬ、食えぬ奴」と多くの日本人は警戒しているから、ロシア人も日本を「島国の小国なのに油断も隙もありゃあしない」と警戒しているだろう。

お互いに仮想敵と警戒しており、ロシアが北方4島を返さない限りは平和条約はあり得ないし、極東の開発に日本が積極的に協力することもあり得ない。西側の経済制裁や原油安でロシア経済が長期衰退をたどるだろう今後は、領土問題解決の機会が訪れるかもしれない。

岡崎研究所の論考「経済低迷で改革不可避のロシア」(ウェッジ1/21)から。

<プーチンの任期は、2018年まであり、2018年に再選されれば、2024年まで大統領です。それを実現するために、プーチンは改革先送り、対外冒険主義を実施していますが、それが裏目に出て、経済困難に伴う国民の不満に直面することが十分にあり得ます。

プーチン政権の2024年までの継続を与件として考えることは間違いにつながりかねません。ロシアでは欧化主義者とスラブ主義者が交代しながら、政権を担ってきた歴史があります。今でも欧米とうまくやっていくことがロシアにとって良いとの意見は多いです。そろそろ欧化主義者の出番が来ているようにも思われます>

「ノモンハン」から77年。お互いに敵視するのは疲れるし非生産的だ。「北方の小さな島よりも大陸の1.4億人の生活が重要だ、小異を捨てて大同に付け、日本の力を借りよう」という声がロシアから上がってくるかもしれない。ロシアにとってその方がはるかに国益になると思うのだが・・・(2016/2/12)

2016年02月13日

◆株安、原油安、世界同時通貨安のなか

宮崎 正弘 



<平成28年(2016)2月12日(金曜日)参 通算第4814号 > 

 〜株安、原油安、世界同時通貨安のなか、投資家が買いを強化しているのは
             「日本円」と「金」。もっとも安心できる資産だからだ〜

旧正月明けの香港株式市場は暴落で始まった。

2月11日のハンセン指数の終値は3・9%(742ポイント)下さっ て118545・8。H株は4・9%下落した。

とりわけ下げが目立ったのはHSBC(香港上海銀行)で、5・4%の下げを記録した。H株ではシノペックが6・4%の暴落だった。

「次の数ヶ月、中国からのキャピタル・フライトがひきつづき、中国政府のいうGDP6・5%成長などという数字は市場関係者のだれも信じていない」と香港の市場関係者は言う。

上海、深センの株安はまだまだ続き、人民元安と呼応して、中国経済の沈降ぶりは凄まじい。 「ハードランディングは不可避的である」(ソロス)。

 この情況に日本は「マイナス金利」という奇策で対応した。 マイナス金利で何がおきたか。市場では金融株の大幅な下落がおこった。住宅金利の書き換えも各地で行われ、デフレマインドが高まったため設備投資が遠のく。 日銀の長期国債購入による金融の大規模な緩和(黒田バズーカ)は、そろそろ限界が見ていた。
 
 さしあたりマイナス金利効果は、景気を刺激するための銀行の貸し出しを奨励する効果がある(筈である)。たしかに銀行の貸し出し金利がさがりつつあり、個人の住宅投資を呼び込むが、企業の設備投資強化にはまだ繋がっていない。

 世界的規模で見ると「マイナス金利」は欧州の数ヶ国で実行されている。スイスは預金金利さえマイナス、スエーデンはマイナス金利が5%もあるがGDP成長率は3・4%である。

 しかし中国発の世界不況は想定以上に深刻で、世界に株安が波及し、NYもロンドンも、そしてフランクフルトも下げた。ドイツ銀行は10%以上の暴落。まだ歯止めがかからない。

韓国もシンガポールも、インドも株安となった。

円がおおいに買われた。

米ドルもユーロも豪ドルもNZドル、カナダドルも売られ、人民元はさらなる暴落気配。連動して香港ドルも下落を始めている。


 ▼ひさしぶりに金の出番がめぐってきた

金(ゴールド)価格が不気味な勢いで上昇に転じた。

年初来、2月11日までに186ドルも急騰している。同日は1日だけで 4・6%の急騰だった。

1オンス=1100ドル台から、2月11日には1250ドル寸前 (1249.5ドル)を付けた。まもなく1300ドル台を突破しそうな 勢いをみせており、同時に円・ドル相場は1ドル=110円台を付けた (ロンドンで場中)。

つまり「日本円」と「金」が買われている。日本の国債はマイナス金利でも買われている。日本への信頼がこれほど強い。円がゴールドと同様な価値観で世界の投資家に受け入れられている証拠である。

ならば誰がゴールドを買ったのか?

言わずと知れた中国、そして2番手はインドである。

人民元の先安感が中国人の間に急速に拡がっており、金コインの需要は25%増となった。

2015年の一年間で中国での金は985トン売れた(日本の国家備蓄 より多い)。インドは同期に849トン。この中国とインドで、世界消費 の45%を購入したことになる。史上空前の「爆買い」である。

 このうち各国の中央銀行が購入した金は558・4トンにのぼり、2013年の625・5トンについで史上2番目の記録だ(アジアタイムズ、2月12日)。ことしは年初来のドル安、原油安、株安がつづいているため、金の購入はさらに進むだろうと予測される。
        

◆台湾南部地震への義捐金

馬場 伯明



2016/2/6未明に台湾南部で発生した地震災害への義捐金として日本赤十字社の寄付口座に1万円送った。わずか1万円で偉そうにモノを言うのは気が引けるけれども、少しご報告することをお許しください。

すでに詐欺の口座へ送金しないよう当局などから警告がある。皇后陛下を名誉総裁にいただき、皇太子ほかの多くの皇族が名誉副総裁である日本赤十字社への送金が最適である。

じつは、台湾行政院衛生福利部震災義捐金受付口座の金融機関である兆豊国際商業銀行国外部・衛生福利部賑災専戸へ振り込もうと思った。M(都市)銀行の支店窓口で尋ねたら1万円でも1件8000円という(他銀行向け手数料5500円+コルレス先支払手数料2,500円)。えっ、それ何!

国内銀行預金の利息がほぼ0円なのにこれでは銀行だけが焼け太りだ。だから、日本赤十字社へまず国内送金しそこでまとめて台湾の赤十字社などへ渡してもらうのがいい。(銀行は窓口でそう「助言」すべきだ)。

台湾南部地震のビル倒壊の原因は、地盤が弱かった上に、構造上の欠陥もあり、さらに建設業者の違法な手抜き工事(欠陥工事)だった可能性が高いとテレビや新聞などで報じられている。

「『欠陥工事』ならば台湾の自業自得。義捐金を出すのはどうかなあ」と知人のAさんが呟いた。でも、それは違う。実態の捜査や原因の解明は重要であるが、死者39人(2/9現在)や被害者のために、まず、少しでもその支援に動くことが大事である。

現実に被害が発生しているのだから、たとえ欠陥工事であったとしても義捐金のことは別である。あの福島原発事故も一種の欠陥工事だったとも言える。電源設備が地上の安全な場所にあれば、あれほどの爆発や放射能汚染には至らなかったかもしれないのだ。

わずか1万円の寄付だけで言うのも、重ねて、「ナン」だが、できるだけ多くの人に浄財のご提供をお願いしたいものである。仮に、満員電車の車両乗客を生産年齢人口(約8000万人:2015)とした場合、1輌で1人(100人に1人)が応じれば、全国80万人で80億円になる。

5年前を想起したい。2011/3/11、東日本大震災の津波で宮城県南三陸町の志津川病院の建物や施設が破壊された。死者74人。2011/5/25〜ボランティアで現地へ行った私は病院建物の残骸を見て涙した。

昨年末2015/12/14、ようやく新病院「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」として再建がなり、待望の開業にこぎつけることができた。

じつは、この病院の建設費56億円のうち、22億2千万円(約40%)は中華民国紅十字総会(台湾赤十字)からの義捐金だった。日本人はいくら感謝しても感謝し過ぎることはない。しかし、台湾の人たちは被災地に同情はしても建物の倒壊原因などに言及してはいない。

天災や事故があったとき、すぐに反応し種々講釈する人たちがいる。「・・あれが足りなかった」「・・するべきだった」「いや、今すぐやれ」などと意見や対策案を言い、そして書く。また、他人の提案を批判する。

だが、往々にして彼らは「私(!)はこうする。昨日・・こうした」などとは言わない。つまり、自分の両手は使わず引っ込めている(例:自分は義捐金を出さない)。新聞の有名コラムの「論」にもたまに見られる。

残念ながら、上のことは邪推でありその明確な証拠はあいまいだ。人生いろいろ、義捐金への考えもいろいろである。だから、私は他人に義捐金の拠出を強制するつもりは、さらさら、ない。

今も1年365日酒を飲んでいるが、台湾南部地震の被害や新南三陸病院の開業の事情を思えば、新橋や神田神保町界隈の居酒屋での飲食を少し減らさなければならないかもしれないなあ。(2016/2/11千葉市在住)



◆古代大和への玄関港 泉津

白井 繁夫




本誌ではこれまで「木津川」の南岸(東西2.6km)に亘る古代泉津(いづみのつ)の上津(こうづ)遺跡、中津道周辺の散策を綴ってきましたが、今回は、下津道「吐師(はぜ)の浜」周辺に触れてみます。

万葉集に詠われている「木津川」は「泉川」として登場します。そこで古事記、日本書紀(以後『記紀』と云う)に出て来る「木津川」と、古代当地の人々との関わりを連想してみたいと思いのままに、下記に綴ってみました。

まずは、元々「木津川」の呼称だった、「和訶羅川」に触れます。
 
(記)によると、

@地形から、「木津川」は三重県上野から木津へ東から西へと流れて来て、泉津で流れが転換し、大きく湾曲して北の宇治(京都)に向かい、下流側は広々とした河原になります。その地形から、曲(わ)河原(かわはら)川を「和訶羅川」(わからかわ)と云うのです。

A武埴安彦の反乱伝承から、崇神天皇時代大毘古命の政府軍と武埴安彦の反乱軍が和訶羅川で対峙して相挑み戦った歴史があることから 伊杼美(いどみ)から伊豆美(いづみ)となり、「泉」となるのです。

(紀)輪韓河(わからかわ)というのはー。

  「木津川」の水路を利用して多くの渡来人がこの地に住み、帰化して、漢字や技術などを伝えたり、人の往来と共に文物の交易も興しています。 倭(大和)韓(韓三国)河 即ち、大陸、朝鮮半島を繋ぐ水路だったのです。

上述のように、記紀の表現から、古代のこの地とここの人々の営みを、こんな風に連想したくなります。

記紀に出てくる当地「吐師(はぜ)と相楽(さがなか)」について触れます。

「吐師の浜」は、古代大和への下津道の起点で、交通の要衝でした。従って「泉津」での、大和朝廷成立に繋がる各地の王との覇権の戦い、大陸との交流などなどが、記紀に登場しています。

ところで・・・(紀)によると、

<欽明天皇31年(570)4月条と7月条から、越(北陸)の岸に漂着した高麗(高句麗)の使者を迎える為、「山背(やましろ)国相楽郡に、館(むろつみ)を建て、厚く相資(たす)け養え」...とされています。つまり4月条によると、「欽明大王の時代に大和の王権が安定したとされているのです。>

更に<7月条によると、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きじのあかはと)を使者にたて、飾船(かざりぶね)で近江へ「往ぎ迎」え「高楲館(こまひのたち)に入らせ、高麗の使者を相楽館(さがらのたち)で接待したとなっています。 

序でながら、(記)垂仁紀15年条(相楽伝説)によりますと、

丹波道主(たんばのみちのぬし)王の四女王の物語から、懸木→相楽、輿から墜ち→乙訓の地名伝説とともに、相楽は、当時の丹波(山陰道)・西道(山陽道)・北陸道(越の国)等と繋がる、交通の要衝であったと推察できるのです。

さて、「吐師七ツ塚古墳群」に話を移しましょう・・・。

五世紀の古墳時代、応神大王、仁徳大王の河内王朝が各地の小国の王の前方後円墳の規制を掛けており、南山城の墳形規制は、久世の平川王家に支配されていました。

「吐師の七ッ塚古墳」は、近鉄京都線木津川台駅の北西約500m府道八幡.木津線沿の中島外科の裏側「西北」にありますが、昭和の道路工事などで「1号・2号墳」は破壊され、「3号・4号・5号墳」は現存していますが、その他の墳墓は原型を留めておりません。

「2号墳」が昭和3年の道路工事で発見され調査された際、遺物の中に木棺直葬(長さ3m前後)で埋葬されており、副葬品などから5世紀第U四半期の古墳と推測されました。

現存する「4・5号」は形状より帆立貝式古墳で、出土品等から5世紀後葉から6世紀前葉と推測される為、「吐師」の首長(王)は長期安定的政権を続け、大和の大王と交流していたのではないかと、専門家でない私は昔のロマンを追いたくなります。

そこで「吐師の浜」のことです・・・。
近鉄京都線山田川駅から東北へ約1km、木津川台駅の南東、山田川と藤木川が「木津川」に合流する吐師の東部の辺りです。昭和28年の南山城の大水害で、「木津川」の堤防工事を(木津の浜同様)行い、現在は二重の高い堤防を築いた為、浜の面影はありません。

合流地辺でたまたま出合った老人の話によると、この「木津川」は、昭和十年頃まで帆掛け舟が行き交い、活動写真の撮影場所に最適でしたが、電信柱が建ち、堤防も変わったので、現在は京都八幡の流れ橋辺りに撮影場所が移ってしまい残念、と嘆いていました。

ところで、実に興味深い話題があります。

十八世紀の貝原益軒の紀行文(和州巡覧記)によりますと・・・。

<柞森(ははそのもり)「祝園村」と大和の歌姫村をつらねる郡山街道の中間を、「扼」(やく)としている。

そこには約20軒の荷物問屋があり、淀川、「木津川」を遡行して、大坂、京都からの船荷の米、塩、油粕、干鰯(ほしか:肥料)、荒物をここで下し、牛馬にて大和郡山や南都へ運んだ。大和の産綿などは、「木津川」を遡行して尾張国へ運ぶ>と記されています。

吐師の武田家古文書では、享和2年(1802)の木津浜、吐師浜の船持と船株について、
     船株   船数   渡船  合計船数
◆木津   22   41   10   51
◆吐師    9   26    0   26
と記されています。

江戸時代の「泉津」(木津の浜、吐師の浜)に属する船数や株数から当時の浜の状況も想像できます。当時の問屋の子孫で、今も吐師に住んでいて問屋と地元で呼ばれている屋敷は(昔の船問屋、油問屋など)“数軒”だけになったと云われています。

ところで、江戸時代当時の「木津川」の船は、十石船(淀川の船は二十石)で、木津川六カ浜に属する船は、淀川、宇治川へ入る荷物、運搬のテリトリーと異なったために、両川へは入れず、結局、木津川沿いへの産物の運搬と他国からの貨物は、木津川沿いや大和へ運び込むことに限られていました。

船株を持つ廻船問屋は、大名、幕府御用品や、災害時等の物資運搬も一手に扱っていました。

しかし、「木津川」を遡行して船荷を運ぶ時、曳舟の綱を陸上から引く人達の苦労は並大抵なものではなく、正に「往きは天国、帰りは地獄」の状態だったでしょう。なんと、それが大正時代まで続いていたのです。(再掲)

                  (郷土愛好家)



白井繁夫

本誌ではこれまで「木津川」の南岸(東西2.6km)に亘る古代泉津(いづみのつ)の上津(こうづ)遺跡、中津道周辺の散策を綴ってきましたが、今回は、下津道「吐師(はぜ)の浜」周辺に触れてみます。

万葉集に詠われている「木津川」は「泉川」として登場します。そこで古事記、日本書紀(以後『記紀』と云う)に出て来る「木津川」と、古代当地の人々との関わりを連想してみたいと思いのままに、下記に綴ってみました。

まずは、元々「木津川」の呼称だった、「和訶羅川」に触れます。
 
(記)によると、

@地形から、「木津川」は三重県上野から木津へ東から西へと流れて来て、泉津で流れが転換し、大きく湾曲して北の宇治(京都)に向かい、下流側は広々とした河原になります。その地形から、曲(わ)河原(かわはら)川を「和訶羅川」(わからかわ)と云うのです。

A武埴安彦の反乱伝承から、崇神天皇時代大毘古命の政府軍と武埴安彦の反乱軍が和訶羅川で対峙して相挑み戦った歴史があることから 伊杼美(いどみ)から伊豆美(いづみ)となり、「泉」となるのです。

(紀)輪韓河(わからかわ)というのはー。

  「木津川」の水路を利用して多くの渡来人がこの地に住み、帰化して、漢字や技術などを伝えたり、人の往来と共に文物の交易も興しています。 倭(大和)韓(韓三国)河 即ち、大陸、朝鮮半島を繋ぐ水路だったのです。

上述のように、記紀の表現から、古代のこの地とここの人々の営みを、こんな風に連想したくなります。

記紀に出てくる当地「吐師(はぜ)と相楽(さがなか)」について触れます。

「吐師の浜」は、古代大和への下津道の起点で、交通の要衝でした。従って「泉津」での、大和朝廷成立に繋がる各地の王との覇権の戦い、大陸との交流などなどが、記紀に登場しています。

ところで・・・(紀)によると、

<欽明天皇31年(570)4月条と7月条から、越(北陸)の岸に漂着した高麗(高句麗)の使者を迎える為、「山背(やましろ)国相楽郡に、館(むろつみ)を建て、厚く相資(たす)け養え」...とされています。つまり4月条によると、「欽明大王の時代に大和の王権が安定したとされているのです。>

更に<7月条によると、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きじのあかはと)を使者にたて、飾船(かざりぶね)で近江へ「往ぎ迎」え「高楲館(こまひのたち)に入らせ、高麗の使者を相楽館(さがらのたち)で接待したとなっています。 

序でながら、(記)垂仁紀15年条(相楽伝説)によりますと、

丹波道主(たんばのみちのぬし)王の四女王の物語から、懸木→相楽、輿から墜ち→乙訓の地名伝説とともに、相楽は、当時の丹波(山陰道)・西道(山陽道)・北陸道(越の国)等と繋がる、交通の要衝であったと推察できるのです。

さて、「吐師七ツ塚古墳群」に話を移しましょう・・・。

五世紀の古墳時代、応神大王、仁徳大王の河内王朝が各地の小国の王の前方後円墳の規制を掛けており、南山城の墳形規制は、久世の平川王家に支配されていました。

「吐師の七ッ塚古墳」は、近鉄京都線木津川台駅の北西約500m府道八幡.木津線沿の中島外科の裏側「西北」にありますが、昭和の道路工事などで「1号・2号墳」は破壊され、「3号・4号・5号墳」は現存していますが、その他の墳墓は原型を留めておりません。

「2号墳」が昭和3年の道路工事で発見され調査された際、遺物の中に木棺直葬(長さ3m前後)で埋葬されており、副葬品などから5世紀第U四半期の古墳と推測されました。

現存する「4・5号」は形状より帆立貝式古墳で、出土品等から5世紀後葉から6世紀前葉と推測される為、「吐師」の首長(王)は長期安定的政権を続け、大和の大王と交流していたのではないかと、専門家でない私は昔のロマンを追いたくなります。

そこで「吐師の浜」のことです・・・。
近鉄京都線山田川駅から東北へ約1km、木津川台駅の南東、山田川と藤木川が「木津川」に合流する吐師の東部の辺りです。昭和28年の南山城の大水害で、「木津川」の堤防工事を(木津の浜同様)行い、現在は二重の高い堤防を築いた為、浜の面影はありません。

合流地辺でたまたま出合った老人の話によると、この「木津川」は、昭和十年頃まで帆掛け舟が行き交い、活動写真の撮影場所に最適でしたが、電信柱が建ち、堤防も変わったので、現在は京都八幡の流れ橋辺りに撮影場所が移ってしまい残念、と嘆いていました。

ところで、実に興味深い話題があります。

十八世紀の貝原益軒の紀行文(和州巡覧記)によりますと・・・。

<柞森(ははそのもり)「祝園村」と大和の歌姫村をつらねる郡山街道の中間を、「扼」(やく)としている。

そこには約20軒の荷物問屋があり、淀川、「木津川」を遡行して、大坂、京都からの船荷の米、塩、油粕、干鰯(ほしか:肥料)、荒物をここで下し、牛馬にて大和郡山や南都へ運んだ。大和の産綿などは、「木津川」を遡行して尾張国へ運ぶ>と記されています。

吐師の武田家古文書では、享和2年(1802)の木津浜、吐師浜の船持と船株について、
     船株   船数   渡船  合計船数
◆木津   22   41   10   51
◆吐師    9   26    0   26
と記されています。

江戸時代の「泉津」(木津の浜、吐師の浜)に属する船数や株数から当時の浜の状況も想像できます。当時の問屋の子孫で、今も吐師に住んでいて問屋と地元で呼ばれている屋敷は(昔の船問屋、油問屋など)“数軒”だけになったと云われています。

ところで、江戸時代当時の「木津川」の船は、十石船(淀川の船は二十石)で、木津川六カ浜に属する船は、淀川、宇治川へ入る荷物、運搬のテリトリーと異なったために、両川へは入れず、結局、木津川沿いへの産物の運搬と他国からの貨物は、木津川沿いや大和へ運び込むことに限られていました。

船株を持つ廻船問屋は、大名、幕府御用品や、災害時等の物資運搬も一手に扱っていました。

しかし、「木津川」を遡行して船荷を運ぶ時、曳舟の綱を陸上から引く人達の苦労は並大抵なものではなく、正に「往きは天国、帰りは地獄」の状態だったでしょう。なんと、それが大正時代まで続いていたのです。(再掲)

                  (郷土愛好家)