平井 修一
■12月24日(木)、朝は室温14度、快晴、雨上がりの道をハーフ散歩。体調はかなり良くなった。
夕べは11人でXマスパーティ。カミサンが仕切ってくれたから小生は後片付けくらい。それでも洗濯を終えたら24時だった。嫁さんとその娘2人が今日帰るから、皆が風呂を済ませた後には洗濯をしておかないとまずいわけ。
「余は如何にして基督信徒となりし乎」
<英語原題:How I Became a Christianは、英文で書かれた内村鑑三の前半生の自伝文学作品である。新渡戸稲造の『武士道』と並ぶ日本人による英文著作の傑作とされる>(ウィキ)
『武士道』は感動的だが、小生はキリスト者の内村鑑三にはまったく興味がないから読んだことはないし、読んだという人も知らない。
日本でキリスト教=一神教=他神教排除が広まらないのは、日本の古来からの「和」の精神と合わないからだろう。新約聖書には「イエスは和ではなく戦いをもたらすために来た。親子・兄弟喧嘩、嫁姑の争いを起こすために来た。自分や家族のためではなく神のために死ね」と書いてある(マタイ伝10章)。
ほとんど狂気の沙汰。日本で信者が増えるわけがない。信者は「信仰して努力すれば幸福になるれ」と信じているようだが、作家の物集高量(もずめたかかず)は100歳の時に「人生は90%が運で決まる」とキリスト教の司祭に説教している。「信仰で救われる? バカを言うな。イラク、シリア、ガザあたりの砂漠で生まれたら、もうどうしようもない」と。
最悪の一神教であるイスラム教徒は砂漠で生まれて喧嘩しまくっている。殺しあっている。現実を見ればそういうことだ。今、皆逃げだしている、「もうどうしようもない、助けてメルケルさん」と。
<明治時代以来、キリスト教は日本の文化に様々な影響を与えている。しかしキリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%前後と言われている。
文化庁の宗教年鑑では、信者数の割合で約1%となっている。また、米国CIAの調査によると、日本のキリスト教徒の割合は2%ほどと推定されている。
東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本のキリスト教人口は約104万人で、日本の全人口のうち0.82%となっている>(ウィキ)
今日、書きたいのは「余は如何にしてネトウヨとなりし乎」である。
小生は小4、10歳の時から週刊新潮の熱心な読者である。小生をとても可愛がってくれた寿司屋の親父さんはインテリで、文藝春秋と週刊新潮を愛読していたので、小生は専ら週刊新潮の助平な読み切り短編「黒い報告書」を読んで興奮していたのだ。
ルビなんてないけれど「ミユキの膣は愛液で潤っていた」なんて小4坊主が読める、理解できるはずはないのに、「ニクヅキにアナに至る、あそこのことを大人は“膣”と書くのか。あそこは濡れるんだなあ」と、助平心の熱心さで分かるのである。好きこそものの上手なれ。
そのうち山本夏彦翁が後の方にコラムを書きだし、小生も真っ先にそれを読むようになった。
<1979年(昭和54年)『週刊新潮』に「夏彦の写真コラム」連載開始(初回は「かわいそうな美空ひばり」)>(ウィキ)
2002年、死の直前まで連載した。小生は10歳から51歳までの40年間、週刊新潮の愛読者だったが、その間に読みたいものが夏彦翁と高山正之氏のコラムだけになってしまった。
小生はともに創業社長ということもあって翁から多大な影響を受けた。「編集というのは詐欺的な能力が必要だ」「人のやらないことをやれ」「会社は大きくするな」などなど。
小生は翻訳するに際しては上田敏を手本にした。翻訳臭さを完璧に排し、完璧な美しい日本語にした。あるとき米国大使館(商務省観光局)から「全米の観光パンフレットを作るから入札したらどうか。ついてはこのセンテンスを翻訳してみろ」と声をかけられた。
<上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の中で愛誦される詩の一つに、ブラウニング「春の朝」(はるのあした)がある。
時は春、日は朝(あした)、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。
原文は、
The year's at the spring
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill‐side's dew‐pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in his heaven ―
All's right with the world!>(ウィキなど)
こんな風に自分でも感動するくらいの名文にしたて、料金は並、結局全米50州プラス島嶼の観光パンフレット作りを受注した。
会社案内に主要取引先として「米国大使館」「日本旅行業協会」「近畿日本ツーリスト」などという名前を掲げると、小さな会社ながらも知られるようになった。
芋づる式にアンカレッジ観光局、ネバダ州観光局、英国政府観光庁、豪州ビクトリア州政府観光局、さらには米国本社の販促大手、ディスカバー・アメリカ社からUSエアウェイズ、サウスウェスト航空、ランチリ航空、アエロメヒコ、ブリティッシュミッドランド航空などの仕事も入ってきた。
編集業に加えて広告代理業も始めた。これは無茶苦茶に儲かった(一文字直しても製作費12万円、雑誌に掲載すれば20%とかの代理店手数料)。電通などが儲かる仕組みが良く分かった。(電通のやり口はほとんど詐欺!)
まさに「All's right with the world! すべて世は事も無し」と、いい思いをしていたら、2001年の9.11テロ。好事魔多し。
<このテロが航空機を用いたものであったことや、シティグループやオムニコム・グループをはじめとするアメリカを中心とした大企業が緊急なものを除く外国出張の禁止を命じたことなどから、事件後は航空需要が一時的に激減し、世界中の航空会社が大きな打撃を受けることとなった。
テロの標的となったユナイテッド航空だけでなく、標的にならなかったノースウエスト航空、デルタ航空も、連邦倒産法第11章の適用を申請し経営破綻した。また、サベナ航空やスイス航空など、アメリカ以外の航空会社も多くが赤字に転落したうえ経営破綻し、そのうちのいくつかは姿を消した>(ウィキ)
1か月後には米国などによるアフガンへの侵攻も始まった。世の中は海外旅行どころではなくなったのだ。テロから2か月後の11月の売上は1/4になり、銀行からも見放された。わが社は清算せざるを得なくなった。
小生の会社の元社員が作った編集プロダクションにすべての事業を移管し終えたのが2002年の暮。そして2003年に胃がんになりほぼ全摘出。肝臓への転移が疑われたために抗がん剤治療。ほとんど毎日死んでいたようなものだったが、この際だからと近現代史を学び始めた。
新聞は読売から産経に代え、月刊正論、月刊諸君!、月刊WILLなどを読み始めた。先日(12/7)の産経「正論」に入江隆則・明治大学名誉教授が「真の国際人であるための条件とは何か」を書いていて思い出したが、実は本格的に近現代史を学ぶきっかけを作ってくれたのが、当時、明大教授だった入江先生の2006/3/5産経「正論」論考「戦後日本のくびき解く警世
の3冊 頼もしい草莽の歴史家たちの出現」だった。
入江先生はここで「日本社会の中枢を占める人々が、依然として多かれ少なかれ、いわゆる「東京裁判史観」の虜になっている。そういう現状に業を煮やした結果、最近の日本では草莽の歴史家とでもいうべき人々が現れて、警世の言葉を発している」として以下の3冊を紹介してくれたのだ。
それは、岩間弘著「大東亜解放戦争」、前野徹著「戦後60年の大ウソ」、深田匠著「2つのアメリカの世界戦略」で、前の2冊はしっかり読んだ。とても勉強になった。
そのうちにブログとメルマガを立ち上げ、5000人の読者(当時は300人ほど)を持つメルマガ「頂門の一針」にも投稿させてもらえるようになり、自称ネトウヨの素人としてはまあまあ語ることができるようになった。
入江先生や「頂門」主宰者の渡部亮次郎氏が小生の背中を押してくれたのだ。夏彦翁についてはミニコミ誌に「翁と同時代に生きることができるのは幸いである」と書いたら謝意が届いた。
これからも勉強して中共やら反日左翼を叩き続けなければならない。天職だと思っている。
■12月25日(金)、朝は室温13度あたり(洗濯物を乾かすためにエアコンをかけていたので18度だったが)、晴、ハーフ散歩。
体調はかなり良くなったとは言え、ちょっと頑張ると横にならざるを得ない。昨日、ベランダのガラス磨きをした後でうつらうつら昼寝をしていると、散歩から帰ったゼロ歳と3歳の孫娘が懸垂器で遊び、長男夫婦が会話をしていた。
「元旦の“旦”は海から日が昇るという目出度い字だ。今度の子の名前には“旦”を使おう。“直旦”(なおたん)はどうか」「“直旦郎”(なおたろう)のほうがいいんじゃない?」
3人目、それも男の子を産む決意をしたようだ。結構なこと。今は再び「産めよ殖やせよ」の時代思潮があるから、公務員からぼんぼん産むといい。長男夫婦は都庁職員。産む環境は民間よりずっといい(民間が遅れているということ)。親父を越えて4人目を創ったら褒めてやろう。祝い金は100万円だ。
小生は来年あたりに逝きそうだ。酒とバカの日々。分かっちゃいるけど止められない。自業自得。まあ、やるべきことはやったから仕方がない。メルマガ「あの世通信」は面白そうだ。宇宙ステーションから地球の細部、夫婦の寝室までを覗いて現認報告するのである。「オランドはしつこい。プーチンは意外に淡泊、習近平はED、オバマは枯渇」とか。大いに楽しみだ。
■12月26日(土)、朝は室温14度、快晴、抜けるような青空、フル散歩。
夕べは2歳女児の体調不全で集団的子育て。シーツ2枚を含めて結構な洗濯物。風もあるし温かいから夕方にはパリパリに乾いているだろう。
Xマスが終わったので花屋の店先からポインセチアが消え、シクラメン、パンジー、三色すみれ、花キャベツなどが妍を競っている。今年もいよいよ大晦日になる。
わが家の10大ニュースの筆頭は「愛犬トト逝く」だ。2日ほど寝込んで逝ってしまった。17歳と1週間、人間で言えば95歳ほど。GNPでまったく親孝行な娘だ。思い出すと泣きたくなる。
読者のMOMOさんからメール。「塩野七生さんは60年安保の時、学習院の学生で、国会突入の最前列にいたそうです。後ろには慶応。デモから帰ったら父親が玄関の前で待っており張り倒されたそうです」
ウィキにはこうあった。
<塩野 七生(しおの ななみ、女性、1937年7月7日 - )は、日本の歴史作家である。名前の「七生」は、7月7日生まれであることに由来。(平井:本名は「ななお」らしい)
東京市滝野川区(現・東京都北区)生まれ。東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。日比谷高校時代は庄司薫、古井由吉らが同級生だった。
1963年からイタリアで学び、1968年に帰国すると執筆を開始。『中央公論』掲載の「ルネサンスの女たち」でデビュー。
1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。同年から再びイタリアへ移り住む。ローマ名誉市民を経てイタリア永住権を得ており、ローマに在住。
父親は詩人・小学校教師の塩野筍三(1905-84)で、神田神保町の古本屋から軒並み借金をするほどの読書好きであった。
フィレンツェ大学医学部に勤務していたイタリア人医師と結婚(後に離婚)。息子アントニオ・シモーネとは共著がある>
小生より14歳年上の60年安保世代か。小生は70年安保世代、71年には中核派の兵隊として三里塚でお縄を頂戴し、人生を遠回りしてしまった。それにしてもカミサンは余程のゲテモノ好きで、「なんで10年裁判を抱えていた俺を選んだんだ?」と聞いたら、「アンタといれば一生退屈しないと思ったのよ」。
岳父は奄美大島で土建会社を起こして成功したが、隣の徳之島出身の小結・旭道山(あだ名は「南海のハブ」)のように腕っぷしが強く、村対抗の相撲大会や運動会では秋名村のエースだったという。
いささか乱暴者で、カミサンが生まれたときには警官を追いかけ回して留置場に入っていたと聞いたことがある。趣味はイノシシ狩りで、酔って口論となり、猟銃をぶっ放して天井に穴を作ったとも聞いている。
マンガ「じゃりン子チエ」の父親みたいなイメージだったが、カミサンは喧嘩を厭わない体育会系のマッチョ風の男に抵抗感がなかったのかもしれない。昔、機動隊員と付き合っていた女友達が「男は“気は優しくて力持ち”が一番」と言っていたが、機動隊員と別れた後はヤクザと付き合っていた。そういう趣味の女は結構いるのかもしれない。なんか任侠道とか極妻、演歌の世界みたいだ。
カミサンは剣道4段だから岳父譲りの体育会系の血が流れているのかもしれない。長男は剣道三段、キン肉マンのようなムキムキのマッチョ、消防官だ。小生は公務執行妨害罪、威力業務妨害罪、凶器準備集合罪の前科3犯。どちらかというと武闘派だ。もうパワーはないけれど。
塩野七生氏の「マキアヴェッリ語録」から。
<武装する預言者が勝利を収めることができるのであり、反対に、備えなき者は滅びるしかなくなる。
祖国の存亡がかかっているような場合は、その目的にとって有効ならば、いかなる手段も正当化される。この一事は為政者に限らず、国民の一人一人に至るまで心しておかねばならないことである。
事が祖国の存亡を賭けている場合、その手段が正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞讃されるものか恥ずべきものかなどについて、一切考慮する必要はない。
なににもまして優先すべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである>
中共殲滅、支那解放へ! IS絶滅、中東に平和を! 西側世界の武闘派、団結せよ! 来年も忙しくなりそうだ。(2015/12/26)