2015年12月29日

◆「無罪判決」報道に異議あり

門田 隆将



加藤達也・産経新聞前ソウル支局長が朴槿恵(パク・クネ)大統領への名誉毀損(きそん)裁判で「無罪判決」を勝ちとった一件以来、日韓関係にさまざまな動きが生じてきた。だが、私は今もこの判決報道に強い違和感を覚えている。

毎日社説が、〈事実確認を怠り風評を安易に書いたことは批判されても仕方がない。「うわさ」と断りさえすれば何を書いてもいいわけではない〉と書けば、読売社説も、〈前支局長が風評を安易に記事にした点は批判を免れない〉(いずれも18日付)と書いた。

また、朝日は同日付夕刊「素粒子」で、〈胸を張れない結末。うわさを書いた記者も、起訴した検察も、動かない大統領も、煮え切らない判決の裁判所も〉と記述した。

いずれも「韓国も悪いが、加藤記者も悪かった」という論調だ。だが、本当にそうだろうか。

私は、これらの記事は「あのコラムを本当に読んだ上で書いているのだろうか」と思ったのだ。当の加藤氏のコラムは、インターネット上に掲載されたものだけに、特派員が伝える日々のストレートニュースとは異なる興味深いものだった。

朴大統領は、部下から直接、「面と向かって」報告を受けるのではなく、「書面」で受けることが多いのだそうだ。その日頃の執務ぶりが問題になり、秘書室長が国会で「一体、大統領はどこにいるのか」と追及の矢面(やおもて)に立たされた事実から、加藤氏はコラムを書き出している。

有力紙『朝鮮日報』が“秘線”という男女の関係を想像させる言葉まで用いて、セウォル号事故当日に「空白の7時間」が生じていたことをコラムで書いた事実も紹介した。

加藤氏のコラムは、そこから透(す)けてみえる政権の内幕と、そんな噂まで立つ朴政権のレームダック化を指摘していく。

それは、初耳の情報ばかりで、読む者を「へぇ」とうならせるものだだった。しかも、朝鮮日報のコラムの中身に対して、〈真偽不明のウワサ〉と、わざわざ断った上で紹介していた。

発表モノや発生モノだけを書けばいいと思っている特派員が多い中で、この加藤氏のコラムは出色だった。私が一連の他紙の報道に疑問を感じたのは、ほかにも理由がある。

自らの力量不足を棚に上げて他紙を批判する“いつもの傾向”とともに、〈自らの主張のために、他者の言説を歪曲(わいきょく)ないし貶(おとし)める傾向〉を感じたからだ。

これは昨年、朝日の慰安婦報道に対して朝日社内に設置された「第三者委員会」が出した提言の中の一節だ。せめて検証相手のコラムぐらいはきちんと読み、「歪曲」も、「貶め」もなく、読者に正確な論評を提示してほしかったと、私は思う。

無罪判決以後、検察の控訴断念による判決確定、慰安婦問題の交渉再開など、両国の政治的な動きは加速している。それだけに、元々の「無罪判決」報道に余計、違和感が残るのである。

           ◇

【プロフィル】門田隆将(かどた・りゅうしょう) 昭和33(1958)年、高知県出身。中央大法卒。ノンフィクション作家。最新刊は、迷走を続ける邦人救出問題の実態を描いた『日本、遥かなり』。
産経ニュース【新聞に喝】 2015.12.27    
                (採録:松本市 久保田 康文)

2015年12月28日

◆謎のパート獄中死した如明にナー

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)12月27日(日曜日)通算第4762号 > 

 
〜獄中死した如明に謎のパートナー、曽慶紅一家とも異様な親密関係
 肝硬変で死にかけていたという情報も駆けめぐっているが肝腎の謎は未解明〜


12月4日、収監されていた武漢の監獄で、除明が心筋梗塞に斃れた。トイレで斃れた音に同部屋のほかの3人の囚人が気づき、救急車を求めたという筋書きになっているが、火葬をおえた遺灰のみが遺族に渡された。

除明は大連実徳集団を率いて急速に成り上がった新興財閥で、薄護来の金庫番とも言われた。

貢いだ金額だけでも2000億元。くわえて美女を自家用飛行機でせっせと薄や周永康のもとに運び、代わりに得た利権で太った、いはばカネまみれの政商である。

以前にも肝硬変で死にかけたことがあるという情報も駆けめぐった。

薄の息子の薄瓜瓜の海外留学費用も除名がスポンサーであり、薄夫人の法律事務所の胴元でもあり、しかも薄の右腕だった王率軍が北京に邸宅を購入した折、その資金の285万元を提供したらしい。

除名は2002年にも酒の飲み過ぎがたたって、肝硬変で死にかけたことがあるという情報も飛び交っているが、ともかく、裁判ででてきたのは薄煕来と周永康、その夫人や副官達が織りなした未曾有の汚職、資金洗浄、そして海外への財産移転であり、裁判ででてきたのは氷山の一角でしかない。

実際に大連実徳集団をマネージしていたのは、除明の友人でもあった戴永革で、この戴は曽慶紅一家と密接な関係があることが判明した。曽は江沢民の右腕であり、国家副主席を務めた。上海派の大番頭である。

戴はハルビンの仁和集団を率いて頭角を現し、除明とは古き友人でもあった。除明逮捕後は、大連実徳集団の毎月一億元ともいわれた利払いなど、事後処理を率いたが、影で彼のやっていたビジネスは地下銀行だという。

以前からマカオの博打で、意図的にまけて勝ち金を合法的にマネーロンダリングして海外へ送金する金融のノウハウを身につけており、戴が指図した地下銀行は、深浅、珠海、大連、北京、上海、長沙などに拠点を設けていた。

曽慶紅一族から、この作戦に加わっていたのは親族の王暁令、豪州に食品加工工場などを経営する人物とされる。 もっかの関心事は、こうした裏のビジネスの?がりと海外へ送金された汚職のカネの行方である。
        

◆私の「身辺雑記」(296)

平井 修一



■12月24日(木)、朝は室温14度、快晴、雨上がりの道をハーフ散歩。体調はかなり良くなった。

夕べは11人でXマスパーティ。カミサンが仕切ってくれたから小生は後片付けくらい。それでも洗濯を終えたら24時だった。嫁さんとその娘2人が今日帰るから、皆が風呂を済ませた後には洗濯をしておかないとまずいわけ。

「余は如何にして基督信徒となりし乎」

<英語原題:How I Became a Christianは、英文で書かれた内村鑑三の前半生の自伝文学作品である。新渡戸稲造の『武士道』と並ぶ日本人による英文著作の傑作とされる>(ウィキ)

『武士道』は感動的だが、小生はキリスト者の内村鑑三にはまったく興味がないから読んだことはないし、読んだという人も知らない。

日本でキリスト教=一神教=他神教排除が広まらないのは、日本の古来からの「和」の精神と合わないからだろう。新約聖書には「イエスは和ではなく戦いをもたらすために来た。親子・兄弟喧嘩、嫁姑の争いを起こすために来た。自分や家族のためではなく神のために死ね」と書いてある(マタイ伝10章)。

ほとんど狂気の沙汰。日本で信者が増えるわけがない。信者は「信仰して努力すれば幸福になるれ」と信じているようだが、作家の物集高量(もずめたかかず)は100歳の時に「人生は90%が運で決まる」とキリスト教の司祭に説教している。「信仰で救われる? バカを言うな。イラク、シリア、ガザあたりの砂漠で生まれたら、もうどうしようもない」と。

最悪の一神教であるイスラム教徒は砂漠で生まれて喧嘩しまくっている。殺しあっている。現実を見ればそういうことだ。今、皆逃げだしている、「もうどうしようもない、助けてメルケルさん」と。

<明治時代以来、キリスト教は日本の文化に様々な影響を与えている。しかしキリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%前後と言われている。

文化庁の宗教年鑑では、信者数の割合で約1%となっている。また、米国CIAの調査によると、日本のキリスト教徒の割合は2%ほどと推定されている。

東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本のキリスト教人口は約104万人で、日本の全人口のうち0.82%となっている>(ウィキ)

今日、書きたいのは「余は如何にしてネトウヨとなりし乎」である。

小生は小4、10歳の時から週刊新潮の熱心な読者である。小生をとても可愛がってくれた寿司屋の親父さんはインテリで、文藝春秋と週刊新潮を愛読していたので、小生は専ら週刊新潮の助平な読み切り短編「黒い報告書」を読んで興奮していたのだ。

ルビなんてないけれど「ミユキの膣は愛液で潤っていた」なんて小4坊主が読める、理解できるはずはないのに、「ニクヅキにアナに至る、あそこのことを大人は“膣”と書くのか。あそこは濡れるんだなあ」と、助平心の熱心さで分かるのである。好きこそものの上手なれ。

そのうち山本夏彦翁が後の方にコラムを書きだし、小生も真っ先にそれを読むようになった。

<1979年(昭和54年)『週刊新潮』に「夏彦の写真コラム」連載開始(初回は「かわいそうな美空ひばり」)>(ウィキ)

2002年、死の直前まで連載した。小生は10歳から51歳までの40年間、週刊新潮の愛読者だったが、その間に読みたいものが夏彦翁と高山正之氏のコラムだけになってしまった。

小生はともに創業社長ということもあって翁から多大な影響を受けた。「編集というのは詐欺的な能力が必要だ」「人のやらないことをやれ」「会社は大きくするな」などなど。

小生は翻訳するに際しては上田敏を手本にした。翻訳臭さを完璧に排し、完璧な美しい日本語にした。あるとき米国大使館(商務省観光局)から「全米の観光パンフレットを作るから入札したらどうか。ついてはこのセンテンスを翻訳してみろ」と声をかけられた。

<上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年)の中で愛誦される詩の一つに、ブラウニング「春の朝」(はるのあした)がある。

時は春、日は朝(あした)、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。

原文は、

The year's at the spring 
And day's at the morn;
Morning's at seven;    
The hill‐side's dew‐pearled;
The lark's on the wing;   
The snail's on the thorn;
God's in his heaven ―
All's right with the world!>(ウィキなど)

こんな風に自分でも感動するくらいの名文にしたて、料金は並、結局全米50州プラス島嶼の観光パンフレット作りを受注した。

会社案内に主要取引先として「米国大使館」「日本旅行業協会」「近畿日本ツーリスト」などという名前を掲げると、小さな会社ながらも知られるようになった。

芋づる式にアンカレッジ観光局、ネバダ州観光局、英国政府観光庁、豪州ビクトリア州政府観光局、さらには米国本社の販促大手、ディスカバー・アメリカ社からUSエアウェイズ、サウスウェスト航空、ランチリ航空、アエロメヒコ、ブリティッシュミッドランド航空などの仕事も入ってきた。

編集業に加えて広告代理業も始めた。これは無茶苦茶に儲かった(一文字直しても製作費12万円、雑誌に掲載すれば20%とかの代理店手数料)。電通などが儲かる仕組みが良く分かった。(電通のやり口はほとんど詐欺!)

まさに「All's right with the world! すべて世は事も無し」と、いい思いをしていたら、2001年の9.11テロ。好事魔多し。

<このテロが航空機を用いたものであったことや、シティグループやオムニコム・グループをはじめとするアメリカを中心とした大企業が緊急なものを除く外国出張の禁止を命じたことなどから、事件後は航空需要が一時的に激減し、世界中の航空会社が大きな打撃を受けることとなった。

テロの標的となったユナイテッド航空だけでなく、標的にならなかったノースウエスト航空、デルタ航空も、連邦倒産法第11章の適用を申請し経営破綻した。また、サベナ航空やスイス航空など、アメリカ以外の航空会社も多くが赤字に転落したうえ経営破綻し、そのうちのいくつかは姿を消した>(ウィキ)

1か月後には米国などによるアフガンへの侵攻も始まった。世の中は海外旅行どころではなくなったのだ。テロから2か月後の11月の売上は1/4になり、銀行からも見放された。わが社は清算せざるを得なくなった。

小生の会社の元社員が作った編集プロダクションにすべての事業を移管し終えたのが2002年の暮。そして2003年に胃がんになりほぼ全摘出。肝臓への転移が疑われたために抗がん剤治療。ほとんど毎日死んでいたようなものだったが、この際だからと近現代史を学び始めた。

新聞は読売から産経に代え、月刊正論、月刊諸君!、月刊WILLなどを読み始めた。先日(12/7)の産経「正論」に入江隆則・明治大学名誉教授が「真の国際人であるための条件とは何か」を書いていて思い出したが、実は本格的に近現代史を学ぶきっかけを作ってくれたのが、当時、明大教授だった入江先生の2006/3/5産経「正論」論考「戦後日本のくびき解く警世
の3冊 頼もしい草莽の歴史家たちの出現」だった。

入江先生はここで「日本社会の中枢を占める人々が、依然として多かれ少なかれ、いわゆる「東京裁判史観」の虜になっている。そういう現状に業を煮やした結果、最近の日本では草莽の歴史家とでもいうべき人々が現れて、警世の言葉を発している」として以下の3冊を紹介してくれたのだ。

それは、岩間弘著「大東亜解放戦争」、前野徹著「戦後60年の大ウソ」、深田匠著「2つのアメリカの世界戦略」で、前の2冊はしっかり読んだ。とても勉強になった。

そのうちにブログとメルマガを立ち上げ、5000人の読者(当時は300人ほど)を持つメルマガ「頂門の一針」にも投稿させてもらえるようになり、自称ネトウヨの素人としてはまあまあ語ることができるようになった。

入江先生や「頂門」主宰者の渡部亮次郎氏が小生の背中を押してくれたのだ。夏彦翁についてはミニコミ誌に「翁と同時代に生きることができるのは幸いである」と書いたら謝意が届いた。

これからも勉強して中共やら反日左翼を叩き続けなければならない。天職だと思っている。

■12月25日(金)、朝は室温13度あたり(洗濯物を乾かすためにエアコンをかけていたので18度だったが)、晴、ハーフ散歩。

体調はかなり良くなったとは言え、ちょっと頑張ると横にならざるを得ない。昨日、ベランダのガラス磨きをした後でうつらうつら昼寝をしていると、散歩から帰ったゼロ歳と3歳の孫娘が懸垂器で遊び、長男夫婦が会話をしていた。

「元旦の“旦”は海から日が昇るという目出度い字だ。今度の子の名前には“旦”を使おう。“直旦”(なおたん)はどうか」「“直旦郎”(なおたろう)のほうがいいんじゃない?」

3人目、それも男の子を産む決意をしたようだ。結構なこと。今は再び「産めよ殖やせよ」の時代思潮があるから、公務員からぼんぼん産むといい。長男夫婦は都庁職員。産む環境は民間よりずっといい(民間が遅れているということ)。親父を越えて4人目を創ったら褒めてやろう。祝い金は100万円だ。

小生は来年あたりに逝きそうだ。酒とバカの日々。分かっちゃいるけど止められない。自業自得。まあ、やるべきことはやったから仕方がない。メルマガ「あの世通信」は面白そうだ。宇宙ステーションから地球の細部、夫婦の寝室までを覗いて現認報告するのである。「オランドはしつこい。プーチンは意外に淡泊、習近平はED、オバマは枯渇」とか。大いに楽しみだ。

■12月26日(土)、朝は室温14度、快晴、抜けるような青空、フル散歩。

夕べは2歳女児の体調不全で集団的子育て。シーツ2枚を含めて結構な洗濯物。風もあるし温かいから夕方にはパリパリに乾いているだろう。

Xマスが終わったので花屋の店先からポインセチアが消え、シクラメン、パンジー、三色すみれ、花キャベツなどが妍を競っている。今年もいよいよ大晦日になる。

わが家の10大ニュースの筆頭は「愛犬トト逝く」だ。2日ほど寝込んで逝ってしまった。17歳と1週間、人間で言えば95歳ほど。GNPでまったく親孝行な娘だ。思い出すと泣きたくなる。

読者のMOMOさんからメール。「塩野七生さんは60年安保の時、学習院の学生で、国会突入の最前列にいたそうです。後ろには慶応。デモから帰ったら父親が玄関の前で待っており張り倒されたそうです」

ウィキにはこうあった。

<塩野 七生(しおの ななみ、女性、1937年7月7日 - )は、日本の歴史作家である。名前の「七生」は、7月7日生まれであることに由来。(平井:本名は「ななお」らしい)

東京市滝野川区(現・東京都北区)生まれ。東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。日比谷高校時代は庄司薫、古井由吉らが同級生だった。

1963年からイタリアで学び、1968年に帰国すると執筆を開始。『中央公論』掲載の「ルネサンスの女たち」でデビュー。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。同年から再びイタリアへ移り住む。ローマ名誉市民を経てイタリア永住権を得ており、ローマに在住。

父親は詩人・小学校教師の塩野筍三(1905-84)で、神田神保町の古本屋から軒並み借金をするほどの読書好きであった。

フィレンツェ大学医学部に勤務していたイタリア人医師と結婚(後に離婚)。息子アントニオ・シモーネとは共著がある>

小生より14歳年上の60年安保世代か。小生は70年安保世代、71年には中核派の兵隊として三里塚でお縄を頂戴し、人生を遠回りしてしまった。それにしてもカミサンは余程のゲテモノ好きで、「なんで10年裁判を抱えていた俺を選んだんだ?」と聞いたら、「アンタといれば一生退屈しないと思ったのよ」。

岳父は奄美大島で土建会社を起こして成功したが、隣の徳之島出身の小結・旭道山(あだ名は「南海のハブ」)のように腕っぷしが強く、村対抗の相撲大会や運動会では秋名村のエースだったという。

いささか乱暴者で、カミサンが生まれたときには警官を追いかけ回して留置場に入っていたと聞いたことがある。趣味はイノシシ狩りで、酔って口論となり、猟銃をぶっ放して天井に穴を作ったとも聞いている。

マンガ「じゃりン子チエ」の父親みたいなイメージだったが、カミサンは喧嘩を厭わない体育会系のマッチョ風の男に抵抗感がなかったのかもしれない。昔、機動隊員と付き合っていた女友達が「男は“気は優しくて力持ち”が一番」と言っていたが、機動隊員と別れた後はヤクザと付き合っていた。そういう趣味の女は結構いるのかもしれない。なんか任侠道とか極妻、演歌の世界みたいだ。

カミサンは剣道4段だから岳父譲りの体育会系の血が流れているのかもしれない。長男は剣道三段、キン肉マンのようなムキムキのマッチョ、消防官だ。小生は公務執行妨害罪、威力業務妨害罪、凶器準備集合罪の前科3犯。どちらかというと武闘派だ。もうパワーはないけれど。

塩野七生氏の「マキアヴェッリ語録」から。

<武装する預言者が勝利を収めることができるのであり、反対に、備えなき者は滅びるしかなくなる。

祖国の存亡がかかっているような場合は、その目的にとって有効ならば、いかなる手段も正当化される。この一事は為政者に限らず、国民の一人一人に至るまで心しておかねばならないことである。

事が祖国の存亡を賭けている場合、その手段が正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞讃されるものか恥ずべきものかなどについて、一切考慮する必要はない。

なににもまして優先すべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである>

中共殲滅、支那解放へ! IS絶滅、中東に平和を! 西側世界の武闘派、団結せよ! 来年も忙しくなりそうだ。(2015/12/26)

◆大村智教授、一期一会のノーベル賞

伊勢 雅臣



「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志が、多くの人々の助言、助力を呼び寄せた。


■1.「自分も学び直そう」

大村智(さとし)が東京・墨田区の夜間高校で物理と化学の試験を監督している際、ふと目にしたのは、一人の生徒が鉛筆を握っている手の指に油がこびりついている事だった。

改めて生徒たちの姿を見ると、洋服の所々に油をにじませている生徒もいる。昼間は働き、夜はこうして勉学のために登校してくる。大村は改めて、その姿に感動した。

大村は自分の高校生時代の生活を思い出した。裕福な農家の長男として生まれ、何一つ不自由なく過ごした高校時代は、勉強などしないでスキーや卓球に明け暮れていた。高3の2学期からは受験勉強をしたが、大学に入ってからも、勉強に打ち込んだ覚えはない。

昼は油にまみれて働き、夜はこうして必死に勉強に取り組んでいる夜間高校の生徒たちを見て、自分はもっと何かをしなければ済まないという気になった。大村は胸の奥から湧き上がるようなエネルギーを感じた。「自分も学び直そう」。


■2.信条は「一期一会」

今年のノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智・北里大特別栄誉教授が研究者への道を歩み出したのは、この瞬間だった。

大村は、12月7日、ストックホルムでの受賞記念講演で、信条として きたのは「一期一会(いちごいちえ)」だと語った。茶会に臨む際に「一生(一期)に一度の出会い(一会)と考えて、真心を尽くせ」という茶道の心得である。

この夜間高校での生徒たちとの一期一会の出会いで、「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志を抱いた事が大村が研究人生を踏み出すきっかけとなった。この時に「生徒たちも頑張っているな」という程度の思いで終わっていたら、今回のノーベル賞もなかっただろう。

その後の大村の研究人生も、この初志を遂げるために様々な人々との出会いを大切にし、それらの人々に導かれ、助けられて、ついにはノーベル賞に至ったのである。


■3.出会った人々の助言助力で研究者の道に

夜間高校の教師から研究者への転身の過程でも、大村は出会った様々な人々に導かれた。

教師となって2年目の春、山梨の実家に帰った時、大学時代の恩師を訪ね、学び直したいという決意を伝えると、学者仲間の東京教育大学教授の小原哲二朗を紹介してくれた。小原への紹介状を得て、その講義を聴講するようになった。

小原の研究室に出入りしているうちに、大村が夜間高校の教師をしながらも、本格的に化学の研究をしたいという希望を持っていることから、有機化学の分野では世界的に知られている東京理科大学の都築洋二郎の研究室に大学院生として入るのがいいのではないか、と勧められた。

その勧めに従って、ドイツ語などを猛勉強し、東京理科大学の大学院修士課程に入学したのは、昭和351960)年4月だった。昼は大学院で勉 強、夜は高校の教師、週一日の高校の研究日を金曜日として、金土日の3 日間は大学で実験をする、という生活が始まった。

都築の研究室では、核磁気共鳴(NMR)を応用して有機化合物の構造を調べるという、当時の最新技術を研究する幸運に恵まれた。ただし、NMR装置は当時、東京工業試験所に1台あるだけだった。人づてで、この装置を夜間だけ使わせて貰う、という許可を得て、徹夜の実験を繰り返した。

研究室では、細かな指導は講師の森信雄から受けた。森は大村を弟分として可愛がり、実験のやり方から論文の構成まで面倒を見た。徹夜でNMR装置を使って集めたデータをもとに、森の指導を受けながら、最初の研究論文をまとめた。

都築は「日本語で論文を書いても外国人は読めないから実績として認めないし、研究成果も正当に評価してもらえない。論文は必ず英語で書きなさい」と指導していた。それで論文は英語で書いて、学会の欧文誌に投稿しようということになった。都築の教えを守って、大村はその後に発表した11100編近くの論文の95%を英語で書いた。

こうして大村は研究者の道を歩み始めた。その過程で、出会った人びとは大村のために助言・助力を惜しまなかった。大村の「自分はもっと何かをしなければ済まない」という真剣な志ちが伝わったからだろう。


■4.「だったら世界を目指せばいいじゃないか」

大学院修了の目処がついた頃、山梨大学の助手としての採用も内定した。父親は大村が地元に帰ってくることには喜んだが、秘かに将来を心配し、山梨でも学識のある偉い先生に相談にいった。

大村の経歴を見た先生は「この経歴だったらあまり将来性がない。せいぜいよくても大学の講師どまりだろう。このまま高校教師を続けて、将来は校長にでもなればいいのではないか」と言った。

父親は大村にその意見を正直に伝えた。大村は思った。「日本では講師どまりかもしれない。だったら世界を目指せばいいじゃないか。その方がやりがいがある」。

昭和38(1963)年4月、大村は山梨大学工学部発酵生産学科の助手とし て赴任した。しかし東京で最先端の研究をしていた大村にとっては、ここでの研究は手応えがなかった。そこに東京の北里大学樂学部で化学の研究員を一人募集しているのが、どうか、という話が持ち込まれた。

条件は大学新卒者と同じということだったが、大村は「やります」ときっぱり返事をした。


■5.北里柴三郎の「大医は国を治(ち)す」

昭和40(1965)年4月から、大村は北里研究所での勤務を始めた。この 研究所は、近代日本が生んだ傑出した医学者・北里柴三郎が創設したものである。大村は北里柴三郎の業績を調べてみて驚いた。各種の資料を読めば読むほどその偉大さに敬服し、深く傾倒していった。

北里柴三郎は明治18(1885)年、ベルリン大学の主任教授ロベルト・ コッホのもとに派遣され、研究に打ち込んだ。日本が開国して間がないので、祖国の名を欧米に高めようと、「世界的な学者になるつもりで勉強している」と語っている。

やがて世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を開発した。共同研究者のベーリングは第1回のノーベル生理医学賞を受賞したが、北里は惜しくも逃した。

北里の名声は欧米に広まり、いくつもの有名大学から誘いを受けたが、断固として断り、帰国した。明治天皇から「帰朝の上、我が帝国臣民の概病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり」とその理由を述べている。帰国後は北里研究所を創設して、ペスト、赤痢の病原菌の発見など世界医学史上に残る研究業績を上げつつ、伝染病患者の治療、各県の衛生担当者の教育、免疫血清の製造と、大車輪の活躍をした。「大医は国を治(ち)す」が北里の若い頃からの志だったが、それを見事に実現した一生だった。[a]

大村のその後の歩みはまさに北里の足跡とよく似ている。北里との出会いが大村に指針を与えたのだろう。


■6.ティシュラー教授の誠意に打たれて

大村は北里研究所で次々と成果をあげていった。他大学や企業からも誘いの声が掛かるようになったが、化学、薬学、医学、細菌学などにまたがる学際的な研究のできる環境に満足していたので、誘いはすべて断った。

安月給で、研究用の材料を自腹で買ったり、部品は自分で手作りするなど、待遇は不十分だったが、研究のやり甲斐を感じていた。

東京大学から薬学博士号も授与され、昭和44(1969)年、34歳にして 助教授に昇進した。周囲からアメリカへの研究留学を勧められ、大村は自 分を売り込む手紙を5つの大学に送った。

驚いたことに、すぐに電報で週給7千ドルで客員教授として迎えたいという返事が、東部の名門ウェスヤーレン大学のマックス・ティシュラー教授から来た。英文で多くの論文を発表していた大村の名前はアメリカでも広まっていて、他の大学からも手紙で返事が来た。なかには週給1万5千ドルなどという誘いもあった。

しかしティシュラー教授の誠意に打たれて、週給では最低だったが、ウェスヤーレン大学を選んだ。ここからノーベル賞への道が開けていく。

大村がウェスヤーレン大学に着任した時、ティシュラー教授はすでに化学界のボス的存在で、大物研究者が次々と訪れてくるのに、大村は驚くばかりだった。しかもティシュラー教授は彼らに大村を自分の同僚として紹介した。

そんな形で紹介された研究者の一人が、大村をさらにハーバード大学のコンラッド・ブロック教授に紹介してくれた。ノーベル生理医学賞を受賞した権威である。大村が当時、勧めていた研究を説明すると、ブロック教授は身を乗り出さんばかりの興味を示し、共同研究を進めよう、ということになった。

ブロックはハーバード大学でも大村のためのデスクを準備し、大村も積極的に訪問するようにした。この積極性でアメリカでも一期一会の縁を生かしていった。


■7.「泥をかぶる研究」をチームで

2年間のアメリカでの研究留学を終えるのに際し、大村は北里研究所から頼まれていた約束を果たした。アメリカの企業から研究資金を得る、という依頼である。

ティシュラー教授が、かつて務めていた世界第2位の医薬品企業メルク社に口利きをしてくれたので、提携交渉も順調にいった。年間8万ドル(当時の円換算で2千400万円)の研究費を出してくれ、共同研究で得られた特許はメルク社が保持するが、北里研究所にロイヤリティを払う、という内容である。

大村の考案した研究アプローチは、微生物が生み出す化学物質の中から人間に有用なものを見つけるというものであった。日本では伝統的に味噌、醤油、酒など、微生物を活用した発酵食品が発達しているが、その延長線上にあるアプローチである。

1グラムの土壌の中には1億個もの微生物がおり、そこから特定の微生物を取り出しては、その化合物を調べる、という、大村自身が言う「泥をかぶる研究」を進めていった。

特定の微生物を分離する人、その化合物の 構造を調べる人、化合物の働きを評価する人など、それぞれの人が縁の下 の力持ちとなって、共同研究を行う。

大村はこうした共同研究体制は日本人の方が向いていると考えていたが、さらに一人ひとりの研究員によく配慮することで、チームを引っ張っていった。

こうして、ある微生物が産出する物質で、寄生虫退治に劇的な効果を持つものが発見された。エバーメクチンと命名されたその物質は、皮膚にダニが棲みついた牛にごく微量を投与するだけで、きれいに治ってしまった。

この薬は動物薬としてメルク社から販売されると、その後、20年間も動物薬の売上げトップを続け、そのロイヤリティで北里研究所には200億円以上もの研究費がもたらされた。


■8.「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」

動物の寄生虫退治に劇的な効果をもつエバーメクチンを人間の疾病にも使ってみよう、という事から、オンコセルカ症の治療薬として「メクチザン」が開発された。オンコセルカ症はアフリカの熱帯地域に広まっている感染症で、小さなブヨが人体を刺して吸血する際に、寄生虫を移す。その寄生虫が眼の中に入って患者を失明させる。世界で年間数千万人がオンコセルカ症に感染し、失明や重度の眼病にかかる人は数百万人と推定されていた。

それが年に1回、メクチザンの錠剤を飲むだけで、寄生虫の幼虫はきれいに死滅してしまう。メルク社はこのメクチザンを世界に無償提供することとし、大村もロイヤリティを返上した。

メクチザンは1987年から使用されはじめ、現在では年間2億人ほどの人々が服用している。WHO(世界保健機構)の発表では、西アフリカ諸国でメクチザンによるオンコセルカ症制圧に乗りだし、それによって約4千万人が感染から逃れ、60万人が失明から救われたとしている。

このプログラムにより、2020年にはアフリカ全土でオンコルセンカ 症は制圧できる、という見通しが立った。

この業績に、2001年のノーベル化学賞受賞者・野依良治氏は「大村先生は多くの人を感染症から救った。医学生理学賞を超えて平和賞がふさわしい」と語っている。[2]

大村教授はノーベル賞受賞式に旅立つ前に、大学院時代を過ごした東京理科大で講演し、成功の秘訣を「出会いを大事にすることだ。つきあいを大事にする人としない人では大きな差が出る」、「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」と述べた。

大村の偉業は、多くの人々に導かれ、助けられ、支えられて、成し遂げられた。まさに「一期一会」の精神で、多くの人々との出会いを大切にしてきたからだろうが、その姿勢も「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志に支えられていたのだろう。

そういう志を持っていればこそ「袖触れ合う縁」を生かせる。そして、そういう人には世間も助力を惜しまないし、天も必要な時に必要な人に出会わせてくれるのだろう。



■リンク■

a. JOG(463) 北里柴三郎 〜 大医は国を治(ち)す
 医の真道は人民の健康を保ち、その業を務めしめ、もって国家を興起富強ならしむるにあり。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog463.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 馬場錬成『大村智 - 2億人を病魔から守った化学者』★★、中央公論新
社、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4120043266/japanontheg01-22/

2. SANSPO.COM「野依氏、大村氏をたたえる『幅広い貢献は平和賞がふさわしい』」
http://bit.ly/1OpWx9Q 

                  

◆ジャポニズムと同じ運命をたどる

渡邊 啓貴



底が浅い「クールジャパン」はジャポニズムと同じ運命をたどる …

筆者は今春、フランスのボルドー政治学院で日本政治について講義をする機会があった。ほかの集中講義よりも登録学数数が多く、出席学生は熱心であったが、課題レポートの半数近くが文化外交についてであったことには驚いた。世界に誇るフランスワインの本場で、日本通であることを自負する学生も数多くいて、筆者に話しかけてくる。彼らにとって、日本は伝統文化と近代科学技術を併せ持ち、文化外交に成功した国として理想的な国ということのようであった。

その反面、我々が考えるほどにはかれらはフランスの文化外交が成功しているとは考えていない。フランスが誇る奢侈品や装飾品は古色蒼然たるイメージのコマーシャリズムにしか見えないのである。決して「クール(かっこいい)」ではないのである。

しかし確かに往時の勢いはないが、我が国をはじめとして世界中どこにでも、フランス文化の愛好家は多い。世界に根付いた文化であり、フランスの文化産業は依然として一定のシェア率を誇っているといってよい。

■日本文化普及の突破口としての「クールジャパン」

こうした海外の若者たちが日本に関心を持つ切掛けは、マンガ・アニメ・ゲーム・DVDなどであることが多い。

パリ郊外で毎年開催されるJ-Popの祭典「ジャパン・エクスポ」は、日本のポップ・カルチャー大ファンの三人の仏人が最初は小学校の教室を借りて立ち上げたイベントであったが、今や今年で16回目を数え、25万人もの人々を集める世界最大の日本文化関連イベントとなっている。

各種マンガ・アニメのブースや日本の若者向けファッション、コスプレーショー、ポップコンサートなど大変な賑わいである。私はこの種のイベントを「夏祭り参加型イベント」と呼んでおり、日本の海外イベント展開の一つのパターンであると考える。

「ナルト」や「ワンピース」は世界中で大人気である。ワインのマンガ「神の雫」はフランスとイタリアのワインの蘊蓄を傾けたものだが、これも仏語訳で良く読まれている。

青年層を中心にJ-Popの浸透振りは驚くばかりであるが、それを切り口に日本社会や歴史伝統文化に関心を広げる人々の裾野も広がっている。

今から7年前の日仏外交樹立150周年記念の年、その一年間だけで大使館に登録された記念文化事業の数は758件に上った。平均して一日2件フランスのどこかで日本関連の文化事業(の式典)が開催されていたことになる。柔道人口が世界最大の国は60万人の「ジュードーカ(柔道家)」を擁するフランスであることはつとに有名である。

鎧兜は昔から人気があるが、武具を着けた剣道も徐々に普及しつつある。

日本人街ともいわれるオペラ座界隈の日本料理店、とくにてごろな値段日本ラーメン屋ではフランス人の若者が客の大半である。彼らはラーメン餃子や半ちゃんラーメンとビールで盛り上がっている。

その意味では、「クールジャパン」は日本への関心と日本ファンを育成することに大きく貢献したことは確かである。

■国家ブランド「ジャパン」-日本の好イメージ-信頼できる国、日本

さて人気上々は結構なことだが、この「クールジャパン」の効用は、どんなところにあるのであろうか。ひとつは経産省がバックアップする「クールジャパン機構」をはじめとする文化産業の貿易振興という経済効果、もうひとつは日本文化ファンの増加にあやかった対外広報文化活動の活性化、というふたつの方向である。

「クールジャパン」とは、ダグラス・マックグレイが2002年に発表した論文GrossNational Cool の中で、日本の文化的潜在力について論じたときに使った表現である。

バブル崩壊以後経済的に後退する日本経済とは裏腹に、ポップ・カチャーの面で日本は世界に大きな影響力を及ぼし始めた、と論じたのである。

しかし今日一般に使われている「クールジャパン」という表現は、そのような意味に限定されない。より伝統的な日常生活の側面も含む広い意味での表現である。華道・茶道が伝統文化といってもかつては「禅」の生活習慣の一部であり、「花嫁修業の必須科目」であったのだから、「ポップ」であった。文化とは発祥の段階ではポップであったという主張はよく聞かれる主張である。後で述べるが、「クールジャパン」とは何かというコンセプトの問題はやはり改めて問い直されるべきであろう。

いずれにせよ国際的な日本人気は上げ潮であり、これを利用しない手はない。国家のイメージは、その国の総合力の反映である。「国家ブランド指数」というものがある。対象国の「文化」、「国民性」、「観光」、「輸出」、「統治」、「移住・投資」の6つの分野を指数化したものである。

それによると2014年のトップはドイツ、二位は前年一位だったアメリカ、日本は6位である。日本は大体5-6位にランクされる。また、ブランド・コンサルティング会社のフューチャーブランドが、17ヶ国の頻繁に海外を旅行する旅行者を対象にした調査「国別ブランド指標」では日本は2010年の6位から2014-15年には1位になった。またBBC(読売)の調査による「世界によい影響を与える国」として日本は昨年5位(1位はドイツ)、一昨年は4
位の地位にあった。2012年にトップとなったこともある。

いずれも日本が、多様な文化と長い歴史をもち、最先端の科学技術と世界第三位の経済力を擁するだけでなく、最近では観光立国をめざして富士山、和食の世界遺産登録を追い風に「安定した信頼できる国」としてよいイメージを世界に与えていることを示している。

■試練に立たされている「クールジャパン」

しかしこのよいイメージの実態を私たちはまだつかみきれていないし、自ら世界に説明し得ていない。そのための言葉も持っていない。たしかに「禅」の発想を起点とする近世以後の日本文化は語るべき文化ではなく、
感じとる文化である。

よく言われるように、前後の成り行きで、語らずとも感得しうる、いわば「ハイコンテクストカルチャー」である。「インワード戦略」で観光客の増員を図り、来て見てもらって日本を理解し、観光収益もあげたい。その意図はよく理解できる。

しかし日本にきて何を理解してもらい、日本の何を「買ってもらう」のか。かつて19世紀後半から20世紀初めにかけてジャポニズムという美術・芸術部門を中心とするブームがあった。浮世絵から印象派が大きな影響を受けたように、世界的に多くの痕跡を残したが、今ジャポニズムが一般的に語られることはない。「クールジャパン」も同じ運命をたどりはしないか。

クールジャパン戦略推進会議やクールジャパン機構などが、コンテンツ、ファッション、日本食、デザイン、ハイテクなどを切り口に、対外的な日本製品の普及と好イメージの拡大に努めている。しかし、気になるのは、それらの戦略が長期的な展望を持ったものであるかということである。

「受けるから売り出す」ということでは真の発信にはならないし、それではいつまでたっても世界の潮流の中で浮き沈みするだけだ。「他律依存型」の日本外交の実態でもある。

「クールジャパン」と称してはいるが、それは単に日本人の独善的な自己解釈にとどまっている部分もありはしないか。「おもてなし」という言葉にしても、それが肌理の細かい配慮のある接待の仕方であるという以外に、どこまで外国の人達に「ジャパン」をイメージさせることができているだろうか。それが「日本流」の心遣いと様式を持っている独特なものであるということは来て感じてもらうことはできても、普遍的な理解の広がりには限界がある。

温泉や伝統文化の紹介も異国情緒、物珍しさを超えて日本文化の本質をどこまで伝えているものだろうか。フランスでのフランス人ジャーナリストによる温泉キャンペーンの会合に出席したことがある。

温泉旅館では、なぜ女将が入り口で三つ指をついて迎え、部屋に入ると浴衣に必ず着替える。なぜなのか。庭をおもむろに散策し、風呂や食事が終わり、部屋に戻ると寝床が整っている。なぜなのか。

そのジャーナリストはいちいち説明するのである。私たちには説明できない。それが習慣だからである。しかしそれだけでは単に「珍しい」「面白い」で終わりだ。

それも各自の主観以外のものではない。そうではなく、きちんと説明する言葉を持つことで、日本の「おもてなし」という言葉が広く普遍的に理解されるのではないか。どこがほかの国と違うのか。独善におちいることのないコンセプトと言葉・表現なしには、「クールジャパン」はかつてのジャポニズムと同じ運命をたどるであろう。

それは日本からのメッセージである。思弁的な議論のようにも見えるが、やはり本質の見えない事象はいずれ底の浅さを露呈する。畏敬や尊敬を生まないからである。それでは長続きしない。

■どんな仕掛けが必要か

そのための仕掛けについては、商品開発などの技術的な側面だけでなく、対外政策・国際交流面での仕掛けが必要であろう。それこそ文字通り「オール・ジャパン」の戦略が必要だ。

それについては紙幅上ここで論じる余裕はないが、知的交流、日本の普及と、それにともなう発信内容の発展など課題は多い。

たとえば、観光大国であるフランスでは、最近フランス観光開発機構が観光基盤会議を立ち上げ、行動計画を策定した。名勝旧跡はもちろん自然資源を生かす山岳地帯の観光という地理的環境、長期滞在型の伝統的生活を楽しむ(スローツーリズム)というような余暇の時間、さらに夜のツーリズムという非日常性などという概念的な多様性に配慮した計画設計が行われた。

同時に、贅沢感や高級感を売り物にしてきたフランス文化は依然として多くの人々にとって敬意や憧憬を持つ対象であるが、その振興策にはやはりそれなりの仕掛けが見て取れる。

たとえばフランスは高級な装飾品のブランドをたくさん持ち、それがフランスのイメージの高級感を生み出している。かつてフランスは、こうした高級装飾品をヨーロッパの王侯貴族に販売した。その装飾品のカタログは、図柄の入った豪華本の装丁で、しかもフランス語で書かれていた。

そのカタログを読むにはフランス語の能力必要であり、そのカタログを通してフランスの豪奢なイメージが自然と伝わると同時にフランス語を理解することが社会的地位の象徴ともなる。

そこにはコンセプト、それを伝えるための手段、そしてターゲットが明白であることがわかるであろう。すでにフランス人の若者が「賞味期限を失った」と考えているフランス文化を過大に持ち上げるつもりもないが、そこには今後の日本の対外的文化発信と文化産業振興を考える鍵が隠されているように思う。

渡邊 啓貴

1954年生まれ。1978年、東京外国語大学外国語学部フランス語学科卒業、同大学院地域研究研究科修士課程修了、慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了、パリ第1大学大学院博士課程修了、京都外国語大学助教授などを経て、東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授・国際関係研究所所長。高等研究院(パリ)・リヨン高等師範大学院・ボルドー政治学院客員教授、ジョージ・ワシントン大学客員研究員、日仏政治学会理事長、在仏日本国大使館公使、『Cahiers du Japon』『外交』編集委員長などを歴任。

著書は『ミッテラン時代のフランス』(芦書房)、『フランス現代史』(中央公論新書)、『ポスト帝国』(駿河台出版)、『米欧関係の協調と対立』(有斐閣)、『フランスの文化外交戦略に学ぶ』(大修館書店)、『シャルル・ドゴール』(慶応義塾大学出版会)、『現代フランス?栄光の時代の終焉、欧州への活路』(岩波書店)、『アジア共同体を考える』
(編著、芦書房)など多数

産経ニュース【iRONNA発】2015.11.17
                 (採録:松本市 久保田 康文)


◆自民党歴史勉強会に託される課題

櫻井よしこ


歴史のとらえ方ほど、各国、各人の間で合意し難いものはない。にも拘わらず中韓両国は日本に「正しい」歴史認識を持てと要求し続け、「正しく」歴史に向き合えば謝罪は当然だと言い募る。
 
ロサンゼルス発で『産経新聞』が、重慶爆撃を題材にした中国映画の完成を伝えた。監督は中国人、俳優陣には「ダイ・ハード」シリーズに出演したブルース・ウィリス氏、「リーサル・ウェポン」のメル・ギブソン氏ら人気者が顔を揃えている。シルベスター・スタローン氏も続編に名乗りをあげたそうだ。
 
映画製作者は作品の意図をこう語っている。「重慶爆撃に関して正しい歴史を思い出させ、次世代に文化的遺産として残す」。
 
製作には実に5年かかっている。習近平指導部は「抗日戦争勝利70年」で日本軍の残虐さを世界に発信すべく、年内完成に拘ったという。
 
一方、米国の反日政治家、カリフォルニア州選出の民主党下院議員、マイク・ホンダ氏も加わって、「性奴隷制の犠牲者のための国際議会連合」も創設された。委員長を務めるカナダの上院議員も、ニュージーランドの議員も韓国出身で、さらに韓国の現職議員も加わった「国際議会連合」は、国際組織というより韓国の対日歴史戦のための組織である。
 
中韓両国の対日歴史戦に対して、わが国は歴史の事実を具体的に発信するしかない。折しも自民党が立党60周年に「歴史を学び未来を考える本部」を自民党総裁直属の勉強会として、正式に発足させた。本部長に谷垣禎一幹事長、事務総長に中曽根弘文元外相が就任した。旗振り役を務めた稲田朋美政調会長が本部長代理である。稲田氏が語った。

「自民党として、初めて歴史を学ぶ場を作りました。日本の歩んだ道に関して、歴史の事実は何だったのかを学ぶことが目的です。本当の日本を取り戻すためにも必要です」
 
この勉強会を東京裁判批判だと反発する声もあるが、稲田氏はそのような見方を強く否定する。

「一定の歴史観を形成するためでは全くありません。本部長の谷垣幹事長のほか、アドバイザーは山内昌之明治大特任教授、オブザーバーに社会学者の古市憲寿さんもいます。この陣容は、むしろリベラルな印象を与えるかもしれません」

激しい歴史戦
 
確かに、加藤紘一氏の側近だった谷垣氏は党内リベラル派であり、山内、古市両氏も保守人脈というより穏やかなリベラル派といってよいだろう。世論を瀬踏みする現在の自民党の姿勢が滲んでいる人選である。
 
会合は12月中に1度、来年からは月2回程度開き、約1年で日清戦争以降の近代史を学ぶという。
 
学校でも家庭でも歴史を教えてこなかった戦後日本ならではの試みであろう。だが歴史を学び、日本の足跡を理解し、その成果を外交に反映させるのは重要なことだ。稲田氏は、勉強会はマスコミにも開放し、結論のまとめはしない予定だという。

「客観的事実を学ぶことが目的です。その結果、どのような歴史観を形成するのかは個々の政治家の判断ですから」と、稲田氏。
 
選良たちには是非、隣国が歴史をどのように教えているかも一緒に学んでほしい。中韓両国の日本に対する歴史戦の激しさの背景には、とんでもない歴史教育がある。とりわけ中国の歪んだ歴史教育は、将来、今以上に深刻な影響を及ぼしかねない。
 
ユネスコの世界記憶遺産に登録されてしまった「南京大虐殺」についての中国側の主張の骨格は、H・J・ティンパーリーの著作に基づいている。彼は英「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者の触れ込みで活動していたが、国民党国際宣伝処の雇われ外国人であったことは、周知である。
 
国民党に買収されて日本軍の「蛮行」を喧伝したそのティンパーリーでさえ、南京で「大虐殺」があったとは書いていない。彼と交友のあった金陵大学歴史学教授のベイツもまた、ティンパーリーへの手紙の中で、日本軍が南京で行ったことは「テロ」即ち組織的暴力だったという確証はないと書いている。にも拘わらず、中国はティンパーリーをはじめとする第三国の言論人や研究者を雇い、巧みに利用し、30万人大虐殺説を作り上げた。
 
中国の捏造は日本との歴史だけではない。シンクタンク「国家基本問題研究所」は、かつて専門家と共に約1年かけて中国と周辺諸国との関係を、歴史を遡って研究した。『対中国戦略研究報告書』としてまとめた研究を通して、中国が全ての国との歴史を捏造してきた事実が判明した。国基研の研究は、中国が国境を接する14の国・地域との関係に的を絞ったが、国境を接していない米国との関係も中国は捏造している。

『百年マラソン』の著者で中国問題の専門家、マイケル・ピルズベリー氏は1989年6月4日の天安門事件を境に、中国共産党はアメリカを危険な覇権国と見做し始め、徹底的に歴史を改竄し始めたと書いている。

反中国の首謀者
 
中国の歴史教科書を徹底的に調査した氏は、内容が90年以降あからさまに書き改められたこと、今では中国の若い世代が、アメリカは170年にわたって中国の支配を目論んできたと信じている、と断じている。
 
たとえば、中国の教科書ではリンカーンは反中国の首謀者で、冷厳で残忍な帝国主義者として描かれている。比較的穏当な主張で知られる中国の学者に、人民大学の国際関係学教授、時殷弘氏がいる。氏は著書『米国の対中姿勢と中国の国際社会への入り口』で、「リンカーンは中国が国際社会の中で支配され、搾取されることさえ望んだ」と書いている。氏の冷静な論文を読んできた私にとって、この記述は驚きだった。中国ではこのように書かなければ、教授としてやっていけないのかという暗い気持ちにもなる。
 
1900年の義和団事件について、中国の教科書には「米国が他の国々をだまして中国を攻撃させた」と書かれているそうだ。
 
義和団事件では清国駐在武官だった日本の柴五郎が大活躍した。日本人の沈着冷静な戦い振りが注目された事例でもあり、義和団事件の詳細に通じている日本人は少なくない。従って、米国が日本を含む各国をそそのかしたなどという主張は、日本ではおよそ誰も信じないが、中国ではそう教えているのである。
 
朝鮮戦争も米国が仕掛けた戦争として教えられている。この件について中国の学者になぜかと問うと、朝鮮戦争については歴史の真実はまだ定まってはいないという言葉が返って来た。中国の歴史捏造には限りがないのである。
 
日本の選良たちはこうした事例も学び、中国及び韓国の歴史捏造に関して深く理解し、国際社会にも警鐘を鳴らし続けなければならない。

『週刊新潮』 2015年12月10日号日本ルネッサンス 第683号

2015年12月27日

◆米大統領選 本命は共和党ルビオ

加瀬 英明



11月にワシントンで、5日過した。

1年後の大統領選挙へ向けて、民主党はヒラリー・クリントン夫人が独走しているが、共和党は素頓狂なドナルド・トランプが先頭に立って、もう4ヶ月も競っているのに、大混乱状態である。

私はワシントンに40年も通っているが、アメリカがこんなひどい混乱に陥っているのは、はじめてだ。アメリカが方向を見失っている。

 オバマ大統領がリーダーシップを欠いているために、支持率が低落している。ふつうなら同じ党が政権を2期つとめれば、よほど実績がないかぎり、飽きが手伝って交替するものなのに、共和党がこんな体(てい)たらくでは、アメリカの行く先が五里霧中だ。

予想が外れるのを覚悟して、大胆な予想をしよう。

69歳の不動産王のトランプは、歯に衣(きぬ)着せぬ放言にもかかわらず、共和党のレースの首位を保っている。トランプの演台の前には、「ザ・サイレント・マジョリティ・スタンズ・アップ・ウィズ・トランプ」と書かれている。中央政界に倦んでいるブルーカラー層の高い人気を博している。

おそらく来年2月に予備選挙が始まっても、首位グループに加わっていようが、2月か3月になっても、支持率が25%あたりに留まって、脱落するだろう。

いま、1ダースあまりの候補が競っているが、次々と篩(ふるい)にかけられて、マルコ・ルビオとテッド・クルーズが残る。2人は上院議員で44歳の若さだが、ルビオが7月のリリーブランド共和党大会で、大統領候補指名を獲得することになると思う。

このまま行けば、ヒラリーが7月のフィラデルフィア党大会で民主党候補に選ばれよう。ヒラリーは“嘘つき”のイメージが強いが、独走している。民主党大会の代議員の54」%が女性だ。

クリントン対ジェフ・ブッシュの2人の金権候補の大統領選挙戦となるとみられていたが、ブッシュは発言に精彩をまったく欠くために、落伍してしまった。ヒラリーは夫のビルとともにクリントン財団など、金粉に塗(まみ)れている胡散臭さがあるが、司法の手が入ることがなかろうから、支持者は目を瞑(つむ)ろう。

私はルビオ対ヒラリーの戦いとなって、ルビオがホワイトハウスを射止めると思う。

私の予想が外れたら、なぜ外れたのか、大統領選後の本欄で説明したい。

アメリカの中国観が、9月の習近平訪米を境にして、一変した。それまではマスコミが中国を指して、フレンドとエネミーを合成したfrenemyという新語を使っていたが、戦略的競争相手(ストラテジック・コンペティター)に変わった。

習主席はオバマ大統領が会談で、南シナ海からサイバー・セキュリティまで、問題にしたのにもかかわらず、聞く耳を持たず、木で鼻を括(くく)ったような返事しかしなかったので、アメリカ国民をあきれさせた。

オバマ大統領は軟弱で、腰が引けている。中国が南シナ海で埋め立てた岩礁の“領海”内に、イージス艦を派遣したが、直線に航行したので、それでは国際法で軍艦に認められた「無害航行(イノセント・パセジ)」だと批判されたために、慌ててB52爆撃機に、岩礁の上空を飛行させた。

でも、習さんは苦労して埋め立てたのに、軍用機や、ミサイルを配備できない。地下に掩体や、発射筒を造ったら、海水浸しになる。



◆中国国内の武器市場も肥大化

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)12月26日(土曜日) 通算第4761号>  


 〜中国国内の武器市場も肥大化、大量の銃がでまわっている
  地下経済に存在した武器のブラックマーケット〜

ネット時代、素人の起業家が銃の密造に励み、しかもそれをネットで売る。

なんでもあり、の中国だから、ま、あり得る話ではある。

中国では黒社会(マフィア)ばかりか、素人にも、武器の所持が拡大している。公式の武器貿易はNORINCO(北方工業集団)など、国有企業が取り仕切っている上、中国の法律では軍と警察以外、個人で武器所持は許さ
れていない。

近年は猟銃さえ規制が厳しくなった。

ましてや武器の密造など、認められている筈がない。NORINCOの輸出は1億6000万ドルとされる。

ところが、国内にある武器市場は地下経済で猖獗を極めるようになり、ネットで製造方法を取得し、部品をばらばらに仕入れて、ネットで通信販売というニュービジネスに治安当局が振り回される事態となった。

ネットでの助言者は「QQ集団」と呼ばれる。

むろん、ネットでは暗合が使われ「狗友」(密売仲間)、「狗食」(銃弾)などで頻繁な通信があり、おたがいがハンドリングネームを名乗るため、実態は不明。密造工場の大規模なものは貴州省の小都市でみつかり、部品工場は広東省が多いという。

当局が最近手入れした安徽省のグループは700件以上の取引を成立させていたという(米国ジェイムズ財団「チャイナ・ブリーフ」、12月21日号)。

これまで武器の地下市場はヤクザが取り仕切り、軍の横流し武器などを取引してきた。マーッサージパーラーなどの売春組織、ナイトクラブのボディガードたち、石炭の経営者などが顧客で、地下経済の主力である麻薬、博打、売春などの「防衛」に欠かせない。

ところが、ネットで取引される武器の顧客は、銃マニアが主力、密造も素人がネットで製造知識を仕入れ、部品を特注し、しかも性能は軍が使用する武器に遜色がないと言われている。それも暗合で通信しあうというのだから、徹底的に異次元の空間から出現したのである。
    

◆大量移民は、国家破滅を招く

池田 元彦



欧州各国の移民政策が既に破綻 していることは、火を見るより明らかだ。移民人口が10%を超えると、移民問題が現実化する。多文化共生を主張し、移民反対者を人種差別者、極右とレッテル 貼りしてきた、欧州左翼政権とそれを支えたマスコミの、後戻り出来ない大過失の結果だ。

OECDの移民(拝外国生まれ)の人口比率は、2011年度統計で、ルクセンプルグ42%以上、スウェーデン27%、豪州27%、イスラエル24%、NZ24%、カナダ20%だ。他の主要国は、粗10%から16%の間にある。移民先誕生の2世、3世は統計外なので、移民家族数は実際にはもっと多い。

過去10年問移民数は急増した。2倍半増のイタリア、スペイン、ノルウェは粗2倍だ。急増した国での移民との軋轢多いのは当然だが、5%、10%増の独、仏や、1.5倍の英国でも様々な移民問題は発生している。移民の母国の宗教や文化レベル、移民先の政策によっても問題は異なる。

母国での悲惨な生活から逃れ、移民先を天国と見做す。多少過酷な3K仕事でも低賃金労働も移民当初は厭わない。慣れるにつれ、移民先国の労働者との経済格差に不満を持ち、帰化や永住権を取ると権利を主張し始め、遂には政党を立上げ、移民達に有利な政策を実現しようとする。

しかし時間が掛かるので、無法地帯を作り、警察権を排除し居住国の法令に反し、イスラム教徒はシャリア法に基づく裁判をする。避妊、個人主義、同性愛を否定し、女性の地位を貶めDV等を正当化する。周りの住民を脅かし、移民を統制し、強盗、暴行、レイプ、殺人を繰返す。

豚肉輸出国デンマークでは、学校給食に豚肉が使えない。英国では全国で1000以上のモスクが林立する。オスローで5時間に1件発生するレイプ率は、ニューヨークの4倍だ。移民国の法令、社会環境を無視し、イスラムの自治区を作り、最終的にイスラム国家設立を公言している。

これに対し欧州左翼政権、野党は、長年難民、移民保護政策を推進し、国民の税金を無駄遣いしてきた。スウェ デンでは、住居、家財道具、食料、教育一切無償だ。英国では学校・病院・生活案内に加えて、同性愛者・性転換手続迄をも70か国語に翻訳、250億円も無駄使いした。

スウェーデンでは、多発する移民犯罪者 を公表させず、自国民犯罪として報道していた。日本のマスコミが犯罪者の通称名で、日本人の犯行と思わせたのと全く同じことを、政府が主導した。

これ程寛容な移民政策は、成功したのか。寧ろ民族間の軋轢と、自国民の国外逃避を誘導している。

欧州移民、難民の申請審査は甘い。身元・犯罪歴等調査しない。加えて移民、難民の申請内容は嘘だらけだ。一旦移民先の天国のような生活保護を味わったら、その権利は絶対に手放さない。一旦帰国しても別人名で再入園、或は密入国する。が、住居国の言葉を習得しない、働かない。

欧州の心優しい左翼政権や左翼野党の多文化共生政策の輝かしい成果なのだ。欧州人出生率は平均1.8だが、アフリカ系4.3、トノレコ系3.7、アジア系2.7だ。長期的な勝負は見えている。

日本の伝統と歴史を、移民に破壊されては堪らない。大量移民否定は、人種差別ではない。

日本の歴史文化伝統を尊重し、皇室、日本国旗、国歌に愛着がある人の帰化は大歓迎だ。自分の宗教を周囲に強要し、日本に敬意を払わない連中や犯罪者は入局拒否、強制送還すべきなのだ。

毎年建設技術労働者、介護士達等が20万確保できるのか。単純労働、無教養の母国社会の除け者が、日本で生活保護等に甘え、親族を呼寄せ、日本の財政負担、治安悪化にならないか。

◆車谷長吉さんの感性と生き方 

櫻井よしこ


師走に入って車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)さんの遺稿集、『蟲息(ちゅうそく)山房から』(新書館)が届いた。
 
車谷さんには1度しかお目にかかっておらず、「さん」でお呼びするのはおかしいかもしれない。にもかかわらず、その佇まいには「氏」と呼ぶよりも、「さん」付けの方が似合っているように思えて、あえてそうさせていただく。
 
車谷さんにお会いしたのは10年前だった。昭和20年生まれの戦後第1世代が60歳の還暦を迎えるから、同年齢の者たちで対談せよと、「文藝春秋」から依頼があったのだ。お相手の1人が車谷さん、そしてもう1人が現在自民党幹事長を務める谷垣禎一さんだった。
 
10年前の私は年齢を1つの基準として捉えることに違和感を覚えており、説得されて参加したが、渋々だったことを覚えている。だが、いま車谷さんの遺稿集を手に取り、小説やエッセー、俳句や連句、そして対談や鼎談を読んでみて、私は反省し後悔しているのである。なぜ、渋々でなく、もっと前向きにお会いしなかったのか、と。なぜ、車谷さんの深い感性に反応できなかったのか、と。
 
車谷さんは幾度も書いている。「作家などという者は、極楽往生できない者だ」と。玄侑宗久氏との対談では、和辻哲郎(わつじ・てつろう)が「人間の崇高さとは何か」を一生のテーマとしたのに対し、車谷さんは「人間の愚かさとは何か」をテーマにしたと語っている。
 
自身を含めて人間は愚かだと考える彼は、愚かな者に向ける冷徹な視線で他者を捉え私小説を書いた。自身に向ける視線としてはそれでよいが、その冷徹さが他者に向けられるとき、「それはとても怖いものになりますよね」と、玄侑氏が指摘している。
 
なぜそんなに冷徹になるのか。車谷さんは語っている──「私がひたすら文学に求めてきたのは救済です」「神様、どうかこの愚かな人間どもを許してやって下さい。とくにこんなことを書く私が1番愚かです。許して下さい、という気持です」。
 
自らを最も愚かだと自覚していても、他者も愚か者と位置付けて書く。しかし、ほとんどの人は自分が愚かだとは考えない。従って、車谷さんが書き、衝突が生じ抗議が発生する。それでも書く。彼は「神様に向かって書いているんです」と語っている。玄侑氏は「その前に人間に向かって書くべきだ」と主張するが、車谷さんは「やはり神様に向かって書いているんです。だから思ったことが書けるんです」と言う。何という強さであろうか。しかし、こうも付け加えている。

「神様は私を罰することもあるとは思いますけど」
 
物書きは誰に向かって書くのか。神か、人間か。車谷さんは私小説をやめたが、難しい問いだ。
 
死後についてはこう書いている。

「私の母・信子はいま85歳である。元気に田んぼ仕事をしている。秋の稔(みの)りの季節が来ると、この母が田んぼの稲田の中に立って、『あっ、ここがうちの極楽や。うちはいま極楽の中に立っとんや』とよく言う」

すっと心に染みる。日本人の心の奥に、魂の古里として息づいている実りと感謝の風景である。亡くなったこの母上も、悪いことは一切しなかった父上も、極楽に行っただろうと車谷さんは書いたが、作家である自身は死後は必ず地獄へ行くと確信している。そしてこう願うのだ。「70歳になったら、も1度、四国へお遍路へ行きたいな」。
 
17歳のとき初めて森鷗外(もり・おうがい)の『高瀬舟』『阿部一族』を読み、次に夏目漱石の『こころ』を、2日ほどの間に読み、世界が変わったと車谷さんは振り返っている。「光の色が違って見えたとき、自分が救われたような感じを受けた」と。同年の作家の世界を変えた鷗外(おうがい)と漱石を、冬休みに、何十年ぶりかで読んでみようという気になった。

『週刊ダイヤモンド』 2015年12月19日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1113

2015年12月26日

◆次のテロ攻撃の照準は北京か

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)12月25日(金曜日)通算第4760号>  
 
〜次のテロ攻撃の照準は北京か
  外交街「三里屯」がクリスマスから新年にかけ特別警戒態勢〜

北京の外交街として知られる三里屯には外国人相手のバア、レストラン、パブ、深夜族専用のワインバアなどがひしめき合う。巨大ショッピングモールもあちこちにあって、この地区へ行くと中国という感じはない。

まるで外国の景観がある。

この地区には外国の大使館が集中しており、外交界の社交場としても知られる。

12月24日、三里屯は特別警戒態勢に入った。要所要所には機関銃で武装した軍が配置され、ソラナという有名なショッピングモールでは予定されていたクリスマスイブのイベントが中止された。

北京の公安当局は最高レベルの警告が出されているとし、学校でも保護者に子供らを「三里屯へ行かせるな」と指導した(サウスチャイナ・モーニングポスト、25日)。

この警戒態勢は新年まで続行される。

北京居住の外国人は夥しいが、米国、英国、フランス、豪州、そしてカナダの五カ国の大使館は居住者に警戒を呼びかけた。この周辺には日本大使館もあるので、日本食レストランやラーメン店もある。

他方、米国でもワシントンの中国大使館は米国内にいる中国人に警戒を呼びかける措置をとった。

こうした動きが示唆することはISメンバーが次の行動目標として、中国のもっとも弱い箇所を狙っているフシが濃厚となったのではないのか。   

◆塩野七生氏の安倍首相評

平井 修一



小生の座右の書の中には塩野七生氏の「マキアヴェッリ語録」や山本夏彦翁の「名言集 何用あって月世界へ」などがあり、とても面白いし勉強になる。頭がいい人の言葉は発見が多いし、ストンと腑に落ちるし、何よりも面白い。

日経2013/12/1の「安倍首相の指導力への評価は 作家・塩野七生氏に聞く」も実に興味深かった。以下、一部転載。

<――異質な価値観をもった近隣の国と付き合っていくうえで、歴史に学ぶべきところはありますか。

「近隣国と仲良くあるべきだというのは日本人だけだ。近隣とは常に問題があり、摩擦が起きないという方がおかしい。日本人はこれからも絶対の友好はないのだと思えばいい。しかし近隣国ゆえの突破口はある。それは経済関係がより密であるということだ」

「『十字軍物語』の最後で十字軍の運動は西洋側、キリスト教側が負けた。しかし本当の勝者は誰か。イスラムの経済人たちは200年間で西洋の市場の有効性に目覚めた。経済的にくっついてやっていた方が得であったと。そしてベネチアとかジェノバとかの経済人が戻ってくる。決裂した関係が戻ってくる」

「(中韓両国とは)政治的な関係改善を急がない方がいいと思う。イスラムとキリスト教の価値観の違いは、中国や日本に比べるとものすごく大きかったはずだ。それでもなお(関係修復が)できた」

*改革者は必ずぶつかる

――新作『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』で訴えたかったものは何ですか。

「書いている時は、日本の役に立つとか、リーダー像なんかは考えない。中世にこういう男がいたということを知ってもらいたい。ヨーロッパの中世研究の傾向は、キリスト教会とケンカしない人がいいとなる。彼はその反対だ」

――歴史に名を残すリーダーはケンカしないといけないということですか。

「改革をすれば必ずぶつかる。ぶつからない人はその時はいいかもしれないが、後世には何の影響もない。良い人の生涯を書くと時代が描けない。あちこちで周囲とぶつかる人を書くと、何で、誰とぶつかったのかで、その時代が描ける」

――当時のイスラム圏は西洋より科学技術的、文明的に進んだ面があったと。

「実際にそうだ。イスラム圏の学者たちが『十字軍の後に西洋はルネサンスに入っていった。なのに自分たちはなぜ停滞したのか』という問題を提起している。イスラム世界は工業よりも商業。しかし商業はなかなか職をうまない。職を与える社会・政治が成功するのであって職を与えるのに失敗したら成功しない」

「今のイスラム世界も同じ。原材料を輸出している。オイルもガスも技術者を呼んで、動かすのはその国の高学歴者じゃなくてもいい。職を保証する社会づくりを忘れたのがジャスミン革命の始まりで、宗教的でも何でもない」

――フリードリッヒ2世は反逆児ゆえに、イスラムとの和解を成し遂げたように思います。

「彼は要するに自分の頭で『これっていいわけ?』と疑問を持つ。人間の発展はシンプルで疑問を持つことだ。疑問を持たない人はいかに大学の成績が良くても、それはただ学校の成績がいいということだけ」

「私はリーダーを見るときに自分がよしとする型にはめない。絶対オーダーメードだと思っている。安倍さんはトニー・ブレア元英首相のように敵をも味方にする説得力はない。なくても、ブレアが持っていなかったものを持っている。それは現在、(先進国の議会で)民主的に絶対多数をっているということだ。オバマ米大統領やメルケル独首相を見ても、イタリアなどを見ても他の国に1人もいない」

「安倍さんは民主的に権力を持っている。2度も(政権を率いる)チャンスをもらい、民主的な方法で絶対多数をもらった。そこでおじけ付いて何もしなかったら、政治家でないだけではない、男でもない」

――フリードリッヒ二世は女性関係もなかなか面白い。安倍首相には「家庭内野党」を自称する妻の昭恵さんがいます。

「彼女のインタビューを見ていて、この人はなかなか頭のいい人だなと。そして安倍晋三さんにとっては、とても適した奥さんじゃないかなと思う。非常に率直な方であると同時に、旦那様のことを笑いながら話しているが、これが決して人格を低めることにつながっていない」

「今までとは違うが、なかなかいい奥さんじゃないかと思う。あんまりベタベタとあちこちの外遊について来ないし。首脳が深刻なことを話すのに、奥さんがちょろちょろくっついてくるのは状況にふさわしくない。あの方は頭のいい、賢い女の子ではないか」>

日経2015/12/21「安倍首相、やりたいだけやらせては 塩野七生氏が語る世界と日本」から。

<――塩野作品には安全保障にかかわる記述がしばしば登場します。安全保障とは結局何でしょうか。日本で今年成立した安保法制をどうご覧になっていますか。

「デロス同盟(ペルシャ戦役後のギリシャ都市国家同盟)というのは、多国間で一緒になって安全保障をしましょうという目的でできたものです。一方、ペルシャ帝国にはそんな同盟は一切ない。その後のアレキサンダーもローマ帝国もそんなことは考えなかった。

つまり『一緒になって力を合わせて安全保障をしましょう』という同盟の考え方は超大国からは生まれないのですね。日本も中小の国々のひとつだから、同盟による安全保障は当たり前な話であって、ヨーロッパでは安倍晋三首相の安保法制は全然問題になっていない。

問題にならないどころか、『当然』という感じで受け止められています。中国だってほとんど何も言っていないんじゃないですか」

「中国は『一緒になって安全保障しよう』なんて言わない。そういう中国に対抗するには、中小国が集まって、アメリカが後ろ盾になる安全保障を考えればいい。中国が脅威的存在にならなければ、これほどの必要性はなかった。かつてソ連があったときと似た構図です。つまり同盟は強大な敵があるからなのです。今の中国はまだ超大国ではないが、超大国になりたいと思っている国であることは確かです」

*安定、安全の実現は統治者の務め

――政権に返り咲いて約3年の安倍首相の政権運営をどう見ていますか。

「前回(2013年秋)の日経インタビューで『2度も首相としてチャンスをもらい、それで何もしなかったら政治家でないだけではなく、男でもな
い』と言いました。そうしたら安倍さんは発奮されて『チクショー、絶対にやってやる』となったのではないですか。

安倍さんに批判的な人は『塩野さん、なぜ安倍首相を応援するのですか。彼には健康上の理由があるし』と言う。でも、健康上の理由なんぞは奥さんとお母さんが心配すればいい話です。我々国民が心配することではない。むしろ安倍さんにはやりたいだけやらせたらいいと思っています」

「それからギリシャの政治家、ペリクレスにしても、その統治は30年も続いた。安定ということは、すごく大きいです。人間というのは決してバカではありません。安定、安全であれば、何とか適度に自分たちでやれる。しかし、安全だけは統治者が実現しなければならない。

だからルネサンスの時代のフィレンツェでも、メディチ家が僭主(せんしゅ)になって安定を築き、そこにルネサンス文明というか、フィレンツェ文明が花開いた。ベネチア共和国というのは経団連が統治したような国だと思いますが、その経団連が中小企業の保護をしたのです。だから社会が安定した。そのため商売はうまくいき、文化もうまくいった。

安定は本当に大切です。だからパクス・ロマーナは大切だったのです。安定というよりは、パクスと言いましょう。平和です」

*政権、10年は続ける必要

「私は、そんじょそこいらの平和主義者よりかはよほど平和主義者だと思っています。しかしパクスを実現するには、やはり抑止力とかの諸々の力が必要です。だから安倍さんの今の状態は良いと思う。

ただし、あの人は説明のやり方が下手だった。安保法制についても説明が十分でなかったのではなくて、はっきり言うと、話し方が下手だったということです。アンチ安倍の人から『安倍晋三という男をあなたは好きですか』と聞かれたから、『まずもって私の好みの男じゃない』(笑)。

だけどそんなことは関係ないことです。私は日本が良くなってほしいと心から思っています。今やりますと言っているのが彼なんだから、やってもらいましょうよ、とただそれだけ。もし彼がダメだったら次の人にやらせたらいい。

だけど以前のように首相が1年1年で交代するのはいけない。絶対にいけない。あの状態では日本人は何もできなくなりますから」

「英国のサッチャー首相は10年続いた。ブレア首相だって10年続いた。つまり10年は必要だと思う。10年続けばおそらく日本人でも何かやりますよ」

「小泉(純一郎元首相)はいつも起承転結の起しか言わない人だった。安倍さんは長々と話していると、聞いているほうもわからなくなるけど自分もわからなくなるところがある。

それから、外交交渉では主導権は絶対にこちらが持たなくてはいけないが、この大事なことを安倍さんは忘れたりする。でもヨーロッパでは安倍さんはなかなか評判がいいですよ。

それからもうひとつ、これは指導者の条件ですが、安倍晋三という男は決して貧相ではない。これはやはり大切な点です。言うことはなんだかわからないところがあるけど、かわいいところがある。一生懸命やろうとしているのは確かです。『男でない』と言われて発奮したんだから。

政治のリーダーは美男である必要はないのです。でも明るい顔である必要はある。レンツィ(伊首相)だって、トスカーナ風のかわいい顔をしていますよ」

*心躍らされる主張のない女性政治家

――安倍政権は女性活躍を看板政策としています。すぐに成果を上げるのは難しく、日本では初の女性首相もまだ見えてきません。

「女の人は、男社会だと言って文句を言う。しかし抗議するのにもエネルギーがいる。人間にはだいたい一定のエネルギーしかないから、抗議するのにエネルギーを使ってしまうと、創造するエネルギーがなくなってしまう。これが日本の多くの有識の女たちのありさまです。

だから次期首相だって女だからダメだっていう訳では全然ないのだけれど、心躍らされるようなはっきりした何か、こっちの注意を引くような主張を言わないといけない。しかし、いまの女性政治家にはそれを言う能力が感じられません。まあ安倍さんにもあまりありませんけれど(笑)」

――日本の野党リーダーは優等生タイプが多い気がします。

「やっぱり辛気くさいのはダメです。だって世の中、全部辛気くさい話ばかりなのに、リーダーまでも辛気くさい顔をしていたらやる気が起きますか。野党の政治家もやはり自分が能力を発揮するチャンスを逃してはいけない。

安倍さんはもう後はないのだから、変なことを考えないでやってもらえばよいわけです。私はそういうように見ています。

でも日本でこんなことを書いたら、やはりお金を稼ぐにはちょっと具合悪いし、有識者とも呼ばれないし、というわけで、昔の西洋の話を書いているのが楽だという話です」>(以上)

辛気くさい野党リーダーはダメ・・・塩野氏は実によく観察している。確かに岡田、松野、江田なんて脳ミソはないし、暗いし、リーダーシップもないし、本当にツマラナイ奴という感じ。顔を見るだけで不愉快になる。

彼らが夢を語れないのは国家観がないからだ。日本をこういう国にしたいのだという主張がない。ただただ安倍政権の足を引っ張り、中韓に媚びを売っているだけという印象だ。

相変わらずの一国平和主義。激動の時代であるという認識がまったくなく、「反安倍サークル」のなかでアーダコーダと騒いでいるだけ。緊張感ゼロ、カロリーゼロ、糖類ゼロのオールフリー(オールフール)。

その周りで「山村工作隊」の日共がひと騒動起こそうとマッチを持ってウロチョロし、幇間/太鼓持ちの橋下が安倍氏にすり寄って「おいしい目」の機会をうかがっている。池田教徒はただの物乞い、「右や左の旦那様、いくらかでもお恵みを」。Give me dime. バカ野郎! 金が欲しければナンミョーする前に働けよ。

信徒が怠け者で評判が悪いから支那の町、じゃなかった信濃町は20年ほど前に「仕事もちゃんとするように」と触れを出した。もう一度出したらどうか。

一強多弱時代は当分続くのだろうが、この間に安倍政権には安全保障を盤石なものにしてほしいものだ。(2015/12/25)


  

◆日印、安倍外交で重要拠点を確立

櫻井よしこ



安倍晋三首相のインド訪問は日印双方のみならず、アジアの安定に資する大きな果実をもたらした。
 
インド初の高速鉄道に新幹線方式が採用され、日本製の防衛装備品及び技術移転を可能にする協定も、秘密軍事情報の相互保護の協定も結ばれた。

強い日本と強いインドの組み合わせは、中国の台頭とは対照的にアジアの幸福を守る力となるだろう。
 
日本の原子力技術をインドに提供する原子力協定で、原則合意に達したことも意義深い。日本にはインドが核兵器を持ちながら、核不拡散条約(NPT)にも包括的核実験禁止条約(CTBT)にも未加盟であることを問題視して、原子力技術の提供に反対する声がある。
 
こうした批判はインドが原子力をどのように考え、取り扱ってきたかを知れば、自ずと消え、むしろインドから日本が学ぶべきことの多さに気づくのではないだろうか。
 
インドは、大東亜戦争終結の前から日本より10年も早く、原子力平和利用の研究開発を始めた。エネルギー戦略研究会会長の金子熊夫氏は、当時まだ大英帝国の植民地だったインドのエリート科学者たちが英国留学で原子力を研究し、米国の「マンハッタン計画」(原爆製造計画)にも関与していたと、驚きの事実を指摘する(『日印安全保障共同研究報告書』所収「日本人よ、『核の迷妄』から醒めよ」公益財団法人国家基本問題研究所)。

「インド原子力の父」と呼ばれるホミ・バーバ博士は、1955年にジュネーブで開催された第1回「国連原子力平和利用会議」で議長を務めた。若き政治家、中曽根康弘氏は同会議に出席して原子力開発の必要性に目覚め、帰国後、原子力の効用を説き、日本の研究が始まった。
 
インドはその後、核実験にも力を注いだが、背景には中国及びパキスタンの侵略と脅威の前で自国を守るための必死の戦略があった。

核大国の特権
 
非同盟と平和路線のインドが寝耳に水の、中国の大規模侵略を受けたのは、62年10月20日だった。中国による突然の攻撃にインドは惨敗を続け、3300人近い兵が戦死した。ところが圧倒的勝利の中、中国は突如、停戦を宣言した。
 
突然の侵略と停戦はなぜ起きたのか。インド政策研究センター教授のブラーマ・チェラニー氏は毛沢東の戦略だったと指摘する。
 
毛は62年10月のキューバ危機をインド侵略の好機ととらえた。ソ連が核弾頭と中距離弾道ミサイルを秘密裡にキューバに配備したのに対し、米国のJ・F・ケネディ大統領は、ソ連の攻撃用兵器の即時解体と撤去を断固要求し、キューバ海上封鎖を実施した。

中国のインド侵略の始まりと停戦は、キューバ危機の発生と米国の海上封鎖作戦の公式終了にぴったり重なる。
 
米ソの核戦争勃発かという緊張の下では、中国の侵略に世界の注目は集まらないと考えたのである。その間に卑怯な手法でインドを打ち砕き、国境の争いを中国に有利にしようと考えたのは間違いないだろう。
 
2年後の64年、今度は突如核実験を行い、中国は核保有国になった。67年には水爆実験にも成功した。
 
一方、70年には国際社会がNPTを発効させた。その時までに核を保有していた米英仏ソ中にのみ、核保有を認め、その他の国には認めない同条約は、持つ国と持たざる国の永久固定化である。5か国はどれだけ核兵器を製造しても咎められず、国際原子力機関の査察も受けない。突然、侵略してくる中国が核大国の特権を手にし、その脅威に晒されるインドは核を保有できない。
 
インドが74年に核実験に踏み切ったのは、大国のエゴの理不尽さに負けないためだったはずだ。それから24年後の98年5月、インドは再び核実験を行い、2週間後にはパキスタンが続いた。
 
クリントン米大統領はインドを厳しく非難したが、インドのヴァジパイ首相は米国に書き送っている。インドは核保有国の中国と国境を接しており、彼らは62年にインドに武力侵攻し、さらにインドの別の隣国(パキスタン)が実質的に核保有国になるのを助けてきたと。
 
事実、ケ小平は82年以降、パキスタンの核開発を支援し始め、90年5月26日には中国の新疆ウイグル自治区のロプノルでパキスタンのために核実験まで代行してやった。
 
日本は米国の核の傘の下に身を置いて国防の柱としたが、非同盟を貫くインドには後盾がない。自ら核を持ち自力で中国やパキスタンの核の脅威から祖国を守ろうとするのは、指導者として当然の責務である。

日本がインドの立場に置かれたとき、果たしてインドのように自国防衛のために核を開発できるか。米国頼みの日本人に自力で国防を完膚まっとうする気概はあるのか。この厳しい問いを巧まずして日本につきつけているのがインドではないだろうか。

世界最大の民主主義国
 
米国はブッシュ政権になって、「世界一古い民主主義国」と「世界一大きな民主主義国」として関係を改善し、08年、NPT不参加のインドと原子力協定を締結した。
 
パキスタンも同じ処遇を求めたが、米国はこれを拒否した。中国からもらった核技術をノドンミサイルとの交換で北朝鮮に渡したように、パキスタンが核を拡散させてきたのが明らかだったからだ。

NPTにこそ加盟していないが、インドは慎重に核の拡散防止に努めてきた。その点をブッシュ政権は認めたのだ。
 
中国は原子力技術をはじめ、あらゆる技術移転の恩恵を受け、インドはそうした恩恵を受けていない。中国の核拡散の不埒な行動を考えても、中印に対する扱いの差は理に合わない。そもそも中国は一党独裁で言論の自由もない。大東亜戦争後今日まで、国境を接する14の国と地域に度々戦いを仕掛けてきた。今も南シナ海で紛争の元凶となっている。
 
一方インドは、ブッシュ大統領が語ったように世界最大の民主主義国であり、一党独裁とは程遠い。攻撃を受けて戦うことはあっても、自ら紛争や戦争を仕掛けてはいない。だからこそ、日本も民主党菅直人政権下で岡田克也外相が、10年6月に日印原子力協定の交渉を開始したのであろう。

交渉は前進しつつあったが、「インドが核実験を再開した場合、日本の協力は停止せざるを得ない」と岡田氏が述べたことがインドで大きく報じられ、東日本大震災もあり、合意に達しなかった。
 
ただインドは、核実験の自粛(モラトリアム)を08年9月に約束しており、米国をはじめフランス、ロシア、カナダ、韓国などはインドを信頼して原子力協定に合意済みだ。日本もインドの年来の核不拡散の行動を信頼し、早期に原子力協定を結ぶことが日印の力を強め、アジアの安定と繁栄に貢献すると私は考える。

『週刊新潮』 2015年12月24日号 日本ルネッサンス 第685回

                  (採録:松本市 久保田 康