2015年11月29日

◆社民党に未来はあるか…

岡田 浩明



脚光浴びるのは過去ばかり、止まらぬ“右肩下がり”

「護憲」を旗印に掲げる社民党が土俵際に追い込まれている。平成8年の党名変更後、党勢は「右肩下がり」の傾向に歯止めがかからず、現有勢力は衆院議員2人、参院議員3人。来年夏の参院選で改選2議席を死守できなければ、政党要件の1つである「国会議員5人以上」を割り込んでしまうからだ。

社民党の前身である日本社会党は戦後、自民党に対抗する革新勢力として最盛期には衆参計200人以上の勢力を誇ったが、それも今は昔。弱小政党に未来はあるか−。

10年ぶりに秋の臨時国会が開かれないことが決まり、静寂に包まれる永田町。国会の北側の一角に広大な空き地がある。緑のフェンスに囲まれ、生い茂る雑草、ポイ捨てされた無数の空き缶…。かつてここに社会党時代から護憲勢力の牙城として知られ、数々の政局の舞台にもなった社民党本部が入る「社会文化会館」があったが、今はその面影はない。

社会党時代の昭和39年に完成した会館は、近くの坂の名前にちなんで「三宅坂」とも呼ばれ、党本部の代名詞になった。しかし、外壁がはがれるなど、激しい老朽化に耐えられず、平成25年に解体。党本部は首相官邸近くに移転した。

「三宅坂」解体は党の凋落を象徴していた。

平成元年の参院選で土井たか子委員長(当時)の「おたかさんブーム」で大勝し「山が動いた」との名言を残した。衆参両院で200人以上の大所帯時代もあった。

ところが、自社さ政権で自衛隊合憲に転じた変節を境に、「下り坂」を一気に転げ落ちるように社民党は勢いを失っていった。解体時はわずか10人の小世帯まで落ち込んだ。

今では所属議員10人を割り込み、残るは5人。党の存亡をかけて来年夏の参院選に挑む。改選となるのは、吉田忠智党首と福島瑞穂前党首の新旧トップ2人。党として2議席確保に必要な「比例250万票以上」を目標に掲げ、吉田、福島両氏は国会内外で安倍晋三政権の批判票の取り込みに躍起になっている。

「憲法違反の戦争法のほか、沖縄の辺野古新基地建設など政権が進める政策に反対する声を参院選につなげていきたい」。吉田氏が記者会見でこう繰り返せば、福島氏も11日の参院予算委員会で政権批判のオンパレード。

沖縄県の米軍普天間飛行場の県内移設をやり玉にあげ「政府がやっていることは『沖縄いじめだ』。沖縄が(県内移設は)『嫌だ、嫌だ、嫌だ』といっても殴る“DV(ドメスティック・バイオレンス)政権”だ」と批判した。

発言だけをみれば威勢良く映るが、「比例250万票以上」という目標達成には、前回の参院選比例で過去最低となった125万票の倍増が不可欠だ。

党員数が22年に2万人を割り、その後も年々減少する中、比例票の倍増は困難な情勢。「このまま参院選に突っ込んでも展望はない。2議席どころか、1議席も危うい」(党関係者)と危機感を強める。

ここ数年は退潮傾向が著しい。みんなの党や日本維新の会など第三極の台頭で有権者の既成政党離れが直撃。最近では躍進する共産党とは対照的に、社民党は影が薄く、野党協力でも埋没気味だ。

10月の宮城県議選も議席を倍増させた共産党に対し、社民党は2議席減らして1議席となった。

党関係者は「支持者の中には『今度は共産党に投票した』と公言する人もいて、社民党の票が共産党に食われている」と漏らす。

崖っぷちの社民党の中で唯一、意気盛んなのが社民党初代党首の村山富市元首相だ。戦後70年の今年、「村山談話」を絶賛する左派系の会合に引っ張りだこのようだ。

11月5日には都内で開かれた安倍首相の「戦後70年談話」を検証する出版記念シンポジウムに出席し、村山談話について「日本の重しになってた」と自賛した。対日要求の外交カードとして利用されてきたのに、どこ吹く風だ…。

そして安全保障関連法にも言及。「戦後70年、日本は平和と繁栄を守ってきた。なぜ変える必要があるのか。そこに反対している国民と首相の考えに乖離がある」。

その上で「日本の方向は国民が決めるという意識を持ち、来年の参院選は(政権に対し)『ほら、みたことか』となるよう期待している」と力説し、政権にひと泡吹かせるために野党の奮起を促した。

その後のパーティーでは民主党の菅直人元首相、共産党の志位和夫委員長ら政界の“左打者”が来賓としてそろい踏み。「村山談話によって韓国や中国を含めたアジアの諸国と日本との平和の基盤ができた」(菅氏)などと口をそろえた。

脚光を浴びる姿は、存在感の薄い社民党の中にあって異質とえいる。次期参院選で村山氏の集票力に頼らざるを得ない事情もありそうだが、いつまで過去にすがるのか。

長い党勢低迷によって弱小政党に転落した今、「次の一手」を打ち出すにしても手遅れとの見方がある。少なくとも「ダメなものはダメ」路線一辺倒では有権者は振り向かないし、長く暗いトンネルから抜け出すこともできない。

産経ニュース【岡田浩明の野党ウオッチ】2015.11.23 
                  (採録:松本市 久保田 康文)

◆木津川だより 壬申の乱 (4)

白井 繁夫



「壬申の乱の戦」は672年7月に入ると、近江朝廷の大友皇子軍と、不破の大海人軍の両軍が正面からの全面戦争に突入、近江路において雌雄を決する死闘が始まりました。

近江朝の近江路方面軍は、不破(関ヶ原)への進軍途上、近江の豪族、羽田氏や秦氏を味方の軍に取り込みましたが、関ヶ原と彦根市の中間地域を支配している息長氏(オキナガ)の旗幟が不明のため、息長氏の支配地の手前の犬上川畔まで進み陣を構えました。

7月2日に大友皇子の近江路方面軍の山部王将軍は、心ならずも総司令官的立場に担ぎ挙げられましが、大海人皇子に帰参を願っていることが発覚して、将蘇我臣果安.将巨勢臣比等に殺害されました。

この事件は近江朝軍にとって、大きな動揺と内部混乱の起因となりました。

近江朝軍の指揮官の人材不足?による軍の乱れ、(蘇我果安将軍は大津へ帰り、自責の念に駆られてか?自殺する。近江の豪族羽田矢国と子の大人(フシ)一族が息長氏の支配地を通り大海人軍に帰参)の結果、中立的立場だった息長氏を始めとする近江の豪族は、大海人側に加担するようになるのです。

(息長氏が中立を保ち旗幟を鮮明にしなかったので、大海人皇子は彼の本拠地近くの不破に野上行宮を置いていたのです。)

7月5日大津を出発した田辺小隅(オスミ)の少数精鋭の別動隊が、倉歴道から鈴鹿道を抜けて裏面から不破の挟撃を目指し、大海人軍の田中足麻呂が守る倉歴(くらふ:柘植町)を夜襲し守備隊を破りました。

翌日の深夜、莿萩野(たらの:旧上野市)の多品治将軍が守る陣に夜襲をかけますが、今度は田辺小隅軍が敗れて敗走しました。(この勇猛な作戦は非常に良い策でしたが、少数兵では大海人軍に勝てず敗れ去ったのです。)

大海人軍には琵琶湖の東岸の羽田氏、息長氏、北岸の坂田氏などの豪族が加わり、大海人皇子は羽田矢国を、北近江.越方面別動軍の将軍に起用して、北陸方面の要衝(愛発:あらち:高島市.旧マキノ町)の守りに就かせました。(かつて、大友軍の精鋭が夜襲をかけた「玉倉部邑:たまくらべむら」を防げたのも、息長氏の地盤近くで起きたから大海人軍の出雲狛が援助を受けて?防戦できた。とも云われています。)

大海人軍の村国男依が率いる近江路進攻軍(本隊)は7日に出撃し、大友軍の主力部隊と
息長の横河(米原市醒井付近)で主力軍同士が激突し、朝廷軍が敗れ去り、将軍境部連薬は捕えられ斬殺されました。

大海人軍は追撃して、9日に鳥籠山(とこやま:彦根市大堀町)の将軍秦友足率いる大友軍も破ります。(鳥籠山は息長氏と羽田氏の本拠地の中間、両戦闘で大海人軍は琵琶湖の東岸「東山道」を完全に制圧できました。)

大海人軍は更に南下して進軍し、13日には近江最大の川「安河畔」(守山市:野洲川畔)
に達して、2度目の主力戦を大友軍の将軍社戸臣大口(コソベノオミオオグチ)と戦い、撃破して彼を捕虜にしました。

17日には栗太(くるもと:栗東市)の大友軍の陣営も破り、瀬田川の東岸にある官衙まで、あと少しの処まで迫りました。

ここからは近江朝廷本営の主力軍との真剣勝負になるため、進軍を停止して、大海人軍は斥候を出し、大友皇子の正規軍の陣容.伏兵の有無などの状況と朝廷軍の情報収集を開始し主力戦に備へました。

その上で、672年7月22日は、村国男依将軍が率いる大海人軍の各諸将が、大友軍の総力を挙げた起死回生の決戦に挑むのです。

◆大海人軍の斥候の報告:
『大友軍は瀬田橋の西側に整然と布陣しているが伏兵は見受けられない。しかし、驚くことがある。それは大友皇子御本人が御出座されており、左大臣蘇我臣赤兄(ソガオミアカエ)、右大臣中臣連金(ナカトミノムラジカネ)の左右大臣も布陣する、朝廷の最高位の人々が前線に出るなど』と、想定外の出来事でした。

(後世でも家康との最後の決戦となる大坂夏の陣で、外堀も内堀も埋められ、まる裸となった大阪城での戦いを鼓舞するため、真田幸村ら諸将が豊臣秀頼の御出陣を依頼したが叶わなかったことは、ご承知ですね。)

朝廷軍は大津宮防衛のため、瀬田橋を大海人軍には絶対に渡らせない強い決意でした。

むしろ大海人軍の各諸将は前回記述した如く、近江朝の高官とも面識がなく、まして大友皇子の御出座も意に介せず、特大の獲物を狙う獣狼の様な地方の豪族達でした。

大海人軍の各部隊の兵は競って橋を突破しようとしますが、橋を目がけて雨霰の如く矢が降り注ぐ集中攻撃を受け、前進を阻まれました。それをも突破して半ばまで進むと、次は仕掛けが有り、兵は川に落ち流され溺れ死させられました。

(大友軍の将「智尊:チソン:渡来人の知恵者」が橋の中程に長板を置き、綱を引くと板が外れる仕掛けをしていたのです。)

この時大海人軍の兵士に動揺が起きました。前進する士気が薄れそうになったとき、大津皇子の舎人:大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)は矢が射込まれても耐えられるように挂甲を重ね着して、踊り出、雄叫びをあげながら抜刀して橋上を疾駆すると、無数の矢が突き刺さりました。が、彼は怯まず橋を駆け抜けました。

西側に整列して矢を射ていた大友軍の兵は、眼前に獣の様な形相の稚臣を見て恐怖に駆られ逃げる余裕もなく斬られて逝きました。男依はこの機を捉へ、全軍に総攻撃を命じ、橋の西側へ攻め込みました。

智尊は必死で奮戦しますが、捕らえられ、男依に知略と武勇は称えながらも、定めにより斬殺されました。(大友皇子の本陣が静かに退くのが、遠望された、と云われています。)

同日、琵琶湖北岸の大海人軍の別動隊(羽田矢国.大人父子と出雲狛)は、西岸道を守る三尾城(みおき:滋賀県高島町)を攻撃して、落城させました。また、大和飛鳥から上ツ道、中ツ道、下ツ道の三道を北上した紀臣の大海人軍は、淀川の山前(京都府大山崎町)に到着して布陣を完了しました。

翌日(23日)瀬田の戦で大勝利した村国男依の大海人軍は、橋を渡り粟津岡(大津市膳所)に全軍集結しました。

一方、敗走した大友軍は左右大臣等の姿はなく、大友皇子はわずかの供を従えるだけとなり、全ての退路は大海人軍に断たれてしまったのです。

大友皇子は最後まで付き添った舎人(物部連麻呂)を大海人軍に遣わしました。村国男依将軍は大友皇子の名誉ある死のため、全軍に攻撃を一時中止させました。

物部麻呂が大海人軍の前に再び現れ、皇子の最後の様子を涙ながら報告し、皇子の首を差し出しましたが、流石に誰も正視する者がいなかったと云われています。

壬申の乱後、大海人皇子の裁きです。重罪は8名で、特に大友皇子の帷幕(いばく)として作戦を立案し、実権を握っていた中臣金は極刑、大友皇子擁立の盟約を結んだ者も処罰して政権から排除しました。その他の人々は寛刑で済ませました。

大海人皇子は、天武2年(673)正月、飛鳥淨御原宮で即位し、天武天皇となり、大臣を置かず皇族や皇親を中心とする皇親政治を採り、律令体制の国家を目指しました。

天武天皇は現体制の有能な官僚を温存して活用し、新国家建設を計り、新しい藤原京の建設を立案するのです。

大規模な造営計画の藤原京の京域は約25平方キロ(平城京:約24平方キロ)あり唐風の都城:礎石建築で瓦を葺いた建物、史上初の条坊制を布いた本格的な都城:を目指すのです。(造営プランは天武13年3月に決定されました。)

この皇位継承をめぐる大戦は、天武天皇妃の鸕野皇女(後の持統天皇)にとっては、我が子草壁皇子へつなぐ天武系統体制を確立する戦いであり、大友皇子擁立の盟約者を完全に排除出来ればそれでよかったのです。

大和.飛鳥の玄関港:泉津(木津の港)へは藤原京造営用の大量の檜材が、近江の田上山(たなかみやま:大津市大神山の峰々)から瀬田川→宇治川→「木津川」へと筏に組んで運ばれ、石材や瓦などの重量物も瀬戸内→淀川→「木津川」と水運を利用して運ばれました。

「木津から大和.飛鳥へ上ツ道、中ツ道、下ツ道の3道を利用するルート」があり、泉津は藤原京から平城京へと繁栄が続いて行くのです。(完:再掲)
(郷土愛好家)

参考資料:壬申の乱    中央公論社      遠山美都男著
     戦争の日本史2  壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著
     木津町史    本文篇      木津町 

2015年11月28日

◆高速増殖炉継続で日本の国益を守れ

櫻井よしこ


原子力規制委員会(以下、規制委)は国家行政組織法による3条委員会である。委員長及び4人の委員は衆参両院の同意を得て総理大臣が任命する。公正取引委員会同様、規制委は内閣から独立した強い権限を持ち、総理大臣といえども注文をつけることはできない。

その強い権限で日本のエネルギー政策の根幹を動かし得る立場にいる5人とは、田中俊一委員長を筆頭に、更田豊志、田中知、石渡明、伴信彦の4委員である。
 
規制委は11月13日、高速増殖炉「もんじゅ」を運営する日本原子力研究開発機構(以下、機構)について、所管省の長である文部科学大臣に厳しい勧告を突きつけた。

「機構については、単に個々の保安上の措置の不備について個別に是正を求めれば足りるという段階を越え、機構という組織自体がもんじゅに係る保安上の措置を適正かつ確実に行う能力を有していないと言わざるを得ない」と断じ、さらに「(安全確保上必要な資質がないと言わざるを得ない段階)に至ったものと考える」と、ダメ押しした。
 
文科省も「これまでの対応は結果的に功を奏していない」と批判された。そのうえで、「半年を目途として」、➀「機構に代わってもんじゅの出力運転を安全に行う能力を有すると認められる者を具体的に特定すること」、➁その条件が満たされない場合、「もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を抜本的に見直すこと」が勧告された。
 
規制委の勧告は初めてだ。勧告に強制権はないが、文科省には答える義務がある。
 
文科省を訪れた田中委員長は、馳浩文科大臣に「そう簡単にできるものではないと思いますが」と言って勧告文を手渡した。馳文科相は「今後のあり方について規制委員会からもご指導をいただきたい」と頼んだが、田中氏は答えなかった。
 
他方、氏は「看板の掛け替えは認められない」(「朝日新聞」11月14日)とも語っている。新しい運営主体を見つけられない場合、廃炉を検討せよ、と事実上求めたと言える。

夢の原子炉
 
田中氏らの勧告は、日本の原子力政策の一大転換をはかる結果につながりかねない。文科省に与えられた猶予はわずか6か月だ。日本を支える基盤としてのエネルギー政策と、原子力推進へと舵を切った国際社会の動向を考えれば、規制委の動きは果たして正当なのかと疑わざるを得ない。
 
原子力発電で生じる使用済み核燃料から、ウランとプルトニウムを抽出し、再利用する核燃料サイクルの中心を占めるのが高速増殖炉である。もんじゅを含む高速増殖炉は、原子力発電のスムーズな展開と、国際社会に受け入れ可能な形での原発稼働を少なくとも3つの点で担保すると考えられてきた。
 
第1に原発から生まれるプルトニウムの平和利用の姿勢を明示できることだ。現在日本はプルトニウム47トン、核爆弾およそ5900発分を蓄積している。このまま持ち続ければ、核兵器製造を目論んでいると疑われかねない。高速増殖炉を稼働させることで、日本の目的はエネルギーだと納得してもらえるだろう。
 
第2に、高速増殖炉は消費される核燃料よりも多くの燃料を生み出すため、新たな燃料なしで、少なくとも2500年間、エネルギーを生み出し続けられる。資源小国日本にとっては夢の原子炉である。
 
第3は、使用済み核燃料を放置すれば、人間に対して無害な天然ウランと同じ水準に戻るのに10万年かかる。高速増殖炉で燃やせばこれが300年に短縮され、量は約7分の1に減る。使用済み核燃料の処理にも高速増殖炉が大いに役立つ。
 
こうした利点ゆえに、日本はこれまでもんじゅに国税1兆円を投入した。しかし、20年前のナトリウム漏れ事故以降、ほとんど運転休止が続いている。その間も年間200億円をかけて維持してきたが、いま、その機構を、規制委が安全性を確保する能力も資格もないと、決めつけた。
 
たしかに、12年、もんじゅに関しては約1万件の機器の点検漏れがあったと報じられた。報道を見れば、規制委の批判はもっともだと思ってしまう。北海道大学大学院教授の奈良林直氏が状況を説明した。

「もんじゅを動かさない前提で予算と人員が減らされ、機構には最小限の人数しか残っていません。福島の原発などにも応援に人を出していて、規制委の要求に物理的に応えられない中でのことである点を見なければ公平ではないでしょう」
 
安全性確保のために厳しい基準が必要なのは言うまでもない。しかし、規制委の要求は、真に原発やもんじゅの安全性を高めることに役立っているのだろうか。これまでに取材した原発に関して言えば、各電力会社に要求される安全性の審査書類は10万頁に上る。厚さ10センチのファイル150冊分である。作成するのも大変な量だ。これは、審査する規制委にとってもハンパな分量ではないはずだ。規制委による原発再稼働に向けた審査が大幅に遅れているのも当然なのである。

「正直路線」
 
つまり現状では、審査する側もされる側も十分に対応できないということだ。双方が「能力を有していない」状況に追い込まれているのだ。
 
国際社会のエネルギー政策が原発重視にあることは間違いない。日本の国益にとっても、原発のスムーズな稼働のために高速増殖炉の開発を続けることが大事である。

中国、ロシア、インドを中心に高速増殖炉の開発は急速に進んでいる。一旦中止したフランスも再び、次世代型高速炉の開発に取り組んでいる。日本が脱落しても、世界は安全性を高めつつ新しい技術を開発していくだろう。これまでに蓄積してきた日本の技術を大事にすべき局面である。
 
日本はこれまでに徹底した情報公開、いわば「正直路線」で国際社会の信用を勝ち取ってきた。結果、非核保有国として、唯一、原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す再処理を許された。いま、高速増殖炉への道を閉ざせば、日本が築いたこの信用の上に成り立つ核燃料サイクル全体も破綻しかねない。
 
では、規制委の勧告に対して、具体的にどうすべきか。機構にかわり得る唯一の組織と目されている日本原燃は、電力各社が人材と資金を出して支えてきた民営会社である。ここに政府が明確にコミットすることだ。核燃料サイクルを国の事業と位置づけて、安全性を確保するためにも必要な資金と人材を投入し、維持する政策を打ち出すべきであろう。
 
同時に、前述のように原発業界も規制委も書類で押し潰されそうな状況が、真に安全性を高めることにつながるのか。どう考えてもおかしいと思う現状の改善策を、3条委員会の権威で守られている規制委員各氏にも厳しく問うていくことが必要だ。

『週刊新潮』 2015年11月26日号
日本ルネッサンス 第681回

◆オバマの平和レガシー

Andy Chang



パリ同時多発テロのあと、G20でオバマは記者会見でイスラム過激派について4回も記者に質問され、4回とも「イスラム過激派(Radical Isalamist)」の名称を使うことを拒否した。オバマは新聞記者の質問に対し、「我々はイスラム教徒(回教徒)を敵としない。

イスラム教は平和的な宗教だ。アメリカはイスラム教を敵としない」と繰り返した。イスラム過激派をイスラム教徒と言い換えたのだ。

同じくヒラリーも選挙運動でイスラム教徒は平和を愛する人たちだと述べた。ヒラリーもイスラム教徒にも過激派がいることを拒否したのだ。ISISと呼ぶイスラム過激派は自分からイスラム帝国(ISIS)を名乗っている。それなのにオバマとヒラリーはイスラム過激派、
ISISと呼ぶことを否定する。

「イスラム教」早分かり(2)
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平井 修一
回教徒がみんな平和を愛するかどうかは別問題である。回教徒の中にも過激派がいる。

アメリカ大統領はみんな偉人だが、愚かな大統領も一人居る。

●ISISはオバマが作った

ジュリアーニ元ニューヨーク市長はFoxnewsで「イスラム帝国(ISIS)はオバマが作ったのだ」と断言した。オバマは中東の動乱をブッシュの責任にして批判を繰り返し、イラクとアフガンから撤兵したオバマを中東平和と呼ぶレガシー作りに励む。

国防部とCIAの反対にもかかわらずイラク撤兵を強行したためイラクで真空状態が起きた。アルカイーダ、ISISなどが強大になった。つまりオバマがISISを作ったのだとジュリアーニが述べた。多くの人も同意している。

オバマが「ISISは消滅した」とテレビで述べたあと、ケリー国務長官も「ISISはもう存在しない」と述べたが、翌日にパリで同時多発テロが起きた。フランス、ベルギー、ドイツ、英国などが我々は団結し、陸上部隊を派遣してISISを撲滅しなければ世界各地でテロが
起きると警告したが、オバマは空爆に賛成しても兵隊は派遣しない
と主張している。

●親米民主国家作りで反米組織が育った

オバマはアメリカ兵を派遣しなければ中東の平和レガシーを作ったと言う。中東の動乱はブッシュの責任だと言い張る。

だが真相は大いに違う。ブッシュがイラクとアフガニスタンで泥沼に嵌った。オバマが大統領になったあと、事あるごとにブッシュの責任を言い立ててイラクから撤兵した。そのためイラクが真空状態になって反乱がおきた。アメリカがイラクやアフガニスタンで作っ
た新政府は汚職まみれ、アメリカが訓練した軍隊も汚職まみれの軍隊だった。オバマはこれもブッシュの責任にした。

まだある。オバマはリビアとエジプトで独裁者打倒、革命と民主を援助して反乱組織に武器を提供した。そしてリビアのカダフィとエジプトのムバラクを降して新政府を作った。オバマは独裁者を倒して親米民主国家を作った功績を自慢したかった。

ところがこれが裏目に出た。リビアとエジプトの革命はオバマが反乱組織に提供した武器のおかげだが、独裁者の追放後に武器がアルカイーダやISISの手に渡って反米組織が増大した。オバマは独裁者追放、親米政権をめざした挙句、反米のISISが出来たのである。

オバマはこれにも懲りず、シリアのアサドは独裁者だと主張し、リビアの反乱軍に提供した武器を取り戻して反アサド組織に渡そうとして失敗、スティーブンス大使を含む4人がアルカイーダの攻撃で殺害された。これがベンガジ事件である。

オバマとヒラリーが反乱軍に提供した武器は国会の承認を経ていなかったので武器を取り戻す交渉は極秘だった。このためヒラリーは護衛二人をつけただけでスティーブンス大使をベンガジに派遣し、大使と三人の護衛がアルカイーダに攻撃されて死亡したのである。
ヒラリーは真相を言わないから調査は難航している。真相が解明されたらオバマは罷免、ヒラリーは監獄だ。

●オバマの平和レガシー

オバマは中東でも南シナ海でも戦争をしない、軍隊を派遣しない。戦争しないレガシーを残すため、国防部やCIAがいくらISISの撲滅には派兵が必要だと説得しても反対である。

南シナ海で中国が埋め立て構築をしても南シナ海にイージス艦を遊弋させる示威しかやらない。フランスでISISの同時多発テロが起きても「イスラムは敵ではない」と言い張る。みんなオバマのエゴを満足させるためだ。

ISISはアメリカを最大の敵としている。アメリカ国内でテロ攻撃が起きる可能性は非常に高い。オバマはテロの危険性を認めながらテロを撲滅するにはISISの根拠地を徹底的に攻撃しなければならないと言っても空爆だけで派兵は避けている。

その上にオバマは人道的援助でシリアの難民を収容すると発表した。難民の中にテロ分子がいる可能性は高い。パスポートも記録もない難民の身元調査をどうやったらいいのか、こんな調査が信用できるか。オバマの決定に全国で反対運動が起き、全米で32州が難民受け入れを拒否している。憲法によれば外国から来た人間の身元と安全性が確認されなければ入国を拒否できるとしている。CIAもFBIもシリアの難民の中に潜入したテロ分子の摘発は出来ないとしている。

それでもオバマは國民の安全を守る責任を無視してレガシー作りをやりたがる。アメリカ国内でテロ攻撃が起きたらオバマは史上最低の大統領、罷免運動が起きるだろう。


◆「イスラム教」早分かり(2)

平井 修一



甲斐静馬著「中近東」の紹介を続ける。(甲斐静馬なんて格好良すぎる名前だ。世が世なら一国一城の殿様や地域の覇者になっていそうである。閑話休題)

日本人はイスラムとなじみが薄いので、その概要を説明しておこう。

信仰とは、神、天使、経典、預言者、来世、天命の六つを信ずることを指し「六信」という。(神と天使を一つにして「五信」とも)

・神(アッラー):全知全能の絶対神、宇宙の原動力で、天地間のあらゆるものの支配者。イスラムはアッラーのほかにいかなる神の存在も絶対に認めない。

・天使(マラク):アッラーに仕える清浄な霊魂。天使は多数いるが、もっとも貴いとされているのは「四大天使」である。

・経典(キターブ):アッラーが天使ガブリエルを介し、それぞれの時代に示した天啓(神の教え)の記録の集成をいう。

これは全部で104巻あるが、そのうち最も神聖なのは、モーセに与えられた『五書』、ダビデに与えられた『詩篇』、キリストに与えられた『バイブル』、マホメットに与えられた『コーラン』である。

イスラムはコーランがこれら経典中で特別な地位を占め、コーラン以外の経典は天啓の一部を伝えるにすぎないが、コーランこそは天啓の完全な記録であると主張する。

・預言者(ナビー):アッラーが真意を人間に伝えるために送った人を指す。預言者のうち最も偉大なものは、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、キリスト、マホメットの六人、その中でもマホメットこそは最大で最終の預言者であるというのである。

・来世(アーラキラット):イスラムでは現世の次には来世があると考える。イスラム教徒は現世で生を終えたものは、アッラーから「最後の審判」を受け、善人は極楽浄土に導かれ、悪人は地獄に落とされると信じている。

・天命(カダル):アッラーは宇宙の力の根源である、万物の生滅は神の御旨による、どんな小さなことでもすべて神意によるとする。

さて、教徒の勤めである勤行は、信仰の告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼で、五行という。

・信仰の告白(シャハダ):「アッラーのほかに神なし、マホメットはその使徒なり」と信じ、絶えずこれを口に唱えること。

・礼拝(サラート):最も大事な勤行で、毎日決まった時間に五回、礼拝を行わねばならない。まず身を清浄にしたのち、メッカの方角に向かって礼拝する。一週のうち金曜日は神聖な日で、モスク(礼拝所)で公式な礼拝を行わねばならない。

・断食(サウム):イスラム暦九月ラマダンに一か月間にわたって行う断食を言う。これは、マホメットがメッカ郊外のヒラーの洞穴で一カ月間断食苦行したのち、アッラーからコーランを授かった時の苦行を偲ぶためのもので、この期間は日の出から日没まで完全に断食しなければならない。

・喜捨(ザカート):礼拝に次ぐ重い勤行で、神への奉仕として貧者に恵むとともに、教団の相互扶助の意味もある。義務的なもの(ザカート)と任意的なもの(サダカート)の二種類があり、第一のものには詳細な規定があるが、、金銭または現物の場合だと、一年の収入の1/40に決められている。

・巡礼(ハジ):勤行中、最も重大なもののひとつで、イスラム暦の第十二月にメッカの霊場「カーバの神殿」に参詣することである。メッカ巡礼を無事終了したものは「ハジ」の称号を得て、特別のターバンを巻くことが許される。(次号に続く)

平井思うに、イスラム教はずいぶんと面倒臭い宗教だ。眠っている時以外は常にイスラム教のことを心に刻み、「アッラーのほかに神なし、マホメットはその使徒なり」と繰り返しているのではないか。二六時中、洗脳シャワーを浴びている感じだ。

小生のよう八百万の神の国で育って「宗教の教えは賢く生きるための知恵、一種の方便だ」としか思わない者にとってはイスラム教は理解しがたい。多分、世界中の多くの人は困惑し、イスラム教徒でさえ自国や周辺国の憎悪と破壊の現状を見ながら戸惑っているのではないか。すべてはアッラーの神意、神の与えたもうた試練だなんて割り切れるものではないだろう。

世界はイスラム教に振り回され続けるのか、それともイスラム教が自己改革するのか・・・1000年以上も続いてきたものが50年、100年で変わるはずはないのか・・・「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫びながら無差別殺戮をする・・・世界の悩みは募るばかりだ。(2015/11/26)

◆木津川だより 壬申の乱(3)

白井 繁夫



壬申の乱の戦は、これまでに河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は、後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せる大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦です。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げ途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)と合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。

一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も、河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は、西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が、大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は、(東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され、東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて、飛鳥を目指して攻めたのです。

これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負が中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)を上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は、三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃・撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和での戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は、何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、近江軍は大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は、北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になったとの報告に接し、即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は、王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)などの将軍(指揮官)と、中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は、不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチが2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わたのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く、置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため、多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は、総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは、面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時は、各豪族の指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略・指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は、即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で動向が戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏など状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は、東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は、当初は大海人皇子に必勝すると信じて、戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を左右するしかないと思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦いには天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。
(郷土愛好家)
参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著
                            

2015年11月27日

◆「イスラム国」問題は長期化

宮家 邦彦



「支配領域外テロ続発、「能力向上」の結果

再びパリでおぞましい事件が起きた。「イスラム国」による卑劣なテロで130人を超える無辜(むこ)の市民が殺害された。欧州版「9・11」が始まったのだ。宗教に名を借りたこの許し難き蛮行に驚愕(きょうがく)と憤りを禁じ得ない。犠牲者のご冥福を心からお祈りしたい。

残念ながらイスラム過激テロは進化しつつある。「イスラム国」は小規模テロ諸集団の緩やかな連合体の一つにすぎないが、その能力を欧州は過小評価したようだ。今回の事件は「国境のない欧州」という夢の終焉(しゅうえん)だけでなく、欧州における民族主義、排外主義、反移民主義の拡大をも暗示している。

なぜパリだったのか? 直接の理由はアフリカ・シリアでの仏の軍事介入への反発だろうが、対象がパリのみのはずはない。テロリストは最小の犠牲で敵対者に最大の恐怖と衝撃を与えようと試みる。パリに限らず、西欧主要都市にはイスラム移民の「海」がある。若者の疎外感は過激主義からの誘惑に脆弱(ぜいじゃく)だ。不満は貧困層だけでなく、インテリ層にも広がっている。

旧植民地から多くのイスラム教徒移民を受け入れた英仏国内のムスリム人口は全体の5〜8%に達する。イギリスが移民の宗教・文化を尊重するのに対し、フランスは世俗主義の尊重を移民に求めるなど手法は異なるが、新移民に深い疎外感を抱かせた点は同じだ。

問題の本質は既存欧州社会との格差と根強い差別への反発だ。宗教は原因ではなく、結果なのである。

ではなぜ仏警備当局はテロを防げなかったのか。情報収集体制不備を指摘する声もあるが、筆者は懐疑的だ。犯人たちはジハード(聖戦)で殉教する覚悟だから、そもそもテロの抑止は難しい。

しかも彼らには最も脆弱なターゲットを選ぶ自由がある。「イスラム国」などと称してはいるが、決して一枚岩の強固な組織ではない。

だが、個々の集団が小規模だからこそイスラム移民の「海」で深く潜航できるのだろう。これに対し、当局側は全ての場所を守る義務がある。要するに、「テロとの闘い」は攻撃側が圧倒的に有利なゲームなのだ。

今の「イスラム国」に2014年7月のような勢いはない。他方、それが空爆により直ちに弱体化する可能性も低いだろう。彼らの戦略は一貫している。

最近支配領域外テロが相次いだ理由は「方針変更」よりも「能力向上」の結果と見るべきだ。

では国際社会はどう対応すべきか。「イスラム国」がテロ攻撃を続ける以上、武力による対応は不可避だ。他方、古今東西、空爆によって雌雄を決した戦争などない。「イスラム国」を制圧するには大規模な陸上部隊を派遣し火力で圧倒するしかない。

だが、欧米はもちろん、ロシアですら大量の犠牲者を出す大規模地上戦は望まないだろう。同床異夢の米英仏露4カ国がアサド政権退陣で一致でもしない限り、会議は踊るだけだ。

そもそも問題の根源はシリア・イラクの政治的混乱だ。責任ある役割を果たすべきはアラブ諸国だが、自己統治能力が劣化しつつある今のアラブに団結は望めない。されば、シリアとイラクで生じつつある「力の真空」を埋めるのは近隣の非アラブ国で旧帝国でもあるトルコやイランとなるかもしれない。

いずれにせよ、「イスラム国」問題は長期化し、国際社会は難しい対応を迫られる。「イスラム国」が攻撃を続ける以上、短期的には物理的な外科手術が必要だ。さらに、中期的には欧州・関係各国で内外警備を強化する必要もあるだろう。

しかし、それだけでは不十分だ。長期的に「イスラム国」のようなテロ集団を根絶するには、中東アフリカの破綻国家を再建し、まともな中央政府と正規軍を再構築する必要がある。これこそ日本が貢献できる分野だが、主要国の足並みはいまだそろっていない。日本の貢献にも限界があることだけは確かである。

【プロフィル】宮家邦彦

みやけ・くにひこ 昭和28(1953)年、神奈川県出身。栄光学園高、東京大学法学部卒。53年外務省入省。中東1課長、在中国大使館公使、中東アフリカ局参事官などを歴任し、平成17年退官。

第1次安倍内閣では首相公邸連絡調整官を務めた。現在、立命館大学客員教授、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。

産経ニュース【宮家邦彦のWorld Watch】2015.11.26

◆「イスラム教」早分かり(1)

平井 修一



言論は本質的に「拡散」を望むものである。どんどんコピペされ、あちこちに拡散され、それなりに読者に影響力を与え、共感を得ることができれば、発信者はとてもうれしい気分になる。

コピペは著作権法に抵触する恐れがあるが、一般的にマスコミ界では「コピペは記事全体の40%ほどにとどめた方がいい」と言われているが、小生の場合は「いろいろな論考を紹介する」のがブログの目的だから、80〜90%はコピペになってしまう。

ただ、著作権法で規制しているのは「商売のための流用」で、小生は一種の趣味、個人的なブログ(日記)への流用だから著作権法の枠外だ。だから小生のコピペは法律的には問題ないが、コピペだけでは価値というか芸がないので、自分の考えをできるだけ添えるようにしている。

それにしても昔の本はテキストデータになっていないから、甲斐静馬著「中近東」(1957年初版、1970年改定版)の紹介はずっとできずにいたが、イスラム教の紹介が実に(小生のような素人に)分かりやすいので、「これは面倒でも入力するしかないなあ」と挑戦することにした。

以下、何回かに分けて紹介する。(加齢とともに根性がなくなってきたので自信がないが、英霊に恥じないようにフンバルしかない・・・)

*イスラム教

イスラム教とは西暦紀元第7世紀にマホメットの始めた厳格な一神教で、仏教、キリスト教と並んで世界3大宗教のひとつであり、今日、アジア、アフリカに数億の信徒を擁する。

特に中近東では不動の地位を占め、過去300年間にわたって重大な影響を及ぼしてきた。

イスラム教はわが国では回教、またはマホメット教と呼び馴らされているが、イスラム教というのが正しい。

*マホメットとイスラム教

教祖マホメットは生年不詳であるが、紀元570年ごろメッカの名家に生まれた。(しかし)早くから両親を失って孤児となり、つぶさに人生の辛酸を舐めつくした。

25歳の頃、富裕な未亡人と結婚、(以後)10数年、平凡で幸福な市民生活を送ったが、40歳の頃(西暦610年頃)、神の啓示を受けてイスラム教を始め、「最後の、最大の預言者」として、632年に死去するまで布教に全力を傾け、イスラムの基礎を確立した。

マホメットの生まれた当時のアラビアは、いくつもの部族共同体に分裂し、互いに反目と抗争を繰り返していた。

<平井:ヘディン著「シルクロード」によると、支那は1911年の清朝崩壊、中華民国建国から中共が全国制覇する1949年までそういう状態だった。民衆はひたすら安定した治安を求め、青天白日旗や紅旗、軍閥の旗などを状況に合わせて掲げたという。

いろいろな記事によると、「強くてお行儀のいい日本軍は日の丸の旗をもって大歓迎され、ずーっと駐留してくれと地元自治体から懇請された」そうだ(古野直也著「張家三代の興亡」)。当時の支那人は今のシリアやイラクのようなカオスにうんざりしていたのだ。閑話休題>

各部族の間では、それぞれの部族神あるいは偶像崇拝は盛んに行われていた。また、この中心地のメッカでは、奴隷売買などによる隊商(キャラバン隊)商業と巡礼で巨富を積んだ貴族と、債務奴隷の常態に置かれた市民の貧富の差がますます大きくなった。

このために経済的、社会的不安が激化し、アラビア社会は重大な危機の真っただ中にあった。

こういった状態の中でマホメットがユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響下で唱えた厳格な一神教は、部族の神々をすべて否定し、同時に個々の部族の血による共同体概念を排し、アッラーへの帰依の形でアラブの民族的統一を可能にした。そしてこの民族的統一を基礎として「アラブの征服」が行われた。

イスラムはアッラーを信ずる者は、血統、身分の上下、民族の差別なく、まったく平等の教友として結合することを許した。イスラムが世界的大宗教として発展した根本原因は、まさにここにあった。

H.G.ウエルズはイスラムの特長として、第一は「妥協することを知らぬ一神教」であること、

第二はイケニエを司る僧侶や寺院がまったくなく、「血のイケニエに堕落する可能性のないまったくの預言宗教」であること、(平井:預言とは神の言葉を伝えて人々を正しい方向へ導くこと。導く者を預言者という)

第三は「神の前ではすべての信者が肌の色や素性や身分のいかんを問わず完全な兄弟で平等だ」と主張していること、

の三つを指摘している。

こうしてアラブの征服とともに、イスラムは近隣の各地から遠く北アフリカ、アジアへと拡がり、ついに世界三大宗教のひとつとなった。

同時にこういった積極面とともに見落としてならないのは、イスラムが支配階級の道具となり、「社会的、経済的不平等を正当化」し、「搾取的機構の設定を容易にする」という消極的な面ももっていたことである。イスラムが帝国主義に利用されるに至ったのは決して偶然ではない。(続く)
(2015/11/26)

◆木津川だより 壬申の乱 A

白井 繁夫



大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。(再掲)    
                               (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町

2015年11月26日

◆王岐山、22日間の不在(つづき)

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)11月26日(木曜日)
          通算第4739号>  

〜王岐山、22日間の不在(つづき)
   金融界の大物逮捕は桃剛(証券監査委員会主任)だった〜

 
小誌で既報のとおり、反腐敗キャンペーンはその後も休みなく続行中である。

王岐山の雲隠れ、神出鬼没ぶりは相変わらずで、次の標的は金融界の大物だろうと推測されていたが、なんと拘束、取り調べの標的は証券取引の監査をおこなう責任者の桃剛だった(桃は「女」扁)。

桃剛は証券監査委員会主任という立場を利用して、上場審査の権利を巧みに利用し、とりわけA株のIPO(新規株式公開)を操作し、巨額の賄賂を受け取っていた。

北方集団(北京大学関連のベンチャー企業)の怪しげなインサイダー取引の黒幕は李友だったが、彼らと連んで株価操作、怪しげな会社の上場認可などを行い、以前から黒い噂はあった。

手口はIPO許可のインサイダー情報を太子党や側近に教え、あらかじめ当該株式を大量に購入し、売り抜けるもので、子弟や親戚名義で大量の株式を事前に買い集め、数千億元の不当な利益を得ていた容疑、部下のなかには公文書偽造、印鑑偽造などに手を染めた豪傑もいた(東方新報、11月26日)。

王岐山の雲隠れはまた全国を潜行行脚し、地方当局が手を付けられない市政府、県役場などに乗り込み、マフィアとつるんだ共産党幹部等を逮捕してきたが、なかには白雪山(寧夏政府主席)の大物が含まれた。

第18回党大会以後だけでも摘発は31の省にまたがり、59人の幹部が拘束され、失脚した。

山西省7人、内蒙古4,江西省4,黒竜江省3,四川省3,雲南省3,河北省3,江蘇省3,広東省2,広西、湖南、海南、福建省、湖北各2などと全土的な汚職の広がりには唖然とするばかりである。
    

◆中国海軍の基本戦略は不変

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)11月日(25水曜日)通算第4738号>  

 
〜中国海軍の基本戦略は不変
  しかし2040年に太平洋を米国と分割統治できるか?〜

トウ小平時代に劉華清によって立案された中国海軍戦略は、着々と進行し、その全貌を露わにしてきた。

第一列島線突破は間近に迫り、南シナ海の人口島埋立による九等線の確保も道半ば、2020年にグアム・サイパンから小笠原諸島をつなぐ第二列島線確保のため、グアムキラー、空母キラーというミサイル軍も備わった。

静かに着実に、私たちが気がつけば「サラミ戦略」は半ば近く達成されていることが分かる。すでに米空母は台湾海峡から東シナ海へ入りにくくなっており、海兵隊はグアム以東へ主力を移転させる。

川村純彦・元海将の分析によれば、中国のやり方には5つの段階があるという。

第1段階は国際法では認められないことを「国内法」で宣言する(92年海洋法が典型である)

第2段階は「避難」などを名目に漁船群を目標海域に進出させ、乗組員は「海上民兵」といって、軍事訓練を積んでいる(典型は昨年小笠原に現れ赤珊瑚を盗んでいった漁船団)

第3段階は相手国のクレームに備え海警がでてくるが、強力な放水装置と、体当たり戦術などをとって既成事実を積み上げる。これも尖閣諸島では日常茶飯となっている。

第4段階は相手国の威嚇行動があれば海軍が出てくる(ベトナムなど、実際に海軍の軍艦がでてきた)

第5段階では「平和的話し合い」などと言って外交交渉にうつり、既成事実を背景に交渉を有利にすすめてしまう。

尖閣も台湾も南シナ海も、全ては、この段階設計に基づいて行われており、日本は米国との同盟関係を強め、防衛力を一段と、急速に高めなければならないと川村氏らは言う。
     

◆三島事件の、ある直観的分析

泉 ユキヲ


きのう25日は自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が自決して、ちょうど45年。昭和45年11月25日。

「三島事件」はなぜ、ああいう展開になったのか。

事件の25年後の平成7年に、西部 邁(すすむ)さんと秋山祐徳(ゆうとく)さんが語り合っている仮説がある。「それって、ありそう」と、耳を傾けてしまった。ご紹介したい。

何に書いてあるかというと、この本の第5章:
西部 邁・秋山祐徳 対談

『ポップコン宣言 偽りの戦後史を書き替える』

(光文社カッパサイエンス、平成7年刊)

絶版だが、Amazonで古本が手に入る。

「ポップコン」はポップコーンとはまったく無関係。

「ポップアート」の「ポップ」と「コンサバ」「ネオコン」の「コン」を組み合せた。強いて漢字訳すれば「民衆的保守」。語義的には「ネオコン」に近い。

■ 引っ込みがつかなくなった ■

まず、西部 邁さん(上掲書163〜164頁)。

 三島由紀夫についてのご発言は沢山あるのですが、その中でわたしがビビッときた箇所を引きます。

≪どんな小さなものであっても政治の場面で言葉を吐くと、たとえばおれは国会に突入してみせるとか、おれは共産党と闘い抜いて勝ってみせるとか、政治の場面で言葉を吐くと、どうしてもそれに責任をとらざるをえなくなる。

ないしは、責任をとらないということはいわば逃亡者になることで、それなりの道徳的制裁を周囲から受ける。≫

≪ちょっとマンガチックに言うと、三島さんのご遺族は怒るかもしれないが、楯の会のあたりで、おれは命を賭けて闘ってみせる、死んでみせる、という言葉を吐いた。

彼は三島ファンに取り囲まれていたわけですから、森田必勝(もりた・ひっしょう)だったかどうかは知らないけれど、「三島さん、そろそろ死ぬべきときが来たのではないですか」と迫られる。

「いや、待て、たかだか学生が新宿で暴れているくらいで、それと闘って死んでみせるというのも、どうも辻褄が合わない。

もうちょっと待て」と三島が言う。

それからまた何カ月かたって、まただれかが、「三島さん、私たちはいつまで待てば命を賭けて闘うことができるのでしょうか。

これから日本に戦争が起こるわけでもあるまいし、日本に強大な共産主義運動が起こる気配もない。

それならば、このままいったら、われわれは死ぬ死ぬと言いながら、自然死か病死で墓に入る顛末になるんじゃないですか。

やはりこういう場面で、命を賭けて闘ってみせることで国民諸君に国民のなんたるべきかを知らしめるべきではないか」と進言する。

そういうことが数度あるうちに、三島はおのれの言葉に責任をもった、あるいはもたざるをえなかった。

だから、死んでみせると言ったから死んでみせた、ということなんだろうと推論してみたわけです。≫

■ プライドが傷ついて ■

次に、秋山祐徳さん。ポップアート作家。

 いまは秋山祐徳太子(ゆうとくたいし)と名乗っておられます。50年・54年には東京都知事選にも立候補した人。

そのときのポスターや記録映像が東京現代美術館の収蔵品展で展示されたのを見て、四国出身のわたしなどは初めて祐徳太子さんのことを知った次第。

近著に『秋山祐徳太子の母』(新潮社)。

銀座4丁目の画廊で行われた出版記念の個展で、わたしも著者署名入りの本と著者のブリキ細工アートを買いました。

その秋山さんの発言から、ビビッときたところ。
上掲書167〜168頁。

≪じつは三島さんが亡くなったとき、直後ですが、ぼく市ヶ谷に行っているんです。現場主義ですから。

そしたらパトカーがいて、今でも目に残っているのは、長い竹竿を持った大きな日の丸姿の民族派の学生がいて、風景的に印象的でね。≫

≪結局三島さんは、バルコニーに出て垂れ幕をたらして、悲痛な声で、こう言っては三島さんに申し訳ないし、三島ファンに怒られるかもしれないが、甲高(かんだか)い声で、緊張してアジるわけです。

学生運動やったりしていた奴はアジテーションはものすごくうまいんだけど、三島さんは正直で、切羽詰まっているから、気の毒でね。

自衛隊員に向かって、おまえらも死ね、闘えということを求めたのだけれど、民主主義の発達した自衛隊のなかで、三島さんは浮いちゃった。

ぼくは見ていて、どう引っ込めばいいんだろう、三島さんはすごく侮辱を受けたなと思った。自衛隊員は「オーイ引っ込め」とか言っている。

あの時点で三島さんは、プライドが傷ついて、一気に死の瀬戸際に行っちゃったんじゃないか。

あの時点で拍手があったりしたら、死なないでよかったのか、それは結果論ですからなんとも言えませんが。≫

■わたしの記憶■

秋山さんの発言を読むと、当時三島由紀夫の演説はテレビ中継されていたのでしょうか。

わたしが三島事件について覚えているのは、朝日新聞の「ひと」欄で三島事件を担当する検察官だったか裁判官だったかが

「事件の背景を理解するために、三島由紀夫作品はこれから読んでみる」と発言していたのに対して、「声」欄の読者投書が「三島由紀夫作品を読んだこともないような人間が三島を裁こうというのはおかしいと、いちゃもんをつけていたこと。

当時11歳のわたしは、「三島由紀夫が好きなひとが裁判を担当したら、かえってまずいんじゃないの?

だから、三島作品はこれから読みます、みたいな人が担するのでいいと思うけど」と「声」欄の読者投書こそおかしいなと思ったことを覚えいます。

三島由紀夫をわたしが読んだのは、恥ずかしながら大学生になってからでした。

■直観的分析に共感する■

三島由紀夫さんは多面的なひと。西部さん・秋山さんの直観的分析こそ、案外真実なのかもしれないなと、亡くなった三島の年齢を11歳もオーバーしてしまったわたしは思うわけです。

三島由紀夫は、端正謹厳をときには装い、あるいは端正謹厳そのものでもあり、そのじつ、じつにお茶目な人でもあった。

 バシッと決めた美意識を貫こうとするウラで、シャイだし、不器用なところもあった。

だから、西部さん・秋山さんの直観は当たっていそうな気がする。

三島由紀夫の天皇観をわたしのことばで言い直すと、天皇は個人の人柄を云々される存在であってはならず、「人間くささ」を一切排除して、日本民族の枠組みを安定させる至高な重石(おもし)であるべきだ、というもの。

わたしは、統治機構のなかに人間臭さ・肉声が混じるとてもだいじなことだと考えているので、三島由紀夫の天皇観には共感できません。

人間臭さを排除した窮極の姿は、すべてが匿名の官僚らによって仕切られること。それこそ、おぞましい世界なわけですから。

◆私の「身辺雑記」(284)

平井 修一



■11月23日(月)、新嘗祭、朝は室温17度、曇、ちょっと寒い。水が冷たくて空気が乾燥しているために右手にひび割れができてバンドエイド、1/3散歩。

<新嘗祭を危険視した占領軍の左派勢力は、米国の Labor Day とThanksgiving Day を併せた Labor Thanksgiving Day という祝日を考案し、これを和訳したのが「勤労感謝の日」である>(ウィキ)

バカバカしいというか、滅茶苦茶だ。

大阪の選挙で橋下一派圧勝。横山ノックを選んだお笑い吉本興業的小4レベルの人々はそのままだ。アホとちゃう? 青島や枡添を選んだ中2の都民とどっちもどっち。目くそ鼻くそ。まったく成長しないというのはスゴイ。議会とのネジレをどうするのだろう。

欧州のお花畑リベラルは「テロに激怒しない」のが有効なのだという。ISは「奴らは敵だ、敵を殺せ」と正しく認識しているのに「過剰反応するな」とリベラルは言う。バカは永遠にバカである。

山本夏彦翁曰く「老人のバカはどうしようもないほどバカだ。バカが10人集まると10倍バカになる」。なす術なし。嗤うしかない。

昨日は疲労困憊した。湿布とQ&Pコーワゴールドで今朝はどうにかパワーが戻ったが、夕べのような大晩餐会、Great Dinnerはもう無理だろう。茶わん蒸しは大好評だったが、面倒臭いのに主菜にはなれない。結局、添え物、副菜なのだ。コロッケと同じ。脇役。

明治日本の洋食料理人の給料はすごかった。ホテルではGMよりも高給だった。黒岩涙香の萬朝報によると帝国ホテルのシェフは妾を持っていたが、それより驚いたのは当時のコロッケはビフテキと同じ値段だった。コロッケは手間がかかるから高いのだ。

それが今や貧乏人の食いものになった。♪今日もコロッケ、明日もコロッケ、という歌もあった。すでに小生が小3の頃(1960年)は肉屋の店頭で5円、小6の頃(1963年)は10円、子供のおやつになってしまった。その当時に親戚の家でお昼ご飯をごちそうになったが、主菜がコロッケでがっかりしたことを思い出す。コロッケは不当に差別されている、とも言える。

先月、カミサンは母と妹を箱根富士屋ホテルに連れて行った。小生からすれば分不相応の高級ホテルだ。山口由美さんはそのホテル創業者の末裔で『箱根富士屋ホテル物語』を著した。縁あって由美さんとは記者仲間になったが、家柄というのはあるもので、大層才色兼備だった。気品があったから手を出せなかった。ちょっと惜しかった。

創業者の山口仙之助は横浜の遊郭経営者だったそうだが、当時は遊郭は芸能界、テーマパークみたいなもので、大変な人気だった。人気の遊女は浮世絵やブロマイドになった。

芸者は「芸は売るが体(色)は売らない」が建前だったが、山本夏彦翁が(大いに苦労して)調べたところによると、お座敷の3割は「陰間」(かげま)、つまり売春だった。馴染みの客には体を売ったのである(今のホステスと一緒)。誰とでも相手にする芸者もいて、それは不見転(みずてん)芸者と言われて軽侮されたが、まあ遊女と芸者は親戚みたいなものだ。

斎藤緑雨によると、遊女曰く「女郎とはあんまりよ、せめてお娼妓さんとお呼びなさい」。娼妓と芸妓は姉妹みたいなものか。

明治の高官、たとえば伊藤博文や木戸孝允の正妻は芸者上がりである。当時、男に交じって堂々、丁々発止の会話ができるのは芸者(=数少ない職業婦人)しかいなかった、という説がある。芸者衆が欧米で日本文化を紹介した記録によると、芸者は武士道的な気概(女丈夫、気風の良さ、芸、誇り)があったから、その説は多分当たっているだろう。

芸者上がりが鹿鳴館時代をリードしたというが、不平等条約改定のために彼女たちも頑張ったのだ(洋装してダンスするなんぞはいささか屈辱的ではあるけれど)。

今は男も女もコロッケのようなカルーイ人々が多い。武士道的な気概、胆力、知性を持った人は少ない。それを死ぬまで目指したいものだ。

■11月24日(火)、朝は室温17度、晴、久し振りにハーフ散歩。

昨日は靖国を狙った爆弾攻撃があった。半島人の仕業だろうか。中共は豪州ダーウィンの港湾施設を99年間租借するというが、豪州政府は資源価格の下落で「貧すれば貪する」になったのか。アボットは立派だったが、ターンブルはかなり怪しい感じがする。

JBプレス11/19、北村淳氏の論考「オーストラリアと米国の同盟関係に中国がくさび 通商・軍事の要衝、ダーウィン港を中国が99年間租借へ」から。

<*ダーウィンはアメリカ海兵隊の拠点

「ダーウィン港99年租借契約」の締結が発表されると、オーストラリアのシンクタンク「オーストラリア戦略政策研究所(ASPI)」はオーストラリア国防上の懸念を表明し、オーストラリア連邦政府による再検討を提言した。

アメリカ海兵隊部隊は過去数年間にわたって、数カ月交代でダーウィン郊外を訪れ、オーストラリア軍による水陸両用作戦能力構築を支援している。アメリカ海兵隊とオーストラリア軍による水陸両用作戦合同訓練も、ダーウィンを中心とする地域で実施されている。

沖縄の海兵隊基地問題が長らく解決しないことなどの影響で、米軍は太平洋地域の海兵隊展開を見直している。ダーウィン近郊における以上の米海兵隊の動きは、その一環である。現在進行中の計画では、2500名規模の海兵遠征隊を定期的にダーウィンに駐留することになっている。

ただし、オーストラリアでは法律によって外国軍の完全な駐留は認めていない。そのため、日本のように永続的な海兵隊基地をオーストラリア領内に設置することはできない。そこで海兵遠征隊は数カ月ごとにダーウィン郊外にローテーション展開する形をとることになっている。

その際、アメリカ海兵隊展開部隊は、ダーウィン港を使用して兵員・資機材の揚陸や、弾薬・食料の補給などを実施しなければならない。現在構築中のオーストラリア軍水陸両用部隊も同様である。

ASPIによると、軍が使用する埠頭そのものは租借契約には含まれていない。ただし、その埠頭に至る道路を含む各種港湾施設は嵐橋集団が管理することになる。

ダーウィン港は、アメリカや友好国の軍艦が毎年100隻以上も使用している。当然のことながら、アメリカ海兵隊やオーストラリア軍からは深刻な警戒の声が上がっている>(以上)

今日は終日、体調不良だった。風邪気味かもしれない。IS菌やら中共菌で地球もふらふらしたままだ。

■11月25日(水)、朝は室温15度、曇、1/3散歩。初冬になった。

三島・森田自刃から45年。押し付けられたGHQマック憲法を「改憲」することができないのならクーデターでガラガラポンし、自衛隊は国軍になるべし、との主張に殉じた。檄文は感動的である。

<我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。

かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。

われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。

シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。

繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。

生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。

それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。

われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである>(以上)

鳴いて血を吐くホトトギス。血は美しいけれどもイノベーション、レボルーションには至らない。今必要なのはGHQを上回る悪知恵、奸計、ガラガラポンで、内閣で棄憲→同時に暫定憲法公布施行→3年後に国民投票で可否を問う。これで日本人は真っ当な和製憲法を持つことになる。

GHQ憲法とそれに拝跪する憲法学者は汚染物として処理し、「昭和の不思議展」で巡回展示したらいい。併設展示は「洗脳 朝日・岩波があった頃」だな。「売国するは我にあり 朝日の3ホンダ」「懺悔の値打ちもない 共同通信記者の回顧録」なんていう企画も面白そうだ。

三島・森田らの怒り、嘆き、憂国の想いは、GHQ憲法介錯、棄憲、新憲法制定となって収まるに違いない。(2015/11/25)