2015年11月26日

◆イケメン好みが日本を潰す:北の湖

MoMotarou



輪島・北の湖対戦は、1972年7月場所 - 1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上2位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(相星決戦が4回)、水入りが3回と数多くの名勝負が展開された。(WIKIより)

           ★

参った。北の湖理事長(62)が急逝された。理事長は中学一年生(13)で土俵に上がった。「部屋の女将(おかみ)が手編みの赤靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門し、北海道から上京して墨田区立両国中学校へ転校した(wiki)」。昔で言えば丁稚奉公からのスタート。

■実力の世界:イデオロギーとの対決

今の時代は瞬間芸やイケメンという表面的な事が重視される。相撲界では余りイケメンなどと持て囃されない。それは実力の差が瞬時に出るからであろう。外国人横綱ばかりになってしまいましたが、誰も日本人横綱を待望するが、民族差別とかジェンダー・ギャップ(男女格差)等とは騒がない。

以前土俵に女性を揚げよと騒いだ大臣や知事もおられるが支持を得られなかったようだ。これが「大人の世界」だろう。外国人力士も総て日本語を使う。

■目を惹きつけた「Cherry Blossoms:桜の猛者(もさ)たち」

先頃大金星を挙げたラグビー日本代表チームは意外也、国籍は日本ではない選手が多い。それでも選手たちは日本に敬意を持ち、誇りも持っているそうだ。彼らのニックネームは「桜の勇者たち」だ。此のことを知って大変嬉しかった。

彼らの体格や人相を見ると、北の湖理事長では無いが、どう見てもイケメンとは思えない(笑)。彼らが南アフリカを破った時「世紀の番狂わせ」と英国は世界に発信した。メディアから飛び込んできた映像に驚いた。ユニホームが大胆な「赤白」。

恰(あたか)も日本国旗を纏(まと)っているが如き。「五郎丸?」。漁船の名前かと勘違い。「なぜラグビーと漁船が?」。将にまさに日本的な名前でした。第一報で参ってしまった。みなさんも同じでしょう。繰り返し見るyoutubeで勝負を確認したが、不明にもボールを持って飛び込んだとしか見えず、その凄さは理解できませんでした。

■全日本代表チームのユニホーム・カラー

先日の野球プレミアム2015では大谷投手の160km速球を見る事ができました。ユニホームは「日本」を感じさせるものではなかった。優勝した韓国チームは水色青色を基調としたもの。これは韓国国旗に使われている。この水色でハットしたのは、2020東京五輪の東京都の案内職員のユニホームの色。同じ。

さらに遡ればサッカー日本代表のユニホーム。どう見ても日本代表とは思えなかった。最近はあの青と言うよりは水色のカラーが徐々に「紺」に近くなった。これは日本で言う「青」になってきたのだ。サッカー界組織の日本勢力が強くなって在日色が薄れて来たのだろう。

■反日国のイメージカラー謀略

ともかく「桜の勇者たち」のユニホームは日本を思い出させてくれた。だから湧いたのだ。他のスポーツではソフトボール女子が真っ赤だった。広告業界もお金に靡(なび)く。ともかく韓国や中国北朝鮮政府の「銭」でも「色」は付いていない。長引く不景気が影響したことも間違いなし。「一矢を」報いたい。

◆木津川だより 壬申の乱 @

◆木津川だより 壬申の乱 @
白井 繁夫



本誌読者の皆様は、日本の歴史上有名な「壬申の乱」のことは良くご存じのはずです。しかし、私が長く書き続けている本題「木津川だより」の流れの中で、この「壬申の乱」を避けて通る訳にはなれません。

長文になりますが、大海人皇子の侵略心理、巧妙な戦略、天運などにつて、思いのままに詳しく綴ってみようと思います。「壬申の乱」の歴史の流れは、これから追々。

さて、(672年)天武元年6月24日大海人皇子が東国を目指してひそかに吉野を脱出した時は、大海人に従った者は妃の鸕野皇女と草壁.忍壁両皇子、舎人20余人に女孺(にょじゅ:鸕野皇女などに仕えた女官)わずか10余人の人数でした。

しかも、初日は約70kmの山道を進む、(道中には大友皇子の生母の出身地があると云う)超ハードのスケジュールです。(出家して吉野を目指して早朝より大津宮を出た日の距離の飛鳥「島宮」までとほぼ同距離を進みますが、その日の道中「山城道」は全体的に平坦な平野でした。)

大海人皇子が約半年間推考して戦略を練り、吉野脱出を決断した「壬申の乱」の大きな要素ともみなされるのは、「親の子に対する愛」がそうさせたと 私は思うのです。

天智天皇の晩年、生母が「卑母」である大友皇子を「皇位継承者」にと願い今までのしきたりを無視する行為を取る、強い愛と同じで、大海人皇子の妃の鸕野皇女は天智天皇の皇女.むすめであり、夫は天智の実弟です。

だから大海人皇子は有力な「皇位継承者」でもありました。而も二人の間の子(草壁皇子)は由緒正しい皇孫です。親(鸕野)の愛も非常に強いものだったと思います。

吉野脱出に先立ち6月22日には、前回本誌に掲載した如く、東国(湯沐令 多品治)に向けて発進した3名の大海人の使者(村国男依ほか2名)が、吉野.大倭.伊賀.伊勢.美濃へ至る行軍ルートの総てにわたる計画が周知され、準備を整えられるように派遣されたのです。

脱出ルートは吉野へ来た泉津.乃楽山.飛鳥の平坦地を避けて、吉野から吉野川沿いに上流に向かい、矢治峠を越える山道から「菟田(ウダ)の吾城:奈良県宇陀市」を抜け、「名墾(名張市)の横河」(名張川と宇陀川の合流点:畿内と外国の境)を経て「伊賀の中山」(三重県上野市)へ出るという、険しいルートでした。

菟田の吾城で屯田司(ミタノツカサ:近江朝の食料供御を行う司)土師馬手が食事を奉る。
(先遣使者よりの言で舎人土師氏は大海人皇子の行幸?と思ったか、大海人一行は、初日70余kmの行軍中、この時食事したのが最初で、何と初日は宿泊地まで食事なしで進む。)

飛鳥京の留守司高坂王への使者は3名が当日(24日)に発遣され、「駅鈴:ウマヤノスズ」を乞わせました。(美濃までの「駅家:ウマヤ」において大海人一行の馬の確保依頼:実際は独自で手を打っていました。高坂王は大海人皇子に好意を持っており、快応していたかも?)

使者3名の役割です。

大分恵尺(オオキダノエサカ)は、近江へ急行して大津.高市両皇子に大海人皇子の吉野脱出報告とその後の合流(予定戦略)など、黄書大伴(キフミノオオトモ)は大倭の「百済の家」に結集して兄の大伴馬来田と共に菟田で合流、逢志摩(オオノシマ)は近江朝からの追手がすぐ来ぬように近江に伝わらぬよう留守司に頼みて帰還など。

また「菟田郡家」(現宇陀市榛原区萩原)で湯沐の米運搬の駄馬ニオイウマ50頭(湯沐令多品治オオノホンジの手配の馬)を大海人皇子が得る。吉野から32kmの大野(室生)で日没、これより夜間行軍で「隠駅家:なばりのうまや」に着き、その家を焼いて人夫を求めてみたが真夜中では烽火(のろし)の役目だけで終わる。

「伊賀の中山」は大友皇子の生母の出身氏族(竹原氏)の本拠地へ東北東約8kmの至近距離です。

ところが、そこへ着くと「郡司」が数百の兵を率いて一行に合流してきました。伊賀国の北部の阿閉氏と南部の伊賀氏がともに大海人軍の味方に付いてくれたのです。
(対新羅戦用に近江朝が徴発した徴兵が100余人大海人軍に加わったのです。)

東海道ルートを外れ美濃への最短ルートを採り、「伊賀駅家」:上野市を流れる木津川を挟む古郡フルゴオリ:から「莿萩野」(タラノ:伊賀市佐那具町)へ25日の夜明け前に着きました。

吉野を出て70余km、20時間の進軍を終えてやっと休息、2回目の食事を取ることが出来たのです。
(飛鳥から近江朝へは高坂王の情報統制が有り、まだ気づかれずに進みました。)

25日の未明に近江と伊勢の交通の要所「積殖(つむえ)の山口」:三重県伊賀町柘植(大和と東国を結ぶ道が合流)に大海人一行は到着し、そこへ高市皇子の騎馬隊が舎人達と「鹿深」(カフカ:滋賀県甲賀郡)を越えて合流して来ました。

大海人一行は、伊賀と伊勢の国境の「加太(かぶと)峠」を越えて「鈴鹿郡:すずかのこおり」に入り(東国に入り)脱出が、ひと先ず成功しました。(近江からの高市の舎人は民大火.赤染徳足.大蔵広隅.坂上国麻呂.古市黒麻呂.竹田大徳.胆香瓦安倍:イカゴノアヘです。)

伊勢の「鈴鹿郡家こおりのみや」(鈴鹿郡関町金場付近)では国宰の三宅石床(イワトコ:駄馬50頭送付者)と、三輪子首(コビト)、湯沐令(ユノウナガシ)の田中足麻呂(タリマロ)と高田新宅(ニイノミ:祖父の高田足人が、私馬を大海人に美濃.尾張まで提供)などが出迎え、大量軍が集結しました。

伊勢の国宰三宅連石床は大海人皇子の下で、伊勢軍の統率者となり500の兵を率いて「鈴鹿の山道」を25日中に塞ぎました。三輪子首の軍は後日大和(飛鳥)進攻軍に編入されました。

25日の夕方、「川曲(かわわ)の坂下」(鈴鹿市木田町)に着き、「三重郡家」(四日市市東坂町)には夜になって到着して休息しました。

6月26日早朝:大海人皇子や草壁.高市などの一行は「朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺」に到着して、天照大神を遥拝しました。(戦勝祈願)。

「朝明郡家」(四日市市大矢知町)の大海人軍の処に、高坂王の一行が「鈴鹿山道」に来たと連絡あり、路益人を派遣したら、大津皇子の一行と近江へ派遣した大分恵尺等が留められていました。

(大津皇子幼少のため、馬でなく加太峠越えを「輿」で越えたから遅れた。)
ようやく大津皇子の一行は両親に合流できたのです。(大津の舎人の中には後の瀬田橋の攻防で先鋒となった大分稚臣(オオキダノワカオミ)や舎人の戦死者も多数でました。)

他方では、22日に先遣していた舎人の村国男依(オヨリ)が「安八磨郡(あはちまのこほり)の兵」3000人を率いて、「不破道の閉塞」(岐阜県関ケ原町)に成功した、との吉報を得ました。

夕方吉野から145kmの「桑名郡家」に着き、大海人一行は留まりました。
(大海人皇子は東海軍(尾張.三河)、東山軍(信濃.甲斐)を徴発する使者を派遣する。)

27日は妃の鸕野と草壁.大津を桑名に残して、野上(美濃の野上郡:現関ケ原町野上)へ大海人は行き、高市は「和蹔:わざみ」(関ヶ原町関ヶ原)から出迎え。ここが吉野を出て4日間(186km)の行軍の終着地とし、「野上行宮かりみや」としました。

多品治と村国男依が塞いでいた「不破道」で、尾張国司守:小子部連鉏鉤(チイサコベノサイチ)が2万の兵を率いて配下に入りました。

こんな中で、同じ26日の夕方近江朝の東国への使者「書薬フミノクスリと忍坂大摩侶」が捕捉され、少し遅れて来た韋那磐鍬(イナノイワスキ)がこれを見て大津宮へ逃げ帰った結果、27日には近江朝が「事の重大性」に気づいたのです。

「不破道」の封鎖が1日遅れていたら、2万の兵は近江朝軍の支配下になり、尚且つ、東国へ近江の使者が入っていたことでしょう。天運は大海人皇子に味方した、と思います。

「和蹔」に大海人軍の主力部隊を集め、全軍の最高司令官として高市皇子を任命して、
6月28日には全軍を検軍し、高市の下で指揮命令するなどの軍事訓練を行いました。

近江朝は、罠に嵌ったのです。

遅れ馳せながら、やっと戦闘準備に入り、西国へも徴兵を急がす使者の派遣、近江路と大和飛鳥の2方面への戦闘軍の編成に入りました。

しかし、大友皇子は唐からの使者「郭務悰カクムソウ」の応対に忙殺されていたため、迂闊にもこの時点まで、大海人皇子の動静を把握していなかったのです。

だから、大海人皇子が既に東国に入り、対新羅戦用に徴兵した兵2万余が大海人軍に加わったと云う情報も得ていなかったのです。大友皇子は後手後手に回ったのです。

近江路と大和飛鳥で「壬申の乱」の戦闘の口火がいよいよ切られます。(次回につづけます。再掲)

参考資料: 戦争の日本史2  壬申の乱  倉本一宏 著
      木津町史  本文篇   木津町 
      壬申の乱   中公新書    遠山美都男著 
(郷土愛好家)

2015年11月25日

◆Sシンパ?のパリ・テロ分析

平井 修一



川上泰徳氏の論考「パリ同時多発テロを戦争へと誘導する未確認情報の不気味」(ニューズウィーク11/18)から。

川上氏はフリーランス中東ジャーナリスト。プロフィールにはこうある。

<元朝日新聞記者。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞。

退社後、エジプト・アレクサンドリアを拠点に中東を取材。WEBRONZAやYahoo!ニュースの登録ライター。著書「イラク零年」(朝日新聞)「現地発エジプト革命」(岩波ブックレット)「イスラムを生きる人びと」(岩波書店)>

通常、朝日・岩波的サヨクは反米、反アサド、反イスラエルで、つまりはイスラム過激派へシンパシーを抱くが、川上氏はどうなんだろう。著書『イスラムを生きる人びと―― 伝統と「革命」のあいだで』(岩波)の宣伝文にはこうあった。

<民衆によって多くの国で独裁政権が倒された「アラブの春」。今その後の民主化を主導するムスリム同胞団などのイスラム勢力に注目が集まっている。いまだ根強い原理主義的なイメージとは異なる、人びとの生活に根差した社会や生き方のルールとしてのイスラムのあり方を、長年中東での取材を続けてきた新聞記者が鮮やかに描き出す>

大混乱をもたらした「アラブの春」(小生は「アラブの冬」と思っている)、危険な原理主義勢力「ムスリム同胞団」を讃えている。状況証拠によると川上泰徳氏は「朝日・岩波的反日サヨク」だから、以下の記事も警戒して読んだほうがいい。前書きが長くなってしまった。

<*パリ事件の前日のベイルート連続自爆テロ

フランスで約130人の死者を出した同時多発テロ事件の前日に、レバノンの首都ベイルートで連続自爆テロがあった。死者43人。私はその時、取材でベイルートにいた。ベイルートのテロは、南郊のシーア派地区を狙ったものだった。発生から3時間ほどの間にイスラム国(IS)による犯行声明がインターネットで出た。

現場は、シリア内戦にアサド政権支持で参戦しているシーア派組織ヒズボラの拠点がある場所であり、犯行声明でも「ヒズボラの拠点」と明示していた。現場から中継するレバノンのテレビでは、ヒズボラが標的になったということは強調されなかったが、犯行声明では特定していた。もちろん、死者負傷者は一般市民であり、ヒズボラ支持者とは限らない。無差別テロである。

パリの同時多発テロはさらに暴力的だった。レストランで銃乱射、競技場での爆発、コンサート会場での人質事件と立て続けに起こった。時間が経過するにつれて、死者が増えていった。ベイルートのテロに比べれば、何が標的なのか分からない全くの無差別的な殺戮だった。

*「殉教者」を演じる役者としての自爆者

イスラムでは殺人と自殺は地獄行きの大罪である。外形的には、自殺であり、同時に殺人であるという自爆テロが、自殺でも殺人でもなく、神の敵を成敗するための「殉教」であるためには、宗教的な保証が必要となる。

それを与えるのは、イスラムでは専門的にイスラム法を修めたアーリムと呼ばれる宗教者でなければならない。さらに宗教者と殉教者だけでは、殉教作戦が実行できない。

当然、政治的な意図をもって作戦を実行する仕掛け人が必要となる。

演劇で例えれば、宗教者は台本をかく作家であり、仕掛け人が演出家、自爆者は台本を読み込み、演出家の指示を受け、殉教者を演じる役者ということになろうか。

イスラム教徒なら、台本を書くのは宗教者ではなく、「神(アッラー)」である、というかもしれない。このような例えをすることで、私が言いたいのは、神のもとに行くことしか頭にないほど、宗教の世界に入ってしまっている自爆者に、政治的な意図を立てたり、作戦立案をしたり、または目的地に車を運転していくようなことも含めて、多くの作業を期待することはできない、ということである。

*シャルリ・エブド新聞社襲撃とは作戦の質が異なる

そのように考えれば、7人の自爆者が少なくとも6か所で別々に動き、銃を乱射した後、警官に射殺された一人を除く6人が自爆したという(パリの)テロ攻撃の全様を知った時に、その作戦のために、どれほど大掛かりで周到な準備が行われ、どれだけのサポートの人間が動いたかと考えざるをえなかった。

7人の自爆者とイスラム国とつながる首謀者だけで完結するようなものではない。そのような大規模なテロ作戦を実施できる組織が、フランスにあったということに驚いたのである。

1月にあったシャルリ・エブド週刊新聞社に対する襲撃事件は、全くの犯罪行為ではあるが、新聞社襲撃が目的であった。結果的に襲撃犯は殺害されたが、今回は初めから死ぬことを目的とした「殉教作戦」であって、同じように見えても、作戦の質が全く異なる。

もし、シリアのパスポートを自爆者が身に着けていたとすれば、仕掛け人が何らかの政治的な意図で着けさせたことになろう。もし、そうでなければ、「テロリストがシリアから来た」という政治的なメッセージを拡散させようとする誰かの陰謀である。

*「首謀者」として浮上したブリュッセルの若者

フランスでは押収されたシリアパスポートの解析を含め、事件解明について捜査が続いている。事件の全容解剖には、相当の時間と労力が必要であろう。捜査で7人の実行犯のうち最初に身元が分かったのは、パリから周辺の県に住む、特に重大な犯罪歴のない若者だった。

その後、いきなり、ブリュッセル生まれのモロッコ系移民の息子であるアブデルハミド・アバウード容疑者(27)を、「事件の首謀者」とするメディアの報道が出てきた。

アバウード容疑者はシャルリ・エブド事件の後、今年1月に警官襲撃のテロ未遂事件があった隣国ベルギーのブリュッセルで、その事件の首謀者として名前があがった人物だ。

捜査の手を逃れ、「イスラム国」に逃走していたその若者が、今回のパリ同時多発テロを計画し、仕組んだ首謀者だというのである。

しかし、報道を見ても、彼がシリアにいるのか、欧州にいるのかも分からず、どこから、どのようにして、作戦を指示したのか、さらに、捜査当局は彼の関与をどのようにして知ったのかなど、彼が「首謀者」だと納得できる具体的な情報が何も出てこない。

*「IS空爆」に向かう政治的意図と未確認情報

アバウード容疑者がシリア東部のIS支配地にいるならば、パリでの作戦を遠隔操作で立案したり、指揮をとったりすることは、全く不可能だろう。

ブリュッセルなり、フランスにいて、実際に作戦を立案し、自爆者をリクルートし、当日の手配をとるなど、実質的な指揮をとったというなら、まさに「首謀者」だが、今年1月に仲間と武器とアジトを準備したために、警官に踏み込まれて逃げた若者に、そのような経験と能力があるだろうか。

もし、アバウード容疑者がパリに来て実際に動いたにしろ、IS支配地にいる彼の指令を受けてフランスにある組織が動いたにしろ、重要なのは、イスラム国の指令によるテロ作戦というよりも、フランスとその周辺国を含めたイスラム過激派組織による大規模なテロ作戦が実行されたという事実である。「イスラム国の指令」はあったとしても、二次的な要素である。

どうも、この間の数日の報道や情報の流れを見ていると、「IS空爆」という戦争を激化させようとする政治的な意図のもとに、未確認情報が飛び出し、それによって世論操作が行われ、政治が動いているように思えてならない。

その陰で、フランスや欧州の足下で重大な危機が広がっていくのではないかという危惧を抱かざるをえないのである>(以上)

川上氏は「今回のパリ同時多発テロは、スンニ派のISではなく、他のイスラム過激派組織、多分、シリア内戦にアサド政権支持で参戦しているシーア派組織ヒズボラによるもので、フランスにIS攻撃を強めさせるためという重大な政治的意図が働いているのではないか」と言っているようだ。

氏が著作で持ち上げたムスリム同胞団(エジプト本拠、軍クーデター後は非合法化)はスンニ派で、氏はムスリム同胞団系の組織、たとえばイラクのイスラム党やガザのハマスなどと強いコネクションがあるようだ。スンニ派=いい者、シーア派=悪者と思っているのかもしれない。だからパリ・テロがスンニ派の犯行だとは認めたくないわけだろう。

今のところテロの本当の張本人や背景は分からない。ロイター11/18によると、129人の犠牲者を出した13日の同時多発攻撃受け、フランス警察はこれまでに60人を拘束、118人を自宅軟禁、武器75個を押収している。(2015/11/24)

 
          

◆「憂国忌」は今日です

宮崎 正弘 


<平成27年(2015)11 月24日(火曜日)通算第4734号  (号外)>

「憂国忌」は今日です 
                 ▼
〜第45回 三島由紀夫氏追悼会「憂国忌」
   生誕90年、没後45年、享年45,第45回の追悼儀式〜
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――「ミシマを通して日本を考えよう」
 ことしの憂国忌は45周年の節目となるため2部構成となります

「三島由紀夫氏追悼 第45回 追悼の夕べ」

ことしは三島先生の生誕90周年、没後45年の節目にあたり、第四十五回憂国忌は、生前ゆかりの先生方に想い出話を中軸に感想、雑感、展望などをのべていただきながら将来の日本を考える場としたいと存じます。

節目にあたりますので乃木神社宮司による慰霊祭は、会場の関係で午後二時より、別途「乃木神社」にて催行します。慰霊祭の参加ご希望の方は予約をお願いします。

実施要綱は下記の通りです。

       記

 日時   11月25日 午後6時(5時開場)
 場所   星陵会館大ホール(千代田区永田町2−16)
 資料代  お一人 2千円 

(プログラム)  

午後6時  黙祷、開会の辞(玉川博己)
追悼挨拶(敬称略、順不同。いずれも仮題)
「演劇について」 村松英子
「文学、文士」  西尾幹二
「編集者の思いで」堤 堯
「自衛隊のミシマ」ヘンリー・ストークス
 サプライズ登壇  ケント・ギルバート
「ボディビル」   玉利 齋
「薔薇刑撮影記」  細江英公
「楯の会の想い出」 楯の会第1期生
「もうひとりの主役」中村彰彦

  午后8時15分     閉会の辞     富岡幸一郎

        (なおプログラムは予告無く変更になることがあります。ご了承下さい)

<憂国忌代表発起人>入江隆則、桶谷秀明、佐伯彰一、篠沢秀夫、竹本忠
雄、富岡幸一郎中村彰彦、西尾幹二、細江英公、松本徹、村松瑛子
      
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 午後2時からは乃木神社で慰霊祭が行われます 
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 三島氏没後45周年 慰霊祭
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  11月25日 午後2時 乃木神社
  神道による慰霊祭(祭主 松本徹・三島文学館館長) 
  玉串料2千円をお納め下さい(なお、引き続き午后六時からの「憂国忌」に参加される方は、憂国忌資料代が無料となります)。慰霊祭は予約が必要です(会場定員が100人ですので先着順とします)。慰霊祭は平服で構いません。

なお慰霊祭は1時間の予定、その後、憂国忌会場(星陵会館)への移動は各自で。

連絡先: 三島由紀夫研究会事務局
FAX: 03-5419-7670  電話: 090-1611-9839 (玉川代表幹事)
Eメール: yukokuki@mishima.xii.jp
 もうすこし余席があります
        

◆次の失脚は金融界の大物かと憶測しきり

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)11月24日(火曜日)弐 通算第4737号>  

  
〜次の失脚は金融界の大物かと憶測しきり
          王岐山、またもや22日間の雲隠れ〜

 
王岐山は言わずと知れた「中国版・長谷川平蔵」。反腐敗キャンペーンの先頭にたって、指揮をとる。

次の失脚は金融界の大物かと憶測しきりになった。というのも、11月2日にキッシンジャーと会見して以来、王岐山はまたもや22日間も「雲隠れ」したままだからだ。

春先に20日あまり雲隠れした結果は郭伯雄(前軍事委員会副主席)の失脚に繋がった。また周永康の裁判のため秘書軍団、金庫番など「石油幇」ならびに周が牛耳った「法政幇」幹部等が陸続として逮捕拘束起訴され、監獄へ送られた。

9月27日から10月22日まで、じつに26日間、王岐山は雲隠れ、五中全会を挟んで再び「行方不明」となったが、この期間に失脚したのは寧夏政府副主席の白雪山、上海副市長の?宝俊、北京副書記の呂錫文らだった。

今回、22日間の雲隠れ、そして神出鬼没の王岐山の狙いは金融方面、とくに証券監査委員会幹部らがすでに拘束されているが、この先にみえてくるのは金融界のドン、銀行界の大物等であろうと憶測がしきりである。

蓋を開ければ誰が失脚しているだろうか? 
  

2015年11月24日

◆沈黙する多数の安保法案賛成

阿比留 瑠比



8月30日に国会周辺で行われた安全保障関連法案に反対するデモでの参加者の演説と、それに対する一部メディアの過剰な反応がさっぱり分からない。

主催者発表では約12万人だが、産経新聞の試算では3万2千人程度の参加者にとどまるこのデモが、どうしてそんなに重視されるのか。

デモ翌日の31日の在京各紙をみると、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞が1面でデモを取り上げていた。特に東京は1面をデモの記事で埋め尽くしたほか、2面、3面と社会面見開きで大きく紹介している。

まるでこの日は、ほかにはろくにニュースがなかったかのようである。

 ■多数派の意思無視

もちろん、憲法は集会や表現の自由を保障しているし、デモが意見表明や対象に圧力をかける手段であることも分かる。とはいえ、チベットやウイグルで反中国政府のデモをするのとは異なり、弾圧も粛清も絶対にされない環境でデモをすることが、そんなにもてはやすべきことなのか。

昭和35年の日米安全保障条約改定時には、警視総監が首相官邸に岸信介首相を訪ねて「とても十分な警備ができないから、別のところに移ってくれ」と要請したこともある。

デモ隊が岸氏の自宅の門をたたき壊して火をつけたものを敷地内に投げ込んだ場面もあったといい、それに比べても盛り上がりも緊迫度も雲泥の差だといえる。

「イギリス人にとっての(王の権限を制限した)マグナ・カルタ、フランス人にとってのフランス革命に近いことが、ここで起こっているんじゃないか」

今回のデモで、音楽家の坂本龍一氏はこう訴えたが、比較する対象が根幹から間違っている。

「こんな憲法違反の法案、通すわけにはいかない。これから(国会会期末までの)3週間、さらに力を貸してください」

民主党の岡田克也代表はデモでこう呼びかけた。だが、国民の負託を受けて議席を得た国会議員がなすべきは、デモに加わり、利用することではなくて審議を尽くすことではないのか。

また、31日付朝日の1面コラム「天声人語」は、憲法学者の樋口陽一氏の「一人ひとりが自分の考えで連帯する、まさに現憲法がうたう個人の尊厳のありようです。憲法が身についている」との言葉を引き、こう締めくくっていた。

「民意の力の見せどころが続く」

安保関連法案に自分の考えで賛成している国民は、全く眼中にないようだ。デモに参加しないという圧倒的多数派の沈黙の意思表示は、朝日にとっては民意に値しないのだろう。さらに7月12日付同コラムは、哲学者の柄谷行人氏の次の言葉を引用していた。

「人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる」

 ■民主主義を否定

つまるところ、朝日は憲法が要請する議会制民主主義を否定したいということだろうか。

朝日が尊重してきたはずの憲法前文の書きだし部分には、まさにこうあるではないか。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」

救いは、橋下徹大阪市長が31日付のツイッターで「デモで国家の意思が決定されるのは絶対に駄目だ」「たったあれだけの人数で国家の意思が決定されるなんて民主主義の否定だ」と書いていたことだ。当たり前のことが新鮮に感じた。

(論説委員兼政治部編集委員)

産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2015.9.3
                 (採録:松本市 久保田 康文)



◆GHQと階級闘争史観

大江 洋三



最近、GHQにやられた史観を目にすることが多い。

その通りだが、残念ながらGHQの占領政策は戦勝国として当然の権利でもある。日本も台湾や満州を占領統治した経験がある。

朝鮮半島は?占領地ではなく事実上の保護地であった。

真の問題は、日本の階級闘争史観とGHQの容共派(ケーディス大佐)が結び付いたからだ。

台湾や満州経営は階級闘争史観と全く無縁だった。

一方の、日本には既に占領軍を「解放軍」として迎えた連中がいたし、手平を返すように真っ先に占領軍を迎えたのが朝日新聞である。お陰で、1951年の講和条約で主権を回復したものの、占領軍がいなくなって逆に階級闘争史観は蔓延した。

歴史は下記のように進歩すると考えたので、彼等を進歩的文化人と称する。

原始共産社会→古代奴隷制時代→中世農奴制時代→近代資本主義時代→共産主義時代。

時代は生産手段を保有する階層が、その他大勢(人民)を疎外・抑圧する関係により一義的に決まる。

奴隷制時代は生産手段が奴隷で同時に被抑圧者。封建農奴時代では、土地が生産手段で農民が被抑圧者。資本主義時代は機械設備が生産手段で労働者が被抑圧者。共産主義社会では、あらゆる生産手段を人民が共有し被抑圧者はなし。

時代は常に、生産手段の保有階級と、それに抑圧される側の階級を生む。この間の軋轢を階級闘争という。

さすがに拙いと思ったのか、現代では資本主義と共産主義の間に、民主・社会主義という訳の解らないものが入って来た。おかげで、社民系はいつも共産党に格下扱いをされている。

この下部構造の上に政治や文化が成るという考え方で唯物史観ともいう。この場合、疎外・抑圧と搾取は同じ意味で、マルクスの階級闘争史観の根幹である。

革命は上の矢印を一飛びする行為をいう。

こうして、被抑圧者の農民や労働者の解放を説いた。

人権派弁護士の死刑廃止論を聞いていると、資本主義という悪辣な下部構造から成り上がった国家権力が、人民を殺すことになるから廃止せよという。同様の理屈で憲法は「国家権力を縛る」ものだという。

この論によると、農民・労働者を搾取する階級は、国内を搾取し尽くすと海外の搾取を目論む。

こうして、資本主義は必然的に海外侵略(帝国主義)を内包することになる。かくして、歴史学は進歩主義科学になった。

やがて彼等は朝鮮や満州を侵略したと妄想する。

現在の資本主義を、資本が労働を搾取すると本当に考える進歩派はいないと思うが、政治的には都合の良いドグマで「侵略」だけが残った。

数十数年前の我々の高校世界史では、朝鮮併合、満洲事変、シナ事変と習った。満洲進出、華北(北支)進出と教わった。

それが我慢できなかったのが、進歩派である。

かねてより抱いていた彼等の不満が爆発した事件がある。ウイズペギを丸写しすると、

1982年(昭和57年)6月26日、大手新聞各紙および各テレビ局は、「文部省が、教科書検定において、高等学校用の日本史教科書の記述を(中国華北に対する)“侵略”から“進出”へと改めさせた」と一斉に報じた。以上当時、「諸君」の愛読者だったので経緯はよく知っている。渡部昇一氏が「万犬虚に吠える」と題して、文部省が改めさせた事実ないと大誤報を指摘した。

一面トップで誤報を認め謝罪したのが産経新聞である。

残念ながら、虚を突いて早速シナ政府が咬みついてきて「侵略」が政治用語になり今日に至る。その内、「支那」は差別的用語だから中国にせよとなった。

日本に「中国地方」があるとは外務省チャイナスクールは云えなかった。それだけが理由ではないが、「あんな外務省は潰してしまえ」と屋山太郎氏は言った。

回りにも、物事を善・悪二元論に嵌めこむ人達がいるが、本人達は何に依るものか気づいていないようだ。それぐらい階級闘争史観は底に根を張っ
ている。

昨年の朝日新聞第三者検証委員会のメンバーの一人に、東京大学大学院情報環教授の林香里氏(52)がいる。

最後の各委員の感想の段において、氏はおおよそ次のように述べている。「朝鮮半島を侵略し搾取したことが、全く考慮されなかったのは残念である」

要するに朝日社論の防衛をしているのだ。

この種が、大学の文系やメディアの中枢を担っていることは何度指摘してもし過ぎることはない。

財務省が大学の文系を小さくしようとしているが、当然である。科学もどきの文系があるはずがない。

◆中台会談、習近平の「中国夢」

Andy Chang



18日の日本経済新聞で中沢克二編集委員の書いた「中台会談、80秒握手の深謀.習氏の任期延長への布石」を興味深く読んだ。習近平は会談の結果で共産党総書記の三選を図るというのである。ところが中沢論文ついての読者コメントは中沢氏の見解に相反するものだ
ったのが面白かった。

中国に住む外人記者がメディアの報道を解読した予測と台湾で解読した予測は全く違う。台湾の報道でも国民党系メディアで予測するのと民間から見た予測は違う。

中国のメディアが習近平を批判することはあり得ない。台湾の国民党系メディアも馬習会談を批判しない。だが台湾人は馬習会に批判的で馬英九の支持率は9%以下だから、習近平が馬習会談を使って中国共産党総書記の三選を図るのは無理だと思う。2024年まであと
8年もある。この期間に何が起こるかは台湾だけでなく米国やアジア諸国の出方も見なければならない。

●中沢氏の「習近平の深謀」とは

中沢氏の記事、中国側の解読と台湾側の反応は大きな違いがある。簡単に書くと以下のようになる:

第一に、習近平は81秒の長い握手で中国と台湾の首脳が握手で和議に入ったという歴史的事実を作りあげたと言う。だが「中台会談」のを成果を大袈裟に報道したニュースはすぐに各国のメディアで否定されたように、「中台会談」ではなく、中華人民共和国の総書記と
中華民国総統の「中中会談」である。

中国メディアは歴史的握手と賛美したが、これは中国側の一方的解釈である。台湾は中国の領土ではない。中華民国は台湾に亡命した蒋介石政権である。1952年のサンフランシスコ平和条約で日本が台湾の「主権を放棄した」が中国に譲渡したのではない。台湾の国際
的地位は未定であり、中華民国には統一を協議する権利はない。

第二に、習近平と馬英九は「92共識」と「一つの中国」を強調し、統一の合意があるとする狙いがあった。中国の新聞はそう書いたけれど台湾では逆に台湾は中国の領土ではない、馬英九は売国奴だと糾弾した。つまり「一つの中国」を主張したため台湾独立の意識を
高める逆効果となり、合意は無かった事がわかった。

第三に、会議のあと習近平が強調したように、92共識と一つの中国を中台協議の条件とする。国民党が政権を失っても「一つの中国」の緊箍咒(きんこじゅ)で民進党を縛ることが出来る。国民党は中台パイプの影響力を維持し、馬英九は中台パイプ元老の権威を維持
できると言うのである。

だがこの意図は台湾では通じない。92共識は存在しない嘘である。台湾人は一つの中国を認めない、中国と台湾は二つの違う国である。一つの中国を条件にした協議は人民が承知しない。

●トウ小平の遺言から現在まで

中国の台湾政策は?小平によって企画され、周知のように中国共産党総書記は?小平の遺言により、江沢民→胡錦濤→習近平の移譲が指名された。?小平の遺言録音は中国共産党の機密だが知る人も多い。台湾問題について簡単に書けば次のようになる:

(1)台湾問題は中国の生死存亡、共産党の生死存亡である。
(2)台湾は香港と違って租借ではない。早急に解決すべきだ。
(3)出来れば胡錦濤の二期、2012年を越さないうちに解決すべき。
(4)江沢民は台湾問題で焦って冒険してはならない。

?小平の死後、江沢民、胡錦濤から習近平まで、中国共産党の主導者は?小平の遺言に沿って台湾併呑を計画してきた。台湾併呑は武力でなく「和平解決、不戦而勝」を目標としている。

それでも江沢民の時代には部下の陳良宇、王守業などが果断な手段で台湾を解決する計画を進言したが江沢民は拒否した。胡錦濤が2005年に軍の権力を手中にすると王守業、陳良宇は逮捕され、汚職の名義で処罰された。胡錦濤も習近平も政界や軍部の大物を粛清す
るときは汚職を理由にしている。

2002年に胡錦濤が中共総書記になると国民党の最高権力者の買収を始めた。胡錦濤は2008年6月に政治局拡大会議を開催し、彼の幕僚令計画が作った三つの主要計画、「台湾問題解決の政治戦略」、「台湾軍事闘争に関する預案」、「台湾統一に関する政治法律処置の預案」
を通した。この年に馬英九が政権を取り、連戦、宋楚瑜などが争って中国詣でを始め、中台貿易の利権を手にした。民進党の政治家も中国投資に熱中した。だが胡錦濤は2012年に台湾問題を解決するこ
とはできなかった。

習近平が総書記になったあとも和平統一路線を続け、馬英九も合作して強引にECFA(経済合作枠組み協定)、経済市場一体化と金融一体化を推進した。

台湾問題の外に習近平は「中国夢」を発表し、汚職追放、南シナ海進出など世界覇権の夢を推進した。中国の太平洋進出では台湾が最大の課題である。台湾を併呑すれば太平洋の東半分は中国の勢力範囲となる。

●「ヒマワリ学生運動」と台湾アイデンティティ

中国の台湾併呑計画が挫折したのは2014年のヒマワリ学生運動のおかげである。国民党が国会で強引に提案30秒だけでサービス貿易協定を通そうとしたために起きた学生の反対運動だった。

この運動のあと台湾人の反中意識が高まり、同年11月の総合選挙で国民党は惨敗した。こうして台湾人の反中、反統一が高まり、来年の総統と立法委員選挙では国民党の総統候補者・朱立倫は落選し、立法委員過半数も取れないと言われている。

馬習会談は一つの中国と中台のパイプを掲げて選挙に勝つことだが、逆効果で惨敗する可能性の方が高い。民進党が選挙に勝てば国民党の汚職追放、国民党違法資産の追及、司法改革、国民投票法改革などで独立意識が高くなる。

米国は中国の台湾併呑に反対だから中国の台湾に対する武力行使は出来ない。習近平は和平路線の他に方法はない。中沢氏の予測した習近平の総書記三選は実現しそうもない。

◆対テロ戦争に備えよ

平井 修一



ISのパリ無差別テロに対する論者の反応は大体3種類だ。

1つ目は「世界が団結してISを殲滅すべきだ」という武闘派。

2つ目は「先進国は自分(とその仲間)たちだけを守るというエゴを捨てて紛争被害者に支援の手を差し伸べよ」という難民同情派。

3つ目は「テロに過剰反応してISを攻撃すればISの思う壺で、IS志願者を増やすだけだ。静観しろ」という日和見派。カナダはこの類だが、「さわらぬ神に祟りなし」という恥ずべき戦線逃亡派だ。

米国保守派はもちろん「1」だが、「2」「3」の戦争を忌避するリベラル派の方が今のところ多いようだ。

古森義久氏の論考『フランスに仕掛けられた「戦争」、日本も対策を パリ同時多発テロの悲劇から世界が学ぶべき4つの教訓』(JBプレス11/16)から。

<米国での具体的な論議としては、まず欧州連合(EU)内の移動の自由などのあり方に対する再考を促すとともに、国際社会がISなど過激派のテロ活動の情報を収集し共同で対策を講じる方法や枠組みについても、根幹から改善を求める意見が出ている。

*世界が学ぶべき4つの教訓

こうした動きのなかで特に注視されるのは、ブッシュ前政権で国務次官や国連大使を務めた保守派論客のジョン・ボルトン氏が指摘した「4つの教訓」であろう。

ボルトン氏はレーガン政権、先代ブッシュ政権でも司法省高官などとしてテロ対策や国家安全保障政策に関わってきた。2001年の「9.11」同時多発テロの際も当時のブッシュ政権の中枢として対応した。

ボルトン氏は米国の複数のメディアで、「フランスの悲劇から世界が学ばねばならない4つの重要な教訓」を発表した。同氏は「世界への教訓」としながらも、実際にはまず「米国への教訓」という見地から論じていた。以下でその内容を紹介する。

【1】長期的かつ詳細に計画された作戦である

今回のテロ攻撃の綿密な計画性、強烈なイデオロギー性を重視しなければならない。米国のメディアの一部にはこの攻撃を「無意味で暴発的な暴力行為」と特徴づけたところもあるが、現実には長期かつ詳細に計画され、強烈なイデオロギーを動機とし、綿密に標的を絞った作戦なのだ。

この攻撃は、オバマ大統領が述べたような「すべての人類や普遍的な価値観への攻撃」ではない。一見、無差別に見えるが、実は標的は「無実な民間人」よりもフランスのオランド大統領に照準を絞っていた。展開が少しでも異なれば、フランスの政府のトップが殺されてしまったのだ。

サッカー競技場という特別な場所で国家元首の命を奪おうとする意図はおよそ「無差別」とは異なり、今後も他の国の指導者に同様の攻撃が実施される危険性が高い。

【2】主権国家に対する戦争行為と捉えるべき

今回のテロ攻撃を刑事犯罪のように捉えて、実行犯を逮捕して裁きにかけるという認識は捨てて、主権国家に対する戦争行為と見なければならない。

オバマ大統領はテロ実行の個人や組織を「公正な裁きにかける」と言明したが、その前提に、今回のテロ攻撃は「法律を破った刑事犯罪」だとする認識がにじむ。だが現実には、オランド大統領がすでに述べたように、主権国家に対する戦争行動に等しいのだ。

だから今回の攻撃への対応は、テロを起こした特定対象を逮捕して訴追することでも封じ込めることでもなく、脅威全体を破壊してしまうことでなければならない。国家として、戦争への対応に等しいメカニズムを機能させて反撃することが求められる。

【3】インテリジェンス活動の再編成を

今回のテロ攻撃でいやというほど明らかになったテロ組織の危険な活動に対するインテリジェンス(諜報)のあり方について、国家レベルで徹底的に再検討を始めなければならない。テロ活動に関する効果的な情報収集や活動阻止の方法を再編成する必要性が今回の事件で立証された。

米国では9.11後の対テロ戦争の展開の過程で、インテリジェンス活動に対する批判や非難が政治性を帯びて、一般国民レベルでも批判の声があがるようになった。現在、米国ではインテリジェンス活動に「市民の自由」を阻害するための意図があるかのような誤解や、インテリジェンス機関自体への誤解が広まっている。その是正が図られなければならない。

【4】国家安全保障の観点から移民・難民対策を

米国でも欧州でも、今まで以上に国家安全保障の観点を取り入れて、移民や難民の入国管理を行わなければならない。

今年はじめから米国政府機関は、数千人単位の米国人やEU各国の国民がシリアとイラクのIS支配地区を訪れていたことを察知していた。それらの人々の多くがISからテロ攻撃の訓練を受けて、再び母国に戻っている。

現在、EU圏内に入ろうとする中東やアフリカの大量の難民の中には、明らかにISの同調者が多数含まれている。これまでのように人道主義や経済的配慮だけではなく、国家安全保障の要因をこれまで以上に取り入れて移民・難民対策に取り組まなければならない。

ボルトン氏は以上のような「教訓」を述べたうえで、米国がテロ対策を議論して実行に移す最適な機会は、いま展開されている2016年大統領選挙の予備選キャンペーンだと強調した。

これまでは大統領選において「有権者の大多数は国家安全保障への関心が低い」と考えられてきたが、今回のパリでの惨劇はその認識も変えるだろうし、変えるべきだ、とボルトン氏は唱える。

こうした米国にとっての教訓は、日本にもその多くが適用できるのではないだろうか>(以上)

ボルトン氏の「このテロは刑事事件ではない、これは戦争だ。脅威全体を破壊しなくてはならない」ということに小生は大いに賛同する。ISが生きるのか、それとも我々が生きるのか。ISが破壊されるのか、それとも我々が破壊されるのか。

敵を甘く見て備えと攻撃を怠れば、ISは強烈なスピードで西側への攻勢を強めるだろう、この1年でイラクとシリアでやったように。我々は彼らを上回るスピードで攻撃し、同時に戒厳令を布いて、国境監視を強化し、祖国を防御しなくてはならない。

日本は世界のためにどのような貢献ができるのか、戦略戦術を早急にまとめるべきだ。憲法をいまこそ高く掲げよ。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

GHQもいいことを言う。9条教徒よ、憲法を実践せよ、IS殲滅を、イラク三バカに続け、靖国で会おう、イザ!(2015/11/23)

◆「報道の自由」と「ジャーナリストの安全」

宇治 敏彦 (安保政策研究会 理事)
 


パリで100人以上の死者を出した大規模テロ事件をはじめ世界各地でテロや紛争が続いており、それらを取材するジャーナリストたちも生命の危険にさらされている。

かつてのベトナム戦争のように戦火が飛び交う中での取材ではなくても、いつどこで何が起こるか分からないテロなどの不気味さが、記者たちを不安に陥れている。

 トルコの首都アンカラ中心部で10月10日に発生したテロ事件の死者は97人。さらに多数の重傷者がいるとの報道だから犠牲者の数は最終的には100人以上に達するだろう。


同国のエルドアン大統領はPKK(反政府左派組織クルド労働者党)との対立を深めているが、一般市民もPKKほどではないにしても近年、独裁体制を強めるエルドアン大統領に不満・批判を強めている。


 筆者は昨年9月、イスタンブールを訪ねてIPI(国際新聞編集者協会)理事会に出席するとともにCPJ(ジャーナリスト保護委員会)のメンバーと一緒にトルコの新聞社や放送局を訪問して報道の自由度を調査した。


その時も「ザーマン」「ミリエット」といった主要新聞社の幹部から聞いたのは「エルドアン大統領の独裁ぶりが一段と強まっている」ということだった。「以前は進取性に富んでいたエルドアン氏は最近、批判的記事を書いた記者を次々に処罰している」と語った大手紙の編集幹部も私の帰国後、投獄されたと耳にした。


また私たちを案内してくれたトルコIPIメンバーのカドリ氏も職を解かれたようだ。反政府的と目されるジャーナリストが次々と大統領の標的になっている。

 今年来日したトルコのジャーナリスト6人が9月30日、日本記者クラブで会見した。出席者たちは「トルコにはもうメディアの自由がない」と嘆息していた。「ミリエット」紙に23年間、記者として働き、ひと月前に解雇された女性記者、メフメシュ・エビンさんは「既に1000人以上の市民が大統領を侮辱したとの理由で起訴されているが、大半はジャーナリストです」と報告した。


 10年以上前のことだが、当時首相だったエルドアン氏が来日した際、日本記者クラブでの会見を筆者が司会した。


その当時のエルドアン氏は、進取精神にあふれた政治家に思えた。ところが権力の座につく時間が長くなるにつれ、「政敵に殺されないようエルドアン大統領には食事のお毒味役がついている」「ルーマニアの故チャウシェスク元大統領のような豪華な大統領公邸をつくった」「厳しい経済情勢にもかかわらずトルコ随一のモスクを建設した」などなど芳しくない噂が伝わってくる。


いわば「絶対的権力は絶対的に腐敗する」を地で行くような指導者ぶりで、イスタンブールでもヒトラーに似せたエルドアン大統領の戯画が町中に登場したこともあったという。


 11月の総選挙では与党が勝利したが、ジャーナリズムとエルドアン大統領の対立は今後も続くだろう。最終的には数年前の大市民行動のような事態に発展するかもしれない。それだけトルコの記者たちの危険度も増大することは間違いない。

 トルコだけではない。日本新聞協会が30年以上続けているアセアン記者招聘計画で今秋来日した4人の記者のうちフィリピンから来たバーニス・カミール・バウゾン記者(マニラ・タイムズ国際部記者)は10月1日、プレスセンターで開かれた会合で次のように報告した。


 「2014年に公表された世界における報道の自由度ランキングで、フィリピンは180か国中149位だった。一時は156位に下がったこともある。アキノ三世が政権の座に就いた2010年以降、フィリピンでは26人の記者が殺害されている。フィリピン・ジャーナリスト同盟は、政府の無関心が攻撃者をつけあがらせ、記者が殺害される危険性が依然なくなっていない」
 

もっとも同記者によると、マニラ市内は安全で、危険度が高いのは地方都市だという。フィリピンには10の高級日刊紙、22の大衆紙、52の地域紙があるそうだが、パウゾン記者によると「マニラ・タイムズのような主要メディアはアキノ政権に極めて批判的で、ほぼ毎日、現政権に対して論議を呼ぶような暴露記事やリポートを掲載している。名誉棄損訴訟や脅迫電話を除けば、マニラ・タイムズは自由に意見を表明し、記事を出すことができる」という。


 NGO「国境なき記者団」によると、日本の報道自由度は2011年の民主党政権下で11位にまで上がったが、現在は61位に大幅後退している。その理由は2011年の東日本大震災時の東電福島第一原発の放射能漏れ事故で国民が知りたがった放射能被害の実態が十分報道されなかったことや、2013年に特定秘密保護法が成立したことなどが大きく影響している。


ちなみに報道の自由度が高い国はフィンランド、オランダ、ノルウェーなど北欧諸国。反対に自由度が低い国は中国、北朝鮮、ソマリアなど。特に中国では最近、紙の新聞以上にネット取り締まりが強まっているようだ。

「京華時報」の8月26日の記事によれば、国家インターネット情報弁公室というセクションが300近いサイトを反社会的として削除したという。既に中国では「インターネット安全法」の草案が公表されており、国家安全のためアクセス制限をすることがあるとしている。


 一方、IPIは「デス・リスト」といって毎年、報道取材中に死亡したジャーナリストのリストを発表しているが、2009年以来、その数は毎年100人を超えており、近年では2012年の133人が一番多かった(2015年は原稿執筆時点で62人)。


 政治権力と報道界の関係は昔から緊張関係にあるが、報道が核心に迫るほど記者の身に危険が及ぶというのはいかがなものだろうか。もとより根拠なき報道(ガセネタ)であれば記者側がペナルティーを受けるのも当然だが、まっとうな報道や批判に対してもペナルティーを科すというのは政権の横暴と言わざるを得ない。


トルコなどが一日も早く「報道の自由」「記者活動の自由」を取り戻すよう願っている。

(東京新聞・中日新聞社相談役:日本新聞協会国際委員長)

2015年11月23日

◆挫折した建武中興の理想は

伊勢 雅臣



「挫折した建武中興の理想、明治維新という形で復活した」

■1.楠木正成を知っていますか?

明治3(1870)年に来日して4年ほど滞在し、"The Mikado's Empire"(『ミカド』)を著した米人W・E・グリフィスは、同書の中で、「日本の学生や友人に、日本の歴史の中でもっともすぐれているのは誰かと聞いたとき、彼らはすべて楠木正成と答えた」と書いている。

しかし、今日ではどれほどの人が楠木正成の名前だけでも知っているだろうか? たとえば、東京書籍版の中学歴史教科書では「鎌倉幕府の滅亡」の項の一節で楠木正成が登場する。

こうした状況で後醍醐天皇は、政治の実権を朝廷に取りもどすために、幕府をたおそうとしました。天皇は、一度は隠岐(島根県)に流されましたが、楠木正成などの新興武士や有力御家人の足利尊氏などが味方したことで、1333年、鎌倉幕府をほろぼしました[1,p69]

これでは楠木正成は、せいぜい後醍醐天皇に荷担して、鎌倉幕府を滅ぼした人物の一人という程度の認識しか持ち得ない。その名前も、試験が終われば、すぐに忘れ去ってしまうだろう。

明治初年にグリフィスの学生や友人がすべて「日本の歴史の中でもっともすぐれている人物」として楠木正成を挙げたのとは、何という断絶だろうか。

■2.先人が手に汗握りつつ読んだ『太平記』

自由社版中学歴史教科書は、同じく「鎌倉幕府の滅亡」と題しながら3倍ほどの分量の記述をしている。

14世紀の初めに即位した後醍醐天皇は、天皇みずからが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために、倒幕の計画を進めた。初めは計画がもれて2度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に移された。

後醍醐天皇の皇子の護良(もりよし)親王や、河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して、幕府とねばり強く戦った。

やがて、後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、形勢は一転した。幕府軍からは御家人の脱落がつづき、足利尊氏(あしかが・たかうじ)が幕府にそむいて、京都の六波羅(ろくはら)探題をほろぼした。ついで新田義貞(にったよしさだ)も朝廷方につき、大軍をひきいて鎌倉を攻め、1333(元弘3)年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。1,p92]

この部分は『太平記』を通じて、代々の日本人が手に汗を握りつつ読んだドラマであり、自由社版では限られたスペースながら、その筋書きを追っている。

『太平記』が大好きな、ある高校の日本史の先生がまさに講談のごとく楠木正成の活躍を語るのを、引き込まれるように聞いた経験がある。聞きながら、こういう授業を聞ける高校生は幸せだな、と思った。この授業を聞いた高校生たちは、明治初年に楠木正成を尊敬すると答えた学生の気持ちが良く分かるだろう。

そこまでいかなくとも『太平記』の現代語訳や吉川英治の小説『私本太平記』を読ませても良い。弊誌でも264号「楠木正成 〜 花は桜木、人は武士」に取り上げているのでご覧戴きたい。[a]

現代の中学生たちがこの物語を手に汗握りつつ読むことで、先人たちとの時代を超えた共感を持つことこそ、真の歴史教育なのではないか。


■3.後醍醐天皇は何を目指して倒幕に立ち上がったのか?

楠木正成は後醍醐天皇のために身命を賭して戦ったのだが、その後醍醐天皇は、そもそもなぜ倒幕に立ち上がったのか? 2度も謀り事が露顕して隠岐に流され、それでも再起して立ち上がるというのは並大抵の執念ではない。

元寇の時の鎌倉幕府は、時宗の英断と御家人たちの果敢な戦いぶりで国家を護ったが[b]、その後の御家人たちは新領地の褒賞もなく、さらに戦後の防衛強化でも大きな負担をかけられて、幕府に対する不満を募らせていた。

幕府内でも、執事である長崎氏が実権を握って賄賂政治を行い、時宗の孫・高時は執権ながらも遊び暮らしていた。御家人の内紛で合戦が起こっても止められないほど、幕府体制は弛緩しきっていた。

こういう状況で後醍醐天皇は倒幕に立ち上がったのだが、天皇が何を目指したのか、について、前述の2社の歴史教科書は微妙に食い違っている。自由社版は「天皇みずからが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために」とし、東書版は「政治の実権を朝廷に取りもどすために」と述べている。


■4.「公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた」

それぞれ間違いとは言えないが、これだけでは中学生にはピンとこないだろう。東書版の「政治の実権を朝廷に」では、武士の世になったことが判っていない時代錯誤、などと冷ややかな視線を向ける向きもあるだろう。

この点に関しては、自由社版は次の「建武の新政」の項で、「後醍醐天皇は京都にもどると、天皇親政を目標とし、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた」とあり、こちらの方が史実に近い。

実際に新政の中心となった「記録所」には楠木正成と名和長年(JOG注:隠岐脱出した後醍醐天皇を迎え入れた武士一族の長)が配された。また貴族にしても従来の世襲制を改め、家柄は低くとも能力ある人材は積極的に登用している。「公家、武士の差別なく朝政に参与させることにした」というのが史実である。[3,p241]

一方、自由社版の「天皇親政」もやや言葉足らずで、戦前の「天皇主権」か、などと短絡的に誤解する生徒がいるに違いない。もう少し詳しい説明が必要だ。


■5.「後の醍醐」天皇の理想

それでは具体的に後醍醐天皇の理想とはどのようなものであったのか。それは天皇自ら「後醍醐」と称せられた史実から窺うことができる。通常、「○○天皇」とは崩御された後に定められる御称であるが、後醍醐天皇の場合は自ら「後醍醐」と称された。

「後醍醐」とは、「後の醍醐」という意味で、平安時代の初期に「延喜(えんぎ)の治」と称えられた醍醐天皇の治世を再現しようとされたのである。

聖徳太子が17条憲法で描いた理想国家[c]を、天智天皇が大化の改新で具現化し[d]、さらに天武・持統天皇の代に完成させたのだが[e]、その統一国家の体制が整って結実したのが、平安時代の初期、醍醐天皇の御代であった。

醍醐天皇の足かけ35年の治世の間、朝廷は制度典礼を整えて奢侈を遠ざけ、荒廃した田畑の再開発を奨励し、民政の改善が進み、『古今集』など文芸が盛んになった。

その後は藤原氏による摂関政治、上皇による院政、武家による幕府政治と、統一国家の形が崩れていった。その乱れが窮まった姿が、本来国家組織の中で治安を担当すべき武士が権力を専横して幕府として賄賂政治を行い、さらには御家人どうしの内紛で合戦まで起こすという、鎌倉幕府の末期症状であった。

この末期症状を治すには、醍醐天皇の時代の統一国家体制に戻さねばならない、というのが、後醍醐天皇の理想であった。それは近代流に言えば、「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という姿なのである。その本質は、明治維新以降の近代日本の統治形態と変わらない。


■6.統一国家への苦闘

後醍醐天皇は、この理想を追求するために、父君・後宇多上皇と諮って2百年も続いていた院政を取りやめた。「御宇多」上皇というのも、醍醐天皇の父君である宇多天皇に、自らをなぞらえたものであった。すなわち、ご自身の次に「後の醍醐」天皇を、と期待されたのであり、その理想を受け継いだのが後醍醐天皇であった。[4,p31]

また、当時は、持明院統と大覚寺統と2つの皇統が交互に天皇を出すという「両統迭立(てつりつ)」の制がすでに100年近く行われていた。さらに大覚寺統が2流に分裂する様相を示しており、このままでは皇統が四分五裂する恐れもあった。後醍醐天皇は、ご自身の皇子である義良親王(次代の後村上天皇)を皇太子として、この悪例に終止符を打とうとした。

そして、その次の段階として、国家を私物化していた幕府の打倒を目指されたのである。自由社版の「天皇親政」とは「天皇を国民統合の象徴とする統一国家の回復」と解すべきだろう。とすれば、後の明治維新で唱えられた「王政復古」と同じである。

後醍醐天皇は幕府政治は否定したが、地方行政ではそれまでの国司・守護体制を継続した。これは中央から派遣された行政官である国司と、地方の治安維持を担う守護との体制が、統一国家にふさわしいと判断されたからであろう。

ただし、従来は任地に赴かない守護も少なくなかったが、現地に赴任させて地方行政の実を挙げさせようとする努力もなされた。たとえば公家ながら武将としても優れた北畠顕家を陸奥に派遣し、同時に旧幕府勢力の根強い関東を背後から牽制させる、という現実的な配慮もなされている。

統一国家による民政改善の例としては、飢饉の際に私領地の通行税を禁止して米を安く供給させるようにした。後の室町幕府の時代には、伊勢の参宮街道で社寺や豪族が18キロの間に60もの関所を設けて勝手に通行料を徴収していたという事実からも、統一的な国家行政が民生安定には不可欠であることが窺われる。


■7.「建武の新政」の挫折

鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による「建武の新政」を、東書版は次のように記述する。

鎌倉幕府の滅亡で、天皇中心の新しい政治(建武の新政)が始まり、後醍醐天皇は武家の政治を否定し、公家(貴族)重視の政策を続けました。このため、武士たちの間に不満が高まり、足利尊氏が武家の復活を呼びかけ兵をあげると、新政は2年ほどでくずれました。[1,p70]

「天皇中心の新しい政治」「武家の政治を否定」「公家(貴族)重視」というのは、以上見てきた通り、正確な表現ではない。

自由社版は「建武の新政」と題して、以下のように書く。

後醍醐天皇は京都に戻ると、天皇親政を目標として、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年の1334年に、年号を建武と改めたので、これを建武の新政(建武の中興)という。

しかし、建武の新政は、武家社会の慣習を無視して領地争いに介入したり、貴族の慣例である世襲制を否定した人材登用を行ったりしたため、当初から政治への不満を生み出すことになった。

そのようなときに、足利尊氏が武家政治を再興しようと兵をあげ、建武の新政はわずか2年あまりで崩れてしまった。[1,p93]

「貴族の慣例である世襲制を否定した人材登用」は、聖徳太子以来の理想追求の表れである。「武家社会の慣習を無視して領地争いに介入」と言うが、社会の平和と安定のためには領地争いを治める必要があり、国家統治として必要不可欠の行政であった。

ただ幕府滅亡を機に多くの武家や寺社が所領拡大を図ろうと寄せた膨大な申請を、発足したばかりの政治機構では巧みに処理しきれなかったという事に過ぎない。

大化の改新にしろ、明治維新にしろ、旧体制を倒してから新しい統治機構が固まるまで、2、30年を要している。旧体制の矛盾を改め、新体制が安定するまでには、そのくらいの時間は必要である。

建武の中興がわずか2年で挫折したのは、足利尊氏という野心家が改革派の中に紛れ込んでいて、滑り出したばかりの新政を乗っ取ってしまったからだ。2年で挫折したからと言って、その理想が誤っていたということにはならないのである。

■8.「建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」

建武の中興は2年足らずで挫折したが、後醍醐天皇の理想に殉じた楠木正成の生き様は、清冽な地下水脈のように日本人の心の深奥を潤していった。

『大日本史』を著した水戸光圀(みつくに)は兵庫の湊川に「嗚呼(ああ)忠臣楠氏之墓」を建てた。その光圀の残した水戸学に学んだ吉田松陰、有馬正義(新七)、真木和泉守保臣など、幕末の志士の多くは楠木正成を敬慕し、後醍醐天皇が掲げた「王政復古」の理想こそ、日本のあるべき姿だと信じた。そこから明治維新が始まった。

冒頭で紹介したように、明治初年にグリフィスから「尊敬する人物は?」と聞かれた人々はすべて楠木正成を挙げていた。この事実から、久保田収・皇學館大学教授は著書『建武中興』の中で次のように結論づけている。

ひとびとの心が楠公崇拝に帰一したときに、明治維新は成就したのである。挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活したというべきであろう。[4,p287]

週刊メール入門講座「教育再生」http://bit.ly/118DokM

閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り


■リンク■

a. JOG(264) 楠木正成 〜 花は桜木、人は武士
 その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心に生きつづ
けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog264.html

b. JOG(917) 歴史教科書読み比べ(23): 元寇 〜 鎌倉武士たちの祖国防衛
 フビライの日本侵略の野望を打ち砕いた時宗と鎌倉武士たち。
http://blog.jog-net.jp/201509/article_3.html

c. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) 〜 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html

d. JOG(799) 歴史教科書読み比べ(9) 〜 大化の改新 権力闘争か、理想国
家建設か
 聖徳太子の描いた理想国家を具現化しようとしたのが大化の改新だった。
http://blog.jog-net.jp/201305/article_4.html

e. JOG(818) 歴史教科書読み比べ(11) :天武・持統天皇の国づくり 〜
共同体国家「日本」の誕生
 聖徳太子の新政、大化の改新から続く国づくりが完成に近づいた。
http://blog.jog-net.jp/201310/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、
自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/

3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48

4. 久保田収『建武中興―後醍醐天皇の理想と忠臣たちの活躍』★★★、明成社、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219288/japanontheg01-22/


◆President誌2015 12 14号の特集

前田 正晶


最新のPresident誌の表紙に大きく「手帳術」とある。その上には「効率100倍!自分が変わる」とある。実は、私は1994年1月末でリタイヤーするまで手帳は買ったことはあるが、実際に有効活用していなかったし、持ち歩いてもいなかった。此処からは何故そうしていたかとの自慢話と反省記を。

実は、私は仕事の面では何事も記憶力に頼っていたので、何かメモに取ると書いた時点で忘れてしまうという特技もあり、書くのが倒だと思って記憶力に任せていたたので、此処は覚えておく必要があると思った時点で先ず忘れることはなかった。仕事上のことだが。具体的にいえば、所謂電話帳の類いは作ったことがなかったし、作ろうとも思わず全て覚えておくようにしていた。

同様に手帳を使う所謂予定表も作ったことがなかった。全て記憶しておいてその場で「ご予定は?」と尋ねられても記憶から呼び出して、如何なるアポイントメントでもその場で成立させていた。

これには何度か客先に不信感を招いたこともあったが、繰り返すうちに何とか信用して頂けるようになった。だが、これには多少裏があって、スケジュールは全て有能な秘書任せだったので、聞かされた予定を記憶していれば済むことだったのだ。危なければ、後で彼女に確認すれば済むのだった。

更に私は毎日の行動と客先との折衝の記録というか日誌の類いは、全て報告書の形に纏めて直轄の上司だった副社長に提出していた。その内容は上記のように全て記憶から呼び起こしていたのだが、1〜2時間の会談であれば、ほぼ間違いなく纏めることが出来ていた。通訳をする場合には何度か「30分くらいは話し続けられても大丈夫です」と真顔で保証したほど記憶力に自信があったが、現実には10分も続く長広舌はなく、問題になったことはなかった。

即ち、通訳の専門家が取っておられるようなメモは一切取らないという意味である。メモを取ろうとするか、また取ってしまうとその間に聞き漏らしが生ずる危険性もあったし、メモをするのが面倒だとの簡単でズボラな理由もあった。但し、英語の数の数え方は”million”だの”billion”だのという日本語にはない単位があるし、10万を”hundred thousand”等というので、記録せざるをえなかった。

未だ自慢話が続くが、アメリカの会社の出張旅費は全て実費精算であるので、詳細にメモを取っておかないと何時何処で幾らのtipを誰に払ったのかなどは覚えていられないというの常識だ。だが、私は2〜3週間の出張ならば全て記憶で先ず細大漏らさず整理できたので、先ずメモは取らなかったし、如何なる出費でも全て領収証を取って保管していた。余談だが、tipも請求すればレシートは取れると聞いたが、貰ったことはない。

故に手帳術は全く心得がないという自慢話をするのではなく、若い頃にもいわれたし、自分でも恐怖に感じていたことは「老化して記憶力が退化したらどうする気か」は十分に意識していた。本日、戸籍上は兎も角、満83歳の誕生日を迎えて、物覚えが悪くなってきたことをあらためて痛感している。極端に言えば手洗いの中で思い付いたことを書き出そうと思ってPCの前に座って「はて、何だったか?」となるようなものなので、ただ今慌
てて書き始めた次第だ。


◆トルコは「プーチン型」強権めざすのか

村上 大介



大方の世論調査の予想に反して、トルコのエルドアン大統領が実権を握るイスラム系の与党、公正発展党(AKP)は、今月初めのやり直し総選挙で議席の過半数を回復した。

政権の座に就いた2002年以降負け知らずだったAKPは今年6月の投票で、第一党とはなったものの、初めて過半数を割り込む敗北を喫していた。

これに対し、エルドアン氏は、連立政権交渉の不調を理由に、強引に再選挙に持ち込み、きわどい賭けに勝った。

 強烈なカリスマ性をもつイスラム主義者のエルドアン氏は、低迷していた経済の改革を進め、その恩恵を受けた多くの国民の支持が長期政権を支えてきた。

 政教分離が国是だったトルコにあって世俗主義勢力の警戒と反発を呼んだが、欧米からは「中東における穏健イスラムと民主主義の融合モデル」と称賛もされた。

しかし、03年から首相、大統領としてトルコに君臨してきたエルドアン氏は、強権的な政治手法を露骨に取るようになり、内外から批判的な目も向けられている。

欧州連合(EU)は、エルドアン大統領が憲法の規定を超えた権力を行使していると懸念を表明。トルコ政府に人権を尊重し、報道規制をやめることを求めるに至っている。

6月の敗北は、エルドアン氏がいっそうの権力を握ることを多くの国民が警戒したためだ。

だが、その後、過激組織「イスラム国」によるとされる首都アンカラでの大規模テロが発生し、少数民族クルド人の非合法武装組織「クルド労働者党(PKK)」との戦闘も再燃した。

シリア内戦の混乱にも絡む国内の治安悪化は、「強い指導者」を求める有権者の心理につながり、エルドアン氏とAKPへの追い風となった。

とはいえ、今月16日にトルコ・アンタルヤで開かれた20カ国・地域(G20)首脳会合では、政権に批判的なメディアへの取材許可証の発行を拒否するなど、強圧的な姿勢は相変わらずだ。

野党系有力紙が6月、トルコ情報機関がシリアの反政府イスラム勢力への武器密輸を手助けする現場とされる映像を公開した際には、エルドアン氏は「代償は高くつく」と怒りをあらわにした。

野党側は、政府を批判する記者の逮捕・拘束やメディアの接収が続いていると非難する。
13年に明るみに出た与党の大規模汚職事件では、エルドアン氏が息子に資産隠しを指示した会話とみられる音声データがネットに流出し、オンライン検閲などネット規制を強めた。

産経ニュース【一筆多論】2015.11.21