2020年08月09日

◆もっと危機感を、逆ニクソン・ショック

櫻井よしこ


7月24日、米国政府がテキサス州ヒューストンの中国総領事館を閉鎖すると、27日、中国政府が四川省成都の米国総領事館閉鎖で応じた。

ヒューストンの中国総領事館は夜を徹して秘密書類などを燃やした結果、火災を引き起こし、放水する事態となった。同総領事館を米国における中国のスパイ活動の拠点だと断じた、ポンペオ米国務長官の言葉が真実味を帯びた事件だった。

米中が在外公館閉鎖の異例の措置を取り合い、対立を深める中で、両国に挟まれている日本は否応なく運命の岐路に立たされる。急変する米中関係は日本の命運を決する一大事である。正しく対応しなければ未来永劫、わが国の国柄も国益も守れない。にも拘わらず、わが国のメディア、政界、世論のなんと静かなことか。

約半世紀前、1971年の「ニクソン・ショック」のとき、日本国中が大騒ぎだった。ニクソン大統領はベトナム戦争に最も深く関わっていたジョンソン前政権を厳しく批判し、ベトナム問題解決のプロセスの中で対中関係を改善し、米国が最大の脅威ととらえていた旧ソビエト連邦に対する切り札として中国を活用した(田久保忠衛『ニクソンと対中外交』筑摩書房)。

それまで全く国交のなかった中国を、ニクソン大統領が翌72年春までに訪問する、とわが国は発表3分前に知らされた。そこから怒濤の報道が始まり、やがて佐藤栄作首相は退陣し、田中角栄首相、大平正芳外相による性急な訪中と国交樹立に至ったのは周知のとおりだ。

当時日本全体を包んだ底の浅い狂乱報道がよいとは言わないが、現在の奇妙に静かな反応にも私は不安を覚える。それは日本が現状維持を基調とする最も安易な、しかし中・長期的に見て、確実に間違った方向を目指している兆候に思えてならないからだ。

先週の当欄でも指摘したが、いま、地球社会は価値観の対立の真っ只中にある。ニクソンは半世紀前、中国を国際社会に誘い開放させたときに語ったという。

「我々は怪物フランケンシュタインを作り出したのではないか」と。

中国共産党を「信ずるな」

以降の対中関与政策で、米国は中華人民共和国70年余の歴史の内、50年間も彼らを助けてきたことになる。そしてニクソンの恐れたフランケンシュタインを作り出したと、ポンペオ国務長官は言っているのである。

7月23日、ニクソン大統領記念図書館でのポンペオ氏の演説はニクソン以来の対中政策の大反転をはかるもので、「信ずるな、そして検証せよ」という一言に凝縮されている。

レーガン大統領はかつてソ連との交渉で「信頼せよ、しかし検証せよ」と言った。いま米国は中国共産党(CCP)を「信ずるな」と断じている。

ニクソン以降、米国は中国が共産主義の国だという事実に目をつぶり、豊かになれば米国と同じような開かれた民主主義国になると信じてきた。イデオロギーの相違を過小評価し、モラルも含めて共産主義中国を見る米国の目がいかに間違っていたかについて、ポンペオ氏は強調している。

「自分は冷戦時を陸軍で過ごした。ひとつ学んだのは共産主義者はいつも嘘をつくということだ。CCPの一番の大嘘は、彼らが14億の国民を代表しているという点だ。現実には国民は監視され、弾圧され、自由に発言することを恐れている。(嘘で固まった)CCPはどの敵よりも人民の正直な声を恐れている」

いま米政権はCCPと中国人民を明確に区別して外交を進めており、ポンペオ氏は「中国国民はCCPとは異なり、自由を愛するダイナミックな人々だ」と賞賛する。

強硬手段だけで米国の望む結果が達成できるはずはないとの考えに基づいて、米国は自由を愛する中国国民と協力し、彼らに力を与えたいと言うのである。

演説後の質疑応答で、ニクソン大統領記念図書館館長でニクソン研究の第一人者であるヒュー・ヒューイット氏が、中国の国民とCCPを分けるのは、恰(あたか)も二つの中国があるかのようだ。

この構図の中では外交は機能しないのではないか。むしろ外交が失敗することを目指しているのではないかと尋ねた。私はドキッとした。米国は中国国民を支援してCCPを打倒させようとしているのかという問いに聞こえたからだ。

ポンペオ氏は、CCPが唯一の党であるからには米国はCCPと交渉するが、同時に中国国民の声を無視することはできない、と答えた。米国は中国共産党潰し、レジームチェンジを視野に入れているとしか考えられないと、私は思う。

日本の国益か否か

ニクソン以来初めて、米国は中国の共産主義イデオロギーに真剣な懸念を抱き始めたのだ。中国人民解放軍(PLA)は中国国民ではなくCCPを守る軍隊で、中国の全ての組織も企業もCCPのために働く機関にすぎないことに気付いたのだ。

国営の中国企業は、利益を度外視してCCPの戦略で動く。自由競争を原則とする米国など西側企業に対しては有利な競争を展開できる。

中国人学生も研究者もCCPの先兵となり、米国の知的財産、研究成果を盗み続ける。こうしたことが現実に横行していることを認め、米国は問うている。なぜ中国の悪行を長い年月許してきたのか、と。

中国が引き摺り続けている共産主義の、西側体制への強い敵対感情に無知であったこと、冷戦における勝利が生んだ慢心、強欲な資本主義、中国の巧みな「平和的台頭」話に目眩ましを食らったことなどを、ポンペオ氏は原因として挙げているが、無知、慢心、強欲、目眩ましの全てが、わが国、とりわけ経済界に当てはまる。

ポンペオ氏はこうも問うている。「我々の精神は望んでいても、我々の肉体は弱いのではないか」と。CCPとの戦いは容易ではない。経済的利益に目をつぶっても、価値観に基づいて正しい道を歩まなければならない。

それは財界をはじめとする人々が最もいやがる道である。しかし、いま、日本は中・長期的な視点に立って国益を考えなければならない。マルクス・レーニン主義の中国を変えるには、彼らの言葉ではなく行動を見て、「行動対行動」の原則で対処しなければならない。

先述の「信ずるな、そして、検証せよ」の心構えこそ、私たち日本が持つべき構えだ。この世紀の大きな危機の前で大事な選択を迫られている。米国か中国かをも含めて、日本の国益となるか否かが私たちの基軸であるべきだ。

尖閣問題を見よ、歴史問題を見よ。国民全体が問題を意識しなければ日本の次の世代、そのまた次の世代は何もかも中国に仕切られる世代になってしまうだろう。日本国民はこの危機を実感し、中華世界の支配を回避して立派に日本の道を歩んできた私たちの歴史を心に刻もう。

『週刊新潮』 2020年8月6日号
日本ルネッサンス 第912回

2020年07月31日

◆日本の好機、米国の対中全面対決姿勢

櫻井よしこ


「ヒマラヤ山系からベトナムの排他的水域、尖閣諸島とその先まで、北京は領土領海紛争を煽動している。世界は中国の弱い者苛めを受け入れない、その継続も許さない」

7月8日、ポンペオ米国務長官の発言は、世界の屋根から南の海まで、ユーラシア大陸をグルリと囲む全域で、米国は中国の専横を許さないという宣言だった。

米国は長年領土領海紛争で中立の立場を貫いてきた。尖閣諸島が明らかに日本領であることを承知していながら―日本占領の約7年間、米軍は尖閣で軍事訓練を行っていた―米政府は尖閣諸島の施政権を日中どちらが有しているかに注目するばかりで、決して同諸島が日本領だとは言明しなかった。

しかしいま、年来の方針を大転回させたのだ。茂木敏充外相が即、歓迎を表明したのは当然だ。米国の方針大転回の新局面で、日本も世界も新たな対応を急ぐときだ。

ポンペオ氏はその後、13日、15日にも続けて中国への全面的対決姿勢を明らかにした。それを一言で氏はこう語っている。

「大事な事は、米中関係が変わったということだ。中国の指導層もそのことを理解している」(15日)

氏は米国民が中国リスクに晒されるのはもはや受け入れられない、余りにも長い間、適正な見返りのない、不公正な中国の行動を米国は許容してきた。

今、全てを反転させるときだとし、「実務において多くの仕事はこれからだ。トランプ政権の2年半は年来の米中関係反転の政策を積み重ねてきた年月だった」と語った。

米国政府の巻き返しには多くの行動が必要だとの認識だが、それはすでに私たちの眼前で展開されている。7月1日から中国は空母遼寧を中心に軍艦数隻を投入して大規模な軍事演習を南シナ海、東シナ海、黄海の3海域で行った。

米国も中国の演習と重なるように、7月4日から空母2隻及び攻撃艦を揃えて大規模演習を実行した。中国の軍事行動を見逃したり、勝手な振舞いを許したりはしないとの意思表示だ。米国の本気度を示している。

「最終判決」

米国の決意の尋常ならざることを私たちはポンペオ氏の発言が7月8、13、15日と続いたこと、他の閣僚たちも同様の発言を続けていることからも読み取っておくべきだろう。

6月24日にはロバート・オブライエン国家安全保障担当大統領補佐官、7月7日にはクリストファー・レイFBI(米連邦捜査局)長官、16日にはウィリアム・バー司法長官らが続けざまに同様の発信をした。

中国に対する強い異議は、中国問題が国際社会全体に広がることへの警戒でもある。香港やウイグル問題に、中国の主張するように国内問題であるから介入しないという姿勢で対処したら、西側諸国も中国の悪しき体質に変えられてしまいかねない。そのことを、ポンペオ氏らは十分に識っているのだ。

たとえば南シナ海問題だ。中国は「長い歴史」を持ち出して2000年前から同海は中国の海だったという。

ポンペオ氏は2016年7月12日の国際常設仲裁裁判所の判決こそ国際法に則った「法的拘束力」のある「最終判決」だと明言した。

中国の主張する「九段線」にも一貫した法的根拠はないと強調した。中国は「国際法を『力が正義』という定理に置き換える」と喝破し、それらは「完全なる違法行為」だと非難した。その上で南シナ海の島々の固有名詞をあげて次のように主張した。

スカボロー礁、スプラトリー諸島、ミスチーフ礁、第二トーマス礁は全てフィリピンの主権に属す。パラセル諸島のヴァンガード堆はベトナム領、ルコニア礁はマレーシア領、ナツナ諸島はインドネシア領、ブルネイも排他的経済水域を有する。

ジェームズ礁は中国が領土だと主張するが、満潮時には20メートルも水面下になる。中国の領土でも島でもあり得ないと述べ、米国は東南アジアの同盟国、パートナーと共に、国際法に基づいて彼らの領海及び海洋資源を守る側に立つ、と述べた。

目のさめるような力強い発言だ。なんという変化か。ポンペオ発言の重要性、日本に及ぼす限りない前向きの影響を、わが国は見逃してはならない。最大の好機ととらえ、対応してわが国の守りを強固にせよ。

バー司法長官の中国認識の厳しさもよく知っておこう。

「中国はウィン・ウィンの関係を築こうと言う。(当初我々は言葉どおり、互恵の精神だと受けとめていたが)それは中国が二度勝つという意味だと判明した」

実に的を射ているではないか。なぜ、中国は「二度」勝つのか。中国式手法を米国にも広げて、米国をも「接収」してしまうからだ。

ハリウッドの接収

バー氏は「中国に叩頭する」企業のひとつとしてハリウッドの映画会社を挙げた。ハリウッドは当初中国資本を受け入れ、現在は技術部門をはじめおよそ全分野で中国人を受け入れている。中国人は米国が世界に誇る映画産業のノウハウの全てを吸収し、中国国内で活用中だ。

中国の目標はハリウッドとの協力関係強化ではなく、ハリウッドの接収だとバー氏は断ずる。人間のあらゆる自由を尊び、権力への果敢な批判を売り物にしてきたハリウッドの中国支配への恭順振りこそ、卑屈だと氏は言っているのだ。

この間にボリス・ジョンソン英首相は27年までに全てのファーウェイ製品を5G通信網から排除すると決定した。

中国側は強い不満を表明し、駐英中国大使の劉暁明氏が7月18日、「タイムズ」紙の取材に応じた。中国は平和の国だ、全ての国に友好的だと一連の嘘をいつものように披瀝し、英国は25年までに5G通信網を全国に広げる計画だが、英国の力では難しい、だから中国は助力したいと申し出た。

その一方で英国がファーウェイ除外を決定したからには、中国の対英投資はもはやあり得ない、状況は変わったと述べた。中国の投資なしでやっていけるのかと、足下を見透かした発言である。

事実、19日には早速中国の動画投稿アプリ「TikTok」を手掛けるバイトダンスが、ロンドンへの拠点設置計画を棚上げした。

日本はいま、自らの立ち位置を明確に認識して戦略的に動くときだ。英国政府は日本に5G通信網づくりで協力を求めている。

ファーウェイに代わる調達先としてNECや富士通の名前が上がった。日本企業は周回遅れだが、ポンペオ氏はNTTを5G関係の技術を有する世界の企業の中でもクリーンな企業の内のひとつだと評価した。

わが国が直面する中国の脅威は5Gだけでも尖閣諸島だけでもない。南鳥島にも中国は迫っている。米国の側に立ち、行動を伴う協力を進めるときだ。それが日本の国益を守る正しい道であろう。

『週刊新潮』 2020年7月30日号
日本ルネッサンス 第911回

2020年07月25日

◆嘘と力で押し切る中国の「戦狼外交」

櫻井よしこ


本来ならあと27年間は続くはずの香港の民主主義体制を突然終わらせた「国家安全維持法」(以下、国安法)は、異常なプロセスを経て導入された。通常は2か月に一度開催される全人代常務委員会が半月の間に二度開かれた。国安法は6月30日深夜に決定され、1時間後の7月1日午前0時に施行されたのである。

慌しい動きの背景に6月16、17の両日、ハワイにおける米中外交会談の決裂がある。米国側は香港、台湾、ウイグル問題で中国の強権弾圧と人権蹂躙を厳しく攻めた。

会談後、中国外務省は米国に先んじて記者会見を開き、紋切り型の主張を展開した。その直後に配信された中国共産党の海外向け機関紙「グローバルタイムス」は、社説で中国側の悲観的見方を吐露している。

「中米両国が関係を断ち切ることはないと思われる」「しかし合意は困難」「米国は新冷戦や両国関係の切り離しを煽っている」という非難の中には米国が対中姿勢緩和に動くことへの期待はほぼ見られない。この局面で中国側は香港への強権発動を決断したと思われる。

対照的に米国は会見で鋭い中国批判を発信した。スティルウェル国務次官補が中国側は「前向きではない」「一方的で非現実的」「戦狼外交」だなどと言い切った。

氏はまた、世界が武漢ウイルス禍で苦しむ中、元凶国中国が勢力拡大を進めているとし、中国の外交姿勢を手厳しく攻撃した。

私は氏が言及した2014年の中国外交に注目せざるを得なかった。その年、習近平国家主席が初めてインドを訪問したのだが、訪問に合わせて人民解放軍が中印国境の紛争地帯にそれまでになかったほど深く侵攻し、それまでになかったほど長期間占領したと、スティルウェル氏は語ったのだ。

「鼻にパンチを食らわせて中国の優位性を思い知らせる戦術か、本当のところは分からない」と氏は結んだが、中国の攻勢の背後には勝手に歴史を作り上げる嘘つき国家の姿がある。その意味で、2010年12月、温家宝首相の訪印を連想する。あの時も中国側は強烈なパンチを繰り出した。

インドに攻め入る

インド北東部のアルナチャル・プラデシュ州は広さ8万平方キロ、ヒマラヤ山系の上質な水が豊かに流れ込むインド随一の水源の州だ。同州を中国は自国領だと主張し、チベット自治区に編入してしまった。

この州の、中国がチベット自治区に編入した地域に、温氏訪印に合わせて中国軍工兵隊がトンネルを貫通させた。ヒマラヤ山系の下に掘られたトンネルは、有事の際、人民解放軍の戦車を最高速度で走らせるのに十分な幅と強度を備えている。トンネル完成で、人民解放軍はいつでもインドに攻め入ることができる。戦略上重要な意味を持つトンネルの完成を温氏訪印にぶつけたのである。

胡錦濤主席も同様の形で訪印した。温氏の訪印の約4年前だ。インドの戦略研究家、ブラーマ・チェラニー氏の説明だ。

「中国側は胡主席訪印の06年に、それまで休止していたアルナチャル・プラデシュ州の領有権問題を公然と持ち出したのです」

中印国境はネパールとブータンを挟む形で、東西3300キロ余りに達する。ほぼ全域がヒマラヤ山脈を構成する高山地帯だ。国境をめぐって両国は常に争ってきた。1959年から62年までの中印紛争はまさに国境で両軍がぶつかった。中国軍が圧倒的優勢で戦いを展開し、遂にジャンム・カシミール州のアクサイチンを奪い取った。ここはいま、中国が実効支配を続けている。

インドは常に中国に騙され、軍事的にもしてやられてきた。ネルー首相と周恩来首相が会談し、中印両国が平和五原則を打ち立てた54年、ネルーは友好の印として両国を隔てるヒマラヤ山系の地図を周恩来に贈った。地図は国家機密だ。詳細な地形と建造物、その場所と形状は、相手国攻略に必須の知識だ。周恩来は喜んで受け取り、両国の友好を誓った。だが59年にインドに攻め入ったとき、人民解放軍はネルーの贈った地図を存分に活用したのである。

チェラニー氏が指摘する。

「06年に中国がまたもやアルナチャル・プラデシュの領有権を主張し始めたとき、彼らが使ったロジックは噴飯物でした。17世紀にダライ・ラマ6世がアルナチャル・プラデシュ州のタワンという地区で住まれた、従ってアルナチャルはチベットのものだ。チベットは中国の一部であるから、アルナチャルも中国領だというのです」

そのような理屈を使えば、ダライ・ラマ4世は1589年にモンゴルで生まれたためにモンゴルは中国領になる。こんな無茶苦茶はどの世界でも通用しない。加えて、ダライ・ラマ法王は、歴史上、アルナチャルは一度もチベットの一部であったことはないと語っている。

恥辱の歴史への恨み

習近平、温家宝、胡錦濤と、中国歴代の主席や首相の外交を振りかえると常に脅しと騙しの混合スタイルであることに気付く。こんな悪い癖をもつ中国が、いま、米国に公然と挑戦している。それがスティルウェル氏の言う「戦狼外交」であろう。

戦狼外交の定義ははっきりしないが、王毅外相が国際社会における中国の国益と評価を高めよ、積極攻勢に出よと指示を出したのは、武漢ウイルス発生とほぼ同時期だった。

「おそらく米軍が疫病を武漢に持ち込んだ」とツイッターで発信した中国外務省の趙立堅副報道局長をはじめ、4月12日に在仏中国大使館が公式サイトで、フランスの高齢者施設の職員が職場放棄し「入居者らを飢えと病気で死なせた」との非難など、中国の強硬論が溢れた。

なぜ、無理筋の強硬論が発信されるのか。米クレアモント・マッケナ大学教授、ミンシン・ペイ氏は、中国人の歴史に対する恨みと自己イメージの誇大妄想化が背後にあると見ている。前者は「恥辱の一世紀」「勿忘国恥」(国恥を忘れることなかれ)などの言葉に象徴される歴史認識であり、清朝が欧米列強及び日本に蹂躙されたことへの恨みである(6月25日号の本欄を参照下さい)。後者は中華民族は世界諸民族の中にそびえ立つと豪語する習氏に、あらゆる人々がへつらうところから生じる自己肥大化現象だとペイ氏は指摘する。

恥辱の歴史への恨みから生まれるナショナリズムと、中華民族こそ世界に君臨すべき優れた存在だとの強烈な自意識は、いかなる批判も受け付けない。撥ねつけ反撃し、戦狼外交の波が起きる。政治家、財界、国民全員は、その中国に筋の通った厳しい姿勢で接しなければならない。一瞬の隙、心にもない微笑、卑屈な友好は、固く禁ずべきだ。
『週刊新潮』 2020年7月23日号
日本ルネッサンス 第910回

◎真夜中の随想(令和2年7月23日):北村維康

今夜はベートーヴェンの交響曲1番と3番を聴いた。指揮は、カール・シューリヒト、録音は1952〜1953年頃の、モノラルである。古い録音ながら、その迫力は凄い。

特に3番(英雄)の葬送行進曲は、荘重であり、聴いてゐる自分まで、悲壮ながら崇高な境地へと、引き上げられる感がする。世の中がコロナに引っ掻き回されてゐる今、力づけられたひと時であった。

さて、チャイナの三峡ダムの決壊騒ぎは、チャイナ共産党がこの膨大な国土を、いやしくも管理できるのか否かといふ根源的な疑念に発展せざるを得ないだらう。洪水に罹災しつつある無数の民は、こんな国に生まれたことの不運をかこつ暇もなく、必死に泳ぎ、家族を助けてゐるのだらうが、まことに気の毒なことである。彼らの大難が小難になり、小難が無難になるやうに、祈って止まない。

2020年07月17日

◆真の独立国になれ、ボルトンの警告

櫻井よしこ


毎週金曜日の午前中、シンクタンク「国家基本問題研究所」の研究会がある。学者や研究者、ジャーナリストが集い、幅広く意見交換をするが、このところの話題のひとつがジョン・ボルトン氏の回顧録『それが起きた部屋』(以下『部屋』)だった。氏は1年と5か月、トランプ米大統領の国家安全保障問題担当補佐官を務め、2019年9月に大統領と仲違いして辞任した。

『部屋』を、国基研研究員の福井県立大学教授、島田洋一氏は早々とキンドルで読んでいた。約600頁にも上る大著をキンドルで読むのは流石に疲れる。私は紙の本を待って、実物を手にして読み始めた。

すでに「ニューヨークタイムズ」紙をはじめ米国や欧州の主要紙誌が書評を書いているが、概してトランプ大統領に対して厳しい。

ボルトン氏自身が「彼(トランプ)は大統領に適していない。その責務を果たす能力に欠けている」などと批判した上に、同書はトランプ再選を阻止するために書いたのだとも明言している。内容が厳しいのは当然なのであろう。

『部屋』では微に入り細をうがってトランプ氏が会った多くの首脳、多くの場面が描かれている。ボルトン氏の几帳面な性格を反映してか、必要以上とも思われる詳細な記述に満ちており、どの段落にも反トランプの気持ちが詰まっている。

ここまで現役大統領の発言を暴露してしまってよいのか。米国の国益に反するのではないか。お喋り好きの大統領もまさかこんな形で発言が表沙汰にされるとは想定していなかったことだろう。そう考える一方で、この本はトランプ外交を理解するために、時間をかけてじっくり読むべき貴重な記録だと思う。

米国大統領は世界最強国の指導者であり、好むと好まざるとに拘わらず、世界秩序の維持に大きな責任を負う。あらゆる情報を頭に入れ、世界の動きを把握していなければその責任は果たせない。とりわけ中国が力をつけ、公然と覇権確立に動いている現在、自由主義陣営の為に米国大統領には賢明であってほしい。

ときどきの直感、アドリブ

米国大統領は、毎朝米国の持つトップクラスのインテリジェンス情報の説明を受けるのが通常の在り方だ。次期米国大統領に選ばれた時から、実際にホワイトハウス入りするまでの2か月余り、新大統領は特別の進講を受けるのが米国の慣わしだ。

トランプ氏は、しかし、16年11月に大統領に当選した後、中央情報局(CIA)をはじめとするインテリジェンス部門の進講を殆んど受け付けなかった。ホワイトハウス入りしてからも、精々週二回程しか情報説明を受けないという。また進講の時間の殆んどをトランプ氏自身が喋るために、米国の持てる機密情報も重要情報も、大統領が当然知っておくべき情報も中々伝わらないとボルトン氏は書いている。

トランプ氏とは多くの点で正反対なのがジョージ・ブッシュ(子)元大統領だ。彼は8年間、幾度か例外はあったが、早朝に起床し、ジョギングし、身支度を整えてから聖書を読んだ。7時少し前にはホワイトハウスの居住棟から大統領執務室に入り、真っ先に、その日のインテリジェンスリポートに耳を傾けた。彼はこの規則正しい習慣をホワイトハウス時代を通して守ったと、自身の回顧録に書いている。正午頃になってようやく執務室に姿を現わすトランプ氏とは生活スタイルが随分異なるのだ。

こんな風だからトランプ氏の政策はおよそ全て、戦略に則るというより、そのときどきの直感、アドリブで打ち出されるという。外交においても同様だとして、ボルトン氏は以下のように書いている。

18年12月1日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで20ヵ国による「首脳会合」(G20)が開かれ、トランプ・習近平会談も持たれた。米国側は関税を引き上げるか否かを材料に、知的財産権の窃盗や強制的な技術移転など、許されざる中国式手法の改革、つまり構造改革に関して明確な釘を中国側に打ち込みたかった。

しかし、習近平氏は一枚も二枚も上手だった。氏はまずトランプ氏にお追従を言った。「大統領とあと6年一緒に働きたいですね」と。

するとトランプ氏はこう答えたそうだ。大統領の任期二期制は自分に限り撤廃されるよう、憲法を改正すべきだと人々が言っていると。

習氏はその場ではそれ以上何も言わなかった。しかしブエノスアイレスでの会談を終えて暫く過ぎた12月29日、習氏がトランプ氏に電話をかけてきて言った。

「中国はトランプ氏の憲法改正と3期目の任期を切望している」

日本にとって厳しい時代

トランプ氏は喜んだことだろう。それにしてもなぜこんな発言が、ブエノスアイレスの首脳会談からかなりの日数がすぎた段階で習氏の口から出てくるのか。

習氏は米中会談では最初から最後まで目の前に置いた資料を見ながら話したという。トランプ氏との会談中、習氏はいつも紙を読んでいた。アドリブなどひとつもない。全てが計算された戦略、戦術に沿っての発言なのだ。

中国側は思いがけないトランプ氏の自己愛の発露を冷笑し、帰国後、トランプ発言を詳細に分析したことだろう。

その結果が、電話会談での改憲と3選話であろう。中国が考え抜いたお追従がどれだけの効果をもたらしたかは定かではない。だが、トランプ氏が悪い気分ではなかったことは確かなようだ。

なぜなら習氏はこのときトランプ氏にマイケル・ピルズベリーの『100年マラソン』は中国の戦略ではないなどとも吹き込んでいるからだ。

『100年マラソン』は中華人民共和国建国から100年の2049年までに、中国は米国をも凌ぎ、世界に君臨することを目指していると具体的に指摘したベストセラーだ。

著者のピルズベリーはかつて親中派だったが、現在筋金入りの反中派に転向し、トランプ政権の対中政策構築に深く関わっている。

今更ピルズベリーの主張を否定しても、効果は余り期待出来ないと思うが、それでも毒針を1本、トランプ氏の心に打ち込んでおけば、いつの日か効くかもしれないのだ。

11月の米大統領選挙の行方は現時点では分からない。ただひとつ明らかなのは、日本にとって厳しい時代がやってくることだ。米中の対立は深まり、中国は武漢ウイルスを真っ先に鎮めた国として世界により強い影響力を行使すべく、これまで以上に攻勢を強める。

トランプ氏は安倍晋三首相に絶大な信頼と友情を抱いているが、日米安保条約の不平等性には大きな不満を抱いている。米国が日本の鉾であり続けるかは日本次第だ。私たちは、自国を自力で守る体制を整備しなければ大変なことになる。それが『部屋』の対日警告だろう。

『週刊新潮』 2020年7月16日号
週刊新潮 日本ルネッサンス 第909回

2020年07月11日

◆大平さんは「薬害エイズ」で闘い抜いた

櫻井よしこ



『週刊新潮』 2020年7月9日号
日本ルネッサンス 第908回

長年の友、大平勝美さんが亡くなった。亡くなる2日前、氏を自宅に見舞ったとき、苦しそうではあったが明確な意志表示をして下さり、私は安堵した。大平さんが痛みを訴えた胸のあたりを優しくさすっていた女医さんがベッドサイドで語った。

「国立国際医療研究センターに入院していらしたとき、大平さんは痛み止めの薬は要らないと、拒否し続けました。薬で頭がボーッとすると、言い残しておかなければならないことがまだ沢山あるのに、言えなくなるからって……」

大平さんはエイズウイルス(HIV)に汚染された非加熱濃縮血液製剤(以下、非加熱製剤)を血友病治療薬として投与されて薬害エイズに感染した。

米国のCDC(疾病管理予防センター)は1983年3月、血友病患者のエイズは非加熱製剤が原因だと正式に発表し、製薬企業にウイルスを死滅させた加熱濃縮血液製剤(以下、加熱製剤)への転換を促した。

他方、日本での動きは極めて遅く、加熱製剤が承認されたのは85年7月になってからで、米国より2年4か月遅かった。しかも、加熱製剤承認後も業界大手のミドリ十字を中心に、製薬企業側は大量に在庫のあった非加熱製剤を優先して患者に使用させた。また、加熱製剤開発が一番遅れていたミドリ十字に配慮する形で、加熱製剤承認に必要とされた治験が調整された。つまり、承認を遅らせたということだ。

結果、前述のように2年4か月が消費され、その間に多くの血友病患者がHIVに感染した。国と製薬企業の責任を問うべく患者原告団が提訴したのは自然の流れだった。

提訴は89年10月27日、原告被害者67名・61家族は全員匿名という裁判史上初の事例だった。

自らに迫る危機

この原告患者の精神的支柱のひとつが大平さんだった。だが、最初から大平さんが裁判や、関係者の責任追及に熱心だったわけではない。彼は血友病という出血し易い病気を抱えてはいたが、穏やかで幸せな結婚生活を営んでいた。かねて妻と約束していた初めてのヨーロッパ旅行に出かけたのが83年4月。CDCが血友病患者のエイズの原因は非加熱製剤だと正式発表したが、日本の厚生行政は全く動かず、血友病専門医の多くも患者に非加熱製剤を投与し続けていた時期だ。

大平さんは旅行に出る前の健康診断で出血予防として非加熱製剤750単位を1本打たれた。旅行中は携帯が便利な非加熱製剤を使用するよう指示されて「22~23本持たされた」。大平さんは、これを毎日、2回、出血予防のために打った。

だが、それ以前の大平さんはクリオプレシピテート、クリオと略称される血液製剤を使用していた。クリオは単独のドナーの血液から作られるために、肝炎ウイルスなど感染症の危険を防ぎやすかった。無論エイズに罹る危険性もなかった。他方、濃縮血液製剤は2000人から2万5000人にも上る不特定多数の、売血由来の血液成分をプールして製造したものだ。その分危険は、当然大きくなる。

妻と共に沢山の楽しい思い出を作って帰国した途端、氏は「アメリカ由来の非加熱製剤で感染の危険」「致死率極めて高い」「日本では血友病患者に感染の危険」などと報じた「毎日新聞」の記事を目にした。

「どうしよう、沢山使っちゃったよ」。大平さんは自らに迫る危機を恐れずにはいられなかった。不安が高まる中、同年6月、厚生省はエイズ研究班を設置し、安部英氏が班長に就任した。

それから約2年後の85年夏、大平さんは帝京大学で副学長に昇進していた安部氏を訪ねた。安部氏は製薬企業5社、化血研、トラベノール、カッター、ヘキスト、ミドリ十字で加熱製剤の治験代表世話人を務めていた。

大平さんが安部氏に質したかった重要点はひとつだった。米国より大幅な遅れで日本は全社同時、85年7月にようやく加熱製剤を承認した。なぜ開発の早い順に承認してもらえなかったのかとの問いは安部氏の責任追及でもあった。

安部氏訪問の約ひと月前に、大平さんは化血研を訪ねている。化血研側は「実はもっと早く加熱製剤を供給したかったが、開発の遅れていたミドリ十字に合わせるために遅くなった」と語っている。トラベノール、ヘキストの両社も加熱製剤供給に向けての準備が進んでいた。

ミドリ十字以外の社の状況を踏まえ、大平さんはズバリ安部氏に問うた。

「トラベノールなどはもっと早く加熱製剤を供給できたのに」、と。

安部氏は自らの責任を認めることはなく、「だから君たちとは会うのがいやなんだ」と返している。

大平さんを含む被害患者が国と製薬企業5社を提訴したのは、それから更に4年余り後のことだ。

賢い患者

右の訴訟とは別に、薬害エイズ事件に関連して安部氏は業務上過失致死罪で刑事告訴され、一審で無罪を勝ち取り、控訴審中に死去した。

他方、安部氏は名誉棄損で、私及び毎日新聞を訴えたが、いずれも最高裁で安部氏敗訴が確定している。

薬害エイズ事件に関して司法の場で展開された闘いのいずれにおいても、大平さんの存在は大きかった。彼は果敢に問題提起し、詳細な証言を残した。厚生省、製薬企業、安部氏を筆頭に多くの専門医と真剣にわたり合った。とりわけ厚生省の血液行政に関しては、最後まで外国由来の売血に頼る日本の現状に警鐘を鳴らした。米国で非加熱製剤が使われなくなった83年以降、米国は日本向けに売血由来の非加熱製剤をつくり続け、わが国は買い続け、悲劇が起きた。そのような事態を放置してはならず、日本国民の使う血液製剤は国内血で賄えというのは正論である。

全国の患者さんに対しては、一人一人の状況を「わが事」と受けとめ親身に助言した。持てる情報全てを、仲間の患者に教え、賢い患者になることの重要性を説いた。世の偏見に打ちひしがれる患者には、闘う勇気を失ってはいけないと元気づけた。

大平さんと最後に食事をしたのは去年の12月23日だった。例年春や夏に我が家で手料理を囲んでいたのが年の暮れになった。気ぜわしいが、年をまたぐ前にとにかく会おうと決めて例年のように我が家に集った。九州から加わった人もいた。帰りしなに大平さんが笑って言った。

「今日はタイ風カレーを期待してたのに!」

暮れのことで、私は時間のかかる料理を避けたのだ。

「ああ! ごめんなさいね。次はきっちりタイ風カレーでいこうね」

私たちは笑って別れた。そしていま、今生での本当の別れが来た。

大平さんは入院中、厚労省の会議にリモートで2時間参加したという。最後まで闘って燃え尽きた。立派で心優しい友人を、私は忘れまい。


2020年07月03日

◆敵基地攻撃を可能に、政策転換を図れ

櫻井よしこ


中国は水のように「侵略の手」を伸ばす。水は低地に隈なく流れ込む。中国は弱い所に隈なく入り込む。米国が武漢ウイルス禍で混乱し、11月の大統領選挙で動きが鈍い現在、中国の侵略の手は日本周辺でも大胆に動いている。その状況下の6月15日、河野太郎防衛大臣が唐突に、「イージスアショアの配備計画を停止します」と発表した。

陸上配備型イージス・システム(イージスアショア)は日本がどうしても進めなければならない二正面作戦、中国及び北朝鮮の脅威への対処を充実させるために、2017年12月に導入を決定したものだ。

秋田県秋田市と山口県萩市の陸上自衛隊の基地・演習場に配備すれば、日本列島全体を防護できる。イージスアショア2基で北朝鮮のミサイルを捕捉し、迎撃ミサイルも巡航ミサイルのトマホークも発射できる。強力な守りと、強力な反撃能力の双方を持てる、とされた。

さらに、イージスアショアによって北朝鮮のミサイルへの対応能力が整えば、手持ちのイージス艦7隻は南西諸島で尖閣、沖縄を脅かす中国用に振り向けることも可能になる。

同計画はしかし、河野氏の突然の判断で大幅修正に追い込まれた。計画変更の理由に、河野氏は年来の秋田、山口両県に対する説明と現実が異なることを挙げた。

万が一、敵のミサイル攻撃があり、イージスアショアから迎撃ミサイルを発射した場合、ミサイル本体は高く飛んで宇宙空間で敵ミサイルを破壊するが、途中で切り離されるブースター(第一段ロケット)が自衛隊の演習場内におさまらず、民有地に落下することが判明した。ブースターは必ず演習場内に落ちるため安心だ、と今まで地元に説明してきたが、それが事実でないことが判明したために停止する、というのだ。

元外務副大臣の佐藤正久氏が指摘した。

「北朝鮮から核攻撃を受ける危険と、ミサイルを打ち上げるブースター、1.8メートル程の空のタンクですが、これが落下してくる危険を同列に論じる点がそもそも間違いです」

歪んだ国防思想

この空タンクが民家を直撃する可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い一方、北朝鮮の核は広島に落とされた核爆弾の10倍以上の殺傷能力を持つ。そうした強力な核兵器を運ぶ「スカッド」「ノドン」両ミサイルは日本全土を射程におさめているではないか。北朝鮮の悪魔の攻撃を受ければ数十万人の命が奪われかねないのだ。

大きく異なる二つの危険性、ドンガラのブースターと核兵器を積んだミサイルを、同レベルに置いて論ずる姿勢に日本独特の歪んだ国防思想がある。現実を見ることなしに希望的観測で判断する悪癖だ。政治家もメディアももっと現実に沿って考えなければならない。佐藤氏はさらに強調した。

「たとえば防衛省にはPAC3が配備されています。首都がミサイル攻撃を受ける場合、イージス艦などが宇宙空間で、つまり上層で迎撃できればよいのですが、撃ち逃がして地上に近い下層で迎撃する場合はPAC3が働きます。そのとき撃ち落としたミサイルの残骸などは新宿区に落下する危険性が大きい。こういうことを正直に国民に言うべきです。

その上でどんな態勢を作れば、『新宿区に残骸落下』などの事態を防げるのか、具体的に示すべきです。もっと広い用地を買収したり、海岸沿いに迎撃ミサイル基地用のスペースを確保するなど、国民被害最小化の手はあるのです」

一方で、自民党安全保障調査会会長で元防衛大臣の小野寺五典氏は、政府はイージスアショアの配備中止を決めたわけではないと語る。

「イージス・システムは現在も作っています。秋田、山口を代替できる適切な地があればそこに据えることも可能ですが、海上スペースも有力な候補です」

考えられるのは、➀海上構造物に据えつける、➁海上自衛隊のイージス艦に載せる、である。

海上設置の場合と陸上設置の場合、同じイージス・システムでも仕様が異なるとの指摘があるが、システムを作っている現段階では、修正は可能だという。技術的に修正可能だとしても、日本にはもうひとつ、難題がある。自衛隊の疲弊である。とりわけ海上自衛隊は隊員も船も足りない。充足率91.7%で最重要の訓練日数さえ短縮につぐ短縮が起きている。

イージスアショアの導入にはそもそも海自の負担軽減という目的があった。いまその導入が否定されるとして、小野寺氏の指摘するように海上に設置、またはイージス艦にシステムを載せる場合、海自の現有勢力では難しいだろう。

「投資」感覚

河野氏の判断で日本列島全体の守りに穴を開けることになってはならない。そのためにまず政府は何としてでも国民・国土を守る決意を明確に示すことだ。侵略に毅然と対処する決意を強く打ち出すときだ。

それが国防の穴を塞ぐ第一歩だ。その点で河野氏の発言は極めて不適切だ。氏はイージスアショア見直しについて「投資としても合理性がない。潔くやめよう」と語っている。

無論、予算の無駄遣いは許されないが、国防をカネの多寡で論ずることは愚かである。わが国の隣りには北朝鮮や中国がいて、ロシアが中国と共同で尖閣諸島海域でわが国領土を奪うかのような動きに出ている。

目的達成のために最終的に軍事力行使をためらわないこんな国々に囲まれている限り、損得勘定を超えて可能な限りの国防努力が必要だ。氏は防衛大臣として省内の売店のレジ袋中止やエコバッグ推奨に力を入れているそうだが、国土や国を奪われてしまえば終わりなのである。

防衛大臣なら「投資」感覚でイージスアショア配備停止を宣言するのでなく、その結果、ポッカリ開いてしまう国防の穴を具体的に埋める案を示す責任を果たせ。

6月に入ってトランプ大統領は9月までに独駐留米軍、9500人を削減して2万5000人に縮小するよう指示した。ドイツからの撤兵は米議会の強い反対で一応見合わせることになったが、元駐独大使のグレネル氏は6月11日の「フィナンシャル・タイムズ」紙にこの決定は「アフガニスタン、シリア、イラク、韓国、日本など多くの国から米軍を撤退させるという枠の中でとらえるべきだ」と語っている。米国の大方針は変わらないということだ。

ここで明確に確認しておこう。日米安保条約は国際条約であり、責任ある国として米国も日本もきちんと守るだろう。だが中国に対処するには、日本自身、責任ある国として国防力を養わなければならない。その国家意志を示すためにも河野氏の言葉とは逆に、安倍晋三首相は国防予算を増やし、敵基地攻撃を可能にする新たな政策を提示することだ。

『週刊新潮』 2020年7月2日号
日本ルネッサンス 第907号

2020年06月28日

◆国恥を忘れるな、中国の暗い原動力

櫻井よしこ


世界に武漢ウイルスを拡散させ、すでに43万人の命を奪っているにもかかわらず、中国政府も中国人も反省の姿勢を見せないどころか、いまや次の世界秩序を構築し、世界を主導するのは中国に他ならないと主張する。横柄というべきこの態度はどこから生まれてくるのだろうか。

右の疑問は日本だけでなく、多くの国々の多くの人々が抱いているに違いない。そうした問いに汪錚(ワンジョン)氏の著書『中国の歴史認識はどう作られたのか』(東洋経済新報社・伊藤真訳)が答えてくれる。

汪氏は、中国人は、この世の中の最も優れた民族は中華民族であると信じていると強調する。古来より中国が周囲の民族を東夷西戎南蛮北狄と呼び、蛮族ととらえてきたのは周知のとおりだ。

中華民族は優れた文化・文明を有し、その徳によって国を治めていると自負し、周囲を軽蔑してきた。その意味で中国は人種差別の色彩が濃い社会だと言ってよいだろう。しかし、同時に「蛮族」が中華の教えに従い、中華文明に染まり、中国人になるのであれば、中国は受け入れてきた。その点で中華民族は寛大であると、彼ら自身は考えている。

中国人の心理を理解するには彼らの誇りと愛国を支える三つの要素を知っておくべきだと、汪氏は言う。

1選民意識、2神話、3トラウマである。

1は、古代に遡る。古代中国人は自分たちは世界の中心の聖なる土地に暮らす選ばれた民だと信じた。中国の哲学、習慣、文字などが近隣諸国に広まり「一種の師弟関係」を近隣諸国との間に結んだことで、中国文明の普遍性や優位性を強く確信するに至り、選民意識が深く根づいていったというのだ。

中国人のコンプレックス

選民である民族の物語は2の神話となって、これまた中国の人々の心に定着した。だがそれを打ち砕いたのがアヘン戦争以降「恥辱」の一世紀だった。3のトラウマである。

恥辱の一世紀は以下の6度にわたる戦争から成る。1第一次アヘン戦争(1840〜42年)、2第二次アヘン戦争(56〜60年)、3日清戦争(94〜95年)、4義和団事件(1900年)、5満州事変(31年)、6日中戦争(37〜45年)である。

ここで日本人の私たちが注目すべきことは6度の戦争の内、4度までも日本が関わっていることだ。日清戦争でも義和団事件でも中国は無残に敗れた。日本が完璧に勝った。中国側は日中戦争には勝ったが、それは日本が米国に敗れた結果にすぎない。彼らはそのことでも誇りを傷つけられていると、汪氏は解説する。

汪氏の著書の帯には「なぜ日本人はかくも憎まれるのか?」と書かれており、第3章では蒋介石が日記に「私は倭(日本人ども)を滅ぼし国恥を雪ぐための方策を記すことにする」と繰り返し書きつけていたことが紹介されている。

まさに中国人のトラウマは、自分たちよりも劣ると見做していた日本人との戦いに敗れたことから生まれたというのだ。その分、日本と日本人は格別に憎まれていると心得ておくのが正解なのである。また彼らの憎しみは、そのときどきの政治情勢によって蛇口を開閉され、いつでも必要な時に私たちを襲う。

中国社会の深部にこびりついている選民意識、中国の偉大さについての神話とそれを打ち砕かれたトラウマが複合して生まれた心理、中国人のコンプレックスを知ることなしには、現在の中国人の行動や中国共産党政権の世界戦略を真に理解することはできないと、汪氏は強調する。

選ばれた民は誇り高い。習氏が2017年10月18日、中国共産党第19回全国人民代表大会での演説で語ったように、中国は経済力をつけ、軍事力を強化し、世界の諸民族の中にそびえ立つべき存在だと、彼らは信じている。

中国は世界の諸民族に価値観を教え、導くのであるから、尊敬され、称賛されるべき存在だと疑わない。従って、わずかな誹謗や批判も許容できないのである。

一例が中国政府の武漢ウイルスに関する当初の拙劣な対処や経済への影響を論じた米国の政治学者、ウォルター・ミード氏の「ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)」紙の記事に「中国は真にアジアの病人だ」という見出しがついたことへの尋常ならざる怒りであろう。

中国政府は感情のコントロールができないかのように、2月19日、ミード氏の記事とは何の関係もない北京駐在の同紙特派員3名の追放に踏み切った。

豪州国籍の男性に死刑

1100万人の住む都市、武漢を一夜にして封鎖し、一切の実情を報道させず、それでも一応武漢ウイルスを他国に先がけて抑制したと誇る。彼らはその「実績」を掲げ、国際社会に中国の規範を示すのである。

彼らはいまが勢力拡大の好機と見て、持てるすべての手段を駆使する。

4月23日に豪州首相のモリソン氏が武漢ウイルスの発生源に関して国際社会は独立した調査を行うべきだと、私たちの側の論理では当然の主張を展開すると、中国は、5月12日、豪州産の農産物輸入規制で報復した。

6月5日、豪州で中国人への差別的言動が増加中として、国民に豪州への渡航自粛を促した。10日には広州市中級人民法院が薬物密輸の罪で起訴された豪州国籍の男性に死刑判決を下した。

経済力だけでなく司法の力も彼らは自在に活用する。中国共産党は三権の上に君臨する超法規的存在であるため、何でもできる。

無論、軍事力の効用も最大限活用中であることは、南シナ海や台湾海峡における中国軍の海と空での行動を見れば明らかだ。尖閣諸島に「海警」所属の事実上の軍艦4隻が常に侵入しているのも、彼らが力を信奉するためだ。

国際社会は中国を突き動かす力が「国恥」という言葉から生まれていることに思いを致せというのが汪氏の警告である。中国の子供たちは幼い頃から「勿忘国恥」(国恥を忘れることなかれ)という言葉を教え込まれる。

列強諸国、とりわけ日本にどんなに酷い目に遭わされたか、民族の恨みと憤りを教え込むのである。国恥への歯ぎしりが、中華民族は復興を遂げなければならないとの切望を生み出す力につながる。

文革で毛沢東主義の過ちが判明し、東西の冷戦で共産主義のソ連が崩壊し、そこに生じたイデオロギーの空白を、中国共産党は埋めなければならなかった。

共産主義社会の実現に替わる思想を見つけなければ共産党の存在意義は消滅する。空白を埋める新たな思想が、愛国主義、中華民族の偉大なる復興だった。愛国主義につながる「勿忘国恥」こそ中国共産党の生き残りを支えた言葉なのだ。

中国の強硬姿勢を抑制する力を多国間協力を通して強めることが日本の生き残る道であろう。

『週刊新潮』 2020年6月25日号
日本ルネッサンス 第906回

2020年06月26日

◆国恥を忘れるな、中国の暗い原動力

櫻井よしこ


世界に武漢ウイルスを拡散させ、すでに43万人の命を奪っているにもかかわらず、中国政府も中国人も反省の姿勢を見せないどころか、いまや次の世界秩序を構築し、世界を主導するのは中国に他ならないと主張する。横柄というべきこの態度はどこから生まれてくるのだろうか。

右の疑問は日本だけでなく、多くの国々の多くの人々が抱いているに違いない。そうした問いに汪錚(ワンジョン)氏の著書『中国の歴史認識はどう作られたのか』(東洋経済新報社・伊藤真訳)が答えてくれる。

汪氏は、中国人は、この世の中の最も優れた民族は中華民族であると信じていると強調する。古来より中国が周囲の民族を東夷西戎南蛮北狄と呼び、蛮族ととらえてきたのは周知のとおりだ。

中華民族は優れた文化・文明を有し、その徳によって国を治めていると自負し、周囲を軽蔑してきた。その意味で中国は人種差別の色彩が濃い社会だと言ってよいだろう。

しかし、同時に「蛮族」が中華の教えに従い、中華文明に染まり、中国人になるのであれば、中国は受け入れてきた。その点で中華民族は寛大であると、彼ら自身は考えている。

中国人の心理を理解するには彼らの誇りと愛国を支える三つの要素を知っておくべきだと、汪氏は言う。

➀選民意識、➁神話、➂トラウマである。

➀は、古代に遡る。古代中国人は自分たちは世界の中心の聖なる土地に暮らす選ばれた民だと信じた。中国の哲学、習慣、文字などが近隣諸国に広まり「一種の師弟関係」を近隣諸国との間に結んだことで、中国文明の普遍性や優位性を強く確信するに至り、選民意識が深く根づいていったというのだ。

中国人のコンプレックス

選民である民族の物語は➁の神話となって、これまた中国の人々の心に定着した。だがそれを打ち砕いたのがアヘン戦争以降「恥辱」の一世紀だった。➂のトラウマである。

恥辱の一世紀は以下の6度にわたる戦争から成る。➀第一次アヘン戦争(1840〜42年)、➁第二次アヘン戦争(56〜60年)、➂日清戦争(94〜95年)、➃義和団事件(1900年)、➄満州事変(31年)、➅日中戦争(37〜45年)である。

ここで日本人の私たちが注目すべきことは6度の戦争の内、4度までも日本が関わっていることだ。日清戦争でも義和団事件でも中国は無残に敗れた。日本が完璧に勝った。

中国側は日中戦争には勝ったが、それは日本が米国に敗れた結果にすぎない。彼らはそのことでも誇りを傷つけられていると、汪氏は解説する。

汪氏の著書の帯には「なぜ日本人はかくも憎まれるのか?」と書かれており、第3章では蒋介石が日記に「私は倭(日本人ども)を滅ぼし国恥を雪ぐための方策を記すことにする」と繰り返し書きつけていたことが紹介されている。

まさに中国人のトラウマは、自分たちよりも劣ると見做していた日本人との戦いに敗れたことから生まれたというのだ。その分、日本と日本人は格別に憎まれていると心得ておくのが正解なのである。また彼らの憎しみは、そのときどきの政治情勢によって蛇口を開閉され、いつでも必要な時に私たちを襲う。

中国社会の深部にこびりついている選民意識、中国の偉大さについての神話とそれを打ち砕かれたトラウマが複合して生まれた心理、中国人のコンプレックスを知ることなしには、現在の中国人の行動や中国共産党政権の世界戦略を真に理解することはできないと、汪氏は強調する。

選ばれた民は誇り高い。習氏が2017年10月18日、中国共産党第19回全国人民代表大会での演説で語ったように、中国は経済力をつけ、軍事力を強化し、世界の諸民族の中にそびえ立つべき存在だと、彼らは信じている。

中国は世界の諸民族に価値観を教え、導くのであるから、尊敬され、称賛されるべき存在だと疑わない。従って、わずかな誹謗や批判も許容できないのである。

一例が中国政府の武漢ウイルスに関する当初の拙劣な対処や経済への影響を論じた米国の政治学者、ウォルター・ミード氏の「ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)」紙の記事に「中国は真にアジアの病人だ」という見出しがついたことへの尋常ならざる怒りであろう。

中国政府は感情のコントロールができないかのように、2月19日、ミード氏の記事とは何の関係もない北京駐在の同紙特派員3人の追放に踏み切った。

豪州国籍の男性に死刑

1100万人の住む都市、武漢を一夜にして封鎖し、一切の実情を報道させず、それでも一応武漢ウイルスを他国に先がけて抑制したと誇る。彼らはその「実績」を掲げ、国際社会に中国の規範を示すのである。

彼らはいまが勢力拡大の好機と見て、持てるすべての手段を駆使する。4月23日に豪州首相のモリソン氏が武漢ウイルスの発生源に関して国際社会は独立した調査を行うべきだと、私たちの側の論理では当然の主張を展開すると、中国は、5月12日、豪州産の農産物輸入規制で報復した。

6月5日、豪州で中国人への差別的言動が増加中として、国民に豪州への渡航自粛を促した。10日には広州市中級人民法院が薬物密輸の罪で起訴された豪州国籍の男性に死刑判決を下した。

経済力だけでなく司法の力も彼らは自在に活用する。中国共産党は三権の上に君臨する超法規的存在であるため、何でもできる。無論、軍事力の効用も最大限活用中であることは、南シナ海や台湾海峡における中国軍の海と空での行動を見れば明らかだ。尖閣諸島に「海警」所属の事実上の軍艦4隻が常に侵入しているのも、彼らが力を信奉するためだ。

国際社会は中国を突き動かす力が「国恥」という言葉から生まれていることに思いを致せというのが汪氏の警告である。中国の子供たちは幼い頃から「勿忘国恥」(国恥を忘れることなかれ)という言葉を教え込まれる。

列強諸国、とりわけ日本にどんなに酷い目に遭わされたか、民族の恨みと憤りを教え込むのである。国恥への歯ぎしりが、中華民族は復興を遂げなければならないとの切望を生み出す力につながる。

文革で毛沢東主義の過ちが判明し、東西の冷戦で共産主義のソ連が崩壊し、そこに生じたイデオロギーの空白を、中国共産党は埋めなければならなかった。

共産主義社会の実現に替わる思想を見つけなければ共産党の存在意義は消滅する。空白を埋める新たな思想が、愛国主義、中華民族の偉大なる復興だった。愛国主義につながる「勿忘国恥」こそ中国共産党の生き残りを支えた言葉なのだ。

『週刊新潮』 2020年6月25日号
日本ルネッサンス 第906回

2020年06月23日

◆燃え尽きた滋氏、その遺志を継ごう

櫻井よしこ


6月5日、横田滋さんが亡くなった。87歳。めぐみさんをその腕に抱きしめることなく逝ってしまったが、早紀江さんは、滋さんは神様に召され天国に行ったと確信する。

滋さんはどんなときも穏やかだった。ふとした会話のときも、向き合って時間をかけてお話を伺うときも、基本的に笑みを絶やさない。しかしその穏やかな表情とは対照的に、いつも必死だった。

心の中はめぐみさん拉致に関するあらゆることがぎっしり詰まっていた。めぐみさんを救い出したいという想いで一杯一杯だった。ひょっとした拍子に一杯たまっている涙がこぼれ出してくるような、そんな大きな悲しみを抱えながら人生の全てを賭けて闘っていることが伝わってきた。

だから何を質問しても、即座に何年何月何日の何時頃、というような形で、驚くべき密度の濃い答えが戻ってくる。

滋さん、早紀江さんにとって、めぐみさんがいなくなってから約20年―一言で20年というが、それは本当に気が狂うほど苦しみ悩んだ時間だったはずだ―がすぎた頃の1996年、早紀江さんは教会の祈りの会で特別親しかった教会の友人らと3人残り、「どうぞ神様、めぐみがどこにいるか、教えて下さい」と祈った。

当時のことをインターネット配信の「言論テレビ」6周年の集い(18年)で早紀江さんが語っている。

「夕方帰宅したら、暗くなる中、電気もつけずお父さん(滋さん)がソファに座っていました。いつもと様子が違います。どうしたのと尋ねましたら、じっと何かを探すような目で言ったのです。めぐみちゃんが北朝鮮に連れて行かれて住んでいると、(元共産党国会議員秘書の)兵本達吉さんから連絡があったというのです」

早紀江さんは驚き、喜び、泣いた。だが、それは新たな苦しい闘いの始まりだった。

当時の政界は北朝鮮シンパ

日本政府は88年3月26日の参議院予算委員会で、梶山静六国家公安委員長(当時、以下同)が「昭和53(1978)年以来の一連のアベック行方不明事件犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁したように、北朝鮮による日本国民拉致を正確に把握していた。しかしこの一大ニュースは「産経」と「日経」が小さく報じただけでメディアの関心は極めて低く、国民一般には伝わらなかった。

これより少し後のことだ。88年9月、有本恵子さんの母、嘉代子さんは拉致被害者の石岡亨さんの手紙で恵子さんが北朝鮮にいるとの情報を得て、地元神戸選出の社会党委員長、土井たか子氏を頼ったが門前払いされたと語っている。嘉代子さんの指摘どおり、社会党が社民党になっても、彼らは全く取り合ってくれなかった。金丸信氏全盛時代の自民党も同様で、当時の政界は北朝鮮シンパで溢れていたといってよいだろう。

その中でとりわけ酷かったのが社会党だが、北朝鮮と深い交流関係にあった同党副委員長の田辺誠氏が金丸氏と共に訪朝し金日成主席と会談した。梶山答弁から2年半後の90年9月だ。「金丸訪朝団」は、まるで拉致事件など存在しなかったかのような友好的訪朝に終始した。政界は拉致に関して全く動こうとしなかったのだ。

国民の命を守るという政治の最重要責務が置き去りにされる中で、横田夫妻ら拉致被害者の家族たちは悩みに悩んだ。政治が拉致事件を解決してくれないなら、世論に訴えかけるしかない。だが具体策となると家族間でも意見が分かれた。早紀江さんが語る。

「私と息子2人はめぐみの実名を出すと、北朝鮮が証拠隠滅でめぐみを亡きものにするかもしれないと心配して、実名公表に反対しました。主人は20年間真実は分からなかった、やっといま事実が出てきた、いま全力でやらなきゃだめだと。わが家は3対1に分かれましたが、結局皆で主人の決断に従うことにしました」

めぐみさんの命が危うくなるかもしれない、だが、いまは正面から闘うときだ。滋さんは大きな決断を下した。そのときの心情を滋さんは13年1月25日の「言論テレビ」で詳しく語っている。

「佐藤勝巳さん主宰の『現代コリア』ホームページの拉致被害者リストには、めぐみの名前が一番先に出ていました。新進党の西村眞悟議員がめぐみの件で国会に質問主意書を出す準備も始まっていると、AERAの記者から聞きました。私はそうした状況では実名公表しかないと決断したのです。すると(97年)2月3日に産経新聞が『少女拉致事件』としてめぐみを大きく取り上げました。同日夕刊で読売、朝日が、4日には毎日など大手新聞すべてがめぐみを報じました」

国民全員で支えたい

真面目さゆえに慎重さが先に立つ滋さんの大決断だった。横田夫妻がめぐみさんの写真を掲げて前面に立つことで弾みがつき、梶山答弁から約10年、97年3月に家族連絡会が結成された。「実名公表」は間違いなく拉致被害者救出を目指す家族会を支える基盤となった。家族会の人々の力は結集され、確実に日本政府を動かし、世界を動かした。

滋さんは拉致された日本国民だけでなく、日本よりはるかに多くの国民が北朝鮮に拉致されているにも拘わらず、韓国社会で徹底的に無視され、差別される韓国人の拉致被害者にも心を寄せた。その他の国々の拉致被害者救出も熱心に訴え続けた。

横田夫妻と食事をしたときのことを想い出す。滋さんは実に美味しそうにお酒を嗜む。私の好きな新潟の銘酒を冷やで勧めると、渇いた喉を潤すようにスーッと飲んだ。グラスを空け、杯を重ねる。早紀江さんが解説した。

「お酒なら何でも好きなんです。いろいろな種類を順ぐりに飲むんです。本当に仕方ないですね」

お二人と一緒に私は笑いこけた。冗談を言い、笑いを生み出し、闘いの日々の苦しさ辛さをまぎらわせてきた滋さんと早紀江さん。めぐみさんの弟の拓也さんも哲也さんも、その他の拉致被害者の家族の皆さん方も、希望を諦めないことで、心を保(も)たせてきた。拓也さんが語る。

「どんな形で拉致問題を解決するのか。私たちは北朝鮮に尋ねるのではなく、私たちが決めて、北朝鮮に要求すべきです。私たちの要求は拉致被害者全員の即時一括帰国です。これを安倍首相と共に実現する。その決意は揺らぎません」

政界で最も熱心に拉致問題解決に取り組んできたのが安倍晋三首相であり、政府は「オール日本」で取り組む構えだ。民主党政権3年3か月の拉致担当大臣は8人、一人平均5か月未満の人事とは対照的だ。家族会は安倍首相と共に、すべての拉致被害者の即時一括帰国という当然の要求を掲げ続ける。それを国民全員で支えていきたいものだ。

『週刊新潮』 2020年6月18日号
日本ルネッサンス 第905回

2020年06月20日

◆燃え尽きた滋氏、その遺志を継ごう

櫻井よしこ


6月5日、横田滋さんが亡くなった。87歳。めぐみさんをその腕に抱きしめることなく逝ってしまったが、早紀江さんは、滋さんは神様に召され天国に行ったと確信する。

滋さんはどんなときも穏やかだった。ふとした会話のときも、向き合って時間をかけてお話を伺うときも、基本的に笑みを絶やさない。

しかしその穏やかな表情とは対照的に、いつも必死だった。心の中はめぐみさん拉致に関するあらゆることがぎっしり詰まっていた。

めぐみさんを救い出したいという想いで一杯一杯だった。ひょっとした拍子に一杯たまっている涙がこぼれ出してくるような、そんな大きな悲しみを抱えながら人生の全てを賭けて闘っていることが伝わってきた。だから何を質問しても、即座に何年何月何日の何時頃、というような形で、驚くべき密度の濃い答えが戻ってくる。

滋さん、早紀江さんにとって、めぐみさんがいなくなってから約20年―一言で20年というが、それは本当に気が狂うほど苦しみ悩んだ時間だったはずだ―がすぎた頃の1996年、早紀江さんは教会の祈りの会で特別親しかった教会の友人らと3人残り、「どうぞ神様、めぐみがどこにいるか、教えて下さい」と祈った。当時のことをインターネット配信の「言論テレビ」6周年の集い(18年)で早紀江さんが語っている。

「夕方帰宅したら、暗くなる中、電気もつけずお父さん(滋さん)がソファに座っていました。いつもと様子が違います。どうしたのと尋ねましたら、じっと何かを探すような目で言ったのです。めぐみちゃんが北朝鮮に連れて行かれて住んでいると、(元共産党国会議員秘書の)兵本達吉さんから連絡があったというのです」

早紀江さんは驚き、喜び、泣いた。だが、それは新たな苦しい闘いの始まりだった。

当時の政界は北朝鮮シンパ

日本政府は88年3月26日の参議院予算委員会で、梶山静六国家公安委員長(当時、以下同)が「昭和53(1978)年以来の一連のアベック行方不明事件犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁したように、北朝鮮による日本国民拉致を正確に把握していた。

しかしこの一大ニュースは「産経」と「日経」が小さく報じただけでメディアの関心は極めて低く、国民一般には伝わらなかった。

これより少し後のことだ。88年9月、有本恵子さんの母、嘉代子さんは拉致被害者の石岡亨さんの手紙で恵子さんが北朝鮮にいるとの情報を得て、地元神戸選出の社会党委員長、土井たか子氏を頼ったが門前払いされたと語っている。

嘉代子さんの指摘どおり、社会党が社民党になっても、彼らは全く取り合ってくれなかった。金丸信氏全盛時代の自民党も同様で、当時の政界は北朝鮮シンパで溢れていたといってよいだろう。

その中でとりわけ酷かったのが社会党だが、北朝鮮と深い交流関係にあった同党副委員長の田辺誠氏が金丸氏と共に訪朝し金日成主席と会談した。

梶山答弁から2年半後の90年9月だ。「金丸訪朝団」は、まるで拉致事件など存在しなかったかのような友好的訪朝に終始した。政界は拉致に関して全く動こうとしなかったのだ。

国民の命を守るという政治の最重要責務が置き去りにされる中で、横田夫妻ら拉致被害者の家族たちは悩みに悩んだ。政治が拉致事件を解決してくれないなら、世論に訴えかけるしかない。だが具体策となると家族間でも意見が分かれた。早紀江さんが語る。

「私と息子二人はめぐみの実名を出すと、北朝鮮が証拠隠滅でめぐみを亡きものにするかもしれないと心配して、実名公表に反対しました。主人は20年間真実は分からなかった、やっといま事実が出てきた、いま全力でやらなきゃだめだと。わが家は3対1に分かれましたが、結局皆で主人の決断に従うことにしました」

めぐみさんの命が危うくなるかもしれない、だが、いまは正面から闘うときだ。滋さんは大きな決断を下した。そのときの心情を滋さんは13年1月25日の「言論テレビ」で詳しく語っている。

「佐藤勝巳さん主宰の『現代コリア』ホームページの拉致被害者リストには、めぐみの名前が一番先に出ていました。

新進党の西村眞悟議員がめぐみの件で国会に質問主意書を出す準備も始まっていると、AERAの記者から聞きました。私はそうした状況では実名公表しかないと決断したのです。すると(97年)2月3日に産経新聞が『少女拉致事件』としてめぐみを大きく取り上げました。同日夕刊で読売、朝日が、4日には毎日など大手新聞すべてがめぐみを報じました」

国民全員で支えたい

真面目さゆえに慎重さが先に立つ滋さんの大決断だった。横田夫妻がめぐみさんの写真を掲げて前面に立つことで弾みがつき、梶山答弁から約10年、97年3月に家族連絡会が結成された。

「実名公表」は間違いなく拉致被害者救出を目指す家族会を支える基盤となった。家族会の人々の力は結集され、確実に日本政府を動かし、世界を動かした。

滋さんは拉致された日本国民だけでなく、日本よりはるかに多くの国民が北朝鮮に拉致されているにも拘わらず、韓国社会で徹底的に無視され、差別される韓国人の拉致被害者にも心を寄せた。その他の国々の拉致被害者救出も熱心に訴え続けた。

横田夫妻と食事をしたときのことを想い出す。滋さんは実に美味しそうにお酒を嗜む。私の好きな新潟の銘酒を冷やで勧めると、渇いた喉を潤すようにスーッと飲んだ。グラスを空け、杯を重ねる。早紀江さんが解説した。

「お酒なら何でも好きなんです。いろいろな種類を順ぐりに飲むんです。本当に仕方ないですね」

お二人と一緒に私は笑いこけた。冗談を言い、笑いを生み出し、闘いの日々の苦しさ辛さをまぎらわせてきた滋さんと早紀江さん。めぐみさんの弟の拓也さんも哲也さんも、その他の拉致被害者の家族の皆さん方も、希望を諦めないことで、心を保(も)たせてきた。拓也さんが語る。

「どんな形で拉致問題を解決するのか。私たちは北朝鮮に尋ねるのではなく、私たちが決めて、北朝鮮に要求すべきです。私たちの要求は拉致被害者全員の即時一括帰国です。これを安倍首相と共に実現する。その決意は揺らぎません」

政界で最も熱心に拉致問題解決に取り組んできたのが安倍晋三首相であり、政府は「オール日本」で取り組む構えだ。民主党政権3年3か月の拉致担当大臣は8人、一人平均5か月未満の人事とは対照的だ。家族会は安倍首相と共に、すべての拉致被害者の即時一括帰国という当然の要求を掲げ続ける。それを国民全員で支えていきたいものだ。

『週刊新潮』 2020年6月18日号
日本ルネッサンス 第905回

2020年06月16日

◆中国の豪州侵略は、日本への警告だ

櫻井よしこ


豪州は危ういところで踏みとどまった。殆どの人々が気づかない内に中国に国を乗っ取られるところだった。すでに手遅れの分野はあるものの、中国の侵略は「まだ止めることはできる」。

オーストラリア人たちが祖国を守る手立てを講じることは、まだ可能である。中国の魔の手を払いのけるのは容易ではないが、希望は豪州政府、そして一部とはいえ議会が、祖国が長年にわたるあらゆる分野への中国の侵略工作に蝕まれていたと、ようやく気づいたことだ。

中国は如何にして豪州を意のままに動かし得る体制を築き始めていたのか、その実態を詳述したのが『目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画』(クライブ・ハミルトン著、山岡鉄秀監訳・奥山真司訳、飛鳥新社)である。

著者のハミルトン氏は豪州キャンベラのチャールズ・スタート大学公共倫理学部の教授である。2008年、北京五輪の年、豪州における中国勢力の浸透に不審を抱いた。聖火が到着したキャンベラに何万人もの中国系学生が集まり、一般のオーストラリア人が中国人たちから蹴られ、殴られた。

自分の国で外国人学生の乱暴狼藉をなぜ受けなければならないのか。そもそも万単位の中国人学生たちは如何にして突如キャンベラに集結したのか。この疑問が氏の中国研究の始まりだった。

氏の体験は、同じ年、長野市に中国人学生が集結しチベット人や日本人に暴力を振るった事件とほぼ完全に重なるではないか。

監訳者の山岡氏はかつてシドニー郊外のストラスフィールド市の公有地に慰安婦像が設置されようとしたとき、そこに住んでいる日本人のお母さん方と協力し、現地の豪州人も交えて話し合い、像設置を止めた体験を持つ。中国の侵略工作の現実を識る二人の研究者の手を経て日本の読者に届けられたのが本書である。

本書は紛れもなく日本に対する警告の書だ。豪州の人々は中国の侵略の意図など夢にも気づかず国を開きすぎたとハミルトン氏は書いている。私は日本が同じ道を進もうとしていると深刻な危機感を抱いている。

電力は産業のコメ

北京の大戦略は米国の同盟国を米国から分離させ、米国の力を殺(そ)ぎ落とし、中華の世界を築き上げることだ。

『目に見えぬ侵略』は、北京が豪州とニュージーランド(NZ)を米国の同盟国の中の「最弱の鎖」と見ていること、この両国を第二のフランス、つまり「米国にノーと言う国」に仕立て上げたいと考えていること、その為に両国の国全体、社会全体をコントロールし易いように親中的に変えていく政策を、中国政府が採用したことをつきとめている。

これは中国お定まりの手法だ。1998年に江沢民国家主席(当時)が国賓として訪日した。それに先立って中国共産党がまとめた対日政策の中に似た記述がある。

日本を支配するには日本人が自ら中国に尽くすように日本人の価値観を変えていくことが重要で、その為に未来永劫歴史問題を活用するのが最上の手段だなどと書かれている。

豪州全体を親中色に染め上げるべく、北京政府は2000年に試験的に華僑の活用を開始し、11年に完全に制度として確立したとハミルトン氏は断じている。世界に散らばる華僑は2300万人規模、豪州総人口2500万人の内100万人以上が中国系市民で、彼らも北京政府の標的に含まれているという。

華僑を大勢力としてまとめる司令塔が僑務弁公室だった。同室は豊かな中国人ビジネスマンの政治献金、選挙時における中国系市民の組織票の動員、中国系候補者当選への支援、政府高官の取り込み、中国を利する政策決定の誘導等、幅広く活動する。

ハミルトン氏は、われわれは「中国共産党は支配のための、考え抜かれた長期的戦略」に従って動いていることを忘れてはならないと強調する。中国は豪州人の精神を親中国に変えることに加えて、豪州に対する有無を言わさぬ支配権を握るべく工作してきた。そのひとつがインフラの買収だ。

数ある事例のひとつが電力である。ビクトリア州の電力供給会社5社と南オーストラリア州唯一の送電会社はすでに、中国国営企業の国家電網公司と香港を拠点とする長江基建集団の所有となった。

豪州西部州の3大電力販売会社のひとつ、エナジーオーストラリアは300万人の顧客を持つ大企業だが、これも香港に拠点を持ち北京と深い関係にある「中電集団」に買い取られた。豪州最大級のエネルギーインフラ企業、アリンタ・エナジーも香港の大富豪、周大福に40億豪ドルで売却された。

電力は産業のコメだ。安定した供給なしにはその国の産業は成り立たない。豪州政府が中国の意向に逆らうような政策を打ち出す場合、北京政府は中国系資本所有の電力会社の供給を止めることで豪州を締め上げることができる。

特別に甘い言葉

ハミルトン氏は警告する。豪州の配電網は電信サービス網と融合しているため、前者の所有者は豪州全国民全組織のインターネットと電話のメッセージ機能すべてにアクセス可能になる。豪州政府の情報すべてを中国は文字どおり、手にとって見ることが可能なのだ。豪州は政府ごと丸裸にされているということだ。

中国はさらに攻勢を強め首都キャンベラや、シドニーを擁するニューサウスウェールズ州の電力インフラ、オースグリッドを99年間租借しようとした。豪州連邦政府が危うくこれを阻止したのが16年8月だった。

だが、豪州内の親中勢力は右の政府決定に徹底的に反撃した。そして奇妙なことが起きた。17年4月に対中警戒レベルを上げていたはずの外国投資監査委員会が突如軟化し、巨大インフラ運用会社「デュエット社」を長江基建を主軸とする中国のコンソーシアムに74.8億豪ドルで売却することを許可したのである。

豪州の国運をかけての戦いは一進一退だ。現在、北京はモリソン豪首相が新型コロナウイルスの発生源に関する独立調査を求めたのに対して豪州産農産物の輸入規制で報復中だ。

輸出の3割を中国に依存する豪州には大きな痛手だが、首相支持率は66%、2倍にはね上がった。業を煮やした北京政府が特別に甘い言葉をかけ始めたのが日本である。

中国共産党機関紙の環球時報が5月26日、「日本は豪州に非ず」という社説を配信した。日本は豪州とは異なる、米国側につかず、中国側に来いとして、次のようにも書いた。

「米中摩擦の中で日本が正義の側(中国側)でなく、同盟国側につくなら、日米同盟を当然の(安全)策として活用することはできない」

米国側につけばただでは措かないという恫喝だ。日豪はいま中国の攻勢の真っ只中にある。共に力を合わせて中国共産党の侵略から国と国民、経済を守り通さなければならない。

『週刊新潮』 2020年6月11日号
日本ルネッサンス 第904回

2020年06月14日

◆中国の豪州侵略は、日本への警告だ

櫻井よしこ


豪州は危ういところで踏みとどまった。殆どの人々が気づかない内に中国に国を乗っ取られるところだった。すでに手遅れの分野はあるものの、中国の侵略は「まだ止めることはできる」。オーストラリア人たちが祖国を守る手立てを講じることは、まだ可能である。

中国の魔の手を払いのけるのは容易ではないが、希望は豪州政府、そして一部とはいえ議会が、祖国が長年にわたるあらゆる分野への中国の侵略工作に蝕まれていたと、ようやく気づいたことだ。

中国は如何にして豪州を意のままに動かし得る体制を築き始めていたのか、その実態を詳述したのが『目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画』(クライブ・ハミルトン著、山岡鉄秀監訳・奥山真司訳、飛鳥新社)である。

著者のハミルトン氏は豪州キャンベラのチャールズ・スタート大学公共倫理学部の教授である。2008年、北京五輪の年、豪州における中国勢力の浸透に不審を抱いた。

聖火が到着したキャンベラに何万人もの中国系学生が集まり、一般のオーストラリア人が中国人たちから蹴られ、殴られた。

自分の国で外国人学生の乱暴狼藉をなぜ受けなければならないのか。そもそも万単位の中国人学生たちは如何にして突如キャンベラに集結したのか。この疑問が氏の中国研究の始まりだった。

氏の体験は、同じ年、長野市に中国人学生が集結しチベット人や日本人に暴力を振るった事件とほぼ完全に重なるではないか。

監訳者の山岡氏はかつてシドニー郊外のストラスフィールド市の公有地に慰安婦像が設置されようとしたとき、そこに住んでいる日本人のお母さん方と協力し、現地の豪州人も交えて話し合い、像設置を止めた体験を持つ。中国の侵略工作の現実を識る2人の研究者の手を経て日本の読者に届けられたのが本書である。

本書は紛れもなく日本に対する警告の書だ。豪州の人々は中国の侵略の意図など夢にも気づかず国を開きすぎたとハミルトン氏は書いている。私は日本が同じ道を進もうとしていると深刻な危機感を抱いている。

電力は産業のコメ

北京の大戦略は米国の同盟国を米国から分離させ、米国の力を殺(そ)ぎ落とし、中華の世界を築き上げることだ。

『目に見えぬ侵略』は、北京が豪州とニュージーランド(NZ)を米国の同盟国の中の「最弱の鎖」と見ていること、この両国を第二のフランス、つまり「米国にノーと言う国」に仕立て上げたいと考えていること、その為に両国の国全体、社会全体をコントロールし易いように親中的に変えていく政策を、中国政府が採用したことをつきとめている。

これは中国お定まりの手法だ。1998年に江沢民国家主席(当時)が国賓として訪日した。それに先立って中国共産党がまとめた対日政策の中に似た記述がある。

日本を支配するには日本人が自ら中国に尽くすように日本人の価値観を変えていくことが重要で、その為に未来永劫歴史問題を活用するのが最上の手段だなどと書かれている。

豪州全体を親中色に染め上げるべく、北京政府は2000年に試験的に華僑の活用を開始し、11年に完全に制度として確立したとハミルトン氏は断じている。世界に散らばる華僑は2300万人規模、豪州総人口2500万人の内100万人以上が中国系市民で、彼らも北京政府の標的に含まれているという。

華僑を大勢力としてまとめる司令塔が僑務弁公室だった。同室は豊かな中国人ビジネスマンの政治献金、選挙時における中国系市民の組織票の動員、中国系候補者当選への支援、政府高官の取り込み、中国を利する政策決定の誘導等、幅広く活動する。

ハミルトン氏は、われわれは「中国共産党は支配のための、考え抜かれた長期的戦略」に従って動いていることを忘れてはならないと強調する。中国は豪州人の精神を親中国に変えることに加えて、豪州に対する有無を言わさぬ支配権を握るべく工作してきた。そのひとつがインフラの買収だ。

数ある事例のひとつが電力である。ビクトリア州の電力供給会社5社と南オーストラリア州唯一の送電会社はすでに、中国国営企業の国家電網公司と香港を拠点とする長江基建集団の所有となった。豪州西部州の三大電力販売会社のひとつ、エナジーオーストラリアは300万人の顧客を持つ大企業だが、これも香港に拠点を持ち北京と深い関係にある「中電集団」に買い取られた。豪州最大級のエネルギーインフラ企業、アリンタ・エナジーも香港の大富豪、周大福に40億豪ドルで売却された。

電力は産業のコメだ。安定した供給なしにはその国の産業は成り立たない。豪州政府が中国の意向に逆らうような政策を打ち出す場合、北京政府は中国系資本所有の電力会社の供給を止めることで豪州を締め上げることができる。

特別に甘い言葉

ハミルトン氏は警告する。豪州の配電網は電信サービス網と融合しているため、前者の所有者は豪州全国民全組織のインターネットと電話のメッセージ機能すべてにアクセス可能になる。豪州政府の情報すべてを中国は文字どおり、手にとって見ることが可能なのだ。豪州は政府ごと丸裸にされているということだ。

中国はさらに攻勢を強め首都キャンベラや、シドニーを擁するニューサウスウェールズ州の電力インフラ、オースグリッドを99年間租借しようとした。豪州連邦政府が危うくこれを阻止したのが16年8月だった。

だが、豪州内の親中勢力は右の政府決定に徹底的に反撃した。そして奇妙なことが起きた。17年4月に対中警戒レベルを上げていたはずの外国投資監査委員会が突如軟化し、巨大インフラ運用会社「デュエット社」を長江基建を主軸とする中国のコンソーシアムに74.8億豪ドルで売却することを許可したのである。

豪州の国運をかけての戦いは一進一退だ。現在、北京はモリソン豪首相が新型コロナウイルスの発生源に関する独立調査を求めたのに対して豪州産農産物の輸入規制で報復中だ。輸出の3割を中国に依存する豪州には大きな痛手だが、首相支持率は66%、2倍にはね上がった。業を煮やした北京政府が特別に甘い言葉をかけ始めたのが日本である。

 中国共産党機関紙の環球時報が5月26日、「日本は豪州に非ず」という社説を配信した。日本は豪州とは異なる、米国側につかず、中国側に来いとして、次のようにも書いた。

「米中摩擦の中で日本が正義の側(中国側)でなく、同盟国側につくなら、日米同盟を当然の(安全)策として活用することはできない」

米国側につけばただでは措かないという恫喝だ。日豪はいま中国の攻勢の真っ只中にある。共に力を合わせて中国共産党の侵略から国と国民、経済を守り通さなければならない。

『週刊新潮』 2020年6月11日号
日本ルネッサンス 第904回

2020年06月12日

◆賭け麻雀報道の裏に反安倍の執念

                       櫻井よしこ


安倍晋三首相は5月25日、官邸で、「日本ならではのやり方で、わずか一カ月半で(新型コロナウイルスの)流行をほぼ収束させることができた。日本モデルの力を示した」と語り、東京など5都道県への緊急事態宣言を解除した。4月7日発出の宣言はこれで全面解除になった。

振りかえれば、ダイヤモンド・プリンセス号の乗客乗員約3700人、感染者約700人に医療を提供し、中国由来の日本国内の感染も、帰国者を含む欧州経由の感染もほぼ収束させ、結果を出した。

米外交誌「フォーリン・ポリシー(FP)」は5月14日時点で死者数は人口100万人で日本が5人、米国が258人、欧州での成功例のドイツでさえ94人と試算した。日本の死者は桁違いに少ない。この歴然たる結果に、当初日本に批判的だった彼らが電子版で書いた。

「死亡率は世界最低水準で、医療崩壊も起こさずに感染者数は減少している。不可解だが全てが正しい方向に進んでいるように見える」

FPだけでなく世界が賞賛する安倍政権の取り組みに対して、奇妙なことに、日本のメディアだけが厳しい批判を続ける。とりわけ「文春」と「朝日」は恰(あたか)も歩調を合わせたかのように突出した安倍批判に徹している。東京高検前検事長、黒川弘務氏に関する例はそのひとつであろう。

黒川氏は5月28日付けの「週刊文春」のスクープ報道を受けて辞任した。検事長ともあろう者が武漢ウイルスで国民も政府も一所懸命に自粛している最中、しかも黒川氏自身の人事問題が取り沙汰されている最中に、深夜に至る賭け麻雀に興じていたのは言語道断、辞任は当然だ。

相手を務めた産経新聞記者二人、朝日新聞の元検察担当記者で朝日新聞社の中枢部である経営企画室に所属する人物も同様だ。朝日、産経両社が謝罪したのは当然だろう。

取材源の秘匿は鉄則

朝日新聞の調査では黒川氏は4月〜5月に4回、記者らと賭け麻雀をしており、法務省調査ではこの3年程は月に1~2回だったという。そこで疑問だ。黒川氏は産経、朝日とだけ賭け麻雀をしたのか。そうではないだろう。

法務省は前二社以外のどの社が関わっていたのかもはっきりさせるべきだ。文春も当然追跡取材をすべきだろう。さらなる取材で浮かび上がってくるのは、恐らく殆どの社の記者が黒川氏につき合っていたということではないか。

そこで文春のスクープを読んで、感心する前に違和感を覚えた点がある。取材源についてである。文春は賭け麻雀情報をもたらしたのが「産経新聞関係者」だとし、取材源を明かした。

記事では見出しにも前文にも産経記者の存在が記されている。産経にとっては大打撃だ。そこに、同じ社の人間が自社の記者をいわば「売った」構図が本文で浮上する。産経は信用できない新聞だという拒否感を読者が抱いても仕方がない。そのような構成で、文春はスクープを書いた。

ジャーナリズムでは取材源の秘匿は鉄則だ。それだけに文春がこのような形で取材源を明かしたことに疑問を抱くのは自然なことだ。この点は次の疑問につながる。

前述のように文春は見出しにも新聞広告にも産経記者の関与を明記した。文中では二人についてかなり長く書き込んだ。だが、朝日の元記者の扱いは非常に小さく、見出しにも新聞広告にも「朝日」は出てこない。

朝日が登場するのは6頁立ての特集記事のようやく5頁目に入ったところ、かなり後半になってからで、同人物についての記述は13行だ。

で、考えた。東京高検検事長の賭け麻雀の相手として、朝日と産経と、どちらの衝撃がより大きいか。産経には申し訳ないが、断然朝日だろう。私が編集長なら間違いなく「産経と検事長!」ではなく、「朝日と検事長!」を見出しに取る。なぜ、文春は朝日を殊更目立たせない構成にしたのだろうか。

元産経新聞政治部長の石橋文登氏が5月22日、インターネット配信の「言論テレビ」で核心を突くコメントをした。

「週刊文春が黒川氏賭け麻雀のスクープで描こうとしたのは、恐らく、安倍総理と近い黒川検事長は、同じく安倍に近い産経の記者と、こんなにベタベタに親しいというキャンペーンをやりたかったのではないか」

文春の狙いは安倍・黒川・産経の密な関係を描き出すことだったと考えられるのではないか。「文春」のあざとさは記事中の黒川氏についての次のくだりにも表れている。

「『何が何でも黒川氏を検事総長にしたい安倍官邸が、東京高検検事長の座に留め置くために異例の定年延長をした』(司法記者)ともっぱら解説されてきた人物である」

この「解説」を読むと問いたくなる。「もっぱら誰が解説してきたのか」と。匿名の司法記者の断定調の証言の根拠は何か、と。

「心より感謝」の意味

私は文春が黒川氏に直接賭け麻雀について質した5月17日の2日前、即ち15日金曜日に、「言論テレビ」で安倍首相に黒川氏の件について問うた。

安倍首相は、黒川氏と二人だけで会ったことはないこと、黒川氏に関する人事案は、検察庁・法務省の総意として承認を求めてきたものを、長年の慣習を尊重し内閣が承認したことなどを語った。

「安倍官邸」の主である安倍首相自身が黒川氏とは殆ど個人的なつながりがないのである。その人物を「何が何でも検事総長にしたい」と首相が思うとは思えない。当初、「安倍首相が」と書いてきたメディアも「安倍官邸」とぼかし始めた。

それでも「安倍官邸」が圧力をかけたと論難するのなら、官邸の誰が、どのような理由で、いつ、どのようにして「何が何でも」と言われるようなゴリ押しをしたのかを、文春、匿名の司法記者、さらには一連の報道に熱心な朝日は、特定してみせるべきだ。

冒頭で触れたように25日、安倍首相は「日本モデル」で武漢ウイルスの収束に至ったとして、「全ての国民の皆様の御協力、ここまで根気よく辛抱して下さった皆様に、心より感謝申し上げます」と語った。

緊急事態宣言発出の前、首相は西村康稔新型コロナ対策担当大臣らと強制力もなく接触機会8割減を要請できるのかを議論している。そのとき「日本人は必ずできるから、頼もう」と言ったのが安倍首相だった。

自粛した国民、命がけで働いた医療関係者、営業自粛の苦しさに耐えた全業種の人々、その全ての人々に「頼んで」収束を達成できた。首相の全国民への「心より感謝」の意味はその点にある。これこそ首相の言う「日本モデル」だ。「安倍憎し」の感情で日本モデルの根本を成す政府と国民の信頼、協力の貴さを評価しないとしたら、それこそ日本国にとって大きな損失ではないか。

『週刊新潮』 2020年6月4日号
日本ルネッサンス 第903回