2019年03月06日

◆日本人がキリスト教と出会った戦国時代

櫻井よしこ


「日本人がキリスト教と出会った戦国時代 私たちは真の歴史を知っ
ておくべきだ」

三浦小太郎氏が『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版)
で、戦国の武将たちが目指した国造りの理想と苦労をじっくり描いている。

豊臣秀吉らのキリスト教排斥を理解するには、日本人がキリスト教と初め
て出会った戦国時代より前の中世の日本の実態を知らなければならないと
し、三浦氏は当時の日本を「乱暴狼藉の時代」と定義する。室町時代から
戦国時代は、中央権力弱体化と個人の自立と都市共同体の自治確立に向か
う時代であり、自由と変革の時代だからこそ、浄土真宗、日蓮宗、禅宗な
ど新しい信仰が生まれ、人々はキリスト教伝来もその次元で受け入れたと
いう。

「乱暴狼藉」の実態を、三浦氏は上杉謙信を攻めた武田信玄の事例を通し
て描いた。農民も含めた武田の雑兵たちは、敵を倒せば刀や武具を奪い、
馬や女性などを「乱取」した。武田領内で待つ雑兵たちの家族や村人は、
略奪品によって豊かになった。

これが社会の実態だったのであり、「戦国時代、大名同士の戦争を(中
略)傍観者的に眺めていたという、よくある歴史小説的な風景は、現実と
はかけ離れたものだった」「戦場に略奪に赴かねば飢餓に襲われるような
危機的状況が、戦国時代には日常として存在していた」のであり、このよ
うな状態を改め、平和で秩序ある国を目指したのが織田信長や秀吉だっ
た、それを阻んだのがキリスト教伝道者だったという指摘はそのとおりで
あろう。

日本と西洋の最初の出会いはポルトガル人だった。彼らは恐ろしい人々
だ。アフリカ西岸のプラヴァで、ポルトガル兵は、住民の女性の銀の腕輪
が抜き取れなかったため腕ごと切断した。その数800に近かったという。

貿易と共にキリスト教も伝来した。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス
の長崎上陸は1563年だ。フロイスらのイエズス会は日本をキリスト教国に
するには大名による上からの改宗運動が重要だと考え、まず大名を改宗さ
せた。しかしこう書いている。

「布教事業がこのように進展した後にもまた、寺社を破壊し絶滅するにつ
いてなお困難があった」

神道や仏教を絶滅させたいと切望したフロイスは伊勢神宮について1585年
8月27日の書簡に書いた。

「我らの主が彼(キリシタン大名で伊勢の国の領主になった蒲生氏郷)
に、天照大神を破壊する力と恩寵を与えるだろうと、我らは期待している」

キリシタン大名で肥前(長崎県)の城主だった有馬晴信の領地の小島に、
多くの仏像が置かれた洞窟があり、人々の礼拝の対象になっていたことに
ついて、フロイスは、「悪魔は何年も前から、この恐ろしくぞっとするよ
うな場所を、おのれを礼拝させるための格好の場として占有していた」と
も語っている。ある宣教師は日本人の信者に、「あなたの罪の償いとして
考えられることの一つは」「通りすがりに最初の人としてどこかの寺院を
焼き始めることです」とそそのかしている。

秀吉は天下統一を成し遂げた1590年に日本全土の平和構築に向けて、
(1)浪人停止令、(2)海賊停止令、(3)喧嘩停止令を出した。その2年
前には武器なき社会を目指して刀狩りも行った。

平和と秩序を目指す秀吉が宣教師らに憤るのは当然だ。秀吉は1587年6
月、大名は領国内でキリシタン門徒に寺社を破壊させてはならない、大名
は領地を一時的に預かっているのであり、天下の法に従わねばならない、
宣教師たちの仏教寺院攻撃も、破壊することで信者をふやそうとするのは
許されないとして、キリシタンを「邪法」とし、宣教師たちに20日以内の
退去を命じた。

彼らは多くの日本人を奴隷にし、国外に売りとばしもした。日本をキリシ
タン弾圧で批判する前に、私たちは真の歴史を知っておくべきだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年3月2日
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1269 

2019年03月05日

◆日本人がキリスト教と出会った戦国時代

櫻井よしこ


「日本人がキリスト教と出会った戦国時代 私たちは真の歴史を知ってお
くべきだ」

三浦小太郎氏が『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版)
で、戦国の武将たちが目指した国造りの理想と苦労をじっくり描いている。

豊臣秀吉らのキリスト教排斥を理解するには、日本人がキリスト教と初め
て出会った戦国時代より前の中世の日本の実態を知らなければならないと
し、三浦氏は当時の日本を「乱暴狼藉の時代」と定義する。室町時代から
戦国時代は、中央権力弱体化と個人の自立と都市共同体の自治確立に向か
う時代であり、自由と変革の時代だからこそ、浄土真宗、日蓮宗、禅宗な
ど新しい信仰が生まれ、人々はキリスト教伝来もその次元で受け入れたと
いう。

「乱暴狼藉」の実態を、三浦氏は上杉謙信を攻めた武田信玄の事例を通し
て描いた。農民も含めた武田の雑兵たちは、敵を倒せば刀や武具を奪い、
馬や女性などを「乱取」した。武田領内で待つ雑兵たちの家族や村人は、
略奪品によって豊かになった。

これが社会の実態だったのであり、「戦国時代、大名同士の戦争を(中
略)傍観者的に眺めていたという、よくある歴史小説的な風景は、現実と
はかけ離れたものだった」「戦場に略奪に赴かねば飢餓に襲われるような
危機的状況が、戦国時代には日常として存在していた」のであり、このよ
うな状態を改め、平和で秩序ある国を目指したのが織田信長や秀吉だっ
た、それを阻んだのがキリスト教伝道者だったという指摘はそのとおりで
あろう。

日本と西洋の最初の出会いはポルトガル人だった。彼らは恐ろしい人々
だ。アフリカ西岸のプラヴァで、ポルトガル兵は、住民の女性の銀の腕輪
が抜き取れなかったため腕ごと切断した。その数800に近かったという。

貿易と共にキリスト教も伝来した。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイス
の長崎上陸は1563年だ。フロイスらのイエズス会は日本をキリスト教国に
するには大名による上からの改宗運動が重要だと考え、まず大名を改宗さ
せた。しかしこう書いている。

「布教事業がこのように進展した後にもまた、寺社を破壊し絶滅するにつ
いてなお困難があった」

神道や仏教を絶滅させたいと切望したフロイスは伊勢神宮について1585年
8月27日の書簡に書いた。

「我らの主が彼(キリシタン大名で伊勢の国の領主になった蒲生氏郷)
に、天照大神を破壊する力と恩寵を与えるだろうと、我らは期待している」

キリシタン大名で肥前(長崎県)の城主だった有馬晴信の領地の小島に、
多くの仏像が置かれた洞窟があり、人々の礼拝の対象になっていたことに
ついて、フロイスは、「悪魔は何年も前から、この恐ろしくぞっとするよ
うな場所を、おのれを礼拝させるための格好の場として占有していた」と
も語っている。ある宣教師は日本人の信者に、「あなたの罪の償いとして
考えられることの一つは」「通りすがりに最初の人としてどこかの寺院を
焼き始めることです」とそそのかしている。

秀吉は天下統一を成し遂げた1590年に日本全土の平和構築に向けて、
(1)浪人停止令、(2)海賊停止令、(3)喧嘩停止令を出した。その2年
前には武器なき社会を目指して刀狩りも行った。

平和と秩序を目指す秀吉が宣教師らに憤るのは当然だ。秀吉は1587年6
月、大名は領国内でキリシタン門徒に寺社を破壊させてはならない、大名
は領地を一時的に預かっているのであり、天下の法に従わねばならない、
宣教師たちの仏教寺院攻撃も、破壊することで信者をふやそうとするのは
許されないとして、キリシタンを「邪法」とし、宣教師たちに20日以内の
退去を命じた。

彼らは多くの日本人を奴隷にし、国外に売りとばしもした。日本をキリシ
タン弾圧で批判する前に、私たちは真の歴史を知っておくべきだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年3月2日
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1269 

2019年02月28日

◆チベット人に切実な法王後継者問題

櫻井よしこ


「チベット人に切実な法王後継者問題 中国共産党から仏教を守り通せるか」

米議会は昨年10月、超党派で「中国に関する議会・行政府委員会の年次報
告書」を発表、中国共産党政府の少数民族弾圧は、「人道に対する罪」だ
と明記した。時効のない、最も厳しく追及されるべき犯罪という意味だ。

同報告書は新疆ウイグル自治区を焦点としたが、チベットも同じである。
中国政府のチベット弾圧は、ウイグル弾圧同様、激化するばかりだ。その
中でチベット人にとって今年84歳になる法王、ダライ・ラマ14世の後継者
問題はとりわけ切実である。

チベット仏教には最高位の指導者としてダライ・ラマと、それに次ぐ地位
のパンチェン・ラマが存在する。いずれも前任者の死を受けて幼児が後継
者として選ばれる。チベット仏教の指導的僧侶たちが幼児を守り、立派な
指導者として育て上げるが、それには20年近い歳月が必要だ。

中国共産党は、高齢のダライ・ラマ14世の後継者は自分たちが選ぶと宣言
済みだ。宗教を信じない共産主義者に他民族の宗教指導者を選ぶ資格など
ないのだが、彼らはお構いなしである。

中国には「前科」がある。1995年、ダライ・ラマ14世は、死亡したパン
チェン・ラマの生まれ変わりとして6歳のゲンドゥン・チューキ・ニマ氏
を選んだが、中国共産党はニマ氏を家族ごと誘拐し、別の少年、ギャン
ツェン・ノルブ氏をパンチェン・ラマ11世に指名した。ニマ氏は未だに行
方不明、中国共産党はノルブ氏を育て、彼こそが真実のパンチェン・ラマ
11世だと主張する。

このような事例があるために、チベット人はいま、次のダライ・ラマをど
のように選ぶべきか悩んでいるのである。センゲ首相が率直に語った。

「私は(亡命政権が位置するインド北部の)ダラムサラにいる時にはいつ
も法王の教えを受けています。法王は、私に、次のダライ・ラマ選出方法
を責任を持って決めよと命じました。法王の御意思を聞きながら、既に、
次のダライ・ラマ選出に関しての意見聴取を進めています」

チベット仏教各宗派の長老達との第1回会議もチベット内外に住む高位の
僧、数百人の意見聴取も終えたという。今年6月と10月にも世界各地から
チベット仏教指導者がダラムサラに集まり、来年取りまとめに入るという。

「全員、とても真剣です。私はいま任期2期目で、あと2年半、主席大臣
(首相)を務めます。この間に結論を出したいと思います」とセンゲ氏。

現在3つの案が有力だ。

(1)チベット仏教の伝統を踏まえダライ・ラマ14世の死後、生まれ変わ
りの幼い男児を探す、(2)長老達が選ぶ、(3)法王自身が亡くなる前
に自らの生まれ変わりを指名する。

センゲ氏の説明では、法王は保守的で仏教の伝統を大事にするため、伝統
に従えば(1)の方法しかない。しかし法王は柔軟であり、3つの選択肢
の全てが頭の中にあるともいう。

(1)の場合、前述のように幼児の成長までに20年近い歳月が必要で、そ
の間、チベットは中国の介入に脅かされる。中国共産党はチベット仏教を
本気で潰しにかかると危惧されている。結果、センゲ氏は(3)に期待する。

「法王が、自分の生まれ変わりとして10代の少年を選べば、長い時間をか
けずに次の法王になれます。少年がまず第一に善きチベット仏教徒で、賢
く、徳の高いことは無論必須条件です。しかし選ばれれば、彼はダライ・
ラマ14世の命のある限り、指導を受け、その徳と叡智を吸収し、立派に成
人するでしょう。このようにして15世が育っていけば中国は一切介入でき
ません。私自身はこの(3)の選択肢が最善ではないかと思います」

チベットの人々の柔軟な思考で中国の介入を退け、チベット仏教を守り通
せるよう、私は願っている。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月23日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1268

2019年02月27日

◆チベット人に切実な法王後継者問題

櫻井よしこ


「チベット人に切実な法王後継者問題 中国共産党から仏教を守り通せるか」

米議会は昨年10月、超党派で「中国に関する議会・行政府委員会の年次報
告書」を発表、中国共産党政府の少数民族弾圧は、「人道に対する罪」だ
と明記した。時効のない、最も厳しく追及されるべき犯罪という意味だ。

同報告書は新疆ウイグル自治区を焦点としたが、チベットも同じである。
中国政府のチベット弾圧は、ウイグル弾圧同様、激化するばかりだ。その
中でチベット人にとって今年84歳になる法王、ダライ・ラマ14世の後継者
問題はとりわけ切実である。

チベット仏教には最高位の指導者としてダライ・ラマと、それに次ぐ地位
のパンチェン・ラマが存在する。いずれも前任者の死を受けて幼児が後継
者として選ばれる。チベット仏教の指導的僧侶たちが幼児を守り、立派な
指導者として育て上げるが、それには20年近い歳月が必要だ。

中国共産党は、高齢のダライ・ラマ14世の後継者は自分たちが選ぶと宣言
済みだ。宗教を信じない共産主義者に他民族の宗教指導者を選ぶ資格など
ないのだが、彼らはお構いなしである。

中国には「前科」がある。1995年、ダライ・ラマ14世は、死亡したパン
チェン・ラマの生まれ変わりとして六歳のゲンドゥン・チューキ・ニマ氏
を選んだが、中国共産党はニマ氏を家族ごと誘拐し、別の少年、ギャン
ツェン・ノルブ氏をパンチェン・ラマ11世に指名した。ニマ氏は未だに行
方不明、中国共産党はノルブ氏を育て、彼こそが真実のパンチェン・ラマ
11世だと主張する。

このような事例があるために、チベット人はいま、次のダライ・ラマをど
のように選ぶべきか悩んでいるのである。センゲ首相が率直に語った。

「私は(亡命政権が位置するインド北部の)ダラムサラにいる時にはいつ
も法王の教えを受けています。法王は、私に、次のダライ・ラマ選出方法
を責任を持って決めよと命じました。法王の御意思を聞きながら、既に、
次のダライ・ラマ選出に関しての意見聴取を進めています」

チベット仏教各宗派の長老達との第1回会議もチベット内外に住む高位の
僧、数百人の意見聴取も終えたという。今年6月と10月にも世界各地から
チベット仏教指導者がダラムサラに集まり、来年取りまとめに入るという。

「全員、とても真剣です。私はいま任期2期目で、あと2年半、主席大臣
(首相)を務めます。この間に結論を出したいと思います」とセンゲ氏。

現在3つの案が有力だ。

(1)チベット仏教の伝統を踏まえダライ・ラマ14世の死後、生まれ変わ
りの幼い男児を探す、(2)長老達が選ぶ、(3)法王自身が亡くなる前
に自らの生まれ変わりを指名する。

センゲ氏の説明では、法王は保守的で仏教の伝統を大事にするため、伝統
に従えば(1)の方法しかない。しかし法王は柔軟であり、3つの選択肢
の全てが頭の中にあるともいう。

(1)の場合、前述のように幼児の成長までに20年近い歳月が必要で、そ
の間、チベットは中国の介入に脅かされる。中国共産党はチベット仏教を
本気で潰しにかかると危惧されている。結果、センゲ氏は(3)に期待する。

「法王が、自分の生まれ変わりとして10代の少年を選べば、長い時間をか
けずに次の法王になれます。少年がまず第一に善きチベット仏教徒で、賢
く、徳の高いことは無論必須条件です。しかし選ばれれば、彼はダライ・
ラマ14世の命のある限り、指導を受け、その徳と叡智を吸収し、立派に成
人するでしょう。このようにして15世が育っていけば中国は一切介入でき
ません。私自身はこの(3)の選択肢が最善ではないかと思います」

チベットの人々の柔軟な思考で中国の介入を退け、チベット仏教を守り通
せるよう、私は願っている。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月23日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1268 

2019年02月26日

◆チベット人に切実な法王後継者問題

櫻井よしこ


「チベット人に切実な法王後継者問題 中国共産党から仏教を守り通せるか」

米議会は昨年10月、超党派で「中国に関する議会・行政府委員会の年次報
告書」を発表、中国共産党政府の少数民族弾圧は、「人道に対する罪」だ
と明記した。時効のない、最も厳しく追及されるべき犯罪という意味だ。

同報告書は新疆ウイグル自治区を焦点としたが、チベットも同じである。
中国政府のチベット弾圧は、ウイグル弾圧同様、激化するばかりだ。その
中でチベット人にとって今年84歳になる法王、ダライ・ラマ14世の後継者
問題はとりわけ切実である。

チベット仏教には最高位の指導者としてダライ・ラマと、それに次ぐ地位
のパンチェン・ラマが存在する。いずれも前任者の死を受けて幼児が後継
者として選ばれる。チベット仏教の指導的僧侶たちが幼児を守り、立派な
指導者として育て上げるが、それには20年近い歳月が必要だ。

中国共産党は、高齢のダライ・ラマ14世の後継者は自分たちが選ぶと宣言
済みだ。宗教を信じない共産主義者に他民族の宗教指導者を選ぶ資格など
ないのだが、彼らはお構いなしである。

中国には「前科」がある。1995年、ダライ・ラマ14世は、死亡したパン
チェン・ラマの生まれ変わりとして六歳のゲンドゥン・チューキ・ニマ氏
を選んだが、中国共産党はニマ氏を家族ごと誘拐し、別の少年、ギャン
ツェン・ノルブ氏をパンチェン・ラマ11世に指名した。ニマ氏は未だに行
方不明、中国共産党はノルブ氏を育て、彼こそが真実のパンチェン・ラマ
11世だと主張する。

このような事例があるために、チベット人はいま、次のダライ・ラマをど
のように選ぶべきか悩んでいるのである。センゲ首相が率直に語った。

「私は(亡命政権が位置するインド北部の)ダラムサラにいる時にはいつ
も法王の教えを受けています。法王は、私に、次のダライ・ラマ選出方法
を責任を持って決めよと命じました。法王の御意思を聞きながら、既に、
次のダライ・ラマ選出に関しての意見聴取を進めています」

チベット仏教各宗派の長老達との第1回会議もチベット内外に住む高位の
僧、数百人の意見聴取も終えたという。今年6月と10月にも世界各地から
チベット仏教指導者がダラムサラに集まり、来年取りまとめに入るという。

「全員、とても真剣です。私はいま任期2期目で、あと2年半、主席大臣
(首相)を務めます。この間に結論を出したいと思います」とセンゲ氏。

現在3つの案が有力だ。

(1)チベット仏教の伝統を踏まえダライ・ラマ14世の死後、生まれ変わ
りの幼い男児を探す、(2)長老達が選ぶ、(3)法王自身が亡くなる前
に自らの生まれ変わりを指名する。

センゲ氏の説明では、法王は保守的で仏教の伝統を大事にするため、伝統
に従えば(1)の方法しかない。しかし法王は柔軟であり、3つの選択肢
の全てが頭の中にあるともいう。

(1)の場合、前述のように幼児の成長までに20年近い歳月が必要で、そ
の間、チベットは中国の介入に脅かされる。中国共産党はチベット仏教を
本気で潰しにかかると危惧されている。結果、センゲ氏は(3)に期待する。

「法王が、自分の生まれ変わりとして10代の少年を選べば、長い時間をか
けずに次の法王になれます。少年がまず第一に善きチベット仏教徒で、賢
く、徳の高いことは無論必須条件です。しかし選ばれれば、彼はダライ・
ラマ14世の命のある限り、指導を受け、その徳と叡智を吸収し、立派に成
人するでしょう。このようにして15世が育っていけば中国は一切介入でき
ません。私自身はこの(3)の選択肢が最善ではないかと思います」

チベットの人々の柔軟な思考で中国の介入を退け、チベット仏教を守り通
せるよう、私は願っている。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月23日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1268

2019年02月22日

◆こんなに違う皇室と清朝帝室の姿

櫻井よしこ


加藤康男氏の『ラストエンペラーの私生活』(幻冬舎新書、以下『私生
活』)は、私たちがいま「中国」と呼ぶあの大きな国を統治してきた権力
者、彼らの価値観や倫理の、余りにも日本と異なる実態を描いていて興味
が尽きない。

日本の皇室、さらには社会の実権を握りながらも皇室を権威として敬う政
界や経済界の日本人と、漢民族か否かを問わず、清朝、国民党、中華人民
共和国を統治した・皇帝・と彼らを取り巻く大陸の人々の価値観は水と油
である。

映画にもなった清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)について知るのにとりわけ重要
な書籍は、溥儀の家庭教師を務めたスコットランド人、R・F・ジョンス
トンの『紫禁城の黄昏』だろう。

日本語訳は当初岩波文庫から出版されたが、これは渡部昇一氏によって
「岩波文庫の名誉を害する」「非良心的な刊本」と断じられた。翻訳の間
違いに加えて、「政治的意図」と思われる編集で、ジョンストンの意図が
正しく伝えられていないからだ。日本の溥儀及び満州国との関わりについ
て事実に迫りたい人は、中山理氏が訳し渡部氏が監修した祥伝社の上下2
冊『完訳 紫禁城の黄昏』を読むのが良いと思う。

それでも溥儀についての真実の全容が中々見えない中で、加藤氏が幾つも
の驚くべき事実を『私生活』で描いた。一言で言えば、溥儀は節操を欠く
人物だった。彼の一生を翻弄した苛酷な運命を勘案すれば、致し方ないこ
とであったかもしれないが、彼は運命の節目節目で幾度か驚くべき変身を
遂げている。

満州国皇帝として即位した溥儀は1935(昭和10)年に、また40(昭和15)
年に日本を訪れた。昭和天皇と会い、母宮節子(さだこ)皇太后のあたたか
いもてなしも受けた。

日本の皇室の在り様は紫禁城における謀略渦巻く世界とは別天地だったに
違いない。初の来日で溥儀は皇室に強い憧れを抱き、「日本の天皇家と一
体となることを自ら希望し、天皇家の祖神である天照大神を満州国帝室の
祖神とすることを望んだ」(『私生活』)。

溥儀の変節

無論、日満一体化で皇室と融合すれば、関東軍の溥儀への姿勢はより恭し
くなるとの期待もあっただろう。それにしても祖国の神を差し置いて日本
の皇祖神を戴きたいとの発想は理解し難い。満州国は憲法も国会もない生
まれたばかりの国家だったが、目指すところは五族協和の下の王道楽土
だ。そこに日本の天照大神を祀るのは無理がある。

そもそも溥儀の夢は大清国の皇帝に戻ること、復辟(ふくへき)だった。日
本近現代史研究家の波多野勝氏は『昭和天皇とラストエンペラー』(草思
社)で、溥儀は日満一体化を主張することで、自らの夢、復辟を諦めたこ
とになったと強調している。

加藤氏は溥儀の変節を克明に辿った。ソ連に抑留されたときにはソ連賛歌
を口にしソ連女性との結婚を望んだ。毛沢東の中国に身柄を移されたとき
には、またもや豹変した。状況次第で立場を変える溥儀の人生が、多くの
裏切りに満ちていたのは致し方ないかもしれない。彼は肉親をも信じるこ
とができなかった。

溥儀初来日の35年当時、その2年前に日本では皇太子(今上陛下)が誕生
し、国全体が明るい雰囲気に包まれていた。満州国に戻った溥儀は、自分
に子供がいないことを気にし始めた。実弟の溥傑(ふけつ)が嵯峨侯爵家の
長女、浩(ひろ)と結婚すると、「溥傑に男子が生まれたら、自分は殺され
る」と弟宮一家を恐れるようになった。後嗣なき自分は、跡目相続を狙っ
ているに違いない弟宮夫婦に命を狙われていると、本気で恐れた。

なぜ彼には後嗣がなかったのか。溥儀が暮した紫禁城には大勢の宦官や女
官が仕えており、溥儀は宦官相手の放埒な性や、多数の女官相手の爛熟し
た性にふけった。これまで明らかにされなかったこうした私生活を、具体
的に描いたのが加藤氏だ。

64(昭和39)年、中国共産党に指示されて、溥儀は自伝『わが半生』を書
いている。同書は中国当局の描きたい歴史であり、頭から信じるのは危う
いが、その中に16歳で、同年齢の美しい后を娶り、初夜を迎えた場面の描
写がある。

「赤いとばり、赤いふとん、赤い着物、赤いスカート、赤い花、赤い頬……
一面に溶けた赤いロウソクのようだった。私は非常にぎこちない感じで、
坐っても落ち着かず、立っても落ち着かない。私はやはり(自分の居住す
る宮殿の)養心殿がいいやと思い、そこで戸をあけて帰ってしまった」

溥儀の自伝が伝えるのはそこまでだ。その先を加藤氏が追跡した。「(彼
は)養心殿に行って太監と夜明けまで遊んだ」「養心殿には王鳳池(おう
ほうち)がただちに呼ばれ、朝まで二人が親密な夜を過ごしたこと」は多
くが証言している、と。

天国と地獄の差

王鳳池は美しい女人よりもなお美しいと伝えられる宦官である。溥儀は一
目で王鳳池に心を奪われ、彼に導かれて宦官との魔界の性に入った。これ
では跡継ぎを授かるはずがない。

紫禁城はまた、聞くだに恐ろしい刑罰で満ちていた。西太后や溥儀らは、
気分次第で些細なことにも死ぬ程の罰を与えた。青竹による「尻二百叩
き」など序の口だ。手抜きは同罪とされるため、刑の執行は苛烈を極め
た。最もひどい刑罰は「数枚の綿紙を水に浸し、それで口や目、耳、鼻を
ふさぎ、棒で殴り殺す」[気斃(きへい)]の罰だそうだ。

溥儀は「憂さ晴らし」として、絶対服従しかない宦官らに度々厳罰を与え
た。いきなり鞭を持ち出して打ち据える。2月の極寒の中で冷水を浴びせ
続け凍死寸前まで追い詰める。「地面に転がっている馬糞を食べてみろ」
と命じて実際に食べさせる。宦官の口中に放尿するなど、虐待と異常行動
を繰り返した。

「抵抗出来ないものを虐待して愉しむという溥儀の悪癖」は日本国の文化
からすればおぞましい限りだ。

私は『私生活』を読んで、加藤氏のもう一つの作品、『慟哭の通州』(飛
鳥新社)を思い出さずにはいられなかった。支那人による日本人虐殺の地
獄の実態はここでは触れない。ただ言えるのは、溥儀がどれ程「日満一体
化」で皇祖神天照大神を祀りたいと望もうとも、溥儀ら大陸の支配者ら
と、「国民に寄り添い民と共にある」日本の皇室との間には、天国と地獄
の差があることだ。

「記紀」にあるように、わが国を創り給うた神々の末裔とされてきた皇室
は、民を大切にしてきた。わが国のその時々の権力者は実権を握るもの
の、常に皇室、天皇を権威として戴いてきた。近代国家を目指した日本
は、皇室中心の日本国を立憲君主国、天皇は「君臨すれども統治せず」と
位置づけた。日本のこの国柄をこそ大事にしたいと『私生活』を読んで感
じたものだ。

『週刊新潮』 2019年2月21日号 日本ルネッサンス 第840回

2019年02月21日

◆柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策

櫻井よしこ


「柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策 日本にとっても朝鮮半島外交
は正念場だ」

トランプ米政権の北朝鮮担当特別代表、ステファン・ビーガン氏が、その
職に就いて5カ月、初めて公式の場で講演した。

1月31日、スタンフォード大学での講演で明確になったのは、トランプ政
権の対北朝鮮政策の進め方が変わるということだ。一口にいえば、北朝鮮
が核廃棄を明確な形で成し遂げない限り見返りは与えないという、日本が
繰り返し主張してきた原則論から、より柔軟な路線への移行をトランプ政
権は考えているとみられる。

ビーガン氏は開口一番、「トランプ大統領は戦争(朝鮮戦争)を終了させ
る準備を整えている。終わったのだ。我々の北朝鮮侵略はない。我々は北
朝鮮の政権転覆を目指してはいない」「私、そしてもっと大事なのは合衆
国大統領が、過去70年間の朝鮮半島における戦いと憎しみを終わらせる時
だと確信していることだ」と、述べた。

北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長への妥協で在韓米軍の撤退もあり得る
かとの懸念に関して、「そのような交渉はまったく行われていない。過去
にもない」と強調したが、こうも述べた。

「金正恩は、米国が相応の対策をとる場合、すべてのプルトニウム及びウ
ラニウム濃縮設備を解体し破棄することにコミットした」「我々の側は
(それに対応する)多くの具体策を議論する準備を整えている」

ビーガン氏は北朝鮮の非核化に非常に楽観的だが、これより前の1月20
日、政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)が北朝鮮の東倉里ミ
サイル施設の解体作業が進んでいないことや、未公表の複数の核・ミサイ
ル関連施設が存在することを示す画像を公開した。29日には国家情報長官
のダン・コーツ氏が、「北朝鮮が核兵器を完全に放棄する可能性は低い」
と上院情報特別委員会で証言した。

ビーガン氏はこうした情報について、「情報の正確性ではなく、公開の仕
方が不満だ」とし、「もし、私なら同じ情報をこのように公開するでしょ
う──米国への深刻な脅威がここに存在している。我々の外交路線を変える
ことで北朝鮮を変えることができるかを見極めるために、北朝鮮と外交関
係をより深めることが重要だ、と」。

米国はなぜこんな希望的観測に基づく柔軟路線に転換したのか、その背景
はビーガン氏の講演から読みとれる。

「トランプ大統領と金委員長の方式はトップダウンです。成功すれば二国
間関係は根本的に生まれ変わる」

過去5カ月間、北朝鮮との交渉の時期と場所を決定するのにも大いに苦労
したビーガン氏は、北朝鮮は真意を測り難い国だと言う。だが、トランプ
氏は北朝鮮非核化をいつも「希望に燃えた星のような目」で語るそうだ。
トップダウンで北朝鮮の非核化を達成できる、トランプ氏はそう確信して
いるということであろう。そのような型破りの二人の首脳を信頼すれば、
年来の常識的外交路線から離れて、両首脳の「手腕」に期待することにな
るだろう。

米国の北朝鮮外交は日本のそれに直接的かつ大きく影響する。横田めぐみ
さんら多くの日本人が今もとらわれている。北朝鮮への姿勢を緩めて大丈
夫か、とトランプ氏の前のめりの姿勢に懸念を抱くのは当然である。

別の理由からトランプ氏の北朝鮮政策に気を揉んでいるのが中国国家主席
の習近平氏だ。安易に論ずることはできない中朝関係だが、中国が北朝鮮
の動向掌握に努め、北朝鮮と米国が、中国の頭越しに関係を深めていくの
を恐れているのは確かだ。何としてでも北朝鮮をコントロールし、朝鮮半
島を影響下に置いておきたいのである。

しかし今、トランプ氏の進める外交はまさに中国の頭越しになりかねな
い。韓国が北朝鮮につき従い、米朝が結び、中国が反発するという展開も
含めて、日本にとっても、朝鮮半島外交は正念場。緩和策の危険を米国に
説く時だ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月16日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1267

2019年02月20日

◆柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策

櫻井よしこ


柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策 日本にとっても朝鮮半島外交は
正念場だ 」

トランプ米政権の北朝鮮担当特別代表、ステファン・ビーガン氏が、その
職に就いて5カ月、初めて公式の場で講演した。

1月31日、スタンフォード大学での講演で明確になったのは、トランプ政
権の対北朝鮮政策の進め方が変わるということだ。一口にいえば、北朝鮮
が核廃棄を明確な形で成し遂げない限り見返りは与えないという、日本が
繰り返し主張してきた原則論から、より柔軟な路線への移行をトランプ政
権は考えているとみられる。

ビーガン氏は開口一番、「トランプ大統領は戦争(朝鮮戦争)を終了させ
る準備を整えている。終わったのだ。我々の北朝鮮侵略はない。我々は北
朝鮮の政権転覆を目指してはいない」「私、そしてもっと大事なのは合衆
国大統領が、過去70年間の朝鮮半島における戦いと憎しみを終わらせる時
だと確信していることだ」と、述べた。

北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長への妥協で在韓米軍の撤退もあり得る
かとの懸念に関して、「そのような交渉はまったく行われていない。過去
にもない」と強調したが、こうも述べた。

「金正恩は、米国が相応の対策をとる場合、すべてのプルトニウム及びウ
ラニウム濃縮設備を解体し破棄することにコミットした」「我々の側は
(それに対応する)多くの具体策を議論する準備を整えている」

ビーガン氏は北朝鮮の非核化に非常に楽観的だが、これより前の1月20
日、政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)が北朝鮮の東倉里ミ
サイル施設の解体作業が進んでいないことや、未公表の複数の核・ミサイ
ル関連施設が存在することを示す画像を公開した。29日には国家情報長官
のダン・コーツ氏が、「北朝鮮が核兵器を完全に放棄する可能性は低い」
と上院情報特別委員会で証言した。

ビーガン氏はこうした情報について、「情報の正確性ではなく、公開の仕
方が不満だ」とし、「もし、私なら同じ情報をこのように公開するでしょ
う──米国への深刻な脅威がここに存在している。我々の外交路線を変える
ことで北朝鮮を変えることができるかを見極めるために、北朝鮮と外交関
係をより深めることが重要だ、と」。

米国はなぜこんな希望的観測に基づく柔軟路線に転換したのか、その背景
はビーガン氏の講演から読みとれる。

「トランプ大統領と金委員長の方式はトップダウンです。成功すれば二国
間関係は根本的に生まれ変わる」

過去5カ月間、北朝鮮との交渉の時期と場所を決定するのにも大いに苦労
したビーガン氏は、北朝鮮は真意を測り難い国だと言う。だが、トランプ
氏は北朝鮮非核化をいつも「希望に燃えた星のような目」で語るそうだ。
トップダウンで北朝鮮の非核化を達成できる、トランプ氏はそう確信して
いるということであろう。そのような型破りの二人の首脳を信頼すれば、
年来の常識的外交路線から離れて、両首脳の「手腕」に期待することにな
るだろう。

米国の北朝鮮外交は日本のそれに直接的かつ大きく影響する。横田めぐみ
さんら多くの日本人が今もとらわれている。北朝鮮への姿勢を緩めて大丈
夫か、とトランプ氏の前のめりの姿勢に懸念を抱くのは当然である。

別の理由からトランプ氏の北朝鮮政策に気を揉んでいるのが中国国家主席
の習近平氏だ。安易に論ずることはできない中朝関係だが、中国が北朝鮮
の動向掌握に努め、北朝鮮と米国が、中国の頭越しに関係を深めていくの
を恐れているのは確かだ。何としてでも北朝鮮をコントロールし、朝鮮半
島を影響下に置いておきたいのである。

しかし今、トランプ氏の進める外交はまさに中国の頭越しになりかねな
い。韓国が北朝鮮につき従い、米朝が結び、中国が反発するという展開も
含めて、日本にとっても、朝鮮半島外交は正念場。緩和策の危険を米国に
説く時だ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月16日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1267 

2019年02月19日

◆柔軟路線へ移行する

櫻井よしこ


「柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策 日本にとっても朝鮮半島外交
は正念場だ 」


トランプ米政権の北朝鮮担当特別代表、ステファン・ビーガン氏が、その
職に就いて5カ月、初めて公式の場で講演した。

1月31日、スタンフォード大学での講演で明確になったのは、トランプ政
権の対北朝鮮政策の進め方が変わるということだ。一口にいえば、北朝鮮
が核廃棄を明確な形で成し遂げない限り見返りは与えないという、日本が
繰り返し主張してきた原則論から、より柔軟な路線への移行をトランプ政
権は考えているとみられる。

ビーガン氏は開口一番、「トランプ大統領は戦争(朝鮮戦争)を終了させ
る準備を整えている。終わったのだ。我々の北朝鮮侵略はない。我々は北
朝鮮の政権転覆を目指してはいない」「私、そしてもっと大事なのは合衆
国大統領が、過去70年間の朝鮮半島における戦いと憎しみを終わらせる時
だと確信していることだ」と、述べた。

北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長への妥協で在韓米軍の撤退もあり得る
かとの懸念に関して、「そのような交渉はまったく行われていない。過去
にもない」と強調したが、こうも述べた。

「金正恩は、米国が相応の対策をとる場合、すべてのプルトニウム及びウ
ラニウム濃縮設備を解体し破棄することにコミットした」「我々の側は
(それに対応する)多くの具体策を議論する準備を整えている」

ビーガン氏は北朝鮮の非核化に非常に楽観的だが、これより前の1月20
日、政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)が北朝鮮の東倉里ミ
サイル施設の解体作業が進んでいないことや、未公表の複数の核・ミサイ
ル関連施設が存在することを示す画像を公開した。29日には国家情報長官
のダン・コーツ氏が、「北朝鮮が核兵器を完全に放棄する可能性は低い」
と上院情報特別委員会で証言した。

ビーガン氏はこうした情報について、「情報の正確性ではなく、公開の仕
方が不満だ」とし、「もし、私なら同じ情報をこのように公開するでしょ
う──米国への深刻な脅威がここに存在している。我々の外交路線を変える
ことで北朝鮮を変えることができるかを見極めるために、北朝鮮と外交関
係をより深めることが重要だ、と」。

米国はなぜこんな希望的観測に基づく柔軟路線に転換したのか、その背景
はビーガン氏の講演から読みとれる。

「トランプ大統領と金委員長の方式はトップダウンです。成功すれば二国
間関係は根本的に生まれ変わる」

過去5カ月間、北朝鮮との交渉の時期と場所を決定するのにも大いに苦労
したビーガン氏は、北朝鮮は真意を測り難い国だと言う。だが、トランプ
氏は北朝鮮非核化をいつも「希望に燃えた星のような目」で語るそうだ。
トップダウンで北朝鮮の非核化を達成できる、トランプ氏はそう確信して
いるということであろう。そのような型破りの二人の首脳を信頼すれば、
年来の常識的外交路線から離れて、両首脳の「手腕」に期待することにな
るだろう。

米国の北朝鮮外交は日本のそれに直接的かつ大きく影響する。横田めぐみ
さんら多くの日本人が今もとらわれている。北朝鮮への姿勢を緩めて大丈
夫か、とトランプ氏の前のめりの姿勢に懸念を抱くのは当然である。

別の理由からトランプ氏の北朝鮮政策に気を揉んでいるのが中国国家主席
の習近平氏だ。安易に論ずることはできない中朝関係だが、中国が北朝鮮
の動向掌握に努め、北朝鮮と米国が、中国の頭越しに関係を深めていくの
を恐れているのは確かだ。何としてでも北朝鮮をコントロールし、朝鮮半
島を影響下に置いておきたいのである。

しかし今、トランプ氏の進める外交はまさに中国の頭越しになりかねな
い。韓国が北朝鮮につき従い、米朝が結び、中国が反発するという展開も
含めて、日本にとっても、朝鮮半島外交は正念場。緩和策の危険を米国に
説く時だ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月16日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1267 

2019年02月18日

◆柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策

櫻井よしこ


「柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策 日本にとっても朝鮮半島外交
は正念場だ」

トランプ米政権の北朝鮮担当特別代表、ステファン・ビーガン氏が、その
職に就いて5カ月、初めて公式の場で講演した。

1月31日、スタンフォード大学での講演で明確になったのは、トランプ政
権の対北朝鮮政策の進め方が変わるということだ。一口にいえば、北朝鮮
が核廃棄を明確な形で成し遂げない限り見返りは与えないという、日本が
繰り返し主張してきた原則論から、より柔軟な路線への移行をトランプ政
権は考えているとみられる。

ビーガン氏は開口一番、「トランプ大統領は戦争(朝鮮戦争)を終了させ
る準備を整えている。終わったのだ。我々の北朝鮮侵略はない。我々は北
朝鮮の政権転覆を目指してはいない」「私、そしてもっと大事なのは合衆
国大統領が、過去70年間の朝鮮半島における戦いと憎しみを終わらせる時
だと確信していることだ」と、述べた。

北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長への妥協で在韓米軍の撤退もあり得る
かとの懸念に関して、「そのような交渉はまったく行われていない。過去
にもない」と強調したが、こうも述べた。

「金正恩は、米国が相応の対策をとる場合、すべてのプルトニウム及びウ
ラニウム濃縮設備を解体し破棄することにコミットした」「我々の側は
(それに対応する)多くの具体策を議論する準備を整えている」

ビーガン氏は北朝鮮の非核化に非常に楽観的だが、これより前の1月20
日、政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)が北朝鮮の東倉里ミ
サイル施設の解体作業が進んでいないことや、未公表の複数の核・ミサイ
ル関連施設が存在することを示す画像を公開した。29日には国家情報長官
のダン・コーツ氏が、「北朝鮮が核兵器を完全に放棄する可能性は低い」
と上院情報特別委員会で証言した。

ビーガン氏はこうした情報について、「情報の正確性ではなく、公開の仕
方が不満だ」とし、「もし、私なら同じ情報をこのように公開するでしょ
う──米国への深刻な脅威がここに存在している。我々の外交路線を変える
ことで北朝鮮を変えることができるかを見極めるために、北朝鮮と外交関
係をより深めることが重要だ、と」。

米国はなぜこんな希望的観測に基づく柔軟路線に転換したのか、その背景
はビーガン氏の講演から読みとれる。

「トランプ大統領と金委員長の方式はトップダウンです。成功すれば二国
間関係は根本的に生まれ変わる」

過去5カ月間、北朝鮮との交渉の時期と場所を決定するのにも大いに苦労
したビーガン氏は、北朝鮮は真意を測り難い国だと言う。だが、トランプ
氏は北朝鮮非核化をいつも「希望に燃えた星のような目」で語るそうだ。
トップダウンで北朝鮮の非核化を達成できる、トランプ氏はそう確信して
いるということであろう。そのような型破りの二人の首脳を信頼すれば、
年来の常識的外交路線から離れて、両首脳の「手腕」に期待することにな
るだろう。

米国の北朝鮮外交は日本のそれに直接的かつ大きく影響する。横田めぐみ
さんら多くの日本人が今もとらわれている。北朝鮮への姿勢を緩めて大丈
夫か、とトランプ氏の前のめりの姿勢に懸念を抱くのは当然である。

別の理由からトランプ氏の北朝鮮政策に気を揉んでいるのが中国国家主席
の習近平氏だ。安易に論ずることはできない中朝関係だが、中国が北朝鮮
の動向掌握に努め、北朝鮮と米国が、中国の頭越しに関係を深めていくの
を恐れているのは確かだ。何としてでも北朝鮮をコントロールし、朝鮮半
島を影響下に置いておきたいのである。

しかし今、トランプ氏の進める外交はまさに中国の頭越しになりかねな
い。韓国が北朝鮮につき従い、米朝が結び、中国が反発するという展開も
含めて、日本にとっても、朝鮮半島外交は正念場。緩和策の危険を米国に
説く時だ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月16日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1267

2019年02月17日

◆米国の対北朝鮮政策

櫻井よしこ


「柔軟路線へ移行する米国の対北朝鮮政策 日本にとっても朝鮮半島外交
は正念場だ」


トランプ米政権の北朝鮮担当特別代表、ステファン・ビーガン氏が、その
職に就いて5カ月、初めて公式の場で講演した。

1月31日、スタンフォード大学での講演で明確になったのは、トランプ政
権の対北朝鮮政策の進め方が変わるということだ。一口にいえば、北朝鮮
が核廃棄を明確な形で成し遂げない限り見返りは与えないという、日本が
繰り返し主張してきた原則論から、より柔軟な路線への移行をトランプ政
権は考えているとみられる。

ビーガン氏は開口一番、「トランプ大統領は戦争(朝鮮戦争)を終了させ
る準備を整えている。終わったのだ。我々の北朝鮮侵略はない。我々は北
朝鮮の政権転覆を目指してはいない」「私、そしてもっと大事なのは合衆
国大統領が、過去70年間の朝鮮半島における戦いと憎しみを終わらせる時
だと確信していることだ」と、述べた。

北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長への妥協で在韓米軍の撤退もあり得る
かとの懸念に関して、「そのような交渉はまったく行われていない。過去
にもない」と強調したが、こうも述べた。

「金正恩は、米国が相応の対策をとる場合、すべてのプルトニウム及びウ
ラニウム濃縮設備を解体し破棄することにコミットした」「我々の側は
(それに対応する)多くの具体策を議論する準備を整えている」

ビーガン氏は北朝鮮の非核化に非常に楽観的だが、これより前の1月20
日、政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)が北朝鮮の東倉里ミ
サイル施設の解体作業が進んでいないことや、未公表の複数の核・ミサイ
ル関連施設が存在することを示す画像を公開した。29日には国家情報長官
のダン・コーツ氏が、「北朝鮮が核兵器を完全に放棄する可能性は低い」
と上院情報特別委員会で証言した。

ビーガン氏はこうした情報について、「情報の正確性ではなく、公開の仕
方が不満だ」とし、「もし、私なら同じ情報をこのように公開するでしょ
う──米国への深刻な脅威がここに存在している。我々の外交路線を変える
ことで北朝鮮を変えることができるかを見極めるために、北朝鮮と外交関
係をより深めることが重要だ、と」。

米国はなぜこんな希望的観測に基づく柔軟路線に転換したのか、その背景
はビーガン氏の講演から読みとれる。

「トランプ大統領と金委員長の方式はトップダウンです。成功すれば二国
間関係は根本的に生まれ変わる」

過去5カ月間、北朝鮮との交渉の時期と場所を決定するのにも大いに苦労
したビーガン氏は、北朝鮮は真意を測り難い国だと言う。だが、トランプ
氏は北朝鮮非核化をいつも「希望に燃えた星のような目」で語るそうだ。
トップダウンで北朝鮮の非核化を達成できる、トランプ氏はそう確信して
いるということであろう。そのような型破りの二人の首脳を信頼すれば、
年来の常識的外交路線から離れて、両首脳の「手腕」に期待することにな
るだろう。

米国の北朝鮮外交は日本のそれに直接的かつ大きく影響する。横田めぐみ
さんら多くの日本人が今もとらわれている。北朝鮮への姿勢を緩めて大丈
夫か、とトランプ氏の前のめりの姿勢に懸念を抱くのは当然である。

別の理由からトランプ氏の北朝鮮政策に気を揉んでいるのが中国国家主席
の習近平氏だ。安易に論ずることはできない中朝関係だが、中国が北朝鮮
の動向掌握に努め、北朝鮮と米国が、中国の頭越しに関係を深めていくの
を恐れているのは確かだ。何としてでも北朝鮮をコントロールし、朝鮮半
島を影響下に置いておきたいのである。

しかし今、トランプ氏の進める外交はまさに中国の頭越しになりかねな
い。韓国が北朝鮮につき従い、米朝が結び、中国が反発するという展開も
含めて、日本にとっても、朝鮮半島外交は正念場。緩和策の危険を米国に
説く時だ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年2月16日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1267

2019年02月16日

◆米国は貫徹できるか

櫻井よしこ


「米国は貫徹できるか、厳しい対中政策」

2日間にわたる米中閣僚級貿易協議が終わった1月31日、トランプ米大統領
は中国代表団を率いる劉鶴副首相と会談した。トランプ氏は、「極めて大
きな進展があった」とし、中国が米国の大豆500万トンの輸入を約束した
ことについて「アメリカの農家がとても喜ぶだろう」と上機嫌で語った。

中国による大量のオピオイド系鎮静剤、フェンタニルの密輸出阻止につい
ても、トランプ氏は習近平主席が対策を講じると約束したと、語ってい
る。この約束は、実は昨年12月の米中首脳会談で決めたことだ。酒も煙草
も嗜まないといわれるトランプ氏は、習慣性が強く最悪の場合過剰使用で
死に至るこの種の薬剤がとても嫌いなのである。

現時点では、トランプ氏の喜びは中国の苦しみだ。今回、米通商代表部の
ライトハイザー代表がぎりぎりまで詰めた主要事項は、米国の貿易赤字削
減、中国による技術移転の強要阻止、同じく中国による知的財産の窃盗の
阻止などである。こうした点についての合意を如何に確実に実施するか、
そのための監視システムの構築も焦点だった。

トランプ氏が喜んだ大豆は、全体の問題のごく一部にすぎない。現に、米
国内では大豆や天然ガス、その他の対中輸出拡大は大きな問題ではなく、
「中国製造2025」に代表される中国の産業、技術政策を阻止することこそ
大事なのだという意見が強い。

1月31日の「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙に、元来アメリカが
最も得手とするサービス分野こそ中国におけるシェアを高めるべきだが、
そこには厚い障壁があると解説する記事が目についた。金融、保険、エン
ジニアリング、コンサルティング、ソフトウエアの開発などで中国市場を
もっと開かせよというのだ。しかし、フェイスブック、グーグル、ユー
チューブなどの苦い体験を思い出せば、これらのサービス分野こそ、中国
が最も開放したくないと考えていることは明らかだ。こうした分野でアメ
リカの要求を受け入れてしまえば、人々の意識も生活も大きく変わりかね
ない。中国共産党一党支配の崩壊が猛スピードで進む結果になるだろう。

構造的な景気減速

中国人民大学米国研究センター主任の時殷弘(じいんこう)教授が、米側
の要求である究極の構造改革やその実行を担保する監視メカニズムは、中
国の主権への侵犯や国内秩序への干渉となる可能性が高い、とのコメント
を「産経新聞」に寄せていたが、それこそが米国の狙いであり、中国の恐
れる点であろう。

米国の対中政策は凄まじく厳しい。貿易に関する米中閣僚級協議開催直前
に、米司法省はファーウェイの孟晩舟副会長兼最高財務責任者をニュー
ヨークの連邦大陪審が起訴したと発表し、孟氏の身柄引き渡しをカナダ当
局に正式に要請した。

カナダ政府は米国との協定に従って要請に応じざるを得ないであろう。孟
氏が米国に引き渡された場合、彼女は最高で60年の刑を受ける可能性があ
ると、福井県立大学教授の島田洋一氏は語る。

「米国当局は長期刑をチラつかせながら、孟氏にファーウェイと中国共産
党が行ってきた全ての不法行為を自白させようとするでしょう。協力しな
ければ、彼女は100歳をすぎてもまだアメリカの刑務所に入れられている
ことになりかねません。協力すれば、彼女と彼女の息子のために、一生米
国で安全に暮らせる環境も、そのための資金も用意するでしょう。アメリ
カはなんとしても中国に5G(第5世代移動通信システム)の分野で主導権
を取られたくないのです」

孟氏のケースは、米中間で進行する貿易交渉と同じく、否、それ以上に深
刻な問題だと、島田氏は強調する。いま、米国は貿易、軍事、人権、外交
などで中国締め上げに力を注いでいる。米中の戦いで中国に勝ち目はある
のか。

中国経済の2018年の成長率は6.6%と発表された。28年ぶりの低い伸びだ
と発表されたが、実はもっと低く1.67%だったという資料もあると、人民
大学国際通貨研究所副所長の向松祚(こうしょうそ)氏が指摘している。
向氏は別の試算方法ではGDPはマイナス成長になるとの見解さえ示して
いる。

向氏の言を俟たずとも中国の統計の信頼性の低さは余りにも有名で、中国
経済が公式発表の数字よりもはるかに深刻な低成長に落ちていることは十
分に考えられる。

中国のGDPの約25%を生み出す不動産業界の不況も甚しい。去年1年間
で、大手不動産会社は住宅価格を30%といわれる幅で引き下げたという。
今年もかなりの値下げが懸念されており、銀行は大量の不良債権を抱え込
んでいる。地方政府は過剰債務に陥っており、中小企業にはお金が回らな
い。構造的な景気減速に入ってしまっているが、打つ手がないのが中国経
済だ。

四面楚歌の中国

国内経済の減速に加えて、対外事業としての一帯一路への信頼を、中国は
すでに失ってしまった。債務の罠のカラクリは見破られ、中国と協力した
いという国はなくなりつつある。国際戦略の専門家、田久保忠衛氏が「言
論テレビ」で語った。

「中曽根康弘氏の名言ですが、外交で大切なことは筋を通すとか通さない
ということではなく、国際世論を敵にしないことだというのです。いまの
中国は世界のほぼすべての国を敵に回しています」

中国が他国の領土を奪う手法は債務の罠だけではない。南シナ海での振る
舞いが示しているのは、中国は軍事力の行使もためらわないということ
だ。世界はこのことをすでに十分理解した。だからこそ、米国の「航行の
自由」作戦に、英国とフランスは、昨年夏から合流し始めた。

まさに四面楚歌の中国である。このままいけば、米国は中国の横暴を止め
るだろう。だが、物事はそれ程うまくいかないかもしれない。最大の不安
要因がトランプ氏である。

1月31日、トランプ氏の中東政策に共和党上院議員、53名中43名という圧
倒的多数が反対した。シリアからひと月以内に撤退すると、トランプ氏が
唐突に言い出し、反対したマティス国防長官の更迭を発表したのが昨年末
だった。状況不利と見たのであろう。トランプ氏は、メラニア夫人を伴っ
て突然イラクを訪れ、米軍関係者を慰問した。撤退時期などで多少、軌道
修正をはかったとしても、シリア及びアフガニスタンからの撤退という基
本方針は変えないと見られている。

イラクからの早すぎる撤退で失敗したのがオバマ大統領だった。トランプ
大統領も同じ轍を踏みかけている。それは中東の混乱を増大させ、トラン
プ氏の政治基盤を崩しかねない。そのとき、笑うのは中国であり、世界は
本当の危機に陥る。

『週刊新潮』 2019年2月14日号 日本ルネッサンス 第839回

2019年02月15日

◆米国は貫徹できるか、厳しい対中政策

櫻井よしこ


2日間にわたる米中閣僚級貿易協議が終わった1月31日、トランプ米大統領
は中国代表団を率いる劉鶴副首相と会談した。トランプ氏は、「極めて大
きな進展があった」とし、中国が米国の大豆500万トンの輸入を約束した
ことについて「アメリカの農家がとても喜ぶだろう」と上機嫌で語った。

中国による大量のオピオイド系鎮静剤、フェンタニルの密輸出阻止につい
ても、トランプ氏は習近平主席が対策を講じると約束したと、語ってい
る。この約束は、実は昨年12月の米中首脳会談で決めたことだ。酒も煙草
も嗜まないといわれるトランプ氏は、習慣性が強く最悪の場合過剰使用で
死に至るこの種の薬剤がとても嫌いなのである。

現時点では、トランプ氏の喜びは中国の苦しみだ。今回、米通商代表部の
ライトハイザー代表がぎりぎりまで詰めた主要事項は、米国の貿易赤字削
減、中国による技術移転の強要阻止、同じく中国による知的財産の窃盗の
阻止などである。こうした点についての合意を如何に確実に実施するか、
そのための監視システムの構築も焦点だった。

トランプ氏が喜んだ大豆は、全体の問題のごく一部にすぎない。現に、米
国内では大豆や天然ガス、その他の対中輸出拡大は大きな問題ではなく、
「中国製造2025」に代表される中国の産業、技術政策を阻止することこそ
大事なのだという意見が強い。

1月31日の「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙に、元来アメリカが
最も得手とするサービス分野こそ中国におけるシェアを高めるべきだが、
そこには厚い障壁があると解説する記事が目についた。金融、保険、エン
ジニアリング、コンサルティング、ソフトウエアの開発などで中国市場を
もっと開かせよというのだ。しかし、フェイスブック、グーグル、ユー
チューブなどの苦い体験を思い出せば、これらのサービス分野こそ、中国
が最も開放したくないと考えていることは明らかだ。こうした分野でアメ
リカの要求を受け入れてしまえば、人々の意識も生活も大きく変わりかね
ない。中国共産党一党支配の崩壊が猛スピードで進む結果になるだろう。

構造的な景気減速

中国人民大学米国研究センター主任の時殷弘(じいんこう)教授が、米側
の要求である究極の構造改革やその実行を担保する監視メカニズムは、中
国の主権への侵犯や国内秩序への干渉となる可能性が高い、とのコメント
を「産経新聞」に寄せていたが、それこそが米国の狙いであり、中国の恐
れる点であろう。

米国の対中政策は凄まじく厳しい。貿易に関する米中閣僚級協議開催直前
に、米司法省はファーウェイの孟晩舟副会長兼最高財務責任者をニュー
ヨークの連邦大陪審が起訴したと発表し、孟氏の身柄引き渡しをカナダ当
局に正式に要請した。

カナダ政府は米国との協定に従って要請に応じざるを得ないであろう。孟
氏が米国に引き渡された場合、彼女は最高で60年の刑を受ける可能性があ
ると、福井県立大学教授の島田洋一氏は語る。

「米国当局は長期刑をチラつかせながら、孟氏にファーウェイと中国共産
党が行ってきた全ての不法行為を自白させようとするでしょう。協力しな
ければ、彼女は100歳をすぎてもまだアメリカの刑務所に入れられている
ことになりかねません。協力すれば、彼女と彼女の息子のために、一生米
国で安全に暮らせる環境も、そのための資金も用意するでしょう。アメリ
カはなんとしても中国に5G(第5世代移動通信システム)の分野で主導権
を取られたくないのです」

孟氏のケースは、米中間で進行する貿易交渉と同じく、否、それ以上に深
刻な問題だと、島田氏は強調する。いま、米国は貿易、軍事、人権、外交
などで中国締め上げに力を注いでいる。米中の戦いで中国に勝ち目はある
のか。

中国経済の2018年の成長率は6.6%と発表された。28年ぶりの低い伸びだ
と発表されたが、実はもっと低く1.67%だったという資料もあると、人民
大学国際通貨研究所副所長の向松祚(こうしょうそ)氏が指摘している。
向氏は別の試算方法ではGDPはマイナス成長になるとの見解さえ示して
いる。

向氏の言を俟たずとも中国の統計の信頼性の低さは余りにも有名で、中国
経済が公式発表の数字よりもはるかに深刻な低成長に落ちていることは十
分に考えられる。

中国のGDPの約25%を生み出す不動産業界の不況も甚しい。去年1年間
で、大手不動産会社は住宅価格を30%といわれる幅で引き下げたという。
今年もかなりの値下げが懸念されており、銀行は大量の不良債権を抱え込
んでいる。地方政府は過剰債務に陥っており、中小企業にはお金が回らな
い。構造的な景気減速に入ってしまっているが、打つ手がないのが中国経
済だ。

四面楚歌の中国

国内経済の減速に加えて、対外事業としての一帯一路への信頼を、中国は
すでに失ってしまった。債務の罠のカラクリは見破られ、中国と協力した
いという国はなくなりつつある。国際戦略の専門家、田久保忠衛氏が「言
論テレビ」で語った。

「中曽根康弘氏の名言ですが、外交で大切なことは筋を通すとか通さない
ということではなく、国際世論を敵にしないことだというのです。いまの
中国は世界のほぼすべての国を敵に回しています」

中国が他国の領土を奪う手法は債務の罠だけではない。南シナ海での振る
舞いが示しているのは、中国は軍事力の行使もためらわないということ
だ。世界はこのことをすでに十分理解した。だからこそ、米国の「航行の
自由」作戦に、英国とフランスは、昨年夏から合流し始めた。

まさに四面楚歌の中国である。このままいけば、米国は中国の横暴を止め
るだろう。だが、物事はそれ程うまくいかないかもしれない。最大の不安
要因がトランプ氏である。

1月31日、トランプ氏の中東政策に共和党上院議員、53名中43名という圧
倒的多数が反対した。シリアからひと月以内に撤退すると、トランプ氏が
唐突に言い出し、反対したマティス国防長官の更迭を発表したのが昨年末
だった。状況不利と見たのであろう。トランプ氏は、メラニア夫人を伴っ
て突然イラクを訪れ、米軍関係者を慰問した。撤退時期などで多少、軌道
修正をはかったとしても、シリア及びアフガニスタンからの撤退という基
本方針は変えないと見られている。

イラクからの早すぎる撤退で失敗したのがオバマ大統領だった。トランプ
大統領も同じ轍を踏みかけている。それは中東の混乱を増大させ、トラン
プ氏の政治基盤を崩しかねない。そのとき、笑うのは中国であり、世界は
本当の危機に陥る。

『週刊新潮』 2019年2月14日号 日本ルネッサンス 第839回