2019年06月15日

◆国際政治は理想よりも力で動く

櫻井よしこ


「国際政治は理想よりも力で動く ウクライナの二の舞を演じてはならない」

「現在の日本はロシアに侵略されてクリミア半島を奪われる前のウクライ
ナとそっくりです」

ウクライナから来た留学生、ナザレンコ・アンドリー氏(24)がインター
ネットの「言論テレビ」で語った。来日5年、共愛学園前橋国際大学在学
中で、「雲散霧消」など四字熟語も自在に使いこなす。

どのように日本とウクライナが似ているのか、ナザレンコ氏の解説だ。

「自分たちが武力を持たなければ周辺国も平和的に接してくれると思い込
むことです。ウクライナも非核三原則を作って、保有していた核すべてを
ロシアに渡しました。軍隊も100万人から20万人に減らしました。私の両
親も含めてウクライナ人は性善説を信じたのです」

ここで少々説明が必要だろう。かつて旧ソ連の一部だったウクライナは、
1991年のソ連解体で独立した。当時のウクライナはソ連のいわば武器庫
で、核兵器、ミサイルをはじめ多くの武器が保有されていた。

これらの武器をすべてロシアに引き渡すべきだと、米英露3カ国が要求し
た。ただし武力放棄後のウクライナの安全は米英露3カ国が保障するとも
誓約した。同提案にウクライナは同意し、ブダペスト覚書を交わした。後
に中仏も同様の内容の覚書をウクライナと個別に交わしたことから、国連
安全保障理事会常任理事国すべてがウクライナの安全を担保する形が出来
上がった。これが94年だった。

ところが、20年後、ロシアは突然ウクライナからクリミア半島を奪った。
現在もロシアと国境を接するウクライナ東部にはロシア軍が常駐してい
る。恐らく何年か時間をかけて、ロシアのプーチン大統領はウクライナの
領土をより多く、取り戻そうとするだろう。

そこで疑問は、(1)なぜ5大国の約束は機能しなかったのか、(2)ウク
ライナ人はなぜ非核三原則に見られる「平和論」や大国の約束に頼ったの
か、だ。

(1)の答えは、ブダペスト覚書の第4条にある。そこには、ウクライナが
ロシアから侵略された場合、米英は「国連安全保障理事会において」ウク
ライナを支援すると書かれている。しかし安保理においてロシアは拒否権
を行使できるために、第4条は最初から機能しない空しい誓約だった。米
英は別に約束を破ったわけではないのだ。

(2)についてナザレンコ氏は次の様に述べた。

「非核三原則ですが、ウクライナ北部のチェルノブイリで86年、世界一恐
ろしい原発事故が起きました。国民は核に強い恐怖感を覚えました。しか
もソ連の技術は本当に頼りない。いつ何が爆発するかわからない。強い恐
怖と絶望で領土内に核は置きたくないと大多数の国民が考えた。それが非
核三原則の背景です。来日して、福島第一原子力発電所の事故について考
え、私たちは似ていると思いました」

ウクライナは歴史的にいつも侵略されてきた。古くはモンゴル帝国に占領
された。ポーランド、リトアニア、ロシア、トルコ、第二次世界大戦時に
はドイツに占領された。武力に屈服し、被占領国の歴史を生きたウクライ
ナがなぜ、武力を捨てたのか。

「楽観的すぎた。性善説なのです。時代は21世紀だ。冷戦は終わった。争
いはもう起きない。米英露の世界最強国が守ってくれる。ならば自国軍は
不要だ。軍を5分の1に縮小して、福祉に回す方がよいと考えたのです。そ
れに90年代はソ連解体でウクライナ人も経済のことばかり考え、国防に心
を致さなかったと思います」

尖閣諸島周辺には本稿執筆時点で連続55日間、中国の大型武装艦四隻が侵
入を続けている。国防を置き去りにしてウクライナの二の舞を演じてはな
らない。国際政治は理想よりも力で動くことを認識し、憲法改正を国民の
課題として考えるときであろう。

2019年06月14日

◆中国の対米威嚇、本音は何か

櫻井よしこ


「対話? 歓迎だ。戦い? 準備はできている。我々を脅かす? やれる
わけがない」

これは6月2日、中国・国防相の魏鳳和(ウェイフォンホー)氏が米国への
対抗心も露わに中国国民の声として語った言葉だ。威嚇か、半分本気か。
米国の出方次第では戦争もあり得ると、生々しい敵対心を見せている。場
所はシンガポール、世界の安全保障問題の専門家が集う毎年恒例のアジア
安全保障会議でのことだ。

貿易戦争から始まった米中の対立は、いまや赤字黒字問題を超えて国の在
り方の根本を問う、価値観の衝突といわれる程、深刻になりつつある。対
立が深まる中で開かれたアジア安保会議に、中国は8年振りに現職の国防
大臣を送り込んだ。人民解放軍中将ら小物の軍人を出席させてきた去年ま
でとは対照的である。国際会議の場で国防の重鎮が前述のような怒りの表
現を口にしたのはなぜか。

アジア安保会議で魏氏より1日前に演説したのが米国防長官代行のパト
リック・シャナハン氏である。氏は間もなく議会での承認を経て国防長官
に就任すると見られている。氏の演説を背景まで含めて読むと、現在の米
国には、中国への非常に強い警戒心と、ここで中国の勢力を止めなければ
ならないという固い決意が満ちているのが見てとれる。

シャナハン氏は、アジア安保会議で前任の国防長官、ジェームズ・マティ
ス氏の「国家防衛戦略」を踏まえた「インド・太平洋戦略」を発表した
が、その内容は中国の心を掻き乱したに違いない。

ちなみにマティス氏の国防戦略は、米国の真の敵は非国家勢力のテロリス
トではなく、中国やロシアなどの国家だという考えに立っている。9.11以
降、テロリスト勢力を米国の主敵としてきた戦略を転換したのがトラン
プ、マティスの両氏だった。

信ずるのは危険

同じ前提に立つシャナハン氏の戦略がどれ程中国に厳しいかは、氏の戦略
報告の中で中国の項目が「修正主義勢力としての中華人民共和国」と露骨
に表現されていることからも明らかだ。また、ロシアや北朝鮮に関する記
述が各々1頁で完結しているのに対して、中国のそれはおよそ4倍にわたっ
ている。

アジア安保会議での演説は右の戦略報告と併せて考えなければならず、そ
うしたとき、シャナハン氏の演説の一言一言がより強い中国敵視の色彩を
帯びる。

シャナハン氏は、インド・太平洋は自由で開かれた海でなければならない
という、日本も全面的に同意する価値観を述べ、それを守るために使って
はならない以下の「抑圧の手法」4点を挙げた。

➀争いの場に先進の武器を持ち込み、力による恫喝で相手国の反対を封じ
込める、➁他国の選挙や社会に介入してその国の内政に影響を及ぼす、➂債
務の罠を仕掛け、腐敗を誘い、特定の政党に利益をもたらし相手国の主権
を脅かす、➃他国の軍・民の最先端技術を国家ぐるみで窃盗する、である。

この演説では中国を名指しはしていないが、前述の戦略報告ではすべて中
国の項に盛り込まれている。また、中国の悪行はすでに世界周知のことで
あるため、名指ししようがしまいが、シャナハン氏の主張が中国批判であ
ることは直ちに理解される。

シャナハン氏は強調する−−「我々は現実を希望の色で塗り替えたり、非
友好的な行動を覆い隠す美辞麗句に惑わされてはならない。言行の不一致
を問題にすべきときだ」。

日本への警告ではないかと思った程、右の件(くだ)りは現実を映し出し
ている。中国は米国との対立の負荷を緩和するために、日本に微笑外交を
展開中だ。だが、中国の微笑も涙も誠意も、信ずるのは危険である。

中国は、日本と共に一帯一路を推進し、当事国すべてが「ウィンウィン」
になる事業をしたい、日本との友好を深めたいと言葉巧みに言いながら、
尖閣の海には本稿執筆中の6月3日、53日連続で大型武装艦船4隻を送りこ
んでいるではないか。4隻は度々領海を侵犯しており、海上保安庁が小型
ながら8隻態勢で必死に島を守っている。中国は尖閣諸島の施政権を握っ
ている状況を作り、国際社会に尖閣の領有権は中国にあると印象づけ、わ
が国の領土を奪おうとしているのである。日本は中国にも領土を奪われか
ねないのだ。

友好を口にしながら、行動では領土略奪の動きを着々と進めるのが中国
だ。彼らは一度も領有したことのない南シナ海についても、たとえば
「2000年前から中国領だった」などと途方もない虚構話を吹聴する。その
種の中国の言動にシャナハン氏が言及すると、魏氏は即座に記者会見を開
いて反撃した。翌日の演説でも米国批判を展開した。

共産党の異形の支配

魏氏は米中貿易戦争について、「もし米国が話し合いたいなら我々は扉を
開けておく。もし彼らが戦いたいなら、我々は最後まで戦う」と語った。
冒頭で紹介した挑戦的な言葉はこの後に続くものだ。

台湾に関しては魏氏は奇妙な比較をしてみせた。米国は南北戦争で危うく
国が分断するところだった。だがリンカーン大統領のおかげで分断は回避
された。米国は分離してはならないのであり、中国も同様だ。だから中台
は統一しなければならないと、魏氏はいうのだ。しかし、台湾は一度も中
華人民共和国の領土であったことはない。米国の南北戦争とはなんの共通
項もない。それでも、「国家統一の擁護は人民解放軍の聖なる任務」「台
湾に対して武力行使をしないとは公約できない」と強調するのである。

さらに「人民解放軍は多くの戦争を戦ってきた。犠牲は厭わない」「圧力
や困難の度合いが高い程、中国人は勇敢になる」と胸を張り、シャナハン
氏との会談では「中国軍の決意と能力を見くびるべきではない」と一歩も
引かない構えを見せた。

対する米国は、ホワイトハウス(行政府)と議会(立法府)が一体となっ
て中国に対峙する構えが自ずと出来上がった。シャナハン氏のシンガポー
ル入りに上下両院の議員9人が同行し、シャナハン氏は彼ら一人一人を国
防戦略実現に必要な予算、約80兆円を確保してくれたリーダーとして紹介
した。最強の軍事大国である米国は、行政府も立法府も、共和党も民主党
も、一致して中国共産党の異形の支配を許容しないことを見せつけ、こち
らも一歩も引かない。

土壇場で米中が劇的に和解する可能性はゼロではないだろうが、その対立
と戦いは長期にわたる深刻な展開になると考えるべきだ。地政学上も経済
面でも、中国は日本を自陣営に引き込もうとするだろう。ここで中国の微
笑に騙されて彼らの草苅り場になってはならない。一日も早く、自立性を
高め、より強い国になることだ。そのために早急な憲法改正が必要だ。


『週刊新潮』 2019年6月13日号 日本ルネッサンス 第855回

2019年06月13日

◆中国の対米威嚇、本音は何か

櫻井よしこ


「対話? 歓迎だ。戦い? 準備はできている。我々を脅かす? やれる
わけがない」

これは6月2日、中国・国防相の魏鳳和(ウェイフォンホー)氏が米国への
対抗心も露わに中国国民の声として語った言葉だ。威嚇か、半分本気か。
米国の出方次第では戦争もあり得ると、生々しい敵対心を見せている。場
所はシンガポール、世界の安全保障問題の専門家が集う毎年恒例のアジア
安全保障会議でのことだ。

貿易戦争から始まった米中の対立は、いまや赤字黒字問題を超えて国の在
り方の根本を問う、価値観の衝突といわれる程、深刻になりつつある。対
立が深まる中で開かれたアジア安保会議に、中国は8年振りに現職の国防
大臣を送り込んだ。人民解放軍中将ら小物の軍人を出席させてきた去年ま
でとは対照的である。国際会議の場で国防の重鎮が前述のような怒りの表
現を口にしたのはなぜか。

アジア安保会議で魏氏より1日前に演説したのが米国防長官代行のパト
リック・シャナハン氏である。氏は間もなく議会での承認を経て国防長官
に就任すると見られている。氏の演説を背景まで含めて読むと、現在の米
国には、中国への非常に強い警戒心と、ここで中国の勢力を止めなければ
ならないという固い決意が満ちているのが見てとれる。

シャナハン氏は、アジア安保会議で前任の国防長官、ジェームズ・マティ
ス氏の「国家防衛戦略」を踏まえた「インド・太平洋戦略」を発表した
が、その内容は中国の心を掻き乱したに違いない。

ちなみにマティス氏の国防戦略は、米国の真の敵は非国家勢力のテロリス
トではなく、中国やロシアなどの国家だという考えに立っている。9.11以
降、テロリスト勢力を米国の主敵としてきた戦略を転換したのがトラン
プ、マティスの両氏だった。

信ずるのは危険

同じ前提に立つシャナハン氏の戦略がどれ程中国に厳しいかは、氏の戦略
報告の中で中国の項目が「修正主義勢力としての中華人民共和国」と露骨
に表現されていることからも明らかだ。また、ロシアや北朝鮮に関する記
述が各々1頁で完結しているのに対して、中国のそれはおよそ4倍にわたっ
ている。

アジア安保会議での演説は右の戦略報告と併せて考えなければならず、そ
うしたとき、シャナハン氏の演説の一言一言がより強い中国敵視の色彩を
帯びる。

シャナハン氏は、インド・太平洋は自由で開かれた海でなければならない
という、日本も全面的に同意する価値観を述べ、それを守るために使って
はならない以下の「抑圧の手法」4点を挙げた。

➀争いの場に先進の武器を持ち込み、力による恫喝で相手国の反対を封じ
込める、➁他国の選挙や社会に介入してその国の内政に影響を及ぼす、➂債
務の罠を仕掛け、腐敗を誘い、特定の政党に利益をもたらし相手国の主権
を脅かす、➃他国の軍・民の最先端技術を国家ぐるみで窃盗する、である。

この演説では中国を名指しはしていないが、前述の戦略報告ではすべて中
国の項に盛り込まれている。また、中国の悪行はすでに世界周知のことで
あるため、名指ししようがしまいが、シャナハン氏の主張が中国批判であ
ることは直ちに理解される。

シャナハン氏は強調する−−「我々は現実を希望の色で塗り替えたり、非
友好的な行動を覆い隠す美辞麗句に惑わされてはならない。言行の不一致
を問題にすべきときだ」。

日本への警告ではないかと思った程、右の件(くだ)りは現実を映し出し
ている。中国は米国との対立の負荷を緩和するために、日本に微笑外交を
展開中だ。だが、中国の微笑も涙も誠意も、信ずるのは危険である。

中国は、日本と共に一帯一路を推進し、当事国すべてが「ウィンウィン」
になる事業をしたい、日本との友好を深めたいと言葉巧みに言いながら、
尖閣の海には本稿執筆中の6月3日、53日連続で大型武装艦船4隻を送りこ
んでいるではないか。4隻は度々領海を侵犯しており、海上保安庁が小型
ながら8隻態勢で必死に島を守っている。中国は尖閣諸島の施政権を握っ
ている状況を作り、国際社会に尖閣の領有権は中国にあると印象づけ、わ
が国の領土を奪おうとしているのである。日本は中国にも領土を奪われか
ねないのだ。

友好を口にしながら、行動では領土略奪の動きを着々と進めるのが中国
だ。彼らは一度も領有したことのない南シナ海についても、たとえば
「2000年前から中国領だった」などと途方もない虚構話を吹聴する。その
種の中国の言動にシャナハン氏が言及すると、魏氏は即座に記者会見を開
いて反撃した。翌日の演説でも米国批判を展開した。

共産党の異形の支配

魏氏は米中貿易戦争について、「もし米国が話し合いたいなら我々は扉を
開けておく。もし彼らが戦いたいなら、我々は最後まで戦う」と語った。
冒頭で紹介した挑戦的な言葉はこの後に続くものだ。

台湾に関しては魏氏は奇妙な比較をしてみせた。米国は南北戦争で危うく
国が分断するところだった。だがリンカーン大統領のおかげで分断は回避
された。米国は分離してはならないのであり、中国も同様だ。だから中台
は統一しなければならないと、魏氏はいうのだ。しかし、台湾は一度も中
華人民共和国の領土であったことはない。米国の南北戦争とはなんの共通
項もない。それでも、「国家統一の擁護は人民解放軍の聖なる任務」「台
湾に対して武力行使をしないとは公約できない」と強調するのである。

さらに「人民解放軍は多くの戦争を戦ってきた。犠牲は厭わない」「圧力
や困難の度合いが高い程、中国人は勇敢になる」と胸を張り、シャナハン
氏との会談では「中国軍の決意と能力を見くびるべきではない」と一歩も
引かない構えを見せた。

対する米国は、ホワイトハウス(行政府)と議会(立法府)が一体となっ
て中国に対峙する構えが自ずと出来上がった。シャナハン氏のシンガポー
ル入りに上下両院の議員9人が同行し、シャナハン氏は彼ら一人一人を国
防戦略実現に必要な予算、約80兆円を確保してくれたリーダーとして紹介
した。最強の軍事大国である米国は、行政府も立法府も、共和党も民主党
も、一致して中国共産党の異形の支配を許容しないことを見せつけ、こち
らも一歩も引かない。

土壇場で米中が劇的に和解する可能性はゼロではないだろうが、その対立
と戦いは長期にわたる深刻な展開になると考えるべきだ。地政学上も経済
面でも、中国は日本を自陣営に引き込もうとするだろう。ここで中国の微
笑に騙されて彼らの草苅り場になってはならない。一日も早く、自立性を
高め、より強い国になることだ。そのために早急な憲法改正が必要だ。

『週刊新潮』 2019年6月13日号 日本ルネッサンス 第855回

2019年06月11日

◆今回の首脳外交は大成功

櫻井よしこ


「緊密な日米関係を内外に示した今回の首脳外交は大成功で終えた」

5月25日から4日間、トランプ米大統領の訪日が無事終了した。天皇、皇后
両陛下は令和初の国賓をにこやかにお迎えされ、国民も大いに安堵したの
ではないか。

滞在中、トランプ大統領は対日貿易赤字、日本がF35戦闘機を105機買う
ことなどに度々言及し、環太平洋経済連携協定(TPP)への激しい反発
も口にした。日米間の貿易問題に加えて、拉致、北朝鮮に傾く韓国文在寅
政権、膨張する中国の脅威にも対処しなければならない安倍晋三首相に
とって、眼前の貿易問題を超えて緊密な日米関係を内外に示すことは、大
いなる国益である。その点で今回の首脳外交は大成功だった。

だが、「朝日新聞」は5月28日の紙面で安倍外交を徹底的に批判した。

「抱きつき、泣きつき──。トランプ氏に対する度外れた厚遇ぶりには、そ
んな言葉しか浮かばない」(「天声人語」)という具合だ。社説も「もて
なし外交の限界 対米追従より価値の基軸を」と題して、「国賓を丁重に
迎えるのは当然だが、度が過ぎる」と書き、安倍首相のイラン訪問予定に
ついては、「米国の代弁者では、仲介者たり得ない」と釘をさした。

朝日の主張はただの観念論であろう。拉致問題でトランプ大統領は安倍首
相の「代弁者」になって、金正恩朝鮮労働党委員長に日本側の考えや要求
を伝え続けている。トランプ・金両首脳の3回の会談のすべてで、トラン
プ大統領は拉致問題を取り上げた。今回も家族会の皆さんに会い、安倍首
相への全面的支持を表明した。

日朝首脳会談は容易に実現するとは思えないが、トランプ大統領が安倍首
相の気持ちを代弁した結果、首脳会談の可能性が生まれている。イランに
関して安倍首相が力を尽くすことの何が問題なのか。

朝日の論調を「読売新聞」のそれと比較した。読売の社説は「多国間協調
を主導する同盟に 貿易問題で無用な対立避けたい」と題し、「貿易収支
は景気や為替など様々な要因に左右される」として、「赤字削減に固執す
る意味が乏しいことを、米国に訴え続け」よと説いた。「TPPから離脱
した米国が、参加国より有利な条件を得ては筋が通らない。TPPと同水
準の合意にとどめるべきだ」とも主張した。読売の主張の方が余程まとも
でフェアでもある。

米中対立は単なる貿易赤字削減の域を越えて、国の在り方、いわゆる「価
値観の闘い」の域に入っている。知的財産権の窃盗、言論の自由や人権の
圧迫、少数民族の弾圧や虐殺、国際法無視の現状変更などに異議を唱える
米国に、日本も欧州諸国も程度の差はあるものの共鳴している。だからこ
そ、同盟国である日本や欧州に、余りにも対立含みの要求を突きつけない
でほしいと願っている。

だが、トランプ大統領にはそれが通じない。難しい相手にどうわたり合う
か。とりわけ日本の立場は苦しい。本原稿執筆中の5月28日も、中国の
5000トンクラス、大型武装船2隻を含む4隻が尖閣諸島の接続水域に侵入中
だ。連続47日、この間彼らは度々領海も侵犯した。かつてない軍事的脅威
が眼前にあるが、わが国は有効な手立てを打てない。中国や北朝鮮の安全
保障上の脅威から日本を守るには力不足で、米国の支援が必要である。

そんなハンディゆえに安倍首相は朝日が主張する「経済も安全保障も、
ルールに基づく多国間の協力を重んじ」てきた。TPP11や日欧EPAを
まとめ、航行の自由、法の遵守、平和的解決を掲げてインド・太平洋戦略
を打ち出したのがその証左だ。日本が実現に漕ぎつけたこれらの実績を評
価せずに批判のための批判に力を注ぐ朝日の国際情勢分析は信頼できない
のではないか。米国との合意はTPPと同水準にせよと助言する読売を評
価するゆえんである。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1282 

2019年06月10日

◆今回の首脳外交は大成功

櫻井よしこ


「緊密な日米関係を内外に示した今回の首脳外交は大成功で終えた」

5月25日から4日間、トランプ米大統領の訪日が無事終了した。天皇、皇后
両陛下は令和初の国賓をにこやかにお迎えされ、国民も大いに安堵したの
ではないか。

滞在中、トランプ大統領は対日貿易赤字、日本がF35戦闘機を105機買う
ことなどに度々言及し、環太平洋経済連携協定(TPP)への激しい反発
も口にした。日米間の貿易問題に加えて、拉致、北朝鮮に傾く韓国文在寅
政権、膨張する中国の脅威にも対処しなければならない安倍晋三首相に
とって、眼前の貿易問題を超えて緊密な日米関係を内外に示すことは、大
いなる国益である。その点で今回の首脳外交は大成功だった。

だが、「朝日新聞」は5月28日の紙面で安倍外交を徹底的に批判した。

「抱きつき、泣きつき──。トランプ氏に対する度外れた厚遇ぶりには、そ
んな言葉しか浮かばない」(「天声人語」)という具合だ。社説も「もて
なし外交の限界 対米追従より価値の基軸を」と題して、「国賓を丁重に
迎えるのは当然だが、度が過ぎる」と書き、安倍首相のイラン訪問予定に
ついては、「米国の代弁者では、仲介者たり得ない」と釘をさした。

朝日の主張はただの観念論であろう。拉致問題でトランプ大統領は安倍首
相の「代弁者」になって、金正恩朝鮮労働党委員長に日本側の考えや要求
を伝え続けている。トランプ・金両首脳の3回の会談のすべてで、トラン
プ大統領は拉致問題を取り上げた。今回も家族会の皆さんに会い、安倍首
相への全面的支持を表明した。

日朝首脳会談は容易に実現するとは思えないが、トランプ大統領が安倍首
相の気持ちを代弁した結果、首脳会談の可能性が生まれている。イランに
関して安倍首相が力を尽くすことの何が問題なのか。

朝日の論調を「読売新聞」のそれと比較した。読売の社説は「多国間協調
を主導する同盟に 貿易問題で無用な対立避けたい」と題し、「貿易収支
は景気や為替など様々な要因に左右される」として、「赤字削減に固執す
る意味が乏しいことを、米国に訴え続け」よと説いた。「TPPから離脱
した米国が、参加国より有利な条件を得ては筋が通らない。TPPと同水
準の合意にとどめるべきだ」とも主張した。読売の主張の方が余程まとも
でフェアでもある。

米中対立は単なる貿易赤字削減の域を越えて、国の在り方、いわゆる「価
値観の闘い」の域に入っている。知的財産権の窃盗、言論の自由や人権の
圧迫、少数民族の弾圧や虐殺、国際法無視の現状変更などに異議を唱える
米国に、日本も欧州諸国も程度の差はあるものの共鳴している。だからこ
そ、同盟国である日本や欧州に、余りにも対立含みの要求を突きつけない
でほしいと願っている。

だが、トランプ大統領にはそれが通じない。難しい相手にどうわたり合う
か。とりわけ日本の立場は苦しい。本原稿執筆中の5月28日も、中国の
5000トンクラス、大型武装船2隻を含む4隻が尖閣諸島の接続水域に侵入中
だ。連続47日、この間彼らは度々領海も侵犯した。かつてない軍事的脅威
が眼前にあるが、わが国は有効な手立てを打てない。中国や北朝鮮の安全
保障上の脅威から日本を守るには力不足で、米国の支援が必要である。

そんなハンディゆえに安倍首相は朝日が主張する「経済も安全保障も、
ルールに基づく多国間の協力を重んじ」てきた。TPP11や日欧EPAを
まとめ、航行の自由、法の遵守、平和的解決を掲げてインド・太平洋戦略
を打ち出したのがその証左だ。日本が実現に漕ぎつけたこれらの実績を評
価せずに批判のための批判に力を注ぐ朝日の国際情勢分析は信頼できない
のではないか。米国との合意はTPPと同水準にせよと助言する読売を評
価するゆえんである。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1282

2019年06月09日

◆首脳外交は大成功で終えた

櫻井よしこ


「緊密な日米関係を内外に示した今回の首脳外交は大成功で終えた」

5月25日から4日間、トランプ米大統領の訪日が無事終了した。天皇、皇后
両陛下は令和初の国賓をにこやかにお迎えされ、国民も大いに安堵したの
ではないか。

滞在中、トランプ大統領は対日貿易赤字、日本がF35戦闘機を105機買う
ことなどに度々言及し、環太平洋経済連携協定(TPP)への激しい反発
も口にした。日米間の貿易問題に加えて、拉致、北朝鮮に傾く韓国文在寅
政権、膨張する中国の脅威にも対処しなければならない安倍晋三首相に
とって、眼前の貿易問題を超えて緊密な日米関係を内外に示すことは、大
いなる国益である。その点で今回の首脳外交は大成功だった。

だが、「朝日新聞」は5月28日の紙面で安倍外交を徹底的に批判した。
「抱きつき、泣きつき──。トランプ氏に対する度外れた厚遇ぶりには、そ
んな言葉しか浮かばない」(「天声人語」)という具合だ。社説も「もて
なし外交の限界 対米追従より価値の基軸を」と題して、「国賓を丁重に
迎えるのは当然だが、度が過ぎる」と書き、安倍首相のイラン訪問予定に
ついては、「米国の代弁者では、仲介者たり得ない」と釘をさした。

朝日の主張はただの観念論であろう。拉致問題でトランプ大統領は安倍首
相の「代弁者」になって、金正恩朝鮮労働党委員長に日本側の考えや要求
を伝え続けている。トランプ・金両首脳の3回の会談のすべてで、トラン
プ大統領は拉致問題を取り上げた。今回も家族会の皆さんに会い、安倍首
相への全面的支持を表明した。

日朝首脳会談は容易に実現するとは思えないが、トランプ大統領が安倍首
相の気持ちを代弁した結果、首脳会談の可能性が生まれている。イランに
関して安倍首相が力を尽くすことの何が問題なのか。

朝日の論調を「読売新聞」のそれと比較した。読売の社説は「多国間協調
を主導する同盟に 貿易問題で無用な対立避けたい」と題し、「貿易収支
は景気や為替など様々な要因に左右される」として、「赤字削減に固執す
る意味が乏しいことを、米国に訴え続け」よと説いた。「TPPから離脱
した米国が、参加国より有利な条件を得ては筋が通らない。TPPと同水
準の合意にとどめるべきだ」とも主張した。読売の主張の方が余程まとも
でフェアでもある。

米中対立は単なる貿易赤字削減の域を越えて、国の在り方、いわゆる「価
値観の闘い」の域に入っている。知的財産権の窃盗、言論の自由や人権の
圧迫、少数民族の弾圧や虐殺、国際法無視の現状変更などに異議を唱える
米国に、日本も欧州諸国も程度の差はあるものの共鳴している。だからこ
そ、同盟国である日本や欧州に、余りにも対立含みの要求を突きつけない
でほしいと願っている。

だが、トランプ大統領にはそれが通じない。難しい相手にどうわたり合う
か。とりわけ日本の立場は苦しい。本原稿執筆中の5月28日も、中国の
5000トンクラス、大型武装船2隻を含む4隻が尖閣諸島の接続水域に侵入中
だ。連続47日、この間彼らは度々領海も侵犯した。かつてない軍事的脅威
が眼前にあるが、わが国は有効な手立てを打てない。中国や北朝鮮の安全
保障上の脅威から日本を守るには力不足で、米国の支援が必要である。

そんなハンディゆえに安倍首相は朝日が主張する「経済も安全保障も、
ルールに基づく多国間の協力を重んじ」てきた。TPP11や日欧EPAを
まとめ、航行の自由、法の遵守、平和的解決を掲げてインド・太平洋戦略
を打ち出したのがその証左だ。日本が実現に漕ぎつけたこれらの実績を評
価せずに批判のための批判に力を注ぐ朝日の国際情勢分析は信頼できない
のではないか。米国との合意はTPPと同水準にせよと助言する読売を評
価するゆえんである。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1282 

2019年06月08日

◆今回の首脳外交は大成功で終えた

櫻井よしこ


「緊密な日米関係を内外に示した今回の首脳外交は大成功で終えた」

5月25日から4日間、トランプ米大統領の訪日が無事終了した。天皇、皇后
両陛下は令和初の国賓をにこやかにお迎えされ、国民も大いに安堵したの
ではないか。

滞在中、トランプ大統領は対日貿易赤字、日本がF35戦闘機を105機買う
ことなどに度々言及し、環太平洋経済連携協定(TPP)への激しい反発
も口にした。日米間の貿易問題に加えて、拉致、北朝鮮に傾く韓国文在寅
政権、膨張する中国の脅威にも対処しなければならない安倍晋三首相とっ
て、眼前の貿易問題を超えて緊密な日米関係を内外に示すことは、大いな
る国益である。その点で今回の首脳外交は大成功だった。

だが、「朝日新聞」は5月28日の紙面で安倍外交を徹底的に批判した。

「抱きつき、泣きつき──。トランプ氏に対する度外れた厚遇ぶりには、そ
んな言葉しか浮かばない」(「天声人語」)という具合だ。社説も「もて
なし外交の限界 対米追従より価値の基軸を」と題して、「国賓を丁重に
迎えるのは当然だが、度が過ぎる」と書き、安倍首相のイラン訪問予定に
ついては、「米国の代弁者では、仲介者たり得ない」と釘をさした。

朝日の主張はただの観念論であろう。拉致問題でトランプ大統領は安倍首
相の「代弁者」になって、金正恩朝鮮労働党委員長に日本側の考えや要求
を伝え続けている。トランプ・金両首脳の3回の会談のすべてで、トラン
プ大統領は拉致問題を取り上げた。今回も家族会の皆さんに会い、安倍首
相への全面的支持を表明した。

日朝首脳会談は容易に実現するとは思えないが、トランプ大統領が安倍首
相の気持ちを代弁した結果、首脳会談の可能性が生まれている。イランに
関して安倍首相が力を尽くすことの何が問題なのか。

朝日の論調を「読売新聞」のそれと比較した。読売の社説は「多国間協調
を主導する同盟に 貿易問題で無用な対立避けたい」と題し、「貿易収支
は景気や為替など様々な要因に左右される」として、「赤字削減に固執す
る意味が乏しいことを、米国に訴え続け」よと説いた。「TPPから離脱
した米国が、参加国より有利な条件を得ては筋が通らない。TPPと同水
準の合意にとどめるべきだ」とも主張した。読売の主張の方が余程まとも
でフェアでもある。

米中対立は単なる貿易赤字削減の域を越えて、国の在り方、いわゆる「価
値観の闘い」の域に入っている。知的財産権の窃盗、言論の自由や人権の
圧迫、少数民族の弾圧や虐殺、国際法無視の現状変更などに異議を唱える
米国に、日本も欧州諸国も程度の差はあるものの共鳴している。だからこ
そ、同盟国である日本や欧州に、余りにも対立含みの要求を突きつけない
でほしいと願っている。

だが、トランプ大統領にはそれが通じない。難しい相手にどうわたり合う
か。とりわけ日本の立場は苦しい。本原稿執筆中の5月28日も、中国の
5000トンクラス、大型武装船2隻を含む4隻が尖閣諸島の接続水域に侵入中
だ。連続47日、この間彼らは度々領海も侵犯した。かつてない軍事的脅威
が眼前にあるが、わが国は有効な手立てを打てない。中国や北朝鮮の安全
保障上の脅威から日本を守るには力不足で、米国の支援が必要である。

そんなハンディゆえに安倍首相は朝日が主張する「経済も安全保障も、
ルールに基づく多国間の協力を重んじ」てきた。TPP11や日欧EPAを
まとめ、航行の自由、法の遵守、平和的解決を掲げてインド・太平洋戦略
を打ち出したのがその証左だ。日本が実現に漕ぎつけたこれらの実績を評
価せずに批判のための批判に力を注ぐ朝日の国際情勢分析は信頼できない
のではないか。米国との合意はTPPと同水準にせよと助言する読売を評
価するゆえんである

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1282 

2019年06月07日

◆北方領土奪還のときは必ず来る

櫻井よしこ


ビザなし交流で北方領土を訪れた衆議院議員、丸山穂高氏の言動は論外だ
が、総じて北方領土の現状についての国会議員、とりわけ野党議員の認識
の貧しさには驚くばかりだ。

ビザなし交流は平成4(1992)年に始まった。日露双方が年間600人を上限
に参加できる。日本からの訪問者は元島民の皆さんと親族、返還運動関係
者、報道関係者、国会議員などである。

議員は各党から選ばれるが、自民党のように大きな政党の議員は仲々順番
が回ってこない。あくまでも一般論ではあるが、自民党議員は北方領土訪
問団の一員に選ばれるまでに部会などの勉強会でそれなりの勉強をする
と、東海大学教授の山田吉彦氏は指摘する。

自身、ビザなし交流を体験した山田氏は、小政党の野党は所属する国会議
員の数が少ない分、比較的早く順番が回ってくるため、北方領土の歴史
も、ビザなし交流の意味も十分に学ぶことなく訪問するケースがあるとも
指摘する。

北方領土で問題を起こし、ロシア側の取り締まりを受ければ、日本人がロ
シアの主権下に置かれる。これは、北方領土は日本固有の領土でロシアが
不法占拠しているという年来の日本の主張とは相容れない事態である。

罷り間違ってもそんな事態に陥らないように、北方領土訪問団には夜間の
外出禁止などのルールが課せられてきた。不法に奪われた国土、略奪にま
つわる悲劇や口惜しさ、領土や国の在り方などについて思い巡らすのが北
方領土で過ごす夜の時間の使い方であろうに、飲酒して醜態を晒す程愚か
しいことはない。

戦後70年が過ぎても北方領土返還の兆しは見えない。その第一の理由は、
ロシアがロシアであるということだ。沖縄を返還したアメリカとは違う国
が私たちの相手なのだ。そこでロシアの現実を見てみよう。

失った領土へのこだわり

領土問題はナショナリズムに直結する。大国だったソビエト連邦が崩壊
し、多くの領土を失う形で現在のロシアが生まれた。大国の座から滑り落
ちた恨みは深く、失った領土へのこだわりは強い。だからこそ、クリミア
半島を奪ったプーチン大統領の支持率は86.2%に跳ね上がった。

それが今年4月段階では64%である。経済が振るわず、昨年10月、プーチ
ン氏は年金受給年齢を大幅に引き上げた。今年1月からは付加価値税(消
費税)を20%に引き上げた。それでも国家財政は苦しい。プーチン氏は、
➀原油価格の下落及び低迷、➁通貨ルーブル安、➂クリミア半島を奪ったこ
とに対する先進7か国による経済制裁の「三重苦」(木村汎氏)に呪縛さ
れたままだ。経済改善も、支持率上昇も期待できない中で、ナショナリズ
ムに火をつける領土返還には踏み切れないだろう。

経済不振とは対照的に、プーチン氏は軍事力増強に努めてきた。氏にとっ
て、軍事力において優位性を保ちそれを見せつけることは、祖国への誇り
や自信を確認できる数少ない機会のひとつなのではないか。軍事的視点で
北方領土を考えれば、日本への返還の遠さが浮かび上がる。

安倍晋三首相とプーチン大統領の首脳会談が重ねられる中、歯舞諸島と色
丹島の二島返還の可能性が論じられた。二島は北方領土全面積のわずか
7%だ。

色丹島には1000人規模の国境警備庁要員が常駐し、高速警備艇9隻が日本
海の入り口につながる北方海域の警備を担当している。同島島民の約3分
の1が国境警備関係者で、色丹島に投下される公共資本は病院や体育館な
ど国境警備隊にとって利用価値の高いものが多い。また同島の北半分は人
間の立ち入りが禁止される自然保護区である。

色丹島は国境警備のための島なのだ。国境警備庁と軍の関係者しか住んで
いない歯舞諸島も同様であろう。北海道から目視できる程近いこの二つの
小島に、ロシアが軍や国境警備の兵を手厚く配備しているのは日本海から
オホーツク海、さらには北西太平洋、北極海へと広がる海洋の覇権争いと
密接に関係しているはずだ。

中朝関係は必ずしも順調ではないが、中国の北朝鮮への影響力が強化され
ているのは確かである。朝鮮半島及び日本海における中国の勢力膨張は、
年毎に新しい段階に進んでいると言ってもよいだろう。

中国は2005年に北朝鮮の日本海側最北の港、羅津を50年間の契約で租借し
た。羅津から中朝国境に至る約60キロの幹線道路を作り、これも租借し
た。彼らは史上初めて、自国から日本海に直接出入りする道路と港を手に
入れたのだ。

12年には北朝鮮三大都市のひとつで、北朝鮮全域につながる物流拠点であ
る清津港に30年間にわたる使用権を確立した。

国防の視点

世界最大規模の埋蔵鉱物資源を誇る北朝鮮の複数の鉱山に、50年単位の独
占開発権を設定した中国は、南北朝鮮が不安定になればなったで、朝鮮半
島全体により強い影響力を及ぼす。国際港である釜山の活用は益々進むで
あろうし、済州島は、沖縄同様、中国資本に買収され続けている。朝鮮半
島全体が中国に包み込まれつつある。

現在、日本海には、日米韓露の潜水艦が潜航しているが、中国は入れてい
ない。しかし、中朝、中韓関係の深まりによって、中国も日本海潜入の機
会を窺うときが必ず来るだろう。これをロシアはどう見るか。

彼らは13年段階で中国に対抗して、羅津港にロシア専用の埠頭を確保し
た。加えて港とロシア極東の町、ハサンを結ぶ鉄道まで完成させた。

中国を警戒するロシアが、日本海・オホーツク海を監視する拠点である北
方領土を手放すことはないと考えるのが合理的だろう。日本に返還すれば
日米安保条約の下で、米国の軍事基地が出現する可能性を考えるのは当然
だ。日本海、オホーツク海或いは太平洋から北極海航路へとつながるシー
レーン構想の中で、ロシアが北方領土の戦略的重要性を認識するのは当然
だ。経済のみならず国防の視点で考えれば、領土返還は難しいと言わざる
を得ない。

では日本ができることは何か。丸山氏の暴言のような「戦争」でないのは
言うまでもない。

外交感覚を研ぎ澄まし、世界情勢をよく読み機会を待つことではないだろ
うか。ソビエト連邦崩壊の好機をとらえたのが西ドイツだった。ベルリン
の壁の崩壊と世界史の大転換を巧みにとらえ、ドイツ統一を果たした。

あのとき、好機は日本にも与えられていた。しかしわが国の外交官は全
く、その好機を掴めなかった。だが、必ず、チャンスはまた巡ってくる。
情勢の大変化でロシアが困窮に至るときである。

それまでじっと私たちは見詰め続け、好機を窺い続けることだ。国家とし
て長い闘いを勝ち抜く気力と気迫を持続することだ。

『週刊新潮』 2019年6月6日号 日本ルネッサンス 第854回

2019年06月06日

◆北方領土奪還のときは必ず来る

櫻井よしこ


ビザなし交流で北方領土を訪れた衆議院議員、丸山穂高氏の言動は論外だ
が、総じて北方領土の現状についての国会議員、とりわけ野党議員の認識
の貧しさには驚くばかりだ。

ビザなし交流は平成4(1992)年に始まった。日露双方が年間600人を上限
に参加できる。日本からの訪問者は元島民の皆さんと親族、返還運動関係
者、報道関係者、国会議員などである。

議員は各党から選ばれるが、自民党のように大きな政党の議員は中々順番
が回ってこない。あくまでも一般論ではあるが、自民党議員は北方領土訪
問団の一員に選ばれるまでに部会などの勉強会でそれなりの勉強をする
と、東海大学教授の山田吉彦氏は指摘する。

自身、ビザなし交流を体験した山田氏は、小政党の野党は所属する国会議
員の数が少ない分、比較的早く順番が回ってくるため、北方領土の歴史
も、ビザなし交流の意味も十分に学ぶことなく訪問するケースがあるとも
指摘する。

北方領土で問題を起こし、ロシア側の取り締まりを受ければ、日本人がロ
シアの主権下に置かれる。これは、北方領土は日本固有の領土でロシアが
不法占拠しているという年来の日本の主張とは相容れない事態である。罷
り間違ってもそんな事態に陥らないように、北方領土訪問団には夜間の外
出禁止などのルールが課せられてきた。不法に奪われた国土、略奪にまつ
わる悲劇や口惜しさ、領土や国の在り方などについて思い巡らすのが北方
領土で過ごす夜の時間の使い方であろうに、飲酒して醜態を晒す程愚かし
いことはない。

戦後70年が過ぎても北方領土返還の兆しは見えない。その第一の理由は、
ロシアがロシアであるということだ。沖縄を返還したアメリカとは違う国
が私たちの相手なのだ。そこでロシアの現実を見てみよう。

失った領土へのこだわり

領土問題はナショナリズムに直結する。大国だったソビエト連邦が崩壊
し、多くの領土を失う形で現在のロシアが生まれた。大国の座から滑り落
ちた恨みは深く、失った領土へのこだわりは強い。だからこそ、クリミア
半島を奪ったプーチン大統領の支持率は86.2%に跳ね上がった。

それが今年4月段階では64%である。経済が振るわず、昨年10月、プーチ
ン氏は年金受給年齢を大幅に引き上げた。今年1月からは付加価値税(消
費税)を20%に引き上げた。それでも国家財政は苦しい。プーチン氏は、
➀原油価格の下落及び低迷、➁通貨ルーブル安、➂クリミア半島を奪ったこ
とに対する先進7か国による経済制裁の「三重苦」(木村汎氏)に呪縛さ
れたままだ。経済改善も、支持率上昇も期待できない中で、ナショナリズ
ムに火をつける領土返還には踏み切れないだろう。

経済不振とは対照的に、プーチン氏は軍事力増強に努めてきた。氏にとっ
て、軍事力において優位性を保ちそれを見せつけることは、祖国への誇り
や自信を確認できる数少ない機会のひとつなのではないか。軍事的視点で
北方領土を考えれば、日本への返還の遠さが浮かび上がる。

安倍晋三首相とプーチン大統領の首脳会談が重ねられる中、歯舞諸島と色
丹島の二島返還の可能性が論じられた。二島は北方領土全面積のわずか
7%だ。

色丹島には1000人規模の国境警備庁要員が常駐し、高速警備艇9隻が日本
海の入り口につながる北方海域の警備を担当している。同島島民の約3分
の1が国境警備関係者で、色丹島に投下される公共資本は病院や体育館な
ど国境警備隊にとって利用価値の高いものが多い。また同島の北半分は人
間の立ち入りが禁止される自然保護区である。

色丹島は国境警備のための島なのだ。国境警備庁と軍の関係者しか住んで
いない歯舞諸島も同様であろう。北海道から目視できる程近いこの二つの
小島に、ロシアが軍や国境警備の兵を手厚く配備しているのは日本海から
オホーツク海、さらには北西太平洋、北極海へと広がる海洋の覇権争いと
密接に関係しているはずだ。

中朝関係は必ずしも順調ではないが、中国の北朝鮮への影響力が強化され
ているのは確かである。朝鮮半島及び日本海における中国の勢力膨張は、
年毎に新しい段階に進んでいると言ってもよいだろう。

中国は2005年に北朝鮮の日本海側最北の港、羅津を50年間の契約で租借し
た。羅津から中朝国境に至る約60キロの幹線道路を作り、これも租借し
た。彼らは史上初めて、自国から日本海に直接出入りする道路と港を手に
入れたのだ。

12年には北朝鮮三大都市のひとつで、北朝鮮全域につながる物流拠点であ
る清津港に30年間にわたる使用権を確立した。

国防の視点

世界最大規模の埋蔵鉱物資源を誇る北朝鮮の複数の鉱山に、50年単位の独
占開発権を設定した中国は、南北朝鮮が不安定になればなったで、朝鮮半
島全体により強い影響力を及ぼす。国際港である釜山の活用は益々進むで
あろうし、済州島は、沖縄同様、中国資本に買収され続けている。朝鮮半
島全体が中国に包み込まれつつある。

現在、日本海には、日米韓露の潜水艦が潜航しているが、中国は入れてい
ない。しかし、中朝、中韓関係の深まりによって、中国も日本海潜入の機
会を窺うときが必ず来るだろう。これをロシアはどう見るか。

彼らは13年段階で中国に対抗して、羅津港にロシア専用の埠頭を確保し
た。加えて港とロシア極東の町、ハサンを結ぶ鉄道まで完成させた。

中国を警戒するロシアが、日本海・オホーツク海を監視する拠点である北
方領土を手放すことはないと考えるのが合理的だろう。日本に返還すれば
日米安保条約の下で、米国の軍事基地が出現する可能性を考えるのは当然
だ。日本海、オホーツク海或いは太平洋から北極海航路へとつながるシー
レーン構想の中で、ロシアが北方領土の戦略的重要性を認識するのは当然
だ。経済のみならず国防の視点で考えれば、領土返還は難しいと言わざる
を得ない。

では日本ができることは何か。丸山氏の暴言のような「戦争」でないのは
言うまでもない。

外交感覚を研ぎ澄まし、世界情勢をよく読み機会を待つことではないだろ
うか。ソビエト連邦崩壊の好機をとらえたのが西ドイツだった。ベルリン
の壁の崩壊と世界史の大転換を巧みにとらえ、ドイツ統一を果たした。

あのとき、好機は日本にも与えられていた。しかしわが国の外交官は全
く、その好機を掴めなかった。だが、必ず、チャンスはまた巡ってくる。
情勢の大変化でロシアが困窮に至るときである。

それまでじっと私たちは見詰め続け、好機を窺い続けることだ。国家とし
て長い闘いを勝ち抜く気力と気迫を持続することだ。

『週刊新潮』 2019年6月6日号  日本ルネッサンス 第854回

2019年06月05日

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281 

2019年06月03日

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281

2019年06月02日

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ



「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281

2019年06月01日

◆国民が参加する裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281