2018年09月25日

◆アリババ集団マー会長退任の背後に

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。

『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

2018年09月24日

◆アリババ集団マー会長退任の背後に

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。

『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

2018年09月23日

◆アリババ集団マー会長退任

櫻井よしこ


「アリババ集団マー会長退任の背後に金持ち排除を進める習近平主席の影」

中国電子商取引(EC)最大手、アリババ集団のジャック・マー会長が五
四歳の誕生日、9月10日を期し会長職を退くと米「ニューヨーク・タイム
ズ」紙が報じた。

3日後、アリババ集団は、退任は今年ではなく、来年の9月10日だと発表し
た。マー氏が株主に宛てて公開した書簡には「大好きな教育分野に戻りた
い。世界は大きく、私はまだ若く、新しいことに挑戦したい」と書かれて
おり、時期は1年ずれたが、会長退任は間違いなさそうだ。

そこで誰しも思うだろう。マー氏はアリババ集団を一代で時価総額約4000
億ドル(約44兆円)企業に育て上げた。スマホ決済で一気にキャッシュレ
ス社会を出現させ、昨年の決済総額1377兆円の約半分を自社のアリペイが
占めた程の成功もおさめた。その彼が何故、いま、退くのか、と。

中国共産党の下で人々はいかにして富と権力を得るのか、権力の一部とな
ればなったでどれ程の火傷を負い失脚するのかを思えば、マー氏退任の背
景に影を見るのは当然だ。「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が語る。

「習近平国家主席の基本方針は毛沢東路線への回帰です。その特徴のひと
つが金持ち潰しです。毛沢東は全権力を中国共産党に集中させ、その上に
立つ自身の存在を核心と位置づけました。習氏も同じようにしたい。核心
はひとり、中心軸はひとつ。その一本軸の縦構造に並列して、兆円単位の
資産を動かす民間の大金持ちが生まれると、そこにも求心力が動く。核心
は2つは不要、そこで金持ち排除に走るのです」

習政権下で大富豪が次々に逮捕され、消されるケースが続いている。今年
5月にも中国保険業界の一角を占めていた安邦保険集団の元会長、呉小暉
氏が懲役18年の刑を科され失脚した。

呉氏はトランプ米大統領の娘婿、ジャレッド・クシュナー氏と非常に近い
関係にあった。2016年の米大統領選挙でトランプ氏の勝利が確定した直
後、クシュナー氏が最初に会食した相手が呉氏だった。

呉氏は中国共産党とのコネをばねにのし上がった。若き日に浙江省杭州市
長の娘と結婚し、自動車販売の利権で財を成し、次に元上海市長の息子の
コネを活用して〓小平(とう・しょうへい)一家に接近、妻と離婚して〓
(とう)の孫娘と再婚した。より大きな共産党へのコネを手に、呉氏は保
険業界に進出、短期間に巨万の富を築いてニューヨークの名門ホテル
「ウォルドルフ・アストリア」を買収した。

だが、米政権に深く食い込み影響力を発揮するような存在を、共産党が許
容し続けることはないのである。当局の調査が始まり、保険監督局が安邦
保険集団を公的管理下に置いたのが今年2月、3月には裁判開始、5月10日
には先述の判決が下された。〓(とう)の孫娘の夫といえども冷酷に切り
捨てられた。

大富豪が得意の絶頂で逮捕、投獄され、あるいは自殺に追い込まれる事例
など掃いて捨てる程あるのが中国だ。矢板氏は中国人大富豪の「寿命」は
10年単位で見るのが妥当だと言う。

「中国共産党の権力にくっついて利権を手にする大富豪は権力者が交替し
て新しい権力層が生まれるときが危機なのです。前任者の人脈や利権はこ
とごとく剥奪されるからです。それが種々の逮捕や自殺事件につながります」

どれ程頑張っても中国人の個人的栄華は10年が目途、20年はもたないとい
うのだ。マー氏は通貨の意味を変える程の大変化を巻き起こし、資本主義
経済の新たな波を中国に起こしたかに見える。しかし、共産党支配の論理
の下では、長続きさせてもらえない。

マー氏はビル・ゲイツ氏のように社会貢献に力を注ぎたいと発言した。果
たして習氏がそれを諒とするのか、まだわからない。少なくとも、このま
ま「盛大な成功」を続ければ、己の命運が尽きるとの自覚が退任予告につ
ながったと見てよいだろう。
『週刊ダイヤモンド』2018年9月29日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1248

2018年09月22日

◆全道停電は原子力規制委の知的怠惰が原因

櫻井よしこ


9月6日未明、北海道が最大震度7の地震に襲われた。9日現在で犠牲者は42
人、1人が行方不明だ。

地震の被害をさらに広げたのが、わが国初のブラックアウトの発生だ。電
力喪失でサーバーも工場のモーターも全て停止し、新千歳空港もJRも物
流も止まった。モーターで汲み上げる水道も止まった。

病院の生命維持装置、透析機器、保育器も動かない。病院などの非常用発
電機の燃料タンクは消防法で強度や素材が限定されており長時間は持たな
い。停電が長引けば命の危機に直結する。事実、非常に危険な事態が発生
していた。

6日午前5時頃、札幌市内の病院から、0歳女児の酸素吸入器が止まり、重
症に陥ったと消防署に連絡があった。札幌市は、女児は別の病院に運ばれ
処置中だと説明したが、9日現在、回復したとの明確な報道はないため、
赤ちゃんの健康が懸念される。

腎臓を患っている人たちは3日間透析できなければ深刻な影響を受ける。
停電は透析に必要な水と電気を奪い患者を命の危機に晒している。

こうした中、「北海道放送(HBC)」が7日19時27分に、「停電の影響
とみられる死者が出た」との情報を伝えた。「北海道文化放送
(UHB)」も同日21時45分に同様の情報を配信した。

それらによると「北海道東部の標津町に住む40代の会社員の男性と、上川
の上富良野町に住む70代の自営業の男性2人が、6日夜、ガソリン式の発電
機を使い、一酸化炭素中毒で死亡した」。男性2人の理不尽な死はまさし
く停電がもたらした。

電力喪失で危険に晒されるのは人間だけではない。北海道の基幹産業であ
る酪農においても同様だ。停電の解消は徐々に進んだが、その間に乳牛の
乳房炎防止のワクチンはほぼ全滅の可能性が高い。人間用も含めて多くの
ワクチンは、2度から8度の間で保管しなければ使えなくなるためだ。

菅直人政権とは違う

乳牛は、毎日、同じ時間に搾乳しなければ乳房が張り、痛みや熱が出て、
半数が1日で乳房炎になるといわれる。最悪の場合、そのまま廃用、つま
り殺処分にされる。ワクチン投与で乳房炎が治まったとしても、生乳の出
荷が禁止される休薬期間が1週間から10日間程度発生する。これだけでも
酪農家にとっては大変な被害だが、今回、乳房炎防止のワクチンがほぼ使
えなくなったということであり、被害の拡大が予想される。

停電によって社会全体のインフラが機能を停止し、トイレの蓋の開閉や水
洗のタイミングでさえも自動で行われる、高度な便利社会となった現代の
日本から、そうした機能を全て奪い取ってみせたブラックアウトが、どれ
程の真の被害をもたらしたかを見極めるには、今少し時間が必要だろう。

このような被害をもたらしている全道停電が起きた要因は、電力供給を一
か所の火力発電所に大きく依存していたからだ。北海道の電力は今回の震
源地近くに立地する苫東厚真(とまとうあつま)発電所が約半分を供給して
いた。165万キロワットの発電能力を持つ道内最大のこの石炭火力発電所
が地震で緊急停止したため、需給バランスが一挙に崩れて全道停電となっ
たのである。東京工業大学特任教授の奈良林直氏が語った。

「電力は常に需要と供給が同量でなければ周波数が安定しません。周波数
が乱れると発電機や電気を使用する機器が壊れる可能性があり、最悪の場
合は大規模な停電になります」

今回、苫東厚真の停止で、電力の供給が一気に落ちた。突然、バランスが
崩れ始め、北海道電力は連鎖的に発電所を停止せざるを得なかったわけ
だ。では火力発電所はなぜ停止したのか。再び奈良林氏の説明だ。

「実は火力発電所は構造的に地震に弱いのです。鋼鉄製の分厚い原子炉圧
力容器に燃料集合体が収納され、耐震補強を徹底的に施した原子力発電と
の違いです。火力発電では、ボイラーで生み出された熱を伝える伝熱管群
と呼ばれる管を、熱膨張を避けるために数十・の長さにわたって上部から
垂直に吊り下げます。この構造は今回のような直下型の縦揺れに弱く、苫
東厚真では1,2号機のボイラーの伝熱管が縦揺れで損傷し、高温高圧の蒸
気が吹き出しました。4号機はタービンで火災が発生し、火柱が上がりま
した。復旧は当初予定の1週間より長くかかるでしょう」

にも拘わらず、政府の対応は速かった。3.11のときの菅直人政権とは明ら
かに違う。苫東厚真の機能停止を受けて、その他の使える水力発電所、火
力発電所を直ちに再稼働させ、民間企業の発電量も組み込んで、驚く程の
スピードでほぼ全世帯に電気を通した。9日現在、節電を呼びかけなけれ
ばならない状況ではあるが、安倍政権の危機対応は高く評価すべきだろう。

原発を活用しないのか

しかし最も重要な点が置き去りにされている。何故、北海道の電力供給の
もう一本の柱となり得る泊原発を活用しないのか。泊原発の発電容量は
207万キロワットで苫東厚真発電所よりも大きい。今回の地震で泊原発は
一時外部電源を喪失したものの、非常用発電が正常に起動した。泊原発を
稼働させていれば、全道停電は起きていなかったと思われる。バランスが
取れていて安定した電力供給の一端を泊原発に担わせることを、少なくと
も議論すべきである。

泊原発の稼働が許されていない現状は、原子力規制委員会(以下規制委)
の専門家集団らしからぬ知的怠惰ゆえではないか。泊原発は2011年の3.11
のときも正常に稼働していたが、2012年5月5日、定期検査のため、運転を
停止した。

同年、民主党政権下で規制委が設置され、田中俊一氏が初代委員長に就任
した。規制委は3.11を受けて新たな規制基準を設け、新基準に基づく安全
審査を始めた。当初審査に必要な期間は「半年程度」とされた。

だが、彼らは次々に新しい審査項目を追加し、基準とすべき数値をなかな
か決められず、迷走を続けた。加えて、安全審査終了後に一般から意見を
聴くパブリックコメントを実施した。「読売新聞」は2014年2月22日付の
社説で「不合理な手続きを取り入れることで、結論がさらに先送りになり
かねない」と批判した。

規制委への評価が厳しいのは、原子力に関する国際社会の権威、国際原子
力機関(IAEA)も同様だ。IAEAは、16年4月23日、次のように日
本に言い渡している。

「(日本の)原子力規制委員会は、その人的資源、マネージメントシステ
ム、及び特にその組織文化において、初期段階にある」と。
 全否定に等しい手厳しい指摘を受けた規制委はいまも、相変わらず
だ。泊原発の敷地内の断層の有無を巡って神学論争をしており、これがあ
と2年は続くといわれている。

知的怠惰、無能力と無責任によって再稼働を引き延ばす彼らにこそ、先述
した2人の男性の命を奪った直接の責任があると、私は考えている。
『週刊新潮』 2018年9月20日号 日本ルネッサンス 第819回


2018年09月21日

◆全道停電は原子力規制委の知的怠惰が原因

櫻井よしこ


9月6日未明、北海道が最大震度7の地震に襲われた。9日現在で犠牲者は42
人、1人が行方不明だ。

地震の被害をさらに広げたのが、わが国初のブラックアウトの発生だ。電
力喪失でサーバーも工場のモーターも全て停止し、新千歳空港もJRも物
流も止まった。モーターで汲み上げる水道も止まった。病院の生命維持装
置、透析機器、保育器も動かない。病院などの非常用発電機の燃料タンク
は消防法で強度や素材が限定されており長時間は持たない。停電が長引け
ば命の危機に直結する。事実、非常に危険な事態が発生していた。

6日午前5時頃、札幌市内の病院から、0歳女児の酸素吸入器が止まり、重
症に陥ったと消防署に連絡があった。札幌市は、女児は別の病院に運ばれ
処置中だと説明したが、9日現在、回復したとの明確な報道はないため、
赤ちゃんの健康が懸念される。

腎臓を患っている人たちは3日間透析できなければ深刻な影響を受ける。
停電は透析に必要な水と電気を奪い患者を命の危機に晒している。

こうした中、「北海道放送(HBC)」が7日19時27分に、「停電の影響
とみられる死者が出た」との情報を伝えた。「北海道文化放送
(UHB)」も同日21時45分に同様の情報を配信した。

それらによると「北海道東部の標津町に住む40代の会社員の男性と、上川
の上富良野町に住む70代の自営業の男性2人が、6日夜、ガソリン式の発電
機を使い、一酸化炭素中毒で死亡した」。男性2人の理不尽な死はまさし
く停電がもたらした。

電力喪失で危険に晒されるのは人間だけではない。北海道の基幹産業であ
る酪農においても同様だ。停電の解消は徐々に進んだが、その間に乳牛の
乳房炎防止のワクチンはほぼ全滅の可能性が高い。人間用も含めて多くの
ワクチンは、2度から8度の間で保管しなければ使えなくなるためだ。

菅直人政権とは違う

乳牛は、毎日、同じ時間に搾乳しなければ乳房が張り、痛みや熱が出て、
半数が1日で乳房炎になるといわれる。最悪の場合、そのまま廃用、つま
り殺処分にされる。ワクチン投与で乳房炎が治まったとしても、生乳の出
荷が禁止される休薬期間が1週間から10日間程度発生する。これだけでも
酪農家にとっては大変な被害だが、今回、乳房炎防止のワクチンがほぼ使
えなくなったということであり、被害の拡大が予想される。

停電によって社会全体のインフラが機能を停止し、トイレの蓋の開閉や水
洗のタイミングでさえも自動で行われる、高度な便利社会となった現代の
日本から、そうした機能を全て奪い取ってみせたブラックアウトが、どれ
程の真の被害をもたらしたかを見極めるには、今少し時間が必要だろう。

このような被害をもたらしている全道停電が起きた要因は、電力供給を一
か所の火力発電所に大きく依存していたからだ。北海道の電力は今回の震
源地近くに立地する苫東厚真(とまとうあつま)発電所が約半分を供給して
いた。165万キロワットの発電能力を持つ道内最大のこの石炭火力発電所
が地震で緊急停止したため、需給バランスが一挙に崩れて全道停電となっ
たのである。東京工業大学特任教授の奈良林直氏が語った。

「電力は常に需要と供給が同量でなければ周波数が安定しません。周波数
が乱れると発電機や電気を使用する機器が壊れる可能性があり、最悪の場
合は大規模な停電になります」

今回、苫東厚真の停止で、電力の供給が一気に落ちた。突然、バランスが
崩れ始め、北海道電力は連鎖的に発電所を停止せざるを得なかったわけ
だ。では火力発電所はなぜ停止したのか。再び奈良林氏の説明だ。

「実は火力発電所は構造的に地震に弱いのです。鋼鉄製の分厚い原子炉圧
力容器に燃料集合体が収納され、耐震補強を徹底的に施した原子力発電と
の違いです。火力発電では、ボイラーで生み出された熱を伝える伝熱管群
と呼ばれる管を、熱膨張を避けるために数十・の長さにわたって上部から
垂直に吊り下げます。この構造は今回のような直下型の縦揺れに弱く、苫
東厚真では1,2号機のボイラーの伝熱管が縦揺れで損傷し、高温高圧の蒸
気が吹き出しました。4号機はタービンで火災が発生し、火柱が上がりま
した。復旧は当初予定の1週間より長くかかるでしょう」

にも拘わらず、政府の対応は速かった。3.11のときの菅直人政権とは明ら
かに違う。苫東厚真の機能停止を受けて、その他の使える水力発電所、火
力発電所を直ちに再稼働させ、民間企業の発電量も組み込んで、驚く程の
スピードでほぼ全世帯に電気を通した。9日現在、節電を呼びかけなけれ
ばならない状況ではあるが、安倍政権の危機対応は高く評価すべきだろう。

原発を活用しないのか

しかし最も重要な点が置き去りにされている。何故、北海道の電力供給の
もう一本の柱となり得る泊原発を活用しないのか。泊原発の発電容量は
207万キロワットで苫東厚真発電所よりも大きい。今回の地震で泊原発は
一時外部電源を喪失したものの、非常用発電が正常に起動した。泊原発を
稼働させていれば、全道停電は起きていなかったと思われる。バランスが
取れていて安定した電力供給の一端を泊原発に担わせることを、少なくと
も議論すべきである。

泊原発の稼働が許されていない現状は、原子力規制委員会(以下規制委)
の専門家集団らしからぬ知的怠惰ゆえではないか。泊原発は2011年の3.11
のときも正常に稼働していたが、2012年5月5日、定期検査のため、運転を
停止した。

同年、民主党政権下で規制委が設置され、田中俊一氏が初代委員長に就任
した。規制委は3.11を受けて新たな規制基準を設け、新基準に基づく安全
審査を始めた。当初審査に必要な期間は「半年程度」とされた。

だが、彼らは次々に新しい審査項目を追加し、基準とすべき数値をなかな
か決められず、迷走を続けた。加えて、安全審査終了後に一般から意見を
聴くパブリックコメントを実施した。「読売新聞」は2014年2月22日付の
社説で「不合理な手続きを取り入れることで、結論がさらに先送りになり
かねない」と批判した。

規制委への評価が厳しいのは、原子力に関する国際社会の権威、国際原子
力機関(IAEA)も同様だ。IAEAは、16年4月23日、次のように日
本に言い渡している。

「(日本の)原子力規制委員会は、その人的資源、マネージメントシステ
ム、及び特にその組織文化において、初期段階にある」と。
 全否定に等しい手厳しい指摘を受けた規制委はいまも、相変わらず
だ。泊原発の敷地内の断層の有無を巡って神学論争をしており、これがあ
と2年は続くといわれている。

知的怠惰、無能力と無責任によって再稼働を引き延ばす彼らにこそ、先述
した2人の男性の命を奪った直接の責任があると、私は考えている。
『週刊新潮』 2018年9月20日号 日本ルネッサンス 第819回

2018年09月19日

◆人権は軽視されるのか改善に向かうのか

櫻井よしこ



「人権は軽視されるのか改善に向かうのか 目が離せない中国共産党内
の権力闘争」



「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が、ノーベル平和賞受賞者で中国政
府に弾圧され、昨年7月に事実上獄死した劉暁波氏について『私たちは中
国が世界で一番幸せな国だと思っていた』(ビジネス社)で書いている。

文化大革命の最中、都会の「知識青年」たちは農民に学べと指示され農村
に下放された。毛沢東に心酔し紅衛兵として暴れまわった血気盛んな若者
たちを、毛は当初は利用し、後に体よく農村に追い払ったのだ。下放され
た約2000万人の中に劉氏、今や国家主席の習近平、首相の李克強、外相の
王毅の各氏らもいた。

毛の死で文革が終わり、知識青年は都市に戻り、大学への入学をようやく
許された。しかし戻るには下放された村の革命委員会主任である村長の許
可が要る。それには賄賂が必要だった。

劉氏も親戚中からおカネを掻き集めて200元もする高級時計を村長に贈っ
たというので、あの劉氏も賄賂を使ったのかと、私は意外の感に打たれ
た。ところが、許可をもらい、全ての荷物を馬車に積み込み、出発する段
になって、劉氏は村長の家に取って返し、斧を手に村長に迫った。

「あなたには3つの選択肢がある。1つ目はこの斧で私を殺す。2つ目は私
がこの斧であなたを殺す。3つ目は時計を返せ」(『世界で一番幸せ』)

感動した。この烈しさ、芯の強さ。劉氏のかもし出すおだやかな人物像と
はまた別の姿がある。長く産経新聞北京特派員として幾度も劉氏と語り
合ってきた矢板氏は語る。

「彼は非常に温厚な人間です。吉林省なまりが強くて喋りは巧くない。少
し発音が不自由なために言葉が出てこない。しかし、秘めた闘志を感じさ
せる落ち着いた人でした」

天安門事件後、厳しく弾圧され始めた一群の民主化リーダーの中で劉氏が
突出して人々の支持を得ている理由は、単に彼がノーベル平和賞を受けた
からではない。彼は決して中国から逃げ出さず、現場で闘ったからだ。

劉氏にも海外に逃避する機会は幾度もあった。中国当局はむしろ、劉氏を
海外に追い払いたいと考えた時期もあった。だが、劉氏は拒否し続けた。
矢板氏はあるときなぜ逃げないのか、尋ねたそうだ。

「子供たちが殺されたのに、ヒゲの生えたやつが生き残っているのは理不
尽だ」と、劉氏は答えたという。

天安門事件で拘束される前、彼は北京師範大学の人気者の教授だった。彼
の講義を聞くために他大学からも学生が集まった。学生たちに向かって彼
は中国の民主化を説き、感化された学生らは天安門でのデモに参加し、多
くが殺害された。そのことに責任を感じていたのだ。

長い獄中生活で癌を患う中、劉氏はそれまで拒絶していた海外行きを当局
に訴えるようになる。それはずっと自宅で軟禁されている妻の劉霞さんを
自由にするためだった。

暁波氏の死から約1年、今年の7月、劉霞さんは突如、出国を許されドイツ
に渡った。両親は亡くなっているが、弟の劉暉氏は北京にとどめられ逮捕
された。劉霞さんの出国で、人質にされたのはほぼ間違いない。

矢板氏は言う。

「いま、中国は米国との貿易戦争の真っ只中です。以前から人権問題に強
い関心を示していたドイツに譲歩し、関係を深めることで、対米関係を有
利に進めたいという思惑でしょう。加えて習主席の力が少し弱まり、李首
相の立場が少し強まっています。つまり、中国共産党の内部の権力争いが
劉霞さんへの出国許可の背景にあるのです」

習氏が勢力を盛り返せば、人権は軽視される。李氏が力を手にすれば、中
国の人権状況も少しは改善される。この意味からも中国共産党内の権力闘
争から目が離せない。
『週刊ダイヤモンド』 2018年9月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1246 

2018年09月18日

◆目が離せない中国共産党内の権力闘争 

櫻井よしこ


「人権は軽視されるのか改善に向かうのか 目が離せない中国共産党内の
権力闘争」

「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が、ノーベル平和賞受賞者で中国政
府に弾圧され、昨年7月に事実上獄死した劉暁波氏について『私たちは中
国が世界で一番幸せな国だと思っていた』(ビジネス社)で書いている。

文化大革命の最中、都会の「知識青年」たちは農民に学べと指示され農村
に下放された。毛沢東に心酔し紅衛兵として暴れまわった血気盛んな若者
たちを、毛は当初は利用し、後に体よく農村に追い払ったのだ。下放され
た約2000万人の中に劉氏、今や国家主席の習近平、首相の李克強、外相の
王毅の各氏らもいた。

毛の死で文革が終わり、知識青年は都市に戻り、大学への入学をようやく
許された。しかし戻るには下放された村の革命委員会主任である村長の許
可が要る。それには賄賂が必要だった。

劉氏も親戚中からおカネを掻き集めて200元もする高級時計を村長に贈っ
たというので、あの劉氏も賄賂を使ったのかと、私は意外の感に打たれ
た。ところが、許可をもらい、全ての荷物を馬車に積み込み、出発する段
になって、劉氏は村長の家に取って返し、斧を手に村長に迫った。

「あなたには3つの選択肢がある。1つ目はこの斧で私を殺す。2つ目は私
がこの斧であなたを殺す。3つ目は時計を返せ」(『世界で一番幸せ』)

感動した。この烈しさ、芯の強さ。劉氏のかもし出すおだやかな人物像と
はまた別の姿がある。長く産経新聞北京特派員として幾度も劉氏と語り
合ってきた矢板氏は語る。

「彼は非常に温厚な人間です。吉林省なまりが強くて喋りは巧くない。少
し発音が不自由なために言葉が出てこない。しかし、秘めた闘志を感じさ
せる落ち着いた人でした」

天安門事件後、厳しく弾圧され始めた一群の民主化リーダーの中で劉氏が
突出して人々の支持を得ている理由は、単に彼がノーベル平和賞を受けた
からではない。彼は決して中国から逃げ出さず、現場で闘ったからだ。

劉氏にも海外に逃避する機会は幾度もあった。中国当局はむしろ、劉氏を
海外に追い払いたいと考えた時期もあった。だが、劉氏は拒否し続けた。
矢板氏はあるときなぜ逃げないのか、尋ねたそうだ。

「子供たちが殺されたのに、ヒゲの生えたやつが生き残っているのは理不
尽だ」と、劉氏は答えたという。

天安門事件で拘束される前、彼は北京師範大学の人気者の教授だった。彼
の講義を聞くために他大学からも学生が集まった。学生たちに向かって彼
は中国の民主化を説き、感化された学生らは天安門でのデモに参加し、多
くが殺害された。そのことに責任を感じていたのだ。

長い獄中生活で癌を患う中、劉氏はそれまで拒絶していた海外行きを当局
に訴えるようになる。それはずっと自宅で軟禁されている妻の劉霞さんを
自由にするためだった。

暁波氏の死から約1年、今年の7月、劉霞さんは突如、出国を許されドイツ
に渡った。両親は亡くなっているが、弟の劉暉氏は北京にとどめられ逮捕
された。劉霞さんの出国で、人質にされたのはほぼ間違いない。

矢板氏は言う。

「いま、中国は米国との貿易戦争の真っ只中です。以前から人権問題に強
い関心を示していたドイツに譲歩し、関係を深めることで、対米関係を有
利に進めたいという思惑でしょう。加えて習主席の力が少し弱まり、李首
相の立場が少し強まっています。つまり、中国共産党の内部の権力争いが
劉霞さんへの出国許可の背景にあるのです」

習氏が勢力を盛り返せば、人権は軽視される。李氏が力を手にすれば、中
国の人権状況も少しは改善される。この意味からも中国共産党内の権力闘
争から目が離せない。
『週刊ダイヤモンド』 2018年9月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1246 

2018年09月17日

◆報ステは福島の風評被害を煽るのか

櫻井よしこ


8月30、31の2日間、福島第一原発(1F)から出るトリチウムを含んだ水
の処分について、福島県富岡町などで公聴会が開かれた。地元在住で、
NPO法人ハッピーロードネット理事長の西本由美子さんが心穏やかなら
ずといった風情で語った。

「マスコミ報道は今回も表面的で事態の混乱を煽り立てるだけでした。地
域の実情や地元の思いを知っているかのように報じる彼らに、何度も苦い
思いをしてきました。原発事故そのものよりも、マスコミが作り出し、い
まも煽り続けている風評に私たちは苦しみ続けています」

実は私は、8月30日のテレビ朝日「報道ステーション」(以下報ステ)の
トリチウム汚染水を巡る報道振りを見て、その一方的な内容に憤ってい
た。報ステは汚染水の処理問題を理解するのに必要な基本的情報を全く伝
えなかった。視聴者に、事柄の全体像の把握と最も重要な問題点の理解に
つながる情報を伝えずして、報道番組たり得るのか。

事の本質を切り出して見せることもなく、表面的な批判に終始するので
は、井戸端会議的なワイドショーと同じではないか。そんな無責任な報道
が、原発問題を乗り越え、地域を再活性化し生活を立て直そうとしている
地元の人達の努力を潰す。西本さんはそのことを「マスコミによる風評被
害」と喝破したのである。

その日、報ステは汚染水問題の公聴会と、高速増殖炉「もんじゅ」で始
まった核燃料取り出し作業を、ひとつの項目で報じた。以下は公聴会の部
分の要旨である。

まずスタジオで女子アナが、1Fの汚染水が「どんどん増え続けている」
「処理された水が入ったタンクは900基」「これを薄めて海に流す案につ
いて、公聴会が開かれた」というリードを読んで、VTRに入った。

トリチウムは事実上無害

冒頭、漁師の小野春雄氏のコメントが炸裂した。

「福島県の海に放出することだけは、絶対に、反対です」

ナレーションで、1Fに大量保管されているトリチウム水は現在100万dを
超えて増え続けており、保管場所の確保は難しく、薄めて海に流す案が検
討中であると伝え、「海洋投棄が経済的にも一番優れた方法だ」という研
究者の見解を紹介。その直後、小野氏がまたもや激しく感情的に、こう語
るのが紹介された。

「トリチウムを海洋放出して、それが安全で(あろうと)なかろうと、そ
れを放出した時点から、さらに風評被害を上乗せされます。賠償金をもら
いたくて賛成するなんて、絶対、そんなことありえません」

別の出席者と傍聴人の、「風評被害は拡大する。そういった海産物を口に
したくない」「いわきに避難中だが、そういうことをやられると、帰って
くるという認識がまた遠のく」という批判が続いて公聴会の報道はここで
一区切りとなった。

こうしてみると、報ステが全く触れていないのが、➀トリチウムを含む汚
染水を日本を含む全世界がどのように処理しているか、➁トリチウムは有
害か無害か、という点である。

➀について、1Fから排出される汚染水は多核種除去装置で62種類の危険な
放射性物質を取り除いてトリチウムだけにし、十分に希釈して海に放出す
る。これが国際社会の基準で、中国、韓国、ロシア、米国など、どの国も
その基準で海に放出中だ。過去現在を含めて日本も同様だ。例外が福島な
のである。

➁について、トリチウムは元々、自然界に存在する核種でわずかに放射線
を出すが、水と同じ性質であるため生体内で濃縮されず、十分に薄めれば
人体には全く無害だ。雲などの大気中の水分に、空から降ってくる宇宙線
が衝突して、トリチウムが生まれ、その中で私たちは暮らしているが、ト
リチウムが人体に外部被曝を起こすこともない。体内に入っても体外から
降り注いでも、トリチウムは事実上無害だ。

こうしたことを伝えない報ステの意図は一体何か。トリチウム水の真実か
ら視聴者の目を逸らし、世界の基準である海洋放出という解決策をつぶ
し、反原発運動に弾みをつけさせる試みではないかと疑いたくなる。

もうひとつ、報ステが知らん顔をしていたのが、賠償金欲しさに放出に賛
成することは絶対にないと断じた小野氏の言葉である。現在も続く福島の
混乱と、結果として復興を妨げている後ろ向きな言動は、賠償金問題と密
接に絡み合っている。

東京電力は3.11以降今年7月末までに約8兆3000億円という膨大な額の賠償
を実行済みだ。その多くが福島県に集中している。

メディアに対する警戒心

大災害によって生じる損失への補償に関して、国はその実施期間を、商工
業は2年、農業は3年、漁業は4年以内としている。東電は福島県内の避難
指示区域内等に対して、商工業は国の基準の倍の4年に、将来分としてさ
らに2年間、農業も国の基準の倍の6年に加えてさらに3年間支払い、漁業
については現時点で終期を定めることなく賠償を継続中である。

漁業者への補償は終わりがないのだ。漁業者は商工業者、農業者に較べて
手厚く補償されているといえる。だが事情はもう少しこみ入っており、地
元に行くと、漁業補償が二つの型に大別されていることに気づく。

➀現在も完全に休業している漁民に、3.11以前の漁獲高(収入)と見合う
額を全額賠償しているケース、➁すでに漁に出ているが、以前の漁獲高に
較べて売り上げが不足な場合、その差を賠償するケースである。

3.11から7年余が過ぎたいま、多くの漁師が➁のパターンに戻っていて欲し
いと思うのは当然だろう。元気に働くことによって困難を乗り越える力も
出てくるからだ。しかし、現在も➀のパターンにとどまっている人々がい
る。漁業協同組合は、➀群、➁群の双方を守りつつ、東電との交渉の窓口に
なっている。漁に出ないで補償で暮す生活を続けるケースも、こうした状
況の中で許容されてきた。賠償目当てではないとの主張は、漁業者への手
厚い補償が多くの人の目に明らかな事実として映っているだけに、現地で
さえも必ずしも全面的に支持されていない。こうした微妙な背景も含め
て、報ステは現場取材により公平に伝えるべきだろう。

西本さんは、トリチウム水の放出に反対する福島の本心はメディアに対す
る警戒心だと語る。海への放出をメディアが危険だと煽り、福島産魚介類
が買い控えられ、福島の漁業が再起不能になることを避けてほしいという
メッセージだと言うのだ。
「マスコミは正しく報道することで風評被害をなくしていく責任を果た
せ、という問題提起です。政治がそこから逃げているならば、政治に風評
をなくすよう対応しろと要求する。それがマスコミがすべき『権力との対
峙』なのではないですか」

さて、報ステはどう答えるか。

『週刊新潮』 2018年9月13日号 日本ルネッサンス 第817回

2018年09月16日

◆支離滅裂に映る細川元首相

櫻井よしこ


「支離滅裂に映る細川元首相のインタビュー 闇雲な政権批判はメディア
の真価にあらず」

雑誌「選択」があらぬ方向に迷走中だ。巻頭インタビューは控え目に言っ
て無意味である。明らかな誤報や歪曲報道も目立つ。

選択の誇りは日本の大戦略を示し、論ずることで言論界に重きをなすこと
だったのではないか。闇雲な政権批判が物言うメディアの真価だと考えて
いるとしたら、無責任な野党並みだ。

9月号の細川護煕元首相の巻頭インタビューはどう読んでも支離滅裂だっ
た。氏は安倍晋三首相は「無私の心がない」「指導者として最も重要な歴
史観を明確に語っていない」などとしたうえで、「地球温暖化防止の『パ
リ協定』に本気で取り組んでいるとは言い難い」とも批判した。

氏は自身の言動の意味を、全くわかっていない。小泉純一郎元首相と共に
氏自身が推進する原発ゼロ政策や再生可能エネルギーをベース電源にする
という主張自体が、日本をパリ協定から遠ざけていることに思いが至らない。

細川氏の「原発再稼働反対と自然エネルギーへの転換」宣言は、実は猛暑
に見舞われた今夏、日本各地で事実上、実現されていた。原発再稼働が進
まない中で、私たちは太陽光発電と火力発電でなんとか乗り切ったのだ。

だが、大きな代償も払っている。太陽光発電の出力は午後4時には半減
し、日没時にはゼロになる。急激な出力低下を他電源で瞬時に補わなけれ
ば大停電を引き起こす。原発が使えないいま、火力発電の登場となる。必
然的にCO2が大量に排出される。かくしてわが国はいま、1キロワット時
の電気を生み出すのに540グラムのCO2を発生させている。スウェーデン
は11グラム、フランスは46グラムだ。わが国は先進国の中の劣等生なのだ。

それでも火力電源で太陽光電源を補えたのは奇跡的だった。太陽光の出力
低下を瞬時に補うには、戦闘機の緊急発進のような緊張のオペレーション
が必要で、その神経をすりへらす操作を、たとえば九州電力では優秀な現
場職員が担った。結果、現場はヘトヘトで、九電は遂に太陽光電力の買い
取り制限を発表した。

将来に向けての再生可能エネルギーの研究開発は無論大事である。そのう
えで強調したいのは、いま日本がCO2排出量を大幅に増やしてパリ協定
に逆行している現象は、細川氏らの主張がもたらす結果でもあるのだ。

細川氏はまた、安倍首相が拉致問題解決を「自分の時代の成果」にした
がっていると論難したが、自己反省に欠ける同発言に、「選択」は全く斬
り込めていない。

20年以上拉致問題を取材した立場から、細川氏を含めて歴代首相の中で安
倍首相ほど拉致解決に向けて力を尽くし続けている政治家はいないと断言
できる。細川内閣の中枢を占めていた社会党系の閣僚や衆参議長は拉致問
題に背を向け、解決に向けての協力など一切しなかったではないか。

1988年、梶山答弁で北朝鮮が日本国民を拉致していると国会で明らかにさ
れたにも拘わらず、細川氏も関心を示したことなどなかったではないか。

自身の責任は棚に上げて安倍首相を非難する細川氏に、その矛盾を質しさ
えしない「選択」の姿勢は一体、何なのだ。同じ9月号の99ページには横
田滋氏を病院に見舞った首相への批判記事がある。滋氏の容態悪化で、横
田家は首相の見舞いを「断りたかった」が「仕方なく受け入れた」と書い
ている。取材に妻の早紀江さんが語った。

「ご多忙の中、総理は主人の手を握って、政府も頑張っていますから、
待っていて下さいと励まして下さった。主人は笑顔を見せました。総理の
お見舞いを仕方なく受け入れたとか嫌がったなど、絶対にありません。私
も拓也も哲也も本当に総理には感謝していると、雑誌の方にはっきりとお
伝え下さい」

ニュースの判断基準を単なる反権力、反安倍の地平に置いては漂流する。
「選択」の存在価値の全否定ではないか。
『週刊ダイヤモンド』 2018年9月15日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1247

2018年09月15日

◆報ステは福島の風評被害を煽るのか

櫻井よしこ


8月30、31の2日間、福島第一原発(1F)から出るトリチウムを含んだ水
の処分について、福島県富岡町などで公聴会が開かれた。地元在住で、
NPO法人ハッピーロードネット理事長の西本由美子さんが心穏やかなら
ずといった風情で語った。

「マスコミ報道は今回も表面的で事態の混乱を煽り立てるだけでした。地
域の実情や地元の思いを知っているかのように報じる彼らに、何度も苦い
思いをしてきました。原発事故そのものよりも、マスコミが作り出し、い
まも煽り続けている風評に私たちは苦しみ続けています」

実は私は、8月30日のテレビ朝日「報道ステーション」(以下報ステ)の
トリチウム汚染水を巡る報道振りを見て、その一方的な内容に憤ってい
た。報ステは汚染水の処理問題を理解するのに必要な基本的情報を全く伝
えなかった。視聴者に、事柄の全体像の把握と最も重要な問題点の理解に
つながる情報を伝えずして、報道番組たり得るのか。

事の本質を切り出して見せることもなく、表面的な批判に終始するので
は、井戸端会議的なワイドショーと同じではないか。そんな無責任な報道
が、原発問題を乗り越え、地域を再活性化し生活を立て直そうとしている
地元の人達の努力を潰す。西本さんはそのことを「マスコミによる風評被
害」と喝破したのである。

その日、報ステは汚染水問題の公聴会と、高速増殖炉「もんじゅ」で始
まった核燃料取り出し作業を、ひとつの項目で報じた。以下は公聴会の部
分の要旨である。

まずスタジオで女子アナが、1Fの汚染水が「どんどん増え続けている」
「処理された水が入ったタンクは900基」「これを薄めて海に流す案につ
いて、公聴会が開かれた」というリードを読んで、VTRに入った。

トリチウムは事実上無害

冒頭、漁師の小野春雄氏のコメントが炸裂した。

「福島県の海に放出することだけは、絶対に、反対です」

ナレーションで、1Fに大量保管されているトリチウム水は現在100万dを
超えて増え続けており、保管場所の確保は難しく、薄めて海に流す案が検
討中であると伝え、「海洋投棄が経済的にも一番優れた方法だ」という研
究者の見解を紹介。その直後、小野氏がまたもや激しく感情的に、こう語
るのが紹介された。

「トリチウムを海洋放出して、それが安全で(あろうと)なかろうと、そ
れを放出した時点から、さらに風評被害を上乗せされます。賠償金をもら
いたくて賛成するなんて、絶対、そんなことありえません」

別の出席者と傍聴人の、「風評被害は拡大する。そういった海産物を口に
したくない」「いわきに避難中だが、そういうことをやられると、帰って
くるという認識がまた遠のく」という批判が続いて公聴会の報道はここで
一区切りとなった。

こうしてみると、報ステが全く触れていないのが、➀トリチウムを含む汚
染水を日本を含む全世界がどのように処理しているか、➁トリチウムは有
害か無害か、という点である。

➀について、1Fから排出される汚染水は多核種除去装置で62種類の危険な
放射性物質を取り除いてトリチウムだけにし、十分に希釈して海に放出す
る。これが国際社会の基準で、中国、韓国、ロシア、米国など、どの国も
その基準で海に放出中だ。過去現在を含めて日本も同様だ。例外が福島な
のである。

➁について、トリチウムは元々、自然界に存在する核種でわずかに放射線
を出すが、水と同じ性質であるため生体内で濃縮されず、十分に薄めれば
人体には全く無害だ。雲などの大気中の水分に、空から降ってくる宇宙線
が衝突して、トリチウムが生まれ、その中で私たちは暮らしているが、ト
リチウムが人体に外部被曝を起こすこともない。体内に入っても体外から
降り注いでも、トリチウムは事実上無害だ。

こうしたことを伝えない報ステの意図は一体何か。トリチウム水の真実か
ら視聴者の目を逸らし、世界の基準である海洋放出という解決策をつぶ
し、反原発運動に弾みをつけさせる試みではないかと疑いたくなる。

もうひとつ、報ステが知らん顔をしていたのが、賠償金欲しさに放出に賛
成することは絶対にないと断じた小野氏の言葉である。現在も続く福島の
混乱と、結果として復興を妨げている後ろ向きな言動は、賠償金問題と密
接に絡み合っている。

東京電力は3.11以降今年7月末までに約8兆3000億円という膨大な額の賠償
を実行済みだ。その多くが福島県に集中している。

メディアに対する警戒心

大災害によって生じる損失への補償に関して、国はその実施期間を、商工
業は2年、農業は3年、漁業は4年以内としている。東電は福島県内の避難
指示区域内等に対して、商工業は国の基準の倍の4年に、将来分としてさ
らに2年間、農業も国の基準の倍の6年に加えてさらに3年間支払い、漁業
については現時点で終期を定めることなく賠償を継続中である。

漁業者への補償は終わりがないのだ。漁業者は商工業者、農業者に較べて
手厚く補償されているといえる。だが事情はもう少しこみ入っており、地
元に行くと、漁業補償が二つの型に大別されていることに気づく。

➀現在も完全に休業している漁民に、3.11以前の漁獲高(収入)と見合う
額を全額賠償しているケース、➁すでに漁に出ているが、以前の漁獲高に
較べて売り上げが不足な場合、その差を賠償するケースである。

3.11から7年余が過ぎたいま、多くの漁師が➁のパターンに戻っていて欲し
いと思うのは当然だろう。元気に働くことによって困難を乗り越える力も
出てくるからだ。しかし、現在も➀のパターンにとどまっている人々がい
る。漁業協同組合は、➀群、➁群の双方を守りつつ、東電との交渉の窓口に
なっている。漁に出ないで補償で暮す生活を続けるケースも、こうした状
況の中で許容されてきた。賠償目当てではないとの主張は、漁業者への手
厚い補償が多くの人の目に明らかな事実として映っているだけに、現地で
さえも必ずしも全面的に支持されていない。こうした微妙な背景も含め
て、報ステは現場取材により公平に伝えるべきだろう。

西本さんは、トリチウム水の放出に反対する福島の本心はメディアに対す
る警戒心だと語る。海への放出をメディアが危険だと煽り、福島産魚介類
が買い控えられ、福島の漁業が再起不能になることを避けてほしいという
メッセージだと言うのだ。
「マスコミは正しく報道することで風評被害をなくしていく責任を果た
せ、という問題提起です。政治がそこから逃げているならば、政治に風評
をなくすよう対応しろと要求する。それがマスコミがすべき『権力との対
峙』なのではないですか」

さて、報ステはどう答えるか。

『週刊新潮』 2018年9月13日号 日本ルネッサンス 第817回

2018年09月14日

◆目が離せない中国共産党内の権力闘争

櫻井 よしこ



「人権は軽視されるのか改善に向かうのか 目が離せない中国共産党内の
権力闘争」


「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が、ノーベル平和賞受賞者で中国政
府に弾圧され、昨年7月に事実上獄死した劉暁波氏について『私たちは中
国が世界で一番幸せな国だと思っていた』(ビジネス社)で書いている。

文化大革命の最中、都会の「知識青年」たちは農民に学べと指示され農村
に下放された。毛沢東に心酔し紅衛兵として暴れまわった血気盛んな若者
たちを、毛は当初は利用し、後に体よく農村に追い払ったのだ。下放され
た約2000万人の中に劉氏、今や国家主席の習近平、首相の李克強、外相の
王毅の各氏らもいた。

毛の死で文革が終わり、知識青年は都市に戻り、大学への入学をようやく
許された。しかし戻るには下放された村の革命委員会主任である村長の許
可が要る。それには賄賂が必要だった。

劉氏も親戚中からおカネを掻き集めて200元もする高級時計を村長に贈っ
たというので、あの劉氏も賄賂を使ったのかと、私は意外の感に打たれ
た。ところが、許可をもらい、全ての荷物を馬車に積み込み、出発する段
になって、劉氏は村長の家に取って返し、斧を手に村長に迫った。

「あなたには3つの選択肢がある。1つ目はこの斧で私を殺す。2つ目は私
がこの斧であなたを殺す。3つ目は時計を返せ」(『世界で一番幸せ』)

感動した。この烈しさ、芯の強さ。劉氏のかもし出すおだやかな人物像と
はまた別の姿がある。長く産経新聞北京特派員として幾度も劉氏と語り
合ってきた矢板氏は語る。

「彼は非常に温厚な人間です。吉林省なまりが強くて喋りは巧くない。少
し発音が不自由なために言葉が出てこない。しかし、秘めた闘志を感じさ
せる落ち着いた人でした」

天安門事件後、厳しく弾圧され始めた一群の民主化リーダーの中で劉氏が
突出して人々の支持を得ている理由は、単に彼がノーベル平和賞を受けた
からではない。彼は決して中国から逃げ出さず、現場で闘ったからだ。

劉氏にも海外に逃避する機会は幾度もあった。中国当局はむしろ、劉氏を
海外に追い払いたいと考えた時期もあった。だが、劉氏は拒否し続けた。
矢板氏はあるときなぜ逃げないのか、尋ねたそうだ。

「子供たちが殺されたのに、ヒゲの生えたやつが生き残っているのは理不
尽だ」と、劉氏は答えたという。

天安門事件で拘束される前、彼は北京師範大学の人気者の教授だった。彼
の講義を聞くために他大学からも学生が集まった。学生たちに向かって彼
は中国の民主化を説き、感化された学生らは天安門でのデモに参加し、多
くが殺害された。そのことに責任を感じていたのだ。

長い獄中生活で癌を患う中、劉氏はそれまで拒絶していた海外行きを当局
に訴えるようになる。それはずっと自宅で軟禁されている妻の劉霞さんを
自由にするためだった。

暁波氏の死から約1年、今年の7月、劉霞さんは突如、出国を許されドイツ
に渡った。両親は亡くなっているが、弟の劉暉氏は北京にとどめられ逮捕
された。劉霞さんの出国で、人質にされたのはほぼ間違いない。

矢板氏は言う。

「いま、中国は米国との貿易戦争の真っ只中です。以前から人権問題に強
い関心を示していたドイツに譲歩し、関係を深めることで、対米関係を有
利に進めたいという思惑でしょう。加えて習主席の力が少し弱まり、李首
相の立場が少し強まっています。つまり、中国共産党の内部の権力争いが
劉霞さんへの出国許可の背景にあるのです」

習氏が勢力を盛り返せば、人権は軽視される。李氏が力を手にすれば、中
国の人権状況も少しは改善される。この意味からも中国共産党内の権力闘
争から目が離せない。

 『週刊ダイヤモンド』 2018年9月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1246
             

2018年09月13日

◆人権は軽視されるのか改善に向かうのか

櫻井よしこ


「人権は軽視されるのか改善に向かうのか 目が離せない中国共産党内の
権力闘争」

「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が、ノーベル平和賞受賞者で中国政
府に弾圧され、昨年7月に事実上獄死した劉暁波氏について『私たちは中
国が世界で一番幸せな国だと思っていた』(ビジネス社)で書いている。

文化大革命の最中、都会の「知識青年」たちは農民に学べと指示され農村
に下放された。毛沢東に心酔し紅衛兵として暴れまわった血気盛んな若者
たちを、毛は当初は利用し、後に体よく農村に追い払ったのだ。下放され
た約2000万人の中に劉氏、今や国家主席の習近平、首相の李克強、外相の
王毅の各氏らもいた。

毛の死で文革が終わり、知識青年は都市に戻り、大学への入学をようやく
許された。しかし戻るには下放された村の革命委員会主任である村長の許
可が要る。それには賄賂が必要だった。

劉氏も親戚中からおカネを掻き集めて200元もする高級時計を村長に贈っ
たというので、あの劉氏も賄賂を使ったのかと、私は意外の感に打たれ
た。ところが、許可をもらい、全ての荷物を馬車に積み込み、出発する段
になって、劉氏は村長の家に取って返し、斧を手に村長に迫った。

「あなたには3つの選択肢がある。1つ目はこの斧で私を殺す。2つ目は私
がこの斧であなたを殺す。3つ目は時計を返せ」(『世界で一番幸せ』)

感動した。この烈しさ、芯の強さ。劉氏のかもし出すおだやかな人物像と
はまた別の姿がある。長く産経新聞北京特派員として幾度も劉氏と語り
合ってきた矢板氏は語る。

「彼は非常に温厚な人間です。吉林省なまりが強くて喋りは巧くない。少
し発音が不自由なために言葉が出てこない。しかし、秘めた闘志を感じさ
せる落ち着いた人でした」

天安門事件後、厳しく弾圧され始めた一群の民主化リーダーの中で劉氏が
突出して人々の支持を得ている理由は、単に彼がノーベル平和賞を受けた
からではない。彼は決して中国から逃げ出さず、現場で闘ったからだ。

劉氏にも海外に逃避する機会は幾度もあった。中国当局はむしろ、劉氏を
海外に追い払いたいと考えた時期もあった。だが、劉氏は拒否し続けた。
矢板氏はあるときなぜ逃げないのか、尋ねたそうだ。

「子供たちが殺されたのに、ヒゲの生えたやつが生き残っているのは理不
尽だ」と、劉氏は答えたという。

天安門事件で拘束される前、彼は北京師範大学の人気者の教授だった。彼
の講義を聞くために他大学からも学生が集まった。学生たちに向かって彼
は中国の民主化を説き、感化された学生らは天安門でのデモに参加し、多
くが殺害された。そのことに責任を感じていたのだ。

長い獄中生活で癌を患う中、劉氏はそれまで拒絶していた海外行きを当局
に訴えるようになる。それはずっと自宅で軟禁されている妻の劉霞さんを
自由にするためだった。

暁波氏の死から約1年、今年の7月、劉霞さんは突如、出国を許されドイツ
に渡った。両親は亡くなっているが、弟の劉暉氏は北京にとどめられ逮捕
された。劉霞さんの出国で、人質にされたのはほぼ間違いない。

矢板氏は言う。

「いま、中国は米国との貿易戦争の真っ只中です。以前から人権問題に強
い関心を示していたドイツに譲歩し、関係を深めることで、対米関係を有
利に進めたいという思惑でしょう。加えて習主席の力が少し弱まり、李首
相の立場が少し強まっています。つまり、中国共産党の内部の権力争いが
劉霞さんへの出国許可の背景にあるのです」

習氏が勢力を盛り返せば、人権は軽視される。李氏が力を手にすれば、中
国の人権状況も少しは改善される。この意味からも中国共産党内の権力闘
争から目が離せない。

『週刊ダイヤモンド』 2018年9月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1246 

2018年09月11日

◆目が離せない中国共産党内の権力闘争

櫻井よしこ



「人権は軽視されるのか改善に向かうのか 目が離せない中国共産党内
の権力闘争」

「産経新聞」外信部次長の矢板明夫氏が、ノーベル平和賞受賞者で中国政
府に弾圧され、昨年7月に事実上獄死した劉暁波氏について『私たちは中
国が世界で一番幸せな国だと思っていた』(ビジネス社)で書いている。

文化大革命の最中、都会の「知識青年」たちは農民に学べと指示され農村
に下放された。毛沢東に心酔し紅衛兵として暴れまわった血気盛んな若者
たちを、毛は当初は利用し、後に体よく農村に追い払ったのだ。下放され
た約2000万人の中に劉氏、今や国家主席の習近平、首相の李克強、外相の
王毅の各氏らもいた。

毛の死で文革が終わり、知識青年は都市に戻り、大学への入学をようやく
許された。しかし戻るには下放された村の革命委員会主任である村長の許
可が要る。それには賄賂が必要だった。

劉氏も親戚中からおカネを掻き集めて200元もする高級時計を村長に贈っ
たというので、あの劉氏も賄賂を使ったのかと、私は意外の感に打たれ
た。ところが、許可をもらい、全ての荷物を馬車に積み込み、出発する段
になって、劉氏は村長の家に取って返し、斧を手に村長に迫った。

「あなたには3つの選択肢がある。1つ目はこの斧で私を殺す。2つ目は私
がこの斧であなたを殺す。3つ目は時計を返せ」(『世界で一番幸せ』)

感動した。この烈しさ、芯の強さ。劉氏のかもし出すおだやかな人物像と
はまた別の姿がある。長く産経新聞北京特派員として幾度も劉氏と語り
合ってきた矢板氏は語る。

「彼は非常に温厚な人間です。吉林省なまりが強くて喋りは巧くない。少
し発音が不自由なために言葉が出てこない。しかし、秘めた闘志を感じさ
せる落ち着いた人でした」

天安門事件後、厳しく弾圧され始めた一群の民主化リーダーの中で劉氏が
突出して人々の支持を得ている理由は、単に彼がノーベル平和賞を受けた
からではない。彼は決して中国から逃げ出さず、現場で闘ったからだ。

劉氏にも海外に逃避する機会は幾度もあった。中国当局はむしろ、劉氏を
海外に追い払いたいと考えた時期もあった。だが、劉氏は拒否し続けた。
矢板氏はあるときなぜ逃げないのか、尋ねたそうだ。

「子供たちが殺されたのに、ヒゲの生えたやつが生き残っているのは理不
尽だ」と、劉氏は答えたという。

天安門事件で拘束される前、彼は北京師範大学の人気者の教授だった。彼
の講義を聞くために他大学からも学生が集まった。学生たちに向かって彼
は中国の民主化を説き、感化された学生らは天安門でのデモに参加し、多
くが殺害された。そのことに責任を感じていたのだ。

長い獄中生活で癌を患う中、劉氏はそれまで拒絶していた海外行きを当局
に訴えるようになる。それはずっと自宅で軟禁されている妻の劉霞さんを
自由にするためだった。

暁波氏の死から約1年、今年の7月、劉霞さんは突如、出国を許されドイツ
に渡った。両親は亡くなっているが、弟の劉暉氏は北京にとどめられ逮捕
された。劉霞さんの出国で、人質にされたのはほぼ間違いない。

矢板氏は言う。

「いま、中国は米国との貿易戦争の真っ只中です。以前から人権問題に強
い関心を示していたドイツに譲歩し、関係を深めることで、対米関係を有
利に進めたいという思惑でしょう。加えて習主席の力が少し弱まり、李首
相の立場が少し強まっています。つまり、中国共産党の内部の権力争いが
劉霞さんへの出国許可の背景にあるのです」

習氏が勢力を盛り返せば、人権は軽視される。李氏が力を手にすれば、中
国の人権状況も少しは改善される。この意味からも中国共産党内の権力闘
争から目が離せない。

『週刊ダイヤモンド』 2018年9月8日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1246