2019年06月07日

◆北方領土奪還のときは必ず来る

櫻井よしこ


ビザなし交流で北方領土を訪れた衆議院議員、丸山穂高氏の言動は論外だ
が、総じて北方領土の現状についての国会議員、とりわけ野党議員の認識
の貧しさには驚くばかりだ。

ビザなし交流は平成4(1992)年に始まった。日露双方が年間600人を上限
に参加できる。日本からの訪問者は元島民の皆さんと親族、返還運動関係
者、報道関係者、国会議員などである。

議員は各党から選ばれるが、自民党のように大きな政党の議員は仲々順番
が回ってこない。あくまでも一般論ではあるが、自民党議員は北方領土訪
問団の一員に選ばれるまでに部会などの勉強会でそれなりの勉強をする
と、東海大学教授の山田吉彦氏は指摘する。

自身、ビザなし交流を体験した山田氏は、小政党の野党は所属する国会議
員の数が少ない分、比較的早く順番が回ってくるため、北方領土の歴史
も、ビザなし交流の意味も十分に学ぶことなく訪問するケースがあるとも
指摘する。

北方領土で問題を起こし、ロシア側の取り締まりを受ければ、日本人がロ
シアの主権下に置かれる。これは、北方領土は日本固有の領土でロシアが
不法占拠しているという年来の日本の主張とは相容れない事態である。

罷り間違ってもそんな事態に陥らないように、北方領土訪問団には夜間の
外出禁止などのルールが課せられてきた。不法に奪われた国土、略奪にま
つわる悲劇や口惜しさ、領土や国の在り方などについて思い巡らすのが北
方領土で過ごす夜の時間の使い方であろうに、飲酒して醜態を晒す程愚か
しいことはない。

戦後70年が過ぎても北方領土返還の兆しは見えない。その第一の理由は、
ロシアがロシアであるということだ。沖縄を返還したアメリカとは違う国
が私たちの相手なのだ。そこでロシアの現実を見てみよう。

失った領土へのこだわり

領土問題はナショナリズムに直結する。大国だったソビエト連邦が崩壊
し、多くの領土を失う形で現在のロシアが生まれた。大国の座から滑り落
ちた恨みは深く、失った領土へのこだわりは強い。だからこそ、クリミア
半島を奪ったプーチン大統領の支持率は86.2%に跳ね上がった。

それが今年4月段階では64%である。経済が振るわず、昨年10月、プーチ
ン氏は年金受給年齢を大幅に引き上げた。今年1月からは付加価値税(消
費税)を20%に引き上げた。それでも国家財政は苦しい。プーチン氏は、
➀原油価格の下落及び低迷、➁通貨ルーブル安、➂クリミア半島を奪ったこ
とに対する先進7か国による経済制裁の「三重苦」(木村汎氏)に呪縛さ
れたままだ。経済改善も、支持率上昇も期待できない中で、ナショナリズ
ムに火をつける領土返還には踏み切れないだろう。

経済不振とは対照的に、プーチン氏は軍事力増強に努めてきた。氏にとっ
て、軍事力において優位性を保ちそれを見せつけることは、祖国への誇り
や自信を確認できる数少ない機会のひとつなのではないか。軍事的視点で
北方領土を考えれば、日本への返還の遠さが浮かび上がる。

安倍晋三首相とプーチン大統領の首脳会談が重ねられる中、歯舞諸島と色
丹島の二島返還の可能性が論じられた。二島は北方領土全面積のわずか
7%だ。

色丹島には1000人規模の国境警備庁要員が常駐し、高速警備艇9隻が日本
海の入り口につながる北方海域の警備を担当している。同島島民の約3分
の1が国境警備関係者で、色丹島に投下される公共資本は病院や体育館な
ど国境警備隊にとって利用価値の高いものが多い。また同島の北半分は人
間の立ち入りが禁止される自然保護区である。

色丹島は国境警備のための島なのだ。国境警備庁と軍の関係者しか住んで
いない歯舞諸島も同様であろう。北海道から目視できる程近いこの二つの
小島に、ロシアが軍や国境警備の兵を手厚く配備しているのは日本海から
オホーツク海、さらには北西太平洋、北極海へと広がる海洋の覇権争いと
密接に関係しているはずだ。

中朝関係は必ずしも順調ではないが、中国の北朝鮮への影響力が強化され
ているのは確かである。朝鮮半島及び日本海における中国の勢力膨張は、
年毎に新しい段階に進んでいると言ってもよいだろう。

中国は2005年に北朝鮮の日本海側最北の港、羅津を50年間の契約で租借し
た。羅津から中朝国境に至る約60キロの幹線道路を作り、これも租借し
た。彼らは史上初めて、自国から日本海に直接出入りする道路と港を手に
入れたのだ。

12年には北朝鮮三大都市のひとつで、北朝鮮全域につながる物流拠点であ
る清津港に30年間にわたる使用権を確立した。

国防の視点

世界最大規模の埋蔵鉱物資源を誇る北朝鮮の複数の鉱山に、50年単位の独
占開発権を設定した中国は、南北朝鮮が不安定になればなったで、朝鮮半
島全体により強い影響力を及ぼす。国際港である釜山の活用は益々進むで
あろうし、済州島は、沖縄同様、中国資本に買収され続けている。朝鮮半
島全体が中国に包み込まれつつある。

現在、日本海には、日米韓露の潜水艦が潜航しているが、中国は入れてい
ない。しかし、中朝、中韓関係の深まりによって、中国も日本海潜入の機
会を窺うときが必ず来るだろう。これをロシアはどう見るか。

彼らは13年段階で中国に対抗して、羅津港にロシア専用の埠頭を確保し
た。加えて港とロシア極東の町、ハサンを結ぶ鉄道まで完成させた。

中国を警戒するロシアが、日本海・オホーツク海を監視する拠点である北
方領土を手放すことはないと考えるのが合理的だろう。日本に返還すれば
日米安保条約の下で、米国の軍事基地が出現する可能性を考えるのは当然
だ。日本海、オホーツク海或いは太平洋から北極海航路へとつながるシー
レーン構想の中で、ロシアが北方領土の戦略的重要性を認識するのは当然
だ。経済のみならず国防の視点で考えれば、領土返還は難しいと言わざる
を得ない。

では日本ができることは何か。丸山氏の暴言のような「戦争」でないのは
言うまでもない。

外交感覚を研ぎ澄まし、世界情勢をよく読み機会を待つことではないだろ
うか。ソビエト連邦崩壊の好機をとらえたのが西ドイツだった。ベルリン
の壁の崩壊と世界史の大転換を巧みにとらえ、ドイツ統一を果たした。

あのとき、好機は日本にも与えられていた。しかしわが国の外交官は全
く、その好機を掴めなかった。だが、必ず、チャンスはまた巡ってくる。
情勢の大変化でロシアが困窮に至るときである。

それまでじっと私たちは見詰め続け、好機を窺い続けることだ。国家とし
て長い闘いを勝ち抜く気力と気迫を持続することだ。

『週刊新潮』 2019年6月6日号 日本ルネッサンス 第854回

2019年06月06日

◆北方領土奪還のときは必ず来る

櫻井よしこ


ビザなし交流で北方領土を訪れた衆議院議員、丸山穂高氏の言動は論外だ
が、総じて北方領土の現状についての国会議員、とりわけ野党議員の認識
の貧しさには驚くばかりだ。

ビザなし交流は平成4(1992)年に始まった。日露双方が年間600人を上限
に参加できる。日本からの訪問者は元島民の皆さんと親族、返還運動関係
者、報道関係者、国会議員などである。

議員は各党から選ばれるが、自民党のように大きな政党の議員は中々順番
が回ってこない。あくまでも一般論ではあるが、自民党議員は北方領土訪
問団の一員に選ばれるまでに部会などの勉強会でそれなりの勉強をする
と、東海大学教授の山田吉彦氏は指摘する。

自身、ビザなし交流を体験した山田氏は、小政党の野党は所属する国会議
員の数が少ない分、比較的早く順番が回ってくるため、北方領土の歴史
も、ビザなし交流の意味も十分に学ぶことなく訪問するケースがあるとも
指摘する。

北方領土で問題を起こし、ロシア側の取り締まりを受ければ、日本人がロ
シアの主権下に置かれる。これは、北方領土は日本固有の領土でロシアが
不法占拠しているという年来の日本の主張とは相容れない事態である。罷
り間違ってもそんな事態に陥らないように、北方領土訪問団には夜間の外
出禁止などのルールが課せられてきた。不法に奪われた国土、略奪にまつ
わる悲劇や口惜しさ、領土や国の在り方などについて思い巡らすのが北方
領土で過ごす夜の時間の使い方であろうに、飲酒して醜態を晒す程愚かし
いことはない。

戦後70年が過ぎても北方領土返還の兆しは見えない。その第一の理由は、
ロシアがロシアであるということだ。沖縄を返還したアメリカとは違う国
が私たちの相手なのだ。そこでロシアの現実を見てみよう。

失った領土へのこだわり

領土問題はナショナリズムに直結する。大国だったソビエト連邦が崩壊
し、多くの領土を失う形で現在のロシアが生まれた。大国の座から滑り落
ちた恨みは深く、失った領土へのこだわりは強い。だからこそ、クリミア
半島を奪ったプーチン大統領の支持率は86.2%に跳ね上がった。

それが今年4月段階では64%である。経済が振るわず、昨年10月、プーチ
ン氏は年金受給年齢を大幅に引き上げた。今年1月からは付加価値税(消
費税)を20%に引き上げた。それでも国家財政は苦しい。プーチン氏は、
➀原油価格の下落及び低迷、➁通貨ルーブル安、➂クリミア半島を奪ったこ
とに対する先進7か国による経済制裁の「三重苦」(木村汎氏)に呪縛さ
れたままだ。経済改善も、支持率上昇も期待できない中で、ナショナリズ
ムに火をつける領土返還には踏み切れないだろう。

経済不振とは対照的に、プーチン氏は軍事力増強に努めてきた。氏にとっ
て、軍事力において優位性を保ちそれを見せつけることは、祖国への誇り
や自信を確認できる数少ない機会のひとつなのではないか。軍事的視点で
北方領土を考えれば、日本への返還の遠さが浮かび上がる。

安倍晋三首相とプーチン大統領の首脳会談が重ねられる中、歯舞諸島と色
丹島の二島返還の可能性が論じられた。二島は北方領土全面積のわずか
7%だ。

色丹島には1000人規模の国境警備庁要員が常駐し、高速警備艇9隻が日本
海の入り口につながる北方海域の警備を担当している。同島島民の約3分
の1が国境警備関係者で、色丹島に投下される公共資本は病院や体育館な
ど国境警備隊にとって利用価値の高いものが多い。また同島の北半分は人
間の立ち入りが禁止される自然保護区である。

色丹島は国境警備のための島なのだ。国境警備庁と軍の関係者しか住んで
いない歯舞諸島も同様であろう。北海道から目視できる程近いこの二つの
小島に、ロシアが軍や国境警備の兵を手厚く配備しているのは日本海から
オホーツク海、さらには北西太平洋、北極海へと広がる海洋の覇権争いと
密接に関係しているはずだ。

中朝関係は必ずしも順調ではないが、中国の北朝鮮への影響力が強化され
ているのは確かである。朝鮮半島及び日本海における中国の勢力膨張は、
年毎に新しい段階に進んでいると言ってもよいだろう。

中国は2005年に北朝鮮の日本海側最北の港、羅津を50年間の契約で租借し
た。羅津から中朝国境に至る約60キロの幹線道路を作り、これも租借し
た。彼らは史上初めて、自国から日本海に直接出入りする道路と港を手に
入れたのだ。

12年には北朝鮮三大都市のひとつで、北朝鮮全域につながる物流拠点であ
る清津港に30年間にわたる使用権を確立した。

国防の視点

世界最大規模の埋蔵鉱物資源を誇る北朝鮮の複数の鉱山に、50年単位の独
占開発権を設定した中国は、南北朝鮮が不安定になればなったで、朝鮮半
島全体により強い影響力を及ぼす。国際港である釜山の活用は益々進むで
あろうし、済州島は、沖縄同様、中国資本に買収され続けている。朝鮮半
島全体が中国に包み込まれつつある。

現在、日本海には、日米韓露の潜水艦が潜航しているが、中国は入れてい
ない。しかし、中朝、中韓関係の深まりによって、中国も日本海潜入の機
会を窺うときが必ず来るだろう。これをロシアはどう見るか。

彼らは13年段階で中国に対抗して、羅津港にロシア専用の埠頭を確保し
た。加えて港とロシア極東の町、ハサンを結ぶ鉄道まで完成させた。

中国を警戒するロシアが、日本海・オホーツク海を監視する拠点である北
方領土を手放すことはないと考えるのが合理的だろう。日本に返還すれば
日米安保条約の下で、米国の軍事基地が出現する可能性を考えるのは当然
だ。日本海、オホーツク海或いは太平洋から北極海航路へとつながるシー
レーン構想の中で、ロシアが北方領土の戦略的重要性を認識するのは当然
だ。経済のみならず国防の視点で考えれば、領土返還は難しいと言わざる
を得ない。

では日本ができることは何か。丸山氏の暴言のような「戦争」でないのは
言うまでもない。

外交感覚を研ぎ澄まし、世界情勢をよく読み機会を待つことではないだろ
うか。ソビエト連邦崩壊の好機をとらえたのが西ドイツだった。ベルリン
の壁の崩壊と世界史の大転換を巧みにとらえ、ドイツ統一を果たした。

あのとき、好機は日本にも与えられていた。しかしわが国の外交官は全
く、その好機を掴めなかった。だが、必ず、チャンスはまた巡ってくる。
情勢の大変化でロシアが困窮に至るときである。

それまでじっと私たちは見詰め続け、好機を窺い続けることだ。国家とし
て長い闘いを勝ち抜く気力と気迫を持続することだ。

『週刊新潮』 2019年6月6日号  日本ルネッサンス 第854回

2019年06月05日

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281 

2019年06月03日

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281

2019年06月02日

◆裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ



「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281

2019年06月01日

◆国民が参加する裁判員制度が始まって10年

櫻井よしこ


「国民が参加する裁判員制度が始まって10年 今後も欠点は修正しつつ成
熟することを願う」

国民が刑事裁判に参加する裁判員制度が始まって5月で10年、感慨深いも
のがある。

5月21日の紙面で「読売新聞」が特集したが、その中の全国50の地方裁判
所所長へのアンケート調査では、全員が「裁判員裁判は刑事裁判に良い影
響をもたらした」と回答している。

「日本経済新聞」がやはり同日の紙面で報じた最高裁判所の調査では、裁
判員経験者の96%が裁判への参加を「良い経験だった」と評価している。

10年間で裁判員や補充裁判員を務めた人は9万人を超すが、最高裁刑事局
長の安東章氏は「一人ひとりが真摯に裁判に向き合ってくれた」と感謝し
た。皆真面目に責任を果たしてきたのである。

裁判員制度を導入すべきか否かが論争されていた10年以上前、裁判官とい
う裁判官は導入に反対だった。司法は変わらなければならない、もっと司
法を国民の側に近づけなければならないと考えていた人々の側にも迷いが
あった。法律の知識もないいわば素人に、刑事裁判で被告を裁く資格があ
るのだろうかという懸念である。その思いは私も共有していた。

このような思いは大多数の真面目な日本国民の、人を裁くということに対
する人間としての責任感の裏返しであり、自らの能力の限界を認識した謙
虚さの反映でもあったのではないか。

当時の司法の現実は厳しかった。裁判にはどう見てもおかしなことがあっ
た。『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社)や『激突! 裁判員制度』
(WAC)などの著者である門田髀ォ(かどたりゅうしょう)氏は、山口
県光市の「母子殺害事件」の被害者、本村洋氏の思いを広く伝え、司法改
革の重要性を訴えた。

本村氏は1999年4月に、当時18歳だった犯人に、妻と幼い娘を絞殺され
た。愛する家族の命を無残に奪った犯人に、本村氏は極刑を望んだ。しか
し、山口地裁も広島高等裁判所も、犯人には「更生の可能性がないとはい
えない」として、死刑を回避した。

それは典型的な判例主義に他ならない。私は本村氏に複数回お会いし、数
時間話を聞いたが、氏は、「裁判官は相場主義に基づいて判決を下してい
る。それでは審理など必要ない」と厳しく批判した。

また、広島高裁判決後の記者会見では「古い判例に裁判所がいつまでもし
がみついているのはおかしい。時代に合った新しい価値基準を取り入れて
いくのが司法の役割だ」と語っている。この思いはやがて最高裁を動か
し、判例主義を超えた死刑判決が言い渡された(門田髀ォ(かどたりゅう
しょう)著『なぜ君は絶望と闘えたのか』新潮社)。

私にとって弁護士の岡村勲氏との出会いも非常に大切なものだった。氏は
代理人を務めていた山一證券に関する事案で男に逆恨みされ、妻を殺害さ
れた。自身が被害者になって初めて、いかに犯罪被害者が無視されていた
かに気づき、日本で初めて「犯罪被害者の会」を立ち上げ、司法改革の先
頭に立った。

司法は多くの面で改革を必要としていたのである。重要なことは、犯罪は
法律だけで裁いてはならないということだ。それは法を無視せよというこ
とではまったくない。むしろ、真の意味で法の精神を尊重せよということ
だ。法の執行に、人間の良識を反映させよということである。裁判員制度
が生まれ、法律の素人が裁判に参加し、自身の能力の限りを尽くし、良識
に従って誠実に、裁判員としての責任を果たした。その歩みが10年の歳月
を刻んだ。すばらしいことだ。

読売新聞のアンケートには、裁判の在り方が変わり「分かり易くなった」
「判決の説得力が増した」などの指摘がある。

国民参加の司法が法と正義に基づいて成熟していくために、裁判員制度を
支える社会の基盤を広げたい。

『週刊ダイヤモンド』 2019年6月1日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1281 

2019年05月31日

◆文大統領の専制革命路線で滅びる韓国

櫻井よしこ


自伝、とりわけ政治家のそれは割引いて読まなければならない。それにし
ても韓国大統領文在寅氏の『運命』(岩波書店)ほど独特の左翼臭を放つ
ものはないだろう。

日本語版の出版は昨年10月だが、韓国では2011年の発売で、刊行2週間で
書籍部門の売り上げ1位になったと書いている。

氏が北朝鮮からの難民だった少年時代のこと、貧困を乗り越えて人権弁護
士となったこと、「善き人」であろうとした「普通の人」が、人間の尊厳
や人権を尊重して仕事をしている盧武鉉氏と知り合い、深く感銘を受け、
やがて政治に関わり始めたという人生物語が情趣的な文章で描かれている。

北朝鮮一辺倒だった盧武鉉元大統領への感情移入と、彼らの振りかざす社
会主義の旗には欺瞞の色彩が漂う。事実、自伝に綴られている人権、自
由、正義や正統性などの価値観を、文氏自身がいま、酷い形で踏みにじっ
ている。

文氏は5月に就任2周年を迎えた。任期5年、1期であるから、残り3年だ。2
年間の文政治は、一言でいえば社会主義革命政治である。文氏も自分は
「ロウソク革命」で政権を奪ったと語っており、氏の政策の方向性は独裁
型社会主義政権の樹立だと断じてよいだろう。

ちなみにロウソク革命は、政権に不満を持つ市民がロウソクを掲げて街頭
に繰り出し、圧力で政治を動かしていくものだ。朴槿恵前大統領はロウソ
クデモで糾弾され続けて失脚した。韓国ではこの左派リベラル勢力主導の
ロウソクデモと、保守勢力が韓国国旗の太極旗を掲げて行う太極旗デモが
毎週、行われている。

文氏は言葉は柔らかくとも行動は陰湿で強硬だ。そんな文氏の体質は、少
しずつ、韓国国民に見抜かれてきた。政権発足当時には84.1%もあった氏
の支持率は、5月9日の世論調査(リアルメーター)では47.3%に落ちてい
た。不支持率は48.6%。政党支持率は文氏の与党「共に民主党」が
36.4%、第一野党の「自由韓国党」が34.8%と拮抗している。

親日派パージ

このままでは来年4月の総選挙で敗北するかもしれない。おまけに韓国経
済は苦戦中である。4月時点で失業者は124万人、若年層の失業率は11.5%
だった。朝鮮問題の専門家・西岡力氏は、1日3時間のアルバイトで暮らす
若者やパートタイムで働く予備校生なども入れると、若年層の失業率は
25%にふくらむと指摘する(「言論テレビ」5月17日)。

そこで文氏は巧妙な罠を仕掛けた。西岡氏の説明だ。

「選挙制度の改正案と高級公職者不正捜査処設置法という二つの立法案件
を国会の迅速処理案件に指定してしまったのです。これは通称ファストト
ラックと呼ばれて、330日がすぎると本会議で議決にかけられるという制
度です」

今着手すれば二つの法律は来年4月の総選挙に使えるのである。

シミュレーションでは、改正選挙法の導入で文氏のライバル・自由韓国党
が最も大きな打撃を受けるという結果が出た。韓国の国会は一院制で300
議席、小選挙区が253、比例が47だ。小選挙区では第一党と第二党の戦い
になり、第三、第四の小政党には勝ち目がない。そこで文氏は比例の議席
数を75、またはそれ以上に増やす案を考えている。

75で計算すると、自由韓国党が約20議席減になる。与党の「共に民主党」
も議席を減らす可能性があるが、韓国の政党は自由韓国党を除けばすべて
左翼政党だ。特に少数野党の「正義党」は極左政党であるため、全体とし
ては左派リベラル勢力が絶対に勝つ仕組みである。

「与党代表の李海瓚(イヘチャン)氏は、これで与党は20年間政権を握れ
ると豪語しています」

西岡氏が言うと、「言論テレビ」で同席していた「統一日報」論説主幹の
洪熒(ホンヒョン)氏が応じた。

「50年でしょう」

文政権のもうひとつの狙い、「高級公職者不正捜査処設置法」からはどん
な結果が予測されるだろうか。洪氏は同法の性格をズバリ「ゲシュタポ
法」だと断じた。

文政権は「積弊の除去」を掲げて、親日派を排除してきたが、このとこ
ろ、文政権への批判が各界各層から噴き出し始めた。3月1日、退役軍人会
は後輩の現役軍人に、「対北武装解除を進める文政権への不服従」を呼び
かけ、鄭景斗(チョンギョンドゥ)国防相の退任を要求した。

通常の軍隊では考えられない不服従の呼びかけは、韓国内の対立が如何に
深刻かを示している。

また、元大使経験者ら42人が韓国の外交政策への反対を表明し、後輩の外
交官に「早く日米両国との安保協力体制を復元せよ」と呼びかけた。

親日派パージの中心勢力になっているかのように見える検察、裁判官、警
察官などの中にも文政権に批判的な勢力が存在する。こうした反文勢力の
動きを鋭い嗅覚でキャッチし、このままではやられると考えて、先手を
打ったのが今回の二つの法案であろう。

「血を流して我々は戦う」

「反旗を翻したら、今度はお前たちを逮捕するぞというわけです」

と西岡氏。

高級公職者を対象にしたこのような取り調べ機関が実現したら、韓国の空
気は途端に陰鬱なものになるだろう。自伝で文氏は自らの使命を盧武鉉氏
の遺志を継ぐこととしている。盧武鉉氏は07年の南北首脳会談で、金正日
氏に韓国を事実上明け渡すような誓いを立てていた人物だ。韓国で進行中
の革命と言ってよい一連の変化は、大韓民国の崩壊に直結しかねない。大
統領が自ら指揮する、祖国への反乱である。

こうした異常事態の中で、自由韓国党代表の黄教安(ファンギョアン)氏
の動きに注目したい。氏は朴前政権で法相、首相を務めた公安検事出身の
エリートだ。元々政治家ではなかったが、今年2月、文政権と戦うために
立ち上がった。氏はいま、街頭に出て国民に「一緒に血を流して戦おう」
と呼びかけている。

黄氏が発表した決起文が凄まじい。

「文政権はすでに行政府を掌握した。司法府もほぼ占領された。彼は選挙
法の改正で国会さえも掌握しようとしている。文在寅の左派独裁を、いま
終わらせよう。自由韓国党は命がけの戦いの先頭に立つ。血を流して我々
は戦う。国民の皆さんも犠牲を覚悟して立ち上がってほしい。そうしなけ
れば、私たちの息子、娘たちは左派独裁の下で暮らすことになる!」

韓国は内戦中なのだ。それはとりも直さず日本に危機が迫っているという
ことだ。令和の時代、日本を取り巻く国際環境は、平成の時代のそれ以上
に、厳しいものになるだろう。そう自覚して憲法改正を含めて日本の在り
方を考えていきたい。

『週刊新潮』 2019年5月30日号 日本ルネッサンス 第853回

2019年05月30日

◆文大統領の専制革命路線で滅びる韓国

櫻井よしこ


自伝、とりわけ政治家のそれは割引いて読まなければならない。それにし
ても韓国大統領文在寅氏の『運命』(岩波書店)ほど独特の左翼臭を放つ
ものはないだろう。

日本語版の出版は昨年10月だが、韓国では2011年の発売で、刊行2週間で
書籍部門の売り上げ1位になったと書いている。

氏が北朝鮮からの難民だった少年時代のこと、貧困を乗り越えて人権弁護
士となったこと、「善き人」であろうとした「普通の人」が、人間の尊厳
や人権を尊重して仕事をしている盧武鉉氏と知り合い、深く感銘を受け、
やがて政治に関わり始めたという人生物語が情趣的な文章で描かれている。

北朝鮮一辺倒だった盧武鉉元大統領への感情移入と、彼らの振りかざす社
会主義の旗には欺瞞の色彩が漂う。事実、自伝に綴られている人権、自
由、正義や正統性などの価値観を、文氏自身がいま、酷い形で踏みにじっ
ている。

文氏は5月に就任2周年を迎えた。任期5年、1期であるから、残り3年だ。2
年間の文政治は、一言でいえば社会主義革命政治である。文氏も自分は
「ロウソク革命」で政権を奪ったと語っており、氏の政策の方向性は独裁
型社会主義政権の樹立だと断じてよいだろう。

ちなみにロウソク革命は、政権に不満を持つ市民がロウソクを掲げて街頭
に繰り出し、圧力で政治を動かしていくものだ。朴槿恵前大統領はロウソ
クデモで糾弾され続けて失脚した。韓国ではこの左派リベラル勢力主導の
ロウソクデモと、保守勢力が韓国国旗の太極旗を掲げて行う太極旗デモが
毎週、行われている。

文氏は言葉は柔らかくとも行動は陰湿で強硬だ。そんな文氏の体質は、少
しずつ、韓国国民に見抜かれてきた。政権発足当時には84.1%もあった氏
の支持率は、5月9日の世論調査(リアルメーター)では47.3%に落ちてい
た。不支持率は48.6%。政党支持率は文氏の与党「共に民主党」が
36.4%、第一野党の「自由韓国党」が34.8%と拮抗している。

親日派パージ

このままでは来年4月の総選挙で敗北するかもしれない。おまけに韓国経
済は苦戦中である。4月時点で失業者は124万人、若年層の失業率は11.5%
だった。朝鮮問題の専門家・西岡力氏は、1日3時間のアルバイトで暮らす
若者やパートタイムで働く予備校生なども入れると、若年層の失業率は
25%にふくらむと指摘する(「言論テレビ」5月17日)。

そこで文氏は巧妙な罠を仕掛けた。西岡氏の説明だ。

「選挙制度の改正案と高級公職者不正捜査処設置法という二つの立法案件
を国会の迅速処理案件に指定してしまったのです。これは通称ファストト
ラックと呼ばれて、330日がすぎると本会議で議決にかけられるという制
度です」

今着手すれば二つの法律は来年4月の総選挙に使えるのである。

シミュレーションでは、改正選挙法の導入で文氏のライバル・自由韓国党
が最も大きな打撃を受けるという結果が出た。韓国の国会は一院制で300
議席、小選挙区が253、比例が47だ。小選挙区では第一党と第二党の戦い
になり、第三、第四の小政党には勝ち目がない。そこで文氏は比例の議席
数を75、またはそれ以上に増やす案を考えている。

75で計算すると、自由韓国党が約20議席減になる。与党の「共に民主党」
も議席を減らす可能性があるが、韓国の政党は自由韓国党を除けばすべて
左翼政党だ。特に少数野党の「正義党」は極左政党であるため、全体とし
ては左派リベラル勢力が絶対に勝つ仕組みである。

「与党代表の李海瓚(イヘチャン)氏は、これで与党は20年間政権を握れ
ると豪語しています」

西岡氏が言うと、「言論テレビ」で同席していた「統一日報」論説主幹の
洪熒(ホンヒョン)氏が応じた。

「50年でしょう」

文政権のもうひとつの狙い、「高級公職者不正捜査処設置法」からはどん
な結果が予測されるだろうか。洪氏は同法の性格をズバリ「ゲシュタポ
法」だと断じた。

文政権は「積弊の除去」を掲げて、親日派を排除してきたが、このとこ
ろ、文政権への批判が各界各層から噴き出し始めた。3月1日、退役軍人会
は後輩の現役軍人に、「対北武装解除を進める文政権への不服従」を呼び
かけ、鄭景斗(チョンギョンドゥ)国防相の退任を要求した。

通常の軍隊では考えられない不服従の呼びかけは、韓国内の対立が如何に
深刻かを示している。

また、元大使経験者ら42人が韓国の外交政策への反対を表明し、後輩の外
交官に「早く日米両国との安保協力体制を復元せよ」と呼びかけた。

親日派パージの中心勢力になっているかのように見える検察、裁判官、警
察官などの中にも文政権に批判的な勢力が存在する。こうした反文勢力の
動きを鋭い嗅覚でキャッチし、このままではやられると考えて、先手を
打ったのが今回の二つの法案であろう。

「血を流して我々は戦う」

「反旗を翻したら、今度はお前たちを逮捕するぞというわけです」

と西岡氏。

高級公職者を対象にしたこのような取り調べ機関が実現したら、韓国の空
気は途端に陰鬱なものになるだろう。自伝で文氏は自らの使命を盧武鉉氏
の遺志を継ぐこととしている。盧武鉉氏は07年の南北首脳会談で、金正日
氏に韓国を事実上明け渡すような誓いを立てていた人物だ。韓国で進行中
の革命と言ってよい一連の変化は、大韓民国の崩壊に直結しかねない。大
統領が自ら指揮する、祖国への反乱である。

こうした異常事態の中で、自由韓国党代表の黄教安(ファンギョアン)氏
の動きに注目したい。氏は朴前政権で法相、首相を務めた公安検事出身の
エリートだ。元々政治家ではなかったが、今年2月、文政権と戦うために
立ち上がった。氏はいま、街頭に出て国民に「一緒に血を流して戦おう」
と呼びかけている。

黄氏が発表した決起文が凄まじい。

「文政権はすでに行政府を掌握した。司法府もほぼ占領された。彼は選挙
法の改正で国会さえも掌握しようとしている。文在寅の左派独裁を、いま
終わらせよう。自由韓国党は命がけの戦いの先頭に立つ。血を流して我々
は戦う。国民の皆さんも犠牲を覚悟して立ち上がってほしい。そうしなけ
れば、私たちの息子、娘たちは左派独裁の下で暮らすことになる!」

韓国は内戦中なのだ。それはとりも直さず日本に危機が迫っているという
ことだ。令和の時代、日本を取り巻く国際環境は、平成の時代のそれ以上
に、厳しいものになるだろう。そう自覚して憲法改正を含めて日本の在り
方を考えていきたい。

『週刊新潮』 2019年5月30日 日本ルネッサンス 第853回

2019年05月29日

◆皇室を政治利用してはならないと自戒する

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用してはなら
ないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

2019年05月28日

◆昭和天皇の御心を正しく

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用しては
ならないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

2019年05月27日

◆皇室を政治利用してはならないと自戒する

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用してはなら
ないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

2019年05月25日

◆昭和天皇の御心を正しく受けとめる

櫻井よしこ


「昭和天皇の御心を正しく受けとめるとともに皇室を政治利用してはなら
ないと自戒する」

今年元旦、「朝日新聞」は1面トップで「昭和天皇直筆の原稿見つかる」
とスクープした。昭和60年頃から病に臥せられる63年秋頃までの御製、
252首が確認されたとの報道だった。

内、未発表の御製は211首あった。しかも昭和天皇の直筆で残されてお
り、同月7日には詳細が続報された。

ところが約4カ月後、雑誌「Hanada」6月号が「直筆御製発見 昭和
天皇の大御心」と題して「世界日報」編集局長、藤橋進氏の論文を掲載し
た。世界日報は朝日新聞が報ずる「かなり前に」昭和天皇の直筆原稿を入
手し、調査を進めていたという。両方を較べ読めば、昭和天皇の息遣いを
より近くより深く感じさせるのは藤橋論文である。

藤橋氏は、昭和天皇が乃木希典学習院院長(元陸軍大将)から教わった質
実剛健の精神を生涯守り通したこと、そのひとつの事例が、発見された御
製の資料にも見られると指摘する。

資料の中に縦8.8〜15センチメートル、横7.5〜10.5センチメートルのメモ
用紙8枚がある。小さいものは手のひら程の大きさだ。昭和天皇はその裏
にもお歌を書きつけていらした。メモ用紙には紙を貼り合わせたものもあ
るという。1枚の紙も無駄にしないお姿は乃木大将の教えの質実剛健その
ものである。

Hanadaは鉛筆書きの直筆原稿の写真を何枚も掲載したが、その字体
から昭和天皇のお人柄が伝わってくるようだ。昭和天皇の字体と話し言葉
には共通項があるように感ずる。質朴で飾るところがない。無駄もなく率
直だ。まっすぐ核心に迫る趣がある。

多弁でも能弁でもなかった昭和天皇にとって和歌は心の真実を表現する重
要な手段だったと思われる。ご生涯で約1万首を詠んだとされるが、今回
発見された御製の中には香淳皇后についてのお歌が4首ある。いずれも愛
情と思いやりに満ちている。

「露台にてきさきと共に彗星をみざりしこよひ(は)さびしかりけり」

体調をくずしていらした香淳皇后と一緒に彗星を見ることができない寂し
さを率直に表現していらっしゃる。4首すべてに「さびし」「かなし」と
いう言葉が入っている。香淳皇后への深い愛情の、少年のように純粋で率
直な発露だと受けとめた。

昭和天皇は政治家についてただひとり、岸信介元首相について詠まれ、3
首残された。

「國の為務たる君(は)秋またで 世をさりにけりいふべ(ぐれ)さびしく」

「その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは」

「その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり(さり
ゆきぬ)」

この部分の欄外には「言葉は聲なき聲のことなり」と書かれている。昭和
35年の安保改定でデモ隊が国会を取り囲んだとき、岸首相は「デモの参加
者は限られている。(中略)私は『声なき声』に耳を傾けなければならな
いと思う」と語ったことを当然思い出す。「岸首相の孤独な戦いへの深い
同情を詠まれた」と、藤橋氏は解説したが、同感である。

作家の半藤一利氏は昭和天皇が岸首相を評価していたのかと「複雑な気持
ち」「日米の集団的自衛権を定めた安保改定に賛成の気持ちを持っておら
れたのだろうか」「心から驚いている」と朝日新聞にコメントした。

昭和天皇はひたすら国民の幸せと国家の安寧を願われ、立憲君主国の君主
として、国の安全を大きな高い視点から考えられたにすぎない。また、
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」とも詠
まれたように、日本の国柄の大事さも考えておられた。昭和天皇のこの御
心を正しく受けとめたい。同時に、殊更にそのことを主張して皇室を政治
利用してはならないと自戒するものだ。

『週刊ダイヤモンド』 2019年5月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1280

2019年05月24日

◆台湾が危ない、中国の侵略阻止に力を貸せ

櫻井よしこ


週末、東京・池袋のホテルで、台湾の与党民進党の前行政院長(首相)、
頼清徳氏に取材した。一言で言えば爽やかな感じの人物だ。台湾出身の金
美齢氏は、「政界一の美男」と評したが、むしろ「穏やかな知性の人」と
いう印象が先に立つ。

頼氏は59歳、元々内科医だった。政界に転じ、立法委員(国会議員)、台
南市長を経て2017年9月に蔡英文政権の行政院長に就任、今年1月に職を辞
し、来年1月の総統選挙に名乗りを上げた。

心意気やよし。しかし、頼氏の前には、穏やかな知性だけでは到底越えら
れないハードルが二つある。➀民進党内の選挙で党の候補者に選ばれるこ
と、➁本選挙で国民党に勝つこと、である。

まず民進党内の相手候補は現職の蔡総統(62)だ。党内の支持は頼氏優位
だが、蔡氏が猛烈に巻き返している。その激しい選挙戦の最中、頼氏は8
日から5日間日本に滞在した。森喜朗氏ら元首相3人を手始めに、自民党の
要人数十人と会い、政界人脈をアピールした。日本の大手メディアも取材
に走り、日本側の関心の高さは台湾でも報じられた。訪日によって、頼氏
の選挙運動に弾みがつく可能性もある。

日本にとっても頼氏の台湾総統就任は非常に望ましい。第一に氏は馬英九
氏に代表される国民党の政治家のような親中派ではない。むしろ熊本地震
の時には、台湾の人々の義援金を抱えていち早く被災地に駆けつけた大変
な親日家である。台湾と日本の間には家族のようなつながりがあるとも語
る頼氏は後に詳述する蔡氏の少々冷めた対日姿勢とは異なるあたたかさが
ある。そのような頼氏への日本政界の期待も大きい。

来日の目的について問うた私に、氏は答えた。

「台湾はいま一番大事な時期にあります。中国の脅威はかつてなく深刻で
す。中国の脅威に押し潰されては台湾は生き残れません。台湾人にとって
最も親密な隣国である日本と、中国を含めた国際情勢に関する認識を共有
したい。私の訪日目的はそこにあります」

武力行使は放棄しない

習近平主席は今年1月2日、年頭の演説で台湾に、香港と同様の一国二制度
を受け入れよ、92年合意(中国と台湾がひとつの国であると互いに認めた
とする合意)を認めよと要求したうえで、台湾への武力行使は放棄しない
と明言した。中国は05年3月の全国人民代表大会で反国家分裂法を制定済
みだ。台湾独立の動きには法に基づいて武力行使するというのだ。

台湾が中国に併合されてしまえば、台湾海峡もバシー海峡も中国の領有す
る海になる。そのとき日本の安全保障は危機に直面するとの頼氏の指摘
は、100%正しい。中国への幻想は一切なく、外見の穏やかさの背後に、
厳しい国際情勢についての正確な認識があるのが見てとれる。

台湾情勢を見詰めるとき抱く懸念は、まず第一に、頼氏が表明したような
危機意識を台湾の人々が共有しているとは思えないことだ。世論調査は、
蔡政権の経済政策への失望から、中国に飲みこまれる恐れがあるにも拘わ
らず国民党への支持がふえていることを示している。経済が少々悪くても
いまは我慢して、中国に国を奪われないように台湾人の政党を支持しよう
と考える有権者は、少なくとも現時点では少数派である。

来年1月、万が一、民進党が敗北して国民党が政権を奪還すれば、単なる
政権交替に終わらず、事実上の国家の交替となる可能性が高い。台湾人が
統治する台湾から、中国人が統治する中国の一省としての台湾へと変わっ
てしまうであろう。

そう断言する理由は、国民党の候補者、たとえば元国民党主席の朱立倫氏
も、総統選に名乗りを上げる場合、どの候補者よりも強力だと見られる高
雄市長の韓国瑜氏も、台湾の経済成長を押し上げるという理由で中国との
平和協定締結に積極的であることだ。

平和協定について頼氏が警告した。

「絶対に受け入れてはなりません。過去の中国の実績を見れば明らかで
す。チベットは中国と平和協定を結びましたが、チベットには平和も経済
発展ももたらされませんでした。逆に彼らは国土を奪われ、ダライ・ラマ
法王は亡命しました。中国に苦しめられる悲劇の平和協定には絶対に反対
です。一国二制度も同様で、台湾は第二の香港にはなりません」

国民党政権になれば、ほぼ間違いなく中国との平和協定が成立するだろ
う。頼氏が国民党の政策は台湾を失う危険の道に通ずると警告しても、国
民の支持は民進党より国民党に向かっている。

台湾人の国

台湾大手のテレビ局TVBSの世論調査は、いま選挙が行われれば完全に
国民党が勝利するという結果をはじき出した。調査では蔡氏は野党国民党
のおよそどの候補者にも勝てない。頼氏なら勝てる見込みは少し高くなる。

だが蔡氏は再度総統職に挑戦する構えを崩さない。私は蔡氏に幾度か会っ
たことがあるが、真面目で純粋な学者タイプだ。韓国の前大統領、朴槿恵
氏と少し似ている。まず、中国への信頼感が想像以上に強い。朴氏は政権
発足から2年余り、中国を信頼し、中国に頼り、日本にはつれなかった。
中国の正体をようやく理解して日本に接近したときにはすでに政権基盤が
危うくなっていた。彼女の戦略的失敗は、国内で左派勢力の増長を許して
しまった。

蔡氏は中国の要求する92年合意を拒否したところまではよかったが、中国
とは摩擦を起こしたくない、話し合いで解決したいという姿勢だった。対
中融和姿勢は、民進党の政権なのに、中国人の政党といってよい国民党の
幹部を外相、国防相などの重要ポストにつけたことにも表れていた。その
後、閣僚は交替させたものの台湾人には納得のいかないことだっただろう。

学者であったがゆえに、熟考することが多く、素早い決断ができず対応が
常に後手に回った。経済運営の不器用さに加えて、決断できないことが、
国民の支持を失ったもうひとつの理由でもあろうか。敢えていえば、勝ち
目のない総統選から蔡氏は身を引く方が台湾のためになるのではないか。
いまは己れを捨てて台湾人のための未来作りに集中するときではないかと
思えてならない。

頼氏は、自身が選挙に勝てば、台湾独立の言葉は封じつつ、台湾の軍事力
を強化し、日米印豪のアジア太平洋戦略に参加したいと述べた。TPPに
参加し、福島をはじめとする東北の産品の輸入にも道を開きたいとも語った。

米国はホワイトハウスも議会も台湾支援を明確にした。事実上の民進党支
援である。日本も同様に、台湾を台湾人の国とするための支援を打ち出す
べきである。強力な官邸主導の台湾支援戦略が必要だ。

『週刊新潮』 2019年5月23日  日本ルネッサンス 第852回