2020年04月24日

◆危機の中、重要企業狙いの中華戦略

櫻井よしこ


中国の動きが活発だ。内外における米国の統制力は陰ったと見て、今こそ勢力拡大の好機ととらえているのは明らかだ。

中国湖北省武漢発の新型コロナウイルスで国際社会は混乱の中にある。とりわけ米国は4月11日、感染者だけでなく死者においても世界最多の国となってしまった。米軍の海外展開の基盤である11隻の空母群の内4隻も武漢ウイルス汚染で展開不能、最悪の状況である。

米空母群の内、感染が最も深刻なのがグアムに停泊中のセオドア・ルーズベルトだ。乗組員4800人の内、10日現在で474人の感染が確認されたという。米ワシントン州に停泊中のニミッツにも、横須賀基地で整備中のロナルド・レーガン、ワシントン州で整備中のカール・ビンソンでも感染者が出た。

「ルーズベルト」の艦長クロージャー氏は、船内の感染状況に危機感を覚えて上司に報告した。しかし自分の地元の新聞に、感染者の隔離を求めた書簡を報道されてしまう。空母の動向は軍事機密であり、その内部の情報を中国に知らせる結果となったのは軍規違反だとして解任された。

これだけでも軍の規律の乱れを示すには十分だが、4月7日になって海軍長官代行のモドリー氏が辞任した。クロージャー氏について「頭がおかしい」などと痛烈な批判をしたことを、エスパー国防長官に咎められた結果だという。

米海軍の混乱、ここに極まれりという印象である。北京発の時事電は、中国共産党機関紙「環球時報」が「ウイルス感染によって米海軍の全世界への展開能力はすでに深刻な打撃を受け、東シナ海、台湾海峡、南シナ海で米軍は対処困難になっている」と、報じたことを伝えた。

このような時こそ、中国は攻勢に出るのである。中国人民解放軍(PLA)は全軍の兵士に『孫子』を必読の書として学習を命じている。その「軍争」にはこう書かれている。「整然たる旗じるしを迎え撃ってはならず、堂々たる陣地を撃ってはならない」。敵がしっかりしているときは攻めてはならない。そのような時は、「敵方の乱を待ち受け、敵方のざわめきを待ち受ける」のがよい、と。

米国への宣言

敵方、即ち米軍の乱れとざわめきの中で、PLAが大胆に動いているのがまさに現在である。

2月から3月にかけての彼らの行動は挑戦そのものだ。まず2月9日、最新鋭ステルス戦闘機「殲」と爆撃機「轟」が編隊を組んで、台湾の南側にあるフィリピンとの間のバシー海峡を通過し西太平洋に抜けた。編隊の中の4機の爆撃機は西太平洋に出た後、北上してわが国の沖縄本島と宮古島の間の宮古海峡を通過した。10日にも轟の編隊がバシー海峡を往復、護衛機が台湾海峡の台湾側を飛行した。台湾は中国の一部であり、中国軍機はどこを飛ぶのも自由だという意思表示か。

PLAがバシー海峡を通過したことの意味はとりわけ深い。前統合幕僚長の河野克俊氏が指摘した。

「バシー海峡を通過し西太平洋を自由に飛行することは、PLAが第二列島線を易々と越えて南太平洋を押さえに来ているということです。彼らの目的は日米豪の連携を物理的に断ち切ることです。そのために南太平洋のソロモン諸島やパラオ、マーシャル諸島、キリバス、トンガなどに接近しています。PLAは第二列島線を制して、第三列島線の確保に向けて動いているのです」

第三列島線はハワイ諸島のオアフ島やカウアイ島の鼻先に設定されている。日付変更線からさらに少しばかり西に行った東経165度以西の太平洋ほぼ全域を囲い込む線である。太平洋を米国と二分割して支配する壮大な戦略目標を中国共産党は掲げているが、その達成には、まず足下の台湾制覇が必要だ。一連の軍事行動はそのためなのである。

2月28日には、PLAの爆撃機H6の編隊がまたもやバシー海峡を往復し、台湾の防空識別圏に侵入した。

3月16日には戦闘機「殲」の一群と早期警戒管制機が、台湾の南西沖で異例の夜間訓練を実施した。

台湾海峡も台湾本島も全て中国側に囲い込む形で異例の夜間訓練をし、その南に広がる海峡を自在に飛行するPLAの行動は、「台湾は中国の一部だ」と世界に示すためのものである。同時に、混乱の最中にある米国に、近い将来中国は南太平洋を席巻すると宣言しているのである。

他人事ではない。わが国の尖閣諸島海域に侵入する中国公船はコロナウイルス発生後、約50%も増えている。

中国ファンドの買収工作

中国発のコロナウイルスで世界中が迷惑を被り、混乱しているときに、なぜ、元凶国である中国は力による世界の現状変更を進めようとするのか、なぜ攻勢を強めるのか。穏やかで一本気な多くの日本人には理解し難いと思うが、中国共産党もPLAも、謀略を最高最善の武器と見做しているのである。謀略を基本とした兵法を理論づけ、体系化した孫子の兵法を骨身にしみるところまで学び、その謀略論を実践することこそ最善の勝ち方だと信ずる人々なのだ。

中国が意図しているのはあらゆる分野での勢力拡大である。武漢ウイルスで各国の経済は大打撃を受け、大恐慌にも匹敵する景気の落ち込みとも言われている。中国はこうした事態につけ込み、地価の下がった土地を買い、経営の苦しくなった企業の買収に動いている。

それに対して、欧米各国は中国の戦略のあくどさを喝破し、自国企業を中国ファンドによる買収工作から守るべく防衛策を発表した。

中部大学特任教授の細川昌彦氏は、欧米各国では外国資本による国内企業への投資を規制するため、対内投資規制強化と、国家ファンドの設立が相次いでいると指摘する。株価の急落であらゆる企業の買収が以前よりずっと容易になっている。そこを狙っているのが中国系ファンドである。狙われているのは国家の安全保障の基盤を支える幅広い産業だ。とりわけ注目されるのが「中国製造2025」でも明記されている半導体及びその製造装置である。半導体は米中が覇権を争う5G(第5世代移動通信システム)に必須のもので、中国の製造能力はまだ高くない。中国はこれらの国内生産を2030年までに自給率75%に引き上げるとしており、その手段として、たとえば台湾の半導体受託生産企業、TSMCの買収を虎視眈々と狙っている。

安全保障の根幹に関わる企業を中国に買われるのを阻止するための基金を、米国は5000億ドル(約55兆円)、ドイツは72兆円規模で設立した。

日本はどうか。コロナウイルスに関して生活支援や失業対策に注目する余り、国家の安全保障の土台をなす産業が丸々中国に買い取られるという危機感は全く見られない。この危機意識の欠如こそ最大の危機だ。

『週刊新潮』 2020年4月23日号
日本ルネッサンス 第898回

2020年04月21日

◆注視せよ、コロナで動く米中関係

櫻井よしこ


中国共産党の海外向け機関紙「環球時報」に3月31日、「新型コロナウイルスが米国の世紀を終わらせた」とするコラムが掲載された。著者の王文氏は中国人民大学重陽金融研究院執行院長で専門は国際関係論だ。

王氏はざっと以下のように書いた。

「新型コロナウイルスの感染が1941年以降で初めて米国の全面的介入のない全地球的問題になるとは、多くの人には思いも寄らなかったかもしれない。米国は自らの身を守ることも難しくなった。

トランプ政権は無分別な自信を持ち、ウソをつき、他国への恨み言を繰り返し、責任を転嫁する。世界のリーダーを自称する米国が全人類共通の災難を前に他国を助けられないだけでなく、いかなる国も米国に援助や寄付を積極的に申し出ていない。感染が米国の世紀を終わらせたことに議論の余地はない」

政府の機関紙が右のコラムを掲載したことは、少なくとも習近平国家主席も同様の認識だということか。

王氏は次のようにも書いた。

「瀕死の米帝国にとって最も気がかりな国際的ライバルが中国だ」

これこそ中国人の視点だ。マイケル・ピルズベリー氏が『China2049』で明らかにしたのは、米国は基本的に善意で中国を支援してきたということだ。

もっと言えば日本よりも中国を信頼し、重視するのが米国のアジア外交だった。米国は数年前まで、中国が豊かになれるところまで自分たちが支援してやれば、彼らはやがて米国のような開かれた民主的な国になると、本気で信じていた。中国が米国を最大の敵と見做してきたのとは対照的に、米国は中国との関係を楽観視していたのだ。

環球時報が報じるのは王氏のような単なる敵意に満ちた主張だけではない。昨年6月、中国共産党のシンクタンク、社会科学院のガオ・リンウェン氏が「米国に適確に反撃せよ」と題して投稿した。

米国が中国のサプライチェーンに依存している産業分野を注意深く洗い出し、米国経済の最も弱いところを拳で続けざまに打って締め上げよという戦略論だ。今回の武漢ウイルス襲来で明らかになったサプライチェーン問題で、ガオ発言が現実になった感がある。

マスクを巡る争い

中国の攻勢は多様な形をとる。武漢ウイルスとの戦いで政治的難局に直面している欧米諸国に、中国は巧みな善意外交を展開する。そのひとつが医療・医薬品の提供だ。

たとえばマスクを巡る欧米諸国の争いの渦の中で、中国政府は「コロナウイルスを克服した」大国として世界約100以上の国々に医薬品援助を公約した。

4月5日、ニューヨーク州には早速マスク100万枚、医療用マスク10万枚、人工呼吸器1000台等が届けられた。クオモ同州知事は心からの謝意を表明し、CNNはこれを「米国の命運は中国に握られている」と報じた。

中国に握られているのは大統領選挙を11月に控えるトランプ氏の命運でもあろう。当初ウイルス問題を楽観的にとらえていたトランプ氏は、世界最悪となった米国の悲劇の前で、再選への道として、➀ウイルスとの戦いを制すること、➁米国経済、とりわけ支持基盤の農民や労働者層のために経済の回復を急がなければならないと考えている。明らかに中国はそこを見逃さなかった。

3月27日、米側の要請で実現したとされる米中首脳電話会談以降、トランプ氏の対中政策は融和策に傾いたのかと思わせる兆候がある。

わかり易い事例がトランプ氏の言葉遣いだ。氏は新型コロナウイルスを「中国ウイルス」と呼んでいたが、会談後は、「コロナウイルス」と変えた。

米国の感染者が中国の感染者数を上回ったことが公式に確認されたタイミングで行われた電話会談で、習氏は米中の協力の必要性を説き、中国の惜しみない情報提供と援助を申し出た。トランプ氏は直後に「(中国に)多大なる尊敬を!」とツイッター発信した。トランプ氏が再選のために中国の力を追い風として利用する可能性さえ、私達は見ておかねばならないだろう。

米国内の対中政策には以前から、二つの大きな流れがある。中国に対して安全保障問題で譲ってはならないとする対中原理原則擁護派と、中国と折り合って経済運営をスムーズに運びたいという対中融和派である。融和派と書いたが、彼らは中国と折り合いながらも自由貿易の価値観を捨てたわけではない。

極めて大雑把に言って、前者にはポンペオ国務長官、オブライエン、ナバロ両大統領補佐官、ポッティンジャー大統領副補佐官らがおり、後者にはムニューシン財務長官、クドロー国家経済会議委員長らに加えて、大統領の長女イヴァンカ氏の夫のクシュナー氏らがいる。

米国の敗北

この2つの勢力の力のせめぎ合いが、ウイルス問題への対処にも影響を及ぼしている。ポッティンジャー氏らは中国由来のウイルス禍の情報を得た昨年12月下旬、中国からの入国を即禁止するよう提言したが、経済への悪影響を心配するムニューシン、クドロー両氏らの反対で結論を出せなかったと、ロイター通信が伝えている。

トランプ政権発表の数字によると、その間、毎日1万4000人の中国人が米国に流入、ウイルスを広げていったという。

新型コロナウイルス発生の地を巡って、米中間で険しい感情的対立が続いていた間、ムニューシン、クドロー両氏は国内経済対策の立案に集中し、トランプ氏の対中政策は強硬派によって担われていたという。

他方で、クシュナー氏が中国側と交渉して大量の医療品が米国に届き、首脳の電話会談が行われ、それによって流れが変わりつつあるというのだ。

元々、トランプ氏の対中観は戦略というより戦術次元から生まれているといってよいだろう。氏の主な対中要求は、中国は米国から輸入せよ、とりわけ農産物を買うべしというものだ。コロナウイルス騒動の最中でも、中国による米国産トウモロコシや小麦の輸入量を週毎の統計でチェックしているとされるトランプ氏にとって、最重要課題は米国の実利につながる貿易関係を維持することであろう。だが眼前の利益を重視する余り、対中宥和策に米国が走るとしたら、それは米国の敗北を意味しかねず、日本にとっては悪夢そのものだ。

ムニューシン、クドロー両氏の考えの中には少なくとも、中国による知的財産の窃盗、先進技術の強制的移動、国有企業への不公平な優遇策などは許さないという原理原則へのこだわりがある。トランプ政権を支える人々の多様な考え方の中で大統領自身の軸足がどこに落ち着くのか。誰にも見通せない。米中関係は文字どおり世界秩序の形を規定する。トランプ大統領の揺らぎこそ、日本にとって最大の懸案である。

『週刊新潮』 2020年4月16日号
日本ルネッサンス 第897回

2020年04月19日

◆視せよ、コロナで動く米中関係

櫻井よしこ


中国共産党の海外向け機関紙「環球時報」に3月31日、「新型コロナウイルスが米国の世紀を終わらせた」とするコラムが掲載された。著者の王文氏は中国人民大学重陽金融研究院執行院長で専門は国際関係論だ。

王氏はざっと以下のように書いた。

「新型コロナウイルスの感染が1941年以降で初めて米国の全面的介入のない全地球的問題になるとは、多くの人には思いも寄らなかったかもしれない。米国は自らの身を守ることも難しくなった。トランプ政権は無分別な自信を持ち、ウソをつき、他国への恨み言を繰り返し、責任を転嫁する。世界のリーダーを自称する米国が全人類共通の災難を前に他国を助けられないだけでなく、いかなる国も米国に援助や寄付を積極的に申し出ていない。感染が米国の世紀を終わらせたことに議論の余地はない」

政府の機関紙が右のコラムを掲載したことは、少なくとも習近平国家主席も同様の認識だということか。

王氏は次のようにも書いた。

「瀕死の米帝国にとって最も気がかりな国際的ライバルが中国だ」

これこそ中国人の視点だ。マイケル・ピルズベリー氏が『China2049』で明らかにしたのは、米国は基本的に善意で中国を支援してきたということだ。もっと言えば日本よりも中国を信頼し、重視するのが米国のアジア外交だった。米国は数年前まで、中国が豊かになれるところまで自分たちが支援してやれば、彼らはやがて米国のような開かれた民主的な国になると、本気で信じていた。中国が米国を最大の敵と見做してきたのとは対照的に、米国は中国との関係を楽観視していたのだ。

環球時報が報じるのは王氏のような単なる敵意に満ちた主張だけではない。昨年6月、中国共産党のシンクタンク、社会科学院のガオ・リンウェン氏が「米国に適確に反撃せよ」と題して投稿した。米国が中国のサプライチェーンに依存している産業分野を注意深く洗い出し、米国経済の最も弱いところを拳で続けざまに打って締め上げよという戦略論だ。今回の武漢ウイルス襲来で明らかになったサプライチェーン問題で、ガオ発言が現実になった感がある。

マスクを巡る争い

中国の攻勢は多様な形をとる。武漢ウイルスとの戦いで政治的難局に直面している欧米諸国に、中国は巧みな善意外交を展開する。そのひとつが医療・医薬品の提供だ。

たとえばマスクを巡る欧米諸国の争いの渦の中で、中国政府は「コロナウイルスを克服した」大国として世界約100以上の国々に医薬品援助を公約した。4月5日、ニューヨーク州には早速マスク100万枚、医療用マスク10万枚、人工呼吸器1000台等が届けられた。クオモ同州知事は心からの謝意を表明し、CNNはこれを「米国の命運は中国に握られている」と報じた。

中国に握られているのは大統領選挙を11月に控えるトランプ氏の命運でもあろう。当初ウイルス問題を楽観的にとらえていたトランプ氏は、世界最悪となった米国の悲劇の前で、再選への道として、➀ウイルスとの戦いを制すること、➁米国経済、とりわけ支持基盤の農民や労働者層のために経済の回復を急がなければならないと考えている。明らかに中国はそこを見逃さなかった。

3月27日、米側の要請で実現したとされる米中首脳電話会談以降、トランプ氏の対中政策は融和策に傾いたのかと思わせる兆候がある。

わかり易い事例がトランプ氏の言葉遣いだ。氏は新型コロナウイルスを「中国ウイルス」と呼んでいたが、会談後は、「コロナウイルス」と変えた。

米国の感染者が中国の感染者数を上回ったことが公式に確認されたタイミングで行われた電話会談で、習氏は米中の協力の必要性を説き、中国の惜しみない情報提供と援助を申し出た。トランプ氏は直後に「(中国に)多大なる尊敬を!」とツイッター発信した。トランプ氏が再選のために中国の力を追い風として利用する可能性さえ、私達は見ておかねばならないだろう。

米国内の対中政策には以前から、二つの大きな流れがある。中国に対して安全保障問題で譲ってはならないとする対中原理原則擁護派と、中国と折り合って経済運営をスムーズに運びたいという対中融和派である。融和派と書いたが、彼らは中国と折り合いながらも自由貿易の価値観を捨てたわけではない。

極めて大雑把に言って、前者にはポンペオ国務長官、オブライエン、ナバロ両大統領補佐官、ポッティンジャー大統領副補佐官らがおり、後者にはムニューシン財務長官、クドロー国家経済会議委員長らに加えて、大統領の長女イヴァンカ氏の夫のクシュナー氏らがいる。

米国の敗北

この二つの勢力の力のせめぎ合いが、ウイルス問題への対処にも影響を及ぼしている。ポッティンジャー氏らは中国由来のウイルス禍の情報を得た昨年12月下旬、中国からの入国を即禁止するよう提言したが、経済への悪影響を心配するムニューシン、クドロー両氏らの反対で結論を出せなかったと、ロイター通信が伝えている。

トランプ政権発表の数字によると、その間、毎日1万4000人の中国人が米国に流入、ウイルスを広げていったという。

新型コロナウイルス発生の地を巡って、米中間で険しい感情的対立が続いていた間、ムニューシン、クドロー両氏は国内経済対策の立案に集中し、トランプ氏の対中政策は強硬派によって担われていたという。

他方で、クシュナー氏が中国側と交渉して大量の医療品が米国に届き、首脳の電話会談が行われ、それによって流れが変わりつつあるというのだ。

元々、トランプ氏の対中観は戦略というより戦術次元から生まれているといってよいだろう。氏の主な対中要求は、中国は米国から輸入せよ、とりわけ農産物を買うべしというものだ。コロナウイルス騒動の最中でも、中国による米国産トウモロコシや小麦の輸入量を週毎の統計でチェックしているとされるトランプ氏にとって、最重要課題は米国の実利につながる貿易関係を維持することであろう。だが眼前の利益を重視する余り、対中宥和策に米国が走るとしたら、それは米国の敗北を意味しかねず、日本にとっては悪夢そのものだ。

ムニューシン、クドロー両氏の考えの中には少なくとも、中国による知的財産の窃盗、先進技術の強制的移動、国有企業への不公平な優遇策などは許さないという原理原則へのこだわりがある。トランプ政権を支える人々の多様な考え方の中で大統領自身の軸足がどこに落ち着くのか。誰にも見通せない。米中関係は文字どおり世界秩序の形を規定する。トランプ大統領の揺らぎこそ、日本にとって最大の懸案である。

『週刊新潮』 2020年4月16日号
日本ルネッサンス 第897回       

2020年04月14日

◆優しいだけでは国民の命は守れない

櫻井よしこ


サッカー選手の香川真司氏が呼びかけた。

「ご存知のようにスペインでは本当にたくさんの人が苦しんでいます。日本もおそらく、これから感染が拡大されていくでしょう。それを止めるのはみなさん次第です。ワクチンもない、止める方法もない、一人ひとりの行動が、コロナに打ち勝つ唯一の方法です。今は自宅にいて待機することです」

“ステイホーム”のハッシュタグでメッセージを発信した香川選手は思慮深く、格好よかった。阪神タイガースの藤浪晋太郎選手も京都産業大学の学生たちも、あんな風に格好よい若者であってほしい。

今は、自分の思い中心でいくより、慎む方がよい。自分の欲望を追求するより他者への思いやりを優先する方が大事だ。その方がすてきで品格もある。ジェントルマンであり、分別ある大人である。

東京都知事の小池百合子氏が3月30日、「若者はカラオケ、ライブハウス、中高年はバー、酒場、ナイトクラブなど、接客を伴う店に行くことは当面控えてほしい」と、訴えた。

彼女は25日夜、都庁で緊急会見し、不要不急の外出自粛を強く要請した。すると不要不急とは具体的にどういう場合か、などと疑問視したつまらない新聞もあった。

具体的に教えてもらわなければそんなことも分からないのか。人の暮らし方、おつき合いの仕方は各人各様だ。普段自由に生きている幾千万の国民、都民に対して、不要不急を具体的に示せとは、これはまた、大人の問いとは思えない。本来、一人一人が自分で考えて判断することだろう。

そんなところに30日の小池氏のメッセージである。ここまで具体的に語ったのは、若者たちの間でクラスターが発生してしまっているからだろう。京都産業大学の学生たちのイギリス、フランス、スペインなど5か国への卒業旅行、帰国後のゼミやサークルの懇親会やカラオケでの熱唱を知ると、21歳か22歳の君たち、十分大人でしょ、香川選手に学べ、と再度強調したくなる。

危機感に欠ける

ウイルスとの戦いは国民全員の協力なくしては制することができない。若い世代は感染しても症状が軽くて済むと考えているかもしれないが、自らの感染でウイルスを拡散し、周りの人々に感染させ、その人々の命を奪うことにもなる。そのことをどうか大いに自覚してほしい。

他方、政府は緊急事態宣言について、「まだその状況にはない」として慎重な構えを崩さない。無論事態が緊急事態宣言を必要とするところまで悪化しないのが最善である。しかし段々分かってきたのはこのウイルスとの戦いは本当に容易ではないということだ。何といっても感染後1週間から2週間は症状が出ないのである。症状が出た後の体調悪化は、あっという間のことだ。志村けんさんは倦怠感を覚えてから、12日後に亡くなっている。

症状悪化の速度も凄まじいが、ウイルス拡散の勢いも凄まじい。だが、米欧諸国が悲惨な状況に直面しているのとは対照的に、日本はまだ危機感に欠けるのではないか。緊急事態宣言で国民に自覚を促し、緊張感を持ってもらうことが大事ではないか。日本人は、一旦自覚しさえすればきちんと対処できる人々だ。

そもそも日本国の建てつけは、国民の自覚、徳、人品卑しからざることに依拠してようやく成立するものである。日本の憲法も法律も全て性善説で成り立っている。国家や政府が強い力で強制したり罰したりする形はとらず、あくまでも国民の善意、私利よりも他利の思想によって国も社会も運営されていく形である。

「緊急事態法」も例外ではない。決して強権発動の法律ではない。だが、性善説に基づいた国の形で、ウイルスに勝てるのか、といま私たちは問わなければならない。

3月13日に成立した改正特別措置法の32条1項に基づいて首相は緊急事態を宣言することができる。その条件は、➀新型ウイルスの国内での発生、➁全国的かつ急速な蔓延、である。

経済再生担当相の西村康稔氏は、➀の条件は満たされているが、➁の「全国的」な蔓延とまでは言えない、と語った(3月29日「日曜報道THE
PRIME」)。

法治国であるからには法の厳格運用は大事である。しかし、ウイルスの全国的蔓延が確認されてからの緊急事態宣言では遅すぎる。にも拘わらず、政府のメンタリティは「権力による強権発動」を退ける優しい日本国なのである。

戦える国

そこで改めて、緊急事態を宣言すると実際に何が起きるのか、特措法に沿って検証してみる。首相が宣言すると、知事は、ざっと以下の権限を行使できるようになる。

・みだりに外出しないなど、感染防止に必要な協力を「要請」できる。

・学校、社会福祉施設、興行場等に対し、使用制限や停止等の措置を「要請」できる。

・しかし、応じない時は措置を講ずるよう「指示」できる。

首相からバトンタッチされた後、知事にできることはおよそ要請と指示が全てで、命令はできない。

朝日新聞などが度々指摘してきた「私権の制限」の危険性は特措法の次の部分に限られる。

・臨時の医療施設を開設するため土地、家屋、物資を使用する必要のあるときは、「所有者の同意」を得て、土地等を使用できる(49条1項)

・同意が得られないときは、同意なしに利用できる(同条2項)

万が一、日本で感染者が急増して、イタリアやスペイン、ニューヨーク州のような医療崩壊の危険性が見えてきたとき、病床をふやし、出来る限りの命を救わなければならない。新たな病院建設のために空いている土地の一時的提供を知事が求めるのはやむを得ないことであり、それに応えるのは国民の義務であろう。しかも、これは本当に緊急事態に対するための措置で、私権制限だといって危険視するのはおかしい。

日本大学名誉教授の百地章氏が指摘した。

「中国と違って人権を手厚く保障している欧米各国でさえ、国民の外出や移動の禁止、商店の閉鎖などを次々と行っています。フランスでは買い物などを除き全土で国民の外出を禁止しました。米国ではトランプ大統領が国家非常事態を宣言し、カリフォルニア州は実質的な外出禁止令を出しました。理由なく外出した人に罰金まで科す国もあります」

性善説に基づく、限りなく優しい法的枠組みだけで、ウイルスの猛威から国民の命を守れるのか。必要な時には強い力で指導し、戦える国にならねばならない。

『週刊新潮』 2020年4月9日号
日本ルネッサンス 第896回

2020年04月11日

◆優しいだけでは国民の命は守れない

櫻井よしこ


サッカー選手の香川真司氏が呼びかけた。

「ご存じのようにスペインでは本当にたくさんの人が苦しんでいます。日本もおそらく、これから感染が拡大されていくでしょう。それを止めるのはみなさん次第です。ワクチンもない、止める方法もない、一人一人の行動が、コロナに打ち勝つ唯一の方法です。今は自宅にいて待機することです」

“ステイホーム”のハッシュタグでメッセージを発信した香川選手は思慮深く、格好よかった。阪神タイガースの藤浪晋太郎選手も京都産業大学の学生たちも、あんな風に格好よい若者であってほしい。

今は、自分の思い中心でいくより、慎む方がよい。自分の欲望を追求するより他者への思いやりを優先する方が大事だ。その方がすてきで品格もある。ジェントルマンであり、分別ある大人である。

東京都知事の小池百合子氏が3月30日、「若者はカラオケ、ライブハウス、中高年はバー、酒場、ナイトクラブなど、接客を伴う店に行くことは当面控えてほしい」と、訴えた。

彼女は25日夜、都庁で緊急会見し、不要不急の外出自粛を強く要請した。すると不要不急とは具体的にどういう場合か、などと疑問視したつまらない新聞もあった。

具体的に教えてもらわなければそんなことも分からないのか。人の暮らし方、おつき合いの仕方は各人各様だ。普段自由に生きている幾千万の国民、都民に対して、不要不急を具体的に示せとは、これはまた、大人の問いとは思えない。本来、一人一人が自分で考えて判断することだろう。

そんなところに30日の小池氏のメッセージである。ここまで具体的に語ったのは、若者たちの間でクラスターが発生してしまっているからだろう。京都産業大学の学生たちのイギリス、フランス、スペインなど5か国への卒業旅行、帰国後のゼミやサークルの懇親会やカラオケでの熱唱を知ると、21歳か22歳の君たち、十分大人でしょ、香川選手に学べ、と再度強調したくなる。

危機感に欠ける

ウイルスとの戦いは国民全員の協力なくしては制することができない。若い世代は感染しても症状が軽くて済むと考えているかもしれないが、自らの感染でウイルスを拡散し、周りの人々に感染させ、その人々の命を奪うことにもなる。そのことをどうか大いに自覚してほしい。

他方、政府は緊急事態宣言について、「まだその状況にはない」として慎重な構えを崩さない。無論事態が緊急事態宣言を必要とするところまで悪化しないのが最善である。しかし段々分かってきたのはこのウイルスとの戦いは本当に容易ではないということだ。何といっても感染後1週間から2週間は症状が出ないのである。症状が出た後の体調悪化は、あっという間のことだ。志村けんさんは倦怠感を覚えてから、12日後に亡くなっている。

症状悪化の速度も凄まじいが、ウイルス拡散の勢いも凄まじい。だが、米欧諸国が悲惨な状況に直面しているのとは対照的に、日本はまだ危機感に欠けるのではないか。緊急事態宣言で国民に自覚を促し、緊張感を持ってもらうことが大事ではないか。日本人は、一旦自覚しさえすればきちんと対処できる人々だ。

そもそも日本国の建てつけは、国民の自覚、徳、人品卑しからざることに依拠してようやく成立するものである。日本の憲法も法律も全て性善説で成り立っている。国家や政府が強い力で強制したり罰したりする形はとらず、あくまでも国民の善意、私利よりも他利の思想によって国も社会も運営されていく形である。

「緊急事態法」も例外ではない。決して強権発動の法律ではない。だが、性善説に基づいた国の形で、ウイルスに勝てるのか、といま私たちは問わなければならない。

3月13日に成立した改正特別措置法の32条1項に基づいて首相は緊急事態を宣言することができる。その条件は、➀新型ウイルスの国内での発生、➁全国的かつ急速な蔓延、である。

経済再生担当相の西村康稔氏は、➀の条件は満たされているが、➁の「全国的」な蔓延とまでは言えない、と語った(3月29日「日曜報道THE
PRIME」)。

法治国であるからには法の厳格運用は大事である。しかし、ウイルスの全国的蔓延が確認されてからの緊急事態宣言では遅すぎる。にも拘わらず、政府のメンタリティは「権力による強権発動」を退ける優しい日本国なのである。

戦える国

そこで改めて、緊急事態を宣言すると実際に何が起きるのか、特措法に沿って検証してみる。首相が宣言すると、知事は、ざっと以下の権限を行使できるようになる。

・みだりに外出しないなど、感染防止に必要な協力を「要請」できる。

・学校、社会福祉施設、興行場等に対し、使用制限や停止等の措置を「要請」できる。

・しかし、応じない時は措置を講ずるよう「指示」できる。

首相からバトンタッチされた後、知事にできることはおよそ要請と指示が全てで、命令はできない。

朝日新聞などが度々指摘してきた「私権の制限」の危険性は特措法の次の部分に限られる。

・臨時の医療施設を開設するため土地、家屋、物資を使用する必要のあるときは、「所有者の同意」を得て、土地等を使用できる(49条1項)

・同意が得られないときは、同意なしに利用できる(同条2項)

万が一、日本で感染者が急増して、イタリアやスペイン、ニューヨーク州のような医療崩壊の危険性が見えてきたとき、病床をふやし、出来る限りの命を救わなければならない。新たな病院建設のために空いている土地の一時的提供を知事が求めるのはやむを得ないことであり、それに応えるのは国民の義務であろう。しかも、これは本当に緊急事態に対するための措置で、私権制限だといって危険視するのはおかしい。

日本大学名誉教授の百地章氏が指摘した。

「中国と違って人権を手厚く保障している欧米各国でさえ、国民の外出や移動の禁止、商店の閉鎖などを次々と行っています。フランスでは買い物などを除き全土で国民の外出を禁止しました。米国ではトランプ大統領が国家非常事態を宣言し、カリフォルニア州は実質的な外出禁止令を出しました。理由なく外出した人に罰金まで科す国もあります」

性善説に基づく、限りなく優しい法的枠組みだけで、ウイルスの猛威から国民の命を守れるのか。必要な時には強い力で指導し、戦える国にならねばならない。

『週刊新潮』 2020年4月9日号
日本ルネッサンス 第896回

2020年04月05日

◆医薬品で世界を支配する中国

櫻井よしこ


世界中が武漢ウイルスの襲来で右往左往する中でじっと目を凝らし、この混乱を如何に利用するか、世界を舞台にしたグランドチェスゲームを考えている国がある。他ならぬ中国だ。

彼らは武漢ウイルスへの初期対応を誤り、中国全土のみならず世界全体にウイルスを拡散させた張本人だ。その結果、3月24日現在、世界の感染者は37万4921人、死者は1万6381人に上る。経済はどの国もどの業種も史上最大の下げ幅や落ち込みに苦しんでいる。

中国は全世界にまさに疫病をもたらしたのである。もし、日本が感染源であるとしたら、日本政府も日本国民も、心からのお詫びを全世界に発信していたことだろう。

ところが中国は正反対だ。中国政府の代弁メディアである新華社は3月4日、社説でこう主張した。

「我々には、米国は中国に謝罪し、世界は中国に感謝すべきだと言う権利がある」

周知のように彼らは武漢発のウイルスが恰も米国発であるかのように情報操作中だ。余りに白々しい嘘に、嘘をついてはならないと教育されて育った日本人はどう反応してよいか分からず、笑って、次に深く嘆息する。

中国の企みを軽くとらえてはならない。彼らが如何に熱心に、かつ執拗に事実の書き換えを行うか。その結果、一かけらの真実も含んでいなかった虚偽が事実と認定されてきた。この種の中国の捏造に散々苦しめられてきたのが、私たち日本人である。

「南京大虐殺」も「慰安婦性奴隷」も中国に捏造されてきた。捏造は世界に拡散され、それを信ずる一定の国際世論が形成されてしまった。当初、日本人は余りに見え透いた嘘であるから、時間の経過と共に忘れ去られると考えたが、事実は正反対となった。

従って、今回も武漢ウイルスの発生由来の書き換えを断じて許してはならないのである。そのために私はCOVID-19などという紛らわしい呼称ではなく、このウイルスを武漢ウイルスと呼んでいる。

「米国を恫喝」

中国共産党は建国百年の年までに、人類運命共同体である地球の盟主として世界の諸民族の中にそびえ立つことを目指している。中華民族の偉大なる復興を切望する彼らは武漢ウイルスという禍禍しいものは中華世界の産物であってはならないと固く信じている。禍禍しさや非難されるべき事柄は中国以外の野蛮国の問題であるべきで、中国とは無関係でなければならないと考える。

たとえば戦時においては中国軍こそ住民を虐殺したが、そのような蛮行は全て日本軍によるものでなければならないと考え、彼らは歴史を捏造した。同様に彼らは、いまウイルス禍は米国由来でなければならないと決めているのであろう。

世界の盟主たる中国はむしろ武漢ウイルスを賢く克服したモデル国であり、世界のリーダーたる資格は米国ではなく中国にあると思いを定めているのである。

そこで俄かに浮上したのが中国の強力な武器としての医薬品である。先の新華社の社説はこうも主張した。

「中国は医薬品の輸出規制をすることも可能だ。その場合、米国はコロナウイルスの大海に沈むだろう」

鮮やかな記憶が蘇る。レアアースだ。尖閣諸島の海で中国船が海上保安庁の船に体当たりし、中国人船長らの身柄を日本側が確保したとき、中国は日本に対するレアアースの輸出制限に踏み切った。今回はレアアースの代わりに医薬品だ。

中国の国営メディアの右の発信は中国政府の意思表示そのものである。3月11日、フロリダ州選出の共和党上院議員マルコ・ルビオ氏が「FOX
NEWS」で警戒心もあらわに語ったのは当然であろう。ルビオ氏は率直に述べている。

「中国は医薬品供給を断つと言って米国を恫喝できる。その場合、我々が彼らと戦うことは非常に難しくなる」

実情を見ると、ルビオ氏の発言は米国の置かれた苦しい立場を表現したものといえる。中国はまさに世界の医薬品生産の主力にのし上がって久しいのである。医薬品の研究・開発においては米国が世界のトップ水準を保っているが、製薬業の主体を担う力はすでに中国に移っている。たとえば中国の医薬品市場は2017年に1230億ドル(約13兆5000億円)規模だったが、22年までに1750億ドル(約19兆3000億円)規模に成長すると見られている。

他方、米国における薬の製造は下降線を辿る一方だ。多くの人の命を救ったペニシリンは米国が製造した最後の主要な医薬品となった。それ以降、米国は抗生物質の80〜90%、鎮痛・解熱剤の70%、血栓症防止薬としてのヘパリンの40%などを中国に依存してきた。

米国の消費者向け医薬品の主要成分の80%以上が主に中国からの輸入品だとする統計もある。

諸国民の命を左右

このような状況下では、中国は特定の医薬品輸出を止めたり、逆に加速したりすることで、相手国に甚大な被害を与えることが出来る。人命に関わるだけに、レアアースよりも切実な影響を及ぼすだろう。それだけ中国の立場は有利になるということでもある。

米中貿易戦争の中で焦点のひとつとなったのが強力な鎮痛薬、合成オピオイドのフェンタニルだった。効果はモルヒネの100倍とも言われる。米国の疾病予防センター(CDC)の発表では17年の米国の薬物過剰摂取による死者は7万人余り、内2万8000人余りがフェンタニルが原因だった。こうした事態を受けて、17年10月、トランプ大統領はフェンタニルをはじめとする鎮痛剤の不正利用の蔓延を防ぐべく、非常事態を宣言した。

18年12月、トランプ氏がアルゼンチンにおける習近平氏との首脳会談で、フェンタニルの対米輸出を取り締まるよう強く要請したのには十分な理由があったのだ。

だが、トランプ氏が要請しても、中国からのフェンタニルの対米輸出がすぐに減少したわけではない。中国の科学技術部が、フェンタニルを米国に輸出する企業に助成金を支払い続けていた事実も報道された。

19年4月になって中国の公安部、国家衛生健康委員会はようやく、フェンタニルの規制を翌月1日から実施すると発表した。但し、中国側は「米国におけるフェンタニル類物質の主要流入元は中国ではない」との主張を最後まで取り下げなかった。

中国は、世界の生産量の圧倒的シェアを握るマスクなどを救援物資として与えて、諸国から賛辞を受けている。しかし、武漢ウイルスで表面化したサプライチェーン問題は、中国が世界の医薬品をコントロールし、わずかな戦略の変更で諸国の国民の命を左右する力を手にした事実も明らかにした。日本も米国も、あらゆる意味で中国への依存度を急いで下げていかなければならない。

『週刊新潮』 2020年4月2日号
日本ルネッサンス 第895回

2020年04月02日

◆メディアこそ武漢ウイルス克服の最大の障害

櫻井よしこ


安倍晋三首相のメッセージをどう受けとめ、どう活かすか。それは日本人が武漢ウイルスとどのように戦い、どのように日本を守っていくかという問いでもある。

武漢ウイルス感染症に関する特別措置法の改正を受けて行った3月14日の会見で、首相は終始謙虚だったと私は思う。まず、法案成立に協力した与野党に感謝し、緊急事態に至ったと判断した場合、同法に基づいて、蔓延防止と社会機能の維持のため、様々な措置を取ることが可能となるが、それはあくまで万が一のための備えであると説明した。

「そうした事態にならないよう、国民の皆様に大変な御苦労と御不便をお願いしながら、政府と自治体が一体となって懸命に感染拡大防止策を講じております」と丁寧に語り、いま休校で卒業式にも出られないかもしれない児童や生徒には「思い出を作る大切な時期」なのに、「大変申し訳なく思っています」と気配りを示した。

医学専門誌「ランセット」は3月9日の論文で各国政府に向けて「新型コロナウイルスによる死者の最少化と、ウイルス拡散による経済損失の最小化は両立できない」と発表した。つまりウイルスの犠牲者を出さないためには人々の行動を制限せざるを得ず、そうすれば経済成長など全く期待できない。二つを同時に実現することは困難だということだ。

その厳しい現実を踏まえて、首相は、現在は感染拡大の防止が最優先であること、しかしその後は日本経済を成長軌道に戻すためにこれまでにない発想で思い切った措置を講ずると決意を語り、会見をこう結んだ。

「いかなる困難も力を合わせれば必ずや克服することができる。打ち勝つことができる。私はそう確信しています」

これはまさしく国民への信頼の表明であり、政府は国民と共に全力を尽くすという誓いの言葉でもある。欧州でも米国でも急速に拡散しているウイルスに対処するには何よりも力を合わせることが大事だ。私たちは、今、力を合わせられるか、その分岐点にいる。

「安倍独裁」

だが首相の発言を受けての質疑応答を聞いて、一部メディアの姿勢に私は強い違和感を抱いた。まず内閣記者会の幹事社、東京・中日新聞の後藤氏は、特別措置法改正で、首相が緊急事態宣言を出せるようになったが、国民の間には権利が制限されることへの懸念が根強い、どういう状況で発令されるのかと、質した。

会見の最後の質問も、ある意味右の質問に重複する内容だった。インターネット報道メディアのIWJ代表、岩上安身氏の質問である。論点は以下のとおりだ。

緊急事態宣言発令で言論・報道の自由は担保されるのか。首相は改憲に大変熱心だが、今回の緊急事態宣言で国民をならし、その後に自民党改憲案に盛り込まれている緊急事態条項を導入するのではないか。安倍独裁を可能にする内容を含んでいる。その点について答えよというものだ。

岩上氏は「安倍独裁」といとも簡単に口にしたが、緊急事態宣言について理解したうえで質したのだろうか。確かに緊急事態を宣言するのは首相である。しかしこれまで繰り返し説明があったように、宣言に当たってはまず専門家の意見を聞き入れると首相は言っている。その上で、首相が緊急事態を宣言した場合、そこから先は都道府県の知事たちの仕事だ。岩上氏や後藤氏が言う「私権の制限」は知事の指示を受けて各自治体が行う。

従って本来考えなければならない課題は、各自治体がどのような具体策を打ち出すかということだ。地元の医師会も教育界も経済界も、知事と問題意識を共有し、相互に意思疎通をはかれるようにしておかなければならない。まさに自治体の問題意識と能力が問われるのである。

しかし現実を見れば、適切に決定し、実行できる自治体ばかりではないだろう。だからこそ、万一の場合、どのような基準とタイミングで具体策に踏み切るのか、危機対応の手引きが必要だろう。この枠組みの中で心配すべきは首相による独裁でもなく、言論の自由の制限でもなく、各知事と自治体のための緊急計画の作成と吟味ではないのか。

首相会見を受けて、朝日新聞は15日、3面に大きな記事を掲載した。「会見打ち切りめぐり騒然」という見出しが印象的だった。首相会見は52分間行われ、12人が質問したと書いていたが、それでも不十分だと不満ばかりの記事だった。

丁度同じ頃手元に届いた米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」(WSJ)の社説に、私は心引かれた。米国で感染が拡大中なのは周知のとおりだ。この社説が掲げられた日に、トランプ大統領は非常事態を宣言し、500億ドル(5兆4000億円)の予算で検査・治療態勢を拡充すると発表した。出遅れた感のある米国が全力でウイルス対策をとり始めた局面での社説は「アメリカは自ら閉じる」という見出しで、次のような書き出しだ。

米国人の精神は前向き

「米国民が新型コロナウイルスと対峙する姿はフロンティア精神を想起させ心打たれる。大多数の米国人は自らの命と共同体への明確かつ直接的な脅威に向き合い、生き残るために自らの責任を果たしている」

米国人はいつもフロンティア精神で困難を乗り越えてきた。各自がやるべきことをやり遂げて自身を守り、国を守った。そのよき伝統が眼前に蘇っている、というのである。

米国人が実践し始めた「距離を置く社会」の例として、企業は社員に在宅勤務を勧め、多数が集まる催し物は取りやめたと書く。株式市場は前代未聞の大幅な下げを記録したが、距離を置くことで初めてウイルス禍は緩和できるとも言う。ウイルスとの戦いと経済の維持は両立しないため、耐えなければならない。全ての関係当局はその件について、現状を心配してはいるが、忍耐強く活力ある米国民に語りかけよ、というのである。

米国人の精神は前向きだ。国民のその心に語りかけ、ウイルスと戦う重要性を説けということだ。ウイルスと戦う過程でとてつもない経済的損失を蒙るのは避けられないが、そのことについても十分に知らせて、共に乗り切っていこうという、極めて健全な前向きの精神の発露が、WSJの社説だった。

14日の日本経済新聞で知ったのだが、株式市場における今回の史上最大の下げ幅は、野村証券の高田将成氏の計算によると、「1600億年に一度」の発生確率だそうだ。

予想を超える株式市場の混乱。予想しにくいウイルスの振舞い。世界の政治も力学も予想をはるかに超越していきつつある。こんな時こそ、勇気を奮って前向きにならずしてどうするのだ。日本人よ、いま、しっかりすべきときだ。

『週刊新潮』 2020年3月26日号
日本ルネッサンス 第894回

2020年03月27日

◆武漢肺炎、制圧に向けさらに力を尽くそう

櫻井よしこ


小中高全校休校などの緊急措置はいつ解除できるのか。武漢ウイルスとの国を挙げての戦いについて、3月9日、政府の専門家会議は、あと10日間、19日頃まで「大規模イベントの自粛など感染防止措置は続けてほしい」と、呼びかけた。

加藤勝信厚労大臣も専門家会議の意見を踏まえて、15日を目途に次の段階を示す方針を発表する予定だ。

現在までの所、日本と日本国民は頑張っている。初動段階で対策が遅れたことは否めない。しかし、クルーズ船を除けば、3月10日時点で日本の死者は9名、感染者は530名だ。他方、イタリア、フランスの死者は各々463名と30名、感染者は四桁台である。米国の有力紙「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)は日本の対応が悪いと批判したが、米国での死者22名も感染者754名も日本のそれを超えている。数字で見る日本の対応は一応評価に値するのではないか。

但し、問題はこれからだ。私たちは武漢ウイルスの蔓延を防げるのか、その瀬戸際に立たされている状況に変化はない。これからもう少しの期間が本当に頑張り時だ。国民全員が協力し合い、とりわけ、感染した場合の危険が大きいお年寄りや基礎疾患のある人たちを守りきることが最重要課題だ。まさに私たちの力が試されている。

そこで強調したい。こういう時こそ、全てのエネルギーと時間を前向きに活用しよう、と。不平不満や文句を、前向きの提言に変えていこう。不平不満は往々にして不毛の結果しか生まない。文句ばかり言う人は人の心を打たず、従って他者に前向きの動きを促すこともできない。その一例が元外務審議官の田中均氏ではあるまいか。

厳しい政権批判

氏は3月9日、BSフジの「プライムニュース」で政府の全校休校措置を批判した。大事なのは子供よりも高齢者への措置だというのだ。

前述のように高齢者のリスクは高い。従って氏の指摘は正しい。しかし、周りを見ると、お年寄りを預かる各種施設や病院はすでに対策をとっている。2月の早い段階で外来の見舞いを断り、家族でさえも会えなくなっているケースが圧倒的だ。

田中氏は安倍晋三首相の一連の措置は不適切で、説明責任を果たしていないと再三批判したが、私は釈然としない想いでそれを聞いた。氏は安倍首相にお年寄りのための施策を打ち出すよう前向きに提言すればよいだけだろう。すでに多くの手が打たれてはいるが、不足の分は補われていくに違いない。氏の不平だらけの姿勢からは物事を前に進める力は生まれてこないのではないかと思う。そして私はつい、昔のことを思い出す。

小泉純一郎政権当時、氏は外務省アジア大洋州局長として、北朝鮮の代理人である「ミスターX」らと非公式に30回近く交渉した。2006年頃、安倍氏は日朝交渉の全記録を読もうとしたが、2回分が欠落していた。欠落部分について質された田中氏は「私は知らない」と答えたが、その2回分の記録の中に、日朝国交正常化に当たって1兆円規模の経済協力資金を提供するとの重要な合意が記載されていたのではないかという疑念が持たれている。「知らない」で済まされるような事案ではないが、氏は未だに説明責任を果たしていない。このような人物だから、安倍首相が不信感を抱き氏を重用しなかったのは当然であろう。

田中氏がいま武漢ウイルスの件でとりわけ厳しい政権批判を展開しているのにはこうした背景も、或いは影響しているのかと、考えてしまう。少なくとも、氏の非難一方の論調からは、武漢ウイルス禍に力を合わせて戦おうという今、日本に必要な前向きの力は感じられない。

立憲民主党の枝野幸男氏も蓮舫氏も同様だ。両氏は居丈高に首相の措置を非難するが、インターネット上の「Dappiさん」の国会分析を見ると、彼らこそ反省が必要だと思えてくる。Dappiさんは各党がどんな質問にどれくらいの時間を費やしているかを円グラフにした。

それによると、1月27日から30日までの間、立憲民主党は衆参両院で国会質問時間の58%、約6割を「桜を見る会」の質問に当てているが、これは共産党と共に突出している。さらに2月17日の衆議院予算委員会では、3時間1分の質問時間の全てを「桜」に費やした。

2月17日は政府のチャーター機第5便が到着しててんやわんやの日だった。しかし、立憲民主党はそんなことは全く気にしないのか。ひたすら「桜を見る会」を追及した。国民の命を脅かす武漢ウイルスへの危機感はあったのか、疑問である。

中国ベタ褒めのWHO

ようやく武漢ウイルスに取り組む姿勢を見せ始めたのはよいが、立憲民主党も田中氏も反対のための反対、批判のための批判に終始するのでなく、もっと与党に協力したらどうか。3.11の大悲劇が発生したとき、当時野党だった自民党は全面的に民主党政権に協力した。

武漢ウイルスに関して、眼前のマスクやトイレットペーパーも大事かもしれないが、政治家、とりわけ首相は同時にもうひとつの大事なことに目を向ける必要がある。日本国の危機管理だ。

中国は武漢ウイルスは中国発ではないという、黒を白と言いくるめる虚偽宣伝を展開中だ。「人民網」は3月8日、中国の新たな感染者は4人にとどまり、全員が海外からの輸入症例だと報じた。彼らは、中国は「人類運命共同体」の理念で「世界保健機関(WHO)や国際社会と情報を共有し、感染の世界的拡大を防いできた」と主張する。WHO事務局長のテドロス氏は「中国の講じた大規模な感染予防・抑制行動によって世界はより安全になった」、国連事務総長のグテーレス氏は「中国国民は正常な生活を犠牲にすることで全人類に貢献した」と各々称賛した。

中国ベタ褒めのWHOに、中国政府は7日、2000万ドルの寄付を発表したが、資金力で国連を自家薬籠中の物としつつ、いまやウイルスを持ち込んだのは米国だとの情報さえ流布している。ウイルス抑制に成功した中国と失敗した日本という対比も強調する。

武漢ウイルスを含めて中国渡来の少なからぬ禍で、最も直接的な影響を受けるのがわが国だ。だからこそ、中国と助け合うにしても日本は虚偽宣伝に負けないよう情報発信能力を高め、自らの国益を守らなくてはならない。国際社会で生き残るには、日本をきちんと理解できる味方が必要であるから、情報発信が鍵となる。

加えて、緊急時において「要請」どまりになってしまう現在の政府権限ではウイルス対策は機能しない。政府に強制力を持たせるべく法を整備し、根拠を憲法に定めるべきだ。

『週刊新潮』 2020年3月19日号
日本ルネッサンス 第893回

2020年03月24日

◆武漢肺炎、制圧に向けさらに力を尽くそう

櫻井よしこ


小中高全校休校などの緊急措置はいつ解除できるのか。武漢ウイルスとの国を挙げての戦いについて、3月9日、政府の専門家会議は、あと10日間、19日頃まで「大規模イベントの自粛など感染防止措置は続けてほしい」と、呼びかけた。

加藤勝信厚労大臣も専門家会議の意見を踏まえて、15日を目途に次の段階を示す方針を発表する予定だ。

現在までの所、日本と日本国民は頑張っている。初動段階で対策が遅れたことは否めない。しかし、クルーズ船を除けば、3月10日時点で日本の死者は9名、感染者は530名だ。他方、イタリア、フランスの死者は各々463名と30名、感染者は四桁台である。米国の有力紙「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)は日本の対応が悪いと批判したが、米国での死者22名も感染者754名も日本のそれを超えている。数字で見る日本の対応は一応評価に値するのではないか。

但し、問題はこれからだ。私たちは武漢ウイルスの蔓延を防げるのか、その瀬戸際に立たされている状況に変化はない。これからもう少しの期間が本当に頑張り時だ。国民全員が協力し合い、とりわけ、感染した場合の危険が大きいお年寄りや基礎疾患のある人たちを守りきることが最重要課題だ。まさに私たちの力が試されている。

そこで強調したい。こういう時こそ、全てのエネルギーと時間を前向きに活用しよう、と。不平不満や文句を、前向きの提言に変えていこう。不平不満は往々にして不毛の結果しか生まない。文句ばかり言う人は人の心を打たず、従って他者に前向きの動きを促すこともできない。その一例が元外務審議官の田中均氏ではあるまいか。

厳しい政権批判

氏は3月9日、BSフジの「プライムニュース」で政府の全校休校措置を批判した。大事なのは子供よりも高齢者への措置だというのだ。

前述のように高齢者のリスクは高い。従って氏の指摘は正しい。しかし、周りを見ると、お年寄りを預かる各種施設や病院はすでに対策をとっている。2月の早い段階で外来の見舞いを断り、家族でさえも会えなくなっているケースが圧倒的だ。

田中氏は安倍晋三首相の一連の措置は不適切で、説明責任を果たしていないと再三批判したが、私は釈然としない想いでそれを聞いた。氏は安倍首相にお年寄りのための施策を打ち出すよう前向きに提言すればよいだけだろう。すでに多くの手が打たれてはいるが、不足の分は補われていくに違いない。氏の不平だらけの姿勢からは物事を前に進める力は生まれてこないのではないかと思う。そして私はつい、昔のことを思い出す。

小泉純一郎政権当時、氏は外務省アジア大洋州局長として、北朝鮮の代理人である「ミスターX」らと非公式に30回近く交渉した。2006年頃、安倍氏は日朝交渉の全記録を読もうとしたが、2回分が欠落していた。欠落部分について質された田中氏は「私は知らない」と答えたが、その2回分の記録の中に、日朝国交正常化に当たって1兆円規模の経済協力資金を提供するとの重要な合意が記載されていたのではないかという疑念が持たれている。「知らない」で済まされるような事案ではないが、氏は未だに説明責任を果たしていない。このような人物だから、安倍首相が不信感を抱き氏を重用しなかったのは当然であろう。

田中氏がいま武漢ウイルスの件でとりわけ厳しい政権批判を展開しているのにはこうした背景も、或いは影響しているのかと、考えてしまう。少なくとも、氏の非難一方の論調からは、武漢ウイルス禍に力を合わせて戦おうという今、日本に必要な前向きの力は感じられない。

立憲民主党の枝野幸男氏も蓮舫氏も同様だ。両氏は居丈高に首相の措置を非難するが、インターネット上の「Dappiさん」の国会分析を見ると、彼らこそ反省が必要だと思えてくる。Dappiさんは各党がどんな質問にどれくらいの時間を費やしているかを円グラフにした。

それによると、1月27日から30日までの間、立憲民主党は衆参両院で国会質問時間の58%、約6割を「桜を見る会」の質問に当てているが、これは共産党と共に突出している。さらに2月17日の衆議院予算委員会では、3時間1分の質問時間の全てを「桜」に費やした。

2月17日は政府のチャーター機第5便が到着しててんやわんやの日だった。しかし、立憲民主党はそんなことは全く気にしないのか。ひたすら「桜を見る会」を追及した。国民の命を脅かす武漢ウイルスへの危機感はあったのか、疑問である。

中国ベタ褒めのWHO

ようやく武漢ウイルスに取り組む姿勢を見せ始めたのはよいが、立憲民主党も田中氏も反対のための反対、批判のための批判に終始するのでなく、もっと与党に協力したらどうか。3.11の大悲劇が発生したとき、当時野党だった自民党は全面的に民主党政権に協力した。

武漢ウイルスに関して、眼前のマスクやトイレットペーパーも大事かもしれないが、政治家、とりわけ首相は同時にもうひとつの大事なことに目を向ける必要がある。日本国の危機管理だ。

中国は武漢ウイルスは中国発ではないという、黒を白と言いくるめる虚偽宣伝を展開中だ。「人民網」は3月8日、中国の新たな感染者は4人にとどまり、全員が海外からの輸入症例だと報じた。彼らは、中国は「人類運命共同体」の理念で「世界保健機関(WHO)や国際社会と情報を共有し、感染の世界的拡大を防いできた」と主張する。WHO事務局長のテドロス氏は「中国の講じた大規模な感染予防・抑制行動によって世界はより安全になった」、国連事務総長のグテーレス氏は「中国国民は正常な生活を犠牲にすることで全人類に貢献した」と各々称賛した。

中国ベタ褒めのWHOに、中国政府は7日、2000万ドルの寄付を発表したが、資金力で国連を自家薬籠中の物としつつ、いまやウイルスを持ち込んだのは米国だとの情報さえ流布している。ウイルス抑制に成功した中国と失敗した日本という対比も強調する。

武漢ウイルスを含めて中国渡来の少なからぬ禍で、最も直接的な影響を受けるのがわが国だ。だからこそ、中国と助け合うにしても日本は虚偽宣伝に負けないよう情報発信能力を高め、自らの国益を守らなくてはならない。国際社会で生き残るには、日本をきちんと理解できる味方が必要であるから、情報発信が鍵となる。

加えて、緊急時において「要請」どまりになってしまう現在の政府権限ではウイルス対策は機能しない。政府に強制力を持たせるべく法を整備し、根拠を憲法に定めるべきだ。

『週刊新潮』 2020年3月19日号
日本ルネッサンス 第893回

2020年03月21日

◆武漢肺炎、制圧に向けさらに力を尽くそう

櫻井よしこ


小中高全校休校などの緊急措置はいつ解除できるのか。武漢ウイルスとの国を挙げての戦いについて、3月9日、政府の専門家会議は、あと10日間、19日頃まで「大規模イベントの自粛など感染防止措置は続けてほしい」と、呼びかけた。

加藤勝信厚労大臣も専門家会議の意見を踏まえて、15日を目途に次の段階を示す方針を発表する予定だ。

現在までの所、日本と日本国民は頑張っている。初動段階で対策が遅れたことは否めない。しかし、クルーズ船を除けば、3月10日時点で日本の死者は9名、感染者は530名だ。他方、イタリア、フランスの死者は各々463名と30名、感染者は四桁台である。米国の有力紙「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)は日本の対応が悪いと批判したが、米国での死者22名も感染者754名も日本のそれを超えている。数字で見る日本の対応は一応評価に値するのではないか。

但し、問題はこれからだ。私たちは武漢ウイルスの蔓延を防げるのか、その瀬戸際に立たされている状況に変化はない。これからもう少しの期間が本当に頑張り時だ。国民全員が協力し合い、とりわけ、感染した場合の危険が大きいお年寄りや基礎疾患のある人たちを守りきることが最重要課題だ。まさに私たちの力が試されている。

そこで強調したい。こういう時こそ、全てのエネルギーと時間を前向きに活用しよう、と。不平不満や文句を、前向きの提言に変えていこう。不平不満は往々にして不毛の結果しか生まない。文句ばかり言う人は人の心を打たず、従って他者に前向きの動きを促すこともできない。その一例が元外務審議官の田中均氏ではあるまいか。

厳しい政権批判

氏は3月9日、BSフジの「プライムニュース」で政府の全校休校措置を批判した。大事なのは子供よりも高齢者への措置だというのだ。

前述のように高齢者のリスクは高い。従って氏の指摘は正しい。しかし、周りを見ると、お年寄りを預かる各種施設や病院はすでに対策をとっている。2月の早い段階で外来の見舞いを断り、家族でさえも会えなくなっているケースが圧倒的だ。

田中氏は安倍晋三首相の一連の措置は不適切で、説明責任を果たしていないと再三批判したが、私は釈然としない想いでそれを聞いた。氏は安倍首相にお年寄りのための施策を打ち出すよう前向きに提言すればよいだけだろう。すでに多くの手が打たれてはいるが、不足の分は補われていくに違いない。氏の不平だらけの姿勢からは物事を前に進める力は生まれてこないのではないかと思う。そして私はつい、昔のことを思い出す。

小泉純一郎政権当時、氏は外務省アジア大洋州局長として、北朝鮮の代理人である「ミスターX」らと非公式に30回近く交渉した。2006年頃、安倍氏は日朝交渉の全記録を読もうとしたが、2回分が欠落していた。欠落部分について質された田中氏は「私は知らない」と答えたが、その2回分の記録の中に、日朝国交正常化に当たって1兆円規模の経済協力資金を提供するとの重要な合意が記載されていたのではないかという疑念が持たれている。「知らない」で済まされるような事案ではないが、氏は未だに説明責任を果たしていない。このような人物だから、安倍首相が不信感を抱き氏を重用しなかったのは当然であろう。

田中氏がいま武漢ウイルスの件でとりわけ厳しい政権批判を展開しているのにはこうした背景も、或いは影響しているのかと、考えてしまう。少なくとも、氏の非難一方の論調からは、武漢ウイルス禍に力を合わせて戦おうという今、日本に必要な前向きの力は感じられない。

立憲民主党の枝野幸男氏も蓮舫氏も同様だ。両氏は居丈高に首相の措置を非難するが、インターネット上の「Dappiさん」の国会分析を見ると、彼らこそ反省が必要だと思えてくる。Dappiさんは各党がどんな質問にどれくらいの時間を費やしているかを円グラフにした。

それによると、1月27日から30日までの間、立憲民主党は衆参両院で国会質問時間の58%、約6割を「桜を見る会」の質問に当てているが、これは共産党と共に突出している。さらに2月17日の衆議院予算委員会では、3時間1分の質問時間の全てを「桜」に費やした。

2月17日は政府のチャーター機第5便が到着しててんやわんやの日だった。しかし、立憲民主党はそんなことは全く気にしないのか。ひたすら「桜を見る会」を追及した。国民の命を脅かす武漢ウイルスへの危機感はあったのか、疑問である。

中国ベタ褒めのWHO

ようやく武漢ウイルスに取り組む姿勢を見せ始めたのはよいが、立憲民主党も田中氏も反対のための反対、批判のための批判に終始するのでなく、もっと与党に協力したらどうか。3.11の大悲劇が発生したとき、当時野党だった自民党は全面的に民主党政権に協力した。

武漢ウイルスに関して、眼前のマスクやトイレットペーパーも大事かもしれないが、政治家、とりわけ首相は同時にもうひとつの大事なことに目を向ける必要がある。日本国の危機管理だ。

中国は武漢ウイルスは中国発ではないという、黒を白と言いくるめる虚偽宣伝を展開中だ。「人民網」は3月8日、中国の新たな感染者は4人にとどまり、全員が海外からの輸入症例だと報じた。彼らは、中国は「人類運命共同体」の理念で「世界保健機関(WHO)や国際社会と情報を共有し、感染の世界的拡大を防いできた」と主張する。WHO事務局長のテドロス氏は「中国の講じた大規模な感染予防・抑制行動によって世界はより安全になった」、国連事務総長のグテーレス氏は「中国国民は正常な生活を犠牲にすることで全人類に貢献した」と各々称賛した。

中国ベタ褒めのWHOに、中国政府は7日、2000万ドルの寄付を発表したが、資金力で国連を自家薬籠中の物としつつ、いまやウイルスを持ち込んだのは米国だとの情報さえ流布している。ウイルス抑制に成功した中国と失敗した日本という対比も強調する。

武漢ウイルスを含めて中国渡来の少なからぬ禍で、最も直接的な影響を受けるのがわが国だ。だからこそ、中国と助け合うにしても日本は虚偽宣伝に負けないよう情報発信能力を高め、自らの国益を守らなくてはならない。国際社会で生き残るには、日本をきちんと理解できる味方が必要であるから、情報発信が鍵となる。

加えて、緊急時において「要請」どまりになってしまう現在の政府権限ではウイルス対策は機能しない。政府に強制力を持たせるべく法を整備し、根拠を憲法に定めるべきだ。

『週刊新潮』 2020年3月19日号
日本ルネッサンス 第893回

2020年03月18日

◆ウイルス・経済・外交、行き詰まった習近平

櫻井よしこ


中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルス封じで、安倍晋三首相が矢継ぎ早に対策を打ち出した。

2月25日には基本方針を決定し、各種イベントの一律自粛は求めないが、各団体は開催の必要性を再検討してほしいと要請した。

26日、日本が武漢ウイルス蔓延を防げるか否か、今後2週間が岐路になるとの専門家の意見を容れて、首相は多数の観客が集まるスポーツ・文化事業の主催団体に対し、同期間の行事の中止、延期、規模縮小などを明確に要請した。

「首相要請」の影響は大きく、朝日新聞はこれを同日夕刊の1面トップで報道し、以降、全国にイベント中止の動きが広がった。

27日、首相はすべての小・中・高及び特別支援学校に週明けの3月2日から春休みまで臨時休校にするよう要請した。

一連の首相判断があって初めて、世の中全体が武漢ウイルスと戦う形ができたといえる。いまは日本全体が小異を捨て、一致して首相判断に基づきウイルス蔓延を防ぐときだ。

無論批判もある。「唐突で急拵えだ」(岸田文雄政調会長)、「撤回すべきだ」(立憲民主党副代表・蓮舫氏)などを筆頭に地方自治体の首長らからも不満や批判の声があるが、本気か。ウイルス襲来に十分な体制で臨めるのであればそれが最善だ。が、首相も言っている。「判断に時間をかけているいとまがない中、政治的判断をしなければならない」と決意したと。

走りながらの対策が必要なのが今であろう。現場の混乱は十分承知だが、今はウイルス拡散を抑えることが最重要だ。与党も野党もなく、武漢ウイルスを国難ととらえ、全員が努力する時期だ。私は首相の決断を高く評価する。

日本政府、とりわけ厚労省の初動の遅れは中国や中国の影響下にある世界保健機関(WHO)の情報を信じたことが原因のひとつである。中国における武漢ウイルス拡散の実態は発表されているよりはるかに悪い。私はその点を先週当欄で報告したが、中国側から興味深い反応があった。

「ザーサイ指数」

武漢ウイルスの感染拡大を中国当局が隠蔽していると報じた中で、私は、感染が広東省にも広がっていること、そのひとつの証左として病院とはいえない鉄格子つきのプレハブ収容施設が突貫工事で建設されていることを報じた。

同じ内容の情報を私は2月23日、フジテレビの朝の番組「日曜報道 THE
PRIME」でも語ったのだが、私の引用した中国メディアの「21財経」がすぐに「追加取材」して、病院建設は中止されていると報じたのである。広東省での感染拡大を否定しようという意図だろうか。

少なくともこの素早い反応から読みとれるのは、中国側が武漢ウイルスに関する国際社会の報道を隅々まで監視しているという点だ。「独立系メディア」と思われていた「21財経」も、当然といえば当然だが、中国政府の手の内にあることを忘れてはいけないということだ。

中国で育ち、中国社会を知悉している産経新聞外信部次長の矢板明夫氏が中国情報の危うさに関して「ザーサイ指数」という言葉を教えてくれた。ざっと以下のような意味だ。

中国の統計が信じ難いことは、中国経済の責任者である李克強首相も公に認めてきた。地方政府など下から上がってくる数字は全て、中央政府の喜ぶ傾向を示しており、そんなものを信用していたのでは判断を誤る。

そこで李氏らは農民工とザーサイの関係に目をつけた。社会の底辺で働く農民工の増加はすなわち、実体経済が盛んであることを意味する。農民工の増減をどのように調べるか。彼らは貧しく多くが男性で、食事はたっぷりのザーサイをおかずにした山盛りのご飯だ。よって、ザーサイの売り上げ増加は農民工の増加、生産活動の活発化、景気の拡大を意味するとの理屈で中国政府はザーサイの売り上げを参考にするようになった。

しかし、そこから先がいかにも中国らしいと矢板氏は笑う。

「数年前にザーサイ指数について報じられると、地方政府がザーサイ売り上げの水増し報告を始めたのです。結局旧(もと)の木阿弥です」

中国経済の実態を一番正確に示すのが➀中長期貸出残高、➁電力消費量、➂鉄道貨物輸送量の対前年比伸び率を一定の方式で組み合わせて計算された数字だと言われている。この点も矢板氏は疑問視する。

「地方政府は何とか認めてもらおうと、中央政府の聞きたい数字を作成します。基礎的統計でさえもそこに中央政府が注目していると判断すれば、地方政府は当然、手を加えます」

人民の政府への怒り

最も信頼できると言われる統計でさえも全面的に信じることは難しい。中華民族はどこまで行っても融通無碍なのだ。だがいま、中国経済はもはや隠しようもなく大きく落ち込んでいる。「日本経済新聞」が3月1日付で、景気指数で最も信頼できるといわれる製造業の購買担当者景気指数(PMI)が、2月は市場予想の46を大きく下回る35.7だったと報じた。リーマン危機よりもっと深刻だ。

こうした緊急事態で、習近平政権は情報のコントロールにしても、人民の統制にしても、国家の秩序を維持し自身の政権基盤を守るための、より強硬な締めつけ策に走っている。

今回、武漢ウイルス撲滅の現場に中国人民解放軍(PLA)の姿が全く見えない。地震などの場合、いち早くPLAが投入され、国民に奉仕する軍として喧伝されてきたのとは対照的だ。これは、湖北省を捨て、軍は北京を守るために温存するという習氏の決断の反映ではないか。

中国歴代の王朝は、明も清もペストなどの疫病を一つのきっかけとして滅びた。習氏は、疫病を抑制できなかった場合の人民の政府に対する怒り、その結果としての革命と政権交代の恐さを知っているのである。氏が最も恐れるのは人民の怒りであり、今回の武漢ウイルスを、建国以来の大危機ととらえているはずだ。

中国は事実、49年の成立以来の最大の危機に直面している。数年前から経済が悪化する中、トランプ米大統領に貿易戦争を仕掛けられ、経済はさらに落ち込み続けている。ウイグルをはじめとする民族問題について、その非人道的抑圧の実態が、あろうことか中国共産党内部からの告発で国際社会の知るところとなった。ウイグル問題が香港問題につながり、さらに台湾で民進党の蔡英文氏に大勝利をもたらした。中国共産党は深い傷を受けてのた打ち回っている。

米中の対立はこれからも続く。日本がすべきことは、日米両国が他の多くの国々と共有する価値観に基づいて、国際社会を中国化する如何なる動きも抑制していくことだ。武漢ウイルスへの対応で当初見せたように、中国からの情報に惑わされることは決して繰り返してはならない。

『週刊新潮』 2020年3月12日

2020年03月17日

◆ウイルス・経済・外交、行き詰まった習近平

櫻井よしこ


中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルス封じで、安倍晋三首相が矢継ぎ早に対策を打ち出した。

2月25日には基本方針を決定し、各種イベントの一律自粛は求めないが、各団体は開催の必要性を再検討してほしいと要請した。

26日、日本が武漢ウイルス蔓延を防げるか否か、今後2週間が岐路になるとの専門家の意見を容れて、首相は多数の観客が集まるスポーツ・文化事業の主催団体に対し、同期間の行事の中止、延期、規模縮小などを明確に要請した。

「首相要請」の影響は大きく、朝日新聞はこれを同日夕刊の1面トップで報道し、以降、全国にイベント中止の動きが広がった。

27日、首相はすべての小・中・高及び特別支援学校に週明けの3月2日から春休みまで臨時休校にするよう要請した。

一連の首相判断があって初めて、世の中全体が武漢ウイルスと戦う形ができたといえる。いまは日本全体が小異を捨て、一致して首相判断に基づきウイルス蔓延を防ぐときだ。

無論批判もある。「唐突で急拵えだ」(岸田文雄政調会長)、「撤回すべきだ」(立憲民主党副代表・蓮舫氏)などを筆頭に地方自治体の首長らからも不満や批判の声があるが、本気か。ウイルス襲来に十分な体制で臨めるのであればそれが最善だ。が、首相も言っている。「判断に時間をかけているいとまがない中、政治的判断をしなければならない」と決意したと。

走りながらの対策が必要なのが今であろう。現場の混乱は十分承知だが、今はウイルス拡散を抑えることが最重要だ。与党も野党もなく、武漢ウイルスを国難ととらえ、全員が努力する時期だ。私は首相の決断を高く評価する。

日本政府、とりわけ厚労省の初動の遅れは中国や中国の影響下にある世界保健機関(WHO)の情報を信じたことが原因のひとつである。中国における武漢ウイルス拡散の実態は発表されているよりはるかに悪い。私はその点を先週当欄で報告したが、中国側から興味深い反応があった。

「ザーサイ指数」

武漢ウイルスの感染拡大を中国当局が隠蔽していると報じた中で、私は、感染が広東省にも広がっていること、そのひとつの証左として病院とはいえない鉄格子つきのプレハブ収容施設が突貫工事で建設されていることを報じた。

同じ内容の情報を私は2月23日、フジテレビの朝の番組「日曜報道 THE
PRIME」でも語ったのだが、私の引用した中国メディアの「21財経」がすぐに「追加取材」して、病院建設は中止されていると報じたのである。広東省での感染拡大を否定しようという意図だろうか。

少なくともこの素早い反応から読みとれるのは、中国側が武漢ウイルスに関する国際社会の報道を隅々まで監視しているという点だ。「独立系メディア」と思われていた「21財経」も、当然といえば当然だが、中国政府の手の内にあることを忘れてはいけないということだ。

中国で育ち、中国社会を知悉している産経新聞外信部次長の矢板明夫氏が中国情報の危うさに関して「ザーサイ指数」という言葉を教えてくれた。ざっと以下のような意味だ。

中国の統計が信じ難いことは、中国経済の責任者である李克強首相も公に認めてきた。地方政府など下から上がってくる数字は全て、中央政府の喜ぶ傾向を示しており、そんなものを信用していたのでは判断を誤る。

そこで李氏らは農民工とザーサイの関係に目をつけた。社会の底辺で働く農民工の増加はすなわち、実体経済が盛んであることを意味する。農民工の増減をどのように調べるか。彼らは貧しく多くが男性で、食事はたっぷりのザーサイをおかずにした山盛りのご飯だ。よって、ザーサイの売り上げ増加は農民工の増加、生産活動の活発化、景気の拡大を意味するとの理屈で中国政府はザーサイの売り上げを参考にするようになった。

しかし、そこから先がいかにも中国らしいと矢板氏は笑う。

「数年前にザーサイ指数について報じられると、地方政府がザーサイ売り上げの水増し報告を始めたのです。結局旧(もと)の木阿弥です」

中国経済の実態を一番正確に示すのが➀中長期貸出残高、➁電力消費量、➂鉄道貨物輸送量の対前年比伸び率を一定の方式で組み合わせて計算された数字だと言われている。この点も矢板氏は疑問視する。

「地方政府は何とか認めてもらおうと、中央政府の聞きたい数字を作成します。基礎的統計でさえもそこに中央政府が注目していると判断すれば、地方政府は当然、手を加えます」

人民の政府への怒り

最も信頼できると言われる統計でさえも全面的に信じることは難しい。中華民族はどこまで行っても融通無碍なのだ。だがいま、中国経済はもはや隠しようもなく大きく落ち込んでいる。「日本経済新聞」が3月1日付で、景気指数で最も信頼できるといわれる製造業の購買担当者景気指数(PMI)が、2月は市場予想の46を大きく下回る35.7だったと報じた。リーマン危機よりもっと深刻だ。

こうした緊急事態で、習近平政権は情報のコントロールにしても、人民の統制にしても、国家の秩序を維持し自身の政権基盤を守るための、より強硬な締めつけ策に走っている。

今回、武漢ウイルス撲滅の現場に中国人民解放軍(PLA)の姿が全く見えない。地震などの場合、いち早くPLAが投入され、国民に奉仕する軍として喧伝されてきたのとは対照的だ。これは、湖北省を捨て、軍は北京を守るために温存するという習氏の決断の反映ではないか。

中国歴代の王朝は、明も清もペストなどの疫病を一つのきっかけとして滅びた。習氏は、疫病を抑制できなかった場合の人民の政府に対する怒り、その結果としての革命と政権交代の恐さを知っているのである。氏が最も恐れるのは人民の怒りであり、今回の武漢ウイルスを、建国以来の大危機ととらえているはずだ。

中国は事実、49年の成立以来の最大の危機に直面している。数年前から経済が悪化する中、トランプ米大統領に貿易戦争を仕掛けられ、経済はさらに落ち込み続けている。ウイグルをはじめとする民族問題について、その非人道的抑圧の実態が、あろうことか中国共産党内部からの告発で国際社会の知るところとなった。ウイグル問題が香港問題につながり、さらに台湾で民進党の蔡英文氏に大勝利をもたらした。中国共産党は深い傷を受けてのた打ち回っている。

米中の対立はこれからも続く。日本がすべきことは、日米両国が他の多くの国々と共有する価値観に基づいて、国際社会を中国化する如何なる動きも抑制していくことだ。武漢ウイルスへの対応で当初見せたように、中国からの情報に惑わされることは決して繰り返してはならない。

『週刊新潮』 2020年3月12日 日本ルネッサンス 第892回


2020年03月13日

◆ウイルス・経済・外交、行き詰まった習近平

櫻井よしこ


中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルス封じで、安倍晋三首相が矢継ぎ早に対策を打ち出した。

2月25日には基本方針を決定し、各種イベントの一律自粛は求めないが、各団体は開催の必要性を再検討してほしいと要請した。

26日、日本が武漢ウイルス蔓延を防げるか否か、今後2週間が岐路になるとの専門家の意見を容れて、首相は多数の観客が集まるスポーツ・文化事業の主催団体に対し、同期間の行事の中止、延期、規模縮小などを明確に要請した。

「首相要請」の影響は大きく、朝日新聞はこれを同日夕刊の1面トップで報道し、以降、全国にイベント中止の動きが広がった。

27日、首相はすべての小・中・高及び特別支援学校に週明けの3月2日から春休みまで臨時休校にするよう要請した。

一連の首相判断があって初めて、世の中全体が武漢ウイルスと戦う形ができたといえる。いまは日本全体が小異を捨て、一致して首相判断に基づきウイルス蔓延を防ぐときだ。

無論批判もある。「唐突で急拵えだ」(岸田文雄政調会長)、「撤回すべきだ」(立憲民主党副代表・蓮舫氏)などを筆頭に地方自治体の首長らからも不満や批判の声があるが、本気か。ウイルス襲来に十分な体制で臨めるのであればそれが最善だ。が、首相も言っている。「判断に時間をかけているいとまがない中、政治的判断をしなければならない」と決意したと。

走りながらの対策が必要なのが今であろう。現場の混乱は十分承知だが、今はウイルス拡散を抑えることが最重要だ。与党も野党もなく、武漢ウイルスを国難ととらえ、全員が努力する時期だ。私は首相の決断を高く評価する。

日本政府、とりわけ厚労省の初動の遅れは中国や中国の影響下にある世界保健機関(WHO)の情報を信じたことが原因のひとつである。中国における武漢ウイルス拡散の実態は発表されているよりはるかに悪い。私はその点を先週当欄で報告したが、中国側から興味深い反応があった。

「ザーサイ指数」

武漢ウイルスの感染拡大を中国当局が隠蔽していると報じた中で、私は、感染が広東省にも広がっていること、そのひとつの証左として病院とはいえない鉄格子つきのプレハブ収容施設が突貫工事で建設されていることを報じた。

同じ内容の情報を私は2月23日、フジテレビの朝の番組「日曜報道 THE
PRIME」でも語ったのだが、私の引用した中国メディアの「21財経」がすぐに「追加取材」して、病院建設は中止されていると報じたのである。広東省での感染拡大を否定しようという意図だろうか。

少なくともこの素早い反応から読みとれるのは、中国側が武漢ウイルスに関する国際社会の報道を隅々まで監視しているという点だ。「独立系メディア」と思われていた「21財経」も、当然といえば当然だが、中国政府の手の内にあることを忘れてはいけないということだ。

中国で育ち、中国社会を知悉している産経新聞外信部次長の矢板明夫氏が中国情報の危うさに関して「ザーサイ指数」という言葉を教えてくれた。ざっと以下のような意味だ。

中国の統計が信じ難いことは、中国経済の責任者である李克強首相も公に認めてきた。地方政府など下から上がってくる数字は全て、中央政府の喜ぶ傾向を示しており、そんなものを信用していたのでは判断を誤る。

そこで李氏らは農民工とザーサイの関係に目をつけた。社会の底辺で働く農民工の増加はすなわち、実体経済が盛んであることを意味する。農民工の増減をどのように調べるか。彼らは貧しく多くが男性で、食事はたっぷりのザーサイをおかずにした山盛りのご飯だ。よって、ザーサイの売り上げ増加は農民工の増加、生産活動の活発化、景気の拡大を意味するとの理屈で中国政府はザーサイの売り上げを参考にするようになった。

しかし、そこから先がいかにも中国らしいと矢板氏は笑う。

「数年前にザーサイ指数について報じられると、地方政府がザーサイ売り上げの水増し報告を始めたのです。結局旧(もと)の木阿弥です」

中国経済の実態を一番正確に示すのが➀中長期貸出残高、➁電力消費量、➂鉄道貨物輸送量の対前年比伸び率を一定の方式で組み合わせて計算された数字だと言われている。この点も矢板氏は疑問視する。

「地方政府は何とか認めてもらおうと、中央政府の聞きたい数字を作成します。基礎的統計でさえもそこに中央政府が注目していると判断すれば、地方政府は当然、手を加えます」

人民の政府への怒り

最も信頼できると言われる統計でさえも全面的に信じることは難しい。中華民族はどこまで行っても融通無碍なのだ。だがいま、中国経済はもはや隠しようもなく大きく落ち込んでいる。「日本経済新聞」が3月1日付で、景気指数で最も信頼できるといわれる製造業の購買担当者景気指数(PMI)が、2月は市場予想の46を大きく下回る35.7だったと報じた。リーマン危機よりもっと深刻だ。

こうした緊急事態で、習近平政権は情報のコントロールにしても、人民の統制にしても、国家の秩序を維持し自身の政権基盤を守るための、より強硬な締めつけ策に走っている。

今回、武漢ウイルス撲滅の現場に中国人民解放軍(PLA)の姿が全く見えない。地震などの場合、いち早くPLAが投入され、国民に奉仕する軍として喧伝されてきたのとは対照的だ。これは、湖北省を捨て、軍は北京を守るために温存するという習氏の決断の反映ではないか。

中国歴代の王朝は、明も清もペストなどの疫病を一つのきっかけとして滅びた。習氏は、疫病を抑制できなかった場合の人民の政府に対する怒り、その結果としての革命と政権交代の恐さを知っているのである。氏が最も恐れるのは人民の怒りであり、今回の武漢ウイルスを、建国以来の大危機ととらえているはずだ。

中国は事実、49年の成立以来の最大の危機に直面している。数年前から経済が悪化する中、トランプ米大統領に貿易戦争を仕掛けられ、経済はさらに落ち込み続けている。ウイグルをはじめとする民族問題について、その非人道的抑圧の実態が、あろうことか中国共産党内部からの告発で国際社会の知るところとなった。ウイグル問題が香港問題につながり、さらに台湾で民進党の蔡英文氏に大勝利をもたらした。中国共産党は深い傷を受けてのた打ち回っている。

米中の対立はこれからも続く。日本がすべきことは、日米両国が他の多くの国々と共有する価値観に基づいて、国際社会を中国化する如何なる動きも抑制していくことだ。武漢ウイルスへの対応で当初見せたように、中国からの情報に惑わされることは決して繰り返してはならない。

『週刊新潮』 2020年3月12日日本ルネッサンス 第892回