2017年03月15日

◆日本もチベット支援の先頭に立て

櫻井よしこ


先週、チベット亡命政府の首相、ロブサン・センゲ氏に会い、話を聞く機
会に恵まれた。
 
センゲ首相は現在、政権2期目。2月14日には夫人のケーサン・ヤンドゥン
氏と10歳のメンダ・レワさんと共に衆議院議員会館の講堂で「チベットと
宗教の自由」の演題で45分間語った。中国という、世界で最も厄介な国に
祖国を奪われ、圧迫され続けているチベット人にとって、宗教の自由とは
中国の圧迫とどう向き合うかという命題そのものである。
 
センゲ首相を招いたのは、昨年12月に発足した超党派の「日本チベット国
会議員連盟」(以下議連)である。会長は自民党の下村博文氏、会長代行
は民進党の渡辺周氏、幹事長が日本維新の会の馬場伸幸氏、事務局長は自
民党の長尾敬氏である。議連には、自民、民進、維新、日本のこころから
86名が登録している。
 
国会施設内でセンゲ首相が講演するのは民主党政権下の約5年前に続い
て2度目である。今回も首相のメッセージは明快だった。中国による弾圧
の実態を説明し、中国の蛮行に対して自由と人権を重視するまともな
国々、とりわけ、日本のように歴史も深く、力のある国にどのように振る
舞ってほしいかを、きちんと正面から訴えた立派な演説だった。
 
長尾氏は、「チベットと宗教の自由」という題を選んだときから、セン
ゲ首相の発言内容を議連は予測できていたと語ったが、その意味で、議連
も立派である。
 
センゲ首相は、まず、チベットに関するアメリカの政策について語り始めた。

「アメリカ政府は1991年以来チベットを公式に支援してきました。ホワイ
トハウスにダライ・ラマ法王猊下を招き、ひとつの中国政策を尊重する一
方で、チベットの中道政策も高く評価してきました」

寺院の98%を破壊
 
アメリカは歴代の大統領が必ず、ダライ・ラマ法王をホワイトハウスに招
いてきた。オバマ大統領が、中国訪問を前にして法王との会談を避けたと
きには、大統領への手厳しい批判が各メディアで展開された程だ。アメリ
カはまた、予算の中に公然とチベット支援の項目を立て、種々の名目で
1000万ドル(約11億円)を確保している。
 
ちなみにアメリカが賞賛するチベットの中道政策とは、チベットは自らを
中国の一部と認め、外交や安全保障などを中国政府に任せる一方、チベッ
ト人がチベット仏教を守り、言語、文化、暮らし方など、チベット人らし
く生きる権利を認めるべきだというものだ。

「私たちは真に高度な自治を求めています。アメリカと日本は手を携えて
国際情勢に働きかける関係にあります。アメリカ政府同様、日本政府もひ
とつの中国政策の尊重と、チベットの中道政策支援を両立させ得ます。私
はそれを望んでいます」
 
センゲ首相は、率直に日本の選良に語りかけた。日本は自由主義陣営の大
国である。言論、宗教の自由、人権と民主主義の尊重で主導的役割を担っ
てほしいと。
 
首相は、チベットの歴史に、中国が落とした影を語った。

「チベットは帝国でした。中央アジア、南アジアにまで広がる大きな領土
を支配しました。しかし、中国に占領され、抑圧され、経済的搾取、社会
的差別、環境破壊に直面しています。文化的にも同化させられつつあります」
 
首相は、チベット人が非常に大切にしているラルンガル僧院の例を語った。

「中国は2016年9月以降、ラルンガル僧院の破壊に取りかかりました。同
僧院では1万2000人の僧侶と尼僧が暮らし、修行していましたが、中国政
府は彼らを5000人に減らすべく、追放中です。治安部隊を送り込み住居や
建物の破壊を進めています。破壊活動は今年9月まで続行と発表されてい
ます。中国は憲法で信教の自由を謳っていますが、憲法に違反してチベッ
ト仏教を破壊しているのはラルンガルの事例からも明らかです」
 
センゲ首相の指摘どおり、中華人民共和国憲法はすばらしい内容だ。少数
民族の文化、宗教、言語の尊重は無論のこと、環境保護の条文さえ入って
いる。文言上は日本国憲法よりはるかに進んだ内容だが、中国政府の政策
は憲法の理想とはおよそ全ての面で正反対だ。首相が語る。

「ダライ・ラマ法王は日本を訪問することもできます。日本では幾度も、
国会施設に招かれ講演する機会をいただきました。一方、チベット本土
(中国のチベット自治区)では、法王の写真を所持しているだけで逮捕・
投獄されかねないのです」
 
チベット弾圧政策は中国にとって何ら新しいことではない。「1959年のチ
ベット占領から62年までに、中国人はチベット寺院の98%を破壊し、99・
9%の僧侶、尼僧を追放しました」と首相は語る。

チベットと共に走る

「弾圧は宗教だけにとどまりません。中国はチベットの文化、習慣も、伝
統的な衣服の着用さえも禁止し、毛沢東らの着る詰め襟服の着用をチベッ
ト人に命じました。人が生きていく上で関わりのある全ての分野でチベッ
ト人らしさを削ぎ取ることを繰り返して、彼らは70年代までにチベット文
明を完全に破壊したと考えました。

幸いなことにダライ・ラマ法王の考えの下、チベット人は亡命先のインド
で、レンガをひとつひとつ、石をひとつひとつ積み上げるように、チベッ
ト文化の再建を進めました。3大僧院も亡命先のダラムサラで再建できま
した」
 
中国共産党の弾圧にも拘わらず、チベット人が忍耐強くチベット仏教を
主軸とする価値観の再建に取り組んでこられたのは、第1にダライ・ラマ
法王の存在がある。第2にセンゲ首相のように優秀な人材が法王の下に集
い、心をひとつにしていることがある。第3にインドやアメリカのよう
に、中国の意向に影響されずチベットを支え続ける国々が存在している。
日本はその支援国の仲間にもっと本格的に加わり、積極的にチベットを助
けていくのがよい。
 
センゲ首相は、高齢を迎えたダライ・ラマ法王の次のダライ・ラマを、中
国共産党が指名しようとしていることについての懸念も表明した。無神論
の中国共産党がチベット仏教の最高位の法王を指名するなど、噴飯物であ
る。だが、中国はそこを制すればチベット人の背骨を砕き尽くすことがで
きると信じているのだ。
 
チベット人がチベット人らしく生き続けることのできる世界構築に向け
て、他国に劣らぬ規模の政治的支援として日本は議連を立ち上げた。力強
い支援の先に、チベット独立を望める程の可能性をも描き、そこまで共に
走り、支え続けることができれば、日本の力で世界はどれ程よくなること
かと、私は思う。

『週刊新潮』 2017年3月2日号  日本ルネッサンス 第743回

2017年03月12日

◆本質は“はったり”のトランプ大統領

櫻井よしこ



「施政方針演説は“安全運転”で好感されても本質は“はったり”のトランプ
大統領」

2月28日夜、ドナルド・トランプ米大統領が、上下両院合同会議で施政方
針演説を行った。「アメリカ人は世代を継ぎ一貫して、今日に至るまで真
実、自由、正義の松明を掲げてきた。松明はいま我々の手にある。我々は
松明で世界を照らす。ここに私は団結と力強さを発信する。それは私の心
奥からのメッセージだ」。
 
このように演説を始めた大統領は、「君自身を信じろ」「君の未来を信じ
ろ」「そして、もう一度、アメリカを信じろ」と、締め括った。

CNNの調査では78%の人々が演説を好感し、ニューヨーク株式市場は史
上初の2万1000ドルの大台を突破した。トランプ氏につき物ともいえる汚
い攻撃的な表現が控えられた演説に、世界は一安心したかのようだ。
 
それでも、トランプ氏をどう読み解くか、不安感がつきまとう。そんなと
き、「ワシントン・ポスト」(WP)紙が記者20人を投入し、3カ月の集
中取材で出版した『トランプ』(文藝春秋)が多少参考になる。ただWP
紙はトランプ氏に非常に批判的、時には敵対的である。約540ページの同
書は、そのことを念頭に読むのがよい。
 
まず、トランプ氏の売り物である経営能力だ。4回の破産は広く知られて
いるが、氏はその度に生き残った。債権者が「トランプは殺すより生かし
ておいた方がよい」と判断したからだが、明らかに人の心をとらえる力を
氏は備えているのだ。人々を魅きつける力の源泉は何か。WPの記者らが
書いている。「おおかた人の想像をはるかに超えるはったりの能力」だと。
 
トランプ氏はマスコミについて次のように語る。

「センセーショナルな話ほど」歓迎される、「(俺は)良いことも書かれ
るし、悪いことも書かれる」、だが「ビジネスには大いに役立つ」「宣伝
の最後の仕上げははったりだ」「人は、これ以上大きく、豪華で、素晴ら
しいものはないと思いたい」存在だ、と。
 
こう考えるからこそ、トランプ氏は取材申し込みに「通常、数分とはいわ
ずとも数時間以内に自ら連絡を返し、インタビューに応じ」、どの記者も
戸惑う「はったり」を語るのだ。
 
氏はいまだに自身が本当に大富豪であることを証明していない。1978年
と79年は所得税を払っていない。後年、「全米年間長者番付」を発表する
「フォーブス」誌に、トランプ氏が170億ドル(1ドル100円換算で1兆7000
億円)の自己評価をしたとき、同誌は「実際は5億ドル」と書いた。トラ
ンプ氏は同年に出版した著書『頂点で生き残る』(未訳)でフォーブス氏
の性的嗜好を暴露し復讐した。
 
トランプ氏は常に勝ちを目指す。訴訟を含めて手段は問わない。過去30年
間でトランプ氏と氏の会社は1900件余りの訴訟を起こし、1450件の訴訟を
起こされた。氏は訴訟を起こす理由を「(相手に)時間と、エネルギー
と、金をたくさん使わせて」やれるからだと語っている。
 
氏はしかし、豹変する能力も備えている。一介の不動産業者から政治家
へと氏を押し上げたNBCの番組「アプレンティス」(見習生)のプロ
デューサーが語っている。トランプ氏は「権力欲とわずかな謙虚さ、自虐
的ユーモア、他者の意見を聞き入れる柔軟さを絶妙のバランスで混ぜ合わ
せたキャラクターだ」と。
 
いつも視聴率を気にし、どうしたら支持を受けるか、絶えず研究していた
という。同番組を14年務め、その名を全米に知らしめることに成功し、氏
はついに大統領になった。
 
初の施政方針演説ではトランプ氏は政策助言者の書いた原稿を読み、
78%の好感度を得た。「アプレンティス」におけるのと同様、大統領とし
ての氏は周囲の意見を聞き入れ続けるだろうか。この問いへの答えはまだ
見つからない。

『週刊ダイヤモンド』 2017年3月11号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1173 

2017年03月11日

◆なぜ日本史から聖徳太子を消すのだ

櫻井よしこ




聖徳太子は、その名を知らない日本人など、およそいないと言ってよいほ
どの日本国の偉人である。だが、文部科学省が2月14日に突然発表した新
学習指導要領案によれば、その名が子供たちの教科書から消されることに
なりそうだ。
 
聖徳太子は新たに「厩戸王(うまやどのおう)」として教えられるという
が、神道学者の高森明勅氏が「厩戸王」の事例をアマゾンで調べたところ
皆無だったと書いている。皆が親しんできた名前を消して、殆ど誰も知ら
ず、アマゾンでも一例も出てこない名前に変えるとは、一体どういうこと
か。名は体を表す。聖徳太子という英雄を日本民族の記憶から消し去ろう
とする愚かなことを考えたのは誰か。
 
周知のように聖徳太子は数え年20歳で叔母、推古天皇の摂政となった。現
代風に言えば成人前後の年頃の青年が日本国を主導する総理大臣に就任し
たのである。その若さにも拘わらず、英邁なる聖徳太子は責任をひとつひ
とつ立派に果たした。
 
神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀
も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キ
リスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定
である。
 
603年には「冠位十二階」を定めて、政治権力の世襲という従来の制度下
にあっても、個人の能力や努力によって登用される道を開いた。これは後
の世にも強い影響を与え、身分制度を超越した人材登用の精神につながった。
 
604年には「十七条憲法」を定めて、政治は民の幸福を願い、公正で透明
な価値観に基づかなければならないという日本国統治の基本を作った。民
を想う穏やかで慈悲心に支えられた統治の哲学は、同時代を生きた隋の皇
帝煬帝の、幾十万の民を奴隷として酷使し死に至らしめた非情なる統治の
対極にある。

価値観の源流
 
607年には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつ
が)無きや」という、あの余りにも有名な親書を小野妹子に持たせ、隋に
派遣し、遂に隋と対等な関係を築いた。
 
以降、日本は中華文明に属することなく、日本独自の大和文明を育んだ。
大和文明はその後、天武天皇に受け継がれ、聖武天皇によってより強固な
日本統治の基本となった。

いま、日本と中国の価値観はおよそ何から何まで正反対だ。私たちは、日
本が日本であることに、もっといえば中華的価値とは全く異なる日本的価
値の社会で暮せていることに感謝しているのではないか。その価値観の源
流が聖徳太子である。
 
中国は軍事力、経済力で既存の国際法や世界秩序に挑戦し続けている。国
際法を中国式に解釈し、覇権国の道を一直線に突き進む。国内においては
政府批判を許さず、人々の自由を制限し、弾圧し、国家統治における不
法、不公正を基本的に放置したままだ。
 
この異形の大国、中国と、私たちはいま、価値観を軸に対峙しているので
はないか。であればこそ、日本の子供たちに日本文明の核を成す価値観を
教えることが日本人として誇りを持って生きることの基本になる。日本文
明を理解し、その長所を心に刻み、相手に対する思いやりを育み、日本人
としての自信を深めることが欠かせない。そのために聖徳太子は忘れては
ならない人物である。
 
だが、文科省は、わが国の国柄を形成するのに計りしれない貢献をした聖
徳太子の名を変えるというのである。理由は「聖徳太子」は没後に使われ
るようになった呼称で、歴史学では一般的に「厩戸王」と呼ぶ、従って
「史実」を正しく教えるために変えるのだと説明する。ならば歴代天皇の
呼称もすべて変えなければならない。聖徳太子だけ突然、変えるのはおか
しい。
 
また2月27日に「産経」が社説で書いたように、諡(おくりな)(死後に
与えられる名)がダメなら「弘法大師」の名前も変えなければならない。
そんなことをすれば子供たちだけでなく大人も社会も日本は大混乱だ。歴
史の語りつぎも出来ようはずがない。
 
自民党参議院議員の山田宏氏が指摘した。

「聖徳太子は日本が中国の属国にならない道を選び、慎みと思慮深さを基
盤とした日本の国柄を育む第一歩を踏み出した人物です。そうした日本の
善さを定着させた人物でもあります。だからこそ、日本人は聖徳太子に尊
敬と親愛の情を抱き、お札にまでしたのです。日本人の誇りの源泉である
太子の名を消し去って、その誇りを薄めていく狙いがあるのではないで
しょうか」

文科省は伏魔殿か
 
文科省の作った教育の枠組みの中で、長い年月、日本史は片隅に追いやら
れていた。ようやく2020年から、小、中、高と、学習指導要領が改訂され
るが、高校の日本史は現在、選択科目にすぎない。

必修科目は世界史なのだ。日本の子供たちは小学校6年生で初めて日本史
を教えてもらう。それも1年間で45分の授業を68時限である。これではス
カスカの歴史教育にならざるを得ない。スカスカ教育の上に、慰安婦や南
京事件の例に典型的に見られるような、捏造され曲解された内容が跋扈し
たのである。
 
アーノルド・トインビーは、自国の神話、即ち歴史を忘れる民族は滅びる
という言葉を残しているが、日本では忘れる以前に満足に教えてもらえな
い時代が長く、今日まで続いているのである。
 
左派陣営に蹂躙されてきたこの反日教育が幾世代も続いた末に、安倍晋
三氏が首相に、下村博文氏が文科大臣になって以後、ようやく改善されて
きたと思っていた。だが、いままた、日本を貶める意図しか見えてこない
ような学習指導要領が、突如、提案されている。文科省は伏魔殿か。根っ
からの反日組織か。
 
山田氏が語った。

「文科省の官僚も問題です。加えて教科の内容に特定の人々の意見を反映
させる仕組みがあります。文科省の下に国立教育政策研究所が、その下に
教育課程研究センターがある。同センターには調査官がいて、社会と歴史
について、各々、小学、中学担当の調査官が配置され、彼らの意見が反映
されると見られています。どんな人物が配置されているのかも、調べる必
要があるでしょう」
 
かつて元インド大使の野田英二郎氏が教科書検定審議会委員となり特定の
教科書を排除すべく多数派工作をした。氏は北朝鮮のテポドンミサイル発
射実験に抗議したと、或いは北朝鮮の拉致疑惑を強調しすぎると日本政府
を非難した人物だ。偏った人物を受け入れる素地が文科省にはあるのだ。
ひとまず、私たちは文科省に聖徳太子を厩戸王へと変えることへ抗議しよ
うではないか。
『週刊新潮』 2017年3月9日号 日本ルネッサンス 第744回

2017年03月08日

◆韓国大統領の弾劾裁判

櫻井よしこ



「左派勢力主導で進む韓国大統領の弾劾裁判 異議を唱える保守勢力がデ
モで巻き返し」

朝鮮半島情勢は北も南も緊迫事態だ。北朝鮮は金正恩氏の指示による金正
男氏殺害事件という国家犯罪を引き起こした。身内の異母兄を刺客を放っ
て外国で殺害させた最大の要因は、正恩氏の恐怖心だと分析されている。
 
正恩氏を持て余す中国は、北朝鮮は開国すべきだという考えを持つ正男氏
を支持していた。正男氏は、すでに処刑された叔父の張成沢氏とも通じて
いた。正男・張両氏を中国政府が支援し、北朝鮮亡命政府を樹立させ、正
恩氏にとって代わらせるというシナリオに、正恩氏は脅えていたという。
 
北朝鮮の現体制がどこまで保つか不透明な一方で、韓国の政治状況も同様
に危うい。朴槿恵大統領は国会の弾劾訴追を受けて、現在、憲法裁判所の
判断を待つ身である。その憲法裁判所に保守派が異議を唱えて3月1日に大
規模デモを予定している。
 
朝鮮問題専門家の東京基督教大学教授、西岡力氏が語った。

「次の大統領選挙を含めて、左翼陣営の勢力が圧倒的に強かった韓国の政
治状況が、いま、変わりかけています。保守勢力が巻き返し、3月1日の保
守派主催のデモは10万人規模に達する見通しです。左翼優勢で絶対に勝て
ないと見られていた闘いで、保守が五分五分まで盛り返しています」

「統一日報」論説主幹の洪熒(ホン・ヒョン)氏が一連の動きを解説した。

「韓国の保守派が、憲法裁判所にも大統領弾劾事案を調査する特別検察官
にも疑問を抱いて立ち上がった理由は、当局が北朝鮮の工作に沿った筋書
きで大統領を弾劾しようとしていることが明らかになったからです」
 
朴大統領は、民間人の崔順実氏への機密漏洩もしくは特別な利益提供の疑
いが浮上して躓いた。直接のきっかけは崔氏の所有とされるタブレット端
末だった。これをまっ先に報じたのは「中央日報」系列のテレビ局、
「JTBC」だったが、タブレット端末の件は捏造だったというのだ。

「大統領弾劾という非常に深刻な事態をもたらした物的証拠を、憲法裁判
所は採用せず、検証もしていません。検察もメディアも真偽を確かめよう
ともせず、黙殺したままです。検察は国家の起訴権を独占し、国家の正
義、大義を守る役所です。それなのに公正さを欠いている。結果として検
察が北朝鮮を代弁する左翼陣営と結託していることに、保守が危機感を抱
いたのです」
 
弾劾裁判では憲法裁判所の判断が全てである。単審制だけに、審理はより
公正でなければならない。現実はしかし一方的な「人民裁判」の様相を帯
びていると、洪氏は警告する。
 
3月1日のデモを主催するのは「国民抵抗本部」(共同代表・權寧海、鄭光
澤)である。陸海空軍の予備役将校団、各軍の士官学校同窓会の全てが参
加し、これまでに大韓民国の国旗、太極旗を掲げてデモを繰り返してきた
ために「太極旗集会」と通称される。彼らの要求は「弾劾棄却」「国会解
散」「特別検察解体」である。
 
洪氏が語った。

「太極旗集会の参加人数が、大統領弾劾を支持する左派集会の人数を超え
たのが昨年末でした。でも、メディアはそのことを伝えず、警察もデモ参
加人数の発表をこの頃から取りやめました。左派勢力に不利な情報をメ
ディアや当局が隠す。このような状況への不信から、保守派支持が増えま
した」
 
2月に入って韓国三大ネットワークのひとつ「MBC」が太極旗集会を積
極的に報じ始め、支持はさらに広がりつつある。他方、高い信頼性を誇っ
ていた「朝鮮日報」紙が、左翼の文在寅(ムン・ジェイン)氏が次期大統
領に当選すると予測して、社論を劇的に左に転換した。その結果、読者多
数が購読を中止したという。韓国は予想以上の混乱の中にある。3月1日の
デモの行方を、固唾をのむ思いで見詰めている。

『週刊ダイヤモンド』 2017年3月4日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1172

2017年03月07日

◆万全な目配りが必要な日米関係の構築

櫻井よしこ



「大統領補佐官の辞任は政権内の闘争か 万全な目配りが必要な日米関係
の構築」

ドナルド・トランプ米大統領の政策や決定を評する中で最も頻繁に使われ
る語彙が衝動的、或いは直感的という言葉である。
 
CNNの政治討論番組で、論者の1人がトランプ氏を見ているとベー
ブ・ルースを思い出すと言った。アメリカ野球界の英雄、ベーブ・ルース
はある日「なぜそんなにホームランを打てるのか」と問われ、「ただ直感
的に打っているのさ」と答えたそうだ。

トランプ氏も、なぜこのような決定をしたのかと問われると、「直感的に
決めたんだ」と答えることが多いというわけだ。
 
この主張に対して別の論者が、「直感的に打ったベーブ・ルースだって、
空振りは多くあったよね」と皮肉った。
 
国家安全保障担当、マイケル・フリン大統領補佐官の辞任をこんな
ジョークで語るのは適切でないかもしれない。また元々、共和党には批判
的で、かつ、トランプ政権には非常に強い反感を示している米国のリベラ
ルなメディアの報道をそのまま受けとめるのも適切ではないだろう。
 
だが、その点を考慮したうえでも尚、実感するのは、政権発足からひと月
も経たない2月13日のフリン氏の辞任は、トランプ政権内の権力闘争や一
貫性を欠く不合理な政策の象徴なのではないかという思いであり、政権の
未来展望に疑問を抱かざるを得ないということだ。
 
共和党の多数がトランプ氏を批判していた大統領選の最中から、トランプ
氏支持を打ち出したフリン氏は、大統領に最も近い人物の一人だ。
 
その人物が、昨年12月29日、まだバラク・オバマ氏が大統領だった時に、
複数回にわたって駐米ロシア大使と電話で語り合い、対露制裁見直しの可
能性を話し合ったのではないかとの疑惑が報じられた。
 
当初、フリン氏は疑惑を否定したが、「ワシントン・ポスト」紙が、2月9
日、フリン氏は「トランプ政権発足後、制裁を見直す方針だ」とロシア大
使に伝えていたと、複数の人々の証言を元に報じた。会話の録音も存在
し、司法省はフリン氏がロシアから脅迫を受ける危険性があることまで、
「政権」に報告していたというのである。
 
フリン氏はロシア大使と電話会談した時点ではまだ「民間人」だ。民間人
は外国政府と外交を協議することを法で禁じられており、フリン氏は違法
行為をしていたことになる。その証拠を当局が録音していたことも驚きで
ある。
 
トランプ大統領はフリン氏辞任の翌日、「なぜこんなに多く違法の情報
リークが起きるのか」とツイッターで怒りを表明した。
 
ホワイトハウス内の人間関係を見ると、大きく分けて2種類の人々が混在
している。1つのグループが今回辞任したフリン氏をはじめとするいわば
伝統的な政治権力とは異質の人々である。その1人はトランプ大統領が突
然、ホワイトハウスに首席戦略官として招じ入れたスティーブ・バノン氏だ。
 
両氏と対照的な人々に大統領主席補佐官のラインス・プリーバス氏、マ
イク・ペンス副大統領がいる。いわば伝統的な政治勢力に属する人々だ。
情報リークがこうした人間関係の中から生じている可能性は少なくない。
 
日本政府は安全保障問題に関してフリン氏とのパイプに多くを託してき
た。氏は昨年10月11日、菅義偉(よしひで)官房長官と対談した。トラン
プ政権誕生を全く想定していなかった日本側にとって、11月に氏が大統領
補佐官に指名されたことは、ひとつの安心材料になった。その後、河井克
行首相補佐官が訪米しフリン氏と会談するなど交流を深めてきた。
 
2月10日の日米首脳会談でもフリン氏は国家安全保障局長の谷内正太郎氏
のカウンターパートだった。その人物の辞任である。トランプ政権を待ち
受ける波は高く、日米関係の構築には万全の目配りが必要だ。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1171 

2017年03月06日

◆万全な目配りが必要な日米関係の構築

櫻井よしこ



大統領補佐官の辞任は政権内の闘争か 

ドナルド・トランプ米大統領の政策や決定を評する中で最も頻繁に使われ
る語彙が衝動的、或いは直感的という言葉である。
 
CNNの政治討論番組で、論者の1人がトランプ氏を見ているとベーブ・
ルースを思い出すと言った。アメリカ野球界の英雄、ベーブ・ルースはあ
る日「なぜそんなにホームランを打てるのか」と問われ、「ただ直感的に
打っているのさ」と答えたそうだ。トランプ氏も、なぜこのような決定を
したのかと問われると、「直感的に決めたんだ」と答えることが多いとい
うわけだ。
 
この主張に対して別の論者が、「直感的に打ったベーブ・ルースだって、
空振りは多くあったよね」と皮肉った。
 
国家安全保障担当、マイケル・フリン大統領補佐官の辞任をこんなジョー
クで語るのは適切でないかもしれない。また元々、共和党には批判的で、
かつ、トランプ政権には非常に強い反感を示している米国のリベラルなメ
ディアの報道をそのまま受けとめるのも適切ではないだろう。
 
だが、その点を考慮したうえでも尚、実感するのは、政権発足からひと月
も経たない2月13日のフリン氏の辞任は、トランプ政権内の権力闘争や一
貫性を欠く不合理な政策の象徴なのではないかという思いであり、政権の
未来展望に疑問を抱かざるを得ないということだ。
 
共和党の多数がトランプ氏を批判していた大統領選の最中から、トランプ
氏支持を打ち出したフリン氏は、大統領に最も近い人物の一人だ。
 
その人物が、昨年12月29日、まだバラク・オバマ氏が大統領だった時に、
複数回にわたって駐米ロシア大使と電話で語り合い、対露制裁見直しの可
能性を話し合ったのではないかとの疑惑が報じられた。
 
当初、フリン氏は疑惑を否定したが、「ワシントン・ポスト」紙が、2月9
日、フリン氏は「トランプ政権発足後、制裁を見直す方針だ」とロシア大
使に伝えていたと、複数の人々の証言を元に報じた。会話の録音も存在
し、司法省はフリン氏がロシアから脅迫を受ける危険性があることまで、
「政権」に報告していたというのである。
 
フリン氏はロシア大使と電話会談した時点ではまだ「民間人」だ。民間人
は外国政府と外交を協議することを法で禁じられており、フリン氏は違法
行為をしていたことになる。その証拠を当局が録音していたことも驚きで
ある。
 
トランプ大統領はフリン氏辞任の翌日、「なぜこんなに多く違法の情報
リークが起きるのか」とツイッターで怒りを表明した。
 
ホワイトハウス内の人間関係を見ると、大きく分けて2種類の人々が混在
している。1つのグループが今回辞任したフリン氏をはじめとするいわば
伝統的な政治権力とは異質の人々である。その1人はトランプ大統領が突
然、ホワイトハウスに首席戦略官として招じ入れたスティーブ・バノン氏だ。

両氏と対照的な人々に大統領主席補佐官のラインス・プリーバス氏、マ
イク・ペンス副大統領がいる。いわば伝統的な政治勢力に属する人々だ。
情報リークがこうした人間関係の中から生じている可能性は少なくない。
 
日本政府は安全保障問題に関してフリン氏とのパイプに多くを託してき
た。氏は昨年10月11日、菅義偉(よしひで)官房長官と対談した。トラン
プ政権誕生を全く想定していなかった日本側にとって、11月に氏が大統領
補佐官に指名されたことは、ひとつの安心材料になった。その後、河井克
行首相補佐官が訪米しフリン氏と会談するなど交流を深めてきた。
 
2月10日の日米首脳会談でもフリン氏は国家安全保障局長の谷内正太郎氏
のカウンターパートだった。その人物の辞任である。トランプ政権を待ち
受ける波は高く、日米関係の構築には万全の目配りが必要だ。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1171

2017年03月05日

◆左派勢力主導で進む韓国大統領の弾劾裁判

櫻井よしこ
 


「左派勢力主導で進む韓国大統領の弾劾裁判 異議を唱える保守勢力が
デモで巻き返し」

朝鮮半島情勢は北も南も緊迫事態だ。北朝鮮は金正恩氏の指示による金正
男氏殺害事件という国家犯罪を引き起こした。身内の異母兄を刺客を放っ
て外国で殺害させた最大の要因は、正恩氏の恐怖心だと分析されている。
 
正恩氏を持て余す中国は、北朝鮮は開国すべきだという考えを持つ正男氏
を支持していた。正男氏は、すでに処刑された叔父の張成沢氏とも通じて
いた。正男・張両氏を中国政府が支援し、北朝鮮亡命政府を樹立させ、正
恩氏にとって代わらせるというシナリオに、正恩氏は脅えていたという。
 
北朝鮮の現体制がどこまで保つか不透明な一方で、韓国の政治状況も同様
に危うい。朴槿恵大統領は国会の弾劾訴追を受けて、現在、憲法裁判所の
判断を待つ身である。その憲法裁判所に保守派が異議を唱えて3月1日に大
規模デモを予定している。
 
朝鮮問題専門家の東京基督教大学教授、西岡力氏が語った。

「次の大統領選挙を含めて、左翼陣営の勢力が圧倒的に強かった韓国の政
治状況が、いま、変わりかけています。保守勢力が巻き返し、3月1日の保
守派主催のデモは10万人規模に達する見通しです。左翼優勢で絶対に勝て
ないと見られていた闘いで、保守が五分五分まで盛り返しています」

「統一日報」論説主幹の洪熒(ホン・ヒョン)氏が一連の動きを解説した。

「韓国の保守派が、憲法裁判所にも大統領弾劾事案を調査する特別検察官
にも疑問を抱いて立ち上がった理由は、当局が北朝鮮の工作に沿った筋書
きで大統領を弾劾しようとしていることが明らかになったからです」
 
朴大統領は、民間人の崔順実氏への機密漏洩もしくは特別な利益提供の疑
いが浮上して躓いた。直接のきっかけは崔氏の所有とされるタブレット端
末だった。これをまっ先に報じたのは「中央日報」系列のテレビ局、
「JTBC」だったが、タブレット端末の件は捏造だったというのだ。

「大統領弾劾という非常に深刻な事態をもたらした物的証拠を、憲法裁判
所は採用せず、検証もしていません。検察もメディアも真偽を確かめよう
ともせず、黙殺したままです。検察は国家の起訴権を独占し、国家の正
義、大義を守る役所です。それなのに公正さを欠いている。結果として検
察が北朝鮮を代弁する左翼陣営と結託していることに、保守が危機感を抱
いたのです」
 
弾劾裁判では憲法裁判所の判断が全てである。単審制だけに、審理はより
公正でなければならない。現実はしかし一方的な「人民裁判」の様相を帯
びていると、洪氏は警告する。
 
3月1日のデモを主催するのは「国民抵抗本部」(共同代表・權寧海、鄭光
澤)である。陸海空軍の予備役将校団、各軍の士官学校同窓会の全てが参
加し、これまでに大韓民国の国旗、太極旗を掲げてデモを繰り返してきた
ために「太極旗集会」と通称される。彼らの要求は「弾劾棄却」「国会解
散」「特別検察解体」である。
 
洪氏が語った。

「太極旗集会の参加人数が、大統領弾劾を支持する左派集会の人数を超え
たのが昨年末でした。でも、メディアはそのことを伝えず、警察もデモ参
加人数の発表をこの頃から取りやめました。左派勢力に不利な情報をメ
ディアや当局が隠す。このような状況への不信から、保守派支持が増えま
した」
 
2月に入って韓国三大ネットワークのひとつ「MBC」が太極旗集会を積
極的に報じ始め、支持はさらに広がりつつある。他方、高い信頼性を誇っ
ていた「朝鮮日報」紙が、左翼の文在寅(ムン・ジェイン)氏が次期大統
領に当選すると予測して、社論を劇的に左に転換した。その結果、読者多
数が購読を中止したという。韓国は予想以上の混乱の中にある。3月1日の
デモの行方を、固唾をのむ思いで見詰めている。

『週刊ダイヤモンド』 2017年3月4日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1172

2017年03月02日

◆キッシンジャー元国務長官の影響で暴言沈静化

櫻井よしこ



「キッシンジャー元国務長官の影響で暴言沈静化 くすぶるトランプ
大統領が中国と手を結ぶ可能性」

リチャード・ニクソン元米大統領に仕えた元米国務長官、ヘンリー・キッ
シンジャー氏は親中派の中の親中派である。1923年生まれの高齢の氏がい
まワシントンと北京、ドナルド・トランプ米大統領と習近平中国国家主席
を「つなぐ人物」といわれる。
 
氏は昨年秋にはヒラリー・クリントン氏への支持を表明していたが、トラ
ンプ氏が勝利すると、10日後にはニューヨークで次期大統領と会談、ロシ
ア、中国、イランおよびEU(欧州連合)情勢を語ったと発表された。
 
公式発表では幅広い議論だったと強調されたが、重要な部分を占めたの
が中国問題だったことは、2週間後にキッシンジャー氏が93歳の身を押し
て北京に飛んだことからもうかがえる。
 
2016年12月1日木曜日、氏は左手に握ったつえを頼りに北京にいた。中国
共産党序列6位の常務委員、王岐山氏がキッシンジャー氏の右手を取って
労り、2日には、氏が人民大会堂で習主席に丁重に迎えられた。
 
大統領選挙キャンペーン中、トランプ氏が中国を為替操作国とし、中国
からの輸入品に45%の関税をかけるなどと厳しく非難したのは周知の通りだ。
 
こうした状況下では、中国はトランプ新政権の真の狙いを見極めるべく注
意深く観察すべきだというのが、「人民日報」や「環球時報」の社説、つ
まり、共産党政権の考えだった。
 
会談では習主席が「全身を耳にして貴方の発言を聴いている」とキッシ
ンジャー氏に語ったと報じられた。キッシンジャー氏は何を語ったのか。
習主席との会談後に、氏がCNNのファリード・ザカリア氏に述べた言葉
が、発言の一端をうかがわせる。

「選挙キャンペーン中のトランプ氏の言葉について、われわれは釘を刺す
べきでない」
 
キッシンジャー氏はさらに12月18日、CBSの「Face the 
Nation」で以下のようにトランプ氏を評価した。

「トランプ氏は、従来の世界秩序と大胆に決別するという点で、歴代大統
領中、歴史的に最重要の大統領として名を残す可能性がある」
 
クリントン氏支持の一方、トランプ氏を忌避していた氏は、なぜトランプ
氏を褒め始めたのか。
 
興味深いのがトランプ氏の発言内容が変化してきたことである。大統領
選勝利以降、氏の中国非難は鳴りを潜めた。45%の関税にも南シナ海での
蛮行にも触れなくなった。1月31日には「中国は為替操作で通貨安を誘導
している」と非難したが、このときは日本も一緒に非難され、またトヨタ
自動車が名指しされ、日中逆転が起きたかのようだ。
 
対中暴言の沈静化は、キッシンジャー氏がトランプ氏の脳裡に米中関係
重視の必要性をとことん刻み付けたからではないのか。キッシンジャー氏
が11年に上梓した『中国(On China)』から氏の中国への入れ込
みぶりが伝わってくる。同書は586ページの大著だが同じ写真が2枚ずつ掲
載されているなど編集は粗っぽい。
 
同書で氏は中国を世界の中心とする中華思想を説明し、偉大な中華と良
好な関係を築くことの重要さを強調する。中国との良好な関係に反対する
理由は全くない。しかし、キッシンジャー氏の語る米中が目指すべき関係
は、中国が年来主張してきた「新型大国間関係」とそっくりだ。中国政府
の代弁者かと思われても仕方がない面が目立つ。その親中派の人材を仲立
ちとして米中関係を築こうとするのがトランプ氏であろうか。
 
激しい罵り言葉とは対照的にトランプ政権が中国と手を結ぶ可能性を否
定できない理由の1つがここにある。ジェイムズ・マティス米国防長官は
安全保障面で心強い発言をした。だが明らかなのは、日本はそればかりを
頼みにしてはいられないということだ。

 『週刊ダイヤモンド』 2017年2月18日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1170

2017年03月01日

◆万全な目配りが必要な日米関係の構築

櫻井よしこ
 


「大統領補佐官の辞任は政権内の闘争か 万全な目配りが必要な日米関係
の構築」

ドナルド・トランプ米大統領の政策や決定を評する中で最も頻繁に使われ
る語彙が衝動的、或いは直感的という言葉である。
 
CNNの政治討論番組で、論者の1人がトランプ氏を見ているとベーブ・
ルースを思い出すと言った。アメリカ野球界の英雄、ベーブ・ルースはあ
る日「なぜそんなにホームランを打てるのか」と問われ、「ただ直感的に
打っているのさ」と答えたそうだ。トランプ氏も、なぜこのような決定を
したのかと問われると、「直感的に決めたんだ」と答えることが多いとい
うわけだ。
 
この主張に対して別の論者が、「直感的に打ったベーブ・ルースだって、
空振りは多くあったよね」と皮肉った。
 
国家安全保障担当、マイケル・フリン大統領補佐官の辞任をこんな
ジョークで語るのは適切でないかもしれない。また元々、共和党には批判
的で、かつ、トランプ政権には非常に強い反感を示している米国のリベラ
ルなメディアの報道をそのまま受けとめるのも適切ではないだろう。
 
だが、その点を考慮したうえでも尚、実感するのは、政権発足からひと月
も経たない2月13日のフリン氏の辞任は、トランプ政権内の権力闘争や一
貫性を欠く不合理な政策の象徴なのではないかという思いであり、政権の
未来展望に疑問を抱かざるを得ないということだ。
 
共和党の多数がトランプ氏を批判していた大統領選の最中から、トラン
プ氏支持を打ち出したフリン氏は、大統領に最も近い人物の一人だ。
 
その人物が、昨年12月29日、まだバラク・オバマ氏が大統領だった時に、
複数回にわたって駐米ロシア大使と電話で語り合い、対露制裁見直しの可
能性を話し合ったのではないかとの疑惑が報じられた。
 
当初、フリン氏は疑惑を否定したが、「ワシントン・ポスト」紙が、2月
9日、フリン氏は「トランプ政権発足後、制裁を見直す方針だ」とロシア
大使に伝えていたと、複数の人々の証言を元に報じた。会話の録音も存在
し、司法省はフリン氏がロシアから脅迫を受ける危険性があることまで、
「政権」に報告していたというのである。
 
フリン氏はロシア大使と電話会談した時点ではまだ「民間人」だ。民間人
は外国政府と外交を協議することを法で禁じられており、フリン氏は違法
行為をしていたことになる。その証拠を当局が録音していたことも驚きで
ある。
 
トランプ大統領はフリン氏辞任の翌日、「なぜこんなに多く違法の情報
リークが起きるのか」とツイッターで怒りを表明した。
 
ホワイトハウス内の人間関係を見ると、大きく分けて2種類の人々が混在
している。1つのグループが今回辞任したフリン氏をはじめとするいわば
伝統的な政治権力とは異質の人々である。その1人はトランプ大統領が突
然、ホワイトハウスに首席戦略官として招じ入れたスティーブ・バノン氏だ。
 
両氏と対照的な人々に大統領主席補佐官のラインス・プリーバス氏、マ
イク・ペンス副大統領がいる。いわば伝統的な政治勢力に属する人々だ。
情報リークがこうした人間関係の中から生じている可能性は少なくない。
 
日本政府は安全保障問題に関してフリン氏とのパイプに多くを託してき
た。氏は昨年10月11日、菅義偉(よしひで)官房長官と対談した。トラン
プ政権誕生を全く想定していなかった日本側にとって、11月に氏が大統領
補佐官に指名されたことは、ひとつの安心材料になった。その後、河井克
行首相補佐官が訪米しフリン氏と会談するなど交流を深めてきた。
 
2月10日の日米首脳会談でもフリン氏は国家安全保障局長の谷内正太郎氏
のカウンターパートだった。その人物の辞任である。トランプ政権を待ち
受ける波は高く、日米関係の構築には万全の目配りが必要だ。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1171 

2017年02月28日

◆万全な目配りが必要な日米関係の構築

櫻井よしこ



「大統領補佐官の辞任は政権内の闘争か 万全な目配りが必要な日米関係
の構築」

ドナルド・トランプ米大統領の政策や決定を評する中で最も頻繁に使われ
る語彙が衝動的、或いは直感的という言葉である。
 
CNNの政治討論番組で、論者の1人がトランプ氏を見ているとベーブ・
ルースを思い出すと言った。アメリカ野球界の英雄、ベーブ・ルースはあ
る日「なぜそんなにホームランを打てるのか」と問われ、「ただ直感的に
打っているのさ」と答えたそうだ。

トランプ氏も、なぜこのような決定をしたのかと問われると、「直感的に
決めたんだ」と答えることが多いというわけだ。
 
この主張に対して別の論者が、「直感的に打ったベーブ・ルースだって、
空振りは多くあったよね」と皮肉った。
 
国家安全保障担当、マイケル・フリン大統領補佐官の辞任をこんな
ジョークで語るのは適切でないかもしれない。

また元々、共和党には批判的で、かつ、トランプ政権には非常に強い反感
を示している米国のリベラルなメディアの報道をそのまま受けとめるのも
適切ではないだろう。
 
だが、その点を考慮したうえでも尚、実感するのは、政権発足からひと月
も経たない2月13日のフリン氏の辞任は、トランプ政権内の権力闘争や一
貫性を欠く不合理な政策の象徴なのではないかという思いであり、政権の
未来展望に疑問を抱かざるを得ないということだ。
 
共和党の多数がトランプ氏を批判していた大統領選の最中から、トランプ
氏支持を打ち出したフリン氏は、大統領に最も近い人物の一人だ。
 
その人物が、昨年12月29日、まだバラク・オバマ氏が大統領だった時に、
複数回にわたって駐米ロシア大使と電話で語り合い、対露制裁見直しの可
能性を話し合ったのではないかとの疑惑が報じられた。
 
当初、フリン氏は疑惑を否定したが、「ワシントン・ポスト」紙が、2月9
日、フリン氏は「トランプ政権発足後、制裁を見直す方針だ」とロシア大
使に伝えていたと、複数の人々の証言を元に報じた。会話の録音も存在
し、司法省はフリン氏がロシアから脅迫を受ける危険性があることまで、
「政権」に報告していたというのである。
 
フリン氏はロシア大使と電話会談した時点ではまだ「民間人」だ。民間人
は外国政府と外交を協議することを法で禁じられており、フリン氏は違法
行為をしていたことになる。その証拠を当局が録音していたことも驚きで
ある。
 
トランプ大統領はフリン氏辞任の翌日、「なぜこんなに多く違法の情報
リークが起きるのか」とツイッターで怒りを表明した。
 
ホワイトハウス内の人間関係を見ると、大きく分けて2種類の人々が混在
している。1つのグループが今回辞任したフリン氏をはじめとするいわば
伝統的な政治権力とは異質の人々である。その1人はトランプ大統領が突
然、ホワイトハウスに首席戦略官として招じ入れたスティーブ・バノン氏だ。
 
両氏と対照的な人々に大統領主席補佐官のラインス・プリーバス氏、マ
イク・ペンス副大統領がいる。いわば伝統的な政治勢力に属する人々だ。
情報リークがこうした人間関係の中から生じている可能性は少なくない。
 
日本政府は安全保障問題に関してフリン氏とのパイプに多くを託してき
た。氏は昨年10月11日、菅義偉(よしひで)官房長官と対談した。トラン
プ政権誕生を全く想定していなかった日本側にとって、11月に氏が大統領
補佐官に指名されたことは、ひとつの安心材料になった。その後、河井克
行首相補佐官が訪米しフリン氏と会談するなど交流を深めてきた。
 
2月10日の日米首脳会談でもフリン氏は国家安全保障局長の谷内正太郎氏
のカウンターパートだった。その人物の辞任である。トランプ政権を待ち
受ける波は高く、日米関係の構築には万全の目配りが必要だ。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月25日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1171 

2017年02月22日

◆ポピュリズムに突き進むトランプ大統領

櫻井よしこ



「 ポピュリズムに突き進むトランプ大統領 求められる民主主義の「内
なる敵」への正対 」

自由の旗手であるはずの米国大統領、ドナルド・トランプ氏が「保護主義
は国益に資する」と就任演説で語り、市場経済を政治の道具にする中国の
習近平主席が「自由な市場経済こそが繁栄のもと」と、ダボス会議で世界
に訴える。
 
悪い冗談のような倒錯が、日を追うごとに具体的な政策として私たちに突
き付けられる。トランプ大統領はホワイトハウス入り直後の1月23日、環
太平洋経済連携協定(TPP)「永久離脱」の大統領令に署名した。25日
にはメキシコとの国境の壁建設にも署名する。
 
「アメリカファースト」は「ワールドセカンド」であり、メキシコや日本
はサードやフォースだ。保護主義も孤立主義も米国の経済成長や繁栄につ
ながらないと警告する専門家を尻目に、ニューヨーク株式市場は史上初め
て2万ドルの大台を突破した。新大統領への支持率としては史上最低の
45%で出発したトランプ氏への期待が、逆にいま高まっているのか。
 
バラク・オバマ前米大統領が苦心して議会を説得した保険制度、オバマケ
アの見直しもすでに指示済みだ。米国を含む12カ国が苦労の末に合意した
TPPも前述のように「永久離脱」となった。個々の政策の是非や意義を
ここで問うつもりはない。

ただトランプ的手法は民主主義体制の根幹である議会での合意形成のプロ
セスを無視したもので、それを米国民が好感し、史上最高値の株価を付け
たことの意味と、ポピュリズムに向き合う時代に私たちが立ったことは、
はっきり認識しなければならない。
 
自身を大統領職に押し上げたポピュリズムに、トランプ氏はますます依
拠するだろう。民衆の意思を吸い上げ多数決で決する民主主義がその究極
の地平であるポピュリズム、大衆迎合に到着したことを愚かな選択だとか
不合理だと論難することは当たらない。嘆息するばかりでも何も解決され
ない。
 
英国のEU(欧州連合)離脱、米国大統領選挙に典型的に示された大衆迎
合政治が世の中を変え続けるいま、千葉大学法政経学部教授の水島治郎氏
の『ポピュリズムとは何か』(中公新書)が参考になる。
 
水島氏は英国と米国、グローバル経済の先頭を走る両国で「虐待されたプ
ロレタリア」の反乱が起きたと、フランスの歴史人口学者、エマニュエ
ル・トッド氏の言葉を引用する。水島氏はトランプ支持者と、英国のEU
離脱支持者の共通性を以下のようにまとめた。

・EU離脱支持者は、英国の地方の荒廃した旧工業地帯や産炭地域の白人
労働者層だった。米国のトランプ支持者は「さびついた工業地帯」の白人
労働者だった

・国際都市ロンドンに集うグローバルエリートの対極にある英国人と、米
国の東、または西海岸の都市部の政治経済エリートや有力メディアから置
き去りにされた米国人

・労働者の味方であるはずの政党が、自国の労働者を置き去りにして国際
社会にばかり目を向けるとして、両国の人々が既成政党への失望を深めた
 
米英両国に政治勢力の大変化をもたらした人々には、右の点も含めて濃密
な幾つもの共通項があった。また現在のポピュリズムは、かつての極右
的、反民主的な勢力とは異なり、他の政党同様、民主政治の通常の政治勢
力としての地位を確保したと、水島氏はみる。
 
彼らは民主政治を支える価値観に基づきつつ、国民投票等の民主政治の手
段を用いて、移民・難民の排除などの「私が最優先」の政策を手にする。
デモクラシーのこの「内なる敵」の論理を批判するのは容易ではなく、あ
くまでも正対すべき新しい傾向だというのが水島氏の結論だ。日本とてポ
ピュリズムの例外ではあり得ないいま、私たちは国民のための政治とは何
かということを、より真剣に模索するしかない。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月4日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1168

2017年02月21日

◆トランプ政権の未来

櫻井よしこ



「友を退け敵をつくるトランプ政権の未来は孤立化と衰退の道」

邦字紙は無論、英字紙の外信、経済、政治のどの面も、連日、ドナルド・
トランプ米大統領関連の記事で埋まっている。米大統領選挙期間中、米国
のメディアはトランプ旋風で視聴率が上がり、収益が改善したと、悪い冗
談のようにいわれている。大統領になればなったで、次々と繰り出す刺激
的な大統領令で、氏はメディアの主役を張り続ける。
 
トランプ政権に比較的好意的なメディアにも、しかし、次のような懸念の
声は少なくない。

「(外交分野の問題で)彼には衝動はあるが、経験はない。一時的(思い
付き)発言にはハラハラする」(就任演説を受けての米「ウォールスト
リート・ジャーナル〈WSJ〉」紙社説)
 
TPP(環太平洋経済連携協定)を永久離脱した米国は、アジア諸国を中
国に接近させ、「膨張する中国抑止で米国が協力を申し出ても、アジア諸
国は応じそうにない」。結果、「米国は再び中国を偉大な国にする」(米
「ブルームバーグ」マイケル・シューマン氏)。
 
メディアを敵に回し続けるトランプ氏の姿勢から見て当然だが、もっと激
しい批判は米「ニューヨーク・タイムズ」紙などには洪水のように溢れて
いる。激しい攻撃と対立姿勢故に米国民の支持を得たトランプ氏は、これ
までのどの大統領よりも、強引な政権運営に傾きつつある。シリア難民の
受け入れ停止とイスラム教国七カ国の国民へのビザ発給の一時停止を定め
た大統領令発令から、トランプ流独走の形が浮かび上がる。
 
1月27日金曜日、同大統領令が出されるや否や、激しい反発が起きた。日
曜日になって、ホワイトハウスはビザ発給停止は選挙戦での公約で、大統
領は公約を迅速に実現したにすぎず、その措置は「(イスラム教徒を狙っ
た)宗教問題ではなく、米国の安全、テロリスト対策だ」などのコメント
を出した。月曜日夜には、大統領令は合法なのかと疑問視したサリー・
イェイツ司法長官代行を解任した。
 
同大統領令発令に至る内情を報じたWSJの記事が興味深い。大統領令は
発令直前のギリギリまで推敲され、その過程で、例えば30日間のビザ発給
停止が90日間に延長されるなど、より強硬になったという。
 
また、同大統領令には限られたインナーサークルの人々だけが関わってお
り、肝心の国務省は蚊帳の外だったこと、移民局や税関局などの現場職員
も同様で、新規則をいつから実行すべきなのかについてさえ、指示はな
かったことなどが暴露されている。同大統領令発令から48時間後に国土安
全省がグリーンカード(永住権)保持者は入国自由だと発表したことにも
その混乱ぶりが表れていた。
 
同大統領令は発表直前まで極秘にされ、その結果、法的整合性について
の検討さえ十分にはできなかったわけだ。理由として、内容が事前に知ら
れてしまえばテロリストたちは急いで米国に入国してしまう、そうなれば
彼らを捜し出して取り締まることは困難を極めるからだというインナー
サークルの声が報じられている。ここには、ビザ問題がいかに重要で、深
刻な影響を国家戦略に及ぼすかについての理解と慎重さが見られない。
 
トランプ政権にはジェイムズ・マティス国防長官ら優れた閣僚がそろって
いるかもしれない。しかし、政策を決めるのはホワイトハウスである。今
回の件はトランプ氏という人物の独断に伴う危うさを浮き彫りにした。
 
米国はテロリストとの戦いで、穏健なイスラム教徒の助力を必要としてい
る。だからこそ、従来の米国政府はよきイスラム教徒をテロリストと同一
視する愚行を避けてきた。トランプ氏とそのインナーサークルの人々には
明らかにその配慮が不足している。友を退け敵をつくるトランプ政権の未
来は孤立化と衰退の道だと思われてならない。

『週刊ダイヤモンド』 2017年2月11日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1169


2017年02月19日

◆4代前の孝明天皇、闘いの武器は譲位

櫻井よしこ



孝明天皇は明治天皇の父帝で、今上陛下にとって、4代前の直接のご先祖
である。孝明天皇は幕末の動乱時代を文字通り闘い抜いて、突然死した。
余りにも急な死に毒殺説が流布された程だ。孝明天皇の闘いを理解するに
は、同天皇の祖父帝、光格天皇を理解しなければならない。
 
光格天皇は、江戸幕府と激しく衝突しながら、63代の冷泉院から119代の
後桃園院まで900年弱の間途切れていた「天皇」の称号を復活させるな
ど、廃れていた皇室の権威を取り戻し多くの神事や祭祀を復興した一生
だった。同天皇については先週の当欄で取り上げたが、その政治的、社会
的遺産を引き継いだのが孫帝の孝明天皇である。
 
孝明天皇は天保2(1831)年に生まれ、弘化3(1846)年に16歳(数え年、
以下同)で践祚(せんそ)し、在位20年間、36歳で慶応2(1866)年崩御
した。孝明天皇践祚の6年前、1840年のアヘン戦争で清国はイギリスに完
敗し半ば植民地とされた。幕府も震え上がった戦争である。

列強が日本をも狙う中で、わが国と長い交流のあったオランダ国王は、清
国と同じ運命に陥る危険を回避するために開国を勧める親書を送った。
 
以降数年間に、琉球、浦賀、長崎、相模鶴ヶ丘、西蝦夷地、下田などをフ
ランス、アメリカ、イギリス、デンマークなどの船が度々訪れては威容を
誇示した。迫り来る危機を多くの人々が感じ始めた時代である。
 
その時、若き孝明天皇が幕府に海防勅書を下した。重なる異国船の来航に
対して、幕府は厳重な海防態勢をとっているではあろうが、心配だとし、
「異国を侮らず畏れず、海防をいっそう強化し、『神州の瑕瑾(かき
ん)』(日本国のきず―恥)とならないように処置」せよと言い渡した。

開国に断固反対

『幕末の天皇』(講談社学術文庫)の著者、藤田覚氏は右の勅書で朝廷が
幕府に対外情報に関する報告を要求したことに注目する。

政治権力から隔てられ、幕府の威光に圧倒され続けていた朝廷が、国際情
勢の変化の中で幕府が力を落とし始めたその機を逃さず、朝廷の影響力を
強め、地位の逆転を図ったのだ。国政についてまず朝廷に報告せよと、義
務を負わせたのである。地位の逆転。

これこそ祖父帝光格天皇の残した政治遺産である。光格天皇が強化した朝
廷の力と威光を孝明天皇はさらに強化し、活用した。結果、幕府と日本国
の政治は激しく揺さぶられ、動乱の渦を引き起こしていく。
 
嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが
浦賀に来航、黒船4隻の衝撃の中で孝明天皇が果たした役割について、藤
田氏が刮目の事実を書いている。
 
幕府は開国を要求するアメリカ大統領の国書に容易に回答を下せないま
ま、諸大名の意見集約と「人心折り合い」を探った。アメリカの力に押し
切られた幕府は安政元(1854)年に日米和親条約を結び、下田・箱館を開
港した。
 
和親条約に続いて修好通商条約締結も迫られた幕府は安政4(1857)年暮
れ、諸大名を江戸城に集め合意形成を図った。幕府は大名の7割は賛成と
見たが、尚、異論を封ずるために朝廷の勅許を得るべく、外交担当の老中
堀田正睦(まさよし)を京都に派遣した。ところが、幕府の思惑とは対照
的に安政5(1858)年1月25日に天皇が関白九条尚忠(ひさただ)に送った
宸翰(しんかん)にはこう書かれていた。

「通商条約については、たとえ老中が上京していかに演説しようとも断固
拒絶する、もしも外国人が納得しないならば『打ち払い』、すなわち攘夷
する決心だ」(『幕末の天皇』)
 
朝廷側の意見は必ずしもまとまっていなかったが、孝明天皇だけは開国に
断固反対だった。天皇の思いは公武合体で幕府を強化し、鎖国を続け、そ
の上に君臨することだった。
 
そもそも朝廷の意思は朝議によって決定される。朝議は関白をはじめ、議
奏(ぎそう)、武家伝奏(ぶけてんそう)という職責にある公家らの合議
による。叡慮(えいりょ)、つまり天皇の考えだけで決定されるわけでは
ない。

そこで堀田は必死に説いた。「地球上のあらゆる国と国民を資本主義的市
場経済に引きこんでやまない世界情勢の激変に直面し、選択肢は、そのな
かに入ってゆくか、拒絶し鎖国を維持するため戦争するしかない、しかし
勝利する可能性はない、とすれば通商条約を締結して世界の市場経済の一
員となり、国家、国勢の挽回を他日に期すしかない」(同)と。
 
公家らの前で開国こそ生きる道だと説く堀田の主張は正論である。しか
し、孝明天皇は堀田の説明を疑い、左大臣近衛忠煕(ただひろ)に宸翰を
送って本当に日本は戦争には勝てないのか、調査せよと命じている。開国
反対の余り、天皇は幕府の考えに一切、耳を貸そうとしなかった。

最大最後の抵抗
 
眼前の国際情勢の激変から目を背ける孝明天皇は朝廷内においてさえ孤立
し、対米通商については幕府に白紙委任する方針が朝廷の意向として打ち
出された。それでも天皇は諦めず、より多様な意見を聞いて決着せよとの
宸翰を3月7日に発した。
 
天皇の指示は公家たちを動かし、5日後、公家88人が御所に集合し、幕府
一任取り消しを要求した。藤田氏は「孝明天皇の鎖国攘夷という不動の意
思が公然」となったと書いた。天皇の幕府への挑戦は、公家を巻き込んだ
各藩の武士たちの尊皇攘夷派、佐幕派の対立を深めていった。
 
対する幕府は彦根藩主井伊直弼を大老に任じ、井伊は日米修好通商条約調
印を断行した。天皇は激怒し、幕府の非を鳴らした。天皇の怒りと幕府問
責を広く知らしめるため、幕府だけではなく水戸藩へ、また水戸藩を通じ
て三家、三卿、家門大名に、さらに近衛家などを通じて姻戚関係のある大
名にも、幕府の非を伝えるよう命じる「戊午(ぼご)の密勅」を出した。
 
天皇の振舞いに幕府は激しく刺激された。井伊は天皇を担いで幕府に抗そ
うとする反対派の弾圧に乗り出した。多数の有為の人材の命を奪った安政
の大獄の始まりである。
 
対して孝明天皇も憤慨し、幕府に究極の闘いを挑んだ。『孝明天皇』(福
地重孝、秋田書店)にはこう書かれている。

「孝明天皇はひどく怒られ、安政5年(1858)6月28日、時勢がここに至っ
たのは、聖徳の及ばざるためであると、深く幕府の専断をなげき、関白九
条尚忠らを召して『譲位の密勅』を賜わった」
 
天皇の究極の武器は譲位だったのである。福地氏はさらに書いた。

「8月5日、幕府のやり方が天皇の意志に副わないので、天皇から重ねて譲
位の勅諭があった。天皇が退位するというのは、天皇の幕府に対する最大
最後の抵抗である」
 
今上陛下のお言葉に関連して現在進行中の議論を考える際、このような歴
史もまた、振りかえらざるを得ないのではないだろうか。

『週刊新潮』 2017年2月16日号   日本ルネッサンス 第741回