2019年09月21日

◆イスラエル次期政権は

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月21日(土曜日)通算第6203号 

イスラエル次期政権はガンツ元参謀総長か連立を主導へ
    ネタニヤフ政権の継続は難しい雲行き。米国外交にも影響

ユダヤ人の特質は「全員一致ならやめちまえ」である。

定数わずか120の国会(クネセト)の議席を巡り少数政党乱立。全国区だ
から、その選挙制度からも、乱戦となる。

今回の選挙で議席を得た政党が11もある、そのうえ、議席を得なかった
少数党が、じつ18.多彩さに鎬を削るコンクール?

ネタニヤフ首相は10年以上の長期政権となって、国民からかなり飽きられ
ている。

そのうえ、汚職の噂がついて回った。しかし米国トランプ政権と呼吸が
あって、米国大使館のエルサレム移転。ゴラン高原の併呑容認、そしてヨ
ルダン川西岸の入植拡大は黙認と、事実上の応援団長だった。

トランプ政権で実務的な中東問題を担当するのはイヴァンカの夫、クシュ
ナーであり、かれは屡々エルサレムとリヤドを往復し、イラン問題などを
協議してきた。トランプ政権はネタニヤフ続投と踏んでいたからだ。

ジョンボルトン補佐官が解任されたのも、イランに対する政策に一貫性が
ないとして、トランプ大統領と激論をしたことが原因の一つとされた。

事前のネタニヤフ有利という予測は修正された。

9月17日のイスラエル総選挙は、与党リクードと、新・野党連合の「青
と白」が議席35で同数。今後、連立相手を求め、政策調整がこれから進む。

リクードの唱える「大連立」を「青と白」が拒否しており、中間派の「我
が家イスラエル」をはじめとする少数政党のいずれを味方につけるかで、
政権の行方が右に曲がるか、左に逸れるかが決まる。

まず選挙結果を得票率でみるとリクードが26・27%、青と白が25・
95%と伯仲しており、議席数はともに仲良く35。

ということはどちらかが連立の主導権をとって他の少数政党を説得し、政
策協定を結んでいくことになるだろう。

議席数をみるとリクードも五議席増やしているが、青と白はいきなり24
義戦増だ。

リクードと連立を組む宗教政党「シャス」の議席獲得は8,ユダヤトーラ
連合が同8、これにハタシュタールが6議席。

野党側は従来の労働党が13議席も減らして6議席となった。

同様に議席減を記録したのは、「我が家イスラエル」が5議席に留まり,
右翼連合が5,「メレツ」が4,クラヌも同数4,そしてアラブ政党が
4.これら少数党の議席減は合計24,つまり、この少数政党が減らした
24議席がすべて「青と白」に流れ込んだ結果となった。


 ▲ネタニヤフ下野、大連立も先行き不透明

事前予測と開票速報の段階ではキャスティング・ボードを握るのは「吾が
家イスラエル」と言われたが、予測議席10が、結果は5に終わり、とて
も連立のキィを握るとは言えなくなった。

「我が家イスラエル」は「正統ユダヤ教徒の兵役免除、免税得点を廃止せ
よ」と公平を訴えて支持を伸ばしてきただけに、その敗北が意味するの
は、正統ユダヤ教徒への優遇措置に変更はないだろうと考えられる。

投票から2日後、ネタニヤフは敗北を宣言し、一方「青と白」のガンツは
「勝利宣言」をした。

この結果を踏まえ、米紙ワシントンポストは、ガンツ元参謀長が連立政権
を率いるだとうと予測した(9月20日)。

ガンツは18歳で軍隊へ入隊し、38年間軍人一筋の生活を送り、着々と
軍歴をあげて、幾多の戦争を指導し、現役組トップの参謀総長となって、
引退した。しばし実業界に身を置いたが、政治への関心が高く、新政党を
組織したのだ。世界の政界は「ガンツ? WHO?」だ。

さて日本への影響は殆どないが、米国は深刻な影響が出る。

イラン政策でネタニヤフと米国は一致してきた点が多いだけに、もしガン
ツ元参謀総長が率いる「青と白」が中核の連立政権となれば、外交政策に
多少の路線修正、とりわけイランへの姿勢に変化が出るかも知れない。


 ▲イスラエルと中国の怪しい関係

 問題は中国である。

中国はイランから大量の石油を輸入しているが、同時に武器を供与してき
た。イラン・イラク戦争ではイランと同時にイラクへもスカッドミサイル
を供与し、「死の商人」と言われた。

その中国が、イランと併行してイスラエルにも深く食い込んでいる。この
二重人格的多芸ぶりは、日本が到底真似の出来ない外交の多重性外交を発
揮する。

イスラエル重視の中国の狙いは、第一にハイテク、暗号技術、ハッカー防
御。つまり軍事方面でのテクノロジー取得である。イスラルは米国と協同
で開発していたアロウ・ミサイル技術を、米国の怒りをよそに、秘かに中
国へ供与していた。

イスラエルのコンピュータ特殊部隊はイランの原子炉設備のコンピュータ
システムにウィルスをしかけて開発を数年遅らせた。その技量を中国は教
訓としている。

第二は中国企業の多国籍化、とりわけM&A(企業合併、買収)のノウハ
ウを米国のファンドや乗っ取り屋から学び、欧米並びに豪、日本のハイテ
ク企業を巧妙に買収してきた。その秘訣を中国はユダヤ人から得たフシが
ある。

       
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1958回】                 
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(13)
  徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

     △
徳田は「(満鉄の)設備のほとんどすべてがツアール・ロシアの殘したも
の」と綴るが、「坊主憎けりゃ・・・」といった類の言い掛かりであるこ
とは明らかだ。

ここでモスクワで開催された極東民族大会への往復の旅程を追うと、
1921(大正10)年10月初旬の上海到着後、長江を遡って南京へ。南京から
北上し曲阜、済南を経て天津へ。天津から北上し山海関で満洲入りし、以
後は長春、ハルピンへ。ここで西に向かって満洲里でモンゴル入りした
後、「何となくソヴエト同盟入りの目的をその日のうちに達した」。

一方、モスクワからの帰路を見ると、「蒙古を通過したのは一九二二年の
三月末から四月の中旬にかけて」であり、その後は張家口、北京、天津、
徐州、南京、上海、大連を経て帰国している。おそらく各地に張り巡らさ
れたスパイ網から逃れるために、このように手の込んだ旅をせざるを得な
かったのだろう。

ところで徳田は、帰国から3年ほどが過ぎた1925年に上海に現れた。中国
共産党創立から4年後で、3回目の上海ということになる。

1923年のドイツ革命失敗「世界的に革命運動が低調とな」る一方、国内で
は1924年に「憲政會の加藤高明を中心とする資本家勢力の内閣が成立し
た」。こういった内外状況のなか、日本共産党内で「解黨の可否の論議が
鬪わされていた」。

それを知ったコミンテルンが日本共産党の中心人物を上海に呼び付けたの
である。

「1925年の1月に解黨を主張する側の代表として佐野文夫、青野季吉兩君
とこれに反對する荒畑寒村君と佐野學君と私が代表して上海でコミンテル
ン代表者極東部長同志ボイチンスキーと會見することとなつた」わけだ。

「會見」とはいうものの、実態はボイチンスキーの前で釈明し、解党すべ
きか否かの指示を仰ごうというのだろう。(以後、徳田は「ヴォイチンス
キー」と記す)

「同志ヴォイチンスキーの住んでいた宿は日本人租界の中にあ」り、「事
務員級の人ばかり住んでいる相當大きなアパート式の家で、多くのソヴエ
ト同盟人が住んでいた」。

ここで徳田ら日本共産党員は解党問題に就いて「約一週間にわたつて晝夜
をわかたず論議した」のである。日本人租界にコミンテルンの拠点とは。
これを灯台下暗しというのだろうか。

徳田も「こういう家が何の不安もなく日本人租界内にあつたことからみて
も當時の上海の空氣がどんなものであるか察しがつく」。無政府状態とで
も言うべきか。

「上海での一週間の討論の結果黨を解體することの誤びようは全代表者に
よつて認められた」。「特に当時の上海の革命的ふん圍氣がこれまで解黨
を主張していた人々をも勇気づけることのなつたのである」。じつは中国
共産党は1923年の第3回党大会で「黨全體として國民黨に參加する決議が
採擇」された。

この第一次国共合作が「上海の革命的ふん圍氣」を醸成させたことから、
「わが黨は再び勇氣りんりんと起ち上がった」という。「勇氣りんりん」
と少年探偵団の主題歌のようなアッケらかんとした表現が徳らしく微笑ま
しいが、まあ実態は「同志ヴォイチンスキー」に強く叱責されたというこ
とだろう。

じつは上海行きの船に日本のスパイが乗っているとの情報を事前に得てい
た徳田らは、「上海行の半客船である4千トン級の熊野丸に乘つた」。こ
の船も満員だったが、満員であることは「日本帝國主義がイギリスと中國
市場を爭つて動亂を援助し、その背景の下に中國に手をのばしていた」こ
との証拠だと言う。やはり日本帝国主義は「親の仇」か。

この時、非合法時代の日本共産党(第二次日本共産党)で書記長を務め、
1928(昭和3年)に湾の基隆で官憲包囲の中で拳銃自殺した「渡政」こと
渡邊政之輔も一緒だった。
「同志渡邊政之輔ははじめての外國行きだものだからすつかり有頂天にな
つて」いた。
          
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 読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1海外放送を見ていたら、トランプ大統領について気になる報
道があった。それは米国の議員の発言だが、トランプは今八方ふさがりで
混乱しており戦争になる危険があると言う。

八方ふさがりとはトランプは再選を目指すので当面海外のトラブルは避け
たい。しかしそれを見こして海外の反米勢力が重大なトラブルを起こして
くる。イランのサウジ精油所攻撃は良い例だ。北の核問題もある。そこで
困ったトランプは解決が見いだせずフラフラ状態だという。それが逆に戦
争を起こす可能性があるということだ。

これが正しいかわからないが、日本が国防をトランプ個人に頼っているの
は危ない。失敗すると破滅する。日本の優先課題はやはり再軍備だ。国防
は外国と違い裏切らないからだ。

トランプの真の解決案は、日本やドイツのような地域の核になる国に核保
有を認めることであろう。米国は必死に核拡散を止めようとしているが、
止まらない。技術というものはそういうものなのだ。その結果、米国は途
方もない負担を背負い込んでいる。さらに不拡散の代償に必要な防衛代行
が出来ないことだ。いくら米国でも核の身代わり被曝はできないのだ。こ
うした状況で、地域に狂気じみた強気の指導者が出ると被害国も米国も屈
服せざるをえない。

ジョージ・ケナンの著書を読んでいると、第二次大戦の米国はまるで高校
生のようであったと批判している。

日本を滅ぼせばソ連が南下することは現在の目で見れば明らかだった。こ
れを当時外交専門家のマクマレが気づき、国務省に対日敵視方針を止める
ように建言したが握りつぶされてしまった。

その結果は戦後の冷戦であり被害国は勿論米国にとっても大損害だった。
これは米国の政治家が愚かであったからである。したがって日本は全面的
には米国に頼ることは出来ないのだ。(落合道夫)

2019年09月20日

◆中国が軍事介入の可能性

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月19日(木曜日)弐 通算第6201号 

「10月1日の軍事パレード以後、中国が軍事介入の可能性」(黄之峰)
 「騒擾が続けば香港はすべてを失うだろう」(王振民・清華大学・香港
専門家)

 国で議会証言に立った黄之峰(「雨傘革命」の指導者」)は「香港人権
民主法 2019」の早期制定を議会人に促し、また「10月1日の建軍
パレードまで、中国軍の香港侵攻はないが、その後は分からない」とした。

その前の週に黄はドイツへ赴き、ベルリンの名門=フンボルト大学で講
演、「香港は東西に割かれていたベルリンのようだ」とも語った。ドイツ
は香港の民主化運動に冷淡だが、いくばくかの民主化支持派がいるようで
ある。

黄之峰は2014年の雨傘革命のリーダーだった。当時、彼は17歳の少年、指
導力はなく、またヒロインに祭り上げられた周庭とて、組織を団結させ永
続化させるリーダーシップには欠けた。

雨傘運動は尻つぼみとなり、その後に出てきたのは「香港独立」を訴えた
勢力だった。西側メディアは雨傘から、港独に焦点を移動させ、彼らの政
党(「青年新政」)は立法府に2人の議員を当選させるほどだった。

以後、民主化運動は下火になった。しかしながら庶民の間には不満が鬱積
していた。富と貧困の二極分化、その再分配が不公平であると認識していた。

中国は国連の場を情宣活動の道具に使い始めた。

ジェネーブの国連に中国は清華大学・香港マカオ研究センターの王振民を
派遣し、「いまの騒擾が続けば、香港は全てを失うことになる」と発言し
た。威嚇的発言なのか、政治宣伝のため、国連を利用しているのかは不明。

また香港では大陸からの新移民や第五列を動員し、五星紅旗をふってシッ
ピングアーケードに歌声広場を演じさせ、そのうえ愛国行進のデモを組織
化し、「逆進行動」というキャンペーンを始めさせた。このデモ隊はパト
カーに守られていた。
いずれにしても、暗い近未来予測しか並ばないことが気になる。

     
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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(読者の声1)貴誌前号、ならびに前々号の書評に関連してですが、宮崎
先生の『神武天皇以前――縄文中期に天皇制の原型が誕生した』(育鵬社)
のなかにも紹介のあった、青森県八戸市の是川縄文館に展示された「合掌
土偶」について。
 従来言われてきた解釈は、この合掌土偶は「祈り」の象徴でした。

しかし最近の研究では、この土偶の下腹部に注目し、出産間際の情景と判
明しています。安産祈願を兼ねての出産、あたらしい生命力の躍動を描い
た土偶ではないか、という解釈です。ご一考までに。
(青森市さつき)

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(読者の声2)貴誌創刊から16年、通巻6200号突破、まことに慶賀
に絶えません。今後とも、日本の常識に基づいた言説が維持、発展される
ことをいのっております。

 ところで、貴誌6193号で「乗っ取り王」といわれたピケンズ氏の死
亡を扱われていて、日頃の中国論とかけ離れていて不思議と思っていたの
ですが、昨日発売の『週刊新潮』を読んで得心がいきました。

同誌の追悼コラムに宮崎さんの談話が掲載されていて、ほかにも『財界』
主幹の村田さんと、明治大学の越智道雄・名誉教授のコメントが並列され
ておりました。

ピケンズが日本上陸の衝撃、それがいまや株主重視の風潮が日本に定着し
つつある時代の変化という文脈でピケンズを捉えているのですね。基底に
あるのが歴史観ということに、気がつきました。(NO生、横浜)


   ♪
(読者の声3)貴誌前号で、宮崎先生の『神武天皇以前――縄文中期に天皇
制の原型が誕生した』(育鵬社)に関連し、長野県で五つの国宝に指定さ
れた縄文土偶を一堂にならべての画期的な展示会があること、初めて知り
ました。

宮崎正弘先生のように函館、青森、山形、茅野と尋ね歩かれなくても一度
に見られる機会ですから、老生も長野は近いので見に行きたいと考えてお
ります。(TT生、富山)


2019年09月19日

◆「香港は燃えているか?」

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月16日(月曜日)弐 通算第6198号 

「香港は燃えているか?」。「ええ、本日(9月16日)で100日目になり
ます」
 
またも香港の中心街は火炎瓶、ショットガン。乱戦、混沌。駅が燃やされた

 9月16日の日曜日。前夜のランタン祭り、中秋の名月が政治色濃厚な
集会や抗議活動になったが、ひきつづき香港の随所で抗議活動が行われ
た。夕暮れとともに「ブレーブス」と呼ばれる武装集団が登場、金鐘駅周
辺から政府庁舎へ火炎瓶と投石を始めた。

「ブレーブス」(勇敢)と呼ばれるようになった「民主派」側の武装集団
の実態は謎のベールに包まれている。

毎回、黒服、ヘルメット、特殊ゴーグル、手袋、ガスマスクで顔を隠す一
方、火炎瓶などが周到に用意されている。きっとアジトがあり、軍資金も
必要だろう。行動も統率がとれており、動作がきびきびしている。だから
軍人が民主行動の波に混入しているのではないか、中国の工作隊ではない
か、という疑念が以前から囁かれてきた。

デモ行進や集会の一般参加者は香港市民であり、穏健派である。ただし多
くが放水を避けるため傘を持参している。乱闘がときおり発生するのは警
官の乱暴な遣り方にいきり立つ付和雷同組、行きがかり上、乱戦に加わる
地元のチンピラ、失業者など、逃げ遅れて巻き添えとなり、あげくに拘束
されるのは一般市民のハプニング組が多い。

当局によって穏健派の「民戦」が申請した集会が禁止されたため、9月
15日の行動は、SNSによる呼びかけに自発的集まった参加者だ。みる
みるうちに数万人。日頃の逆コース、解散予定地だった銅鑼湾から湾仔、
金鐘、中環へと行進をはじめ、平和的な行動で、メインストリートは参加
者で埋め尽くされた。「リンゴ日報」は参加者が十万と報じた。

英国領事館前にはおよそ千名が結集し、「英国は何をしているのか、香港
の自由のために協力せよ」とユニオンジャックの旗をなびかせながら訴えた。
 
午後5時ごろから武装集団が火炎瓶を投げ始め、警官隊は催涙ガス、放水
車で応戦、乱闘現場では警官隊がショットガンを構えた。

地下鉄の金鐘(アドミラリティ)駅は先週と同様に入り口にバリケード、
道路工事用のプラスチック標識や段ボールが摘まれ、放火された。

火は燃え広がり、付近を明るくした。火傷による重傷者がでた。駅に設置
された監視カメラは殆どが破壊された。

またこの日予定されていたテニスのトーナメント予選会、音楽会などは中
止を余儀なくされ、この夜の逮捕者は49名と発表された。英紙ガーディ
アンは「逮捕者は千名」と報じたが、これは累計数字だろう。

穏健派の別グループ「香港人権擁護」(CIVIL RIGHT 
ADVOCATES=香港では「香港民権抗争」と名乗る)は、台湾へ活
動家を派遣し、連帯を呼びかける署名運動。台湾各地にもレオンの壁があ
らわれた。

「香港は燃えているか?」。

15日で連続99日、本日でちょうど百日目。
香港は燃え続けている。
    

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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1956回】               
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(11)
!)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

      △
ここで徳田の目は日本に転ずる。「日本でも古くから三井、大倉、高田と
いう財閥が、この古武器商賣をやつていた。むろん中國えの輸出であ
る」。こういう商売は「各國の條約で禁止されている」が、「平氣で政府
の援護の下にこのボロい商賣が行われた」。「これらの財閥がとくに陸海
軍御用商人であつたことを忘れてはならない」。

「こういうやり方が日本軍閥の本性なのである。天皇の支配の下に世界平
和をめざすという、あの八紘一宇を讀者は思い出すであろう」。

当然、徳田は非合法活動に従事しているわけだから、要らぬゴタゴタは起
こしたくない。南京では旅館のボーイが部屋に「いきなり14、5くらいの
娘を2人つれてきた」。もちろん「うしろには、卅代の女がちやんとつい
ている」。そこで?田は「ははア」と察した。「要するに娼婦なのだ」。

そこで「さて知らない國のことだし、重大な任務をおびているので、これ
が因でけんかを始めたりしてどんな災難が降つてかかるかしれないと思つ
たから」、幾許かの金を渡して「『かえれ』と手ぶりをした」そうだ。
はて「要するに娼婦」だったのか、それともハニートラップか。

ところが「金をもらつたからには、そう簡單にはかえれません」。脅迫で
はなく、「金をただもらつて追い拂われるのが心外だといつた樣子」。だ
が「どうもこちらも相手にする氣はない」。さんざん手こずったが「よう
やくのことで撃退できた」そうだ。

じつは『わが思い出 第一部』は単行本として出版される以前に共産党機
関紙『アカハタ』に連載されたというが、この件を当時の生真面目な読者
はどのように受け取っただろうか。

「これでみると南京の町は一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもい
いくらいで」、それというのも「地方の土ごう連中が地方では得られない
享樂を求め集るのと」、「地方の戰爭や殺人強盗の難をさけて南京によつ
て來るから」であり、要するに「他にする仕事はなく、享樂を追い求めて
暮らすばかりになつている」。

徳田の南京に対する発言を今風に言い換えるなら、さながら徹底したヘイ
ト・スピーチということになるだろう。それはそれとして首を傾げるの
が、徳田が南京大虐殺の一件に一切言及していないことである。

たしかに徳田の南京滞在は1922(大正11)年であり、南京大虐殺が行われ
たとされる1937(昭和12)年の15年前に当たる。『わが思い出 第一部』
が出版されたのは1948(昭和23)年であり、それ以前に『アカハタ』に連
載されているはず。

だが南京大虐殺が日本軍の「戦争犯罪」として告発された極東国際軍事裁
判が行われたのは1946(昭和21)年5月から1948(昭和23)年11月まで。
つまり同裁判と同時並行的に『アカハタ』連載が行われ、『わが思い出 
第一部』が出版されている。

にもかかわらず、「一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいくら
い」の南京で起こったと言われる南京大虐殺についての言及が一切ない。
ということは徳田は南京大虐殺に興味を示さなかったのか。それともデッ
チ上げのヨタ話と考えていたのか。

いずれにせよ、南京大虐殺に対する敗戦後数年間における日本共産党幹部
の「立ち位置」が浮かび上がってくる。『わが思い出 第一部』から判断
する限り、故意か偶然か、あるいは特別の理由があってかは不明だが、徳
田が南京大虐殺に関心を示すことはなかった。

南京を後に上海へ。日本式旅館で働く女性たちは「いずれも天草、島原、
長崎あたりの人々」で、「中國全體からシンガポールあたりまで賣られて
行く哀れな娘子軍である。女中とはいいながら、何かしら一種變つたふぜ
いを帶びている」。
村岡伊平次の世界か。《QED》
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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(読者の声1)経済評論家の言をみていて、違和感があるのはネオコンの
ボルトン補佐官がトランプによって解任されたので、政権に強硬派がいな
くなり、今後、米中貿易戦争は緩和されるという、明らかな基盤のない論
説です。

米中戦争は貿易戦争の段階から、技術覇権争奪戦、そして金融戦争へ移行
するだろうと宮?さんは著作などで予測されていて、ボルトン解任の動き
とは無関係ではないかと思いますが、如何でしょう?(GH生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)対中強硬派は議会とメディアです。とくに民主党
は人権がらみで中国制裁を言っていて、むしろ緩和を言ってきたのがトラ
ンプですから、分析はあべこべに近いですね。

それからボルトンが「ネオコン」というのは明らかな間違いで、保守の人
です。ネオコンというのはアービン&ウィリアム・クリストル親子が代表
するように元トロツキストからの転向組で、ユダヤ系が多い特徴があり、
その親玉がチェイニー元副大統領などと言われましたが、チェイニー元副
大統領も、ネオコンではなく、政策がときおり一致したにすぎません。

2019年09月18日

◆「香港は燃えているか?」

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月16日(月曜日)弐 通算第6198号 

「香港は燃えているか?」。「ええ、本日(9月16日)で百日目になり
ます」
  またも香港の中心街は火炎瓶、ショットガン。乱戦、混沌。駅が燃や
された

 9月16日の日曜日。前夜のランタン祭り、中秋の名月が政治色濃厚な
集会や抗議活動になったが、ひきつづき香港の随所で抗議活動が行われ
た。夕暮れとともに「ブレーブス」と呼ばれる武装集団が登場、金鐘駅周
辺から政府庁舎へ火炎瓶と投石を始めた。

 「ブレーブス」(勇敢)と呼ばれるようになった「民主派」側の武装集
団の実態は謎のベールに包まれている。
毎回、黒服、ヘルメット、特殊ゴーグル、手袋、ガスマスクで顔を隠す一
方、火炎瓶などが周到に用意されている。きっとアジトがあり、軍資金も
必要だろう。行動も統率がとれており、動作がきびきびしている。だから
軍人が民主行動の波に混入しているのではないか、中国の工作隊ではない
か、という疑念が以前から囁かれてきた。

デモ行進や集会の一般参加者は香港市民であり、穏健派である。ただし多
くが放水を避けるため傘を持参している。乱闘がときおり発生するのは警
官の乱暴な遣り方にいきり立つ付和雷同組、行きがかり上、乱戦に加わる
地元のチンピラ、失業者など、逃げ遅れて巻き添えとなり、あげくに拘束
されるのは一般市民のハプニング組が多い。

当局によって穏健派の「民戦」が申請した集会が禁止されたため、9月
15日の行動は、SNSによる呼びかけに自発的集まった参加者だ。みる
みるうちに数万人。日頃の逆コース、解散予定地だった銅鑼湾から湾仔、
金鐘、中環へと行進をはじめ、平和的な行動で、メインストリートは参加
者で埋め尽くされた。「リンゴ日報」は参加者が十万と報じた。

英国領事館前にはおよそ千名が結集し、「英国は何をしているのか、香港
の自由のために協力せよ」とユニオンジャックの旗をなびかせながら訴えた。
 
 午後五時ころから武装集団が火炎瓶を投げ始め、警官隊は催涙ガス、放
水車で応戦、乱闘現場では警官隊がショットガンを構えた。

 地下鉄の金鐘(アドミラリティ)駅は先週と同様に入り口にバリケー
ド、道路工事用のプラスチック標識や段ボールが摘まれ、放火された。
火は燃え広がり、付近を明るくした。火傷による重傷者がでた。駅に設置
された監視カメラは殆どが破壊された。
またこの日予定されていたテニスのトーナメント予選会、音楽会などは中
止を余儀なくされ、この夜の逮捕者は49名と発表された。英紙ガーディ
アンは「逮捕者は千名」と報じたが、これは累計数字だろう。

 穏健派の別グループ「香港人権擁護」(CIVIL RIGHT 
ADVOCATES=香港では「香港民権抗争」と名乗る)は、台湾へ活
動家を派遣し、連帯を呼びかける署名運動。台湾各地にもレオンの壁があ
らわれた。

「香港は燃えているか?」。
15日で連続99日、本日でちょうど百日目。
香港は燃え続けている。
      

  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1956回】               
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(11)
!)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

      △
 ここで徳田の目は日本に転ずる。「日本でも古くから三井、大倉、高田
という財閥が、この古武器商賣をやつていた。むろん中國えの輸出であ
る」。こういう商売は「各國の條約で禁止されている」が、「平氣で政府
の援護の下にこのボロい商賣が行われた」。「これらの財閥がとくに陸海
軍御用商人であつたことを忘れてはならない」。
「こういうやり方が日本軍閥の本性なのである。天皇の支配の下に世界平
和をめざすという、あの八紘一宇を讀者は思い出すであろう」。

当然、徳田は非合法活動に従事しているわけだから、要らぬゴタゴタは
起こしたくない。南京では旅館のボーイが部屋に「いきなり十四、五くら
いの娘を二人つれてきた」。もちろん「うしろには、卅代の女がちやんと
ついている」。そこで?田は「ははア」と察した。「要するに娼婦なの
だ」。そこで「さて知らない國のことだし、重大な任務をおびているの
で、これが因でけんかを始めたりしてどんな災難が降つてかかるかしれな
いと思つたから」、幾許かの金を渡して「『かえれ』と手ぶりをした」そ
うだ。
はて「要するに娼婦」だったのか、それともハニートラップか。

ところが「金をもらつたからには、そう簡單にはかえれません」。脅迫
ではなく、「金をただもらつて追い拂われるのが心外だといつた樣子」。
だが「どうもこちらも相手にする氣はない」。さんざん手こずったが「よ
うやくのことで撃退できた」そうだ。

 じつは『わが思い出 第一部』は単行本として出版される以前に共産党
機関紙『アカハタ』に連載されたというが、この件を当時の生真面目な読
者はどのように受け取っただろうか。
「これでみると南京の町は一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもい
いくらいで」、それというのも「地方の土ごう連中が地方では得られない
享樂を求め集るのと」、「地方の戰爭や殺人強盗の難をさけて南京によつ
て來るから」であり、要するに「他にする仕事はなく、享樂を追い求めて
暮らすばかりになつている」。

 徳田の南京に対する発言を今風に言い換えるなら、さながら徹底したヘ
イト・スピーチということになるだろう。それはそれとして首を傾げるの
が、徳田が南京大虐殺の一件に一切言及していないことである。

たしかに?田の南京滞在は1922(大正11)年であり、南京大虐殺が行わ
れたとされる1937(昭和12)年の15年前に当たる。『わが思い出 第一
部』が出版されたのは1948(昭和23)年であり、それ以前に『アカハタ』
に連載されているはず。
だが南京大虐殺が日本軍の「戦争犯罪」として告発された極東国際軍事裁
判が行われたのは1946(昭和21)年5月から1948(昭和23)年11月まで。
つまり同裁判と同時並行的に『アカハタ』連載が行われ、『わが思い出 
第一部』が出版されている。

にもかかわらず、「一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいく
らい」の南京で起こったと言われる南京大虐殺についての言及が一切な
い。ということは徳田は南京大虐殺に興味を示さなかったのか。それとも
デッチ上げのヨタ話と考えていたのか。

 いずれにせよ、南京大虐殺に対する敗戦後数年間における日本共産党
幹部の「立ち位置」が浮かび上がってくる。『わが思い出 第一部』から
判断する限り、故意か偶然か、あるいは特別の理由があってかは不明だ
が、徳田が南京大虐殺に関心を示すことはなかった。

 南京を後に上海へ。日本式旅館で働く女性たちは「いずれも天草、島
原、長崎あたりの人々」で、「中國全體からシンガポールあたりまで賣ら
れて行く哀れな娘子軍である。女中とはいいながら、何かしら一種變つた
ふぜいを帶びている」。
村岡伊平次の世界か。
《QED》
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆ 
読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   ♪
(読者の声1)経済評論家の言をみていて、違和感があるのはネオコンの
ボルトン補佐官がトランプによって解任されたので、政権に強硬派がいな
くなり、今後、米中貿易戦争は緩和されるという、明らかな基盤のない論
説です。
 米中戦争は貿易戦争の段階から、技術覇権争奪戦、そして金融戦争へ移
行するだろうと宮?さんは著作などで予測されていて、ボルトン解任の動
きとは無関係ではないかと思いますが、如何でしょう?
  (GH生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)対中強硬派は議会とメディアです。とくに民主党
は人権がらみで中国制裁を言っていて、むしろ緩和を言ってきたのがトラ
ンプですから、分析はあべこべに近いですね。
 それからボルトンが「ネオコン」というのは明らかな間違いで、保守の
人です。ネオコンというのはアービン&ウィリアム・クリストル親子が代
表するように元トロツキストからの転向組で、ユダヤ系が多い特徴があ
り、その親玉がチェイニー元副大統領などと言われましたが、チェイニー
元副大統領も、ネオコンではなく、政策がときおり一致したにすぎません。


2019年09月17日

◆「香港は燃えているか?」

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月16日(月曜日)弐 通算第6198号 

「香港は燃えているか?」。「ええ、9月16日で百日目になります」
またも香港の中心街は火炎瓶、ショットガン。乱戦、混沌。駅が燃やされた

9月16日の日曜日。前夜のランタン祭り、中秋の名月が政治色濃厚な集
会や抗議活動になったが、ひきつづき香港の随所で抗議活動が行われた。
夕暮れとともに「ブレーブス」と呼ばれる武装集団が登場、金鐘駅周辺か
ら政府庁舎へ火炎瓶と投石を始めた。

「ブレーブス」(勇敢)と呼ばれるようになった「民主派」側の武装集団
の実態は謎のベールに包まれている。

毎回、黒服、ヘルメット、特殊ゴーグル、手袋、ガスマスクで顔を隠す一
方、火炎瓶などが周到に用意されている。きっとアジトがあり、軍資金も
必要だろう。行動も統率がとれており、動作がきびきびしている。だから
軍人が民主行動の波に混入しているのではないか、中国の工作隊ではない
か、という疑念が以前から囁かれてきた。

デモ行進や集会の一般参加者は香港市民であり、穏健派である。ただし多
くが放水を避けるため傘を持参している。乱闘がときおり発生するのは警
官の乱暴な遣り方にいきり立つ付和雷同組、行きがかり上、乱戦に加わる
地元のチンピラ、失業者など、逃げ遅れて巻き添えとなり、あげくに拘束
されるのは一般市民のハプニング組が多い。

当局によって穏健派の「民戦」が申請した集会が禁止されたため、9月
15日の行動は、SNSによる呼びかけに自発的集まった参加者だ。みる
みるうちに数万人。日頃の逆コース、解散予定地だった銅鑼湾から湾仔、
金鐘、中環へと行進をはじめ、平和的な行動で、メインストリートは参加
者で埋め尽くされた。「リンゴ日報」は参加者が10万と報じた。

英国領事館前にはおよそ千名が結集し、「英国は何をしているのか、香港
の自由のために協力せよ」とユニオンジャックの旗をなびかせながら訴えた。
 
午後5時ころから武装集団が火炎瓶を投げ始め、警官隊は催涙ガス、放水
車で応戦、乱闘現場では警官隊がショットガンを構えた。

地下鉄の金鐘(アドミラリティ)駅は先週と同様に入り口にバリケード、
道路工事用のプラスチック標識や段ボールが摘まれ、放火された。
火は燃え広がり、付近を明るくした。火傷による重傷者がでた。駅に設置
された監視カメラは殆どが破壊された。

またこの日予定されていたテニスのトーナメント予選会、音楽会などは中
止を余儀なくされ、この夜の逮捕者は49名と発表された。英紙ガーディ
アンは「逮捕者は千名」と報じたが、これは累計数字だろう。

穏健派の別グループ「香港人権擁護」(CIVIL RIGHT 
ADVOCATES=香港では「香港民権抗争」と名乗る)は、台湾へ活
動家を派遣し、連帯を呼びかける署名運動。台湾各地にもレオンの壁があ
らわれた。

「香港は燃えているか?」。

15日で連続99日、本日でちょうど百日目。
香港は燃え続けている。
     
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1956回】               
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(11)
徳)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

            △

ここで徳田の目は日本に転ずる。「日本でも古くから三井、大倉、高田と
いう財閥が、この古武器商賣をやつていた。むろん中國えの輸出であ
る」。こういう商売は「各國の條約で禁止されている」が、「平氣で政府
の援護の下にこのボロい商賣が行われた」。「これらの財閥がとくに陸海
軍御用商人であつたことを忘れてはならない」。

「こういうやり方が日本軍閥の本性なのである。天皇の支配の下に世界平
和をめざすという、あの八紘一宇を讀者は思い出すであろう」。

当然、徳田は非合法活動に従事しているわけだから、要らぬゴタゴタは起
こしたくない。南京では旅館のボーイが部屋に「いきなり14、5くらいの
娘を2人つれてきた」。もちろん「うしろには、卅代の女がちやんとつい
ている」。そこで?田は「ははア」と察した。「要するに娼婦なのだ」。
そこで「さて知らない國のことだし、重大な任務をおびているので、これ
が因でけんかを始めたりしてどんな災難が降つてかかるかしれないと思つ
たから」、幾許かの金を渡して「『かえれ』と手ぶりをした」そうだ。
はて「要するに娼婦」だったのか、それともハニートラップか。

ところが「金をもらつたからには、そう簡單にはかえれません」。脅迫で
はなく、「金をただもらつて追い拂われるのが心外だといつた樣子」。だ
が「どうもこちらも相手にする氣はない」。さんざん手こずったが「よう
やくのことで撃退できた」そうだ。

じつは『わが思い出 第一部』は単行本として出版される以前に共産党機
関紙『アカハタ』に連載されたというが、この件を当時の生真面目な読者
はどのように受け取っただろうか。

「これでみると南京の町は一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもい
いくらいで」、それというのも「地方の土ごう連中が地方では得られない
享樂を求め集るのと」、「地方の戰爭や殺人強盗の難をさけて南京によつ
て來るから」であり、要するに「他にする仕事はなく、享樂を追い求めて
暮らすばかりになつている」。

徳田の南京に対する発言を今風に言い換えるなら、さながら徹底したヘイ
ト・スピーチということになるだろう。それはそれとして首を傾げるの
が、徳田が南京大虐殺の一件に一切言及していないことである。

たしかに徳田の南京滞在は1922(大正11)年であり、南京大虐殺が行われ
たとされる1937(昭和12)年の15年前に当たる。『わが思い出 第一部』
が出版されたのは1948(昭和23)年であり、それ以前に『アカハタ』に連
載されているはず。

だが南京大虐殺が日本軍の「戦争犯罪」として告発された極東国際軍事裁
判が行われたのは1946(昭和21)年5月から1948(昭和23)年11月まで。
つまり同裁判と同時並行的に『アカハタ』連載が行われ、『わが思い出 
第一部』が出版されている。

にもかかわらず、「一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいくら
い」の南京で起こったと言われる南京大虐殺についての言及が一切ない。
ということは徳田は南京大虐殺に興味を示さなかったのか。それともデッ
チ上げのヨタ話と考えていたのか。

いずれにせよ、南京大虐殺に対する敗戦後数年間における日本共産党幹部
の「立ち位置」が浮かび上がってくる。『わが思い出 第一部』から判断
する限り、故意か偶然か、あるいは特別の理由があってかは不明だが、徳
田が南京大虐殺に関心を示すことはなかった。

南京を後に上海へ。日本式旅館で働く女性たちは「いずれも天草、島原、
長崎あたりの人々」で、「中國全體からシンガポールあたりまで賣られて
行く哀れな娘子軍である。女中とはいいながら、何かしら一種變つたふぜ
いを帶びている」。
村岡伊平次の世界か。《QED》
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 読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)経済評論家の言をみていて、違和感があるのはネオコンの
ボルトン補佐官がトランプによって解任されたので、政権に強硬派がいな
くなり、今後、米中貿易戦争は緩和されるという、明らかな基盤のない論
説です。

米中戦争は貿易戦争の段階から、技術覇権争奪戦、そして金融戦争へ移行
するだろうと宮?さんは著作などで予測されていて、ボルトン解任の動き
とは無関係ではないかと思いますが、如何でしょう?(GH生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)対中強硬派は議会とメディアです。とくに民主党
は人権がらみで中国制裁を言っていて、むしろ緩和を言ってきたのがトラ
ンプですから、分析はあべこべに近いですね。

それからボルトンが「ネオコン」というのは明らかな間違いで、保守の人
です。ネオコンというのはアービン&ウィリアム・クリストル親子が代表
するように元トロツキストからの転向組で、ユダヤ系が多い特徴があり、
その親玉がチェイニー元副大統領などと言われましたが、チェイニー元副
大統領も、ネオコンではなく、政策がときおり一致したにすぎません。


2019年09月15日

◆中秋の名月、ランタン祭

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月15日(日曜日)弐 通算第6196号 

 中秋の名月、ランタン祭り、ビクトリアピークも夜の公園も
 各地でSNSが呼びかけ、集会、乱闘、歌声広場、カオス続く香港

 14日、やはり香港のあらゆる場所が「戦場」となった。
 親中派と民主派の暴力的激突は、とくに九龍半島の旧工業地帯で発生
し、レオンの壁を破壊する白シャツ隊と、抗議する黒シャツの学生との乱
闘となり、数十のけが人が病院に運ばれた。民主派はただちに破壊された
レオンの壁を修復し、「解放香港」「時代革命」「光復香港」などと書き
込んだ。

中秋の名月、各所で龍の踊り、ランタン祭りが行われたが、大きなランタ
ンにも、「只有暴政、没有暴徒」(あるのは暴政だけ、暴徒なぞいな
い)。とくにユニークなのは、ビクトリアピークやライオンピークに数千
名が登山し、スマホのレーザーで自由香港などの呼びかけ、大きな垂れ幕
が山頂から降ろされた。

中学の教師が音頭を取っての公園集会、銀行員があつまって民主派支持の
集会、地下鉄職員らは「これ以上の暴力的破壊をやめろ」と叫び、それぞ
れが、全体的に統一がないが、おのおののネットワークで集合し、若者ら
が中心にばらばらに集まり、香港中が騒然とした日となった。

厦門プラザでは親中派が中国国旗を掲げて中国国歌を歌い、ほかのショッ
ピングプラザ、公園などでは「自由香港」の歌が大合唱された。おりから
のブットボール競技場でも、両派がにらみ合った。

この混乱は15日(日曜日)、各地で無許可の集会とデモが予定されてお
り、ふたたび流血と混乱の巷に化ける懼れが高まっている。
     
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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   ♪
(読者の声1)14日夜放映された「日本文化チャンネル桜」の討論番組
「香港、台湾そして日本の運命」ですが、冒頭6分目から13分目あたり
に、宮?先生が登場されて、香港の現況を写真入りで解説されています。
https://www.youtube.com/watch?v=N8u_j_6inQQ
 写真がリアルで、何が起きているかを掌握でき、参考になります。
   (TY生、横浜)


(宮崎正弘のコメント)あのパネル写真は小生が撮影しました。
  ♪
(読者の声2)貴誌前号、香港と中国の関係の記事で、日本の知識人達の
「中立幻想」について、なるほどと思いました。
なんでもかんでも「ニュートラル」の立場に立つことが高等であるという
ような謝った認識を、そして一国平和主義に陥没してしまった日本の知識
人は、國際常識でいうところのインテリとはほど遠いわけですね。
  (HG生、水戸)


2019年09月14日

◆昨秋以来、習近平から笑顔が消えた

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月14日(土曜日)通算第6194号  

昨秋以来、習近平から笑顔が消えた
追い込まれ、つるし上げられ、孤独のなか、香港問題で戦術的後退

最初のスローガンは「反送中」だった。たとえ容疑者と言えども、ちゃん
とした裁判が行われず、法治がない中国へ送還してはいけないという要求
だった。
 
97年の約束事は「一国両制度」。香港人にとっては「港人治港」(香港
人が香港を治める)と錯覚したが、選挙は擬制の民主政治だった。

民主化要求のデモ隊は「逃亡犯条例」の撤回を勝ち取ったが、これからの
裁判を前にして、「独立した第三者による調査委員会の設置」から、収監
中の活動家の全員釈放、そして「普通選挙」を呼びかける5つの要求をな
らべ、「五大訴求、欠一不可」(五大要求のうち一つでも欠けたら駄目)
となって恒久的闘争を宣言している。
 
この標語は駅の外壁から街のビル壁など、いたる所で大書されている。
 香港での異変、騒擾。乱闘、狼藉。しかし暴動につきものの商店襲撃、
略奪は発生しておらず、治安は保たれている。

武装集団にも一定の掟のような秩序が存在しているようだ。彼らはヘル
メットにマスク。お互いに誰が誰かを知らない。指導者がいないという点
でも、フランスで昨秋来つづく黄色のベストによる抗議行動と似ている。

民主派からみれば香港政庁は名ばかりの旧態依然の体制でしかなく、国民
が全体主義の支配者によって監視され、冷酷に静かに支配される現状を突
破するたたかいであり、体制翼賛会的な中国同調派や親中派から観れば、
警官隊に火炎瓶を投げ、鉄パイプや長い棒で戦う武装集団は「暴徒」と総
括される(火炎瓶を投げている過激派は、デモ隊に混入した中国の工作員
という説が有力)。

香港メディアの論調は鮮明に別れ、中国よりの「文わい報」は「暴徒害
港」と書いたが、自由民主擁護の「リンゴ日報」は、「怒火闘争」と書い
て、火焔瓶も放火も、怒りの結集と比喩し、デモ隊の要求は「港人求美懲
中共」(香港市民は米国に対して、中国共産党を懲罰するように求めてい
る)とした。
 
香港空港には数千、数万の香港市民が座り込み、国際線の欠航便が相次い
だため、国際的関心事となった。世界から現在、およそ七百人前後の
ジャーナリストが押し寄せ、地元のメディアとテレビを併せると千数百の
報道陣が蝟集している。

ところが、警官隊がPRESSにも暴力行為をふるったため、香港警察は
ジャーナリストの大半を敵に廻してしまった。

外国メディアで香港政庁の遣り方を支持する論調を見つけるのは至難の業
である。ところが、大陸のメディアは香港の民衆が「反米デモ」をしてい
ると報じている。

取締まりに当たった香港警察の発表(9月10日)によれば、負傷した警
官は238名に及び、また使用した「武器」は、催涙弾が2382発、ゴ
ム弾が492発、スポンジ手榴弾が225発、ビーチバックが59個。そ
して実弾は3発だったという。


 ▲共産党にとって、中国王朝にとって妥協は「犯罪」である

香港へ年間3千万人とも言われた観光客の足は遠のき(もっとも2千万近
くは中国大陸からの買い物客)、土産屋、デューティ・フリーの売り上げ
は激減。ブランドの旗艦店、たとえばブラドなどは店じまいの態勢には
いった。

空港へいたる電車の駅でも座り込み、ハイウェイにはバリケード。このた
め渋滞が起こり、空港は閉鎖寸前。旅客はそれでも辛抱強く再開を待ち、
抗議行動への批判はなかった。

金鐘駅から湾仔、中環という香港の心臓部には政府庁舎、官庁街、巨大商
社の高層ビルが林立し、五つ星ホテルが豪奢を競っている。ビルとビルと
は回廊が結び、ビルの谷間には緑オアシスのような公園が点在している。
これらの地下鉄駅は、券売機も改札も、案内板も、そして防犯カメラも破
壊され、出入り口は閉鎖された。

中国共産党は、「弾圧か、妥協か」の二者択一を迫られ、まずは十月一日
の建軍パレード前に事態を収めようと、突如、林鄭月峨行政長官に命じ
て、「逃亡犯条例」を撤回させた。

直前に国務院の香港マカオ弁事処主任と香港政庁との打ち合わせでは埒が
あかず、常務委員会は担当だった韓正を担当から外し、王岐山が香港との
国境に派遣された。

しかし中国皇帝のメンタリティから言えば、妥協とは犯罪である。妥協と
は見せず、戦略的後退を図ったが、それがたとえ戦術であるにせよ、中国
が帝国主義的覇権を求めるという究極の戦略は微動だにしていない。

それゆえ逃亡犯条例撤廃など、目先の誤魔化しと見抜いた民主派は一斉に
「5つの要求のうち、ひとつでも欠けては行けない。最後まで逃走を続け
る」と宣言し、警官隊の凶暴性を帯びた弾圧に怯まず、集会、デモ、授業
ボイコット、人間の鎖、国際社会へ訴え続ける。

そこで「親中派」や中国共産党の「第5列」は戦術を変更した。

歌声広場の演出というソフト路線である。香港の随所にある巨大ショッピ
ンモールの吹き抜けロビィに大きな五星紅旗を掲げ、愛国的な革命歌の合
掌を始めた。

一方、民主派は同じショッピングモールに集会場所を変えて、賛美歌や広
東ポップなど。呉越同舟という奇妙な空間が生まれだした。サッカー予選
で、スタジアムを埋めた数万の民衆は、突如鳴り響いた中国国歌に激しい
ブーイングを繰り出し、「われわれは香港人」「中国ではない。中国の国
家を演奏するな」と叫んだ。

 ▲「香港市民」の政治観、国家観、歴史観、人生観の大変化

筆者が不思議と思ったことは幾つかあるが、最大の関心事は香港の新しい
世代が物怖じしないという人生観、その世界観の異変(というよりグロー
バル化)、共産党の暴力を怖れずに、民主主義のために戦うとする姿勢を
崩さないことである。
 
拘束された若者らには裁判が待ち受け、法廷闘争が長引くだろうし、就職
には不利になるだろう。それでも彼らが立ち上がったのだから、そこには
或る決意があったことになる。

半世紀前、筆者が最初に香港に足を踏み入れたとき、異臭がただよい、
人々は半裸。うちわで涼み、汗の臭いが街に充満していた。

自転車が主流でタクシーはオースチンかベンツだった。アパートは貧弱で
薄汚れ、エアコンを備えたビルは少なく、若い女性もサンダル、化粧もせ
ず、粗末な衣服を身につけていた。

中国大陸から着の身着のままで逃げて来た世代である。香港財閥一位と
なった李嘉誠は広東省の北端、潮州から難民として香港へやってきた一人
だった。かれは、今回の騒擾を「暴力はやめよう、お互いに冷静に」と新
聞に意見広告を打った。

1970年代に香港は落ち着きを取り戻し、経済活動に邁進し、儲かる話なら
なんでものった。蓄財が一番、政治には無関心を装い。ともかく金を貯
め、子供達をカナダや英国へ留学させ、いずれは香港から自由な国々に移
住するというのが香港人の夢だった。

 全体主義に立ち向かうという迫力はなく、北京の遣り方には背を向けて
いた。

当時、貿易会社を経営していた筆者は何十回となく香港へ通い、工業街の
プレス音、金属加工の飛び散る火花、町中でも黒煙が上がり、輸出基地と
して華やかだった。まったく公害対策はなかった。いまは工業街跡地には
高層マンションが建っている。自家用車もベンツが主流だったが、いまで
はトヨタ、BMWなどが疾駆している。

その時代に付き合っていた貿易相手の工場長や商社の人々は、カネをため
るや、豪、カナだ、そして米国へ移住していった。あの時代の貿易関係の
知己、知り合いは香港に誰もいない。まさに誰も香港からいなくなったのだ。

「全体主義の恐怖」を知っていたからこそ、かれらは自由に最大の価値を
見出し、香港の将来に早々と見切りをつけていた。「ここは永住する場所
ではない」と。

1980年代、うってかわって中国が「改革開放」を本格化させるや、まっさ
きに大陸に工場を造り、賃金の安さと土地の減免税特典に惹かれ、香港華
僑の多くが投資先を移しはじめた。

それでも1989年の天安門事件を目撃して衝撃を受けた世代は、97年返還後
の中国人民解放軍の進駐を懼れ、海外へ海外へと移住先を選定し、また英
連邦諸国は香港からの移民には前向きだった。

この時代に中国へ大規模な投資を敢行したのが李嘉誠だった。かれは王府
井の入り口に高層ビルを建てた。香港は江沢民派の利権の巣窟に化けつつ
あった。

 ▲自由への意思

天安門事件から30年の歳月が流れ去ってまた世代が交替した。

いまの高校生、大学生は感覚的にも教養的にも狭隘な中華思想などに拘泥
せず、国際化され、高層ビルの近代都市となった香港を生まれたときから
観てきたし、テレビは世界各国のニュースを流し、書店へ行けば習近平批
判本がうずたかく積まれ、携帯電話で地球の裏側とも結ばれている。

欧米の自由な制度に比べると規制が強く、息の詰まるような香港の政治制
度の矛盾を掌握しており、広東語を喋ることは軽蔑され、北京語という広
東人にとっては外国語が学校で強制されたことにも反感を強めてきた。

若者の中には「香港独立」を言い出す勇敢なグループも出現し、香港独立
党を旗揚げした。根拠は香港の知識人、徐承恩が書いた『香港――躁鬱な都
市国家』で、香港の原住民とは、ポルトガル、英国と痛恨してきた百越の
人々が構成し、『香港民族』と呼ぶべきだとする説である。

また中国大陸には結社の自由、信仰の自由、表現の自由がなく、そればか
りか政党は共産党以外認められず、自由投票はなく、人間性が押しつぶさ
れた体制のなか、庶民は全体主義支配に隷属していることを知っている。

人間本来の活動も、自由な言論も破壊されつくした状況を知っている。か
れらの感性が共産主義を受け付けないのだ。
あまつさえ香港社会の諸矛盾の筆頭は所得格差である。驚くべき数字だ
が、香港の『ジニ係数』たるや、0・539と、まるで中国なみである(中
国は0・62)。

大学の門は狭く、受験競争は日本より激しく、たとえ一流企業に就職でき
ても、これほどマンション価格が上昇すれば住宅取得も、そして結婚も難
しくなる。人生に明るい展望が希薄となった。


 ▲特権階級のいいとこ取りを許せない

ところが大陸からやってくる「太子党」のこどもたちは大学に裏口で入
り、コネで企業にあっさりと就職し、カネにあかせて豪勢な生活を営んで
いる。「特権階級のいいとこ取り」と映り、かれらは怨嗟の的となる。

すなわち植民地の宗主国が英国から中国に変わっただけではないか。若者
達の怒りは深く堆積していた。

この点で旧世代の香港人の意識とは異なる。とくに1967年の香港暴動は反
英国環状が爆発し、その背後で指令していたのは北京であり、周恩来が叛
乱を支持していた。

6月以来、香港での抗議集会やデモ、署名活動に参加している若い世代
は、共産党の押しつけた歴史教育を否定した。

中国共産党が流すフェイクニュースをすぐに見破り、共産党製のプロパガ
ンダはまったく受け付けなくなった。

アンチ共産主義の精神土壌が自然と築かれていた。

中国が目論んだ香港市民の洗脳工作は、みごとに失敗したと言って良いだ
ろう。

だから「生きるか、死ぬか」と悲壮な決意を以て全体主義と戦うのであ
る。欧米はそれを支援する。資金カンパ、応援部隊、プロパガンダのノウ
ハウが学生らに供与され、自由世界の知識人は香港支援に立ち上がった。
沈黙しているのは日本のエセ知識人くらいだろう。

また日本のメディアは中立が賢い行き方とでも思って、民主主義を守り共
産主義支配と戦っている香港の若者を前面的に支援しないのだ。日本が西
側の自由民主人権法治を価値観とする陣営にあるという自覚がないからで
あり、これが「中立幻想」に取り憑かれた現代日本人の知的劣化、あるい
は一国平和主義というエゴイズムの露骨な態度表現である。

      
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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 陳独秀と胡適は共産主義を「民主、近代技術」の理想社会とした
  中国共産党は、ふたりの大知識人の功績をきれいに消し去った

佐藤公彦『陳独秀 その思想と生涯 1879−1942』(集公舎)
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「中国共産党の創設者」=陳独秀の存在はあまねく知られてはいない。陳
独秀の伝記に関して言えば、横山宏章のものを読んだ記憶しかない。胡適
は、台湾へ行けば選集も出ているが、日本では誰も相手にせず、研究者も
少ない。

つまりこの二人の大知識人は歴史に存在しなかったように忘れられた。革
命後、毛沢東が党の歴史から、陳独秀の名前を削除したからだ。
本書の副題は「胡適序言・陳独秀遺著『陳独秀の最後の見解(論文と書
信)』」となっているように序文を寄せているのが中国を代表した知識人
の胡適である。

しかし戦後、彼らの名を知る人はよほどの中国通である。孫文は大いに知
られるが誇大妄想的詐欺師という真姿はスルーされており、孫文の伝記は
美化された肯定的な面にのみ収斂され、プラス方面に一方的に歪められ、
なにか英傑のように日本では語られる。

革命の主役だった宋教仁(国民党の事実上の代表)も、黄興(辛亥革命の
主役)も語られなくなった。つまり現代中国史は、毛沢東が主役、本当に
革命をなした知識人や活動家は埋もれ木となって、歴史家いがい忘却の彼
方へ散った。

本書の肯綮は次の数十行が代弁している。

「胡適は失望させられた人だった。陳独秀は挫折させられた人だった。か
れらは『新しい文化と教育』の力によってあるいは『新しい階級』の力に
よって、旧い中国を『近代』的な社会・国家に生まれ変わらせようと奮闘
した。しかし新しい文化と近代革命を通した中国の近代的な社会・国家へ
の転型は結実しなかった。(その替わりに)王朝・帝国が再建された」

しかも「この『共産党』王朝・『大中華』帝国は、内に『少数』諸民族を
抑圧してその言語と文化を奪い、『人民の移動の自由』を農村戸籍制度で
奪い、人民の『宗教・思想・言論・出版の自由、集会結社の自由』を奪
い、IT・AI技術を駆使した『監視社会』を作り上げ、14億人民への
『個別人身支配』の完成を目指して邁進している(中略)。外では『一帯
一路』と言って金銭力と軍事力で周辺域を威圧しつつある」

要するに共産主義なるまやかしスローガンは歴代王朝のごとく帝国主義に
なるのである。

本書は浩瀚、それでも中国研究者には必読の文献だろう。
            
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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   ♪
(読者の声1)御新刊の『地図にない国を行く』(海竜社)を、ようやく
拝読しました。特派員さえ足を踏み入れていない世界の奥地、そこに俄然
進出している中国企業の実態。現地の様子を活写されていて、感動を覚え
ました。

パプアニューギニアで展開されている中国の戦略的進出ぶりに合点がいき
ます。英国は旧大英連邦の国々を大切に考えており、コモンウエルズとし
ての豪州、ニュージーランドの利害にも中国が影響を与えている現実を前
に、英国海軍はいよいよ本格的に出て行かざるを得ない雰囲気があります。
自由航行作戦に空母を派遣していますが、本格化はこれからでしょう。
                      (NO生、千代田区)
  ♪
(読者の声2)貴誌の最近の訃音欄で、竹村健一氏、佐藤雅美氏、安部譲
二氏への追悼がありましたが、やはり先生が親しかったと推測しているの
ですが長谷川慶太郎氏への訃音が載りませんね。(TK生、茨城)


(宮崎正弘のコメント)およそ無縁の方です。90年代初頭だったか、光
文社カッパ・ブックスから2人の対談本の企画があり、「考えてみます」
と返事を遅らせている裡に、先方もためらいがあったのか、立ち消えた企
画でした。

志賀義雄の鞄持ちだった来歴からも真性の保守とは思えず、かと言って深
い学究的理論を元に構築された学説でもなく、長谷川氏の経済予測は最初
の「石油危機は突破できる」論いがい、ほとんどが外れでした。

とくにドルが新札を用意し、その配色も決まっているというすっぱ抜きの
長谷川レポートが『週刊文春』を飾ったとき、当時編集長だった田中健五
氏に電話をして、どの程度の信憑性があるのか、尋ねた記憶があります。
当時、貿易の決済現場にいた小生から言えば、あり得ない突拍子もない与
太話という認識でしたから。

 氏の予測の根幹にあるのは楽天的、明るい未来であり、日本人に希望を
持たせる。それが人気の秘密だったのでしょうね。佐高信が、「光の使
者」と揶揄したものでしたが。。。。

そういえば、或る政治家のパーティと飯島清氏の葬儀会場でお見かけした
ことがありました。 

2019年09月13日

◆ブーン・ピケンズ死去

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月13日(金曜日)通算第6193号  

 M&A(企業合併、買収)の暴れ者、ブーン・ピケンズ死去
  その荒っぽい乗っ取り手口を真似ているのが中国人のファンド

 石油成金、世界の「乗っ取り王」として悪名高かったT・ブーン・ピケ
ンズ氏が死去した。91歳だった。

ウォール街の一部には彼を尊敬する人も多かったが、日本で悪名が高く
なったのは小糸製作所の株式20%を買い占め、TOBを仕掛けたから
だ。日本の経営風土になじみのなかった「乗っ取り」だったから「黒船来
る」と大騒ぎだった。筆者はピケンズに一度インタビューしている。

もともとが石油エンジニア、それが石油を掘り当てて石油企業を起業した
のではなく、次々と乗っ取りを仕掛け、濡れ手に粟の利益を得てのしあ
がったのだ。買収を仕掛けると言っても、もともと買収を成功させ、企業
を乗っ取って経営しようという意欲はなく、要は高値買い取り(これを恐
喝のブラックメイルにひっかけて「グリーンメール」という)。

買収後、会社経営に乗り出したのはアイカーン(TWA航空を買収し自ら
経営した)。買収した後、当該企業をバラバラに部門売却して差益を貸せ
いたのがゴールドスミス、そして買収資金を捻出する手口として、ジャン
ク債を起債して、巨額の融通資金をつくる手助けをしたのがミルケン。
80年代から90年代にかけて、アメリカ資本主義は「乗っ取り屋たちの
天下」だった。

防御する側は「ポイゾンビル」という条項を会社約款に入れたり、買収が
しにくいデラウェア州に本社登記を移したり、TOBが難しいように自社
株買いを行ったり、これまた弁護士の稼ぎ場だった。

その強欲資本主義が日本にもやってきて、M&Aが常識となったものの、
アメリカ的な敵対的買収のケースは稀だった。

ピケンズの真似をして荒稼ぎを展開したのが中国の強欲ファンドである。
シャープを買収した郭台銘の典型例が明示するように、日本的経営とは
まったく違った、殺伐とした企業風土を日本にもたらした。
ということは日本的経営の美徳が同時に破壊された

植民地経営とは、未開地、もしくは非武装の国を乗っ取り、人民を駆使
し、利益を搾り取り、教育も福祉も与えず、ひたすら我欲を達する。

香港は英国の植民地だった。その旧植民地の香港が、旧宗主国の企業を
乗っ取る。主客転倒、というより強欲がAからBに移転した。香港の証券
取引所がロンドンの証券取引所を買収すると発表した。直後に、ロンドン
証券取引所は、この買収提案を拒否した。

明後年の大河ドラマが渋沢栄一と聞いて、「算盤と論語」を説いた人が、
ようやく再評価されるのかと安堵した心理になった。
    
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(速報)
  郭台銘、国民党を離党、無所属で総統選挙へ立候補表明
   国民党も韓国諭では勝てないと判断し、裏側で支援する方向
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「中国の代理人」=郭台銘が次期台湾総統選に立候補する。9月13
日)、正式に記者会見する。

郭は「鵬海精密工業」を立ち上げ、アップルへの部品納入などで、のし上
がったが、「台湾企業」というより中国共産党の意向に沿ってシャープを
買収したり、米国へ食い込んだりして、ビジネスを急拡大させ、一部に
「台湾のトランプ」という評価もある。

国民党は予備選を行って正式に韓国諭(高雄市長)を党公認候補とした
が、郭台銘は諦めずに、無所属でも挑戦する可能性を探ってきた。世論調
査では、郭と韓国諭は互角とされるが、問題は中国共産党の「意向」だった。

北京は韓国諭では勝てないと判断し、郭台銘支持に廻ったとされ、それが
無所属での立候補を決断させたのだ。しかも何文哲(台北市長)も、郭支
援に廻るらしい。

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 読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS
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(読者の声1)妙に納得したことがあります。雑誌の
『RESIDENT』(10月4日号)に「トップに立つ人、補佐役の必
読書」という特集があって、まずは管義偉のそれが吉川英治『宮本武
蔵』、堺屋太一『豊臣秀長』。コーリン・パウェル(元国務長官)のリー
ダーシップ論とか。

問題はその次です。

猪瀬直樹・元都知事が登場し、政治思想で三つ、文学で三つを揚げていま
す。後者は順当ともいえるカズ・イシグロ『日の名残り』とトルーマン・
カポーティの『冷血』、そして吉行淳之介の『私の文学放浪』でした。
問題は政治思想で猪瀬があげた三大書物が、丸山真男、網野善彦、橋川文
三でした。

日本の戦後思想界の『三莫迦』といわれる人たちが、彼の源流だと知っ
て、なるほど!。

保守の顔しつつ、「革新」的なアイディアだなどと、変なことを言い、西尾
幹二氏が「狂人宰相」と名づけた小泉に取り入ったひとですが、彼の謎
が、これで解けたと思いました。この話、いかに?(HS生、水戸)


(宮崎正弘のコメント)評価は措くとして、小生が感動した小説のひとつ
は吉川英治『宮本武蔵』でした。カポーティは英文科時代、訳書の龍口直
太郎教授が担任でしたので、毎日のように言っていたため辟易です。小生
としては彼の『ティファニーで朝食を』のほうが面白いし、印象もカポー
ティらしいですね。

猪瀬氏のあげた小説でカズ・イシグロの作品は、郷愁と哀惜があって、な
ぜ彼がさきにノーベル賞に輝き、村上春樹が取れないかを、解説したあた
りも参考になりました。

御指摘の「丸山真男、網野善彦、橋川文三が戦後思想界の『三莫迦』」と
いうのは、その通りでしょう。
   ♪
(読者の声2)貴誌前号でしたか、英国の分析ですが、キャメロン前政権
時代にオズボーン元財務相を中心とした中国資本への傾斜が混迷の背景の
一つかと膝を打ちました。

キャメロン政権に巣くった中国人脈が英国の進路を誤らせ、国民投票で雌
雄を決する形になったのかもしれません。香港の混乱も、英国の中国に対
する影響力低下が一国二制度を揺るがし、増幅させているのかもしれません。

メイ前首相は、中国が関与した原発計画に国家管理の規制を打ち出すな
ど、中国と一定の距離を置く政策をとりましたが、ファーエイ問題で、ト
ランプ米政権と軌を一にして全面規制を主張するMI6の意見を取り入れ
ず、すでに導入している基地局などは継続して新規導入を控える部分規制
に留まっています。

全面規制を主張したウィリアムソン国防相がメイ氏と対立、辞任に追い込
まれました。経済を考えると正面から中国を刺激したくない政権の思惑が
滲みました。ウイリアムソン氏は、南シナ海の航行の自由作戦に英艦隊を
参加させ、空母「クイーン・エリザベス」をアジア太平洋に派遣すると対
中強硬派でした。

英国内では、対中政策を巡って、腰が定まりません。移民問題とともに中
国問題が英国の混乱に拍車をかけたことは間違いありません。
  (NO生、千代田区)

2019年09月12日

◆ボルトン補佐官、トランプ政権を去る

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月11日(水曜日)通算第6190号  

(速報)
 ジョン・ボルトン補佐官、トランプ政権を去る
   ホワイトハウスで唯一人の日本理解者が居なくなる


 トランプ大統領は、10日、突然ジョン・ボルトン補佐官を解雇した。
「多くのイッシューで意見の対立があったが、ボルトンからの申し出を熟
慮し、政権から去って貰うことにした。かれの貢献度は大きかった」とト
ランプはツィッターした。

 とくにイランを巡る対立が政権内で表面化、ポンペオ国務長官と対立す
ることが多く、板門店における金正恩との会談ではボルトンは同席しな
かった。

 日本にとっては拉致問題で、日本の立場を大きく理解していた人物だけ
に、ホワイトハウスでは珍しい知日派が居なくなることに、トランプ政権
内部のごたごた、整合性のなさが気になるところである。

 まさにワシントン政界で、保守の居場所がなくなった。
批評家のジョージ・ウィルは「CONSERVATIVE 
HOMELESSNESS」と比喩したように。

    ◇◎□◇み◎◇◎▽や◇◎▽◇ざ◇◎▽◇き○□◎▽ 
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1952回】                 
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(7)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

  △
 凍結した糞尿を車内販売用のお茶を沸かす装置で解凍し、外部に垂れ流
そうというのだ。「目に染みる」ほどの悪臭に苦闘しただろう徳田は、
「(悪臭が)お茶と一緒になつているという所に中國人のニオイや食物に
たいする無關心さがあるのだろう。習慣というものはおそろしい」と苦虫
を潰す。
悪臭は、極東民族大会に参加すべくモスクワに向かう未来の日本共産党
トップを襲う。だが、後には長期に亘って臭い『もっそうメシ』にお世話
になることを考えると、?田の人生は臭いモノと切っても切れなかったと
いうことか。

 列車が中国と満洲とを限る山海関駅に到着するや、プラットホームで
「一連隊ほどの軍隊がずらりとならんでいた」。「まつたくだらしないさ
さげ銃」の兵士に迎えられて列車から降り立ったのは「中肥りの顔のだら
りとした男」。満洲の実力者で知られた「黒龍江省督軍張某」だった。

 ?田は食堂車での「いやまつたく驚くべき」風景を綴る。
 食堂車の半分を占めた一団の中央に「例の將軍がゆうゆうと坐つてい
て長いキセルで煙草をふかしている。その周りには二十歳から四十歳位の
女が五、六人も並んでいる。第一夫人から第五、六夫人までだということ
だつた。その反對側に彼の幕僚であろう十四、五人が二列三列にだらしな
い恰好でテーブルを圍んでいる」。「ガチャガチャとマージャンをやつて
いるのだ」。そのうえ「これらの夫人や幕僚のそばには札の束がおいてあ
る」。つまり、そこは「全くのバクチ場だ」った。しかも「外國人の客が
食事をしているその隣で公々然とやつているのだ」から、やはり「ここに
妙味があるのではないか」。

 「その當時の中國の軍閥の首領の生活がこれである」。であればこそ
「戰爭のできないのも當然であつた」。しかも「妾連中のドロンとした恰
好はすべて阿片飲みの特徴」を表している。かくて?田は、「結局軍隊は
りゃく奪のための、そしてまた戰爭ごつこの示威運動の道具以外には役立
たないことが明かではないか」と。

 列車を離れた?田は、子供の時から気になっていた山海関に足を向け
た。「どんなに素晴らしい大きな關所だろうか、どんな大きな城と連なつ
ているのだろうかと想像していた」が、実際に目にして「貧弱なので呆れ
てしまった」。「かくべつ城らしいものはなくて、(中略)山海關の大き
な石垣の壁がぶち抜かれてトンネルになつているだけだつた」と落胆の色
を隠さない。

 じつは?田だけではないのだが、多くの日本人は中国の「城」を、天守
閣を構えて豪壮・華麗な日本の城と勘違いしている。彼らの指す「城」は
城壁であって、日本式の城郭ではない。北京城、南京城・・・鳳凰城など
など。中国では都市を「城市」の2文字で表すが、それは「城壁」に囲ま
れた内部で人が「市(あきない)」をするからである。

 ところで改めて?田は豪壮で長大な万里の長城を作り上げた始皇帝時代
の力と共に、「これほど古代の實力のあつた大帝國のすべてが今は世界を
通じての最も發達していない國におちていること」、さらには「中國はた
いへんなどろ沼の中にいつまでも停滯していたという事實」にも驚嘆する。

 長城建設には「ばく大な人間勞働力を無茶苦茶に使つた」。「つまり奴
隷制度によつて人間勞働力を驅仕した」。
「その奴隷的な状態がいつまでも農村に停滯して、それを基礎に軍事的彈
壓が重ねられていつたためすべての成長が停滯した」。それゆえ「被支配
階級に蓄積された力が、つねに革命によつて高進し、しだいしだいに下か
ら上までのしあがつて行く――換言すれば革命が階級の解放をもたらし、つ
ぎつぎに發展して行く」。「私がこの長城をみて人類解放のための革命の
必要を一層深く痛感した」。流石にトッキュウだ。
《QED》

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知道中国 1953回】                  
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――徳田(8)
徳田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

          △
 徳田は満鉄で長春に向かう。「汽車の内部は中國の列車よりもずつと小
ぎれいにできていた。だが何となはしに日本流の小じんまりしたところが
あり、いかにも日本官僚の支配らしいニオイがした」。

 長春で投宿した旅館は「全然日本風でこの寒い北滿にどうしてこうい
う馬鹿げたことをするのか何としても理解することができなかつた」。旅
館の構造に象徴されているように、「日本人は氣候や風土に適應して生活
をたてることを欲しないように思える」。気候・風土の違いを無視するか
のように、何処に行っても「日本風の生活をやるのである。これでは生活
に適應性がなく根強く腰をすえることができないのが當然であろう」。か
くして「だかう(ら?)早く日本え歸りたくなるのだ」。

ここからは、徳田による在満日本人論である。
「滿州などに行つている者は結局早くもうかる山師になりたがる」。だ
から「中國人をだますか日本から入つて來る者をだましてかすめ取るかそ
んなことばかりに血をわかすことにな」り、「全體としてきわめて質の惡
い商賣に引きずられて行」き、「中國本土はもちろんのこと滿州でも非常
に日本人はきらわれている」。
そこで「同じ植民地であつても、外國帝國主義の植民地よりは日本の植民
地の方がはるかに惡政をしき猛烈な排斥が起こるのは無理のないこと」と
か。どうやら同じ「帝国主義の植民地」でも優劣があるらしい。

!)田は「滿州でたびたび排日ボイコットが起」る要因の1つに「中國國 民
政府の勢力が滿州にはびこつて來た」ことが挙げるが、「他の大きな原
因」として日本が主とする軽工業と満洲土着資本との激しい対立を指摘す
る。つまり「全體として鋭く滿州の中國民族と對立することになったか
ら」、「全面的に排日鬪爭が起つたのも無理はない」というのだ。

かくして「日本人が氣候や風土に適應しないでおこなつた惡らつなりやく
奪政策は中国國人の反抗をたかめる基本要因の一つであつたろうことを痛
感するのであ」った。

 長春からハルピンへの旅で乗ったロシア側の列車に「入つてみるとと
ても汚い」。
それというのも「(ロシア)革命後はほとんど修繕もせず放たらかしのま
まなのだろら(う?)」。

地図を片手に、好奇心に任せてハルピンの街を歩く。
あちこち歩きまわっているうちに街外れの棺桶屋街に出る。「家という家
はいろいろな棺おけの製造屋」で、「嚴丈にこしらえた寝棺がもち菓子の
ようななだらかな曲線をえがいた六尺もあろうかというフタがかぶさつて
いる。そして表面は?色や赤や青やいろいろ色とりどりにぬつてある」。
「材料も丈夫なもので、板もなかなか厚いものを使つている。そしてフタ
をかぶせたところも密封されるようにできている。ロウを塗つたりして臭
氣の發しないような装置もしてある」。

これら棺は「中國人がこの土地に埋めるのではなくて山東や華北の故郷
に死體を送るためのもの」である。
「故郷に死體を送る」ビジネスを運棺(または運柩)業といい、中国人の
「入土為安(死後は故郷の土に還りたい)」という願望に応じたものだ。
「山東や華北の故郷に死體を送る」ということは、ハルピンとその近郊に
住む中国人の多くが山東や華北からの出稼ぎということを物語っているの
である。

ハルピンはロシア革命後の混乱の渦中にあった。とはいえ「ツァール・
ロシアは亡びても明らかにロシア人の勢力下にあった」。
「中國人はまつたく奴隷的な状態におかれていた」。「正規のツァール軍
隊は壊滅し」、「ツァール軍隊の將軍連は自分の娘や妻を人肉の市の商品
に提供し、彼らが牛太郎をつとめているという話であ」り、「私もその片
りんを二、三見た」。ハルピンでは「ツァール・ロシアの殘物共」が最後
の足掻きを見せていた。
《QED》 
     ●●●●●
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  ☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆ 
読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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(読者の声1) 「指の丸印が110番」
今進行中の香港の民主化運動ではメンバーは110番の意味で親指と一差し
指で○を作るという。
こうしたシグナル技術は支那で発達していた。それが復活し始めたのでは
ないか。
丁度手元の歴史読本誌の88年3月号を見ていたら、天地会、三合会など、
支那の秘密結社の会員のシグナルが出ていた。例えば胸に指三本をあてる
などして所属組織を示すものだ。
また青幇では、会員が旅先で金に困るとテーブルに帽子を上向きに置き合
図した。するとこれを見たメンバーはその人物の所属、地位、等を確認し
て支援したという。これは、乱世の続く支那における互助会であったのだ
ろう。
 1949年に支那共産党は政権をとるとこうした秘密組織をすべて摘発し滅
ぼした。しかし秘密結社の活動は今でも海外などで続いているという。法
輪講もその一つであろう。
共産党の暴政に苦しむ国民は自衛のためには互助組織を作るしか方法がな
いのだ。実際共産党も秘密結社の一つだった。なおこの本は宮崎正弘先生
も「亡命革命組織」中国之春を寄稿されている。
 また驚いたのは,あの有田ヨシフ氏がジャーナリストとして、支那事変
の日本の講和努力である桐工作の内幕について興味深い記事を書いていた
ことである。偽の宋子良の正体である。
蒋介石は内心では自分が損する対日戦を止めたかったが,1936.12.12の
西安事件でスターリンの指示を受けた共産側に捕らえられ降服していたの
で止めることが出来なかった。だから日本との講和交渉の目的はもっぱら
日本の情報を取るためであったから支那事変の収拾に苦しむ日本側の20回
以上に及ぶ講和交渉努力は初めから無駄だったのである。
 なお蒋介石が本気で和平を望んだのは1945.3のミョウヒン工作で、国共
内戦再開に備えて日本軍十万を貸して欲しいというものだったという。し
かし遅すぎた。
日本は蒋介石の盧溝橋事件に始まる計画的な挑発に激昂し支那の泥沼の国
共内戦に引きずり込まれ大損害を被った。ロシアの諺によれば、「神は滅
ぼそうとする者の理性を最初に奪う」と言う。
今の日本も危険な状況にある。国民は国際関係の冷厳な大原則を知って感
情論に巻き込まれない冷静な対応が必要である。
   (落合道夫)
     ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆  
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 訃報 
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  △
安部譲二(あべじょうじ)氏
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

 三島由紀夫『複雑な彼』のモデルといわれた安部譲二氏が亡くなった。
数年遇っていなかったので、風の便りにガンの悪化は聞いていたが、海外
から帰って不在時の新聞を通読していたら死亡記事に接した。享年82歳。
 新聞の記事は安部のダークサイドは伏せて、日航のパーサー、キックボ
クシングの解説者、麻布中学では橋本元首相の同級生だったなどと書かれ
ていた。
 思い返せば、安部氏との出会いは半世紀ほど前、当時まだ彼は小金井一
家の代貸しで、小型の車にいつも違う女を伴ってあらわれ、ふっと三週間
ほど顔を見せないと思えば、留置所で21日間の拘留だったり、ある時は
「飯を食いに行こう」と誘われ、青山学院大学の裏手の蕎麦屋で、食べる
は食べるは! どんぶりの大盛を三つ、とりあえず胃に収めてから、鴨南
蛮にざるそばに某某にと合計九品目、ときおりおなかをさすりながら、
「おっ、まだ入るわい」と言う。
こんな暴飲暴食をやっていれば胃ガンか大腸ガンになるだろうなぁと思っ
ていたが、発見時は大腸癌末期だった。新聞発表は肺炎になっているが。
 彼の言い分は「麻雀の徹夜が続いたりすると三日ほど食べないことがあ
るからだ」。
 三島由紀夫が彼をモデルの思いついたのも、その奇行ぶりからだろう。
 夜、ふらりと事務所にやってきては奇想天外な話、おなかを抱えて笑う
話など、話術も巧みで、そのうえ大袈裟な身振りだ。
彼がかえってから「いまの話を書留めておけば小説の題材になるぞ」と誰
かが言ったが、後年、安部自身がすべてを小説にした。
 『塀の中の懲りない面々』の上梓をしばらく筆者は知らず、(彼の本名
は安部直也なので、安部譲二は他人と思っていた)、ある日、地方のホテ
ルでテレビを観ていたら、特集をしていて、懐かしい彼の顔を出たときは
驚いた。数年刑務所に入っていた筈だから。
 それゆえ十年ほど空白があるが、再会したのは、週刊現代の某編集長の
出版記念会、ついで文春の雑誌編集長の再婚式でもばったり、すっか前田
正晶り堅 気、それも第一線の編集者と交流し、小説家が様になっている
ではないか。
合掌

2019年09月10日

◆「西側メディアの香港報道は偏向している

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月3日(火曜日)通算第6182号  


 「西側メディアの香港報道は偏向している。中国の内政に干渉するな」
中国外交部、豪、カナダ、NZなどで「反香港デモ」の組織化を急ぐが。
***************************************

 香港。これほどの政治的影響を持つとは、誰もが想定外だっただろう。
とくに北京政府、 中国共産党は深い衝撃に包まれている。世界のメディ
アが注目し、連日大きく報道しているため、軍による鎮圧に踏み切れない
からだ。

 香港の抗議活動はとうとう四ヶ月目に入り、その支持と連帯が世界中に
拡大した。
欧米諸国の留学生らは香港の学生支持集会を各地で開催しているが、なか
には身銭をきって、香港へ駆けつける若者もいる。台湾でも、香港問題が
次期総統選挙の流れを完全に変えた。蔡英文再選の可能性が濃厚になった
のだ。

 リトアニアの首都ビリュナスでは、香港の抗議活動に連帯する「人間の
鎖」が実施され、多数のリトアニア市民が参加した。同時にリトアニア外
務省は中国大使を呼んで、暴力的弾圧、ヒューマニズムの尊重などを訴え
たという(サウスチャイナモーニングポスト、2019年9月1日)。

 外国にいる中国人留学生は躊躇いと、北京からの監視、「愛国行動」へ
の参加要請(というより強要)に動揺し、複雑な心理状況に陥っている。
 オーストラリア(豪)には120万人もの中国人が暮らし、このうち
44%が中国大陸からの移民、香港からの移民は6・5%(2016年の
統計。現在はもっと増えているが、速報統計がまだない)。

 カナダには176万人もの中国移民が暮らすが、このうち753000
人が中国大陸から、216000人が香港からの移民である。この移民の
間にも香港問題で、コミュニティを二分化させてしまった。

たとえば豪シドニーでは中国領事館の指示によって「北京支持」集会とい
う時代錯誤的なイベントが行われたが、参加者はわずか五百名だった。か
れらのプラカードは「愛中国、愛香港。反港独、反暴力」という抽象的な
もので、配られた五星紅旗を力なく振って、ともかくアリバイ証明的だっ
たそうな。

 彼らの参加動機、言い分は「香港問題はインドにおけるカシミール問
題」とか、北京政府のプロパガンダを鵜呑みにしている。香港の学生の多
くは「香港独立」を言っているのだ。

 中国人留学生の多い西側諸国のキャンパスでは「レノン・ウォール」と
いう壁新聞が登場して盛んな書き込みが行われている。
まるで文革終息期の70年代後半、北京の「西単の壁」の如し。

 豪、カナだ、そしてニュージーランドの中国人留学生同士の衝突も各地
で伝えられている。「西側のメディアは反中国的であり、じつに偏向して
いる」と北京政府支持の若者らは発言しているが、移民コミュニテイィで
の強い支持が見られない。
バンクーバーで行われた北京支持行進には五星紅旗を前面に飾ったフェ
ラーリが登場し、失笑を買った。
 
 またホワイトハウスや、キャンベラの豪国会前、NZウェリントンの国
会前などでは日頃の法輪功活動を横目に、チベット、ウィグルからの留学
生らが香港と連帯している。
 すでに香港の抗議活動は四ヶ月、香港の八つの大学では授業ボイコット
に12000名の学生が参加した。この動きは高校、中学にも拡大している。

     ◇◎□◇み◎◇◎▽や◇◎▽◇ざ◇◎▽◇き○□◎▽ 
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読
者之声
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  ♪
(読者の声1) 宮崎さんの最新刊『神武天皇「以前」』(育鵬社)を早速
読みました。
皇室への敬愛溢れる内容に、共感するところが大いにありました。日本全
国の縄文遺跡を巡り、その場に立って文明史的な意義を読み取り、時には
縄文人の思考に同化して、神々を思う。
古代の生活の中で生まれた信仰が、数千年の時間軸を垂直に貫いて、今の
日本人の血肉となっていることを、改めて感じ入りました。縄文土器の過
剰ともいえる装飾性や、極端なまでにデフォルメされた意匠には、この時
代にすでに、現代の前衛を凌駕する芸術家が存在していたことを証明する
ものだと思います。
 今回の御代替わりにおける、全国津々浦々で沸き起こった祝祭空間にも
触れておられますが、例え悪乗りであろうとも、そして国民の多くがその
深い意味は理解していなくても、天皇を戴く臣下として、御即位の喜びを
爆発させたことの意義は大きいのではないかと思います。
左翼教育が敗れたといってもいいのではないでしょうか。
今秋の大嘗祭に向けて、皇室への関心もまた深まるものと思います。願わ
くば、国民が男系継承の正統性に目覚め、これを断固推進する政治の実現
に向けて世論の大波が立ち現れることを祈りたいと思います。
    (浅野正美)


(宮崎正弘のコメント)読後感第一号有り難う御座いました。あまりの早
さに驚きましたが、正確にお読みいただけたようです。じつは西尾幹二先
生からも電話を頂き、「驚いた。中国論から明智光秀、西?に飛んだかと
おもうと、今度は古代の浪漫。しかも類書の縄文本とは異なって机上の文
献取材ではなく、縄文遺跡の多くを実際に足で歩いて目撃した印象を綴る
ばかりか、世界の古代遺跡の現場にも立って文明比較を行っている点が斬
新です」とのご感想でした。

  ♪
(読者の声2) 「日本文化チャンネル桜」から番組のお知らせです。番組
名:「闘論!倒論!討論!2019  日本よ、今...」
テーマ:「中国の侵略行為と香港・台湾・日本の未来」(仮)
放送予定:令和元年9月14日(土)夜。日本文化チャンネル桜、
「YouTube」
「ニコニコ・チャンネル」オフィシャルサイト&インターネット放送 So-TV
<パネリスト:50音順敬称略> 潮匡人(評論家)、加瀬英明(外交評
論家)
河添恵子(ノンフィクション作家)、三浦小太郎(評論家)、宮崎正弘
(作家・評論家)
鳴霞(月刊『中国』編集長)、矢板明夫(産経新聞外信部次長)
司会:水島総(日本文化チャンネル桜 代表)

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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1948回】                 
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(3)
!)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

  △
 ?田は「ビラを書いたり、工場の中に飛び込んで、勞働者の間で宣傳を
やつたり、ストライキの相談にあずかつたり彼らと共に行動する方が得手
であつた。その他には爭議の交渉をやつたり、裁判所で判事や檢事と鬪う
のが得意であつた」が、語学などは不得手だった。
だが、極東大会への出席は「指導者からの話でもあり餘り行き手がないと
いうことだから喜んで引受けた」とのこと。

とはいえ、「行き手があまりなかつたのもまた指導者が彼らの尊重してい
る同志をやりたくなかつたのも理由のあることだつた」と記すことも忘れ
てはいない。?田は、当時の日本共産党指導者に嫌われていたということか。

外国船舶が並んだ上海埠頭を目にした?田は、「帝國主義の狂暴さを示
し、中國民族を奴れい視している象徴が、上海の大玄關にあつた」と記し
た後、「まるで蠅の群」のように屯すジャンクを目にして「中國固有の力
は全くこの片隅に閉そくされているかつこうであつた」と憤慨する。

「當時の上海は平和な街だつた」。北京では日本やイギリスを後ろ盾に
した軍閥の抗争、広東では孫文率いる国民党と反国民党軍閥の騒乱が続い
ていた。だが上海を支配している軍閥が「中立的な立場に立つて平和を維
持しようとつとめていたことと、英米日の三國がここを中國全體えの商品
の入口として平和を確立することに熱中していたからである」。

だが、「この平和の中には、國際的な權力にたいして大きな反對的要素
がスクスクを育つていた。それは――上海が工業的にまた交通的に發展する
に從つて生じてくる勞働者階級の成長であつた」。わけても、その中核は
「海員と港灣勞働者」であった。

「同志チャン・タイ・レイ」に連れられ、「日本租界の西はずれのスコッ
ト路に面した小さな家をたずねていつた。その家の主人はアメリカ系のユ
ダヤ人で、夫婦と五つぐらいの可愛いい娘の三人家族」だつた。その家の
客間で、「上海では最古参の同志で、メーリングといふオランダ人」に引
き合わされる。?田は「日本の情勢やら日本の共産主義者の活動について
彼らに話さねばならなかつた」。

 ?田は英語が全くダメで、「同志チャン・タイ・レイ」は日本語がダ
メ。そこで一計を案じた?田は筆談とした。
!)田が「紙と鉛筆をとり出して漢字を並べて書く」。それを「どんどん通
譯する」。「そうしたらとても喜んでまるで遠くから歸つてきた子供を可
愛がりでもするように歡待してくれた」という。トッキュウよ、喜ぶのは
まだまだ早い!

!)田が中国語に通じていたわけでもなさそうだし、日本語⇒漢字の羅列⇒
英語の順に訳したとして十二分に意思が伝わったとも思えない。
漢字だから通じるだろうなどと考えるのが誤解の始まりであることを、?
田のみならず日本人は十二分に心得ておくべきだ。おそらく「アメリカ系
のユダヤ人」であれ「メーリングというオランダ人」であれ、日本人なん
ぞ適当にあしらっておけ、といったところではなかっただろうか。当時の
共産主義運動の「真実の一端」が顔を覗かせているような気がする。

さて「お茶のあとでビールが出た」が、それが「新しく栓を抜いたので
はなく、飲みのこしらしく、ちつとも泡がたたないのだ」。
そこで?田は健気にも「彼らはこんなにまで節約して苦しい黨活動をつず
けているのだつた」と感激している。だが、チョッと待て! そこまでし
て気の抜けたビールを飲む必要はないはずだ。
感激屋・?田の面目躍如だが、このような天衣無縫ぶりが後に吉田茂に好
まれたのだろう。それにしても素直と言うのか。単純と言うべきか。おそ
らく海千山千の「同志チャン・タイ・レイ」、「アメリカ系のユダヤ
人」、それに「メーリングというオランダ人」からすれば、直情径行・単
純明快の?田を相手にすることなどは赤子の手を捻るより簡単だったに違
いない・・・
ヤレヤレ。
《QED》

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
知道中国 1949回】                    
 ――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――?田(4)
!)田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

  △
「同志メーリング」は「五十歳前後の温厚な紳士」ということだが、かつ
てジャワ島でオランダ殖民地政府経営の鉄道で技師を20年間ほど勤めなが
ら「ジャワの鐵道勞働者の生活權をまもるために鬪い」、労働組合を組織
し、「第一次世界大戰後の恐慌時代にこの勞働組合をひきいてジャワで大
ストライキを指導し」ている。
根っからの社会主義者であり、「大戰後コミンテルンが成立した後は共産
主義者としてオランダ共産黨にはいり、ジャワでも共産主義運動をはじめ
た」というからには、正真正銘の筋金入りの共産主義者だろう。

ジャワで大規模な鉄道ストを指導したり、ジャワ人でコミンテルン執行
部入りした先鋭的共産主義者を育てたことから、彼はオランダ殖民地政府
から追放処分を受けた後、「すでに三年も上海に住つている」。彼は「中
國共産黨の創立にも力をつくし、また上海を本據としての諸國の共産主義
者の連絡に缺ことのできない人物となつていたのである」。

「きわめて温好で人ずきのいい人物」で?田を「まつたく自分の子供の
ように可愛がつてくれた」とのことだが、彼は「獨身で上海に居をかま
え」、「自分の下女として四十いくつになる日本婦人を雇」い、「(彼女
は)とてもやさしくて忠實なのだとほめていた。だから特別日本人はなつ
かしいといつて笑つていた」。だが、よくよく考えれば、この「四十いく
つになる日本婦人」は単に「自分の下女」だけだったのだろうか。

「同志メーリング」「四十いくつになる日本婦人」のみならず?田も、
共産主義者のタテマエとホンネの落差、シュギに絡めた男女関係の曖昧さ
に首を傾げざるを得ない。といったところで「四十いくつになる日本婦
人」のその後だが、やはり他人事ながら気になる。

 ?田の旅に戻る。
 上海から南京に向かった?田は、途中で太湖に立ち寄った。さすがに共
産主義者である。物見遊山ではない。観光名所でも頭に浮かぶのは革命、
カクメイ、革命だった。

「太湖は日本の琵琶湖の數倍もあつて、岸邊は高いヨシにおおわれてい
る爲に、かつこうな盗賊のかくれ場所になつているという話だつた。とこ
ろが日本帝國主義の中國侵略の後にはバルチザンのよりどころとなつた。
戰爭が進むにしたがつて盗賊は次第に押しのけられて中國ソヴエトのバル
チザン部隊のきわめて有利な根據地となつたのである。現在でもこの勢力
は相當大きなもの」と記す。
「パルチザン部隊」も元は「盗賊」だっただろうに。

中国共産党が長江南岸の小さな根拠地を作ったり、「上海で革命勢力が
ときどき大きな力を發揮できるのも、太湖周辺の湿地帯に重要な勢力集積
地があるためと思う」。かくて「こうした大自然を中國革命軍がきわめて
有利に使いこなしていることは、われわれにとつて大きな?訓だ」と結論
づける。

後に中国に亡命した?田は「北京機関」を組織し、1951年2月の第4回全
国協議会(四全協)において反米武装闘争を掲げ、「山村工作隊」「中核
自衛隊」によるゲリラ闘争で全国農山村に「解放区」を拡大する方針を打
ち出した。
一般には毛沢東による中国革命を模倣したと言われる。だが直情径行で多
情多感の?田である。太湖が目に入った瞬間、頭の中には荒唐無稽な革命
的夢物語が宿ったのではなかろうか。

大きな湖の周辺のヨシが鬱蒼と茂る広大な湿地帯を舞台に、神出鬼没な
行動を重ねながら権力と戦う。まさに「『水滸伝』の世界」であり、そこ
に?田も魅了されたに違いない。 

気の抜けたビールを前に「彼らはこんなにまで節約して苦しい黨活動を
つずけているのだつた」と感激したり、太湖周辺に広がる広大な「盗賊の
かくれ場所」に「大きな?訓」を得たり。
トッキュウという共産主義者は、どこまで行ってもトンチンカンでお人好
しの感激屋。憎めないといえばそれまでだが、それにしても脇が甘すぎな
いかい・・・。
《QED》

2019年09月09日

◆「2049 香港」は「CHINAZI」か?

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月6日(金曜日)弐通算第6189号  

英国、豪州、カナダの中華社会が鮮明に分裂した

英国ロンドンの「中華街華人総会」の会場風景を新華社が中継した。会長
が挨拶にあって「香港の生活は破壊されている。学生達の暴力はいけな
い。『暴民』を排除する香港警察をわれわれは断固として支持する」と発
言した。

驚くべき時代錯誤ととるべきか、いやこれが外国で暮らす中国人の生き延
びる知恵なのか?

かつて香港は英国領だった。

香港返還に際しての条件は「一国両制度」を50年間保証することだったの
である。

また英国は返還前後から積極的に移民受け入れ政策を採ってきた。チャイ
ナタウンはロンドンに宏大に拡がるばかりか、マンチェスターにもグラス
ゴーにもある。

中国支配を嫌って英国へ来たのに、英国の華僑らは、中国共産党が支配し
ようとしている香港の繁栄と安定ばかりを望み、自由や民主を等閑視する
のは何故か?

世代間ギャップが著しいからだと情報通は言うが、むしろ若い世代が香港
警察を支持しているのは、どうやって説明するのだろう。香港では中学生
までもが民主、自由を求めて抗議活動に参加しているというのに?

謎解きは簡単である。香港からの移民枠は終わり、いま英国が受け入れて
いるのは中国本土からの留学生と投資移民である。夥しい留学生は香港か
らではなく、中国大陸からである。かれらはロンドンにある中国大使館に
登録を義務づけられ、その指示に従って五星紅旗を振るために指定された
場所に集まるのだ。

だから英国の中華街が香港政庁を支持しているかのような錯覚の印象が造
られるわけだ。

「一国両制度」は2047年に終わる。あと28年!

そのとき香港もチャイナチ(CHINAZI)の属国になっているのか、
自由社会の一員として高度の自治を拡大しているのか。

若者がいう「生きるか、死ぬかの戦い」は、民主化抗議行動は香港で、ま
だまだ納まりそうになり。

逃亡犯条例を撤回する前、キャリー・ラム(林鄭月峨。広東語で「林」は
ラムと発音)行政長官は、中国国務院の香港マカオ弁事処主任の張暁明と
深センの近くで会合を持っており、条例撤回に関して、中国側の返答がな
かったことから、撤廃黙認と読んだらしい。


 ▲暴動鎮圧の教訓を間違った二つの外国事例に求めた

 ¥この間、キャリー・ラムが部下に命じたのは二つの暴動の収拾方法を
教訓に出来るかという調査だった(サウスチャイナ・モーニングポスト、
9月5日)

第一は、2011年にロンドンのトッテナム地区で発生した暴動。これは
警察官が黒人の容疑者射殺に端を発して暴動となり、商店への略奪がひろ
がり、失業中の若者多数が参加し、合計五名が死亡、多数が負傷した。人
種差別型暴動としてはロスアンジェルス暴動に似ている。

キャメロン政権(当時)は、徹底した厳罰で臨み、SNSで暴動を煽った
若者にも禁固四年という厳罰で臨んで力で封じ込めた。

第二は昨秋から毎週土曜に行われたフランスの「黄色ベスト」「黄色ジャ
ンパー」デモ、スタイルは香港の抗議方式に似通っている点もあるが、物
価高のための賃上げと、マクロン大統領の辞任を要求していた。
フランス政府は譲歩せず、自然消滅を待った。

しかし、香港政庁が教訓として参考にした事例は間違いであり、本来なら
台湾の向日葵運動に学ぶべきだったのである。

台湾政府はいかにして、あの向日葵学生運動を沈静化させたのか?
国民党は学生らの立法院議事堂という未曽有の事態に、徒らに警官隊を導
入して力による弾圧を避け、学生に妥協ポーズを示しながら、次第に軟化
させて学生らが退去するのを辛抱強くまった。

というのも、台湾の民衆は向日葵学生運動を強固に支援し、医療チームな
どを組織し外国語に堪能な人は翻訳チームも組織し、外国メディアに忽ち
にして翻訳文を交付、義援金は遠く海外からも集まっていた。

支援集会には50万人があつまるという民衆のうねりを目にして、馬英九
政権は平穏な解決を目指した。

このスタイルが、2年後の2016年に香港に伝播し、あの「雨傘革命」
に繋がったのだった。
     
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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW
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昭和30年代までの日本は波瀾万丈、人情が溢れた時代だった
 奇遇が奇遇を呼び、不思議な奇縁が取り持って、多彩な人生が展開した

  ♪
桜井修、小河原あや『霧に消えゆく昭和と戦中派』(春吉書房)
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 評者(宮崎)は、この本の推薦の辞として以下を書いた。

「美しい日本は昭和時代にあった。(この本は)昭和はるかなれど単なる
郷愁や回顧ではなく、立体的に『あの時代』を凝視した文化論になってい
る。日本人はやさしく清らかに精一杯生きた。昭和の栄枯盛衰、あの日本
の精神は濃霧に覆われ、やがて消えて行くのか?」。

この短文が本書の全体を顕すわけではないが、特徴をのべれば、そういう
ことになる。

 昭和が終わり、平成も終わり、いま令和の時代。つまり昭和は歴史教科
書に述べられる年表枠の「歴史」となって、30歳以下の人には古典的な時
代だという認識になる。

小唄、浄瑠璃、義太夫、浪曲は廃れ、任侠映画は作られなくなり、音楽は
意味不明で無国籍、腰を振るだけのニューミュージックが全盛。日本人の
心の琴線を揺らした情緒豊かな演歌はどこへ行ったのだろう? なにしろ
「歌うたい」のことを「アーティスト」と言うのだから。
 
飲み屋街から流しのギターは消え、赤提灯や縄のれんの居酒屋も少なく
なって、渋谷の恋文横丁はヒッピー風情が闊歩し、一歩横丁へ入ればラブ
ホばかりだ。

本書は「敗戦前後の映画的回想」と副題にあるように、映画が基軸にある
文化論、というより昭和の日常を描いている。やはり郷愁と回顧、懐メロ
の世界である。

インタビュー形式で桜井修氏から豊富な体験談を小河原女史が根掘り葉掘
り聞き出す仕掛けとなっているが、解説を書いている奥山篤信氏を含めて
3人の共通点は『映画』が大好きというポイントである。
だから話がまとまりやすく、回顧のスピードも早い。

主人公の桜井氏は昭和元年生まれ、なるほど三島由紀夫と同年齢であり、
共通の時代認識がきっとある。東大から朝日新聞に入ろうとするが、ひょ
んなことから住友信託銀行に入行、やがては社長、会長を務めた。

評者、そういえば住友銀行最高顧問だった伊部恭之助氏と親しくしていた
時代があり、木内信胤先生が主催した『経済計画会議』では毎月顔を合わ
せた。伊部氏は三島由紀夫の親戚でもあった。

かと言って本書には三島のミの字も出てこないのだが、かわって黒澤明が
登場する。桜井氏は、黒沢作品のなかでも『野良犬』が一番印象的だとい
うので、評者は強く納得した。三船敏郎が刑事役でピストルを盗まれたた
め必死の捜索をする、あの焦燥に満ちた、汗だらけの風貌。三船の熱演で
したね。

3人ほど映画好きではないけれども、評者も結構、ハリウッドの近作を見
ている。種明かしは単純。国際線機内である。欧州を往復すると、たぶん
五、六本。先週もインドネシア往復で四本ほど、日本公開前のハリウッド
映画も観た。

さて映画より、もっと個人的に面白かったのは、桜井氏が石動(いする
ぎ)に疎開していて、バスで40分くらいで行ける金澤に出かけた体験談だ。

戦災に遭わなかった古都に、敗戦弐週間目に着流しの婦人が街を闊歩して
いて驚いたこと。香林坊を歩けば書店が無数にあったことにひどく感心し
たとする箇所である。

金澤の古書街は評者が高校生の頃も自転車で市内全域の古本屋を歩いてい
るが、大宅壮一がきたときは、トラック一杯買っていったという逸話が残
るほど、戦災を逃れたので、重要な書籍があった。

なによりも京都と金沢は奇跡的に空襲を逃れたので戦前の日本文化が連続
していた。金澤に住んだことのある五木寛之の作品も金澤を舞台に選んだ
小説があるが、三島が金澤を描写したのは『美しい星』である。

ただし地付きの金澤人は戦災に遭わなかった所為で、頑迷なほど保守的な
姿勢があり、都市計画が進まず、ところが拙宅は引き揚げ組だったので、
昔の兵舎の馬小屋をベニヤ版で仕切っただけの応急住宅に十年を暮らし
た。旧家の人たちが引き揚げ者を白い目でみていたことを一種戦慄的に思
い出すのだ。

ともかく郷愁と悲哀と懐かしさ、こころが休まる本だった。
       

2019年09月08日

◆「2049 香港」は「CHINAZI」か?

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月6日(金曜日)弐 通算第6189号  

「2049 香港」は「CHINAZI」か?
   英国、豪州、カナダの中華社会が鮮明に分裂した

英国ロンドンの「中華街華人総会」の会場風景を新華社が中継した。会長
が挨拶にあって「香港の生活は破壊されている。学生達の暴力はいけな
い。『暴民』を排除する香港警察をわれわれは断固として支持する」と発
言した。

驚くべき時代錯誤ととるべきか、いやこれが外国で暮らす中国人の生き延
びる知恵なのか?

かつて香港は英国領だった。

香港返還に際しての条件は「一国両制度」を50年間保証することだった
のである。

また英国は返還前後から積極的に移民受け入れ政策を採ってきた。チャイ
ナタウンはロンドンに宏大に拡がるばかりか、マンチェスターにもグラス
ゴーにもある。

中国支配を嫌って英国へ来たのに、英国の華僑らは、中国共産党が支配し
ようとしている香港の繁栄と安定ばかりを望み、自由や民主を等閑視する
のは何故か?

世代間ギャップが著しいからだと情報通は言うが、むしろ若い世代が香港
警察を支持しているのは、どうやって説明するのだろう。香港では中学生
までもが民主、自由を求めて抗議活動に参加しているというのに?

謎解きは簡単である。香港からの移民枠は終わり、いま英国が受け入れて
いるのは中国本土からの留学生と投資移民である。夥しい留学生は香港か
らではなく、中国大陸からである。かれらはロンドンにある中国大使館に
登録を義務づけられ、その指示に従って五星紅旗を振るために指定された
場所に集まるのだ。

だから英国の中華街が香港政庁を支持しているかのような錯覚の印象が造
られるわけだ。

「一国両制度」は2047年に終わる。あと28年!

そのとき香港もチャイナチ(CHINAZI)の属国になっているのか、
自由社会の一員として高度の自治を拡大しているのか。

若者がいう「生きるか、死ぬかの戦い」は、民主化抗議行動は香港で、ま
だまだ納まりそうになり。

逃亡犯条例を撤回する前、キャリー・ラム(林鄭月峨。広東語で「林」は
ラムと発音)行政長官は、中国国務院の香港マカオ弁事処主任の張暁明と
深センの近くで会合を持っており、条例撤回に関して、中国側の返答がな
かったことから、撤廃黙認と読んだらしい。


 ▲暴動鎮圧の教訓を間違った二つの外国事例に求めた

この間、キャリー・ラムが部下に命じたのは二つの暴動の収拾方法を教訓
に出来るかという調査だった(サウスチャイナ・モーニングポスト、9月
5日)

第一は、2011年にロンドンのトッテナム地区で発生した暴動。これは警察
官が黒人の容疑者射殺に端を発して暴動となり、商店への略奪がひろが
り、失業中の若者多数が参加し、合計5人が死亡、多数が負傷した。人種
差別型暴動としてはロスアンジェルス暴動に似ている。

キャメロン政権(当時)は、徹底した厳罰で臨み、SNSで暴動を煽った
若者にも禁固四年という厳罰で臨んで力で封じ込めた。

第二は昨秋から毎週土曜に行われたフランスの「黄色ベスト」「黄色ジャ
ンパー」デモ、スタイルは香港の抗議方式に似通っている点もあるが、物
価高のための賃上げと、マクロン大統領の辞任を要求していた。
フランス政府は譲歩せず、自然消滅を待った。

しかし、香港政庁が教訓として参考にした事例は間違いであり、本来なら
台湾の向日葵運動に学ぶべきだったのである。

台湾政府はいかにして、あの向日葵学生運動を沈静化させたのか?
国民党は学生らの立法院議事堂という未曽有の事態に、徒らに警官隊を導
入して力による弾圧を避け、学生に妥協ポーズを示しながら、次第に軟化
させて学生らが退去するのを辛抱強くまった。

というのも、台湾の民衆は向日葵学生運動を強固に支援し、医療チームな
どを組織し外国語に堪能な人は翻訳チームも組織し、外国メディアに忽ち
にして翻訳文を交付、義援金は遠く海外からも集まっていた。
支援集会には50万人があつまるという民衆のうねりを目にして、馬英九
政権は平穏な解決を目指した。

このスタイルが、2年後の2016年に香港に伝播し、あの「雨傘革命」
に繋がったのだった。
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昭和30年代までの日本は波瀾万丈、人情が溢れた時代だった
 奇遇が奇遇を呼び、不思議な奇縁が取り持って、多彩な人生が展開した

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桜井修、小河原あや『霧に消えゆく昭和と戦中派』(春吉書房)
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評者(宮崎)は、この本の推薦の辞として以下を書いた。
 
「美しい日本は昭和時代にあった。(この本は)昭和はるかなれど単なる
郷愁や回顧ではなく、立体的に『あの時代』を凝視した文化論になってい
る。日本人はやさしく清らかに精一杯生きた。昭和の栄枯盛衰、あの日本
の精神は濃霧に覆われ、やがて消えて行くのか?」。

この短文が本書の全体を顕すわけではないが、特徴をのべれば、そういう
ことになる。

昭和が終わり、平成も終わり、いま令和の時代。つまり昭和は歴史教科書
に述べられる年表枠の「歴史」となって、30歳以下の人には古典的な時
代だという認識になる

小唄、浄瑠璃、義太夫、浪曲は廃れ、任侠映画は作られなくなり、音楽は
意味不明で無国籍、腰を振るだけのニューミュージックが全盛。日本人の
心の琴線を揺らした情緒豊かな演歌はどこへ行ったのだろう? なにしろ
「歌うたい」のことを「アーティスト」と言うのだから。
 
飲み屋街から流しのギターは消え、赤提灯や縄のれんの居酒屋も少なく
なって、渋谷の恋文横丁はヒッピー風情が闊歩し、一歩横丁へ入ればラブ
ホばかりだ。

本書は「敗戦前後の映画的回想」と副題にあるように、映画が基軸にある
文化論、というより昭和の日常を描いている。やはり郷愁と回顧、懐メロ
の世界である。

インタビュー形式で桜井修氏から豊富な体験談を小河原女史が根掘り葉掘
り聞き出す仕掛けとなっているが、解説を書いている奥山篤信氏を含めて
三人の共通点は『映画』が大好きというポイントである。
だから話がまとまりやすく、回顧のスピードも早い。

主人公の桜井氏は昭和元年生まれ、なるほど三島由紀夫と同年齢であり、
共通の時代認識がきっとある。東大から朝日新聞に入ろうとするが、ひょ
んなことから住友信託銀行に入行、やがては社長、会長を務めた。

評者、そういえば住友銀行最高顧問だった伊部恭之助氏と親しくしていた
時代があり、木内信胤先生が主催した『経済計画会議』では毎月顔を合わ
せた。伊部氏は三島由紀夫の親戚でもあった。

かと言って本書には三島のミの字も出てこないのだが、かわって黒澤明が
登場する。桜井氏は、黒沢作品のなかでも『野良犬』が一番印象的だとい
うので、評者は強く納得した。三船敏郎が刑事役でピストルを盗まれたた
め必死の捜索をする、あの焦燥に満ちた、汗だらけの風貌。三船の熱演で
したね。

3人ほど映画付きではないけれども、評者も結構、ハリウッドの近作を見
ている。種明かしは単純。国際線機内である。欧州を往復すると、たぶん
5、6本。先週もインドネシア往復で四本ほど、日本公開前のハリウッド
映画も観た。

さて映画より、もっと個人的に面白かったのは、桜井氏が石動(いする
ぎ)に疎開していて、バスで四十分くらいで行ける金澤に出かけた体験談だ。

戦災に遭わなかった古都に、敗戦弐週間目に着流しの婦人が街を闊歩して
いて驚いたこと。香林坊を歩けば書店が無数にあったことにひどく感心し
たとする箇所である。

金澤の古書街は評者が高校生の頃も自転車で市内全域の古本屋を歩いてい
るが、大宅壮一がきたときは、トラック一杯買っていったという逸話が残
るほど、戦災を逃れたので、重要な書籍があった。

なによりも京都と金沢は奇跡的に空襲を逃れたので戦前の日本文化が連続
していた。金澤に住んだことのある五木寛之の作品も金澤を舞台に選んだ
小説があるが、三島が金澤を描写したのは『美しい星』である。

ただし地付きの金澤人は戦災に遭わなかった所為で、頑迷なほど保守的な
姿勢があり、都市計画が進まず、ところが拙宅は引き揚げ組だったので、
昔の兵舎の馬小屋をベニヤ版で仕切っただけの応急住宅に十年を暮らし
た。旧家の人たちが引き揚げ者を白い目でみていたことを一種戦慄的に思
い出すのだ
ともかく郷愁と悲哀と懐かしさ、こころが休まる本だった。
         
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読者の声  どくしゃのこえ  READERS‘ OPINIONS 
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(読者の声1) 「日本文化チャンネル桜」から番組のお知らせです。きた
る10日(火曜日)の「フロント JAPAN」は、当日、香港から帰国
予定の宮崎正弘さんをゲストにホスト福島香織さんで「香港問題」の総括
(中間報告かも)を特集の予定です。
10日夜、ユーチューブでは11日早暁からご覧になれます。

  ♪
(読者の声2)朝日新聞の発行部数は、朝日社内のひそひそ話で四百万部
を割り込んでいるらしいですね。共産党の『赤旗』がついに百万部を割り
込んで、悲鳴を挙げているとか。ここで産経新聞にうんと伸びて欲しいの
ですが。。。。(TY生、板橋区)


(宮崎正弘のコメント)小生、半世紀以上前の学生時代、朝日新聞の朝・
夕刊を配り、3区域の集金もしていましてので、いまも販売店とは付き合
いがあります。

販売店の店主らは大方が保守で、紙面論調には顔をしかめる人が多いので
すが、部数激減の直接原因は(1)学生、受験生が新聞をまったく読まな
い(2)ネットでニュースを得ているので、購読意欲が湧かないという理
由であり、イデオロギー的偏向が読者のニーズに答えていないという人は
殆どいません。激減ぶり、販売店の現場の悲鳴は、そんな生やさしいもの
ではないです。

2019年09月07日

◆ロシアの同胞的同盟国の中枢を訪問

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月4日(水曜日)弐 通算第6185号   

 ボルトン補佐官、ロシアの同胞的同盟国の中枢を訪問
  ルカシェンコのベラルーシへ米国高官訪問は20年ぶり

 ジョン・ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)は、先週から東
欧四カ国を訪問している。とくにウクライナでは航空機エンジンのモトー
ル・シーチ社を狙って中国が株式の過半を買収しようとている動きに「重
大な関心がある」として、直近の中国の「借金の罠」を説明した。

その後、ボルトンはベラルーシを訪問し、ルカシェンコ大統領と会談し
た。ブレジンスキー補佐官以来の米国高官のベラルーシ訪問であり、20
年以上の空隙があった。

最近、ルカシェンコはエネルギー問題でモスクワの態度に立腹、ロシアか
ら距離をおく政治的動きを見せていた。

またモルドバを訪問し、親米的な新首相(女性)と友好的な雰囲気の中で
会談した。モルドバは国内に親露のドリエステ自治区を抱えており、付近
は治安が悪いうえ、隣接するのがウクラナイナのオデッサ港。ルーマニア
との合邦は民族的理想の目標だが、現実は夢想に近い。

ボルトンは最終訪問地のワルシャワに入り、同国のファーウェイのスパイ
逮捕や5G基地局の関連などを突っ込んで話し合うと見られる。ポーラン
ドは政府調達からファーウェイを外したが、民間でのスマホ市場では中国
製品が溢れている。

ボルトンの旧東欧、とりわけウクライナ、ベラルーシはソルジェニツィン
が言ったように「スラブ兄弟国」であり、加えてのモルドバ、ポーランド
への米国政府高官の訪問はプーチンにとっては愉快なことではないだろう。
     
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  菅原道真はなぜ遣唐使廃止を建言したのに失脚したのか
   太宰府での禊ぎ、怨念は天変地異をもたらしたという伝説

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松本徹『六道往還記、天神の道・菅原道真』(鼎書房)
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松本徹全集第5巻である。この巻に納まった作品のなかで、前者の『六道
往還記』については、嘗て小覧で紹介した。

したがって本稿では、菅原道真に絞ってみたい。

 評者(宮崎)が小学、中学の頃、学生服着用だったが、かならず「管
公」か、「楠公」ブランドだった。管公は学問の神様、楠公は日本武士道
の象徴。それほど親しまれた。楠公像は皇居前広場にあり、神戸へ行けば
湊川神社に祀られている。

菅原道真を祭る神社と言えば、京都の北野天満宮だけではない。天神とい
う地名も、天満宮も日本中にある。評者の街のなかにも天満宮があり、受
験シーズンとなると境内に合格祈願の絵馬が溢れだす。全国に天満宮は無
数、総本山は京である。

それほど尊敬を集めている歴史上の英雄であるのに、菅原道真の人とな
り、その作品を知る人はそれほど多くはない。

道真は第一に文章の達人であった。漢詩をこよなく愛し、作詩する一方
で、和歌にも大きな足跡を残した。

漢詩と和歌の天才というのは、その唐風にあきたらず和風に力点を置きつ
つバランスを取ったという意味だけではない。しかし道真は和歌の天才歌
人として、現代に伝えられている。漢詩も多く残したという側面を知らな
い人が多い。

当時の日本の文化、芸術、言語的環境は、唐風に染まっていた。いまの日
本で言えばグローバリズムに染まっているような他律的精神環境があった。

古事記、日本書紀は漢字で書かれているが、古事記は大和言葉を、漢字を
借用しているのに対して日本書紀は最初から漢文、中国語である。
 ひらかな、カタカナの発明は道真の後の時代である。

松本氏はこう書く。

「この時代、公の文書はあくまで漢文であり、政務を公事たらしめる要の
役割を担っていた。漢字という異国の文字を綴って文章とすることが、こ
の国の政治的体制を築き、定め、かつ、動かすことに直結していた」
(239p)。

変化が起きた。日本文化、文学の変容だった。
 
「宇多天皇の関心は、漢詩から離れることはなかったが、唐風一色の朝廷
の在り方に飽きたらぬものを覚え、かつ、後宮の女たちの好みの変化をう
けて、この国土に根差した、より自らの感覚に添った催しや歌に関心を向
けるようになっていた。それに対して道真は、讃岐での日々における自ら
の『詩興』の変化を自覚して、その展開を考えながら、適確に応じて行っ
たと、と捉えてよかろう」(253p)

遣唐使廃止の建言に至る心境、芸域の変化を下記のようにまとめられる。
 
前提として宮廷の文化的感覚の変化、服装、装飾から絵巻もの、角張った
ものをさけ、きつい色彩を遠ざけ、「なよやかな優美さを追求するように
なっていた」。

ゆえに、「このような変化を公式に、きちんと認めるのに、遣唐使の廃止
決定ほど相応しいものはなかったろう。(中略)これは或る意味では、道
真自身が拠って立つところを、自ら掘り崩す方向へ時代を導くことでも
あったのも確かであった」(266p)

道真の失脚は、遣唐使廃止が原因ではなかった。

あまりに顕然と出世しすぎたことが、ライバル達の嫉妬を倍加させ、加速
させ、讒言を呼び込んだと考えられる。

令和日本の現代。太宰府にある天満宮は参道に人が溢れるが、驚くことに
多くが中国人ツアーである。遣唐使を廃止した日本の英雄を、なぜ中国人
が拝みに来るのか訝しい現象だ。まして日本の神道の意味もわからずに、
名所だから立ち寄って、要するに土産を買うのが目的である。

太宰府政庁跡にも観光客が溢れだした。日頃、観光コースから外れた場所
であり、地面があるだけで、訪れる人が少ない、というよりいない。政庁
跡地という看板と、柱の跡くらいしか残っていないからである(ただし菅
原道真は太宰府に「左遷」され、蟄居を命じられていたため、政庁にも
通ってはいない)。

さて道真の出生地と伝承される場所は6つも7つもある。「ここが管公生
誕地だ」という伝説となった土地があり、じつは特定されていない。

松本氏はまず、出生地伝説の土地をたずねる。この作品は旅日誌風であ
り、ともかく菅原道真が辿ったすべてを巡礼の如く、思いを込めて巡るの
である。果てしなく歩き、その現場にたって、土地の風を、土地の匂い
を、そして土地の人々の会話を通じて、一歩でも実相に近付こうという、
一種ルポルタージェ技法を用いての、道真論である。

出生地から、京都での自宅跡地、讃岐赴任時の旅路、讃岐の住まい。そし
て太宰府に左遷となって船で瀬戸内海を各地に寄港しながら尾道、防府と
一ヶ月かけた失意の旅の跡を、克明にたどりながら、松本氏は残された歌
を思い出し、解釈し直し、そのときの道真の心境に迫ろうとする。まさに
意欲的な労作である。文学論でもありながら、この本は評伝の域を超えた
歴史志操を中軸に置いている。思想ではない、「志操」である。

道真の生涯は、言ってみれば志操で一貫した。

幼きときから文章の才能を見出されて天皇の側近として政治にかかわりな
がらも、俗世の出世、嫉妬、派閥争いには恬淡として距離を置き、だから
こそ疎まれ、嫉妬され、讒言された。

ところが道真は百年後には神となり、天皇が参拝に行くことになった。

           
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 訃報
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佐藤雅美(さとうまさよし)氏
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直木賞作家の佐藤雅美氏が7月29日死去された。享年78。

筆者は彼と3年ほど会っていなかった。佐藤氏は『大君の通貨』で文壇に
鮮烈デビュー。その後、独自な味わいのある捕物帖などでベストセラー作
家となる。そんな佐藤氏を紹介してくれたのは西尾幹二氏で、当時、江戸
時代の通貨改革等で辣腕をふるった新井白石や荻生?来などの研究会が
あった。江戸時代の経済情勢など佐藤氏は学者でもないのにやたら詳しい
人だった。

伊東に引き籠もっての執筆活動で、伊豆から都内の会合にでるときはホテ
ル泊まりだった。夕方から酒をはじめ、早寝が得意というのは筆者とたい
そう意見が合い、ちなみに「何時に寝るのか?」と聞くと「午後5時」の
由。いくらなんでも早すぎますね、と言いあった会話を思い出す。

意外な逸話は昭和45年、三島事件の直前に佐藤氏は(たぶん『週刊現代』
の取材で)、馬込の三島邸を訪問した経験があり、インタビューがおわっ
て帰ろうとすると「もう、帰るのかね?」と三島由紀夫から引き留められ
た逸話を披露されたことがある。

それで、筆者は佐藤氏に『憂国忌』の発起人をお願いしたのだった。
 合掌。