2017年08月05日

◆奈良木津川だより 太古の木津川地域

白井 繁夫



「古墳時代の木津川」を取り上げたいと思って、木津川市山城町の椿井大塚山古墳、木津町の大畠遺跡、土師の七つ塚古墳などを散策していた時、ふと次のことが頭に浮かびました。

前方後円墳の椿井大塚山古墳は、日本最古の箸墓古墳を三分の二に縮めた同型の古墳です。そこでは邪馬台国(九州説もあります)女王卑弥呼の三角縁神獣鏡が三十数枚も出土しました。

他方、記紀に記載された崇神天皇の条:「和訶羅河:わからがわ:(泉河:木津川)」を挟むこの地で、天皇の命を受けた四道将軍の大毘古命(おほびこのみこと)の軍と、反乱軍の建波邇安王(たけはにやすのみこ)との大戦もありました。

第10代崇神天皇は、大和の国の王から倭国を統一した大和朝廷の大王であり、(3〜4世紀に実在した大王とも云われている)、古墳時代の人物ではないか、と云う説があります。

ですからこの度は、太古の時代(旧石器時代)から、弥生時代、古墳時代へと、「木津川地域を散策」しながら、大和朝廷と山背(南山城)と、木津川市とのかかわりも見ようと思います。

地球上に人類が誕生したのは洪積世(氷河時代)で、今から200万年前から1万年前です。
氷河期は水が氷結して海水面が下降し、日本列島は大陸と陸続きの状態になりました。人類は大型動物(マンモスやオオツノジカなど)を追って南北から列島に渡ってきました。

氷河がとける温暖な間氷期を経て日本列島は大陸と離れて、大型動物も絶滅しました。
日本列島の旧石器時代の「人類の遺跡」は昭和24年(1949)に発見された群馬県岩宿(いわじゅく)が最初の遺跡です。そこから打製石器が出土しました。

・前期旧石器時代:3万年以前

列島各地でその後、旧石器時代の遺跡が発見されました。宮城県座散乱木(ざざらき)遺跡、同中峯遺跡、同馬場檀遺跡、栃木県星野遺跡、大分県早水台(そうずだい)遺跡など、出土遺品は初歩的な打製石器です。

・後期旧石器時代:3万年前から1万3千年前:

近畿から瀬戸内にはサヌカイト(安山岩)を用いた瀬戸内技法(ナイフ形石器)が広まる。
「南山城の木津川地域」:八幡市の金右衛門垣内(きんえもんかいと)遺跡:ナイフ形石器、
城陽市の芝ヶ原遺跡:ナイフ形石器と舟底形石器、京田辺市:高ヶ峯遺跡:石核など。

木津川市における同時代の遺跡にしては昭和52年(1977)に木津町の東部の丘陵端:岡田国神社の裏山(岡田国遺跡)で、一点の石器が発掘されました。石材はサヌカイトで4.7cm長の不定形のもので、未完成の製作途中の石器でした。

・更新世(洪積世)終期:1万3千〜1万2千年前:

細石器.有茎尖頭器(有舌尖頭器)の時代:細石器の石刃(長さ数センチ、幅数ミリの特小石刃)、有茎尖頭器(槍の穂先をとがらし、柄に付けるために基部には茎「ナカゴ」をもつ)。

近畿地方は有茎尖頭器が主流です。(細石器のナイフや槍は全国に分布していました)。
「木津川地域では井出町上井出遺跡、木津川市山城町千両岩遺跡、同加茂町例幣遺跡、など」。

・縄文時代(新石器時代):1万2千年前〜前3世紀:

加工技術も進歩して狩猟の弓矢、生活用具などへの応用と、目的と用途が拡大しました。特筆しますと、この時代発明された「土器」は、「煮る」という調理の方法への大変革があったことです。食物の種類と範囲が拡大でき、定住性の強い集落が各地に形成されたことが証明されます。

前期縄文時代の「木津川市山城町の涌出宮(わきでのみや)遺跡」、城陽市の丸塚古墳下層遺跡で、北白川下層式土器が出土しました。(前期の標識土器:京都市北白川小倉町遺跡で出土した爪形文の土器)また、涌出宮遺跡からは連続する三型式の土器が出土し、ここの集落はずっと継続してきたと見なされます。

後期縄文時代:西日本の縄文土器は、東日本と異なる発展をし、土器から縄文が消えて、華麗な装飾を施した多様な器形が盛んになりました。

後期縄文人は丘陵地の動物の減少を補うため、低地へ進出して植物栽培を始めたのです。

「木津川地域」も同様だったと思われますが、「木津川」は大変氾濫が多いため、地下深く眠っている遺跡を発掘する本格的な調査は、未だ実施されていません。

・弥生時代: 紀元前3世紀〜後3世紀中頃 水稲農業と金属器使用の新文化時代

九州北部に大陸.半島から渡来した新文化は、端正な姿形の弥生土器と青銅器.鉄器の時代へ2ルート(瀬戸内地方と日本海沿岸)を通じ、東方へと日本列島を大きく変えました。

・遠賀川式(おんかがわしき)土器:福岡県板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡

弥生前期の南山城の稲作文化導入期の土器は河内(東大阪市)より伝わっていました。
(木津川市燈籠寺遺跡、京田辺市宮ノ下遺跡の土器は河内の胎土使用)
北山城(乙訓地区の遺跡など)は、淀川経由ルートで伝播されています。

・弥生中期(紀元前1世紀〜後1世紀)の銅鐸と遺跡の発見

昭和57年(1982)6月木津町相楽山の丘陵(現木津川市相楽台)で相楽ニュータウン造成工事中に銅鐸1個が出土しました。(高さ:40.5cm、型式:扁平紐式6区袈裟襷文)
南山城では八幡市(式部谷遺跡の銅鐸)に次いで2番目、20年ぶりの発見です。(京都市の梅ヶ畑遺跡の4個を含め)山城国では合計6個目です。

銅鐸発見場所から東方約200mの場所で、同時代の集落や墓(方形周溝墓:まわりを方形の溝で囲んだ墓)の遺跡(大畠遺跡)も発見されたのです。

当時の銅鐸は祭祀に使用し、複数の集落を束ねる母体の集落が管理していました。近畿地区の山城、大和、河内では各郡に銅鐸1個の割合ですが、摂津、和泉は1郡に複数(2〜3)個の割合でした。

「木津川市大畠遺跡の集落」の勢力は八幡市、京田辺市北部、同南部、山城町〜井出町南部、城陽市、宇治市西部の6集団に並び立つほどのものと云われています。

稲作農業の人々は低湿地や丘陵の谷間を木製の鍬や鋤で耕し、水田に籾を直播しました。
弥生式土器を用いる生活様式になり、煮炊きする甕、食物を蒸す甑(こしき)、貯蔵用の壺、
食物を盛付ける高杯や鉢などの土器も発達しました。

狩猟や戦闘用の鉄鏃や銅鐸用や銅鏃などの他に、鉄の工具で木材を加工したり、農具にも鉄の刃先を取り付けたり、鉄器の活用で生産活動や生活文化も変化、発展を遂げました。

当時の南山城への物流や文化の伝播は河内から神奈備丘陵(現学研都市丘陵)を越えるルートと大和から佐保丘陵を越えるルートが主流でした。北山城へは淀川経由でした。

大畠遺跡は、近くの音乗ヶ谷遺跡、北隣の町(精華町)を含む複数の集落の母村であり、以後も北へ600mの曽根山遺跡、相楽(さがらか)遺跡へと古墳時代から奈良時代へと続きました。

太古の時代から急ぎ弥生まで、端おって綴ってみました。如何だったでしょうか。

次回は、古墳時代の山城について椿井大塚山古墳を中心に散策記を掲載したいと思います。

<参考資料:木津町史  本文編 木津町
   相楽山銅鐸出土地発掘調査、相楽山銅鐸出土地。大畠遺跡、 木津町教育委員会
   大畠遺跡発掘調査、第1次(1982)、第2次(1983) 木津町教育委員会>

2017年07月13日

◆奈良木津川だより 古墳時代の木津川地域

白井 繁夫(郷土歴史家)



木津川の右岸で世紀の大発見と騒がれた約1700年前の「椿井大塚山古墳:木津川市山城町椿井」が、昭和28年(1953)3月にJR奈良線の改修工事中に発見されました。

この古墳の前方部と後円部の境目に鉄道が敷かれており、改修工事により崖面の中程の地層の奥から石室を発見して、天井石を取り発掘を進めると、そこから驚くべき事柄。

「邪馬台国女王卑弥呼(ひみこ)の鏡」と推察できる「三角縁神獣鏡」が30数枚を始め、副葬品としての鉄刀、鉄剣などの武器類、武具、農工具類等が大量に出土したのです。

この年の木津川地域は夏から秋にかけて、2度も未曾有の大水害に遭遇しました。木津川左岸の木津町は木津川に架かる国道24号の泉大橋が流失(8月15日)し324町歩が冠水して、人的、物的被害が甚大となり、更に9月には台風13号の暴風雨に追い打ちをかけられました。

局地的集中豪雨による南山城一帯の被災者は死者330人超、重軽傷者1700人超、罹災者は3万人弱の大災害でした。

まさに、「人類による歴史の偉大さと、人類に対する自然の脅威とを同時に眼前に見せられました。」と当時のことを知る、古老が語ってくれました。

弥生時代の大畠遺跡(相楽地域の集落の母村)以降、前方後円墳の前期古墳時代(3世紀末〜4世紀)が始まりますが、地域の首長墓として盛土をした墳丘墓や古墳は、左岸の木津町では発見されていません。

日本最古の前方後円墳は、大和の現桜井市に築かれた3世紀末の「箸墓(はしはか)古墳」(全長280m)です。右岸の山城町には前述の「椿井(つばい)大塚山古墳」が4世紀の初め、箸墓古墳の三分の二の大きさ(全長約190m)の同形古墳として出現したのです。

この古墳の被葬者は大和政権にとって、重要な役割或は絆を持った豪族か首長であったと推察されます。それは、この地域の地形と『記』『紀』の物語(古事記、日本書紀)などからも推察されます。

地形からの推察:大和の国の北の丘陵を越えると、そこの平野部には木津川が流れ、宇治川、淀川経由で西は瀬戸内、北は近江(琵琶湖)から日本海、東は(三重経由)東海道へと、さらに中国大陸から、蝦夷地まで伸ばせる古代の交通の要衝です。

前期古墳時代の各地域の首長の宝物は、銅鏡の中国鏡「三角縁神獣鏡」が絶対的でした。

この椿井大塚山古墳出土の鏡と同形の鏡(同笵鏡)の配布先(分有する古墳)は九州(9)、中四国(10)、近畿(16)、中部(9)、関東(4)にあります。各地域の王(首長)と繋がりを持つ役目を大和政権は、大塚山に与えて全国的な広がりを築いたと思われるのです。

(弥生時代に首長が祭祀に用いる重要物は銅鐸でしたが、前期古墳時代は磨鏡の中国鏡となり、後期古墳時代になると鉄刀、鉄剣などの武器、武具や宝石、装飾品に変化しました。)

古墳時代の木津川地域を古代の律令郡制で云えば三つの地域、久世郡、綴喜郡と相楽郡に
古墳群がありました。

 
大和の大王が全国的な展開をするためには、北の玄関港(泉津)、即ち南山城の木津川市と木津川流域を確保しないと、物流も情報も得られ難くなるのです。(南西の大和川を利用する水上交通では、大量の物資を運ぶ物流ルートに困難な個所があったのです。)

大和政権は、木津川を勢力範囲に組み入れた後(4世紀後半〜5世紀前半)、北部の奈良山丘陵に巨大な前方後円墳の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群を築いています。

「宝来山古墳(伝垂仁陵:227m)、五社神ゴサシ古墳(伝神功皇后陵:275m)、佐紀陵
山サキミササギヤマ古墳(伝日葉酢媛ヒバスヒメ陵:207m)、佐紀石塚山古墳(伝成務陵:218m)」

大和政権は、木津川流域の各首長(豪族)と戦うか、或いは絆を結んで畿内、瀬戸内を掌握しました。それから椿井大塚山から北へと進み、日本海を望む丹波地方の巨大古墳(網野銚子山古墳:約200m、神明山古墳:約180m)の王と縁を結び、山陰から、北陸道諸国も平定したのです。

『記』『紀』の物語(古事記、日本書紀):

<崇神天皇10年、武埴安彦(たけはにやすびこ)の反乱:四道将軍の大彦命(おおびこのみこと)が、北陸道へ平定に行く途中、大和と山代の境、平坂で御間城入彦(ミマキイリヒコ:崇神天皇)の命が狙われている云々の童女の童謡(わざうた:政治等の風刺謌)を聞き、山代の国へ派遣している武埴安彦の謀反を知る。

崇神天皇は、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく:和珥氏の祖)を戦場へ派遣。那羅山(現奈良坂)から南山城(山代)へ進軍、輪韓河(わからがわ:→挑河いどみかわ→泉河)で相対峙し、武埴安彦の忌矢(いはひや)は外れたが、彦国葺の矢にあたり戦死する。

反乱軍は総崩れになり北へ敗走するが、官軍に追撃され斬り殺された処が羽振苑(はふりその:現祝園)、更に、彦国葺の軍は伽和羅(かわら)で敗走兵の甲冑を脱がすと、彼らは恐怖で褌に屎を漏らした。(屎褌→久須婆→樟葉:訛ってくずは)>

武埴安彦の妻吾田媛(あたひめ)が固めていた西国道も、やはりその時敗れました。

『記.紀』によると4世紀末:忍熊王の謀反

<忍熊王(おしくまのみこ)と兄の香坂王(かごさかのみこ)が神功.応神に謀反して失敗する。また、大和東北部(佐紀古墳群)に本拠地を持つ和珥氏の伝:応神天皇側の将軍として、和珥氏の祖先(建振熊命:たけふるくまのみこと)が山背(山代)南部を拠点とする忍熊王の軍勢との戦いで、これを打ち破った。


忍熊皇子は、父が仲哀天皇で母は大中姫(おおなかひめ)。だから佐紀西群のヒツギノ皇子に対し、神功.応神をいただく政治集団が反乱をおこして、王権を簒奪(君主の地位を奪い取る)した。>
というのが四世紀末の史実です。

ところで、木津川市の南西で隣接する奈良市の現押熊町は、奈良市西大寺所蔵『京北班田図』の地名由来に記載されている。と云われています。

忍熊王に加担した地域の将軍や地名など簡略して下記に列挙してみました。

忍熊王に味方した将軍:葛野城首(かづのきおびと)の祖熊之凝(おやくまのこり)、
吉師(きし)の祖五十狭芧宿禰(おやいさちのすくね)、難波の吉師部(きしべ)の祖伊佐比宿禰(おやいさひのすくね)等々

軍事的拠点:木津川(山背)、宇治川(莵道河:ウジカワ.菟道.逢坂)、近江南部(瀬田.田上タナカミ)、淀川(摂津)、住吉、播磨(兵庫)の明石など

大和政権は北の出入口として木津川の泉津を確保し、そこから全国へと勢力範囲を拡大し
たのです。

その後の歴史は神功皇后、応神天皇の体制で展開されますが、私は近くにある押熊町も記
述したくなり、少し長くなりました。 

次回は横道へ反れずに後期古墳時代へと進みます。

参考資料: 木津町史 本文編 木津町、山城町史 本文編 山城町

2017年07月04日

◆奈良木津川だより 和伎神社(涌出宮

白井 繁夫



和伎神社(涌出宮わきでのみや)は古代山背国南部(現木津川市山城町)の木津川右岸に在り、神社の正式名称は延喜式神名帳(平安時代)記載の和伎座天乃夫岐賣(わきにますあめのふきめ)神社と格付けされて国の保護を受け、山城国の涌出宮と呼称され更に信仰を集めてきました。

和伎神社(涌出宮)は@、Aにおいて、『記紀』の武埴安彦命の謀反.忍熊王の反乱物語などからヤマト政権確立に関わる泉津(木津港)と木津川流域の勢力争いに敗れた武埴安彦命や戦死者の霊を慰霊する神社とも云われてきました。

また、Aで記述した涌出宮遺跡の発掘調査で出土した遺物より当神社境内地域は弥生時代から近世まで連続して続いた複合遺跡地と云えます。また稲作農耕の伝来に伴う文物の交流発展(出土土器.石器類の変遷等)や弥生時代の住居跡や遺構等から人々の暮らしの変化発展も窺えます。

今回Bは、当神社の主神(天乃夫岐賣命)は水神であり、山城の祈雨神十一社の一社でもありますが、当神社の奇祭と云われる涌出宮の居籠祭(いごもりまつり)やその他の宮座行事等に関連する当神社の祭事(昭和60年「国の重要無形民俗文化財」に指定)の概要を記述します。

涌出宮の居籠祭(音なしの祭)の起源については前述の武埴安彦の祟りを恐れて御霊を慰霊する説、鳴子川の東部の山の大蛇を退治したその蛇の霊を慰める説などありますが、最も一般的に云われている説は室町時代の風俗を残している稲の豊作を願う農耕儀礼と云う説です。

涌出宮は山城町(棚倉)平尾に在りますが旧綺田村.殿屋村.平尾村.大平尾村の四か村の氏神です。当神社の祭祀を司る神主は大矢大和守により数代勤められ、その後喜多家、大矢家と引き継がれたが、大矢家次左衛門の跡継ぎの問題で、宝暦8年(1758)以後は大矢.喜多.土屋.中谷家からなる「与力よりき」の相談で四家から一代限りの神主が選ばれるようになりました。

居籠祭の運営は当神社の宮座によって執り行われる。宮座の起源は古く中世後期まで遡ります。
当神社には古川座(綺田村)、殿屋座(殿屋村)、大座.尾崎座(小平尾村)、歩射びしゃ座.中村座.岡之座(大平尾村)、与力座(平尾が中心)、神楽座(女性)の宮座があり、それぞれの集団の役割に基き、当屋(とうや)を順番につとめて祭祀が行われます。

宮座と祭りの関係ですが、近世までの居籠祭は大陰暦の1月の二の午の初日より3日目の夜間まででした。現在は太陽暦の2月15日の前夜の森廻し(もりまわし)より「15日から17日の夜の祭りの終わりを告げる太鼓打ち」3日間夜の野塚神事までです。

現在の居籠祭にかかわる宮座は与力座を中心にして祭事がおこなわれ古川座.尾崎座.歩射座などが加わって催行されています。(秋祭りは大座.殿屋座.中村座.岡之座がかかわります。)
与力座の一老は神主を補佐して居籠祭を取り仕切る役にあたります。

前儀(2月14日)「みややまど」又は「森廻し」:
最初は祭りの日から逆算して60日前(12月16日)とすぐ前夜11時頃から行う。
与力座の若者2名が白装束で深夜11ヶ所の塚をまわり、神々の招来を願う儀式。(望見は不可)

第1日目(2月15日)
与力座の人々は社務所で3日間の神事に使用する諸道具を製作する。
@大松明(約7.5米、樫の木と藤のつる)、A野道具(榊の材でミニチュア農具:すき,くわ等)、B松苗(おかぎ.おかげ:榊の枝で根本がカギ状)、Cよつづか(楼門2ヶ所に砂盛各2個)D箸けずり(饗応:あえの儀に使用)
饗応の儀式:与力座の「いたもと」と「給仕」は業襟(すおう)姿の長老10人「古川座(伊勢から下ってきた神を出迎えた一族)、尾崎座の衆神姿で4人、歩射座(警護の役)10人を饗応する。

夜、大松明に火打石で点火し、宮司が散米.祝詞して、松明の燃え方から、その年の天候.豊作の吉凶を占う 「永永納燈祭:エイエイノット」。

深夜2時頃、宮司は前述の農具を野塚に納める行事(野塚祭)を行い、村人は宮司の姿が消えるのを待って、この農具を持ち帰り幸運を祈る。(野塚神事は16.7日の深夜も行われます。)

第2日目(2月16日)
勧請(かんじょう)縄の奉納:歩射座の座衆が当屋でオロチの胴体を模したかんじょう縄を作り、
古川座でも2本の勧請縄を作って、夕方に社へ持って行きます。

野塚神事は耕作の事始めをさします。16日.17日はともに深夜にそれぞれ異なる塚へ納めます。

第3日目(2月17日)
午前、七度半(ひつたはん)の使い:与力座の長老が集まり、午後の饗応に招く古川座.歩射座への使いに出る者の人選をして出向く。(古川座の総本家に出向く時、最初の挨拶と帰りに6回半の双方が取り交わす礼の数から七度半の使いと呼ばれている。)

午後2時頃から御用の儀、そして饗応の儀が15日の夜同様、祭殿に座り、さらにそのいち.ぼうよ.ともの席も用意されて行われる。室町時代の形態が残ると云われ、いたもとの指示で給仕が進み、各座衆へ御供.御神酒が配られ、昔の作法で三々九度の盃を交わし、膳が出され、京めし、汁、最後に湯をだすと古風な饗応も終わります。

続いて、御田植神事(御田おんだの式):豊作を祈る神事:初日に作った松苗を「ぼうよ」(5才位の与力座の男子)、「おとも」(同座の10才位の女子)が植える真似をする。

最後の儀式は御供炊(ごくた)き神事、与力座の若者2名が深夜12時頃から神殿や四ッ塚に供える御飯を炊き、深夜2時ごろに終わる。御供が塚から無くなれば神が来られた証という。

居籠祭の三日目の夜には太鼓を鳴らして居籠りが終わったことを告げることになっており、今も踏襲されています。(音なしの祭りのため、物音ひとつ立てない生活から解放されたことを意味していました。)

涌出宮の居籠祭は鎌倉.室町時代より続く宮座行事であり、現在は与力座を中心に他の宮座も協力して運営されています。(最近居籠祭は2月の第2土.日曜日に変更されました。)嘗て、弥生時代の皇族「武埴安彦命」の御霊を慰霊する宮として、また数多の戦死者の霊の祟り(悪疫の流行.凶作等)を人々は恐れ、籠って、祈祷することにより鎮まったことに因む『紀』ともいう。

奈良時代に伊勢国より天乃夫岐賣命を勧請し、平安時代には従五位上へと神階が上がった和伎神社(涌出宮)は鎌倉時代に源頼朝により再建されたが、南北朝内乱(1321-1392)の兵火で再度焼失。後小松天皇の時に再建された。

その後も後柏原天皇(第104代)の時、再度、再建。江戸時代(1692)現在の本殿が建立された。

湧出宮遺跡の発掘調査において、当神社の境内地は縄文時代から現代までに繋がる遺物や遺構が出土しており、境内の鎮守の森はブナ科コナラ属の高木の常緑樹やイチイガシの群生があり、府の文化財環境保全地区にも指定されています。(完)

参考資料:山城町史  本文編  山城町。  木津町史  本文篇  木津町
     新編 日本古典文学全集 1 古事記、 同全集 2 日本書紀@ 小学館
     発掘成果速報 (湧出宮遺跡) 京都府立山城郷土資料館
     山城のまつり  山城青年会議所  昭和53年9月

2017年06月22日

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫



飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。(完)

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2017年06月20日

◆木津川だより 高麗寺跡 A

白井 繁夫



「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

2017年06月19日

◆木津川だより 高麗寺跡 @ 

白井 繁夫



古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は20100m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であり、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あやし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺です。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりました。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こまひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これからは以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川市教育委員会


2017年05月28日

◆木津川だより 和伎神社(涌出宮)A

白井 繁夫



涌出宮わきでのみや:正式名称は和伎座天乃夫岐賣神社わきにますあめのふきめ:は木津川の右岸(木津川市山城町平尾)にあり、前回は『記.紀』の崇神天皇の武埴安彦の反逆物語から神社名(語源)や奇祭の由来について少し触れました。

今回は涌出宮遺跡から出土した弥生時代中期の豊富な遺物や集落遺跡、当神社の南方1km余の所にある椿井大塚山古墳(三角縁神獣鏡が30数枚出土)等が存在する当地域で、弥生から古墳時代にまたがる大和朝廷確立に関連した戦の物語、木津川流域で争われた反乱、『神功皇后(日本書紀).仲哀天皇(古事記)の忍熊王の反乱』の概要を、追加記述します。

『記』息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后『紀』息長足姫尊:以後皇后と略称)が新羅を討伐されて、海路にて倭(大和)への帰途、筑紫国で仲哀天皇のご遺体を収めて、一艘の喪船を用意し、御子(後の応神天皇)を乗船させました。

皇后は御子の異母兄(香坂王かぐさかのみこ.忍熊王おしくまのみこ)を欺くため、御子の崩御説を流しました。他方の香坂王.忍熊王は共に播磨(兵庫県)に兵を集めて天皇の山稜を赤石(明石)に造営すると称していたのです。

香坂王.忍熊王は難波の菟餓野(とがの:現大阪市北区兎我野町付近)に出て、祈狩(うけひがり:誓約狩:狩の獲物で吉凶の神意を伺う)を催行した折、香坂王が怒り狂った猪に食い殺されました。弟の忍熊王は誓約の結果を無視して、皇后軍との戦闘態勢を整えました。

然し、天皇と御子も死亡した噂を信じた忍熊王は皇后軍が乗船していた喪船をやり過ごしました。太子の軍は喪船から上陸して、丸邇臣(わにのおみ)の祖先、難波根子建振熊命(たけふるくまのみこと)を将軍とする皇后軍から攻撃を仕掛け、吉師部(きしべ)の祖先、伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍とした敵軍を追撃して、淀川から木津川へと追い詰め山城まで来ました。

山城で軍勢を立て直した忍熊王は反撃に出ましたが、菟道(うじ.宇治)でまたも、(皇后が崩御されたので、弓の弦を折り降伏すると云う)建振熊命の知略に騙されて、敵軍も弦を折り停戦しました。太子軍は隠し持った弓矢で再度追撃を開始し、敵軍は逢坂から近江まで追われ、ついに忍熊王は近江の海(琵琶湖)に入水し崩御されました。(古事記と日本書紀ではストーリーに若干差異があります。)

大和盆地の東南部の纒向(まきむく)古墳群(桜井市)や大和古墳群(天理市)にはヤマト政権誕生に関わった3世紀から4世紀末頃の王族の古墳群があります。東北部へ移動後の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(奈良市)には4世紀末から5世紀中葉まで多数の大王墓(全長200m超)が築造され、この古墳群の被葬者から4世紀末にはヤマト政権の最高首長が推戴されました。

その後、政権は大和から河内へ移動し、古墳も5世紀初頭には400mを超える応神天皇陵(羽曳野市)から世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵:堺市堺区)へと大規模古墳が出現したのです。

木津川右岸に在る椿井大塚山古墳は纒向古墳群の箸墓古墳(築造3世紀中:魏志倭人伝の卑弥呼の墓か)に類似し、3世紀末に築造、約2/3の大きさの前方後円墳で出土品は竪穴式石室内から三角縁神獣鏡など36面余、武器.武具、工具.農具、日本最古の刀子等々が出土しました。

大和政権確立を目指し、大和平野の東北部(奈良市)へ移動して、全国展開に利便な水陸交通の要衝(泉津)と木津川流域を勢力範囲に組み込んで行く過程で起きた戦いが前述の『記.紀』2話の物語と思われます。政権が河内国へ移動後は全国的にみても大古墳の築造は無くなりました。

涌出宮遺跡は「前回記述の社伝の神域」伊勢より勧請した女神を併祀した時、一夜で涌き出た森:4町8反余.約4.8万平方メートルの森が出現:の神域近辺を昭和43年(1968)の保育園建設計画や平成元年(1989)の涌出宮遺跡の範囲確認に基づく発掘調査が其々実施されました。

(涌出宮は縄文時代前期の土器が出土した涌出宮遺跡地に社があり、古来の奈良街道と伊賀街道が交差する地点でもあり、現在も境内に伊賀街道の道標が残っています。)

涌出宮遺跡の昭和43年の1次から平成元年の2次にわたる発掘調査による出土品等の遺物より、
涌出宮地域は縄文.弥生.古墳時代から、平安.鎌倉、江戸時代を経た現在まで連綿として人々の生活が営まれ、宮の祭りも繰り返された場所だと、推測できる遺物が発掘されました。

第1次(1968年)の調査地は参道の東側の水田地帯(現保育園の建設地域)
第2次(1989年)の発掘調査地区は社殿の建築に合わせてAからD区の4か所を発掘調査
(A区は現境内の東方外側、BからD区は涌出宮の境内地域)
 A区:湧出宮境内の東方の水田、B区:拝殿の西南.四脚門の西北側の現手水社付近。
 C区:A区とB区の中間.戦没者慰霊碑の前面地、D区:拝殿の東側.現社殿(神楽殿.社務所)の建設地域。 

当遺跡の第1次発掘調査の出土遺物:縄文時代前期の土器が出土、弥生時代の畿内土器様式の第U様式から第W様式の土器、石器類は石匕.石鏃.叩石から磨製石剣.石鏃.石包丁等、更に鉄剣形石剣も出土しました。土器は弥生中期の水稲農耕の定着に伴い生産力.経済力が増強し、地域間交流の発達などがあり、第V様式の土器が特に多種.大量に出土しました。

土器の組成も壺.甕.鉢の単純な組み合わせから各種の用途別に壺.甕.鉢.高杯等々が複雑化した組み合わせや形も色々に変化して社会的ニーズ(穀物の貯蔵.煮炊き.祭祀用等々)や人々の嗜好に合わせて発展した土器の文様(櫛書き直線文.波状文.簾状文等々)が出土しました。

当遺跡は縄文時代前期から継続的に営まれた集落跡であり弥生時代中期には特に発展したと思われました。また、弥生末の第X様式の土器や古墳時代の遺物も少し出土しております。その後、遺跡地の範囲を確認するため、さらに調査地を広げ、第2次の発掘調査を行ったのです。

第2次発掘調査地:(A区):境内外の東方の水田: 東西に2m幅のトレンチ、弥生時代の磨製石剣が出土、杭穴38ヶ検出、竪穴式住居の柱穴に弥生土器片混入等々

(B区):楼門脇西側:東西4mx南北6mのトレンチ、遺物包含層の上部から中.近世と弥生時代に分層、弥生土器(壺.甕.鉢.高杯.器台.ミニチュア壺)、弥生時代の集落跡など
(C区):戦没者慰霊碑前:東西4mx南北6mのトレンチ、表土は近.現代の瓦礫が多量、表土下は弥生時代から古墳時代の遺物包含層、C区の遺構は近世の壺埋設遺構と弥生の土壙。

(D区):拝殿の東側、社務所などの建設地:東西約10mx南北約20mの範囲の調査区:遺構は弥生時代から近世までが混在、弥生時代の竪穴式住居跡3基と多数の土壙、B区の南北遺構の東側にも同様の南北遺構が出現し、弥生の住居群の存在が確認できたのです。又南北に走る土塀跡もあり、現神社が平安時代末にその輪郭が出来ていた事が分かる貴重な遺構の発掘でした。さらに、平安時代末(12世紀)から近世までの多数の土器溜り群から当神社の祭祀に関連する土器が多数出土したのです。

当遺跡の第2次発掘調査で出土した遺物はコンテナバケットに換算すると約100箱分になり、
その内の約30箱は弥生土器です。残りは平安時代から中.近世にわたる土器や瓦類などでした。

平安時代から中.近世の土器類には涌出宮の祭祀関連を示唆する貴重な遺物があり、出土した多
数の瓦類から涌出宮に付属していた神宮寺の軒丸瓦や平瓦などの瓦類も出土しました。

涌出宮遺跡は出土した土器や石器が各時代にまたがり人々の営みの変化.発展の様子を示す遺
物を出土するまさに複合遺跡です。土器も文様から時代が分かり、甕形土器も近江系土器、「大和
形」甕、瀬戸内系甕など文化の交流や物流など、また品種も多様化し、高杯やミニチュア壺(祭
祀用)などから祭祀との関連も分かります。

出土品より和伎神社(涌出宮)は延喜式に記載された平安時代中期に創建された神社と推測可能
です。(現神社の区画が平安時代末頃(鎌倉初頭以前)には確立していました。)
涌出宮の祭祀に使用した土器を一括投棄したと思われる土器留り群から宮座行事(居籠祭)との
関連を想像する楽しみも増します。(当神社の宮座行事などは次回につづきます)

参考資料:山城町史 本文編  山城町。 木津町史  本文篇  木津町
     日本古典文学全集1 古事記  同全集2 日本書紀@ 小学館 
     山城町内遺跡発掘調査概報 涌出宮遺跡第2次調査 山城町教育委員会

2017年04月20日

◆木津川だより  和伎神社(涌出宮)@

白井 繁夫



木津川の右岸に式内社の「和伎(わき)神社(涌出宮わきでのみや)」がJR奈良線棚倉駅の東(木津川市山城町平尾)に鎮座しています。

涌出宮の正式名称は「和伎坐天乃夫岐賣(わきにますあめのふきめ)神社」で延長5年(927)、
律令制度の細則『延喜式』で国の保護を受けることになった神社(式内社)に格付けされました。しかし、当神社の創建年代はいまだに確定しておりません。

社伝によると奈良時代、天平神護2年(766)伊勢の五十鈴川の畔(舟ヶ原岩部里)から御祭神天乃夫岐賣命(あめのふきめのみこと)を勧請して、三女神:田凝姫命(たごりひめのみこと).市杵(いちき)姫命.端津(たきつ)姫命を併祀したと云われています。

当神社の社名が歴史上の史料に登場したのは1150余年前、平安時代の貞観元年(859)に従五位下から従五位上へと昇叙されて神階が上がった時です。その後、現地の有力な神社となり人々の崇敬も更に増しました。創建は不明ですがこの年よりは前だと推測できます。

南山城の相楽郡(含木津川市)に『延喜式』の式内社は6社在りますが、当神社の特にユニークと思った下記の事柄等を話題に入れて取り上げてみようと思います。

@涌出宮境内地は弥生時代の土器や石器が昔から出土しており涌出宮遺跡として知られていました。

A木津川流域(木津川市)は古代から水陸交通の要衝のため、この地域の支配権を得る為の戦乱などがあり、古事記.日本書紀(以下『記』.『紀』と云う)にこの地域も登場しています。和伎神社の「わき」の語源や奇祭と云われる神事(居籠祭:いごもり)も『記.紀』の物語にまつわっていると云われてきました。

B涌出宮は縄文から弥生時代の土器や石器が出土する遺跡地ですが、弥生中期の3様式の土器が出土し人々が連続して居住した跡や、居籠祭の神事は室町時代の農耕儀礼なども演じ、豊作を祈る伝統的予祝行事として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

JR棚倉駅で下車して、すぐ東の涌出宮(和伎神社)の一の鳥居、二の鳥居と神社の森の参道を進み四脚門から拝殿へ詣でて参拝した折、壁に当神社の由緒書き(神社の概要説明文)が掲示されていました。

説明文の一部抜粋:一千二百年余前称徳天皇の時代(766年)、伊勢の国より御祭神(天照大神)を勧請、社蔵『和伎坐天乃夫岐賣大明神源緑録』による天照大神の御魂である。
涌出の森は後に伊勢より前述の3女神を勧請して併祀すると、一夜にして森が涌き出し、
4町8反余(約4万8千平方メートル弱)が神域となった。この3女神は大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約により生まれた御子である。

当神社は山城国祈雨神十一神社の一社に数えられ、56代清和天皇(859年)、59代宇多天皇(889年)が奉幣使を立て、雨乞祈願をしたところ忽ち大雨を降らした。

現本殿は元禄5年(1692)造営.3間社 流造り 屋根は「千本.勝男木」を置く
当社は中世より度々の戦火に会い、再々焼失したが、源頼朝、後小松朝、後柏原朝の代に
再建されてきました。 (以下省略)

和伎神社(涌出宮)の話題に戻ります。『記.紀』に当地域が関わった物語を『紀』から:10代崇神天皇(御間城入彦:みまきいりびこ)が大和の大王から国の統一を目指し、戦乱などを経て御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)となる、過程の物語:四道将軍と武埴安彦(たけはにやすびこ)の反逆による木津川流域での激戦物語の抜粋。

大和朝廷の全国的な権勢樹立を目指して、天皇は4将軍を選び北陸道へは大彦命(おおびこのみこと)、東海道(武渟川別たけぬなかはわけ).西道(山陽道:吉備津彦).丹波(山陰道:丹波主命)を任命し、大彦命が山背(やましろ)の平坂(ひらさか:『記』では幣羅坂)へ到着した時、南山城の木津川市と奈良市の国境、(現)市坂付近、少女の歌「御間城入彦(天皇)の殺害予告とも採れる詩」の文言に不信を抱き大彦命が天皇に奏上しました。

天皇は武埴安彦の謀反を察知して諸将軍の出発を留め、反乱軍との戦闘に対峙する。と、
やはり、武埴安彦は妻吾田姫(あたひめ)と謀り、夫は山背(現木津川市)から妻は大坂(現奈良県香芝市)から両反乱軍は共に帝京(みやこ)を目指し襲撃しようとしました。

天皇は五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)を吾田姫軍討伐に差向け、吾田姫をはじめ兵士残らず殲滅させた。山背の武埴安彦軍へは大彦命と和珥臣(わにのおみ)の遠祖彦国葺(ひこくにぶく:『記』日子国夫玖命)を派遣し、那羅山(ならやま)を下って、輪韓河(わからがわ:木津川)の河を挟み両軍相挑む。(いどむ河→泉河.『記』は伊杼美いどみ→伊豆美いづみ)、泉河(泉川)は木津川の木津町あたりを指す。

武埴安彦の忌矢(いわいや)が先に彦国葺を射るが外れ、彦国葺の射た矢は埴安彦に命中して殺した。反乱軍は総崩れとなり逃げ惑った。敵兵は川下(北方面の敵陣)へ逃れるが追われ首切られ、屍骸が満ちあふれた。(羽振苑はふりその→現祝園ほうその)

敵兵は恐怖の逃亡中、屎が褌(はかま)に漏れた。(屎褌くそばかま→樟葉くすば)
観念した兵は地面に頭を叩きつけて助命を乞う「我君あぎ」と。(我君あぎ=わぎ→和伎)
『記伝』はアギをワギと訓み、『延喜式』神名.「和伎坐天乃夫支売神社」(涌出宮)とする。
その後、武埴安彦命の霊や数多の戦死兵を悼み弔った神事が「居籠祭」とも云われています。

涌出宮遺跡について:出土した土器や石器から:

縄文時代の土器が出現した1万2千年前から水稲農耕が渡来して弥生時代の文化が始まる紀元前3世紀までの約1万年間を土器から観ると、草創期.早期.前期.中期.後期.晩期の6期に分けられています。

近畿地方の縄文時代前期の標識遺跡の土器は北白川小倉町遺跡(京都市左京区)が有名です。
北白川下層式と名付けられた爪形文を主体とする土器が前期の標識土器と云われています。
南山城では涌出宮遺跡(木津川市山城町)、丸塚古墳下層遺跡(城陽市)で北白川下層式土器が出土しました。

南山城の人々の痕跡は縄文前期から弥生にかけて、ひき続き人々が生活した足跡がたどれます。

涌出宮の縄文人は北隣町の井手町鳥休(とりやす)遺跡へ移動し、丸塚古墳下層の人々は
同じく城陽市の芝山遺跡へ移動しています。

弥生時代の涌出宮遺跡は連続する3形式の土器が出土しており、継続的に人々は集落を形成していたと推測できます。

涌出宮境内地に昭和43年(1968)保育園の建設計画が起こり、事前調査した結果、弥生時代の中期全般にわたる遺跡であり、境内地のかなり広範囲な地域に広がった集落遺跡であることが推測できました。

出土した土器(畿内土器様式の第2様式から第4様式の弥生中期)や石器(磨製の石斧.石剣.石包丁や石鏃.石錐.砥石)などの変化発展から見た地域交流や農耕社会の定着と経済的な安定化など。和伎神社の宮座と奇祭と言われる祭事などについては次回に続きます。

参考資料: 山城町史  本文編  山城町。 木津町史  本文篇  木津町
      新編 日本古典文学全集 1 古事記 、同全集 2 日本書紀@ 小学館
      発掘成果速報 (涌出宮遺跡) 京都府立山城郷土資料館

2017年04月15日

◆6〜7世紀「木津川流域」

白井 繁夫

『古事記.日本書紀』の古墳時代に登場した物語:「武埴安彦の反乱、忍熊王の謀反」と云う2度にわたる木津川流域の戦いに大和政権が勝利した結果、「木津」は大和盆地からの北の出入口となり、大和政権の拡大した支配領域の重要な結節点にもなったのです。

6世紀に入ると、大和政権は仁徳系の王統を継承する皇子(25代武烈天皇後の皇子)が絶えかける状況になり、大伴金村大連(おおともかねむらのおおむらじ)が、近江の息長(おきなが)氏の系統:応神天皇五世の孫:男大迹王(おほどのみこ)の擁立をはかります。

大和、河内の一部の「男大迹王」を快く思わない勢力が丹波の別の王を推すのに対して、前述の2度の戦いで敗れた樟葉、綴喜の子孫や、近江の息長氏、母方(越前三国の振媛)や木津川流域の人々の強い支援もあり、更に前王統の手白香皇女(たしらかのひめみこ:仁賢天皇の皇女)と結ばれ、「男大迹王」は河内北部の楠葉宮で即位し、「継体天皇」になりました。

しかし、大和への入国を阻止しようとする反対勢力により、即位5年後、山背(やましろ)の筒城宮(つつき:京田辺市普賢寺)に遷都し、さらに、7年後の12月3日に弟国宮(おとくに:乙訓:長岡京市今里)へ遷都しました。

「継体天皇」が大和(磐余玉穂宮:いわれたまほのみや:桜井市池之内)に入り名実ともに大王となるのには、楠葉宮を出てから20年の歳月を要しました。

この間、近江、越前、尾張などをはじめ木津川、淀川水系の諸豪族(息長、和珥、茨田氏:まんだ)の地道な支援と、前王統の皇女との婚姻などで、継体政権は安定したのです。
(日本書紀は継体の直系の子孫:天武天皇によって編纂されており、古事記の記述と異なるところもあります。)

「木津川流域」は「継体天皇」以降の大和にとっては更に重要度が増し、海外からの渡来人も木津川市内に多く住むようになりました。

6世紀半ばを過ぎると、朝鮮半島の戦乱をさけて北九州の筑紫に到着した人達も、高麗人(こまひと)も上狛(かみこま).下狛(しもこま)など木津川地域に定着しだしました。(南部2郡:相楽、綴喜は「高麗(狛)氏」、山城北部:京都盆地は「秦氏」が集中していました。)

朝鮮半島の百済と倭国は非常に親密な関係であり、欽明天皇13年には百済の聖明王から仏像や経論が贈られ、文字や土木技術も伝えられました。

欽明天皇31年(570年)に、国交を開く目的で来日した高句麗使の一行の船が難破して北陸沿岸に漂着したのを、現地の道君(みちのきみ)が隠していると奏上あり、天皇は山城国相楽郡に館を建て、使者を安置するよう命じました。

「木津川の港」(泉津)、木津の相楽神社近隣に外交館舎「相楽館:さがらかのむろつみ」を建てて、一行を出迎えました。しかし、上表文と献物を差し出せないうちに、天皇が病死していまい、使者はいたずらに滞在が長引いていました。
(相楽館は高楲こまひ館とも呼ばれたことから木津川北岸の上狛との説もありますが外交館舎は後の難波館同様港の近く相楽:サガナカに在ったと思われます。)

次に即位した敏達天皇は、長く使者が逗留していることを知り、大いに憐れみ、即刻臣下を派遣して上表文などを受け取らせて、(572年5月)帰国の途に就かせました。
(大和朝廷は百済との外交が基本であり、物部氏らは高句麗との新しい外交に反対していました。政界のニュウリーダー大臣蘇我馬子の決断によったと云われています。)

任務を終えて帰国途中の一行は、蘇我氏に反対する者たちによって、暗殺されてしまったと云われています。当時の日本の一部には、大陸から伝来した仏教文化を受け入れずに神道をもって国教とすべきという信念を抱く反対勢力があったのです。

6世紀後半以降、外交使節は大和川を遡上しその支流なども利用して大和盆地の南部にある「宮」へ行く水運利用や、難波から大和にむけて敷設された陸路も利用していました。
しかし、木材や石材などの物資輸送に関する「木津川の重要度」にはなんの変化もありません。

朝鮮半島では3世紀(220年)、後漢の滅亡により、中国の影響から離れて、3国時代に入り、それぞれの国は発展し、文化的にも儒教から仏教に変化し、百済は4世紀が最も栄えていたと云われています。高句麗も鴨緑江から満州へ領土を徐々に拡大して行きました。

6世紀末から7世紀にかけて、朝鮮半島が再び、中国の隋、唐の侵略戦争の被害を受けていた時代、倭国では蘇我氏が皇族との婚姻を結び、絶大な勢力を得ることにより、大伴、物部の各氏を廃絶し、無力化してしまいました。

蘇我馬子は592年11月には東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて、崇峻天皇をも弑逆(しいぎゃく:臣下が君主を暗殺)しましたが、(根回しの効果か?)、他豪族からのクレームもでなかったと云われています。

30代敏達天皇の皇后(33代推古天皇)は蘇我馬子に請われ即位しました。日本史上、初の女帝が誕生したのです。(593年)推古天皇は甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子として政治を補佐させました。

7世紀に入ると、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いなど木津川流域にもまた動乱があり、大津京、飛鳥京から藤原京へと移り行くのです。

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町

2017年03月28日

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫


飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2017年03月27日

◆木津川だより 高麗寺跡 A

白井 繁夫



「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

2017年03月11日

◆木津川だより 式内社岡田国神社と家康の伝承 続

白井 繁夫



岡田国神社はJR木津駅の南(約500m)にある天神山裾の少し小高い所に鎮座し、平城京から平城山(ならやま)を越えて泉津(平城京の玄関港)に至る港の出入口にあります。
(古代より泉津の東部;木津に岡田国神社、西部:相楽に相楽神社が同様に祀られています。)

南山城の木津は京.大和.難波へ通じる水陸交通の要衝として、古代の壬申の乱(大海人皇子:後の天武天皇)から戦国時代の織田信長.大坂の陣の徳川家康など話題が歴史の表舞台には出ませんが、それぞれの時代の立場において、木津川流域の木津が関りを持ちました。

家康は慶長19年(1614)10月、大坂城(豊臣秀頼)の攻撃を決定して、全国の諸将に出陣の下知を発しました。自らは同月23日に京都二条城へ入り、11月に伏見城から来た将軍秀忠と軍議を持ち、軍勢を2ルートに分けて進軍する大坂城総攻めを決めました。

@家康本隊:先鋒は藤堂高虎 山城(木津)→大和→河内→大坂
A秀忠部隊:先鋒は上杉景勝 山城(木津→玉水)→淀川沿い→大坂

11月13日に二条城を出発する家康に備え京都所司代板倉の家臣(板倉三郎左衛門)は淀船使用(過書船)支配者(木村宗右衛門)へ木津の稲田孫右衛門を通じて木津川船橋の架設は13日までの完成と命じた。(この船橋に敷く畳のため淀の町の畳が総動員されたと云う)

先鋒の藤堂高虎は木津の陣(稲田孫右衛門宅)に10月23日まで宿泊して受け入れ態勢等を整え大和へ発つ、秀忠の先鋒(上杉景勝)は11月6日木津に着き9日に玉水の陣に入る。

名古屋の初代尾張城主(徳川義直:家康の九男:尾張徳川家の始祖)は伏見から12日に木津宿陣して翌13日大和郡山に入りました。他方13日に木津到着予定の家康は南光坊天海と金地院崇伝が13日の南行は悪日との意見に従い出発を15日に変更しました。

15日の午後2時に家康は予定通り木津の稲田孫右衛門宅に到着して、奈良の大乗院.一条院両門跡をはじめ、寺門社家.町人と接見しましたが、木津に宿泊せずに、夕方旗本衆15騎と兵員や付き人だけを従へて、奈良の中坊秀政の所に宿泊しました。

家康が京の二条城を出て最初の宿泊所として、京都所司代(板倉勝重)が手配した稲田孫右衛門宅が防備上無用心との事ですが、稲田宅には家康の本陣の旗や軍勢はそのまま残して、少人数だけで出発したのです。(家康は大変思慮深くて用心深い武将だと思います。)

その後の大坂冬の陣は皆さんご存知のごとく、12月24日和議成立しますが、大坂城は外堀だけでなくことごとく堀は破壊されて、丸裸の城となりました。慶長20年(1615)の4月に和議が破棄されて、家康は諸将を再度大坂へ動員するのです。

徳川方の軍勢:冬の陣約20万、夏の陣約16.5万人、豊臣方の冬の陣約9万、夏は約5.5万人と言われますが夏は冬ほどの軍勢を集めた戦闘人員ではありませんでした。

木津の陣を通過した軍勢も冬より少数でした。伊達政宗の軍勢の場合は4月末、木津に陣を置き5月3日に大和へ発って、大和路から大坂への進軍の途次、道明寺の戦いで、小松山を越えた戦闘時、豊臣方の後藤基次軍(2800人)の単独軍と伊達政宗.松平忠明の幕府軍約2万と戦っています。(後藤基次はこの戦いで討ち死にしました。)

このように、歴史上の話題には出ませんが、大坂の陣では冬も夏も数多の武将が木津に陣を置くか通過して戦場へと赴き生死をかけた戦闘に吞み込まれて行ったのです。

時は過ぎて、17世紀末から18世紀初め、江戸時代中期の木津地域の所領の状態です。

元禄10年(1697)12月、五代将軍綱吉の時代、幕府より、天神社(現岡田国神社)は社領高:24石6斗、この反別は三町二反三畝十一歩の下付を賜る。松平美濃守等の下知(相楽郡誌)と勘定奉行松平重良からの下知(京都山城寺院神社大辞典 平凡社)の2説があります。

ところで、当時の日本の石高は全体で約2800万石、9割以上が武家領(幕府領.大名領.旗本領)となっていました。しかし、山城国は武家領が約37%、非武家領が約63%と非武家領(禁裏御料.公家領.寺社領)の比率が極端に高くなっていたのです。

然しながら、享保14年(1729)の「山城国各村領主別石高表」での木津町域の所領構成によると、木津の武家領は58%、非武家領が42%と山城国の比率とも異なり、その武家領も幕府領が30.5%(2168石)、旗本領が27.8%(1981石)であり大名領や藩領は0%と(豊臣家の旧支配地も完全になく)全国的に見ても特異な比率になっていました。

話題を最近の岡田国神社に戻します。当神社の朱色の大鳥居がある国道24号線と163号線が交差する木津の大谷交差点から東の天神山裾の神社の境内林へ向ってR163のバイパス事業を国交省が実施する前に、岡田国遺跡「発掘調査期間(平成28年5月〜29年2月末)」の発掘調査を実施した現地説明会が平成29年1月28日にありました。

(調査地の北東約5qの所には奈良時代の中期(740〜744年)に聖武天皇の恭仁宮(くにのみや)が造営されていました。)

今回の発掘調査での出土遺物は奈良時代中期の瓦.塼せん.円面硯.刀子とうす.和同開珎など、掘立柱建物跡などの柱跡から東西3間以上の建物跡や井戸跡など、他方検出した道路は条坊と類似と思え、古代の都:恭仁京の都城に設置した碁盤目状の道路の可能性があるとのことでした。

昭和46年のR24号の大谷交差点工事に伴い、現在地に移動した朱色の大鳥居をくぐり、岡田国遺跡を南側に眺めながら、日本に一つしかないJR(奈良線.大和路線)を越える珍しい『神社参拝用の跨線橋』を渡り岡田国神社に参拝しました。

現神社の新社殿は昭和53年(1978)に建て替えられ、その時、『岡田国神社の石碑』も神社の正面入口に移設されました。私はこの石碑に刻まれた銘を見て驚きました。

『東照宮宮司 源容保』即ち明治5年に蟄居が解かれ、明治13年(1880)から日光東照宮の宮司に任じられた最後の会津藩主 松平容保が筆を執っていました。

天神社(現岡田国神社)は江戸幕府と家康の件で明治まで絆があったのかと一瞬思いました。

新社殿は本殿(相殿).末社.拝殿.南北に氏子詰所など有りますが、旧社殿と異なり能舞台はなく、神殿の前面は大きく広場を取り、布団太鼓2基が神前奉納できる十分な余裕があります。(嘗て、旧社殿時代、木津御輿太鼓祭は9基が参道を練り奉納していたのです。)

旧社殿は隣接する北側の一段低い場所に従前通りの状態で佇んでいます。即ち、本殿.末社.摂社.拝殿.舞台.南北氏子詰所等の構成です。まさに室町時代の南山城の惣社の社殿配置の特徴を留めており、京都府登録文化財となり、現状のまま保存されています。

能舞台の西側に巨大な杉の大木が在ったのですが、樹齢数百年の古木ともなるとJRの線路には危険と判断した宮司が木を伐採したため、現在は舞台の西に巨大な切り株だけが残りました。(樹齢は不明ですが室町時代からの杉の巨木であったとも云われています。)

旧社殿の建物:
本殿(2棟相殿)一間社春日造、身舎(もや)側面1間、 檜皮葺、安永3年(1774)築。
拝殿:桁行5間、梁行2間、切妻造、本瓦葺、元和6年(1620)築。
能舞台:桁行1間、梁行1間、切妻造、桟瓦葺、明治15年(1882)築。
北.南氏子詰所:桁行6間、梁行2間、切妻造、桟瓦葺、明治40年(1907)(棟札)
摂社 恵美須神社:二間社流見世棚造、檜皮葺、江戸時代中期。
その他文物:
手水鉢:石造、慶安5年(1652)9月、寄進される。
常夜燈:石造。明和8年(1771)9月の銘
絵馬 :慶安5年(1652)の作、その他江戸時代の作が多数あり。
また岡田国神社所蔵の大般若経は相楽神社所蔵も含め京都府立山城郷土資料館に保管されています。
(完)(初編掲載は、2月20日)

参考資料:
 木津町史 本文篇、 史料篇、 木津町。 加茂町史 第一巻 古代.中世篇 加茂町。
 木津町埋蔵文化財調査報告書 第3集。 岡田国遺跡現地説明会資料(京都府埋文調研)
 岡田国神社 (木津川市教育委員会)

2017年02月28日

◆木津と応仁の乱 続編 C 

白井 繁夫



応仁の乱も文明4年(1472)となると、すでに戦乱も6年、兵士たちも厭戦気分です。

ところが、将軍義政をはじめ幕府首脳に戦乱を治める収拾能力が欠けていました。だから、管領家の家督相続争い.守護被官やその国人層の分裂抗争など諸事情あり、だらだらと応仁の乱は長引いていたのです。

そこで、前回述べたように同年5月、西軍の総大将山名宗全が東軍の細川勝元に講和を提案しましたが赤松政則の強硬な反対、西軍では畠山義就も拒絶し和平は成立できませんでした。

不成立になると早速、最強硬派畠山義就は京の喉首と云われてきた重要拠点の天王山を守る東軍の赤松政則の軍勢に意表を突く夜襲攻撃を仕掛けて(当時では想定外の戦法)、勝蔵寺から山頂に攻め上った。

不意の急襲を受けた東軍は防御できず退却しましたが、西軍が戦勝に酔い休息していた早朝、今度は赤松軍の浦上則宗が間道から反転攻撃に出て山頂を奪回する戦闘がありました。但し、この合戦は相国寺の戦闘のような大激戦ではありません。

京やその周辺(山城など)の収拾が治まらない間に、守護が不在の領国では勢力争い.他国の侵入.治安の乱れなどが各地で起こり、戦乱地から抜けて帰国する武将も出始めました。

文明5年(1473)に入ると、京ではだれも予想が出来なかった状勢の変化が起こりました。西軍の領袖山名宗全が3月に70歳で病没し、その2ヶ月後の5月に東軍の領袖細川勝元が44歳の若さなのに一週間の患いで(伝染病に罹感か?)逝去してしまいました。

宗全の嫡子教豊(のりとよ)は没していたので孫の山名政豊(まさとよ.33歳)が家督を継ぎますが、勝元の嫡子細川政元(まさもと)はわずか8歳で家督を継ぐのです。

しかしながら、両者はともに戦意に欠しく、京都においてはしだいに両軍ともに和睦のムードが高まり(各武将も国元の治安が気がかり)、町衆も平和の期待が高まりました。

そうした状況のもと、翌年(文明6年)4月に山名政豊と細川政元は会見し、講和を決定しましたが、またも全面講和には至りませんでした。

和平に反対する西軍の大内軍と東軍畠山政長は同年7月に入り京都一条の猪熊や堀川などで戦い、焼けずに残っていた市街までがまた灰になりました。更に、東軍の政長は13日には油小路の西軍(大内軍)を攻撃して妙光寺.法華堂なども焼失したのです。

もっと大きく驚愕したのは、西軍の総師山名政豊が和平後東軍に属したことです。これに反対した西軍の諸将(大内政弘.畠山義就.土岐成頼)は自分たちの今までの領袖山名政豊を北野神社に包囲したのです。この戦いで北野から千本にかけて数多の民家が巻き込まれ焼失したと云われています。

両軍の停戦交渉が軌道に乗らないのは度々述べたように、東軍赤松氏は嘉吉の変の失地奪回、畠山両家の家督をめぐる領地争いが続き家臣たちの対立も更に激化、西軍大内氏らの諸将は将軍家の足利義政と義視の和睦を条件にしたこと等で解決が出来なかったのです。

その上に、大乱が終息できない最大の要因は将軍家の権威が失墜してしまったことです。
大内政弘は合戦を一気に集結させようとして、諸国より軍勢を徴集し、大和では古市胤栄が呼応して京へ軍勢を進めたのです。

内乱は京だけでなく、各地でも領国内の対立が激化してきました。文明7年5月には大和の合戦が南山城にも影響して、西軍は木津を攻めましたが、大和の筒井軍の支援を得て「木津」は無事でした。

しかし、大内軍が相楽(木津川市相楽)に陣を張り、大和の古市軍(鹿野薗.長田氏等)が次々と山城に出陣してきて再び緊張は高まり、14日、遂に全面的な合戦になりました。

奈良の春日神社大鳥居では西軍の古市.越智.五条野氏らと東軍の成身院.箸尾.十市北氏などが合戦し、市氏らが敗北。木津近郊の小寺口では大内軍と東軍の狭川.福住氏が戦い、天神川原では大内軍と東軍の筒井軍が合戦、東軍の秋篠.宝来.超昇寺氏らは大内軍が守る染山城(木津川市相楽曽根山)を落城さす。いずれも東軍の筒井派軍勢が全面的勝利でした。

この戦いは大規模な合戦でしたが筒井一族の奮戦で木津はまた焼亡が避けられました。

(応仁の乱が起こり京の公家衆や多数の人々は戦乱から逃れ疎開しましたが、西軍の陣所近隣に居住していた大舎人織手座(おおとねりおりてざ)の人々も同じく奈良、大津、堺などへ疎開しました。)

ところが、堺に疎開して海岸沿いに居住していた織手座の人たちへ、文明7年(1475)8月、大阪湾に起きた大高潮が襲いかかり多数の死傷者が出たと云われています。
この人々も長引く応仁の乱の不幸な犠牲者となったのです。

しかし、応仁の乱は地方から戦線に参加した兵士や、各地へ避難した京都の文化人や技術者により京の文化.技術などが全国的に伝わり、京の人々も避難先でいろいろ学びました。

堺へ疎開した大舎人織手座の人々は大変な被害を受けましたが、堺では中国(明時代)伝来の最新織物技術を習得しました。(戦乱後は西陣:西軍の陣地跡:に帰り、新しい高度な織物の生産をはじめ、高級織物の産地:西陣織として、現在は世界的にも有名になっています。)

戦乱もだらだらと続き乱れていた京で、文明8年(1476)11月、3代将軍義満造営の室町第(花の御所)が民家からの火事の延焼によって灰となりました。この室町第には後土御門天皇の臨時皇居があり、将軍義政との同居(避難)状態が約10年近くになっていました。

その後、文明9年11月に旧土御門内裏の修復計画に取り掛かり、清涼殿、黒戸御所、春興殿を修理して、東、北、西門と改築し、なんとか天皇が皇居へ帰られたのは文明11年12月でした。(皇居修復費用としての臨時課税が町衆の抵抗で長期間要したと云われています。)

戦乱から逃れて地方の領地へ疎開した公家衆も、荘園主(本来の領主)とは名ばかりで、地元の国人(土地の武士)か侵略者の被官が領地を押領しており、本来の領主としての縁も切れた状況では、きちんと遇してももらえませんでした。

戦乱も開戦以来11年となった文明9年(1477)、9月に情勢が大転機を起こしたのです。
享徳3年(1454)以来畠山政長と家督争いを繰り返し戦ってきた超主戦論者の畠山義就が応仁の乱に見切りをつけて、幕府を見限り、馬上3百余騎と甲冑兵数千の軍勢を従え、堂々と隊伍を組んで領国(河内国)へ帰還したのです。
(反将軍派(西軍)の最強の武将(義就)の行進に対して東軍は手出しできず眺めるだけでした。河内では管領畠山政長の被官遊佐長直が治めていました。)

南山城では、義就の河内入国で情勢が一変し、下狛の大北城にいた西軍大内政弘の軍勢(甲冑兵3百.雑兵数千)が南都攻めを目指し、10月12日に突如行動を起こしました。

東軍(畠山政長)の支援についた伊賀の仁木氏軍や大和の宝来氏らも木津氏の援軍として戦うが敗れ、木津氏らは没落、木津の町並みも遂に炎上し、般若寺まで焼亡しました。
(尚、大内軍の南都への侵攻は大和の西軍古市氏の奔走で阻止できたと云われています。)

河内国は現管領畠山政長の領国ですが、義就は入国後河内を瞬く間に占領し、大和も押さえて、(東軍の被官らを没落させる)大成功を収めました。他方京都では西軍の武将朝倉孝景は東軍派になっており、義就が抜けた西軍は解体寸前となり、11月に美濃守護土岐成頼は不運な足利義視を伴い敗軍の将のごとくすごすごと美濃へ帰って行きました。

西軍の雄大内政弘は幕府に降伏して、改めて周防.長門.豊前.筑前の4ヶ国守護を将軍より安堵されて、同じく11月11日に京を出発して帰国の途に就きました。
これで西軍の有力武将は全て京から退きました。応仁.文明の乱は11年間をもって終結したのです。だから、形式上は東軍が勝利したことになりました。

大内軍の帰国で木津はまた平穏になりましたが、長期にわたる戦乱で京都の町はほとんどが焼け野原になってしまいました。その上将軍の権威もすっかり弱くなり京に隣接する山城国ぐらいまでしか将軍の意向が伝わらなくなりました。

しかし、山城国ではその後も畠山政長と義就の両家の紛争が繰り返してつづき、南山城の国人らによる山城国一揆が後に起きるのです。他方京都からの京文化が日本各地へ伝播しましたが、同時に地方へ疎開した人々により新しい文化も取り入れられ、日本の中心都市京都で京文化が再び芽生えさらに発展して千年の歴史を刻んできたのです。(完)

参考資料:木津町史  本文篇  木津町、  山城町史  本文編  山城町。
     京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
     乱世京都  上  明田 鉄男 著