2017年06月22日

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫



飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。(完)

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2017年06月20日

◆木津川だより 高麗寺跡 A

白井 繁夫



「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

2017年06月19日

◆木津川だより 高麗寺跡 @ 

白井 繁夫



古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は20100m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であり、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あやし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺です。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりました。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こまひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これからは以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川市教育委員会


2017年05月28日

◆木津川だより 和伎神社(涌出宮)A

白井 繁夫



涌出宮わきでのみや:正式名称は和伎座天乃夫岐賣神社わきにますあめのふきめ:は木津川の右岸(木津川市山城町平尾)にあり、前回は『記.紀』の崇神天皇の武埴安彦の反逆物語から神社名(語源)や奇祭の由来について少し触れました。

今回は涌出宮遺跡から出土した弥生時代中期の豊富な遺物や集落遺跡、当神社の南方1km余の所にある椿井大塚山古墳(三角縁神獣鏡が30数枚出土)等が存在する当地域で、弥生から古墳時代にまたがる大和朝廷確立に関連した戦の物語、木津川流域で争われた反乱、『神功皇后(日本書紀).仲哀天皇(古事記)の忍熊王の反乱』の概要を、追加記述します。

『記』息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后『紀』息長足姫尊:以後皇后と略称)が新羅を討伐されて、海路にて倭(大和)への帰途、筑紫国で仲哀天皇のご遺体を収めて、一艘の喪船を用意し、御子(後の応神天皇)を乗船させました。

皇后は御子の異母兄(香坂王かぐさかのみこ.忍熊王おしくまのみこ)を欺くため、御子の崩御説を流しました。他方の香坂王.忍熊王は共に播磨(兵庫県)に兵を集めて天皇の山稜を赤石(明石)に造営すると称していたのです。

香坂王.忍熊王は難波の菟餓野(とがの:現大阪市北区兎我野町付近)に出て、祈狩(うけひがり:誓約狩:狩の獲物で吉凶の神意を伺う)を催行した折、香坂王が怒り狂った猪に食い殺されました。弟の忍熊王は誓約の結果を無視して、皇后軍との戦闘態勢を整えました。

然し、天皇と御子も死亡した噂を信じた忍熊王は皇后軍が乗船していた喪船をやり過ごしました。太子の軍は喪船から上陸して、丸邇臣(わにのおみ)の祖先、難波根子建振熊命(たけふるくまのみこと)を将軍とする皇后軍から攻撃を仕掛け、吉師部(きしべ)の祖先、伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍とした敵軍を追撃して、淀川から木津川へと追い詰め山城まで来ました。

山城で軍勢を立て直した忍熊王は反撃に出ましたが、菟道(うじ.宇治)でまたも、(皇后が崩御されたので、弓の弦を折り降伏すると云う)建振熊命の知略に騙されて、敵軍も弦を折り停戦しました。太子軍は隠し持った弓矢で再度追撃を開始し、敵軍は逢坂から近江まで追われ、ついに忍熊王は近江の海(琵琶湖)に入水し崩御されました。(古事記と日本書紀ではストーリーに若干差異があります。)

大和盆地の東南部の纒向(まきむく)古墳群(桜井市)や大和古墳群(天理市)にはヤマト政権誕生に関わった3世紀から4世紀末頃の王族の古墳群があります。東北部へ移動後の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(奈良市)には4世紀末から5世紀中葉まで多数の大王墓(全長200m超)が築造され、この古墳群の被葬者から4世紀末にはヤマト政権の最高首長が推戴されました。

その後、政権は大和から河内へ移動し、古墳も5世紀初頭には400mを超える応神天皇陵(羽曳野市)から世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵:堺市堺区)へと大規模古墳が出現したのです。

木津川右岸に在る椿井大塚山古墳は纒向古墳群の箸墓古墳(築造3世紀中:魏志倭人伝の卑弥呼の墓か)に類似し、3世紀末に築造、約2/3の大きさの前方後円墳で出土品は竪穴式石室内から三角縁神獣鏡など36面余、武器.武具、工具.農具、日本最古の刀子等々が出土しました。

大和政権確立を目指し、大和平野の東北部(奈良市)へ移動して、全国展開に利便な水陸交通の要衝(泉津)と木津川流域を勢力範囲に組み込んで行く過程で起きた戦いが前述の『記.紀』2話の物語と思われます。政権が河内国へ移動後は全国的にみても大古墳の築造は無くなりました。

涌出宮遺跡は「前回記述の社伝の神域」伊勢より勧請した女神を併祀した時、一夜で涌き出た森:4町8反余.約4.8万平方メートルの森が出現:の神域近辺を昭和43年(1968)の保育園建設計画や平成元年(1989)の涌出宮遺跡の範囲確認に基づく発掘調査が其々実施されました。

(涌出宮は縄文時代前期の土器が出土した涌出宮遺跡地に社があり、古来の奈良街道と伊賀街道が交差する地点でもあり、現在も境内に伊賀街道の道標が残っています。)

涌出宮遺跡の昭和43年の1次から平成元年の2次にわたる発掘調査による出土品等の遺物より、
涌出宮地域は縄文.弥生.古墳時代から、平安.鎌倉、江戸時代を経た現在まで連綿として人々の生活が営まれ、宮の祭りも繰り返された場所だと、推測できる遺物が発掘されました。

第1次(1968年)の調査地は参道の東側の水田地帯(現保育園の建設地域)
第2次(1989年)の発掘調査地区は社殿の建築に合わせてAからD区の4か所を発掘調査
(A区は現境内の東方外側、BからD区は涌出宮の境内地域)
 A区:湧出宮境内の東方の水田、B区:拝殿の西南.四脚門の西北側の現手水社付近。
 C区:A区とB区の中間.戦没者慰霊碑の前面地、D区:拝殿の東側.現社殿(神楽殿.社務所)の建設地域。 

当遺跡の第1次発掘調査の出土遺物:縄文時代前期の土器が出土、弥生時代の畿内土器様式の第U様式から第W様式の土器、石器類は石匕.石鏃.叩石から磨製石剣.石鏃.石包丁等、更に鉄剣形石剣も出土しました。土器は弥生中期の水稲農耕の定着に伴い生産力.経済力が増強し、地域間交流の発達などがあり、第V様式の土器が特に多種.大量に出土しました。

土器の組成も壺.甕.鉢の単純な組み合わせから各種の用途別に壺.甕.鉢.高杯等々が複雑化した組み合わせや形も色々に変化して社会的ニーズ(穀物の貯蔵.煮炊き.祭祀用等々)や人々の嗜好に合わせて発展した土器の文様(櫛書き直線文.波状文.簾状文等々)が出土しました。

当遺跡は縄文時代前期から継続的に営まれた集落跡であり弥生時代中期には特に発展したと思われました。また、弥生末の第X様式の土器や古墳時代の遺物も少し出土しております。その後、遺跡地の範囲を確認するため、さらに調査地を広げ、第2次の発掘調査を行ったのです。

第2次発掘調査地:(A区):境内外の東方の水田: 東西に2m幅のトレンチ、弥生時代の磨製石剣が出土、杭穴38ヶ検出、竪穴式住居の柱穴に弥生土器片混入等々

(B区):楼門脇西側:東西4mx南北6mのトレンチ、遺物包含層の上部から中.近世と弥生時代に分層、弥生土器(壺.甕.鉢.高杯.器台.ミニチュア壺)、弥生時代の集落跡など
(C区):戦没者慰霊碑前:東西4mx南北6mのトレンチ、表土は近.現代の瓦礫が多量、表土下は弥生時代から古墳時代の遺物包含層、C区の遺構は近世の壺埋設遺構と弥生の土壙。

(D区):拝殿の東側、社務所などの建設地:東西約10mx南北約20mの範囲の調査区:遺構は弥生時代から近世までが混在、弥生時代の竪穴式住居跡3基と多数の土壙、B区の南北遺構の東側にも同様の南北遺構が出現し、弥生の住居群の存在が確認できたのです。又南北に走る土塀跡もあり、現神社が平安時代末にその輪郭が出来ていた事が分かる貴重な遺構の発掘でした。さらに、平安時代末(12世紀)から近世までの多数の土器溜り群から当神社の祭祀に関連する土器が多数出土したのです。

当遺跡の第2次発掘調査で出土した遺物はコンテナバケットに換算すると約100箱分になり、
その内の約30箱は弥生土器です。残りは平安時代から中.近世にわたる土器や瓦類などでした。

平安時代から中.近世の土器類には涌出宮の祭祀関連を示唆する貴重な遺物があり、出土した多
数の瓦類から涌出宮に付属していた神宮寺の軒丸瓦や平瓦などの瓦類も出土しました。

涌出宮遺跡は出土した土器や石器が各時代にまたがり人々の営みの変化.発展の様子を示す遺
物を出土するまさに複合遺跡です。土器も文様から時代が分かり、甕形土器も近江系土器、「大和
形」甕、瀬戸内系甕など文化の交流や物流など、また品種も多様化し、高杯やミニチュア壺(祭
祀用)などから祭祀との関連も分かります。

出土品より和伎神社(涌出宮)は延喜式に記載された平安時代中期に創建された神社と推測可能
です。(現神社の区画が平安時代末頃(鎌倉初頭以前)には確立していました。)
涌出宮の祭祀に使用した土器を一括投棄したと思われる土器留り群から宮座行事(居籠祭)との
関連を想像する楽しみも増します。(当神社の宮座行事などは次回につづきます)

参考資料:山城町史 本文編  山城町。 木津町史  本文篇  木津町
     日本古典文学全集1 古事記  同全集2 日本書紀@ 小学館 
     山城町内遺跡発掘調査概報 涌出宮遺跡第2次調査 山城町教育委員会

2017年04月20日

◆木津川だより  和伎神社(涌出宮)@

白井 繁夫



木津川の右岸に式内社の「和伎(わき)神社(涌出宮わきでのみや)」がJR奈良線棚倉駅の東(木津川市山城町平尾)に鎮座しています。

涌出宮の正式名称は「和伎坐天乃夫岐賣(わきにますあめのふきめ)神社」で延長5年(927)、
律令制度の細則『延喜式』で国の保護を受けることになった神社(式内社)に格付けされました。しかし、当神社の創建年代はいまだに確定しておりません。

社伝によると奈良時代、天平神護2年(766)伊勢の五十鈴川の畔(舟ヶ原岩部里)から御祭神天乃夫岐賣命(あめのふきめのみこと)を勧請して、三女神:田凝姫命(たごりひめのみこと).市杵(いちき)姫命.端津(たきつ)姫命を併祀したと云われています。

当神社の社名が歴史上の史料に登場したのは1150余年前、平安時代の貞観元年(859)に従五位下から従五位上へと昇叙されて神階が上がった時です。その後、現地の有力な神社となり人々の崇敬も更に増しました。創建は不明ですがこの年よりは前だと推測できます。

南山城の相楽郡(含木津川市)に『延喜式』の式内社は6社在りますが、当神社の特にユニークと思った下記の事柄等を話題に入れて取り上げてみようと思います。

@涌出宮境内地は弥生時代の土器や石器が昔から出土しており涌出宮遺跡として知られていました。

A木津川流域(木津川市)は古代から水陸交通の要衝のため、この地域の支配権を得る為の戦乱などがあり、古事記.日本書紀(以下『記』.『紀』と云う)にこの地域も登場しています。和伎神社の「わき」の語源や奇祭と云われる神事(居籠祭:いごもり)も『記.紀』の物語にまつわっていると云われてきました。

B涌出宮は縄文から弥生時代の土器や石器が出土する遺跡地ですが、弥生中期の3様式の土器が出土し人々が連続して居住した跡や、居籠祭の神事は室町時代の農耕儀礼なども演じ、豊作を祈る伝統的予祝行事として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

JR棚倉駅で下車して、すぐ東の涌出宮(和伎神社)の一の鳥居、二の鳥居と神社の森の参道を進み四脚門から拝殿へ詣でて参拝した折、壁に当神社の由緒書き(神社の概要説明文)が掲示されていました。

説明文の一部抜粋:一千二百年余前称徳天皇の時代(766年)、伊勢の国より御祭神(天照大神)を勧請、社蔵『和伎坐天乃夫岐賣大明神源緑録』による天照大神の御魂である。
涌出の森は後に伊勢より前述の3女神を勧請して併祀すると、一夜にして森が涌き出し、
4町8反余(約4万8千平方メートル弱)が神域となった。この3女神は大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約により生まれた御子である。

当神社は山城国祈雨神十一神社の一社に数えられ、56代清和天皇(859年)、59代宇多天皇(889年)が奉幣使を立て、雨乞祈願をしたところ忽ち大雨を降らした。

現本殿は元禄5年(1692)造営.3間社 流造り 屋根は「千本.勝男木」を置く
当社は中世より度々の戦火に会い、再々焼失したが、源頼朝、後小松朝、後柏原朝の代に
再建されてきました。 (以下省略)

和伎神社(涌出宮)の話題に戻ります。『記.紀』に当地域が関わった物語を『紀』から:10代崇神天皇(御間城入彦:みまきいりびこ)が大和の大王から国の統一を目指し、戦乱などを経て御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)となる、過程の物語:四道将軍と武埴安彦(たけはにやすびこ)の反逆による木津川流域での激戦物語の抜粋。

大和朝廷の全国的な権勢樹立を目指して、天皇は4将軍を選び北陸道へは大彦命(おおびこのみこと)、東海道(武渟川別たけぬなかはわけ).西道(山陽道:吉備津彦).丹波(山陰道:丹波主命)を任命し、大彦命が山背(やましろ)の平坂(ひらさか:『記』では幣羅坂)へ到着した時、南山城の木津川市と奈良市の国境、(現)市坂付近、少女の歌「御間城入彦(天皇)の殺害予告とも採れる詩」の文言に不信を抱き大彦命が天皇に奏上しました。

天皇は武埴安彦の謀反を察知して諸将軍の出発を留め、反乱軍との戦闘に対峙する。と、
やはり、武埴安彦は妻吾田姫(あたひめ)と謀り、夫は山背(現木津川市)から妻は大坂(現奈良県香芝市)から両反乱軍は共に帝京(みやこ)を目指し襲撃しようとしました。

天皇は五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)を吾田姫軍討伐に差向け、吾田姫をはじめ兵士残らず殲滅させた。山背の武埴安彦軍へは大彦命と和珥臣(わにのおみ)の遠祖彦国葺(ひこくにぶく:『記』日子国夫玖命)を派遣し、那羅山(ならやま)を下って、輪韓河(わからがわ:木津川)の河を挟み両軍相挑む。(いどむ河→泉河.『記』は伊杼美いどみ→伊豆美いづみ)、泉河(泉川)は木津川の木津町あたりを指す。

武埴安彦の忌矢(いわいや)が先に彦国葺を射るが外れ、彦国葺の射た矢は埴安彦に命中して殺した。反乱軍は総崩れとなり逃げ惑った。敵兵は川下(北方面の敵陣)へ逃れるが追われ首切られ、屍骸が満ちあふれた。(羽振苑はふりその→現祝園ほうその)

敵兵は恐怖の逃亡中、屎が褌(はかま)に漏れた。(屎褌くそばかま→樟葉くすば)
観念した兵は地面に頭を叩きつけて助命を乞う「我君あぎ」と。(我君あぎ=わぎ→和伎)
『記伝』はアギをワギと訓み、『延喜式』神名.「和伎坐天乃夫支売神社」(涌出宮)とする。
その後、武埴安彦命の霊や数多の戦死兵を悼み弔った神事が「居籠祭」とも云われています。

涌出宮遺跡について:出土した土器や石器から:

縄文時代の土器が出現した1万2千年前から水稲農耕が渡来して弥生時代の文化が始まる紀元前3世紀までの約1万年間を土器から観ると、草創期.早期.前期.中期.後期.晩期の6期に分けられています。

近畿地方の縄文時代前期の標識遺跡の土器は北白川小倉町遺跡(京都市左京区)が有名です。
北白川下層式と名付けられた爪形文を主体とする土器が前期の標識土器と云われています。
南山城では涌出宮遺跡(木津川市山城町)、丸塚古墳下層遺跡(城陽市)で北白川下層式土器が出土しました。

南山城の人々の痕跡は縄文前期から弥生にかけて、ひき続き人々が生活した足跡がたどれます。

涌出宮の縄文人は北隣町の井手町鳥休(とりやす)遺跡へ移動し、丸塚古墳下層の人々は
同じく城陽市の芝山遺跡へ移動しています。

弥生時代の涌出宮遺跡は連続する3形式の土器が出土しており、継続的に人々は集落を形成していたと推測できます。

涌出宮境内地に昭和43年(1968)保育園の建設計画が起こり、事前調査した結果、弥生時代の中期全般にわたる遺跡であり、境内地のかなり広範囲な地域に広がった集落遺跡であることが推測できました。

出土した土器(畿内土器様式の第2様式から第4様式の弥生中期)や石器(磨製の石斧.石剣.石包丁や石鏃.石錐.砥石)などの変化発展から見た地域交流や農耕社会の定着と経済的な安定化など。和伎神社の宮座と奇祭と言われる祭事などについては次回に続きます。

参考資料: 山城町史  本文編  山城町。 木津町史  本文篇  木津町
      新編 日本古典文学全集 1 古事記 、同全集 2 日本書紀@ 小学館
      発掘成果速報 (涌出宮遺跡) 京都府立山城郷土資料館

2017年04月15日

◆6〜7世紀「木津川流域」

白井 繁夫

『古事記.日本書紀』の古墳時代に登場した物語:「武埴安彦の反乱、忍熊王の謀反」と云う2度にわたる木津川流域の戦いに大和政権が勝利した結果、「木津」は大和盆地からの北の出入口となり、大和政権の拡大した支配領域の重要な結節点にもなったのです。

6世紀に入ると、大和政権は仁徳系の王統を継承する皇子(25代武烈天皇後の皇子)が絶えかける状況になり、大伴金村大連(おおともかねむらのおおむらじ)が、近江の息長(おきなが)氏の系統:応神天皇五世の孫:男大迹王(おほどのみこ)の擁立をはかります。

大和、河内の一部の「男大迹王」を快く思わない勢力が丹波の別の王を推すのに対して、前述の2度の戦いで敗れた樟葉、綴喜の子孫や、近江の息長氏、母方(越前三国の振媛)や木津川流域の人々の強い支援もあり、更に前王統の手白香皇女(たしらかのひめみこ:仁賢天皇の皇女)と結ばれ、「男大迹王」は河内北部の楠葉宮で即位し、「継体天皇」になりました。

しかし、大和への入国を阻止しようとする反対勢力により、即位5年後、山背(やましろ)の筒城宮(つつき:京田辺市普賢寺)に遷都し、さらに、7年後の12月3日に弟国宮(おとくに:乙訓:長岡京市今里)へ遷都しました。

「継体天皇」が大和(磐余玉穂宮:いわれたまほのみや:桜井市池之内)に入り名実ともに大王となるのには、楠葉宮を出てから20年の歳月を要しました。

この間、近江、越前、尾張などをはじめ木津川、淀川水系の諸豪族(息長、和珥、茨田氏:まんだ)の地道な支援と、前王統の皇女との婚姻などで、継体政権は安定したのです。
(日本書紀は継体の直系の子孫:天武天皇によって編纂されており、古事記の記述と異なるところもあります。)

「木津川流域」は「継体天皇」以降の大和にとっては更に重要度が増し、海外からの渡来人も木津川市内に多く住むようになりました。

6世紀半ばを過ぎると、朝鮮半島の戦乱をさけて北九州の筑紫に到着した人達も、高麗人(こまひと)も上狛(かみこま).下狛(しもこま)など木津川地域に定着しだしました。(南部2郡:相楽、綴喜は「高麗(狛)氏」、山城北部:京都盆地は「秦氏」が集中していました。)

朝鮮半島の百済と倭国は非常に親密な関係であり、欽明天皇13年には百済の聖明王から仏像や経論が贈られ、文字や土木技術も伝えられました。

欽明天皇31年(570年)に、国交を開く目的で来日した高句麗使の一行の船が難破して北陸沿岸に漂着したのを、現地の道君(みちのきみ)が隠していると奏上あり、天皇は山城国相楽郡に館を建て、使者を安置するよう命じました。

「木津川の港」(泉津)、木津の相楽神社近隣に外交館舎「相楽館:さがらかのむろつみ」を建てて、一行を出迎えました。しかし、上表文と献物を差し出せないうちに、天皇が病死していまい、使者はいたずらに滞在が長引いていました。
(相楽館は高楲こまひ館とも呼ばれたことから木津川北岸の上狛との説もありますが外交館舎は後の難波館同様港の近く相楽:サガナカに在ったと思われます。)

次に即位した敏達天皇は、長く使者が逗留していることを知り、大いに憐れみ、即刻臣下を派遣して上表文などを受け取らせて、(572年5月)帰国の途に就かせました。
(大和朝廷は百済との外交が基本であり、物部氏らは高句麗との新しい外交に反対していました。政界のニュウリーダー大臣蘇我馬子の決断によったと云われています。)

任務を終えて帰国途中の一行は、蘇我氏に反対する者たちによって、暗殺されてしまったと云われています。当時の日本の一部には、大陸から伝来した仏教文化を受け入れずに神道をもって国教とすべきという信念を抱く反対勢力があったのです。

6世紀後半以降、外交使節は大和川を遡上しその支流なども利用して大和盆地の南部にある「宮」へ行く水運利用や、難波から大和にむけて敷設された陸路も利用していました。
しかし、木材や石材などの物資輸送に関する「木津川の重要度」にはなんの変化もありません。

朝鮮半島では3世紀(220年)、後漢の滅亡により、中国の影響から離れて、3国時代に入り、それぞれの国は発展し、文化的にも儒教から仏教に変化し、百済は4世紀が最も栄えていたと云われています。高句麗も鴨緑江から満州へ領土を徐々に拡大して行きました。

6世紀末から7世紀にかけて、朝鮮半島が再び、中国の隋、唐の侵略戦争の被害を受けていた時代、倭国では蘇我氏が皇族との婚姻を結び、絶大な勢力を得ることにより、大伴、物部の各氏を廃絶し、無力化してしまいました。

蘇我馬子は592年11月には東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて、崇峻天皇をも弑逆(しいぎゃく:臣下が君主を暗殺)しましたが、(根回しの効果か?)、他豪族からのクレームもでなかったと云われています。

30代敏達天皇の皇后(33代推古天皇)は蘇我馬子に請われ即位しました。日本史上、初の女帝が誕生したのです。(593年)推古天皇は甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を皇太子として政治を補佐させました。

7世紀に入ると、大化の改新、壬申の乱、白村江の戦いなど木津川流域にもまた動乱があり、大津京、飛鳥京から藤原京へと移り行くのです。

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町

2017年03月28日

◆木津川だより 高麗寺跡 B

白井 繁夫


飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2017年03月27日

◆木津川だより 高麗寺跡 A

白井 繁夫



「史跡 高麗寺(こまでら)跡」は木津川の右岸の棚田の中(山城町上狛)で、建物がないためか、観光客も少なく、飛鳥時代に創建された国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」と同笵の瓦が出土した国の史跡の古代寺院跡と思われずに千年の時が経って来たのです。

この高麗寺跡の第T期発掘調査(昭和13年)から第V期(平成22年度の第10次発掘調査)までの調査で出土した遺物や伽藍跡から皆様と高麗寺の建立の様子や歴史を観て行こうと思います。

高麗寺は渡来氏族の狛氏の氏寺として7世紀初(610年頃)には存在していただろうが、出土遺物などから、12世紀末から13世紀初期ごろに消滅したと推察されています。

高麗寺跡の出土遺物には金銅製の破風(はふ)拝み金具、円盤等の建造物の装飾金具、南
門の屋根の鴟尾や最古の築地塀などがあり、更に各時代を現す文様の瓦や三層基壇の講堂など高麗寺の伽藍は驚嘆するような荘厳さで、文明の先端を行く寺院と推察されます。

最初に年代を調べるために、高麗寺の出土遺物で数量が多くて比較的に年代を決めやすい文様瓦(軒丸瓦.軒平瓦)を中心に4期に分けた瓦から始めます。

T期の瓦 飛鳥時代の瓦(軒丸瓦:十葉素弁蓮華文じゅうようそべんれんげもん)
   
  日本最古の寺院「飛鳥寺」の創建時の瓦と同じ型で作られている。京都府下では当然
  最古の瓦ですが、高麗寺から4点しか出土していません。(飛鳥時代に瓦葺の建物が確実に存在していたのか?堂宇は萱葺だったのか?)

U期の瓦 白鳳時代の瓦(軒丸瓦:八葉複弁ふくべん蓮華文、軒平瓦:重弧じゅうこ文)
     川原寺式の瓦と同笵でもあり出土量が圧倒的に多種大量です。

  川原寺式の瓦:古代瓦では最も文様が華麗で日本各地に普及した。地域文化の指標にもなった瓦ですが、高麗寺の瓦は原初的な川原寺創建時と同じ型の瓦から始まり、さらに発展した瓦など多種類が出土しています。(高麗寺は660年頃本格的に造営された伽藍建築の寺院となったのです。)

(川原寺は天智天皇が母(斉明天皇)の冥福を祈るため建立した寺で、飛鳥4大寺の一つ、
 壬申の乱で勝利した天武天皇が崇敬していた寺院であり、天武天皇に味方した各地の豪
族に恩賜として瓦の使用許可が与えられました。山城国では南山城に集中しており、地方では尾張、美濃、伊勢などが特に多い。)

南山城:木津川市の古代寺院では高麗寺と蟹満寺が有名です。
(前代の古墳時代:各豪族は氏族の権威の象徴として大古墳を築きましたが、飛鳥時代以降は氏族の権威となるモニュメントが大寺院の建立に変化しました。)

壬申の乱では渡来氏族の狛氏一族が大海人皇子に味方して大変貢献したため、高麗寺が
最初に川原寺の創建時の瓦(同笵瓦)の使用許可を得たのです。その後、川原寺式瓦は
高麗寺を核として南山城の3郡にも広がりました。

「蟹満寺:国宝の白鳳仏が有名」から川原寺式瓦の破片が出土したことから、白鳳時代
末期(7世紀末から8世紀初)に創建されたと云われているのです。
蟹満寺は前代に平尾城山古墳.稲荷山古墳を築いた豪族の後裔氏族が建立したのでは?と云われています。

V期の瓦 奈良時代の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:均整唐草文)平城宮式瓦や「中臣」
   と文字がある平瓦、恭仁宮式軒瓦など恭仁京造営時に製造した瓦も出土しました
が多種少量のため、高麗寺の修理用として八世紀に使用した瓦と思われます。

W期の瓦 平安時代前期の瓦(軒丸瓦:蓮華文、軒平瓦:唐草文)修理用に高麗寺独特の瓦が少量作られた。(この時代以降の瓦は出土していないので、高麗寺の大伽藍は平安時代以降修理など出来ずに荒廃にまかされたか? 法蓮寺の棟札では金堂などが室町時代まで存在していたようですが?)

高麗寺を軒瓦から観た場合、飛鳥時代(610年頃)萱葺の堂?が創建され、白鳳時代、
川原寺式に準じた七堂伽藍の本格的寺院の造営(7世紀後半)が施工され、法起寺式伽
藍建築へ繋がって行きました。

奈良時代(8世紀)に聖武天皇が恭仁京(木津川市)へ遷都(740年)して都城の造営
時には高麗寺も独特の瓦を作り、他寺院にも供給しました。

しかし、平安時代初期の修理用の瓦の出土が最後でそれ以降の瓦の出土は有りません。
瓦から調べた高麗寺の創建時期の推測や隆盛時代は分りますが、歴史(終焉)は何世紀
か判断は困難です。

瓦以外の出土遺物や伽藍跡の発掘調査、昭和13年の第T期からV期(平成22年の10
次調査)まで、から高麗寺の概要を視ようと思います。(つづく)

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
南山城の寺院.都城 京理セミナー資料No.0106−327
史跡 高麗寺跡 第10次発掘調査概報 木津川市教育委員会
   

2017年03月11日

◆木津川だより 式内社岡田国神社と家康の伝承 続

白井 繁夫



岡田国神社はJR木津駅の南(約500m)にある天神山裾の少し小高い所に鎮座し、平城京から平城山(ならやま)を越えて泉津(平城京の玄関港)に至る港の出入口にあります。
(古代より泉津の東部;木津に岡田国神社、西部:相楽に相楽神社が同様に祀られています。)

南山城の木津は京.大和.難波へ通じる水陸交通の要衝として、古代の壬申の乱(大海人皇子:後の天武天皇)から戦国時代の織田信長.大坂の陣の徳川家康など話題が歴史の表舞台には出ませんが、それぞれの時代の立場において、木津川流域の木津が関りを持ちました。

家康は慶長19年(1614)10月、大坂城(豊臣秀頼)の攻撃を決定して、全国の諸将に出陣の下知を発しました。自らは同月23日に京都二条城へ入り、11月に伏見城から来た将軍秀忠と軍議を持ち、軍勢を2ルートに分けて進軍する大坂城総攻めを決めました。

@家康本隊:先鋒は藤堂高虎 山城(木津)→大和→河内→大坂
A秀忠部隊:先鋒は上杉景勝 山城(木津→玉水)→淀川沿い→大坂

11月13日に二条城を出発する家康に備え京都所司代板倉の家臣(板倉三郎左衛門)は淀船使用(過書船)支配者(木村宗右衛門)へ木津の稲田孫右衛門を通じて木津川船橋の架設は13日までの完成と命じた。(この船橋に敷く畳のため淀の町の畳が総動員されたと云う)

先鋒の藤堂高虎は木津の陣(稲田孫右衛門宅)に10月23日まで宿泊して受け入れ態勢等を整え大和へ発つ、秀忠の先鋒(上杉景勝)は11月6日木津に着き9日に玉水の陣に入る。

名古屋の初代尾張城主(徳川義直:家康の九男:尾張徳川家の始祖)は伏見から12日に木津宿陣して翌13日大和郡山に入りました。他方13日に木津到着予定の家康は南光坊天海と金地院崇伝が13日の南行は悪日との意見に従い出発を15日に変更しました。

15日の午後2時に家康は予定通り木津の稲田孫右衛門宅に到着して、奈良の大乗院.一条院両門跡をはじめ、寺門社家.町人と接見しましたが、木津に宿泊せずに、夕方旗本衆15騎と兵員や付き人だけを従へて、奈良の中坊秀政の所に宿泊しました。

家康が京の二条城を出て最初の宿泊所として、京都所司代(板倉勝重)が手配した稲田孫右衛門宅が防備上無用心との事ですが、稲田宅には家康の本陣の旗や軍勢はそのまま残して、少人数だけで出発したのです。(家康は大変思慮深くて用心深い武将だと思います。)

その後の大坂冬の陣は皆さんご存知のごとく、12月24日和議成立しますが、大坂城は外堀だけでなくことごとく堀は破壊されて、丸裸の城となりました。慶長20年(1615)の4月に和議が破棄されて、家康は諸将を再度大坂へ動員するのです。

徳川方の軍勢:冬の陣約20万、夏の陣約16.5万人、豊臣方の冬の陣約9万、夏は約5.5万人と言われますが夏は冬ほどの軍勢を集めた戦闘人員ではありませんでした。

木津の陣を通過した軍勢も冬より少数でした。伊達政宗の軍勢の場合は4月末、木津に陣を置き5月3日に大和へ発って、大和路から大坂への進軍の途次、道明寺の戦いで、小松山を越えた戦闘時、豊臣方の後藤基次軍(2800人)の単独軍と伊達政宗.松平忠明の幕府軍約2万と戦っています。(後藤基次はこの戦いで討ち死にしました。)

このように、歴史上の話題には出ませんが、大坂の陣では冬も夏も数多の武将が木津に陣を置くか通過して戦場へと赴き生死をかけた戦闘に吞み込まれて行ったのです。

時は過ぎて、17世紀末から18世紀初め、江戸時代中期の木津地域の所領の状態です。

元禄10年(1697)12月、五代将軍綱吉の時代、幕府より、天神社(現岡田国神社)は社領高:24石6斗、この反別は三町二反三畝十一歩の下付を賜る。松平美濃守等の下知(相楽郡誌)と勘定奉行松平重良からの下知(京都山城寺院神社大辞典 平凡社)の2説があります。

ところで、当時の日本の石高は全体で約2800万石、9割以上が武家領(幕府領.大名領.旗本領)となっていました。しかし、山城国は武家領が約37%、非武家領が約63%と非武家領(禁裏御料.公家領.寺社領)の比率が極端に高くなっていたのです。

然しながら、享保14年(1729)の「山城国各村領主別石高表」での木津町域の所領構成によると、木津の武家領は58%、非武家領が42%と山城国の比率とも異なり、その武家領も幕府領が30.5%(2168石)、旗本領が27.8%(1981石)であり大名領や藩領は0%と(豊臣家の旧支配地も完全になく)全国的に見ても特異な比率になっていました。

話題を最近の岡田国神社に戻します。当神社の朱色の大鳥居がある国道24号線と163号線が交差する木津の大谷交差点から東の天神山裾の神社の境内林へ向ってR163のバイパス事業を国交省が実施する前に、岡田国遺跡「発掘調査期間(平成28年5月〜29年2月末)」の発掘調査を実施した現地説明会が平成29年1月28日にありました。

(調査地の北東約5qの所には奈良時代の中期(740〜744年)に聖武天皇の恭仁宮(くにのみや)が造営されていました。)

今回の発掘調査での出土遺物は奈良時代中期の瓦.塼せん.円面硯.刀子とうす.和同開珎など、掘立柱建物跡などの柱跡から東西3間以上の建物跡や井戸跡など、他方検出した道路は条坊と類似と思え、古代の都:恭仁京の都城に設置した碁盤目状の道路の可能性があるとのことでした。

昭和46年のR24号の大谷交差点工事に伴い、現在地に移動した朱色の大鳥居をくぐり、岡田国遺跡を南側に眺めながら、日本に一つしかないJR(奈良線.大和路線)を越える珍しい『神社参拝用の跨線橋』を渡り岡田国神社に参拝しました。

現神社の新社殿は昭和53年(1978)に建て替えられ、その時、『岡田国神社の石碑』も神社の正面入口に移設されました。私はこの石碑に刻まれた銘を見て驚きました。

『東照宮宮司 源容保』即ち明治5年に蟄居が解かれ、明治13年(1880)から日光東照宮の宮司に任じられた最後の会津藩主 松平容保が筆を執っていました。

天神社(現岡田国神社)は江戸幕府と家康の件で明治まで絆があったのかと一瞬思いました。

新社殿は本殿(相殿).末社.拝殿.南北に氏子詰所など有りますが、旧社殿と異なり能舞台はなく、神殿の前面は大きく広場を取り、布団太鼓2基が神前奉納できる十分な余裕があります。(嘗て、旧社殿時代、木津御輿太鼓祭は9基が参道を練り奉納していたのです。)

旧社殿は隣接する北側の一段低い場所に従前通りの状態で佇んでいます。即ち、本殿.末社.摂社.拝殿.舞台.南北氏子詰所等の構成です。まさに室町時代の南山城の惣社の社殿配置の特徴を留めており、京都府登録文化財となり、現状のまま保存されています。

能舞台の西側に巨大な杉の大木が在ったのですが、樹齢数百年の古木ともなるとJRの線路には危険と判断した宮司が木を伐採したため、現在は舞台の西に巨大な切り株だけが残りました。(樹齢は不明ですが室町時代からの杉の巨木であったとも云われています。)

旧社殿の建物:
本殿(2棟相殿)一間社春日造、身舎(もや)側面1間、 檜皮葺、安永3年(1774)築。
拝殿:桁行5間、梁行2間、切妻造、本瓦葺、元和6年(1620)築。
能舞台:桁行1間、梁行1間、切妻造、桟瓦葺、明治15年(1882)築。
北.南氏子詰所:桁行6間、梁行2間、切妻造、桟瓦葺、明治40年(1907)(棟札)
摂社 恵美須神社:二間社流見世棚造、檜皮葺、江戸時代中期。
その他文物:
手水鉢:石造、慶安5年(1652)9月、寄進される。
常夜燈:石造。明和8年(1771)9月の銘
絵馬 :慶安5年(1652)の作、その他江戸時代の作が多数あり。
また岡田国神社所蔵の大般若経は相楽神社所蔵も含め京都府立山城郷土資料館に保管されています。
(完)(初編掲載は、2月20日)

参考資料:
 木津町史 本文篇、 史料篇、 木津町。 加茂町史 第一巻 古代.中世篇 加茂町。
 木津町埋蔵文化財調査報告書 第3集。 岡田国遺跡現地説明会資料(京都府埋文調研)
 岡田国神社 (木津川市教育委員会)

2017年02月28日

◆木津と応仁の乱 続編 C 

白井 繁夫



応仁の乱も文明4年(1472)となると、すでに戦乱も6年、兵士たちも厭戦気分です。

ところが、将軍義政をはじめ幕府首脳に戦乱を治める収拾能力が欠けていました。だから、管領家の家督相続争い.守護被官やその国人層の分裂抗争など諸事情あり、だらだらと応仁の乱は長引いていたのです。

そこで、前回述べたように同年5月、西軍の総大将山名宗全が東軍の細川勝元に講和を提案しましたが赤松政則の強硬な反対、西軍では畠山義就も拒絶し和平は成立できませんでした。

不成立になると早速、最強硬派畠山義就は京の喉首と云われてきた重要拠点の天王山を守る東軍の赤松政則の軍勢に意表を突く夜襲攻撃を仕掛けて(当時では想定外の戦法)、勝蔵寺から山頂に攻め上った。

不意の急襲を受けた東軍は防御できず退却しましたが、西軍が戦勝に酔い休息していた早朝、今度は赤松軍の浦上則宗が間道から反転攻撃に出て山頂を奪回する戦闘がありました。但し、この合戦は相国寺の戦闘のような大激戦ではありません。

京やその周辺(山城など)の収拾が治まらない間に、守護が不在の領国では勢力争い.他国の侵入.治安の乱れなどが各地で起こり、戦乱地から抜けて帰国する武将も出始めました。

文明5年(1473)に入ると、京ではだれも予想が出来なかった状勢の変化が起こりました。西軍の領袖山名宗全が3月に70歳で病没し、その2ヶ月後の5月に東軍の領袖細川勝元が44歳の若さなのに一週間の患いで(伝染病に罹感か?)逝去してしまいました。

宗全の嫡子教豊(のりとよ)は没していたので孫の山名政豊(まさとよ.33歳)が家督を継ぎますが、勝元の嫡子細川政元(まさもと)はわずか8歳で家督を継ぐのです。

しかしながら、両者はともに戦意に欠しく、京都においてはしだいに両軍ともに和睦のムードが高まり(各武将も国元の治安が気がかり)、町衆も平和の期待が高まりました。

そうした状況のもと、翌年(文明6年)4月に山名政豊と細川政元は会見し、講和を決定しましたが、またも全面講和には至りませんでした。

和平に反対する西軍の大内軍と東軍畠山政長は同年7月に入り京都一条の猪熊や堀川などで戦い、焼けずに残っていた市街までがまた灰になりました。更に、東軍の政長は13日には油小路の西軍(大内軍)を攻撃して妙光寺.法華堂なども焼失したのです。

もっと大きく驚愕したのは、西軍の総師山名政豊が和平後東軍に属したことです。これに反対した西軍の諸将(大内政弘.畠山義就.土岐成頼)は自分たちの今までの領袖山名政豊を北野神社に包囲したのです。この戦いで北野から千本にかけて数多の民家が巻き込まれ焼失したと云われています。

両軍の停戦交渉が軌道に乗らないのは度々述べたように、東軍赤松氏は嘉吉の変の失地奪回、畠山両家の家督をめぐる領地争いが続き家臣たちの対立も更に激化、西軍大内氏らの諸将は将軍家の足利義政と義視の和睦を条件にしたこと等で解決が出来なかったのです。

その上に、大乱が終息できない最大の要因は将軍家の権威が失墜してしまったことです。
大内政弘は合戦を一気に集結させようとして、諸国より軍勢を徴集し、大和では古市胤栄が呼応して京へ軍勢を進めたのです。

内乱は京だけでなく、各地でも領国内の対立が激化してきました。文明7年5月には大和の合戦が南山城にも影響して、西軍は木津を攻めましたが、大和の筒井軍の支援を得て「木津」は無事でした。

しかし、大内軍が相楽(木津川市相楽)に陣を張り、大和の古市軍(鹿野薗.長田氏等)が次々と山城に出陣してきて再び緊張は高まり、14日、遂に全面的な合戦になりました。

奈良の春日神社大鳥居では西軍の古市.越智.五条野氏らと東軍の成身院.箸尾.十市北氏などが合戦し、市氏らが敗北。木津近郊の小寺口では大内軍と東軍の狭川.福住氏が戦い、天神川原では大内軍と東軍の筒井軍が合戦、東軍の秋篠.宝来.超昇寺氏らは大内軍が守る染山城(木津川市相楽曽根山)を落城さす。いずれも東軍の筒井派軍勢が全面的勝利でした。

この戦いは大規模な合戦でしたが筒井一族の奮戦で木津はまた焼亡が避けられました。

(応仁の乱が起こり京の公家衆や多数の人々は戦乱から逃れ疎開しましたが、西軍の陣所近隣に居住していた大舎人織手座(おおとねりおりてざ)の人々も同じく奈良、大津、堺などへ疎開しました。)

ところが、堺に疎開して海岸沿いに居住していた織手座の人たちへ、文明7年(1475)8月、大阪湾に起きた大高潮が襲いかかり多数の死傷者が出たと云われています。
この人々も長引く応仁の乱の不幸な犠牲者となったのです。

しかし、応仁の乱は地方から戦線に参加した兵士や、各地へ避難した京都の文化人や技術者により京の文化.技術などが全国的に伝わり、京の人々も避難先でいろいろ学びました。

堺へ疎開した大舎人織手座の人々は大変な被害を受けましたが、堺では中国(明時代)伝来の最新織物技術を習得しました。(戦乱後は西陣:西軍の陣地跡:に帰り、新しい高度な織物の生産をはじめ、高級織物の産地:西陣織として、現在は世界的にも有名になっています。)

戦乱もだらだらと続き乱れていた京で、文明8年(1476)11月、3代将軍義満造営の室町第(花の御所)が民家からの火事の延焼によって灰となりました。この室町第には後土御門天皇の臨時皇居があり、将軍義政との同居(避難)状態が約10年近くになっていました。

その後、文明9年11月に旧土御門内裏の修復計画に取り掛かり、清涼殿、黒戸御所、春興殿を修理して、東、北、西門と改築し、なんとか天皇が皇居へ帰られたのは文明11年12月でした。(皇居修復費用としての臨時課税が町衆の抵抗で長期間要したと云われています。)

戦乱から逃れて地方の領地へ疎開した公家衆も、荘園主(本来の領主)とは名ばかりで、地元の国人(土地の武士)か侵略者の被官が領地を押領しており、本来の領主としての縁も切れた状況では、きちんと遇してももらえませんでした。

戦乱も開戦以来11年となった文明9年(1477)、9月に情勢が大転機を起こしたのです。
享徳3年(1454)以来畠山政長と家督争いを繰り返し戦ってきた超主戦論者の畠山義就が応仁の乱に見切りをつけて、幕府を見限り、馬上3百余騎と甲冑兵数千の軍勢を従え、堂々と隊伍を組んで領国(河内国)へ帰還したのです。
(反将軍派(西軍)の最強の武将(義就)の行進に対して東軍は手出しできず眺めるだけでした。河内では管領畠山政長の被官遊佐長直が治めていました。)

南山城では、義就の河内入国で情勢が一変し、下狛の大北城にいた西軍大内政弘の軍勢(甲冑兵3百.雑兵数千)が南都攻めを目指し、10月12日に突如行動を起こしました。

東軍(畠山政長)の支援についた伊賀の仁木氏軍や大和の宝来氏らも木津氏の援軍として戦うが敗れ、木津氏らは没落、木津の町並みも遂に炎上し、般若寺まで焼亡しました。
(尚、大内軍の南都への侵攻は大和の西軍古市氏の奔走で阻止できたと云われています。)

河内国は現管領畠山政長の領国ですが、義就は入国後河内を瞬く間に占領し、大和も押さえて、(東軍の被官らを没落させる)大成功を収めました。他方京都では西軍の武将朝倉孝景は東軍派になっており、義就が抜けた西軍は解体寸前となり、11月に美濃守護土岐成頼は不運な足利義視を伴い敗軍の将のごとくすごすごと美濃へ帰って行きました。

西軍の雄大内政弘は幕府に降伏して、改めて周防.長門.豊前.筑前の4ヶ国守護を将軍より安堵されて、同じく11月11日に京を出発して帰国の途に就きました。
これで西軍の有力武将は全て京から退きました。応仁.文明の乱は11年間をもって終結したのです。だから、形式上は東軍が勝利したことになりました。

大内軍の帰国で木津はまた平穏になりましたが、長期にわたる戦乱で京都の町はほとんどが焼け野原になってしまいました。その上将軍の権威もすっかり弱くなり京に隣接する山城国ぐらいまでしか将軍の意向が伝わらなくなりました。

しかし、山城国ではその後も畠山政長と義就の両家の紛争が繰り返してつづき、南山城の国人らによる山城国一揆が後に起きるのです。他方京都からの京文化が日本各地へ伝播しましたが、同時に地方へ疎開した人々により新しい文化も取り入れられ、日本の中心都市京都で京文化が再び芽生えさらに発展して千年の歴史を刻んできたのです。(完)

参考資料:木津町史  本文篇  木津町、  山城町史  本文編  山城町。
     京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
     乱世京都  上  明田 鉄男 著

2017年02月27日

◆木津と応仁の乱 続編 B

白井 繁夫


応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間と言われていますが、
最も激しい合戦は初期の2年間です。この間、洛中では東軍(細川勢)と西軍(山名勢)の戦闘に巻き込まれた数多の神社.仏閣は焼亡し、その上、戦乱に紛れて足軽集団が公家屋敷や町家にまで放火し、掠奪するため、京は治安が大変乱れた焼け野原の都と化しました。

その後の洛中では、両軍ともにゲリラ戦などの小規模な衝突程度の戦いとなり、戦乱はむしろ地方の地域へと拡大していきました。

応仁3年4月には、改元して文明元年となりました。しかし、東軍(細川方)は将軍.嫡子義尚と天皇も取り込んでおり、「官軍」と称していますが、西軍(山名方)は将軍の弟(義視)を引入れただけです。

だから山名宗全は南朝の後胤.小倉の宮(南朝最後の後亀山天皇の孫)の御子を西軍の総師として迎えようと思うのです。そこで大和高市郡の越智邸から、文明3年(1471)7月に京の安山院(尼寺)へ御子を迎え入れたのです。

ところが、西軍の有力武将畠山義就の領国(河内.紀州)と南朝の勢力地とが重なるため、義就の強い反対にあい、その後御子を上手く利用も出来ず、宗全は後南朝勢の小倉宮皇子として西軍の西陣南帝としたが、御子の存在そのものも不明になってしまいました。

応仁2年以降、洛外に拡大しはじめた戦乱は、当時の日本における2大都市「京都と奈良」を結ぶ重要な地域「山城国」の争奪戦の渦に、木津川地域を巻き込んで行くのです。大和では長年筒井.十市氏等と古市.越智氏等の両派が争ってきましたが応仁の乱でもそれぞれが東軍細川方の畠山政長と西軍山名氏の畠山義就方に属していました。

「山城国の十六人衆」は応仁の乱開戦以来、細川勝元の被官として合戦に動員されており、出陣の際には兵糧米に宛てるため自身の支配地以外の興福寺や石清水八幡などの荘園も押領していたのです。

他方、洛外に拡大し山城乙訓郡.摂津.河内に勢力を強めていた畠山義就.大内政弘の西軍の大内軍が文明2年(1470)7月南山城に進出してきました。

大軍で押し寄せた大内軍は先ず東軍の宇治大路氏を7月22日に降参させ、山城国十六人衆の内12人も瞬く間に降参させました。残ったのは木津.田辺.狛.井出別所氏の4氏でした。この間、西軍方の椿井氏までが古市胤栄を頼り大和国へ没落(避難)しました。

7月25日、大内氏の大軍は杉備中守.弘中上総守を両大将にして田辺郷(京田辺市)を強襲し、田辺郷の武士(荘官:下司.公文の2人:田辺氏.武藤氏)は支えきれず自ら城を焼き没落したと云われています。

田辺郷の合戦には狛下司.木津氏も参戦するが、戦いに敗れた狛氏は隠居して子息を降人に出して解決しました。木津氏も同じく子息に家督を譲り降人に出したのです。田辺郷の寺や民家はほとんど焼亡してしまうが、ただ天神宮(棚倉孫神社)だけが焼け残ったと云われています。

今まで南山城は東軍が優勢でしたが、大内軍の進攻で大部分が大内氏の支配下になり、平野部ではわずかに木津だけが東軍の手に残る状況となりました。東軍は西軍に対抗するため、8月末、伊賀国守護仁木氏が伊勢国の関.長野氏の軍勢を率いて木津に進出してきました。

9月には筒井派の狭川氏が東軍(仁木氏)の支援に入り、大和の古市勢は大内軍に加わって
合戦が起きましたが、東軍が木津へ引き上げて、大内.古市両氏により守備された下狛の城は以後、戦乱がおさまる文明9年11月まで西軍が支えていたのです。

文明3年(1471)4月、大内軍と畠山義就軍は木津の占領を目指し、古市氏とも連絡を取って、木津川の対岸(北側)の上狛、下流(西側)の吐師.相楽等に火を放ち木津の小寺口まで押し寄せたが、本隊は木津川を中に挟んだ対陣状態で、結果的に、木津の町は焼けずに済みました。

この時、西軍(大内軍)の軍勢数はあまり多くなく、翌日木津の東軍からの反撃で合戦は鎮静化しました。しかし、この戦闘中の火災で、数多の寺院や民家が焼亡し、特に奈良時代の行基が開祖と云われる泉橋寺(木津川市山城町)の門前に建つ地蔵堂も炎上しました。

この地蔵堂には徳治3年(1308)9月9日般若寺(奈良市)の真円上人が造立供養した日本一大きい石造地蔵菩薩坐像(高さ5.88m)が祀られていたのです。被災した地蔵堂跡の地蔵尊は元禄年間(1688-1703)損傷部を修復して露佛となった状態のまま祀られています。

また、文明3年(1471)には、将軍義政から越前守護職の補任を得た「朝倉孝景」は斯波義廉の有力家臣でしたが、東軍に寝返り、5月に京の戦乱地から領地を治めるため、越前へ復帰してきたのです。

越前では(西軍)斯波義廉や重臣の越前守護代甲斐敏光と合戦になりましたが、越前の国人達(斯波義敏側)の支援を得た朝倉孝景軍が実力で越前一国を掌中に収めてしまいました。

文明4年(1472)に入ると、南山城の両軍の合戦は下狛大北城の攻防後、東軍が退きしばらくは平静になりました。京においては、開戦以来6年ともなると、兵士たちもさすがに少々厭戦的になって来たのです。

ところが、国元では反乱や、隣国からの侵略、農民の一揆などと気がかりなことが発生しており誰のための戦いか各守護や被官たちも動揺を感じるようになりました。

そんな状況の折、西軍の山名宗全から東軍の細川勝元に講和の提案がありましたが、細川方の武将赤松政則が頑なに反対したのです。(赤松氏は嘉吉の乱後、山名宗全に奪われた領地(播磨など)の奪回のため、東軍に参加して、宗全打倒を目指して戦ってきたのです。)

超有力管領畠山家の義就と政長が西軍と東軍の武将に分かれて領地をめぐる激烈な家督争いを続けてきており、やはり講和には断固反対でした。

しかし、文明5年には誰も予期出来なかった事態が発生するのです。(つづく)

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、 山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
      乱世京都  上  明田 鉄男 著

2017年02月25日

◆木津と応仁の乱 続編

白井 繁夫



木津と応仁の乱をしばらく休ませて貰い間延びしてしまいました。少し遡りますが、前回の概要を兼ね、再度箇条書きします。

長禄.寛正の飢饉(ちょうろく.かんしょうのききん:1459−1461年)中世最大の災害が起こり世は乱れ、京になだれ込んだ流民らから多くの餓死者も発生し、各地には土一揆も起こりましたが、8代将軍足利義政(よしまさ)は政に余り関心を寄せないため、将軍家の権威は弱まって来ました。

三管領家随一の名門畠山家においても、畠山持国には嫡子がいないため、家督をめぐり、庶子の畠山義就(よしなり)と甥:弟の子:政長(まさなが)との間で激烈な抗争が繰り返されるようになり、内紛に乗じ、畠山家の勢力を少しでも弱めようとして細川勝元(かつもと)は政長側に付きました。

京に密接する南山城や大和地方等においても、守護大名家(管領家)の被官らもおのずから抗争に組み込まれて行きました。


大和では嘉吉の乱後、復帰した畠山持国の支援を受けて、古市.豊田氏が官符衆徒となるが、長禄3年(1459)5月、筒井順永、成身院光宣は勝元の助言を得て将軍義政により赦免されました。更に、順永は勝元の援軍も得て、大和に入国し、官符衆徒の棟梁に復帰しました。


畠山弥三郎の死後、弟の政長を勝元は擁立したが、他方の義就は寛正元年(1460)に出仕が停止され、畠山政長に対し将軍義政は家督を安堵しました。畠山義就は遂に朝敵として追討されて、河内嶽山(大阪富田林市)に籠城する事になりました。

義就はその後4年間もの長期籠城戦に耐えましたが、寛正4年4月落城し、紀州から吉野へと逃れました。越智.古市勢も山城から引き揚げ、勝元側の狛下司を含む山城十六人衆は帰還出来しました。

嘉吉の乱後、赤松家の所領を得て、勢力を拡大して来た山名持豊(宗全)は義就の嶽山合戦の奮戦を聞きいたく感動して、義就を味方に引入れ、細川勝元に対抗することとなりました。
(赤松家の当主則尚:のりひさは享徳3年、義政より赦免され細川勝元の傘下に入る。)

将軍義政は寛正5年(1464)弟を還俗させて、将軍後継者「足利義視:よしみ」としましたが、夫人の日野富子が翌年男子義尚(よしひさ)を出産しました。富子は我が子を将軍にと思い四職家の実力者山名宗全を頼り、将軍後継者問題も分裂を招く原因になりました。

文正元年(1466)12月25日管領畠山政長と家督争いをしている義就が河内国から兵を伴い、上洛して千本釈迦堂に宿りました。山名宗全の助力により義就の罪が解かれました。
翌年正月二日に出仕して将軍義政に対面出来ました。長禄4年(1460)家督を廃されて以来です。この時、義就は河内を含む三ヵ国の守護職(しゅごしき)を安堵されたのです。

文正元年末の宗全の対勝元側への仕掛けより、翌正月の諸策が大乱の導火線へ繋がります。

文正二年(応仁元年:1467)の年明けは、山名宗全と細川勝元との対立抗争を生む暗雲の状況になりました。正月二日の椀飯(おおばん)の儀:将軍が管領邸を訪問する武家の慣例行事:の重要行事なのに、管領政長邸への将軍の御成(おなり)は突如中止されました。

他方、畠山義就は山名宗全邸を借り正月五日に将軍を招き大宴会をしますが、政長は同六日に屋敷の引渡しを命じられました。その上、八日に政長は管領職も解かれ、山名宗全側の斯波義廉(しばよしかど)が管領に補任(ぶにん)されました。(両畠山の勢力の逆転です。)


三管領家の斯波義健(よしたけ)に嫡子がなく、家督をめぐり義敏(よしとし:細川側)と義廉(山名側)との分裂抗争も起きていました。山名宗全は富子に足利義尚の後援依頼を受けており、富子(義尚)を絡め?勝元の勢力を剥ぐため、宗全.義就がクーデター計画を企てたか。

細川勝元は京極持清(もちきよ).赤松政則(まさのり)等と畠山政長を援護しようとするが、将軍家に止められ、政長が17日に上御霊神社に陣を張っても、援軍を出せなかった。
翌日早朝からの畠山両家の戦いは終日の私合戦となり、畠山政長が京を退くこととなった。
(この御霊林の合戦こそ、以後11年にわたる応仁の乱の始まりと言われています。

将軍義政は弟の義視を後継にと強引に引き出したが、実子義尚が誕生し妻富子に泣かれると継嗣問題は宙に浮いた状態となった。山名宗全は前年末来の企画がうまく行き、勝元の勢力を弱めたと思い、宗全邸では連日のように宴会や催事が開かれました。


3月3日の節句祝賀には山名宗全.斯波義廉.畠山義就等山名側諸大名が幕府へ出仕しまし
たが、細川勝元側はだれ一人として顔を見せませんでした。この異常な状態を境に、宗全と勝元と双方の対立.緊張が一気に加速しました。

文正2年は正月から、管領家の争いがあり、また近年はずっと飢饉や、疫病の蔓延、農民の台頭による土一揆などがつづき、3月5日には年号を文正から応仁に改元しました。


5月に入ると両勢力の緊張がさらに高まり、細川方.山名方の双方がともに同20日には
軍勢の招集をしました。東軍の細川勝元方は細川一族(讃岐.和泉.備中等の守護)、近江
半国の守護京極持清、赤松家当主赤松政則、若狭守護武田信賢、管領家の斯波義敏と畠山政長など。大和では筒井一族が味方し、山城では木津氏.田辺氏.狛下司を含む山城十六人衆。


両軍は堀川を挟み東側に勝元邸(東軍の本陣)、西側に宗全邸(西軍の本陣)があり、この屋形の所在地から東軍.西軍と称したのです。山名宗全方(西軍)は山名一族(伯耆.因幡.備後等の守護)、美濃守護土岐成頼、近江半国守護六角高頼、管領家の斯波義廉、畠山義就ら11大名20ヶ国勢が京に集まり、少し遅れ周防等の守護大内政弘が加わりました。大和では越智氏、古市氏など。山城では椿井氏、斯波氏の被官中黒氏など。

当時の京の人口は約20万人と言われていましたが、東軍(細川方)の兵合計約16万1千5百、西軍(山名方)の兵約11万6千と、京の人口より多くの兵が京都に集められました。

応仁元年(1467)5月26日早朝、東軍から西軍守護の各陣地へ攻撃が開始され、洛中の民家も寺社も、27日、28日と続く激しい戦火の炎に包まれてしまいました。両軍の全面戦争に将軍義政は停戦を命じますが、誰も聞く耳を持ちません。


西軍には管領斯波義廉がおり、日野富子は山名派(西軍)です。細川勝元は前回宗全のクーデターにしてやられたが、今回は将軍義政の取り込みに成功しており、6月、義政は妻の富子の反対を退けて将軍の牙旗(がき:将軍の居場所に立てる旗)を勝元に授けました。

このことは東軍が将軍派であり、西軍は反乱軍となり、両軍の性格がはっきりと形式上区別されました。即ち、西軍の諸将は管領や守護などの将軍任命の地位や身分を失うのです。
初期に戦闘準備が出来ていた東軍は、将軍派となって、更に力を得て、6月.7月とやや優勢に戦闘を進めることが出来ました。

この間に、各地から武将が次々と到着してきましたが、その中で西国最大の雄大内政弘(周防.長門.豊前.筑前の守護)が伊予の兵や瀬戸内の海賊衆も加えて約2万の大軍で8月に上洛して西軍に加わりました。

大内氏は細川氏.山名氏より格は下ですが、一大派閥を形成している守護大名です。大内氏の参戦により、中部日本から北九州地域までの諸国の軍勢が京都に集結して東西両軍のどちらかに分かれて、戦うことになったのです。

応仁の乱は緒戦において細川方が優勢でしたが、大内軍が参戦して西軍は勢いづき、9月の
東岩倉山の合戦、10月3日.4日の大激戦となる相国寺の合戦などで西軍が優勢となる。
初年の戦いで、洛中の大半が焼失し相国寺.南禅寺も焼失して花の御所も被害を受けたのです。

東軍は幕府を中心とした一角に追い込まれて、戦況はそのまま膠着状態となりました。
洛中の兵、両軍合わせると30万弱になりますが、この数の大多数が足軽兵です。しかし、この足軽たちが、前々回の序文でも触れましたが、放火し、掠奪するから洛中は乱れ、治安が悪化し、応仁の乱の初年から祇園祭りなどが中止となりました。 

◆参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、  山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2   中世の展開  熱田 公 著



2017年02月24日

◆木津と応仁の乱(序)

白井 繁夫



古代から政治の中心地である大和と京、難波を木津川の水運など利用して結ぶ泉津(木津)が歴史の表舞台に登場して最も輝いた時は、奈良時代に聖武天皇が恭仁京(くにきょう)へ遷都(天平12年:740年)した時期です。 

木津川市は地理的に奈良と京都の国境にあり、泉津(木津)が交通の要衝であることから、各時代の表裏いずれかの歴史の舞台に関わってきました。

室町時代におきた応仁の乱についても、京の都に近い南山城は戦乱の影響を避けて通ることは出来ませんでした。

例えば、南山城が東軍(細川勝元側)の時、西軍(山名宗全側)の大内軍が木津川の右岸まで進攻して来て、足軽兵等によって地蔵堂や各寺院が焼き払われました。下記一例です。

奈良時代の高僧、行基が木津川に架けた泉大橋を守護、管理するため建立した泉橋寺の門前に、石造の座像としては日本で一番大きい地蔵石仏(4.58m高)を祀る地蔵堂【徳治3年(1308)上棟、供養:願主:般若寺の真円上人】が文明3年(1471)応仁の乱の影響により焼失し、石仏も焼損しました。(その後、江戸時代の元禄3年石仏の頭部と両腕は修復したが、現在も地蔵石仏は露座のままです。)

話題が少し外れますが、過日(5月1日)、蕪村生誕三百年記念シンポジウムが大阪市立
都島区民センターで開催され、俳句のことは全く不勉強ですが蕪村、芭蕉は木津川にも縁のある俳人と聞いたことを思い出し、知人と講演会に参加しました。

まず驚いたのは、会場の定員をオーバーする参加者のため主催者が別途椅子を用意したこと、各講師の講演内容はそれぞれが個性あふれる特徴をもち、俳句を何も知らない私でも居眠りどころか最後まで有意義な時間を過ごせました。

例えば、蕪村について、与謝蕪村の与謝は幼少期に母に連れられて行った母の故郷(丹後与謝野)からのネーミング、南宋画が生活の糧となり、写実的な俳句をも創造した。

江戸時代前期:木津川の上流三重県の伊賀上野では俳聖と言われる、俳諧師:松尾芭蕉の故郷がある。江戸中期:木津川が合流する淀川の下流の都島区の毛馬には、与謝蕪村の生誕地があります。

蕪村は芭蕉、一茶と並び称される巨匠であり、しかも江戸俳諧中興の祖、俳画の創始者でもある。明治時代に正岡子規によって蕪村が真に大きく評価されたこと等。

また、奥の細道図巻で、蕪村が画いた絵に記述した文章の字体にまで調和のとれた美があるなど、いろんな角度からの各講師の講演に感動しました。

話題をもとに戻しましょう。

応仁の乱は1467年(応仁元)から1477年(文明九)までの11年間にもわたる大乱で、京都を中心舞台とする戦乱から、京都の市街のみならず各地方も巻き込んだ大戦乱となり、影響を受けた地方も、灰燼となりました。

この京都の歴史を変えた大事件(戦乱)は室町幕府の弱体化こそ大きな原因の一つです。  しかし、他のいろいろな原因も重なって大戦となり、京都の市街が焼け野原と化して、再び荒れ野から新しい京都の文化が芽生え、1000年の都、京都が復活したのです。

飢饉や疫病の流行りと政治の乱等で世が乱れ、大乱になって行った原因は足利将軍の継嗣問題と守護大名の家督相続争い、管領(細川氏)と所司(山名氏)の対立などと、一般的にはよく言われています。

これらの原因を簡略化して記述しながら、地方の木津(南山城)が戦乱に組み込まれた状況をも、折り込み話題を進めてみたいと思います。

足利尊氏が1336年京都に開いた武家政権は三代将軍足利義満の時、京都北小路室町に花の御所(御殿)を造営し最盛期をむかえました。以後、人々はこの屋敷兼政庁を地名の室町第から室町幕府と称しました。

義満から4代義持、5代義量(よしかず)と親から子供へ将軍職が譲られました。ところが
5代義量は酒色に溺れ19歳の若さで継嗣(子息)なく、病死しました。親(4代義持)が代行しましたが、次期将軍を指名せず、遂に臨終の床に伏せたので、義持の兄弟4名の中から、くじ引により、6代義教(よしのり)が選ばれました。

6代将軍義教は天台宗に出家して天台座主にもなっており将軍就任を固辞したが、管領等の
説得により承諾したのです。しかし、くじ引将軍と陰口され、将軍の権威も失墜しました。

義教は将軍の権威回復を得るため、独裁政治を採り、さらに強化して恐怖政治と云われる政策(守護の家督を交替、公家.僧侶の追放など)を実施し、次は播磨守護赤松満祐が危ういと云う噂までたちました。

幕府の侍所の長官でもある赤松氏は1441年(嘉吉元)6月24日、西洞院二条の自邸での饗宴に将軍義教を招き、管領細川持之、侍所長官山名持豊(後の宗全)らがいる席で将軍を先制して殺害した。(細川氏も山名氏もなにもせず、大急ぎで現場を離れて立ち去った。
赤松氏は自邸を焼き領国へ逃げたが追討者はなしの状態、将軍の自業自得の犬死?)

独裁者(義教)死後の混乱(有力守護の思惑)などで、追討軍の出発は20日後管領細川氏
一族を中心とした大手軍が京都を立つが戦意はあまりなく、さらに遅れて出発した搦手軍(からめてぐん)の山名持豊軍も初期は大手軍の戦意なき状況同様でしたが、一転して闘志を燃やし、領国の但馬から播磨へ入り9月10日、赤松満祐の城山城(きのやま)を攻め自害させました。

将軍暗殺から赤松満祐自害までの合戦を「嘉吉(かきつ)の乱」と言い、山名氏一族はこの戦功により赤松氏の領国(播磨.美作.備前)の守護を獲得し、3代将軍義満に追討され勢力が大削減した「明徳の乱(1391)」の汚名をすすぎ、勢力も回復しました。

一方、赤松氏一族は山名氏らの弾圧を受けながらも、赤松則尚が再興運動を起こして享徳3年挙兵したが翌年山名持豊に討伐される。

その後、細川氏の支持も得て、満祐の弟の孫、赤松政則(まさのり)が長禄の変で神璽奪還(1458年8月)の功もあり、将軍義政から家督として家の再興を許されました。(嘉吉の乱の赤松氏が許され、山名持豊は激怒し、隠居して?以後宗全と名乗る)

山名宗全は幕府を二分する派閥の領袖と言われる勢力となり、管領細川勝元と対立を深め、勝元も宗全の勢力を削ぐことに腐心していました。将軍家の権威は弱体化して行き、その上、有力守護大名家の畠山氏や斯波氏の家督相続争いが起きますが、将軍家も継嗣問題を抱えており、政権が不安定になり大乱が起きる要素がいくつも吹き出てきました。

嘉吉元年は全国各地で広汎な一揆の蜂起があり、京都へ攻め込んだ人数は十数万と云われる規模でした。室町幕府も耐え切れず最初の徳政令を発布しました。

長禄元年(1457)の徳政一揆の時は南山城の土一揆が京都へ攻め込み、三十三間堂へ達した時も、細川勝元は木津.田辺の両被官を中心に南山城の被官達を宇治橋に集め防御を命じたが、宇治の民家まで焼き払われて、法性寺から三十三間堂へ10月29日先遣隊7〜8百人が夕方到着しました。

11月1日南山城の土一揆は竹田.九条の京都南郊の土一揆と合流して京中へ入り、京の
酒屋.土倉(土蔵を構えた有力質屋)などの高利貸業者の倉を開かせました。(つづく)

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町
      京都の歴史 2 中世の展開 内乱の時代  熱田 公著