2018年10月15日

◆奈良木津川だより 壬申の乱(3)

               白井繁夫


壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著


2018年10月14日

◆木津川だより 壬申の乱A

白井 繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町

2018年10月13日

◆木津川だより 壬申の乱@

白井繁夫


本誌読者の皆様は、日本の歴史上有名な「壬申の乱」のことは良くご存じのはずです。しかし、私が長く書き続けている本題「木津川だより」の流れの中で、この「壬申の乱」を避けて通る訳にはなれません。

長文になりますが、大海人皇子の侵略心理、巧妙な戦略、天運などにつて、思いのままに詳しく綴ってみようと思います。「壬申の乱」の歴史の流れは、これから追々。

さて、(672年)天武元年6月24日大海人皇子が東国を目指してひそかに吉野を脱出した時は、大海人に従った者は妃の鸕野皇女と草壁.忍壁両皇子、舎人20余人に女孺(にょじゅ:鸕野皇女などに仕えた女官)わずか10余人の人数でした。

しかも、初日は約70kmの山道を進む、(道中には大友皇子の生母の出身地があると云う)超ハードのスケジュールです。(出家して吉野を目指して早朝より大津宮を出た日の距離の飛鳥「島宮」までとほぼ同距離を進みますが、その日の道中「山城道」は全体的に平坦な平野でした。)

大海人皇子が約半年間推考して戦略を練り、吉野脱出を決断した「壬申の乱」の大きな要素ともみなされるのは、「親の子に対する愛」がそうさせたと 私は思うのです。

天智天皇の晩年、生母が「卑母」である大友皇子を「皇位継承者」にと願い今までのしきたりを無視する行為を取る、強い愛と同じで、大海人皇子の妃の鸕野皇女は天智天皇の皇女.むすめであり、夫は天智の実弟です。

だから大海人皇子は有力な「皇位継承者」でもありました。而も二人の間の子(草壁皇子)は由緒正しい皇孫です。親(鸕野)の愛も非常に強いものだったと思います。

吉野脱出に先立ち6月22日には、前回本誌に掲載した如く、東国(湯沐令 多品治)に向けて発進した3名の大海人の使者(村国男依ほか2名)が、吉野.大倭.伊賀.伊勢.美濃へ至る行軍ルートの総てにわたる計画が周知され、準備を整えられるように派遣されたのです。

脱出ルートは吉野へ来た泉津.乃楽山.飛鳥の平坦地を避けて、吉野から吉野川沿いに上流に向かい、矢治峠を越える山道から「菟田(ウダ)の吾城:奈良県宇陀市」を抜け、「名墾(名張市)の横河」(名張川と宇陀川の合流点:畿内と外国の境)を経て「伊賀の中山」(三重県上野市)へ出るという、険しいルートでした。

菟田の吾城で屯田司(ミタノツカサ:近江朝の食料供御を行う司)土師馬手が食事を奉る。
(先遣使者よりの言で舎人土師氏は大海人皇子の行幸?と思ったか、大海人一行は、初日70余kmの行軍中、この時食事したのが最初で、何と初日は宿泊地まで食事なしで進む。)

飛鳥京の留守司高坂王への使者は3名が当日(24日)に発遣され、「駅鈴:ウマヤノスズ」を乞わせました。(美濃までの「駅家:ウマヤ」において大海人一行の馬の確保依頼:実際は独自で手を打っていました。高坂王は大海人皇子に好意を持っており、快応していたかも?)

使者3名の役割です。

大分恵尺(オオキダノエサカ)は、近江へ急行して大津.高市両皇子に大海人皇子の吉野脱出報告とその後の合流(予定戦略)など、黄書大伴(キフミノオオトモ)は大倭の「百済の家」に結集して兄の大伴馬来田と共に菟田で合流、逢志摩(オオノシマ)は近江朝からの追手がすぐ来ぬように近江に伝わらぬよう留守司に頼みて帰還など。

また「菟田郡家」(現宇陀市榛原区萩原)で湯沐の米運搬の駄馬ニオイウマ50頭(湯沐令多品治オオノホンジの手配の馬)を大海人皇子が得る。吉野から32kmの大野(室生)で日没、これより夜間行軍で「隠駅家:なばりのうまや」に着き、その家を焼いて人夫を求めてみたが真夜中では烽火(のろし)の役目だけで終わる。

「伊賀の中山」は大友皇子の生母の出身氏族(竹原氏)の本拠地へ東北東約8kmの至近距離です。

ところが、そこへ着くと「郡司」が数百の兵を率いて一行に合流してきました。伊賀国の北部の阿閉氏と南部の伊賀氏がともに大海人軍の味方に付いてくれたのです。
(対新羅戦用に近江朝が徴発した徴兵が100余人大海人軍に加わったのです。)

東海道ルートを外れ美濃への最短ルートを採り、「伊賀駅家」:上野市を流れる木津川を挟む古郡フルゴオリ:から「莿萩野」(タラノ:伊賀市佐那具町)へ25日の夜明け前に着きました。

吉野を出て70余km、20時間の進軍を終えてやっと休息、2回目の食事を取ることが出来たのです。
(飛鳥から近江朝へは高坂王の情報統制が有り、まだ気づかれずに進みました。)

25日の未明に近江と伊勢の交通の要所「積殖(つむえ)の山口」:三重県伊賀町柘植(大和と東国を結ぶ道が合流)に大海人一行は到着し、そこへ高市皇子の騎馬隊が舎人達と「鹿深」(カフカ:滋賀県甲賀郡)を越えて合流して来ました。

大海人一行は、伊賀と伊勢の国境の「加太(かぶと)峠」を越えて「鈴鹿郡:すずかのこおり」に入り(東国に入り)脱出が、ひと先ず成功しました。(近江からの高市の舎人は民大火.赤染徳足.大蔵広隅.坂上国麻呂.古市黒麻呂.竹田大徳.胆香瓦安倍:イカゴノアヘです。)

伊勢の「鈴鹿郡家こおりのみや」(鈴鹿郡関町金場付近)では国宰の三宅石床(イワトコ:駄馬50頭送付者)と、三輪子首(コビト)、湯沐令(ユノウナガシ)の田中足麻呂(タリマロ)と高田新宅(ニイノミ:祖父の高田足人が、私馬を大海人に美濃.尾張まで提供)などが出迎え、大量軍が集結しました。

伊勢の国宰三宅連石床は大海人皇子の下で、伊勢軍の統率者となり500の兵を率いて「鈴鹿の山道」を25日中に塞ぎました。三輪子首の軍は後日大和(飛鳥)進攻軍に編入されました。

25日の夕方、「川曲(かわわ)の坂下」(鈴鹿市木田町)に着き、「三重郡家」(四日市市東坂町)には夜になって到着して休息しました。

6月26日早朝:大海人皇子や草壁.高市などの一行は「朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺」に到着して、天照大神を遥拝しました。(戦勝祈願)。

「朝明郡家」(四日市市大矢知町)の大海人軍の処に、高坂王の一行が「鈴鹿山道」に来たと連絡あり、路益人を派遣したら、大津皇子の一行と近江へ派遣した大分恵尺等が留められていました。

(大津皇子幼少のため、馬でなく加太峠越えを「輿」で越えたから遅れた。)
ようやく大津皇子の一行は両親に合流できたのです。(大津の舎人の中には後の瀬田橋の攻防で先鋒となった大分稚臣(オオキダノワカオミ)や舎人の戦死者も多数でました。)

他方では、22日に先遣していた舎人の村国男依(オヨリ)が「安八磨郡(あはちまのこほり)の兵」3000人を率いて、「不破道の閉塞」(岐阜県関ケ原町)に成功した、との吉報を得ました。

夕方吉野から145kmの「桑名郡家」に着き、大海人一行は留まりました。
(大海人皇子は東海軍(尾張.三河)、東山軍(信濃.甲斐)を徴発する使者を派遣する。)

27日は妃の鸕野と草壁.大津を桑名に残して、野上(美濃の野上郡:現関ケ原町野上)へ大海人は行き、高市は「和蹔:わざみ」(関ヶ原町関ヶ原)から出迎え。ここが吉野を出て4日間(186km)の行軍の終着地とし、「野上行宮かりみや」としました。

多品治と村国男依が塞いでいた「不破道」で、尾張国司守:小子部連鉏鉤(チイサコベノサイチ)が2万の兵を率いて配下に入りました。

こんな中で、同じ26日の夕方近江朝の東国への使者「書薬フミノクスリと忍坂大摩侶」が捕捉され、少し遅れて来た韋那磐鍬(イナノイワスキ)がこれを見て大津宮へ逃げ帰った結果、27日には近江朝が「事の重大性」に気づいたのです。

「不破道」の封鎖が1日遅れていたら、2万の兵は近江朝軍の支配下になり、尚且つ、東国へ近江の使者が入っていたことでしょう。天運は大海人皇子に味方した、と思います。

「和蹔」に大海人軍の主力部隊を集め、全軍の最高司令官として高市皇子を任命して、
6月28日には全軍を検軍し、高市の下で指揮命令するなどの軍事訓練を行いました。

近江朝は、罠に嵌ったのです。

遅れ馳せながら、やっと戦闘準備に入り、西国へも徴兵を急がす使者の派遣、近江路と大和飛鳥の2方面への戦闘軍の編成に入りました。

しかし、大友皇子は唐からの使者「郭務悰カクムソウ」の応対に忙殺されていたため、迂闊にもこの時点まで、大海人皇子の動静を把握していなかったのです。

だから、大海人皇子が既に東国に入り、対新羅戦用に徴兵した兵2万余が大海人軍に加わったと云う情報も得ていなかったのです。大友皇子は後手後手に回ったのです。

近江路と大和飛鳥で「壬申の乱」の戦闘の口火がいよいよ切られます。(次回につづけます。)

参考資料: 戦争の日本史2  壬申の乱  倉本一宏 著
      木津町史  本文篇   木津町 
      壬申の乱   中公新書    遠山美都男著 

2018年10月11日

◆木津川だより 浄瑠璃寺

白井繁夫


前回訪れた海住山寺と「木津川」を挟んだ対岸の丘陵地帯には、古くからある当尾(とうのお)の里に「小田原山浄瑠璃寺」があります。この通称「九体寺」が、現在では唯一となった「九体阿弥陀如来坐像(国宝)」を本尊として安置している寺院なのです。

私は深く考えず健康のためと浄瑠璃寺口でバスから降りて約2kmの山道を徒歩で登っていくことにしました。しかし、誰も歩いていない山道を一人で歩いたとき、古の人々は、こんな山中まで、よくぞ材木を運びあげて寺院を建立したものだと、その情熱に畏敬の念を改めて深く感じた次第です。

そこで、「浄瑠璃寺」を散策する前に、もう少し「木津川地域」(木津川市)と、「木津川の歴史的関連」を話題に取り上げてみようと思い、「木津川流域」の概略的事柄を記述してみました。

伊賀(三重県)を源流とする「木津川」は、古代の飛鳥、奈良時代の藤原京、平城京を造営する建築用材運搬の大動脈となり泉津(いずみのつ:木津の港)が、奈良の都の玄関港となりました。これが歴史上「木津川」が果たした重要な役割なのです。

「木津川上流域」の杣山(そまやま:笠置、加茂)から木材を筏に組んで、また近江(滋賀県)の杣山(田上山:たなかみやま)や琵琶湖から宇治川を経由して、さらに遠方の瀬戸内や、丹波からも、淀川を利用するルートにより、木材が運ばれ「木津」で陸揚げされたのです。

この泉津では東大寺、興福寺など諸寺の木屋(こや)所や国の役所等があり、それぞれの用途に振分け加工したりして都へ運び出しました。

泉津から平城京へは上津道(かみつみち)、中津道、下津道(しもつみち)の官道があり、その官道沿いには川や池も設置されていましたので、水量を調節して材木を運ぶ方法も採られていました。

ところで、「木津川流域」に人々が住みついたのはいつの時代からかは正確には分りません。遺跡から観ると、弥生時代の中期(紀元前一世紀から後一世紀)、「木津の相楽山丘陵」から祭祀用の銅鐸が出土し、そのすぐ近くの大畠遺跡に集落跡や墓跡などがありました。

弥生時代になって「階級や身分社会」が成立してきましたので、小さい古墳も流域の各地に出来ました。更に一層政治的に関連が進んだ古墳時代、「木津川」の右岸(山城町)に、前方後円墳の「椿井(つばい)大塚山古墳」が出現しています。

この大古墳は、中国の文献(魏志倭人伝)にある「邪馬台国の女王卑弥呼の銅鏡」(三角縁神獣鏡)が、36面も出土しました。これだけの副葬品が出る墓の人物は、相当偉大な権力者(王)であったと思われます。

また、この巨大な古墳の造り方は、3世紀末に築かれたわが国最古で、女王卑弥呼の墓とも云われている前方後円墳の箸墓古墳(奈良県桜井市)と、多くの共通点がありました。

古事記、日本書紀に記載されている泉河(輪韓河:わからかわ:木津川)の物語 
崇神天皇10年条 (武埴安彦の反乱):

四道将軍の一人大毘古命(おおびこのみこと)が、越国(北陸道)へ赴く途中、武埴安彦(たけはにやすびこ)の謀反を山代の幣羅坂(へらさか)で知り、崇神天皇の勅命により彦国葺(ひこくにぶく:丸邇臣氏の祖)と大毘古命の軍は輪韓河で武埴安彦の軍に挑みました。

その結果、武埴安彦の戦死によって反乱軍は総崩れとなって敗走した様子の地名(波布理會能:ハフリソノ:→祝園:ホウソノ、屎褌→久須婆→楠葉など)が、今もこの地域に残っています。「挑み」伊杼美イドミ→伊豆美イズミ→泉河

この大戦のとき、大和の大王(崇神天皇)軍は、西国道を固めていた武埴安彦の妻(吾田姫:あたひめ)の軍も打破りました。その後(神功皇后摂政2年条:押熊王の反乱)、大和政権は、奈良山西麓を越えた下津道の押熊の王との戦にも勝利したのです。

名実ともに大和政権が確立し、「木津川流域」をはじめ畿内では、大和の大王に敵対する勢力が一掃されました。

5世紀から6世紀になると渡来人が「木津川流域」に多く住みつき、彼らは朝鮮半島より渡来の中国大陸の先進的文化、文明を携えてきました。

570年には高句麗使の一行を迎えるため、大和朝廷の外交官舎「相楽館:さがらのむろつみ」を、「木津の港」にかかわる相楽神社近辺に作りました。(608年には難波高麗館が設置された。)

7世紀後半の「壬申の乱」:天智天皇の太子(大友皇子)に対して672年大海人皇子(後の天武天皇)の反乱の時も、「木津地域」はやはり重要な地域でした。

8世紀になり、藤原京から平城京へ元明天皇が遷都(710年)した奈良時代の天平12年(740)聖武天皇が恭仁京(くにきょう)に遷都したころは、正に恭仁京の泉津として、現木津川市(木津、加茂、山城町)が、最も輝いていた時期と推察します。

奈良時代の加茂町銭司では、日本最初の貨幣(和同開珎)を鋳造しており、(僅か4年間の都でしたが)恭仁京では聖武天皇が大仏造立の発願、全国に国分寺、国分尼寺造立の詔、墾田永世私財法など発信しました。

「木津川市」は、京都府の最南端で、奈良県の奈良市と境界を接しています。ですから奈良時代では大和の北部丘陵地(奈良山)の背後の国:山背国(やましろのくに:山代国)と呼ばれていましたが、桓武天皇が平安京へ遷都(794年)して、「山城国」と詔で命名しました。

都が京都へ移っても、南都(奈良市)には藤原一族の氏寺(興福寺)、氏神(春日大社)があり、平安貴族は競って南都詣でをしていましたので、人々の往来や物資の流通も多く、「木津」は交通の要衝であり、また文化や情報の発信地でした。

9世紀から10世紀の平安貴族文化が盛んな時期も、南都仏教の興福寺、東大寺等の諸寺は
南山城(京都府旧相楽郡、旧綴喜郡)に奈良時代からの広範な杣山(後に荘園にもなった)を所有しており、実質的に南山城は大和の文化、経済圏内でした。

10世紀後半から11世紀になり、南都の貴族仏教の僧侶の中には世俗に溺れ堕落する僧も現れ、世相も乱れかけた現象を疎みました。

このため現世を救う弥勒菩薩や観音菩薩の信仰、または釈迦如来に回帰すべきという思想など様々な思考を持った僧侶が、「木津川流域」の山中にある笠置寺、加茂の岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺などの草庵に籠り、真の悟りを求めて厳しい修行や戒律の教学を開始しだしたのです。

前回訪ねた海住山寺は、寺伝による創建は:聖武天皇が大仏造立発願のため云々ですが、12世紀後半から13世紀の解脱上人貞慶は戒律を重視して、釈迦如来に回帰すべきとして、釈迦の仏舎利を祀る五重塔の建立を開始し、1214年貞慶の1周忌に、貞慶の後継者の覚真上人が落慶供養をしました。

次回は、木津川市加茂町西小の「淨瑠璃寺」訪ねようとしています。創建時の本尊は弥勒菩薩でしたが、現在は九体の阿弥陀如来坐像(国宝)の本尊が本堂に祀られている、この寺院の変遷なども辿ってみようと思っています。

参考文献: 木津町史   本文編            木津町
      加茂町史   第一巻 古代、中世編     加茂町

(奈良から浄瑠璃寺門前行きの急行バスは一時間に一本ぐらいです。時刻表に注意下さい。JR加茂駅からは毎時一本岩船寺、浄瑠璃寺行きのコミュニティーバスが利用できます。)


2018年10月04日

◆奈良木津川だより 7世紀の木津川流域

白井 繁夫


7世紀になると朝鮮半島の3国(百済.新羅.高句麗)は再び戦乱の時代となりました。
隋が(612年)110万余の兵力で高句麗遠征を始め614年まで続きました。

その後、隋から唐(618)になり、太宗.高宗の時代、再び高句麗出兵(644年から3度)が実行されました。唐と同盟を結んだ新羅は、百済も攻めて、660年に百済を滅ぼし、更に、唐.新羅連合軍は668年に懸案の高句麗をも滅亡させたのです。

隋.唐の侵略戦争から逃れて、我国に渡来した人達が「木津川流域」にも住むようになりました。倭国は、百済と伝統的に親密な関係があったので、660年までに救援軍を出兵すべきだったのでしょう。その間の大和朝廷の状況をいま少し振り返って見ようと思います。

6世紀末頃の蘇我氏は皇族との婚姻を通じて勢力を拡大し、蘇我馬子は587年政敵であり対立する非仏派の大豪族物部守屋を倒して絶大な権勢を得ました。

593年には日本史上、初の女帝:推古天皇を擁立し、政治の補佐役に甥の厩戸皇子(聖徳太子)を起用して皇太子にしました。

聖徳太子は蘇我馬子と協調して、仏教を重視し、天皇を中心とする中央集権国家を目指し、
冠位十二階や十七条憲法を制定しました。

『日本書紀』によると、崇峻天皇元年(588)、百済から倭国へ仏舎利や僧6名とともに技術者「寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん:仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名」派遣されました。

法興寺(飛鳥寺)は、馬子が開基(596年)した蘇我氏の氏寺です。本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、6世紀作の重要文化財です。588年に百済からきた技術者「寺工や瓦博士など」によって造営された日本最古の本格的な仏教寺院であったと云われています。

都が飛鳥から平城京への遷都(710)に伴い、法興寺(飛鳥寺)は元興寺(がんごうじ)として718年に奈良市へ移りました。(現在の元興寺極楽坊本堂と禅室の屋根の一部に現在も1400年前の創建当時の「古瓦」が混じっていると云われています。)

推古34年(626)蘇我馬子が没し、蘇我蝦夷(えみし)が本宗家を継いでから17年後、皇極2年(643)11月、蘇我入鹿(いるか)が、斑鳩(いかるが)の上宮王家を襲撃して一族を悉く滅亡させたのです。蘇我本家の専横著しい行為に対して大反発が起りました。(上宮王家:聖徳太子の遺子、有力な皇位継承資格者:山背大兄王の一族)

2年後の皇極4年6月12日、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)等により、入鹿は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において謀殺されました。(乙巳「イッシ」の変)、翌日(6月13日)父の蘇我蝦夷も自害し、4代続いた蘇我氏本宗家が滅し、6月14日、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。

孝徳2年(646)正月に改新の詔を発して、政治改革に乗り出し、宮(首都)を飛鳥から難波宮(大阪市中央区)へ移し、飛鳥の豪族中心政治を天皇中心の中央集権国家に変え、
孝徳天皇は皇太子を中大兄皇子(天智天皇)とする体制を採りました。大化の改新です。
改新の詔の内容:公地公民制、令制国、税(租.庸.調)などの内容説明は省略します。

その後、孝徳天皇と皇太子(中大兄皇子)との政策の相違があり、皇太子が難波長柄豊碕宮から飛鳥へ遷るとき、皇祖母尊(皇極天皇)と皇后、皇弟(大海人皇子)や、臣下の大半を連れて大和に赴きました。(翌年:654年孝徳天皇は病により崩御されました。)

36代孝徳天皇が次代天皇を定めず逝去したため、35代皇極天皇が重祚(ちょうそ:1度退位した君子が再び位に就くこと:再祚)して、37代斉明天皇(655年)となり、皇太子は中大兄皇子(天智天皇)に決まったのです。

斉明天皇時代に百済から救援の要請もありましたが、北方征伐が優先され、658年〜660年に蝦夷と粛慎(しゅくしん:狩猟民族)を討伐したのです。

その後、660年に百済敗北後の百済遺民の百済復興運動の要請に応じて、斉明天皇は百済救援軍の派遣を決定しました。

661年5月、第1派1万余の兵員九州筑紫に集結しますが、斉明天皇急死して仕舞ったのです。

そこで、朴市秦造田来津(いちはたのみやつこたくつ)を司令官に任命し、3派にわけて663年までに約4万2千人、倭船約8百隻派遣して、百済遺民約5千人との連合軍が朝鮮半島の白村江(はくすきえ:はくそんこう:現在の錦江河口付近)で唐.新羅連合軍(唐約13万人、新羅約5万人、唐船約170隻)と663年(天智2年)8月戦いました。白村江の戦いです。

倭国兵約1万人戦死、船約4百隻火災破損の大敗を喫した。倭国水軍は残った船に倭国兵や百済遺民兵の倭国希望者も乗船して、新羅連合軍に追われながらやっとの思いで帰国しました。

その後、668年には首都の平壌城が唐軍により攻略され高句麗は滅亡しました。唐にとっては北の勢力である突厥に続き高句麗にも勝利し、北方の脅威を排除でき、675年に唐が撤収して、新羅により朝鮮半島が統一されました。

天智天皇は「白村江の戦い」に敗れた結果、朝鮮半島の権益を失い、大陸の強大な唐.新羅連合軍の報復と侵攻に防備した国家体制の整備と国内に防衛網を早急に築くことに傾注しました。

北九州の太宰府に水城(みずき)砦、瀬戸内や西日本各地(長門城、屋島城など)に古代山城の防衛砦を築き、九州の沿岸には防人(さきもり)を配備したのです。

667年には都を内陸の近江大津(近江京)へ移し、668年即位して「近江朝廷之令」(近江令:おうみりょう)を発しました。律令制導入の先駆的法令です。

天智天皇10年(671)に新しく大友皇子を太政大臣として、蘇我赤兄.中巨金を左右大臣、蘇我果安.巨勢人.紀大人を御史大夫とする官職が制定されました。しかし、大海人皇子(後の天武天皇)は圧迫感を感じて、11月に吉野に退隠することにしたのです。

木津川流域を挟んで難波(淀川)、飛鳥.大和(木津川)、近江(宇治川)が話題となる
「壬申の乱」は日本の古代史最大の内乱(戦争)で、地方の豪族を味方につけた反乱者(皇弟)が勝利する歴史となります。
        
(郷土愛好家)

2018年09月25日

◆奈良木津川だより 壬申の乱(3)

              白井繁夫

壬申の乱の戦はこれまで河内.飛鳥方面の戦況を先行し、近江路方面は後述に分けました。

672年7月3日大海人軍の大伴吹負(フケイ)将軍は、「木津川」を越え攻め寄せて来る大友軍に対する布陣を、乃楽山(奈良山)に完了し、麾下の荒田尾赤間呂の奇策を倭古京(飛鳥の古い都)に採りました。大野果安(ハタヤス)将軍が率いる近江朝軍に備える作戦でした。

その翌日、果安軍の大軍が来襲し、簡単に布陣を突破され、怒涛の勢いで天香具山(天香久山:奈良県橿原市)の八口まで攻め込まれましたが、そこで吹負軍の奇策(大軍の存在を示す大量の楯等)を試みて戸惑わせました。そして目前までやすやすと占領で来た飛鳥京に、果安軍の全軍を一時後退させました。
「高市県主 許梅(コメ)の託宣(生霊神の言):果安長蛇を逸す。と」

大海人軍の吹負は命拾いしたのですが、逃げる途中に置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の騎兵隊(先遣隊)と墨坂(宇陀市榛原)で合流して力を付け、金綱井(かなづなのい:橿原市今井町)に逆襲したのです。


一方、近江朝の壱岐韓国(カラクニ)将軍が率いる河内方面軍も河内衛我河で坂本財を破りますが、その時、国司来目塩籠の背反問題が発生して進軍できません。再度軍勢を立て直して飛鳥を目指しましたが、当麻の衢(ちまた)、葦池付近(奈良県葛城市当麻町)で、大伴吹負麾下の勇士来目(タケキヒトクメ)と置始騎兵隊の凄まじい突撃を受けたのです。

ところが、近江朝の大軍団の中の歩兵連隊の横腹を目指して、精鋭の騎馬隊が決死の覚悟で猛然と突撃した戦いで、さしもの韓国大軍も乱れ、兵は逃惑い、韓国軍の指揮命令系統が機能せず、総司令官(韓国)が、矢を受けて、必死で逃亡して行きました。

この7日の戦いで大海人軍は西方(大坂.河内方面)の脅威を無くしたのです。

当麻の戦いも4日の総攻撃日と同様、大友軍は河内方面軍と近江の倭古京方面軍の連携が機能していなかったと思われます。その間に大海人軍の大倭方面派遣軍の本隊(紀臣阿閉麻呂:キノオミアヘマロ:率いる数万の兵)が大伴吹負軍に参陣しました。

倭古京(飛鳥京)と乃楽(奈良)を結ぶ3本の南北道は東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と称され東の上、中ツ道は木津へ奈良街道となって繋がり「木津川」の右岸を通り菟道(宇治)へ、西の下ツ道は木津の歌姫街道へと、「木津川左岸」を通って山陰道などに繋がります。

近江朝の将軍大野果安率いる倭古京方面軍は、大和の北(木津)を経て乃楽から上記3本(上.中.下ツ道)の道に部隊を分けて飛鳥を目指して攻めたのです。
これに対して、紀阿閉麻呂率いる大海人軍の本隊は、7月7日から8日にかけて続々と集まりだしたのです。同本隊の大伴吹負は、この大軍を3道に合わせて上中下陣に分けました。つまり、麾下の三輪高市麻呂は彼の地盤である上ツ道、吹負は中ツ道(自身の百済の家:橿原市百済)、援軍の精鋭部隊(主力部隊)は上ツ道に配置したのです。

ところが、戦闘は上ツ道と中ツ道ほぼ同時に起き、中ツ道の近江の将軍(犬養五十君イキミ)の別動隊(廬井鯨イホイノクジラが率いる精鋭部隊)が少数で守る吹負の陣営を襲い、またまた吹負は苦戦を強いられて仕舞い、必死に防戦しました。

上ツ道沿いの箸陵(はしはか:桜井市)での戦闘は三輪高市麻呂(大倭の豪族)と大海人軍本隊の精鋭部隊(置始兎)が共同で近江朝軍を迎撃、撃退し、更に追跡して、中ツ道の近江軍本隊を攻撃し、廬井鯨の背後を衝いたのです。

これで大友軍の大和の戦闘は、完全に敗北となったのです。

大海人軍の将軍吹負は何度も近江軍と戦い負けても、再度挑み続ける闘志でした。一方、近江軍の兵士の方は、庚午年籍に基づく徴兵であり、将軍も大海人皇子に内応する者も出てきていたため、大事なところで勝機を逃していたのです。

この結果が、飛鳥路方面の戦闘も、大海人軍の勝利に結び付いたことになります。

そこで、大海人軍の将軍大伴吹負は即刻難波へ赴き、西国の国宰から正倉.兵倉の鑰(かぎ)を献上させました。また大海人軍の大倭救援軍本隊は北の乃楽山から木津を経て山前(やまさき:桂川、宇治川、木津川との合流地南:八幡市男山近辺)へ進軍して行きました。これが歴史上の山場と見るべきでしょう。

ここで、大和.飛鳥路方面から近江路方面の戦闘へ話題を戻します。

672年6月に近江朝は、東国へ徴兵督促のため派遣した国宰(くにのみこともち)書薬(フミノクスリ)などが、26日に大海人軍に「不破道(関ヶ原)」で囚われの身になった。との報告に接し即刻臨戦態勢を取り、27日に大津宮より近江路方面軍を発進させました。

近江朝軍の陣営は王族(山部王)、大夫氏族(高級官僚:蘇我果安ハタヤス、巨勢比等コセノヒト)、などの将軍(指揮官)と中小中央豪族、近江地方の豪族、羽田矢国(ヤクニ)将軍を含めて、数万の兵(近江朝正規軍+近江の兵など)からなる大軍団でした。

大友皇子は不破道の大海人軍を、この際一気に粉砕できると、信じて出発させたと思われます。

(話題が前後しますが、この時点で、近江朝には飛鳥の状況も、大海人皇子が野上行宮に入った情報も、更に、尾張の国司小子部鉏鈎:チイサコベノサヒチ:が2万の兵を率い大海人軍に帰服した27日の重大な情報なども、近江朝には全く届いていなかったのです。決定的な手抜かりでした。)

この結果、大友皇子には、6月29日になって、ようやく大伴吹負が倭古京で蜂起し、飛鳥の大友軍営を占領した戦況が伝わったのです。これを機に大友皇子と大海人皇子の両陣営が本格的戦闘態勢を採ることになるのです。

7月2日に大海人皇子は「和蹔:わざみ」(不破郡関ケ原町)の全軍に進撃命令を出しました。紀阿閉麻呂率いる大倭救援軍は前回記述した如く置始兎の騎兵隊を先遣し、飛鳥まで伸びる戦線の腹部防護のため多品治を「莿萩野:たらの」(伊賀市)に、田中足麻呂を「倉歴道:くらふのみち」(甲賀市)に配備しました。

大海人軍の近江路方面進攻軍は総司令官村国男依(オヨリ)将軍、書根麻呂(フミネノマロ)将軍.和珥部君手(ワニベノキミテ).胆香瓦安部(イカゴノアヘ)ら地方豪族で整え、この方面軍も数万の兵士に赤布や旗を備えた赤色軍にしています。

近江路軍の最大特徴は総司令官を除き、指揮を執る各将軍は大友皇子を始めとして近江朝廷の高官とは面識ないのが地方の各豪族です。ただこの地方の土地勘や地縁.血縁を持っているだけです。ですから、戦闘に突入した時、各指揮官が個々に部隊を指揮、命令しました。謂わば総司令官の指揮ではなかったのです。

余談ながら、後世の江戸幕府軍が「錦の御旗」に恐れをなしたのも、大海人皇子と同じ様な巧みな戦略.指揮.監督をしたと思われます。

さて、大海人軍の飛鳥救援軍は即刻先遣部隊を急派し、同時に鈴鹿道.伊賀路の防衛を固めて出発しました。そして近江路進攻軍は大和.飛鳥方面のその後の戦闘情勢と大津京への進軍途上で戦闘に際し非常に重要である各地の豪族:息長氏(オキナガシ:米原市)を始めとし、坂田氏、秦氏、羽田氏などの状況を把握して行ったのです。

これに対して、近江朝廷軍は東国の徴兵と西国(中国.九州)の徴兵が時間的に間に合わないため、朝廷の常備軍と畿内で徴集した兵をもって、飛鳥と不破に兵力を分散さす状況となりました。飛鳥京と大海人本営の攻撃と両方面とも、近江朝は重要と判断したのでしょう。

しかし、近江朝廷の大友皇子は当初は大海人皇子に必勝すると信じて、思い戦闘に入りましたが、「白村江の戦」が尾を引いて軍備が遅れ:武器や兵力不足の悪状況も伴ったのです。

ですから不破への進撃途上に通過する地域の豪族兵を味方に(羽田氏など)加えながら、息長氏(オキナガ)などの近江の豪族をどれだけ味方に出来るかが勝敗を大きく左右すると思うようになっていたでしょう。

一方、大海人皇子は前述の如く、大和飛鳥路戦へは戦術に長ける中央の豪族を指揮官にして近江朝に不満を持つ豪族(国宰や古い渡来人)、東国へ脱出途上大海人軍に加わった兵(美濃.尾張の2万、大倭や伊賀の軍勢)を得て、半年間、吉野で推考した作戦以上の好精華で状況は進展していました。「戦には天が味方してくれている」と思ったに違いありません。

近江路における両軍正規軍の勝敗を決する戦闘と、その顛末は、次回につづけます。

参考資料: 壬申の乱   中央公論社    遠山美都男著
      戦争の日本史2 壬申の乱  吉川弘文館  倉本一宏著


2018年09月24日

◆奈良木津川だより 壬申の乱A

白井繁夫


大海人皇子は、天武元年(672)5月、美濃国へ赴いた舎人朴井連雄君(エノイノムラジオキミ)から「天智天皇の陵を造営するためと称して、東国の農民を徴集し武器を持たせている云々」との報告を受けたのです。

この情勢こそ、近江朝が戦いを挑むことになると推察し、吉野宮の脱出を決意し吉野においての半年間推考を重ねた作戦に基づき、6月24日に東国(美濃)を目指して出陣しました。

大変きつい強行路を経て、「桑名群家」に辿り着き、「鈴鹿の山道」や「不破道:関ヶ原」の閉塞にも成功を治め、みずからは「野上行宮」に入りました。このことは、大海人皇子側から見れば、内乱突入直前の状況だったのです。(前回記述)

ところで今回は、大友皇子側から見た「壬申の乱」に至るまでの状況を見てみます。

大海人皇子一行が、671年10月19日、大津宮を去る折、菟道(宇治橋)まで見送りに行った近江朝の重臣3名(左右大臣と御史大夫)の内の一人が、こう云いました。

<「虎に翼を着けて放つ」と云ったといわれているように、叔父の大海人皇子は有力な皇位継承者である為、皇位を継承するには大友皇子が、大海人皇子を排除すべき人物なのです。>

虎は鋭い牙と爪を持っているのに、その上に翼まで着けて放ったのだから、大海人皇子を監視するために、近江から倭古京(やまとのふるきみや:飛鳥京)までの要所(宇治橋の橋守に命じて、美濃の大海人の支配地などから武器や食糧などの物資が運搬されるか、「木津川の泉津」(木津の港)から同様に吉野へ届けられるかなど、飛鳥京の留守司などで監視する体制を敷きました。(大海人皇子の勢力を剥ぐための兵糧攻め作戦)

「対新羅戦用」と称して、全国へ国宰(くにのみこともち)を派遣して、「徴兵」(各郡司などを通じて農民兵の動員)に着手しました。

特に大海人に影響を与える地域、畿内(山背.大和.摂津.河内.和泉)と、東国の美濃や尾張(美濃の安八磨郷あはちまのこほり、湯沐邑ゆのむらなど)からの「徴兵」に傾注したのです。(作戦の狙いは、大海人皇子と関係がある地区に楔を打ち込む目的)。

大友皇子は、近江朝の政権の中心であり、大海人皇子が(吉野)隠遁している間に、勢力を剥ぎ、大友に対抗出来なくしようとした計画的な行動を取りました。

ただ、天智の殯(もがり)の期間、いろいろと公式行事があるうえに、筑紫の唐使「郭務悰:カクムソウ」の応対にも忙殺されることのもありました。

古代も現代も戦争に備えるには情報戦略が非常に重要な要素です。近江朝は軍備力や権勢力などで絶対的な自信を持ち過ぎて、少々油断があったのではないかと思われます。

大海人皇子は、誼を持つ舎人を通じて各地の豪族と絆を結び、近江朝の動静などの情報を逐一得ていました。もちろん、近江や飛鳥の官人とも連絡は密だったのです。

両軍が戦闘に入ったとき、大友軍は情報不足により有利になるはずの戦況を、思わぬところで不利にすることが出てしまいました。

重要な歴史書:『日本書紀』は日本最古の正史ですが、舎人親王(天武の皇子)が編纂の総裁者となり養老4年(720年)に編纂され、天武嫡流の皇子に関係した藤原不比等も介在した?と思われる書籍です。

これから記述する「壬申の乱」の戦闘の描写も、勝者側の見方(大海人が正当な皇位継承者)が大きく出るかもと思います。

近江朝は、庚午年籍(こうごねんじゃく:天智天皇の時代に編纂された日本最古の戸籍制度)に基づく徴兵を急がすため、東国へ派遣した国宰書薬(フミノクスリ)ら3名のうち2名が、6月26日に「不破道」で大海人軍に捕えられたのを目の当たりにして、国宰韋那磐鍬(イナノイワスキ)は、大津宮へ逃げ帰ってきました。

近江朝軍は、翌27日臨戦態勢に入り、近江路方面軍と飛鳥方面軍と大きく2方面に軍を分けて、最初に近江路方面軍が「不破道:関ヶ原」を突破して、大海人本営を襲撃する作戦を立て、近江朝正規軍に西国の徴兵や近江の豪族の兵を加えた数万の軍を、大津宮から出発させました。

最初の戦火は、6月29日に大海人軍の大伴吹負(オオトモフケイ)によって大倭飛鳥で開始されました。だから、最初に出発した近江路軍の戦闘は後述するとして、大倭.河内方面の戦いの方を先行します。

(飛鳥京)朝廷側の留守司(トドマリマモル司)は、高坂王.稚狭王(ワカサ).坂上熊毛ですが、大伴吹負とは内応?していたと思われ、実情は近江朝の使者(穂積臣百足等ホヅミノオミモモタリ)が、27日に軍営を設立したばかりの状態でした。

天智10年に亡命百済人を実務官僚に組織した体制に対する反発が、古くから飛鳥などに居住する渡来人(東漢系氏族:坂上熊毛)、同じく山背国に渡来していた氏族(秦熊)など、倭古京の居住者にありました。

大伴吹負は奇策を持って、僅か10余の騎馬兵で高市皇子が攻めて来たと叫び、飛鳥寺の西の軍営を奇襲し、飛鳥京を制圧しました。留守司高坂王らは帰服し、近江朝の軍営にいた物部日向.五百枝兄弟も帰順したので味方に加え、穂積百足のみが最初の戦死者となりました。

大伴吹負の飛鳥京制圧の報は大倭各地に伝わり、三輪君高市麻呂.鴨君蝦夷等の豪族が大伴吹負軍に加わり、その情報は大海人皇子をはじめ、近江朝にも伝わったのです。

7月1日:近江朝の大倭方面軍は大野果安(ハタヤス).犬養五十君(イキミ).廬井鯨(イオイノクジラ)が、近江朝正規軍と西国の徴兵を率い、飛鳥京奪還を目指して大津宮を発進しました。

果安は大伴吹負の軍を度々破り敗走させましたが(後述しますが)、紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)軍の先遣した騎兵隊が伊賀から駆けつけて、吹負の窮地を救ったのです。

庚午年籍に基づき、摂津.河内で徴兵した兵を率いた河内方面軍の将壱岐韓国(イキノカラクニ:渡来氏族)と、国宰来目塩籠(クメノシオコ)は同日、河内.大倭の国境を突破して飛鳥京奪還を目指して河内を出発しました。
(大伴吹負は乃楽山(なら:奈良山)を目指し進発(木津川市と奈良市の国境の丘陵地)。

大海人皇子は、7月2日和蹔(わざみ)の全軍に進撃命令を出し、全軍の兵に赤い布を着用させて、大友軍とはっきり区別させました。

飛鳥方面軍の総大将紀臣阿閉麻呂は、数万の軍勢を率い倭古京守備隊の増援に向かわせ、置始連兎(オキソメノムラジウサギ)の精鋭な騎兵隊は本隊を離れ、飛鳥へ急行させたのです。

多臣品治(オオノオミホムチ)は3千の兵で伊賀の莿萩野(たらの)を防衛、田中臣足麻呂は倉歴道(くらふのみち)の守備につきました。
(近江路方面の村国男依らの数万の軍勢の進撃は次回にします。)

乃楽山(なら:平城山)は、古代崇神天皇の時代:武埴安彦の反乱の舞台となった要衝。

山背と大和の国境の丘陵地であり、北側の平野に木津川が流れ、南は大和平野が広がる両軍にとって戦略上重要な拠点です。(四道将軍の大彦命と和爾氏の祖彦国葺が乃楽山の本陣から北側の山背の武埴安彦軍を木津川の戦いで殲滅し、西の大坂より攻めて来た埴安彦の妻(吾田媛軍)を吉備津彦命が討った。古戦場。)

(吹負はその拠点を固めに行く途上「大和郡山市稗田」で、西方「大坂:河内」から大友軍が進軍してきた情報を捉えたのです。)

吹負は、坂本臣財(サカモトノオミタカラ).長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)等に兵三百を授けて龍田道を防衛させ、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)に百余の兵で、大坂道(穴虫峠:二上山の北:大坂側道)を、鴨君蝦夷は百余の兵で石手道(イワテノミチ:竹の内峠:二上山の南:大和側道)の守りに就きました。

坂本財は、龍田付近で斥候が近江朝の高安城(白村江の戦に対処した山城ヤマジロで税倉チカラクラ:穀物の保管倉庫)が手薄との情報を得て、財が襲撃した時、大軍が来たと勘違いして城(穀物倉庫群)を焼き逃走しました。大海人軍の兵は無傷で高安城を占領したのです。

大伴吹負は飛鳥京を7月1日出発して、(3日)乃楽山に布陣が完了まで長時間移動を要したのは、6月29日以来続々と集まる兵を各部署に配置しながら進軍したからです。

7月3日朝霧が晴れ、坂本財は高安城から眼下の大坂平野を見ると大津道:長尾街道(堺市→河内美陵町→生駒王寺町)と、丹比道:竹内街道(堺市→羽曳野古市→飛鳥当麻寺)から整然と隊列を組み、大友軍が東へ進みました。大津道は将軍壱岐史韓国の軍ですが、高安城は黙殺して(武田信玄が家康を無視した様)行軍して行きました。

坂本財は、全軍僅か300人ですが、下山して衛我河(エガガワ:大和川付近藤井寺市道明寺)で挑ませますが一蹴され、懼坂道カシコサカミチの守衛紀臣大音(同族)まで退却しました。

しかも、この戦いで、国宰来目臣塩籠が大海人軍に内応しているのが発覚。大友軍の進軍は一時停止したのです。来目臣が大友の命により河内で徴兵した兵を持って、韓国将軍の下に入ったので、全軍が大きく動揺したためです。

(坂本財の悲壮な突撃戦は後の大坂夏の陣と同じ戦場「道明寺」で東軍水野.伊達軍2万3千に対し西軍の後藤基次軍3千弱の突撃の様と同様でした。だから軍規や軍の再編のため、韓国軍も進軍が遅れ、4日の大友軍全軍の総攻撃日に参加できなかったのです。)

大津宮を1日に出発した大野果安(はたやす)率いる倭飛鳥方面軍が、「木津川」を越え乃楽の大伴吹負が築く堅固な陣を突破し(吹負は数騎で逃れる)、怒涛の進軍で飛鳥京の手前:天香久山(あまのかぐやま)の八口まで来た時、斥候から「飛鳥の各街道の要所に大量の楯などが並び伏兵が潜んでいる」との報告。

大野果安が高所から遠望すると大軍を隠し、吹負軍が罠を仕掛けて簡単に退いたとも取れ、味方の壱岐韓国軍が4日なのに姿.音沙汰ともに無いのは、大海人軍の正規軍が来ていると思い込み、全軍に退却して陣容をかまへ直すよう命じました。(飛鳥京には大海人軍未着)

倭古京(飛鳥の古い都)への戦闘は、大友軍の河内方面軍も飛鳥方面軍もともに簡単に飛鳥京を占領できる機会だったのをともに逸して、後から来る大海人軍の正規軍と戦うことになるのです。

大和路戦の結末と近江路戦については次回に続けます。    (郷土愛好家)

参考資料:戦争の日本史2  壬申の乱   吉川弘文館  倉本一宏著
     壬申の乱     中央公論社  遠山美都男著
     木津町史     本文篇    木津町


2018年09月23日

◆奈良木津川だより 壬申の乱@

白井繁夫


本誌読者の皆様は、日本の歴史上有名な「壬申の乱」のことは良くご存じのはずです。しかし、私が長く書き続けている本題「木津川だより」の流れの中で、この「壬申の乱」を避けて通る訳にはなれません。

長文になりますが、大海人皇子の侵略心理、巧妙な戦略、天運などにつて、思いのままに詳しく綴ってみようと思います。「壬申の乱」の歴史の流れは、これから追々。

さて、(672年)天武元年6月24日大海人皇子が東国を目指してひそかに吉野を脱出した時は、大海人に従った者は妃の鸕野皇女と草壁.忍壁両皇子、舎人20余人に女孺(にょじゅ:鸕野皇女などに仕えた女官)わずか10余人の人数でした。

しかも、初日は約70kmの山道を進む、(道中には大友皇子の生母の出身地があると云う)超ハードのスケジュールです。(出家して吉野を目指して早朝より大津宮を出た日の距離の飛鳥「島宮」までとほぼ同距離を進みますが、その日の道中「山城道」は全体的に平坦な平野でした。)

大海人皇子が約半年間推考して戦略を練り、吉野脱出を決断した「壬申の乱」の大きな要素ともみなされるのは、「親の子に対する愛」がそうさせたと 私は思うのです。

天智天皇の晩年、生母が「卑母」である大友皇子を「皇位継承者」にと願い今までのしきたりを無視する行為を取る、強い愛と同じで、大海人皇子の妃の鸕野皇女は天智天皇の皇女.むすめであり、夫は天智の実弟です。

だから大海人皇子は有力な「皇位継承者」でもありました。而も二人の間の子(草壁皇子)は由緒正しい皇孫です。親(鸕野)の愛も非常に強いものだったと思います。

吉野脱出に先立ち6月22日には、前回本誌に掲載した如く、東国(湯沐令 多品治)に向けて発進した3名の大海人の使者(村国男依ほか2名)が、吉野.大倭.伊賀.伊勢.美濃へ至る行軍ルートの総てにわたる計画が周知され、準備を整えられるように派遣されたのです。

脱出ルートは吉野へ来た泉津.乃楽山.飛鳥の平坦地を避けて、吉野から吉野川沿いに上流に向かい、矢治峠を越える山道から「菟田(ウダ)の吾城:奈良県宇陀市」を抜け、「名墾(名張市)の横河」(名張川と宇陀川の合流点:畿内と外国の境)を経て「伊賀の中山」(三重県上野市)へ出るという、険しいルートでした。

菟田の吾城で屯田司(ミタノツカサ:近江朝の食料供御を行う司)土師馬手が食事を奉る。
(先遣使者よりの言で舎人土師氏は大海人皇子の行幸?と思ったか、大海人一行は、初日70余kmの行軍中、この時食事したのが最初で、何と初日は宿泊地まで食事なしで進む。)

飛鳥京の留守司高坂王への使者は3名が当日(24日)に発遣され、「駅鈴:ウマヤノスズ」を乞わせました。(美濃までの「駅家:ウマヤ」において大海人一行の馬の確保依頼:実際は独自で手を打っていました。高坂王は大海人皇子に好意を持っており、快応していたかも?)

使者3名の役割です。

大分恵尺(オオキダノエサカ)は、近江へ急行して大津.高市両皇子に大海人皇子の吉野脱出報告とその後の合流(予定戦略)など、黄書大伴(キフミノオオトモ)は大倭の「百済の家」に結集して兄の大伴馬来田と共に菟田で合流、逢志摩(オオノシマ)は近江朝からの追手がすぐ来ぬように近江に伝わらぬよう留守司に頼みて帰還など。

また「菟田郡家」(現宇陀市榛原区萩原)で湯沐の米運搬の駄馬ニオイウマ50頭(湯沐令多品治オオノホンジの手配の馬)を大海人皇子が得る。吉野から32kmの大野(室生)で日没、これより夜間行軍で「隠駅家:なばりのうまや」に着き、その家を焼いて人夫を求めてみたが真夜中では烽火(のろし)の役目だけで終わる。

「伊賀の中山」は大友皇子の生母の出身氏族(竹原氏)の本拠地へ東北東約8kmの至近距離です。

ところが、そこへ着くと「郡司」が数百の兵を率いて一行に合流してきました。伊賀国の北部の阿閉氏と南部の伊賀氏がともに大海人軍の味方に付いてくれたのです。
(対新羅戦用に近江朝が徴発した徴兵が100余人大海人軍に加わったのです。)

東海道ルートを外れ美濃への最短ルートを採り、「伊賀駅家」:上野市を流れる木津川を挟む古郡フルゴオリ:から「莿萩野」(タラノ:伊賀市佐那具町)へ25日の夜明け前に着きました。

吉野を出て70余km、20時間の進軍を終えてやっと休息、2回目の食事を取ることが出来たのです。
(飛鳥から近江朝へは高坂王の情報統制が有り、まだ気づかれずに進みました。)

25日の未明に近江と伊勢の交通の要所「積殖(つむえ)の山口」:三重県伊賀町柘植(大和と東国を結ぶ道が合流)に大海人一行は到着し、そこへ高市皇子の騎馬隊が舎人達と「鹿深」(カフカ:滋賀県甲賀郡)を越えて合流して来ました。

大海人一行は、伊賀と伊勢の国境の「加太(かぶと)峠」を越えて「鈴鹿郡:すずかのこおり」に入り(東国に入り)脱出が、ひと先ず成功しました。(近江からの高市の舎人は民大火.赤染徳足.大蔵広隅.坂上国麻呂.古市黒麻呂.竹田大徳.胆香瓦安倍:イカゴノアヘです。)

伊勢の「鈴鹿郡家こおりのみや」(鈴鹿郡関町金場付近)では国宰の三宅石床(イワトコ:駄馬50頭送付者)と、三輪子首(コビト)、湯沐令(ユノウナガシ)の田中足麻呂(タリマロ)と高田新宅(ニイノミ:祖父の高田足人が、私馬を大海人に美濃.尾張まで提供)などが出迎え、大量軍が集結しました。

伊勢の国宰三宅連石床は大海人皇子の下で、伊勢軍の統率者となり500の兵を率いて「鈴鹿の山道」を25日中に塞ぎました。三輪子首の軍は後日大和(飛鳥)進攻軍に編入されました。

25日の夕方、「川曲(かわわ)の坂下」(鈴鹿市木田町)に着き、「三重郡家」(四日市市東坂町)には夜になって到着して休息しました。

6月26日早朝:大海人皇子や草壁.高市などの一行は「朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかわ)の辺」に到着して、天照大神を遥拝しました。(戦勝祈願)。

「朝明郡家」(四日市市大矢知町)の大海人軍の処に、高坂王の一行が「鈴鹿山道」に来たと連絡あり、路益人を派遣したら、大津皇子の一行と近江へ派遣した大分恵尺等が留められていました。

(大津皇子幼少のため、馬でなく加太峠越えを「輿」で越えたから遅れた。)
ようやく大津皇子の一行は両親に合流できたのです。(大津の舎人の中には後の瀬田橋の攻防で先鋒となった大分稚臣(オオキダノワカオミ)や舎人の戦死者も多数でました。)

他方では、22日に先遣していた舎人の村国男依(オヨリ)が「安八磨郡(あはちまのこほり)の兵」3000人を率いて、「不破道の閉塞」(岐阜県関ケ原町)に成功した、との吉報を得ました。

夕方吉野から145kmの「桑名郡家」に着き、大海人一行は留まりました。
(大海人皇子は東海軍(尾張.三河)、東山軍(信濃.甲斐)を徴発する使者を派遣する。)

27日は妃の鸕野と草壁.大津を桑名に残して、野上(美濃の野上郡:現関ケ原町野上)へ大海人は行き、高市は「和蹔:わざみ」(関ヶ原町関ヶ原)から出迎え。ここが吉野を出て4日間(186km)の行軍の終着地とし、「野上行宮かりみや」としました。

多品治と村国男依が塞いでいた「不破道」で、尾張国司守:小子部連鉏鉤(チイサコベノサイチ)が2万の兵を率いて配下に入りました。

こんな中で、同じ26日の夕方近江朝の東国への使者「書薬フミノクスリと忍坂大摩侶」が捕捉され、少し遅れて来た韋那磐鍬(イナノイワスキ)がこれを見て大津宮へ逃げ帰った結果、27日には近江朝が「事の重大性」に気づいたのです。

「不破道」の封鎖が1日遅れていたら、2万の兵は近江朝軍の支配下になり、尚且つ、東国へ近江の使者が入っていたことでしょう。天運は大海人皇子に味方した、と思います。

「和蹔」に大海人軍の主力部隊を集め、全軍の最高司令官として高市皇子を任命して、
6月28日には全軍を検軍し、高市の下で指揮命令するなどの軍事訓練を行いました。

近江朝は、罠に嵌ったのです。

遅れ馳せながら、やっと戦闘準備に入り、西国へも徴兵を急がす使者の派遣、近江路と大和飛鳥の2方面への戦闘軍の編成に入りました。

しかし、大友皇子は唐からの使者「郭務悰カクムソウ」の応対に忙殺されていたため、迂闊にもこの時点まで、大海人皇子の動静を把握していなかったのです。

だから、大海人皇子が既に東国に入り、対新羅戦用に徴兵した兵2万余が大海人軍に加わったと云う情報も得ていなかったのです。大友皇子は後手後手に回ったのです。

近江路と大和飛鳥で「壬申の乱」の戦闘の口火がいよいよ切られます。(次回につづけます。)

参考資料: 戦争の日本史2  壬申の乱  倉本一宏 著
      木津町史  本文篇   木津町 
      壬申の乱   中公新書    遠山美都男著 


2018年09月21日

◆木津川だより 7世紀の木津川流域

白井 繁夫


7世紀になると朝鮮半島の3国(百済.新羅.高句麗)は再び戦乱の時代となりました。
隋が(612年)110万余の兵力で高句麗遠征を始め614年まで続きました。

その後、隋から唐(618)になり、太宗.高宗の時代、再び高句麗出兵(644年から3度)が実行されました。唐と同盟を結んだ新羅は、百済も攻めて、660年に百済を滅ぼし、更に、唐.新羅連合軍は668年に懸案の高句麗をも滅亡させたのです。

隋.唐の侵略戦争から逃れて、我国に渡来した人達が「木津川流域」にも住むようになりました。倭国は、百済と伝統的に親密な関係があったので、660年までに救援軍を出兵すべきだったのでしょう。その間の大和朝廷の状況をいま少し振り返って見ようと思います。

6世紀末頃の蘇我氏は皇族との婚姻を通じて勢力を拡大し、蘇我馬子は587年政敵であり対立する非仏派の大豪族物部守屋を倒して絶大な権勢を得ました。

593年には日本史上、初の女帝:推古天皇を擁立し、政治の補佐役に甥の厩戸皇子(聖徳太子)を起用して皇太子にしました。

聖徳太子は蘇我馬子と協調して、仏教を重視し、天皇を中心とする中央集権国家を目指し、
冠位十二階や十七条憲法を制定しました。

『日本書紀』によると、崇峻天皇元年(588)、百済から倭国へ仏舎利や僧6名とともに技術者「寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん:仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名」派遣されました。

法興寺(飛鳥寺)は、馬子が開基(596年)した蘇我氏の氏寺です。本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、6世紀作の重要文化財です。588年に百済からきた技術者「寺工や瓦博士など」によって造営された日本最古の本格的な仏教寺院であったと云われています。

都が飛鳥から平城京への遷都(710)に伴い、法興寺(飛鳥寺)は元興寺(がんごうじ)として718年に奈良市へ移りました。(現在の元興寺極楽坊本堂と禅室の屋根の一部に現在も1400年前の創建当時の「古瓦」が混じっていると云われています。)

推古34年(626)蘇我馬子が没し、蘇我蝦夷(えみし)が本宗家を継いでから17年後、皇極2年(643)11月、蘇我入鹿(いるか)が、斑鳩(いかるが)の上宮王家を襲撃して一族を悉く滅亡させたのです。蘇我本家の専横著しい行為に対して大反発が起りました。(上宮王家:聖徳太子の遺子、有力な皇位継承資格者:山背大兄王の一族)

2年後の皇極4年6月12日、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)等により、入鹿は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において謀殺されました。(乙巳「イッシ」の変)、翌日(6月13日)父の蘇我蝦夷も自害し、4代続いた蘇我氏本宗家が滅し、6月14日、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。

孝徳2年(646)正月に改新の詔を発して、政治改革に乗り出し、宮(首都)を飛鳥から難波宮(大阪市中央区)へ移し、飛鳥の豪族中心政治を天皇中心の中央集権国家に変え、
孝徳天皇は皇太子を中大兄皇子(天智天皇)とする体制を採りました。大化の改新です。
改新の詔の内容:公地公民制、令制国、税(租.庸.調)などの内容説明は省略します。

その後、孝徳天皇と皇太子(中大兄皇子)との政策の相違があり、皇太子が難波長柄豊碕宮から飛鳥へ遷るとき、皇祖母尊(皇極天皇)と皇后、皇弟(大海人皇子)や、臣下の大半を連れて大和に赴きました。(翌年:654年孝徳天皇は病により崩御されました。)

36代孝徳天皇が次代天皇を定めず逝去したため、35代皇極天皇が重祚(ちょうそ:1度退位した君子が再び位に就くこと:再祚)して、37代斉明天皇(655年)となり、皇太子は中大兄皇子(天智天皇)に決まったのです。

斉明天皇時代に百済から救援の要請もありましたが、北方征伐が優先され、658年〜660年に蝦夷と粛慎(しゅくしん:狩猟民族)を討伐したのです。

その後、660年に百済敗北後の百済遺民の百済復興運動の要請に応じて、斉明天皇は百済救援軍の派遣を決定しました。

661年5月、第1派1万余の兵員九州筑紫に集結しますが、斉明天皇急死して仕舞ったのです。

そこで、朴市秦造田来津(いちはたのみやつこたくつ)を司令官に任命し、3派にわけて663年までに約4万2千人、倭船約8百隻派遣して、百済遺民約5千人との連合軍が朝鮮半島の白村江(はくすきえ:はくそんこう:現在の錦江河口付近)で唐.新羅連合軍(唐約13万人、新羅約5万人、唐船約170隻)と663年(天智2年)8月戦いました。白村江の戦いです。

倭国兵約1万人戦死、船約4百隻火災破損の大敗を喫した。倭国水軍は残った船に倭国兵や百済遺民兵の倭国希望者も乗船して、新羅連合軍に追われながらやっとの思いで帰国しました。

その後、668年には首都の平壌城が唐軍により攻略され高句麗は滅亡しました。唐にとっては北の勢力である突厥に続き高句麗にも勝利し、北方の脅威を排除でき、675年に唐が撤収して、新羅により朝鮮半島が統一されました。

天智天皇は「白村江の戦い」に敗れた結果、朝鮮半島の権益を失い、大陸の強大な唐.新羅連合軍の報復と侵攻に防備した国家体制の整備と国内に防衛網を早急に築くことに傾注しました。

北九州の太宰府に水城(みずき)砦、瀬戸内や西日本各地(長門城、屋島城など)に古代山城の防衛砦を築き、九州の沿岸には防人(さきもり)を配備したのです。

667年には都を内陸の近江大津(近江京)へ移し、668年即位して「近江朝廷之令」(近江令:おうみりょう)を発しました。律令制導入の先駆的法令です。

天智天皇10年(671)に新しく大友皇子を太政大臣として、蘇我赤兄.中巨金を左右大臣、蘇我果安.巨勢人.紀大人を御史大夫とする官職が制定されました。しかし、大海人皇子(後の天武天皇)は圧迫感を感じて、11月に吉野に退隠することにしたのです。

木津川流域を挟んで難波(淀川)、飛鳥.大和(木津川)、近江(宇治川)が話題となる
「壬申の乱」は日本の古代史最大の内乱(戦争)で、地方の豪族を味方につけた反乱者(皇弟)が勝利する歴史となります。
次回には、「木津川流域」も絡んだ「壬申の乱」などの歴史を書こうと思っています。        
(郷土愛好家)

2018年08月22日

◆奈良木津川だより 高麗寺跡 B

白井繁夫


飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会

2018年08月20日

◆木津川だより 高麗寺跡 @  

                白井繁夫


古代の仏教寺院「高麗寺(こまでら)」の創建は不明ですが、「高麗寺跡」の発掘調査から飛鳥時代に創建された日本最古の寺院「飛鳥寺(法興寺)」と同笵の軒丸瓦(十葉素弁蓮華文:じゅうようそべんれんげもん)が発掘されました。

飛鳥寺と同笵の瓦の出土は、この寺院跡「高麗寺跡」は蘇我氏創建の飛鳥寺(日本最古の本格的仏教寺院)と同時期頃の創建か?と歴史的な注目を集めました。

「高麗寺跡」は木津川市山城町上狛高麗、JR奈良線上狛駅より東へ約600m、木津川の右岸の棚田の中に位置しています。

「高麗寺跡」は昭和13年(1938)から本格的な発掘調査(第T期調査)が行われ、回廊に囲まれた主要な堂塔(塔跡、金堂跡、講堂跡)など含む伽藍の一部が75年前の昭和15年(1940)8月30日、国の史跡に認定されました。

(高麗寺は飛鳥時代に創建され白鳳時代に最盛期をむかえ平安時代の末期(12世紀)頃まで存続していた国内最古の寺院の一つ(京都府内では最古の寺院)と推察されています。)

「史跡高麗寺跡」の発掘調査はその後、第V期調査(平成22年度の第10次調査)まで実施され、平成22年史跡地の追加指定を受け、現在は20100m2の指定地です。調査内容については後述しますが、まず寺名(高麗寺)の「由来」からスタートします。

朝鮮半島と日本列島の九州は距離的にみると近畿と九州の数分の一であり、古代、5世紀の初めごろまではあまり強い国家意識を持たずに朝鮮半島南部の百済.新羅.加羅から渡来人が来ました。渡来氏族では漢氏(あやし)や秦氏(はたし)の氏族が優勢でした。

5世紀半ば過ぎからは北部の高句麗が強大化し南部の百済.新羅が戦場化し、戦火を逃れて日本列島に渡る人々が増加しました。

5世紀の後半は日本の古代国家形成にとって重要な時期であり、大王権力を拡大し、畿内政権を支える官司制の構成員として渡来人を採用し、彼等の文筆を持って官吏に執りたて、国家組織の整備や先進的技術の導入に役立てようとしました。

山城国への渡来人:秦氏は北部に多くの史跡を持ち、氏寺は京都の広隆寺(秦河勝が聖徳太子から下賜された仏像:弥勒菩薩半跏思惟像が有名です。)その他、商売の神様、稲荷神社(稲荷大社)、酒の神様、松尾神社(松尾大社)や嵐山の桂川周辺(大堰川)など。

山城国の南部では高句麗系の渡来氏族高麗(狛)氏が相楽.綴喜の南部2郡に集中しています。高麗寺は地名にもなっている高麗(狛)氏の氏寺です。しかし、南部以外でも有名な八坂神社の「祇園さん」(京都市東山区)は高句麗系渡来人の八坂氏の氏神です。

朝鮮半島からの渡来ルートは一般的には九州へ渡り、瀬戸内海を経て難波に来るルートを採りますが、高句麗から北西の季節風を利用して日本列島に渡るルートもありました。
古代の交通は主として水路を利用した結果、大和は木津川と深く関わりました。

木津川市は大阪市内から直径30kmの圏内です。

古代の水路の場合は、難波から淀川を遡上して八幡市(宇治川、木津川、桂川が合流)を経由する約60kmの道程です。別途、日本海の敦賀から近江の琵琶湖北岸に達し、水路で大津から宇治川経由木津に到着し、大和へ向うルートもありました。

『古事記』の仁徳天皇条、皇后石之日売命が天皇の浮気に嫉妬して難波高津宮から木津川の舟旅で出身地(大和の葛城)への途次の詩に「山代河:木津川」が詠まれています。

6世紀継体天皇が樟葉宮から弟国宮(おとくに)へ遷宮(518年)の頃、朝鮮諸国と畿内政権とは関係が緊張状態でした。
欽明天皇31年(570)条、高句麗の使節のため、南山城に高楲館(こまひのむろつみ)や相楽館(さがらかのむろつみ)を設けた。(木津川沿いに渡来人が多く居住していた。)

6世紀末、廃仏派の物部守屋が敗れ、用明天皇2年(587)、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立発願。飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、創建は6世紀末〜7世紀初、蘇我氏の氏寺、本尊は重文の飛鳥大仏(釈迦如来)です。

「高麗寺跡」の発掘調査から、南側土檀で仏舎利を祀る塔跡は東側、本尊仏を祀る金堂跡は西側、伽藍は南面しており、北側の土檀が講堂跡の伽藍配置です。

出土した瓦は年代の古い順から第1期は飛鳥寺と同笵の瓦、第2期は天武天皇が崇敬した寺、川原寺式瓦「種類.数量が最多」白鳳時代、第3期は平城宮式瓦、8世紀の修理、「多種.少量」、第4期は高麗寺独特の修理用瓦「少量」、平安時代前期と4時代の瓦でした。

出土品から高麗寺は新興勢力狛氏の氏寺として飛鳥時代(7世紀前半)に創建され、白鳳時代(7世紀後半)に本格的な造営が成されたが、都が平安京に遷都後は平安時代前期の修理が最後で12世紀末から13世紀初期まで高麗寺は存続していたと思われます。


<国の史跡「高麗寺跡」に付いては、新しい想いを込めて、新規に続編を掲載致します。
筆者の「木津川だより」にご関心を頂き、有り難う御座います。これからは以前の本編を、折を見て再掲させて頂きます。>

参考資料:山城町史 本文篇 山城町、
史跡 高麗寺跡 第V期(第8−10次発掘調査)発掘調査報告 木津川市教育委員会


2018年08月05日

◆木津川だより 7世紀の木津川流域

白井 繁夫


7世紀になると朝鮮半島の3国(百済.新羅.高句麗)は再び戦乱の時代となりました。
隋が(612年)110万余の兵力で高句麗遠征を始め614年まで続きました。

その後、隋から唐(618)になり、太宗.高宗の時代、再び高句麗出兵(644年から3度)が実行されました。唐と同盟を結んだ新羅は、百済も攻めて、660年に百済を滅ぼし、更に、唐.新羅連合軍は668年に懸案の高句麗をも滅亡させたのです。

隋.唐の侵略戦争から逃れて、我国に渡来した人達が「木津川流域」にも住むようになりました。倭国は、百済と伝統的に親密な関係があったので、660年までに救援軍を出兵すべきだったのでしょう。その間の大和朝廷の状況をいま少し振り返って見ようと思います。

6世紀末頃の蘇我氏は皇族との婚姻を通じて勢力を拡大し、蘇我馬子は587年政敵であり対立する非仏派の大豪族物部守屋を倒して絶大な権勢を得ました。

593年には日本史上、初の女帝:推古天皇を擁立し、政治の補佐役に甥の厩戸皇子(聖徳太子)を起用して皇太子にしました。

聖徳太子は蘇我馬子と協調して、仏教を重視し、天皇を中心とする中央集権国家を目指し、
冠位十二階や十七条憲法を制定しました。

『日本書紀』によると、崇峻天皇元年(588)、百済から倭国へ仏舎利や僧6名とともに技術者「寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん:仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名」派遣されました。

法興寺(飛鳥寺)は、馬子が開基(596年)した蘇我氏の氏寺です。本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)は、6世紀作の重要文化財です。588年に百済からきた技術者「寺工や瓦博士など」によって造営された日本最古の本格的な仏教寺院であったと云われています。

都が飛鳥から平城京への遷都(710)に伴い、法興寺(飛鳥寺)は元興寺(がんごうじ)として718年に奈良市へ移りました。(現在の元興寺極楽坊本堂と禅室の屋根の一部に現在も1400年前の創建当時の「古瓦」が混じっていると云われています。)

推古34年(626)蘇我馬子が没し、蘇我蝦夷(えみし)が本宗家を継いでから17年後、皇極2年(643)11月、蘇我入鹿(いるか)が、斑鳩(いかるが)の上宮王家を襲撃して一族を悉く滅亡させたのです。蘇我本家の専横著しい行為に対して大反発が起りました。(上宮王家:聖徳太子の遺子、有力な皇位継承資格者:山背大兄王の一族)

2年後の皇極4年6月12日、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)等により、入鹿は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において謀殺されました。(乙巳「イッシ」の変)、翌日(6月13日)父の蘇我蝦夷も自害し、4代続いた蘇我氏本宗家が滅し、6月14日、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)に譲位しました。

孝徳2年(646)正月に改新の詔を発して、政治改革に乗り出し、宮(首都)を飛鳥から難波宮(大阪市中央区)へ移し、飛鳥の豪族中心政治を天皇中心の中央集権国家に変え、
孝徳天皇は皇太子を中大兄皇子(天智天皇)とする体制を採りました。大化の改新です。
改新の詔の内容:公地公民制、令制国、税(租.庸.調)などの内容説明は省略します。

その後、孝徳天皇と皇太子(中大兄皇子)との政策の相違があり、皇太子が難波長柄豊碕宮から飛鳥へ遷るとき、皇祖母尊(皇極天皇)と皇后、皇弟(大海人皇子)や、臣下の大半を連れて大和に赴きました。(翌年:654年孝徳天皇は病により崩御されました。)

36代孝徳天皇が次代天皇を定めず逝去したため、35代皇極天皇が重祚(ちょうそ:1度退位した君子が再び位に就くこと:再祚)して、37代斉明天皇(655年)となり、皇太子は中大兄皇子(天智天皇)に決まったのです。

斉明天皇時代に百済から救援の要請もありましたが、北方征伐が優先され、658年〜660年に蝦夷と粛慎(しゅくしん:狩猟民族)を討伐したのです。

その後、660年に百済敗北後の百済遺民の百済復興運動の要請に応じて、斉明天皇は百済救援軍の派遣を決定しました。

661年5月、第1派1万余の兵員九州筑紫に集結しますが、斉明天皇急死して仕舞ったのです。

そこで、朴市秦造田来津(いちはたのみやつこたくつ)を司令官に任命し、3派にわけて663年までに約4万2千人、倭船約8百隻派遣して、百済遺民約5千人との連合軍が朝鮮半島の白村江(はくすきえ:はくそんこう:現在の錦江河口付近)で唐.新羅連合軍(唐約13万人、新羅約5万人、唐船約170隻)と663年(天智2年)8月戦いました。白村江の戦いです。

倭国兵約1万人戦死、船約4百隻火災破損の大敗を喫した。倭国水軍は残った船に倭国兵や百済遺民兵の倭国希望者も乗船して、新羅連合軍に追われながらやっとの思いで帰国しました。

その後、668年には首都の平壌城が唐軍により攻略され高句麗は滅亡しました。唐にとっては北の勢力である突厥に続き高句麗にも勝利し、北方の脅威を排除でき、675年に唐が撤収して、新羅により朝鮮半島が統一されました。

天智天皇は「白村江の戦い」に敗れた結果、朝鮮半島の権益を失い、大陸の強大な唐.新羅連合軍の報復と侵攻に防備した国家体制の整備と国内に防衛網を早急に築くことに傾注しました。

北九州の太宰府に水城(みずき)砦、瀬戸内や西日本各地(長門城、屋島城など)に古代山城の防衛砦を築き、九州の沿岸には防人(さきもり)を配備したのです。

667年には都を内陸の近江大津(近江京)へ移し、668年即位して「近江朝廷之令」(近江令:おうみりょう)を発しました。律令制導入の先駆的法令です。

天智天皇10年(671)に新しく大友皇子を太政大臣として、蘇我赤兄.中巨金を左右大臣、蘇我果安.巨勢人.紀大人を御史大夫とする官職が制定されました。しかし、大海人皇子(後の天武天皇)は圧迫感を感じて、11月に吉野に退隠することにしたのです。

木津川流域を挟んで難波(淀川)、飛鳥.大和(木津川)、近江(宇治川)が話題となる
「壬申の乱」は日本の古代史最大の内乱(戦争)で、地方の豪族を味方につけた反乱者(皇弟)が勝利する歴史となります。
       
(郷土愛好家)

2018年07月30日

◆木津川だより 高麗寺跡 

白井繁夫


飛鳥時代に創建されたと云われている古代寺院の「高麗寺跡こまでら跡」について、@では寺名が「高麗寺:こまでら」となった由来や時代の背景について、高麗寺跡Aでは発掘調査の出土品の中で、出土遺物の数量などが多くて年代を文様などから比較的に区分しやすい瓦(軒丸瓦.軒平瓦)から高麗寺について記述しました。

今回Bでは、昭和13年の第T期発掘調査の結果、国の史跡と認定された高麗寺跡の伽藍配置や瓦以外の出土品を精査して、V期調査まで(平成22年の第10次発掘調査まで)の間に確認された概要を下述します。

★高麗寺の創建は7世紀初頭、伽藍整備は7世紀後半、伽藍配置は法起寺式
  
 主要堂塔が東に仏舎利を祀る塔、西に本尊仏を祀る金堂を並置して、それを囲む回廊
が北の講堂、南で中門に接続している様式(南北回廊200尺:59.4m、東西201尺:
59.7mのほぼ正方形)
 高麗寺の伽藍配置は川原寺式から変化して法起寺式へと移行の初例と思われます。

★南門.中門.金堂が南面して一直線に並び、講堂の基壇が荘厳で特異な伽藍配置

川原寺式伽藍配置から法起寺式への変化の途上か?(添付の「各寺院の伽藍配置」参照)
高麗寺は西金堂の正面が南面し中門.南門と直線状に並びます。川原寺は北講堂.中金堂.中門.南大門は一直線状ですが西金堂は正面が東塔に対面しています。

(仏舎利を納めた塔より仏像を祀る金堂を重視する考え方か?
飛鳥時代から天平時代へと伽藍配置が変化する過程の先駆けではと思われます。)

高麗寺の講堂の基壇は三層構造の豪華さで、丁度川原寺の中金堂と同じ位置にあります。
高麗寺の初期設計時には講堂の場所に中金堂を予定していたのか?と思われるほど
基壇は荘厳な造りでした。
  
飛鳥時代、高麗寺が創建された時期には七堂伽藍を完備した寺院は飛鳥寺が国内では
唯一の寺院でした。その他の寺は一.二堂程度の草堂段階?(捨宅寺院?)であったと考えられています。

★高麗寺の南門の屋根には鴟尾があり、最古の築地塀が原形の状態で検出されました。

  南門跡は桁行20尺(5.94m)x 梁間12尺(3.56m)、屋根は切妻造りで鴟尾を
置いた八脚門、南門に接続する築地塀が南辺築地跡から原形を留めた、極めて良好な
状態で検出されました。

7世紀に築地塀が構築された例はいまだ検出されていません。8世紀の奈良時代になって  寺院の外画施設とする築地塀が一般的に用いられるようになったのです。

高麗寺の築地塀は7世紀後半のものであり、検出遺物は国内最古の出土物の例です。
白鳳時代の築地塀が残っていた事だけでも極めて珍しいのに、ラッキーにも壊れ方が建物の内側で原形を留めていたことです。

 (飛鳥寺南辺、川原寺南辺、東辺にも築地塀の存在説がありますが、現在も出土例は有りません。)

★高麗寺の終焉時期の推測

  文献上では廃絶が不明の寺院ですが、出土遺物の中から、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかりました。この陶器から平安時代の末期頃(12世紀末から13世紀初)まで存続していたのではないかと云われています。

天武天皇は壬申の乱で功績のあった狛氏一族の氏寺の創建を認め、白鳳時代から奈良時代にかけて全盛期を迎えた高麗寺の状況ですが、聖武天皇が高麗寺の東方約3kmの瓶原(みかのはら)に恭仁宮を造営して、恭仁京(木津川市)へ遷都した頃(天平12年)、木津川の船上から見える高麗寺は南門の屋根には鴟尾が在り、当時は珍しい築地塀越に東塔が聳え西の輝く金堂など、当時の人々はこの大寺院を畏敬の念で仰ぎ見たことと思われます。

参考資料: 山城町史  本文篇  山城町
   南山城の寺院.都城 第106回 埋蔵文化財セミナー資料 京都府教育委員会
   木津川市埋蔵文化財調査報告書 第3.第4.第8集   木津川市教育委員会